文化・風流・風習

傾奇

傾奇(かぶき)

動詞の「傾く」からきた詞。
傾く ふざける。放縦なことをする。好色である。(『広辞苑第二版』)
本来持っていたであろう反骨の心根みたいな意味合いは、現在では無くなっている。

傾奇者

傾奇者(かぶきもの) 

傾き者、かぶき者。歌舞妓者。「ばさら(者)」あるいは「男伊達(男達)」とも云う。後年、「歌舞妓者」と云って異様な風体をして大道を横行する者や、軽佻浮薄な遊侠者、伊達者を指したと「広辞苑第二版」にある。隆慶作品においても「異様な風体をして大道を横行する者や、軽佻浮薄な遊侠者」としてのかぶき者(猪熊教利『花と火の帝』、深草重太夫『一夢庵風流記』)は登場するが、それらはろくでもない人間としてしか描かれていない。しかし、本来「傾く」という行為の中にある、権力に媚びず、既成の価値観に反撥し自由に己を表現するという行為や、あるいは因習にとらわれず、権威に怯えることがない行為は若者の特権として、むしろ積極的に肯定している。

『傾奇者』はいつの世にもいる。室町時代『ばさら』と呼ばれた佐々木道誉、戦国期の織田信長、慶長の大鳥逸兵衛、明暦の水野十郎左衛門、数えあげればきりがない。彼らは一様にきらびやかに生き、一抹の悲しさと涼やかさを残して、速やかに死んでいった。ほとんどの男が終りを全うしていない。『傾奇者』にとっては、その悲惨さが栄光のあかしだったのではあるまいか。
彼らはまた一様に、高度の文化的素養の持主だった。時に野蛮とも思われる乱暴狼藉の蔭に隠れてはいるが、大方が時代の文化の先端をゆく男たちなのである。田夫野人とは程遠い生きものであり、秘かに繊細な美意識を育てていたように見える。それがまた一様に『滅びの美学』だったのではあるまいか。
そして最後に、彼等は一様に世人から不当な評価を受けているように思われる。或は我から望んでそうした評価を受けようとした節さえ見られる。なんとも奇妙な心情であるが、彼等はそこに世の常とは違って、一種の栄光を見ていたような気がする。これこそ滅びの美意識の最たるものではないか。私は彼等の中に正しく『日本書紀』に書かれた素戔鳴尊の後裔を見る。
『故れ天上に住む可からず。亦葦原中国に居る可からず。宣しく急に底根国に適ねといひて、乃ち共に逐降去りき』これが神々の素戔鳴尊に下した宣告である。
『時に霖ふる。素戔鳴尊青草を結ひ束ねて、蓑笠と為し、宿を衆神に乞ふ。衆神曰さく。汝は此れ躬の行濁悪しくして遂謫めらるる者なり。如何にぞ宿を我に乞ふぞといひて。遂に同に距ぐ。是を以て風雨甚しと雖も、留り休むことを得ず。辛苦みつつ降りき』
私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔鳴尊を知ると知らざるとに拘らず、揃って一言半句の苦情を云うことなく、霖の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。(『一夢庵風流記』)

勝成のいうかぶき者と彦左衛門のいうかぶき者は違う。勝成は戦国末期を派手派手しく、それだけに華やかに生きた一人武者のことを指しているのに対して、彦左衛門は当節はやりの暴れ者の集団を指している。但し、この頃のかぶき者はまだ戦国の遺風を残し、後代に見られるような押し借り・ゆすりのたぐいは一切しなかったし、義に厚く、人が困っているのを見過ごしに出来ぬ侠気を備えていた。彼等に共通した態度は反権力であり、些々たる喧嘩に生命を賭けて悔いることがないという思い切りのよさだった。(『かぶいて候』)

魅力的な「傾奇者」として、隆慶一郎が描いた人物は前田慶次郎に尽きる。この前田慶次郎については『一夢庵風流記』および『花の慶次』を読んだ方々は先刻ご存じなので、ここでは改めて紹介しないが、ここに織田信長の傾いたエピソードがあるのでちょっと紹介してみよう。

信長が斎藤道三の娘濃姫を嫁に迎えた時、道三は信長の「大たわけ」という風評を確認するために会見を申し入れた。会見場所は尾張の西にある正徳寺。道三さんは信長と正式に会う前に、その「たわけ」振りを見ようと、町中の小屋からこっそりと信長が乗り込んで来る様子を伺った。
その時の信長は、世評にたがわず、奇妙な格好だった。行列は七、八百人の家来を引き連れ、三間半の朱槍五百本、弓鉄砲五百挺を担がせて、堂々たるものであり、その中の、信長の姿たるや、奇怪奇妙なものだった。
まず、甲冑姿でもなく直垂姿でもない。無造作に茶筅髪にくくっているが、派手な萌黄と紅の手打の紐で巻き立て、まとっているのは広袖の湯帷子で、肩までまくりあげ、朱鞘の大小は金ののしつけで、柄がまた異様だ。普通よりも長い上にミゴ縄で巻き、柄頭に芋縄の腕ぬきをつけてある。袴も尋常ではない。けものの皮を用いた四布の半袴で、素脚が剥きだし、さらに、その腰の廻りには、火打袋や瓢箪などをずらりとぶら下げている。
(なるほど、こりゃァ大うつけじゃ)
と、そのときは道三は呆れたり北叟笑んだりした。ところが、いざ、時刻になって、正徳寺とう寺で会見ということになったときは、なんと信長は別人のように、ちゃんと大名らしい正式な服装で乗りこんで来たのだ。この意表をついたやり方で道三は完全に度胆を抜かれた。「無念なことではあるが、あの大たわけ殿の門前に、わしが子供らは馬をつなぐことにるであろう」と、嘆じたという。(「歴史と旅」昭和55年5月号所収、早乙女貢「織田信長」より)

このエピソードは、『信長公記』にある。
「かぶき」という名称が「歌舞伎踊り」や「歌舞伎芝居」という芸能の方面に使われるようになると、いわゆる「かぶき者」は、「男伊達」「男達」(おとこだて)などと呼ばれ、さらに後には侠客と云われるようになる。

○むかしの侠客(ヲトコダテ)どもは、ことさらに異様なる姿にて、つよきを挫き、よわきを助け、金銀を惜まず、腰に白木の印籠だつ物をさげて、金百両づゝ入置て、道路にて物買ふに、一両にたらざる価は一両あたへ、一両にあまれるには二両あたへて、釣銭をとらぬを、伊達風流とせり、今の侠客は、高貴にへつらひて威光をかり、富裕におもねりて金銀をもらひて、男をたて、顔をしらるゝを自慢とす、むかしとはうらうへ(表裏)のたがひなり、(『神代余波』)

と江戸後期の国学者斎藤彦麿は、その著で「侠客(かぶき者)」の堕落を書いている。

男達(おとこだて) 

男伊達とも書く。元来は強きをくじき、弱きを助け、命を捨てても人を救うことに任ずること、またその者のことで、すなわち侠客をいったが、後年になると「町中男だて仕る若者これ有り、方々にて理不尽成る儀申し掛け、あばれ候由、聞こし召され候。(略)左様の徒者これ有り候はゞ、御番所え申し上ぐ可く候」(『正宝事録』延宝元年十二月十八日)と御触が出ているように、放埒で無法な乱暴者の称となった。

喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「だて風」の記述あり、参照ください。

かぶき者集団 

世にかぶき者といわれる者たちは、異様ないでたちで徒党を組み町中を闊歩したが、そのほとんどは「傾奇者」といわれた名立たる人物の姿形を模倣した、現代でいえば「族」と変わりの無い不平不満が鬱積した若者たちだった。後年になると、ならず者集団となって忌み嫌われる人々も現れたといわれている。

【荊組】(いばらぐみ) 
慶長期、京を闊歩していた「かぶき者」集団。人を傷つけること荊の如し、というのがこの名前の由来。(『花と火の帝』)

【皮袴組】(かわばかまぐみ) 
荊に刺されても痛くない、の意。皮の着物、袴という異風で都大路を闊歩した。(『花と火の帝』)

【棕櫚柄組】(しゅろつかぐみ) 
水野成貞が旗本奴を組織して作った。(『かぶいて候』)返り血や自らの血で刀を握る手が滑らぬように、刀の柄に棕櫚の縄を巻き付けていたため「棕櫚柄組」と名乗った。

【神祇組】(じんぎぐみ) 
明暦期、水野十郎左衛門ら旗本奴のかぶき者集団。大小の神祇組と云った。(『吉原御免状』)しかし、『守貞謾稿』の記述によれば、「『伊勢貞丈随筆』に云ふ、今歌舞伎狂言にする丹前立髪六方は、丹後守殿前の風呂へかよう若衆どもの、病気分にして引き籠り居たるが、長髪にて通ひたるがかへって伊達に見へけけば、月代そりて、よき人も皆長髪にて通ひしより起る。下谷御徒町に仁木治太夫と云う者、大小を白柄巻きにして男立の張本たり。白柄組と云ひ、また大小の仁木組と云ふ。世俗神祇組と云ふは誤りなり。それらが大小を閂差しにして、大道狭しと振りかけて歩行ける故、立髪丹前と云ふ六方は、かの長き大小と両腕と六方へ振り出ると云ふ心なるべしとあり。」とあり、仁木組が正しいという。しかし、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、
大小の神祇組とは或説に、仁木某といふ人、其魁たるによりて仁木組といふと有は誤り也。これは誓詞の言に日本大小神祇とあるを取て其徒を結ぶ誓こと也。
と、神祇組が正しいとしている。
『燕石十種』の『江戸真砂六十帖広本』には、水野十郎左衛門等旗本衆を「白柄組」といい、下谷御徒町に「大小の神祇組」があったとしていて、旗本奴の組は二つ別々のもののように記している。
また、『柳営婦女伝系』には花井主水正の弟義賢の次男の項に「大小神祇組に入り、大六方組と称える也」と有り、大小神祇組を称して大六方組とも言ったようだ。
貞享三年(1686)丙寅 三月閏 ○九月、大小神祇組と号したる悪党を罪科に処せらる(神祇組とは党を結ぶ誓言也。「安斎漫筆」に仁木組とするは付会なり)。(『武江年表』)

【六法組】(ろっぽうぐみ) 
『守貞謾稿』に「六法組とて、武士にもあらぬ壮士ら、大小を帯し立髪にて、異風の扮にて徘徊しけるを、丹前姿とて歌舞伎に学びしものなり。」とあり、これは大小の神祇組を歌舞伎が真似、それをまた若者が真似たと書いている。
しかし、六法とは六方の事で、上の「神祇組」にもあるように、こうした歌舞伎者(男伊達・旗本奴)集団を喩えて「六方組」といい、それが「六法組」と書かれたか。あるいは、その音から後代の者で「六法組」と称したものがいたのか、不祥。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』にも、
『屠竜工随筆』に、「六方は長き大小と両の腕と六方へふり分る心なるべし」といへり。
とあり、反りの少ない大小刀を差し、大手を振って傍若無人に往来を闊歩していた者達の総称だったと思われる。
寛文年間記事 ○此時代、男伊達六方組等あり。深見十左衛門など其魁首なりしとぞ。
○この頃、侠客の額を抜上ぐる事行はれしなり。浪花の宗因江戸に来りし時、深見十左衛門が額を見て、「名月や来て見よかしの額ぎは」、是れ広く抜上げたるゆへなり。唐犬びたひは唐犬権兵衛が額づきより出でたり。但し権兵衛は承応のころにて少し古し(小仏小兵衛といへるも此のころの男達なり)。
均庭云ふ、此の句「洞房語園」に見えたり。其の文の書きやう深見十左衛門が発句と思はる。
天和年間記事 ○侠客深見十左衛門遠流。其の後十八年を歴て、宝永中帰郷を許さる。(『武江年表』)

[棕櫚柄組や神祇組に入る方法とは?]

