![]()
江戸っ子
江戸っ子
江戸っ子という呼称の発生については、諸説あって一定しないが、歌舞伎の世界で寛政期に初めて現われ、実際に「江戸っ子」と称した人間が現われたのは文化年間末のこととされ、それまでは「東っ子」「吾妻っ子」という言葉が使われていた。
江戸っ子の定義としては、厳密にいうと武士や店持ち商人などは含まれず、町人階級で神田明神と山王日枝神社の氏子をいった。普通には、下町と呼ばれる地域に住んでいる職人階級の者をいった。また、江戸に三代続いて住している者という説や、芝で生まれ神田で育った者をチャキチャキの江戸っ子というなどの説がある。
江戸っ子気質
「江戸っ子の生まれそこない金をため」と川柳にもあるように、「宵越しの金を持たない」のが江戸っ子の特徴。半纏を着て、江戸だけが俺等の天下といった一人合点の生き方が真骨頂で、腹の中はさっぱりしているが、口が悪く、口先ばかり達者で内容に乏しい面が強い。また、その勇ましさも良く知られ、花川戸助六、幡随院長兵衛などが芝居でもてはやされたのは、弱きを助け、強きを挫く任侠的正確が有ったからと言われる。
性格的には、
イ、向こう気が強い。
ロ、空元気があって物事に執着しない。
ハ、喧嘩早く、仲直りも早い。
ニ、見栄坊で威張りたがる。
ホ、啖呵を切る。
ヘ、気前が良い。
ト、生き方が浅薄で、軽々しい。
などが挙げられる。
江戸っ子以外の市民
江戸の近くから来た者が田舎者で、少し遠くからくると遠国者、他国者といい、略して国者と呼んだ。田舎者や国者は江戸っ子の仲間入りはできず、裏店などに住していた。
また、条件的には江戸っ子であっても江戸っ子気質を持ち合わせていない者は、江戸っ子の面汚しとして嫌われた。
江戸っ子の商売
絵師
絵師には本絵師、浮世絵師の二つがあった。たとえば谷文晁などは本絵師の方で、これは先生。江戸っ子に好まれたのは浮世絵師の方で、この方は職人。代金の呼び方も、本絵師は画料といい、浮世絵師の方は手間というのが普通であった。亀井戸の歌川豊国は浮世絵師の代表で、彼の絵はベストセラーとなったので、自然、権威がついて、手間を画料と呼んだらしい。
瓦版売り
現代の新聞に相当する瓦版は、元禄時代には既にあったらしい。『天和笑委集』という本に瓦版売りの話が出ている。その文章は流行語となって流布し、瓦版売り(読売り)は節をつけて売った。瓦版にも種類があって値段もまちまち。読売りは笠を被って、大抵は二人連れ、服装は渋好みで三尺帯を締めていた。昼間売りは一人、夜間売りの場合は提灯持ちと三味線弾きまで同伴の三、四人連れもいた。
町医者
“千人殺さなければ一人前の医者じゃねえ”と、江戸の人は医者の経験を買った。乗物医者と徒歩医者(かちいしゃ)とがあり、前者は長棒の駕篭に乗って往診、後者は薬箱を持った供を連れ、病家まで歩いてくる。診察料に差があり、高い乗物医者は江戸っ子に敬遠された。はじめ内科医は京修行、外科医は長崎修行であったが、後には江戸で修行した。
薬屋
万金丹とか千金丹といった江戸時代の妙薬はいまでははやらないが、江戸っ子には親しみ深い。薬屋も薬だけでなく色々なものを売った。大坂・道修町は薬問屋の本場だが、ここから売られるものには砂糖漬などがあった。当時、江戸では砂糖のことは唐三盆といったが、江戸料理の店では、これを薬種店で取扱った。舶来媚薬も流行し、長命丸は舶来。
煙草屋
江戸は下谷御成橋通りにあった刻み煙草屋は売れた。そこでは店頭で二十人ほど並んで刻み煙草を作っていた。刻み煙草の発売は貞享年間のこと、それ以前は喫煙者が葉を買って、自分で刻んで吸った。延享のころは和泉新田などが女性に好まれ、薩摩の国分も吸われ始めた。荒い刻み煙草が細くなって諸人の喝采を浴びたのは安永天明期。煙草はもともと行商で売られた。近松や西鶴が好んだのは服部煙草という。
床屋
「浮世床」で知られる通り、風呂屋とならぶ情報収集の場。まず、値段は大人三十二文、子供は二十四文(幕末)。腕を競うこの世界は、元結一つにびても床屋の癖が現われるから、自然、江戸っ子は行きつけの床屋を持った。気にいらなぬ結い方をすると、二の元結を引っ張って、突っ込みというものにする。それがイキなのである。客は穴の明いた腰掛に掛け、毛受けという小板を腕のところへ捧げ、後に廻って仕事する床屋を助ける。月代を剃ると、毛を下で受ける形となる。客の好みで選ばれるので、各床屋は腕を磨き、八丁堀風、蔵前風等、修行した。
風呂屋
江戸の湯屋は、風呂槽一つで二十人以上も入れるほど大きく、また綺麗であった。その数も元禄・享保の頃までは少なかったが、江戸時代半ばを過ぎた頃にはその数を急速にのばしていた。一般に江戸っ子は風呂好きで、朝夕二度の入浴はごく当り前のことだった。ところで町屋にしても、武家屋敷にしても、自家風呂を持っている家ははなはだ稀であったという。それは江戸は燃料が高いばかりでなく、専用の井戸を持っていなければ、湯が立てられないという事情による。当時の湯屋では、番台にいて湯銭を取るのが番頭。おもしろいことに、岡湯の側には、上がり湯を汲んで与える湯汲がいて、浴客が勝手に上がり湯を汲み出すということはできなかった。またこのころの湯屋がもっぱら混浴あったのは周知のことだが「みっともない、女湯をのぞくすけべい野郎」の川柳にもあるように、江戸っ子は湯屋で女性に目をくれるのは、恥辱の極みと考え、殿様のお供に単身江戸に来て、女郎買いの銭もない貧乏武士のみがする卑劣な行為とみなしていた。また新宿の湯屋に限っていえば、二階に貸衣装を貸してくれる所があって、湯客はそこで着替えて女郎買いに行くことができた。
江戸の食堂
明和期には飲食物の辻売りが始まり、屋台店もだんだんひろがって来るという状態で、蕎麦屋が料理屋風になる。鮨屋ができ、居酒屋、飯屋が出てくる。居酒屋と飯屋が一緒になった縄暖簾も出現するようになった。このうち辻売や屋台店は江戸っ子気質に影響されてできた独特のものである。ところで宝永の頃までの江戸には、街道の立場(たてば)以外に食事をする所が無かったので、享保の半ば頃までは丸ノ内から浅草の観音へ行く間、食事をとることができなかった。それが宝暦前後になって、中橋広小路の南側に餅と田楽と煮しめを売る家が五、六軒でき、今川小路の北の方にも蕎麦を売る店が二、三軒できたが、その他には江戸中どこに行っても蕎麦を売っている所が無い。山の手や浅草へ行く道にも無い。わずかに延享・寛延の頃に宝町・本町あたりに二、三軒食物屋ができたくらいのものである。江戸に食物屋がふえてきたのは、元禄十七年の飢饉が原因となり、町のいたる所に煮売り店ができて以来のことという。
江戸の名店
化政の頃江戸っ子はどんなものを賞味していたか。享保年間に刊行された『絵本東わらは』には、当時の江戸の名物・名店が羅列してある。それによると、「…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、向島にあらひ鯉、王子のゑびや、下屋の浜田屋、古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、鈴木の蒲焼、真崎の田楽、洲崎のざるそば、鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢、…豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし」とある。
江戸っ子の服装
丁髷(ちょんまげ)
チョン髷というのは結髪の総称ではなく、その他色々の形式がある。チョン髷は髷へ元結を掛ける所がごく少なくて、いさみな人の好み。子供の頭は奴さんといって、蛇の目に剃り、こめかみの所に毛がさがって、後頭部にヂヂッ毛というのがあった。前髪は三日月型か、半月型になっていて、その髪が延びるとチョン髷に結った。勇み肌の連中のチョン髷は、小銀杏のチョン髷で、天保以後の男子の結髪は銀杏が基本。それから大銀杏、下馬銀杏、三角銀杏、清元銀杏など種々の名称がでた。これらの名称は髷の型が銀杏の形に似ていることに由来する。チョン髷の語源は、元結をチョンと浅く掛けることから出ている。
江戸っ子と半纏
江戸っ子を一番端的にあらわす言葉が、半纏着。半纏着を着ていては吉原へ行っても、中流以上の店では上げない。江戸っ子というと、イキで気前がよくて、どこへ行ってももてそうに思えるが、半纏着だと、銭を持っていても女郎さえ買えない。こうした半纏着を着る連中は、羽織は見たこともない手合いだから、長着はたいてい持っていない。普通の人の着物を長着という。もし持っていても、単物(ひとえもの)に三尺ぐらいのものでしかなかった。
ふんどし
越中褌というのは、寛政改革をやった松平定信が、越中守であったので、それに付会したものである。しかし実際には寛政よりもっと古くからあったらしい。延宝八年版『福原ひんかかみ』に、「ふんどしや越中前司相撲、作者不知」というのがあり、それからみても越中褌という言葉はなくて、単に越中といったものとみえる。その形体は『歩騎必要口伝』によれば、「…先一幅のさらし三尺二、三寸、一方は乳袋にぬひ、くけ紐を遠し、腰を廻す。たれの両はしにひぼを付て襟にかけ大小便の用とす。又常の褌のしめようにてよし」。その他褌の種類には、もっこ褌、赤褌、風呂褌などがある。
手拭いろいろ
手拭の寸法は三尺、四尺、五尺と三種類あった。単に三尺と呼んで職人体の帯になったり、三尺帽子と名づけられて、頭をつつんだのも共に手拭である。先に挙げた寸法のほかにも、六尺手拭というものもあって、これはほほかぶりの手拭。さらに紫の六尺手拭といわれるものもあったが、助六の鉢巻、力弥のほほかぶりにおもかげを留めていても、今日ではそれらを手拭とは思わない人も多い。もともと、手拭は木綿布でできていて、手や体などを拭う用途を持つものをいったので、縮緬などでできたものは本来の手拭ではない。
女の服装と化粧
だいたい江戸も寛永頃までは、武家から町人、百姓に至るまで衣服は粗末であった。婦人も、もちろん同様で、正保、慶安頃になると貧しい家の者でも、武家へ奉公にでて次第に立身出世すると、上のほうから御服を拝領し、それを我家へ帰ってからの嫁入り道具にした。社会経済がよくなるにつれ、服装もだんだんよくなってきた。寛文年間ともなると、町人も豊かで豪華な衣服を好むようになり、奢侈に流れるようになった。このため幕府は女の衣服の華美になっていくことを憂慮。寛文三年十月、これを禁ずる令を出した。化粧には歯黒と白粉がある。まず歯黒の習慣は非常に古いが、いつ頃に起ったかはさだかでない。本来は嫁入り直前に歯黒をしたものだが、京阪では二十歳、江戸では二十歳未満の少女でも歯黒をするものが多かった。京阪では一般に二十一、二歳以下は、歯を染めても、髪を変えず島田髷に結い、妊娠五ヶ月頃になってはじめて髷を改め、眉を剃った。白粉の始めは持統天皇六年に、僧観成が鉛粉を製し、恩賞を受けたとあるから古い。一般には京おしろいと呼ぶ物が多いが、これは大坂で製造され、京都、江戸で再製されたものである。京都が中心になって製造されるものは紅づくり。
江戸っ子の生活
大家と店子
大家というのは私称であり、正式には家主。戸籍などには主家と書き、家守をいう。大家の数は江戸中では二万余人。地代、店賃を店子から集めて地主に収め、公用町用を勤め、自身番所に出て非常を守るのを職とする。大家の権利は表向きは金でこれを譲るが、地主の意のままにはならない。奸曲におよんだり、地代、店賃など多くを負債している時は地主から追放されることもあった。大家の中にはそれだけを家業として妻子を養い、他業のない者と、工商をかねる者があった。この比率はおよそ半々。また江戸ではじめて地借、店借し、あるいは他から移り住む時には、その居宅に応じて金二朱あるいは一分、多いものでは十両くらいを大家に差し出す。これを樽代という。
店子というのは、地借人、表店借、裏店借のことで、大家の側からいったもの。
江戸の花見
江戸期を通じて、花見の場所として有名なのは、上野、飛鳥山、向島、小金井等である。中でも上野が盛観。初期寛永の頃から桜といえば上野、と江戸第一の場所であった。しかし寛永寺に宮様がいたため、夜桜見物は禁じられていた。そのため、八代将軍吉宗は夜桜見物に差し支えない場所として、飛鳥山、隅田川堤、品川の御殿山、小金井にさくらを植えさせ解放した。庶民がレジャーに、花見にと出かけたのは承応頃からだが、遠くまで行くようになったのは、これ以後である。場所は江戸の東よりも北に多く、向島は夜桜の名所。
川開きと花火
当時、両国の川開きは五月二十八日。旧暦なので、今の六月末日に当る。川開きと花火とは一つのように思われているが、花火は元来、涼船客の座興であった。毎年一定した日時があったわけではない。花火の種類や打ち揚げる場所も厳重に規定されていた。ただ涼船期間に、水上で打ち揚げることは許された。それ故、涼船が
出ると、舟から舟へ花火を売って歩く商売があったという。もちろん座興で揚げる花火だから、規模もたいしたものではない。大規模な打ち揚げ花火になったのは享保の頃で、船宿や料理屋が涼み客を集めるために初めてからである。以後、年中行事として、両国の花火は江戸っ子の一大祭典であった。仕掛け花火が発達したのは宝暦以後で、玉屋、鍵屋が互いに腕を競い合った。花火のほめ言葉にその名残りを留めている。
舟遊び
春の花見、秋の紅葉があり、それも大体は江戸のはずれで結構楽しめた江戸っ子も、夏の暑さは身にこたえた。今のようにちょっと海水浴に、といったことはなく、庭先で水遊びをする程度。それなら江戸っ子の夏の楽しみにどんなものがあったのか。考え出したのが舟遊びである。もちろん、舟遊びは夏だけに限ったことではなく、花見船、踊船、月見船と四季に応じてあった。しかし、なんといっても、舟遊びで代表されるのは夏の涼船であろう。万治、寛文の頃から元禄にかけて、大いに流行。屋形船、屋根船、それに普通の和船と、隅田川が埋まるほどの舟数だったという。両国橋付近がその中心。花見船、月見船は庶民に馴染みが薄かった。
岡場所通い
吉原など公娼の住む遊廓に対して、私娼のいるところを岡場所という。御構場ともいう。「御構」という言葉は禁制という意味。しかし、そのほとんどは黙認されていた。深川は元文の頃からの岡場所で、天保の改革まで百余年続いている。江戸っ子にとって、深川は吉原よりも気安く、身近なところであった。深川の岡場所には、仲町、入船町、向土橋、表裏櫓、裾継、大新地、新石場、古石場、常盤町、網打場などがある。その外の岡場所として、品川、千住、板橋、内藤新宿、音羽、小塚原、根津、谷中、市ヶ谷、赤坂、松井町、入江町など、多い時には江戸中で四十ヶ所近く数えた。西鶴が「清水町のかくしよね」と書いた私娼地も、土地の寂れるに従って「いろは長屋」となった。長屋とは夜鷹の発達した形態。坐り夜鷹と言って、外出せず売春したので、切見世ともいう。「いろは」の名称は、その価四十八文から起ったものという。
江戸っ子と祭り
火事と喧嘩に次いで、江戸の華は祭りであろう。ラジオとかテレビのなかった当時、祭りがおそらく江戸っ子にとって、一年のうちの最高の楽しみであったろう。江戸の祭りのうちもっとも有名なのは、山王日枝神社と、神田明神の祭礼である。この両社の祭礼を別名「天下祭り」という。将軍が江戸城内の上覧所で、山車などの行列をご覧になるということから、こう呼ばれた。山王祭は六月十五日。旧暦だから、現在では七月中旬である。山王祭が夏祭りの代表なら、これと一年おきに行なわれた神田祭は、秋祭りの代表。九月十五日を中心に行なわれた。その費用は驚くべき金額で、そのために一年ごとの交替となったのである。山車を将軍にみせるには、半蔵門〜竹橋のコースをとった。これが祭りの第一の式典。この他にも、浅草の三社祭、深川富岡八幡祭などmの有名。なお祭りの他に庶民の楽しみの一つとして、寺社の縁日や夜見世がある。いずれも露店が並び、婦女の外出がそれによって多くなった。
魚釣り
江戸時代も文化文政になると、釣堀が流行してくる。入場料百文ずつ取って釣らせたという。また、天明の頃には、すでに婦女が釣り船に乗っている。さすがに沖までは出なかったかも知れないが、陸釣では満足しなかったとみえる。今より約百五十年も前である。文政頃には、今日の釣ガイドともいうべきものがでている。江戸近辺の釣場、釣れる魚、時期など、かなり詳しい。それによると、本所川、中川、高縄、築地の川、永代橋、佃島周辺がもっともよく釣れたらしい。
時の鐘
江戸の初期に和時計ができたが、それは大名などの貴重なもちものであった。慶長のはじめには西洋から伝来したものもあって、江戸城中にかなりの時計があったようだ。しかし、これらは一種の贅沢品で、一般生のないものであった。そこで下級武士、町人に時を知らせる必要から、太鼓を叩くことが考案され、つぎには鐘に改められた。この鐘で江戸っ子に十二時を知らせた。これがいわゆる「時の鐘」。鐘のつき方は、夜中の十二時つまり九つからはじめ最初必ずすて鐘三つをつく。したがって十二つくと九つということになる。それから二時間ごとに八つ、七つ、六つと三を足して鐘をついた。
井戸と水道
初期の江戸は飲料水の乏しいところであった。家康もこれには頭をいため、上水計画をたてたがはたさず、四代将軍家綱の時になって、ようやく玉川上水が完成した。これ以後、水道の水を産湯に使ったのが、何よりも江戸っ子の自慢となった。しかし、水道の水は飲料の外には使わなかった。玉川上水が完成するまでは飲料水は井戸水に頼っていた。だが、掘抜井戸は莫大な費用で、大抵の家に井戸はなく、井戸が市中に多くなったのは文化文政の頃、大坂掘りという新しい方法で、工賃が安くすむようになってからである。「お茶の水」という名称の起こりは、そこに良い水が出るという井戸があり、将軍家のお茶の水に利用されたからという。なお、その他に江戸の名井として、小路町の井、野中の井、山伏の井、亀の井、柳の井、譲の井など二十二カ所あった。今、その場所はほとんどが定かでない。
江戸っ子の初物食い
江戸は元禄から文化、文政にかけて世界一の人口をもつ大都市であった。その数、百二十万といわれる人口の要する食量は膨大。こうした中で、人よりも一足先に食べるということは江戸っ子にとって、大きな誇りであった。初鰹だけではなしに、何でも一番先でありたいというのが江戸っ子の見栄。幕府では野菜の騰貴を憂慮して、再三再四「初物を買うな」という町ぶれを出した。しかし、その程度では江戸っ子は承知しない。ついには、大根は幾日から、胡瓜や茄子は幾日からと細かに売出比を限定したが、それでもこの傾向はやまなかった。
江戸っ子の賃金
大判小判というが、それらは江戸庶民には縁遠いものであった。彼らはもっぱら銭を使用していた。湯銭でも、髪結銭でも単価は銭である。銭四貫文=金一両というのが相場。天明の頃の米一升の値段は百文。天保の頃で百三十文くらいであった。それでは江戸っ子の生活費はどんなものであったか。手代などの年給が、銀三枚(百二十九匁)から五枚。大工などの一般職人の一日の手間賃が四匁二分。下女の給金が一年で二分。一両の半分である。土地、時代によって多少の差はあるが家賃が六百文位。一度に払えないから、日掛けにするのもあった。昔も今と同様、庶民の生活は苦しい。
