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色里一般・関連・全般
色里一般
悪所(あくしょ)
主に江戸の俗で使われ、官許、非官許(岡場所)を問わず色里全般を云う。
色売る町を悪所といふ事。(中略)富家に生れ家督ある者の家を失ひ、老て貧苦にせまり、飢寒に窮する事、誰かこれを願ひ望んや。然共此里に通ふ人の遊女に実なく一向勤のみにて相手せんは又楽しみとするに足らず。故に真実ならざれば楽しみとし難く、真実ある時は継て悲しみ至るべし。是を思ふ時は此郭に至りて楽しむ者は終に真の楽しみを得る人なし。故に是を名付けて悪所といふ。(『享和雑記』)
遊蕩をなす場所。いろざと。いろざとに行くを、悪所落。いろざとに入りびたりて、放蕩するを、悪所狂と云う。(『廣辭林 新訂版』)
下の『むかしむかし物語』に云う悪所は吉原を指しているようだ。吉原へ行くには、まず色男でなければならず、大金を持ち、それなりの準備をして出かける場所だったと書かれている。
昔は若き衆悪所通ひするに、今とは大に違ひ、先男の器量あしき人は行事稀也、生付綺麗成男、器量自慢に行、扨又物騒成道、殊に夜道無僕一僕にて通る、専らとおもひ立時、支度大分六箇敷、悪所功者成懇意の人に、諸事のいきかたを習ひ、支度第一は先金子を拵て、脇差のもの好き結構に拵へ、小袖羽織袴迄右功者に談合して拵へ、伽羅の能木を求め身を嗜み、此等の支度五箇月も半年も懸り、扨やがて趣んとおもふ三四箇月も前より茶屋々々へ行茶屋女を会釈ひ、はつみを手練し、額のぬきよう髪の結様月代なり迄、功者の差図にまかせ、身の取廻しありき姿、行跡いきはり悪所風に成て、功者と同道して行く、去によって悪所かよひする人は、時宜合公儀ぶり各別に利発なり、然故に悪所へかよふ者は、一風伊達成ゆへに、そんじやうそれはたゞ者に非らず、悪所へかよふそうなと人の目に立、(『むかしむかし物語』)
○元禄、宝永の頃の悪所の繁栄は、昼は極楽の如く、夜は竜宮界の如しといへり、諸国の珍味、先此地を最上とはこび、異香匂ひ、家々に満つ、数の遊妓伽陵の袖をひるがへす、遊客は、他人百金をついやせば我は千金をついやしたりと、多くついやすを此里のきぼとす、享保よりは、他人十金をついやせば我は五金をついやして帰たりと、世智弁を元と心得たり、元禄の人は、悪所は金銀を捨る所也、不レ捨心ならば、此地へ足を入るのは何ごとぞや、と笑へり、又、今の心は、悪所などへ足を入るゝは、還て人にわらはるゝ種と思ふ、人に笑はれて見る程の処にてもなし、是を見るには不レ見には不レ如、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)
また、「我衣」の著者曳尾庵は、悪所通い、傾城買いについて、儒教精神の強い当時の道徳感から下のようにも述べている。
○傾城、売女に近付ものゝ七損、
○主人の機嫌をそこなふ、○身上をそこなふ、○命をそこなふ、○邪智を増し、正智をそこなふ、○正じきをそこなふ、○孝をそこなふ、○人をそこなふ、
右の内、命をそこなふ事、品々あり、
夜深にかへり、夜に入行とき、酔狂人にために、又は物取、追落しなどに逢て、死するものあり、
心中して死するものあり、是れは暫く其座を去れば留るものなり、御公儀の(吉宗公御時代)御慈悲にて、御法度になりて、近年少し、心中と唱ふる事は、芝居より出たり、相対死と云、
酒食を過し、或は瘡毒、或は腎虚などにて死する、
往来駕篭にて夜深にかへる、夜駕篭かき、多くは悪者なり、是が為に死するものあり、
船にて往来するは、慥なるようなれども、早緒切て船くつがへる事も間々あり、逆風にて船くつがへり、死たるものあり、如レ此あまたの品々あれば、よく/\慎べき事なり、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)
【色里】(いろさと)
遊女町、傾城町など娼家が集まった町のこと。遊里、花街、柳巷、悪所などさまざまな呼名が有る。
遊女・芸者などの集まり住居する遊興の場所。花柳の巷。いうり。くるわ。(『廣辭林 新訂版』)
三ケの津色里の始 八文字屋自笑序文
世に傾国けいせいなどゝにくてい口のやうにいひなせとも、源ふかく理義ハあまねく知る所、天竺震旦我朝とてもさら也、殊更吾国ハ天神地祇より神風の道にみちたる国の風情、大に和く日の本の風俗とかや、されバ京江戸三ケ津を此道の上品と定るも故ある事ぞかし、第一京都島原ハ天正のそのかみ原三郎左衛門林又市郎といふ浪人に許命せられて、則柳の馬場二条の北に傾城町を開し、後に六条西の洞院の東に移され、それよりはるか後寛永年中に今の朱雀野に所を易られしが、昔のちなみをもつて今も西新屋敷柳町といひ伝ふる也、そのときの原氏ハ今の島原上の町西南角桔梗屋八右衛門が祖也、又林氏は今の下の町西南角藤屋八郎左衛門屋敷その跡也、林氏は寛文年中に大坂に引越し、今の大坂新町扇屋是也、江戸はそのかみ太田氏、彼地をひらかれし砌に、御赦免にて何某多かりしが、わけて山下氏など此道の祖也、難波津新町ハ昔より繁花の大港にして、諸方に色町多かりしが、寛永の末、正保のはじめっかたひとつ所にあつめられて四筋の町となりぬ、則木村や又次郎町(瓢箪町これなり)佐渡島の勘右衛門町、四郎兵衛町、金右衛門町、吉原町これなり、其外六十六国に色里数多ありといへども、およそけいせい町と称する所のものは、あらまし泉州の乳守ならびに高州、和州の奈良に木辻鳴川、伏見の幢木泥町、大津にしばやまち、越前に三国敦賀の両町、西国筋においては播磨の室、同国鶉野の姫路や又左衛門町、備後の鞆、同じくたゝのうミ、備中の宮中、安芸の宮島の新町、下の関いなり町、長崎の丸山町、此外国/\所々に遊女は多しといへども、皆色里などゝこばして、さまざまの品位あまたなれども土地のかはりめ、風俗いろ/\あればしばらく爰に略す(『青楼年略考』)
色町(いろまち)
遊里、傾城町など遊興の地を指す。類語に花街という語が有り、主に京阪で使われていた。
いろまちと訓ず。遊里を云ふ俗言なり。(『守貞謾稿』)
色町 いろざと。遊廓。(『廣辭林 新訂版』)
かくれ里(かくれさと)
御免色里に対して非官許の色里をいう。かくれ色里。岡場所の事。
また、「隠れ里」という語は一般には四方と隔絶した別世界をいい、昔語りなどの「桃源郷」という意味で用いられ、腕貸し伝説などの話に多く現れる。
傾城(けいせい)
室町後期から江戸前期に作られた「お伽草紙」にも美女をさして傾城という言葉が用いられているように、元は美人を表す言葉だったようだが、現在は専ら遊女を云う。傾城屋は遊女屋と同義。
傾城と云ふは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たびこれを顧みれば、城を傾け国を傾くと謡ひ、己が妹の李夫人を進むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる。(『守貞謾稿』)
「草の塵」に云ふ。傾城傾国は美女を誉めたる辞なり、自笑は契情と書たり、前漢書に李夫人の事を、北方有2佳人1、絶レ世而独立、一顧傾2人城1、再顧傾2人国1と作りたり、是よりして傾城といふなり。(『俗事百工起源』)
(一)美人。美婦。(二)遊女。女郎。(『廣辭林 新訂版』)
傾城町 いろざと。くるわ。
傾城屋 ぢょらうや。(『廣辭林 新訂版』)
傾城 傾国ともいふ、仏経に、淫婦、淫女とあるも、是傾城の事なり、即、傾城、傾国といふ出所は、猶漢史に見えたり、李延年が歌に、北方有2佳人1、絶世而独立、一顧傾2人城1、再顧傾2人国1、是、傾城、傾国といふ名目のおこりなり、夏の桀王の妹喜(ばつき)・殷の紂王の妲己(だつき)、皆是傾城なり、其外、西施、虞氏、王昭君、楊貴妃など、同じく傾城なり、我朝にては、鳥羽院の御時、島の千歳、若の前といひし者、是日本遊女の根源也。其後、祇王、祇女、仏御前、亀菊、磯の禅師、静等、皆是白拍子なり、遊女、白拍子、名目はかはれども、心はひとしきなり、今の世にくらべ見れば、是をぞ上古の傾城とはいふべき、抑、当時の遊女を傾城といふ事、過分の称号なれども、用ひ来ればちからなき事也、(『色道大鏡』巻第一)
○傾城 遊女をさして傾城といふは、寛文のころよりいひはじむといへり、遊女は江口神崎等の船着にありて、船にのりて毎船に来るゆへにながれの女、浮女などゝいふ也或人の云平家西海にて亡し時、官女宮女おほく下の関、門司、赤間の湊にさまよひ、世わたる業をしらざれば、人の遊びものになりて、遂に遊女となれり、よつて此湊々には今に遊女特に多し、又大磯の虎、黄瀬川の亀鶴池田の湯谷などは、今の出女の類也、傾城は遊女にかぎらず、すべての女を云り、瞻功篇に「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾け、婦の長舌有るは、惟乱れの階」是は女の発才なるをいましめたり、又漢の李延年が、武帝の前にして起て舞ける歌に云、北方に佳人あり、絶世にして独立、一たび顧ば、人の城を傾け、再び顧ば、人の国を傾く、下略、かやうの語をとりて、巨杓なる者が、ふと名付ていひならはせしもの也(『近代世事談』巻之五)
御免色里(ごめんいろさと)
時の政権・権力者の許可を受け各地に散在する娼家を一ケ所に集めた色里で、秀吉の許可を受けた京の「柳馬場」、大坂「新町」に始り、江戸幕府の許可を受けた「吉原」などの色里をいう。一般に「御免色里」を「いろ里」と云い、岡場所など私娼のいる場所を「かくれ里」と云った。
御免色里とは時の政府機関が公に許可した遊廓のことだが、これがいつ頃から始まったかについては諸説があって定かでない。
だが傾城屋が町の一角に集中し、遊女が軒を並べた傾城屋に住み込んで競って色を売るようになったのは、京都万里小路の柳の馬場に出来た廓をもって嚆矢とする。(『一夢庵風流記』210)
京の町に公許の遊里、いわゆる『御免色里』が秀吉によって許され、柳の馬場に開設されたのは、天正十七年のことだ。これが『御免色里』のはじまりだが、この翌年天正十八年に北条氏は滅んでいる。考えようでは『風魔』らしい。先をよく読んだ転進策とは云えないか。その後、元和四年には江戸に吉原が、そして同じ頃大坂に新町が『御免色里』として許されている。請願人はそれぞれ異なるが、いずれも『風魔』と関わりのある者ではないのか。(『花と火の帝』下86)
以下に喜田川守貞の著した近世風俗志(守貞謾稿)から江戸期の御免色里(官許遊女町)を掲出する。
今世、官許の遊女町(『洞房語園』に所載なり)
武陽浅草の吉原(新吉原)、京都島原(三筋町)、伏見夷町(橦木町)、同所柳町、大坂瓢箪恰(新町)、奈良鳴川(木辻)、江州大津馬場町(柴屋町)、駿州府中弥勒町(二丁町)、越前敦賀六軒町、同国三国の松下、同国今庄新町、泉州堺北高洲町、同国同所津守(乳守)、摂州兵庫磯の町、石見塩泉津稲町、播州室小野町、備後鞆(蟻)鼠町、芸州多太の海、同国宮島新町、長門下関稲荷町、筑前博多柳町、肥前長崎丸山町(寄合町)、薩州樺島田町、同国山鹿野。都合二十五ケ所、云々。()内は通称、俗称。
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
柳巷(りゅうこう)
色里、傾城町などの遊里の事。
唐・宋の遊里は、いずれも柳の樹に囲まれていたという。柳の並木が色里の象徴だったのである。そのため遊里をまた『柳巷』といった。(『吉原御免状』128)
色里関連
編笠(あみがさ)
予が幼年の比は、猪牙船に乗る女郎買は、皆其船宿の家名を書たる編笠をかぶる、去に依て、宿々の店にはづらりと懸てあり、是は近き比迄ありしが、此ごろは見かけず、吉原も、大門前に編笠茶屋ありて、遊客、是を着て里へ這入る事なりしといふ、(『反古籠』)
色里用語の由来(いろさとようごのゆらい)
○今亡八屋が許に有て、遊女の事を取賄ふ者をキウといゝ、老婆をヤリテといふは金山詞なりといへるはさも有べし。金を掘けるさひの左をのみ手といゝ、右を槌手といふとなん。むかし遊女町の出来たる時分、金の出盛りたるにより都てかしこの詞多く遣ふ。よこはんなどみな金山詞なりとぞ。(小栗百万著『屠龍工随筆』)
この『屠龍工随筆』は、安永期(1770年代)の俳人小栗百万の著した随筆だが、考証された事実ではなく、当時言われていた俗論を述べたものと思われる。
浮世(うきよ)
広義には今様、当世の意味であるが、それから転じて好色の意ともなり、狭義には特に遊女を相手とする好色に用いられる。「浮世狂い」「浮世茶屋」「浮世駕篭」などは何れも狭義に用いられた例。(『好色五人女』補注)
おしげり
男女の交わり。性交を行う事。
『俚諺集覧』に、「男女のしめやかに物語するを、外よりおシゲリぢやといふ。しとやかにぬるると云意なるべし」とあるように、男女が寝床を共にしてしっぽり濡れるのを「おしげり」といった。芝居言葉ではこの語を避けて「ちぎる」という。舞台の上で「ちぎりやんせ」というのは吉原で「おしげりなんし」というのと同義である。このシゲルは「繁る」ではなく「陰雨(シケ)ル」であり、たっぷり時をかけ、着衣も蒲団も悉く霑うような男女の交わりを「おしげり」といった。(『吉原御免状』213)
後朝(きぬぎぬ)
元は「衣々」と云う意で、男女が翌朝それぞれの衣(きぬ)を着て別れることを云った。
『きぬぎぬ』という言葉は、奈良時代からあったといわれる。この場合の『きぬ』は『絹』ではなく『衣』である。
しののめのほがらほがらとあげゆけば おのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集巻十三)
とあるように、『己がきぬぐぬ』を略してただ『きぬぎぬ』と呼んだ。奈良・平安時代の男女は、同衾する時、お互いの着物をぬいでそれを下に敷き、或は上に掛けた。二人分の衣(着物9を敷いて寝た男女は、朝起きるとそれぞれ自分の着物を着なければならない。それが『己がきぬぐぬ』であり、同時に男女の別れを意味するわけである。当時、男は女の体温と体臭の残った着物を着て、朝早く帰るわけだが、歩くうちにそのぬくもりも冷え、体臭もかすかになってゆくのを、はかなしと感じ嘆いたのであろう。それが本来の『きぬぎぬ』なる言葉の語感である。これに『後朝』という漢字をあてたのは、平安時代だといわれている。後朝の『後』は『アト』又は『オクレル』と訓ずる。従って『後朝』とは、男女が同衾したアトの朝か、そのためにオクレテ起きた朝か、どちらかの意であろうと思われる。
江戸時代になると、この言葉は、もっぱら遊女と朝帰りの客との別れに用いられることになった。男が女のもとに通う『通い婚』の形式が全くなくなり『嫁入り婚』が普遍化されたためである。こうして『後朝』という言葉は廓言葉の一つと見られるようになり、それにつれて、語感も変った。廓における『後朝』は、まさに傾城の正念場である。ここで確実に客の心をとらえておかなければ、客は二度と現れることはないだろう。だから遊女は、この『後朝』に、それこそ腕によりをかけて、客の心をとらえる手練手管を発揮した。(『吉原御免状』225‾226)
後朝 (一)一夜共寝したる男女が、其翌朝各自に己のきぬを著て別るゝこと。(二)男女相會ひたる夜の翌朝。かへるあした。「―の使」。(『廣辭林』新訂版)
孔雀長屋(くじゃくながや)
『吉原御免状』等に登場する幻斎(庄司甚右衛門)が住む場所に設定されている長屋。吉原の隣り田町にあったとされる。『浅草志』などでは、九尺長屋の訛ったものと云う。
孔雀長屋 日本堤より田町へ下る所、土手にそふたる長屋をいふ、これは本名にはあらず、田町の内なり、寛文の頃、此長屋の尻に、美麗なるむすめありしゆへ、孔雀の尻に玉あるに比して、孔雀長屋と呼来りしより、今は本名のごとくになりぬ、(『墨水消夏録』)
猪牙(ちょき)
猪牙舟。吉原への交通手段にこれを使う。多くは吉原に通うのに当初は馬にて通う客(馬道という名の起り)が多かったが、後になると四つ手駕篭という駕篭に替った。やがて船宿という今でいうとラブホテルが現れ、それへの通いに使った小舟が猪牙だったようだ。その小舟で大川を遡り吉原へも行くようになったと思われる。
猪牙の名は、ほっそりした形が猪の牙に似ているからだともいい、櫓をこぐ音がチョキチョキといったからだともいう。長吉という男が、房総から江戸に鮮魚を送るのに使う押送舟(おしょくりぶね)を真似て作り、長吉舟と呼んだ、それがなまったもの、という説もある。別名を山谷舟。本来銚子附近で漁師の使う快速船で、沖でとれた魚を料亭に運んだものだという。
猪牙舟は吃水が浅いため安定が悪く、乗り方が甚だ難しい。(『吉原御免状』85‾86)
天保前、当世風の客は深川を良とするなり。特に吉原は江戸中央より道遠く、深川は近し。これに加へて、日本橋辺堀江町その他、諸町々の船宿へこれを招きて、酒宴も房事にも及ぶ。故に商家奉公の輩など書を投じてこれを召すに、深川遊女、芸者ともに、猪牙と云ふ小舟にて得意の船宿に来る故、客柳巷に行かずして自由す。吉原は外出能はざる故にこの行なし。(『守貞謾稿』)
『好色一代男』に「浅草川の二挺立」と吉原通いの猪牙舟を表現する言葉がある。(『日本の古典17』注釈)
二挺立
吉原通いの二挺櫓の猪牙船。吃水が浅く船足が早い小船で、定員二名。三挺櫓もあった。「立」は「だて」とも「だち」とも訓んだ例が見える。西鶴は「浅草川に近年かの里へかよひぶねをこしらへ、大かた櫓を二挺たてける也。此ちん弐匁五分、極めて目ふるうちにおしつけ侍る」(『新吉原つね/\〃草』上)と記すが、『吉原恋の道引』には、金竜山を終点として二挺立てでは、小石川水道橋・牛込吉祥寺あたり、浅草橋、新橋、京橋・木挽町崩れ橋/霊巌橋、両国橋から、それぞれ三匁五分、二匁、三匁五分、二匁五分、百文の船賃、両国橋から駒形まで一匁と記す。なお、同書には「よし吉原はそなたぞと、こがれよるべのなみに船、いとゞ心はうきにうき、此所(金竜山)に着きしかば、びんをなで襟を直し、塵はつかねども裾を払ひ、勇みて上る所ぞかし」と説く。(『好色一代男全注釈』)
明暦年間(1655〜1657)記事 浅草見附前玉屋勘五兵衛、笹屋利兵衛といふ船宿にて、始めて猪牙船を製す。山谷通ひの輩これに乗る。又所々より白き馬に乗りて通ひしもありしなり。
均庭云ふ、猪牙船、こゝにいへるは「江戸砂子」の説なり。又一説もあれど、いづれもひが事なり。ちょき船悪所通ひに用ひそめし頃は、二挺立といへり。三挺立もあり。これら御停止にて、今は艫一挺なれども三挺の名は残れり。二挺も三挺も皆ちょき船にて、もと漁猟の船なり。正徳四年八月、深川猟師共願書を出す。そは此の度ちょき船御停止に就いてなり。元来ちょき船と申すは、猟船に御座候処、悪所通ひの船に借し候もの所々に出来申し候に付き、悪所船の名に罷り成り、猟師共家業之障に相成る可き旨、迷惑に存じ奉り候間、御訴訟申し上げ候云々と見えたり。(『武江年表』)
猪牙舟 吉原へ通ふ二挺立早舟、五郎兵衛といふ舟大工、はじめて此早舟を造、二挺ろの船頭は、此五郎兵衛が舟ならでは、用ひざりしとぞ、宝永中に、この二挺ろ停止となる、ちよき舟といふは、長吉舟の略語なり、押送舟の長吉といふもの、舟の形薬研のごとくにして、至て早し、此舟のつくりを考、浅草見附の勘五兵衛、両国橋のさおゝや利兵衛などいふもの、初て此舟を作る、今これを猪牙舟を作る、今これを猪牙舟といふ、(『墨水消夏録』)
猪牙舟に乗る人、昔は編笠をかぶりし也、今はなし、然れ共、今に船宿に編笠つるし有也、屋根船は世上に少し計り有しが、近年は多く出来る、昔より有来の屋形舟は、少くなりたる也、(『飛鳥川』)
○今江戸に猪牙舟とて早船あり。江陽屋形年譜に、天文十三甲辰年二月十日、江州ニ初テ早船ト云船ヲ造ラセラル、是軍ノ為ト也、舟ノナリ、剣頭ナリ、あるものは、此猪牙船の類ならんといへり。(『橘窓自語』)
○初編に江戸の猪牙舟のことをいひしが、此頃門人中野熊充の物語にいふやうは、猪牙とは好事の人、形をもて名を負せしにて、まことは長吉といふもの作りはじめたる故に、長吉舟といふべきを、猪牙とせしよしいへり。(『橘窓自語』)
○猪牙船 明暦のころ、両国橋笹屋利兵衛、見付の玉屋勘五兵衛といふものこれを作る、押送りの長吉といふもの、船を薬研のかたちに作り、魚荷を積て押に至てはやし、これを考へて作るもの也、長吉船といふべかりけるを、ちよき舟といへり近年猪牙の二字を用ゆ、猪牙に状似たるゆへか(『近代世事談』巻之二)
蟋蟀舟(きりぎりすふね)
是は、二丁立の舟に、ちいさきおほひしたる舟をいふ、吉原通ひの舟なり、きり/\〃すと名づくるは、こぎ行とき、きり/\となる声あるを以、きり/\〃すと云、蟋蟀の別名をさせといふ、後拾遺集に、秋の虫のさせるふしなりと、古今の歌にも、つゞりさせてふとあるも、きり/\〃すにつゞりさせ、とよませたる也、きり/\〃すと名づけたるは、させといふ縁にてはなし、舟にさせといふ詞は、此舟の覆ひ小さく、乗にも出るにも、四つばひになりて出入す、ぐらり/\とふれ動きて、今水に入なりと思へば、あぶなき斗りにて、面白き事も遊山も、なにもかもなくなるゆへ、吉原がよひをふつゝと思ひきり/\〃す、といふこゝろなるべしと、然れども、下のすの字きこえず、又或人のいふ歌に、
- きり/\〃す夜寒に秋のなるまゝに よはるゝ声の遠ざかり行
といふあり、そのごとく、夏の涼しき時は、此舟も繁昌すれど、秋風にはだ寒になれば、波もあらく、風まけもするゆへ、舟のかよひも遠ざかり行、といふこゝろなるべし、といへり、(『墨水消夏録』)
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、猪牙舟、きりぎりす舟の記述あり、参照ください。
土手の道哲(どてのどうてつ)
土手の道哲。西方寺の別名。(台東区浅草6−36)
西方寺は関東大震災までこの地に有った(猿若町の北側)。吉原通いで通る山谷堀の吉野橋手前の土手下に有り、道行く遊客は土手下の西方寺を見下ろしながら通って行った。この西方寺の境内に庵を結び、処刑者や遊女の菩提を弔うために毎日念仏を唱える道心者がいて、その者の名が道哲であったことからこう呼ばれた。現在、山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名を変えているが、川の位置がそっくり緑道風の公園になっている。
浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4−8)に、道哲、高尾太夫の墓が有る。
道徹
菱川師宣が恋の道引に云、堤のかたわらに、いとかすかなる庵あり、これをいかにと問に、さりし明暦の頃より、道徹といひし道心者、世をむづかしとや思ひけん、所も多きに、爰に庵をなん結びてすみしが、二六時中にかねの声たへせず、ねぶつかすかに聞ゆと云々、紫のひともとに、土手のきわに道徹が寺あり、或本に、淋しきものは道徹がかねのこゑ、とあり、今はやる与作ぶしの小唄に、そつちでうて道徹、とうたふも此寺なりと云々、按るに、此時、門前刑罪場也、彼罪人仏果得達のために、昼夜の念仏したりしが、又其後、刑罪場小塚原に移さる、今に其寺を西方寺とはよばずして、衆人皆道徹といふ、かの道てつが墓は、開山念誉の墓とならびたり、塔の上に、かねをたゝく石像あり、今寺僧に尋るに、没年詳ならず、此寺に高尾が遺物あり、
高尾襟掛地蔵 銅仏立像、一寸八分、高尾守袋へ入し仏也、
同位牌 法号転誉妙身信女
同所持羽子板
右羽子板、表背ともに総金地模様、上下に鶴あり、中に松あり、墨蒔絵なり、右のかたに紅葉の紋、朱なり、裏に欒の実あたりたる跡あり、中の金具は後につけて、垂撥にしたるものなり、裏に春の字あるを以見れば、高尾の所持にあらざるに似たり、蓋春日野といひし名妓の所持なるべし、
又、此寺に高尾の墓あり、碑面に地蔵をほる、上に紅葉の紋あり、右に、転誉妙身信女、万治三庚子年十二月二十五日、左に、寒風にもろくもくづる紅葉哉、とあり、墓のうしろに紅葉の木あり、是は後世に立たる墓にて、高尾を葬し所にあらず、故に年月も相違せり、委春慶院の処にしるす、
[頭書]如道人いふ、世に伝ふる、仙台侯、三またの船中にて、高尾を手打にし給ふといふは、いつはりなり、仙台侯、薄雲といへる太夫がもとに通ひ給ひしこと一両度也、そのことを張皇して、放蕩の浮名をたゝせ、将軍家の首尾をあしざまになさんと、侯家の逆臣ども、土佐座の狂言にとりくませしとぞ、その狂言を三世二河白道といふ、足利頼兼の人形、竹に雀の紋所付たる衣裳をきせ、傾城を船にてさげ切にする所をせしとぞ、近来、高尾が首ながれよりしといふて、永代橋舟見番所のあき地に、小さきほこらをたて、紅葉の木などうへ、願をきくとて、無知の男女参詣す、わらふべき事也、と嵩斎ぬしのかたられき、(『墨水消夏録』)
比翼塚(ひよくづか)
情死あるいは後追い心中した男女をともに葬った塚。(『広辞苑』第二版)
翼を並べて飛ぶ鳥の様子を比翼といい、この言葉から二つ並んだ塚の形を形容するとともに、男女の睦まじい仲を譬える「比翼の鳥」という言葉から名付けられた。
吉原の遊女小紫は、馴染みの客となった平井権八と深い契りを結ぶが、権八は盗賊であったため捕えられ刑死する。やがて小紫は身請けされ出廓するが、里を出たその夜、宿を抜け出し権八の墓に行きそこで後追い心中した。委細を知った住民が、そのことを不憫に思い権八とともに葬り、その塚は目黒の比翼塚として、後々まで菩提を弔う人が絶えなかったという。
比翼の鳥(ひよくのとり)
中国の伝説上の鳥で、雌雄各一目、一翼で常に一体となって飛ぶ鳥。(『広辞苑』第二版)と有るように、想像上の鳥で、『好色訓蒙図彙』上の「爾雅注」に「比翼鳥、鳧(かも)に似たり。目ひとつ、はがひ一つの鳥なり。夫婦身を合せて飛行なり。されば、刹那も離れず、ぎやうに深い中也。羽の色一鳥は蒼く、一鳥は赤しと」と説明されている。
また、白楽天の長恨歌に「天ニ在ラバ願ハクハ比翼ノ鳥ト作ラン、地ニ在ラバ願ハクハ連理ノ枝ト為ラン」と詠われている。因に「連理ノ枝」も、男女の契りが深い喩えで、「連理枝 もと一本にして、左右の枝中にてあひ、皮肉通りて連なれり。」と前掲書に有る。(『好色一代男全注釈』)
比翼連理
夫婦の深い契りのたとえ。ここから紫式部は『源氏物語』で「朝夕の言ぐさに、「羽をならべ、枝をかはさむ」と、契らせ給ひしに、かなはざりける、命の程ぞ、尽きせず恨めしき」(桐壺)と書いている。
色里全般
三大遊廓(さんだいゆうかく)
我が国の御免色里(官許)は、全国に二十五ケ所あった。(上記「御免色里」の項参照)その中の「京島原」「大坂新町」「江戸吉原」を称して三大遊廓(色里)という。それぞれの都市の歴史や成立ちの違いから、遊廓にもそれぞれ特徴があった。
三田村鳶魚の『江戸の女気質』に、
「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」ということも、云い慣らされて居りますが、吉原に張りの強い女がいたということも、よく売れるということから来ている。遊女がよく売れるということは、女の少い土地柄として如何にもありそうに考えられますが、それを直ぐ鵜呑みにするわけにも参りますまい。吉原にはコロリという名のついた、百文の女もいたのです。
とあり、何時からか「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」というような、その色里独自の個性・特徴が醸し出されるようになっていた。さらに三田村氏は、
京都は如何にも売ろう売ろうとしている、江戸は買おう買おうとする風がある、大坂はその中間に居る、といった有様が見えます。京都の遊女はなまめいた様子で、自分の方へ招き寄せようとする風があり、江戸の方を見ると、何か高く矜恃しているといった様子で、力み返っている風がある。これが即ち「張り」ということを提起して来ているのですが、同時に遊女に対する心持も、江戸に於ては男がこれを屈服させて、愉快であると感ずる風が出来て来た。延宝の頃までは吉原は武士の世界でありまして、元禄以後はじめて町人の世界になり、資力次第ということになりました。資力次第ということは、資力の多い者が世の中の勢威を占め、世の中の栄誉を占めるということになるので、これは江戸に限った話ではありませんが、江戸の民間の事柄は元禄以降がめっきり目立って来るようになったのです。(『江戸の女気質』)
と書いている。
この三大遊廓に長崎丸山を加えた譬えが、大坂新町細見の書『澪標』や西鶴の『好色一代男』にあり、
京島原の女郎に、江戸吉原の張りを持たせ、長崎丸山の衣装を着せ、大坂新町の揚屋にて遊びたし
と云うような文句で表現された。(『かくれさと苦界行』240p)
天明の頃の江戸遊所(てんめいのころのえどゆうしょ)
天明の頃は、けころ、比丘尼、出合茶屋抔とて、遊女町所々にあらざるなし、併も何れも繁昌して、御番士など明ケ番には、大手外に到れば、槍、挟箱等は束ねて手拭に絞り、供の者に任せて家に帰らしめ、主人は何れも遊女屋へ通しことにて、其頃吉原へ行は、敢て包み隠す事にてもあらず、途中同役などに逢ひても、今日は何の処へ参るなどゝ、互に公然と話合ひたるよし、寛政の御改革に至り、劃然と切り替り、武家の行跡正敷なりて、已前とは天地雲泥の事なりしといふ、(『五月雨草紙』)
三大遊郭・その他の遊郭
江戸の遊里(色里)
江戸の遊里-吉原以前(えどのゆうり-よしわらいぜん)
庄司甚右衛門が吉原を開く以前は、江戸の遊女屋は各地に散在していた。
江戸往昔は定れる遊女の地これなく、諸所に散在せり。城西麹町に十五戸、鎌倉川岸に十四、五戸、大橋内柳町に二十余戸等なり。けだし大橋と云ふは、今云ふ常磐橋なり。柳町は今云ふ道三川岸なり。この柳町の遊女屋を慶長中、元誓願寺に移す。この遊女屋は京師万里小路柳原の者多く、鎌倉川岸の者は駿府弥勒町および城州伏見夷町の者多く△△。(『守貞謾稿』)
吉原(よしわら)
庄司甚右衛門が徳川幕府から賜った地は、当時、葭(よし)の繁った汐入地(湿地帯)だった。その葭の原に作った町だったので「吉原」と云った。と理解していたが、すでに先住の人々がいた地だったという資料もある。そのことについては後述する。
