仇討・一揆・騒動の部

綜合

仇討ち(あだうち)

君父などを殺した者を討ち取って報復すること。かたきうち。(『広辞苑』第二版)

赤穂義士の討ち入り

「忠臣蔵」として巷間に膾炙した事件。

鍵屋辻の決闘(かぎやのつぎのけとう)

荒木又右衛門が助っ人を行なった仇討ち事件として有名

一揆(いっき)

「揆を一にする」という言葉で、心を合わせることという意味。「揆」とは「法」「道」という意味があり、また「はかりごと」と云う意味を持つ。人々(百姓など)が集って起した暴動を「一揆」と呼び、その示威行動だけを指していわれるが、そうしたイメージが定着するのは江戸時代以降の百姓一揆からで、本来「一揆」とは山城国一揆や加賀一向一揆のように、中央あるいは寺社などから派遣された支配者を追出し、地域で自治共同体を持つことをいい、日本中世史家の脇田晴子氏は「コミューン」のようなものと云っている。これはそれまでの身分制社会から、貨幣商品経済社会への移行で、着実に力を蓄えてきた階級の出現により既存の支配構造が揺らいだ結果だった。

土一揆(どいっき) 

土民の一揆という意。「つちいっき」とも読む。「土一揆」の基盤となったのは、村落の「宮座」や「惣中」などの自治組織や共同体で、貨幣商品経済が発展する室町期から、富の偏在が顕著となり、富を蓄えた者ら(守護、地頭、寺社など)は、その富を領民に貸し付け、その利息からさらに利益を得るようになる。やがて土倉と呼ばれる高利貸しとなり、持つものと持たざる者との差が拡がった。一旦飢饉などがその地域を襲うと、農民らは乞食や非人になるか、飢死するようになる。その対抗手段として、土地の農民や地侍、商工業者が高利で富を得ている土倉や寺社に対して債権放棄(徳政)を求めて立ち上がり、その地の土豪勢力と協力して、領内から中央や寺社の出先機関にいる者や直接的な支配者である守護を追出したり、土倉や寺社に押しかけて焼打ちや掠奪などの実力行使を行った。こうした土民を中心とした蜂起があちこちで起り、自らの所属する共同体が既存の支配者に代って自治的に支配する動きが「一揆」といわれるもので、「土一揆」という語が現われるのは、文和三年(1354)と云われる。「正長の土一揆(1428年)」「嘉吉の土一揆(1441年)」などが有名。また、土一揆は、主に徳政を求めたことから「徳政一揆」とも呼ばれる。

一向一揆(いっこういっき) 

土一揆で培われた自治意識は、畿内を中心に周辺諸国へ広まるとともに、さまざまな集団、階級を巻き込んで行く。中でもより強く自治を求めたのが、一向宗の門徒たちだった。一向宗は一遍死後、その大衆性ゆえに堕落した時宗の流れを汲み、一向俊聖の努力によりその支持を拡げ、一向宗と呼ばれるまでになった宗派だった。一方、法然が興した浄土宗は、日蓮の法華宗、一遍の時宗と共に、これまで権門、支配層のものだった仏教を、広く民衆に向けて分かりやすく説いた宗派だったが、法然の死後はあまり振わなかった。こうした中、親鸞が現われ法然の教えをさらに分かりやすく説く浄土真宗が生まれる。やがて、その教義を継いだ蓮如が布教に努め、多くの民衆から支持されるようになった。こうした流れの中で、一向宗は浄土真宗に吸収されていく。このことから、浄土真宗の一揆を「一向一揆」と呼ぶようになるが、一向門徒を吸収した真宗は、初め一揆には消極的だったという。「一向一揆」は先の「土一揆」のように徳政を求める要求型からさらに一歩進んで強い自治意識の下、支配者からの独立や自由を目指して先鋭化した。「三河一向一揆」「近江一向一揆」など。

法華一揆(ほっけいっき) 

地方で一揆が頻発すると、中央政府である室町幕府の中で支配層同士の権力争いもまた顕在化し、応仁の乱が勃発。京の町は戦火で焼かれ、多くの寺院も壊滅的な打撃を蒙ったという。そんな中、町衆の協力を得た法華宗の寺院がいち早く復興をとげ、京の町は二十一カ寺本山の威容を誇る法華宗の町となった。一方、畿内では各地で一向一揆が興り、証如の山科本願寺がその指導的役割を担っていた。そうした一揆勢力と、中央の政争は無関係でなく、管領の細川晴元は本願寺の証如と結び、一向一揆勢は法華宗の保護者であった三好元長と戦い、元長を堺で自刃に追い込んだ。三好勢を京から追出した晴元は、今度は一向一揆と対立。天文元年、一向一揆勢は奈良の諸社寺を焼き、その勢いで京に雪崩れ込もうとした。すると法華宗の門徒は、それを阻止しようと法華一揆を組織し、一向一揆と対決。山科本願寺から東山清水寺などに集結した数千人の一向一揆勢に、法華一揆側は一万人余の勢力で臨み、それを打ち破った(天文法華の乱)。以後四年にわたって法華一揆は京の町を支配するが、天台宗と法華宗の対立が起り、天文五年(1536)、延暦寺の檄に応じた奈良興福寺・紀伊粉河寺らの僧徒数万人が京都を囲み、戦闘に及んだ。このとき町衆も武器を取り、一時は優勢に展開したが、近江の一向一揆勢が天台僧徒らに加勢すると京の町口はつぎつぎと破られ、法華宗の二十一カ寺は悉く焼失、法華宗の勢力は壊滅した。

惣国一揆(そうこくいっき) 

一揆のほとんどは、村落共同体や座などの特定地域・集団で起っていたが、中にはそれが階層を超え国中に及んだ例もあった。それらを「惣国一揆」と呼ぶ。「山城国一揆」「加賀一向一揆」など。

【伊賀惣国一揆】(いがそうこくいっき) 

永録八年(1565)、将軍義輝が松永久秀、三好三人衆らによって弑されると、無政府状態となり近畿一円も戦国の嵐に巻き込まれた。こうした状況に危機感を抱いた伊賀国人らは、翌九年、国中の十七歳から五十歳までの被官、足軽、百姓すべてを動員し、他国から侵入してくる敵に対抗するため一揆を組織した。この一揆勢に本格的な攻撃を仕掛けたのは織田信長だった。まず天正六年(1578)と七年に伊賀を攻める(第一次天正伊賀の乱)が、信長軍は伊賀衆の反撃に合い撤退している。しかし、天正九年(1581)年(第二次天正伊賀の乱)には、さしもの伊賀国人達も瀧川一益、筒井順慶らの軍勢に平定された。加賀が百姓の持ちたる国ならば、さしずめ伊賀は忍者が持ちたる国といえるのかもしれない。ここの『伊賀惣国一揆掟書』は、一揆の掟書としてただ一つ現存するものといわれる。