素人芸
水野越前守の努力にもかかわらず天保改革は失敗した。そのあとを受けた阿倍伊勢守は、緩和政策を打ち出し、火の消えたような江戸に活気をがよみがえった。再び江戸っ子の間に遊芸娯楽熱も高まって来た。このころ流行しだした遊芸に、種々の拳、茶番、新内、声色などがある。この内でも、素人ながら玄人はだしの者が輩出したのは新内、声色。新内ではーー旦那といわれる人が、芸自慢から流しに出るものが多い。撥音を響かせると、江戸の夏夜が思われて人々は喜んだ。声色ともなれば、素人が寄席に出る方が、玄人よりも多いぐらいだったという。大慨三人連れで、その中の一人が銅鑼を持つ。化政期に入ると芸名までつける者がいたとか。
江戸っ子と興行
歌舞伎
いまなお大衆性をもち、時世とも適応する性格をもつ歌舞伎(歌舞戯、歌舞妓)の基礎は江戸初期に築かれた。「かぶく」を語源とするように、大衆の心を奪うような放埒で奇抜、好色な雰囲気は、長い乱世を生き抜いた庶民に刺激の濃い享楽を与えた。しかし、阿国歌舞伎に始まる女歌舞伎は、興行物以外に売色を行なったために幕府の禁止をうけ、後を受けた一座の美少年により演じられた若衆歌舞伎も男色の対象となった。そのため俳優は幕命で前髪を落とされ、自然に技芸に力を入れる。町人文化の開花した元禄期には歌舞伎は脚本をもち、演技に実績を示すようになる。上方の和事に対し、江戸では初世市川団十郎により荒事が創始された。背景を通俗史にとり、怪力無双の武人とか超人的な力と正義感をもつ主人公が演出される様式で、助六、勧進帳などがこれである。著名な忠臣蔵、菅原、千本桜、妹背山などは、宝暦から寛政期に人形浄瑠璃の台本により作られたものである。庶民の生活を活写した生世話物(きぜわもの)は、文化、文政期に四世鶴屋南北により大成され、劇作家河竹黙阿弥は、盗賊を主人公とする白波物を描いて江戸市中を沸かせた。
芝居
現在は芝居といえばすぐ演劇のことをいうが、これはもっとも繁盛した演劇がその名を独占してしまったからで、本来は社寺の庭で演じられるものを観客がその周囲の芝生に坐って見物したことを伝える言葉である。芝居には、演劇のほかに相撲もあれば操りもあり、その他の見せ物があった。歌舞伎は初期には盛場の掛小屋で行なわれたが、享保のころには建築様式がほぼ完成する。劇場は、当時としては大建造物で、それだけ人も多く集まるので、火の用心には気を使った。すなわち、風の強い日などには休業である。芝居町とは、ひとつには火災防止を名目に劇場の所在地を制限したものである。芝居は昼夜興行に限られ、朝四時から夕五時まで上演され、一日の観劇料は、承応三年の市村座で百〜百三十二文という。芝居が浅草猿若町に移されてからは道程も長くなり、芝居茶屋に一泊するとか、縁故の家の世話になることも許されたという。
江戸の役者
歌舞伎俳優は役者と呼ばれ、いまでこそ芸術院会員の称号を与えられたものもあるが、江戸時代には社会的地位は低く、その居住地も制限されていた。事実初期には無頼の徒出身のものも多く、小屋者、河原者など蔑視された。しかし名優の出現で次第にその地位を高めていった。中期には芝居絵が発売され、さらには役者の伝記や私生活についても出版物が出された。市川団十郎のごときは、江戸を代表する芸術家として愛され、新年の春芝居の荒事は、その年の災厄を除く威力さえもつかのように考えられていたという。また松本幸四郎、尾上菊五郎、市村羽左衛門らの家柄も名門として栄え、今に至っている。役者は表徳としての俳なをもち、他に屋号をもった。客席からの贔屓の役者に「成田屋」などの掛声がかかるが、これは市川家の屋号である。また、定紋、替紋やさらに特殊な意味をもったりする模様、家柄に伝わる色をもつ場合もある。市松模様は、中村座の佐野川市松の工夫したものという。
落語と講談
軽妙で滑稽な話をして笑わせ、その末尾には必ず落ち、下げをつけて聞く者を興がらせた落語は、当初は軽口、落し噺と呼ばれた。慶長から元和のころ、安楽庵策伝が諸方で座興の助けをしたのが始まりという。庶民の間でも同人会が組織された。落語の文字の初見は天明七年であるが、貞享ごろには蓆張りの小屋で身振り入りの仕方噺が始められた。寛政には三遊亭円生が芝居噺を創り出し、江戸・大坂を中心に興隆した。落語といわれるのは明治以後である。敵討、政談、武勇伝などを調子づけて語る講談は、明治以後の称である。慶長の初めに、赤松法印が『太平記』を朗読し、注解して聞かせたのが始まりという。この太平記読みが職業化し、辻講釈、大道講釈として露天へ出てきたのは延宝から元禄へかけてのこと。それまでは御伽衆、軍学者が、将軍や大名などの邸宅で語ったものである。宝暦年間、当時名の聞えた馬場文耕が幕府に処刑されている。あまりにも最新の事実のみを素材にしたことが忌諱にふれたのである。なお、講釈とはっきり呼ばれたのは寛政ごろからで、その寄席も講釈場として発展する。
娘義太夫
その発生は不明だが、義太夫浄瑠璃の流行とともに婦人でこれを学ぶ者があったろうし、興行的に成立したか否かは別としても、元祖竹本義太夫の晩年ころには、遊里などで女芸者として演じていたらしい。しかし、招きに応じて御座敷を勤めたので売女とまぎらわしいものとなり、天保十二年の水野越前守の世直し改革で、娘義太夫三十六名が江戸を追われている。女義太夫に対し、それがとくに若い娘の語る場合に娘義太夫などと呼ばれた。もっとも、娘義太夫の称は天保以後で、文政の番附には座敷女義太夫とある。そのころの娘義太夫のなかには四十歳にもなっていながら娘義太夫で通した者もいた。その始めは安永ごろからみえるが、一勢力をもったのは幕末以降。定席に出演し、セクシーな魅力も手伝って意外に人気を呼び、天保八年には定席四十三軒が名を連ねた。その数も文政七年には百九十人を数え、このころが最も盛んだった。
各種見世物
まず、普通の見世物といえば、軽業。もとを正せば壬生狂言などから派生したもの。興行物では、おおむね軽業と並んで曲馬、手品、物真似、吹矢、剣投げ等の曲芸が演じられ、江戸っ子の人気を集めた。また、化物屋敷なども好評で、珍し物がる市井の人々は、たとえば大イタチを見に行って、大きな板に血がついているといった見世物にも江戸っ子特有のユーモアを解して、怒らなかったという。落語とともに江戸の与世は流行り、今では子供でも余り遊ばない影絵など、大人も集まった。そのほか、講釈、義太夫、ごうむね(両国橋の寄席)、矢場なども見世物の一つ。とりわけ、矢場は、江戸っ子の遊び場として賑わい、子供等は、からくり、覗機械(のぞきからくり)など他愛のない歌舞伎の場面などを覗き見て喜んだ。
江戸相撲
江戸っ子の人気を集めたものに相撲がある。寛永年間に始まった勧進相撲はたちまち広がって、人気の的となった。しかし、乱暴者が市中にはびこるということで、慶安および寛文年間に相撲興行は法で禁止された。再び興行が許されたのは享保五年。その時に営業的相撲団体が設立され、年寄が力士を統制、部屋組織も出来上がった。場所は慣例的に社寺の境内で行なわれ、本場所は特に決められていなかった。民間人気と同時に、各大名が抱え力士を持って勢力を競い合ったのは周知のとおり。初代横綱明石志賀之助に始まり、数多くの人気力士が登場。谷風と小野川、雷電と柏戸などの好敵手や、好勝負は語り草となった。
江戸っ子の逸話
江戸の侠客
人情に厚く義理を重んじ、剛腹で男伊達。こうした侠客に江戸っ子が憧れぬわけはない。初期の侠客の第一人者と目される人物は大鳥一平(逸兵衛)で、武家の奉公人を組織し、既成の秩序に逆らった。種々雑多な人間を集めて面倒を見た町奴の親分幡随院長兵衛は、江戸っ子の喝采を浴びた。だが明暦三年、旗本奴の白柄組水野十郎左衛門と争って殺されてしまう。一説に、風呂場で騙し討ちに合い、槍で突き殺されたという。
江戸っ子火消
火事と喧嘩は江戸の華。気が荒くて喧嘩っ早く、気っ風がよくて勇み肌。いわば江戸っ子の典型が鳶職の連中である。享保年間に出来上がった町火消は、いろは四十八組に分かれ、それ火事だというとそろいの半纏に纏を持って争って出勤した。かっこ良い鳶の若者は町娘の憧れのまと、亭主持ちさえも浮気するといわれた。その火消しの連中が、江戸っ子の度肝を抜く事件を引き起こした。文化元年の“め組の喧嘩”である。ことは、め組の若い衆が興行中の相撲を見ようとして木戸でとめられ、力士の九竜山とやり合ったことに始まる。双方意地があって後には引けない。そうこうする内に両方の仲間が集まって来て乱闘になった。こうなれば鳶に勝目はない。一人が火の見にかけ登り、早板木を打ち鳴らし、組中の鳶が集まって、ついに相撲取りたちと大乱闘を演じたのである。
江戸の大火
明暦三年正月十八日、本郷丸山町の本妙寺から出火した火事は、二日間にわたって燃え続け、江戸の大半を焼きつくした。焼失した大名屋敷五百、蔵九千余、橋六十、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、片町八百町、死者十万七千余人。振袖火事で名高い明暦の大火である。こうした大火は度々江戸を襲った。木造家屋の密集した大都市の悲劇である。ざっと大火のあった年を上げてみると、万治二回、寛文、元禄、正徳、安永、天明、寛政、文化と百五十年の間に十回もある。その他、大地震などもあったが、江戸っ子はその度に立ち上がってまた新しい江戸を築いた。
江戸っ子と博打打
いつの世にも賭け事好きがいるもので、甘い汁を吸う者と、巻き上げられて泣くものがいる。しかし、江戸時代には、今のような公営ギャンブルはなかった。どんな商売往来を見ても博奕打などという職業はない。博奕渡世、いわば世間の裏街道である。こうした裏街道の渡世人たちの親分が、御馴染みの大前田英五郎や国定忠次。彼らは博徒以外の人に対しては、御素人衆、旦那方といって必ず自分を下に置いて接した。そこが現代のチンピラヤクザと違うところ。賭場においても、決して勝ち逃げするようなことはない。もっともテラ銭だけでも結構いい稼ぎになるわけで、その上客から露骨に巻き上げたら、次から客が来なくなることうけあいである。また親分になると、子分には負けてやらなくてはならない。子分のものを横取りするようでは大親分とはいえないのである。現代でもまたしかり。
江戸捕物帖
犯罪は古今東西いつになってもなくならない。火付け、強盗、殺人の凶悪犯罪から、スリ、かっぱらいの類いまで、もろもろの犯罪が江戸っ子を脅かした。そこで与力、同心とその手先を勤める目明かしや岡っ引きが活躍することとなる。名探偵銭形平次や佐武と市のような目明かしや岡っ引きがいれば、江戸の犯罪も多少は減りそうなものだが、実際はそうではなかった。鉄砲を持てば撃ってみたくなるのと同様、十手を持てば人を取り締まってみたくなる。無宿者やあぶれものが岡っ引きに雇われる例も多く、彼らは虎の威をかりて弱い正直な江戸っ子をいじめた。幕府も彼らの横行には手を焼いて、しばしば触れを出しているほどである。総元締の町奉行所では「国民に愛される警察」と大分宣伝に勤めたが、なかなか徹底しなかったらしい。
江戸の盗賊
盗人といえども、後世に名を残すとなると、これは大変なことである。結局、講釈師が咄のたねに取り上げて宣伝した結果であるが、それを受け入れてもてはやした江戸っ子の心情は、理解する必要がある。鼠小僧次郎吉の場合をみてみよう。彼は通常は博徒で、盗みに入るのは大小名の屋敷だけ。農家、商家には入ったことはない。これだけで江戸っ子に義賊として迎えられるに充分である。その上、講釈師や咄家が、さんざんに脚色、誇張する。因幡小僧や鬼坊主清吉、白浪五人男の日本左衛門、皆同様である。江戸っ子は彼らを犯罪者としてでなく、彼ら自身のうっぷんの代行者としてみたのである。
川柳狂歌にみる江戸っ子
江戸っ子の生んだ数多くの物のなかで、最も文化的意義の高いものの一つに川柳がある。江戸時代に作られた川柳は実に数多い。それらの一つ一つに江戸の風物、風俗から江戸っ子の生活、喜怒哀楽が折り込まれている。江戸っ子を理解するには、だまって川柳を読むのが一番だ。
水鳥に二つ名のある隅田川
深川へ行って来る程長湯なり
湯島から一万石の塔が見え
浅草は枕上野は屏風なり
品川の賭けは七分芝の鐘
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
江戸っ子の産声おきゃあがれと泣
散り際も勇み肌なり江戸桜
川柳と同時に、たくまざるユーモアと含蓄ある味を持つものに狂歌がある。
ねてまてどくらせどさらに何事も なきこそ人の果報なりけれ
たのしみは春の桜に秋の月 夫婦仲よく三度くふめし
蜀山人
[文化・風流・風習]に関連項目あり。
刑罰
刑罰(けいばつ)
中古、昔時の刑罰に関する事項。
[『塵袋』にある刑の記述]
一、五刑とて人をつみする刑の義か、如何。
刑の字をばさすとよむ。この字を釈するには、刑者成也。一毀2其肉1終レ身永定不レ可レ復也と云へり。ながききずをつくるなり。五刑にあまたの説あり。これに新古をわかてり。
一には墨、これは額をきざみて、すみを入れてくろくなす。二には鼻(ぎ:正しくはリットウ)、これは鼻をそぐ。三には宮、男をば勢をさく、女をば幽閉す、とぢこめてをく也。四には割、これは耳をきる。五には月(げつ:正しくはリットウ)、これは足をきる。非(ひ:正しくはリットウ)とも云ふ。叉は割刑を略して大辟。をもちふ。(尚書孝経等に用云云常説也)墨鼻宮非大辟。也。大辟の外をば肉刑といふ。大辟の辟をば訓にはつみとよむ。又は法なりともいへり。孝経には、凡そ五刑をも五辟といへり。又大辟に五あり。大辟をば日本記には、しぬるつみとぞよめる。死罪也。大辟の五といふは、一には鐶(正しくは車篇)裂(よの人両車のつみといふ。くるまさき也。車ま二両に片足づゝゆいつけて両方へやりのけてさく也)、二には磔屍(よの人ははりつけと云ふ。ひたひ・左右の手足をくぎにて物にうちつけて、のちうしろよりとゞめやをいる。磔の字をばはるとよむなり)、三には梟首(これはくびをきりて木にかく。獄門のあふちの木にかくなど云ふはこれなり)、四には釁鼓(又半(正しくは血篇)鼓ともあり。これはころしてその血をつゞみにぬりてうつ。釁の字をば血をもてまつるなりと釈せり。神にまつるか)、五には三族、云ふは、父がやから、母がやから、妻がやからなり。或説には、たゞ三人なり。父と子、孫と、この三人をころすと云へり。緩急時にしたがふにや。やからとはしたしき物ども也。
かみにいへる五刑は、秦の代にもちゐたる様也。秦には刑をからくせるによりて、始皇のすゑふさしからず。国語に、蔵文仲曰、中刑用2刀鋸1。其次用2鑚窄(正しくは竹冠)1。鑚は穿也。窄は鑿か。通ずる字也。これに刀鋸といふは、のこぎりにてきる。鑚窄といふは、ほりくびなり。
さらに五刑あり。今の世にもちふる刑なり。一には笞、しもとにてうつ。二には杖、つへうつかずなり。三には徒、徒役とてめしこめてつかはる、ことに随て年限あり。四には流、配流せらるゝ也。
日本には、伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐、此を遠流といふ。信濃・伊与をば中流とす。越前・安芸をば近流とす。此の外につかはす国々は、上総・下総・陸奥・越後・出雲・周防・阿波等也。
五には死。(かうべをはぬるはをもし。くびをばくびるといふ、かろし。死のつみは今はたゑたり。)
天竺に、刑をおこなふこと、死罪よりはじめてかろきにをよぶまで、一々に用ふる事まだらなれども、凡はある事にや。国ひろければ風俗のこのみもひとしからざるか。つぶさにはあきらめがたし。その中に、とがあるものには屎を遍身にぬりて野の中にはなつこと、あまねくをこなふにやあらん。さのみ糞穢にそのみてあるべきにてあらねば、流水にあらひをとしてきよくなりたれども、わが身にもいたづらものなりとおもふ故に、まどひありきて乞食す。みちをとほるときは、かゝるけがれものゝとほるぞといふ事を往返の人にしられんとて、杖をたゝきてすぐるに、道をゆきかふものこれをしりて、そのものゝあたりちかくよらず。あやまちにもそれにあたりぬれば、きものをもみなぬぎすて、のえさらす。なをきるべきをば、あらいきよめなどすとかや。
日本の人などは、あらひすてゝむちのちはさりげなくもてなして、上臈のよしなどをして自称すべきに、身のとがをしりて、つへをたゝくらん心の正直なるさま、目出たし。但、いづくもよのすゑはにごれば、このごろの天竺はさもせずやあらん。(『塵袋』六)
閏刑(じゅんけい)
士人・僧侶・婦女・庶人・廃疾者などに正刑以外に科する刑罰。鎌倉・室町時代のものに召籠・召意状・勅勘・解官・除籍・過怠・剃半髷・烙印・闕所があり、江戸時代のものに逼塞・閉門・蟄居・改易・切腹・晒・剃髪・叱・過料・手鎖などがあった。
改易(かいえき)
江戸時代の刑の一。武士の身分を奪って、家禄・屋敷を没収すること。蟄居より重く、切腹より軽い。(『広辞苑』第二版)徳川時代に、士分以上に科せし刑罰、其族稱を除き其家禄を没収して平民となししこと、蟄居より重く切腹より軽し。(『廣辭林」新訂版)
闕所(けっしょ)
鎌倉・室町時代の刑の一。罪科のあった領主などから所領を没収する刑。江戸時代の改易に似ているが、いまだ江戸時代のような身分制は確立していなかったことから、身分の剥奪はなく、その所領を没収するだけであった。
蟄居(ちっきょ)
江戸時代、士分以上に科した刑の一。閉門を命じた上、一室に謹慎させるもの。特に終身蟄居せしめることを永蟄居という。(『広辞苑』第二版)徳川時代に、武士に科せし閏刑、閉門を命じたる上更に一室にこもりをらしめしこと、普通の蟄居と永蟄居とありて、各其罪状の軽重に従ひてこれを科せり。(『廣辭林」新訂版)
逼塞(ひっそく)
江戸時代に士分及び僧侶に科した閏刑。門をとざして白昼の出入を許さないこと。閉門より軽く、五十日・二十日の二種。(『広辞苑』第二版)徳川時代に、士分及僧侶に科せし閏刑、即ち門を鎖して白昼の出入を聴さざりしこと、閉門より軽く、軽重に由りて、其日数に長短あり。(『廣辭林」新訂版)
閉門(へいもん)
江戸時代の閏刑の一。武士・僧侶などに科した監禁刑で、門扉を固く鎖し、窓を閉じ、昼夜とも出入を許さなかった。蟄居より軽く、逼塞より重い。(『広辞苑』第二版)徳川時代の刑罰。士人・社人・僧侶等に科せしもの。蟄居よりは軽く逼塞よりは重し、百日許のあひだ門を閉ぢ、奴僕の出入をも許さざりしもの。(『廣辭林」新訂版)
流刑(るけい)
律令制で定められた刑罰の一つで、京(中央)からの距離により近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(えんる)の三等に別けられた。
