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自由民・道々の輩《綜合》
海民
海民
主に漁業・海運など海(海辺)で生活をしている人々の総称。大和朝廷の律令制(公地公民制)の支配から比較的自由な民。
海賊
日本の海の民の称。律令制の支配から外れていたため、海賊と呼ばれる。
中世、志摩・瀬戸などの海域で活躍した海上豪族、水軍の異称。(『広辞苑』第二版)
海賊衆(かいぞくしゅう)
中世における水軍の将士。
海賊船(かいぞくせん)
中世の水軍の艦船。
海賊大将(かいぞくだいしょう)
中世における水軍の統率者。(以上『広辞苑』第二版)
水軍(すいぐん)
海賊衆。もともと海民だった人達が、豪族化し半島や大陸などで略奪行為を行う(倭冦)。南北朝時代から、陸の大名と結びつき、村上水軍などのように海の大名と称されるほどの勢力を持つ者も現れる。室町期に海賊取締りが厳しくなると、海上交通権などを掌握して、航行する船から通交料を徴収し、代りに護衛などを行っていた。また水軍という言葉には、村上水軍、九鬼水軍などその海賊大将の名を付した水軍名と、毛利水軍、織田水軍など大名麾下の、後の海軍と同義語的に呼ぶ水軍名がある。さらには、その地方名を付して熊野水軍、和泉水軍などの呼名があった。
中世、瀬戸内海・西九州沿海などで活躍した地方豪族。海賊。(『広辞苑』第二版)
- 【安宅水軍】(あたきすいぐん) 紀州安宅浦の熊野海賊の将安宅氏の水軍。この水軍の大船を安宅船と称したことから、大型船を代表する名称となったとされるが、異説も有る。[安宅船]の項参照。
- 【小浜水軍】(おばますいぐん) 伊勢水軍の海賊の将小浜景隆率いる水軍。武田水軍に属していたが、武田氏滅亡後は徳川家に仕える。
- 【九鬼水軍】(くきすいぐん) 志摩の海賊の将として台頭するが、国司北畠家に属する伊勢水軍の小浜・千賀などの在来水軍からの反発が強く、新興勢力だった織田信長と結び、在来海賊衆が没落する中、東の海賊衆の雄となる。
- 【来島水軍】(くるしますいぐん) 村上水軍の分流。瀬戸内伊予来島を拠点とした海賊衆来島氏が率いる水軍。
- 【間宮水軍】(まみやすいぐん) 元伊豆間宮村の土豪衆で、北条水軍の船大将だったが、信玄による伊豆攻撃で降伏し、武田水軍の一員として江尻の地にいた。
- 【向井水軍】(むかいすいぐん) 元伊勢の海賊衆だったが、武田の海賊奉行岡部忠兵衛により小浜景隆と共に武田水軍に迎えられた。武田氏滅亡後は徳川家に仕え、後には徳川水軍の要となり海賊奉行となる。
- 【村上水軍】(むらかみすいぐん) 源氏の後裔を自称し、南北朝時代に南朝に属し瀬戸内海の交通を押えた。後に能島、来島、因島の三島に分流し、「海の大名」として島々に城を構え、海関を設けるなど西の水軍の雄として君臨した。戦国時代には毛利氏の麾下に入り、毛利水軍は他の瀬戸内海賊衆をも加え最強の水軍を持った。
軍船(いくさぶね)
海族(海賊)・水軍に欠かせぬ乗物。六世紀、半島の加羅(伽耶)国と深い関係にあった倭国(ヤマト政権)は任那(金海加羅)に半島の拠点を置いたことから、船は重要な海上交通手段として活躍したと思われる。まだこの頃は、軍船としてでは無く、人や物品の運送を目的としたものだったと思われるが、六世紀末に、隋(大陸)と高句麗(半島)の間で戦いが起り、大和政権は先に失った任那の回復を狙って大軍を半島に送っている。このことから、兵員輸送としての軍船がこの頃には登場していたと思われる。
七世紀には、日本の国も統一政権(大和政権)として確立され、海民を組織した水軍が現れる。唐と同盟を結んだ新羅が百済を滅ぼすと、百済の遺臣等は日本に救援を求め、女王斉明はしばしば水軍を組織し半島へ兵を送るが、663年、日本の水軍は白江村で唐・新羅連合軍に大敗を喫し、百済の亡命者たちとともに半島から敗退。そして、これら兵員の輸送を担ったのが、瀬戸内海や北九州・五島列島の地方首長等で、その後、彼等は海賊衆として海の領主となり、半島・大陸を度々侵蝕する倭冦となってゆく。
戦国期には、火筒を備えた大船も現れ軍船として一定の発達が見られ、そのころ漂着したポルトガル船・スペイン船などの影響もあり大航海時代の技術革新の波にのる機会が訪れたが、国内統治を優先する徳川幕府の鎖国政策によって、大船の建造が制限されたために、軍船としての発達は幕末の黒船来航まで停滞した。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「船」の項あり、参照ください。
- 【安宅船】(あたきふね) 室町末期から江戸初期に用いられた大きな軍船の総称。櫓五十挺或は八十挺以上を用いたとされる。
- 名称は安宅水軍の軍船からきているとされるが、『広辞苑』第二版によると「あたけぶね」と読み、「あたける」という動詞の連用形「あたけ」とある。「あたける」とは、あばれ騒ぐ、乱暴するという意。
- 【小早】(こばや) 小早船。関船の一つ。櫓四十挺立て以下の櫓のない船。船脚早く、物見・飛脚船などに用いられた。(『広辞苑』第二版)
- ○急行に用ふる小舟。小さきはやぶね。(『廣辭林』新訂版)
- ○小早 四十挺立て以下で、矢倉のない、半垣または欄干造りの船の称。船足が早いので、物見・使番・飛脚等に用いた。(『和漢船用集』三)
- 【関船】(せきぶね) 当初、海賊を防ぐために造られた早船。下関で造られたことからこの名が付いた。櫓四十二挺立てから八十挺立てまであったという。
- ○昔時の兵船、櫓の数四十二挺乃至八十挺あり、もと門司と馬関との渡海用に供せしもの。(『廣辭林』新訂版)
- 【鉄船】(てつぶね) 九鬼嘉隆が造ったとされる鉄の装甲を施した船。毛利氏麾下の村上水軍が用いた焙烙火矢からの攻撃を防ぐ目的で造られた。
- 【亀甲船】(きっこうぶね) 装甲をほどこした船。李舜臣率いる朝鮮水軍の軍船。朝鮮の役(倭乱)の時、大砲を備えたこの亀甲船に日本の水軍は翻弄され、制海権を掌握できなかったとされる。
倭冦(わこう)
水軍の一部の行為が海賊行為となり、倭冦と呼ばれる。南北朝期から、塩飽諸島や五島列島を本拠に半島や中国沿海部との私的交易に関わり、武力で強奪する海賊行為をも行った倭人(日本人)を中心とした海民(水軍)。中国や朝鮮の政府から取り締りを求められた幕府の取締り強化によって、後期には中国人が倭冦と称して半島や沿海部を荒し回ったとされる。
十三~十六世紀、朝鮮・中国の沿岸を日本人が掠奪したことに対する中国・朝鮮側の呼称。瀬戸内海・北九州の海賊が中心で、もともと私貿易を目的とした。明朝ではこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした。豊臣秀吉の禁止で消滅。(『広辞苑』第二版)
また、別名を八幡(ばはん)という。『和漢三才図絵』によれば、倭冦がその船に立てた旗に「八幡」という神号をしるしたのを明人が「バハン」とよんだからという。彼等の船を「八幡船(ばはんせん)」といった。
【八幡船】(ばはんせん) 室町末期から安土・桃山時代にかけて、中国・朝鮮の沿岸を侵略した日本の海賊船を明人などが称した語。江戸時代には密貿易船の称。はちまんぶね。(『広辞苑』第二版)
山民
山民
畑や田など耕地にならない山岳部に住み、狩猟・採集などで暮らす民の総称。特に深山の山奥は、我が国では神が住む場所と恐れられ、一般人はなかなか近寄らなかった。
山賊(さんぞく)
海の民同様、山中を移動して生活するため律令制の支配から外された山の民。『吉原御免状』で「山人」(やまびと)とあるのもこの山の民の事で、山窩、傀儡子、樵夫、マタギ、木地師など山で暮す人々の総称。
隆慶一郎は小田原北条氏に仕えた箱根を本拠とする風魔一族と傀儡子族を同じ系譜の人間とし、彼らは定住せずに漂泊して生活する民族で、大陸からの移動で列島に渡ってきた渡来民と関連づけている。
山窩(さんか)
主に山岳地帯を住処とし、狩猟・採集などで生計を立てていた事から定住せず、一族を治める長(おさ)の元、集団で移動していた。彼等は近代まで中央の権力に与しない誇り高き人々であり、中央政府の支配が及ばない人々であったため山賊・盗賊として扱われ、また恐れられていた。
隆慶一郎は『捨て童子松平忠輝』(上巻183P)で、「山窩は傀儡子と同じ血族であり、傀儡子が町や街道をさすらい、芸能を職とするのに対して、山窩は山間をさすらい、蓑づくりを職とする」と書いている。
