宮中・朝廷・幕府

官位

官位(かんい)

ここで云う官位とは、我が国の時の政府(朝廷)が中国の律令制を真似て制定した制度のことを云う。その始めは孝徳天皇の大化元年に定められたといわれ、その後文武天皇による大宝律令で整備された。さらに醍醐天皇による延喜式で大幅に見直され、以後この制度がほぼ確立された形として定着する。官は左右大臣などの役名(官職)を云い、位は正一位、従一位などの階級(位階)を云う。
この官位は、元来、当時の政府機関の役職名および序列・階級を表し、その主要な役職の多くは一部の支配階級であった天皇家を中心とする有力氏族が世襲していたが、支配層が朝廷から武士に移ると形骸化し、実質的な支配階級となった武家にも称号として与えられるようになる。
なお、摂政・関白職については『禁中』の項、官女については『後宮』の項にまとめてあります。

官職(かんしょく)

延喜式による官(役・役所)名とその官職名

ーーー  長官(かみ)次官(すけ)判官(じょう)主典(さかん)
神祈官 /伯     副     佑      史
太政官 /太政大臣 大納言    弁      史
     左大臣  中納言   少納言     外記
     右大臣
    (内大臣)
省   /卿     輔     丞      録
坊・職 /大夫    亮     進      属
寮   /頭     助     允      属
司   /正     典膳    佑      令史
     奉膳
後宮  /尚侍    典侍    掌侍
(内侍)
署   /首           佑      令史
台   /尹     弼     忠      疏
近衛府 /大将    中将    将監     将曹
           少将
衛門府 /督     佐     尉      志
兵衛府  別当
検非遺使
鎮守府 /将軍    副将軍   軍監     軍曹
太宰府 /師     弐     監      典
国司  /守     介     掾      目
郡司  /大領    少領    主政     主帳
斎院司 /長官    次官    判官     主典
勘解由司 使
施薬院司など
(新訂『官職要解』和田英松著:参考)

【官職・官名】 

これら官職・官名が政府機関として機能していたのは平安朝までで、武士が政権を取った鎌倉以降は、朝廷の制度として残り、官職名だけが時の政府の役人に、称号として与えられるようになった。[官位・官職の解説]へLinkIcon

位階(いかい) 

朝廷に仕える人々を、その尊卑により等級をつけて定めた位。推古天皇の時代に初めて作られ、天武天皇により六十階の位が設けられ、その後たびたび改定されるが、大宝令の時に整備され、それが後代に渡って用いられた。
大宝令の位階は、親王が一品(ほん)から四品までの4階、諸王は一位から三位の正従6階、四位、五位は正従上下合わせ8階で14階、諸臣は一位から三位の正従6階、四位から八位の正従上下20階、大初、少初上下4階の30階となっている。

【位階と官職の関係】 

官職はそれぞれの位階によって任ぜられ、位階の低い者はその位階相当の役にしか任ぜられることはない。また、報酬(得る禄や使用人の数)もその位階によって定められていた。

公卿(くぎょう) 

大臣、大中納言、参議、および三位以上の人々をいう。また四位であっても参議であれば公卿といった。公卿のことを卿相(けいしょう)、月卿(げつけい)、上達部(かんだちめ)、棘路(きょくろ)などともいう。

[公、卿、朝臣]
○三大臣は公と称す。三位以上卿と称す。(藤原朝臣定家卿)。 殿上五位は某朝臣と称す。(源頼朝朝臣)。氏の朝臣と地下にても称す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

散位(さんに) 

公卿のうち官職のないものをいう。一度参議以上を勤めたものでも現職でないものを皆散位といい、現職にあるものはとくに現任公卿といった。

○散位のこと四位五位の人無官なれば散位の二字を用ふ。漢土に文散官武散官とあるこれなり。三位以上は公卿なり。公卿にして無官の人これを非参議と云ふ。これ公卿なれども官なくして、政事にあづからざればなり。四位五位の無官には散位と書す。六位以下は侍ひの官にして、位田なし。故に散位の二字を不用。▲しかれども公卿の官にあらざる人、二位三位に叙せらるゝ、これを散二位、散三位と云ふ。又非参議の四位と云ふものは前の参議なり。三位以上を称する非参議とちがへり。四位の公卿は宰相を限るゆへなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