刑罰には笞・杖・徒・流・死の五刑があって、遠流に処せられる事は死罪に次ぐ重罰とされ、権力争いの結果敗れた者たちの中には、縁故者(勝者に嫁いだ敗者の女や帝の寵愛を受けている者など)による嘆願などで死罪を免れた政治犯が多く見受けられる。
「延喜式」で遠流の対象となる国は、安房・常陸・伊豆・佐渡・隠岐・土佐国とされていた。しかし、菅原道真が太宰府への赴任を命ぜられたように遠国への任を命ぜられる場合など、遠流国以外への実質的な流刑の例もある。
- 【流人】(るにん)
- 流刑に処せられた人。流刑の期限は無期限で、中には権力者が変ったり恩赦などで赦されて帰京する者も多かった。
暦
暦(こよみ)
(「日読(かよみ)」の意)年中の月・日・曜日、祝祭日、季節、日出・日入・日没、月の満ち欠け、日食・月食、また主要な故事・行事などを日を追って記載したもの。カレンダー。(『広辞苑』第二版)
〔コは、け(来経)の転、かとも転ず(二日、幾日。気、香。處、處)ヨミは、読むにて、数ふること、酉の字を、日読のとりと云ふも、鶏に別ちて、暦用のとりと云ふなり、倭訓栞、こよみ「日読の義、二日、三日と数へて、其事を考へ見るものなれば、名とせるなり」暦は、歴の義、説文に「歴、過也」とあり、年、月、日、を歴る意、経歴と別ちて、下を、日にしたるなり、我が国、上代には、暦なかりき、欽明天皇の朝に、百済国より、其製作の学を伝へたり〕一年中の四時、月、日、等を、表に揚げ記せる署。一年十二度の太陰の朔、望、晦、を基として、十二箇月に立て、一箇月の日数を、二十九日、或は、三十日とし、全年を、凡そ三百六十日とするを、太陰暦、又は、陰暦と云ふ、古来用ゐたるもの、明治五年限り、廃せられぬ、旧暦と云ふ、是れなり。これに、具注暦あり、仮名暦あり、又、伊勢暦、三島暦、大宮暦、会津暦、等あり、各条を見よ。又、月の朔望に拘はらず、太陽の纏度の、天の或る一点より、再び、此点へ復るまでの日数を以て、全年を三百六十五日とし、亦、十二箇月に割り、一箇月を、三十日、或は、三十一日(二月は、二十八日)と立つるを、太陽暦、叉は、陽暦と云ふ、明治六年より用ゐらるるものにて、新暦と云ふ、これなり。暦の上には、年の月、日、週、四時の気候、日月の出入、月の盈虚、日蝕、潮の干満、祭日、祝日等、(陰暦には、日の吉凶等)凡そ、月、日に起るべき事を記す。(年、及閏の条見合はすべし) 倭名抄、十三六文書具、暦「漢書律暦志、黄帝造レ暦、古與美」 欽明記、十五年二月、百済国「貢2暦博士固徳王保孫1」 政事要略、廿五、年中行事、十一月朔日「儒伝云、以2小治田朝十二年正月朔1、始用2暦日1」(小治田朝は推古天皇なり)(『大言海』)
陰暦(いんれき)
古代の太陰暦や日本の旧暦など太陰太陽暦のこと。太陰とは月のことをいう。月が朔(新月)から次の朔に、あるいは望(満月)から次の望に至るに要する時間(平均29日12時間44分2秒8)を基にした太陰月(朔望月)を基準とした暦法。
【太陰暦】(たいいんれき)
太陰月を基として作った暦。即ち一太陰月に基づいて、一ヵ月を二九日或いは三〇日とし、一ヵ年を十二ヵ月としたもの。原始的な暦法で、マホメット暦の類。広義には太陰太陽暦を含めていう。(『広辞苑』第二版)
[広義]太陰(月)の盈虚を主とする暦、即ち太陰が地球の周囲を一回運行する時間に基きて、一箇月を二十九日或は三十日とし、其十二箇月即ち約三百六十日を一年とする暦、然れどもなほ月の朔望の運行と少差ありて余日を生ず、これを積みて一箇月とし、五年に二度閏月として年に加ふ、十九年の七閏を経て余日なく相平均す、我国も明治五年まではこれを用ひたり。いんれき。きゅうれき。(『廣辭林』新訂版)
【太陰太陽暦】(たいいんたいようれき)
太陰暦と太陽暦を折衷した暦。両者の調節のため、十九年に七度の閏月を設けて平均させる。日本の旧暦、ユダヤ暦・ギリシア暦・中国暦など。(『広辞苑』第二版)
仮名暦(かなごよみ)
暦の、仮名にて書きたるもの。 宇治拾遺、五、第七条「若き僧に、かなごよみ書きてたべと云ひければ、僧、やすき事と云ひて、書きたりけり」(『大言海』)
具注暦(ぐちゅうれき)
〔普通の暦より、具に注したる義〕暦の一種、日々の行事の吉凶、禁忌、太歳に位置、月の盈虚、等より、七十二候まで、詳かに記したるもの。(『大言海』)
会津暦(あいづこよみ)
暦の一種。陸奥の会津若松の、諏訪神社の神官、原稿を作りて、暦問屋に出版せしめて、発行せしもの、江戸幕府の許可を経てありき。(『大言海』)
伊勢暦(いせこよみ)
〔こよみの条を見よ、此暦は、本暦なれど、他に、三島暦、大宮暦、会津暦などありしかば、別にて称せしなり〕伊勢神宮斎主、藤浪家にて板行して、御師、神宮の御祓箱に添へて、全国に配賦したる暦。当時、公行のものなりき。今は、神宮の神部署にて、全国に発行し、本暦と称す。 賀茂家文書、天文十四年九月十三日「従2御先代1、当国(伊勢)暦之儀、杉大夫出置候、自2他国1暦、御停止候」(節文、古事類苑、伊勢暦) 俗神道大意(平田篤胤)二「伊勢暦の出処は、毎年、祭主藤浪家より、朝廷へ御奏達あつて、土御門家の暦を、写本で申受け、夫を伊勢で板行に致す事で、右暦師は、宇治(伊勢山田)に居て、佐藤伊織と申し、藤浪家の御家来分なり」(節文)(『大言海』)
大宮暦(おおみやごよみ)
小田原、北条氏の頃、武蔵国、大宮神社より発行せし仮名暦。 新篇武蔵風土記稿、百五十三、足立郡「高島村、氷川神社、云々、昔は当社より頒暦ありて、云々、一年、豆州、三島暦と、閏月の違ひありて、北条氏政より、安藤豊前守に命じて、糾明せられしが」(『大言海』)
三島暦(みしまごよみ)
伊豆国、三島より出したる暦。三島神社の下社家川合氏、応安年中よりは、毎年製出し、徳川幕府の頃は、其許可を得て、初は伊豆、相模の二国に行ひしと云ふ。(貞享以後は、幕府より原稿を下したりとぞ)字は平仮名にて、細かく記せり。明治維新まで行はる。 空華日工集(応安七年)三月四日「浴2于伊豆熱海1、蓋三島暦以2是日1為2上巳節1、故作レ詩記」 譚海、十四「三島暦は、伊豆相模の二ヶ国に商ふ事、免許也、暦師、河合龍節と云ふ者、毎年、歳暮に江戸へ罷出、公儀と御三家へ暦を奉り、目録を拝領して、帰国する事、定りたる事也」(『大言海』)
六暦(ろくれき)
古昔、我国に使用せられし六種のこよみ、即ち支那宋の文帝の元嘉年中何承天の撰にして、持統天皇の初世に用ひられし元嘉暦と、唐の高宗の儀鳳年中唐より伝来し、持統天皇の御宇に初め元嘉暦と併用せられ後専用せられし儀鳳暦と、唐の玄宗の開元年中僧一行の撰にして、淳仁天皇の天平宝宇七年に儀鳳暦を停めて用ひられし大衍暦と、唐の代宗のとき郭献之等の撰にして、文徳天皇の斎衡三年大衍暦と併用せられし五紀暦と、唐の穆宗の長慶年中徐昂の撰にして、清和天皇の貞観三年に大衍暦を停めて用ひられし宣明暦と、元の授時暦と、明の大統暦とを損益して作られし貞享暦と。(『廣辭林』新訂版)
閏(うるう)
(「潤」と書き誤ったところからの訓)季節と暦月とを調節するため、平年より余分にもうけた暦日・暦月。地球が太陽を一周するのは365日5時47分46秒だから、その端数を積んで、太陽暦では四年目に一回、二月の日数を29日とし、太陰暦では平年を354日と定めているから、適当な割合で一年を十三ヶ月とする。
〔うるひと云ふが正しかるべし、但し、終止形を名詞とするに、あぎとふ、やまふ(病)の類もあり、閏(じゅん)の字は、欽明紀に、暦始めて伝来し、説文に「閏、余分之月也」とありて、余る義なり、うるひ、うるふと読むは、敏達紀、持統紀等に「潤月」と記さる、集韻に「閏音潤」と見えて、音通の字なるを、此潤の字を、文字読にせしより起れるなるべし、後撰集、三、春、下、弥生にうるふ月ある年、云々「あまりさへ、ありて行くべき、年だにも」とあるあまりは、閏の字の正訓なり、又、仲哀紀元年に、追記にはあれど「閏十一月(のちのしもつき)」の旁訓もあり〕又、うるひ。太陰暦に、一年を三百六十日として、これを十二箇月に分てども、月の朔望の運行に合はずして、余時日を生ずるを積みて、一月として、一年に加へて十三箇月とするもの。これを閏月と云ふ、五年に二度の閏月あり、十九年、七閏に及びて、余分無し。これを一章と云ふとぞ。(こよみの条、見合すべし)閏月ある年を、閏年と云ふ。太陽暦にては、一年を三百六十五日とし、四年毎に一日余るを積みて、二月に加ふ。 欽明紀、十五年正月「去年閏月四日」 古今集、一、春、上「弥生に、うるふ月のありける年」 名義抄「閏、うるふ」 字類抄「閏月、うるうづき」(『大言海』)
閏月 太陰暦で、十二ヶ月のほかに加えた月。
閏年 閏のある年。太陽暦では閏日、太陰暦では閏月のある年。
閏日 2月29日のこと。近年では、より精密な天体計測ができるようになり、何年間かに一度閏秒を設けてより正確な時刻としている。
○閏月 天の運動、三百六十五度四分度の一なり、是則日の三百六十日なり、一年三百六十日と立て、過六日を気盈と云、また一年の内、小の月六つ、三百六十日の内、六日の不足を朔虚と云、此過不足の気盈朔虚を合せて十二日なり、是を三ヶ年積ば、三十六日の余日あるゆへ、三年に一閏を立る也、又一月三十日にして、六日の過あり、これを積て、五年に再閏あり、十九年に七閏を立て余分なし、是を一章と云叉閏にあたる月は節ばかりありて中なし、前月の廿九日晦日に中あり閏月の十四五日に節あり、来月の一日二日に中ありそれに至る月を閏とす、(『近代世事談』巻之四)
二十四節気(にじゅうしせっき)
太陽年を太陽の黄経に従って二十四等分して、季節を示すに用いる語。中国伝来の語で、その等分点を立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒と名づける。二十四気。(『広辞苑』第二版)
二十四気 暦の語。5日を一候とし、三候を一気とし、二気を一月とし、四時、十二月、一年にて、二十四気、七十二候なり。陰暦、陽暦、対照すれば次表の如し。
四時(四季) 二十四気 暦 七十二候
春 立春 陰暦、正月節 陽暦、二月三日 東風解レ凍、啓蟄始振魚上レ水
雨水 陰暦、正月中 陽暦、二月十八日 獺祭レ魚、鴻鴈来草木萌動
啓蟄 陰暦、二月節 陽暦、三月五日 桃始華、倉庚鳴鷹化為レ鳩
春分 陰暦、二月中 陽暦、三月二十日 玄鳥至、雷之発レ声始電
清明 陰暦、三月節 陽暦、四月五日 桐始華、田鼠化為レ鴛虹始見
穀雨 陰暦、三月中 陽暦、四月二十日 萍始生、鳴鳩払2其羽1戴勝降2于桑1
夏 立夏 陰暦、四月節 陽暦、五月五日 螻蛙鳴、蚯蚓出王瓜生
小満 陰暦、四月中 陽暦、五月二十一日 苦菜秀、靡草宛麦秋至
芒種 陰暦、五月節 陽暦、六月五日 螳螂生、鵙始鳴反舌無レ声
夏至 陰暦、五月中 陽暦、六月二十二日 鹿角解、蜩始鳴半夏生
小暑 陰暦、六月節 陽暦、七月七日 温風始至、蟋蟀居レ壁鷹乃学習
大暑 陰暦、六月中 陽暦、七月二十三日 腐草為レ螢、土潤溽暑大雨時行
秋 立秋 陰暦、七月節 陽暦、八月七日 涼風至、白露降寒蝉鳴
処暑 陰暦、七月中 陽暦、八月二十三日 鷹祭レ鳥、天地始繍禾乃登
白露 陰暦、八月節 陽暦、九月七日 鴻鴈来、玄鳥躍群鳥養レ羞
秋分 陰暦、八月中 陽暦、九月二十三日 雷始収レ声、蟄蟲坏レ戸水始涸
寒露 陰暦、九月節 陽暦、十月八日 鴻鴈来賓、雀入レ水為レ蛤菊有2黄華1
霜降 陰暦、九月中 陽暦、十月二十三日 豺祭レ獣、草木黄落蟄蟲咸俯
冬 立冬 陰暦、十月節 陽暦、十一月七日 水始氷、地始凍雉入レ水為レ蜃
小雪 陰暦、十月中 陽暦、十一月二十二日虹蔵不レ見、天気謄地気候、閉塞而成レ冬
大雪 陰暦、十一月節陽暦、十二月七日 鵙旦不レ鳴、虎始交茘挺出
冬至 陰暦、十一月中陽暦、十二月二十二日蚯蚓結、麋角解水泉動
小寒 陰暦、十二月節陽暦、一月五日 鴈北郷、鵲始巣雉始雛
大寒 陰暦、十二月中陽暦、一月二十日 鶏始乳、鷙鳥萬疾水澤腹竪
(『大言海』)
気候(きこう)
気は、十五日一期の称、候は、五日一期の称。一気に、三候にして、一年二十四気、七十二候あり。(『大言海』)
七十二候(しちじゅうにこう)
旧暦で、五日を一候とし、三候を一気とし、六候を一ヵ月とし、二十四気即ち一年間を七十二分して、時候の変化を示したもの。「季候」の語は四季七十二候から出た。旧暦のもっている太陽暦の要素。(『広辞苑』第二版)
○七十二候 日に十二時あり、五日に六十時なり、これ甲子の一周り也、五行畢て気候易ゆへ、五日を一候と云、一年三百六十日、五日をして七十二候となる也、三候を一気と云これ十五日二時五刻余也、此気六つの六気を時といふ、九十一日余なり、時四つ、春夏秋冬也、四時と云、是年なり(『近代世事談』巻之四)
干支(えと)
(「兄(え)弟(と)」の意)十干を五行(木・火・土・金・水)に配当し、陽をあらわす兄(え)、陰をあらわす弟(と)をつけて訓んだもの。即ち、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)。これに十二支を組み合わせ、甲子・乙丑など六〇組として年・月・日・に当てて用いるので、干支を「えと」と称するようになった。方位・時刻にも当てる。かんし。(『広辞苑』第二版)
《陰陽道の語。エ(兄)オト(弟)の約。五行(木・火・土・金・水)を陰陽に分け、陽を兄(え)、陰を弟(と)として名をつけて十干とし、それに十二支を組み合わせたもの》(一)《「干支」は「幹枝」で兄弟の如しという意により、エトと訓む》十干と十二支と。「干支を月に合はすれば」(春秋抄21)(二)十二支だけを指す。時刻・方角などを示す。「田舎道問へば干支にて方をいひ」(雑俳・柳多留58)(『岩波古語辞典』)
〔兄弟(エオト)の約、干支は、幹枝にて、兄弟の如しと云ふ意なりと云ふ、仁徳紀、四十年三月「敦2干支(このかみおとと)之義1而、忍レ之勿レ罪」〕暦に用ゐる語。木・火・土・金・水の五行を、各、兄(え)と弟(と)とに分ち呼ぶ、即ち、木兄(きのえ)甲(かう)、木弟(きのと)乙(おつ)、火兄(ひのえ)丙(へい)、火弟(ひのと)丁(てい)、土兄(つちのえ)戊(ぼ)、土弟(つちのと)己(き)、金兄(かのえ)庚(かう)、金弟(かのと)辛(しん)、水兄(みずのえ)壬(じん)、水弟(みずのと)癸(き)と分ちて、相配す、これを統べて、十干と云ふ。又、十二支と云ふものあり、子(し)、丑(ちう)、寅(いん)、卯(ばう)、辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)、申(しん)、酉(いう)、戌(じゆつ)、亥(がい)なり、これを、鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猴、鶏、犬、猪の十二の生物に当つ、これを十二生肖と云ふ。此の十干と十二支とを、甲子(かっし)木兄鼠(きのえね)、乙丑(おつちう)木弟牛(きのとうし)などと配合して、六十配をなし、暦の上の年、月、日等に当てて用ゐる。転じて、十干、十二支を併せて、エトとも称し、干支(かんし)、又、支干とも云ふ。十二支を、又、方角の称ともす、北を子とし、東を卯とし、其間を二分して、其界を丑、寅とす、これに準じて、辰、巳を歴て、南を午とし、未、申を歴て、酉を西とし、戌、亥にて終はる。(四維の条を見よ)又、十二支を、時の名にも用ゐる。時の条に注す。(『大言海』)
干支(かんし) 十干(じつかん)と十二支と。また、これを組み合わせて紀年法として用いる。中国に始る。えと。(『広辞苑』第二版)
【十干】(じつかん)
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の称。これを五行に配し、各々陽即ち兄(え)と、陰即ち弟(と)をあてて甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)丁(ひのと)などと訓づる。普通、十干と十二支とは組み合わせて用いられ、干支(かんし)を「えと」と称するに至った。(『広辞苑』第二版)
甲(かふ・きのえ)・乙(おつ・きのと)・丙(へい・ひのえ)・丁(てい・ひのと)・戊(ぼ・つちのえ)・己(き・つちのと)・庚(かう・かのえ)・辛(しん・かのと)・壬(じん・みずのえ)・癸(き・みずのと)の称。木・火・土・金・水の五行を兄弟に分けたもので、普通十二支と組み合わせ、年・日などを表すものに使われた。(『岩波古語辞典』)
【十二支】(じゅうにし)
暦法で、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の称。中国で十二宮のおのおのに獣を充てたのに基づくという。即ち子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は竜、巳は蛇、午は馬、未は羊、申は猿、酉は鶏、戌は犬、亥は猪。そのおのおのを時刻及び方角の名とする。(『広辞苑』第二版)
もと陰陽道で、子(し)・丑(ちう)・寅(いん)・卯(ばう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(いう)・戌(じゅつ)・亥(がい)のこと。十二の動物を配する。時刻や方角の名として使ったほか、十干と組み合わせ、「えと」と称して、暦法にも使った。(『岩波古語辞典』)
六輝(ろっき)
暦注の一。先勝(せんしょう)、友引、先負(せんぷ)、仏滅、大安、赤口(しゃくく)、の六種。中国の小六壬(しょうろうじん)が日本に入って変化したもの。暦注としては江戸中期からで最も新しいが、今日最も広く行われている。六曜。(『広辞苑』第二版)
六曜(ろくよう)
陰暦にて、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口、の六つの星にあたる日を云ふ。 安政雑書満暦大成、孔明六曜日繰「先勝日(正月、七月)、友引日(二月、八月)、先負(三月、九月)、物滅日(四月、十月)、大安日(五月、十一月)、赤口日(六月、十二日)、右六曜のくりやうは、何月と有る其月の星を朔日とし、二日、三日と左へ順にくる也、云々」(『大言海』)
【先勝日】(せんしょうにち) 陰陽家にて、急用又は公事沙汰などに適すといふ日。
【友引日】(ともびきにち) 陰陽家にて、相びきとて勝負なしといふ日、この日葬式を行ふことを忌む。
【先負日】(せんぷにち) 陰陽家にて、急用又は公事などに忌む日。
【仏滅日】(ぶつめつにち) 陰陽家にて、万事に凶なりといふ大悪日。
【大安日】(たいあんにち) 陰陽家にて、旅立・移転等に吉といふ日。
【赤口日】(しゃくくにち) 陰陽家にて、万事に凶なりといふ日。
先勝日 陰暦正月・七月の朔より7・13・19・25…
友引日 陰暦二月・八月の朔より
先負日 陰暦三月・九月の朔より
仏滅日 陰暦四月・十月の朔より
大安日 陰暦五月・十一月の朔より
赤口日 陰暦六月・十二月の朔より
直訴
直訴(じきそ)
