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戦
戦・軍(いくさ)
戦争・戦いの雅語的表現。(『新明解国語辞典』)
隆慶作品のいくつかは、戦国末期から江戸時代初期を舞台にしている。そして幾つかの「いくさ」が描かれ、その中での主人公乃至主要人物の行動や生きざまが物語に、陰影や躍動感を与える重要な場面として登場する。また、「いくさ」は「戦い」「合戦」「乱」などさまざまな言葉で言い表わされている。
役(えき)
(人民を徴発するからいう)戦争。(『広辞苑』第二版)「前九年の役」「文禄の役」など。
合戦(かっせん)
敵・味方が出合って戦うこと。たたかい。(『広辞苑』第二版)「桶狭間の合戦」「姉川の合戦」「関ヶ原の合戦」など。また「合戦」は縷々「戦い」とも言い替えて呼ばれる。敵対する勢力同士の直接的なぶつかり合いを称することが多い。
陣(じん)
イ)兵士を並べ隊伍を整えること。また、その隊列。陣立て。「鶴翼の陣」など。 ロ)軍勢の集まり居る所。陣屋。陣営。ハ)いくさ。合戦。(『広辞苑』第二版)「小田原の陣」「大坂夏の陣」など。
攻め(せめ)
一方的に仕掛ける戦い。城や砦などへの攻撃。「長島攻め」「雑賀攻め」「高松城水攻め」など。
戦い(たたかい)
戦争すること。いくさ。合戦。(『広辞苑』第二版)「三方ケ原の戦い」「長篠の戦い」「関ヶ原の戦い」など。「合戦」と言う場合も多いが、もう少し広い概念。
変(へん)
非常の出来事。不時の出来事。(『広辞苑』第二版)「本能寺の変」「慶安の変」など。現在の言葉でいうと「クーデター」と同義か。
乱(らん)
世の乱れること。反乱。戦争。騒動。(『広辞苑』第二版)「壬申の乱」「応仁の乱」「島原の乱」など。長期に渡る場合が多い。
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合戦用語
後巻き(うしろまき)
城を囲み攻める軍を、さらにその後方より囲み攻めること。
後詰(ごづめ)
味方の第一線部隊の後方に控え、待機している部隊。(『新明解国語辞典』) また、攻め寄する敵軍をその背後より取り囲むこと。またその軍勢。うしろづめ。(『廣辞林(新訂版)』)
先駆け(さきがけ)
味方の攻撃に先んじて敵陣に攻め入ること。あるいは、味方の最先端に立って戦うこと。
殿軍(しんがり)
退却する部隊にあって、最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊。
陣・陣形(じん・じんけい)
鶴翼の陣(かくよくのじん)
古昔、左右翼を張りたる陣形。(『廣辭林』新訂版)
鶴が翼を拡げたように大軍を陣し、戦いが始ると敵軍を包み込むように軍を移動させる陣形。
魚鱗の陣(ぎょりんのじん)
魚の鱗に並びたるやうに順序正しく列べたる陣形。(『廣辭林』新訂版)
中央が最も敵に近く、山形に順序良く陣し、中央突破を試みる陣形。鶴翼の陣と反対の陣形。
車懸りの陣(くるまがかりのじん)
機動力を持って車輪のように、敵軍に波状攻撃を懸ける陣形。上杉謙信が川中島に陣した武田信玄の大軍に、この陣形で挑んだ。
軍用語
軍(いくさ)
戦争の事。戦(いくさ)。「ぐん」と読む場合は、軍隊・兵士の事を意味する。
攻城戦(こうじょうせん)
城攻め。敵の籠る城塞を包囲して戦う事。
俄攻め(がぜめ)
奇襲攻撃。
武田信玄の十六歳の初陣で、父信虎に従って甲信国境の要害、平賀源心の立て籠る海ノ口城を攻めた戦では、大雪と敵の頑健な抵抗に遇い、武田軍はやむなく撤退した。この時、殿を務めた信玄は、無断で手勢三百の寡兵を率いて引き返し、暗くなるのを待って敵に気付かれぬよう城に接近。案の定、城内では敵の大軍を追い返した事で、源心以下城兵は酒杯を傾けての祝勝の宴で盛り上がっていた。これを見届けた信玄は、夜明けと共に裏口の八幡裏の男坂から城内に攻め入る。さしもの城兵も、泥酔し熟睡していた事から周章狼狽、源心は討取られ、信玄は海ノ口城の攻略に成功した。この他、北条早雲の小田原城乗っ取りなど、この俄攻めで成功した例は多い。
一時攻め(いちじぜめ)
強襲・力攻め。
大軍の勢いで敵軍の気勢をそぎ、犠牲をかえりみないで強行突破を行う、一種の人海戦術。力攻め一方の寄切り型の戦法。
その方法は、まず城の四方から城濠に迫り、矢弾をおかして濠岸に取り付き、埋草を投げ込んで濠を埋め、寄手が渡れるようにする。その後、竹槍や、帆布を帆柱に立てて矢弾をさけながら、城壁の下に蝟集し城塁をよじ登る。この時、種々の梯子を用いる場合もある。また、城兵の射撃を制するため、城壁の一狭間(銃眼)に対して四、五人の射手を配置し、援護したといわれる。
この戦法は、味方の犠牲も大きいことから、なるべく短時日で城を攻め落とさなければならない。また、城を守る側はなるべく堅固な城を築いて、こうした強襲に備えた。その代表的な築城が北条氏の築いた小田原城で、上杉謙信の十一万の大軍の強襲や、武田信玄の大軍をその鉄壁な守りで防いでいる。
付入り(つけいり)
追尾突入。
敗走する敵を追い、踏み止まって戦う余裕を与えず追撃を行い、城に逃げ込む敵に付いて城内に入り込み攻略する戦法。
関ヶ原の前哨戦、池田輝政らの東軍は、輝政が一万八千の軍勢を率いて木曽川上流から、福島政則が一万六千を率いて下流から渡河して岐阜城に攻め込もうとした。この時、城を守る織田秀信は、城兵わずか六千五百だったにも関わらず、城を出て池田輝政の軍に攻撃を仕掛ける。渡河中に敵軍に急襲をかけるつもりだったのだろうが、輝政の大軍に押し返され、城に逃げ帰るしかなくなった。この時、輝政は一気に織田軍を追撃、遁走する敵兵についてそのまま城内へなだれこんだ。こうなれば、もと岐阜城主だった輝政の独壇場となり、織田秀信はあっというまに追い込まれ、降伏し開城した。
遠巻き(とおまき)
長囲、攻囲。
長期間囲み、兵糧攻めを行う戦略。損害の多い攻撃を避け、まず周辺の枝城、属城を占領し、同時に堅固な陣地を城の前に構築して漸次攻略してゆく戦法。
これらの戦法で、小田原城や伏見城など多くの城が攻略された。
水攻め(みずぜめ)