【加賀一向一揆】(かがいっこういっき) 

長享二年(1488)、加賀に起った一向一揆は、守護の富樫氏を追出し自治政権を打ち立てた。これは「百姓の持ちたる国」といわれ、天正八年(1580)、織田信長の軍に滅ぼされるまで約100年間続いた。ここでいう百姓とは、網野善彦氏のいうように農民という意味の百姓ではなく、今でいう人民、常民のことで、町人、職人、農民、地侍らを含んだ言葉。

【山城国一揆】(やましろのくにいっき) 

南山城国一揆ともいう。応仁の乱後も畠山政景、義就両家の争いは続けられ、戦場と化していた南山城で、文明十七年(1485)、国人・地侍衆と一揆勢が協力して守護の両畠山軍を追出し、十六歳から六十歳の地侍や百姓らが総べて集り自治を布いた。行政は惣国月行事が行うことや、軍事・警察・財政のことも自治的にきめられた。こうして山城国一揆はおよそ八年間自治を行うが、内部分裂から崩壊した。

百姓一揆(ひゃくしょういっき) 

主に江戸時代に起った一揆。室町末期から戦国期は中央の支配が揺らぎ、それに対応するように、各地の一揆は中間的な支配者への抵抗から終には彼らを追放し、自治を行ったが、江戸時代になると幕藩体制が整い、確固な封建支配が確立された。そのため、領主の圧政に苦しんだ農民らが一揆をおこすが、暴動の段階で鎮圧され、領主の支配から脱却する迄には至らなかった。それでも一揆が繰り返されたのは、それにより領主も幕府によって処罰されたからで、このころは集団で暴動を起す事が目的となった。

【郡内騒動】(ぐんないそうどう) 

天保七年(1836)七月、甲州都留郡は田少きに、当年の気候にて皆無也。八代山梨巨摩の三郡にて米買〆、都留郡へ附送らざるより事起りて、八月甲州都留郡百姓共徒党一揆、同郡下和田村百姓武七事森右衛門頭取、所々を打毀す。人数四千人と云ふ。(『武江年表』)

【南部一揆】(なんぶいっき) 

奥州の南部地方(現岩手県)で起きた百姓一揆。

【三河加茂一揆】(みかわかもいっき) 

三河国加茂郡で起きた百姓一揆。

上記の三つの一揆は、天保年間にあいつで起った百姓一揆として名高い。

騒動(そうどう)

1、多人数のさわぎたつこと。騒ぎ乱れること。2、事変のあること。2、もめごと。あらそい。(『広辞苑』第二版)

お家騒動

武家などで家督を争ってもめること。「仙石騒動」など。

今川家の内紛

駿河守護だった今川義忠は、将軍義政や細川勝元らの要請によって尾張の斯波義廉党を討つため遠江で闘っている最中、塩見坂で流れ矢を受けて戦死した。側室の北川殿との間にもうけた遺児竜王丸はそのとき四歳の幼童だった。
義忠の従弟である小鹿新五郎範満は、幼い竜王丸が家督を継ぐ事を快く思わず、この範満に一門の瀬名を中心に関口、新野、名児耶の諸将がつき、遺児竜王丸を擁する三浦、朝比奈、庵原、由比らの諸将と対立した。
内紛が関東に知れると、堀越公方の足利政知は上杉政憲を大将とする三百騎を、扇谷上杉定正は、太田道潅を代官とした三百騎をそれぞれ駿河に送った。両軍は駿府の東方狐ケ崎八幡山に陣取り、両派に使者を差し向け、闘うのかどうかを問うた。ところが、両派ともこれといった策も無く、それぞれの陣から兵を動かそうとしないまま膠着状態を続けた。このとき、両派の調停者として登場してきたのが伊勢新九郎と名のっていた早雲だった。
北川殿の兄である早雲は、たくみな弁舌で両派の顔がたつように奔走し、調停にあたった。それは竜王丸が元服するまでの間、小鹿範満に家督を代行してもらうという折衷案だった。新九郎の斡旋に応じた一門や重臣たちは、駿河総社浅間神社の社前で神水をくみかわし和睦を誓い合い、竜王丸を相続者に決定した。

絵島事件

絵島生島事件(えじまいくしまじけん)

江島とも書く。絵島は、大奥で将軍徳川家綱の生母に仕えた老女(年老いたという意味ではない)で、山村座の芝居に傾倒し、そこの俳優生島新五郎と親しい仲となり、その事が露見し、正徳四年(1714)三月、絵島は信州高遠へ永流罪となり、生島新五郎は八丈島へ流罪となった事件。山村座もこの時に廃絶した。

三月、木挽町六町目、山村長太夫芝居断絶(この時俳優生島新五郎、八丈島に謫せらる。かの島にて、「釣鰹からし酢もなき涙かな」。「江戸真砂六十帖」に云ふ)(『武江年表』)

越前騒動

越前騒動(えちぜんそうどう)