諸藩の山廻り同心は、なぜか山窩を目の敵にしている。不幸にしてぶつかれば、十のうち十まで闘争になり、どちらかが死ぬことになる。山窩側は、何故自分たちが目の敵にされるか分からない。何一つ悪いことはしていないのである。自分たちの生きざまそのものが、幕府の法に叛いているなどと考えてもいなかった。山窩には国境がない。山はどこまでもひとつながりの山であり、自由に歩きまわれる自分たちの栖であり、庭である。己の庭を歩いていて、何故咎められねばならないか。年数も数えきれぬほどの太古から、自分たちはこうやって生きて来たのである。領地といい、国境いといい、侍たちが勝手気ままに決めたものを、自分たちに押しつけるのは迷惑だった。そんなものは、決めた侍同士が守ればいい。自分たちは放っておいて貰いたい。第一、国境いなどといっても、侍は本当の奥山まで来たためしがないではないか。まして栖んだことなどあるわけがない。それが山窩のいい分だった。(『鬼麿斬人剣』55p)
野武士(のぶし)
落武者などの具足を剥ぎ取って武装した土民。(『新明解国語辞典』)野伏り(のぶせり)の転訛した詞ともいわれ、山野に住み峠道などに出没する山賊と化し、通行人から通行料など金品を脅し取る者が多かった。
道々の輩
道々の輩(みちみちのともがら)
「隆慶わーるど」のキーワードの一つで、広義の「職人」を指す詞。この場合の道は、道路や街道に使われる道のように物理的な過程(行程)を指す言葉ではなく、柔道、剣道、あるいは茶道、華道に使われる道で、特別あるいは特殊な技能、技術の修得の過程を指す。すなわち「道々の輩」「道々の者」とは、鎌倉時代の「職人歌合」などに出て来る医師、陰陽師、鍛冶、番匠、刀磨、鋳物師、博打、海女、遊女など手工業者から芸能民、宗教家などさまざまな職能民を云った。隆慶作品に登場する傀儡師や猿楽師、武芸者などもこれらの職能民に入る。
平安時代後期から室町時代にいたり「道々の輩」あるいは「道々の細工」という言葉がもっぱら使われている。「道々」というのは、職人と呼ばれる職能種の人々に、それぞれの道があったからで、たとえば手工業者の場合、木工には木工道、漆工には漆工道、螺鈿をつくる人々には螺鈿道があり、博奕打の場合に博奕道があった。「兵(つわもの)の道」も同じことで、これらの人々はそれぞれの「道」に即して自分の職能を働かせている。そこから「道々の者」という言葉が出てきた。(網野善彦著『日本中世の民衆像』)
室町時代末期に成立されたとされる『七十一番職人歌合』は、様々な「歌合」の中でも後期に作られていることから、そこに現れる職人の種類が尤も多い。そのため中世の職人像をイメージしやすい資料とされている。そこで、そこに記された職種を『中世職能民職種一覧』としてまとめましたので参照ください。
七道往来人(しちどうおうらいにん)
「諸国往来人」ともいう。「七道」とは五畿七道の七道で全国という意味。「道々の輩」と呼ばれた各種職能民達は、その職能、技術を持って朝廷に奉仕する供御人であったり、社寺の神人(寄人)で、朝廷や社寺の庇護を受け、諸国に設けられていた関所を自由に往来する権利を得ていた。
供御人(くごにん)
内蔵寮や掃部寮、造酒司、主殿寮などの天皇直属の内廷に属し、その技術を持って奉仕していたため、一般の農民や町民が負う年貢や公事が免除されていた。
神人(じにん)
石清水八幡宮、春日社、日吉社などの神社に奉仕し、供御人と同様に年貢や公事から免除されていた。また清水寺や興福寺などの大寺院に奉仕している場合も同様で、「寄人」(よりうど)と呼ばれる。
- 【犬神人】(いぬじにん)
- 比叡山延暦寺(山門)の末社、京都祇園社に隷属していた犬神人が特に有名。赤色の布衣に白覆面姿で、八角棒を携行し、境内地の汚穢の清掃、祭礼の警備、社家や山門による犯罪者の取締りやその住居の破却処分の執行などに従事するかたわら、弓弦の製造・販売でも生計を立て、「つるめそ」(弦召)とも呼ばれる。身分的には賤民視されたが、祇園社の神輿を甲冑姿で先導したのも犬神人たちであった。近世には、その住居は弓矢町に限定され、弓矢・弦・弓懸を製作・販売するとともに懸想文(辻占)売りもした。正月二日に洛東の愛宕寺で彼らが行った牛玉加持を「天狗酒盛」と呼んだ。
公界
公界(くがい)
公の場。領主や主人など支配者の私権の及ばない場所。収奪の基になる生産物を生まない河原、荒れ地、薮地などや深山は非生産地として領主などの支配から免れ公界となっていたが、こうした地はまた支配者の意思通りにならない自然の力が支配する地でもあり、聖なる場所であった。こうしたことから公界は神仏が支配する聖なる地という観念が生まれる。このことから神仏に仕える社寺の領内も公界とされ、公界=聖なる場所となり、領主権力の及ばない地となった。やがて公界寺などは主従関係などの縁を断ち切り自由になる「縁切り」の場として機能するが、領主などの支配層にとってはこうした公界は邪魔なものであり、当然さまざまな干渉を受け、やがて支配構造の中に取り込まれていく事になる。
1、おおやけの場所。晴れの場所。醒睡笑「今までは公界のむきよし」2、世間。人なか。鶉衣「腰にたたまれて公界に諂ふねぢけ心もなし」3、交際。つきあい。「公界上手」4、課役のこと。(『広辞苑』第二版)
室町時代から江戸時代前期にかけて、全国各地広い範囲で使われた「公界」という言葉には、「無縁」「楽」と重なる意味を持っていた。この「公界」という言葉は、もともと禅宗寺院で用いられ、「内々」「内証」「私」などの反対語として、世間・公衆・公共を意味する語であり、たとえば「公界の大道」などといわれるように道路は「公界」の場であり、「公界の活計」といえば、一人の来客への内々の御馳走ではなく、「世間づきあいの宴会」、パーティを意味している。
しかし、「公界寺」「公界所」は大名の私的な氏寺とは異質な寺で、ときに「敵味方ノキライナキ公界寺」などといわれたように、俗世間の戦争の敵・味方と関わりのない「平和領域」であり、無縁所、楽市場と本質を同じくする性格を持っていた。
また、戦国大名大内氏の掟書には、当主の怒りにふれ、家人としての縁を切られたものは「公界往来人」と同様なのだから、たとえその人が殺害・刃傷されようと、恥辱を加えられようと、その加害者については何の罪も問わないと定めている。このように「公界」を往来する人々は大名や諸侍などとの私的な縁ー主従関係の切れた自由な人々でもあった。大名などの保護の得られないこうした人々が「公界」に生きるためには、なんらかの「芸能」を身につけていなくてはならなかった。それゆへ、「公界寺」に住持する「公界僧」にふさわしい「能」ー学識・能力を持つ必要があったので、「公界者」「公界衆」といわれた人々は、能役者、連歌師、鞠師、算置や陰陽師、遊女など、遍歴の芸能民だった。
しかし、狂言『居杭』に現れる算置が、昂然と胸を張り、自ら「公界者」と称して諸侍の横暴に立ち向かうように、戦国時代の「公界」に生きた人々は、自らの立場に対する誇りを決して失っていない。『十楽』の津、桑名と同じく、当時の自治都市として知られた伊勢の大湊、山田などを代表する自治機関の「老若」ー評議会が、自らを「公界」と号し、打ち続く大名たちの戦争の中で、和泉の堺のように、その自由と平和を保ちえたという事実の根底には、こうした「公界」に生きるものの力と誇りがあったと考えられている。(網野善彦「公界に生きる人びと」より)
公界往来人 → 「七道往来人」と同じ。『道々の輩』の項参照。
「公」(おおやけ)= 古代の共同体の代表者である首長のイエを大宅といった。堀や垣に囲まれた区画に家屋・倉が複数存在する施設を「宅」(やけ)といい、「宅」の大きなものを「大宅」(おおやけ)という。首長は共同体の共同性を代表する立場にあり、首長のイエである「大宅」は、同時に共同体全体の経営拠点でもあった。天皇・国家を意味する「公」の語源も「大宅」に求めることができる。
アジール
聖域・平和領域を意味するドイツ語。ギリシア語の〈不可侵〉という語asylonに由来する。いかなる権力の手も及ばないような状態、またはその場所をいう。本来は宗教的色彩の強いものであったが、外交官特権や政治ボウメイを支える原理として、今日もなお生き続けている。1549年(天文十八)に尾張熱田大神宮に掲げられた織田信長制札では、下にある条文からもわかるように、宮中の、場としてのアジール権だけでなく、そこに出入りする者の安全通行権、つまり場に関わる人間の、場外でのアジール権も保障されていた。
一、宮中任先例、他国・当国敵味方并奉公人・足弱・同預ケ物等不可改之事、付宮中へ出入之者江於路次非儀申懸事、