 水野成貞が率いた棕櫚柄組や、その子十郎左衛門が率いた神祇組に入るには、どのような手続きが必要だったのだろうか。白柳秀湖『親分子分 侠客編』(千倉書房)に、旗本奴の風俗を記して有名な加藤曳尾庵『我衣』からの引用があるので紹介してみよう。
 「仲間入スルトキハ、ツテヲ求メテ金銀ヲ出シ仲間ニ入(リ)、若シ親兄弟ノ以(テ)ノ外ナル事トテ、勘当ナドスル時ハ、仲間ニテ、ラクラクト養(ツ)テ少シモ不自由ヲサセズ。是(レ)則(チ)、歴々頭分ニテサハイ(差配)ヲスル故ナリ」(84‐85頁)。
 まずは知り合いの紹介が必要で、入会金を支払って加入するという順序だったようだ。たとえ勘当の身となっても、「歴々頭分」が後援者に控えているから、食うには困らなかったらしい。そして「歴々頭分」とは、河合又五郎を支援した阿部四郎五郎や久世三四郎などの大旗本ではなかったかと、白柳氏は書いている(58頁)。確かに、あれだけ派手に遊んで金が続くのは不思議な話である。経済的な視点からのユニークな示唆であろう。(2004年4月10日瓢水記)

[水野十郎左衛門切腹後の大小神祇組(その1)]

 『吉原御免状』で松永誠一郎の友人となった水野十郎左衛門は、旗本奴大小神祇組の頭領であったと云われている。寛文4年(1664)3月27日に十郎左衛門が切腹させられたため、この時点で大小神祇組も解散したように思っていたのだが、22年後の貞享3年に「大小神祇組」を追捕した記録があった。今回はこの事件について紹介してみよう。
 大小神祇組の追捕が行なわれたのは、貞享3年(1686)9月27日である。「この頃大小神祇組と号し。党を結び遊侠を名とし。睚眦の讐(瓢水注:ガイサイのシュウ。ちょっと睨まれたほどの怨みの意)を報じ。府下を横行するものあり。無頼の少年これを習ひ。頗る政教を害するにいたれば。二百余人を追捕して魁首十一人市に斬らしむ」(『徳川実紀』)。
 十郎左衛門も徒党を組んで市中を闊歩したと伝えられるが、それは加賀爪甲斐守や坂部三十郎などの上流旗本であり、「党を結び遊侠を名とし」たかもしれないが、「睚眦の讐を報じ」るような幼稚な真似をしたとは思えない。十郎左衛門の率いた大小神祇組と、貞享3年に追捕された大小神祇組の間に、何か繋がりはあったのだろうか。(2004年8月14日瓢水記) 

[水野十郎左衛門切腹後の大小神祇組(その2・完結)]

 結論から言えば、両者は全く別物だったようだ。江戸時代研究者として高名な進士慶幹氏は、貞享3年に追捕された大小神祇組について興味深い史料を紹介している。
 「常憲公(綱吉)御代、厳有公(家綱)末より男立てとて、頻りにつよみをいふて、吉原、其外町中を、喧嘩を好みありく奴原の中に、下谷組の御徒の二男・三男、或は与力等のものゝ子、先は刀さしの武士格をもちたるものゝうちより、彼男立の党をなして、公方尻持、大小の神祇とのゝしり、あばれありき、ばくちを専らとして、町中を騒動さす奴を、常憲公代始に、彼中山勘解由に被仰付候て、悉くとらしめられたり」(『別冊歴史読本 徳川旗本八万騎総覧』、49頁。『古老茶話』よりの引用)。
 この記事を紹介した進士氏は、十郎左衛門は江戸の治安維持対策の一環として旗本奴への見せしめのために処刑されたが、それでもなお、下級旗本や御家人の内には、不品行に傾く連中が多かった。彼等は最早、男伊達という張りのある意気地を持つ者ではなく、「市民生活からただきらわれるだけの無法者であった」と結論付けている(前掲書、49頁)。(2004年8月14日瓢水記)

【追記】旗本奴には「大小神祇組」の他に、十郎左衛門の父成貞が結成したとされる「棕櫚柄組」、「吉屋組」などがあったとされるが、俗説や伝説の類が専ら伝わるのみであり、その実際についてはよく判っていないのが実状である。史資料の捜索・検討・整理が必要な研究分野ではないだろうか。 

[大小神祇組に入っていた花井主水正の甥]

 貞享年間の大小神祇組は、「市民生活からただきらわれるだけの無法者」の集まりだったとされるが、実はこの集まりの中に、『捨て童子・松平忠輝』に登場する花井主水正の甥が入っていたのだ。『柳営婦女伝系』の記述に拠りながら、その概要を紹介してみよう。
 松平忠輝の改易に際して、家老であった花井主水正は笠間藩主戸田康長に預けられた。主水正には義賢という弟がいて、忠輝改易後は土井利勝に預けられ、松下と姓を改めて利勝に仕えた。この義賢の庶子、作右衛門が大小神祇組に入っていたのである。
 作右衛門は若年の頃から不行跡を重ね、大小神祇組に入って「大六方者」と称したらしい。当然のことながら一族からは勘当され、貞享3年(1686)9月の一斉取締りを受けて浪人となった。綱吉の母桂昌院が庇護を加えていた護国寺で数年厄介になった後、姉の子で綱吉の母桂昌院の閨閥に連なる六角越前守広治を頼り、鳥取藩主池田綱清に仕えて三百石を頂戴し、大名分に列したと云う(『徳川諸家系譜 第一』、164‐165頁)。
 本来ならば、身を持ち崩した浪人として一生を終えてもおかしくなかったが、閨閥のお蔭で鳥取藩士として厚遇されることになったのである。(2004年8月14日瓢水記)

歌舞伎踊り

歌舞伎踊り(かぶきおどり) 

出雲の阿国が創始したとされ、現在の歌舞伎の元となったといわれる。元来、出雲大社の巫女が諸国を巡り、念仏踊りを踊って勧進したことから始っている。当初は念仏を勧める唄をうたって踊るだけだったが、評判になった阿国は、大衆の求めに応じはやり唄(今様)に合せて唄うようになり、やがてその衣装もより派手にきらびやかになってゆく。まさに「かぶいた衣装」で踊る事から、阿国の踊りは「かぶき踊り」としてもてはやされ、その後、遊女たちの歌舞伎踊りへと発展する。
出雲のお国については昔から各説あるが、足利末期から慶長年間にかけて数人あって、皆出雲大社の巫女として、大社の建造費用を集めるために京に上って来て念仏踊りを興行したというのが、普通に行われている説である。このお国はその最後のお国だ。彼女は当時有名な女性であった。結城宰相秀康がお国を伏見の自邸に招いて、その踊りを見て、さんぜんとして泣いて、
「お国はまだ年若な女でありながら、その名が天下に聞こえている。おれは堂々たる男子でありながら、未だ天下の人をおどろかすほどの功業を立てていない。お国に遠く及ばないのだ」と、なげき、お国に盃をあたえ、
「そなたの肩にかけている水晶の数珠ははなやかな踊りにふさわしくない。これをやろう」といって、珊瑚の数珠をあたえたという話が伝わっているほどの女であった。(海音寺潮五郎『戦国風流武士』)

と海音寺氏は書き、そのお国の踊りが名古屋山三の一座への加入により大きく変り、かぶき踊りへと進化していったとその書に書いている。また、この秀康とお国のエピソードは『常山紀談』にもある。

このお国と名古屋山三の話は承応(1652~54)以降の創作で、服部幸雄氏は『歌舞伎成立の研究』の中で、お国が四条河原で「歌舞伎踊り」を興行したのは慶長八年五月が初見とし、名古屋山三郎はその年の四月に同僚との刃傷事件で殺されたとされ、海音寺氏の書かれたように一座に加わることはもなく、その他の話に有るようなお国と山三の直接的な関係は認められないとしている。服部氏はその論文の中で、この名古屋山三惨殺の話しが速報として伝わり、歌舞伎踊りの題材にホットニュースとして取り入れ、お国自身が伊達男と評判だった名古屋山三に扮した。それが大当りとなり、お国と山三の伝承が生まれ、各種の歌舞伎草紙類に記述されて、以後時代が下がるにつれて雪だるま式にふくらんだのだろうと推論していると、前田金五郎氏は『好色一代男全注釈』の解説の中で述べられている。

歌舞伎(踊り)は、念仏踊りに發した。これは室町時代の風流(ふりゅう)と呼ばれた民俗舞踊の一種で、今ならば、流行歌謡曲をうたいながら踊りまわるというものだったらしい。きわめて現代的で、享楽的で、好色的(エロチック)なレビューめいたもの、ハダカショー的のものであったらしい。そうした舞踊劇團や、曲藝をみせる蓮飛(れんとび)だの、放下師、孔雀や熊の見世物などの興行、といつた娯楽施設が、京都鴨川のほとりにかたまつていた。わけても四条河原はアミューズメントセンターで、その中に出雲のお國と呼ばれる女優の劇團も現われて、満都の民衆から熱狂的に迎えられたのは、慶長の初年(八年以後)のことだった。四条河原にも出演したが、北野神社の境内でも興行したと傳えられる。
記録によるとお國は、黒い絹の僧衣(ころも)をつけ、真紅の唐織の細長い紐で鉦を襟にかけるという、人の目に立つ服装で、その鉦を打ちながら「念佛衆生摂取不捨、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」というような文句を唄いながら、踊りまわつたという。
もつともお國は一座の長で、ほかに今でいうバレーとかレビューの踊り子のような、若い女優郡があつて、ひらひらと裾を蹴出して、大いにエロを發散して踊りまわつたのであつた。こういう民俗的な舞踊だけでは、變化が乏しいので、間もなく、能狂言師のくずれが、これに参加して、滑稽な写実的な寸劇を、レビューの間に挿入するようになつた。この滑稽寸劇を猿若(さるわか)と呼んだ。そうして「念佛踊り」から「歌舞伎おどり」という名前にかわつていつた。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

遊女歌舞伎(ゆうじょかぶき) 

四条河原の遊女歌舞伎は慶長十三年二月に、『四条女歌舞伎見物せしむ、数万人群集す、目を驚かす者也』と『孝亮宿禰日次記』にあるのが、史料上の初見だという。出雲の阿国に発したかぶき踊りは、阿国の衰退と共に、六条三筋町の遊女たちによって引き継がれた。(『花と火の帝』下80)

この遊女歌舞伎は、女歌舞伎とも云われ様々な一座が輩出し隆盛を極めたが、風紀を乱すと云う事で禁止され、女性に代わって若衆が演じる様になり、現在の歌舞伎へと発展する。こうして生まれたのが、男が女性の役を演じる「女形」で、永井荷風はそうした事情にふれた文を作品の中に書いている。

一糸は瀬川の家に養われた役者として今でも女形を勤めてゐるのであるが、一時女形は女のすべき筈のもので、これを男がするのは女歌舞伎御禁止の為めに止むを得ず生じた江戸時代の野蛮な遺風であると云ったやうな議論が盛に新聞や雑誌に出た頃には、只訳もなく女形がいやで、昔気質の養父とは度々衝突して、いつそ役者なんぞは止してしまうかと考えた。(永井荷風『腕くらべ』)

お國を模倣し、これに追随する女優劇團がぞくぞくとできた。佐渡島正吉、岡本織部、北野小太夫、出来島長門守、杉山主殿、幾島丹後守などがそれである。
これらの追随者の中には、遊女屋が容色展覧のために歌舞伎おどりを興行するものもあったので、期せずして女歌舞伎と呼ばれ、遊女歌舞伎とよばれたのであった。そうして、京都から諸國にも下り、また諸國の遊女や舞踊手も歌舞伎おどり劇團を組織したので、わずか十年とたたない間に、日本全国津々浦々にまで、ひろく行われるようになつたという。
かく女歌舞伎がさかんに行われるようになると、一方にその弊害もまたはなはだしくなつた。あまりに社会の風紀、秩序をみだすので、徳川幕府はついにこの女歌舞伎にたいして禁止命令を発した。寛永六年十月のことだつた。これは単に女歌舞伎だけではなく、女舞・女浄瑠璃等、すべて女の芸能人が公衆の前に立つこと一切を禁止したのであつた。
翌年の寛永七年に、桐大蔵という女舞が幸若與太夫と合併して、江戸の中橋で男女混交の興行をしたがこれも直ちに禁止された。これはお國歌舞伎の発生以来約三十年たつたときに当る。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