川や湖などの天然の要害を利用した城は、攻め込むのも容易では無いが、逆にそれらを敵に利用されると、城が水没したり孤立させられ糧道を断たれて落ちる場合が多く有った。
この戦法をもっとも効果的に使ったのが羽柴秀吉だった。中でも備中高松城の水攻めは有名。もちろん成功例ばかりでは無い。石田三成の忍城水攻めはその失敗例とされる。
火攻め(ひぜめ)
石塁・石垣で囲ってあっても、建物の大部分は木造建築だった我が国では、保元・平治の乱以来、火矢などを用いた火攻めは多用された。信長はこの戦法を積極的に用いた武将で、城下町をことごとく焼き払った後に、兵を進めて敵を殲滅した。また、鉄砲伝来以後は、火箭という武器も登場し、いっそう火攻めが重用された。また、外からばかりでなく、内通者や忍びを使って内部から付け火で城内を混乱させる戦法も多く用いられた。
関ヶ原前哨戦で、西軍が鳥居元忠らの守る伏見城を攻略したのも、内外からの火攻めだった。
仕寄り(しより)
正攻法の城攻め。
あらゆる兵器と機材を用い、なるべく損害を少なくして城を攻略する戦法。遠巻きと同様、まず本城の廻りを固める枝城・砦などを一気に攻め落とした後、敵の本体が籠る城を取巻き、梯子や大筒・鉄砲など以下に掲げるあらゆる武器・機材を用いて城内に突入して攻略する。
[雲梯・飛梯・竹飛梯]
城内を瞰望するための一種の梯子で、望楼を造り、敵状の偵察監視を行うとともに、火矢などの火器を使用するのに用いられ、戦国時代には欠かせぬ攻城具。
[亀甲車]
牛皮で亀甲形に四面を覆った四輪車で、中に兵士十人ほど入って城壁に肉迫するもの。南北朝時代にこれに似たものがすでに造られていたが、本格的にその効果が発揮されたのは鉄砲伝来以後という。
朝鮮の役で加藤清正がこの亀甲車を使って朝鮮の城を攻略したことは有名。
なお、同じような用具として、木牛車・蒲鉾形をした厚竹圏蓬(竹製)などがあった。
[摺畳橋]
濠を渡るための梯子のようなもの。
[砲楼・行砲車]
砲撃のさい、大筒を高く撃ち上げるために用いた。また、運動自在な弩、あるいは大筒を撃つために行砲車が用いられた。
[填濠皮車]
矢弾をふせぎながら濠を埋める埋填材料を運ぶ車。
[火車]
城門を焼打ちするために用いられた。
[塔車]
城の構造物を手当たり次第引っ掛け、これを引き落とす車。
[竹束]
矢弾除けとして、戦国時代、信濃から発達し、攻城のさい、持楯と称する携行用のものが大いに利用された。また、これら竹束を電光形に土嚢などとともに積み重ね、あるいは塀を作るなどして接近路を設け、城に近付くのに用いた。
この他、当時の戦闘において、竹は重宝な資材として大いに利用されている。織田信長が設楽原で武田の騎馬軍団を迎え打つのに築いた竹柵は、武田軍の機動力を大いに殺いだが、それに用いた竹は、岐阜城発向の際に携行したものだったという。
[築山]
孫子でいう距堙で、城内を俯瞰し、かつその上に大筒などを備えつけて狙い撃ちにするために設けた。
[穴仕寄・地道]
坑道。城壁の下に穴を掘り進め、石垣・城門などを崩壊させて城内に進入しようとする戦術。
弘治元年、厳島合戦のとき陶晴賢軍は毛利元就方の宮尾城攻略の際に用いたが、成功しなかったという。さらに、永禄五年の武田信玄・北条氏康連合軍の松山城攻撃の時には、城を守る上杉憲勝軍の善戦で被害が続出したため坑道隊を組織し、地道を掘って進入を試みたが、それを予め想定していた憲勝は坑道を四方に掘り、水源地から水を引いていた。そのため甲州方の坑道がその深坑にぶつかるやいなや、たちまち水浸しとなり先に進めなくなった。そのため、ついに休戦となったという。
[大筒]
砲弾を発射させる火器。
大坂冬の陣で、徳川方はこれを淀君のいた本丸に打ち込み、恐怖心を抱いた淀君の意向で休戦を迎えたとされている。
遭遇戦(そうぐうせん)
敵軍と山野で対峙し、あるいは出会い、野戦となる戦い。
一番乗り(いちばんのり)
攻城戦などで、真先にに敵城砦に乗入れ名乗りをあげる事。一番乗りは軍功とされ、武士の名誉でもあった。
一番槍(いちばんやり)
第一に敵陣に槍を突き入れること。(『広辞苑』第二版)
野村筑前といふ、近江士のあらはせし撰士篇に、一番鎗の条に、世の中に主はひとり我ひとりと心ゆる勇気のもの一番鎗いるゝとみへたり。(広瀬蒙斎『しがらみ』)
中里介山の『続日本武術神妙記』に、
「一番槍 松宮春一郎氏の主宰した雑誌「同人」の第百三十五号(昭和三年十一月発行)の小集記の中に、遠藤佐々喜氏の談として次の如くある。
先頃古本屋漁りの一興中、偶然手に入った昔の武道の秘伝「秘書一番槍之説」(半紙本墨付六枚)という小冊子の中に柄にもなく私の共鳴した最も興味ある一節を、原本を朗読して紹介いたします。
(前略)「両陣攻寄スルコト二十間程マデハ互ニ五三間押立ラレ進退アリ。コノ前後ノ内ハ敵ト槍ヲ合セ或ハ突臥ルト云エトモ、場中ノ働キニテ未ダ一番槍ノ功ニアラズ。敵味方十二三間程近クナリタル時ニ弓鉄砲ノ得道具ヲ持チタル諸士ハ、槍ト取替テ一番槍ヲ心懸ルナリ。コノ時槍ノ卒五七間モ後ニ居レバ槍ヲ取替ル間ナキ故、直々槍脇弓請ヲ心懸ルナリ。矢玉尽キテナキモノハ大刀ノ槍脇ヲ心懸クベシ。サテ槍ヲ入ル節ヲ見計ウコト肝要ナリ。双方実ナル備エハ一間二間宛位詰メニ相進ムナリ。コノ時、一番ニ進ミ出テモ続ク味方一人モナケレバ槍ノ功ニアラズ故ニ出タル者モ是非ナク引退クコトアリコレヲ引渡リノ槍卜云イ、味方弱相ナリ、尤モコノ時未ダ槍合セノ期ニアラズ。既ニ双方相寄ルコト七尺間近クナレバ、互ニ一足モ進退スルコトナラズ、敵味方トモニ手負死人眼前ニアルヲ見テモ、出テ首ヲ取ルコトナラズ、手負ヲ引カケ退クモナラズ、両陣ノ戦士互ニ眼ヲ動カスマデニテヒッソリト鎮マリ、暫クタメラウコノ時備エノ強弱見ユルナリ。強キ方ノ諸士ハ冑ノ立物差物前へ侑キ、イツトナク虎口前ヘニジリ寄リテ備エノ字形ニナルナリ。コレ諸士ノ気前へ進ミ互ニ位ヲ見合ル如此ナリ。コレヲ勝色ノ備エト言イテ吉相トス。