一定の手続きを経ず直接上訴すること。特に江戸時代には、将軍または領主に越訴することをいった。すなわち直訴とは、「正当な手続きを踏まず、直接に君主・長官に訴えること」(『新明解国語辞典』)などとあるように、裁判制度や相談窓口の整っていなかった時代、特に庶民が役人や直接的な支配者(知行人・地方代官)などの罪や横暴、苦情、あるいは窮状をその上司、あるいは君主に直接訴えることでしか、為政者に知ってもらう手段がなかった。家康時代は、お茶阿が鷹狩りに来た家康に直接代官の非道を訴えたように、まだこうした直訴を容認していたが、直訴できたとしても、それが聞き入れられるかどうかは君主や領主の恣意的な判断に左右された。やがて直訴事態が禁じられ、代りに評定所の門前に目安箱が置かれ、そこに訴状を入れる制度となる。だが、地方の人々は江戸まで出ることも出来ず、訴人は厳罰を覚悟で領主などに直訴した。
駕篭訴(かごそ)
江戸時代、通行する幕府の代官や大名などの駕篭を待ち受けて直訴すること。(『広辞苑』第二版)徳川時代、老中などの外出を候ひ、其駕篭を要して、直訴せしこと。じきそ。(『廣辭林』新訂版)などとあり、直訴の一形態。
『捨て童子松平忠輝』では、大久保長安事件で、忠輝を罪に落とそうとする秀忠の横暴から守るため、秀忠の付家老だった大久保忠隣を失脚させる目的で、馬場八右衛門に駕篭訴をさせた(下巻41p)と書いている。
箱訴(はこそ)
江戸時代、庶民の直訴を受けるため、評定所門前に目安箱をおいて訴状を投入させた制度。(『広辞苑』第二版)目安箱・訴状箱などと呼ばれた箱に訴状を入れさせることから箱訴といった。
【目安箱】(めやすばこ) 江戸時代、庶民の要求・不満などの投書を受けるために、評定所の門前に出して置いた箱。直訴箱。訴状箱。(『広辞苑』第二版)目安とは、文書を見やすくするために箇条書きにした文書をいい、中世には訴状・陳状を、江戸時代にはもっぱら訴状をいう。奉行所はこれに出廷日などを裏書きして訴人に返した。
氏姓
氏(うじ)
「氏」とは『広辞苑』(第二版)などには、「(一)血縁関係のある家族群で構成された集団。氏族。(二)日本古代では、氏族に擬制しながら実は祭祀・居住地・官職などを通じて結合した政治的団体。その内部は、姓(かばね)を異にする家族群に分れ、上級の姓を持つ家族群が下級の姓の家族群を支配し、最下層には部民(べのたみ)および奴婢がある。(三)家々の血統に従って伝えて称する名。また、家の称号。(四)家がら。氏素性と用いられる。(五)近世、武士階級の間で、多く同輩以下に対して苗字に添えて用いた敬称。」とあり、ここで云う氏は主に(三)の意味をいう。
うぢ 氏 (一)古昔、家々の血統に従ひて、朝廷よりたまはりたる称号、源・平・藤・橘の類。(姓)。(二)各箇の家系を表章する苗字、楠木・徳川の類。(三)いへがら。家系。(『廣辭林』新訂版)
うぢ 氏 上代支配層を形成していた豪族の一族。中臣・物部・大伴など職業によるものと、蘇我・紀など地名によるものとがある。氏の有力者が「氏の上」「氏の長者」と呼ばれ、氏神をまつり、氏人をひきい、姓(かばね)を定められて天皇氏の政治に参加した。大化改新前は社会政治組織の基礎をなし、改新後も、多くは官僚として特権をもちつづけたが、平安末期から政治上の権力を失うようになった。「大伴の氏と名に負へる大夫の伴」(万葉4465)▽朝鮮語のul(族)、蒙古語のuru-g(親戚)、トルコ語キルギス方言uru(親戚)、ツングース語ur(子孫)など、男子の系統を表す語と同源。朝鮮語のlは日本語のdとなるものがある。mil(水)とmidu(水)など。(『岩波古語辞典』)
うぢ 姓/氏 〔生路(うみぢ)の略ならむか、(生の系、子孫)うみから、うから。(族)或は、出の転、出自の意かとも思へど、いかが〕(一)家々の系統に随ひて、一族、子孫、相伝へて称する号。即ち、人の名の外に立つる家の名にて、人民繁殖するに因りての識別なるなり。但し、我が皇室には姓(氏)おはしまさず、神代より一系にして、粉るるやうなければなり、万国に冠たること知るべし。上古よりある姓(氏)は、大伴、物部等にて、職掌なりしが、姓(氏)となれり。 万葉集、廿五十一長歌「祖先の職と、事立てて、云々、子孫の、禰継継に、云々、大伴の宇治と、名に負へる、丈夫の徒」 別に、朝廷より賜はれるは、源、平、藤原、橘等なり。(別にカバネあり、其条を見よ)後に、子孫益延蔓するに及び、別に、北条、足利、織田、徳川等、地名などを採り、称を作りて分てり、これを名字、苗字、苗氏など云ひ、亦、相継ぎて、家の名に用ゐる、然れども、姓(氏)は尚変はらざるなり。今多くは、源、平等に姓の字を当て、苗字に氏の寺を当る。(二)人の苗字の下に添へて、稍、敬意をあらはすに用ゐる語。 「加藤氏(うじ)」鈴木氏(うじ)」 音読し、苗字名の下に添へて、「石部金吉氏(し)」などとも用ゐる。(『大言海』)
我が国においては一族の名称として用いられ、これらの集団を氏族といった。この氏という概念は、中国から齎されたものであったが、古代中国では血族の集団を表した名称を姓といい、その姓から分かれた支族がその勲功により皇帝から賞賜された名称を氏と称した。やがて、姓氏の別が曖昧となり、同じように用いられるようになり、姓の概念を含んだ氏の概念が我が国に齎されたもので、姓と氏は別の概念であった。本来、我が国の氏は蘇我入鹿(そがのいるか)、物部守屋(もののべのもりや)、大伴家持(おおとものやかもち)、源頼朝(みなもとのよりとも)などのように、名称に「の」が付けられて読まれる。
こうして我が国では、氏は擬似的な血族集団に用いられ、大和政権を構成した大豪族や、それに服属した中小の豪族らが氏族を形成し、それぞれ朝廷の承認を得た氏を名乗った。弘仁六年(815)、嵯峨天皇が近畿一円の氏族の姓氏を精査して作った『新撰姓氏録』には、千百八十二氏が記載されている。ここには政権中枢を担った氏族の物部・蘇我・大伴・藤原・源・平などの他、高橋・田中・大原・野上など現在でも氏名に多く用いられている氏と共に、神奴(かんのやつこ)・小子部(ちいさこべ)・道守(ちもり)・面氏(めんうじ)・民(たみ)・止美(とみ)などおそらく滅亡したであろうと思われる氏族の名が記されている。この氏に朝廷から与えられた家格・職名を表す姓を併記したものが氏姓(姓書:かばねがき)と呼ばれ、奈良時代にはこの制度(氏姓制度)で、序列・職業が決められ、こうした秩序の元で国の支配体制が作られた。
やがて、これら氏を同じくする一族が増えるにつれ、公家ではその居住する第宅の所在する街衢の名を家の名とし、これを称号と称した。藤原氏の近衛・三条・勘解由小路などがそれで、これらの称号が二百家程度ある。一方、武家は、新しい所領を得て独立するたびに新しい家の名を名乗った。それを苗字(名字)といい、源氏の足利や新田のように、多くはその土地の名を名乗り、その結果、数多くの苗字が創出された。
このように、姓、氏、苗字、称号はそれぞれ別ものであるが、それらが皆、家名でもある事から混同され苗字・称号をも氏あるいは姓というようになり、今日に至っている。また、姓氏などは同じ文字を用いながら、中国と日本ではその概念が異なることから来る混乱も見られる。我が国の氏が、中国の姓の概念を含んでいることから、前述の蘇我・物部・源などを姓と称し、武家の苗字を氏とする場合がある。
姓(かばね)
(一)古代豪族が政治的・社会的地位を示すために世襲した称号。臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・君(きみ)・直(あたい)・史(ふみ)・県主(あがたぬし)・村主(すぐり)など数十種がある。はじめは私的な尊称であったが、大和朝廷の支配が強化されると共に朝廷が与奪するようになり、臣・連が最高の姓となった。大化改新後の684年、天武天皇は皇室を中心に八色(やくさ)の姓を定めたが、やがて姓を世襲する氏(うじ)氏が分裂した結果である家で政治的地位が分れることになって、姓は自然消滅した。せい。(二)氏(うじ)。(漢字では姓と氏との両字に日本でのような区別がない)姓氏。(『広辞苑』第二版)
姓・骨 (骨族の意)我国上古、族制政治の世に家筋並に世襲の職名を分かちし称号、即ち、臣・連・首(おびと)・国造・県主などの類、皆それぞれ定まりたる世襲の官職あり、臣・連等は大政を輔け、国造・県主等は地方を治めたりしが、時勢の進歩に従ひ変化して、大化の革新以後は、公職と関係なく、天武天皇の時改めて八色の姓、即ち真人・朝臣・宿禰・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・連・稲置(いなき)を置かれし以来は、ただ氏へ添へて尊卑を表はす称号となる。(『廣辭林』新訂版)
《カバネ(骸骨)と同根》古代の豪族の社会的・政治的な位置の上下を示す世襲の称号。「ねかばね」とも。臣・連・造・君・史など数十種がある。臣・連が最高の姓。「冠位挙げ給ひ、根可婆禰改め給ひ治め給ひき。しかるものを反りて逆心を抱きて」(続紀宣命43)▽「姓」をカバネと読むのは、新羅の社会制度で位置の上下を示すに「骨品」の語を用いたので、「骨」にあたる日本語カバネが用いられたものか。(『岩波古語辞典』)
かばね 可婆禰、姓尸 〔此語、漢字の、当つべきなし、姓、又、尸、又、骨名と書くも、皆、借字なり、(尸、骨名は、骨の訓を借れる字〕カバネは、天武紀、下、十三年に、族姓とあり、続紀、二十九に、根可婆禰(ねかばね)とあり、頭根(かぶね)、又、株名(かぶな)の転にて、部族統一の称ならむ、新羅に骨品と云ふことあり、(一家族の戸口の多少に因りて、氏族を級別したるもの)それに基づく語と云ふ説は、借字の骨につきての考なり、カバネの、黜陟せらるべきものなるに当らず〕 上代の職名。(其部族を統理する職なるべし)世襲して、其家筋の称となれるもの、稍、爵に似たり、事あれば黜陟せらる、(氏の、系統に不変なると、異なり)臣、連、伴造、国造、君、別、宿袮、県主、村主、稲置、首、直など、尚あり。君、別は、皇胤なれば、臣、連の上なれど、地方官なれば、国造の中なり、臣の族の長を大臣と云ひ、連の長を大連と云ふ、順位は、臣、連、伴造、国造とす、(雄略紀、皇極紀)其他の次第は知られず、天武天皇の御代に至りて、改めて八級に立てられ、家家に賜ひて、氏に添へて称して、家筋の等級となれり、淡海真人三船、藤原朝臣仲麻呂、大伴宿袮家持、山上臣億良、吉田蓮宜、など称する、是れなり。 允恭紀、二年二月「闘鶏(つげの)国造、云々、赦2死刑1、貶2其姓1、謂2稲置1」 天武紀、下、十二年九月「倭直、物部首、賜レ姓曰レ連」(節文) 同巻、十三年十月「更改2諸氏之族姓1、作2八色之姓1」とありて、真人、朝臣、宿袮、忌寸、道師、臣、連、稲置と次第せられぬ。 続紀、九、神亀元年二月、詔「韓人部一人二人に、其負ひて仕へまつるべき姓、名賜ふ」 同、十八、天平勝宝三年二月「雀部朝臣真人等、云々、遂絶2骨名之緒1、永為2無源之氏1」 同、二十九、神護景雲三年五月、詔「県犬養姉女等、云々、其等が根可婆禰替へて、遠く流す罪に治めたまふ」 拾芥抄、中、本、姓尸録部「朝臣、真人、宿袮、云々」(『大言海』)
現在、姓名ともいい、氏名ともいうように、人名における族名・家名は姓氏区別無く同じものとして使われているが、前述したように、姓は血族集団の名称で、しかも「姓」の字が「女」偏であることから、その血族集団は女系集団であったとされている。しかし、この「姓」の字が我が国に輸入された時には、こうした概念は無くなり、「姓」を「かばね」と読み、その家の家格や世職を表示する名称として、朝廷がその臣民に与える称号となった。「臣」(おみ)「連」(むらじ)「宿袮」(すくね)「朝臣」(あそん)などがそれで、『古事記』の著者太安萬侶の正式名は、太朝臣安萬侶(おおのあそんやすまろ)で、太(おお)が氏、朝臣(あそん)が姓、安萬侶が名ということになる。
- 氏姓制度(しせいせいど)
- 大和朝廷の支配体制の基礎となっていた制度。支配階級に属する諸豪族は氏(うじ)と総称される擬似的な血縁集団をつくり、氏は政治的な位置や世襲的な職業に応じて姓と総称される尊称をもち、また経済的な基礎としては私有地や被支配階級である部民や賤民である奴婢を所有していた。しかし推古朝前後から氏が個々の家に分裂する傾向が強まり、さらに大化改新後の律令制度では氏や家より個人の能力を尊重する建前となって、氏姓制度は崩壊した。(『広辞苑』第二版)
苗字(みょうじ)
名字。(一)姓(かばね)。(二)氏から出た家の名。あるいは、名田の名を自分の字(あざな)としたもの。平氏から出た千葉・三浦の類。(『広辞苑』第二版)
名字 (一)姓(うぢ)の外につくる家名。うぢな。(二)名号。(『廣辭林」新訂版)
武士階級の者が本家から分かれた分家などが、その氏を称さず所領地の荘名・名田名・地名などを家の名としたもの。藤原氏、橘氏などの公家が、その第宅の街区の名を家の名とし、それを称号と云うのに対する語。
名字 (一)名前。称号。「内相、国に於て功勲已に高し。然れども猶報効未だ行なわれず、名字未だ加へられず」(続紀天平宝宇二・八・一)「彦太郎名字、今日重行と定め候也」(山科家礼記寛正四・五・二一)(二)仏法の体をあらわすものとしての名。名号。「我、大王に寵愛せられて仏法の名字を聞かず」(今昔三ノ二五)(三)一つの氏のもとに分れ出た諸家の名。源氏から出た新田・足利、平氏から出た千葉・三浦の類。後には氏の名と区別がなくなる。苗字。「近きあたりにさやうの名字つきたる者ありとも未だ承り及ばず候」(太平記三・主上御夢)(『岩波古語辞典』)
○苗字 延文応安の頃、室町殿時代より起る、鎌倉時代までは、それ/\〃の住居の所、或は領地の所をさして、秩父和田三浦等の在所を云て、姓を専とす、太平記の頃より、あらぬ国に住ながら、仁木細川などいひて、名字といふ物になれり(『近代世事談』巻之五)
- 名字帯刀(みょうじたいとう)
- 名字をなのり、大小の刀を帯びること。近世、幕府・諸藩では、武士以外にも、家柄により、また特に勲功・善行のあった者に、特別の恩恵としてこれを許した。これを名字帯刀御免という。「御料所(幕府領)にては何程由緒正しく、先祖は高貴の末葉に紛れ無くとも、民間に落ちては名字帯刀決して相成らず」(地方凡例録七)(『岩波古語辞典』)
- 徳川時代に、特殊の取扱によりて、平民の苗字をとなへ帯刀を許されしこと。(『廣辭林」新訂版)
名(な・めい・みょう)
(1)有形・無形の事物を、他の事物と区別して、言語で表した呼び方。(一)事物(の概念)を代表する呼称。 万三「酒の名を聖とおほせし」(二)特に人や人に準ずるものに付けた呼び名。姓・氏など家名に対して実名・通称など個人名をさし、また姓氏と併せたものをさす。 万二「妹が名呼びて袖そ振りつる」 宇津保俊蔭「名をば仲忠といふ」「無礼者、名を言え」(『広辞苑』第二版)
(一)事物の称呼、即ち言語を用ひて概念を代表し、其事物と他の事物とを分別表識するとなへ。(二)姓氏に対して、実名・通称をいひ、又、姓氏と実名・通称とを合してもいふ。(三)人倫上叉は職責上の区別。めいぶん。「必也正レ名乎」(四)みゃうもん。きこえ。評判。声聞。「名高し」「名あり」(『廣辭林』新訂版)
な 名 (一)物・人・観念を他と区別するために呼ぶ語。なまえ。「酒の名を聖と負はせし古への大き聖の言のよろしき」(万葉339)「妹が名呼びて袖そ振りつる」(万葉207)(二)名目。「家島は名にこそあらなくに」(万葉3718)(三)世間への聞え。評判。「妹が名も我が名も立たば惜しみこそ」(万葉2697)(四)【字】文字。「真名」「仮名」など。「字、ナ」(名義抄)▽古代社会では、名は実体と区別され難かったので、みだりに自分の名を他人に教えなかった。女が男に名と家を告げることは結婚の承諾を意味した。また、ナが文字という意を持つのも、文字と物の名称とが区別され難かったことを示している。(『岩波古語辞典』)
な 名 〔為(なり)の意にて、人物の為りたる状を云ふとぞ。形(なり)も是れなり〕(一)物事に定りて付きたる称にて、人の、其物事を、他類に別ちて、指して呼ぶもの。人には、一族の称なる姓、氏、苗字、に対して、族中の一人にのみ用ゐるものを云ふ。元来、実の名は一つにて、鎌足、真備、道真、など是れなり。後世、此外に、九郎(義経)、多聞兵衛(正成)、藤吉郎(秀吉)など、別に用ゐるもの起りて、これを俗名、通称、など云ひて、常に専ら呼べり。因りて実の名を、名乗、又は、実名などと云ふ。今世は、又、一つに定る。又、幼名、忌名(諱)、贈名(諡)、あざな(字)、号、などあり。各条に註す。(二)評判、名聞。名声。声聞。(『大言海』)
すべての事物に名前がある。名の無いものが見つかれば、人はたちまちこれに名を付ける。社会生活を効率よく営むために、人は、自己・対者、また第三者に名を付けざるを得ない。名の機能は、他との識別にある。あれとこれとを区別するためには、名が必要である。太古、人少なく、個別に区別して指称する必要のなかった時代には、個々人の名は必要でなく、いわゆる無定名すなわち、「今、木の下にいる男」、またその娘は、「今、木の下にいる男の娘」などという表現の時代が想定される。これは、まだわずかな人数のことであったためで、五十人、百人となると、人の識別能力の限界を超え、無定名で呼ぶ事は不可能となり、人は出生と同時に名を与えられ、識別されるようになる。
今日、我が国の男子の名前には漢字二字あるいは一字で表する事が多く、女子の名に子をつけるものが多いが、このような名前が広まったのは、平安朝の嵯峨天皇が唐風の命名法を取り入れたことから始る。嵯峨天皇は、身分の高い生家出身の后妃が産んだ皇子に漢字二字(正良、秀良など)を与えて皇族に留め、身分の低い生家出の女性が産んだ皇子には漢字一字(信、弘など)を与え、源姓を賜うて臣籍に降ろした。同様に、身分の高い女性か産んだ皇女には漢字一字に子を付け(正子、秀子など)て皇族に留め、身分の低い女性が産んだ皇女には漢字一字に姫を付け(貞姫、潔姫など)て臣籍にした。それまでは、皇族は記紀にあるような長い名であったり、スサノオノミコト(素戔鳴尊・須佐之男命)、ヤマトタケルノミコト(日本武尊)のような名前、あるいは「安麻呂」「田村麻呂」などの名がつけられていた。こうして、嵯峨帝の唐風の名をつける習俗は、次の淳和帝にも引き継がれ、皇族のみならず貴族からさらには武士階級に及び定着する。ただ、庶民は長らく漢字二字名を用いる事をはばかったが、明治維新による四民平等で、現在では誰もが漢字二字一字、あるいは子のつく名を望むがままに付けられるようになった。とは言え、こうした漢字二字、一字名は実名(諱)とされ、これを他者が筆舌に上せる事は非礼とされ、その非礼を冒さないように実名の他に用意した名が通称名(字名)であるという。
字(あざな)
(一)中国で、男子が成年後実名のほかにつける別名。(二)わが国で、学者・文人の実名以外の名。(『広辞苑』第二版)
(一)支那にて、実名の外に親しく呼ぶ時に用ふる名。(二)我国にて、学者・文人が支那風を学びて、実名以外に附くる名。(三)あだな(渾名)(『廣辭林』新訂版)