時に小田原北条家の浪士に庄司甚内、後に改めて甚左衛門(ママ)と云ふ者、慶長十七年、諸所散在の遊女を一郭に置かんことを官に請ふに三事をもってす。その略に曰く、買色に耽るの徒は累日家を忘れ、娼家は嚢中いまだ空かざれば数日を費やせども帰りを催すことなきにより、士民産を破るに至る者あり。今願う所、一日夜を限り、更に淹留すべからざるなり。その二に曰く、他の女を盗みてこれを娼家に販る。娼家は勾引を察して、これを糺さずして買ふ者あり。あるひは養父の貧戻より私に養女を娼家に売る。実父あるひは死亡、あるひじゃ遠国、遂にこれを訴ふことを得ず。今願ふ所は来由を検糺して、しかる後に娼を養はん。その三に曰く、一所不住の凶党は身を竄すること娼家よりよきはなし。今願ふ所は遊客の来由を糺して、凶党の類はすべからく網中の魚を探るに比せん。云々。元和三年、官よりまた五事をもってこれを聴す。その略に曰く、傾城町のほか買色の徒更にあるべからず。また他坊より迎ふ者ありといへども、郭外に娼を出すことなかれ。その二に曰く、買色の徒、一日夜を限り長く淹留することなかれ。その三に曰く、娼妓の服全繍および金銀箔摺を用ふるなく、染紋の服を用ふべきなり。その四に曰く、妓院の経営壮麗にするなかれ。課役江戸に准じて怠慢するなかれなり。その五に曰く、士民を択ばず出所不審の輩は速やかに庁に告訴すべし。云々。すなわち城東の地、方二町を給ふ。この地蒹葭を刈りて一郭を創す。故に号して吉原と云ふ。葭・吉、和訓近く、故に賀して吉字を用ふ。(『守貞謾稿』)
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
見しは今、江戸繁昌ゆへ、日本国の人あつまり家づくりなすによって、三里四方は野も山も家を作り、寸土のあきまなし、然るに東南の海ぎはによし原あり、色ごのみする京田舎の者ども、此よし原を見立けいせい町をたてんと、よしのかりあと爰やかしこに家作りたりしは、たゞかにの身の其程に穴をほり、すみ居たるがごとし、(中略)
日をゝひ月をかさねるにしたがって、此町繁昌する故、草のかりやを破り、にしよりひがし、北より南へ町わりをなす、先本町と号し、京町、江戸町、ふしみ町、堺町、大坂町、墨町、新町などと名付、家居びゞしく軒をならべ、板ぶきに作りたり、扨又本町を中にこめて、其めぐりにあげや町と号し、幾筋とも数しらず、よこ町をわり、のうかぶきのぶたいを立をき、毎日ぶがくをなして是を見せける、此外勧進舞、蛛舞、獅子舞、すまふ、じやうるり、色々さまざまのあそびしてぞ興じける、此等の見物をかごとになし、僧俗老若貴賎、此町に来り群集す(『そゞろ物語』)
均庭(正しくは均に竹冠)云ふ、「見聞集」巻七、「そゞろ物語」にいへるは、庄司甚右衛門が事とは見えず、其の末文に、これに惑ひて、身を亡ぼすに至れる者多かりければ、とかく彼等を江戸に置くべからずとの議にて、女の数を改め給ふに、和尚と号する遊女三十四人、其の次に名を得たる遊女百余人、皆悉く箱根相坂をこし西国へ流し給ふとあり。これ慶長中に一たび加様のことありしなり。「落穂集」にも、慶長五年以前葭原町の事をいへり。然れば甚右衛門は其の後願ひて再興したるなり。右に和尚と号するといへるは、上色の遊女をいへり。(『武江年表』)
上記『武江年表』の記述を見ると、甚右衛門が開く以前に葭原町というものが有ったようだ。そこは『そゞろ物語』に有るような舞楽を楽しむ場所、云うなれば京の四条河原のような遊興の場だったのではと考えられる。それが一度幕府によって撤去させられ、再び荒れ地となった所を甚右衛門が借り受け、吉原町を作ったということなのだろう。
○新吉原、むかしは、京橋住町、柳町の辺にありしよし、我はしらず、其後大門通へうつされしよし、夫もしらず、今の所にめなれては、むかしの事、偽にやと思はるゝ也、伝へきく、かの廓、御免ありて、立置るゝは、御評定所にて、御役人方、御酒飯を御頂戴、御給仕のために、日々遊女三人づゝ出て勤仕せしと也、今の趣にては、いかにいにしへならんからに、さる事あるべくもおもはへず、されど、今に目なれて、いにしへを疑ふはいと小量也、むかし京島原の遊女が、色よき紅梅の枝に、(古今集、紀友則の歌)「君ならで誰にか見せん梅の花色をも香をもしる人ぞ知る、と書たる短冊を結びつけて、禿にもたせ、非蔵人口より烏丸大納言の卿に奉りしかば、たゞに筆とり給ひて、其短冊のうらに、「君ならで誰かはみせん梅の花色をも香をも知る人ぞしる、と書てかへし給ひしよし、聞及べり、今の御代に、非蔵人口まで、遊所の禿など行べきにあらず、されば御評定所へ遊女の御給仕に出たるもむげに偽とはいひがたし、其短冊は表裏二枚とし、一対の表具となりて、光広卿鸚鵡返と号して、或国守の御蔵となれり、(『神代余波』)
ここにある評定所に遊女云々の記述は、穂積陳重著『法窓夜話』にも有る。
五丁町(ごちょうまち)
吉原町の別名。この五丁町という名は、元吉原の江戸町、同二丁目、京町、角町、新町の五丁(町)からきているという。
廓五丁町といへるは元吉原より呼来る処の古名也。(『浅草志』)
吉原町は、廓内に江戸町、すみ町、京町、新町、けん蔵主町と有り(承応二年の図にも、けん蔵主丁と有り)。(『武江年表』)
後にけん蔵主町という名はなくなるが、五丁町という名はここから発しているのかもしれず、他の資料に当ることが必要か。
『墨水消夏禄』にある「吉原」関連記述参照。
元吉原(もとよしわら)
庄司甚右衛門が御免色里を最初に開いた色里(吉原)の後世の呼び名。江戸の人口が増え町割拡張のため、明暦二年に幕府によって移転を命ぜられ、翌三年、浅草寺裏の竜泉寺村に移転した。
元々、庄司甚右衛門が開いた吉原は、日本橋葺屋町にあった。現在の日本橋堀留町一丁目のあたりである。(『吉原御免状』8)
この吉原は勿論後年山谷に設けられた新吉原ではない。後に元吉原と名づけられた元和三年創設以来の古い色里である。元北条家の家臣庄司甚右衛門が、京橋の柳町(現堀留二丁目)に二町四方(約二百メートル四方)の土地を拝領し、ここに三方を濠で囲んだ御免色里を造ったのがこれだった。この寛永十五年当時は、吉原はまだ夜昼ともに遊ぶことが出来た。昼遊びのみに限定されたのは二年後の寛永十七年だが、この頃の吉原の遊客の大半を占めた武士にとっては、どっちみち昼しか遊ぶことは出来なかった。旗本だろうが大藩の藩士だろうが、夜間の外出は禁じられていたからである。世人はこの吉原を悪所といった。(『死ぬことと見つけたり』上120)
元吉原は今の難波町・高砂町・住吉町等なり。往時、廓門の街を今も大門通りと字すなり。『そゞろ物語』に曰く、この町繁昌する故、草の仮家を破り、西より東より北より南へ町割りをなす。先本町と号し、京町・江戸町・伏見町・堺町・大坂町・墨町・新町などゝ号け、家居美々しく軒を並べ板葺に造りたり。さて本町を中にこめて、その周りに揚家町と号し、幾重とも知らず横町を割り、能・歌舞伎の舞台を立て置き、毎日舞楽をなしてこれを見せける。そのほか勧進舞・蜘舞・獅子舞・角力・浄瑠璃、いろ/\さまざまの遊びして興じける。(『守貞謾稿』)
元和三年(1617)丁巳 庄司甚右衛門(小田原産、初名甚内)、官許を得て、遊女屋を一ツに集め、花街を葺屋町の末にいとなむ。翌年十一月、普請成りて、舗を開き商売をはじめ、吉原町と号す(「そゞろ物語」に云ふ、此の町繁昌する故、草の仮屋を破り、西より東より北より南へ町割をなす。先本町と号し、京町、江戸町、伏見町、さかい町、大坂町、墨町、新町などゝ名付け、家居美々しく軒をならべ、板葺に作りたり。さて又本町を中にこめて、其のめぐりに揚家町と号し、幾筋とも数しらず、横町をわり、能歌舞妓の舞台を立てをき、毎日ぶがくをなして是れを見せける。其の外勧進舞、蜘舞、獅子舞、角力、浄瑠璃、いろ/\さまざまのあそびして興じける云々。
同書(「洞房語園」)に、遊女屋十七軒、揚屋二十四軒、町数五町、方二町とあり。此の時廓中十文字に通りを付して、くつわ町といふとあり。思案橋、わざくれ橋もこの頃の名なり。是れは元吉原通ひせるわかう人等、吉原へ行かふか行くまじきかと思案する意にて、しあん橋と名づけ、わざくれ橋といふは、其の頃の方言にて、わざくれは今の俗言にマゝヨといふに通ぜり。吉原へ趣くを決意して行く意也。「江戸惣鹿子」に、捨格橋の文字を用ひたれど、編者の意にてこの文字をあてたるなり。但し其の頃の思案橋は今のあらめ橋也。わざくれ橋は安永中よりこれなし)。(『武江年表』)
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
元吉原は、慶長十七年、庄司甚右衛門より町奉行米津勘兵衛様へ願出、同十八年、御評定所に於て、本多佐渡守様御聞済之上、元和三年御免、葺屋町の末にて、二町四方の地給る、葭茅繁りたる地を刈り、地形築立し町故、葭原といふを、祝して吉原と改めし也、
江戸町壱丁目 大橋(今の常盤橋也)の内、柳町に有りしが、城地御用に付、神田元誓願寺前へ移り、又吉原の地へ移りて、江戸町といふ、
同弐丁目 鎌倉河岸より移る、駿州府中みろく町、其外、伏見夷町の者共なり、
京町 糀町のけいせい屋、此町へうつる、皆京都六条より来りし者共なり、故に京町と号く、
同弐丁目 吉原開基以後、大坂ひょうたん町、奈良木辻より集る、三年おそく町造りしゆへ、新町といふ、
角町 京橋角町よりうつる、寛永三年、割り余り所、水溜の明地を地形してうつる、(『そらをぼえ』)
『燕石十種』「元吉原の記」参照。
『地名便覧』「吉原」の項参照。
新吉原(しんよしわら)
当初の地から幕府によって所替えした先の吉原町を、元々の吉原町と区別するために呼ばれた名称。
四十余年を経た明暦二年、(略)町奉行所から、所替えの命令が出た。代替地は、本所か浅草日本堤か、好きな方をとれと云う。本所は隅田川の向うである。当時、隅田川には橋が一つもなかった。吉原町の年寄たちは、鳩首協議の結果、田圃の中とはいえ、浅草日本堤を選んだ。(中略)
吉原は、(略)来春から日本堤の普請に取り掛る、という約束だったが、明けて明暦三年正月十八日、猛火が江戸を襲った。(中略)
吉原も勿論、全焼。暫く現地の仮宅で営業していたが、六月十五、十六両日をかけて、すべての遊女を屋形舟に乗せ、浅草日本堤に移った。ここでも、山谷辺の百姓家を借りて、仮宅営業を続けながら普請にかかり、七月中に落成。八月十日に移転を完了し、この八月十四日をもって、新吉原の本格的営業を開始した(この移転以前を元吉原、以後を新吉原と呼ぶ)。(『吉原御免状』p8~10)
○新吉原 此地古名竜泉寺村也(今の竜泉寺は下谷に属す、新吉原は浅草に附すなり)
元吉原の開発人庄司勘右衛門と云、後甚右衛門と改む。元和三丁巳年御免あって、五町全く建揃ひたるは寛永三子十月也。開発より明暦二申年迄凡四十年、其地に住居、然ル処江府益御繁栄に随かひ、市中にあってはいかゞと、同年十月所替被2仰付1、代地は浅草寺後日本堤の辺也。引料として金壱万五千両被2下置1る。但小間、一間に十五両ツゝそれより田地築立、普請に取掛り、是迄郭二町四方の所代地にて五割ましに二丁に三丁の場所被2下置1、その上商売は昼ばかりの処、自今昼夜とも御免、且亦其比御府内町中二百軒ありし風呂屋悉く御潰しに成し也。同三酉年正月十八日十九日江戸大火に依て引移り延引に成、家作普請の間、代地日本堤近辺、今戸鳥越山谷村百姓の家々を借宅して、六月より商売を初めし也。其比ここに遊興するを山谷通ひといへり。すでに明暦三八月に普請不レ残成就して、今の新吉原に移るより、今寛政十戌年迄凡百四十二年に及べり。
其比御奉行所は石谷将監殿神尾備前守殿役勤の節なり。新吉原大門口より水道尻まで、京間百三十五間、横幅百八十間、惣坪合二万七百六拾七坪といふ。(『浅草志』)
上の文章に続き、奉行所より下された沙汰書の文が列記されている。
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
鬼が聞く「日本の繁華の都市、江戸の吉原の豪勢な廓の作法はどうか」西鶴曰く「まず女郎の総数は、京・大坂をひとつにしてもとても及ぶところではありません。二千に近い人数のうちに、太夫はようよう四人だけです。人数は少ないのですが、吉原の太夫の育てようは上方と違います。太夫の位を与えるには、器量はもちろん、あらゆる芸を手に入れて器用にやってのけ、客の取りもちから身のこなし、盃のやりとり、張り、口舌にいたるまで、一つでも欠けては太夫にしません。前金を払って女護島に渡り、より取りにしても思うように太夫になる女は取り出せません。千人のうちより百人を選び、百人の中から十人をすくい出し、その十人の中で五人、三人と拾い取って太夫職につけます。いったい吉原の風習は、一日を昼一つ、夜一つと、二つに割り、太夫をそれぞれ三十七匁ずつに定め、昼夜の遊び代として七十四匁と定めています。ただし、上方のように太夫に引舟女郎はつきません。禿二人がついています。三十日前から申しこんでおかないと、太夫に会うだけの盃事もできません。初会の客は、その太夫を三度続けて買わなくてはなりませんが、その時の費用は、太夫の売値七十四匁以外に、雑費がおよそ十両ほどかかります。初会の客には、ゆっくりと身仕舞をし、大尽が朝から来ていても、ようよう昼も午後二時すぎに揚屋へ行き、そこそこに盃事だけをして、その夜は床に入らないで帰ります。それはそれはもったいぶったやり方で、野暮な者は、太夫とさえ言えばどれも同じだと思っていますが、吉原の太夫は上方の太夫にくらべて、曾根の松と並木の松ほど違って見えます。」(『元禄太平記』)
明暦三年(1657)丁酉 正月下旬、吉原町小屋掛けを命ぜられ(「事跡合考」に、この時一旦本所の内、今の弥勒寺の所、其の頃荒地にて在りし所へ移る由云へり)、六月今の地へ引きうつり、新吉原町と号し、八月より商売をはじむ(明暦三年正月開板の江戸絵図の内、元吉原は江戸丁二丁、すみ町、京町、新町の名ありて、揚屋町の名なし。是れは元吉原二丁四方の地を、今の地にて五割増しにて代地を給はりし故、すみ町の向ふへあらたに町をひらき、其の頃迄壱町の中に、二軒三軒ありし揚屋を一つにあつめて、揚屋町と名づけしといへり。)(『武江年表』)
寛文八年(1668)戊申 ○三月、吉原廓内に新道をひらき、境町、伏見町と号す(伏見丁は年寄の古境なる故かく名づけしとぞ)。(『武江年表』)
延宝年間記事 吉原にけんどん町あり(吉原南の通り也。「紫の一本」にはけんどん河岸とあり。里俗の称呼なるべし)。(『武江年表』)
『燕石十種』「新吉原略記」参照。
『色道大鏡』に有る吉原の記述。
『地名便覧』『吉原』の項参照。
衣紋坂(えもんざか)
日本堤より下り口(『浅草志』)
「ここの坂を何人か言ひけん、衣紋坂と云ふなり。これを折るゝ時、衣紋をなをし、鬢をなで、近付きの茶屋などへ行きて、小袖を着直し、風俗をつくらふ」(『吉原恋の道引』)
大門(おおもん)
吉原の入口にある門。廓入口の門なり、会所四郎兵衛(『浅草志』)
大門口の茶屋(おおもんぐちのちゃや)
五十間道の両側にあった二十軒の編み笠茶屋。遊客はこの茶屋で手足を洗い、髪をなで付け、服装を整え、貸し編み笠をかぶり、雨天の際は足駄・傘を借りる。
高札場(こうさつば)
御高札場 大門口外五十間道(『浅草志』)
元禄七年(1694)甲ね戌 五月閏 ○十一月、新吉原大門口へ高札を建てらる。正徳元年(1711)辛卯 五月七日改元 ○七月、所々高札改まる。新吉原大門口の高札を改めらる。(『武江年表』)
高札文言(こうさつもんごん)
高札に書かれていた文言。
御文言写
一、前々より禁制のごとく、江戸中端々に至る迄、遊女の類隠し置べからず、若違犯の輩あらば、其所之名主五人組地主迄曲事たるべきもの也、
一、医師の外、何ものによらず乗物無用たるべし、附、鑓□□門内へ堅く停止たるべきもの也、
右正徳元卯年松野壱岐守殿町方御勤役之節相建由、此以前元禄七戌年建しを又々建てられしよし、(『浅草志』)
五十間道(ごじゅっけんどう)
日本堤から吉原の入口大門までの道。
五十間道の三曲坂をあがると日本堤に出る。この五十間道には、左右に編笠茶屋(遊客に顔を隠すための編笠を貸すところ)が十軒ずつ軒を並べている。この編笠茶屋も、日本堤にある腰掛茶屋(所謂どろ町の中宿)も、実は新吉原の一部であり、吉原五丁町の支配を受けていた。(『吉原御免状』155)
五十間道 土手より大門迄の間を云。此所通りより廓の内みへざるやうに三曲りに道を付候事は神尾氏の御指図のよし。編笠茶屋、いにしへ五十間道左右に二十軒ありしとぞ、今はなし。其比此茶屋にて編笠をかりてかぶり大門へ入しよし、今は茶屋はあれども編笠はつるさず。(『浅草志』)
同年(明暦三年)四月八日、石谷将監様神尾備前守様地方曾根源左衛門様、日本堤へ御越、場所御検分被レ成、傍示御定杭御建被レ下、今の大門口より土手迄真直に縄はりいたし候を、備前守様御指図にて三曲に道を作りたり、其間五十間成ル故、今以五十間道と云、土手の下り坂を衣紋坂といふ、是ハ大門が見ると衣紋をかいつくらうが故に云と也(『青楼年略考』)
山谷(さんや)
三谷、三野とも書く。
「三野 遊女の住める里也。名所の野三つ有とて此名のおもしろき」(『一目玉鉾』一)、「三野と云けるは、此あたりに名所の野つゞき○続が原○あさぢが原○小塚原、かれ是広野三つあるゆへに三野とは申侍る」(『新吉原つね/\〃草』序)という説や、続が原を除いて吉原を加える説、また「此地山なきに此名(山谷)いぶかし。又谷もなければ三谷も不審なり。按ずるに、浅草の原・浅茅が原のつゞきにて三野ならんかと『江戸志』にみゆ。愚考に、此地も野原の頃は家居もまばらにて、わづか三軒計も有しゆへ、三家・三屋にても有しや、此類他にも多し」(『江戸往古図説』)などの説も有る。
寛文元年(1661)辛丑八月閏 五月五日改元○八月、三ン谷傾城買ひに趣く者、馬駕篭に乗る事を停めらる。(『武江年表』)
水戸尻(すいどじり)
吉原の町内にある場所の名。以下にあるように、その名の由来については幾つかの説がある。
水戸尻は、仲の町の南端、つまり大門の反対側のどんづまりである。水道尻とも書くが、音は『すいどじり』である。水戸尻については諸説があるが、吉原の周囲にめぐらされた、所謂『お歯黒どぶ』の水はけのために設けられたもの、と『事跡合考』に書かれている説が正しいようだ。(『吉原御免状』37)
○水道尻 中の町行止りをいふ。
古しへ吉原に井戸なし、砂利場田圃より汲しを元禄宝永の比紀伊国屋文左衛門と云もの、揚や町尾張屋清十郎方にて初めて堀ぬき井戸を掘らせ至て名水也。是を呼井戸とし、中の町の末、呼井戸樋のとまりゆへ水道尻と云。(『浅草志』)
天神河岸(てんじんがし)
○天神河岸 水道尻を云(『浅草志』)
中田圃(なかたんぼ)
田圃の中に作られた里なので、吉原の周りはすべて田圃だった。それを称して云った。
所謂『吉原田圃』だ。(『吉原御免状』39)
○中田圃 新吉原うしろ、此所は諸方へ街也。
東は観音、うしろ馬道へ出、西は下谷坂本入谷へ出、南は浅草寺町へ出、北はみの輪大音寺前へ出、此地は花川戸村坂本村など云よし、其外村名もあるべし。六郷佐渡守御屋敷あり、立花左近将監殿下屋敷有、其辺りを俗に左近殿原と云。下谷の方へ行所、又浅草寺裏田の中に蛇塚と云あり、北寺町の方慶印寺前石橋を枕橋と云へり。此所に片葉蘆あり。(『浅草志』)
日本堤(にほんつつみ)
荒川の護岸工事は、日本国中の大名を動員して普請された。こうして完成した堤だったことから、称して日本堤と云った。
○日本堤 荒川の水際堤也、大川より三の輪へつゞく凡八丁ばかり
洞房語園にいふ、元和七庚申年台命あって、在府の諸侯も家々の旗幟を立、前後六十余日に成就したり迚、日本堤と名付ると云々。日本堤御傍示杭より聖天町木戸際まで、長京間三百八十五間二尺、北の方みの輪町迄、長さ四百間余、然れば南北都合拾三町余なり。(『浅草志』)
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
元和六年(1620)庚申十二月閏 日本堤を築かせらる(水除の為に築かせらるゝ所なり。日本六十余州の諸侯御手伝ひにて出来候故に、しか名づくる共、或ひは日数六十余日にて出来候とも云ひて、詳ならず。(『武江年表』)
上記『浅草志』に「元和七庚申年」とあるが、庚申年は元和六年であり稿本の間違いかと思われる。
○日本堤 金竜山下の聖天町から三の輪に至る、十三町余の山谷堀の土手で、衣紋坂までは八丁ほどあり、この間を吉原土手・土手八丁といった。元和六年、幕府の命により、在府の諸大名の割り普請で竣工したので名付けたとも、六十余日の日本晴れの期間に完成したのでいうとも伝える。(『好色一代男全注釈』)
待合の辻(まちあいのつじ)
吉原の大門を入ったすぐの所にあり、毛氈を敷いた床几が並べられていた。ここで遊女が、馴染みの客の来るのを待っていた。(『吉原御免状』26)
○待合辻 江戸町一二丁角をいふ(『浅草志』)
羅生門河岸(らしょうもんがし)
吉原の東の河岸見世の通称。
ここの女郎は、客を捕まえるとそれを離さなかったことから、人の腕を捕えて放さなかったという、羅生門の鬼茨木の故事にひっかけた名である。(『吉原御免状』28)
○羅生門河岸 新町すみ町のかしを云(『浅草志』)
新吉原-中期(しんよしわら-ちゅうき)
新吉原町、元文の頃より、七月、燈籠を出し賑ひけるが、其頃すいびしたると見しが、明和の頃より、八月になれば、俄とて祭の様なる事を初しは、猶更衰微なるか、宝暦の頃まで、揚屋町に三浦屋と云有り、元文の頃、尾州宗春卿、春日野といふ遊女へ通ひ給ひし時の揚屋にて、彼御方よりの御作事と見へて、釘赤銅六葵なり、我等も見たるやうに覚る、類焼の後は、揚屋といふもの絶てなし、
昔、廓中の遊女はり強きといふ、いま其沙汰なし、慶安の頃、伊達綱宗通ひし高雄といふ遊女、綱宗の心に随はず、身の代高金を出して高雄を請出し、船にて連帰り、心に随はざるにより、大川三股にて切捨にするといふ、寛延の頃、榊原式部大輔、高尾と云遊女を身請す、其後は高雄と云遊女なし、七代計りも有といふ、水道尻に、近年は火の見やぐら出来、明和の頃かと覚る、(『飛鳥川』)
新吉原-後期(しんよしわら-こうき)
同じ新吉原とは思えぬほど、江戸時代の後期になると様相が一変している。これには様々な要素が絡み合っているのだろうが、前期の精神的な遊興をも兼ねた遊女から、江戸の町の繁栄とともに中期は専ら贅を尽した色遊びに変り、そして売色を中心とした遊女へとその比重が移る。その結果として、遊女は経済活動に組み入れられ、堕落していった事に一つの原因があると思われる。いわば銭かねが幅をきかせ、引手茶屋などの中間搾取の仕組が出来上がり、それらが繁昌するかわりに本来の遊女を育てる遊女屋が衰微していったようにも思われる。
○新吉原京町二丁目入口角
一、御客様方益御機嫌克被レ遊2御座1、恐悦至極奉レ存候、随て私見世の義、以2御蔭1年来遊女屋渡世相続仕、冥加至極難レ有仕合奉レ存候、然る処近年吉原町日増に不繁昌成申候、其根元は遊女屋仲間人気甚悪敷相成、廓内寛政度の議定不2相用1、自分勝手之渡世いたし、客人送り候茶屋へ、揚代金二朱に付三百銅三百五十銅、又は二ツ分け抔と申、引手銭差出し候故、新規茶屋是迄より三百軒餘も相増候得ば、自然と御客様方へ麁末の品差上候様に相成候に付、此度商内の仕法替仕、茶屋付客人一切請不レ申、現金売正札附直段引下げ、御徳用向遊女沢山仕入、多分の引手銭差出候心得にて、御酒肴夜具等に至迄吟味仕差出、御手軽に御遊興被レ遊候様専一に心懸候間、御客様方被2迎合1、不レ限2昼夜1御賑々敷御光栄の程奉2希上1候、猶御懇意様へも、御風聴被2成下1候様、偏に奉2願上1候、以上
- 一、座敷持遊女 金一分の処 三朱
- 一、部屋持遊女 金二朱の処 二朱
- 一、揚新造 金二朱の処 一朱
- 一、内藝者 金二朱の処 一朱
右揚代金の内にて、御酒は正宗印極上召上り次第、御肴吟味仕、沢山に差上申候、
- 一、御馴染金御祝儀は御思召次第、
- 一、茶屋船宿送り客一切請不レ申候、
月 日 大和屋石之助
角町万字屋茂吉も同じ引札を出す、引直段前に朱書のごとく、其外替る文体なし、
吉原町遊女安売の引札とて板行せしを、四月末頃何某氏携へ来てみるに、世上売物の引札にひとし、されど世間へ配りて歩行たるにはあらざるべし、いと珍らしき事にして、唯に世の末とはなりにきと笑ひ過せしに、六月の半頃には、世上を売ありく、盛り場或は橋々のたもと抔に立居て売しと、若き人々は買もて遊ぶなるべし、抑慶長のむかし免許ありて、城東の地に葭原を給ひ、庄司甚右衛門なるもの、新たに一廓を開らきて、其儘に廓名をよし原と呼、繁栄全盛なりしも、明暦の火災に浅草なる千束の里に移りて、新吉原と呼、北廓と唱ふ、益全盛たる事、今茲嘉永年間に至りて二百五十年餘、しかるに過し天保丑の世上の一変に、御府内諸所の隠し売女と唱ふるもの、おごそかに禁ぜられて、皆此廓に集り住り、其故に娼家軒数以前には十倍せしに、客の歩行は遠近大方の限りあればにや、遊客少く、商ひ貧しく、不景気とは聞えけれど、かゝる有様に成行んとは、大江都繁栄に治りたる頃よりして、娼妓の直下げ引札とは、興のさめたる噺にして、時代とは言ながら江都の外分とやいわん、餘りにあきれたれば、又かの贅に記して、後の嘲りをのこしぬ、そこら渡りの馬の骨も、百万石の顔して、金銭の高にかゝわらず、大風なるをもて此里の遊興とはすなるを、嘆かわしき人気とはなれり(『巷街贅説』)
○娼妓報条(じょろうひきふだ)
浅草寺の乾なる千束の里、吉原てふ一廓は、三都に魁首たる遊里なるに、世の盛衰とは云ながら、嘉永四亥年春の頃、京町二町目なる大和屋石之助、角町万字屋茂吉、小見世とは言ながらに、娼妓直下(ねさげ)の報条(ひきふだ)せしも一笑なるに、当時廓中一二と呼るゝ娼家玉屋山三郎、江戸町一町目にありて、天保末のころほひより、大まがき大見世は、此一楼のみなりしに、今歳嘉永六丑年暮の頃とや、又報条せし由、こわ娼妓の直下にはあらねども、廓に名だゝる大見世にて、斯る業あるは笑ふに絶たり、其報条は見ざれ共其事や、
- 揚代金一分、酒五合、吸物、口取肴
- 揚代金二分、酒一升、吸物、口取肴、二つもの
- 揚代金三分、酒一升五合、吸物二、口取肴、二つ物
- 藝者金一分に付酒五合
下戸の御方様へは、煎茶、薄茶、干菓子、蒸菓子、念入会席御膳可�差上�と記したりとかや、前に言、直下引札とは、少しく趣たがいて半切摺のよし也、去ぬる天保丑寅の変革の後、世の中続て不景気なるに、異国船度々の渡来わきて、今年は亜墨利加、魯西亞の冦船渡り来りて、世上騒がしく、台命によりて、国持の諸侯防禦警衛の武備専らにして、在府の諸藩士遊戯の暇なければ、かゝる遊廓の淋しきもむべなるべし、しかはあれど知らぬ、元禄明暦のむかしは暫らく捨て、近く文化、文政、天保の半まで全盛なりしに、思ひ合すれば、殊なる廓の衰微ぞかし、
天保なかばの衰へより、廓の灯籠俄の番附、花に月に四季折々の品定めせし細見などいえるもの、巷にひさぐ声さへも絶て聞ず、なほ後々はいかに成行らむ、齢なければ見によしなく、聞によしなし、噫々(『巷街贅説』)
新吉原-幕末(しんよしわら-ばくまつ)
江戸の娼家について、幕末の日本を訪れたドイツ人シュリーマンの文を紹介。ここでシュリーマンは、日本人の売娼に対する意識を西欧と比べて論じ、吉原の遊廓を見聞した模様を述べている。
日本政府は、売春を是認し奨励するいっぽうで、結婚も保護している。正妻は一人しか許されず、その子供が唯一の相続人となる。ただし妾を自宅に何人囲おうと、自由である。
貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約を更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の傷みしか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分としてかならずしも恥辱とか不名誉とかを伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通におこなわれる。
娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期まで―すなわち十二歳まで―この国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに才能を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。
遊廓は、町から離れた一角に集められている。江戸の遊廓はきわめて数が多く、城壁や濠によって他の地域から隔てられた、もうひとつの町をつくっている。吉原である。吉原に入るには、夜昼を問わず警備の役人に守られているたった一つの門をくぐるしかない。吉原は周囲二マイルほどの平行四辺形をしており、七本の道が直角に交差していて、町を九つの地区に分けている。それぞれの区域はたがいに木の格子戸(大戸)で仕切られ、警備の人が随時門を開け閉めするから、監視は厳重である。
吉原には十万人以上の遊女がいる。しかしどんな遊女でも外に出るには通行証が必要で、通行証を手に入れるためには、相当なお金を用意しなければならない。
遊里の営業権は、各町ごとにセリでいちばん高い値をつけたものが、数年間にわたる独占権とともに政府から払い下げられる。遊里の収入は莫大であり、国家のもっとも大きな財政源の一つになっている。(石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』)
吉原の火事(よしわらのかじ)
江戸の町はその開府当初から大火事に見舞われ、最大の被害を齎した明暦の大火を筆頭に、しばしば広範囲な町並を焼亡する大火事に見舞われている。こうしたことが「火事と喧嘩は江戸の華」と云われる所以でもあった。明暦の大火では「元吉原」が全焼したことは隆慶作品にも書かれているが、新吉原になっても幾度か火事に見舞われている。