歌舞伎

歌舞伎(かぶき) 

歌舞伎と書くのは後世のあて字で、はじめは「かぶき」と仮名で書いていた。この「かぶき」という言葉は、本来はかぶかん、かぶき、かぶく、かぶけという四段活用の動詞で、古くから「傾く」という意味の言葉だった。そうして、この當時は、すべて人の目にたつ、變つた身なりをするものとか、悪事をはたらくものとか、すべてなみはずれた装身(みなり)、行為、行動をするものを「かぶき者」とよんだのであった。お國のおどりも、人の目に立つ扮装をして、扇情的な踊りをおどつて、大いに世人の注目をひいたので、かぶき踊りと呼ばれたのである。それが漢学者によって歌舞妓と書かれ、明治以後に歌舞伎と書かれるようになつたのである。(河竹繁俊著『歌舞伎・文楽史話』)

歌舞伎は、出雲大社の巫女であったという阿国が諸国をまわり、慶長五年(1600)ごろ京都へ出て、五条橋のほとり、あるいは北野に仮小屋をつくり「念仏踊」を興行したことにはじまるという。阿国は男装したり、好色的媚態で人々の心を誘い、たちまち大評判となり、いつしかこれを「かぶき踊」と呼ぶようになった。
この女歌舞伎は慶長(1596〜1615)末には全国的に広がったが、これをまねた「遊女かぶき」は興行以外に売色を行なったので、幕府は寛永六年(1629)、全国の女歌舞伎、女踊、女浄瑠璃などをすべて禁止した。この禁令は明治維新にいたるまで解除されなかったので、日本には三〇〇年近く女優が存在せず、このため女性の役は女形(おやま)と呼ばれる男優が演ずる伝統が生じた。
女歌舞伎が禁止されたのちは、美少年たちにより「若衆かぶき」が生まれたが、これが男色趣味の対象となったため、承応元年(1652)にこれも禁止された。以後、「野郎かぶき」の“物真似狂言づくし”時代を経て「元禄かぶき」の全盛期を迎える。
狂言作者としては富永平兵衛がもっとも古いが、元禄期(1688〜1704)には近松門左衛門(1653〜1724)のような名狂言作家があらわれ、『国姓爺合戦』『曾根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などの名作が演出され、坂田藤十郎、初世中村七三郎、初世市川団十郎、女形の芳沢あやめなどの名優が続出した。
享保期(1716〜36)には“所作事”全盛期を迎え、女形の中村富十郎や瀬川菊之丞らがその中心となった。つづいて天明期(1781〜89)には初世中村仲蔵があらわれ名声を博した。
当初、歌舞伎は京阪地方が隆盛であったが、寛政期(1789〜1801)以降は江戸の勢力が強くなり、文化・文政時代(1804〜30)には鶴屋南北があらわれ、庶民の生活を活写した“生世話物(きぜわもの)”を大成させた。
幕末には河竹黙阿弥(1816〜93)が代表作者として、四世市川小団次のため多くの“白浪物”を書いた。
明治維新を迎え、九世市川団十郎が“活歴物”と呼ばれた歴史劇を生み、明治二〇年(1887)にはじめて展覧劇が成功した。
大正期には「新歌舞伎」という新鮮な形式を生み出し、昭和六年には、河原崎長十郎、中村翫右衛門を中心に、歌舞伎界の封建制打破と新大衆劇の樹立を目標とした「前進座」の独立旗揚げがあった。
「歌舞伎」は後世のあて字で、「かぶく=傾く」という動詞が原義である。この「かぶく」とは、新しい傾向をもつとか、平衡を失うとかいう意味があるが、これを敷衍すれば、「放埒にながれる」「奇抜である」ということになる。阿国歌舞伎でみられるように、歌舞伎発生のころは、大衆の心を奪うようなその放埒さ、奇抜さによって基礎を築いたところから、漢学者のだれかが名づけたもののようである。(『日本なんでもはじめ』)

[狂言・歌舞妓]

○昔の狂言今はものまねといふ。歌舞妓は慶長元和の比出雲の神子に恭仁(くに)と云ふ女上京して、女のをどりをなすよりこれを歌舞妓と云ふ。寛永の比は京にすみて嶋田万吉と云ふ。切幕して浄瑠璃あやつりをなす。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

○歌舞妓 羅山子曰、慶長十九年にはじまる、元は僧衣を着し、鉦をたゝき仏号にふしをつけて、念仏躍といひし也、慶長十九に、佐渡島お国といふ女、あまたの舞女をあつめ、四条河原に芝居を立る此お国は出雲大社の巫女也、名古屋山三郎と云ものと密通し、京へのぼる、かぶきの歌に、比田の横田の若苗とうたふ、これ出雲の里の名也、巫なれば神楽を変じて舞うたふ、妓女のなす所なれば歌舞妓といへり、そのころみだりがはしき事多かりければ、寛永年中に、女歌舞妓を禁制ありて、若衆歌舞妓になりぬ、是また同やうなれば、とかくに歌舞妓を御停止ありし也、そのゝちさま/\願を立、若衆の向飾を取、長年のごとくにして、芝居を立べしと御免許あり、額髪を僅剃て、紫のほうしを被りて、長年のかたちを隠す、これを野郎といふ、野郎とは元薩摩の国言葉也
中村勘三郎芝居 寛永元年、中橋におゐて、始て芝居を立る、猿若勘三郎と云、慶安年中に堺町へうつる也、二代目明石勘三郎と云、当勘三郎まで六代なり
市村竹之丞芝居 寛永十年、ふきや町におゐて、始て芝居を立る、元祖は村山又三郎と云、承応の頃、市村宇左衛門座本とす、其子市村竹之丞より代々竹之丞と云、当竹之丞までは八代なり、両芝居の来歴、江戸砂子にくわし、よつて略之
森田勘弥芝居 万治三年に、太郎兵衛と云者取立し也、(『近代世事談』巻之三)、

歌舞伎十八番

市川家に伝わる当り狂言十八種の称。「十八番」と書いて「おはこ」とも読む。これは市川家が十八種の狂言台本を、秘蔵芸として「箱」に入れ門外不出としたことからいわれる。 

○一 歌舞妓拾八番
暫 鳴神 毛抜 助六 牢破 矢之根 草摺 外良 相撲 対面 無間 帯引 五人男 清玄 草履打 男達 髪洗 不破名古屋
右拾八番といふ事、昔より歌舞妓狂言のいゝならはしにて、木戸前にて人呼に、助六じゃ/\とよぶを、拾八番の内、呼ものといふ事の始也、故に今も、浄るりじゃ/\、又は二番目じゃ/\といふ、是より出しこと、江戸市川家代々より、八代目に至るまで、狂言組拾八番有、
関羽(道行) 押戻 暫 七ツ面 象引 蛇柳 鳴神 矢之根 助六 嫐 鎌髭(六部) 外良 不動 鑷 不破 解脱 勧進帳 景清
市川歴代続寿興行に出レ之 

○二 助六始
二代目市川団十郎柏莚は、元祖段十郎才牛の子にして、始め九歳、後団十郎、又海老蔵と改、正徳三巳年四月五日より、山村座にて、狂言名題は花屋形愛護桜、第二番目に、助六本名大道寺田端之助団十郎、意休山中平九郎、白酒売本名荒木左衛門生島新五郎、三浦の揚巻玉沢林弥、また揚巻は神崎政之助ともいふ事、二代目桜田治助のはなしに聞しが、立川焉馬老人年代記には、林弥とあり、柏莚此時二十六歳にて、助六を勤し元祖也、助六の出は、揚まくの内にて、けんくわしといふて、尺八を振りて出る、二度目の助六は、正徳六申年正月二日より、中村座にて式例和曾我といふ名題にて、曾我物語へ書入し狂言、助六本名曾我五郎時致にて団十郎、揚巻中村竹三郎、白酒売三升屋助十郎にて、此年三月七日、吉原仲之町はじめて桜を植しゆへ、堺町にても、町内料理茶屋の軒口へ青すだれを懸て、造花の桜を植し心にて、仲之町に飾付、舞台、花道まで、同じく造花一面に桜の盛り、作者藤本斗文の趣向にて、桜を花の雨と見立て、助六の出に、蛇の目傘をさして、江戸紫の鉢巻を〆、黒羽二重、杏葉牡丹の五ツ所紋、一ツまへ、一ツ印籠、二重廻りの帯は、浄瑠璃の文句にして、江戸吉太夫始て勤る、これ河東節の元祖也、尤助六の拵は、男達に仕立たることゆへ、其頃の流行、御蔵前、小田原町、しんば、神田抔、何某といふ人、さめざやの脇差、黒羽二重の小袖にて着流し、下駄はいてよし原へ通ふ事、此見立によつていでたつなり、河東節浄瑠璃は、助六廓の家桜といふ、今七代目団十郎、助六にもこれを用ゆる、いにしへのまゝにて、古風は残れり、二代目柏莚、助六の役に、杏葉牡丹のゆうぜん紅裏を付しは、御女中江島様より拝領(憚る事あり)故に、女中の姿有て、狂言により、揚巻に通ふ時致を色気を付たり、作者の了簡中々訳て及ぶ所にあらず、三度目の助六は、寛延二巳年三月より、中村座にて男文字曾我物語、助六本名京の次郎祐俊、団十郎は六十二歳の時、揚巻瀬川仙魚、やはり河東節浄瑠璃にて相勤、名題は家桜にて、此時分、河東節流行ゆへ、今豊後節の通りにて、助六たれ/\〃が勤るとて、いづれも新ものなり、(助六の始より天保八丁酉年まで凡百二十五年になる)
俗二代目団十郎法名
法誉柏莚隋性居士 元祖海老蔵
宝暦八戊寅年五月廿四日
芝増上寺地中常照院

助六の狂言に作りし万屋助六といふは、義太夫にあり、上がたのものなり、又、花川戸の男達助六といふは、戸沢何某のことなり、西入浄心信士、承応二年巳二月十一日、と浅草三谷新鳥越易行院に石塔あり、江戸狂言に書入しは、明和、安永の頃に、御蔵前礼差大口屋治兵衛暁雨といふ、是を助六に見立たるゆへ、其頃のえた久米八といふあり、よし原に通ふを意休とするなり、いづれも三人合せし書物なり、
(中央公論社刊『燕石十種』第三巻所収 伊勢屋宗三郎著「三升屋二三治戯場書留」より) 

女形

歌舞伎界では、現在でも男の俳優だけで演じ、女の役も男の俳優によって行なわれているが、これを女形あるいは女方と書き、「おんながた」あるいは「おやま」という。
寛永六年(1629)に女歌舞伎が禁止されて以後、男性が女に扮するようになった。京都では糸縷(いとより)権三郎、江戸では村山左近、右近源左衛門がその始祖とされている。
寛永十七年、徳川幕府は男女混合の歌舞伎も禁止し、さらに十九年には男子が女子に扮することも禁止した。この禁止令は興行者にとっては死活問題であり、幕府に懇願して、かろうじて男子に扮するものと女子に扮するものとの区別を明らかにすることを条件に女形が許可された。
この「おやま」ということばは、女方の人形遣いの名人・小山次郎三郎の使う人形から出たもので、美女や遊女を「小山の人形のようだ」と評したことから生まれたという。(『日本なんでもはじめ』)

歌舞伎劇場

初期の歌舞伎は、河川敷に小屋をつくったり、また、芝居の延長として盛り場の掛小屋で興行された。歌舞伎劇場としての建築様式がほぼ完成したのは享保時代(1716〜36)のころといわれる。
劇場の官許制をとった幕府は、京都に七カ所(のち三カ所)、大阪では道頓堀に三座、堀江に一座の四カ所、江戸には大劇場として四座だけを認めた。江戸でもっとも古い劇場は、寛永元年(1624)にできた猿若座で、のち中村座となって幕末まで残った。(『日本なんでもはじめ』)

歌舞伎狂言(かぶききょうげん) 