(一)実名のほかの名。「女郎字を大名児といふ」(万110題詞)(二)中国で、元服の時に実名の他につける名。その風にならって、わが国で、一人前の男子が人との応答に名乗る名。平安時代、学生の入学の時、これを名簿に書く儀式があった。「夕霧の字つくる事は、東の院にてし給ふ」(源氏少女)「学生元真、字清用みまかりて後」(源順集)(三)呼び名。あだな。「『何者ぞ』と問へば『字袴垂となむ言はれ候』」(宇治拾遺28)(『岩波古語辞典』)
あざな〔アザは、アザフ(交)の語根、本名に交へて持つ名の意、俗語考(橘守部)あざな「交名にて、正名に交へたる一名の由にぞあるべし」字の字は、次条の漢語を借りて記したるが如し、あだなを併せ見よ〕(一)実名の外に持ちてある名。然れども、人毎に持てるにあらず。又名(またのな)、一名(いちみょう)など云ふが如し。 仁賢即位前紀「億計天皇、諱大脚、字島郎」(顯宗即位前紀「億計王、更名嶋稚子、更名大石尊」) 孝徳紀、即位の時「大伴長徳、字、馬飼」 万葉集、十六廿一「土師宿禰水通、字曰2志婢麻呂1、巨勢朝臣豊人、字曰2正月麻呂1」 同巻六「娘子、字曰2桜子1」 素性集「素性があざなを、よしよりと付けさせたまふ」(袖中抄に、素性法師は、石上良因院に住めりと見ゆ、寺号に由る) 宇治拾遺、二、第十条に、大盗人の、世の人に、あざな袴垂と言はる、とあるなどは、醜名なるべきか。玉薬に「字、伊予内侍」字、弁内侍」などあるは呼名なるべし。寺名にも云ふ。(二)仮名。俗名の類。名字の条を併せ見よ。
霊異記、中、第十一縁「紀伊国、伊刀郡、桑原、云々、彼里有2一凶人1、姓文忌寸也、字、云2上田三郎1矣」(聖武天皇の頃の人なり) 玉海、安元三年四月廿日「平利家、字、平治、同、家兼、字、平五、田使俊行、字、難波五郎、藤原通久、字、加藤太」
あざな 字 〔前条のあざなを借りて訓とす〕支那にて、人々、名の外に、必ず設くる別名。君、父、師等に対しては、名を称し、他人との応答には、互に、字を称す。 続記、曲礼、上篇「男子、二十、冠而字」 儀礼、士冠礼篇「冠而字レ之、敬2其名1也、君父之前称レ名、他人之前称レ字也」「孔丘、字、仲尼」「諸葛亮、字、孔明」「陶潛、字、淵明」 我が邦にても、漢学する者は、支那に倣ひて、字をつくることあり、然して、古くは、一字にて、其姓氏、可婆禰に配して称するもありき。 続記、廿九、神護景雲二年五月「頃見2話司入奏名籍1、云々、取2真人朝臣1立レ字、以レ氏作レ字、云々」 文徳実録、八、齊衡三年四月「氷宿禰継麻呂、字、宿栄」 同、十、天安二年六月「大学助山田連春城、字、連城」 菅原道真、字、三、菅三と云ひ、三善清行、字、耀、三耀と云ひ、紀長谷雄、字、寛、紀寛、文屋康秀、字、琳、文琳、橘広相、字、朝浚。徳川時代に至りて、新井君美、字、在中、荻生雙松、字、茂卿。 古へ、学生の入学の時、式ありて、字をつけたり。 源、廿一、小女七「あざなつくることは、東院にてしたまふ、東の対をしつらはれたり、上達部、殿上人、云々、集ひまゐりたまへり」(源氏の息、夕霧が字をつけたるなり) 花鳥余情「学生の入学の時、文章院の堂監が書きくだす名簿に、字を書くなり」 兵範記、仁平四年三月廿七日、入学名簿「本堂二通、文章博士、堂監廻覧、傍儒注2判書1付レ字」(『大言海』)
諱(いみな)
(一)死後にいう生前の実名。増鏡「後鳥羽院と申すおはしましき。諱は尊成」(二)転じて、貴人の実名を敬していう。「御諱の一字を賜わる」(三)死後に尊んでつけた称号。諡。「のちのいみな」「おくりな」とも。藤原不比等を淡海公、同忠平を貞信公と呼ぶ類。(『広辞苑』第二版)
忌名。(一)死後忌みて呼ばざる生前の実名。(二)転じて、実名。(三)摂関等のおくり名。(『廣辭林』新訂版)
《「忌み名」の意。魔がとりつくことを恐れて生存中は呼ぶのを避ける名の意》(一)貴人の生前の実名。「御諱の字を犯して敵を欺き、御命にかはり進せ候はん」(太平記七・吉野城軍)(二)生前の行状などによって別に定めておくる称号。諡。「のちのいみな」とも。「太政大臣になり給ひぬる人は、失せ給ひてのち必ず諱と申すものあり」(大鏡大臣序説)「諱の宣旨を下して、此より大職冠と申す」(今昔22-1)(『岩波古語辞典』)
〔忌名の義、生曰レ名、死曰レ諱〕(一)人の名を、死後より言ふ称。 字鏡二十三「諱、伊弥名」 仁賢即位前紀「億計天皇、諱、大脚」 大鏡、上、文徳天皇「文徳天皇、云々、いみなは道康」(二)誤りて、実名の敬語。貴人の名の一字を賜はるを、御諱の字を賜はるなど云へり。(『大言海』)
[名に関連する語]
渾名(あだな)
綽号とも書く。容貌・習癖・挙動などによって、その人の実名の外につけた名。あざけりの意味や愛称としてつける。異名。(『広辞苑』第二版)
人の面貌・性質・挙動などにより、実名の外に他人の負はせ呼ぶ名称。(『廣辭林』新訂版)
あだな 〔あだは、他人のあだにて、外より附けたる呼名の意ならむ、或は、毀る意にて、仇名なるかとも思はる、されば、本人の自称する字とは、全く異なり、且、あだなは、後世出来たる語にて、古くは見えず〕人の醜貌、悪癖、非行、失礼などにつきて、他より嘲りてつけたる呼名。即ち、醜名なり。 慶長見聞録、四、当世男髭なき事「頭に毛のなきを、年寄のきんかつぶり、はへすべり、などと、あだなに云ひて、若き人たち笑ふ」 古くは、藤原道兼を七日関白、藤原済時を空拝大将、徒然草に見ゆる伐株僧正、堀池僧正、又、徳川綱吉を犬公方など云ひしも、あだななるべし。 俚言集覧、あだ名「混号、咳余叢考、世俗軽薄子、互相品目、輙有2混号1」(『大言海』)
徒名(あだな)
うはきの名。むじつの名。(『廣辭林』新訂版)
(一)浮気だという評判。浮いた噂。「またも徒名は立ちぬべき御心のすさびなめり」(源氏夕顔)「しのばば目でしめよ、言葉なかけそ、徒名の立つに」(閑吟集)(二)無実の噂。「徒名立つるは怖い鰐口」(俳句・俳諧三部抄中)(『岩波古語辞典』)
異名(いみょう)
(一)本名または本来の呼び名以外の名称。別名。三月を「弥生」と言う類をも含む。(二)あだな。徒然草「信濃前司行長、云々、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを」(『広辞苑』第二版)
(一)本名の外に別にある名。いちみゃう。べつめい。かへな。(二)あだな。渾名。(『廣辭林』新訂版)
異称の別名を云ふ。(『大言海』)
浮名(うきな)
よからぬ評判。いろ事などのうはさ。(『廣辭林』新訂版)
《もとは「憂き名」。多く恋に関していう。次第に「浮き名」と意識され、浮いたうわさの意》(一)いやな名。「人古す里をいとひて来しかども奈良の都も浮き名なりけり」(古今986)(二)いやな評判。わるいうわさ。「いやしき名とりて人の国へまかりけるに云々。忘るなといふに流るる涙川浮き名をすすぐ瀬ともならなむ」(後撰1335)「浮き名のある程は流しはてて」(明徳記下)(三)(恋に関する)つらい評判。また、浮いたうわさ。「あはで浮き名の名取川」(閑吟集)「人の浮き名や芝居争ひ」(俳句・大坂一日独吟千句)(『岩波古語辞典』)
諡(おくりな)
贈名。人の死後に、その徳をたたえて贈る称号。後の諱。諡号。(『広辞苑』第二版)
人の死後、其徳を称して追贈する号、義公・烈公などの類。(『廣辭林』新訂版)
(一)死後にその人の生前の徳や行状をあらわしておくる名。「又、宇多より後、諡を奉らず」(神皇正統記冷泉)(二)戒名。「寺院遠ければ諡を求むる方もなくて」(雨月二)(『岩波古語辞典』)
幼名(おさなな)
幼い時の名前。元服前の名。わらわな。ようめい。(『広辞苑』第二版)
元服以前の名。幼時の名。「八幡殿の幼名をば源太とぞいひける」(平治上・源氏勢汰へ)(『岩波古語辞典』)
をさなき時、仮に称する名。元服して実名を定む。わらはな。えうみゃう。童名。小字。幼字 書言字考節用集、四、人倫門「小字、をさなな」 四季草、秋草、上、姓名「古は小童にをさな名あり、わらは名とも言ひ、元服已前の名也、是貴賤ともに同じ、元服の日、何太郎、何次郎と名のりて、実名を付くるなり」 伊賀越道中双六(天明、近松半二等合作)六「此の書付は、鎌倉八幡宮の氏地の生まれ、をさな名は平三郎」(『大言海』)
戒名(かいみょう)
(一)戒を受け、俗名を改めて、授けられる名。(二)僧が死者につける法号。法名。鬼号。(『広辞苑』第二版)
(い)受戒によりて得たる法諱。得度後の名。(ろ)死者に附くる法号。(『廣辭林』新訂版)
(一)受戒した人につける法名。「もとより法師なれば、御辺たちは戒名せずとも苦しかるまじ」(義経記七)(二)死者に付ける法号。「戒名を付け、過去帳に写し、回向して得させん」(浄土・大原問答四)(『岩波古語辞典』)
法名の条を見よ。(『大言海』)
改名(かいめい)
「かいみょう」とも読む。名を改むること。 保元「同名悪しかりなむとて忠真と改名せられて」(『広辞苑』第二版)
号(ごう)
(一)名称。呼び名。また、列車・航空機・艦船などの名の下に添えて用いる。「屋号」「ひかり号」(二)学者・文人・画家などが、本名・あざなのほかに用いる雅号。(『広辞苑』第二版)
(一)となへ。名称。(二)おくりな。諡名。(六)文人・学者などが、名叉は字の外に附したる称呼。「号は山陽」(『廣辭林』新訂版)
(一)名。となへ。しるし。 史記、孔子世家「竊2仁人之号1」「国号」屋号」(二)支那にて、名、字、の外に設くる称。詩文など、風雅の用とす、雅号とも云ふ、多く、住地、住宅の称など用ゐる。「宋蘇軾、字、子膽、号2東坡1」 我が国にても、これに倣ひて、学者、文士など、皆、設く。俳名、表徳など云ふも、是れなり。(『大言海』)
実名(じつめい)
じつみょう。本名。(『広辞苑』第二版)
俳名・雅号又は芸名などに対して、実際の名前。本名。(『廣辭林』新訂版)
俗名(ぞくみょう)
(一)通称。俗称。(二)在俗の時の名。(『広辞苑』第二版)
《「法名」の対》出家する前の名。在俗の名。「還俗せさせ奉り、大納言大輔藤井松枝と俗名をぞつけられける」(平家二・座主流)(『岩波古語辞典』)
(一)アザナ。仮名。通称。俗称。 源氏家訓、書證篇「今依2附俗名1」(二)仏家にて、法名、戒名に対して、其人の在俗の名。 狂言記、路蓮坊主「名は、今までの名が良うござる、いやいや、出家の、俗名ではなりますまい、是非とも、附けて下され」(『大言海』)
通称(つうしょう)
(一)普通にとなえる名。とおりな。(二)一般に通用する名称。(『広辞苑』第二版)
(一)普通にとなふる名前。俗称。(二)一般に通ずる名称。とほりな。(『廣辭林』新訂版)
- 【通名】(とおりな)
- 世間一般に通じ用いられる名。通称。(『広辞苑』第二版)
- 世に通じて用ひ知らるる名前。通称。(『廣辭林』新訂版)
名前(なまえ)
(一)氏名。特に苗字に対して、名。(二)名称。名目。名義。(『広辞苑』第二版)
個人の名称。姓名。(『廣辭林』新訂版)
法名(ほうみょう)
(一)仏門に入って僧となる人に、その宗門で授ける名。(二)死者におくる名。戒名。(『広辞苑』第二版)
出家・受戒の時、俗名を改めて授けられる名。戒名。法号。「未だ頭を剃らずといへども、十重禁戒を受けて、法名を定めて定真といふ」(今昔一五ノ四四)(『岩波古語辞典』)
仏門に入りて僧となれる人に、其宗門にて、別に授くる名。(俗名に対す)在俗にても、其宗門帰依の人なれば、生前、死後、共に授く。又、戒名。法号。法諱 又、法名の外に、所得の道を表はす字として、道号を附することあり、禅宗にて、中世後の式なり。(『大言海』)
事物の起源・由来
安倍川餅(あべかわもち)
駿州府中阿部(安倍)川の端に阿部川餅とて名物の餅あり。都鄙の知れる事ながら変りたる餅にもあらず。有徳院様には度々御往来も遊ばし御上りにも成ていさゐ御存故、「阿部川餅やうの餅は通途になし」との上意なりしに、其頃御賄頭を勤めし古郡孫太夫、其先文右衛門迚駿河の産にて御代官を勤めけるが、「右阿部川餅は、不二川の流を養水にいたし、富士の雪水を用て仕立し米性なれば、外とは別段也。文右衛門代より駿府に持地ありて右餅米を作り侯間、取寄仕立可申」とて、則駿府より餅米拾俵とやらを取寄、献上して餅となして献じけるに、殊之外御称美ありし故、いまに其子孫より右不二の餅米拾俵づゝ年々献上ある事也。右孫太夫は其後段々昇進して新田十分一を高に直し下され、西丸御留守居まで勤、九十歳にて物故あり。予も知る人にてありし。(『耳袋』巻之三)
『広辞苑』(第二版)には安倍川餅として、安倍川の名物と有り、焼餅を湯に浸してきな粉・砂糖をまぶしたものと有る。我が家も「あべかわ」と称してきな粉・砂糖をまぶして食するが、上の文を読むと本来の「安倍川餅」は安倍川近辺で取れた餅米で搗いた餅を云うようだ。大槻文彦著の『大言海』には、「〔東海道、駿河国、安倍川の辺にて、製して売りて、名物とせらるるに起る〕餅を焼きて、砂糖蜜をつけて、きなこに塗したるもの。きなこには、塩を加へ、青海苔を焼きて粉にしたるものなど、混ず、即ち、きなこもちなり。略してあべかは」とある。
居酒屋(いざけや)
居酒(いざけ)というのは店先で酒を飲ませることをいい、宝暦頃(1751~63)鎌倉河岸の酒屋豊島屋が店先で一杯酒を飲ませ、肴に田楽を売ったことから始るという。やがてこの真似をする店が多くなり、寛政頃(1789~1800)になると、煮売屋で居酒をさせる煮売酒屋が現れた。同じ頃、江戸屋敷の長屋へ弁当を届ける飯屋商売が現れ、そこでも居酒をさせるようになった。このような店で酒を飲むというのは、水茶屋や料理茶屋などで飲めない人々か自宅で落着いて酒が飲めない人のためであったので、良い家の旦那衆が来るわけではなく、扱うものも安酒であったという。この飯屋兼居酒屋がもっぱら店先に縄暖簾をかけていた事から、居酒屋には縄暖簾というスタイルが後世定着した。(林美一『時代風俗考証事典』)
現代では「居酒屋」を[いざかや]と読み、『広辞苑』(第二版)ではこれを、店先で酒を飲ませる酒屋。また、安酒を飲ませる店とあり、上記の居酒屋(いざけや)のことを言っているが、こうした酒屋の店先で飲ませる店や縄暖簾の店というよりも、「赤ちょうちん」の小さな飲み屋をいう事が多い。また、チェーン店の飲み屋が現われ、これなど「居酒屋チェーン」と称している事から、もっぱらこうした居酒屋チェーン店や「赤ちょうちん」の飲み屋をいうようになった。
岡引(おかひき)
岡引(おかひき)。岡っ引(おかっぴき)。目明し。町奉行所の与力、同心が私的に使っている町方の下役・手先。元は捕えた罪人の中から才覚のある者を使い、盗人や博徒などの穿鑿をさせた事が始まりで、三甚内の一人とされる鳶沢甚内が江戸の岡引の最初か。また向坂甚内も一時盗賊の穿鑿に協力させられていた事もある。上方などでは四ケ所者と称される非人が勤め、犯罪者・破落戸の中に入って目を光らせ、密告などをさせていた。この事から目明しと称するようになり、やがて町方の地廻りの親分のような者を与力あるいは同心が個人的に雇い、罪人の捕縛に協力させることから岡引の名が生まれた。このような身分のため岡引が奉行所へ出入りすることはなかったが、時代が下がると小者と称される岡引が現れる。これは同心から奉行所などへ名を知らされた者で、同心の供をして町廻りを行い、十手や捕縄を持たせてもらっていた。三田村鳶魚氏は、同心にはこれらの小者が二人ほどいて、年一分の給金を払っていたという。しかし、こんな給金で生活できるわけも無く、強請やたかり、恐喝などで暮していたのが実情。岡引の子分を下っ引という。また、各村々には目明し番太と称される岡引がいた。
岡引の岡は岡場所、岡惚れなどと同じ傍(おか)の事で、局外、かたわらなどの意。隆慶一郎は「岡」を「仮り」として、同じような意味合いで言っているが、岡目八目という言葉もあるように、「岡」は「傍」(はた)という意味が正解だろう。
古しへは公にも目あかしを遣ひ給ふ事あり。一名おか引と唱へ、一旦盗賊の中間に入て盗を業としける者を、其罪を免し悪党を捕る一助となす事也。然るに元来悪党の事故、己が罪をまぬがれん為め、「かゝる盗賊の有所を知りたり」、「かく/\の悪党を捕へ申させん」などいひて、却て罪なきの人を捕へ己が罪を免がるゝ類ひ多し。依之有徳院様御代より、おか引・目あかし等の事堅く禁じ給ひぬ。しかれ共私領には其後も此役をなせる類のものあり。尾州家に仕へし者語りけるは、いつの頃の事にや、元来盗など為せるもの其志しを改めしを、同心の支配に申付て盗賊の防ぎをなし給ひしに、或日名護屋の町に同心・与力の類ひ右之者を召連茶屋に寄りて休息せしに、年頃五十余りの禅僧、モウスと云へる頭巾やうがもの冠りて、ばん僧両輩召連荷を持し家僕など一同六、七人にて通りしを、彼目あかし見て、「あれは盗賊ならん、召捕へ給へ」といひしが、「出家の事殊に僧侶の召遣ひも見ゆれば、麁忽の事ならん」と申けるに、「右主人分の出家と外々の者上下の階級なし。伴僧両人衣体の着ぶり出家に非らず」と達て進めし故、与力・同心立寄りて咎め押へけるに、案の如く伴僧・僕卯など逃出せしを不残召捕ひ、主僧のモウスを引放しみけるに、ばち鬢の大奴也。段々吟味なしけるに、道中所々徘徊なせる大盗人にてありしとや。或時彼の目あかし、家中の若き人/\を連立て物詣なしける時、「其方はいにしへ盗をなしけるよし。何ぞとりて見せよ」と若き人申ければ、「今は如斯召仕れ妻子を安楽に養ひ候事、ひとへに天道の助け給ふ事、聊にても古しへの業致すべき心なし。併慰の事に候間其真似をいたし申さん」と、「代銭を払候共、其品を返し候共、跡にて能々取計給へ」迚、所々一所に歩行けるが、暫くありて、「御慰の品盗取たり」といひて見せけるに、大なる一番摺鉢を盗て見せける故、各大に驚き、「かゝる大き成品を如何いたし盗し哉」と尋ければ、「右瀬戸物の店へ各寄り給ひし時、手に持し編笠を摺鉢の上へ冠せ置、各帰り給ふ時摺鉢共に編笠を持出たり」と語り、かの代銭を僕に為持瀬戸物屋へ遣し払ひけるに、瀬戸物屋にて右すりばちの紛失をいまだ知らで有りしとや。(『耳袋』巻之三)
町奉行盗賊改にて捕へたる咎人の中に、利口弁佞なる者を助置て、大逆無道の者の住所を尋問を目明しと云、此目明しといふ者、其始余程古き事と見へて物茂卿も嘆息せり、目明の事を今は下賤ニて岡引といふ、徂徠が云し如く、本来悪者なれば様々の悪事をする事、これ始より知たる筋ニて、世の害になる事も又大也、依て享和元年の夏岡引の類不レ残召捕、根を絶すべき由を命ぜらるにより、数百人皆入牢して旧悪を糺し、咎の軽重によつて其罪科を定、罪一等を減じて夫々に申渡ける、町奉行ニては岡引といふ者なからんには末々行届難き事多かるべき趣を申上たりといへ共、其儀は用ひられずとぞ、されどもこれらの者絶て用る者なからんには悪徒の心弛りて世中静なるまじ、又遣ふべき時節至らん事必せりとて、其中ニも才ありて身持取所あるをば密に赦し置けるとぞ、(『享和雑記』巻二の二十五)
瓢水コラム
[目明しは被差別民が担っていた!]