○新吉原町焼失
明暦三年より二十年め、延宝四辰年十二月七日、 西河岸 柏屋市兵衛
九十三年め、明和五子年四月六日、 江戸町二丁目 四ツ目や
四年目、同八卯年四月二十三日、 揚屋町 梅屋伊兵衛
安永元丑年二月廿九日、 目黒行人坂
十年目、天明元丑年八月、 伏見町某抱 遊女さ代衣
四年目、同四辰年四月廿六日、 よしはら 提灯や
同、同七未年十一月九日、 よしはら角町 同
八年目、寛政六寅年四月三日、 同江戸町二丁目 丁字や
六年目、同十一未年二月廿六日、 大音寺前百姓 綱差甚右衛門
十四年目、文化九申年十一月廿一日、 溜之内 車善七囲内より
五年目、同十三子年五月十二日、 京町一町目 海老屋善助
七年目、文政七申年四月三日夜、 京町 同
十二年目、天保六未年正月廿六日、 角町小見世 堺屋
三年目、天保八酉年十月十六日未明、 伏見町より
九年目、弘化二巳年十二月五日暮後、 京町二丁目より
十一年目、安政二卯年十月二日夜、大地震潰れ家より火出悉く焼亡、今度は仮宅三百日と願ひ済のよし(『巷街贅説』)
○今年正月廿六日夜、新吉原角町堺屋といへる小見世より出火して、廓中ことごとく類焼す、よりて普請中仮宅にて商売の事、先格の通願ひすみて、山谷、山の宿、聖天町、花川戸、東仲町、俵町門跡横手辺まで、廓中の娼家みな仮宅して、繁栄筆紙に尽しがたし、今盛なる娼家の数々、委敷は予が贅せる北廓事譚に出す、
文政七申年四月三日、京町より出火にて廓中焼亡より、今年十二年目也、娼家々々の普請修復の頃なれば、不慮の幸ひとも言あへりぬ、明暦年間今の吉原に移りて、焼亡十三度なりと云(『巷街贅説』)
○北廓類焼
今年天保八酉年十月十六日未明、新吉原伏見町より出火、廓中こと/\〃く類焼す、只にさへ霜枯の頃なるに、巳年以来飢饉引続て、世の中もよからねば、娼家みな立退所にて客を引つゝ、翌春にいたりて漸く仮宅極りぬ、こたびもまたさん屋、山の宿、聖天町、東仲町、たわら町辺にて多く仮宅し、花の頃に至りては繁栄なりしとかや、又深川の辺りにもかり住ありと聞へし、
北国をわかれて江戸の花川戸 つばさならべてわたるかり宅 五車亭
去々未年正月廿六日、角町より出火して廓中残なく焼亡、翌申年冬の頃迄に、漸く普請なりて引移りぬるに、一とせ立やたゝずの焼なれば、廓の盛衰も思ひやりぬ、明暦三酉年新吉原に移りてより、焼亡十四度におよぶ(『巷街贅説』)
弘化二乙巳年 十二月五日夕七ツ半時頃、新吉原京町二丁目かわづ屋(遊女屋也)より出火、廓中不レ残焼失、大門計残る、河津屋新治郎抱遊女玉琴、十三歳、六浦、十三歳、姫菊、十四歳、右のもの共火付の由にて被2召捕1、右火付盗賊改加役水野釆女組のもの召2捕之1(『天弘録』)
十三、四の現在でいえば中学生ほどの年齢の女の子が、火付けの咎で捕えられている。この子たちはどんな訳が有って火をつけたのだろうと、聊か気になった。また、火付けは厳罰に処せられる。彼女たちは、どんな処罰を受けたのだろうか。
大坂の遊里(色里)
大坂新町(おおさかしんまち)
大坂の御免色里。京の遊女に長崎の衣裳を着せ、江戸吉原の張りをもたせて大坂の揚屋で遊ぶのが一番と云われたように、大坂新町の揚屋は豪華絢爛、華美を極めたと云う。
新町の廓が現在の場所に出来たのは寛永年間だが、御免色里という点では、江戸吉原より古いといわれる。出願者は木村又次郎という浪人で、それまで民家の間に散在していた遊女屋を一ケ所に集めるため、一面野ッ原だった現在の土地を賜うた。新しく開いた土地なので、新町と呼ばれたのである。
寛永四年、佐渡島勘右衛門が上博労町の傾城屋を引き連れて来り、ここに佐渡島町を作ったのを皮切りに、惣名主木村屋又次郎は伏見から移って瓢箪町(又次郎町ともいう)を、佐渡島勘右衛門の実弟越後屋太兵衛が佐渡島町の隣りに越後町を(佐渡の隣りは越後ときまっている)開いた。その他にも、阿波座から移った四郎兵衛町(後の新京橋町)、新堀からの金右衛門町(後の新堀町)、天満葭原からの吉原町(後の裏新町)がある。これらを総称して五曲輪といった。(『かくれさと苦界行』238)
大坂新町の曲輪 新は音、町は訓をもってし、しんまちと云ふ。大坂官許の遊女町なり。けだし新町は私名なれども、諸国にても専らこれをもって称すなり。本名は瓢箪町と云ふ。その謂ふ所、ある人曰く、古、木村長門守の臣伏見に住す。その名を木村又次郎と云ふ。昇平後、官に請ひて大坂諸所散在の娼家を、この所に集めて一廓とす。伝へ云ふ、豊氏、千成瓢を長門守に賜ふ。長門守、これを再び又次郎に与ふ。これに因みて町名とすと云へり。またあるひは曰く、古、道頓湟辺に瓢箪町と云ふありて、その所に娼家ありしを今の地に移し、なほ旧名を用ふとも云ふ。いづれか是非を知らず。けだし瓢箪町の名はいづれに因むとも、当所開発は元和中にて、発起人は亦次郎なること必せり。
当廓、初めは廓口西一方なり。その後やうやく数口となる。通り筋東西・越後町東西・九軒町北口・阿波座北口・吉原南口、以上七口。故に五町七門と云ひしが、天保の火災後、吉原東口を開きて今は八門となる。(『守貞謾稿』)
獄卒が聞く「そもそも傾城には上・中・下の位が定っていて、それぞれ手練手管を競い、京・江戸・大坂の廓遊びはそれぞれおもしろいというが、大坂新町の廓の事情はどうか」西鶴曰く「もとより新町の繁昌は松の位の太夫から始まって、梅の天神、鹿の囲と、揚女郎はそれぞれに品位があります。影・月・分の端女郎もまたそれぞれにおもしろく、客は夜見世に女郎の弾く三味線の音色を聞いて、三味線の音はてんつる天満屋・多田屋と、流行小歌を歌いながら局見世を見物して歩き、通り筋を通り、九軒町で揚屋が軒を並べているのを見、阿波座に足をとどめて全盛の女郎の色姿にひかれます。いったい新町の女郎は、座敷でもあけひろげで万事にもったいぶらず、どんな野暮客でも最初から濡れかかり(体をゆるし)ますので、異名を原中の夕立と言っております。これだけの徳があり、これだけの誉れがあるというので太夫の位につけるのではなく、引舟女郎がついているので、さては太夫だなと合点することです。同じ座敷にいるのを見ますと、太夫も天神も囲も同じもので、これが違うところだという事が知れません。昨日まで囲女郎であった者が、今日は太夫の位にのぼり、客が祝儀の小判をはずみますと、月も影も天神の位に移ります。それゆえ、太夫だからこれほどの捌きができ、こうした所作があると、島原や吉原の太夫と同じように褒めることはできません。それなのに自然と新町の繁昌するのは、十人のうち八、九人まで田舎客が来るからです。ですから、女郎の風俗も下卑た事を隠さないで、べったりとなまめいて、野暮客の気に入るように仕掛け、初会の客の前でも食事をつきあい灸もすえてやります。(『元禄太平記』)
大坂新町遊廓の細見『みをつくし』(天明三年)は「廓紀原」と題して、次のように記している。
当津の柳陌(くるわ・花柳街)は往昔天正、慶長の頃より、諸所に遊女を抱へ渡世の者ありしを、寛永年中に今の土地を下しおかれ、諸所の遊女屋を一所に集め、一廓の内に軒を並べさせ、そのころ木村又次郎といへる浪人者に右廓の庄屋(名主)を仰付けなさせられ、永く傾城町となる。
しかし今日の研究では新町遊廓のはじまりは江戸吉原の開基と同じ年であったという。風俗研究家原島陽氏の一文によれば、「大坂の新地は秀吉の大坂築城のあと、急速に発展した城下町の中で、はじめ島の内にできたものらしい。天正十三年に許可され、元和三年(1617)の新しい町割りで新町に移された。慶長年間(1596〜1615)に瓢箪町が、続いて新京橋町、新堀町、佐渡島町が出来、正保、慶安年間(1644〜1652)には吉原町や九軒町も出来た。新町とはこれらの総称である。」(小野武雄『吉原と島原』)
廓中大火の事 同年(文化六已巳)九月八日夜、新町新掘町より出火にて、九軒町揚屋こと/\〃く焼、通筋半より越後町へ焼け、翌九日辰の下刻に、火やうやく鎮る、此時、九軒町揚屋において、火方の内、障子の久兵衛と云ふ者焼死す、是によつて、三郷火方より、小橋墓所に一基を建て弔ふ、右石碑の追悼に、
- 煙より今は涙にむせびけり身をけし口の人をおもへば
因に云、遊女町御免は寛永年中にして、凡四丁四方なり、初は西の大門のみなりしを、明暦三丁酉年、東大門口をひらき、又享保九甲辰年に、宇和じま橋筋の門ひらく、越後町東口、土橋すじ、右両門は宝暦四甲戌年間、阿波ばし筋、越後町西口、右両門は天明六丙午年にひらく、廓の出火は寛文六年、其後享保九年なり、又、新京橋町の(こばり筋なり)門を蛤門と云称あり、是は、宝暦四年立売堀失火の時より開きし故、火にあふて口をひらくと云ふ事に付、かくよぶとぞ、(『近来見聞噺の笛』)
新町遊廓は、瓢箪町・佐渡島町・阿波座町・葭原町の四筋からなる色里(ただし、郭内の西北部に九軒町・佐渡島町があり、阿波座町は新京極町・新掘町二町の通称)だが、東口大門から西口大門に至る大通りである瓢箪町を、一名新町ともいい、その南北両側に女郎屋があった」(左古慶三「西鶴地理ー大坂の巻ー」『解釈と鑑賞』昭35・10)
「大坂の遊廓は、慶長年中までは、西堀の東、今の伏見呉服町の旧地にありて、又一町と号す。是より道頓堀に遷されて、ここに居る事十余年、その后寛永第八辛未年、道頓堀より今の新町に遷さる。ここを新町といふ事、はじめは此葭原にて、是より先には人家なし。然るに、此の地を賜りて、郭中の者自分として、土砂を運び入れ、地形をつきたてて、かゝる町とはなせり。是によりて新町とは名づけぬ。今の阿波座町は、昔は当郭の北、仁右衛門町と言ひしに有り。佐渡島町は当郭の西にあり。葭原町は天満の北にありしを、道頓堀より瓢箪町をここに遷されし時、阿波座町も一所に遷され、南の町を新町といひ、北の町を阿波座といふ。その後正保二年乙酉の五月に、佐渡島をも当郭の内へ引く。次に天満の葭原町は、承応三甲午年の六月に此の内へつぼみて、新町の南の通りに町を構へ侍る。又その後、明暦三年丁酉九月に、河口の三軒屋の傾城長共残らず当郭に入りて、郭の内南の方に、堀を隔て、一筋の町を構へて、葭原町と名づく。挙屋は、郭の内四ヶ所に分ちて居住せしむ。まことに日本の遊廓において、その莫大なる事是に過ぎず。惣じて傾城町は、その所繁昌の瑞験なるをや。始めは郭の近辺に人家なく、只兼葭のみ茂りて、鴻鴈の栖なりしかども、遊郭を遷せる故によりて、次第に賑ひ来り、民屋四方に建て続き、今は大坂の境府となれり。この郭の本名、瓢箪町と言ふなり」(『色道大鏡』十三)
『歴史地名便覧』「大坂新町」の項参照。
【五曲輪】(ごくるわ)
瓢箪町、佐渡島町、越後町、新京極町、新堀町の五つの廓を称して五曲輪といった。あるいは、佐渡島町、越後町を同族として一つと数え、吉原町を加えた五廓をいう。ちなみに小野武雄著『吉原と島原』では、瓢箪町、佐渡島町、吉原町、新京橋町、新堀町を「五曲輪」としている。
「歴史のこぼればなし」『大坂新町の成立ち』参照。
京の遊里(色里)
京の遊里(色里)
○京師の淫房は、はじめ所を定し事なく市井に居れり。応仁文明の乱、後世のさわがしきにかゝるたはれたる遊びもなくやありけむ。天正十七年の頃、万里小路二条辺は人まれ/\にして、古柳左右に生ひつゞきたれば、俗に柳の馬場と呼し。其時原三郎右衛門秀正と云者住せしに、秀吉公かれに命じて所の賑/\しかるべきやうにはからはしむ。秀正林又市郎等某といふ者と心をあはせ、万里小路二条押小路三町に町を立て遊女を置て柳の町と称せし婬房を慶長七年に室町六条に移さる。東は室町を限り西は新町、北は五条の橋通に至る。世に是を三筋町といふ(今ノ雪駄町ヨリ魚棚マデノ間其跡ナリ)。元和四年に遊女の舞をよく舞ふものを院にめされし時、丹波大掾藤原吉政といふ号をかりに下され、男の舞太夫に准せさせ給ひしより其一家に名ある女をば太夫と呼侍しとかや。寛永十八年に今の朱雀七条にうつす。此廓只一箇の門のみにして他の道なし。肥前国嶋原の城廓に似たれば俗島原といふ。本の名は西新屋敷といふといへり。(已上六圏点天野信景説)(入江昌喜『久保之取蛇尾』)
応永四年(1397)、将軍足利義満の時代に初めて東洞院七条下るに九条の里というのが公許された。現在その跡は不明だが、京都駅の東北方辺りにあったとされる。これが我が国最古の遊廓となるが、応仁の乱によって失われ、度重なる兵火により永らく絶えていた。(林美一『時代民俗考証事典』)
祇園(ぎおん)
京都にある色町の名称。古くは八坂神社の門前町として栄え、江戸期に私娼の遊廓が現れ賑わった。現在でも舞子、芸子さんたちの置屋があり、だらりの帯の舞子さんに出会える観光スポットとなっている。
祇園 祇園町は祇園の西門より四条橋東の大路を云ふ。この所を京師非官許遊女の魁とす。当所の起源いまだこれを詳らかにせず。
天保十三年府命の時、江戸・京坂非官許の遊女を禁止することあり。その時、京師も島原もとのごとし。その他祇園以下諸所これを廃す。
嘉永四年十二月、祇園以下京師にて七所を再興を許し、同月二十八日よりこれを行ふこと、もとのごとくなり。(『守貞謾稿』)
島原(しまばら)
京の色里の名。『俗事百工起源』に島原の名の由来が、天草島原からきているとある。島原の乱が寛永十四年(1637)だから、この遊里ができた寛永十八年には、まだ島原の乱が人々の記憶に新しかったのであろう。
島原 京師の遊女町は古は西洞院(にしのとういん)にあり。その後、六条柳の馬場(やなぎのばんば)にあり。寛永十八年、柳の馬場より今の九条朱雀通り(すざくどおり)に移して、俗に島原の廓と云ふ。本名は三筋街と云ふ。(『守貞謾稿』)
或書に云ふ。寛永十八年、今の朱雀野に移され、一つの門のみにして他の道なし。先に事有し肥前の島原の城に似たりとて、俗に島原と呼びけるより名とはなれりと云ふ。(『俗事百工起源』)
鬼が聞く「さてまた聞こう。都で名高い島原での遊びの様子は」西鶴曰く「いやもうこの地の色遊びは、揚屋に来た女郎は情けらしい言葉を掛けますが、うわついてべたべたせず、遊女の最上というべきです。それゆえ島原に馴染んで来ますと、しっぽりとおもしろく、色とか恋とかいう騒ぎから、実意を示す深間になりますと、どんな粋人でも、粋人だからのめりこんでかえって身を亡ぼし、適当な所でやめるということができません。島原の遊女に打ち込みますと、すべての物を自分の物と思わなくなり、三代続いた家屋敷も人手に渡し、ぽっくりと死ぬ事を願っている親仁も、毎日白髪を抜いて島原に通いつめ、子供にはろくろく木綿の綿入れさえ着せないで、女郎の所へは小袖を作ってやろうともくろんでいます。」(『元禄太平記』)
[京師遊女町島原の由来]
○京師の遊女町島原の地、元来朱雀野と号す。上古には鴻臚館異国の客をあいしらし所なり。此遊女町始め洛陽六条南室町、同西洞院中道寺にあり。寛永年中にこの所にうつさる。其年肥前の島原切支丹の一揆あり。それゆへ世人島原と名づくといふ。又は肥前島原賊徒のたてこもる所、一の門斗をかまへそれにるいせるゆへ、島原と名づくとも、内に六町あり。南北にわたり三筋にわかつ。よつて三條町とも云ふ。上の町中の町下の町也。又西洞院中道寺あけや町ともいふ。女色をあきなひ町をたつること秀吉公の代にはじまる。秀吉公の時、洛中万里小路二条の南北二三町、人家なき所大路のかたわらに柳数本あり。是ゆへ柳馬場と号す。今人家となり柳無けれどもその号を称す。時に原三郎左衛門と云ふ者あり。その人家なく柳斗ある所を以て傾城町とせんとたくみ、終に訴訟す。秀吉公たま/\その辺御往来をうかゞひ町にいでゝ直奏をとぐ。其隋御免を蒙り雙樹の柳をきりてほどなく店つくり、又所々より来りて三郎左衛門につきて多くの遊女ををきて繁栄日にしたがふてとげ、傾城町となる。天正十七年の事なり。即その所を柳町と号す。二条の南北三町の所なり。その後洛中に傾城町あるもいかゞゆへ、その柳町を慶長七年室町の六条にうつされ四十年後寛永十年今の島原にうつさる。今島原に亀屋と称するものあり三郎左衛門が末なりと云ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
【揚屋町】(あげやまち)
胴筋を西へ突き当った左の一町は、鹿恋以上の遊女を挙げて遊ぶ揚屋ばかりがあった。(『たきつけ草』注)
【衣紋の馬場】(えもんのばば)
今の夷馬場町を北へ、廓の塀沿いに大門に達する野道。遊人衣紋を繕うよりいう。(『たきつけ草』注)吉原の衣紋坂も同じ理由で名付けられた。
【朱雀の野辺】(すざくののべ)
島原の廓の周囲は葛野郡大内村に属する田野で、朱雀野といった。(『色道小鏡』注)
【朱雀の細道】(すざくのほそみち)
丹波海道町を出離れると田圃道となり、南下して西へ行くと島原の西端衣紋の馬場に達する。これより大門までの間を言う。後に一貫町通り突抜一丁目より西へ畦道伝いに大門に達する近道が出来た。これを朱雀の新細道と言った。今の花屋町通りに当る。(『たきつけ草』注)
【丹波口茶屋町】(たばぐちちゃやまち)
大宮通西入る丹波海道町に茶屋あり。ここにて駕篭を下り休息する。(『たきつけ草』注)
【出口の茶屋】(でぐちのちゃや)
大門を入った所を島原では出口といい、水茶屋があった。但し昼の内ばかり端女郎を挙げることが出来る。遊客の出入激しい所であったから、廓内の出来事はすぐ話題になったことから、噂町の茶屋とも言った。(『たきつけ草』注)吉原でいう待合の辻にちかい場所。
島原大門口の茶屋。島原の東の一方口を出口と称し、大門があったが、この門を通り抜けて突き当りの中之町の裏側を出口の茶屋町といい(一名噂町)、水茶屋が並んでいた。大尽客の休み所となり、また、昼間は端女郎を揚げて遊興することも許されていた。茶屋の数は、『色道大鏡』と『朱雀遠目鏡』で、それぞれ十五軒、十三軒の名を図示しているが、他に北向の茶屋をそれぞれ四軒、五軒ずつ挙げており、西鶴は「出口十七軒の茶屋」(『西鶴織留』一の一)と記している。また『人倫訓蒙図彙』七には「入口の茶屋にて、又それ様の御越しと言へば、「早うござちました」と答ゑつゝ、大尽の尻に付きて揚屋へ送り、門口より帰る」と記している。(『好色一代男全注釈」)
【出口の門】(でぐちのもん)
島原の入口の大門のこと。入口を出口という、島原七不思議の一つ。(『けしすみ』注)
【胴筋】(どうすじ)
廓内中央を東西に通ずる道路。(『たきつけ草』注)吉原の仲の町と同じようなメイン通り。
三筋町(みすじまち)
京の御免色里があった処の名。万里小路二条から慶長七年(1602)に室町六条通りに移され、寛永十八年(1641)九条朱雀通りに再度移転した。どの町も三筋町だったが、最初を「柳の馬場」と呼び、三番目を「島原」と俗に呼ぶため、ただ三筋町と云う時には二番目の室町六条通りを指すようになった。
慶長七年、廓は六条室町に移された。これが六条三筋町の廓である。(『吉原御免状』129)
三筋町にしたのも楊柳を植えたのも明の妓院の模倣であり、明の妓院は唐代の長安の色里平康里以来の伝統に従ってつくられたと云われる。(『一夢庵風流記』210)
この六条三筋町は、本来六条柳町という。三筋町は俗称でその由来は柳町上ノ町・柳町中ノ町・柳町下ノ町が、室町通と新町通の間にあり、そこに遊女屋が軒を並べたからだ。ところが元和初年に至って、あらたに西洞院通東側に、太夫町、別称西洞院町が出来た。これは非公許で娼家まがいのことをしていた店を集めて一町とし、六条柳町に所属させた京都所司代のはからいだった。こうして六条三筋町の遊廓は三筋町と西洞院町(上・下太夫町)との間にあった湯屋町一町まで含む広さになった。(『花と火の帝』下122)
慶長七年に淫房を室町六条通に移さる。東は室町を限り、西は新町、北は五条橋通りに至る。世に是を三筋町と云ひしなり。(『俗事百工起源』)
慶長七年に二条柳馬場から移り、寛永十七年に島原へ移転するまで、三十九年間営業していた京都の遊廓。初めは、北は五条通り、南は六条通り、東は室町通り、西は新町通りに囲まれた地域に、北から上之町・中之町・下之町の三筋の街並みが設けられたので、三筋町といったが、のちに西側に発展し、太夫町(西洞院町とも)・中堂寺町・湯屋町ができて、区域が広がった。(『好色一代男全注釈』)
柳の馬場(やなぎのばんば)
西洞院辺りやその他の地に散在していた遊廓を、太閤秀吉の許可を受けて、原三郎左衛門という人物らが一ケ所に遊廓をまとめた。これが御免色里の魁となる。この色里建設は、戦後(応仁の乱)の復興事業でもあったようだ。
我が国に初めて出来た遊廓は京の柳ノ馬場である。万里小路(までのこうじ)二条の南、方三町の御免色里(許可をうけた遊里)。天正十七年のことだ。この万里小路二条の廓を柳の並木で囲むように作ったのは、明かに唐・宋の『柳巷』の真似である。そのために此所をまた『柳町』ともいった。万里小路二条のあたりは、天正の頃には、応仁の乱に焼かれたままの野ツ原だった。だから周囲を柳の並木でめぐらすことが出来た。(『吉原御免状』129)
遠く唐の都長安の遊里平庚里(ピンカンリー)を真似たのさ。柳ノ馬場を創めたのは、太閤さまの馬丁原三郎左衛門と浪人林又一郎ということになっているがね、この二人の背後にいた相談役は実は五山の坊さまたちなんだね。お坊さま方は、遥々海を渡って彼の地に到り、勉学のかたわらその色里で遊んだおぼえがある。その経験を柳ノ馬場に生かしたわけだ。(『吉原御免状』103)
西洞院に遊女町があったことは様々な記録に残っている。その西洞院の遊女町を、応仁の乱によって焼野原と化した柳の馬場に移して土地の繁栄を図ったのがこの廓だった。二条押小路南北三町を上中下三町に分ったいわゆる三筋町のはじめであり、廓の周囲に楊柳を植えたので『柳町の遊里』と呼ばれたと云う。(『一夢庵風流記』210)
或書に云ふ。京師淫房は、始処を定めし事なく、市井に居れり。応仁文明の乱後、世の騒がしきに斯る戯れたる遊もなくや有けん。天正十七年の頃、万里小路二条辺は人の家稀々にして、古柳左右に生ひ続きたれば、俗に柳の馬場と呼ぶ。其時原三郎左衛門秀正と云ふ者住せしが、秀吉公渠に命じて処の賑しきやうに計はしむ。秀正、林又三郎某と云ふ者と心を合せ、万里小路二条押小路の三町に町を立て、遊女を置きて柳の町と称せし。(『俗事百工起源』)
○万里小路を今は柳馬場といふことは、むかし二条の上に遊女町ありて、そこに柳の在しよりの名といへり。さだかなることはしり侍らねども、その柳を六条三筋町にうつし植、又島原にうつし、出口にうゑたりと、廓中のものいひ伝へたり。(『橘窓自語』)
『色道大鏡』に有る京の傾城町の記述参照。
その他の遊里(色里)
江口・神崎(えぐち・かんざき)
遠く平安の昔に遡る色里の地。『吉原御免状』にも「江口・神崎以来の色里」(p292)と記されている。神崎というのは、大阪湾にそそぐ三国川(現淀川)を神崎川と言ったことによるもので、神崎川河口の地名を表している。
江口とは、難波入江口の略称であり、西国への船路は、ここから三国川を経て武庫(むこ)の入海へと乗り次ぐほかになかったようだ。このあたりが殷賑をきわめた事実は、多くの古書にも書き残されていることであるし、烈風の吹きすさぶ日には、広大な淀の流れの三角州に、もうもうたる砂塵が巻き起って、大火の煙かと見粉われたことからも明らかである。江口の里の賑わいは、西国或いは遥かな外国(とおつくに)からの上り下りに、格好の船継ぎ場としての栄えぶりを極めていたと考えられる。
従って、公卿・武人達の宴席は途絶えることなく、郎女(いらつめ)・遊行婦(ゆぎょうふ)などと呼ばれた遊女達が、そうした公卿や武人達にとり入ろうとして屯したことも確かであった。しかも、当時の郎女や遊行婦達の中には、才色を兼ねそなえた女傑なども少なくはなかったようである。
観音・中の岡・小馬・主殿など、美しくも奥ゆかしい遊女達をはじめ、白女(しろめ)・小観音・中君・金(かね)・熊野・木姫・戸々(とど)たちが、宇多天皇・藤原道長・藤原頼通・藤原伊通・藤原長方・藤原仲実などの寵愛を受けた伝統は、この地が三国川の衰微と共に寂れ果てるまで受け継がれた。(近藤精一郎『君塚西行塚』歴史読本1968年8月特大号)
江口は淀川と神崎川とを運河で結んだ合流点近くの地名(現在、大阪市東淀川区)で、神崎川河口の神崎と共に交通の要衝であり、遊女が多かったことで知られている。(高橋英夫著『西行』)
「其比、神崎の里に遊君を集め、中町の長者といへるは、高倉院の御時、斎藤滝口に相馴し横笛が母なり。此女は大かた無双の能者なれば、建礼門院のはした者に召あげられ、世に情の深き事、盛衰記にみへたり。此ゆかりにて、今も遊女の波枕、契りは一夜川の水の心になし、岸の柳のいつなりと、人の恋風の吹とき、なびくもおもしろし」(『新可笑記』四の一)
津守(つもり)
堺の町にあった色里の名。乳守ともいう。
忠輝が案内された場所は大坂城ではなかった。堺の町である。この住吉神社の鳥居の南、高巣の森が高州となり、北高州町、南高州町と分れ双方に遊里があった。南高州町は後に津守と呼び、乳守とも書いた。この津守の廓にある揚屋に秀頼はいた。(『影武者徳川家康』下238)
「堺の遊廓は、南北両所にありて、北を高洲といひ、南を津守といへど、本名は北高洲町、南高洲町なり。(略)今の高洲町といふは、昔は野原なりつるを、傾城長六人して取立て初し故に、即ち六軒町といへり」(『色道大鏡』十三)
○住吉遊女田植 堺乳守の遊女、住吉の御田をうゆる事は、いづれの帝の御時なるか、宮女に悪瘡の愁ありて、終に宮中を出て吟ひ、乳守に来り、遊女の家にやしなはる、此病を住吉の神にいのる、ある暁神託して、諸人に面をさらし、賎しき業をなすべしと也、よつて御田植女にまじりて、毎年これをつとむる、悪瘡こと/\く癒て、顔色元のごとし、此例を以、乳守の遊女、植女となるのはじめ也、又遊女局などの暖簾に、紫の耳を付る事、乳守の外に出ず、これみな故縁によるといふ(『近代世事談』巻之四)
長崎丸山(ながさきまるやま)
肥前長崎の御免色里の町の名。主に南蛮人(オランダ人・イギリス人)向けの遊廓、唐人(中国人・朝鮮人)向けのもの、そして和人(日本人)向けとそれぞれ別れていたという。
「丸山」長崎にある遊廓で当時ユニークな存在であった。日本人相手の遊女(日本行)、唐人相手の遊女(唐人行)、紅毛(オランダ)人相手の遊女(紅毛行)があり、日本行は他に比べてすぐれていた。(『日本の古典17』注釈)
因に記す、いつの頃にや、長崎にて華人の相対死有て、其辞世のよし、和漢の情死珍しからずや、
欲レ語涙痕満2錦延(延に竹冠)1 玉笄明鏡転堪レ憐
千裁冤夢一時尽 共作2北亡(亡におおざと)山上烟1
南京郡州人 李錦館 歳二十一
ふりつもるなみだの袖の木がらしは けふをかぎりのことのはもなし
円山の遊女 歳十八 (『巷街贅説』)
長崎の遊廓の丸山町・寄合町の総称。丸山町の遊女三百三十五人、うち太夫六十九人、寄合町の遊女四百三十一人、うち太夫五十八人、傾城屋は合計百三軒あったとされる(『長崎土産』五)。また「両町傾城の数八百余人」(『色道大鏡』十三)とあり、古賀十二郎氏の『丸山遊女と唐紅毛人』では天和元年の数字として、女郎屋七十四軒、遊女七百六十六人を上げている。(『好色一代男全注釈』)
その他の傾城町
木辻町(きつじちょう)
奈良の南端にあった傾城町。揚屋・傾城屋各七軒が営業していた。
橦木町(しゅもくちょう)
伏見の傾城町。本名恵美酒町といい、慶長元年(1596)、林又一郎が豊臣秀吉に願出て許された。徳川幕府となった慶長九年(1604)には渡辺掃部と前原八右衛門が奉行に願出て認可を受けた。
伏見、駿河、敦賀等の色里の記述が『色道大鏡』に有るので参照。
二丁町(にちょうまち)
駿府(静岡)の傾城町。慶長年間(1605頃)徳川家康に従って伏見から駿府に来た鷹匠の伊部嘉右衛門が、職を辞した後、家康に願い一万坪の土地を拝領して造った。嘉右衛門自身も故郷の名をとって、伏見屋という店を出したとされる。『しずおか町名の由来』によれば、これがわが国の公娼の始まりで、始めは七丁あったが、後に五丁が江戸吉原に移り、残った二丁が「二丁町」と呼ばれるようになったという。また『江戸諸国遊里絵図』によれば、始めは五丁で五丁町と呼ばれていたが、慶長十四年(1609)の秋、五丁の内三丁を吉原に割いて「二丁町」になったともいわれる。二丁は「上の町」「仲の町」をいう。(山下和正/月刊「地図中心」06.7月号)
室の泊(むろのとまり)
津泊の色里。
周防山口の城主大内義隆の家人、浜田与兵衛が妻は、室の迫の遊女なりしが、浜田これを見そめしより、わりなく思ひて契りふかくかたらひ、つゐにむかへて本妻とす。かたちうつくしく風流ありて、心ざま情深く、哥のみちに心ざしあり、手もうつくしう書けるが、しかるべき前世の契りにや、浜田が妻となり、たがひに妹背のかたらひ此世ならずぞ思ひける。(浅井了意『伽婢子』巻之三 浜田与兵衛妻の夢を正しく見る事)
色里の文化・風俗・風習
色里の文化
色里の三朝(いろさとのしょうがつ)
名残おしきは朱雀の細道と、夜あけがたより声おかしう唄ひつれて、きぬぎぬの酒、こゝなればこそ下戸を見ず、涙を置みやげにまたの首尾、さても命とかねとはあるものをや。そも/\傾城といふ事、ゆらいをかたるはまたふるし、いはねば聞へず、延年がなげぶしの唱歌に、「北方に佳人あり、一たび顧れば人の城をかたぶけ、ふたゝび買て見れば、人の家の五間や七間は」とうたひしより、此名はじまりけらし。もろこしには日本の熱田大明神のそれしやに生れ出給ひて、玄宗の腰をぬかし、我朝には白目大磯の虎・けはい坂の少将をはじめて、国々津々に恋の海山しげき人めは忍びて、美女に事を闕ずなりてより、恋こがれて人死なく、かのたぐひなき柳の枝に腰をさかせ、さかりの桜に顔の色つやをふくみ、榾くべたる梅が空焼に、肌の雪をなぞらへ、見るより消るばかりなるかたちに、紙尽の筆もとらず、気づくしの歌もよまず、機嫌とる媒をも頼まず、上は十を七つといふにひとつあまし、下は十九に二つたらぬ価に首尾なりて、錦京六の夜の物薫じわたる花を、ふら/\三筋二十五絃の糸竹に肝魂もちゞみあがり、すは安楽の浄刹におぼへずいたるかと有頂天に飛あがり、心は奈落にしづみはてゝ、そゞろ思ひのやるせなく、あさきながれに首たけはまり、飛鳥川とはよそにのみみて、我ばかり水底にをよぎわたりぬ。さありしより、人の親の心はくらきにあらねども、行末のあさまる道をはからず、世に憚の関もなく、羽束師(うづかし)の森の下露にそぼち、雨にぬれてはほとゝぎす、同じ枕にきかんたよりをねがひ、なれし我つまも等閑(なおざり)になり行、かぎりなき贅につゐに人をかたり、身をなげうちて筋めをよごし、あらぬ不祥をたくむ根なるをなげくも、いつくしみの垂乳根(たらちね)の心おしはかりていたまし。かきつゞればみな親仁の口まねするに似たれど、さにあらず、まづ初買のさだめ、過し年の事はじめより、それぞれかたがたの手組して、また初春の恋の咲所、松は千年の太夫、梅は時しる気色、なを此世あらんかぎりは/\。(『正月揃』)