(一、宮中は先例に任せ、他国・当国敵味方并びに奉公人・足弱(あしよわ)、同じく預け物等改むべからざるの事。付、宮中へ出入の者へ路次において非儀を申しかくる事)
薮入り(やぶいり)
(都から草深い田舎に帰る意)1、奉公人が正月及び盆の十六日前後に暇を許されて一日ほど親もとなどに帰ること。また、その日、その頃。宿入。一代女四「されども薮入りの春秋をたのしみ」2、特に正月十六日前後の休みの称。盆の休みは「後の薮入り」といった。(『広辞苑』第二版)
「薮入り」という言葉は、現在ではあまり使われなくなったが、正月と盆の十六日、奉公人が主人から暇をもらう年二回の休日をいう。
江戸時代、薮入りは、はじめ正月十六日だけで、先祖の墓参りの日などとされていたが、やがて閻魔信仰の浸透とともに、地獄の蓋があくと考えられた正月十六日・七月十六日の閻魔参りの日となったといわれる。その基層部には、主人のもとに従属していた奉公人、さらには夫のもとにその行動を縛られていた妻などの解放の日、何をしても許される自由な日という意識が強く流れていた。こうした解放の日・自由な日がなぜ薮入りといわれるのか従来不明とされていたが、安野真幸氏が、『さんせう太夫』の正月十六日の「初山の日」を媒介にして、薮入りの語の源が中世の「山入り」にあることを明らかにされ、その源流が中世社会の広い裾野をもつ民俗慣習にあることがわかった。
初山の日は、山の神を祀る日で、新年になって初めて山に入って予祝行事を行う日、また山仕事を休む日であった。『さんせう太夫』で安寿がこの初山の日を逃亡決行の日と早くから定め、正月十六日という日を繰り返し強調しているのは、当時の人々が、この日の「山入り」が主人の束縛から解放状態におかれると考えていたことをしめしている。この正月十六日は山の神の祭日として特別な時間的意味をもっていたのであるが、中世においては、祭礼の日一般が、日常的時間とことなる秩序を現出させる日として存在していた。
山入り
中世において、日常的時間において「山に入る」という言葉は、特別な空間に入る意味にも使用された。
逃亡下人や犯罪人が保護を求めて寺院などに駆け込むことを、当時、「山林に走入る」「山林する」などといった。また百姓が領主の追及をのがれ、山野に逃げ込む逃散(ちょうさん)を「山野に交わる」「山入り」「山あがり」などと称した。これは「山」といふ空間が山の神が支配する場として、俗権力の秩序とは別の秩序が存在する空間と考えられ、ここに入ることにより俗界の諸関係が消滅してしまうという社会観念の存在にもとづく行為であった。
この「山入り」は、「薮山に入る」「薮山に籠る」などともいわれた。また当時の百姓は、逃散の際、山入りするだけでなく、みずからの家や田畑を領主の没収から守るため、「篠を引く」「柴を引く」といって、家や田畑を篠や柴で囲って、薮林・山林のようにし、ここは「山林不入地」であると称し、領主に対抗した慣習を生みだしていたことが知られ、「山入り」と「薮入り」は本来同意の語であったことが確認される。(勝俣鎮夫)
抜け参り(ぬけまいり)
江戸時代以降の薮入りは、いわば社会的に認められ、上から与えられる定まった休日としてその命脈を保ったが、同様に神仏との関係に依拠して、奉公人たちがその束縛から解放されるため、みずからを「聖なる者」に変身させて、一時的にせよ自由を享受したのが「抜け参り」であった。
「抜け参り」は、薮入りと同じく、商家に奉公する丁稚・小僧・下男下女、農家に隷属する名子・被官、さらには当時家にしばられていた妻女などが、伊勢参宮を目的に、その主人や家長に無断で家出することであった。抜け参りは江戸時代に旅行するさいに必要な往来手形を持たず出国する非合法なものであったから、主人のみならず各藩の取締りも厳しかった。だが、時代が下がるに従ってますます盛んになっていった。
従来、抜け参りは、薮入り同様、江戸時代の特有の社会現象とされてきたが、これも、すくなくとも中世後期までさかのぼる広いひろがりを持つ習俗であったことを瀬田勝哉氏が明らかにしている。瀬田氏は、まず十六世紀末に書かれた『天正狂言本』や寛永十九年(1642)成立の『大蔵狂言本』などの狂言台本にみられる「不奉公もの」と呼ばれるジャンルの多くが、奉公人たちが主人に無断で遠隔地の大社寺参詣にでかけ、再び主家に戻って主人に厳しくしかられはするが、結局は許されるという筋立てからなることに着目した。そして、その参詣の対象となる社寺も、これら狂言本にあらわれるだけでも、富士山・竹生島・善光寺・西の宮、さらには清水寺・四条道場などの「京内参り」と多様性をもっていること、また、富士参詣の途中の参詣人たちが、彼らの主人によって、その主人権を主張することが認められない存在であり、また彼らが負っている債務も、参詣の往来時には債権者の追及をまぬがれることなどを明らかにしている。
また、岸田裕之氏は、戦国大名毛利輝元が軍事的緊張下にもかかわらず、家臣が中央社寺への参詣を理由に休暇を申請したのに対し、これに難色をしめしながらも結局三十日間の休暇を与えた例を紹介している。これは中世における「物詣で」のもつ力が示されている例で、この力が抜け参りをも許容せざるをえなかった社会的観念を作り出していたのだろうという。
ところで、これら物詣でにでかける人々は、いずれも日常の生活の姿とは異なる巡礼姿となって社寺参詣人であることを表示して往来したが、何故このような姿になった従者・奉公人などに対して、主人が主人権などを行使できないものと考えられたのか。それは、このような姿になることが、その人を俗界から聖の界へ移行させてしまうのであり、その聖の秩序を乱す行為は神仏の怒りをかうと恐れられたためである。狂言の『鞍馬参り』で、太郎冠者が主人から、主人より先に出ておがむのはけしからんと咎められた際、太郎冠者が「神仏の前では主人と下人の隔てはない」と主張するのは、聖なる界では主従の縁が切れるという考え方を示している。
無縁(むえん)
中世において、主人のもとから逃亡した下人等が、主人の手の届かない場に駆け込み、その関係性(縁)から逃れる行為を縁切りという。
今日、縁切りといえば、もっぱら男女の縁を切ることを指すが、人間と人間とを結びつけている縁には、親子・夫婦・主従・貸借などさまざまなものがあり、所有・被所有といった物と人間との関係もまた縁である。縁切りとはそれらの一部あるいは全部を断つことで、その結果生まれる状況を「無縁」といった。
こうした場として、山野・海上・都市などにあるさまざまな聖なる空間があげられる。その聖なる空間としての典型的な形態をしめしているのは、いうまでもなく社寺の境内ある。これらの寺社は「無縁寺」「無縁所」といわれ、さまざまな事情から世俗の縁を切らなければ生きていけない人々の駆け込み空間となっていた。
高野山は、「この山に入る者は、国許にて、鵜の綱・鷹の網・家焼き、人を殺し、主の勘当・親の不興を蒙りたる輩也」(説教『苅萱』)とあるように、いかなる罪科人もここに逃げ込むことによって、その科を遁れることのできたアジールとして有名であるが、このような寺社の境内のもつアジール性は、高野山のような有力寺社に限定されるものではない。地方の中小寺社、とくに「無縁所」と称された寺には、このような聖地としてのアジール性を認められたものが多く存在する。例えば、若狭の万徳寺は、殺害人・山賊・海賊などいかなる重科を犯したものでも、走り入って助命を頼むならば、寺がその旨を大名に申し届け、大名がその犯罪人の身柄を保全することを、大名武田氏に保障されていたという。しかし、こうしたアジール性は、その後の戦国大名権力による聖秩序の組み込みにより、徐々に限定せられていった。
しかし「無縁」はその内部に、しがらみからの解放(自由)と同時に、人間社会からの排除(差別)という側面を抱えていたことも忘れてはならない。無縁となるということは、自由になる反面、これまで所属していた共同体社会からの保護も無くなるということで、おのれ一人の力で生きて行かなければならない過酷な状況に身を置く事でもあった。
楽市場(らくいちば)
楽市場は、通常の市とは違い、その市で物を売る権利をもつ特定の商人だけでなく、誰でも差別されることなく市へ来て、自由に、たとえそれが盗品であろうとも売ることができるという特性をもっていた。
これら楽市場は、各地の民衆の手によって作られるが、多くの場合、寺社の門前市として発生し、寺社の聖域としての縁切り・無縁の原理と深くかかわっている。それは、門前が権力者による警察権・徴税権の行使のために、役人が強制的に立入ることを禁じた「不入地」であることが多かったためで、寺社の境内のもつ聖域性が門外まで拡大していたことによる。