歌舞伎劇の演目。また劇そのもの。本来は初期の歌舞伎踊に対して劇的な演目をさしたことば。(『広辞苑』第二版)

狂言回(きょうげんまわし) 

歌舞伎狂言で、主人公ではないがその狂言の進行に終始必要な役柄。(『広辞苑』第二版)

狂言浄瑠璃(きょうげんじょうるり) 

歌舞伎狂言中の或る場面に常磐津・清元などの浄瑠璃を伴うもの。

狂言謡 

狂言に用いる謡。能の一節を借用してそのまま謡うもの、能の謡を模した節付けのもの、狂言独自の節付けのものなどがある。(『広辞苑』第二版)

芝居

芝居(しばい) 

興行物、特に演劇の称。

芝居始 大昔の事にやありけん、南都南円堂の前に大きなる穴出来て、其中より烟夥しく起り、天下に覆ひ、其気にあたるもの、こと/\〃く病癘におかされける依レ之南都の芝(江戸にて原といふ処を京都にては芝といふ芝生のことにはあらず)の上にて翁三番を舞せ、其邪気を払ひ退しより、芝居といふ名は始りたり、今に至りて、南都薪の能は故実に任せて、芝の上にて行ふ、名古屋三左衛門お国歌舞妓の始りは、北野の芝原にて興行し、又出雲のお国織田信長公の免許を蒙りて、則北野にありし人升(人升とは陣立稽古の場所なりといへり)を拝領して興行せしより、芝居といふ也、甲陽軍艦に曰仕場居は勝軍ならでは踏留られぬものなりと、高坂弾正申されたり、いづれも芝に居るの心也、其後祇園の南林にて執行ひ、また其後五條河原橋の南にて興行しけるに、秀吉公伏見より上洛の時、必此橋を通り玉ふに、見物群集し妨に成しにより、四条へ移されしと也、男女打交りの狂言、猥りがはしく相聞へしゆゑ御停止と也、それより京都にて、村山又兵衛といふ役者、数度御願奉2申上1、承応二癸巳年三月かぶき物まねづくし、若衆交り之儀御高免被2成下1、明応二丙申年、四条河原中橋にて興行、今文化の年迄百五十余年に及ぶ、さすれば上方芝居役者たるべきもの、此村山氏の丹精を尊むべき事なるべし、又大阪の芝居は、寛永の始より若衆歌舞妓とてあり来りしに、道頓堀九郎右衛門町の裡下難波領に、其頃は傾城町ありけるが、此所の傾城どもを多く集め、舞台へ出し踊らせ抔して、是をお国かぶきと申たる事也、
按ずるに、大坂の芝居、今二の替り狂言の大名題、いつにても傾城と字を名題の上に置事、江戸の春狂言に曽我と下に置が如し、是は本文のごとく、寛永のむかし、傾城に狂言させたる古風の残りたるなるべし、大坂の二の替りといふは、江戸の春狂言也、顔見世も当年子の年なれば丑の年顔見せといふ、顔見せは役者坐付口上斗りにて、手打連中の手うちあり、大手組笹瀬組藤石さくら迚、四組の手打連中、替り/\に手打あり、衣装など至極立派なる事也、顔見せ十日の間、夜五つ過より始め、坐付口上済て、思ひ付の狂言二幕か三まくもする、其内夜明になる故打出し也、夫れより霜月廿日過比間の替りとて狂言を出す也、夫ゆゑ春狂言を二のかはりと申習したり、
扨此芝居は、則鹽屋九郎右衛門芝居なりしが、女かぶきの事、長く御停止となりける故、其後度々御願申上、前々の通若衆かぶきの芝居再興相叶ひ、今に興行いたす也、今の角の芝居は、大坂太右衛門といひしが、福永屋新十郎是也又大和屋甚兵衛といふ名題ありしが、元は鹽屋名題故、元へかへる、今の中の芝居也、斯の如く京大坂の芝居は有来る芝居名題をかり請、いづれの役者にても、金主方よろしき輩座元を勤る事也、依て名題は誰座元誰と記す也、江戸三芝居は又別格の違ひにて、三座とも元祖より太夫元一名にして、惣役者迄も主人と称す、江戸三芝居の事は、末にくわしくしるす(『劇場新話』上巻) 








浄瑠璃

浄瑠璃(じょうるり) 

平曲・謡曲などを源流にした音曲語り物。主として琵琶や扇拍子を用いて、ひろく民衆に迎えられた新音曲の中、「浄瑠璃姫物語」が好評だったので、浄瑠璃がこの種一連の語り物の名となった。後、輸入新楽器三味線及び人形まわしと結合して民衆劇として発展。初期には金平・播磨・加賀・説教節などの古浄瑠璃が江戸・京阪に盛行。元禄時代、竹本義太夫が諸音曲のよさを集大成し、義太夫節が完成。また、近松門左衛門と組み人形浄瑠璃を確立完成。ここに浄瑠璃は義太夫節の異名となった。(『広辞苑』第二版)

浄瑠璃の起源

浄瑠璃のはじめ

「浄瑠璃の始 一、浄瑠璃の始りは、後水尾院の皇后東福門院の仰を以て、小野のおつうと云女是を作る、浄瑠璃御前と云事を十二段の文に仕立る、則其名を浄瑠璃と呼ぶ、其十二段の切あるを以て、是を十二段と名付く、其章節は、京都におゐて、沢角検校ふしを付、謡初たり、」(『望海毎談』)

「○十寸見要集の序 浄瑠理の濫觴を尋るに、織田家の侍女、小野お通といへる秀才能筆の女有、君命によつて、矢なぎの長が娘浄瑠理姫、牛若の御事を十二段に作る、筆勢伊勢物語に似たりとかんじたまひ、岩舟検校に命じ給ひて、曲節を附させ給ひ、是より浄瑠理を一名世に晋く、宮、商、角、徴、羽の五音、変宮、変徴の二声、是を合せて七声とす、みなその土地の風俗に隋ふ、今繁栄なる三ツの律、月雪花の御江戸風俗に隋ふは、十寸見河東の一流にとゞまる、文章は誹亀をかり、自和歌三神の慮にも叶わんや、節は利休の茶杓よりもしほらしく、形体は寂然として萌さずといへども、花美は好まず、又、詫たるをも望まず、只心の直きを好み、人耳を歓しめ、我心の鬱をも散ず、尤好人によるべし、 松寿庵蛙兄」(『紙屑籠』)

「本朝に浄瑠璃と云ふ雑劇あり。昔太田道灌が召し遣へる女に浄瑠璃と云ふものあり、かたり始むと云ふ。今にその女のおれる跡を浄瑠璃坂と云ふ所江戸にありと云ふ。又一説に織田信長公の時に小野小通(豊臣秀頼の母堂淀殿の祐筆とも云ふ)といふ。牛若丸鞍馬をしのび出て吉次信高に伴ひ奥州へ下り給ひし比、三河州矢矯の宿の長が娘浄瑠璃姫に通じ玉へる事を十二段と云ふ草紙につくりけるを、熊野検校といひし者音曲に達しける間それにふしをつけて語りけり。其後薩摩浄雲といふもの彼の検校より一ふしを習ひ得て西の宮の人形舞しをかたらひ、人形に仕形をさせ十二段をかたりけるよりはじまると云ふ。狂言づくしと云ふも、永禄年中名護屋三左衛門といひし者歌をうたひ、舞をまふこと上手なりければ、自然と拍子にかなひ身のかろき事猿のごとし。これに因りて異名を猿若と呼ぶ。狂言師をさるわかと呼ぶ事これより始れり。」(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之一)

◎浄瑠璃の起源
其蜩庵翁草に云ふ、浄瑠璃の始は信長公の侍妾小野の於通と云ふもの、源の牛若と浄瑠璃姫との事を十二段に作り、節を付て諷、その題号を附ると云ふ事もなく、直に是を十二段と号し、其節の風を伝へて、総名を浄瑠璃と称す、一説には浄瑠璃は太閤秀吉の時分、文禄年中に始ると云へり、按ずるに小野のお通が作り初めし時は未だ世に流布せず、次第に世に広まりて、文禄の頃より専ら行はれしと見えたり、是を語るもの監物次郎兵衛とて両人あり、西の宮より傀儡師を呼びのぼせ、浄瑠璃に合せて人形を遣はせし、是操芝居の濫觴なり、監物は後に河内と号す、次郎兵衛は上総と号す、浄瑠璃太夫受領の始なり、それより、左内宮内などと云ふ太夫出る、其後何節と分れて其流々々に名あるもの追々出来て今の世に専ら行はるゝと云々、(『俗事百工起源』)

○浄瑠璃
信長公の侍女小野お通は秀才の女也、後に秀吉公の簾中につかふ、参州矢作浄瑠璃女が事を作、薬師の瑠璃光の縁十二神を象り十二段とし、浄瑠璃物語といふ、平家物語は、信濃前司行長が作にて、生仏といふ琵琶法師節を付たり是は岩船検校節をつくべしと也、即岩船ふしを付て、浄瑠璃といへり、其後瀧野沢角の両検校、三線に合せて曲節をかたる、又六字南無右衛門と云女太夫、四条河原に芝居を立る、慶長のころ、人形に合せて度々叡覧におよびしより、浄瑠璃太夫の受領をいたゝく事になれり、京大坂江戸に浄瑠璃太夫多くなりて、伊勢島山本角太夫岡本文弥、江戸油屋茂兵衛、四郎與吉鳥屋次郎吉、大さつま小さつま、おのがさま/\色々の流儀あり(『近代世事談』巻之三)

「小野お通」の関連記述は『麓の花』巻下、『参考文献余滴』にもあります。

豊後節

豊後節(ぶんごぶし)

浄瑠璃の一派。宮古路豊後掾の語り出でしもの。これより分派したる常盤津・富本・清元・新内等の總称にもいふ。(『廣辞林』新訂版)

京都に宮小路国太夫節、芝居にて所作によく合し節にて、今に捨らずはやりしなり、弟子に文吾といふものあり、元文年中東都へ下り、宮小路豊後太夫と名乗、三絃相方は鳥羽屋三右衛門、弟子佐々木市蔵、三絃手附は三右衛門也、国太夫節の三絃は甚だせわしく、東都にむき兼し故、子供にも能弾るよふに、手を附替せしなり、其後、加賀太夫、数馬太夫抔とて同門あり、ワキを語り、至てはやしが、所々にて、色事、心中、欠落もの等数多有レ之ゆゑ、豊後節御停止御触被�仰出�、御法度に相成止みけり、(『江戸節根元由来記』)

常盤津(ときわず) 

常盤津節の略。浄瑠璃節の一派。常盤津文字太夫の創始。曲風は義太夫に近く、半ば語り半ば唄い、江戸の生活に適合して広く庶民階級に行きわたった。舞踊の地にも適し、歌舞伎にも密接に結びついた。(『広辞苑』第二版)

【常盤津文字太夫】(ときわずもじたゆう) 

常盤津節の創始者。初代は、京都の人。初代宮古路豊後掾の門弟。江戸に下り豊後節禁止後、常盤津と改姓。(『広辞苑』第二版)

豊後節、常盤津文字太夫、先祖は時美濃守といふ武家なり、其後、時文右衛門、かつしか小松川に住、文字太夫元祖門弟に福田伴次といふ人、別家して富本豊前掾、始小文字太夫、富本の先祖なり、此小松川文字太夫、浄瑠璃に、鐘入妹背山俤、嵐和歌野が道成寺狂言ありて、あげまくより、その袖焼給ふなと声かけて、文字太夫長袴にて出来て、上の方の対立へかゝる、でんがくにて文字太夫を隠すと和歌野になるなり、これより太夫は出語にて、文字太夫、ワキ吾妻太夫出語りして、ワキ造酒太夫、後に二代目小松川文字太夫となる、むかしの狂言古風にて、太夫を狂言中場へ長袴にて出せしは、作者の趣向也、此上るり評判よくして、大当りなりと云、(『三升屋二三治戯場書留』)

富本(とみもと) 

富本節。浄瑠璃節の一派。流祖は富本豊前掾。常盤津の分派で曲は常盤津の節まわしに技巧を加えたもの。安永・天明の頃全盛を極めた。(『広辞苑』第二版)