殿上人(てんじょうびと) 

四位、五位の昇殿を許されたものの通称。この昇殿は一代限りで、天皇が代わると新たに選定される。そのため公卿であっても昇殿を許されない者もあった。
ましてや無位無官のものが昇殿を許されることは無く、後水尾天皇の時に無位無官の春日局が、将軍の名代として参内を求めてきた時に問題となり、『春日局参内事件』といわれた。

地下(じげ) 

昇殿を許されぬ者の総称。昇殿は勅許でなければすることができず、昇殿を許されなかった公卿を地下の公卿、地下の上達部といったとある。

○公家にてなく外ざまの役人を地下と云ふ。常の農工商を地下といふはこゝろへ違なり。大体の武士をも地下と云ふ。外記が地下の頭なり。

江戸期の儒者伊藤仁斎の次子梅宇が元文年間に著した『見聞談叢』に有識故実関連の記述があるので参照ください。

禁中

禁中(きんちゅう)

天皇の御座所、皇居のことで、禁闕、禁内、禁裏、内裏、御所、御殿、宮中などさまざまに表される。元は禁闕(きんけつ)の中、内という意味から禁中と呼ばれた。禁闕とは御門・禁門の意。
禁裏、内裏の裏は裡(うち)の意で、禁裡、内裡とも書く。

朝廷(ちょうてい) 

天皇、君主が政事を行う場所。このことから、天皇の政治機関の意を含んだ言葉として使われる。朝は王朝の意で、明朝、清朝、あるいは奈良朝、平安朝などに使われる朝の意。

【朝敵】(ちょうてき) 

朝廷に仇を為すもの。天皇に背き乱を為すもの。近くは幕末維新で、長州藩が朝敵となったり、幕府が朝敵となった。

天皇(てんのう) 

天子(てんし)、皇帝(こうてい)、乗輿(じょうよ)、上(じょう)、大君(おおきみ)などの名目がある。日本古来の呼び名は「すめらみこと」、「すめらぎ」などと言った。「みかど」は宮門(みやかど)から来ていて、帝、御門などの文字を当てた。また『御伽草子』に「宝はいかなる十善の君と申すとも、これには過ぎじとぞおぼえける。(文正さうし)」と、天皇を「十善」という語で称している。これは前世に十善を修めたことによりお生まれになったという意。 

【皇后】(こうごう) 

天皇の后。中宮。

上皇(じょうこう) 

太上天皇(だいじょうてんのう)、太上皇(だいじょうこう)の略。先帝ともいい、「おりいのみかど」「さきのてんのう」ともいう。天皇が帝位をおりた後の名目。

一、太上天皇と申すは太上何なる義ぞ。
文選に、太上は不辱先と云ふ文を、呂延済釈するには、太上は謂2第一1也と云へり。漢の高祖の父大公を貴て為2太上皇1事を史記に云へるにも、太上無上也、皇徳2大レ於レ帝1故に為2太上皇1云へり。張銑曰く、皇美也。尓雅曰、皇は君也。又太上を太古と釈せることあり。是は別事也。(『塵袋』五)

法皇(ほうおう) 

上皇が剃髪して仏門に入ると、太上法皇といい、略して法皇という。

院(いん) 

上皇・法皇の住まいを「院」といったことから、上皇・法皇そのものを「院」というようになる。上皇・法皇が何人もいるときには、一番目の上皇・法皇を「一の院」あるいは「本院」といい、次を「中院」(なかのいん)、一番新しい上皇・法皇を「新院」(しんいん)といった。

仙洞御所(せんとうごしょ) 

上皇の住まい。仙洞は仙人の住まいの謂いで、そこから上皇の住まいをたとえて名付けられた。

皇太后(こうたいごう) 

天皇の母。また、太皇太后(たいこうたいごう)は天皇の祖母を言う。

摂政(せっしょう) 

天皇が幼少である時に、天皇に代わって政務を行う職。万機の政(まつりごと)を摂(す)べることから名付けられた。この職は、応神天皇の時代、天皇がまだ幼く母の神功皇后が務めたことが始り、推古天皇の摂政が聖徳太子、斉明天皇の摂政が中大兄太子など、当初は皇后・皇太子などがなっていたが、清和天皇の時代に外祖父藤原良房が臣下で摂政になったことから、この職名が定められ、以後、藤原氏をその職に任じるようになる。