楽市場は、領主の年貢を滞納している農民でも、債務を負っているものでも、この場に入ることにより、その人のすべての俗的な諸関係が消滅し、追及されなくなる空間であった。たとえば、楽市場への来住者は、それまで隷属的な家臣または奴隷であっても、楽市場の住人となれば、その主人は自分の所有権を主張して取り戻されないとされていた。また、美濃加納の楽市に出された織田信長の「楽市令」をみると、楽市場が完全な免税地として存在し、楽市場住人の通行安全も保障され、関所・渡場などの通行税も免除されていた。
こうして各地の門前市は貨幣の流通とともに賑わいをみせるが、戦国時代の戦乱により衰退する。しかし、一部の戦国大名や織豊政権は、市場や城下町の繁栄を目的に、戦乱により荒廃したこれら楽市場の機能を保障する「楽市令」を発布し、その経済流通政策とした。
一般に楽市令においては、「楽市」という語で楽市場であることが表示されるが、「楽市・楽座」「楽買・楽売」「無座・楽座」「十楽」などの語がもちいられている例もみられる。また人々は、通常の市が楽市に転化することを「ラクノトキ」などと称していた。この「楽」は、楽市令の内容からみて、諸規制から解放された状態、すなわち今日の「自由」「自然」な状態に近い意味の語であったことがわかる。
このように俗界の諸権力から自由であった楽市場は、門前町に限定されるものではなく、戦国時代には各地方都市の新設市場でも楽市的性質を持つのもが多く姿を現す。当時、十楽(極楽)の津(港)と呼ばれ自由港として発展した桑名、我国の自由都市.自治都市として有名な堺・博多なども、楽市場・楽津と呼ばれるべき存在である。
しかし、本来権力と無縁であった楽市場が、楽市令によってその機能を俗権力により保障されることによって、楽市場は楽市場としての基本的性格を放棄してしまうことになる。なぜならば、楽市場は俗権力と無縁な別の秩序にもとづいて存在するところに、その本質があった。ところが戦国大名権力・織豊政権は、衰退した楽市を再興するための保障型楽市令を出すことにより、楽市場を統制下におくとともに、その城下町や新設市場に、既存の楽市場の機能を適用する目的で、政策型楽市令を出した。この政策型楽市令は、いわば聖の秩序を俗的秩序のなかに吸収し、現実の都市政策として打ち出したものであった。
座
商工業者・芸能民の同業者組織、または地方の市場における販売座席をいう。通常、市座と呼ばれ、楽市場において否定されていたのは後者である。市場には、各商品ごとにひとつ、時には複数の市座が存在し、ひとつの市座はひとつの商人集団によって独占されるのが普通であった。座人は市場の領主から座公事銭を賦課されることが多い。
門前町
寺社の門前に形成された居住域。
中世末期以来社寺の門前に形成された町。善光寺における長野のごとき。(『広辞苑』第二版)
一般に、戦国時代、これらの寺社境内のみならずその門前も役人が警察権などの権力を行使するために立入ることを禁じた「不入地」であることが多かった。寺社の境内の聖域性が門外の門前町にまで拡大していた。そのため、門前のもの、さらには寺領に居住する者は武家の主人を持つ事が禁止されており、ここに居住する者は俗界との縁を持ってはならないとされていた。これら門前に住む者は、大名権力が賦課する段銭・棟別銭・陣夫役など種々の課税も免除され、そのかわりに門前に住む鍛冶・番匠などの職人は、寺社のために奉仕することを命ぜられていて、彼らは神仏に奉仕する人と把握されていた。そのため彼らは神仏に仕える者として、その通行の自由・安全が保障され、関所や渡場の通行料をも免除されている例もみられる。さらに注目されるのは、寺社だけでなくこれら門前の者たちにも、徳政令の対象としない徳政免許の特権が与えられている。中世において、寺社が祠堂銭、上分銭というかたちで、低利の金融を広く行っていた。戦国大名のもとでも、低利という理由で、祠堂銭に対する徳政免許が認められている例があり、これは、本来的に祠堂銭・上分銭が神の米銭、仏の米銭と考えられ、神仏の貸したものは、俗界の徳政の対象とならないとされたからといえる。その徳政免許が、門前の者たちの債権にまで拡大されているということは、彼らの所有する物もまた神仏の物であるという考えが存在していたことを示している。
寺内町
戦国時代、摂津尼崎の日蓮宗寺院本興寺およびその門前は、徳政免許また俗界の戦争状態のもとでの敵味方を区別しない場としての特権を認められたアジール的門前町として存在していた。その東西南北には、それぞれ三十軒以上の樽屋・紺屋・油屋・鍛冶屋・木屋・瓦屋などの商工業者が町場を形成していた。本興寺は、尼崎の惣中より、巨額の金で土地を買得するなどで、堀や土居で囲まれた一定区画の聖なる空間に属する門前町を形成しつつあった。
このような聖なる空間は、阿弥陀一仏の支配する強力な聖域というかたちで全国各地に形成していったのが、浄土真宗の寺内町であった。
通常寺内町の創設は、十五世紀中ごろから十六世紀を起源とし、真宗門徒は各地に道場を開設、道場を中心に荒地をきりひらいたり、土地を買得して町場を作りあげた。この寺内町は、奈良今井の寺内町のように、土塁.塀で囲まれた特定の区画をなすものが多く、そこに真宗門徒である非農業民が山から里へ、川の流域から河口へというかたちで定住し、寺内町をつくりあげた。大坂の富田林寺内町には鍛冶・鍋屋・金屋などの金属加工業者、大工・桶屋などの木工業者など多種類の商工業者が住んでいたが、彼らは、今井寺内町が織田政権によって潰されたとき、その土居が破壊され、以後一般土民なみにするとされたように、阿弥陀仏に仕える人々として普通の商工業者ではなかった。寺内町は土居の破壊が象徴するように、他と区別された聖域であり、区画された聖なる空間としての寺内町は、それ自体が楽市場として存在することが多かった。
自由民・道々の輩《芸能民・その他》
願人坊主
願人坊主(がんにんぼうず)
人に代って願かけの修行・水垢離などをした乞食僧。(『広辞苑』第二版)
江戸時代、上野の東叡山寛永寺に属した修行僧。広義では、こじき僧、また、髪の毛ののびた僧を指す。(『新明解国語辞典』)
また、「願人は妻帯肉食の修験者なり」ともある。『人物・人名事典』「酒井常光坊」の項参照。
願人坊主 東叡山御配下にて、橋本町に頭あり、何某院と云ひて、立派の者なり、此むれ皆無頼者多し、さむき朝といへども赤裸にて、とう/\と云て、門々に立ちて銭を乞ふ、また考物など持ち来るもあり、亦、子供は一文人形をならべて、是れはこれでも王子の稲荷大明神、色は白くも九郎助いなりの大明神、などゝいひて、さま/\〃の名を付、二三十ばかりもならべて銭を乞ふ、天保の頃、風体の悪き故、禁ぜられて、袈裟などかけて来れり、(『わすれのこり』)
願人坊主。一種の乞食坊主。代参・代垢離、あるいは芸を演じながらお札を売ったりした。鞍馬寺大蔵院の支配を受け、神田橋本町が集住地として知られていた。(『耳袋』巻之三解説)
曲舞
曲舞(くせまい)
南北朝期から室町期にかけて行なわれた舞芸能。かなり長い叙事的な詞章を、鼓の調子に合わせて歌い、かつ舞うもの。男は直垂(ひたたれ)、女は水干・立烏帽子で舞う。のちの幸若舞もこの一派。猿楽の能では観阿弥がこれを採り入れて能の曲節を改革した。能の「クセ」に見られる舞姿にその影響が見られるとされる。
『七十一番職人歌合』(『中世職能民職種一覧』)には、曲舞々として白拍子と対に描かれている。
幸若舞(こうわかまい)
中世までは曲舞(くせまい)と称した舞芸能。この曲舞の称が記録に表れるのは南北朝期観応元年(1350)の『祇園社社家記録』の「掃部曲舞」とされるが、この舞芸そのものはもっと以前からあった。室町中期頃から呼称が様々現れ、曲舞の外に、二人舞、越前舞、大頭舞、幸若舞、笠屋舞などと記されるようになる。これは、世阿弥が『五音』の中で「今は皆々曲舞の舞手絶えて」と述べているように、本来の曲舞が衰退し、新しい芽生えがあり、上演内容の変化に合わせて種々の呼称が生じたものとされる。
室町中期頃の曲舞は、寺社縁起、慶祝、無常を詠んだ短い謡い物に近いものと推測され、現存の幸若舞の曲目の多くにみられる源平物・義経物・曾我物等の軍記物を中心とした叙事詩的な語り物と質を異にしていた。