【富本豊前掾】(とみもとぶぜんのじょう) 

浄瑠璃太夫。初代は、初め宮古路品太夫。師文字太夫に従って常盤津小文字太夫と改めたが、一七四八年独立して富本節を樹立。受領して豊前掾、さらに筑前掾と改めた。(『広辞苑』第二版)

元祖豊前掾、常盤津の分家にして、豊後節の一流二代目豊前太夫、初め午之助、近年稀もの妙音にして、天明、寛政の頃、江戸中流行して、桜草の紋の名取数多ありて、古今の銘人なり、後に至りて豊後掾と改、いま豊前太夫は三代目の養子なり、はじめ午之助といふ、(『三升屋二三治戯場書留』)

清元(きよもと) 

清元節。浄瑠璃節の一派。延寿太夫を祖とし、文化(1804〜18)頃に始まる。曲節は富本節よりもさらに大衆的で清婉。(『広辞苑』第二版)

【清元延寿太夫】(きよもとえんじゅたゆう) 

清元節の家元。富本節から出て清元節を創始。凶漢に刺されて没。(『広辞苑』第二版)

清元の祖は、元祖豊前掾の高弟にして、始神田川新シ橋の米屋清水権次といふ、富本斎宮太夫より、後延寿斎とて剃髪す、二代目斎宮太夫、延寿斎の養子にして、始斎宮吉と云、中頃より富本を分家して、清元の流儀発して、不和となる、都古路清海太夫と改、それより後、文化十二年の顔見せ、市村座に嵐三五郎下りし年の浄瑠璃に、清元延寿太夫と改名して、これより世に清元の流儀弘り、後剃髪して延寿斎となり、文政八酉年五月廿五日横死す、倅巳三次郎、三代目延寿太夫と改名して、石町より新シ橋実家へ引越、母方の家名記して、岡村屋藤兵衛と名乗る、今世の中に流行せしは、此三代目の手がらにて、近代の稀ものなり、諸屋敷へ召れて、歌舞妓へ出勤断せしは、如何之訳やら爰にしるさず、清水より出たる清元なり、(頭書:丈朝云、延寿斎は、杉の森通り和国橋辺にて突殺されしよし、何人の所為といふ事未不レ知、此人、古今無双の美音にて、脇語りなく、一人にて語りし由、上調子三弦は、清元斎兵衛、若女形坂東秀佳が妻の親也、(『三升屋二三治戯場書留』)

新内(しんない) 

新内節の略。浄瑠璃節の一派。富士松薩摩掾の門人鶴賀新内(岡田五郎次郎)の名に拠るが、創始者は鶴賀若狭掾である。最盛期は安永(1772〜81)前後で心中道行物を主とし、泣き語りといわれる哀婉な曲節を特徴とする。(『広辞苑』第二版)

義太夫節(ぎだゆうぶし) 

上方浄瑠璃の一派。井上播磨掾の播磨節の荘重と、宇治加賀掾の嘉太夫節の艶麗とをあわせ、なお当時流行の各種音曲の長所を摂取、元禄頃、竹本義太夫が節付けにたもの、門人豊竹若太夫が別に一派を起し、竹本・豊竹の二派に分かれた。(『広辞苑』第二版)

元祖竹本義太夫は、摂州天王寺傍村之産にして、名は転教、俗五郎兵衛と云、道喜といふ人と、浄瑠璃の音曲を、井上播磨掾、清水の徳屋利兵衛、京の宇治加賀に受、其後、一個の工夫を以て、はじめて一家の音曲をひらく、世にまたこれを義太夫節と号す。二代目義太夫は、始め政太夫といふ、播州司馬喜教、後に文正翁といふ、竹本播磨掾、千日法善寺に墓あり、寛延三年庚午九月没す、石碑に、浜千鳥あとを残すやふし墨譜  竹田千前(『三升屋二三治戯場書留』)

大坂儀太夫節 天王寺辺の民にて、始は天王寺五郎兵衛といふもの、京加太夫がワキをかたれり、天性此道に妙を得て、近世の名人と云り、後に大坂にて竹本儀太夫とあらため芝居す、受領して、竹本筑後掾藤原博教といへり、今以此節を翫ふ也(『近代世事談』巻之三)

江戸節(えどぶし) 

半太夫節の異称。また、肥前節・半太夫節・河東節の総称。(『広辞苑』第二版)

浄雲節(じょううんぶし) 

江戸浄雲節 正保のころ、薩摩太夫治郎右衛門と云、江戸浄瑠璃の祖なり法体して浄雲と云、子を又さつま太夫治郎右衛門と云、浄雲弟子丹後太夫長門太夫丹波太夫の四人あり、これそのころの四天王の太夫と云、今の浄るり太夫、浄雲が血脈ならざるはなし、其むかしは端浄るり斗にて、段浄るりは浄雲に始、(『近代世事談』巻之三)

永閑節(えいかんぶし) 

江戸永閑節 源太夫が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

河東節(かとうぶし) 

江戸浄瑠璃の一派。十寸見河東(ますみかとう)が享保年間(1716〜1736)に創始。五十年ほど隆盛。後、旦那芸としてのみ存続。優美で渋く、生粋の江戸風。代表曲「松の内」「水調子」「助六」。(『広辞苑』第二版)

○河東節 江戸半太夫十寸見河東は、江戸半太夫が家より別れ出て、一流の浄瑠理を語り伝へて、河東節といふ、品川丁天満屋市十郎が子息なり、河内屋藤兵衛といふ、川といふ心にて、文字を定紋に附る、十寸見と名乗るは、十寸見の鏡の心曇りなく、いさゝかもたがはず語り伝ふといふ心を用ゆ、初加藤藤十郎といふ、後に藤兵衛と改る、河東の元祖なり、(『紙屑籠』)江戸河東節 小田原町にして、肴をひさぎてよしあるものなり、半太夫が弟子と成一流をかたる(『近代世事談』巻之三)

外記節(げきぶし) 

江戸外記節 下りさつまと云、二代目さつま治郎右衛門が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

語斎節(ごさいぶし) 

江戸語斎節 近江太夫といふ、丹後が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

土佐節(とさぶし) 

江戸土佐節 虎之助と云、二代目さつまが弟子なり(『近代世事談』巻之三) 天和年間記事 ○この頃、土佐節浄るり流行す。(『武江年表』)

半太夫節(はんだゆうぶし) 

江戸浄瑠璃の一派。江戸半太夫を祖とし、元禄頃から明和・安永年間まで流行したが、河東節が起るに及び衰微した。(『広辞苑』第二版)江戸半太夫節 幼名は半之丞といふ、修験者何院とかやの子也、はじめは肥前太夫が門に入、後一流をかたり出せり、又塚原市左衛門と云もの、半太夫座上るりを作る、半太夫剃髪して坂本梁雲と云、東武近世の名人、今以此流儀すたらず 補注:半太夫節は嘉永二年に至りて絶たる由なり(『近代世事談』巻之三)

肥前節(ひぜんぶし) 

長門太夫が弟子なり(『近代世事談』巻之三)

井上節(いのうえぶし) 

大坂井上節、井上市郎兵衛といふもの也、道に達し、京大坂にて鳴たるもの也、受領して井上播磨少掾藤原要栄と名乗り、後に京にて死、(『近代世事談』巻之三)

嘉太夫節(かだゆうぶし) 

宇治嘉太夫の語った浄瑠璃節。

京加太夫節 紀州和歌山宇治といふ所の者也、伊勢島宮内に習ひ、宇治加太夫と云、此道名誉のもの也、受領をいたゝき、加賀掾宇治好澄といへり、諷もよく名人の部に入たり、(『近代世事談』巻之三)

角太夫節(すみだゆうぶし) 

山本角太夫の語った浄瑠璃節。

その他の謡

古今節(こきんぶし) 

元禄の比、古今新左衛門といふ芝居者、諷ひ始るなり、(『江戸節根元由来記』)○古今節 元禄のころ、古今新左衛門と云芝居者うたひ始し也(『近代世事談』巻之三)

小室節(こむろぶし) 

常陸国小室の遊女町から起った馬方節。万治・寛文の頃より流行し、吉原通ひにも歌はれた。宿入の時に歌ふ。

「常州小室といへる所にも遊女あり。上は金壱歩、下は五百文より五十文まで繁昌の所なり。今馬奴のうたふ小室ぶしと言へるも、この里より出でしとかや。捨てられぬ所なり」(『好色由来揃』)

また、『日本の古典』17「井原西鶴」の池田弥三郎氏の注では「馬子唄の一種。その起りについては信州小諸、常州小室、武州小室などまちまちである。江戸では、吉原へ馬で通う時に馬子が歌ったものとして名高い」とある。

柴垣節(しばがきぶし) 

もとは北国あたりの下部の米搗歌。1655年頃江戸に行われた小唄。二人立ち並んで手を打ち、胸を打って踊り、その肱で畳を叩いて拍子を取って唄ったが、後には比丘尼が拍板(びんざさら)をすって唄うものとなったという。(『広辞苑』第二版)

北国辺の下部の米搗歌。胸を叩いて身悶えして歌ふ。後江戸に入って、明暦の頃諸国に流行した。

「明暦の比、盛に行なはれし、柴垣といふ小唄あり。これは唄ふのみにあらず、二人立ち並んで、手を拍ち胸を打つて踊る故に、柴垣を打つとも云ひし。『或古記』明暦三年の条に「此頃北国下部の米搗唄とやらんに、柴垣といふこと流布して、河原者の業となる。(略)歴々の会合にも強ひて翫ぶ。酒宴遊興の座の見物のうへは、柴垣といふ唄をうたふ拍子をとり、形はむくつけき田舎夷が、薇縄をもつて口を綴ぢられたる如くに作り髭し、座敷へまかり出でて、蓬膚を脱ぎ敲き、えも云はれぬ頬付きして、肩を打ち胸をたゝき、癲癇やむ人の狂ぜる形勢にて、右ざま左ざまに覆り、息も継ぎ敢へずあがき、俯仰に音を助け手をならして興ず云々」(柳亭種彦『還魂紙料』下)

「やつこ柴垣とて、大刀さし、作り髭をして、五人か三人にて中なるもの、音頭を取りて、色々の顔曲・手曲・足摺をして座して歌ふ。手足肱膝にて拍子をうち、小歌もあり、言葉もあり、論議問対もあり、声にきおひおくれ有りて、白眼がちにて、ゑい/\さあ/\のかけ声しげく、いさみたる躍にて、興がる見物なり。装束は裄も裾も短かめで、今織金襴にて袖なしの長羽織に、馬乗を明け、胸紐は真紅に、金紗をまぜて、釣瓶縄の太さにうたせ、大小は金銀の拵に、かいらぎ鞘に角頭巾をかぶりて、舞台に出て芸を尽くす。鼓・太鼓・さはり・三味線・小弓などにて、はやし立てたり。しぐみの面白さに、桟敷どよみ渡り、貴賤ともにぼんのくぼの髪たち、曠(正しくは月篇)胱のあたりを毛虫のはふやうにおもひて、前後左右躁ぎ立ち、我を忘るゝ風情なり。これは近比迄歌舞伎繁昌成りしが、余りに奢りて侍衆へ大坂にて推参なる事有りて、歌舞伎踊子共額髪をもぎ取られ、御停止有りければ、田楽どもすべき所作なくして、賢きより賢からんは色にかへよとて、狂言尽くしといふ事をあみたて、海道くだり・山崎下り・柴垣おどりなど、様子面白き事を巧にして、芝居をうつ。大方女がたを専らにする也。子共、額頭巾をかぶる。世人これを野郎と云ふなり。柴垣の章歌には、目出度の若松様や、枝も栄ゆる葉もしげる。柴垣ゆひたてられて、もはや此町にや住まれ申すまい。外は記すに暇あらず。この歌心にて読みし落書なるべし。されば天に口なし人をして云はしむとなれば、此度の大火事にて、江戸中武士も町人も昔の有様引替へて、柴垣を結立てられん前表かやと沙汰せり。(略)然れども又、めでた若松様とうたふは、当君の御事成るべきか。枝も栄ゆる葉も茂ると続けたるは、千代万世を治めさせ給ふべき仰せ事なりと云ひあへり」(『尾張徳川藩士津田藤兵衛房勝雑録『正事記』二)