この文を読むに、京島原の色里を現しているのだろうと思うのだが、何故にこれを「色里の正月」というのか私にはさっぱり分りませんでした。どなたかのご教授をいただければ有り難い。
花魁道中(おいらんどうちゅう)
江戸吉原の風物で、花魁が遊女屋から揚屋までの往復を供の者を引き連れて行列する様をいう。花魁道中というのは後世の言葉で、当時は「ぬめり道中」と云ったらしい。
遊女は江戸町の遊女屋から京町の揚屋へ、あるいは京町の遊女屋から江戸町の揚屋へと往来した。この往来を、江戸、京都間の旅になぞらえて、道中と呼んだのである。
道中は当然、遊女が自らの全盛を誇示するものであり、宣伝でもあった。従って花魁たちは、衣裳髪飾りなどの華かさは勿論、褄のとり方、足のふみ出し方など微細な点まで、独自の型を作ろうと努めたものである。
道中も時代によって異る。元吉原の頃は地味なものだった。新吉原に移ってもこの明暦頃にはまだ高下駄もなく草履である。最初に下駄を用いたのは享保年間、角町菱屋の芙蓉という遊女だという。道中が最も華美を尽した文化年間の模様を書いておこう。行列の先頭は遊女の定紋をつけた箱提灯を持つ若者。次に禿が二人。三枚がさね広袖の振袖。持物は一定しないが、例えば一人は人形、一人は守り刀。煙草盆と煙管。禿の次が太夫。四枚がさねの衣裳の裾を右手で握り、黒塗畳付三枚歯、高さ五、六寸の下駄。うしろから若い者が長柄(九尺以上)の定紋入り傘をさしかける。その後を新造二人。三枚がさねの衣裳。更に瀟洒な扮装のやりて。皮羽織を着た若い者と続く。こんな行列が幾組も仲の町をゆきかっていたのである。(『吉原御免状』102)
ありんす国のシンボルは花魁道中である。花魁が全盛を誇示すると同時に、よい客を誘致する宣伝手段でもあった。花魁の本拠たる遊女屋から、仲之町の引手茶屋(太夫当時は揚屋)まで往復するのが普通である。時には茶屋へ立寄らず、仲之町をぐるりと一巡することもあった。
髪飾りや打掛の満艦飾もさることながら、特色はスローモーな歩きぶりである。道中には内八文字と外八文字があり、内八文字は半円をえがいて足を廻しこみ、外八文字は裾を外側へ蹴ると同時に、足を外輪から内側へ廻して一歩を踏む。内八文字が公卿の練足の転化なのに対して、外八文字は武家の闊達を模したもの。副産物として裾を蹴った拍子に、緋縮緬の内衣(やぐ)からまっ白な足首や、時にはふくらはぎまでチラリと見せ、卑猥な男どもを悩殺した。(稲垣史生『ありんす国深秘考』)
「ぬめり道中」 内八文字で揚屋への往復をすること。道中の際、外八文字に踏み出すのを江戸風といい、内八文字に踏み出すのを島原風という。(『日本の古典17』注)
此道中といへる事は、往古よりある事にて、太夫揚屋へ行に、大勢花やかに仕度してつきそひ行は、旅よそおひのこゝろにて、出立といふより道中といふ、門出にたつまといふ事あり、古来の事か、京町の遊女江戸町へかよひ、江戸町の遊女京町へ花やかに通ひ、出立ばへなぞといふ心よりいふ(『久夢日記』)
大寄(おおよせ)
座敷踊りともいい、大尽客の望みで揚屋の大座敷で行う遊女たちの総踊り。
「大寄といふ事あり。八朔まで諸方賑々しけれど、二日より秋のあはれを知る所を、花やかなる大臣ありて、揚屋座敷におゐて、廓中の隙なる女郎を残らず揚切りて集め、座敷踊有り。この花やかなる事筆にも及びがたし(『みをつくし』)。「往昔大よせ踊といふは、八月朔日より同十五日まで、客の尊卑により三五十人乃至七八十人、末に至りて五六人程づゝ日を約して、揚屋の座敷にて打込みに踊りを催し、二十人程づゝ入替り踊りをなす。出立ち地踊には、野郎帽子・さらし帷子、黒羅の羽織の裾を腰に巻付け、印籠・巾着、かいらぎなど指して踊り侍る。仕組踊は、十四五人廿人ほどづゝ、思ひ/\の物好奇の明衣なり。佐渡島伝八・金沢五平次等、その替へ手の風流を付け、今宵は何屋の大寄せ、翌日の夜は何屋と、毎夜毎夜の大寄せにて一夜も闕如なし」(『浪花青楼志』三)。(『好色一代男全注釈』)
廓詞(くるわことば)
吉原詞、新町詞など。
昔時、遊里にて遊女の使用せし特殊語、田舎出の遊女に田舎詞をつかはしめざるために定めしものといふ。(『廣辭林 新訂版』)
新町詞 昔は江戸新吉原町の遊女語のごとく、諸国より抱へたる娼妓の生国の鄙言を隠すがために、一種の詞を造り、常言にこれを用ふなるべし。その言は江戸吉原詞と同じく、云ひますを「いゝなます」、「なされませ」を「なまし」、あるひは「なませ」と云ひしなり。余は吉原詞に准じてこれを略す。その証は、古き小唄に、上略、はやうとゞけてくんなませ、と新町詞で云ひなます、云々。この言を用ひず、市民と同言のみ。(『守貞謾稿』)
【ありんす詞】(ありんすことば) 吉原の遊女達が使っていた言葉。
吉原詞 ある人曰く、当廓の娼妓、多くは北越の産なり。また江戸生れもあれども、所詮諸国より身を売り来たること故に、常の江戸詞にては、その移りがたきもあるなり。この故に一種の言語を製して、諸国の訛言より移りやすからしむと云へり。それ、「左様でござります」を「そうざます」、「いやでございます」を「いやざます」、「左やう御座りますか」を「そうざますか」、「云ひなされます」を「いゝなます」、「参りました」を「まいりんした」、「やりました」を「やりいんした」、「ありましやう」を「ありいんしやう」あるひは「ありいんす」。(『守貞謾稿』)
吉原の里ことばは「ありんす語」である。娑婆語とはだいぶ違う上に、通言雅語がまじるのでいよいよややこしい。「太鼓持ありんす国の通詞なり」は、里ことばのむつかしさを言っている。
ありんすの体言は「んす」で、「します」は「しんす」、「なさいます」は「なんす」、「です」は「ざんす」となる。また過去・未来・打消しは、「ありんした」、「ありんしょう」、「ありんせん」そして「行きんした」、「行きんしょう」、「行きんせん」などと変化する。文法上からは動詞の連用形について、謙遜ないし丁寧の意をあらわしている。ところが、必ずしもその原則どおりにはいかない。吉原の中の遊女屋毎に、さらに「しったか玉屋」「ざんす丁字屋」「おす松葉屋」など独特のことばがある。(稲垣史生『ありんす国深秘考』歴史読本1969年11月特大号)
諸分(しょわけ)
廓(さと)の諸分。色の諸分。
廓(さと)の諸分では、床いそぎは最も軽蔑される行為の一つといわれる。(『花と火の帝』下119)
「諸分」遊里や遊興に関しての種々の振舞い、しきたり、作法などをいう。(『日本の古典17』注釈)
【色の諸分】(いろのしょわけ) 男女の道(『かくれさと苦界行』64)
『色の諸訳』とは掟でも定めでもない。そう志すことだけだというのだった。そういう眼で、男と女を見れば『色の諸訳』は自然に分って来るものである。ただそれには素質がいる。天性の素質がなくては色道を極めることは出来ない。(『かくれさと苦界行』66)
菅垣(すががき)
清掻とも書く。遊女屋の営業を告げる三味線の連弾。間断無く続く「すががき」の音色は吉原の街の音といっても良い。清掻という文字から本来は唄を唄わないものを云うのだが、吉原の「みせすががき」には唄を付けたものもあったようだ。
三味線は、所謂『みせすががき』であり、吉原の夜の世界の開幕を告げるものだった。
清掻の清は、素謡の素で、掻は、古くは琵琶を掻き鳴らすことだったが、後には唄を唱わずに、弦楽器のみを奏するのを、すべて、すががき、という。夕刻、遊女たちの身支度が終ると、店の者が神棚に柏手をうち、縁起棚の鈴をならす。それをきっかけに、新造が、三味線をもって神前に並び、弾きはじめる。この三味線の中を、遊女は二階から降りて来て、見世に並ぶ。これが張り見世である。後世、吉原芸者が現れると、彼女たちが、この清掻を弾くことになる。清掻は、営業が終るまで、つまり引け四つ(夜十二時)まで、間断なく弾かれていた。(『吉原御免状』15)
吉原は『すががき』の三味線の音に満ちていた。この寛永十七年という年から、吉原は夜の商いを禁止されている。昼遊びだけに限られたのである。それは吉原の繁盛ぶりを示すものだった。いかに『御免色里』とはいえ、いや、それだからこそ尚更、世に悪所と呼ばれる場所があんまり栄っては、公儀としては不都合だったのであろう。その結果、これまでは日の落ちる頃から弾きはじめ、日暮の象徴のような匂いを持っていた『すががき』を、日がな一日、弾きづめに弾くようになったのである。うわべは騒々しいようで、底にそこはかとない淋しさを漂わせたこの曲は、八月の残暑を吹き払うような効果を持っていた。(『死ぬことと見つけたり』上326)
菅垣 吉原町見世女郎ども黄昏に至り、夜見世を張る時、内芸者ある家にては内芸者の役とし、これなき家には新造の役として三絃を、見世の敷居際にて繁絃するを、今世の「すがゞき」と云ふ。故に夜見世をしらす菅垣など云ひて、これを弾くを合図に見世女郎ども上妓より次第に出で来たり、見世に列坐するなり。正面を上妓とし、左右を下妓・新造の坐とす。この時、内証と云ひて、主人の棲む席の隔てに簾を下し鈴を鳴らすなり。簾を下して障子を開くなり。その次すがゞき。
『声曲類纂』に曰く、清撹と書きてすがゞきと訓ず。和琴に云ふ所なり。あるひは菅垣とも書す。『源氏物語』に、吾妻をすがゞきてなど見へたり。すがゞきは清掻にて、唱歌なく曲を掻きならす手事を云ふか。昔の盲人、和琴の清掻を転じて三味線の手ごとに移したるを、また略して弾きたるが、吉原にのみ残れるにやあらん、と醒々翁は云へり。寛文梓行の『糸竹初心集』、また元禄印行の『大ぬさ』に、すがゞきの引きやうあり。繁ければ戴せず。同書に、二上りすがゞき、江戸すがゞき、三谷すがゞきとてありと記せり。按ずるに、尺八の笛にもすがゞきの曲あり。『宗固随筆』尺八の条下に、すがゞきは、近世、乱曲を号けて然云ふとあり。
今も吉原の菅垣は、家ごとにその曲大同小異ありといへども、皆各繁絃にて唄はなく、同じことをくり返し引くなり。(『守貞謾稿』)
昔時、江戸吉原にて、遊女の見世に出づる時、其合図に弾きし曲。みせすががき。(『廣辭林 新訂版』)
[すがゝき]清掻と書てすがゝきと訓ず、和琴に所レ言、源氏物語にあづまをすがゝきて、など見えたり、すがゝきは清掻にて、唱歌なく曲を掻鳴す手事を云歟、昔の盲法師等、和琴の清掻を転じて三絃の手事に写したるを、又略して弾たるが、吉原に残れるならん、吉原大全に、元吉原の頃の小歌「道のほとりの二もと柳」、又「白き馬にめしたるとのご」などいふを、新吉原に移りし頃も専ら唄ひて、合の手にすがゝきのみひきし由を記す、京島原のなげぶし、大坂新町のまがきぶし、江戸吉原のつぎぶし、是を音曲の三名物とせし由、みをつくしに見えたり、(『大尽舞考証』)
三味線(しゃみせん)
江戸時代の遊郭に欠かせぬ音色といえば三味線の音色だろう。この三味線について、詳しくは古典音楽の項を設けた時に詳述したいが、ここではその由来などを簡単に紹介してみよう。
三味線は、もともと西域に起こり、日本へは中国から琉球を経て渡来したものと考えられている。わが国へ伝来してからは、様々な改良が加えられ、今日日本を代表する民族楽器の一つになった。
この渡来説には異説が多いが、永禄五年(1562)、琉球から渡来したといわれるのが有力な説となっている。これは蛇の皮を張った二絃だったが、和泉国堺の中小路という琵琶法師がこれを三絃とした。さらに撥も琵琶用の大きなもので胴面を強く押さえて弾く琵琶方式だったことから、蛇の皮では破れやすく、またそれに張るような大きな蛇がいないことなどから、犬や猫の皮に変えたという。
当初は三絃ということから、中国の楽器「三絃」(さんげん)と同音で呼ばれるが、それが三線であることから、「さんせん」「しゃむせん」「さみせん」などと呼ばれることで「しゃみせん」という言葉になり、日本独特の楽器となった。子どもの言葉の「ぺんぺん」も俗語として通用している。
大きさ、皮の厚さと張り方、撥の大きさ、重さなどで用途も分化され、また、太棹・中棹・細棹と大別され、おのおのその演じられるものによって使い分けられる。
一説に、文禄年間(1592〜6)に琵琶法師の石村検校が琉球に渡り、小弓(胡弓)を習得し、帰国してこれを改良して三味線を作ったとも言われている。(『日本なんでもはじめ』)
俄狂言(にわかきょうげん)
○吉原、毎秋八月に俄狂言の事、茶屋桐屋伊兵衛と云者あり、今現世せり、此者、歌舞伎役者の真似を好り、安永、天明の頃にや、角町遊女屋中万字やといふ同気相求め、二三人寄合けるが、或時風と思ひ付て、俄に狂言をこしらへ、中の町を往返しけるに、遊客共見物して、是は風流也、面白し、と評判しけるにより、彼等も乗が来て、夫より引続て二三日も、狂言の趣向を、取替、引替して中の町を往返し、楽けり、これ俄狂言の始にて、段々増長し、毎秋の定例に成しと也、(小川顕道『塵塚談』)
張り(はり)
主に吉原の太夫が矜持とし、誇りとしたが、時代が下がるにつれ太夫が居なくなると共に、そうした気風も無くなったという。
『太夫は情けに生きる』というのは、この意味であり、吉原の太夫の『張り』とは、この情けの世界、人を人として認め合う精神の世界に入って来ない者は、断固として拒絶するという姿勢を云う。己れの美貌や技芸を誇り、いたずらに傲り高ぶるのを『張り』と思い込んでいるお小夜の間違いはそこにあった。(『かくれさと苦界行』)
意気張と云ふこと 江戸の遊女は強ひて金銭に泥まず、見識を専らとするを良とす。古き俚言にも、京の女郎に長崎の衣裳を着せ、江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋に遊びたしと云ふことあり。女は京を良とし、衣は長さき、青楼家作は大坂美観とし、江戸はいきばりを専らとすること、他に勝れたるより云へることなり。仙台侯、三浦の高尾を見受ありしかど、金に動かず有約の男に貞を建つるにより、卒に三派にて下げ斬りとなること、世人の知る所なり。おほよそ江戸娼女の意、かくのごとくなりしが、やうやくその風も衰へ、天保前は深川の娼妓意気ばりを専らとせり。これも天保に絶えて、今は江戸に張りある遊女はなはだ稀なり。(『守貞謾稿』)
因みに云ふ、三都ともに遊女の心に応ぜざる客あれば、あるひは断りて見へず、あるひは同床すれども病気などに矯けて房事を聴さず。これを「ふる」あるいは「ふりつける」と云ふなり。京阪には稀なり。昔は吉原遊女、張り強く心に応ぜず、または気障と云ひて何か心に脇はざるふるまひ等あれば、しば/\ふりしなり。近年は張り弱く、ふること稀なり。深川等の遊女、近世も張り強く、いささかのことにも心に応ぜざれば、ふりしなり。(『守貞謾稿』)
遊女「瀬川」にみる『張り』
当時、常磐津文字太夫という浄瑠璃語りがあった。瀬川に前から思いを懸けていたが、中々に逢うことが出来ず。よって、揚屋町の男に頼んで、一夜の逢瀬をはからって貰った。揚屋町の男から、懇々と頼まれた瀬川は、それ程に思っていて下さるなら、芸人浄瑠璃語りなどには勤める身にても枕をかわさぬのが、里の習いではあるけれども、お逢い致しましょうと答えた。
早速、夜になると、彼の文字太夫、一世の綺羅をかざり、茶屋船、宿たいこを引きつれて、松葉屋の客となった。やがて、瀬川は座について、盃の応酬みだれた頃、瀬川は文字太夫に浄瑠璃を望んだ。文字太夫は、嬉しくなって声はり上げて、瀬川に気に入られたいばかりに、精を出して語った。瀬川は、禿に云って、目録金子千疋台にのせ、文字太夫の前に置き「今宵は御大儀でした。これは些かの御礼心です、御酒などおあがり下さいます様」と云い捨て二階から下へ静かに下りたという。一片の遊女の意気は、浄瑠璃語りの浮気心を冷殺してしまったのだ。(『江戸時代の猥談』)
○京の女臈に長崎の衣装を着せ、江戸の張を持せ、大坂の揚屋にて遊びたひと、古き俚言也、仙台侯、三浦屋の高尾を身請し、召連給ふに、申しかわせし男へ操を立て、侯に従はざりしかば、浅草川三派に於て、船中よりさげ截にし給ふ、あまねく人の知れる事也、又七十年程已前、豊後節語り文字太夫といふ有、手跡なども俗筆にあらず、名筆にて有けり、三芝居にて専ら用ひられ、贔屓の人も多し、或時、吉原へ人々を具して、上通りの女臈を買て、我知り顔にて居たり、女臈暫く有て、文字太夫なるを知り、座席をはづし、金子千疋台にすへ、少しながら御肴にあげ候、ゆる/\御遊なされ、と禿に為レ持出し、其身は出ず、馳走しけるとかや、流石の浄瑠璃語りなれど、赤面し立帰しと也、其頃専らの沙汰にて有し、都て上通りの遊女屋は、歌舞伎河原者には女臈を決てうらぬ定法也、又何節によらず、芝居へ出る浄瑠璃語りを呼てかたらするには、金弐両弐分定りし価也、かく吉原の女郎は意地強かりしが、今世は、金銀をつかふものを上客とし、御鬚の塵をとる由也、(小川顕道『塵塚談』)
【意気】(いき)
いき路ともいふ、路はいきの道すぢの心也、又助語なり、いきのよしあしは、尋常にもいふべけれど、先当道を本とす、心いきのよしあし也、心のいさぎよきを、いきよしといひ、心のむさきを、いきのわるき抔いふ、又、心のたけたると、初心なるをいふにも、かよふ也、(『色道大鏡』巻第一)
奉納踊り(ほうのうおどり)
長崎丸山で、禿が一人前の遊女になるときに行われた行事。
諏訪神社の祭礼に能を舞うとは、禿が一人前の傾城になることだった。祭礼は九月七日、九日の両日だが、丸山・寄合町の両傾城町では六月中に早くも踊りの準備に入る。町をあげての踊り奉納があるからだ。但しこれは謡曲能の曲舞ではない。この能は撰ばれた者だけがつとめる。寛永十一年、高尾と音羽という傾城が諏訪社の広前で舞ったのを嚆矢とするという。
傾城町では各町ごとに小屋掛けの稽古場を急設し、ここに踊りの師匠を招き、あんにょう、禿などを稽古に通わせた。これを『小屋入り』と云う。小屋入りは六月から八月一杯続くのである。丁度暑いさかりに御苦労なことだが、奉納踊りは各町ごとに組になって行われるので、当然、芸と衣裳を競うことになる。負けられぬ勝負だった。女たちも気を入れたし、傾城町は俄かに活気づき、おのずと客も集るという仕組だった。(『死ぬことと見つけたり』下47)
色里の風俗
越中褌(えっちゅうふんどし)
大坂新町の遊女越中が馴染みの客に作ったことから、その下着を越中褌と称するようになったといわれる。
しかし、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、
「『みをつくし』(大坂の遊所細見)、「延宝年中木村や又次郎抱へ越中といへる大夫裕。ある時あげやにて我相方の客風呂へ入らむとせし時、下帯迄はづして入らむとせしかば、姿見苦とて俄に思ひ付、湯具の緋ぢりめんの二布をときはなし、それに紐付て与へしより此風を越中ふんどしと云。越中国より始りしとは大なる俗説なり」といへるも又俗説と聞ゆ。」とあり、『茶事指月集』『歌林雑話』の文を引用して、延宝年中より古くからその体裁はあったと述べている。
勝山結(かつやまゆい)
当時流行した髪型。花魁道中で外八文字を広めたのも勝山で、遊女勝山は今で云うファッションリーダー的存在だったようだ。
同書に(『北女閭起源』)に云ふ。宝永三年より十一月十一日玄猪の紋日に始て勝山出たり、其時の髪の風よければ今も是を襲ふ。今は上々方迄も此の髪の風なれりと云ふ。
政運が云ふ。勝山結の其の初は、勝山は猛きに恐れぬ気性なれば、其頃の男達放駒四郎兵衛、勝山の揚屋いりの心にくさよ、驚かせ肝を冷やさせ呉んと、氷の如き刀を抜、大夫如何にと切つくるに、切先かうべの上に閃き、島田髷の元結を切ければ髷のいちひらけたり、勝山少しも驚きたる風情もなく、仰山な御方とばかり云ひて見向もせねば、流石の放駒も舌をまきて恐ける、是より島田髷のひらけしを勝山風といふと云々。(『俗事百工起源』)
婦人の髪の結い方、今の丸髷の前形、承応の頃、江戸吉原の妓女勝山の結ひしに始まるといふ。(『廣辭林』新訂版)
勝山髷 勝山仙州はじめて結しより流行、(或説に曰、江戸吉原巴屋勝山と云女郎始むとも云)(『近来見聞噺の苗』)
とあり、一説には勝山仙州という歌舞妓の女形が結ったのが広まったともいう。この『近来見聞噺の笛』は、大坂の戯作者暁鐘成(木村弥四郎)の著で、享和より文化に至る浪華の異事珍説を記したもの。
○勝山結 女の髪に此結やうあり、元禄の頃、吉原巴屋の勝山といふ女、ゆひはじめしなり。又島田といふ風は、東海道島田の宿の女、此風を常にゆひける、それゆへに此名ありといへり、詳ならず 傍注:島田髷は歌舞妓役者島田万吉始むといふ(『近代世事談』巻之五)
島田結(しまだゆい)
島田髷。遊女の髪型の一つ。
◎島田結のはじめ
同書(「北女閭起源」)に云ふ、島田と云ふ髪の風は、寛永年京都四条にて、歌舞妓の者島田甚吉と云ふ者あり、舞子の結び初たる事とぞ(『俗事百工起源』)
【なげ島田】(なげしまだ)
島田髷を後へ倒れるように反らした当時(天和ー貞享頃)流行の派手な髪風。(『好色五人女』校注)
丹前(たんぜん)
丹前風呂、丹前勝山。紀伊国屋風呂などの風呂屋が堀丹後守の屋敷前にあったことから、その風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女だった勝山を丹前勝山と云った。
今の神田佐柄木町・雉子町の続きに堀丹後守の邸前に風呂屋多くあり。各々美女を抱へて浴客の垢をすり、また髪を梳くを名として、その実売色を専らとす。丹州邸前を中略して、世人方言して丹前と云ふ。(『守貞謾稿』)
「丹前風」江戸神田松平丹後守の邸前にあった風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女勝山の風をまねておこった風俗。また丹前風呂へ通う「かぶき」者の風俗をもいう。(『日本の古典17』注釈)
「たんぜん」は江戸時代の道楽者や侠客の間に流行した冬着の一種で、「褞袍(どてら)」ともいう。承応・明暦(1652〜8)のころ、江戸・神田佐柄木町の堀丹後守邸の前に有名な町風呂屋があって多くの美人の湯女を抱え、昼は浴客の身体を流し、日が暮れると上の場び座敷をかまえて客を接待した。この風呂屋を、丹後守の邸の前にあることから「丹後殿前風呂」、略して「丹前風呂」と呼んだ。この丹前風呂の勝山という湯女が、髪を白元結で片まげの伊達風に結び、編笠に裏つきの袴をつけ木太刀の大小を差したいでたちが、丹前の勝山ともてはやされ、その姿を「丹前」といった。丹前風呂の浴客は、綿入れの広袖の衣を着物の上に引っかけ、その上に帯をしめて出入りしたことから、その広袖の着物まで「丹前」と呼ぶようになった。(『日本なんでもはじめ』)
昔松平丹後守上屋敷前に、町屋風呂屋おびたゞしく有、美麗を尽し、風呂女とて遊女多く有しが、貴賤諸人入込み、度々喧嘩口論有レ之故、御法度に成しとかや、其時よろづ風呂へかよふ歌舞妓どもを、異名に丹前と云、丹後守前と云心なり、今に何にゝも伊達道具を丹前といふ、是よりの事成よし、(『むかしむかし物語』)
寛永年間(1624〜1643)記事 寛永の頃まで神田佐柄木町、雉子町の続きに、堀丹後守殿御屋敷あり。丹後殿前といふを略して丹前といふ。此の辺風呂屋多く、美麗なる湯女もありて、こゝに遊びける若人等のさまを、歌舞妓に学びて丹前風といひし事、諸書に見えたれば爰に略しつ(堀家の御やしき、寛永の末正保の頃、下谷へ引移りたり。承応の江戸図には、既に戸田侯の御やしきに改りたり)。(『武江年表』)
「抑丹前風と申は、江戸にて丹後殿前に、風呂ありし時、勝山といへるおんな、すぐれて、情もふかく、髪かたち、とりなり、袖口広く、つま高く、万に付て、世の人に替りて、一流是よりはじめて、後はもてはやして、吉原にしゆつせして、不思議の御かたにまでそひぶし、ためしなき女の侍り。」(『好色一代男』)
○丹前風 丹前風呂の湯女勝山の特殊な風俗から起こった、伊達闊達な風俗をいう。「昔は、松平丹後守屋敷前に、町屋風呂有り。美麗を尽し、風呂女とて遊女これ有り。諸人入り込み、喧嘩たび/\故、御法度に成る。その時、風呂屋へ通ふかぶき者ども、異名に丹前へかゝる人といふ。これよりの事のよし」(『八十翁昔かたり』)によれば、この風呂に通う客の風俗をも、丹前といったのである。「見たてまつれば、をのをのも丹前風とやらん云ひて、刀・脇差・月代までも、古へに違ひてせらるゝと見えたり」(『理非鑑』下)、「彼の町や昔は風呂の花たりしが (四)友 小歌に忍ぶ丹前の春 (似)春」(『山の端千句』上)の用例を見れば、その両者を合わせて丹前風と称した。
○丹後守殿前 堀丹後守殿(越後村上城主、禄高十万石)屋敷前の略称で、さらに略して丹前ともいった。その所在地は神田四軒町(現千代田区神田淡路町辺)にあった。(真山氏)(『好色一代男全注釈』)
丹前節(たんぜんぶし)
小歌の一つで「丹前」ともいう。丹前風呂の一つ桔梗風呂の湯女吉野が元祖といい、その弟子に紀伊国風呂の市野、勝山などがいる。
土手節(どてぶし)
吉原通いの遊客が口ずさんだ小唄。待乳節ともいった。
投節(なげぶし)
明暦頃に京島原の柏屋又十郎抱えの遊女「河内」が唄い始めたとされる。唄の終りを投げるように「やん」と歌い捨てるのでこの名称がついたといわれる。
元禄年間記事 ○一蝶が作の朝妻船、しのゝめ一名かやつり草、などいふ小唄流行。投節小うた、上方よりはやり出す。(『武江年表』)
兵庫結(ひょうごゆい)
兵庫髷。遊女の髪型の一つ。
同書(「北女閭起源」)に云ふ、兵庫結、この髪風は摂州兵庫磯の廓風にて、こゝより起たる名なるべしと云々(『俗事百工起源』)
色里の風習
新吉原の衣服(しんよしわらのいふく)
○新吉原遊女衣服の事、延享、寛延の頃迄は、紗綾、縮緬、羽二重を着し、中の町へ出る、これを道中といふ、衣服も品々ありて、毎日取替着し、同じ衣類は決して着ざりしと也、扨、多葉粉を少しヅゝ紙につゝみ、禿に数多く持せ、茶屋にて一服のみ、残りは其儘茶屋に指置て立也、立寄茶屋毎に左の如し、故に中の町茶屋共、右多葉粉にて、一年中、多葉粉求る事なしと也、然るに、遊女共、三四十年以来、羽二重、紗綾等は更に用ひず、錦繍の如き美服を着る事に成ぬれど、たゞ一ツにして、中の町へ出るに、毎日同じ物を着し、着替は一ツも持ざる由也、たばこなども高価の物を用ゆれど、少しも人にのまする事なし、時勢の然らしむる人情、斯いやしくなれり、(小川顕道『塵塚談』)
接客・給仕(せっきゃく・きゅうじ)
江戸幕府設立当初、江戸はまだ男たちの町で、教養・才知があり気の利いた美しい女性は庄司甚右衛門の作った御免色里吉原にしかいなかった。そのため幕府は、評定の席などでそれらの女性に接客・給仕をさせるため、吉原に遊女の提供を求めた。
「三一 評定所に遊女
評定所は徳川幕府の最高等法院で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行らが、最も重大なる訴訟を評議裁判する所であった。
「棠蔭秘鑑(とういんひかん)」に拠れば、評定寄合(ひょうじょうよりあい)は、寛永八年二月二日、町奉行島田弾正忠の邸宅に、老中が集会して、公事(くじ)の評定をしたに始まったようである。その後ちは、酒井雅楽頭(うたのかみ)、酒井讃岐守、並に老中の邸で会議を開いたのであったが、寛永十二年十一月十日に評定衆の任命があり、同じ年の十二月二日からは評定所で会議を開き、それより毎月二日、十二日、二十二日をもって評議の式日と定めた。
「甲子夜話(かつしやわ)」に依れば、評定所の起原は、国初の頃、町中に何か訴訟事がある時に、老職以下諸役人の出席を乞うて、裁許を願うたのに始ったのである。この当時は、上述のように私人より願うて評定してもらったから、食物なども皆町中より持運び、また役人たちの給仕には、皆遊女を用いたのであった。しかるに、その後ち官家の制度も漸々(ぜんぜん)と具備するようになり、官から評定所を建築し、飲饌(いんせん)も出し、給仕には御城の坊主を用いるようになったのである。また遊女を評定所へ出す際には、船に乗せて往来させたのであったが、その船には屋根がなくて、夏は甚だ暑いから、その船に屋根を造る事を願い出でて許されたのである。屋根船はこれから始まった。また遊女のことを「サンチャ」と称していたから、屋根船は旧(ふる)くは「サンチャ船」というたそうである。しかし現今では、この名称を知る人は稀になった。また評定所の傍の岸に、船を着ける場所があって、そこを「吉原ガンギ」というたのは、昔遊女の船を繋(つな)いだ処だからだという。(当時の吉原は、現今の数寄屋町にあったそうだ。)
この話にあるように、神聖なる最高法院の給仕に遊女を出したのは、現今の考えからは殆んど信じ得られない事であるが、当時の遊女に対する考えは現今とは全く異なっておった。
遊女を評定所の給仕として差出したことについて「異本洞房語園」に次の如く記している。