双方トモニ強気勝劣ナク、互ニソノ筋ヲネラウ時ハ勝負ノ間久シキ故ニ備エ横槍ヲ入レントマワルヲ見テ敵ノ備エ中ニテ進ム者へ目ヲ付ケ、マタ槍脇ノ味方ヲ見合セ、足ヲ踏ミ出シ槍ヲ振上ゲ、何某一番槍ト高声ニ名乗リテ槍ヲ入ルベシコレ一番槍ト言ウナリ。コノ人ニ前後ヲ争イテ続イテ槍ヲ入ル者ハ、何某一番槍ト名乗リテ槍ヲ入ルナリ。コレヨリ続イテ味方ノ惣兵一同ニテ突懸ケテ推敗ルナリ。一二ノ槍ハソノ敵ヲ討チトラズモ、マタソノ身敵ニ討夕レテモ鋭勇ノ志アルヲ以テソノ功ヲ空トセザルナリ。如此諸士ノ気一致ニシテ、陣路ノ間ヲ開ク味方ニ引続キ敵陣へ進ミ駆クルコト、タトエバ飛雁ノ行列ヲ断タザルガ如クニ非ザレバ益ナキナリ若シ一番槍ヲ入ルヤ否ヤ敵ノ備エ崩レ立テ、槍ヲ合スル敵ナケレバ一番槍トハ言ワズ、崩レ際ノ功ト言ウナリ。弱キ備エハ強勢ノ敵鋭気外ニ発スルヲ見テ自然ト備エノ色白ケ中クボノ形ニナリテ、武者ノ冑立物差物仰クモノナリ。コレ漸ク進ム気衰エ後へ気アル故ナリ。コレヲ敗相ノ備エト言ウ。(中略)凡ソ一番槍ノ功ト言ウハ両陣ノ鋭気互ニ勝劣ナク、相気勢ニアラザレバコノ働キナシ。時所ニ依リテ勢ニ強弱ナシト言ウコトナシ。弱キ方ハ多分場中前後ニ備エ色メキ槍合セニ至ラヌ以前崩ルル故ニ、毎戦槍ノ功アルコトニハアラズ」以上。
私はこれまで一番槍とは唯所謂抜け駆けの功名のことで、軍陣に於ける単独の行動とばかり軽く考えておりましたが、この説を玩読して処世訓としても大いに悟るところがありました。」とある。
一騎駆け(いっきがけ)
ただ一騎をもって敵陣に斬り込むこと。前田慶次郎が得意とした。
胄首(かぶとくび)
胄(兜)を着けた首。我国では敵の首級をもって戦の功の証としたことから、死者の首を持帰った。なかでも部将クラスの将士は胄を着用するため、胄を被った首を挙げる事は名誉とされ、軍功となった。
先駆け(さきがけ)
真先に敵陣に攻撃を仕掛ける事。
抜駆け(ぬけがけ)
多くの場合、誰が先駆けを務めるかは事前に軍議で決められるが、それを無視して先駆けをする事。上手く行けば功績となるが、失敗すると戦に勝っても腹を切らなければならない賭け的な行為。
兵制
足軽(あしがる)
戦国期に至ってはじめて「馬上の侍」と「足軽」の二つの階級ができた。侍は家中衆で軍陣において騎士として一隊の中軸となり、足軽はこれに対して歩卒であった。戦国期に集団戦闘が重視されると、多数の足軽を必要としたので、臨時に農工民から徴集補充したが、これを「雇足軽」という。足軽ははじめ卑しめられ、侍に対しては路上で会っても敬礼すべしとされ、「貴様」と呼び捨てであった。しかし追々改められて、豊臣時代には足軽以下、中間、小者までも服制が定められ、「取立侍」という登用の道も開けた。秀吉自身が足軽から立身したせいもあってのことだが、侍対足軽の観念もこれによってだいぶ変った。
足軽の解釈についてはいろいろ説があるが、進退足軽く疾走して働くという意味からこの名が生じたとするのがいいようである。その役目も文字通り平常にあっては気軽に飛び廻って雑用を果し、戦場では第一線に立って歩卒として戦った。弓、槍が足軽の武器であって弓組、槍組(長柄組)を編成していたが、戦国時代に鉄砲の威力が重視されると、鉄砲組を新たに加えて、量質ともに足軽は集団戦闘の基礎兵力となった。しかし、足軽の中には世の乱れに発生した山賊夜盗の類が多く、主従の観念が薄かったために、無頼の徒としてさげすまれたこともあった。応仁の乱に際し、放火、掠奪をやったのは、軍律など念頭にない足軽のしわざだが、その弊害を知りつつ彼等を雇い入れねばならなかった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
馬廻(うままわり)
馬廻というのは主将の馬のまわりを警固するという意味である。馬廻衆、または馬廻組は騎馬の兵士であるが、近衛兵だけに体力のすぐれた者を選んであった。古くはただ主君の馬側に扈従しただけなので、一定の従者ではなかったが、戦国の世になって特定の顔ぶれも定まり、馬廻という職名ともなった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
昔時、武家にて、主君の馬のまわりにつき従ひし武士。(『廣辞林』)主君の護衛役の武士。
[戦国武将の護衛]
○源君於遠州天方天野宮内左衛門にあひ玉ひ、危かりし時御近習わづか六七人、無類のはたらきをして難をのがれしめ玉へり。此の時より諸士の二男三男有力の者を召し出され、御陣にては御馬廻りに相ひしたがへ玉ふ。是を小十人と名づく。信玄も随兵三十人、謙信も二十人あり。古へ正成、義貞皆しかり。(『見聞談叢』)
中でも有名なのが織田信長直属の馬廻で、信長の親衛隊を特にいう。千名ほどで構成され、それぞれの郎党を合わせ約五千人の部隊を直接指揮した。また、馬廻と呼ばれる武将達は、安土城内に居住する義務を負っていたという。彼等馬廻たちは、常に信長と行動を共にし、その身辺警護にあたった。
- 【母衣衆】(ほろしゅう) 馬廻の中から、とくに戦功のある二十人を選抜し、「母衣衆」と名付けた。これら二十人をさらに十人づつに分け、それぞれ「黒母衣衆」「赤母衣衆」と呼び、名誉の地位を与えられている。「黒母衣衆」の筆頭といわれた河尻秀隆は、その戦功を認められ、領地を与えられて嫡男信忠付きの与力となり、武田勝頼を滅ぼした後には、甲斐一国を与えられている。
- 永禄十二年八月二十日、伊勢国へ信長は出馬した。この頃信長の馬廻の中、戦功の衆二十人を母衣衆に定めた。母衣は背に負う矢除けの武具で、その色により階級を設けたのである。母衣衆は下の通り。
- 黒母衣衆 佐々内蔵介成政、毛利新左衛門、川尻肥前守鎮吉、生駒勝介、永野帯刀左衛門、津田左馬介、蜂屋兵庫頭頼隆、中川八郎右衛門、中村主水、松岡九郎次郎
- 赤母衣衆 織田越前守、前田又左衛門利家、飯尾隠岐守定宗、福富平左衛門貞次、原田備中守直正(塙九郎左衛門のこと)、黒田次右衛門、毛利河内守、野々村三十郎、猪子内匠助 (稲垣史生『考証戦国武家事典』)
軍師(ぐんし)
軍師は「軍監」または「軍者」ともいい、以前は一軍の大将がこの役目を果し、別に軍師という役はなかったが、武田家の山本勘助が軍者となってからこの役が出来たという。副将の格式を持っていて、策戦のみならず軍法の制定にも参画する。番頭、大番頭の身分で、一部隊の軍師でも物頭である。陣中では大将の傍にいて、大将と共に軍機を謀る役柄だから、知謀衆にすぐれ、和漢の兵書に通じていなければならぬ。天文地理、城塞の優劣を見きわめ、奇謀術策に巧みな老功の士を用いるのが普通である。いよいよ開戦となれば、片時も大将の傍を離れず、陣貝、太鼓の指図、旗幟の進退を命ずる。戦国末期には一部隊の出撃にも軍師をつけるようになった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