慶長十六年(1611)、結城秀康の嗣子松平忠直治下の福井藩で、重臣間の確執から生じた騒動。久世騒動ともいう。

ことの発端は、福井藩内で起った農民殺害事件だった。犯人と目されたのは岡部自休領(千七百石)に住していた百姓で、彼は久世但馬領(一万石)分の百姓の娘を妻にしていた。彼は出稼ぎのため佐渡に行くが、三年間音沙汰が無く、百姓の妻の実家では離縁扱いとして同じ領内の他の百姓に再嫁させた。悲劇はそれから間もなく起こる。妻が再婚したことを知らずに前夫が佐渡から突然帰ってきた。男は妻が再婚したことを知ると激怒する。そんな中、再婚相手となった久世領の男が何者かに殺されるという事件が起こったのだ。疑いは当然のように前夫に向けられ、自領の百姓が殺されたことで立腹した久世但馬は、家臣に命じて前夫を密かに殺させた。百姓殺害を命じられた家臣の下人は、日頃、久世但馬を心良く思っていなかったことから、内情を重臣の一人牧野主殿に密告した。牧野は事の顛末を家老の竹嶋周防守に報告したが、竹嶋は事件の拡大を憂慮し、真相を知るかの下人を出奔させて事態の沈静化を図った。これに対し久世は、主家の内情を暴露したことは許し難いと、下人を探し出し殺害する。一方、自領の百姓を殺された岡部も独自の調査を行っていて、下人殺害の情報を得て死体を掘り出し、家老の今村掃部助に告訴した。
ここで一件落着していれば、二人の農民と一人の下人が死んだとはいえ、藩を揺るがす大騒動とはならず、どうという事もなく終わるような事件だが、当時の福井藩は藩祖結城秀康が慶長十二年(1607)に三十四歳という若さで頓死し、まだ十二歳だった嫡男忠直が六十五万石の大藩を継いでいたため、実権は秀康の重臣らが握り、秀康が豊臣秀吉の養子になった時からの付け人で「鬼作佐」本多作左衛門重次の甥である本多伊豆守富正と、慶長年中、秀康が福井に転封したときに付け人となった今村掃部助盛次がその序列を巡って競い、藩内は二派に別れて一触即発の状態だった。今村は本多伊豆守より新参だったが、幕府の納戸役今村九郎兵衛の子で、秀康没後、藩内の主導権を握ろうと家老の一人清水丹後守と組んで、忠直の生母清涼院の権威を利用するため清涼院の実兄中川出雲守をも味方に引き入れ、忠直に取り入って宿老本多伊豆守を凌ぐ権力を手中に納めていた。当事者の岡部は自分の有利に事が運ぶことをもくろんで今村に取り入り、非は久世側にあると主張。今村もかねて久世が本多と親しいことを利用し、背後で本多が糸を引いていると伯父中川出雲守を通じて藩主忠直に讒言した。忠直は久世を切腹処分にし、それを伝える役を本多伊豆守に命じた。
久世但馬は元佐々成政の隊士長だった男で、勇猛な武将としてその名が知られ、秀康は久世を召し抱えた時に「万卒は得易く、一将は得難し」と、越前一国を得たときよりも喜んだという剛の者だ。今村はその久世に本多を差し向ける事で、怒った久世に本多が斬られる事を企んだのだった。使者を命れられた本多も、そんな事は百も承知だったろう。しかし、主命とあれば断る事もできず、本多は久世の屋敷に出向いて主命を告げた。だが久世は戦国生き残りの武将だった。おのれの武辺で一万石を得てきた男として、何の申し開きもない一方的な採決に、唯々諾々と従う人間ではない。裁判も無く自分だけが処分されるのは片手落ちだと命令をきっぱりと拒絶した。久世の家臣たちも憤った。本多伊豆守が退出する時、家臣達は伊豆守を斬ろうと取り囲む。まさに今村が意図した通りの事態に発展したが、この時久世は「豆州無2遺恨1、我か無跡も申開可レ賜ハ伊豆守也」といって家臣達を諭し、事も無く伊豆守は城に戻った。戻った伊豆守が久世の所存を伝えると、今村派に籠絡されている忠直は、重ねて伊豆守に久世討伐の命令を下した。藩兵に囲まれた久世邸は防戦につとめ戦うが、多勢に無勢、やがて屋敷に火を放ち全員自刃して果て、ようやく兵火は収まった。この間、久世邸を囲んでいた本多隊の後詰めに今村派の多賀谷左近の軍勢がいた。そこから本多伊豆守に向けて鉄砲が撃ち込まれるという事件も起こっている。また、今村掃部助は忠直とともに天守閣から事態を眺めていたともいわれている。
こうして、事件は落着したかに思われたが、城下での争乱は重大事であったため、事件はさっそく幕府に通報された。折しもこの年には将軍秀忠の姫君勝姫が忠直に輿入れいたばかりの時で、将軍家の慶事の年に起こった不祥事で、大御所家康と将軍秀忠の不興を買う事は必須、まさに福井藩にとって藩の存亡に関わる一大危機となった。事態を重く見た家康は、翌慶長十七年、本多伊豆守と今村掃部助を江戸に召還し、本多佐渡守正信を中心とした幕閣による審理が行われ、今村派による清涼院を通じた裏工作などによって、今村掃部助の有利な状況で推移した。十一月二十七日に至り江戸城西の丸において、大御所家康および将軍秀忠の前で、二人の対決が行われる。結審にあたり正信は、伊豆守に最後の弁明の機会を与えた。この時を待っていた伊豆守は懐から一通の書き付けを取り出し、家康・秀忠の上覧に供した。その書き付けは三ケ条からなる上申書で、今村らによる不正が書き連ねてあった。大要は以下の通りとされる。
一、私の在所府中は北陸道の宿駅であり、その維持に経費がかさむため三千石の賄領が支給されているが、今村の在所丸岡は街道から離れその必要もないのに若い主君を欺き、三千石の賄領を得ている。
一、久世討伐に際し、今村は若輩の多賀谷を後備に配して、私の軍勢に発砲させた。しかも今村自身は藩主に付き添い天守閣から観戦していた。
一、私は公儀より一老の立場におかれている。それにもかかわらず藩内では今村が一老として振舞い、私を二老の地位におとしめた。

家康はこの訴状をみて激怒し、今村掃部助に弁明を求めた。今村はすべては主命によるものと、責任を藩主に転嫁したため、家康・秀忠の不興を買ったことは言うまでも無く、今村は有罪に決した。ことに家康は、本多伊豆守を久世邸に遣わしたことに触れ、「古於鎌倉梶原か土佐を京都堀川へ指し遣はしたる謀略同事」と今村の手口を責めた。一方、本多は、若年の藩主に責任は無く、すべて補佐する家老どもが我意を通したことにあると忠直をかばったことで信頼を得たという。
この騒動で幕府が下した裁定は、本多伊豆守は今後も「国中仕置可猿付」と申し渡され、従来にも増して重く用いられる結果となった。事件のもみ消しを図ったとして今村に糾弾されていた竹嶋周防も一切お構いなしだったが、今村派に監禁された事を恥じて切腹した。一方、今村派に対しては厳しい処分が言い渡される。今村掃部助は改易され鳥居左京忠政に預けられ、奥州磐城に配流。今村に同心した清水丹後守は伊達陸奥守政宗に預けられ奥州仙台に配流となった。また藩主忠直の伯父中川出雲守も遠流となっている。
幕府は改易された今村に代わって丸岡城主に「鬼作佐」重次の嫡男で旗本の本多飛騨守成重を送り込み、親藩の統制を強めた。先の本多伊豆守が「鬼作佐」の甥にあたることから、「鬼作佐」の一族が福井藩の重臣の地位を占めることとなった。
こうして越前騒動は決着を迎えたが、この事件の背景には、家臣の知行地で起こった殺人事件に端を発したことから、いまだ給人知行権が強かったことを物語り、さらには家臣間の紛争に武力を用いていることから、戦国の気風が色濃く残っていたことが窺える。しかし、親藩で起こった事件でもあったこともあり、幕府が積極的に介入し敏速なる処分を下し、幕府権力の確立を内外に知らしめる事件となった。

大塩平八郎の乱

大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん) 1837年 

未整理

慶安の変

慶安の変(けいあんのへん) 