吉原開基の砌(みぎり)より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人宛(ずつ)、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥(たしか)に此故とは申難きことなれども、私(ひそか)に是を考へ思ふに、扨(さて)御奉行と申(もうす)は日々に諸方の公事訴訟を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子(しらびょうし)なり、されば御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被2仰付1、 御慰に備へられん為に、上様より被2仰付1しものか云々。
まさか「天下の政道を取捌(さば)く決断所での琴三味線」「自分のなぐさみ気ばらしをやらるる」重忠様もなかったであろう。(穂積陳重『法窓夜話』)」
八朔の雪(はっさくのゆき)
吉原の太夫が八朔に白無垢を着るようになった由来は、諸説あるが、師の「宮中の上臈を真似たもの」という資料は、今の所未見。詳しい方のご教示を請う。
また遊女は『八朔の雪』と称して、八月一日に裏のついた白無垢を着るならわしだが、これも宮中の上臈を真似たものだ。(『吉原御免状』106)
八朔 中の町へ出る女郎は、皆々上著白むくを著す、古事也、元禄年中にはじまる、巴や源右衛門方の高橋と云太夫、其比瘧を煩ひ居たりしが、揚屋へ出るとて、白きむくを著たりし姿風情成りとて、高橋が手柄也。(『北里年中行事』)
洞房語園。巻三曰、吉原の遊女ども、八朔には白小袖を著事、古来は五月五日は染地の袷、八朔には白き袷をきたり、寛文の始に新町宗玉と云者の家に、夕霧と云る太夫嗜能女にて、端午・八朔共に小袖と袷と二通りづつ仕置けり、ひととせの八朔に、けしからず寒きことありしに、他の女郎は袷を著したるに、夕霧は寒き折から相応に白小袖をきたり、夫故に外の女郎より見分よく相見たり、他の女郎是をみて、夕霧にまけじとて、翌年は八朔に残暑といへども、何も綿を入、小袖に仕置たり、其上薄く綿の入し小袖は、袷より取形もよく見ゆる故、今に止ずして、汗を流しながらも小袖をきる事、彼夕霧にならひてなり。
美成云、吉原大全巻四・吉原年中行事巻下等には、八朔白小袖をきるよしは、元禄の比高橋といへる太夫の瘧をやみて居けるに、深き客の、八朔役目のやくそくにて来りしゆへ、うちふし居ける白むくのまゝ、あけや入しける体のよきにならひて、流例となれるよしいへど、あやまりなり。(『民間時令 巻之三』)
「異本洞房語園」参照。
「洞房語園抄書」参照。
元禄年間記事 ○吉原の遊女八朔に白無垢を着する事、元禄中江戸町壱丁目巴屋源右衛門が抱へ高橋といへる太夫、その頃瘧(おこり)をわづらひ居けるが、馴染の客来りし時、臥せ居ける白むくの儘にして、揚屋入りしける容の艶なりしより、是れを真似て八朔には一般に白むくを着る事になりし由、「花街大全」にいへり(思ふに、昔の遊女に、米島丹後守、出来島長門守抔名のりしもの有り。是れ等のともがら武家の例に事よせ、八朔に白き衣裳を着したるか、尚考ふ可し)。(『武江年表』1)
【八朔】(はっさく)
陰暦八月一日(朔日)の称、徳川時代に、家康の江戸入国の当日として祝日と定め、農家にては、初めて当年の穀を収むる日にして、田実の節句として祝ひたり。(『廣辭林』新訂版)この日、贈答をして祝う習俗がある。(『広辞苑』第二版)
吾国ノ俗、八月朔日ヲ祝シテ佳節トス。ソノ始サダカナラズ。諸書ニ説トコロ一定シガタシ。サレドモ北条家ノ比ニ起シコトト見ユ。ヨリテオモフニ、後宇多帝ノ弘安中ニ、蒙古襲ヒ来リシヲ、八月朔日ニコレヲ敗リシカバ、コトニ祝セシモノナランカ。又天正十八年北条氏滅ビシ後、将軍家江戸ノ城ヘ移ラセ玉ヒシ故ニ、元日トヒトシク賀スルコトニハナリヌ。又毎月廿八日ヲ朔望ト同ジク祝シテ、俗ニ三日トナヘルコトモ、三河ノ国ニ御坐マセシトキ、諸臣ノ中親鸞宗ノ人多カリシカバ、彼寺ヘ参詣ノオコリヲモツテ、拝謁スル輩アリシ故ニ、ツイニ流例トナリシ由ヲ承ル。スベテモノゝ始リハ、サセルコトナキゾ多カリ。(松本愚山『清夏雑職』)
当日、将軍は白帷子に長袴をつけて白書院、大広間に出で、御三家以下、譜代、外様の諸大名およびそれ以下の旗本、諸役人、御用達町人、それに天領諸都市の由緒ある町人代表の祝賀をうけた。惣出仕で登城する諸大名らも、すべて白帷子に長袴という白ずくめの服装であった。
八朔の祝賀に参加が許されることは、江戸時代の町人には絶大な名誉であり、特権であった。これを取り締り、世話する地位を与えられていたのは、御用達呉服師の豪商茶屋四郎次郎家であった。
江戸城の風習が移ったのであろうか、江戸隋一の歓楽街吉原でも、八朔には白装束の「おいらん道中」がおこなわれ、白小袖をきたきらびやかなおいらんが、廓内の仲ノ町を練り歩いた。(村井益男『江戸城』)
花(はな)
色町では祝儀のことを「花」という。
『色道大鏡』二、寛文格、遊客参会法によれば「郭中にて花出す事、いつ/\と時分ありて定りたる事にあらず。只度は繁くして分量多きには如かず、されども臨時の花の出し様には、さま/\〃子細あり。伝へを受けて知るべし。(略)当道の花を散らすには、いづれの時にても金子を用ゆ。銀壱枚以下の事には、堅く白銀を制す。壱枚遣はすべきにも金三歩を用ゆる心ばへよし。」とある。(『色道小鏡』注)
引け四ツ(ひけよつ)
当時、江戸では寺等の鐘の音と、それに合せて各町々で拍子木を打って廻り、人々に時を告げていた。しかし吉原では四ツ時(午後十時)までの営業しか許されていなかったため、正規の時刻に拍子木を打たず、九ツ時(午前零時)に四ツ時の拍子木を打った。これを引け四ツと云い、吉原だけの時刻となっていた。また、この浅草寺の九ツの鐘を『元禄太平記』によれば「追出しの鐘」と云ったようだ。
真実、拍子木の音が変った。正九ツの拍子木である。
「前のが引け四ツ。今のを鐘四ツ、又は大引けと云う」(『吉原御免状』36)
「引ケ四ツ、鐘四ツといふ事、外になき事也、
夜四ツ時の鐘は拍子木を打ず、是を鐘四ツと云、九ツ時の時、四ツの拍子木を打、夜みせを引、是を引ケ四ツといふ也(『浅草志』)」
上記『浅草志』の記述と、師が幻斎に言わせている文では鐘四ツの扱いが違っている。これは『浅草志』の記述が正しく、師の文が間違いであると思われる。
『歴史用語の基礎知識』「時」の項参照。
紋日(もんび)
五節句の祝日を云う。主に遊廓などで使われた。
紋日 『洞房語園』に曰く。紋日、小袖の紋は五所なれば、五節句を小袖の紋に准へて、節句祝の日を紋日と云ふよし。(『守貞謾稿』)
◎吉原にて紋日といへる訳
同書(「北女閭起源」)に云ふ、紋日とは小袖の紋処は五所なれば、五節句を小袖の紋になぞらへて、節句祝ひ日の日を紋日と云ふ、吉原にて紋日を略してモノ日と云ふ、紋日とは京の言葉なり(『俗事百工起源』)
遊里の祝日。遊女はこの日必ず客を迎えねばならなかった。(『日本の古典17』注釈)
遊廓などにて、衣服を着替へ盛装する祝日。ものび。(『廣辭林』新訂版)
物日 毎月傾城の売日をいふ、
紋日 同、物日の事なり、家々の紋のやうに定たる事なるに依て、紋日といふ、(『色道大鏡』巻第一)
遊廓・廓・遊廓関連
遊廓・廓
揚屋(あげや)
遊女等を抱えず、宴席や閨の場所を提供する店。現在で言えば宿泊もできる貸し宴会場のようなものか。
元吉原から新吉原の前期、正確には宝暦十年(一七六〇)まで、太夫、格子(後に散茶の一部も)といった格の高い遊女と遊ぶには、遊客は揚屋にあがりそこに遊女を呼ばなければならなかった。遊ぶのも寝るのも揚屋である。新吉原になると、揚屋は一ケ所にまとめられて揚屋町となったが、元吉原の頃には、あちこちに散在していた。(『吉原御免状』101)
太夫・格子とその店で遊ぶことが出来ない。必ず揚屋という所に呼び、そこで遊ぶのである。酒を飲むのも寝るのも揚屋でだった。(『死ぬことと見つけたり』下140)
揚屋 あげやと訓ず。京師島原・大坂の新町は今もこれあり。江戸も昔はこれあり。いずれの年に廃すか。今は揚屋これなし。ただ揚屋町の坊名を存すのみ。
揚屋には娼妓を養はず、客至れば太夫を置屋より迎へ餐すを業とするなり。天神および芸子・幇間も客の需に応じてこれを迎ふなり。ただ鹿子位以下の遊女を迎へず。(『守貞謾稿』)
(元吉原に)揚屋と云ふもの数戸あり。太夫および格子女郎は必ずあげやに招き遊びし。天和・貞享比、今の新吉原にても揚屋二十数戸ありて、各居屋壮麗、今世の茶屋のごとき物にあらず、皆家広く風流を尽くせり。いづれの比よりか、吉原には揚屋皆亡びて今はこれなし。
天和比の揚屋の名 桐屋市左衛門、尾張や清十郎、桔梗や伊右衛門、俵や三右衛門、和泉や半四郎、井筒や彦兵衛、揚や太右衛門、松葉や六兵衛、藤や太右衛門、海老や治右衛門、長嶋や清兵衛、網や甚右衛門、立花や四郎兵衛、橋本や作兵衛、銭や次郎兵衛、鎌倉や長兵衛、若狭や伊右衛門、伊勢や惣三郎。(『守貞謾稿』)
「上げ屋とは、何としたる事なるや」「太夫の揚げ金も取り替いて、太夫殿へも振舞を上げ申ゆへ、上げ屋と申。太夫・買手の宿をいたす故、宿屋とも申也」。(『ぬれほとけ』)
上げ屋 『色道大鏡』一に「傾城を挙げをく宿なるによって、挙屋といふ」、「宿屋 同じく挙屋の事なり」。遊女を指名して買切りにし、宿泊する故の名。但し挙屋へ挙げられるのは、囲以上の遊女に限る。(『ぬれほとけ』注)
揚屋は太夫・天神・囲(鹿恋)などの高級妓を呼んで遊ぶ家。(『日本の古典17』注釈)
遊女を招きて遊ぶ家。(『廣辭林 新訂版』)
「揚屋」は遊女を揚げる場所との意味で、遊興の場所と枕席とを兼ね備えた場所。当時の遊女は太夫・格子・端女郎の三階級だったが、太夫・格子の遊女は揚屋を通さずには遊べない仕組みになっていた。また、色里内で「宿屋」という時はこの揚屋を指した。
揚屋の役割としては、茶屋より送り込まれた客の求めに応じて、指名の遊女を遊女屋に照会することと、馴染みの遊女の居ない初回の客には客の好みの遊女を選び照会する役割をしていた。この際、揚屋は遊女屋に対し「揚屋差紙」と呼ばれる遊女借用の文を差し出す事が義務付けられており、この証文にもとづき遊女屋は指名の遊女を店の若者を付けて揚屋に送り込んでいた。江戸町や京町などに住む遊女が、散在する揚屋への往復を称して「道中」と呼んでいた。男装の若衆姿にて一世を風靡した湯女上りの勝山が吉原入りし、山本芳潤抱えの太夫となると、勝山は道中の歩き方を外八文字と呼ぶ外股歩きにした故、裾が割れ白き脛が見える扇情的な歩きとなり、この姿を一目見ようと遊治郎が集まったと云われている。
享保五年刊行の「吉原丸鑑」によると、享保初年(1716)の吉原には三千余人の遊女がおり、同五年には太夫も揚屋の健在で、揚屋の六美人と呼ばれる極々上の太夫がいた。京町三浦屋四郎左衛門内高尾・薄雲、江戸町山口屋 七郎右衛門内音羽・白糸・初菊、京町三浦屋甚左衛門内三浦の六人。この六美人は美貌だけではなく、女性一般の教養と遊芸に秀でており、最高な気品を競った彼女達により吉原は華やかな、品位のある情緒をかもしだし、新吉原の最盛期が形成されていたと記されている。しかし、八代将軍吉宗による奢侈禁止を中心とする 「享保の改革」が実施され、新興商人による豪奢な遊びは幕府を憚り蔭を潜め、吉原も一つの節目とも云える時期を迎えるのだった。
享保末年頃から元文年間になるとさしもの新吉原も衰退期に入り、新吉原 での揚屋を用いた豪華な遊びが激減し、揚屋自体も減少、遊びの質が変化していたことを「喜遊笑覧」では次ぎのように記している。
『元文頃まで太夫有りしは三浦屋三軒と玉屋のみなり。徒流云元文五年頃迄揚屋五軒あり、尤も揚屋町にはなし、新町(京町二丁目なれどもいつの頃よりか新町といふ)海老屋治右衛門、尾張屋清十郎、橘屋五郎左衛門、若狭屋庄三郎、京町和泉屋清六其後揚屋とも皆破壊して尾張屋清十郎のみ揚屋町へ転宅し栄えたり』
揚屋の書出し
揚屋の請求書は毎月十五日で締める。但し支払は翌月の二日。これを「二日払い」という。(『けしすみ』注)
置屋(おきや)
主に京坂の習で、遊女、芸子、舞子等を抱え、揚屋、茶屋等からの要望があると娼妓を派遣する。現代で云えば芸能プロダクションのようなもの。
置屋 おきやと訓ず。京坂官許・非官許の地ともに遊女・芸者を抱へ養ひ、揚屋・茶屋・呼屋等より迎ふる時、これを遣はして自家に客を迎へざるを云ふ。(『守貞謾稿』)
藝妓又は娼妓などを抱へ置き、揚屋・茶屋などの迎へに應じてこれを遣わすのみにして、客を上げて遊興せしめざる家。(『廣辭林 新訂版』)
切見世(きりみせ)
娟鈍(けんどん)女郎、端女郎など局より劣る下品、最低ランクの女郎の店。長屋女郎とも云う。
一切つまり須臾(現代の約十分か)の間に用をすますから(『吉原御免状』27)
切見世 本名局女郎なり。けだし昔の吉原局女郎は中品妓なり。今世は吉原および岡場所ともに下品妓の名とす。
切と云ふは須臾(わずかの時間の漢語的表現)を一と切(ひときり)と云ひ、一切銭百文なり。一切、須臾なるが故に房事に及びがたく、多くは一倍あるひは二、三倍す。けだしこの切見世のみ定制一切百文とすれども、客の意により銭を定制より多く与ふ者多し。(『守貞謾稿』)
切店 遊廓にて、娼妓が時間ぎめにて嫖客に接する遊女屋。(『廣辭林 新訂版』)
【鉄砲見世】(てっぽうみせ)
切見世の事。安い料金で専ら売春だけを目的とした女郎、およびその店をいう。
この切見世をまた百文河岸、鉄砲見世ともいう。約十分間の情事の値が五十文または百文だったためであり、ふぐ(鉄砲という)と同じく毒にあたり易いからだ。(『吉原御免状』28)
またこの女郎(切見世)を鉄砲見世とも云ふなり。江俗、この妓には房事二、三回に及ぶ者稀、多くは一回なり。一回なるが故にこゝに往くを、一つ放しに往くなど云ふより、鉄砲と云ふなり。また鉄砲には百目玉等の名あるの意をも兼ねたり。(『守貞謾稿』)
轡(くつわ)
遊廓、傾城屋の事。転じて「くるわ」となったのかは不明。「くつわ」の仮字が亡八で、遊女屋の主を音読みにして「ぼうはち」と云ったという説もある。
遊女屋の主人はまた『くつわ』とも呼ばれた。(『花と火の帝』下75)
『洞房語園』に曰く、御奉行島田弾正様、ある時甚左(右)衛門に御尋ねなされ候は、惣じて傾城屋のことを轡と云ふこと、いかなる子細あると御尋ねの時、甚左(右)衛門申し上げ候ところ、契情屋をくつわと申すこと、元御当地の言葉にては御座なく候と承り及び候。京都六条の三筋街と云ふは、天正年中に浪人原三郎左衛門と申す者取り立て候由。この三郎左衛門義は元大坂太閤様御方に御厩付の御奉公仕りたる者にて、御出馬の節は御馬の口取り仕り候ところ、病気にて浪人いたし、かの遊女町を取り立て申し候。この子細を存じ候人は、三郎左衛門に異名を付して轡屋と呼び申し候。しかるにその比、京都伏見の若侍衆中は、傾城屋へ行くと云ふことを轡が所へ往くなど申されしより、いつとなく傾城屋の惣名と罷りなり申し上ぐる、云々。(『守貞謾稿』)
「異本洞房語園」参照。
古昔、伏見の遊里撞木町の町筋を十字形に割りて、其形轡に似たるより此名起こるといふ、一説に、遊女の異名を馬といひ、馬を御するが如く遊女を使役するよりいふと。遊女屋又は遊里の異稱。又、遊女屋の主人の異稱。(亡八)。(『廣辭林 新訂版』)
轡 傾城屋の異名なり、此名目の由来をしらざれば、年ごろ諸書を考るといへども、所見なし、諸郭に至りて尋ぬれども、是をしらず、只卑賤の譫言にいひならはせるなるべし、新注を付見んにも、心のかよひたる所なければあたらず、いかさまにもいぶかしきことなり、(『色道大鏡』巻第一)
廓(くるわ)
遊廓の事。
郭、曲輪。もとは城や砦などの防備のため、周囲に巡らす土や石の囲いを云う。狭義で遊廓を「くるわ」と云う。(『新明解国語辞典』)
色里。遊里。(『廣辭林 新訂版』)
青楼(せいろう)
遊廓の雅名。
「遊女屋」の意の漢語的表現。(『新明解国語辞典』)
あげや。ぢょらうや。妓楼。遊女屋。(『廣辭林 新訂版』)
茶屋(ちゃや)
茶屋という呼び名だが、主に酒肴を提供し、遊興を行う場所。当時のサロンというような所か。現代でも京などにあり、茶屋遊びができる。茶屋遊びに付き物なのが、芸子、舞子、そいて太鼓持(江戸で云えば芸者に幇間)。当時はそこに馴染みの遊女を侍らせて遊んだ。
三都ともにこれあり。京阪の茶屋は天神を揚げて遊ぶの楼を云ふ。故に天神茶屋と云ふなり。天神茶屋には天神と鹿子位の遊女および芸子を迎へ、ただ太夫を迎ふこと能はず。また見世附等の下妓をも迎へず。(『守貞謾稿』)
茶屋 吉原も古は揚屋あり。中古以来絶亡し、今は茶屋あるのみ。茶屋には双枕を許さず、芸者を揚げ酒宴は許す。女郎も茶屋まで送迎はするなり。宴の席にも侍坐するのみ。(『守貞謾稿』)
局(つぼね)
女郎屋で下級の女郎に割り当てた個室。通りに面して柿暖簾を垂らし。客を呼び込む。(『けしすみ』注)
見返り柳(みかえりやなぎ)
色里の出入口に植えられた柳。現在、吉原の五十間道が日本堤通りに交わる辺に何代目かの柳が植えられている。
この廓(六条三筋町の廓)の周囲には人家が詰まっていて、柳の並木で囲むことが出来ない。やむをえず、廓の出入口に一本だけ柳を植え、昔を忍ぶよすがとした。これが所謂『出口の柳』であり、別名『見返り柳』と呼ばれたものである。そしてその『見返り柳』は京島原の廓に伝えられ、島原から江戸の元吉原へ、更にはこの新吉原へと引き継がれた。つまり、新吉原の『見返り柳』の起源は、遠く唐の色里平庚里の柳樹にまで遡る。(『吉原御免状』129)
遊廓関連
花車(かしゃ)
揚屋や茶屋の女房。(『艶道通鑑』注)
ギウ(ぎゅう)
牛あるいは妓有太郎(ぎゅうたろう)の事。女郎の世話をする下男。時に用心棒的な存在ともなった。及とも書く。
遊廓には妓有太郎は無くてならぬものとなって居るけれども、この妓有太郎の由来を尋ねると、銭湯の傭人で久助といふ脊むし男の名から起ったといふことが分る。洞房語園に『ギウは散茶より起りし名なり。承應の頃ふきや町に泉風呂の彌兵衛といふ者ありしが、彼家に久助とて年久しく召仕ひし男有て、風呂屋の遊女を引まはし客を扱ひけり。此久助たばこを好みしが、他人に紛れぬようにとて、紫竹の太きを、長さ七八寸に切り、吸に火皿を付、この長き煙管を常に放さず腰にさして居たり。その上久助は生れつき脊むしにて、丈け少き男のきせるをさして居る形をその頃の若き者とも、彼久の字のかたちを見立て久助が異名を及といひしより、彼風呂屋が方へ遊びに行かうと云ふとき、キウが所へ行かうなどと云はれしより、自ら風呂屋の男の惣名となれり。板本には、ギウを花に廻ると釋せし。甚だなる杜撰なり。當時、ギウを妓有などと書くは、好事の者のわるさなり。予が若かりし頃までも、及と書けり』と云って居る。(『江戸時代の猥談』)
「異本洞房語園」参照。
妓夫(ぎゅう) 遊女屋の下男。遊女屋の客引。(『廣辭林 新訂版』)
及 承応のころ、葺屋町に和泉風呂の弥兵衛といふ者あり、彼が家に、久助とて、年久しく召遣ひし男、風呂屋遊女をまわし、客をあつかひしに、生得せいちいさく、煙草をこのみてのめども、他人のきせるにまぎれぬように、紫竹のふときを長さ一尺七八寸に切て用ひ、これをくわへて、みせの庭の前にこしをかけ居る姿、せむしの如く、長ききせるをくはへければ、及の字の形によく似たりとて、これを及とあだ名せり、此事ひろまりて、遊女のまわしかたを、皆及といふ也、晋其角も、禅家の十年にならひて、かの及を牛に通はせて、十牛の句あり、遂に人あやまりて、牛の字を書は、事を解せざるなり、(後略)(『墨水消夏録』)
首代(くびだい)
吉原の若い衆。用心棒的な存在。
いずれも職人か商人態だが一様に大脇差を帯び、半弓に矢をつがえていた。その半弓が水野たちに向って引きしぼられた。これは首代と呼ばれる。吉原のいくさ人である。普段は何もすることがなく、廓の中をぶらぶらしているが、一朝ことある時は忽ち剽悍無比の戦士に変る。(『死ぬことと見つけたり』上153)
地女(じおんな) 遊女以外の女性をいう廓詞。素人の女性をいい、遊女の対語として用いられる。
『色道大鏡』十四の雜女部では、傾城(遊女)以外のすべての女性を「雜女」と云うとある。人妻、妾女、出合者、寡婦、腰元以下乳母を含む女奉行人、風呂屋女、茶屋女、旅籠屋女、比丘尼、贅女、舞子、女工、惣嫁等。(『色道小鏡』注)
女衒(ぜげん)
女衒中継。遊女候補者を探し、遊女屋に売る商売の者をいう。
女衒或は女衒中継と呼ばれ、世間から蛇蝎のように疎まれている人々がいた。いずれも二度や三度の牢暮しは普通といわれる悪である。これが日本全国を歩き廻り、器量のいい女の子がいると金で買い、買えぬ時は勾引かした。手に入れるとすぐどこかの色里に売りとばす。それを別の女衒が、又、別の色里に売る。これを何回も繰り返すうちに、女の子がどこから買われ、或は勾引かされたか全く分らなくなってしまう。これを鞍替えと云い、玉ころがしと云った。(『吉原御免状』290)
慶安、女衒、肝煎、今世間では、傭人の口入するをけいあんと云ひ、遊女の口入するのをぜげんと云ふ。是等一切を引つくるめて一般に媒ちするのを肝煎と云った。(『江戸時代の猥談』)
遊女奉公の手引を業とする人。(『廣辭林 新訂版』)
年季(ねんき)
傾城(女郎)の年季奉公は、十年と定められていた。但し、契約によっては何歳までとすることもあったという。吉原では、二十七歳までとする例が多い。(『色道小鏡』注)
亡八(ぼうはち)
遊廓・女郎屋のおやじの事。この呼び名については幾つかの説があるが、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳目を無くさなければできないという例えは、後からこじつけられたのは事実のようだ。
亡八とは傾城屋の主をいう。孝・悌・忠・信・礼・義・廉・耻の八つの徳目を忘れなければ出来ない商売だというので、亡八といったといわれるが、これはこじつけで、真実は『ワンパ』という中国語の当て字だという説もある。ワンパとは鼈の別名で、罵言に使ったものだ。(『吉原御免状』)
亡八は亡八以外の何者でもない。まっとうな世間に背を向け、孝悌忠信礼義廉耻の八つの徳目を忘れた生きざまをするからこそ亡八(忘八)と呼ばれるのではないか。(『かくれさと苦界行』)
新しい城下町に一旗上げるために押しかける男たちは、ほとんどが単身であり、必然的に女性に飢えている。だから町が出来るとほとんど同時に、亡八たちが女を引きつれて現れ、傾城屋を作る。亡八とは傾城屋のあるじのことだ。傾城屋の主人になるには、孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥の八つの徳目を亡失しなければ出来ないから『亡八』といったというが、実際は『亡八』とは『ワンパ』と呼ぶ中国語で本来すっぽんを指す罵言であり、『おやじ』というくらいの意味だったようだ。(『影武者徳川家康』中346)
忘八とは、仁・義・礼・智・恵・信・孝・悌の八つの徳目を忘れた人間でなくては勤まらないという意味で、遊女屋の主人を呼んだ言葉である。(『花と火の帝』下75)
昔は遊女屋を轡(くつわ)と云ふ。(中略)物の本にくつわ、亡八の仮字して仁義礼智等の八つ失す故と名と云へるは附会ならん。(『守貞謾稿』)
亡八・忘八 仁義礼智孝悌忠信の八徳をすべて亡ひたるものの義。(一)くつわ。いろざと。遊里。(二)遊女屋。遊女屋の主人。くつわや。(『廣辭林 新訂版』)
広辞苑(第二版)によれば、八徳とは仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八種の徳、と有る。『南総里見八犬伝』で伏姫の首に掛けた数珠に現れた文字も、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌で、伏姫が自害し、その数珠が弾けて空高く舞い上がり全国に飛び散った。そして、その文字が現れる玉を持つ剣士八人を八犬士と云い、物語はその八剣士を捜し出し、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が現れる玉を集めるという話しだったように記憶している。だから、師の八徳を説明する文に、孝・悌・忠・信・礼・義・廉・耻(恥)と書かれているのを不思議に思った。また『花と火の帝』では、忠の代わりに恵の字が有る。そして『鬼麿斬人剣』では広辞苑に有る八徳が記述されている。どれが正しいのか、後考を要す。
○傾城、傾国(古事あり)唐にては美人の事を云、日本にては売女の事を云は誤れり、○売女を唐にては妓女と云、○上郎とは、諸侯の召仕女なり、売女は女郎と書べし、
○売女は、渡世のために美目よき女を買取て、白粉、紅粉をぬり、其色を増し、綾羅をきせて人をあざむき、香具を帯て臭気を去り、諸人を落し穴へ入れ、一生をあやまらせ、或は命をも損する不仁なる家職ゆへ、世の人別として交らず、是を亡八と云、孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥の八ツを忘れたるゆへと、唐人は戒めたり、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)
【遊女が長】(きみがてて)
遊女屋の主人を呼ぶ雅名だが、「きみがてて」という音から想像する字は「君が父」で、「遊女の長」は父親同然あるいは父親代りという意味かと思われる。
遊女屋の主を『遊女が長』と呼ぶのは、江口・神崎以来の色里の習慣であり、同時にこれは傀儡子族の首長であることを明かす言葉でもあった。(『吉原御免状』292)
真夫(まぶ)
此名目、金山詞より出たりといへど、さにはあらず、表向の買手にあらずして、密通する男をいふ、真実におもふ夫といふ事なり、表向の知音は、商売の為のみにして、心にあふもあり、あはぬもあり、真夫は、利欲にかゝはらず、女郎のたのしみにあふ事なれば、真実に好まずしてはあふ事なし、伊勢物語に、まめおとこといへるも、当道の真夫と同意也、文選に、密夫とかきて、まめおとこと読ませたるにてしるべし、又実の字をまめとよむ、愚見抄、惟清抄のの説も、まめおとこ、実人、と注す、伊勢物語に、ひとりのみもあらざりけらし、それを、かのまめおとこうちものがたらひて、と有、主ある女に心をかけて通ずるを、まめおとこ、と書たるからは、当道の真夫も、おもてむきの知音ありながら、忍びてあふおとこなれば、是まめおとこなり、或説に、表向の男あるに、其間にて密通すれば、間夫と書べきにや、といへり、是信用しがたし、既に我あふ女郎に真夫ありときゝては、其知音忽に離るゝ事、是常の例也、かくとはしりながら、真夫とかけり、(『色道大鏡』巻第一)
かくれ里関連
岡場所(おかばしょ)
非合法の売春宿で、「かくれ里」といわれた。大抵は黙認されるが、その取締を吉原が負っていたため、目にあまってくると吉原の年寄衆の手入れを受けた。その手入れを「けいどう」と云った。
吉原以外の、つまりは公娼ではなく私娼を置いた場所を岡場所と云った。
岡場所の『岡』は『仮り』という意味だ。吉原の本場所に対して、私娼窟のことを仮りの場所、つまり岡場所といった。ついでにいえば、本気で惚れた本惚れに対して、ちょっと見たぐらいで惚れたのが岡惚れ、本気の嫉妬に対して、ちょっと焼餅を焼いてみせるくらいのを岡焼きと云った。岡っ引という言葉も、本引に対する仮引の意味で、奉行所同心が捕らえるのが本引なのだと云う。これは三田村鳶魚氏の説である。(『かくれさと苦界行』121~122)
岡場所 おかばしょと訓ず。江戸吉原のほか、非官許の遊女の地を俗に岡ばしょと云ふなり。天保十三年、官命してこれを禁止す。三月、官命して八月晦日に仲町以下これを止め、尋で家居を壊ち廃す。(『守貞謾稿』)
吉原など公娼の住む遊廓に対して私娼のいるところを岡場所という。御構場ともいう。「御構」という言葉は禁制という意味。しかし、そのほとんどは黙認されていた。深川は元文の頃からの岡場所で、天保の改革まで百余年続いている。江戸っ子にとって、深川は吉原よりも気安く、身近なところであった。深川の岡場所には、仲町、入船町、向土橋、表裏櫓、裾継、大新地、新石場、古石場、常盤町、網打場などがある。その外の岡場所として、宿場女郎から発展した品川千住、板橋、内藤新宿、そして音羽、小塚原、根津、谷中、市ヶ谷、赤坂、松井町、入江町など、多い時には江戸中で四十カ所近く数えた。(歴史読本1969.11特大号『江戸ッ子事典』)
徳川時代に、江戸市中に於ける吉原以外の地に設けたる遊里。(『廣辭林 新訂版』)
岡場所御取潰 御老中水野越前守殿、御政道正敷、且果敢の気質にて、御先代より誤り来たる事ども、憚りなく改められたり、むかしより岡場所と唱へ、御免のごとく、公然として遊女を抱へ、客を迎へし場所あまたありしを、一瞬の間に廃止せられたり、実に天下の美事にして、目ざましき事にこそ、
其場所概略
深川之内 土橋(上) 仲町(上々) 表櫓(上) 裏櫓(中) すそつき(中) 新石場(上) 古石場(上) 大新地(上) 小新地(下) 佃(局見世もあり、下品)
本所之内 御旅(上) 弁天(上々) 松井町(上) 常盤町(上) 入江町(局見世もあり、下品) 清水町(局見世もあり、下品) 鐘搗堂(局見世もあり、下品)
深川 網打場(上品)
音羽町(局見世もあり、中下) 赤坂(麦めし、中)
谷中いろは茶屋(上) 根津(局見世もあり、中下)
局見世計り之部
市谷愛敬稲荷(下) 市谷ジク谷(下) 麻布市兵衛町(上品) 麻布薮下(中) 浅草堂前(上品) 鮫ケ橋(下) 深川網打場(上品)
以前ありて今なきは、
本所安宅 大橋びくに 三田三角 本郷大根畑 山下けころ 同金猫銀猫
侠客 数寄屋河岸、炊出し喜三郎 根津、大長(大坂屋長兵衛) 同前、大屋惣 浅草、新門辰五郎 浅草、新蔵兄弟 浅草、丼安 本石町、い組伊兵衛 三河町、吉親方
女に、所不レ知、青茶ばゝア 根津、人形お百 馬込おばア、元は大伝馬町の馬喰頭、馬込勘解由の妾なり、
中橋大久保伊麿助、元袁彦道より仕上げて、町地面等多く持てり、後は水戸家の御用を勤め、用人格に至れりしが、私欲の事多くありて、国元へ幽せられたり、(『わすれのこり』)
かくれ里
岡場所などの非官許、非合法の色里、遊廓などの謂い。隠れて営むことから由来しているのか?