侍大将(さむらいたいしょう)
侍大将とは、その身侍にして一軍の将となり、軍士を指揮する者をいえるなり。〈侍とは六位の人の諸家に祇候する者をいう〉「平家物語」「太平記」「伯耆巻」「宝篋院殿将軍宣下記」等に見えたるはこれなり。されどこれは平日に定めおかるるものにあらず。事あるに臨みて、侍の中よりさるべき者を選びてその職に従わせしなり。室町殿の末に至りては、名儀やや乱れて、家々の定め同じからず。果てには侍大将、足軽大将と並べ呼ばるることとなりて、侍一組をあずかり指揮する者の称となれり。後世の番頭(ばんがしら)は大かたこの職掌にかなえり。[武家名目抄](稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【足軽大将】(あしがるたいしょう)
弓足軽を指揮するのが弓大将、鉄砲足軽を指揮するのが鉄砲大将、槍組の足軽を指揮するのが長柄大将。それらを総称して足軽大将といったのである。足軽組はまた二十人の小隊に分かれていて、その一隊を指揮するのが足軽頭、足軽小頭といわれたが、諸家によって支配の人数は一定していない。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
使番(つかいばん)
戦場で指揮官の命令などを各武将(侍大将など)に伝える役。主に譜代の若侍が勤めた。
現代の伝令将校あるいは副官の役目で、戦国初期には現れていて伝令を伝えるばかりでなく、軍中の巡察も行った。江戸時代に入ると幕府の職制となり、若年寄に属し戦場では使命を伝え、平時においては諸国を巡回して遠国役人を監察し、また、将軍の代替わりに大名の治績を視察した。また、将軍家大奥の女中にも使番という職名があった。
使番とは伝令将校のことだ。戦闘中総指揮官の側近にいて、各隊へ指令を伝えにゆく役どころである。いずれも若く、馬術の達者を揃えてある。徳川家の使番の印しは、黒地に金で『五』の字を書いた。幅五十センチ、長さ九十センチほどの長方形の旗だ。背につけたこの旗を風にひるがえしながら、戦場を疾駆する使番こそ、正しく全軍の花であり、徳川譜代の若武者の憧れの的だった。(『影武者徳川家康』上8p)
旗本(はたもと)
本来は本陣・本営と同じ意味の詞だが、そこを警衛・警固する武者をもいうようになり、その大将に直参する将士をいった。幕下。
江戸時代には武士の階級の一つとなり、将軍家に一万石未満の碌で仕え、御目見(おめみえ)(五百石)以上の格式を持つ者をいった。それ以下を御家人という。
『影武者徳川家康』に本多忠勝を「御旗本先手侍大将」とある「御旗本」は江戸時代の旗本ではなく、本陣・本営と同義の旗本で、本陣にあり先陣を勤める侍大将をいう。
隠密・撹乱・諜報
忍び
戦国期、忍びの者のことを、「すっぱ」「らっぱ」と称し、透波・水波・鳥波・川抜などの文字を当て「すっぱ」と読ませ、「らっぱ」には乱波の文字を当てた。「すっぱ」や「らっぱ」には、身軽く、足の速い者が多く、家や城などへ忍び入って探索や情報収集に従事したり、小集団による夜討ち、朝がけなどの奇襲作戦に活躍した。忍びには「上忍」「中忍」「下忍」とあり、「上忍」は大名などの家臣で、「中忍」はその家来、陪臣を指し主に士分であるが、「下忍」は上中忍に仕える家僕、下人の身分とされ、実働部隊の中心となった。
また、伊賀在住の郷土史家池田裕氏は『萬川集海』(伊賀忍術秘伝書)の文を引用して、上忍、中忍、下忍の区別はあくまでも「期待される忍者像」の基準として分けられたもので、上記のような組織上の区別ではなく、技量の区別であったと述べている。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)
伊賀忍び(いがしのび)
伊賀衆、伊賀者と呼ばれ、鈴鹿山地に続く布引山地の西麓伊賀国の地侍とその下人たち。南北朝時代、楠木正成の手勢として、笠置城攻めや北条高時の軍勢を撹乱し、その名を轟かせた。徳川家康に武将として仕えた伊賀の国人服部半蔵正成の縁で、伊賀越えの大難の時に伊賀衆は嚮導役を勤め無事に脱出させた。その功績から、伊賀の国人たちは伊賀組として徳川家に仕えることとなる。
[伊賀者の発祥]
伊賀者の祖は、鎌倉時代中期から南北朝にかけて、東大寺が荘園化した南伊賀郡黒田荘の住人たちが東大寺に抵抗した勢力として現れる。彼等は黒田の悪党と呼ばれ、弘安五年(1282)の『東大寺文書』にも「黒田荘の住人大江清定、服部康直以下の輩が山賊、夜盗、強盗、放火、殺害等の悪行を為すので討伐して欲しい」という訴状を朝廷と六波羅探題に提出したと書かれている。甲賀者もその最初は山賊として、史料に現れているように、当初は支配者層からは、反抗勢力の悪党として扱われていた。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)
加賀忍び(かがしのび)
加賀藩主前田利家に仕える忍びの集団。天正伊賀の乱で加賀藩に逃れてきたとされる。越前流ともいわれ、伊賀忍びの流れを汲む。『一夢庵風流記』には、その頭領四井主馬率いる加賀忍びが描かれている。前田慶次郎の従者となった捨丸も加賀忍び出身。
木曽忍び(きそしのび)
木曽義仲所縁の土豪衆の配下で、信濃・飛騨国境木曽谷を根拠としていた。ここの土豪の一部が義仲に従い、戸隠に依ったことから、戸隠忍びを生む。
甲賀忍び(こうがしのび)
鈴鹿山地の南端、伊賀国に隣接する地の地侍とその下人。甲賀衆とも呼ばれ、伊賀衆とともに楠木正成に従い軍功を上げている。甲賀衆は甲賀二十一家と呼ばれ団結力が強く、信長と戦い、その死後秀吉に一時仕えたが、些細なことから領地を没収され、反豊臣の気風が強く関ヶ原では家康側につく。その前哨戦ともいえる伏見城籠城戦では城将鳥居元忠の許で、甲賀衆も籠城し三成軍と戦った。この時の功績で甲賀衆は「甲賀百人組」として伊賀組と共に幕府に召し抱えられる。