明暦年間記事 ○柴垣といふ小唄并びに踊はやる(「還魂紙料」にくはし。此の頃狂歌「芝居をうつの山へのうつけ者夢にも一ツあはぬ手ひやうし」)。(『武江年表』)

説教節(せっきょうぶし) 

仏教の説教から発し、声明(しょうみょう)から出た和讃・講式または平曲などをとりいれ、近世初頭から盛行した民衆芸能。始めは鉦をたたきながら語る程度だったが、次第に簓・胡弓・三味線をもとりいれ、操人形劇とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文の頃で、宝永・正徳頃から義太夫節に圧倒されて衰微。説教浄瑠璃。説教。(『広辞苑』第二版)

近世前期、仏教の因果を説いた哀切な節廻しの語り物。始めは、ささら・胡弓を使って路傍で語り、のちには三味線を伴奏に使うようになった。その後、門付をする門説教も生まれた。(『好色一代男全注釈』)

道念節(どうねんぶし) 

京都に道念山三郎といふ木遣り音頭有り、貞享の比、盆の踊りに口説といふを諷ひ出したり、此節、踊りの拍子に能合たるなれば、今以是をよしとす、(『江戸節根元由来記』)○道念節 京に道念山三郎と云輿樗の音頭あり、貞享の頃、盆の躍口説といふをうたひ出したり、此節躍の拍子に、よく合たる間なれば、今以これをよしとす(『近代世事談』巻之三)

隆達節(りゅうたつぶし) 

隆達節は日蓮宗の僧なりしが、泉州堺の顕本寺の院内に住しける、故あつて還俗し、大阪薬種屋高山氏の家に入て商人となり、常に音曲を好み、小唄の一流を唄ひ出す、其唱歌やさしく、人の心を和らげ、教訓にもなりたり、世に隆達節と称す、(『江戸節根元由来記』)

寛文年間記事 ○隆達節(隆達は泉州堺の僧なり。世に在りしは元和寛永の頃なるべし。程過ぎて其曲節江戸に行はれし成るべし)、弄斎節、土手節、加賀節等の小唄流行。(『武江年表』)○隆達節 隆達は日蓮宗の僧也、泉州堺願本寺の院内に住せしがゆへあつて還俗し、大坂薬種屋高三氏の家に入て、終に商人となれり、常に音曲を好み、小歌の一流をうたひ出す、その唱雅やさしく、人の心をやはらげ、教訓にもなりたるよし、世に隆達節と称す(『近代世事談』巻之三)



茶の湯

茶の湯(ちゃのゆ)

客を招いて抹茶を立て、会席の饗応などをすること。茶会。茶の会。茶道。(『広辞苑』第二版)

茶の湯の起源

茶の湯のはじめ

茶は奈良時代初期、聖武天皇の天平元年に、宮中で李の御読経の第二日に引茶と称して僧侶に茶を賜わったとされることから、少なくともその頃、遣唐僧などによって茶種が伝えられていたと思われる。また、近江坂本の茶圓がわが国最古のものとされるが、これは最澄が唐から帰朝した際に持ち帰った茶種を植えたものとされる。
喫茶としての茶が文献に表れるのは、弘仁六年四月、嵯峨天皇が近江の唐崎に行幸した際、梵釈寺の僧永忠が茶を煎じて天皇に奉ったとある事が最初とされる。永忠は奈良時代末期に入唐し、平安初期に帰朝したが、この時喫茶の法を学んできたものと思われている。この永忠の喫茶法を理解した嵯峨天皇は、畿内および近江・丹波・播磨の諸国に令して茶種の栽培を奨励した。こうして唐風の喫茶法が公家社会に広まった。しかし、この時代の茶は、煎ずるといっても江戸初期に明から渡来した煎茶(葉茶)とは違い、淹茶(だしちゃ)と言われる法で、茶の葉を乾燥させ臼で挽き粉にし、その粉をねり固めさらに乾燥させ団茶の形で貯え、必要に応じてほぐし、これを煮淹して甘葛や生薑などの甘味や香味を加えて喫するものであったとされる。この唐風の喫茶法はもともと漢詩文に伴う文人趣味として愛好されたため、その後、遣唐使が廃され漢文学が下火になるとほとんど行われなくなった。
再び茶が日本社会に入るのは時代が下った鎌倉初期で、宋から帰朝し臨済宗を伝えた僧栄西によって、宋風の抹茶(碾茶)がもたらされた事による。栄西はその茶種を肥前の霊仙寺に茶園を造り、さらに博多の聖福寺に植えた。栄西は宋の禅僧から学んだ抹茶の法を『喫茶養生記』にまとめ、喫茶の功徳を説き、茶の栽培法や抹茶の製造法を紹介する。この時、栄西は人間の五臓五味の養生法(漢方)を説いた。それによれば肺臓は辛味を好み、肝臓は酸味、脾臓は甘味、腎臓は鹹味、心臓は苦味を好むが、日本人は辛・酸・甘・鹹の四味は好むが心臓の欲する苦味を嫌う。それで心臓を患い短命で終る人が多いとして、茶の苦味を摂取することを勧めている。こうして茶は延命長寿の妙薬として次第に広まり、庶民の間にも茶を飲む機会が生じ、地方の庄屋・名主などが村人を招いて茶寄合が催されるなど社会に受け入れられるようになる。これが茶会の原型とされるが、鎌倉末期には連歌会とともにこの茶寄合は村落共同体の結合(一味同心)を強める役目を果たし、農民の自治意識を高める機会ともなっていた。こうした事情から室町幕府になると、建武式目で懸茶(賭博)行為の禁止という名目で茶寄合は取締の対象となる。
一方、茶寄合のような集団的で感情的な楽しみ方ではなく、個人的で知性的な楽しみ方として、足利将軍や大名の間に流行するのが禅院での喫茶法で、その規式から支配層としての武家階級に好まれるようになる。ここから茶数寄と称される楽しみ方が現れ、これが東山殿足利義政の「御茶の湯」につながる流れとなる。この茶数寄は、唐物と呼ばれる舶来の茶器を中核として催された事から、各大名はきそって名器と呼ばれる茶器を手に入れ、それを茶会で披露して自慢するようになった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』及び『茶道辞典』参考)

茶の湯

茶を飲むことを中心とした遊芸。江戸末期の文化七年に稲垣休叟が編した「茶道筌蹄」によれば、仏家で奠茶(てんちゃ)、奠湯(てんとう)というにを略して、茶湯(ちゃとう)と称したのを、俗世間で茶湯(ちゃのゆ)と訓んだとある。しかし、茶湯の称呼の起源を紹鴎・利休時代と説明しているには誤りである。既に『大乗院寺社雑事記』の文明元年五月二十三日の条に「於風呂ハ茶湯在之」と見え、連歌師宗長の『宗長手記』の大永六年八月の条にも「下京茶湯とて云々」と記しているから、室町中期の東山時代に遡り得る。利休時代になると、『山上宗二記』には、「夫レ茶湯ノ起ハ」といった具合に、冒頭から茶湯の語を用いている。茶湯は、一名、数寄とも称した。しかし、茶道という語は、利休時代には求められず、同義の言葉として、茶湯の道、数寄道などと記している。(『茶道辞典』)

○茶の湯 茶礼の式は、東山義政公にはじまる、南都称名寺の珠光飲礼の事を説語す、御側の能阿弥相阿弥、近臣志野三郎左衛門尉宗信、此道にふかし、此礼は貴賤の隔なく、武士も刀を帯せず、膝をまじへて信を語り、ゆるやかなるは誠の和なり、武野紹鴎その子方寸斎宗瓦利休、その子道安、有楽三斎、織部遠州、宗和宗旦、瀬田掃部、宗拙宗佐、いづれも和尚なり
茶礼は、禅家隠遁の体を模し、質素閑静を学びたるもの也、よつて宗匠たる人を、和尚といふなり

  • 有楽流 織田源五郎信益は信長公の弟なり、薙髪の後東山に住し、有楽と云 此流織田定置に伝る、定置は信長公の孫信定の子也、今以茶の家とす、定置の弟子は、江都粟谷爐休なり 註:有楽は大抵大阪城中に在り、その東山に住て風流を楽しめるは幾日もなからん、江戸に有楽原ありといふも附会の説なり
  • 金森流 出雲守、後に宗和と称す
  • 石州流 片桐石見守、後に宗関と云、宗和の弟子也
  • 遠州流 小堀政一、薙髪して宗甫と称す、寛永の頃の御師範なり、宗甫は古田織部正重勝の弟子也、
  • 利休流 今千家といふ、千利休は泉州堺の人也、父は千阿弥と云、名ある士の流なり、本性をかくして千の一字を名字とす、中興茶道の祖なり

袋棚 茶人紹鴎始て作る 武野大黒庵紹鴎 一関と云 我名をは大黒庵といふなれば袋棚には秘事をこめける(『近代世事談』巻之一)

ちゃのゆ【茶の湯】 イ、茶をたてるためにわかす湯。「石鼎に茶の湯を立て置きたり」(太平記三九・諸大名讒道朝)〈文明本節用集〉ロ、客を招いて抹茶をたて、会席の振舞などをすること。茶会。「新薬師堂衆方料理並びに茶の湯」〈多聞院日記文明一六・三・一〉 ちゃのゆしゃ【茶の湯者】茶道に達し、その宗匠となって生活する人。「目利きにて茶道も上手、数奇(茶道)の師匠をして世を渡るは、茶の湯者と云ふ」〈山上宗二記〉(『岩波古語辞典』)

ちゃのゆ 茶湯 〔茶の会の訛、或は茶湯(ちゃとう)と別て云ふと〕(一)蒸し作れる茶を煎じたる湯。麦湯と云ふが如し。仏に供するに、音読して、ちゃたうと云ふ。喫茶養生記(建保、栄西)「茶湯不レ飲、則生2種々病1」(二)茶の湯を飲むにつきての一種の技。異本洞房語園(享保、庄司勝富)「茶の湯、茶の会、末茶を点ずる一種の作法」 伊勢守貞忠亭御成記、大永三年八月五日「貞忠亭へ御成、云々、御ちゃの湯」 俳諧錦繍鍛(其角)「利休が茶湯道具、新古の目利」 呑海味(天文)「或は大名、或は御家門などの御茶の湯にもてなし、結構に木具、土器、金銀の亀足、云々」 茶話指月集(元禄、藤村庸軒)「雑用かけて、遠き所より、狐戸求めて、中垣の釣戸にせしを、利休さみして、かやうの事にて、其人の茶の湯見え侍る」 雅筵酔狂集、柱隠「千尋ある、陰の柱と、かくれてや、浮世に侘の、茶湯する宿」 東国紀行(天文、谷宗牧)「数寄の御茶湯、名物数を尽され」 茶湯の心得歌「見渡せば、花も紅葉も、なかりけり、浦の苫屋の、秋の夕暮」(武野紹鴎)「花をのみ、待つらむ人に、山里の、雲間の草の、春を見せばや」(千利休)(『大言海』) 

ちゃのゑ【茶の会】 客を招いて、抹茶をたてること。室町初期は、茶の種類を判定して賭物を取る享楽的なものであったが、東山時代頃から、静粛な気分を味わうものとなり、終って会席の料理が出るように変っていった。「茶の会・酒宴に若干(そくばく)の費(ついえ)を入れ」〈太平記二四・天龍寺建立〉(『岩波古語辞典』)

北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ) 

天正十五年十月朔日、豊臣秀吉が京都の北野社で催した大茶会。初め十日間行う予定だったが、佐々成政の新しい領国肥後で一揆が蜂起した報を受け、途中で取り止めとなった。この茶会は、その年九月初旬、秀吉と利休、津田宗及の三人が北野社に参籠し茶湯成就の祈願を行い、数寄屋の建設を始めたことから、法楽茶湯とされている。この茶会を催すにあたって、秀吉は事前に高札で沙汰書を掲げている。それは七箇条からなり、