本来「隠れ里」という語は、人間世界とは別の世界を意味した。各地にこの「隠れ里」伝承があり、理想郷または異類異形の棲む所とされ、多くは川(水辺)や洞穴を境にしてあり、現世と時間の次元を異にし、景物も違う。ここへは偶然に入り込む場合が多く、いったん外へ出ると再び探し出せないというのがその特徴とされる。民話『浦島太郎』の竜宮城なども、この一種。(『伽婢子』2註)
けいどう
吉原衆による岡場所の手入れ。
けいどうは怪動、警動とも書く。いわゆる岡場所の刈込みのことである。
岡場所は是がいやだとうろたえる
岡場所は是がわるいと混雑し
この二句はけいどうを客の側から描いたものだが、客にとってはうろたえるぐらいのことですむが、主や女にとってはえらいことである。主は磔に処せられた例もあるし、女も奴におとされることもある。奴とは文字通り奴隷のことで、この身分は終生とけることがない。奴におとされれば、吉原でさえ年期なしで死ぬまで働かされることになる。(『かくれさと苦界行』306)
○かくし遊女を持たる所へ不意に押入て捕らゆるをけいどうの入といふは、史記蕭何が伝に、天下を傾動すと出たるなりといへど、さにはあらざるべし。物に邪魔の入をけどの入といふを、けいどうと引のばしていふなるべし。(小栗百万著『屠龍工随筆』)
深川中の町に、本屋お六といふ名高き芸子あり、此前深川怪動(けいどう)の節、捕われて吉原へ被2下置1、京町長崎屋へ入札落て、吉原の勤二十四ケ月、二十五ケ月目に年明て、又々深川を勤けるに、一年半立て、又怪動にて、二度吉原へ生捕られ、此度は京町俵屋へ入札落て、又々二十四ケ月吉原の勤仕廻ふて、深川へ帰る、初の怪動の節は二十五歳也、夫より二度の怪動、一年半宛三年、合せて年二十八歳也、今又深川へ帰り、芸子をして四年なれば、其年三十二歳なり、疑ひなし、(『江都百化物』)
上記の文によれば、「けいどう」は怪動と書かれている。また宝暦期、怪動で捕えられると、二年の吉原勤めが科せられたことが分る。また、天保期の書『想古録』には、
今度(天保四年九月)百余人の芸者共召捕られ、御吟味の末遠島仰付られたり、右は近来地獄、又は芸者転び流行し、之が為めに吉原其他の遊廓は影響を被り、商売衰微、行立かぬるむね各遊廓より哀訴しけるゆゑ、事此に至りたるなりと云ふ(飯田翁斎)
又聞く、是まで度々召捕れたれども、何時も親元へ下らるるのみなれば、飯の上の蠅と同様にて、中々其弊風の止むべき景状なきに依り、官にても一層其処置を厳にし、先月は三十余人の転び芸者を召捕りて吉原に下されしが、夫れにても未だ手ぬるしとて、終に此度の遠島処分あるに至れるなりと云々(広田彦)
とあり、度々けいどうを行い取り締っても、その処分が親元へ帰したり吉原へ入れるだけでは効果が無く、終に遠島処分を課したとある。
けいどう 「警動・怪動」 賭場や私娼窟への不意の手入れ。(『広辞苑』第二版)
遊女一般・遊女の位/私娼
遊女一般
あんにょう
長崎丸山で使われた言葉。遊女・傾城を指す。
あんにょう(傾城)付きの禿の一人が、杢之助のそばに座りこんで酒をすすめた。(『死ぬことと見つけたり』下46)
江口の君(えぐちのきみ)
江口の里の遊女の事。その代表とも言える「妙の前」は、西行上人との関係で知られている。少し長くなるが、その事を述べた文章があったので、ここに抜粋した。
江口の君と呼ばれた「妙の前」も、つまりは、そうした才色豊かな遊女の一人であったと考えられる。
また平安時代中期の江口の遊女、丹後守大江玉淵の娘白女(しろめ)と呼ばれる名が『古今集』『後撰集』『新古今集』『大鏡』『大和物語』等に見られる。
和尚(おしょう)
遊女の事を云う。また、喜多村信節の『嬉遊笑覧』によれば、剣術の師も和尚と呼ぶことから、「師たるものゝみにあらず、傾城などにも和尚あり。たゞ、すぐれたるをいふ俗語なり。」としている事から、下記の「『和尚』とは遊芸の道を極めた女に贈られる尊称」というのが正解のようだ。
舞台では、二十数人の遊女が踊っていた。その中央に曲ろくが幾つか据えられ、そこにひときわ美しい遊女たちが座って三味線を弾いている。彼女達は『和尚』と呼ばれた。『和尚』とは遊芸の道を極めた女に贈られる尊称だが、また三味線をかかえて曲ろくに座った姿が、禅宗の高僧を描く頂相に似ていたからだとも云う。曲ろくには孔雀の羽根や豹や虎の毛皮がかけられ、華々しいものだった。(『花と火の帝』83)
女歌舞妓(おんなかぶき)
遊女の意味で使った時代もある。
元和年間記事 女歌舞妓を禁ぜられ、男歌舞妓となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚とよべり。男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ)。
均庭云ふ、女歌舞妓やみて若衆歌舞妓となる。男かぶきと云ふ名目見えず。(『武江年表』)
『歴史用語の基礎知識』「傾奇」(かぶき)の項参照
桂女(かつらめ)
古の遊女の名。
遠く平安・鎌倉の時代に洛西桂川のほとり桂の里に住み桂女と呼ばれた遊女たち。(『吉原御免状』115)
桂女(かつらめ) 昔の遊女なり。山城国桂の里より出る。永禄三年『御成記』および『年中恒例記』『畠山記』等にこれあり。皆、足利幕府の時なり。幕府等にもこれを召すなり。『三儀一統』に曰く、白拍子・かつらなどはいづれとも猿楽と同前なり。また曰く、桂には門送りなし。白拍子には扇の礼とて、さいぎはまであるべし。傾城には少し座を立つやうにして礼あり。云々。因みに曰く、今世、桂姫と云ひて、かの家に神功皇后の御腹帯所伝の由にて、幕府御台懐妊の時これを奉る。江戸本所にも第あり。この桂女とは異なるなり。この桂も山城の桂里なり。今はかの里に遊女なきなり。(『守貞謾稿』)
古昔、山城國桂の里に住し、頭をかづらまきにして、京の街に桂鮎を売り、又婚礼の時、新婦の供などせし女、世世女子相続して、夫を他より迎へたりといふ。(『廣辭林 新訂版』)
[桂女・桂姫・桂御前]
○上代城州桂の村に桂女と云ふものあり。公家武家に出入す。今に後裔あり。桂姫桂御前と称す。縁によりて他所に住すといへども号は桂姫と称す。源三位頼政の歌に
- 桂女やにい枕するよな/\は とられし鮎の今夜とられぬ
(伊藤梅宇『見聞談叢』)
御陣女郎(ごじんじょろう)
武士と共に戦場に赴いた女性達。明治以後の兵隊らの欲望を満たすだけの従軍慰安婦とはかなり性格を異にしている。
桂女と呼ばれた遊女たちが、武士団の戦いに参加したのをいう。彼女たちは必ず櫛を二枚さしていた。一枚は凶事に、一枚は己れの化粧に使う。凶事とは斬りとられた敵将の首を洗い、その髪をなでつけることである。吉原の遊女もまた必ず二枚の櫛をさしていたが、それは『御陣女郎』に由来するものであった。(『吉原御免状』115)
大むかし軍中傾城の役目、実検の首を洗ふ役なり、又獄門の首も洗ふとも云ふ、(『むかしむかし物語』)
傀儡(くぐつ)
遊女を云う俗言。
昔は遊女傀儡と云ふなり、遊女の姿を木偶にて作り舞すを傀儡師と云ふ。(『俗事百工起源』)
『歴史用語の基礎知識』「傀儡子」の項参照
女郎(じょろう)
主に江戸で遊女一般を指した言葉。語源は「上臈」(宮廷に仕える身分の高い女房)からきている。
そもそも『女郎』という言葉自体が、『上臈』のなまったものなのである。(『吉原御免状』106)
女郎 (一)(白居易の詩に「心乃女中郎」とあり)婦人にして男子の気節あるもの。女丈夫。(二)遊客の枕席に侍ることを業とする女。あそびめ。うかれめ。遊女。娼妓。(『廣辭林 新訂版』)
女郎 篇海曰、郎魯堂切、音狼、男子之称為レ郎、又婦人称為2夫郎1、又婦人呼レ父為2郎罷1、上臈、下臈の沙汰にあらず、唯女の称なり、又、女郎とかけるを、即おなごとよむ、又疋夫の詞に、女子をさしてめらうと呼なるも、此心にかよふべし、をみなへしを女郎花とかきて、をのづから女の事によみ来れり、古今集に、遍昭、
- 名にめでゝおれるばかりぞをみなへし われおちにきと人にかたるな
金葉集に、顕輔朝臣、
- 白露やこゝろおくらんをみなへし 色めく野辺に人かよふとも
職原曰、上臈不レ謂2是非1、二三位典侍号2上臈1、小上臈不レ謂2善悪1、公卿女号2小上臈1、中臈内侍外不レ着2織物類1、是昔号2命婦1、侍臣女已下也、下臈、諸侍、賀茂、日吉社司等女也、凡女房、上臈、小上臈、内侍外、不レ入2夜御殿、朝餉内1、只中臈渡2朝餉縁1、下臈不レ渡レ之、略レ之、男子にても、公卿を上臈といひ、雲客已下を下臈といふ、所詮、常にいふ上臈、下臈は、上位、下位といはんがごとし、又おもふに、傾城を上臈と称する心もあるべし、仮令地下人の妻女を上様といふ、是緩怠なる詞なれど、俗言なればちからなし、是によつて、傾城も尊敬して見るものなれば、上臈といふべき処もあるか、しかはあれど、大夫を上臈といひ、囲職以下を下臈といはば、道理にしたがふべけれど、端女まで女郎といひ来りぬれば、只傾城の通称として、女郎といはんに子細あるまじ、(『色道大鏡』巻第一)
白拍子(しらびょうし)
広義の遊女だが、狭義の遊女(女郎)の事をいう場合もある。
『歴史用語の基礎知識』「白拍子」の項参照。
遊女(ゆうじょ)
遊女というのは只の売春婦ではなく、本来は貴族の遊興の席に同席した上臈を云い、「あそび女」といった。やがて、色里の女郎を指す言葉となる。
人間の心はどういう風に出来ているのだろうか。ゆきずりの相手だからこそ打明けてみたい秘事を、人は誰でも抱えているのではないか。そしてその種の秘事のきき役と云うのが、古来から遊女の本質的な役割だったのではないか。巫女が遊女の源だったという説も、そこから導き出されて来たのではないか。(『死ぬことと見つけたり』上144)
興味深い一、二の事例を紹介しますと、たとえば遊女、白拍子、傀儡といわれる女性の職能民集団は、おそらくもともとは下級の女官だったのではないかと私は考えています。律令制の下で、かなりの数の女性は後宮十二司という官庁をはじめ、いくつかの官庁に組織されていました。当然こうした女性たちは文字を覚えることになります。そうした下級女官の中には巫女、あるいは采女といわれて、各地域の豪族から貢上された女性もいたのですが、これらの女性たちが官庁の機能の失われた十世紀以後に、自立した女性職能民集団になっていったと考えるのがもっとも自然ではないかと考えています。
もちろん、遊女になったのは後宮の女官だけではなく、雅楽寮に属していた歌女のような人々もいたと思いますが、ふつうに通用している「常識」とちがい、遊女、傀儡の集団は、少なくとも中世前期には、他の職人に比べて、地位は決して低くないのです。宮廷の女房とも非常に密接なかかわりを持っており、遊女の集団を男が統轄するようになるのは室町時代以後のことで、鎌倉時代には女性が長者であり、遊女は女性職能民集団という特徴をはっきりと持っています。
朝廷には白拍子奉行人という役職があったことが最近の研究ではっきりしてきましたし、『吾妻鏡』によって、鎌倉幕府では、里見義成が「遊君別当」という役職に補任されていたことが知られています。おそらく「遊女別当」といわれる役職は王朝の側にもあったのではないかと、私は考えていますが、これまで知られているところでも、遊女は内教坊といわれる官庁に統括されており、江口方・神崎方などに分かれた遊女は番を定めて、宮廷の五節の舞などの行事に出仕をする体制ができているのです。
こうした状況から考えて、遊女は下級の女官が官司解体後に自立した女性職能民集団になったものと考えるのが、いちばん自然だと思うのですが、各地域の国衙などにも、さまざまな形で女性が属していたと見られますので、各地域に遊女の集団ができていることも、この流れの中で考えることが可能だと思うのです。(網野善彦『海と列島の中世』)
「人に尋ねて候へば、五条の東の洞院に、螢火(けいが)と申す上臈にておはしますと、教へ侍る」と申しければ、南阿弥聞き給ひて、「それこそ、洛中に隠れなき遊君にて、日の暮るれば、光かかやく女なれば、螢火と名付けたり。けいがとは、螢火と書きたり。ただし、公家門跡などの御娘ならば、いかなる料簡も及ぶべかりしが、これは流れをたつる川竹の、遊女なれば、大名高家よりほかへは出でず。汝は洛中をまわり、隠れもなき鰯売なれば、何としてか引きあわすべき。所詮大名のまねをせよかし」とありしかば、(『御伽草子』)
これは『御伽草子』の「猿源氏草紙」という一編の中の記述で、この『御伽草子』の成立年代(室町末期~江戸初期)における遊女の地位を記した例といえる。この物語は、「猿源氏」という鰯売りが輿に乗った女御を簾越しに見て一目惚れするが、相手が大名高家の人の前にしか出ない遊女であったため、顔の知れない東国の大名になりすます事で、首尾よく会う事に成功する。しかし、酒に酔いだらしなく寝ている時に漏らした寝言で素性を怪しまれ、弁解するという話。ここでの遊女は、庶民が会うには公家や門跡の娘よりも難しい相手とされている。文中の「流れをたつる川竹の」は、「流れ」「川竹」とも遊女を現す言葉で、その後の遊女を修飾する言葉。
◎傾城遊女
草の塵に云ふ(此の書家翁理斎著)傾城傾国は美女を誉めたる辞なり、自笑は契情と書たり、前漢書に李夫人の事を、北方有�佳人�、絶レ世而独立、一顧傾�人城�、再顧傾�人国�と作たり、是よりして傾城といふなり、昔は遊女傀儡と云ふなり、遊女の姿を木偶にて作り舞すを傀儡師と云ふ、我国にては遊女を浮女戯女と云ふ。遊女を流の女と云ふは、昔平家八島に亡びて後、宮づかへせし官女ども身の置処なく、長門の赤間、播州室の津にて旅人に身を任せ売りしより始ると云ふ説あり。摂津の江口神崎三島など津々浦々にて、小船に乗りて謡たる故、流女と云ふ。(『俗事百工起源』)
傾城と名づくるもの、漢家には后・女御をも指していひ、本朝にては白拍子・遊女などとて、忝なくも竜顔(天子様のお顔。)を拝し奉り、竹園・公卿(皇族や高位の朝臣。)の御前へも推参し、大樹(将軍の異名。ここは足利将軍を指す。)の寵を蒙け、執柄(摂政・関白の異名。)に愛せられなどせしかども、今世の傾城といふものは、一郭を構へ郭外へ是を出さず、一日の価を軽く定むれば、卑賎の輩参会を期せずといふ事なし。かるが故に、大人(高貴の御方。公家・大名など。)の翫ぶものにあらず。(『色道小鏡』)
遊女 室君よりはじまるといへり、遊女といふは、室の泊、三島江などにありて、船路の旅人に愛せられし故にしかいふ、是を、たはれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ、古来和歌に詠来れるも、遊女は水辺の事によせてよめり、六百番歌合に、
- たれとなくよせては帰る波まくら うきたる舟のあともとゞめず
同歌合に、信定、
- その人とわきてまつらんつまよりも あはれは深きなみのうへかな
同歌合に、兼宗朝臣、
- 波のうへにうかれて過るたはれめも たのむ人にはたのまれぬかは
皆是、遊女の題にてよめる歌なり、(『色道大鏡』巻第一)
[遊女の事]
『世事談』に曰く、遊女を指して傾城と云ふは、寛文の頃より云ひ始むと云へり。遊女は江口・神崎等の船着にありて、船に乗りて船ごとに来る故に、流れの女、浮かれ女などゝ云ふなり。ある人曰く、平家西海にて亡びし時、官女・宮女多く下の関・門司・赤間湊にさまよひ、世渡る業を知らざれば、人の遊びものになりて、遂に遊女となれり。因って、この湊には今に遊女特に多く、また大磯の虎・黄瀬川の亀菊(亀鶴)・池田の熊谷(湯谷)などは、今の出女の類なり。傾城は遊女に限らず、すべての女を云へり。『瞻叩(せんこう)篇』に云ふ、哲夫は城をなし、哲婦は城を傾け、婦の長舌あるは、これ乱(正しくは雁ダレに萬)の階(みだれのはし)、云々。これは女の発才なるを云ふ戒なり。また漢の李延年が武帝の前にて起ちて舞ひける歌に云ふ、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く。下略。かようの語を取りて、巨杓(こしゃく)なる者がふと号(なづ)けて云ひ習はせしものなり、云々。
愚按に、右のごとくに云へれども、大永中、すでに「傾城局の券書」と云ふ物あり。左に模出す。しからば遊女を傾城と云ふこと、寛文より太(はなは)だ古し。因みに云ふ、遊女、今の大坂に云ふひ(び)んしょ、東武に云ふ船饅頭は土妓にして、しかも古の浮かれ女に近く、また出女と云ふに因りて、今京阪の俗の遊女・芸子の輩をさして「くろと」あるひはでゝ姫と云ふ。黒人は素人に対す辞。また出で姫は遊女・芸者等になるを出と云ひ、止むるをひくと云ふよりの辞なり。古の出女とは意異なるか。また発才と云ふこと、今も京阪婦女の優ならざるを「はつさい」と云ひ、江戸にて「おちゃっぴい」と云ふ。
『洞房語園』に曰く、往古より傾城遊女の名目は、世人の云ひもて伝へしこと久し。漢土には契情・遊女の名に格別の義ありといへども、本朝においては傾城と云ひ、遊女と云ふ、その品二つあることなし。異国の妓女、我朝の白拍子、皆遊君の類なり。ここに白拍子の起りを尋ぬれば、中古人皇七十四代鳥羽院御宇に当りて、落陽に島の千歳と和歌の前とて二人の妓女あり。ともに双なき舞の上手、白拍子の根元濫觴(らんしょう)と云へり。古、延喜帝の御宇、江口の里に白女と云ひし遊女、能く歌を詠じ、『古今集』に載せられし。『万葉集』には遊行婦女の歌ありといへども、時代遥かにして、その事分明ならず。これ故に千歳・若の前を中興遊女と云ふ。天正・慶長の比までは古の白拍子の風義残りて●、御出産にて御用済、云々。
予が持蔵本のまゝなり。風義残りて●、この下一葉を欠くかと覚ゆ。全本を得て、このらい(元字は田を三つ)紙に追書すべし。
白拍子の風義残りて、京都・武陽の契情も小舞・乱舞の嗜み、あるひは茶の湯・数寄屋道を稽古せしなり。さるに因りて、諸祝儀または不時の催し結構にも、御歴々へ召され、御歴々に御給仕いたせども、わろびれて見ゆることはなかりしが、いつとなく風俗劣り、端なくなりしと古き者の物語り、慶長の比までは歴々の御方も同志は誘引あるきしとなり。今に至るまで、暇なる契情のことを茶を引くと云ふも、この節の辞なり。
守貞云ふ、今も三都とも遊女・芸子の終日あるひは通夜、客に見へざりしをおちゃひくと方言す。
追書。ある書に云ふ。傾城と云ふは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たびこれを顧みれば、城を傾け国を傾くと謡ひ、己が妹の李夫人を進むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる。今世にては、三都とも官許の売女には傾城・遊女等、並びこれを唱す。非官許には遊女以下の名これを唱すれども、ただ傾城と云はず、しかも制あるにあらず。自づからしかり。
遊女の名はすでに詩の周南の字なり。あるひは云ふ、遊行女児の名なりと。また昼遊行するを遊女と云ひ、夜遊行するを夜発と云ふ(やほつと訓ず)。遊女と云ふより「あそび」と云ふ。遊興席に連なるが故に云ふ。今は惣じて売色女を云ふ。生涯を定めざるより「うかれ女」「うかれづま」「川竹の流れ女」、または「ながれの身」など云ふ。
一説に云ふ、平家八島に亡びて後、官女等たつきなきまゝ、長(門)の赤間・播(磨)の室ノ津などにて売色せしより、摂(津)の神崎・同江口・同三島等小舟に乗りて売色する者あり。故にうかれ女と云ふ、云々。赤間以下実に古き売女の所なれども、摂の三所今は遊女なきなり。
今世、遊女・傾城・うかれ女等の名、ただ文上に云ふのみにて、京阪、上品妓を太夫、次を天神と云ひ、吉原にて「おいらん」と云ふ。それ以下は、京阪にて「おやま」「ひめ」等をもって通唱とし、江俗は「おいらん」以下を惣じて女郎と云ひ、極卑しめては三都ともに「ばいた」(売女なり)、「ふんばり」。
おやまと云ふことは、承応比の操りに、小山次郎三郎と云ふ人形遣ひ、若女の木偶を遣ふに妙なりしより、美女を指して小山人形の操なりと云ひしより転じ、後には売女の通唱となるとも云へり。
(喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)』巻之二十一(娼家上))
[今世の傾城] 徳川氏の治世になってから、島原・吉原など総堀・一方口の廓構えとなり、傾城(女郎)の外出を禁じた。
[遊廓における遊女の格]
京阪 上品「太夫」 中品「天神」 下品「鹿子位」 以下「端傾城」
鹿子位以下を「おやま」「ひめ」と通称。
江戸 上品「太夫」後に「花魁」 中品「格子」 下品「局」 以下「散茶」「切見世」
江戸においては花魁以下を「女郎」と総称した。
『歴史用語の基礎知識』「白拍子」の項参照。
よね
遊女の異名。語源については諸説あるが、どれも附会の説だとされている。
「よね 美しき姿を呼びて云ふ。あるふみに、米と書きてぼさつと読めり。菩薩の如く美しきといふこととぞ」(『好色伊勢物語』三)、「よね 遊女の替名也。注に曰よたれそつねと書て、上と下とにてよねとよむ。中にたれそつと文字四つ有。しゞをはさむといふ心にて、かく付たると也」(『新吉原つね/\〃草』上)、「よね 武江ノ俗、遊女ヲよねト云ハ米カ。又、遊仙窟ニ、張文成ト十娘ガ双六ヲウツトキ、文成ガ云ハ、宿(よね)ヲ賭(のりもの)ニセント云フ。(略)よねハ夜寝ト云フ義也。ソレ故宿ノ字ヲよねトヨメリ」(『志不可起』三)など。また、よねが遊女の意で使われた古例は俳書『絵合』のにある「仏性けふはうはべによく知れて よねの菩薩をあがめぬはなし」や「屋根にて猫のさかる春先 其あたり余寒忘るゝよねの町 筑紫船へと呼や難波女」などとされている。(『好色一代男全注釈』)
戯女(たわれめ)
遊女の事。「遊女。(略)これをたわれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ」(『色道大鑑』一)「君・浮女・戯女・手弱女・流女、いづれも惣名なり」(『好色訓蒙図彙』上)
遊女の位・職種
太夫(たゆう)
公娼遊女の最高の位。その美貌は勿論、技芸に優れ教養もある。もちろん太夫相手の遊びはお金も一番かかった。京坂の太夫は相応のお金を払えば誰でも遊べたようだが、吉原の太夫は気に入らなければ大名でも相手にしなかったという。
京坂では太夫を松と云い、天神を梅、囲(鹿子位)を鹿と云った。
『洞房語園』に曰く、この名目は京都より始まる芸の上の名なり。慶長の比まで遊女ども小舞・乱舞を嗜み、一年に二、三度づゝ四条河原に芝居を構へ、能太夫を皆傾城が勤めしなり。この時分は御大名の御歴々も御見物あり、種々の余情花麗なることども多かりしと云ふ。さるに因りて、今日の太夫は誰の家の何の云ふ傾城が勤むるなど云ひしより、能傾城どもの惣名となりけり。芝居相違なく仕回候へば、町奉行様へ御礼に上りける。この例により、今に年頭八朔の御礼に上り候、云々。
昔は京島原・大坂新町・江戸吉原ともに上妓を太夫と云ふ。今も京師島原と大坂新町の上妓は太夫と云ふ。(『守貞謾稿』)
元和四年に遊女の舞をよく舞ふ者ありしを院に召されし時、丹波大掾藤原吉政と云ふ号を仮に下させられ、男の舞大夫に准じさせ給ひしより後、其の一家に名有女をば太夫と呼び伝ふるとかや。(彼時八島舞しが、女院入水の処を略せしと云へり)(『俗事百工起源』)
今世、京師島原の太夫・大坂新町の太夫ともに、引舟一人・禿一人・下男一人を供す。引舟は江戸の番新(番頭新造)と同意なれども眉を剃りたり。
江戸の太夫(花魁道中)には、それに遣手、振袖新造が加わる。(『守貞謾稿』)
『燕石十種』「異本洞房語園」参照。
鬼が尋ねる「さてさてお前は娑婆の恋知り、聞けばこちらも閉口して、新町の大門口で駕篭舁になって見たい所存だが、ここにまた不審がある。天神を梅、囲を鹿というのはもっともであるが、太夫を松というのはどうしたわけか」西鶴曰く「秦の始皇の御狩の時、天俄かにかき曇り、大雨しきりに降りしかば、帝雨をしのがむと小松の陰により給ふ。この松俄かに大木となり、枝をたれ葉をならべ、木の間透間をふさぎて、その雨を漏らさざりしかば、帝太夫といふ爵を贈り給ひしより松を太夫と申すなり」(『元禄太平記』)
太夫は抱えられている女郎屋から揚屋へ行く時、女郎屋の紋をつけた長持の中へ、夜具・料紙・乱れ箱その他必要な品を入れて、供に持たせて行く。(『日本の古典17』注釈)
大夫職 傾国において最おもんずべき職なり、唐位にても、正議大夫、通議大夫は、和朝の正四位の上下に当れり、大中大夫、中大夫は、従四位の上下に当れり、中散大夫、朝議大夫は、正五位の上下に当れり、朝請大夫、朝散大夫は、従五位の上下に当れり、慈性院殿義政公、申楽の能を好ませ給ひて、観世を大夫と称せらる、是諸大夫に比するが故也、其外、保生、金剛、今春、各大夫と称し、彼等一座の棟梁として、今に至り連綿す、然るに、中比、出雲巫といふもの享に来り、僧衣を着て鉦をうち、念仏躍といふことをせしに、其後、男の装束し、刀を横へ、歌舞を尽せり、俗にこれを歌舞妓といひしなり、是より事起りて、元和年中より、女歌舞妓はじまり、其後傾城の能をも催せり、先佐渡島が大歌舞妓、道喜、若女郎などいふ座あり、其中の傾城に、芸の堪能なるものをえらみ出して、大夫と称せり、しかりしよりこのかた、傾城に大夫の号令にたえず、しかりといへども、昔の大夫は、芸だに堪能ならば、貌はいたくすぐれずとも、大夫に称すべきが、近代の傾城は、芸堪能なりとても、容貌抜群にすぐれざれば、大夫とは定めず、百人が中を十人すぐり、十人が中より一人えらみ出すほどならでは、大夫とはいひがたし、当時は、芸をはげまずして大夫となれば、奏せずして位階五位に准じ、氏性を改めずして上職にいたる、最たうとむべき事なり、(『色道大鏡』巻第一)
花魁(おいらん)
吉原の太夫を称して花魁と呼び慣わしていたものが、いつしか太夫という呼び名が無くなり、花魁という呼び名が残った。江戸後期になると、太夫・格子クラスの上妓はいなくなり、散茶クラスの遊女の一部を花魁と称した。
花魁 おいらんと訓ず。けだし正字にあらざるなり。この言の起りは、新造および禿あんどが、己れが仕ふる所の太夫を指して、おらが太夫子と云ひしより、下略して、ただおらが/\と云ふ。おらがはおのれらが略語なり。己らなり。後にはおらがを訛りて、おひらん/\と云ひしより、今は太夫の称は亡びて、吉原の上妓をおひらんと通称するなり。(『守貞謾稿』)
妹分の女郎又召使の小女などが、「おいらの所の姉さん」といふを約めて呼びなせしに出づといふ。(い)東京の遊廓にて、姉女郎の稱。(ろ)翻じて、女郎の稱。(『廣辭林 新訂版』)
○おいらん
或人予に、遊女の全盛をおいらんと云、文字いかゞと問。予答、松位は定り也、おいらんは老乱成也、其故は、容儀美顔に心とろけ、老も乱れて傾国傾城、我本心を失ふにたとへたるべし、酒乱狂乱と云にひとし。都て老は分別有て、世上の動静にも真正を心とする也。然ども此美顔に乱るゝの謂成べし。(『即事考』)
花魁という呼称がいつ頃から現れたかは明らかでないが、少なくとも安永頃(1772~80)にはまだ使われていなかった。(林美一『時代風俗考証事典』)
こったいさん
京の太夫の呼び名。「こちの太夫さん」が縮められた。(『吉原御免状』)
格子(こうし)
吉原の遊女。太夫に次ぐ格式を持つ遊女で、遊女屋の張見世に出て客にその姿を見せて宣伝した。張見世は大格子の内にあり、見世に出ない局と区別するために格子と呼んだ。
格子 太夫の次、京都の天神に同じ。大格子の内を部屋に構へ、局上臈より、ひときは勿体を付くる。局に対し紛れぬように格子と云ふ名を付けたり。(『守貞謾稿』)