関白(かんぱく) 

天皇を補佐し、百官を統べて万機の政を行う職。摂政は女帝、幼帝の時におかれるが、天皇が元服すると関白となる。関白の字は『漢書』宣帝記に「諸事皆先ず光(霍光)に関わり白(もう)し然る後に天子に奉御す」とあることによるとされる。光孝天皇が太政大臣藤原基経に下したのが始めとされ、宇多天皇も基経に関白の詔書を下し以後、職名となって藤原氏の職となった。

摂政・関白の職は、のちには藤原道長の子孫ばかりがなり、鎌倉時代になるとその子孫が「近衛」「鷹司」「九条」「一条」「二条」の五家にわかれ、交替で摂政・関白の職につくこととなる。このことからこの五家を「五摂家」と称した。
また、摂政・関白は概ね大臣との兼職で、必ず藤氏長者を兼帯する。さらに、官の順によらず第一の席についたため、内大臣であっても関白職にあれば太政大臣より上の席次となった。そのため摂政・関白を「一の人」ともいう。

○陽成帝元慶五年、右大臣基経摂政をやめて関白となる。これ関白のはじめなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

一、関白と云ふ子細如何。
漢の武帝のとき、霍光と云ふ人あり。武帝の御子、孝昭皇帝位につき給ふ。武帝失せ給て、八歳にて帝位を踏み給ふ。霍光其の時き摂政にて政を行ふ。孝宣皇帝の時き本始元年に、諸事みなまづ霍光に関白して後に、奏聞せよと仰下しき。関白と云ふことは是より始まるにや。(漢書霍光の伝に見えたり)さて二十年が間だ政をとりて、天下泰平なりけり。此の霍光は博陸侯に封ぜられけるより、博陸の名も有とかや。侯をばきみと読む。君也。その所一にとりてきみとあふがるゝにや。(『塵袋』五)

太閤(たいこう) 

前の関白のこと。禅閤(ぜんこう)ともいう。豊臣秀吉を太閤秀吉という例。

[太閤、禅閤]
○関白の人隠居して其子又うちつゞき関白をなれるを太閤と云ふ。たとへば秀吉公関白その子秀次又関白になれるゆへ秀吉公を太閤と称せり。太閤になりてかざりをおとせるを禅閤と云ふ。▲一説にその身一代斗関白にて子関白たらざれども禅閤と称すともいふ説あり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

北の政所(きたのまんどころ) 

摂政・関白の妻室の尊称。太閤秀吉の正室・高台院が有名で、「北の政所」といえば太閤秀吉の正室を一般的に指す。

後宮

後宮(こうきゅう)

天皇の御寝所に侍せる女御、更衣などや、内侍司以下の女官をまとめていう。大宝令では、皇后の下に妃(ひ)二員、夫人(ふじん)三員、嬪(ひん)四員と定めた制があり、妃は皇族の女性、夫人は三位以上の女性、嬪は五位以上の女性の中から選ばれたという。この名称は延喜式にもあったが、のちには女御、更衣という名称ばかりとなった。

女御(にょうご)

 延喜式では、夫人の下で、待遇は嬪と同等であったが、だんだん地位が上り、摂関・大臣の女を女御とするようになり、そこから皇后に上がるようになる。この女御は、宣旨を下して補せられ、位階が与えられた(三位以上)。

更衣(こうい) 

もとは天皇のお召しかえをする便殿に参候して御用を勤める役だったことから、更衣といった。のちには御寝所に伺候するようになり、女御の次の位の名となる。位階は四位、五位に叙せられた。

御匣殿(みくしげどの) 

貞観殿(じょうがんでん)のことをいい、天皇の装束などを裁縫する所。ここの官女の長を御匣殿別当といい、公卿の女(むすめ)が入内し、まずは御匣殿別当となって、そこから女御となることもあった。

内侍司(ないしのつかさ) 

常侍、奏請、伝宣などのことを掌る。上古は温明殿(うんめいでん)の内の神鏡が置かれた所(賢所:かしこどころ)に、内侍がつめていたので、その場所を内侍所(ないじどころ)という。内侍所はまた局(つぼね)ともいった。

[内侍所]