醍醐寺座主満済の日記応永三十四年(1427)の条に、「於2妙法院1久世舞見物。此間山上山務法印弘然坊に召置云々。自レ其妙法院へ吹挙、摂州野瀬郷声聞云々。児如法堪能者也。去々年於2清水寺六角堂1勧進久世舞沙汰云々。雨中間以2別儀1召上中門了。児は水干大口立烏帽子にて舞レ之。男は直垂大口也。如法歴々体也。」とあり、醍醐寺の高僧たちが曲舞に興じている様子が書かれていて、摂州野瀬郷の声聞師がそれらを演じていた。(声聞師は、もと陰陽寮に属した下級陰陽師の系譜をひき、本業の卜占の外、災厄祓除の祈祷、盆彼岸の読経、年初の千秋万歳の祝福、曲舞などを演ずる雑芸を業とした。興福寺の五か所十座の声聞師などは、猿楽、あるき白拍子、あるき巫子、鉢たたきなど七道物と言われる雑芸能者の支配権を持っていた。)
また、『管見記』嘉吉二年(1442)五月八日の条に「当時諸人令2弄翫1くせ舞あり。号2之二人舞1。依2家僕等勧進1今日於2南庭1舞レ之。音曲舞尤有2感激1。勝宝院僧正、右馬頭父子入来。持明院羽林以下家僕等在席。舞了及2酒宴1。召3彼舞手等於2予前1畢。其興不レ少者也。」とあり、ここでは二人舞と称されている。さらに五月二十四日条に「幸若大夫称2先日礼1来」とあり、幸若大夫という芸能者が来訪した事が記されている。この『管見記』の記述が、幸若という名の初出とされる。
また、『康富記』宝徳二年(1450)二月十八日の条に、「越前田中香若大夫参2室町殿1、久世舞々之云々」とあり、幸若大夫は越前田中の出身で、室町邸はじめ貴顕の邸宅で曲舞を演じていたことが伺える。これは雑芸の一つとして声聞師などの芸能者集団によって演じられていた曲舞が、幸若大夫という専業者が現れることにより、曲舞はより洗練された舞大夫が演じる舞芸となることでその質を変じていった。こうして、戦国期から江戸初期にかけて、舞大夫による曲舞を、幸若舞と称するようになったと麻原美子氏は述べておられる。(『舞の本』解説)
[芸能民の系譜]参照ください。
猿廻し
猿廻し(さるまわし)
猿廻 昔より有りと聞えたり。京に来るは、伏見の辺その外所々に住す。羽織に編笠、腰に餌畚を付けて米を入るる。中国の猿にはさま/\〃芸をさするゆへ、猿牽が腰に道具多く付る也。このゆへに腰に物多く付けたるをば、猿牽といふ也。京は世智成る所なれば、薬には及ばず、辞儀をするのが奥の手也。猿牽声歌の節分けて備りたり。猿を馬の守りとする事は、猿は山の父と称し、馬は山の子と言ふゆへなりと壗襄鈔に見えたり。(『人倫訓蒙図彙』七)
紀州那賀郡栄谷村の貴志甚兵衛が日本猿引の棟梁とされ、諸国に散在したとされる。
(『好色一代男全注釈』上より)
散楽
散楽(さんがく)
中国古代の芸能の称で、古くから雅楽(宮廷の音楽)以外の民間の舞楽の総称として用いた。唐代には、軽業・奇術・滑稽物真似に音楽を伴奏したものをいうようになる。奈良時代に我が国にもたらされ、田楽その他に影響を与え、発展、伝承されたとされる。
奈良時代に舞楽とともに唐からもたらされた雑楽芸で、その内容も奇術・曲芸に属し、その母国唐においては胡人(西域人)の幻術として伝えられたものとされ、「神娃登縄弄玉」(二人の男の顎に支えた二本の柱に縄をはり、舞女が高足駄を履いてこれに登り、玉を弄しつつ渡る芸)「飲刀子舞」(仰向いて刀剣を呑む芸)「臥剣上舞」(剣上に仰向いて臥す芸)「入馬腹舞」(馬の口から侏儒を出す芸)などがあった。これらの雑伎は、後に編される『新猿楽記』に唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉などといわれる雑伎がそれに当る。
当初は雅楽寮の中に散楽戸を設け特別に練習させていた。しかし、この散楽戸は延暦元年(782)に廃止される。これは、貴族趣味の朝廷の正楽となった舞楽に対し、散楽が民衆の興味を引き一般的に普及して、自発的な修学者の増加にともない、官学として教授する必要が無くなったためと、律令制の衰退とともに多くの官戸を保護する力が無くなったためで、廃止された散楽戸の楽戸民はその技芸によって社寺に属したり、剃髪して散楽法師となった。一部は漂泊の雑芸者として各地に散り、散楽は俗楽として人々の間に広まった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)
奈良時代に伝来した、中国の俗楽・芸能の流れ。「正楽」「雅楽」に対する。平安時代以後、寺社の祭礼や神楽・相撲節会・淵酔(ゑんずい)などにしばしば演じられた、滑稽卑俗な物真似や、舞踊・曲芸・奇術・傀儡・舌耕芸(ぜつこうげい)などをいう。「雑色長上五十四人を解却し、餅戸・散楽戸を廃す」〈続紀延暦一・七・二〉「近侍の児童と良家の稚子を以て舞人とす。大唐・高麗更に出て舞ふ。雑伎散楽競ひて其の能を尽す」〈三代実録貞観五・五・二〇〉(『岩波古語辞典』)
散楽〔散位、散官の散〕(一)支那、古へにては、雅楽、官楽にあらざる楽の称。俗間の舞楽。 周礼、春官篇、宗伯、下「旅人掌レ教下舞2散楽1、舞中夷楽上」注「散楽、野人為レ楽之善者」疏「以2其不レ1在2官之員内1、謂レ之為レ散」(二)唐の代に至りては、転じて、百戯の弄丸、弄刀、綱渡の類。 唐会要、三十三「散楽、歴代有レ之、其名不レ一、非2部伍之声1、俳優、歌舞、雑奏、総謂2之百戯1、跳鈴、擲剣、透梯、戯縄、縁竿、弄枕、云々」(三)散楽は、我が邦にも伝はれり、即ち、雑芸なり。 職員令、集解、四、雅楽寮「高麗舞師一人、散楽師人一人」三代実録、五、貞観三年六月廿八日「天皇御2前殿1、観2童相撲1、云々、左右五奏2音楽1、種種雑伎、散楽、透撞、呪擲、弄丸、等之戯、皆如2相撲節儀1」(四)散楽の字は、猿楽の事に充て用ゐらる。 三代実録、三十八、元慶四年七月廿九日「右近衛、内蔵富継、長尾末継、伎善2散楽1、令2人大咲1、所レ烏滸人近レ之矣」 雲州消息(出雲守藤原明衝)上、本、四月「稲荷祭、云々、有2散楽之態1、仮成2夫婦之体1、云々、始発2艶言1、後及2交接1、都人士女之見者、莫レ不2解頤断レ1腸」(是れ等は、全く戯謔の猿楽なり、尚、猿楽の条を見よ、或は、さんを、さると発音するにて、駿河、するが。敦賀、つるが、の例ならむと云ふは、鑿なるべし) 字類抄「散楽、さるがく、さんがく」(『大言海』)
猿楽(さるがく)
散楽の転訛した称で、申楽とも書く。古くは田楽・呪師などを含めた民間の舞楽の称だったが、平安時代には、滑稽な物真似や言葉芸などを中心とした舞楽をいい、相撲会の時、あるいは内侍所御神楽の夜などに演じたという。後には一時の座興の滑稽な動作をも猿楽と呼んだ。鎌倉時代に入り演劇化し、能・狂言に発展する。
やがて、猿楽師たちの団体である座が形成され、それらの多くは寺社に属した寄人・神人となる。
一般に散楽が猿楽に転訛したとされているが、日本中世史の林屋辰三郎氏はその著『歌舞伎以前』の中で、散楽の中の一つ「猿楽通金輪」(二人の男のかつぐ金輪を猿が伴奏につれくぐり抜ける演技)という雑伎の猿楽(さるごう)に由来し、その名称が拡大して散楽を猿楽と称するようになったと書かれ、それに田楽などを加えて新しい猿楽となったのではなかろうかとしている。
『新猿楽記』には、咒師・侏儒舞・田楽・傀儡子・唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉・独相撲・独双六・無骨有骨延動・大領之腰支・蝦漉舎人之足仕・氷上専当之取袴・山背大御之指扇・琵琶法師之物語・千秋万歳之酒祷・蟷螂舞之頭筋・飽腹鼓之胸骨等々、二十九種の演目が挙げられてる。
やがて、座が形成されると、演舞を中心とした集団や手品や曲芸を得意とする集団(放下師)、傀儡子、琵琶法師などそれぞれの芸能に分化してゆく。すると、猿楽は舞や演劇を元にした能芸の名称となり、大寺院や神社を拠り所とした座には楽頭などの特権的な層が現れ、中世社会の芸能・文化の中心的な集団を形成するようになる。春日大社や日吉大社などの庇護を受けた座が、大和の外山・結崎・坂戸・圓満井の四座や近江の山階・下坂・比叡の三座などとされる。ちなみに、大和の猿楽座である外山座は宝生流となり、結崎座は観世流、坂戸座は金剛流、圓満井座は金春流となってゆく。
さるがく 散楽・猿楽・申楽《サンガク(散楽)の転という。また、大嘗祭・鎮魂祭の神楽の舞などに奉仕した猿女(さるめ)の故事と混交したものか》即興的な滑稽なしぐさ。また、それを演ずる人。「さるごう」とも。散楽より発達。平安時代には、近衛の官人が相撲・競馬の節会や神楽の余興などに演じ、民間では寺社の祭礼に興行され、職業的芸能人を生んだ。「ただ笑はかさんとあるは、猿楽をし給ふか。それは物語にもまさる事にてこそあらめ」〈今昔二四ー二二〉「その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽・猿楽などひしぬき」〈宇治拾遺七八〉(『岩波古語辞典』)