吉原で、太夫の次位の女郎。以下、散茶・埋茶と続く。
元来は吉原の名目で、見世女郎の上に位する天神・囲などをいう。(『日本の古典17』注釈)
格子女郎 太夫に次ぐ女郎。又、張店をする女郎。(『廣辭林 新訂版』)
遊女が格子の内に店を張ることから、遊女屋そのものを指す言葉でもあると『廣辭林 新訂版』には有る。
天神(てんじん)
京坂における遊女の格を表す言葉。吉原の格子と同格。天神という名は遊女の料金が二十五匁だったことから、天神さんの縁日の日である二十五に引っかけた呼び名。
天神 ある人曰く、天神と号すことは一昼夜に銀二十五匁なるが故に、菅廟の縁日に因みて名とす。(中略)また同書(『好物訓蒙図彙』)に、天神、傍に細書して、格子のこととあり。格子とも云ひしなり。
またある人曰く、昔は天神二品あり。大天神四十三匁、小天神二十五匁なり。宝暦中(宝暦元年)、大天神を止め小天神のみと云へり。
天神の名目、昔より今に至り吉原にはこれなく、京阪ともにこれあり。
京阪ともに天神は揚屋にも呼び、または茶屋にも呼ぶなり。呼屋と云ふ小楼には往かず。天神は、平日、ただ禿一人を供するのみなり。(『守貞謾稿』)
太夫の次位なる遊女。(『廣辭林 新訂版』)また、天神の異名を梅といい、「梅の花」とも称した。
新造(しんぞう)
新造は太夫、格子になる前の遊女の呼び名で、振袖を着ていたため振袖新造とも呼ばれていた。それら遊女の中で太夫、格子になれず、かといって局にもならず歳をかさねる者も現れ、袖を留めて番頭新造となることもあったようだ。しかし、太夫、格子が廃れるようになると、初めて客をとるようになる遊女を新造と呼ぶようになったらしい。
以下はそうした中期以降の吉原の新造を記述したものと思われる。
新造といふは、あたらしく造れる船によそいし名也、幼少より此里へ来り、あね女郎にしたがひ、十三四歳になれば、姉女郎の見はからひにて新造に出なり、其前に姉女郎の知る家七所より、おはぐろを貰ふて付させる、其日そば切を、家内は勿論、ゆかりの茶屋・船宿へもおくる、又赤飯をむしてしるべの方へおくる、いづれも古実也。新造出る日、格子の前より通中迄せいろうを積こと山のごとくし、其上に九尺又は弐間あるひは三間程の大臺に、ちりめんや鈍子わたの類を積飾る、又姉女郎の座敷にも座敷積物とて、白木の臺にたばこ入扇のせ、手ぬぐいの類をかざり、出入のものに祝儀として遣す。しん造出す客の至茶や船宿のおもてへもせいろうをつみ、外の茶屋・船宿へも残らずむし菓子を送る。当日より七日のうち、姉女郎の買分にて、日々衣装きかへ、中の町につれ出る、姉女郎のぶんは、七日が間是も同じく連立出る也、七日すみ、ほうばひの女郎替り/\其新造を仕廻こと礼儀なり。(『北里年中行事』)
新造はまた新艘とも書く。新しい舟の意である。本来新造とは禿が女として一人前になって成るものだ。女としては一人前でも、花魁としてはまだ一人前とは見做されない。従って禿の時と同じ姉さん女郎付きで、花魁としての芸を学び続けることになる。客をとることはとったが、すべて姉さん女郎の指図によった。これが所謂禿立の新造である。
新造にはもう一種類ある。それは禿の経験をすることなく、いきなり女として(肉体的な意味である)新造出しされる者をいう。十五、六以上で売られて来た女がこれであり、小わたがそうだった。矢張り姉さん女郎の下に組み込まれるが、禿立と違って廓の諸訳にも暗く、技芸のたしなみも浅い。いくら姉女郎の特訓を受けても、こればかりはどうにもならない。だからここから太夫になれる者はほとんど無かった。小わたが格子の位にとどまったのは、そのためである。(『かくれさと苦界行』223、224)
新艘 禿なるも、禿ならざるも、傾城となりて、初めて出世したる砌をいふ、船をあたらしく造りたる詞より出たり、(『色道大鏡』巻第一)
【突出】(つきだし)
同、新艘の事なり、されども、是は、幼歳よりかかへ置て養育せず、禿となりて先輩にもつかへず、十四五歳、十五六歳にて其家に来り、其儘傾城に仕立出すを、突出しといへり、是郭中の者とりあつかふ詞にて、外よりはいはず、(『色道大鏡』巻第一)この突出しで見世にでることを新造立ともいう。
【振袖新造】(ふりそでしんぞう)
遊女見習い。先輩である太夫、格子に付いて色の諸訳等を学んだ。
禿やうやく年長ずれば、これを振袖新造とすること十五、六歳以下なるべし。それより年長ずれば、あるひは花魁あるいは格子女郎に出し、または袖を止めて番頭新造にもすることなり。(『守貞謾稿』)
【番頭新造】(ばんとうしんぞう)
『守貞謾稿』では、振袖新造から番頭新造になる娼妓もあったようだ。師の説には年季の明けた者に限るとあり、振袖のまま年期が明け番頭になったのか、年期が明けなくとも番頭になったのかは不明。
番頭新造とは、いってみれば太夫のマネージャーである。名を売った遊女の末であり、既に年季の明けた者に限る。新造にはもう一種類振袖新造というのがあり、こちらの方は文字通りの新艘、つまり新人で、年も十五、六、いわば太夫の予備軍である。美しく可愛く、太夫の引き立て役になる。この振袖新造と番頭新造の二人を太夫に付けるところに、吉原者の巧みさがあった。番頭新造は廓のベテラン中のベテランである。客の気質を素早く見抜き、そのあしらいようから文の書き方まで太夫に教えたという。(『張りの吉原』79)
江戸の新造に袖止めたるを番頭新造と云ひ、略して番新と云ふ。花魁の諸事を進退して、大坂の引舟と云ふ者のごとし。(『守貞謾稿』)
引舟(ひきふね)
主に京坂の遊里で使われた言葉。
引舟は江戸の番新と同意なれども眉を剃りたり。(『守貞謾稿』)
「引舟新造」 太夫につきそうかこいの女郎。(『日本の古典17』注釈)
太夫に附属して其身辺の用務を弁ずる遊女。(『廣辭林 新訂版』)
引舟 太夫に付き添う囲女郎で、座持ちを役目とする。引舟女郎・引者・引女郎ともいう。(『好色一代男全注釈』)
禿(かむろ)
普段は太夫、格子などの上妓の身の回りの世話や雑用をしていた童女。花魁の道中では先導を勤め、自分が仕える遊女を「おいらが姉さん」「おいらが太夫子」などの意味合いで、「おいらん」と呼ぶ。それが巷間に広まり上妓を指す言葉となった。いわば、禿たちが「おいらん」という言葉を産み出した。
禿は八、九歳より十二、三歳の間の小女なり。(『守貞謾稿』)
吉原の禿、晴の扮には、今世、衣服に桃色の縮緬または「ぬめぎぬ」を専らとす。帯、黒天鵞絨等なり。けだし種々あれども、まずこれを専らとす。衣服、桃色の無地に、おひらんの定紋五所に金糸縫にするなり。(『守貞謾稿』)
遊女の側に居て、其の見習をなす幼女。(『廣辭林 新訂版』)
「禿といふは、何としたる事なるや」。「太夫殿の言い損い、万事悪しき事を被らするにより、禿と申侍べるなり」。(『ぬれほとけ』)
禿 『色道大鏡』一に「傾城の召し使ふ女童也、昔の傾城の召し使ひしは、髪を結ふ事なしに、中切りにして打ち乱したり、さるによて禿と名づく。当時の禿は、髪先を中へ折り入れて中締めといふものに結ふ。然りと雖も昔よりの名目なるによりて、禿としかいふ」。(『ぬれほとけ』注)
禿松 将来太夫になるような禿を喩えていう。多くは七、八歳で禿となり、容色秀でた者は十五歳ぐらいで太夫に出世する。しかし、その全盛は二十四、五歳までで、以後は身請けされて退職するか、天神・鹿恋と位を下ろされ、最期は遣手と成り終る者もあった。(『けしすみ』注)
禿 童とも*(けつ:髪頭に間)とも書く、傾城のめしつかふ女童也、むかしの傾城のめしつかひしは、髪をゆふことなしに、中切にしてうちみだしたり、さるによつて禿となづく、当時の禿は、髪さきを中へ折入て、中じめといふものに結、然りといへども、むかしよりの名目なるによりて、禿としかいふ、(『色道大鏡』巻第一)
【禿立】(かむろだち) 傾城の性を誉ていふ事也、新艘にかぎらず、年たけたるをもいふなり、出世以前、禿となりて、先輩につかへ、道をわきまへしりたるといふ事也、或書に曰、よきもの三あり、喝食立の僧、執筆立の連歌、禿立の傾城、(『色道大鏡』巻第一)
鎗手(やりて)
遊女のOBがなった。現代でいえば遊女のマネージャーといった役どころか。花(遊女)の周りを廻ることから花車といい、転じて香車、それから鎗手に転訛したようだ。やがて遣り手という語が生まれ、現代では「遣り手婆」などと罵言に用いている。
鎗手 またの名を香車と云ひ伝ふ。俗等に、象戯(しょうぎ)の駒の香車をやりてと云へば、香車が別名をまたやりてと云ふ。香車と云ふは本字は花車と書くなり。花に廻ると云ふ心なり。しかれども、くわしやと云ふはひゞきあしきとて、かしやと云ひかへたり。かしやと云ひしより、またやりての名あり。
守貞曰く、やりてを昔は香車と云ひしなり。今はやりてとのみ云ひて、香車の名廃せり。京阪には揚や・茶屋の妻を花車と云ふこと、今もしかり。(『守貞謾稿』)
遊廓にて、遊女の取締などをなす老女。花車。(『廣辭林 新訂版』)
「遣手とは、何としたる事なるや」。「遣り手・引手に心をつけ、金銀取る事教へ、万事に心を遣り配りするにより、遣手と申侍べるなり」。(『ぬれほとけ』)
遣手 『色道大鏡』一に「傾城に付きて、其請待する挙屋へ遣り渡す故に、遣手といふ」。(『ぬれほとけ』注)
遣女(けんじょ) 遣手の事なり、遣手といふは、傾城に付て、其請待する挙屋へやりわたすゆへに、遣手といふ、
香車 同遣手の事也、香車は一筋にむかふへ行がゆへに、異号を鑓といへば、是になぞらへて、遣手を香車といひ来れり、されども、此名目ことふりたれば、此名を呼ず、遣女といふべし、(『色道大鏡』巻第一)
遊女を取り締り、遊客との応対など万事を切り廻す、女郎屋の傭い女。遊女のなれの果てがなり、欲深い女が多かった。「遣手として、無欲なるは希なりといへども、我が付きたる女郎の、大切に思ふ知音を、恐しき下抜き、乗せ事に逢はするは、余りにむごき心根也。中宿に呼び入れても、無理なる仕掛けに逢はするは、末悪しかるべし。かく有ればとて、熊手をすきと離れよとにはあらず。定まりたる手のよき鳶口は苦しかるまじき事也。(略)遣手と名付くるは如何に。答へていはく、鑓の手といふ心なるべし。そのゆへは、五ほう八けの詰め開きを弁へ、上中下の三段を使ひ分け、奥の手などゝ云ふ、よき手のくだを構へ、人を殺すやうにして、その女郎に付きて廻るといふ心なるべし」(『吉原すゞめ』下)「遣手 香車とも、隠坊とも云へり。女郎に付き廻りて、御敵に入り身をさするゆへ、遣手といふ。買手を見かけ、一寸も跡へ引かせず、先へ/\と味をやりてするゆへ、香車ともいふ。また人を焼きては剥ぎ取るゆへ、かの橋場の隠坊をかたどりなどするなり。女の古きをやりてと云ふが如し」(『吉原失墜』)。(『好色一代男全注釈』)
芸子(げいこ)
主に京坂で使われる。酒席や宴を盛り上げるため、三味線に合せて唄を唱った。それに合せて舞を舞ったのを舞子という。当初は幼長を問わず舞いを専門とする芸妓を舞子といったが、やがて小妓の振袖を着る者の惣名となり、舞いを舞わない者をも舞子というようになった。
芸子 げいこ、弾妓なり。すなわち江戸に云ふ芸者なり。
京坂の芸子は地歌、江戸にて云ふ上方歌を三絃に合し、唄を専務とすれども、また江戸の長歌・端歌、または江戸の浄瑠璃をも往々未熟といへども、これを兼ぬるなり。(『守貞謾稿』)
京坂の芸子、官許・非官許の色町ともにはなはだ不礼なり。まづ楼に来たりて路の遠近ともに「おゝしんど」と云ふ。遠と云へども二、三町に過ぎず。如何ぞ辛動のことあらんや。それより席に出て客に目礼のみを行ひて、敢て手を下さず頭をさげず。しかも客より上座に付くことを憚らず。かつ京坂は客数輩にはもとより一客なりといへども、芸子二、三人を勧む。客これを辞すれども、茶屋の徒はなはだこれを強ふ。三、四客にはこれに准じて七、八人あるいは十人以上をも強ふるなり。客もまた芸子多きを常とし、他事の倹に似ず、その費を顧みざるなり。(『守貞謾稿』)
藝者の稱。(京阪の方言)(『廣辭林 新訂版』)
舞子(まいこ)
踊子。
「舞子とは、上古の舞女と同事也。(略)心は等しけれど、舞子といへば凡卑也。されども、末の世なれば、力なしとや云ふべき。いづれの御時にか、ある御所方に、召使ひの女子を集め、歌舞伎の踊を舞はせて楽しみ給ふ。又それより上つ方にも、この舞うつりて、興ぜさせ給ふに、町より形たをやかに、きよらかなる女子を選びて、抱えさせ給ひ、妓芸を習はさせ給ふ。これを聞きて、町の末々なる牢人の娘、時に合はずして世に後れたる人の子共に、師匠をとり、芸を学ばしむ。鼓・三線をもて拍子をとり、小舞を舞ひて、歌を発す。これを今舞子といふ。大名は扶助を加へ、簾中猶目を喜ばしむ。町人もそれ/\の別業に招き入れて、芸を催し、舞の後は、酒宴の友とす。幼齢の女子は、その沙汰に及ばず。心ある際は、袖を引くに、臆せず恐れずして、いとやさしかりけり。その中に扇の品秀でたるは、あてなる方に召され、形のめでたきは、人に寵ぜられて外を求めざりき。されども、天下倹約の世にしあれば、まず御所方の踊を停止せらる。これによつて、舞子一人も残らず暇を給はる。武家にも扶持し置かざれば、皆々里に送られける。この浪人の舞子ども、無上の風流、至極の結構になれて、をのずから姿もけたかく、粧ひみやびかなれば、昔にかはり、親なる者の目にさへも、我が子ながら尊く晴がまし。一度とめたる名香の薫りは、薄物の袖に残りて、年を越ゆれども失せず。聟をも取らまほしけれど、身元高きあたりには、舞子とて受けえず。しかりとて、商人の妻ともし難し。かすかにて世を渡るものは、けやけしとて辞退す。さらば流れの身ともなし果てられず、いとごうじにたる物から、富る者の妻となるより外なし。この幸いにさへ外れたる際は、親の内に遊溺す。これをぞ忍ぶべくいざなふべき処なるをや。たとひ枕の数を重ぬといふとも、親のためならば孝と言ひつべし。ゆめ/\不義不浄の沙汰にはあらず」(『色道大鏡』十四)
芸者(げいしゃ)
芸子同様酒席や宴を盛り上げるために三味線や太鼓を専門とし、色を売らない妓。吉原以外の江戸芸者を町芸者といった。
芸者には男芸者と女芸者があり、男の芸者が先にあった。傾城買いの客に従って廓に行き、芸をもって一座を盛り立てる者の意。初めは客に従って外から廓に来る者をいったが、江戸中期頃からは芸が出来ない遊女が増え、三弦や太鼓・鼓などを専門にする芸者を吉原などの遊廓でも常駐させるようになる。
【男芸者】(おとこげいしゃ)
後の太鼓持ち、幇間の事。
初め能の脇師や唐物屋(舶来品を扱う商人)、相撲取、髪結などを連れていったのが、やがて宴席をさらに盛り上げようと当世流行りの踊などを踊るようになる。それが六斎はやしであったり、紀州雑賀跳びの踊りであったといわれ、どちらも鐘と太鼓で囃した。この時、鐘を持つ者と太鼓を持つ者と囃子方の役割は決まっていた。このことから、金(鐘)を持たない者を太鼓持ちと呼び、金を持つ客に従って廓に上がる男の芸者を称する言葉となった。また、初期には末社とも称した。これは客を本社に喩え、男芸者をそう呼び慣わしたのだという。さらに、太鼓持ちを略して太鼓という場合もある。寛文七年(1667)刊の『吉原讃嘲記時の太鼓』にその名が見えるが、上方ではそれより早く用いられていたともいわれる。
しかし、職業的な太鼓持ちが江戸に現れるのはさらに百年後の宝暦年間(1751~63)以降の事とされる。幇間・牽頭などの文字が当てられ、吉原細見などにも男芸者として女芸者と共に名を列ねるようになった。これらの細見には、都一中の一派や荻江、富本、常盤津、十寸見(ますみ)、竹本、野沢など江戸浄瑠璃諸派の名取りがずらりと並び、文化年間(1804~17)には現在に幇間芸を伝える桜川一派の名が見え始める。(林美一『時代風俗考証事典』)
【女芸者】(おんなげいしゃ)
後に、一般の俗にいう芸者の事。
女芸者 弾妓なり。京坂にて芸子と云ふなり。
昔は女芸者これなし。遊女、専ら三絃を鼓して興をそへ、あるひは新造の所作とす。(『守貞謾稿』)
江戸の芸者は京坂よりいささか礼あり。まづ青楼に来たり妻などに向ひて「今日はありがたう」など云ふなり。それより席に出て敷居外に手をつきて「へい、いらっしゃい」など云ふなり。「いらっしゃい」は「入らせられい」の略なり。また席上にて粧を補ふなど更にこれなし。京坂はみだりに鏡袋を出して客と同席にて顔を直すと云ふなり。補粧するなり。また更に、江戸のては客より上座に付かず。(『守貞謾稿』)
音曲・歌舞などを奏して、酒宴の興をたすくることを業とする女。げいこ。うたひめ。(藝妓)。(『廣辭林 新訂版』)
女芸者の始めは、まず上方からで、遊女の身だしなみとされる諸芸が出来ない遊女が増え、売春と芸が分業化されて、専ら芸を得意とする「太鼓女郎」が出来たことからとされる。この太鼓女郎は揚屋や引手茶屋から呼ばれると出かけていって、歌舞音曲なんでもござれで引き受けた。基本的には芸を売っているため、容貌は二の次だったが、享保年間(1716~35)に入ると芸子という者が現れる。これも芸を表にしているが、裏で売色を行っているため、容才兼ね備える者が多くなった。こうして上方では、芸者といえば太鼓持ちを云い、女芸者を芸子と称するようになる。江戸に女芸者が現れるのは、宝暦十二年(1762)、新吉原扇屋の遊女歌扇が最初だとされる。その後、次第に各廓にも遊女でない女芸者ができ、吉原細見にも遣手の名の前に「芸者誰々、外へも出し申候」などと書かれるようになる。
芸者は普通の名前のように「とめ」「さの」などと二字名をつけ、また男らしい心意気を示すため「村次」「駒吉」「妻吉」などと男名を名乗ったりした。やがて、芸者の数が増えると娼家抱えの女芸者の外に、置屋に籍を置く者や、自前で廓外に住んで商売を行う者も現れ、客と寝たりすることから、遊女たちの営業にも差し支えるようになり、安永八年(1779)八月に芸者改所(見番)を発足させ、厳重に売色を取り締ることになった。この見番には男芸者も含まれ、当時の細見によれば男芸者十九人、女芸者は廓抱えの者が四十人、それ以外の者が四十八人の計百七人が記されている。この数は幕末に近づくほど増え、慶応年間(1865~67)には男芸者が三十余人、女芸者は三百四十人と増えている。風俗は女郎が前帯なのに対して、女芸者は後帯だった。(林美一『時代風俗考証事典』)
町芸者(まちげいしゃ)
上記の吉原芸者に対して江戸の町々にも町芸者が現れる。これらは三味線・唄・踊などの芸を提供するだけで、売色することは厳禁であった。これら町芸者の始めは上方に倣って踊り子と呼ばれ、武家や町人の家に招かれたり、大川の遊山船に招かれて踊ったりしていた。遊山船とは寛文・元禄頃(1661~1703)の全盛時には長さ五~六間もある大型屋形船を二艘つないで踊り船にして十人ほどの踊り子が踊れるようにしたものだった。これらはやがて幕府により制限され、明和年間(1764~71)には屋形船が衰退し、洲崎や深川辺の料理屋がそれに代って招くようになる。風俗も踊り子の娘風から文化年間(1804~17)になると、眉を剃りお歯黒で歯を染めた芸者が好まれるようになった。
こうした町芸者の流行の中で、特に際立った特徴をみせるのが深川芸者だった。深川が江戸の辰巳の方角に有った事から巽芸者とも呼ばれ、明和から天明期(1764~88)にかけては羽織を着用した芸者がもてはやされたことから羽織芸者とも呼ばれた。女芸者が羽織を着た理由については、船宿の女房が川風を凌ぐために着たのを真似たとか、男娼の風を真似て髪を若衆髷にし羽織を着たのが最初だとか、豊後節語りの女太夫を真似たなど諸説ある。もともと女が羽織を着る風俗は武家・町家とも早くからあったが、見苦しいからと享保五年(1748)に禁止された。しかしほとぼりがさめると共に、再び豊後節語りや深川芸者の間に羽織を粋がって着る風俗が現れたが、天明八年(1788)から始った寛政の改革で再び禁止され、以後羽織姿の芸者は見られなくなった。羽織を止めた深川芸者は、やがて薄化粧に島田髷、無反り一文字の櫛をさし、無地小紋や裾模様の紋付に下げ帯で、年中素足に吾妻下駄という粋と張りで売る巽芸者のスタイルを完成させていった。また柳橋の芸者が盛んになったのは幕末の安政(1854~)以後のことで、江戸期を通じてはまだ現れない。(林美一『時代風俗考証事典』)
その他の女郎
鹿子位(かこい)
京坂の下妓の呼び名で、吉原の局女郎あるいは散茶と同格か。
鹿子位 かこひは十六匁、四々の算法辞より出る。鹿猪をしゝと云ふ故なり。あるひは曰く、かこひ、太夫・天神に比すれば詫びてゐると云ふより、茶燕のことにかたどりて囲と云ふ。囲は茶席をかこひと云ふなり。また閑を表して深山の鹿の牡を恋ふるに比して鹿恋とも書くと云へり。(『守貞謾稿』)
圍女郎(かこひじょろう) 京大阪にて、太夫・天神に次ぐ女郎。(『廣辭林 新訂版』)
十五女郎(かこいじょろう) 圍。鹿恋。京の島原などで太夫、天神につぐ階級の遊女。揚代十五匁であったから十五女郎とも書くが、揚代は時代により変化した。『色道大鏡』には、室には太夫なく、天神二十八匁、圍十六匁とある。(西鶴『好色五人女』補注)「吉崎といへる十五女郎、年月かくし来たり」(西鶴『好色五人女』本文)
かこい女郎。天神の次に位する女郎。もとその揚代十四匁であったから、カルタ賭博の名目に因んで「囲い」と異名し、鹿恋とも書いた。太夫・天神・囲までの女郎は、挙女郎といい揚屋入りをする上級の女郎とされていた。囲の異名を鹿ともいう。(『色道小鏡』注)
「かこい」の語源は、上記のように幾つかある。いずれが正しいのか詳らかでない。
座敷持・部屋持遊女(ざしきもち・へやもちゆうじょ)
太夫、格子などの遊女がいなくなった中期以降の吉原の遊女の呼び名。
新造にて見世へ出、なじみのきゃくもつけば、客より袖をとめ、座敷を持、あるひは部屋持となし、碁・将棋・双六盤・琴・三味線・書物箱・身支廻道具諸色とりそろへ遣すこと也。(『北里年中行事』)
散茶(さんちゃ)
元は太夫、格子、局という遊女の格があったが、湯女等の売女を吉原一所に集めたことにより、散茶という新しい遊女の名ができた。吉原から太夫、格子という格式高く技芸に秀でた遊女が廃れると、肉体を売るだけの散茶が吉原の遊女の中心となった。
揚屋へ呼ばれるのは、『太夫』と『格子』の一部だけであり、同じ遊女屋にいても『散茶』は絶対にゆかない。いや、ゆけない。この『散茶』と呼ばれる女郎は、もともとは湯女で、吉原以外で営業していた女たちである。明暦三年(1657)吉原移転の際、この種の風呂屋はことごとく取り潰され、湯女たちはすべて新吉原に吸収された。この女たちは、太夫、格子と違って客を振るということがなかったために、『散茶』と呼ばれた。散茶とは今日でいうひき茶のことである。当時の煎茶は袋に入れて振り出したが、ひき茶は容易に湯に溶けて振る必要がなかった。そこからつけられた名前だった。(『かくれさと苦界行』68、69)
散茶 『洞房語園』長文故に、その要を掴む。寛文年中、非官許遊女を官に請ひて吉原に移す。遊女持七十余人、遊女五百十二人なり。その遊女持、多くは風呂屋なれば、その旧宅をこゝに移し用ひ、局見世を広く大格子を付け、庭も広く、牛台と云ひて暖簾の側に方三尺の腰掛を付して、ぎうと云ふ者(若い者)を置きて客をひく。この遊女は従来の吉原遊女のごとくに、意気張と云ひて、侠気これなく、客をふらぬと云ふより、号して散茶と云ひ、終に妓品の名目となる。またその居の様を異にし広庭を構へず、大格子の内を局座敷にするをむめ茶と云ふは、散茶に対すの戯名なるが、これまた妓品の一名となる。(『守貞謾稿』)
「散茶女郎」 もと、吉原からいえば、よそもので、岡場所の私娼が、まとめて吉原に住まわされたもの。下級の女郎。(『日本の古典17』注釈)
散茶女郎 昔時、江戸吉原にありし遊女の一種、中位の女郎にして、散茶造りの妓楼に住みしもの。
散茶造 昔時、江戸吉原の妓楼の構造、風呂屋の造り方を用ひ、郭を広く構へ大格子を附け、庭も広く取り、妓夫台を店暖簾の側に置き、妓夫を座らせて客を引きしもの。(『廣辭林 新訂版』)
六十三年以前散茶と云事初りて、段々風あしくなる、夫も其頃より少しづゝ風悪くなり懸りたる故、さん茶も出来たる也、其前は太夫格子より外なし、三寸の局五寸の局とて、下つ方げい者会方の為に有し、格子は振る十五もふる、太夫は猶以振る、是を面白くおもひかようなり、(『むかしむかし物語』)
山崎五兵へ咄 一 竹山町のうどんや、吉原より上らうをうけいだし女房に仕候由。尤さんちやくらいの上らうにて御座候よし。いかゞいたし候や。右のうどんや手前不如意に罷成候由。其節彼女房金子七拾両余取出し。たくわゑ居候由。其後勝手よく罷成、今にうどん屋仕罷有候由。
注:さんちやー吉原の女郎の階級で、太夫・太夫格子び次ぐもの。夜のみ客を迎え、揚代は金一歩(一両の四分の一)。(『元禄世間咄風聞集』、校注:長谷川強)
元禄期、上の資料によれば散茶クラスの遊女が七十両(一両凡そ20万円で換算すると、一千四百万円ほどか)の貯蓄をしていた事が分る。
【局女郎】(つぼねじょろう)
本来、吉原の局女郎は格子の次にくる遊女だったようだが、時代が下るにつれ下級の娼妓の名となり、切見世と同義になった。
一日の揚銭二十目なり。ただし寛文中、散茶と云ふ者出で来て、揚銭散茶と同じく金百疋となる。局の構へやうは表に長押を付け、内三尺の小庭あり。局の広さは奥行二間あるいは六尺に奥行二間なり。中囲と庭との真中に幅二尺か、または一尺五寸の長まがきあり。表鶉格子と庭との片側に長さ三尺に幅一尺五寸ばかりの腰掛を付け、かちん染の暖簾をかけ、縫ひ止めに紫革にて露を付くる。右局の指図を記すことは詮なきことなれども、元禄年中より局と云ふこと捨り、惣じて吉原の古風古実ともに取り失ひしこと多ければ、後の若輩どものために、これを記し候。局女郎と云ふことに付きて、やんごとなき由緒ありと、古来云ひ伝へしことあり。昔、一の宮御息所、しかじかのことあり、土佐の畠と云ふ処へ趣かせたまふとて、かの地へは往き付きたまはず、芸州広島へ着かせたまふ。此所に御座あり。零落の後、都の官女達御由を聞き宮仕したまふ。この時、戦国にて都もさはがしく、帰り上りたまはんことも叶はず。かの官女達うきふしの勤めをしたまひしとなり。これに依りて、広島辺、京上臈と云ひ習ひけるより、遊女のことを上臈とも云ひ習はしたるよし、かの上臈の居たまひし所故、局と云ふ。局に帳をたれし、帳の綴目に紫の露革を付く。これよりして遊女の局と云ひ、のれんの縫い止めに紫革を付くる。しかれば、今の局上臈と云ふは、かの官女達の跡をつぎ、上臈と云ひ来たりしと語り伝へたり。この事、いづれの書、いづれの記録にありと云ふことを知らず、ただ古き物語りに伝へしのみの事なり。(『守貞謾稿』)
昔時、江戸吉原にありし下等の女郎。(『廣辭林 新訂版』)
元禄年中より吉原に局と云ものすたれり、其前は局女郎とて表に長押ヲ附、局の広サ横六尺に奥行二間にも作る、入口ハ三尺、表通りハ横六尺のうずら格子也、中閾と庭との堺に二尺計のまかきを附ル、但シ外より内へ入候へば左の壁ギワ也、鶉がうしへ通ヒニ幅二尺計長三尺の腰かけ板有、入リ口にカチン染の暖簾を掛、のれん縫目留に紫革にて露を付るよし、右洞房語園い見(『青楼年略考』)
【端女郎】(はしじょろう) 局女郎を俗に端女郎と呼んだという。
寛永期の花魁の序列は太夫・格子・端の三種で、この端女郎が局女郎と呼ばれた頃である。局女郎は花魁の中では最下級に属するが、後年の切見世の女たちとは違う。いわゆる河岸の切見世でちょんの間の切り売り専門だった売女ではない。当時大見世といわれた大三浦屋や三浦屋にも、この端女郎つまり局女郎はいたのがその証拠であろう。