○本朝三種の神器の内、鏡を内侍所と云ふ事は、六十二代村上帝の天徳二年九月に内裏炎上、平安城へ遷都より後十三代をへて始めて炎上、宝物こと/\〃く焼失、神鏡温明殿にありしがをのづから飛び出て、南殿の桜の上にかゝりしを、内侍袖にうけ奉れり。それより内侍所と申すなりと申すなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

尚侍(ないしのかみ) 

二人。常侍、奏請、伝宣に供奏し、女孺を検校、さらに内外の命婦の朝参、禁内の礼式を掌る。位階は、もと従五位だったが、平城天皇の時代に従三位に上がり、尚侍が御寝所に伺候するようになるとさらに上の位になった。

典侍(ないしのすけ) 

四人。略して「すけ」あるいは音読みのまま「てんじ」ともいった。神璽鏡剣を捧持する役。位階は、当初従六位であったが、のちには従四位となり、二位三位に進んだ者もあったという。

掌侍(ないしのじょう) 

四人、他に権掌侍(ごんのしょうじ)二人。たんに内侍というときにはこの掌侍を指す。例えば文中、「周防の内侍」「弁内侍」とあるときは、この掌侍のこと。位階はもと従七位だったが、のち従五位に上った。この掌侍の中で、第一臈を「勾当内侍」(こうとうのないし)という。またこの勾当内侍はつねに長橋にいたことから「長橋局(ながはしのつぼね)」「長橋殿」とも呼ばれた。

[掌侍、勾当内侍] 

○掌侍 正四人、権二人、此の内一の内侍を勾当内侍とす。今の世は勾当内侍、宣伝奏請をつかさどる。自2将軍家1あるひは初鶴を献ぜらるゝ達の内書、かな文にてあてどころ内侍なり。その外仏者に長老号を給る様の時、又本寺の僧、勾当に申して勾当これを奏して其宣をうく。是近代の例、諸司代、参たいの時事によりて勾当あいさつせるなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

上臈(じょうろう) 

御匣殿、尚侍、および二位、三位の典侍で禁色を許された者を称した。

【小上臈】(こじょうろう) おもに公卿の女(むすめ)を称した。

[上臈、小上臈]

○参議及散二位三位以上の女め、凡公卿の女め二位三位に敍するが、典侍に敍すれば上臈と号す。未二位三位典侍に敍せざる時は小上臈と号す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

中臈(ちゅうろう) 

その他の内侍の女官。および侍臣の女、医道の和気氏、丹波氏、陰陽道の賀茂氏、安倍氏などの女を称した。

[内命婦、外命婦、中臈]

○内命婦は五位以上を帯する女官を云ふ。外命婦は五位以上の人の妻なり。中臈は五位四位の人の女なれども、その身五位に敍せられば内命婦と云ふべし。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

下臈(げろう) 

摂関家の家司の女や、賀茂・日枝社の社司の女、女蔵人などを称した。

これら上中下臈、小上臈を総称して女房という。この女房たちの名は本名で言わず、呼名といって男の官名や国名、候名などをつけて呼ぶ。官名の呼名は、上臈・中臈に付けられ、大納言局、中納言局、三位局(さんみのつぼね)などが上臈、小宰相(こざいしょう)、小督(こごう)、小兵衛督(こひょうえのかみ)などが小上臈、中臈の呼名、中将、少将、左京大夫、宮内卿、新介(しんすけ)、左衛門佐(さえもんのすけ)、侍従、少納言、少弁(こべん)などが中臈に付けられた。国名は中臈、下臈に付けられる。国名の中では伊予、播磨、丹後、周防、越前、伊勢の国名が上等とされ、主に中臈に付けられ、その他は下臈に付けられた。
これらの事から、隆慶作品で「菅内侍」「新大佐」とあるのは中臈で、「讃岐」は下臈クラスの官女を指している事が分かる。

壺(つぼ) 

後宮には五つの舎があり、その建物内の中庭を「壺」という。その庭の主な庭木の名を取り梅壺、桐壺などと称し、その庭のある建物をも指す。(『御伽草子』注)

喜多村信節(均庭)の『嬉遊笑覧』に「局」「壺」の記述有、参照下さい。

後宮十二司(こうきゅうじゅうにし) 