[甲賀の里忍術村]
隠し階段やどんでん返しなどを備えた「からくり屋敷」、約1、500点の忍術資料を展示する「忍者博物館」、忍者の常用した薬草を集めた「薬草園」などがあり、手裏剣投げや水蜘蛛などの忍者体験コーナーがあるアミューズメント・パーク。「からくり屋敷」の建物は、甲賀忍者の古文書『萬川集海』の編者の一人藤林保義の屋敷を移築したものという。
交通/JR草津線「甲賀」駅から送迎バス有り。
[甲賀流忍術屋敷]
甲賀武士五十三家の筆頭格望月家の住居で、元禄年間に建てられた建物。外観は茅葺き平屋建てだが、内部は三階構造になっている。通路落とし穴・縄梯子・忍び梯子・回転戸・地下道などのからくりが随所に施されている。また、部屋の一角には忍者人形が置かれ、忍具の説明が書かれているため、ちょっとした忍者博物館の様になっている。
交通/JR草津線「甲南」駅下車 徒歩25分
武田忍び(たけだしのび)
武田信玄は常時七十人あまりの忍びを抱えていたという。その内三十人を選び、十人づつの組にそれぞれ侍大将甘利備前、飯富兵部、板垣信形をつけ、諸国を廻らせ情報を集めさせていた。また、甲州流、甲陽流、信玄流ともいわれ甲州流軍法の斥候部分が武田忍びであるとされる。『影武者徳川家康』に登場する甲斐の六郎はこの武田忍び。
戸隠忍び(とがくししのび)
信濃・越後国境戸隠山を根拠とする忍び。戸隠山は隣接する飯綱山とともに修験道の霊場としても知られ、その行法を取り入れた個人技の優れた忍び。木曾において平家打倒の兵を起した木曾義仲が、この戸隠山に陣を置いたのが始めとされ、その家臣とされる仁科大助が、飛鳥術、銛盤投術など独特の技を身につけたといわれる。真田幸村に仕えた猿飛佐助、霧隠才蔵はこの戸隠忍びとされた。
根来衆(ねごろしゅう)
元は根来寺の僧兵集団だったが、根拠の根来寺が秀吉に攻め滅ぼされると、彼等は各地に散った。やがて彼等は修験道を元にした体術と隣接する雑賀との関係から鉄砲にも通じていたため、紀伊藩や幕府に忍び働きの出来る者として召し抱えられる。これら根来の僧兵を元とする忍びを根来衆といった。
蜂屋の一党(はちやのいっとう)
蜂屋衆、尼子衆ともいう。毛利元就に滅ぼされた中国地方の戦国大名尼子氏の抱えた忍び集団。この一党は、畿内を荒し回っていた野盗で、その忍び働きを買われ尼子氏に召し抱えられたという。また、この一党は、平将門に協力した一族で、彼等はイボロ族といわれ、京の撹乱のために将門により派遣されたが、将門の死により頼る所を失い盗賊化したともいわれている。『雲陽軍実記』には「村上帝御宇天暦之末、帝闕の近辺、矢背(八瀬)、大原、鞍馬、市原、高雄、愛宕の深山茂林に強盗隠れ住みて、夜は洛中洛外、或いは畿内の中まで忍び出て、押込、辻切、追剥、夜討をなし、万民を苦しめ、富裕の者どもの財宝を掠め、奪ひ取る事夥し。官裁を以て警固し給ふと云へども、元来忍びに馴れたるもの故、爰に有るかとすれば彼所に飛び、飛鳥の如くに立ち廻り、昼は己が住家に入りて岩窟洞の内に身を潜みける故、是を防ぐに術なく、上一人より下四民に至るまで、昼夜彼が為めになやまされ、片時も易き心なし」と記されているのが蜂屋の一党とされるらしい。ここで注目されるのは、これらの賊徒は大江山の鬼と称された盗賊と行動範囲が同じで、さらには八瀬童子の祖先に繋がるように思えることだ。
風魔一族(ふうまいちぞく)
高麗の一部族だったが、国王に叛逆し、一族をあげて海を渡り日本の地に亡命した。その一族は古来から拳法の秘儀を伝え、忍びの術にすぐれていた。(『花と火の帝』下85)
北条氏直に仕え、その数二百人といわれた伊賀・甲賀と並ぶ忍び集団。一党は馬術に優れ、箱根山中を平野のように乗回し、風魔小太郎の許、一糸乱れぬ統制がとれていたという。北条忍者ともいい、相模国足柄下郡風祭に近い風間谷に居住していた事から、風魔といわれるようになったとされる。
また、風魔は風間(かざま)と史書には現れ、万治四年(1661)刊の『古老軍物語』巻四「軍陣に忍びの者を詮とする事付戴淵が事并風間といふ忍びの事」には、北条氏直と武田勝頼が黄瀬川に対陣した時、氏直方に近江の甲賀より出た風間の三郎太郎といふ並びなき大力で勇者がいて、この男が忍びの上手で変幻自在、さんざんに武田方を苦しめたという話を載せている。(『伽婢子』2人名索引)
◯天正の頃、関東に乱波風間といへる強盗あり。党を結び陣中へも忍び入りて盗みをなす。諸人恐れたるが、今年より何れへか逃退て其の噂絶えたり(「北条五代記」に出づ)
均庭云ふ、此の条いたく誤れり。乱波とはそれらが総名にて、其の中に風魔といへるが有りしなり。これは軍中にめしつかひし間者、しのびのわざをなす者どもなり。されば「北条五代記」に、是れ等のものどもを国持大名衆扶持し玉ひぬ。氏直も乱波二百人扶持す。一の悪者あり、かれが名を風魔といふ。同類の中四頭あり。山海の両賊強竊の二盗是れなり。これを使ひて敵国を侵し、謀計調略するが為めなり。天正の頃のみ有りしものにはあらず。但し、かの風魔は氏直の時の者なれば、天正十八寅年小田原滅亡してうせたるなり。委しくは本書を見るべし。(『武江年表』)
御所忍び(ごしょしのび)
実在したという資料は無いが、隆慶一郎は御所忍びとして二つの系統の忍びを設定している。一つは『影武者徳川家康』に登場する青地新左衛門、『駆込寺蔭始末』の主人公麿らの木曽忍びの流れを汲み、主に御所警護を任とする忍び。もう一つは、『花と火の帝』で描かれた駕輿丁「八瀬童子」を御所忍びとしている。
裏柳生(うらやぎゅう)
新陰流を道統とする剣術およびその一門を表柳生と称すのに対し、伊賀・甲賀の忍びを取入れ、主に将軍(幕府)の影働きを行った柳生一門を指す。小池一夫氏の劇画『子連れ狼』で、その総帥柳生義仙の名と共に、広く巷間に知られるようになった。隆慶作品では『吉原御免状』『かくれ里苦界行』で、松永誠一郎、幻斎らと死闘を繰り広げる。他の作品においても、物語に膨らみを持たせる重要な脇として登場している。
【虎乱】(こらん)