幕府の大名取潰し政策により、巷には急増した牢人たちが溢れていた。当時、牢人の数は十万とも二十万とも云われ、その多くは仕官を求めて江戸に集っていた。仕官の望みの無い彼等の一部は破落戸となるが、それへの取り締り強化によって不満を抱いた彼等を由比正雪、丸橋忠弥らが組織し、幕府転覆を企てたのが「慶安の変」と呼ばれる事件。この時、正雪らが集めた牢人の数は千五百人といわれ、その計画は、河原十郎兵衛らが北の丸(二の丸、小石川説もある)の塩硝蔵に火をかけ、それを合図に浅草の米蔵を襲い同時に江戸中に火を放ち市中を混乱させ、その対応のため江戸城に登城する幕閣を鉄砲・弓等で狙う。これに呼応する形で金井半兵衛・吉田勘右衛門らが大坂でも火付などで市中を混乱に陥れる。この間に駿府に潜伏した正雪らが久能山を襲いこれを占拠した後、駿府城をも奪い東西に散った同志たちの司令所とするというものだった。しかし、事件は正雪の軍学塾の門弟だった奥村八左衛門や忠弥から計画を打ち明けられた弓師藤四郎らの訴えから事前に発覚し、慶安四年(1651)七月二十三日夜、江戸でのリーダー格丸橋忠弥ら妻子・徒弟三人が江戸で捕えられ、久能山東照宮に蔵された家康の金銀を強奪すべく駿府に止宿していた首謀者由井正雪ら八人は二十五日夜、捕吏に囲まれ自刃。死に遅れた僧廓然と小者一名が捕えられた。以後、彼等の残党狩りが行われ、妻子を含めた徒刑者は四十余名に及んだという。
この時、正雪らは駿府梅屋町の梅屋太郎左衛門方に宿をとった。その投宿後まもなく、江戸を早馬で立った新番頭駒井親昌が幕命を駿府城代大久保忠成に報告。直ちに一加番陸奥三春藩主秋田盛季、駿府定番井戸直弘等が正雪一党が投宿した宿に駈け付け、宿の裏手と両脇辻を固めた。そして駿府町奉行落合道次が乗り込む手筈だったが、生捕りせよとの幕命だった事から、その機会を待つうちに正雪らの知る所となり、計画の失敗を悟った正雪ら八人はその場で腹を切ったとされる。

[加番]駿府城代を助けて城外を守衛する役。任期は一年とされ、一加番(通称横内加番)は大名の役、二加番・三加番は旗本の役で、それぞれ五千石以上、四千石以上の旗本が就任した。

一方、訴えた奥村八左衛門らは事件後それぞれ三百石~四百石で御家人として召抱えられ、弓師藤四郎には白銀百枚、米百五十俵が与えられたが、それよりほぼ百七十年後に松浦静山(元肥前平戸藩主)が著した『甲子夜話』に、弓師某の話として「かの藤四郎の子孫は今も本郷某町に住んでいるが、代々の中に乱心者が絶えない。世間では『正雪らは逆賊には違いないが、彼は約を変じ訴え出て多くの人命を奪った、その祟りであろう』と語っている」と記している。また、同書には、夏の夕暮れに大発生する「蚊とんぼ」(かげろう)を図解し、「この虫、慶安のころより出たる故にや、由井正雪が亡魂などと云う、水辺必ずあり、黄昏群飛すること百千万」と記し「正雪亡魂ぞ附会のみ」と紹介している。(新人物往来社『御家騒動読本』より)

正雪らの計画は途中で頓挫したが、この事件が幕府に与えた衝撃は大きく、原因となった牢人問題に対処するため大名取潰し政策の見直しを余儀なくされ、同年十二月、嗣子無くば改易という取潰し要件で、それまで末期養子を認めていなかった幕府は、その緩和を行った。また、今回の事件で大老酒井忠勝はさらに牢人を厳しく取締り江戸から追放すべきという強硬意見を主張し、それに保科正之・松平信綱は賛成するが、老中阿部忠秋が反論、牢人を追い詰めて江戸から追放すれは彼等は今回以上の過激な行動に走り、山賊や盗賊となって天下の民に危害を及ぼしかねないと主張。これに井伊直孝が賛同し、これまでの取締り策から緩和策への転換が図られる事となった。

【関連逸話】

江戸と京都とを比較すれば、其衣服修飾に著大なる相違あれども、其は大抵原因あることにて、仮へば京都に行はるる被布の如きも、往昔は江戸にて京都と同じやうに行はれたるなり、然るに承応元年芝の増上寺にて御法会を開かれるとき、由井正雪の残徒等が女粧して頭に被布を被り、閣老智恵伊豆侯(松平信綱)を群集の中に狙廻しければ、終に偵吏の慧眼に触れて、捕縛の上それぞれ刑に処せられたり、此の事変ありしより婦人の被布を被ることは、江戸に限りて禁ぜられたるなり、寛永時代の古画を見れば、其服粧習俗の京都と大差なかりしこと分明するなり(五十嵐竹沙)(『想古録』)

崇禅寺馬場

崇禅寺馬場の敵討ち(すうぜんじばばのかたきうち)

大和郡山藩の元藩士同士が、義理の息子の仇を討つ為に行った私闘。

崇禅寺馬場とは摂津国浜村(後の西成郡:現東淀川区東中島)にあった崇禅寺門前の松原(後の中島総社馬場先)辺で、総社の浜ともいった。
この仇討ち事件を素材にした小説が『死出の雪』(講談社文庫『柳生刺客状』所収)である。

仙石騒動

仙石騒動(せんごくそうどう)