後宮を掌る役所(司)が、十二あったことから呼ばれる。先述の「内侍司」を筆頭に、「蔵司(くらつかさ)」「書司(ふみのつかさ)」「薬司(くすりのつかさ)」「兵司(つわもののつかさ)」「藺司(みかどのつかさ)」「殿司(とのもりつかさ)」「掃司(かにもりのつかさ)」「水司(もひとりのつかさ)」「膳司(かしわでのつかさ)」「酒司(みきのつかさ)」「縫司(ぬひのつかさ)」の十二司をいう。それぞれの司には、尚(かみ:尚蔵、尚書、尚薬等)、典(すけ:典蔵、典書、典薬等)等の役職や、女孺(にょじゅ)がいる。

その他の女官

按察(あんさつ)

○院の女房を按察と云ふ。天皇の時の典侍以上の官女、天皇御位をすべり玉ひて後、又仙洞へ仕るを按察と称す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

髪上采女(かみあげのうねめ) 

○陪膳の采女なり。陪膳の時さげ髪にては、万一御膳をけがすこともあらんかとて、かうがひにてわなにとりあぐるゆへなり。▲禅閤の一説には、天子の髪をゆひあぐる采女。▲又一説に、即位節会の時女中の髪をゆふと。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

走内侍(はしりないじ)

○行幸の時前行して天子をまち奉る。この時得選(三人ありてかみあげ采女これをかぬ、)大袋をもちて内侍と同じく御さきへまひる。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

大袋

○天子御幸の時など、当用の御調度を入れて采女などの持つ袋なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

刀自(とじ)

○御膳の役の官女、御前にはいでずして、御膳を持して鬼の間に往返す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)


幕府

幕府(ばくふ)

始め近衛大将の事をいう唐名で、幕下ともいった。右大将源頼朝を右幕下頼朝と称したのはこの例による。やがて征夷大将軍が置かれ、将軍の事を称するようになった。幕府は『漢書』に現れ、その注に「将軍の職、征行に常のところ無し。所在に治を為す。故に莫府と言ふなり云々。師古曰く、莫府とは、軍幕を以て義と為す。古字通じて単に用うるのみ。軍旅には常の居止なし。故に帳幕を以てこれを言う」と有り、将軍の居所をいうのだが、我が国では職名として用いられ、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉に有って政事を行ったことから、本来の意味の「将軍の居所」としての幕府という言葉が用いられるようになった。

征夷大将軍(せいいだいしょうぐん) 

訓では「えびすをたひらぐるいくさのきみ」と読む。元は征夷使と云い、大将軍、副将軍、軍監、軍曹などの役が置かれていた。元正天皇の養老元年(717)、多治比真人県守を持節征夷将軍としたのが始めで、その後坂上田村麻呂、文屋綿麻呂などが征夷大将軍となっている。この時期は文字通り、大和政権の支配が及んでいない東国の蝦夷などの征討を目的とした職だった。やがて蝦夷の反乱が収まり、東国が鎮静化するとその職は途絶えた。天慶二年(939)、平将門の乱の時に参議藤原忠文を兵馬の権だけを持つ征東将軍に任じたが、寿永二年(1183)、木曾義仲が同じ例の征夷将軍に任じられる。やがて源頼朝が平家を滅ぼし、建久三年(1192)に征夷大将軍となった時には、兵馬の権ばかりでなく政権をも掌握する将軍が生まれた。

建武中興から南北朝期には征夷将軍以外に、陸奥・出羽の軍国を管理する鎮守府将軍(北畠家がこれに任ぜられる)、征東将軍、征西将軍(いづれも親王職)も置かれた。

将軍は、幕府、幕下、大樹、柳営、公方とも称される。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)

建久三年(1192)、平家を滅ぼした源頼朝が政事を執り行った場所が鎌倉だったことから、鎌倉幕府と呼ぶ。しかし、源家が幕府だったのは三代実朝までで、その後、源氏の血筋は途絶え朝廷の摂政の役にあった藤原道家の子頼経を迎えて将軍とし、政事の実権は執権北条氏に移る。こうして将軍職は名目だけとなり、頼家の後には後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を迎え、以後、朝廷から親王を迎えて将軍職につける慣例が生まれ、建武中興の後醍醐天皇の代までこの例が続く。

[鎌倉幕府の職制]
『歴史用語の基礎知識』別館「官位・官職の解説」の項の下部にある[鎌倉幕府の職制・職名一覧]をご覧ください。

室町幕府(むろまちばくふ)