乱剣の陣。どうしても斬らなければ成らない相手に使う必殺の型。複数の人間が、相手を二重に囲み、内側と外側の人間が互に逆方向に廻り、相手を撹乱。内側の円の人間が片手斬りで徐々に円を狭め、相手の動きを封じ、最後には外側の人間が内側の人間を踏台に飛び、頭上から真向唐竹割に斬撃を加える裏柳生の暗殺技。
遠聴の術(えんちょうのじゅつ)
聴覚の鋭い忍びが持つ技。耳助、何々の耳と呼ばれる忍び。指向性のある集音マイクのような特技か。敵の陣中に深く入り、会話などの情報を収集することを役とした。「名張の耳」などが有名。
草(くさ)
敵地に永年にわたって潜伏し、その土地の人間になりきっている隠密。
跳躍の術(ちょうやくのじゅつ)
跳躍、飛び技。身軽さを身上とする忍びの得意とする術。塀や木の上に素早く飛び移り、城や砦に侵入した。この技を得意とする術者は、「飛助」「飛び××」あるいは「猿」などの文字を当てて称される。「猿飛佐助」はこの術の達者。
【猿飛びの術】(さるとびのじゅつ)
地面に降りる事なく、樹から樹へと移って移動する技。
【天狗昇飛切の術】(てんぐしょうとびきりのじゅつ)
気合いと共にその場から六、七尺(約2m)飛び上がる術。摂津花隈城主戸沢山城守が得意とした。塚原卜伝、亀井武蔵守茲矩らが戸沢山城守から学んだという。宮本武蔵が卜伝に師事した時にも教えを請うている。亀井武蔵守は新十郎といい、槍の名手。
忍者の発祥(にんじゃのはっしょう)
『近江輿地誌略』の「忍者」の項には、「世上普く伊賀・甲賀の忍者と称する事は足利将軍家の鈎御陣の時、神妙奇異の働ありしを日本国中の大軍眼前に見聞する故に其以来名高し、鈎陣に伊賀の河合安芸守一族家士、忍に於て抜群の功あり、故に代々伊賀者を称せらる、之伊賀者の名の起こり也、甲賀は伊賀の別伝也」と記している。また『萬川集海』にも「伊賀が忍術の本なり」とあり、伊賀が忍者発祥の地としている。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)
【忍び関連逸話】
会津藩の阿武太郎左衛門は忍術を以て名を博したる人なり、初め猫を捕へんとて追廻しけるに、素早く摺り抜けて手に合はざりければ、一室に立籠め、手燭を照して捜し見けるに、何処に隠れけるや其影だに見えず、扨は立籠めたりと思ひしに、早已に逃去りしものなるべしと独語きつつ、手燭を下に置かんとしけるに、図らざりき猫は尚室内中に在り、其手燭の下より飛出でたり、是れ火の影を追ふて其身を潜め居たるものと知られたり、阿武は是を見て忽ち忍術の妙処を了り、鍛錬の末遂に達人と呼ばるるに至りぬ、されど此人性狷介にして人の厭忌ることを好み、動もすれば他を苦しめければ、其終りを令くする能はざりしは惜むべし(橋爪介三郎)(『想古録』)
具足
具足(ぐそく)
鎧や胄など、身に付ける戦道具。
旗・指物(はた・さしもの)
馬標(うまじるし)
戦陣で、大将の馬側に立ててその所在を示す目標としたもの。天正の頃はじまる。(『広辞苑』第二版)
馬印。馬章。昔時の武具の一、大将の馬の側にたてて、軍中の目じるしとしたるもの、戦国時代の末に始まれりといふ。(『廣辭林』新訂版)
馬印、馬標、馬験。武具の一。戦陣で、大将の所在を示すために、そのそばに立てて目印としたもの。秀吉の千生り瓢箪、家康の金扇などは有名。「人数討ち捕り候。滝川の馬標も捕り候」(『家忠日記』天正十二年六月十九日)(『岩波古語辞典』)
武具の一種。軍陣中にありて、大将の馬の側に立てて、其居所を示し、軍中の目じるしとするもの。信長記、十五、馬験之事「永禄の比までは、馬験と云事なかりき、元亀の比より初り、次第に長じて、今は、しるしの要とす、云々、一、金のからかさ、信雄卿、一、瓢箪に金のきりさき、秀吉卿」 北条五代記、一、小田原北条家旗馬じるし事「氏康は、云々、馬じるしは、五色に段々の大のぼりなり」(『大言海』)
○馬幟(むまじるし)
大永のころ、北条氏康の臣大道寺が持せしと、甲陽軍鑑に出たり、又信長公の時、木下藤吉はからひとして、侍大将の面々さし物を少大くして、小馬幟とす、これ近世のはじめなりと云(『近代世事談』)
【馬標持】(うましるしもち)
旗奉行に属し、馬標を持って大将に従うもの。(『広辞苑』第二版)馬標を持ちて、大将の側に侍する役。清正記、一「清正の傍にある者は、云々、弓持の水谷安之丞、馬印持の善吉、草履取の乙若」(『大言海』)
指物(さしもの)
室町時代の末、当世具足の背の受筒にさし、戦場での目標とした小旗または飾りの作り物。旗指物。背旗。(『広辞苑』第二版)
昔時、鎧の背の指筒に差したる小旗又は飾物、戦場にて目標とせしもの、天正以前には見えずといふ。(『廣辭林』新訂版)
指物、差物、挿物。戦場の標識とした小旗または飾物。「弓・鑓・鉄炮・のぼり・指物、算を乱すに異ならず」(『信長公記』首卷)(『岩波古語辞典』)
小さき旗、又は、種々の飾物を、鎧の背の受筒に挿して、戦場に、目標とするもの。背旗。 慕景集(太田道灌)「敵の男は、栗毛なる駒に乗りて、二つ引両に、昇龍の紋つけたるさしものなり」 合類節用集(元禄)七、器財門「捺物(サシモノ)、兵器、元亀天正以来、盛所レ用」 倭訓栞、さしもの「鎧の指物は、天正以前は見えず、もと、馬印に因れり」(『大言海』)
陣幕(じんまく)
陣営に張る幕。(『廣辭林』新訂版)陣屋に張るまく。麻布などを用い、大きく定紋を入れる。(『広辞苑』第二版)
幟(のぼり)
昇り旗の略。丈が長く幅の狭い布の横に、多くの乳をつけ竿に通し、立てて標識とするもの。戦陣・祭典・儀式などに用いる。(『広辞苑』第二版)
布の横縁に乳をつけ、乳に竿を通して立てて表識とするもの、多くは幅狭くして丈長し。(『廣辭林』新訂版)
〔昇旗の略。乳に竹を通して、順に昇るより云ふと云ふ〕旗の一変せるもの。布の上と横と縁に、許多の乳を付け、竿に通して立つるもの。畠山右衛門督政長に始まると云ふ。又、上端の横竿の端に、布帛の片をつけ垂るるを、麾と云ふ。(源平の赤白にて別つ頃は、吹流したる旗にてよけれど、家の紋をつけて別つには、ひらめきて定かに見えねば、乳附となりしなるべし) 相国寺供養記(応永)「のぼり旗、赤地金襴」 武功雑記、上「関ヶ原陣まではのぼり数多、大阪陣より少くなる也」(『大言海』)