猿楽能(さるがくのう)
『文化・風流・風習の部』「能楽」の項を参照。
田楽(でんがく)
平安時代から行なわれ、もと、田植等の農耕儀礼に、笛・鼓を鳴らし唄い舞ったものだが、やがて、専門の田楽法師が生まれた。腰鼓・笛・銅拍子・ささらなどを用いる群舞と、高足に乗り品玉を使い刀剣を投げるなどの曲技を伴った舞芸が現れるが、鎌倉期から南北朝にかけて、猿楽と同様の歌舞劇である能をも演ずるようになる。後に田楽能は衰え、寺社の行事などに伝えられるだけとなった。
もと田植のときの楽なればいふといひ、又神楽を申楽と書けるが更に変じて田楽となれるなりともいふ。
古昔、農夫が耕作の労を慰むるために奏したる一種の舞楽、後、一種の芸となりて専ら法師の業となる。囃子に「つづみ」「ささら」・銅拍子などを用ふ。歌ひ舞ひ又は手玉をとり、高足(タカアシ)に乗りて軽業などす。鎌倉時代より足利時代の頃盛んに行はれ、遂に本座・新座などの流派に分かれたり。(『廣辞林』新訂版)
豆腐を串にさしてあぶった物を、なぜ田楽というのだ。されば、田楽法師が白袴を下にはき、上に色のついた物を着て、鷺足(竹馬)に乗って踊る姿と、白い豆腐に味噌をぬりたてた格好とが、よく似ているから、それで田楽というのだろう。夢庵(牡丹花肖柏)の歌に、こういうのがあるから、ついでに紹介する。
たかあしを踏みそこなえる面目を 灰にまぶせる冬の田楽
(『醒睡笑』巻の一)
田楽は五穀豊穣を祈願する宗教的な祭事に由来し、種まきや耕作に関する素朴な擬態が舞踊化したもので、やがて農民の慰安ともなる。平安時代に、散楽の影響を受け新しい広義の猿楽に含まれ京都およびその近郊の流行となり、当時の貴族生活にも深く関わるようになっていった。長徳四年(998)四月の松尾祭に、恒例として山崎津の住人が田楽をなし、雑人等と合戦におよんだと『日本紀略』に表れるように、田楽の芸団化も進み、長承二年(1133)の宇治神社の祭日の様子を述べた『中右記』の中に「田楽法師原、其興極みなく、笛は定曲なく口に任せて吹き、鼓は定声なく手に任せ打ち、鼓笛喧嘩、人耳目を驚かす」とあり、この頃には田楽法師原という集団が登場してくる。やがてこうした集団は、宮座との関わりの中、田楽座を形成してゆく。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)
『中世職能民職種一覧』に「田楽」「猿楽」の項が有るので参照ください。
関連用語
雅楽(ががく)
雅正の楽という意で、中国古代には主として祭式楽。日本では、狭義には奈良時代前後に中国・朝鮮などのアジア大陸から輸入した楽舞とそれを模した日本製の曲(唐楽・高麗楽)、広義には日本の古楽(神楽・久米歌・東遊など)や唐楽・高麗楽の影響下に作られた新声楽(催馬楽・朗詠)も含めた宮廷音楽全般で、寺社でも演奏。(『広辞苑』第二版)
東遊(あずまあそび)
平安時代から行われた歌舞の一種。初めは東国地方の神事芸能であったが、宮廷や公家の間に採用、神社の祭礼にも奏する。舞人四人または六人で、狛笛・篳篥(ひちりき)・和琴を用い、笏拍子を打つ。現在は宮中の皇霊祭や日光東照宮祭・賀茂祭・氷川神社祭に行う。東舞(あずままい)ともいう。
神楽(かぐら)
「かむくら(神座)」の転訛した詞。神遊ともいう。宮廷で神を祭るに奏する舞楽。楽は和琴・大和笛・笏拍子の三つを用いたが、後、篳篥をも加え、歌は神楽歌を用い舞を伴う。民間の神社などで演じられる神楽と区別し、「御神楽(みかぐら)」ともいう。(『広辞苑』第二版)
御神楽の夜になりぬれば、事のさま、内侍所の御神楽にたがふことなし。これは、今すこしいまめかしく見ゆる。みな人たち、小忌(おみ)の姿にて、赤紐かけ、日かげの糸など、なまめかしく見ゆるに、かざしの花のありさま見る、臨時の祭見る心地する。
みな座につきて、おのおのすべき事ども、とりどりにせらるるに、殿も本末の拍子とりたまふぞうるはしき。日の装束なる殿は、今すこし、人たちの座よりはあがりて、御座しきなれば、それにゐさせたまひたり。使のかざしの花挿させたまひたる見るに、さまかはりてめでたき。本の拍子、按察使の中納言、笛、その子の中将信通、琴、その弟の備中守伊通、篳篥、安芸の前司経忠。あまたゐたりしを、こと長ければ書かず。
かくて御神楽はじまりぬれば、本末の拍子の音、さばかり大きに、高き所に響きあひたり。声聞き知らぬ耳にもめでたし。御神楽やうやう果てがたになるときこゆ。「千歳、千歳、万歳、万歳」と謡ふこそ、天照神の岩戸にこもらせたまはざりけんも、ことわりときこゆ。わが君のかくいはけなき御齢に、世を保たせたまふ、伊勢の御神も護りはぐくみたてまつらせたまふらんと、位保たせたまはん年の数そひ、末は長井の浦のはるばると、浜の真砂の数も尽きぬべく、御裳すそ川の流いよいよ久しく、位の山の年経させたまはん。まことに白玉椿、八千代に千代をそふる春秋まで、四方の海の浪の音静かに見えたり。
かくて御遊、果てがたになりぬれば、殿、御琴、治部卿基綱、琵琶、拍子、もとのごとく宗忠の中納言、笙の笛、内大臣の御子の少将雅定、笛・篳篥、もとの人々御つがひにて、殿の御声にて、「万歳楽いだせ」とて、われうち添へさせたまひ、二返りばかりにて、「安名尊」、「伊勢の海」など、乱れ遊ばせたまふ。宗忠の中納言、拍子とりていだす。(『讃岐典侍日記』)
上の記事は『讃岐典侍日記』にある御神楽の記述。内侍所の御神楽は十二月の吉日を選んで行なった。「小忌の姿」とは、神事にたずさわる官人が装束の上に小忌衣をつけた姿をいい、白の麻布に花や蝶や鳥を青摺りにしてある衣姿。それに赤紐を掛け、「日かげのかずら」という白や青の糸を組んだ「日かげの糸」を冠の左右にかけて垂らした姿は艶かしく見えるが、冠を飾っている造花の「かざしの花」を見ると、石清水や賀茂の「臨時の祭」を見ているようだと、その情景を述べている。
また、「『千歳、千歳、万歳、万歳』と謡ふ」というのは、本方が「千歳、千歳、千歳や、千歳や…」と謡うと、末方が「万歳、万歳、万歳や、万歳…」と謡う神楽の謡いをいう。「御遊」というのは音楽の事をいい、神楽が終った後の音楽。「万歳楽」は、舞楽の名で、「安名尊」と「伊勢の海」は、催馬楽の曲の名。
久米歌(くめうた)
古代歌謡の一。久米部(くめべ)が久米舞にうたう歌。記紀によれば神武天皇が久米部をひきいて兄猾(えうかし)・八十梟師(やそたける)・兄磯城(えしき)・長髄彦(ながすねひこ)を討伐した時、軍士を慰撫・鼓舞した歌および道臣命(みちのおみのみこと)が忍坂(おさか)で八十梟師の余党を討った時に歌った歌の総称。現在は宮内庁楽師が雅楽歌曲として演奏。
久米舞(くめまい)
古代、久米部の行なった歌舞。久米歌をうたい、笏拍子・和琴・竜笛・篳篥・を使用。舞人四人・歌人四人。歴代天皇の遊宴などに用いたが、平安以後は大嘗会・豊明節会にだけ行い、室町時代に廃絶。明治以後は大嘗会と紀元節とに用いられてきた。
催馬楽(さいばら)
雅楽歌曲の一種。馬子歌の意、或いは前張(さいばり)の転ともいうが、定説がない。奈良時代の民謡を、平安時代に至って雅楽の管弦の影響によって歌曲としたもの。句頭(主唱者)だけが笏拍子を打ち、和琴・笛・篳篥・笙・箏・琵琶などの楽器を伴奏とした。近世には和琴を用いない。
前張(さいばり)
雅楽歌曲の一種。神楽の採物の歌の次、雑歌の前に歌われる歌。大前張・小前張十六曲の称。また大前張七曲中の一曲の名。榛(さいばり)ともいい、割榛(さきはり)の音便ともいわれ、皮をはいだときに出る樹液を染料にしたものをいったもので、神楽歌に歌われた。
唐代に渡来し、唐文化を積極的に摂取した奈良朝の宮廷や寺院によって、その式楽という意味合いから歓迎された舞楽。左楽と右楽があり、左楽は唐楽の意で、これには林邑楽(安南シャム地方の楽)およびインド楽を含む。右楽は高麗楽の意で、靺鞨楽(渤海国・沿海州の楽)を含んでいる。これらは朝廷の雅楽寮、社寺に専属する楽師、楽生によって演奏・上演された。この芸能は古い物語中の興味ある一断面を演出しているが、一見しては何を意味するか判らないまでに抽象化され、当時においても内容を理解して観賞することは困難であったのでは無いかといわれ、国家の正楽として保護を受けないかぎり、それ自体が多くの人々の興味を引くまでにはいたらず、律令国家の衰退とともに衰微し、大衆芸能には発展しなかった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)
伎楽(ぎがく)