文政七年(1824)出石藩主仙石政美が参勤交代で上府途上、麻疹に罹り江戸で急死したことに発した跡目を巡る御家騒動とそれに続く権力争いによる一連の騒動で、幕府老中の権力争いとも絡んで天保六年(1835)筆頭家老仙石左京の獄門で幕を降ろすまで足掛け十二年間に及んだ。 
前藩主仙石久道の命を受けて仙石家支族で筆頭家老の仙石左京が、嗣子の決まっていなかった政美の喪を伏せて、事態収拾のため急遽江戸へ上ることになった。この時、左京は実子小太郎を伴ったことから、藩の財政運営で確執の有った同じく仙石家支族の家老仙石造酒らは、左京が小太郎を政美の養子にしたて将軍の御目見得を仰ぎ、御家乗っ取りを企むのではないかとの疑惑を抱き、追うように造酒の弟酒匂清兵衛を江戸へ立たせた。これより前、出石藩では財政が悪化し、勝手方頭取だった造酒の責任を問い、自ら勝手方頭取の地位に付いた左京は、藩主政美の了承の下、その立直しをブレーンの一人宇野甚助の助言を受けて行った。それは、家臣らの禄から上げ米を取ること(現代的に言うと賃金カット)や藩営の物産会所を設け領外からの行商人を締め出し、藩内商人からの運上金の増徴(国内企業を保護し、その収入を上げることで税収のアップを図る)を行うなどの荒療治的な改革で立直しを図った。しかしこの改革は、家臣や隣国などの反発を受け挫折。再び造酒が勝手方頭取に返り咲いた矢先の出来事だったことから、改革派の左京がその巻返しのために御家乗っ取りを企んでいるのではないかと考えたのだった。
造酒ら守旧派は早速支族会議を開き、跡目を政美の末弟仙石道之助久利と決め、さらに文政八年、左京から筆頭家老の権限を奪い名目だけの筆頭家老職にして、物産会所を廃し、従来通りの質素倹約路線を採用する。こうして、跡目相続に関する騒動は一件落着したかに見えた。その質素倹約路線の立案者は藩の儒官桜井良蔵で、以後造酒は良蔵を重用することになるのだが、このことが他の守旧派重臣の反発を誘い、亀裂が生じることとなった。この良蔵と犬猿の仲にあった家老磯野源太左衛門が、文政九年、ついに良蔵をめぐって仙石造酒・酒匂清兵衛と大喧嘩となる。源太左衛門の妻は造酒・清兵衛の妹で、いわば兄弟同士の痴話喧嘩みたいなものだったが、この件で三人の家老は職を免ぜられ、良蔵は隠居蟄居を命ぜられた。それから半年後、造酒が卒し左京に筆頭家老の権限を復する沙汰がなされ、藩政を担う重臣の補充は左京の意に適う人物が充てられる事になり、国元の造酒派は勝手方で造酒の息子仙石主計一人となる。主計は造酒時代に立案された藩札の流通量半減策を実施。これは旧札と新札の交換で藩札の価値を高めようとする一種のデノミネーションだったが、このことにより大坂商人の反発を招き、以後融資が受けられなく成るという結果を招いた。文政十年、ついに財政が行き詰まると、その責任を取って主計が家老職を免ぜられ、国元の造酒派は一人もいなくなる。こうして左京は再び宇野甚助を登用し、以前にも増した厳しい改革を断行。家臣の禄を、その禄高に関わらず家族一人辺り一律一石八斗とし、差額を上げ米として藩の財政に借り上げる面扶持の制を採用する。これは高禄の者ほど負担が大きく、高禄に甘んじて贅沢な暮しをしていた家臣が大きな打撃を蒙ることとなった。中でも先の左京降ろしの時に造酒に加担した江戸詰めの重臣荒木玄蕃にとって、この上げ米は致命的なものとなった。文政九年に玄蕃はただでも経費のかかる江戸詰めとなったが、高禄にかまけて遊びまくり多くの借金を作った上、出石藩惣奉行の地位を利用して国元からの上納金にも手を出していた。これが発覚した文禄十一年(1828)、玄蕃は出石に呼び戻され家老職を免ぜられるにおよび、反左京派が一掃されて左京の天下となる。しかし左京は自らの高い家格意識から家中の耳目を集める行動を起す。天保二年(1831)、左京は時の幕府老中筆頭の座にあった松平康任の姪を息子小太郎の嫁に迎えたのだった。不遇を囲っていた玄蕃・主計・清兵衛・原市郎右衛門の四重臣たちはこの行動を捉え、先に藩主政美が亡くなった時の論理を持ち出し、左京の御家乗っ取りの企みは消えていないと、老侯久道に謁して上書を提出した。しかし久道はこれを一蹴し、四人に隠居を命じ、これを煽動した罪で、河野瀬兵衛を追放処分にした。これで終っていれば、何の問題もなく収まったのだが、処分を不服とした瀬兵衛は、天保四年(1833)江戸に上り、旗本の仙石支族に上書した。ここから、事態は急展開する。その上書の一部が久道夫人常真院に渡った。上書の内容は先に四家老が久道に提出したものと同じ内容で、その一条には家臣に耐乏生活を強いる一方、左京本人は贅沢三昧な生活をしているというような事が書かれていて、再三不自由な生活を国元へ訴え拒否され続けていた常真院はそれを読んで怒り、使いを立てて左京に注意するよう久道に警告する。久道からその書状を見せられた左京は家老二人を急ぎ江戸へ上らせ、江戸藩邸の常真院らに一層の倹約を命じ、藩を上げて瀬兵衛の探索を行いその年の暮、潜伏先を突き止め捕えた。しかし番所通過の時に藩域を越えた司法権の行使が発覚し、瀬兵衛は番所通過を許されず近くの宿に預けられてしまう。この失策を、左京は老中筆頭の松平康任を頼って揉み消す。さらに、常真院には詫び状同前の書面に署名させ決着を図るが、その鬱憤を常真院は実家の姫路藩主酒井家に帰って語った。愚痴の相手は酒井忠学夫人喜代姫だった。喜代姫は将軍家斉の娘で、こうして出石藩の内紛は将軍家斉の知る所となる。一方、これらの仲介役となったのが神谷転という旗本仙石弥三郎家の執事だったことから、瀬兵衛に加担した科で町奉行所に神谷転の逮捕を依頼。逐電した神谷は、虚無僧になって逃げ回っていたが遂に捕えられる。ところが、これに対し神谷所属の虚無僧寺が寺社奉行を通じて釈放を要求してきた。僧籍にある神谷を町奉行所が逮捕する権限は無いというのが寺の言い分で、この訴えの過程で寺側が神谷の所持していた瀬兵衛の上書を寺社奉行に提出したため、出石藩の内紛は公儀の知る所となった。
寺社奉行脇坂安薫は老中水野忠邦に報告。水野はこの件で左京を有罪にすることで、康任を老中筆頭の座から追い落とし、自分がその座に就く事ができると判断。脇坂は水野に協力する事で準譜代の地位から全譜代になれると、両者の思惑が一致し、出石藩の内紛は、左京が御家乗っ取りを企んだ陰謀という容疑で幕府の公裁にかけられる事となった。すでに喜代姫から報告を受け、出石藩の内紛を知っていた将軍は、左京を非としていた事から、評定は将軍の意にそう方向で進められ、水野・脇坂の思惑通り、左京を獄門、甚助を斬首とし、左京の息小太郎は八丈島へ流罪とする裁定が下される。藩主久利にはお咎めはなかったものの、出石藩の封地は半減され三万石となった。