旗(はた)
布にて製し、其一端を竿に繋け、空中に翻して物事の標識となすもの。軍旗。(『廣辭林』新訂版)
長い布などの一端を竿頭などに固定し、他端を垂らしたもの。また、幟の類をもいう。目標や飾りとし、戦争や祭礼などに使った。「捧げたる旗の靡きは」(『万葉集』一九九)(『岩波古語辞典』)
旗、旌、幡。〔風にはためくものか、或は云ふ、曾(正しくは糸偏:ハタ)を用ゐれば云ふか〕文武の式、又は、仏式等に、立てて目標とする具。布帛にて長く製し、其一端を竿に繋け、高く立てて、翻へる如くす。布帛の上端の樹木を横上と云ひ、其裾を旗足、又は、あしと云ひ、又、横手と称す。其中央に紐を付けて、竿に結ひつけ、末は吹流しなり。源平の頃よりして、軍隊、及、敵に身分を識別せしめむが為に、源家は白旗、平家は赤旗を用ゐ、皆、無地、其外、諸武家、軍隊にては、新田氏は中黒、足利氏は引両など、家々の紋をつく。 倭名抄、十三六征戦具「幡、波太、旌旗之総名也」 平治物語、二、待賢門軍事「これ皆源氏の勢なれば、白旗二十余旒れうち立てたり、大宮表には平家の赤旗三十余旒さし上げて」(『大言海』)
[関連語]
旗を挙ぐ 軍の旗をかかげる。兵を起す。「旗を挙げ、剣を取って信州を出でし日」(『平家物語』七「木曽山門牒状」)
旗を立つ 軍の旗を立てる。「万鬼父子も仙の畑に御旗立てられければ」(『加沢記』二)武威を示す。「今この時に上洛し、天下に旗を立て」(『江源武鑑』十五下)
旗を巻く 軍の旗を巻きおさめる。「旗をば巻かせて…都へとって返すほどに」(『平家物語』九「木曽最後」)軍の旗を巻きおさめて、敵に和を乞う。「早く甲を脱ぎ、旗を巻き、降人に来たれかし」(『加沢記』二)(以上『岩波古語辞典』)
【旗揚】(はたあげ)
兵をあげること。転じて、新たに事を起すこと。
【旗色】(はたいろ)
戦場で旗のひるがえる様子。それによって戦況を知るところから転じて、形勢。旗色が悪いなどと使われる。
【旗本】(はたもと)
軍中で大将のいる所。「兵制」の項「旗本」参照。
防具(ぼうぐ)
兜(かぶと)
頭を守る防具。
胄。〔頭蓋(かぶぶた)の約転。朝鮮語にもカブオトと云ふ、甲の字をKブトに用ゐるは、誤なり〕武具の名、頭に被る、鉄製のもの。頂に当る所を鉢と云ふ、形、鉢を伏せたるが如し、項(うなじ)に錏(しころ)をつく、これは、尋常のものなり、其製、尚、種々あり。(『大言海』)
[関連語]
兜首 兜附首。打ち取りたる敵の将士の首級、兜を添へて主将に呈するもの。(雑兵の陣笠ならぬを証す)略して兜附、兜首とも云ふ。(『大言海』)
兜を脱ぐ 降参、降服の意。
鎧(よろい)
始めは矢を弾く程度の物だったが、鎖などを織り込むことで徐々に強化され、長刀などの斬撃にも耐えられる強度を持つ。
【胴丸】(どうまる)
平安の頃から使用された歩兵用の鎧の一種。桶側のように胴を円く囲み、右脇で合わすように造ったもので、脇楯・弦走・逆板がなく簡素なものであったが、鎌倉時代から三物と称して袖と兜を加えるのが普通となった。軽装で活動に便利なため、近世まで上下の間に用いられた。(『広辞苑』第二版)
筒丸。鎧の一種。胴を丸くかこんで、右脇で合わせるように作った略式軽装用のもの。どうまろ。 「弓よく射る者どもは甲を着ざれ、腹巻・腹当・胴丸などを着て、敵の鎧の胸板をさしつめて射よ」(盛衰記22)(『岩波古語辞典』)
〔胴を丸く囲む故に云ふ〕鎧の一種。其製、胴の左に、つがひ無くして屈伸し、右の脇まで、十分に合ふものと云ふ。どうまろ。(『大言海』)
陣羽織(じんばおり)
陣中で鎧・具足の上に着た表衣。袖無しのように仕立て(両袖のついたものもある)、絹・羅紗・ビロードなどで作り、刺繍や摺箔を施したものもあり、襟に黒繻子を用い、文様を金で摺りだしたものもある。室町時代に渡来したスペイン人・ポルトガル人等の服装を模したという。具足羽織。押羽織。(『広辞苑』第二版)
陣中の服。製、羽織に似て、袖無し、鎧、具足の上に着る。将士の用なるは、絹、羅紗などにて作り、繍縫などして飾る。軍甲。 見聞雑記(難波宗建)「信長其の日は、極暑と云ふ御具足、甲を脱ぎ置かれ、白き帷子に黒き陣羽織」(『大言海』)
面頬(めんぼう)
兜の附属具。面の形に製し顔にあつるもの。もとは鉄にて製し、後には革にても作りたり。(『廣辭林』新訂版)
めんほほ。(一)兜に属する具。鉄製にて仮面の如く、顔一面に当てて、眼の所に穴あるもの。瞼甲 頬以下のみなるを、目下の頬当、叉は、半頬と云ひ、頤のみなるを猿頬と云ふ。又、頤の下に錏の如きものを附くるを、スガともヨダレカケとも云ひ、下に穴あるを汗落(一名、露落)と云ふ。 書言字考節用集、七、器用門「面頬、めんほう、正曰2面頬当1、首鎧具」(二)剣術の演習に用ゐる具。細そき鉄にて、格子の如く透きて見るべく作れる仮面に、綿を入れたる布を添へたるもの。頭面を被ふ。略してめん。(『大言海』)
城
城(しろ)
館や砦などを、土塁や石垣、壕などで囲み敵の攻撃を防ぐように造った建物の総称。
敵を防ぐために土や石で堅固に築いた建物・設備(『新明解国語辞典』)
敵を防ぐために築いた軍事的構造物。わが国では、古くは柵・土塁を以てしたことがあったが、中世に至って、天険を利用して防備を施す「山城」が発達し、専ら戦闘用であった。戦国時代以降は、敵軍来襲の防備ばかりでなく、領内経営・城内居住・権勢表示などをも兼ねた築城に進み、いわゆる城郭が完成。多く平野にのぞむ小丘土または平地に築かれ、二重三重に堀をめぐらし、本丸・二の丸・三の丸などに郭を区分し、石垣上に多数の櫓類を建て、偵察・射撃に利し、本丸には天守閣を設けて郭の中軸とし、表には大手門、裏には搦手の門を構え、住居用の殿舎をも備えた。(『広辞苑』第二版)
敵軍の来襲を防備するために設けたる土石の築造物。市邑の郭壁叉は辺防の要塞若しくは諸侯の居城等の如き壮大なる構造のもの乃至営塁・堡砦と呼ばるゝ小規模なる構造のものまでをも概稱す。我国にては、戦国以降大に発達し、地形と目的とによりて各其模様を異にすれど、大体に於ては一定し、石塁を繞らしカキを設け楼櫓を起こし、壁下に壕を控ふ。前後に門を設け、前門を大手と称し後門を搦手と称す。邸内を本丸・二の丸・三の丸等に区分せり。(『廣辞林』新訂版)