日本に最初に伝えられた楽舞。612年(推古二十年)、百済から帰化した味摩之(みまし)が伝えたとされる。味摩之は、中国南朝の呉国から学んだ伎楽舞(くれのうたまい)に長じていたことから、朝廷はこれを大和桜井里で少年に伝習させ、その後、諸寺院の仏会に荘厳として盛んに演じられた。その演技は科白を伴わない黙劇で、たぶんに滑稽味をおびたものであったことから、国家の正楽にはならなかったとされる。その後に伝えられた舞楽によって、奈良朝末期には衰退し、「教訓抄」に、そのころわずかに南都の四月八日の仏生会と七月十五日の伎楽会とに残存していたと書かれている。法隆寺正倉院に残る伎楽面から、インド・ギリシアの影響を受けた中央アジア起源の楽舞曲であったようだといわれている。
[『塵袋』にある伎楽の記述]
一、伎楽と云ふ、伎は何の意ぞ。
伎は衆の意也。一種ならず、あまたの心なるべし。伎は岐也と釈せり。岐はまた也。またはわかれてあまたになる義か。伎とかよはして釈す。妓とかくことあり。伎楽と云ふは、楽は八音をあやつりて衆音和合する故に、あまたの心をあらはす。凡そ伎は芸の心也。手にあるをば伎と云ふ、身にあるをば芸と云ふと釈せり。打物・引物・吹き物、皆な手のあやつりをはなれぬ能なれば、伎楽とも云ふか。両方何もたがはず。妓の字は女の義也。かみによりてかよへるか。慎子曰、毛薔(正しくは女篇)・西施則天下之美妓也と云へり。是は美女の心か。(『塵袋』七)
[芸能民の系譜]参照ください。
獅子舞
獅子舞(ししまい)
正月や祭礼の芸能として現在も行なわれている獅子舞は、古くは『古事記』に、弘計(おけ)王が室寿(むろほぎ)の宴で、シカの角を捧げて舞ったことが記されているが、今日の獅子舞の起源とされているのは、推古天皇の二十年(612)、百済人味摩之(みまし)が伝えた「伎楽面」と考えられている。
平安時代末期の『信西古楽図』によれば、頭部と尾部にそれぞれ一人づつ入って四つ足の獣体をつくり、一人がこれを引いて、二人の童子が鼓鉦をたたいてはやしたてている。
この「シシ」とはイノシシ、あるいはシカなどの獣類を意味し、岩手県や宮崎県で見られる鹿踊(ししおどり)はシカの相に類している。さらに言えば、愛媛県宇和島市の八鹿踊は雄ジカをかたどったものという。(『日本なんでもはじめ』)
自由民・道々の輩《遊女・傀儡・白拍子》
傀儡子
傀儡子(くぐつ)
広義には散楽芸能者一般の総称で、狭義には、人形使い(繰人形)をいう。
平安時代、一種の賤民が歌をうたい、あやつり人形を歌に会わせて舞わせた遊芸。また、その人形。また、その遊芸人。でく。でくぐつ。かいらい。(『広辞苑』第二版)
一、からくりの装置ある人形。又、其人形を歌に合はせて舞はする藝。二、まひひめ。舞姫。(『廣辭林』新訂版)
広辞苑にある「平安時代、一種の賤民」とあるのは、明らかに江戸期以降につくられた差別観から来るもので、遊芸を業とする傀儡子は賤民でなく、神人あるいは供御人として遊女同様、尊せられていた。彼等は自由を愛する誇り高き「道々の輩」でもある。
平安時代のころから、この人形を舞わして童幼婦女を相手に、諸國を巡演して歩く大道藝人があつた。それは平安時代の中期、大江匡房によつて書かれた「傀儡子記(くぐつまわしのき)」によつて証明される。傀儡子(かいらいし)というのは漢語で、傀儡即ち人形を舞わすことを職業としているもののことである。日本では後には、人形舞わしとも、首掛芝居などとも呼ばれた。古図によつて想像してみるに、首から二本の紐をさげ、その紐に箱の両端を結び付けて胸の前に保ち、その箱の上で人形を舞わせるのである。箱の上面が即ち舞台になるわけで、まことに簡単なものだつた。傀儡子は祭文や謡曲をうたい、それにあわせて人形をあやつるという仕組で、まず今日の紙芝居程度のものと考えて差支えない。この傀儡子の有力な一団が、摂津の國の西の宮へんに住まつていたらしい。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』より)
日本中世史の脇田晴子氏は、大江匡房の『傀儡子記』『遊女記』や後白河院の『梁塵秘抄』などの文を引用して、摂津の江口・神崎・蟹島等の津泊にいる芸能婦女を遊女といい、青墓などその他の宿駅にいた芸能婦女を一括して傀儡子と称したようだと述べている。そして「男は狩猟、人形つかい、幻術などを行ない、女は歌舞の芸と売春を行なった。美濃・三河・遠江が最高で、播磨・但馬が次、西海が下と匡房はランクをつけている。美濃青墓宿の傀儡子が有名であったように、傀儡子集団は宿駅に集まり、旅人を客としたものであろう。農耕を行なわず、養蚕もいとなまず、したがって何らの支配関係ももたないで、「課役なきをもって、一生の楽となせり」と記されている。」と「傀儡子・白拍子・遊女」(『日本女性史』所収)の中で述べている。これは散楽芸能集団を傀儡子と総称していたという事に外ならず、大山寺縁起に「爰に当山御願の猿楽の中に白拍子と云ふ遊女有り」とみえるように、当時(平安末期〜鎌倉初期)は猿楽も白拍子も遊女も巫女も同じようなものとして、把握されていたと脇田氏は述べている。
傀儡女(くぐつめ)
古代の遊女の称。水辺の遊女を「浮かれ女」と称したように、陸の遊女をいう。「青墓」などの宿場を本拠とし、旅人などの求めに応じて芸能や舞などを披露。もちろん枕辺にも添うことから、後には「女郎」「淫売婦」と同義語として使われるようになった。
傀儡師(くぐつし) 人形遣いの事。
○人形遣 芝居の人形は、はじめは西宮傀儡師を招きて舞せし也、江戸小平太といふもの名人也、羅山文集に云、鼓吹蛮琴あつて、木偶の動に応じて曲節あり、且是を操これを引、板を踏て呼者と、木偶と相得たる事、殆生がごとし、今日の為所の者、江戸第一の傀師小平太と号、近世の傀儡子、これ巧手たりと云々
野郎間
江戸和泉太夫が芝居に、野郎松勘兵衛といふもの、頭ひらたく色青黒き、いやしげなる人形をつかふ、これをのろま人形と云、野郎松の略語也、又謙斎左兵衛は、かしこき人形をつかひ、相共に賢愚の体を狂言せし也、それより鈍をいやしめてのろまといひ、癡漢(あほう)に比したり、此後そろまむきまなどいふもの出来たり
おやま
小山次郎三郎といふもの、女の人形をよくつかふ、遊女傾城の類を、おやまといふにより、是をおやま人形と云、
出つかひ
辰松八郎兵衛これをはじむ、惣体人形をつかふものは、黒き帳の影にて、黒き頭巾など被りて、己がかたちを見せざるは常也、かくする事は、人形の動に、従、をのれが身をもそのさまにうつすものゆへ、見ぐるしきを恥てなり、辰松は人形に手練し、上下を着し、手摺をはなれて、無量の手づまをつかふに、全身少もみたるゝ事なし、古今人形の妙手といへり、辰松幸助これに亞、各現在、大坂藤井小三郎、近本九八、中村彦三郎、皆出づかひをなす(『近代世事談』巻之三)
○傀儡師を、江戸の方言に山猫といふ、人形まはし也、一人して、小袖櫃のやうの箱に人形を入、背負て、手に腰鼓をたゝきながら歩行也、小童其音を聞て呼入、人形を歌舞せしめ、遊観す、浄瑠璃は義太夫節にして、三弦はなく、蘆屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段の類を語りながら、人形を舞し、段々好みも終り、是切といふ所に至りて、山猫といふ鼬の如き物を出して、チゝクワイ/\とわめきて仕廻也、我等十四五歳頃迄は、一ケ月に七八度ヅゝも来りしが、今は絶てなし、(小川顕道『塵塚談』)
山猫まわし
本名傀儡師 宝暦斎の句に、春雨や楽屋をかふるくわいらいし、その出立は能人の知れる者、英一蝶の画に見へて、寸分違はぬもの也、明和の末の頃迄は、折節に町々を修行せしを見受けし、多くは、山猫廻しと唱へ、呼び入れて舞すれば、古へより摂津国西の宮に伝へし伊吹山おろし抔云唱歌に、時のはやり事をまじへ、麁末なるおやま奴などの人形を廻し、果には、いつとても、ちゃん/\坊主とて、手袋の如きものに人形の頭を付け、ちゃんぎりてふもの持たるを、おのが左右の手に一ツづゝはめ、中指に頭、大指と小指に右のちゃんぎりを付て、こつちの子、向ふの子、隣の子もござれ、中よしこよし中よく遊べ、といへるを癖にして、人形二ツおもしろくつかひ、扨、例の山猫てふものは、いたちやらん、むじなやらん、毛皮にてこしらへたる小猫程の異物を箱の底より出し、ヤンマンネッコにカンマンショ、と子供を追ひあるき、興ずる事にぞ有ける、
蜀山云、予が稚き時まで傀儡師あり、小金の野辺の一本薄といふ歌をうたへり、又五郎といへる棒つかひをもつかひし也、(『只今御笑草』)
[『塵袋』にある傀儡の記述]
一、傀儡とかきてくゞつとよむ。二字心如何。