後二条天皇の後を受けた後醍醐天皇は中継ぎ的な存在だったが、後宇多上皇の院政を廃して親政とすると、その専制的な性格から政権を武家から奪還すべく正中の変・元弘の乱と二度の倒幕計画を起すが失敗し隠岐に配流となる。しかし倒幕の動きは収まらず後醍醐天皇の皇子護良親王や楠木正成が再び決起すると隠岐を脱出し倒幕活動を展開。この動きに鎌倉御家人だった足利尊氏や新田義貞等が呼応し、元弘三/正慶二(1333)年、ついに尊氏によって六波羅探題が破られ鎌倉幕府は瓦解した。こうして政治の権力は再び天皇の元に還り、建武親政がスタートするが、武家政権の再興を企てた尊氏は延元元/建武三(1336)年、後醍醐天皇を吉野(南朝)に追いやる。尊氏は新たに光明天皇を皇位につけ(北朝)、ここに朝廷は南北二朝に別れる。延元三/暦応元(1338)年、征夷大将軍に任じられた尊氏は京都に幕府を開いた。この時、初代尊氏、その子二代義詮は二条に居を構えていて室町幕府の名はまだ無い。三代義満の時に京室町に「室町殿」あるいは「花の御所」 と称された新第を造営し、明徳三・元中九(1392)には南北二朝も統一され名実共に室町幕府が誕生した。

[室町幕府の職制]
『歴史用語の基礎知識』別館「官位・官職の解説」の項の下部にある[室町幕府の職制・職名一覧]をご覧ください。

江戸幕府(えどばくふ)

天正元年(1573)、室町幕府十五代将軍足利義昭は、信長に反旗を翻し近江の今堅田、石山の砦に挙兵するが信長に敗れ同年七月、信長に京都を追われ河内に退却し、室町幕府は滅亡する。その後、天下統一半ばで倒れた信長の後を受けた羽柴秀吉は、実権を握ると将軍職にはつかず豊臣姓を賜り関白となって国政を執る道を選んだ。これは将軍職が源氏の長者でなければ任ぜられない事からの選択とみられている。秀吉は甥の秀次に関白職を譲るなど、一族での長期政権の道を模索したが、嗣子に恵まれず、漸く嫡子秀頼が誕生したのは晩年の文禄二年(1589)で、九年後の慶長三年(1598)、豊臣政権内の重臣である五大老に後見を託して没した。翌年、五大老の一人で徳川家康と並ぶ実力者の前田利家が没すると、政権の実権は家康が握る。家康は豊臣政権の行政機関ともいえる石田三成ら五奉行の形骸化を謀り、それに反対する中心的人物の石田三成を挑発、上杉征伐と称して伏見・大坂を留守にした隙に反家康の兵を起させ、雌雄を決する戦を関ヶ原に持込むことに成功した。数の上では負ける筈も無く、万全の陣型で臨んだはずの石田方西軍だったが、この事を見越し周到に根回しをしていた家康の計略の方が勝り、家康の東軍が勝利する。こうして家康はまんまと反家康勢力の一掃に成功し、慶長八年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ、居城のある江戸に幕府を開いた。

[江戸幕府の職制]
『歴史用語の基礎知識』別館「官位・官職の解説」の項の下部にある[江戸幕府の職制・職名一覧]をご覧ください。

作事方と小普請方

現在のみずほ銀行(元富士銀本店)辺りに「作事方定小屋」と「小普請方定小屋」があったという。「作事方」と「普請方」というこの職は「作事奉行」、「普請奉行」とも呼ばれていた。ともに鎌倉、室町、江戸とひきつがれた職で、江戸幕府においては老中に所属した。

「普請方」というのは

当時、濠や石垣の工事は「普請」とよばれ、縄張りと称する城郭の設計を担当するものであって、武士の仕事であった。江戸城築城時の加藤清正、黒田長政、藤堂高虎らに代表される。石垣普請は西国大名、濠の開さくは関東、奥羽の大名達が主にあたったといわれている。