第一条は北野の森で向こう十日間、天気次第で大茶湯を催し、御名物ども残らず取り揃え、数寄執心の者に見せる。
第二条には、茶湯執心とあらば、若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、釣瓶水指一つ、呑み物一つでよい。茶のない者はこがしでも苦しくない。持参すべし。
第三条には、、茶湯の座敷は北野の松原だから、畳二帖敷で事がすむ。但し、侘び者は稲掃き筵でも、ただの筵でも苦しくない。着座の順序は自由でよい。
第四条には、日本の事はいうに及ばず、苟も数寄の心がけある者は、唐国の者までも罷出でよ。
第五条には、遠国の者にまで見物させるために十月朔日まで日延べした。
第六条には、このように仰せ出されたのは侘び者を不愍に思召されてのことで、この度罷出ない者は、今後こがしを点てることも無用である。こんど罷出ない者のところへは参会することも無用と心得よ。
第七条には、特に侘び者とあらば、誰々遠国の者に拘らず、秀吉公の御点前でお茶を下される筈である、と記した。

こうして北野社の拝殿に十二畳の座敷の他、四席を設け、それぞれ秀吉秘蔵の名物茶器を飾り、四席には秀吉、利休、宗及、宗久がそれぞれ茶頭の役を務め、公家武士庶民併せて八百三人に点茶した。境内から松原にかけては千五、六百軒の数寄屋や茶屋を建てさせ、それぞれ数寄者に侘びをこらして来客を饗応させた。『多聞院日記』天正十五年十月八日の条にも「一、銀屋与太郎来、京ノ茶湯ノ様語了。茶屋千五六百ト云々」と記されている。秀吉自身も、点茶をすませて、町人・百姓たちの数寄屋や茶屋に遊び、庶民的な茶味を満喫したという。この時、美濃の一化(いっけ)、山科の丿貫(へちかん)などという侘び茶人が認められている。(『茶道辞典』)

利休七哲(りきゅうしちてつ)

千利休から茶道の直伝をいけたという七人の代表的門人。もちろん利休歿後の江戸初期に定められたもので、その標準について確証は得られない。諸書によって人名に異同がある。表千家四世江岑斎宗左の『江岑筆記』には、蒲生飛騨、細川三斎、瀬田掃部、芝山監物、高山右近、牧村兵部、古田織部の七人を挙げているが、他書には織部を除き、その代りに荒木道薫を加えたもの、織田有楽を入れたりしており、一様ではない。織部を除いたのは千家の作為とも考えられなくもない。利休には珠光相伝の秘事を授けた確証の得られる山上宗二や古田織部などがいるわけだが、これらを差し置いて、この七人を七哲と定めたのは武家本位な選び方とも見なされる。ただ、注意すべきは、この七人が台子七人衆と大略相似している点である。台子七人衆には牧村兵部と古田織部を除き、代りに羽柴秀次と木村常陸介とを加えている。秀次とその臣木村常陸介とは文禄四年謀叛の一件で高野山で死罪に処せられた。その後、この二人の代りに兵部と織部を入れて台子七人衆を補ったのが、そのまま利休七哲という名称で後世に伝えられたものかも知れない。ただ、これは推量にすぎない。(『茶道辞典』)

  • 【台子七人衆】(だいすしちにんしゅう) 利休直伝の台子の茶法を秀吉から授けられた七人。羽柴秀次、蒲生氏郷、細川越中、木村常陸介、高山右近、瀬田掃部、芝山監物の七人をいう。『織田有楽斎直書抜書』及び『細川三斎茶書』によると、武野紹鴎から承けた台子の古法を利休が略式に改良したのを秀吉が見て賞賛に、誓詞を利休に書かせ、許可なくして他にこれを伝授することを禁じたが、秀吉自らこれを相伝するとともに、以上の七人にだけこれを伝授した。それを台子七人衆と称したとある。秀吉として有りそうなことだが、確かなことはわからない。ただ、後世、利休七哲というのも、この台子七人衆に基くらしい。(『茶道辞典』)

【茶道】(ちゃどう)

茶湯の道、また数寄道のこと。さどうとも訓むが、茶頭と混同しないために、殊更ちゃどうと訓むのがよい。茶湯の道のことを茶道という語で表わした例は、江戸中期以前にはまれである。唐代の文人封演の著わした『封氏見聞記』に「於是茶道大行」とあるのを初めとするが、わが国の文献では、『南坊録』巻七に「茶道ノ守神トナルベシ」と記しているのが、比較的古い例であろう。『南坊録』は利休の弟子南坊宗啓の著といわれているが、巻七は江戸中期ごろの追加と考えられる。茶道という語が茶湯の道という意味で大いに用いられたのは、むしろ明治以降のことと思われる。(『茶道辞典』)

茶の湯によって精神を修養し、これを他人と行なって交際礼法を究める道。室町時代、村田珠光を祖とし、武野紹鴎を経、千利休に至ってこれを大成、禅の精神を取り入れ、簡素清寂を本体とする侘茶をひろめた。利休の子孫は、表千家・裏千家・武者小路千家の三家に分れて今に伝わり、その他門流多く、三斎流・織部流・遠州流・薮内流・石州流・宗偏流・庸軒流などの分派を生じた。(『広辞苑』第二版)

さだう【茶道】1、茶の湯。「〔近年は〕国主、或いは一郡一城の武士も茶道に心を入れて」〈江源武鑑八〉2、茶の湯にすぐれている者。茶の湯者。「その本を知らずして、茶の手前、器を本とのみすること、茶立て坊主とは言ふべく、茶の湯者とも茶道とも言ふまじき也」〈一時随筆二〉3、《「茶堂」「茶頭」とも書く》茶の湯のことをつかさどる者。特に、近世、殿中で茶の湯をつかさどった剃髪僧衣の役。茶坊主。「夏中手習ひ茶道泰経法印勤仕了んぬ」〈大乗院雑事記康正三・四・一七〉「茶道、円明院也」〈久好茶会記慶長二・四・一四〉(『岩波古語辞典』)

茶会

茶会(ちゃのゑ)

又、ちゃのゆ。特に客を会して饗応し、濃茶、薄茶を点てて供すること。特に其作法ありて、技芸の一とす。これ茶式なり。其条、及、前条を見よ。 老人雑話(享保、江村専斎)木綿踏皮「茶の会出でられむ時、足冷えむとてなり」 武野燭談、廿七「其時、秀吉公は伏見にて利休と茶の会あり」 茶の会を行ふに、朝会、昼会、夜会の三種あり。其他、不時会と云ふもあり。此会には、客人を一時、待合に控へさせ、茶室(四畳半、四畳、三畳、二畳などの種類あり)の広狭によりて、客人を分ちて初座、後座となし、室内整頓なさば、客を初座のものより招き入れ、点茶の式、終りて室外に退く。次ぎて後座のものを招き入るなり、これを後座入と云ふ。其室内の装飾なる床の間の掛物、挿花は初座、後座と相互に変遷するものとす。下の出典を見よ。 南方録、二、不時之会「後座掛物巻て、客へ花所望すべし、又は初座花ならば取入て、秘蔵物抔外題をかざりてもよし、か様の事、時宜に寄るべし」 同、同、独客之会「客腰掛に来らば、早く迎入れ、或は懐石をも挨拶の上相伴し、或は中立の跡仕廻を急て、腰掛へ出て挨拶する類、色々主客共に心づかひ有也、後座入の事、右の如く腰掛に一所に居る故、漸湯相能成申べし、御入あれと云て先に帰るべし」 貞要集、二、一客一亭之事、附、花所望次第之事「客、座入着座を聞合、茶道口より出(主人の)、此時は客、巧者なれば、炭所望可レ申」又「客本座へ直る時に、亭主、床前へ寄、一覧申、花台を取入、勝手次第、会席を出す、後座の時は、其儘、水覆を取出、茶を立る也、花を若客生不レ申候はば、亭主花を生申候、かならず後座に炭所望可レ有レ之なり」(『大言海』)

ちゃしき 茶式 茶の湯の式。室町時代、足利義政が同朋の相阿弥、真阿弥、芸阿弥、珠光、堺浦の僧武野紹鴎、千利休などを召して茶式を定む。天正に至りて、千利休、茶式を大成すと。これ、もと禅僧より起りたれば、(俗説贅弁に、筑前国崇福寺の開山南浦紹明、正元の頃入宋し、徑山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す。その頃、台子一かざり徑山寺より将来し、崇福寺の什物とす。是れ茶式の始めなるにや。後、台子を京都紫野大竜寺の開山夢窓へ渡り、夢窓この台子にて茶の湯を始め、茶式を定むと)禅味を尚び、和敬清寂を旨とすと云ふ。この流に千家、有楽流、遠州流、石州流、三斎流、山田宗遍流、鎮信流、不自流、金森流などあり。 木芽説「このころ(後醍醐)より茶礼と云ふ事、いひそめたれば、そのまとゐにては、いふもさらなり、さらぬ時、人の前にすすむるにも、やうやう其手わざ、ゆゑよしあることとは成にけむ、応永の比、大勝金剛院の僧正、閼伽井の顯弁上人に、茶たつるやう学びつたへて、しるしおかれたり。かく世世につたはるうちに、慈照院のおとど(足利義政)とりわきてもてはやさせ給へりしかば、そのころ奈良の称名寺に、世の中うちわびてこもりゐたる珠光と云ふもの、いみじくこのみて、これをもてあつかふこころしらひ、はた至りふかき聞えありしを、いとけうある事に聞しめして、ちかく召し給ひつつ、それに仰せて、こをもて遊ぶ種々の定めども、さたしおきてさせ給へるより、世に茶の式は定まれりとなむ、云々、さて珠光がとりなしつるおきてを、宗悟、紹鴎など云ふもの学びつぎつつ、紹鴎より千の宗易に伝えて、つひに今の世の式の如くには移り来しなりけり」 茶人大系譜「按2旧記1、晋広院義教公雖レ令3真能掌2茶事1、其道未レ盛2於当時1、至2義政将軍時1、令3珠光定2真台子之規矩1、而茶礼大備焉、従レ是真能、珠光之流分為レ二、真能之流、伝2于空海1、(右近と称す)、空海伝2之荒木道陳1、道陳伝2之宗易1、珠光之流伝2于宗陳、宗悟1、宗陳、宗悟伝2之紹鴎1、紹鴎伝2之宗易1、然則宗易伝2真能、珠光之二流1、而大2成於其道1者也」

ちゃくゎい 茶会 茶の湯の会。茶会(ちゃのゑ)。喫茶往来(僧、玄意)「昨日茶会、無2光臨1之條」
(以上『大言海』)

茶数寄・その他

茶数寄(ちゃすき) 

ただ数寄ともいい、数奇とも書く。好きの宛字。茶を好くこと。初めは茶湯と限らず、和歌や連歌に用い、歌の好きなことを歌数寄といい、茶の好きなのを茶数寄といったが、茶湯が盛んになってからは、数寄といえば茶数寄を意味するようになった。古書には多く数奇の字を用いているが、漢語の数奇が不倖を意味するので、数寄の字に変えたという説もあるが、確証はない。永禄七年に真松斎春渓の著わした『分類草人木』には「近代茶ノ湯ノ道ヲ数寄ト云ハ、数ヲ寄スルナレバ、茶ノ湯ニハ物数ヲ集ムル也」と見え、また「諸芸ノ中ニ茶ノ湯ホド道具ヲ多ク集ムル者無之」とあるのも、一面の理屈であろう。初め特に数奇の字を選んだのは、奇数の美を表わしたのだという説もある。単に数奇と書いて茶のことを意味するようになったのは、室町中期以後のことで、文安年間の編にかかる『下学集』に「数奇」と見え、『宗長手記』にも「下京茶湯とて、此ごろ数奇などいひて」とある。なお、数寄の道を数寄道(すきどう)といい、数寄道に専念精進する人のことを数寄者(すきしゃ)と称した。(『茶道辞典』)

数寄屋(すきや) 