ちなみに『あづま物語』によれば、大三浦屋抱えの太夫は七人、格子が二人、端女郎は四人である。これに対して庄司甚右衛門の西田屋には、太夫一人、端女郎九人と書かれている。(『死ぬことと見つけたり』上138)
端女郎は違う。初期、格子と端の区別がなかった頃は格別として、局女郎としてはっきり格子の下に位置してからは、問題の局が遊女屋の中に作られたから、客は遊女屋で遊ぶしかない。揚屋にゆかない分だけでも、端女郎の方が割安だったようだ。(『死ぬことと見つけたり』上140)
端女郎 古書に所載。近世これを聞かず。(『守貞謾稿』)
「端女郎」端局、局女郎、見世女郎とも言う。揚代三匁、二匁、一匁、五分と階級がある。(『日本の古典17』注釈)
端女 端女郎とも、局女郎とも、あそびとりともいふ、けちぎり女の事なり、(『色道大鏡』巻第一)
私娼
色比丘尼(いろびくに)
元来は諸国を遍歴し、仏法を説いた尼を比丘尼といったが、形態を真似て専ら色を売ることを業とする者(色比丘尼)が現れ、江戸期には比丘尼は売女と同義に使われる。
此頃は勧進比丘尼有て、御寮といふ者太夫の如くにして、宿へ客を取、売女にしたる事はやりて、乍レ去此頃も段々末になりて、今は絶てなき事にぞ(『寛保・延享 江府風俗志』)
比丘尼 (一)(梵語Bhiksuni)佛 出家して佛門に入りたる婦人。あま。(二)昔時、法體法衣なりし一種の賣淫婦。(『廣辭林 新訂版』)
文化六年発行「燕石雑志」の筆者は次の様に書き出してゐる。
「ゆたけき御代の長久なる儘に、物として今大江戸に具足せざるはなし。しかれども昔ありて今なきものは」と云って、「神田の勧進能(明神の社地にありしと云ひ伝ふ)」「説教座(堺町天満八太夫)」「耳垢取(名を長官といふ、神田紺屋町三丁目にをれりと江戸惣鹿子に出ず)」「獣の藝躾師(木右衛門と称す。湯島天神前にをれりと同書に戴たりし)」「被衣(かづき)したる女子」「野呂間人形つかひ」「碁盤人形つかひ」「山猫まわし」「おはらひをさめ」「すたすた坊主」「太平記よみ(街頭に立ちて太平記をよみ銭を乞ひし者)」「唄比丘尼」「五月の菖蒲人形賣り」「扇の地紙賣り」「奉書足袋賣」これ等の珍商売のなくなったのを歎いてゐる。そして、このうち、すたすた坊主とおはらひをさめ、唄比丘尼と扇(の地紙)賣りとは二三十年前まであったと云って居る。
唄比丘尼といふのは、頑是ない十歳前後の小比丘尼が一様に真黒な頭巾を被り、効ひ/\しく裾を高々とたくし上げ、痩せた腰に柄杓を挿して、三四人一隊となり、老比丘尼に宰領されて、江戸八百八町をぐる/\と廻り歩き、人の門に、店先きに立って、声はりあげて歌を唄ふのだった。そして、物を施されるまでは、いつまでも立ち尽し、益々聲張りあげて催促したといふ。
その頃より以前は、簓(ささら)をすり合はせて唄ったといふので、比丘簓(びくささら)の名が残ってゐた。これ等の唄比丘尼は、屹度、地獄變相の図を説き示して、愚婦達を泣しめた彼の熊野比丘尼の流れであるのだらう。伊勢比丘尼のことに就ては『自笑』の「愛嬌昔男」といふ冊子に書いてあるといふ。兎も角比丘尼といふものは陰惨な気持ちを与える存在である。(『江戸時代の猥談』「江戸末期珍商売往来」阪田俊夫著)
比丘尼、寛政以前、大橋に計り有り、隠売女なり、(『飛鳥川』)
二、比丘尼の事 比丘尼といふもの、今は一向見当不レ申候、或老人の物語には、六十四五ケ年以前、新橋八官町河岸通などに、売女比丘尼有レ之、殊の外賑かにて、地廻りの若者など、時としては神田江送り迎ひなど致し、誰々といはれ候指折の中にも、大鶴、小鶴などゝいひしは、至て美しく、小比丘尼を両人つれ、駒下駄又は雪踏などはき、神田田町江来候よふす花美の事也、其比、比丘尼はき候せつた、中狭細長く尻の方をそり上らせ候がはやり候由、何れも比丘尼の風俗、臀はなきやうに細候由、常に腰より臀江かけ、帯にて〆付置く也、後ろの風の能ものにて柳を欺候よしに候、其頃、神田田町の比丘尼、去る屋敷の侍をだまし候処、彼侍残念に存、色々心を砕け共、鬱憤はれず、或時、神田明神の祭礼に、須田町の桟敷に居候を見付、帰りがけに切殺し、其身も相果候よし、夫より見世を張候こと相止候、我等など廿歳計の時分迄は、路次に御幣と牛王の看板を出し、日暮には小比丘尼出候て、家を引申候、又、新大橋の向には、御舟蔵前より出、橋向の左右の河岸通りに見世を張り、門口へ葭簀を立掛罷在候、其外、浅草門跡前などにも有レ之候処、いつとなく離散いたし候、又、舟に乗り候て、白昼に高瀬舟などへ、勧化となづけ売あるき申候が、これも手にびんざゝらを持、箱をかゝへ、門口へ立て唄をうたふ、其唄は、
梅はにほひよ桜花、人はみめとりたゞ心、さして肴はなけれども、一ツあがれよ此酒を、
右のうたをうたひ候て、跡にて、おかんと長く引、これは御勧進の略語也、右神田の比丘尼も、薄手にて命助り候よし也、(『親子草』)
一、唄比丘尼といふ者ありて勧進す、宝暦の頃迄所々繁華の宮社へ来り、参詣の人の休息する茶屋へ入、びんざさらを鳴し、唄諷ふて米銭を貰ひて世を渡る者也、いつか此類絶て今は見る事なし、むかし此比丘尼の中に容色あるを好色の者密に奸淫して大幸を得しより、色を商ふ比丘尼といふ者も出来たりといふ、然るに其色比丘尼の始りしも古き事と見へたり、正保三年丙戌八月廿三日評定所へ阿部豊後守出座の時、御旗本の士渡辺源蔵といふ者、神田田町の比丘尼の親方弟子比丘尼を源蔵隠し置たる由、願ひ出たるを豊後守取計宣敷、源蔵三四十金出して内済せし由を記置たる書を見れば、もはや其頃より以前色比丘尼有し事明らか也、(『享和雑記』巻四の五十)
【浮世比丘尼】(うきよびくに) 色比丘尼のことで、色を売る勧進比丘尼。『東海道名所記』二に、勧進比丘尼が、いつの頃か実体を失って「行をもせず、戒を破り、絵解きをも知らず、歌を肝要とす。縁の眉細く、薄化粧し、歯は雪よりも白く、手足に紅をさし、紋をこそ付けねど、たんがら染・千斎茶・黄枯茶・うこん茶・黒茶染に、白裏ふかせ、黒き帯に腰を掛け、裾けたれて長く、黒き帽子にて頭を味に包みたれば、その行状は、お山風になり、ひたすら傾城・白拍子になりたり。持歌の比丘尼を犯す者は、その料五逆罪の内なりと、経には説かれたるに、比丘尼の方より、つきつけの切売を致し侍ることの悲しさよ」とある。(『好色一代男全注釈』)
『艶道通鑑』にある歌比丘尼についての記述。
【けころ】
○けころといふ妓女の事、天明の末迄、下谷広小路、同御数寄屋町、提灯店(異名也)、同仏店(是も異名也)、広徳寺前通り、浅草堀田原辺、其外諸所にあり、是も一間の家に弐三人ヅゝ限りに、出居る事也、花費は弐百文ヅゝにて、いづれも美容貌を選び出したり、毎月大師縁日三日、十八日は、未明より出店あきなひせし也、寛政已来、此売女絶てなし、(小川顕道『塵塚談』)
けころ、寛政の頃まで、上野山下など、大通りをはじめ、横町々々門並に有、一軒に両人位づゞ見世を張、前だれ姿にて、大かたは眉毛有、年増もあり、いづれも美婦計りなり、白昼に見世を張、入口より三尺計奥に居る故、拵へものはなし、此外所々に夥しく有り、代弐百銅、夜四ツ時よりとまり客を取、食物なしに金二朱、(『飛鳥川』)
是は近き頃の事也。下谷広小路辺に茶屋を出し情を商ふ彼のけころ屋へ、加賀の足軽体の男来りて、けころを買上て遊び帰りけるが、鼻紙さしを落し置ぬ。追欠てみしに最早影見えねば、「又こそ来り給ふらん」とて、中を改め見れば何もなく、谷中感応寺の富札一枚有りければ親方へ預け置けるが、其後右足軽来らず、尋べきにも名を知らねば詮方もなく、右富札は「捨置んも如何也。富定日には感応寺へ至り見ん」とて、其日彼富札を持て谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に当りて金子百両程請取ぬ。「さるにても右足軽を尋見ん」と、加賀の屋舗、分家の出雲守・備後守屋敷抔をもより/\聞侍れど、素より雲を掴むの事なれば可知様もなし。「誠に感応寺の仏の加護ならん」と、右門前へ彼金子を元手として酒店を出し、未だ妻や無かりけん、右のけころを妻として今は相応にくらしけると、感応寺の院代を勤ぬる谷中大念寺といへる僧のかたりぬ。(『耳袋』巻之二)
【地獄】(じごく)
主に江戸で使われた呼び名で、素人の売色する者を称して地獄と呼んだ。
ひそかに淫をひさぐ婦女。いんばい。(『廣辭林 新訂版』)
地獄 坊間の隠売女にて、陽は売女にあらず、密に売色する者を云ふ。昔より禁止なれども、天保以来、特に厳禁なり。しかれども往々これある容子なり。地獄、京坂にて白湯文字と云ひ、尾張名古屋にて百花と云ひ、もかと訓ず。彦根にて麁物(そぶつ)と云ふ。皆密売女なり。(略)
ある物の本に云ふ、俗に売女にあらざる者を地者(じもの)、あるひは素人とも云ふ。その地ものを極密々にて売色するが故に地極と方言す。獄・極、音近きが故に、今は通て地獄と云ふなり。(『守貞謾稿』)
○売淫をぢごくといふは、地獄の義にあらず、地者の極上といふ義なり、(『了阿遺書』)
上記二書を見るに、「ぢごく」というのは「地極」と書くのが正しいようだ。とはいえ、「極」の意味するところは異なっている。
【宿場女郎】(しゅくばじょろう)
宿駅の旅籠で商売をした、いわゆる飯盛女。これらは岡場所に変わりはないが、品川、新宿などの宿駅は江戸ではなかったので江戸市中よりも取締りはゆるく、しかも江戸に近いため繁昌した。
江戸にて駅妓を宿場女郎と云ふ。三都ともに駅を宿と云ふ。今俗の風なり。江戸の四口、各娼家あり。品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を三、板橋を四とす。これ妓品を云ふなり。(『守貞謾稿』)
江戸から諸街道の出発点に当たる品川(東海道)・板橋(中山道)・新宿(甲州街道)・千住(奥州街道)の四宿は、特に伝馬宿としての経費負担がかかり、幕府もこの四宿だけには、他の宿駅にはない女郎を許可していた。公娼の設置によって宿場の利益を上げようと考えたのだった。(林美一『時代風俗考証事典』)とあり、この四駅の女郎は私娼ではなく公娼とするべきかもしれない。
道中の宿場にてかせぐ下等の女郎。めしもり。(『廣辭林 新訂版』)
また、宿場女郎を御入来女(おじゃれめ)ともいったと『艶道通鑑』の注にある。
前田金五郎氏の『好色一代男全注釈』によれば、本宿一軒に二人、新宿一軒に一人づつ置くことを許されていたとあり、宿場女郎を「たわれ女」、また食売女(めしうりおんな)と云ったとある。
【人どめ女】(ひとどめおんな)
宿屋の客引き女。店先に出て旅人を引き入れ、色も売った。出女、おじゃれともいう。
「馬次・宿々に今も見ゆるは、かすかなる出女の、人をとゞむるにてぞありける。はしたなき女なれど、旅の労れには、うちすさむかたも有りなん」(『色道大鏡』十四)
「壱両弐分余りしを、余の事に遣ふももつたいなしとて、人留め女にくれて立ちけると也」(『諸艶大鏡』七の二)
「境南の端の旅籠屋に人留る一夜女の立ち出で」(『男色大鏡』七の五)
「はや夕暮になつて、人とむる女の袖にたよれば、一夜はこゝに定めしに」(『西鶴置土産』二の一)
【飯盛女】(めしもりおんな) 宿場女郎の事。
およそ駅家の遊女を古は傀儡と云ひ、くぐつと訓じ、近世は惣じて飯盛、めしもりと云ふなり。官にては、これを旅籠屋の飯売女と云ふ。(『守貞謾稿』)
飯盛(めしもり) 昔時、宿場に於ける旅店の下女にして遊女兼帯のもの。おぢゃれ。(『廣辭林 新訂版』)
上述の四駅以外に女郎がいなかった訳では無く、他の宿場でも自然発生的に売女が発生し、幕府は万治二年(1659)に道中奉行から、東海道の宿場に売女厳禁の通達を出したが、娼婦を置くのは宿場の繁栄上欠かせぬという要望から、享保三年(1718)十月、従来の方針を転換して、東海道の宿駅の各旅籠に、一軒二人づつの飯盛女を置くことを許可した。飯盛女とは、字のごとく飯を盛る、つまり給仕をする女性で、幕府の文書では「食売女」という。だが実態は売春婦で、娼婦とは許可できないから表向き飯盛女という事にした。そのため、許可されても衣服は遊女のように華美にならぬよう木綿に限定し、許可以上に人数が増えないようにしばしば厳達していた。しかし、旅客の中にはうるさい飯盛女を嫌がる客もあって、そうした客向きの宿も多くあった。それらの宿が放棄した権利を譲り受け、中には四人も五人も飯盛女を抱える娼家のような宿も生まれている。(林美一『時代風俗考証事典』)
【白湯文字】(しろゆもじ)
主に京坂で使われた呼び名で、素人の売色する者を称して白湯文字と呼んだ。
白湯文字 しろゆもじは、坊間の密妓を云ふ。江戸の地獄と同部物なり。陽に正民と見せ、夫ある婦または夫に後れたる孀女、またはいまだ嫁さざるの女など貧民の所業なり。事家にても客を迎ふか。多くは中宿に出るなるべきか。
白湯文字と名くることは、売女は必ず緋ちりめん二布を用ふ。正民とても緋を用ふれども、婦は持専ら白を用ふ故に、売女の緋に対して白ゆもじと名くるなり。(『守貞謾稿』)
遊女の赤湯文字を著くるに対していふ。ぢごく。淫売婦。(京阪の方言)(『廣辭林 新訂版』)
【孀嫁】(そうか)
京坂の私娼の呼び名。
孀嫁 京坂にて土妓をそうかと云ふなり。古の立君・夜発など云ふ類なり。京師は鴨川橋辺の川原に小屋を造り、筵を敷きて戸口に立ちて客を待つ。(略)大坂は更に小屋を制せず、諸川岸土蔵の間あるひは材木の間に佇みて客を待ち、ぎう(牛)もあれども、いづれにあるか見へず。争論等ある時は、かのぎう何処よりか出で来たるなり。房事を行ふ所は川岸蔵の下を更(便)とするなり。川岸を京坂には浜と云ふなり。大坂の浜蔵床下、石柱を立てこれを行ふに足り、敷物は草筵を用ひ、また外見を覆ふには草筵に竹を挟みて二枚折屏風としたるむしろ屏風を用ひ、または雨傘をも用ふ。(『守貞謾稿』)
いんばい婦。関西の方言。(『廣辭林 新訂版』)
○惣嫁 夜間、街路で客を取る下級の私娼。「曹伽(そうか)とは俗言なり。庭訓(往来)に遊女夜発の輩と書ける、此の事也。或説に惣嫁也といへり。是は、こゝの辻・かしこの浜辺にても、小歌など歌ひ散らす者なりといふ心にや。これ自然に歌ふもあれど、先づはおほやう忍ぶもの也。さればかくとも定め難し。曹伽の正説は、夜発といふもの、暮るゝより出でて、こゝの辻に立ち、かしこの小路に立つを、心ざす者、暗ければ、さしのぞきて、夜発なるか、夜発ならざるかと、うかゞひ見るに、そうか、そでないかと、言ふ言葉より、此の名とす。夕暮をたそかれと云ふにて心得べし。此の外の説は用ひず。又此のそうかと云ふに、頃年は異名を付けて、惣右衛門と云へり。此の号令の世に広く広まりて、至らぬ所も無かりき。けうがる事に人々は思ふらめど、理りとぞ覚ゆる。すべて忍ぶ事を知りたるどちは、名目を代へて云ふ例也。(略)昔は此の夜発のたぐひを、立君とも、辻君とも云ひしなり。名さへやすらかにて風流なりしに、世々衰へぬれば、そうかの、惣右衛門の、など云ふ事にはなれり」(『色道大鏡』十四)とあり、また、大坂の浜(河岸)で客を取る私娼、惣嫁を「浜女」ともいい、京の賀茂川原で客を引く私娼、惣嫁を「川原女」といった。(『好色一代男全注釈』)
「惣嫁は二条より七条までの河原へいづる。河原にむしろかこひて夜合す。河原の水なき所に石を高くし、そのうへにむしろかこひ〈三尺に一間〉をするなり、昼はとりくずして、又夜は小屋をかける、惣嫁は川ばたにたたずみ居て往来の人をひく。」(曲亭馬琴『旬殿實々記』)(林美一『時代風俗考証事典』より)
【干瓢】(かんぴょう) 惣嫁の異名。「越前敦賀にて、かんぴやうと云ふ。夕がほをさらすといふ心なり」(『物類称呼』一)「越後の出雲崎にて、淫を売る者に干瓢といふ有り。(略)又越前敦賀にて妓をいふ。夕に顔をさらすと云ふ意なりと云へり」(『俚言集覧』)
【立君】(たちぎみ)
古の街娼の事。
今の孀嫁の類か。(『守貞謾稿』)
つじぎみ(辻君)。(『廣辭林 新訂版』)
孀嫁(そうか)とは未亡人をいい、戦などで夫を亡くした女性が生活のために身を売るなどしたのに因んだ命名か。
【辻子君】(づしぎみ)
私娼の古名。主に京で裏店を小さく区切っただけの部屋で客を迎えていた。『守貞謾稿』には、「立君、辻子君ともに賎妓なり」とある。
辻子、あるいは厨子とも云ふ。ともにづしと訓ず。今も京師に辻子と云ふ坊名多し。(『守貞謾稿』)
辻君(つじぎみ) 夜間路傍に立ちゐて、人目を避け客をいざなひ色をひさぐ婦人。ぢごく。よたか。(『廣辭林 新訂版』)
『中世職能民職種一覧』参照。
【船まんじゅう】(ふなまんじゅう)
隅田川上の船中で売春した下級の私娼。船夜発ともいう。
船まんぢう、同じ頃(寛政以前)、夜鷹の遣ひからしにて、歩行のならぬを船にのせ、竜閑橋の下などへ漕来り、船人のよび声左の如し、ぼちや/\のおまんでござい、などゝ女の名をいふ、あそべば廿四銅、(『飛鳥川』)
浜町河岸・箱崎近辺までの河岸へ、船まんぢうとて船にて売女する者あり。至て下賤の娼婦也。余程昔の事なりとや、下町辺の町屋の若者、大晦日に主人の申付にまかせ、売掛取集めて右河岸辺を通りしに、船饅頭の舟へ酔狂のまゝ立寄、聊雲雨の交して立分れけるに、折角取集し売懸けを入し財布を、いづ地へ忘れけん懐中になければ、始て大に驚き、爰かしこと其日走り廻りし所々を尋けれど行方知れねば、「川へ身を投て死なんや、また首を〆て死なん」と、河岸の辺に立てあれ是の船まんぢう舟を尋けるに、晦日に乗りし舟、彼女子も見へける故、心悦びてさらぬ体にて彼船にうつりければ、彼女声をひそめ、「御身は去りし晦日に来給へる人ならんや。忘れ給ふ品有べし」と尋。「如何にも斯/\の品を忘れたり」とて、我身の命を今日翌日を限りのよし歎き語りければ、「左あらんと思ひて其後夜/\此所へ出て待し」とて、右財布を渡しけるにぞ、嬉しさいわんかたなく、金子を出し遣しければ、聊金子を受取て跡は返し、「何の礼にか及ばん」と也。是によりて女子の名、親方の町所など聞て立帰りけるに、親方にては両三日も不立帰事なれば、「掛けを取集め欠落いたしける」迚、請人など呼て吟味いたしける折から帰りける故大に驚き、「如何して日数たち帰らずや。数年実体に勤めし故によもやとは思へども、全く欠落したるとおもひしに、色も悪しきが如何せし」と、請人倶々尋ければ、「今更何をか包まん。斯/\の訳にて既に死を決し侍れども、不思議の事にて命全ふして立帰りぬ」とて、財布・帳面を渡しけるに、聊帳面勘定も違はざれば、親方も請人も大に驚き、「いやしき勤の身にかゝる正直の心ありけるぞ不思議なれ。汝も最早家持に致し可然事なれば」とて、即相応に別家して、右船夜発を請出し妻に為致けるに、夫婦まめやかに暮して今は相応の町人と成りしが、彼妻後に語りけるは、「右金子我等正直斗にて返し候にてはなし。船まんぢうの親方などは如何にも貪欲無道の者にて、船まんぢうなど金子の少々も持しと見れば、其儘打殺しなどいたすべけれと思ひ、彼是を考へぬれば御身は此金子故に命にも及れん。さあれば人も我も右金子故にかへつて一命を果しけんと思ひし故、夜/\相待て親方へも深く隠しける」と語りし。才発なる女子也と、浜町辺万年何某のかたりぬ。(『耳袋』巻之二)
【夜鷹】(よたか)
江戸の町に出没した私娼。京坂では立君あるいは夜発(やほつ)というのと同類か。
夜鷹 よたかは土妓なり。古の夜発(やはち)と云ふ者これか。(中略)江戸夜鷹は本所吉田町より多く出るなり。両国橋東、永代橋西、御厩川岸西岸等、諸所に出るなり。各所に昼は取り除き制したる夜のみ用ふ小屋を組みて数戸を開き、毎戸草筵を垂れ、戸口に立ちて客を呼ぶ。また夜鷹数人の中にぎうと云ふ男一、二人副ひて喧嘩等の防ぎとし、かつ客を勧むなり。
大略、年は十五、六より四十以上もあるなり。綿服・綿帯にて顔のみ白粉をつけ、頸は白粉を粧はず。京阪も同じきなり。黄昏より三更ばかりを限りとす。
また昔は夜鷹の服、黒あるひは花色等の裾模様を染めたる木綿振袖等ありと云ふは七、八十年前のことなるべし。今は右のごとき服を着す者を見ず。
ある書に、流布の女は黒紬に光綸の半ゑり・白ぬめの帯、そのほかは黒茶の木綿に白桟留の帯で、道中は本所から出るは白き木綿のほうかむりを口にくわへ、鮫ケ橋のは手巾をかむらず。古は蓙を抱へたと見へて、唄にもそのことを唄へども、今は葭簀の閨の内、云々。(『守貞謾稿』)
街賣女色とは普門品にある言葉、惣嫁(孀嫁)の類であらう。その頃の江戸の夜鷹の群、鮫ケ橋、本所、浅草堂前といふ、この三ケ所に散在して盛んに色を賣つた。その數凡そ四千を越えたといふ。其の夥しい夜鷹の群の中に、美人と名をとったおしゅんといふ女がゐた。毎夜、柳原の土手はづれ筋違橋といふ橋の際にある髪結床の裏に現れた。非常な繁昌振りだったといふ。
この夜鷹おしゅんに就て面白い話がある。といふのは、ある年の暮大晦日の夜のこと、その一晩にとった客の數三百六十餘人だったといふ。三百六十日は一年の數又大晦日の夜は一年の終りの日である。それからこの女を「一とせおしゅん」と異名する様になったといふ。(『江戸時代の猥談』)
この「一とせおしゅん」の話は『燕石十種』「当世武野俗談」にもある。上記の文はこれを種本としていると思われる。
夜発一と勢
夜発を夜鷹とて江戸にて称する有、衒売女色と法花経の普門品に説れたるは、惣嫁の類なるべし、凡、鮫ケ橋、本所、浅草堂前、此三ケ所より出て色を売、此徒凡人別四千に及ぶと云、其道の物語りなり、其中に、本所より出る夜発の中に、一際勝れて器量よろしく、おしゅんと云女有、毎夜、柳原土手のはづれ、筋違橋の際、髪結床の裏へ出て、能人此女を知る処なり、さればおかしき咄有、去年の暮大晦日の夜、其客の数てうど三百六十余人有りしとなり、されば三百六十日は一年の日数なり、又大としの夜は一とせのおはりなり、はやるとて其親方一とせのおしゅんと名乗らせけり、今専らはやる女なり、(『近世武野俗談』)
夜発狂名の事
いまだ験文の頃は、賤きものにも風流なる事有しやと、秋山翁語りしは、柳原へ出候夜発、大晦日の夜三百三十人の客を取りし女ありて、其抱主承りて、「今夜に限り、ひと年の日数なさけを商ひし事珍らし」とて、「ひと年おかんと名乗候へかし」といひし由。其頃毎夜夥しく見物人有しよし。秋山も小児の頃故、おはれて見に行しが、美悪は不覚と、語りぬ。(『耳袋』巻之六)
嘉永六年(1853)癸丑
○(無補)同(三月)十五日、本所にて夜鷹四十余人召捕られ入牢、是の時市中の女髪結も召捕へられしといふ。(『武江年表』2)
本所夜鷹の起りの事
元禄年中寅ノ年九月六日、数寄屋橋より出火し、大風雨にて千住迄焼る、跡へ小屋懸し折節、本所より夜々女あるきて小屋にとまる、世の能き時節にて、若者共徒然の慰に、銭を惜まずあそび買ける、後家立続きて、柳原の土手の辻番/\へ出る、我幼少の頃、皆々評判し、夕べも袖を引留るよし、誰かれと咄し、珍ら敷事と見物に行ぬ、後は段々町の後先の番を頼みて、客をしける女も多く成て、喧嘩等出て、番や、其処の家持中より相止ける、今はみち/\なりて、下賤になりし、(『江戸真砂六十帖広本』)
夜たか 夜発といひて、庭訓往来にも載せ、また辻君と云ては、俳諧発句に季をもたせて吟ずること多し、されども、今其風俗極めて鄙し、浪銭六孔を以て、雲雨巫山の情けを売る、本所吉田町、また鮫が橋より出て、領国、柳原、呉服橋外、其外所々に出るうちにも、護持院が原とりわけ多し、
絡首に、
ごぢいんをふたつにわれば二十四いん ひるはおたかばよるは夜たかば(『わすれのこり』)
○東辻君花の名寄 抑辻傾城と申は、むかしよりやんごとなき御方の、忍びて出給ひしよし、故に京都にては辻君と称し、大坂にては惣嫁と唱ふ、江戸は夜鷹といふ、これ辻売女なり、今は下賤のものゝ戯れ遊ぶ売女にして、古来より、護持院ケ原、石町河岸床見世うしろ、数寄屋河岸、浅草御門内物干場明地、柳原床見世うしろ、下谷広小路、木挽町采女ケ原抔は、如何之小家を拵へ置、夜分渡世致し候処、近年、夜鷹女を抱置候者は、本所吉田町、鮫ケ橋、下谷山伏町にも有レ之、右之女共へ同居致居候男を差添、夫々へ出すなり、これをぎうといふ也、壱度にて花代廿四文也、然処、天保十三寅年中、市中端々料理茶屋名目にて、隠し売女渡世の者共、残らず吉原一廓に被�仰付�、外々は渡世替致し候、同十五辰年八九月頃より、誰存付候哉、東両国広小路床見世後へ両三人、木挽町采女ケ原へ同断差出、夫より追々場所相増し候、暫遠のき、夜鷹めづらしく候故、これが為めに、夜鷹蕎麦、茶めし、あんかけ豆腐、鮓、おでん、濁かん酒に至るまで、大繁昌致し候故に、右夜鷹場所附細見を目論見、東辻君花の名寄と題号致し、半紙二枚摺之細見番附を出板致し、本所辺、日本橋辺所々へ夜々出て、はしばしに於て、古今珍らしき鳥の出候次第をごろうじろと、巨細に、女の年、善悪、○上品、△中品、●下品と品定め致し、売歩行候、珍敷故大評判にて売れ候得共、巳三月下旬三日程にてさし止められ、絶板に相成候、(『天言筆記』)
【その他の女郎】
ちりづかお松
芝三田町長左衛門路次に、はきだめおまつと云名題の安女郎有、軽き人々のぼんのうの芥をすて置といふ心にて、はきだめの異名を附たり、掃溜の際にちいさき部屋有といふ事にてはなし、されば、三田の阿波徳島の家中に、三浦栄次郎と云食禄二百石計領して歴々たり、此松に馴染、大金を出して袖留などをさせし節は、新吉原の新造出せし同前にて、全く蒸籠の山を築て全盛いふ計なし、此三浦は甚風雅の人にて、はいかいの上手なり、掃溜のおまつといへば、兼好法師のつれ/\〃草に、おそろしき猪も臥猪の床といへば、やさしき事もあり、ちりづかのお松と唱へんといはれしとなり、其故は、見苦からぬものは、ちり塚のちり、文車のふみとあればなり、たとひいやしき女郎なりとも、なんぞ恋路に隔てあらんや、只今のみやさしくば、夜発夜鷹とても松の位に増るべし、されば、掃溜女郎の中にては太夫職なりと云心にて、松の位の松をとりて名としけるなり、然ば、場末にても、夫々の心有る事を知るべし、是等の細かなる穴を通しみんとて、馬文耕が心を尽せし処を見る人おかしく思召らん、されば、三田などにて、はやり唄、地廻りの諷を聞けば、五十ぞう/\と下さげて呼びやるな、ほんぼ五十ぞうでも、心言葉は諸国諸大名のお姫さんよりたうとふござる、と諷ふを以て知るべし、心のみさほは、貞節美婦胎の五文字を能たもつならば、秘君と称すべし、いざまぎのきの字、いざなみのみの字を合て、君といふとかや、皆君傾城も偽りに誠有、あながち金銀の高下を論ぜんや、
踊子ゑもん、おてる、お縁
元文の頃は、江戸中おどり子と云女有て、立花町、難波町、村松町を第一として、所々に有、留守居寄合の茶屋抔へ遣し、芸者のやうにして、其母と称して附添出入しけり、其内に元文のはじめ、三五七組のゑもん、千蔵組のおゑんとて、至極名題の器量者有、かれは髪かしらを第一として、結構なる櫛こうがいを用ひ、多くは銀のかんざし抔にて粧ひけり、扨、三人の踊子、景気の節は菅笠かぶりては髪を損さすとて、三人対に日傘を青紙にて張らせ用ひたり、尤立派にして、其柄を黒ぬりにして、風流成紋を附たり、是は、唐土の大王、傘蓋として青き薄ものにて傘を張らせ、さしかけさすると云、通俗漢書のもの語を聞はつり、是始てさしけるなり、是世上一統に男子まで青紙のかさをさすこそおかしけれ、今に医師などは是を止ず、一とせ、馬場讃岐守欽命を蒙りて、青紙日傘を公儀より御法度に被�仰出�けり、是を忘却しけるやらん、今又是をさす人多くあり、女は苦しからざる歟、(『当世武野俗談』)
その他の私娼の名が『艶道通鑑』にあるので、参照して下さい。
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