【逸話1】川路聖謨、脇坂と間部の人と為りを評す。

川路君、或る時の歎息談に曰ふ、世間にては寺社奉行脇坂中務大輔の英断に依て仙石騒動の乱糸を整理したるやう取沙汰すれども、其は大違ひにて事実と全く相反す、余(川路)は当時寺社奉行附調役にて、専ぱら審判のことを取扱ひけるが、脇坂が兎角に上の雲行きを伺ひ、又は奥向の風模様を考へなどして、所謂内股膏薬とも云ふべき挙動ありしには困りたり、元来仙石左京の長男小太郎の妻は、其ころ日の出の勢ひありし浜田閣老(松平左近将監)の姪なりければ、流石の脇坂も其辺に心を置きたるにもあるべけれど、正邪の判然たるものに向つて、徒らに雲行き風模様の如何を見るは、気骨ある男児の為すべきことに非ず、余は却て間部下総守に感心せり、間部は浜田閣老の長女を娶りて、浜田とは親戚の間柄なり、然れども事に臨んで大義を枉げず、公平潔白に裁断せり、間部初め浜田に往きて、此度は仙石一件に付取調を命ぜられしが、大人は別に御関係あらせられずやと尋ねしに、浜田侯首を左右に掉り、余は彼件に容喙したること、聊かも之れ無しと答へらる、然らば今回は充分に正邪を取糺し申すべしとて別れしが、爾来志操を動さず、徹頭徹尾世路に拠て公平に取調の実を挙げられたり、蓋し間部は一箇の硬直男子なり、脇坂は之に引換へ唯だ鼻頭の小智恵あるのみにて、腹は丈夫ならざる人なり、余は仙石の件にて脇坂の深く恃に足らざるを了れり云々(羽倉外記)(『想古禄』)

【逸話2】仙石小太郎、臨終の惨状

流刑に処せられて島へ行くものに種々の物品を持たせ遣るは、何の為めにもならぬ無駄事なり、跡より贈るものは達すれども、其時持行くものは、大抵途中にて盗奪さるると云へり、仙石左京が鈴ケ森にて鳩首せられし時、其子の小太郎は八丈島へ流されけるが、船便なかりければ三宅島にて船待しけるに、元来仙石家の家督に立てられんとせし程の者にて、平生優かに育ちたる身体なれば、南島の殊異なる気候に触るるや忽ち一種の病痾を発し、其年の十月、終に三宅島にて斃れたり、小太郎の江戸を出る時は、衣類器物等何不足なく携帯したるが、死後余(羽倉)の手許へ届出でたる書附には、唯だ単衣一枚、帯一筋とあるのみなりき、蓋し其の病中と死後とに盗み奪られたるものなるべし(羽倉外記)(『想古禄』)

【逸話3】仙石左京の娘

此ほど(天保七八年)大坂町奉行堀伊州より梧堂君が手許へ贈り越したる書状中に左の一奇談あり、或る町家の番頭某、白ゆもじ(密売淫婦)を買ひけるに、匆卒の際懐中せし二百金の紙包を遺忘れて帰宅せり、翌朝に至り心附き、駭き狼狽て昨夜の妖窟に尋行きけるに、其婦は待ちまゐらせたりと迎へ入れて座に請じ、番頭の未だ何事も言出でざるに、戸棚より一箇の紙包を取出し来りて、大切なる御忘れ物ありたれども、御宅の分らねば余儀なく仕舞ひ置き申したり、されど御身さまの御安否如何と、唯今も母と御噂さ申し居たるところなりとて出だすを見れば、彼の金包にて、二百金の内一金も欠けず、番頭は迚も尋常の手段にてはと思ひ居たるに、案外のありさまに今更ら赤面し、軈て其の金の内より取敢ず五十金を謝礼として出だせしに、母子は固く辞し、貴客の持帰り玉ふは当然なり、妾らが左様なる大金を頂だくべき謂れ聊もなしとて、如何に強ゆるも受け取らず、番頭ますます感歎し、帰りて其の始末を有りの儘に主人に語りしに、主人も共に深く感じ、早や早や其の母子引取りて汝が妻とせよとて、其れより段々其の身元を糺しけるに、図らざりき、其白ゆもじは仙石左京の愛嬢にて、老母の養護に困じ、已むを得ず身をひさぎて其日其日の養料に供せし者と知れて、一層人は其の不幸を憐れみけるとなん(千賀氏)(『想古禄』)

【逸話4】神谷転、冤に屈せずして義に伏す

仙石家の忠臣神谷転が町奉行筒井伊賀守の手に召捕られて、奉行所の白州に曳出されけるとき、歎訴の筋有之候ゆゑ、一応御聞取下されたくと願ひけるに、奉行一向聞入れず、直ちに仙石家に引渡すべき旨を申渡しければ、転は大いに憤り、白州に直立して坐せず、賀州遂に其歎訴を聞入れ、本藩引渡しの処分を中止して、揚り屋入りを申付けしより後は、謹慎神妙にして剛愎がましき所行を一回も為さざりしと云ふ(高橋猶人)

仙石騒動(補遺)
一、仙石道之助家来一件にて、道之助御咎被仰付候日、内府様遠御成被仰出候所、其前夜六つ時過頃、只今より西丸へ罷出、明日は遠御成となく御延引被2仰出1候様可申上、定めて何の譯と御尋可レ有レ之候、其節子細は存不レ申と申上、罷帰候様忠明へ仰付られ罷出候、
是は万石以上のものゝ御咎被2仰付1候に、遠御成有之候ては御不都合との御事也と、(『内安録』)

忠臣蔵

吉良邸討ち入り

江戸城で勅使御接待役を拝命した浅野内匠頭は、この儀礼における諸事万般を指導する役の高家筆頭吉良上野介の言動に腹を立て、元禄十四年(1701)三月十四日、城内松の廊下において抜刀し上野介に切り掛かるという刃傷事件を引き起こした。この間の事情を伝える『元禄世間咄風聞集』の一説を下記に紹介。