隆先生の追悼対談の席上、網野善彦氏(1928‐2004)は縄田一男氏に対して、「縄田さんは、『捕物帳の系譜』(新潮社刊)で捕物帳についてお書きになっていますが、目明しは、被差別民でもあるわけで、捕物帳は時代小説のなかでは、ちょっと特殊な位置を占めていたと思うのですが」と語っている(『隆慶一郎読本』、42頁)。そこで、武陽隠士『世事見聞録』より関連箇所をひとつ。
「非人の類も上方筋はいづれも身上よく暮し、扉門・玄関を構へ、突棒・刺股・捻り・十手・捕縄・棒などを並べ、かの役筋のもの、火付け・盗賊そのほか悪党を捜し出し、また搦捕りなどする手先に仕ふ故、おのづから公儀の役人の如くなりて、ひたもの権威を振り、悪党を捜すとの名目にて、町家へ案内もなく踏み込みて、さまでなき事をむつかしく申しかけて穿鑿する故、平人怖ぢ恐るる程の事なりといふ。逆様なる事どもなり。これらも表向き悪党を捜し出す体にして内証は物取りにて、また常に博奕の本などいふものを取り、また拘引(かどわかし)・夜盗などの運上を取るなり。国々の非人みなこれに類し、また国によりては帯刀をも致す所もありて、みな優美に暮すなり」(武陽隠士著/本庄栄治郎校訂/奈良本辰也補訂『世事見聞録』岩波文庫、386‐387頁)。
どうやら目明し(岡っ引)の役は被差別民が担っていたようだ。しかし、元禄の頃から目明しの不法行為や“にせ目明し”が横行し、正徳2年(1712)以降に目明し禁止令が相次いで出され、並行して通常の私人も目明しに用いられるようになったと云う(『国史大辞典 第13巻』、716頁)。とすると、半七親分や銭形平次、人形佐七などは“私人”という設定なのだろうか。(2004年10月2日瓢水記)
十手(じって)
十手(じって)。真鍮製で鈎手の付いた警棒のような捕具。町奉行所の与力・同心、火付盗賊改の役人、関東取締出役(関八州廻り)などの幕府役人が持つ。十手の房の色は、八州廻りの役人が紫あるいは浅葱色で、他は朱色とされる。町方の岡引は十手を持たないが、村々にいた目明し番太は朱色の房のついた長めの十手を持った。小者の十手には房がない。定寸は一尺五寸。短い物は九寸、長めの物は一尺七八寸とされる。
時代考証家の林美一氏によれば、久松祐之撰の『近世事物考』に「当世刑罰の具に、俗呼で、じつていと唱ふる物有。是は至て後世の物にて、慶安年間(1648~51)清朝より陳元贇(ちんげんいん)といふ唐人来りて、或浪人三人に、人を捕へる法とて、十手の法を教たり。其法は今定かに伝はらずして、只此具にのみに、じつていといふ名のこれり。されば、かゝるあて字を書て、義に叶ひたる文字なし。」とあるのが資料に現れる最初という。また、十手術をもたらしたとされる陳元贇は我が国に拳法を伝えた人物としても知られる明の詩人で、寛永五年(1628)、戦乱を避けて日本に渡来し、寛文十一年(1671)に没したとあり、このことから奉行所等の役人が十手を持つのは、早くても慶安以降の事としている。
ここで林美一氏は陳元贇が来日した時期を寛永五年としているが、斉藤月岑『武江年表』、喜多村信節『喜遊笑覧』には、陳元贇の来日を、朱舜水等が明の戦乱を避けて来日した万治二年(1659)と同じ頃としている。『武江年表』の万治年間記事には「○明人陳元贇、彼国の乱を避けて本邦へ来り、江戸三田台町永寿山国昌寺に偶居す。其の時浪人福野七郎右衛門、磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門等に語りけるは、明に人を捕ふる術あり。我其の技を見るにしか/\〃なりといふ。三人此の術を聞き、其の態を工夫す。起倒流柔術の始め也(元贇は寛文十一年六月九日、八十五歳にして尾州に終れり。起倒流柔術福野氏より寺田氏某に伝はり、寺田氏より滝野貞高に伝はる。貞高の門人比留川某又加藤長正に伝ふ。長正は安永中の人にして、門人千余人に及べりとなり)。」とあり、『近世事物考』と似たような内容が記されている。十手術と起倒流柔術の違いはあるが、陳元贇が「人を捕ふる術」を伝えたことは確かなようだ。
十手(じって)
捕手の用ゐる具、鉄製の短き棒にて、鉤あり。手木。(柔捕の条、見合はすべし)
柔捕(やはらとり)
〔太刀打の強きを用ゐず、手にて闘ふ故の名なるべし〕じうじゅつ(柔術)の旧称。略して、やはら。世に、柔術は明の陳元贇より伝はれりと云ふは非なり、寛永以前よりあり。元贇の我が邦に渡りしは、万治二年にて、其伝へたるものは十手の術なるべし。浪人福野七郎右衛門、磯貝次郎左衛門、三浦與次右衛門等、其伝を受け、更に工夫を加へて、一術となす、これ起倒流の初なり。(喜遊笑覧)今の柔術は、柔道とも云ひ、身心の鍛練を主とし、併せて敵に対して、攻撃、防禦の術を修得するを目的とす。其手段として、道場に於て、形を演じ、乱捕を行ひ、其勝負の原理を探究す。其種類は柔の形(十五本)、投の形(十五本)、固の形(十五本)、極の形(廿本)、五の形(五本)、剛柔の形(十本)、古式の形(廿一本)などあり。何れも相手の力を利用して、之を負かすにあり。捕手。柔術。体術。拳法。 悔草(正保)「我などは、やはら取手や棒などをあらまほし」 洞房語園(庄司道恕)「野村玄意、柔気(やはらとり)一流の祖にして、剣術の名人一橋如見斎の弟子、住2新町1、後江戸町」 丹波與作(宝永、近松作)中「與作は取手、やはらとり」(以上『大言海』)
酒器(しゅき)
江戸時代の時代劇で、居酒屋や屋敷内、あるいは旅籠であっても酒を飲むシーンにはほとんど燗徳利が出てくるが、燗徳利が使われるようになったのは天保年間の末頃(1840)になってからとされる。それまではもっぱら銚子やちろり(銚釐)が用いられ、明治になるまでそれらが主流だった。江戸期の絵本や草双紙などでも安政四年(1857)刊本の挿し絵には、料理屋はちろりで燗をし、それを鉄銚子に移す様子が描かれ、茶屋や酒屋ではちろりで燗をしてそのまま盃に酌をしている図が描かれている。
銚子は木製あるいは銅製で、長い柄のついた、現代では結婚式などの礼式で使われるものを云う。その後鉄瓶になり、柄の代りに吊り手がついた土瓶形のものをも云った。寛政期(1789~1800)に染め付けの磁器で作られたものが現れ、やがて飲み切り形の徳利(一合徳利など)が生まれる。現代では徳利を銚子と称しているが、これは明治以後に安価な工業生産の陶磁器製の徳利が生産され、酒の燗の主流となったことから称されるようになった。また初期の徳利は筒型で、燗鍋に入れて燗をした後、袴と呼ばれる主に四角い箱形の徳利置きに置いた。ちろりとは酒を温める銅あるいは真鍮製の容器で、大きいものは五合ほども入れられる。
盃は木製の塗盃が一般的には用いられ、磁器製の猪口が生まれたのは燗徳利が生まれた頃とされている。この他、現代では見られない盃洗いの水を充たした丼用の器がこの頃生まれている。このように1800年代になって陶磁器の酒器が現れるが、銚子と塗盃が正式な酒器とされ、徳利と猪口は略式であったことから、近代まで武家などでは銚子と塗盃が用いられていた。(林美一『時代風俗考証事典』)
大八車(だいはちぐるま)
代八車。八人の代りをなす意。荷物運搬用の大きな二輪車で二、三人でひきもの。江戸前期から用いられた。(『広辞苑』第二版)
代八車 大八車 〔車の力、八人に代る意と云ふ〕荷車の一種。大きくして、二三人にて牽くもの。 諸艶大鑑(貞享)「大声に笑ふは、代八車の如し」 江戸名所記(了意)五、芝、泉学寺「牛に代り、八人して引く」 白石紳書、八「創意の人名、大八による」(『大言海』)
寛文年中、江戸にてこれを造る、人八人の代をするといふを以、代八と名付、今大八と書、その頃御殿中にて、人をして馬のことくならしむと、戯の御沙汰ありし也 補注:江戸名所記云、此頃は地車と云ものを始めて牛をかけず車に荷物を載て人八人してこれを引、江戸中我も/\とこしらへてその車の名を代八と名づけて用ゆ、牛に代りて八人してひく故なり 白石紳書に明暦の火后小石川などの築地を築くとき大八と云もの土を運ぶ車を作り出とありて人名也(『近代世事談』巻之二)
大八車の語源については、人八人の代りとなる所から来ているという説が、最も有力と思われるが、『大言海』および『近代世事談』の補注に引用された資料の記述を見ると、「牛に代って八人の人間で引く車」説、「考案者の名前」説もある。また、大八車が生まれたのは、江戸前期あるいは寛文年中頃とされるが、当サイトの「城郭・寺社一覧」(摂津国編)『伊丹城』の中で、天正六年(1578)、荒木村重が信長に叛いた時、信長の怒りを買った「村重ら重臣やその家族を大八車に縛り付け京市内を引き廻した末、六条河原で打首に処した」と記述し、天正年中には大八車があったことにしている。この記述は、参考とした資料の記述をそのまま流用したもので、間違った記述なのだろう。
沢庵漬(たくあんづけ)
公事に寄りて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧禅師の事物語りの序に、世に沢庵漬といふ事は、東海寺にては貯漬と唱へ来り候趣、大猷院様品川御成之節、東海寺にて御膳被召上候節、「何ぞ珍敷物献じ候様」御好みの折から、「禅刹何も珍舗もの無之、たくわへ漬の香の物あり」とて、香の物を沢庵より献じければ、「貯漬にてはなし。沢庵漬也」との上意にて、殊之外御称美有りし故、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を青貝にて麁末なる塗の重箱に入て持参相納けるよし。今に安左衛門が家に右重箱は重宝として所持せしと、彼老僧の語りはべる。(『耳袋』巻之四)
束の間(つかのま)
○つかのまと云ふ諺あり新古今の歌にも
- 夏野ゆく小鹿の角の束の間もわすれぞ思ふ妹が心を
八雲抄曰束のまとはくさかりてつかぬほどの間なりと。玄旨の鈔に小鹿の角つかのまとは、鹿の夏になりてあたらしく角を生ずる時一束斗に短きを云ふ。季吟の説にはつかの字握の字にかきたらばよからん。十握の矢五握の劔と云ふこと上代の書にあり。(『見聞談叢』巻之一)
死に関する詞
崩(ほう)
天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去にいう語。昔は上皇・法皇にもいった。(『広辞苑』第二版)
- 【崩御】(ほうぎょ)
- 崩の丁寧語。
晏駕(あんが)
天子の死ぬこと。天子が朝出られないのは、晏(おそ)く車に乗られるのだと、崩御を信じない臣下の赤誠を示した語。(『広辞苑』第二版)
一、帝の崩ずるを晏駕と云ふは、心如何。
史記に、宮車一日晏駕云々。韋昭云、凡初于崩為2晏駕1者、臣子之心猶謂2宮車1当駕而晩出といへり。晏はをそきなり。かえいでたまふべきに、などをそきぞとおぼゆる心にや。(『塵袋』九)
薨(こう)
薨去(こうきょ)。
皇族または三位以上の人の死去にいう語。
- 【薨御】(こうぎょ)
- 薨去の丁寧語で、親王・女院・摂関・大臣の死去に用いる。(『広辞苑』第二版)
逝(せい)
逝去(せいきょ)。
他人の死去の尊敬語。(『広辞苑』第二版) 賢人君子に用い、薨と卒の間に位置する語。丁寧語は御逝去。
卒(そつ)
卒去(しゅっきょ)。「そっきょ」と読む場合が多いが、正しくは「しゅっきょ」。
四位・五位の人の死去をいう語。(『広辞苑』第二版)
死(し)
死去(しきょ)。
死ぬ事。(『広辞苑』第二版) 六位以下、平人の死去。
[薨・卒・崩・逝の使用別]
○本朝の令に親王及三位以上の死し玉ふを薨と云ふ。五位以上及び皇親を卒と云ふ。六位より平人までを死と称す。勿論天子は崩と称す。しかれども崩御薨御と称することは昔より次の世話にとは令には見へず。逝去なんどの字も令にもみへず近来のあがめくることばにて、薨と卒との間に用ふ。漢土にても逝と用ふるは、賢人君子などの死せるを称すれば、これも卒よりまさりて見ふるなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
その他の同義語・関連語
【隠れる】(かくれる) 隠る(かくる)。高貴な人が死ぬ。おなくなりになる。
【亡くなる】(なくなる) 無くなる。死ぬ。(『広辞苑』第二版)死亡。
【没する】(ぼつする) 没。死没する事。(『広辞苑』第二版)没年。死没。
【末期】(まつご) 死に際。臨終。(『広辞苑』第二版)
【身罷る】(みまかる) 死ぬ。(身が現世からあの世へ罷り去るの意)(『広辞苑』第二版)
【夭札】(ようさつ) 若死。夭、札は天寿をまっとうせず死す事。札は病気で亡くなる意。夭折(ようせつ)。夭逝(ようせい)。
一、夭死とは非分に死するを云ふか。
つねにはさおもへり。但し、年未三十而死、曰レ夭。呂向云、二十以下死者曰レ殤釈せる事もあり。これにて思ふには、三十よりのちに死むをば、夭死とは云ふまじきかと覚ゆる也。或は、二十にをよばざるをば短と云ふ。六十にをよばざるをば折と云ふ。尚書に見えたり。(『塵袋』九)
臨終(りんじゅう)
死に臨むこと。死に際。(『広辞苑』第二版)終は、何事もまっとうしてすました意。終焉。
自死関連語
自害(じがい)
自分で自分を害する事。自殺。
江戸期やその前の時代、武士の妻や娘が懐剣を携帯していたのは、辱めを受けるような時に自害する目的だったとされる。
自殺(じさつ)
自らの命を断つ事。
自刃(じじん)
自ら刃をもって命を断つ事。
織田信長が本能寺で火を放ち自らの命を断ったように、戦国期、敵の攻撃で味方が倒れあるいは逃亡し、矢尽き鎗が折れ、もはや戦う術を失った時に多くの城将が取った行動。
心中(しんじゅう)
相愛の男女がいっしょに自殺する事。相対死(あいたいじに)。情死。
元の意味は人に対して義理を守る事をいい、相愛の男女がその意志を示すための証拠として爪や髪などを贈った。切り指などを贈る例もあった。やがて、相愛の男女が情死したことを言うようになる。それがさらに転じ、二人以上のものが共に死ぬ事を言う。一家心中など。また、片方だけ自殺する意志があって、親が子を、夫(妻)が妻(夫)を道連れにするなどの例を無理心中という。
- 【情死】(じょうし)
- 心中と同じ。
切腹(せっぷく)
腹を切って死ぬ事。
切腹は日本人独特の、他民族に類を見ない特異な自殺方法である。『世界大百科辞典』(平凡社)には「腹を切るのは苦痛も多く、致死も困難であるが、自分の真心を人に示すとおう観念、および戦場や人の面前で自殺するのにはもっとも目につきやすく、勇壮であるというところから、この部位がえらばれたのであろう。(平松義郎)」とある。しかしこれは切腹が武士の自殺方法として定着した状態から、逆に理由を推定しただけで、なぜ腹を切るようになったかという説明にはなっていない。『切腹』(昭和三十五年刊)の著者中康弘通氏も「今日までに幾多の研究が行われ、様々の文献が伝わっているにもかかわらず、何時、何人を以て起源とするかさえ、未だ確定的ではない」と書いている。しかし、文献上では、永延二年(988)に死んだ怪盗袴垂保輔が切腹の最初だとされる。彼は源頼光とその家来の四天王に追い詰められ、逃げられないと知ると刀で腹を切ったが死にきれず、検非遣使のもとへ連行され、その翌日獄中で死んだと伝えられている。この事例のようにいくら腹を割いて腸を引きづり出しても苦しむだけで死にきれない方法なのだが、当時は中国から流入した医術の「五臓六腑」という考え方から、人間の身体の重要な部分は腹の中に有るとし、腹に魂が有ると考えたためだろうと林美一氏はその著『時代風俗考証事典』の中で述べている。しかし、この切腹という自殺方法を、武士階級はその後も採用した。この事について林氏は「切腹などするのは最高に痛いめをするだけ愚の骨頂なのであるが、それにもかかわらず鎌倉・足利・戦国と時代が下るにつれて、切腹はますます武士の間に盛んになっていった」と述べ、「切腹は武士のみに実行可能な、意志の豪気さを顕示するための自殺形態であった。弱虫の町人や百姓には出来っこない武士だけの自殺方法だったのだ。「武士らしく切腹する」という思想はこのような階級意識から発する。したがって彼等武士たちは、切腹が自殺方法として必ずしも良策でないとわかりながらも、敢てそれにこだわり、割腹という一つの手つづきを経て、次に死の目的を達するための介錯をうけるという二段がまえの方式を、自然に形成していったのであった。だから本来は充分に割腹をした上で、介錯人に合図して首を打たれるべきものであるが、切腹も江戸期に入り戦乱の集結とともに、ますます式法化し、特に作法がうるさくいわれるようになるのである。」と書いている。
衆
衆(しゅう)
人の多くいる有様。民衆、大衆など。また、複数の人間の集まりをいう。雑賀鉄砲衆、大坂浪人衆など。
一、三人同ぜば衆とせよと云ふ、如何。
周本記云、獣三為レ群。人三為レ衆云へり。又毛詩の注には、羊三百頭2一群1。牛九十頭云々。余獣にはことなるか。(『塵袋』九)
会合衆(えごうしゅう)
後年、年寄・名主等の名で呼ばれる人達で、室町期には津・泊・湊など海に面した都市で倉庫(納屋)を有する豪商を納屋衆と称した。これら納屋衆で、中世自治都市堺の支配者層となった三十六家を特に会合衆という。
堅田衆(かただしゅう)