日本の名城と云ふは、熊本、姫路、名護屋の三城とす、熊本は加藤清正の築くところ、姫路は豊太閤の築くところ、名護屋は清洲の城を引きたるものにて、織田信長の築くところなり、六十余州の内、城郭要塞少なからざれども、其中に就て名城と云ふは、唯だ此の三城あるのみ(宮内清之進)(『想古録』)
自己、あるいは集落、国家などの生命や財産を守るためにつくられた堀や土塁、柵などの発達したものが城である。
わが国でも上代前期にはチャシや神護石などの遺跡あり、が奈良時代から平安時代にかけては、中央には中国の長安や洛陽の形式をまねた都城、地方庁には府城、西南地方には辺防築城、東北地方には柵などを設けている。
鎌倉時代から室町時代にかけては山城や野戦のための臨時築城などがあったが、防御的な施設が多く、建築的な進歩はあまり見られない。しかし、室町時代も末期になると天守の発生も見られるようになる。
近世になると、従来の防御ではなく、その地方の政治・経済・文化の中心地として領内を統治するための施設となり、不便な山城よりも平山城、あるいは平城へと移ってゆき、人口の石垣の発達をはじめ、本丸を中心とした二の丸、三の丸など多くの曲輪が設けられ、城の建築は建築界の中心を占めるまでになった。
とくに、十七世紀初頭は城郭建築の最盛期といわれ、一年間に諸国で天守が十三基も建てられた年があった。
しかし『大坂の陣』を境に、徳川幕府の支配が確立すると、幕府は戦乱をおそれ、元和元年(1615)、「一国一城」令を出して城の建設に制限を加え、新規に城をつくることはもちろん、城の修理にも様々な注文をつけた。以後、城郭建築は無用の長物となり衰える。ただ、十九世紀半ばになり、西洋のルネッサンス式築城法がオランダ人によってもたらされ、蘭学者武田斐三郎の設計で安政四年(1857)に起工、元治六年(1864)に完成した函館の五稜郭が江戸時代最後の平城、わが国初の洋式城郭として特筆される。(『日本なんでもはじめ』)
各地の城郭一覧が『歴史地理・地名便覧』「建造物一覧」にあります、参照ください。
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本丸(ほんまる)
城の中心になる部分。普通、中央に天守閣を築き周囲に堀ををめぐらす。(『新明解国語辞典』)城の中心部にあって、天守を築いたもっとも主要な郭。本曲輪。(『広辞苑』第二版)我国昔時の城郭の一部。全城郭中最も主要なる箇所。周囲に塁を設け壕を廻らし、中に天守閣を築き城主の居所其他主要の役所・倉庫等を置けり。(『廣辞林』新訂版)
天主閣(てんしゅかく)
城の本丸の中央に、三層五層に他よりもひときわ高く構えた物見やぐら。(『新明解国語辞典』)「天主」とも書いた。城郭の本丸にある最大の櫓。戦時には展望台・司令塔または最後の根拠地となり、平時は領主の権勢の表現。文献上の初見は1550年の伊丹城で、1576年織田信長構築の安土城に至って壮麗雄偉な様式を完成。(『広辞苑』第二版)我国昔時の築城にて、本丸に殊に高く設け構へたる物見櫓、織田信長が安土城を築き、此処に天主を祀りたるに起ころともいひ、叉は松永久秀の多聞城に起こるともいふ。殿守。(『廣辞林』新訂版)
今ノ藩ニ殿守ト云ヘルモノアルハ、織田信長ノ安土ノ城築カセラレシトキニ始レリト云。信長、仏法ヲ崇バズシテ天主教ヲ信ゼラレシコトハ、世ノ人ノヨクシレル所也。コノ殿守ト云ヘルモノ、信長ノ創メテ意ヲ以テ造ラレシニモ非ズ。又兵家者流ニ伝ヘシ所アルニモアラズ。西洋国王ノ天主ヲ奉ゼル所ヲ模擬セシモノ也。近比伊勢ノ白子ノ人ノ漂着セシ、オロシヤナドノ都城ノ制、便チ殿守ナリ。サレバ天主ト書ベキヲ、当代コレヲ禁ジ玉フヨリ、憚リテ殿守ト書タル也。(松本愚山『消夏雑職』)
西の丸(にしのまる)
イ)城の西部の一郭。本丸に対していう。ロ)江戸城本丸の西の一郭。将軍の世子の居所で、また将軍の譲職後の隠居所ともなった。今の皇居はここに当たる。(『広辞苑』第二版)
二の丸(にのまる)
城の本丸の外囲い。(『新明解国語辞典』)本丸即ち本城に対して、その外側の廓。(『広辞苑』第二版)本丸の外をかこむ郭。(『廣辞林』新訂版)
三の丸(さんのまる)
城郭の二の丸を囲う外郭。(『新明解国語辞典』)城郭の二の丸を囲む外郭。三の廓。(『広辞苑』第二版)城郭の二丸を囲む外郭。(『廣辞林』新訂版)
出丸(でまる)
出城。付け城。本城に附属して、本城の外方に築かれたる城。(『廣辞林』新訂版)本城から張り出して築いたくるわ。でじろ。(『広辞苑』第二版)大坂城の真田丸が有名。
曲輪(くるわ)
郭・廓の意。城・砦などの周囲にめぐらす、土や石の囲い。(『新明解国語辞典』)城・砦などの周囲に築いた土や石のかこい。(『広辞苑』第二版)城市又は城砦などの周囲に、設け廻らす土石のかこひ。(『廣辞林』新訂版)
総構(そうかまえ)
城・砦などの外郭。また、その内部の全体。(『広辞苑』第二版)
堀(ほり)
防備のため、城の周囲を掘って水をたたえた所。(『新明解国語辞典』)城の周囲を掘って、水をたたえた所。(『広辞苑』第二版)城の周囲を掘りて、水をたたへたる所。(『廣辞林』新訂版)
【空堀】(からぼり)
城を守るために設けた水の無い堀。(『新明解国語辞典』)水の無い堀。(『広辞苑』第二版)城砦などの防備として設くる、水のたたへてなき堀。(『廣辞林』新訂版)
【内堀】(うちぼり)
城の内部にある堀。(『新明解国語辞典』)
【外堀】(そとぼり)
城の外回りにある堀。(『新明解国語辞典』)
大手(おおて)
城の正面。(『新明解国語辞典』)城の表門。(『広辞苑』第二版)大手門。追手門。
搦手(からめて)
城の裏門。(『新明解国語辞典』)
縄張(なわばり)
築城の際、敷地に縄を張り、建物の位置を定めること。(『新明解国語辞典』)
隆慶作品に登場する各地の城郭については、『歴史地理・地名便覧』(別ウインドウで開きます)旧国名のそれぞれの国名の末尾に、「城郭・寺社・その他の建造物一覧」としてまとめてあります。

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