「作事方」というのは

建築関係で大工の仕事を行う。大工仕事というと町の大工職人を想像するが、江戸城の建築は中井大和、甲良豊後、木原内匠、平内大隈、鶴飛騨、鈴木近江、弁慶小左衛門などの御用大工と呼ばれる人々であった。彼等はたびたびの合戦に従事し、陣小屋の仕事にたずさわって来た歴戦の強者でもある。彼等は「御用大工」とも呼ばれていた人達で、中井大和などは大和の土豪武士で、家康から五畿内および近江の大工、杣職人一万六千人の支配を許されていたと伝えられる。人数の点からみれば二〇万石位の大名に相当するという。

武家政権下の朝廷の役

武家で政事を執るようになると、朝廷の百官は皆職掌を失い、ただ儀式などを行うだけとなっていた。ただ伝奏、議奏という役名が生まれ、後には平常朝廷で政務をとるものは関白とこの伝奏、議奏、職事および地下の役人ばかりとなった。

伝奏(でんそう)

武家から願い出ることを伝達奏聞する役で、もとは上皇の御所に置かれていた。後醍醐天皇の建武中興期には、伝奏が二十四人いて、それを四組にわけて日々執奏していたことが『建武年間記』に見える。足利期になってから武家伝奏という職名になった。徳川期には伝奏は二人置かれ、納言、参議の中から学才があり弁舌の優れたものを選んで補せられた。伝奏は時々江戸へ下向することもあり、武家に関すること一切に関係した。

議奏(ぎそう)

武家伝奏の関係しない御用を議する役。武家における老中のようなもので、伝奏より奏聞することは、まず議奏に伝えられ、議奏が天皇に奏した。天皇からの御用も議奏から奉じられた。定員は三、四人でこれも納言、参議の中から任じた。この役名は後鳥羽天皇の文治元年(1185)、議奏十人を置いて庶般の政務を議奏させたことが『吾妻鏡』に見える。室町期には御年寄衆、御側衆などといい、江戸期に入った貞享三年(1686)、再び議奏と改められた。

昵近衆(じっきんしゅう)

将軍に昵近して接待する役。将軍が上洛した時や関東の使が出京した時に、とりもちに出る役。これは足利時代に出来た役で、その家も十七軒に定まっていた。

禁裏付武家(きんりつきぶけ)