堅田湖族ともいう。堅田衆とは琵琶湖の海上交通の要衝堅田で自治を行っていた者達をいう。堅田は、琵琶湖の幅が最も狭くなる場所で、鎌倉時代から室町時代に、琵琶湖の漁業権・造船権を一手に握った堅田湖族は、湖岸全域に渡って活動していた。彼らは湖上を航行する船から通行税などを徴収し多大な富を得ていて、その財力を背景に比叡山とも対立した。とくに堅田の地方豪族、刀禰・居初・小月の三家の力は強大で、三家を中心に有力な農漁民が連合し強固な自治を組織していた。また彼等の団結力が強かったのは、彼らが熱心な念仏門徒だったためといわれる。彼ら堅田衆が琵琶湖の権益を独占していたことから、天下布武を目指す信長と対立し、信長の軍勢と争うことにもなった。
蔵前衆(くらまえしゅう)
領国の財政を掌る者達。特に甲斐武田家で財政を担当する者達を蔵前衆と称していたことから、武田の家臣等をいう。
猿楽衆(さるがくしゅう)
領主に召し抱えられ、領主の求めに応じて、猿楽などの演舞を催す人々。特に知られるのは武田家の猿楽衆で、大久保長安の父大蔵太夫などが有名。
町衆(まちしゅう)
一般には、都市の有力町民をいうが、特に京の有力町民をいう時に用いられる場合が多い。
美濃三人衆(みのさんにんしゅう)
氏家木全、稲葉一鉄、安藤守就。美濃国斎藤家に仕えた武勇の者。道三死後、竜興に反発し、信長方につく。
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)
三好長盛、三好政康、岩成友通。摂津国の有力豪族で、一時は三好宗家三好長慶と共に、管領細川晴元を追い落すなど長慶の中央支配に協力し力をつける。やがて長慶が没し、代りに実権を握った三好家の家宰松永久秀と共に将軍義輝を襲って自殺に追い込み、義栄を擁立して十四代将軍につけるなど久秀と共に中央の権力掌握を謀る。しかし、永禄十年(1567)にはその久秀と争い久秀を京から追出し、三人衆が京都を掌握。だが、これも束の間、翌十一年、天下布武を掲げる織田信長が義昭を奉じて上洛すると、三人衆は信長に追われて堺に逃れた。三人衆は堺の会合衆等と結び信長に抵抗し、永禄十二年には本圀寺に陣していた将軍義昭を包囲するが、急遽上洛した信長に敗れ終に平定される。
山県衆(やまがたしゅう)
甲斐武田家の重臣山県昌影配下の赤揃軍団。武田家滅亡後は家康の配下となり、井伊直政に預けられ、井伊の赤揃となる。
商家用語
屋号(やごう)
多くは商家の姓に代る呼名で、その者の出身国名(尾張屋、三河屋など)、氏持ちの者の姓(山田屋、成田屋など)、扱う商品名(茶屋、鍛治屋など)に屋の字を付けて呼んだ。
市井ノ商売、スベテ屋ノ字ヲ用ユルナラハシ、モト戸主ノ二字、アヤマリ併セテ、屋ノ一字トナリシモノト思ハル。東大寺奴婢籍帳ニ、人ノ名ノ上ニ、何〃ノ戸主トシルセリ。件ノ書ハ天平宝宇年中ノモノナリ。(松本愚山『消夏雑識』)
とあり、元は戸主と書かれたものを屋と誤って書いたことから始ったという。
支配人(しはいにん)
手代より昇等するものを支配人と云ふ。即ち一店商業の総宰にして其責任尤も重く、主家商業の盛衰は総てこれが商略の如何に因れり。故に甚しきに至りては、一家の商権及び家政を挙げて、これに負担せしめ、もし其主人放逸の行ひあるが如き時は、或はこれが制限を立つる等のことあり。尤も家により支配人を置かず、手代の筆頭をして、これが任に当らしむることあり。然れども其権限は支配人に異なることなし。(『大坂商業習慣録』上の六)
手代(てだい)
丁稚の半人前より昇等せし者を手代と云ふ。手代は大体十八九歳より以上の者とす。(略)支配人或は番頭の指揮に従ひ、仕入方・売捌方等に奔走せしめ、又取引上自己の見込を立てしむることあり。(略)又店頭にありて種々取引をなし、又客の待遇をなし、或は其係りにより帳簿を預るものあり、出納を掌どるものあり、又これを検査するものあり、主人の外用を代理するものあり、公事に奔走するものあり、賄方を司どるものあり、其役々数種にして家毎に異同あり。且其役柄の軽重により進退陟黜等の典あり。(『大坂商業習慣録』上の六)
丁稚(でつち)
弟子から転訛した言葉。職人・商家に年季奉公をする年少者。主に雑役に従事していた。(『広辞苑』第二版)
番頭(ばんとう)
番頭と称するものは、全く世俗普通手代の上に位する者の呼称とすれども、店頭にある重立たる者を称する迄にして、公然たる名称にあらず。支配人店頭に坐する時は、支配人を指して番頭と喚び、支配人を置かざる商店は、即ち手代の上席なるものを番頭と呼ぶ。蓋し一種の役名なり。(『大坂商業習慣録』上の六)
数字の成句
『三』
江戸三道場(えどさんどうじょう)
幕末期に江戸で尊王・佐幕両志士たちに人気があった剣道場をいう。
北辰一刀流千葉周作の「千葉道場」、神道無念流斉藤彌九郎の「斉藤道場」、桃井春蔵の「桃井道場」をいった。
江戸三年寄(えどさんとしより)
家康が江戸の町作りを行うにあたって、旧領五カ国から移ってきた商人樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門・喜多村彦兵衛の三人を町年寄に任命した。これがいわゆる「三年寄」で、彼等は本町の町割りに参加し、いずれも広大な屋敷地をもらった。
岡崎三奉行(おかざきさんぶぎょう)
本多作左衛門、高力与左衛門尉清長、天野三郎兵衛康景が岡崎奉行に任ぜられ岡崎三奉行と云われる。この三人を評して「仏の高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と云ったとある。「どちへんなし」とは「何方偏無し」ということで、何事にも公平に処したという意。
○三奉行の選用
永禄八年二月、三州一円御手に属し、国民御徳を仰ぐ。此時始て三奉行を定め給ふ。所謂高力与左衛門直高、本多作左衛門重次、天野三平康景なり。高力は性質柔和にして慈悲深く、本多は勇智ありて短慮なり。天野は穏順にして思按深く心長じ、三人合体して御仕置を取行ひ、諸事其宜を得て国内大に服しける。時に「仏高力、鬼作左、善悪知れぬ天野三平」と申はやしけるとぞ。神祖此三人を御選用の事、万世の法と申奉るべし。総じて諸侯封内にいたりても、これに遵由せん事良法ならんかも。(『道聴塗説』)
三綱(さんごう)
諸大寺および朝廷から封戸を寄せられた寺に置いた上座・寺主・都維那(ついな)の三官の総称。『廣辭林』には、「寺内を統領する三種の役僧。僧正・僧都・律師をいい、上座・寺主・都維那をもいう」とあり、また、『広辞苑』には上座・寺主・都維那の他に「上座・維那・典座、寺主・知事・維那」とある。
三綱と云ふは其の心如何。
三綱と云ふは、三あれば也。綱と云ふは、音義指帰に云く、僧如レ綱、仮2有徳之人1為2綱縄1也。三ありと云ふは、一には上座、梵語には悉替那と云ふ。一切の事みな上座に申す。比(正しくは田篇)婆裟論には、三種の上座あり。生年上座・世俗上座・法性上座也。梵網疏云、西国諸小乗寺、以2賓頭廬1為2上座1。諸大乗寺、文殊師利為2上座1云々。一切僧の中の上座也。僧中に分2三座1。九臈以下は下座、十臈以上は大衆のうやまふ所也。
二には寺主、天竺には摩々帝と云ふ。又は比呵羅莎弭と云ふ。寺のことをつかさどる。僧史略云、詳2其寺主1、起2于東漢白馬寺1。東晋以来此職方盛。故梁武帝造2光宅寺1、召2法雲1為2寺主1、創立2僧制1と云へり。
三には都維那を、要律儀には寺護と翻ず。又悦衆と云ふ。又は知僧事、又は知事と云ふ。施主の施物平等に分レ之也。都は惣の義、維は綱、維(つな)の義也。那と云ふは羯磨陀那の終の字也。羯磨陀那をば、こゝには授る事と云ふ。道宣律師、宝梁并(菩薩)大集経を引て云、僧物難レ宰仏法無2生我1、聴2二種人1宰2三宝物1、一阿羅漢、二須陀亘(正しくはサンズイ)、所2以尓1者、諸余比丘戒不2具足1、心不2平等1不レ令下2是人1為2知事1上。更に復二種あり。一能持レ戒識2業報1。二畏2後世罪1有2諸慙1。僧史略云、其仏世、飲光統2衆於霊山1身子位(正しくはサンズイ)2事於竹林1云々。(『塵袋』五)
三種の神器(さんしゅのじんぎ)
三種の神璽。天照大神が、葦原千五百秋瑞穂国(日本)を治める天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に下賜された、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたかがみ)・草薙剣の三種の宝物をいう。以後、天皇が即位する際の祭祀に欠かせぬ祭器となる。
最初は鏡と剣の二つが神璽とされていたが、中国易経の影響で、『日本書紀』編纂の頃には奇数の数字が吉とされ、勾玉を加えて三種としたとされている。
三甚内 (さんじんない)
勾坂(向坂・高坂)甚内、庄司甚内、鳶沢甚内。
また、幕末に菅園という人が書いたとされる『伝衛事記そらをぼえ』には、三甚内として、庄司甚内、富沢甚内、横須賀甚内という名が挙っている。
三尊(さんぞん)
仏・法・僧の三宝をいう。また、中央の主尊と左右の両侍の三仏の総称を三尊といい、主尊を中尊、両侍は脇侍・脇士・脇立などという。(『広辞苑』第二版)
[『塵袋』にある三尊の記述]
一、三尊と云ふは、脇士二体、中尊一体の仏像に限るべきか。
必しも仏像のみには非ず。聖教の中には、仏法僧の三宝を、三尊と云ふ。儒教には父と師と君と、是を三尊と云ふ。非レ父不レ生、非レ師不レ学、非レ君不レ仕と云へる是也。(『塵袋』七)
- 【釈迦三尊】(しゃかさんぞん)
- 釈迦如来と脇士として文殊・普賢の両菩薩、または薬王・薬上両菩薩を従えた三仏をいう。
- 【弥陀三尊】(みださんぞん)
- 阿弥陀如来と脇侍する観音(観世音)・勢至両菩薩の三仏をいう。
- 【薬師三尊】(やくしさんぞん)
- 薬師仏如来と脇士の日光・月光両菩薩の三仏をいう。
三弾正(さんだんじょう)
高坂(勾坂、向坂)昌信、真田幸隆、保科正俊を武田家の三弾正といった。同じ弾正でも昌信は「逃げ弾正」、幸隆は「攻め弾正」、正俊は「槍弾正」と呼ばれている。
ちなみに「鎗の弾正」保科正俊は、保科正之の養父となった信州高遠城主保坂正光の祖父にあたる。
三中老(さんちゅうろう)
生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴の三人で、豊臣政権末期、政事に参与する役として設けられ、五大老と五奉行の意見が合わないときに調和した。
三目代(さんもくだい)
家康の関東入国にあたって、地方巧者として関八州の検地や灌漑・治水工事・街道整備などの領国経営にあたった伊奈忠次・大久保長安・彦坂元正の三人の代官頭を指していう。
天下三美少年(てんかさんびしょうねん)
文禄・慶長期の三大美少年。豊臣秀次の小姓不破万作、蒲生氏郷の小姓名古屋山三郎、そして浅香左馬之助の三人を称した。
和歌三神(わかさんしん)
和歌の三大神様。住吉明神、玉津島明神、柿本人麿。また、柿本人麿、山部赤人、衣通姫を云う。
『四』
四神(しじん)
四方の神、即ち東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武の称。四獣。(『広辞苑』第二版)
一、地相に四神具足と云ふは、四神の体なにものぞ。
北斗の曼陀羅に、貪狼星を図するには、四方に四神をかけり。朱雀にはあかきすゞめをかきならわせり。其の名を思ふには、すゞめ相違なし。但し、書の中に四神をあかすには、朱雀と云へり。鳥は鳳也と釈せり。雀の字をば鳥の惣名と釈したる事あり。又雀を鳳也と云へる事もあり。銅雀とかけるは、あかゞねの鳳凰也。されば今の朱雀も、実には朱鳳にてあるべきにや。朱雀錦と云ふにしきも、鳳錦也。鳳凰を文にをくりつけたる物也。雀を鳳とする事、その例一にあらず。朱雀の一名は長離也。離は南なれば南に長じたる神と云ふ心にて、長離とは云ふにこそ。前朱雀と云ふは、前は南なり。南は火方なれば、陽の鳥にあたる。鳳は火の精なるゆへに、南方の神也。すゞめは卑劣の小鳥にて、火方の神とするにたらざるか。雀を図する事は、道理おぼつかなし。
後玄武と云ふは、後は北方也。又玄冥と云ふ、黒色也。玄武の神は亀也。但し或は亀と蛇と交るを玄武とすとも云へり。
左青龍と云ふは、東方の青色也。又青澗となずく、青色の龍也。
右をば白虎とす、西は白色也。一名は素威、素と云ふは白也、威と云ふは猛虎の威也。
四方は四季にかたどれり。四季に各の一徳あて、万物を長ず。春の徳は雨也。草木等を生ずる源なり。龍は雨をつかさどる故也。夏の徳は暑也。あつきによりて万物滋長す。陽鳥これをつかさどるべし。秋の徳は風也。風は物をかたくするちからあり。虎は又風の主也。冬の徳は寒也。寒によりて其の地味をます。北方は陰にして寒をいたす。玄武のかめ水方に居して、よく陰をつかさどる。冱陰の長也。是をあはせて四神の徳とす。(『塵袋』一)
四諦(してい)
○四諦と云ふこと仏教にあり、苦諦、集諦、滅諦、道諦。去る僧にきけるに略して示しきかさん。曰く、苦諦はこの身は苦果の依身なり。過去の悪業煩悩の因に依て、今生におひて如此苦をうくると知るなり。集諦とは業煩悩なり。衆生の苦果をあつむるものは煩悩ぞとしるなり。これまでは世間の因果なり。滅諦とは煩悩を滅して無為無漏の果を得るなり。これより出世のさとりなり。道諦とは戒足酸慧等の種々の法門をまなんで涅槃の臺に至る故に道と名くるなり。この四つの諦の字を付ることは諦とは審実不虚の義なり。四の理を実のごとくあきらめしるゆへに諦の字を加ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
四天王(してんのう)
[一、仏]帝釈天の外臣なる持国天・増長天・広目天・多聞天、須弥山の中腹なる四王天にありて、各部下に八将軍を具し、これを派出して四天下を巡り仏法出家を守護すといふ。[二]配下又は門下の中にて、武勇又は技芸の最もすぐれたる四人。「頼光の四天王」「和歌の四天王」など。(『廣辞林』新訂版)
○仏家に四天王と云ふ事あるに倣て、本朝に多く四天王と云ふことを立てたり。正徹書記が物語も、和歌の四天王とて兼好、頓阿、慶運、浄弁を称す。慶運法印が集、徹書記が集珍書の由を伝ふるが、先子和歌をこのめるゆへ、古義堂にはあり。謌の外にての四天王頼光の臣下にもあり。又義経の臣下の四天王には、鎌田藤太盛政、同藤次光政(二人共に政清が子)、佐藤嗣信、同忠信(二人共に佐藤庄司が子)、木曽義仲の臣下の四天王には今井、樋口、楯、根井。義貞の臣下の四天王には瓜生、篠塚、畑、亘。この外近代にもあり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
- 【徳川四天王】(とくがわしてんのう)
- 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人をいい、酒井氏を除いた三人を、とくに三人衆とも呼ぶ。
『五』
五大老と五奉行(ごたいろうとごぶぎょう)
秀吉は永禄四年(1595)、幼年の後継者・秀頼を補佐するための政治機関として「五大老」を設け、政策執行機関である「五奉行」との合議制により、秀吉の晩年から死後に亘って政治の運営に当らせていた。当初、徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、小早川隆景、毛利輝元が勤める。隆景が死ぬと上杉景勝が就任。やがて秀吉が没すると、家康が「五大老」筆頭となり重きをなした。しかし慶長四年(1599)八月には、上杉景勝、前田利長らが相次ぎ領国へ帰国。ここに五大老制度も崩壊してしまうことになる。また「五奉行」筆頭が石田三成で、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政らが勤めていた。
『六』
六歌仙(ろくかせん)
平安末期の和歌の名人。在原業平、僧正遍昭、喜撰法師、大伴黒主、文屋康秀、小野小町の六人をいう。
- 【三十六歌仙】(さんじゅうろっかせん)
- 藤原公任が撰した[三十六人撰]に基づく三十六人の代表的な歌人の事。柿本人麻呂、紀貫之、凡河内躬恒、伊勢、大伴家持、山部赤人、在原業平、僧正遍昭、素性法師、紀友則、猿丸大夫、小野小町、藤原兼輔、藤原朝忠、藤原敦忠、藤原高光、源公忠、壬生忠岑、斎宮女御、大中臣頼基、藤原敏行、源重之、源宗于、源信明、藤原仲文、大中臣能宣、壬生忠見、平兼盛、藤原清正、源順、藤原興風、清原元輔、坂上是則、藤原元真、小大君、中務の三十六人をいう。
『七』
小豆坂七本槍(あずきざかななほんやり)
織田信秀と今川義元が、三河の小豆坂で戦ったいわゆる「小豆坂の戦い」で、活躍したといわれる七人の織田方の武将のこと。この「小豆坂の戦い」は第一次の天文十一(1542)年八月と第二次の天文十七(1548)年三月の二回行われたといわれる。そして、七本槍が活躍したのは第一次の「小豆坂の戦い」で、その顔触れは、織田信光、織田造酒丞、下方弥三郎(貞清)、岡田助右衛門尉(重善)、佐々隼人正、佐々孫介、中野又兵衛(一安)の七人とされる。
しかし、岡田助右衛門尉(重善)を除く六人の名は『信長公記』等に有るが、七本槍という言葉は、『信長公記』や『三河物語』には記されておらず、小瀬甫庵が『信長公記』を脚色した『信長記』に初めて登場することから、「小豆坂七本槍」という言葉は甫庵の創作と云われる。(『歴史読本』1996年10月号所収谷口克広「小豆坂の七本槍」より)