一、元禄十四年辛巳三月十四日(朝之内曇、小雨降五つ過より晴)四つ過、勅答以前押付表へ出御と申時分、於2御城大廊下1吉良上野介様・浅野内匠頭様御喧嘩之事。
一、御台様より公家衆へ御使被レ進候事之御用に付て、御留守居御番梶川与惣兵衛様御高家衆之御席え御越、上野介様御呼立大廊下に御出、右御両人様御用被レ仰談候処に、内匠頭様・伊達左京様御覧御座候席を、内匠頭様御少用に御立被レ成と被レ仰、大廊下御通、上野介様御後に御出、「覚たか」と声御かけ背中二太刀御切付候付、上野介様御ふりかへり被レ成候所を猶又顔を御切被レ成候付、与惣兵へ様御だきとめ被レ成候。最前之初太刀音稠敷(きびしく)候付て、公家衆其外小坊主衆かけ付被レ申候由。内匠頭様御刀は与惣兵へ様御もぎとり鞘へ御納被レ成候。
一、内匠頭様と与惣兵へ様御喧嘩と何も御心得候故、与惣兵へ様を御引わけ可レ被レ成と被レ成候御方達も御座候由。依之、「喧嘩は内匠頭様と上野介様にて有レ之候」と、与惣兵へ様被レ仰候故、皆内匠様に御取付御引立、直に御坊主衆部屋之脇へ御入候由。尤内匠様は御手疵も御負不レ被レ成候。上野介様は品川豊前守様・畠山修理様御両人にて、御縁通御通高家衆之御部屋へ御入被レ成候由。上野介様御事は御刀に御手もかけられず候由。
一、例年御白書院にて勅答有レ之候へ共、右之訳故御黒書院にて勅答相済候由。
一、内匠頭様御跡、公家衆御馳走役に、戸田能登守様へ被レ仰付、早速御沙汰被レ成候由。
一、内匠頭様御家来伝奏御屋敷早速引払、能登守様御家来へ相渡候由。
一、上野介様御手かるき事之由、御目付衆御差添平川■御帰宿之由。
一、内匠様御事、田村右京大夫様へ御預被レ成候。依之十四日午刻、右京大夫様御家来中の口にて請取、直に常之乗物にのせ申網をかけ下城、平川口へ出、夫より新し橋右京大夫様御屋敷裏門より御入被レ成候。尤内匠頭様御事、大紋被レ為レ召候儘烏帽子は不レ召に御座候由。
一、右京大夫様へ内匠頭様御入不レ被レ成候内に、御書院之次之間を囲召置直に入申、右京様より白むく黒き小袖御出候を御召替、其後御料理出候処御めし二はい上候由。「御酒可レ上候」由被レ仰候へ共、「御大法にて候故不2差上1候」由申候へば、「左候はゞたばこ上り度」由被レ仰候へ共、是も御大法にて不2差上1候由。「何事も御目付衆様へ不レ窺候へば不レ罷成候」由申上候已後、御湯被2召上1御膳下げ申候由。
一、其後右京大夫様宅へ庄田下総守様・大久保権左衛門様・多門伝八郎様・御徒行目付衆御出、内匠頭様へ上意仰渡候趣、

吉良上野介様へ意趣有レ之由にて、折柄と申不レ憚殿中理不尽に切り候段、重畳不届至極に被レ思召候。依之切腹被レ仰付候也。

一、内匠様に御上下召替させ申、「御親類書仕候様に」と有レ之、御歩行目付衆筆を取、内匠様御口上にて既と被レ仰候を認被レ申候由。
一、其以後白洲に畳敷、其上に毛氈一枚敷、夫に御直り、右京様より三方に脇差載出し、御肩衣前を御とり後へ御なげ、御脇差御取御戴、御はだぬぎ御たて可レ被レ成と被レ成候所を、御歩行目付衆介錯被レ仕、たぶさを取、切口を御目付衆に懸�御目�、ふとんに引包候由。(此ふとんは最前中の口へ請取に参候時乗物に敷候ふとんにて可レ有レ之歟。)
一、其後御目付衆初皆御帰、暫有レ之候て近き御親類衆へ御死骸相渡可レ申由被レ仰出、御大勢大学様より御家来衆被レ参、白小袖沢山持参御死骸包申候。右京様より出申候ふとん其外何色にても召置候由。
一、御小さ刀太刀箱に入右京様へ参候。一尺六、七寸も有レ之、成程身細成物にて有レ之候。はゞき元二、三寸は所々さび有レ之候て、きつさきにて御打被レ成候と相見へ、のりもきつさき計に付申候由。
一、内匠頭様平生御咄被レ成候は、「常々御病身に御座候故、物ごと御堪忍御成兼候」などゝ被レ仰候由。
一、三月十五日、浅野大学様(内匠頭様御弟)於�御評定所�閉門被レ仰付候由。
一、当巳に三十五 内匠頭様
一、同  三十三 奥様   是は浅野土佐守様御妹にて御座候由。

また、『武江年表』では、

○三月十四日、浅野家吉良家事ありし日なり。世人の知る所ゆへ爰に贅せず。
と、簡単に触れられている。また、尾張藩士朝日文左衛門が著した『鸚鵡籠中記』には、
「江戸に喧嘩あり(中略)内匠は田村右京太夫に御預け、其夜切腹仰付けらる。殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者非分なる事なり。上野介は四千二百石、従四位下少将也。父は若狭守。内匠は長矩と云ふ。五万石余。居城は播州赤穂、江戸より百五十里これ有。内室は松平紀伊守女」
と簡略に記されている。そして、同書はさらに、
「頃日、赤穂の家中一党し、領内へ他領者を一人も入れず。城請取には脇坂淡路守、木下肥前守赴く。赤穂の家中所有を欲すといへども、内匠一家の左門(大石内蔵助)等よく示し、内匠喧嘩の埒ならば尤も相手をも無事に置まじけれ共、只殿中狼藉の趣に而、切腹なれば、誰に恨みを述べん。また内匠一家の者、かく言ふからは是に違背せば甚だ理なしなどと言ひ聞かせ、今月十九日に両人無事に首尾よく城を請取る」
と、赤穂城の受け渡しの事柄にも触れているが、他藩のことでもあり、それほど興味を引く事柄ではないように記されている。何はともあれ、こうして赤穂藩浅野家五万石は改易され、赤穂藩士らは牢人となる。彼等のうちには縁者を頼って再仕官する者もあるが、泰平の世の中、新たに召し抱える領主は少なく、赤穂藩士らは牢人となり苦しい生活を余儀無くされる。さらには家中からは、喧嘩両成敗論から赤穂藩だけが取り潰され、吉良家が何のお咎めもないことに不満が続出。すぐにも吉良を討つべしとの強硬論も出る。しかし、拙速な行動では本懐を遂げる事が難しいと判断した家老の大石内蔵助は、血気にはやる藩士らに主君の仇は必ず討つからその命を預けるよう説得。仇討を警戒した幕府の目をくらますために、京で遊びほうけるなどの生活を行ったとされる。こうした内蔵助らの赤穂浪士たちの行動は、後に『仮名手本忠臣蔵』で多分に脚色されて描かれ、歌舞伎の演目として好評を博す。こうして、赤穂牢人らによる吉良上野介仇討の事件は、忠義を重んじた武士の鏡として「赤穂義士」として讃えられ『忠臣蔵』として江戸をはじめ全国の庶民の人口に膾炙することとなった。これは、多分に堕落した武家社会への批判でもあったのだろう。
しかし当時は、それほど世間が注目した訳でもなかった。先述した『鸚鵡籠中記』には、
「夜、江戸にて浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し吉良上野介首を切り、芝専(泉)岳寺へ立退く」
とあるだけとなっている。さらに、文左衛門の師天野源蔵もその著『塩尻』のなかで、討入りの事には一言もふれていないという。しかし、後年に著された『武江年表』には、