和子入内にともない、和子の警衛と称して徳川幕府が女院に送り込んだ護衛の武士。

瓢水コラム

[後光明天皇を監視した禁裏付武家(その1)]
 『花と火の帝』の敵役・弓気多源七郎昌吉は、元和6年(1620)6月に秀忠の娘和子が入内した際に、女院付武家として京に上った。隆先生が、「源七郎に与えられた任務の最大のものは、天皇の監視だった(中略)その他、公家衆の監視、出入りの町衆の監視と多岐にわたる」(講談社文庫版、95頁)と書いているように、女院付武家の役目は朝廷全般の監視であった。お目付け役という職掌柄、かなり強面な存在だったようだ。
 女院付武家が役宅から出勤する際は、15、6名ほどの行列を組み、案内同心の先導により宮中武家玄関から上る。「御付さんお上りい」という仕丁の大声に迎えられ、伺候の間に通ったと云う(宮尾登美子『東福門院和子の涙』講談社文庫、277頁)。
 その後、寛永20年(1643)8月に女院付武家に加えて禁裏付武家が設けられるのであるが、その理由は、徳川家と血縁関係のない後光明天皇が即位したことにあった。(2004年2月3日瓢水記)
[後光明天皇を監視した禁裏付武家(その2)]
 後光明天皇は後水尾天皇の第3皇子で、母は壬生院藤原光子。寛永10年(1633)の生まれであるから、寛永9年正月5日に生まれた松永誠一郎の“異母弟”ということになる。11歳で即位した後光明は、聡明にして鋭気に富んだ人物であり、武芸にも興味を示し、それを諌めた京都所司代板倉重宗を逆にやり込めたと伝えられている。
 後光明が即位した時点で幕府がこのような事態を想定したとは考えにくいから、徳川家と血縁関係のない天皇が即位したこと、後水尾法皇が未だ健在であることを警戒して、禁裏付武家を新たに派遣したと思われる。
 『徳川実紀』は、「目付高木善七郎守久。女院附天野豊前守長信 禁裏附命ぜられ。目付野々宮新兵衛兼綱は大岡美濃守忠吉とおなじく 女院附命ぜられ。ともに与力五騎。同心三十人づゝ附属せられ。書院番中根五兵衛正次、大番組頭榊原一郎右衛門元義 新院附命ぜられ。与力二騎。同心十五人附属せられ」(寛永20年8月晦日条)と記している。(2004年2月4日瓢水記)
[後光明天皇を監視した禁裏付武家(その3)]
 禁裏(後光明)附武家と女院(東福門院和子)附武家の下に70名ずつ、新院(明正)附武家に下に34名の御家人が、それぞれ附属されていたことが判る。つまり、総勢160名の武家集団が京に常駐していたことになる。隆先生が形容したように「正に軍団一個に匹敵する武力だった」(『花と火の帝 下巻』講談社文庫、95頁)と言えるだろう。この他に、明正には「伊賀士六人」も附けられていた(寛永20年9月14日条)。
 彼等の具体的な任務は何だったのだろうか。『徳川実紀』の寛永20年9月朔日条に詳しい記述がある。それによると、イ.京都所司代板倉重宗の指揮の下、御附武家6人がよくよく相談すること、ハ.各御所を隊下の同心で厳重に固めること、ニ.会計監査を厳重に行ない、帳簿を所司代に提出すること、ホ.先例を厳守し、新規の事柄は所司代に諮ること、などが記されている。各御所を完全な監視下に置くことが、幕府の意図するところであった。(2004年2月5日瓢水記)  
[後光明天皇を監視した禁裏付武家(その4・完結)]
 禁裏附武家は2人1組の月番交代で、その月番の者は毎日参内し、京都所司代や武家伝奏の指示を受ける形で、公家の行跡の監督や口向(勝手向)役人の支配と共に禁裏の諸経費の決済を行い、合わせて禁裏の諸門の管理も行なった(高埜利彦『江戸幕府と朝廷』、38頁)。表立ったことはせず、裏方に徹して朝廷を監視したと言える。女院附武家と新院附武家も、おそらくは同じような職掌だったのであろう。
 余談であるが、山田風太郎『柳生十兵衛死す 上・下』(小学館文庫)は、十兵衛が女院(明正)附武家であったという設定になっている。しかし、『徳川実紀』を繰ってもそのような記事を見つけることは出来なかった。風太郎氏の創作であろう。本作で後水尾法皇が重要な脇役として登場する点や執筆時期から考えると、『花と火の帝』の影響が大きいように思われる。隆慶作品が提示した新たな視点を取り入れた好例と言えるだろう。(2004年2月6日瓢水記)

その他の朝廷用語

青侍(あおさむらい)

公家・官家に仕える侍。主に主家などの警護にあたった。

備中笠岡の国学者小寺清之が著した『老牛餘瑞(ろうぎゅうよぜん)』にある文を下に紹介。
○青侍
福山の藩士小川直貞(通称嚢平)いへらく、官家につかはるゝ侍を、アヲサムラヒといひて、青侍とかけども、アヲは色の青にはあらず、襖(あう)なるべし。そは官家にて下ざまの着る衣を素襖(すあう)といへば、素を省きて襖侍といふなるべし。アウをアヲに転じて、青の訓をかりたるなり。文字かきやすければなり。和泉式部の稲荷社に詣でられし時、雨降れば、アヲといふ物借たりしといへるアヲもこれにて、素襖を雨衣のかはりに着たるなりといへり。此説いはれたり。韻鏡に襖は二十五開の効につける奥に同じくて、アウの仮名なり。そのウをクォに転じ用ひたるなり。古今集にセウをセヲに転じ、拾遺集に紅(こう)をコヲに転じ用ひたると同じ例なり。
古今集物名 さゝ まつ ひは ばせをば
いさゝめに時まつまにぞひはへぬる こゝろばせをば人に見へつゝ
拾遺集 物名 紅梅
鶯のすつくる枝を折つれば こをばいかでかうまんとすらむ
(小寺清之『老牛餘瑞』)

御湯殿(おゆどの)

清涼殿の西庇の北の一室。湯などをわかし、食膳を調える部屋。また、近世では大名の屋敷などで、お茶の湯などをわかす部屋をもいった。

【御湯殿上】(おゆどののうえ) 

清涼殿の御湯殿につづいた一室。御湯殿に奉仕する女官の詰所で、食膳の具などを置いた。

【御湯殿上日記】(おゆどののうえのにっき) 

清涼殿内御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る上での好史料と云われる。

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