賎ヶ岳七本槍(しずがたけななほんやり)
信長没後の主導権を争って豊臣秀吉と柴田勝家が雌雄を決する合戦を行なった賎ヶ岳での戦い(賎ヶ岳の合戦)で、劣勢となった柴田軍は北の庄へ退却した。その追撃戦で大活躍をした福島正則、加藤清政、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則の七人の秀吉の近習たちをいう。ただこの時、一番槍として功名を上げ秀吉から感状を受けたのは、実際には九人で、上記に加え桜井佐吉と石河兵介一光の二人がいる。これは後に小瀬甫庵が著書(『甫庵太閤記』)の中で、九本槍では語感が悪いので「小豆坂七本槍」を真似て、討死した石河兵介一光と最後に記載されている桜井佐吉を切り捨て、七本槍としたことから、この「賤ヶ岳七本槍」という名称が定着した。
利休七哲 (りきゅうしちてつ)
千利休の高弟七人を指す呼称。『江岑夏書』には、「利休弟子衆七人衆」と言い、蒲生氏郷・高山右近・細川三斎・芝山監物・瀬田掃部・牧村兵部・古田織部を挙げる。
[茶の湯]にある【利休七哲】の項を参照。
党
党(とう)
もとは郷里を現す言葉で、そこの仲間をいう。転じて、親類・縁者をいう。中世、特に鎌倉後期から南北朝期にかけて、中小武士が血縁・地域的に結合した武士の集団が「党」を称した。
武蔵七党(むさししちとう)
武蔵国に在った中小武士団の総称。
平安末期から鎌倉初期にかけて、武蔵在住の武士が組織した七つの集団の称で、一般(『広辞苑』『書言字考節用集』など)には丹治(たじひ)・私市(きさいち)・児玉・猪股・西・横山・村山の七氏を言う。また、別書では横山・猪股・野与・村山・西・丹・児玉(『七党系図』)、丹治・児玉・猪股・私市・西野・横山・都築(『武家職号』)とする上げ方もあり、武蔵七党には都合九氏が上げられている。
丹治党は、また丹党ともいい、祖は高麗氏、秩父氏に遡るという。
私市党は、武蔵私部(きさいちべ)の末で、武蔵国埼玉郡騎西庄から起った。武蔵私部とは、「后の部」(きさいのべ)すなわち「皇妃の封民」という意で、いつのころか皇妃のために武蔵国におかれた封民の末であろうとされる。
児玉党は、藤原氏で、内大臣伊周の二男有道遠峰から四代の武蔵権守家行の子児玉庄大夫家弘を祖とし、武蔵国児玉郡児玉から起った。
猪股党は、小野氏で、敏達天皇の孫小野妹子の流れを汲む小野氏の末説と、天穂日命の裔とされる武蔵国造の末で、武蔵国多摩郡小野郷から起った小野氏の末とする説がある。
横山党も猪股党と同族の小野氏の末で、武蔵国多摩郡横山庄から起った。
西党は、西野党ともいい、本氏は日奉氏。武蔵国多摩郡から起った大族。猪股・横山と同じ武蔵国造の末といわれる。
村山党は、武蔵国入間郡村山から起り、桓武平氏村岡五郎良文から五代の村山次郎頼任を始祖とする説と、西党などと同じく、武蔵の国造の末という説がある。
野与党は、武蔵国埼玉郡野与から起り、村山党と同じく桓武平氏の末とも、武蔵国造の末ともいわれる。
都築党は、武蔵国都築郡から起り、藤原利仁の末の斉藤氏の一族とされる。
松浦党(まつらとう)
源知(みなもとのしる)を祖とし、検非違使として松浦地方に着任した源久(みなもとのひさ)を宗主とした一党。その後発展し、支族五十余家を数える大勢力となった。文永十一年(1274)、元(蒙古)が松浦湾から来襲(元冦:文永の役)した時には、元の上陸部隊に対し松浦党が応戦したが惨敗した。
時
時(とき)
一昼夜の区分。現今は、午夜より正午までを十二分し、午前何時とかぞへて一時より十二時に至り、正午より午夜までを十二分し、午後何時とかぞへて一時より十二時に至る。昔時は、午夜を九つと称し、正午までを六分して、八つ・七つ・六つ・五つ・四つと逆算し、又、正午より午夜までを六分して前と同じく逆算す。此の法は日出・日没を基として「明け六つ」、「暮れ六つ」と定むるが故に、昼夜の長短に従ひて一時の長さ同じからず、又、これに十二支を配当して真夜中を子と定め、丑・寅・卯と数へて午に至れば真昼となり、以下順次亥の刻に至るなり。又、昔時には、日暮より夜明までを五等分して、更と称したることもあり。(『廣辭林』新訂版)
一昼夜を区分した時間の単位。一日を十二支に配して十二分し、いまの夜の十一時から一時までを子(ね)の刻に当て、以下、順次に丑・寅…亥と当てた。民間では夜明け・日暮を明六つ・暮六つとし、昼と夜とをそれぞれ六つ・五つ・四つ・九つ・八つ・七つの六区分とした。夜に限って、初更・二更…五更と呼ぶこともあった。(『岩波古語辞典』)
又、小川清之『老牛餘瑞』には、「○時の数」として以下の文が納められている。
安斎筆記に、昼夜九ツを数の終として、九に時の数を九々にてするなり。たとへば、六時は六九五十四にて、六ツ餘る也。五ツ時は五九四十五にて、五ツ餘る也。四ツ時は四九三十六にて、四ツ餘る也。九ツ時は九々八十一にて、九ツ餘る。八ツ時は八九七十二にて、八ツ餘る。七ツ時ハ七九六十三にて、七ツ餘るなりと有。
あまり意味の無い数え方と思うが如何。また、小栗百万の『屠龍工随筆』に以下の記述がある。
○鐘の数は、子と午と昼夜の満る所を首として、九々の数にて一九九二九十八三九廿七と割付たるものなりと人のいへり。
【丑三】(うしみつ) 古昔の時刻の名。丑の刻を四刻に分ち、其第三にあたるとき。まよなか。深更。
【三更】(さんこう) 真夜中。午前零時頃から午前二時頃までをいった。
【寅の一点】(とらのいってん) 午前四時頃。人々がもっとも寝静まっている時刻。赤穂浪士の吉良邸討入りなど、昔時には夜討ちを懸ける絶好の時とされていた。
【引け四つ】(ひけよつ) 吉原独自の時間。昔時、吉原の営業は四つ時(午後十時頃)までとされていたため、正四つ時の鐘が鳴るときには拍子木を打たず、九つの鐘(午前零時)を聞いて四つの拍子木を打った。このため吉原ではこれを「引け四つ」と称し、店終いにかかった。続いて九つの拍子木を打ち、これを「大引け」といった。
【鐘四つ】(かねよつ) 午後十時頃の鐘の音。引け四つに対していう吉原詞。
【朝夕】(あさゆう) 朝と夕と。あさばん。転じて、常に。いつも。(『広辞苑』第二版)
[朝]「あさ」は、昼を中心にした言葉で、昼のはじまりを言う。「あした」は夜を中心にした時に言われ、夜の終わりを言う。
[夕]「ゆうべ」は夜を中心にした時の言葉で、夜のはじまりを言う。「ゆう(ゆうがた)」は昼を中心にした時の言葉で、昼の終わりを言う。
[昼中心]朝・朝方(あさ・あさがた)から昼を経て夕・夕方(ゆう・ゆうがた)
[夜中心]夕(ゆうべ)から宵・夜中・暁を経て朝(あした)
【かはたれ時】(かわたれどき) 隆慶一郎は「かはたれ時」を、「夕方の薄暗くなった時。黄昏」の意味で用いているが、本来は、夜がようやく白むうす闇の頃をいう。「かはたれ」とは「彼は誰」という言葉からきて、「たそがれ」が「誰ぞ彼」からきている。どちらも薄暗く行交う人の顔が分らず、あの人は誰だと迷う意味の言葉だが、「かはたれ」は早朝、夜が明け切らぬ時間、「たそがれ」は夕方、夜になり切らない時間と使い分けて用いられる。、同義語としては「黄昏」(たそがれ)の外に「雀色時」(すずめいろどき)、「たちあい」などが有り、いずれも夕方の薄暗くなった時をいう。また、『広辞苑』などの辞書には黄昏を表す言葉に「逢魔が時」が上げられ、これの転訛が「おまんが時」としている。しかし、喜多川信節の『嬉遊笑覧』には夕焼けの茜色に染まった時を、「あまがべに」と言い、そこから転じて「おまんが時」と言ったともある。また、『広辞苑』(第二版)では「彼は誰時」を「あれはたれどき」と読んでいる。意味は勿論たそがれどきを言い、さらに「あれはたそどき」とも読むとある。
昧爽(かわたれどき) 〔かはたれは、彼は誰の義、彼れは誰れの意、尚、仄暗くして、人の顔の見分けかぬるを云ふ、黄昏を、誰そ彼と云ふと、同意なり、本朝文粋、源順、狂歌「夜行翁、夜夜警2火旧府中1、呼曰2火危彼誰何1」〕夜の明けがたの、ほのぐらき時。あかつきやみ。 万葉集、二十三十「暁の、加波多例等枳に、島蔭を、漕ぎにし船の、(如く)たづき知らずも」(防人の歌なり、身の行末おぼつかなきを云ふ)(『大言海』)
かはたれどき [彼は誰時]《奈良時代はカハタレトキと清音。うす暗くて人の顔もおぼろにしか見えず、あれは誰、と見とがめるような時刻の意》(夜が)ようやく白む頃。うす闇の頃。「暁のかはたれときに島陰を漕ぎにし船のたづき知らずも」〈万四三八四防人〉(『岩波古語辞典』)
かはたれぼし 昧爽(かはたれどき)に出づる星の名。暁明星(あかつきのみょうじょう)のことならむと云ふ。 廻国雑記(文明)「暁のかはたれぼしとあるは、かはたれ時より出づる、太白のことなるべし」(『大言海』)
【尼がべに】(あまがべに) 尼がべに時。「あまがべに」は、本来「天が紅」という字で、「あまが紅」という言葉から「天」が「尼」に転じた言葉という。夕焼けで空が赤く染まった時刻。
[天が紅](あまがべに) 赤い夕焼雲。夕やけ。[尼が紅]尼の頬紅をいい、隠し夫を持った尼が、頬紅をつけて親に叱られたという言伝えによる語で、後に「天が紅」と混用された。(『岩波古語辞典』)
天之紅 あまがべに〔赤丹差すと云はむが如し、おまんがべにとは、訛りて云ふなり〕夕霞の、赤きこと。又、おまんがべに。 鷹筑波集(寛永)「夕日のかがやく赤雲を、あまがべにと云ふ」 玉海集(明暦)「下紅葉、空にうつすや、天が紅粉」 油糟(寛永)「雲の上にも、湯や沸かすらむ。べに屋では、買はぬあまらが、紅粉の色」 節用集大全(延宝)天地部「倭俗呼2赤色之雲1曰2尼紅粉1」(二書共に、尼が紅と混ず) 倭訓栞、あかねさす「日の枕詞に云ふめる、日辺の赤気を云へり、所謂霞、是れ也、今、兒輩の、天が紅さいたと呼ぶ、是れなりとも云へり」 嬉遊笑覧、六、下「あまが紅、暮霞なり、小児は、おまんがべにと云ふ」(『大言海』)
【逢魔が時】(おうまがとき) 黄昏、夕暮時をいう。『広辞苑』などには「大禍時(おおまがどき)」の転訛で、夕暮れ時は人を惑わす禍や魔が潜むとされ、魔に逢う時刻という意味から生まれたとある。
「黄昏をいふ。百魅の生ずる時なり。世俗、小児を外にいだす事を禁む」(『画図百鬼夜行』)
【おまんが時】(おまんがとき) 喜多村信節によれば、「あまがべに時」の「あま」が児童詞で女を表す「おまん」に言い替えられ、「おまんがべに時」から「おまんが時」になったとされ、夕焼けで空が赤い時刻をいう。しかし、『広辞苑』などには「逢魔が時」の転訛としていて、夕暮時一般をいう。
【雀色時】(すずめいろどき) 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の「膝栗毛発端叙」(文・旭亭一桃)に「春の日の長旅も、馬士唄の竹に雀色時の泊には、奇妙希代の滑稽を吐て」とあって、その注(麻生磯次校注)に「雀色時は、たそがれ時をいう。夕暮の色を雀の鳶色にたとえた語」とある。
しかし、柳田国男氏は「雀の羽がどんな色をしているか知らぬ者はいないようなものの、いざそれを言葉で言い表そうとすると、だんだんぼんやりして来る。これがちょうど夕方の心持でもあった」といい、夕方が雀の色に似ている事から来たものではないと『妖怪談義』「かわたれ時」の項で述べている。
雀色時 暮れ六つ時。夕暮。黄昏。 東海道中膝栗毛(文化、十返舎一九)「おのづから、道急ぐ馬士唄の、竹にとまる雀色時、やうやく、蒲原の宿に至る」(『大言海』)
【黄昏】(たそがれ) 〔誰そ、彼かと見分け難き義。たそがれ時の下略。弓張月のゆみはりと同例〕夕。暮方。たそがれどき。 源氏、四、夕顔上「よりてこそ、それかとも見め、たそがれに、ほのぼの見ゆる、花の夕顔」 同、廿六、常夏三「たそがれのおぼおぼしきに」 同、三十三、藤裏葉三「たそがれも過ぎて心やましきほどに、まうて給へり」 新古今集、三、夏「たそがれの、軒端の萩に、ともすれば、穂に出でぬ秋ぞ、下にこととふ」(『大言海』)
黄昏(たそがれどき) 〔たそがれは、誰そ彼の義、彼人は、誰なるぞ、の意。薄暗くして、人の顔の、見つけられぬを云ふなり。暁に云ふかはたれどきと同じ心なり〕ゆふ。ゆふがた。くれがた。彼(あれ)は誰(たれ)時と云ふに同じ。略して、たそがれ。 源氏、四、夕顔廿四「光ありと、見し夕顔の、白露は、たそがれ時の、そらめなりけり」 宇津保物語、菊宴六十四「夕暮の、たそがれ時は、なかりけり、かくたちよれど、とふ人もなし」 拾遺集、十六、雑、春「足引の、山ほととぎす、里なれて、たそがれどきに、名のりすらしも」 六帖、五「墨染の、たそがれ時の、朧夜に、ありてし君に、さやに逢ひ見つ」 源氏、廿三、初音十「御前の梅、やうやう、紐解けて、あれはたれどきなるに」(『大言海』)
【たちあい】 立合・立会から来ている言葉で、市立(いちだて)のさまざまな人が顔を合わす場は、人に気を許されない時であったことから、夕方の薄暗い時刻を形容する言葉となった。
【日暮れ方】(ひくれがた) 日ぐれ時。「外に行きて酒を飲み、酔ひて日暮れ方に家に帰る」〈今昔二ノ三一〉
【火点頃】(ひとぼしごろ) 「ひともしごろ」とも云い、「火点時」(ひとぼしどき)とも。夕方、黄昏れの事。
【夕方】(ゆふつかた) 夕方(ゆうがた)の事。
【夕暮れ】(ゆふぐれ) 日暮れ。夕方。
【夕】(ゆふべ) 《古くはユウヘと清音。「朝(あした)」の対。上代には昼を中心にした時間のいい方と、夜を中心にした時間のいい方とがあり、ゆうべは夜を中心にした時間の区分の、ゆうべ→よい→よなか→あかつき→あしたの最初の部分の称。昼を中心にした時間の区分の最後の名であるゆうと実際上は同じ時間を指した。平安時代には文章語・歌語と意識され、漢文訓読体や和歌、源氏物語など限られた和文作品に使われた。→ゆうぐれ》(一)夕方。「朝に去きて、夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも吾は嘆きつるかも」(万2893)「あしたには門に出で立ち、夕には谷を見渡し」(万4209)(二)《夜の時間のはじめを翌朝回想するtおころから》昨夜。「夕の男清水にこそあるらんに参りて見ばや」(義経記三)(『岩波古語辞典』)
【夕まぐれ】(ゆふまぐれ) 『広辞苑』などには夕間暮と有り、日暗の意とし、夕方の薄暗いこと、またその時としている。柳田国男氏は関東地方で言われる「ヒグレマグレ」や対馬の「マグレヒグレ」などの例をあげ、「マグレ」という言葉には「マジマジ」と人を見る、あるいは人の顔がはっきりせず紛らわしい様子を表す詞であろうとしている。
夕まぐれ 《マグレはマ(目)クレ(暗)の意》夕方ほの暗くなってよく見えない頃。「夕まぐれほのかに花の色を見て」〈源氏若紫〉「夕まぐれの人のまよひに対面せさせ給へり」〈源氏少女〉(『岩波古語辞典』)
【時の鐘】(ときのかね) 江戸の初期には和時計ができたが、それは大名などの持つ貴重なものであった。また、慶長のはじめには西洋から伝来したものもあって、江戸城中にかなりの数の時計があったという。しかし、これらはまだまだ大変な贅沢品で、一般のものではなかった。そこで下級武士、町人に時を知らせる必要から、太鼓を叩くことが考案されたが、後に鐘に改められ、江戸市民に時刻を知らせる「時の鐘」となる。鐘のつき方は、夜中の十二時、つまり九ツからはじめ、最初必ず捨て鐘三つをついたため、九ツには十二回つくということになる。それから二時間ごとに、八ツ、七ツ、六ツと三を足した数の鐘で時を知らせた。
○時の鐘 鐘の数を九つ八つ七つと、跡へかぞふる事は、陽中の陰、陰中の陽といふより起る也、日中午刻より、はやその夜の陰の兆あり、これ陽中の陰なり、午の刻よりその日の夜の明るまで、九時ありとしらせ、一刻減れば八時也、七時なりとしらしむるなり、又夜半子の刻より、明けの日の陽の兆あり、是院中の陽なり、子の刻より明けの日の暮るまで九時あり、一刻減ずれば八時七時としらしむる、畢竟光陰の過ゆくを、観ぜしむる也
又説
子(九)丑(八)寅(七)卯(六)辰(五)巳(四)
午(九)未(八)申(七)酉(六)戌(五)亥(四)
為陽
為陰
陽は猿の頭を撞、陰は虎の頭を撞、たとへば子の時は申の時までを算へて九つ也、丑の時よりは八つなり、又午の時は寅の時までを算へて九つ也、未よりは八つ也、此説拠なし
又説、易の数に準じ、九を陽とし、六を陰とし、子の時を一陽の始として、九を撞といふ説もあり(『近代世事談』巻之四)
[逸話]
夕陽西に傾き、天色将さに黄昏に近からんとするころ、遠寺の鐘声偶ま七つ(午後四時)の時刻を将軍城中に報じ来れり、大納言君(後の十三代将軍家定公)左右を顧みて、今打ちたる鐘は何時なりやと問はせらる、七つ時にて候と申上げけるに、何ゆゑに十声打ちたるやらんと問返し玉ふ、されば初めの三声は時打つとの注意にて、捨鐘と申すものにて候と申上げけるに、大納言君微笑せられ、其様に捨る金があるなら御祖父様(大御所君)に差上げたきものなりと仰せられけるとかや、深殿春暖かなる処に坐臥し給ふ大納言君にして亦這般の洒落を放つを知る、中々油断のならぬ世の中と申すべし(野田笛浦)(『想古録』)

HOME