○十二月十四日、浅野家の義士四十七人本意を達す(事は人口に膾炙するをもてこゝにはいはず)。
とあり、「義士」という言葉が使われている。続けて翌元禄十六年(1703)癸未の項には、「二月四日、浅野家四十七士自尽、泉岳寺へ葬す。」とあり、その後に

△「類鉗子」春帆最期に、「寒鳥の身はむしらるゝ行衛哉」、子葉臨終に「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」、二句ともに其角作なり。或る家秘書義士の事を記せるものあり。引用の書名のみ爰に挙ぐ、
「赤城盟伝」「赤城紀談」「介石記」「追加介石記」「介浅記」「新撰大石記」「菫花集」「赤穂忠臣記」「武家明鏡記」「易水連袂禄」「義人禄」(室直清)「忠士筆記」(浅見安正)「山科の聞書」「忠義碑文」(忠義碑の三字は二条右大臣綱平公の御染筆、三宅九十郎偉明作)「楠石論」「瑞光院記」「義士考」「義士伝」「義士絶縷」「蓬窓記」「鐘秀記」「義士文通」「春台赤穂四十六士論」「絵本忠臣蔵」「赤穂義臣伝」(享保已亥片島武矩)
と赤穂義士関連の書の名を列挙している。

長崎喧嘩

長崎喧嘩(ながさきげんか)

鍋島藩深堀領は、鎌倉時代からの御家人深堀氏の領地だったが、戦国期を経て肥前鍋島氏の麾下に入ることで深堀氏はその領地を保つ。その深堀領は長崎に隣接する地にあるが、長崎の中心部五島町にも蔵屋敷を構えていた。
その蔵屋敷勤番の深堀家の家臣深堀三右衛門と同僚の柴原(志波原)武右衛門は、元禄十三(1700)年十二月十九日夜、所用を終えて屋敷へ戻る途中だった。六十七歳と高齢だった三右衛門は、折から積った雪のため道がぬかるんでいたため、足元を気遣って杖をついて歩いていたという。そんな二人とすれ違った中間の合羽に、三右衛門の杖から泥が跳ねた。普通なら相手は武士であり、何事もなかったかのように通り過ぎるのだが、男は二人に因縁をつけた。男は惣内といい長崎町年寄高木彦右衛門の使用人だった。高木彦右衛門は羽振りの良い町の顔役で、幕府の御用掛りも勤める役人だったことから、使用人たちも日頃からその権威を笠にきて、我が物顔に振舞っていたという。そんな使用人の一人惣内は酒に酔っていた事もあり、三右衛門たちに絡んできたのだ。三右衛門は鄭重に頭を下げ謝り、その場はそれで収まったが、二人が屋敷に帰り着くと惣内が仲間を二十人ほど引き連れ深堀屋敷に押し入り、乱暴狼藉の限りをつくし、挙句三右衛門と武右衛門二人の刀を奪って意気揚々と引き上げたのだ。
武士の魂とも云われる刀を奪われて三右衛門たちが黙っている訳はなかった。早速深堀に使いをたて息子嘉右衛門らに刀を届けさせた。また、屋敷を襲われて黙っている鍋島藩士たちではない。翌早朝、深堀の藩士たちは三右衛門、武右衛門らとともに高木邸に討入り、抵抗する高木家の使用人らをことごとく切り捨てた。当主の彦右衛門は三右衛門とその息嘉右衛門の手で討ち取られたという。
三右衛門はその場で切腹、三右衛門の息嘉右衛門と武右衛門は高木邸を出た直後に切腹して果てた。その後、事件は長崎奉行から幕府に伝えられ、討入りに加わり藩の面目を保った深堀の鍋島藩士たちは十人が切腹、九人が遠島となった。当主鍋島官左衛門は御構い無しだった。また、現場にいながら隠れて命拾いをした彦右衛門の倅彦六は、親の危難に際して打ち向わなかった事が不届きなことと裁定され、家屋・家財を召し上げられた上、長崎から追放された。長崎の町民らは、これまでの高木一家の所業を苦々しく思っていたためか、誰も同情しなかったという。彦六は天草に落ち、高木家は断絶した。
この深堀鍋島藩士たちの高木邸への討入りは、翌元禄十四(1701)年、元赤穂藩士たちが吉良邸討入りを行った際の参考にしたといわれている。

伏見騒動

伏見騒動(ふしみそうどう)

秀吉が没すると、五大老筆頭の地位にあった徳川家康は、秀吉臨終の際に受けた政務の代行という大義名分を最大限利用し、秀吉の生前に十人衆(五大老・五奉行)が血判をもって誓約した諸法度をことごとく無視し始めた。これに激怒したのが五奉行筆頭の石田三成だった。即刻家康を討つべきと主張する三成に、残りの四大老、四奉行らが説得し、慶長四年正月、家康を呼んで詰問することとなった。返答いかんでは十人衆からの加判から除くという三成らに対し、家康は無届の結縁にはとぼけてみせ、加判から除くという文言に対し、それこそ秀吉の遺命に背くものだと逆襲する。
この時、三成ら文治派に恨みを持つ加藤清正、福嶋正則ら武断派諸将は、家康を守るべく兵を出し、家康の屋敷を守護。伏見の町は、一触即発の様相を呈し騒然とした。これが伏見騒動といわれる事件で、この時は大老と奉行の間をとりなす役である三中老、生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴の必死の働きで三成らを抑え、事なきを得た。

守山崩れ

守山崩れ(もりやまくずれ)

「森山崩れ」とも書く。天文四(1535)年十二月四日、松平清康は尾張国の中心に近い守山城まで侵入し、織田信秀の軍と対峙した。翌朝、清康が家臣の一人に斬り殺されるという事件が起った。
この事件は、その朝、城内の厩で馬が暴れ、人々が騒ぎ出したのを聞きつけた清康の家臣阿部弥七郎が、その騒ぎを父が成敗されていると勘違いしたことから起った。弥七郎の父阿部大蔵定吉は、かねてから清康に逆心を抱いているとの噂があり、何時父の身に変事があるかと、弥七郎が気にかけていた矢先の出来事だった。父の身に大事が起ったと早合点した弥七郎は、側に居合わせた清康を、一刀のもとに斬り殺してしまった。そして自らも同僚の上村新六郎に斬られた。こうして主を失った松平勢は、守山城を後に、岡崎に引き上げた。これを「守山崩れ」という。

『東照宮御実記』(巻一)参照。
『三河物語』(第一上)参照。
『常山紀談』(巻之一)参照。

名古屋市守山区の香流川に架かる矢田川橋の北にある宝勝寺に、清康の位牌が安置されている。その裏山に守山城祉はあるが、雑木林に囲まれて城祉碑があるだけで、遺構は何も残されていないという。

[守山城祉] 名古屋市守山区守山町 名鉄瀬戸線矢田駅下車 徒歩5分







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