傀儡の二字をば、術芸也と釈せり。儡の字をば子の戯也と云へり。くゞつと云ふは、昔はさま/\〃のあそび・術どもをして、人に愛せられけり。今の世に其の義なし。女は遊君のごとし。男は殺生を業とす。又傀の字をばあやしとよむ。奇術を施す義か。又敗壊なりと釈せり。一旦目をよろこばしめて現ずる所の事無2始終1心か。(『塵袋』五)
- 【傀儡人形】(くぐつにんぎょう) 傀儡子が操るからくり人形。
- 【杖頭傀儡】(じょうとうくぐつ) お舞人形。足の一本を持って操る。
- 【懸糸傀儡】(けいしくぐつ) 糸で操る人形。
- 【水傀儡】(みずくぐつ) 水力を利用して動く人形。
- 【人形振り】(にんぎょうぶり) 舞い踊る傀儡人形に合わせて、あるいは操り人形の舞いの様に踊りを踊る事。『吉原御免状』では幻斎が、高尾の人形舞いにつられ踊るシーンが描写されている。
傀儡子族(くぐつぞく)
宿場や市を流れ歩き、主に芸能を生業とした。大江匡房の『傀儡子記』によれば、「傀儡子者無2定居1。無2當家1」とあり、元来狩猟民であって男はすべて弓馬に便で、双剣を跳らせ、人形を操り、幻術をよくし「変2砂石1為2金銭1、化2草木1為2鳥獣1」とある。女は媚術と歌唱にすぐれ、化粧に巧みで夫ある身でも「雖レ逢2行人旅客1、不レ嫌2一宵之佳会1」という。また、総じて「不レ耕2一畝田1、不レ採2一枝葉1、故不レ属2県官1、皆非2土民1、自限2浪人1、上不レ知2王公1、傍不レ怕2牧宰1、以レ無2課役1為2一生之楽1」とある。傀儡子族はその発生のはじめから女性上位の種族で、母系家族だったといわれる。(『吉原御免状』263)
白丁(はくちょう)
李朝時代に「白丁」と呼ばれた朝鮮の漂泊民族がいた。元々は兵役を忌避して山中に逃げた人々の集団といわれるが、真偽不明。この「白丁」には「禾尺白丁」と「才人白丁」の二種があり、「禾尺白丁」は柳器を作り狩猟に従い、馬を役することに長じ、屠獣を業とし皮革類をもって生活に資する習俗を持っていた。「才人白丁」も柳器を作り狩猟に従事するが、屠獣を業とせず、歌舞・遊芸を事とし、その女子には卜筮、祈祷を業とし売淫する者が多かったという。この「白丁」族が日本に来て住みついたのが傀儡子族だというのが、朝鮮外来説となっている。この説の根拠とするのは、傀儡子一族の芸能の種類が、殆ど中国・朝鮮の芸能と同一で、彼等の信仰が道教に発した「百太夫信仰」だという点にある。(『吉原御免状』265)
傀儡子族ジプシー説
ジプシーの発祥地は印度あたりとされ、その種族が西に流れてジプシーとなり、ユーラシア大陸を東へながれた一族が傀儡子族になったという説。確かに、その根っからの陽気さと、音楽と踊りへの天性の嗜好という点で、ジプシーと傀儡子族は似ている。(『吉原御免状』266)
[芸能民の系譜]参照ください。
白拍子
白拍子(しらびょうし)
中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女。(『平家物語』佐藤謙三注)
ここでいう遊女とは、上代の遊女(広義の遊女)の意で、白拍子と人をいう時には、今様を謡い舞を舞う(白拍子舞)ことを得意とする遊女を云う。
一、平安朝末に起りし遊女の歌舞、又、其歌舞をなしし遊女、鳥羽院の頃、島の千歳及和歌の前といふ二人の女の舞ひ始めしものといふ。鎌倉時代には多少行はれしが、足利時代に入りて遂に其跡を絶てり。始めは水干を着け立烏帽子を戴き白鞘巻をさし今様を謡ひつつ舞ひしかば、男舞とも稱せしが、後には水干・袴ばかり着ても舞へり。歌はもと神佛の縁起などを謡ひしが、後には戀愛・慶賀のものをも謡へり、囃子は鼓・笛・銅拍子なりき。二、妓。藝妓。(『廣辭林』新訂版)
※銅拍子 鐃鉢(にょうはち)に似て小さい真鍮製の楽器。
白拍子の始祖と云われる「島の千歳」、「和歌(若)の前」の名は『平家物語』『源平盛衰記』に現れる。
『衆道考』(貝原益軒『大和事始』)「白拍子」の項に、寛永年中、男色の劇しかったこと書いて曰く「盛衰記平家物語などに鳥羽院の御時、島の千歳若前とて二人の遊女舞はじめけるとあり。是白拍子の始也。兼好法師がつれづれ草には、磯の禅師、又其娘静より始るといへり。其ころまでは、猶古にちかゝりしかば、妓女の輩も郢曲をうたひ箏琵琶を弾ぜし由古記に見えたり。され共それは倡家の礼をよみ、屠兒の仏を拝するたぐひなるべし。
白拍子といへるは、近世の歌舞伎の類なり。歌舞伎の始は僧衣を着て鉦をたゝき仏号を唱て、念仏をどりと云ひしに、其後、名古屋山三郎と云しもの、出雲巫(みこ)くにといふものに密通し、くにに刀をさゝせ頭を包んで早歌ををしへ舞せければ、歌舞伎と云。これ慶長十九年の事也かの歌舞伎の歌に比田の横田の若笛とうたふも、皆出雲國の里の名にて、彼國より事始りける故也。淫侏の舞なれば、寛永年中に之を制禁し給ふ。其後叉小童を女形に仕立させて舞ほどに世の放蕩の子弟達男女にふけり淫風猶甚だし」と。(『江戸時代の猥談』阪田俊夫著)
また、『庭訓往来』の寛永以前の旧注を集した『庭訓往来抄』の「白拍子」の項では「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也。昔は白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也。」と有り、島千歳という妓女が、和歌の舞を舞ったのが始まりとし、通説である「和歌の前」を「和歌の舞」として、人の名としては「島千歳」一人となっている。これは、「和歌の前」を「和歌の舞」と読み違えたものか。
○男舞
白拍子の事 後鳥羽院の御宇、通憲入道は諸芸堪能の人也、舞楽をやはらげ、磯の前司といふ女に舞をおしへ、白干水立ゑぼしに、太刀を帯て舞しゆへに、男舞といふ、磯の前司は、生国讃岐大内郡小磯と云所の者、静が伝記にあり 女静御前と云も、此所の生れ也、而後娘静につとふ、後に太刀を帯す、これを白拍子と云、それより代々の白拍子につたふと也、今舞子踊子などいふは、これに比す(『近代世事談』巻之三)
喜多村信節(均庭)の『喜遊笑覧』に「白拍子」の記述あり、参照ください。
今様(いまよう)
神楽・催馬楽・朗詠等に対して、平安時代の新しい歌謡をいう。(『艶道通鑑』注)
今様という言葉の母体となる「今めかし」という語は、平安中期の文献に初出し、源氏物語・栄華物語などの物語にも現れる。当世風という意味で「今様」という語が使われ始めるのもこのすぐ後で、「枕草子」の「歌は」の条に「杉たてる門、神楽歌もをかし、今様はながくてくせづきたる、ふぞく(風俗)よくうたひたる」とある。しかし、当世流行の歌謡そのものを表わすようになるのは、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」(『吉野吉水院楽書』)とあるように、もう少し後の院政期に入った頃とされる。
後白河院が編纂した『梁塵秘抄』には、これらの今様が集められている。
遊女
遊女(ゆうじょ)
平安時代、帝や公卿・貴人の宴席に招かれ歌舞や歌合せなどに加わったり、酒席に侍るなどして場を華やかに盛り立てた職能民。遊び女、浮かれ女ともいう。江口の君と云われた「妙の前」などが有名。
「亦、もろもろの遊女・傀儡等の歌女(うため)を招きて」(『今昔物語』十三)
○うかれ女 遊女。「その後、いづれの御時にや、たはれめ、うかれめ、ゆうぢよ、ゆうくん、けいせいなどゝ、申しけるとは、うけたまはりて候」(『あづま物語』)
「遊女といふは、室の泊・三嶋江などにありて、船路の旅人に愛せられし故に、しか云ふ。是をたはれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ。古来和歌に読来れるも、遊女は水辺の事によせて読めり。(略)(六百番)歌合に、兼宗朝臣、波の上にうかれて過ぐるたはれめも頼む人には頼まれぬかは。皆是、遊女の題にて読める歌なり」(『色道大鏡』一)
『燕石十種』にある「遊女考」(前半、後半)参照。
後年の娼婦という意味と同義の「遊女」は『色里の部』「遊女」の項参照。
前(まえ)
前述の「和歌の前」「妙の前」などの前は、婦人に付ける尊称。
九、貴女の名に添えていう敬語。「玉藻の前」(『広辞苑』第二版)
また、この「前」に御の字を付けて「御前」ともいった。「静御前」「虎御前」など。
同・寄稿論文「遊女・白拍子と家父長制の浸透について」参照
『画証録』に「遊女 白拍子」の項有り、参照。
『中世職能民職種一覧』参照。
[芸能民の系譜]参照ください。

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