茶室を称して数寄屋ともいわれている。そもそも茶室という語が現在のように普及したのは新しいことで、利休時代から多く数寄屋・囲い・小座敷・茶湯座敷また単に座敷などと呼ばれていた。後には、別棟をなして独立的にある茶室を数寄屋、これに対し座敷続きに作られた茶室を囲いと称すべきだとしたり、数寄屋の語に風流な遊びの茶といった意味を感じて、正統の茶室と区別しようとする考え方も行われるようになった。併し、今日それらの語は、相互に明確な定義の区別があって使い分けている訳ではなく、一般に草庵風の建築手法で造られた建物を指して用いられている。(『茶道辞典』)

茶寄合(ちゃよりあい) 

農村の寄合に茶を用いたもの。喫茶を中心とした寄合をいう。中世末期の郷村において行われた。また、武士の間で行われた闘茶をも茶寄合と称したらしい。雲脚と呼ぶ粗茶を用いたので、雲脚茶会ともいわれた。茶の本非を飲みくらべる闘茶とは異なり、群飲佚遊を主とし、寄合って村の自治について相談したともいう。『建武年間記』にある「二条河原落書」に「或ハ茶寄合ト号シ、或ハ連歌会ト称シテ、莫大ノ賭ニ及ブ、其費勝ゲテ計ヘ難キ者乎」とある。(『茶道辞典』)

【茶器】(ちゃき) 

広義には茶の湯道具一般の総称。普通には、薄茶用の容器のこと。(『広辞苑』第二版)

【茶坊主】(ちゃぼうず) 

イ(剃髪の姿であるからいう)室町・江戸時代の武家の職名。茶の給仕、茶道の事をつかさどったもの。茶職。茶道坊主。数寄屋坊主。茶屋坊主。ロ(茶坊主が政治に口をはさんだことから)権力者におもねる者を罵っていう語。ハ遊戯の一。数人で輪を造った中に一人が目隠しをして入り、鬼となって、或る一人の前に「誰さん、お茶を召し上がれ」と茶台を出しながら、その人の名をいう。もし当れば、当てられた人が代って鬼となる。お茶坊主。(『広辞苑』第二版)

ちゃぼうず【茶坊主】「茶道(さだう)」3、に同じ。「だいすの間へ御座候て、茶坊主どもに枕を御取り寄せなされ、御休み候て」〈川角太閤記二〉(『岩波古語辞典』)

ちゃばうず 茶坊主 武家にて、茶道の事を掌る者の称。剃髪なるが故に云ふ。茶道。おさだう。坊主。茶禿。(『大言海』)

【茶碗】(ちゃわん) 

茶碗という言葉は古くは焼物全般の代名詞であったが、桃山時代ごろから今日いう茶碗をさすようになった。茶の湯に用いる茶碗は中国、朝鮮、日本の三系統に大別でき、中国には天目(曜変、油滴、玳玻盞、灰被、建盞)、青磁(砧、人形手、珠光)、染付(雲堂、呉須、祥瑞)があり、朝鮮(古くから茶人は高麗茶碗と称しているが、それは高麗時代の作品ではなく、高麗は朝鮮の代名詞として使われ、その大半は李朝時代の作品である)には雲鶴、狂言袴井戸、三島、熊川、刷毛目、玉子手、堅手、雨漏、粉引、楚白、魚屋、柿蔕、伊羅保、呉器、金海、御所丸、割高台、御本、蕎麦などがある。日本物は最も種類が多く代表的なものを挙げれば、楽(長次郎、のんこう、光悦)、瀬戸系(天目、白天目、瀬戸黒、志野、織部、黄瀬戸)、国焼(唐津、萩、信楽、伊賀、薩摩、朝日)など、他に伯庵、仁清、元贇、紅安南などが著名である。古来、一井戸、二楽、三唐津、または一楽、二萩、三唐津と呼ばれるようにこれらは特に珍重された。その形には一般的な碗形の他に、筒、半筒、端反、馬盥、編笠などがある。口作り、高台、見込にはよく作家や産地の特色が表われるため観賞上の見所とされ、また名碗と呼ばれるものには品と侘びと寂の三趣と量感、力感、浄感の三感を具備した作品が多く、そのいずれかが抜きん出ている場合にその茶碗のもつ個性として一つの美的価値をもつわけであるが、茶碗の良さは使用美において最大の効果を発揮するのであり、機能性を失った茶碗は名碗とはいえない。(『茶道辞典』)

関連用語

茶(ちゃ) 

イ、ツバキ科の常緑潅木。東南アジアの温・熱帯原産。高さ一メートル内外、葉は長楕円形で、厚く表面平滑で光沢がある。十月頃葉腋に白花を開き、観賞用には紅花種もある。果実は扁円鈍三角形で、開花の翌秋に成熟し、通常三個の種子を入れる。木の芽。ロ、茶の嫩葉(わかば)を採取して製造した飲料品。茶の嫩葉を蒸しこれを冷却してさらに炒って製する。嫩葉採取の時期は五月頃に始まるが、その遅速によって一番茶・二番茶・三番茶の別がある。湯を注いで用いるのを煎茶といい、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶または碾(ひき)茶という。茗。ハ、抹茶を立てること。点茶。茶の湯。(『広辞苑』第二版)

◎茶のはじまり 或書に云、昔茶の濫觴は仁安三年四月栄西禅師入唐、其後帰朝の節、茶の実を持参。筑前の国脊振山に植ゆ、是我朝茶の始也、其種を山城国栂の尾に植、又喜撰法師、宇治山に植る、挽茶煎茶を製し、最上の名茶と成る、故に茶を名付て喜せんと唱へ、其の色の黄なる故、山吹と唱へ、又江州信楽一森村などにも名茶を出す、一森といふ、濃茶初昔は、春は八十八夜より廿一日目に摘を名付て初昔といふ、八十八夜より廿二日目に摘を後むかしと云ふ、(『俗事百工起源』)

○茶 日本記に云、弘仁六年に、五十二代嵯峨帝、江州滋賀へ御幸ありし時、崇福寺の大僧都永忠みづから茶を煎じて奉るとあり、此時代は唐茶にて、日本に茶を植さるなり、八十三代土御門院の御宇、建仁寺の開祖千光国師栄西、宋に入り茶の種を得て帰朝す、明恵上人此種を栂尾を茶山と称す、その種たる所を深瀬と云て今に存す、その作る所の茶を、また宋へ渡す、宋人の詩に幸得2梅山信1、嘗2日本茶1と作りてほうびの詩を越したり、(梅山は栂山の事也、梅と栂、字義同じ)其後宇治にうつす、又仁和寺醍醐葉室、大和の室生、伊賀の服部、伊勢の河上駿河の清光、武蔵河越など、栂尾宇治にならびて上品とあり、是みなせんじ茶なり、凡日本に茶種そめて、今享保に至る事五百有余年也、東鑑に葉上の僧正茶一盞を実朝公へ献じ、茶の徳を記せる書をさゝげし事あり(『近代世事談』巻之一)

また、柳田国男氏は著書のなかで、「茶は鎌倉時代の始めごろに、えらい禅宗の僧が支那から持ってかえり、九州では肥前の背振山、それから都近くの栂尾や宇治に栽えたということになっているが、この説の半分はまちがっている。輸入をしなくとも我邦の中央山脈には、東は東京のまわりの山々から、西は九州の南のはしまで、いたるところに自然と生えていて、焼畑を止めるとまっさきに芽を吹くのは茶の木であった。ただ隣邦のようにこの葉を煎じて飲むということを、もとは知らなかっただけである」と述べている。(柳田国男「三度の食事」)

紅茶(こうちゃ) 

茶の樹の若葉をつみとり、発酵させると紅褐色となり芳香をはなつ。これを乾燥したもの。その前汁は澄んだ紅色を帯びる。主として中国・日本・インド・セイロンに産する。(『広辞苑』第二版)

インドを植民地としたイギリスを経由し、主にヨーロッパで好まれた製茶法。また、その飲料。

わが国の紅茶のはじめ

紅茶も緑茶も原料となる葉は同じだが、製法によって紅茶となり緑茶にもなる。1841年、中国種の紅茶がセイロン島へ伝えられてセイロン茶として有名になり、1873年にはじめてロンドン市場にあらわれた。
茶は、わが国へも奈良朝時代から伝えられていたが、その製品は、製造の第一段階で加熱して茶葉中の発酵作用をとめてしまう緑茶であった。紅茶は明治七年(1874)五月二十七日の『江湖叢談』に、東京銀座尾張町の甲子屋池谷権兵衛店が広告を出し、売り出したのがはじめである。明治八年、政府は勧業寮に紅茶掛を設け『紅茶製法書』を刊行して各府県に配り、紅茶づくりを奨励した。これに応じて、熊本、高知などの各県で紅茶づくりを行なってみるが、いずれも成功とはいえなかった。
こうしたなかで、台湾に進出した三井が、茶園の経営をはじめ、これが成功して日本紅茶がはじめて国際競争の場に進出するようになった。この三井紅茶がのちの「日東紅茶」である。(『日本なんでもはじめ』)

中国茶(ちゅうごくちゃ) 

紅茶の一種。主に中国で好まれた製茶法。また、その飲料。紅茶より発酵を抑えたものも有る。烏龍茶・普耳茶・ジャスミン茶などその種類は多い。

緑茶(りょくちゃ) 

製茶の一種。茶の若葉を焙炉の上で揉みやわらげ、緑色を保有させたもの。煎茶・碾茶など。主に日本で好まれる製茶法。また、その飲料。

煎茶(せんちゃ) 

葉茶を湯で煎じ出すこと。また、その飲料。また、その葉茶。特に上級のものを玉露といい、下級のものを番茶と称するのに対して、中級のものを煎茶と呼ぶ場合もある。

煎茶は当初、赤黒色(番茶色)をしていた。それを宇治田原の永谷宗七郎が十数年の苦心の末、元文三年(1738)、新茶のよい芽を摘み、湯で蒸して手でもみ、ほいろで乾かす方法を考案し、緑の煎茶を発明したとされる。これを江戸日本橋の豪商山本嘉兵衛(四代嘉道)と契約、こうして宇治の煎茶は江戸で大好評となった。四年後、売茶翁が風流道から緑茶を広めたが、全国的にひろまったのはそれから八十年後(十九世紀初頭)といわれる。

抹茶(まっちゃ) 

茶の新芽を採り、臼で碾いて粉末にしたもの。熱湯を注ぎ掻きまぜて飲む。主として茶の湯に用いる。ひきちゃ。散茶。(『広辞苑』第二版)

【薄茶】(うすちゃ) 

  • 抹茶の一種。濃茶に対していう。製法は濃茶と変らないが、古木でない茶樹から採取する。点て方は濃茶と違って、一碗に茶杓で二杯すくって入れ、湯をそそぎ、茶筅でかきまわし、泡をたてる。『津田宗及茶湯日記』を見ると、利休時代にその名が現われ、濃茶は御茶、薄茶は薄茶と区別して書いてある。『茶道筌蹄』には、極詰、別儀、極揃、別儀揃の四銘を挙げている。近来、各宗匠の好みにより種々の銘ができた。(『茶道辞典』)

【濃茶】(こいちゃ)

  • 抹茶の一種。薄茶に対していう。茶の老樹に簀屋根を懸けて日光を避け、その若芽を採取する。点て方は薄茶と異なり、一碗に茶杓で三杯すくい、あとは振り出して、湯を注ぎ、茶筅で練りこなし、数名の客に進める。利休時代には単に御茶といって、薄茶と区別した。古くは別儀、無上、極無上などの区別があったが、近来は極上、初昔、後昔、祖母昔、好みの白、祝の白などの他、各流家元によってさまざまな銘がつけられた。(『茶道辞典』)

「お茶」と「おやつ」

我々は朝食、昼食、夕食の三度の食事以外にも、「お茶」と称して、朝と昼の間、昼と夕の間などに軽い食べ物を口にしている。こうした農作業や普請など一日仕事の合間に、体力の復活のために休憩を兼ねて軽い食を取ることは、喫茶が一般に広まる以前から「小昼」「小ジュウハン」などと呼んで我国の農村などでこの習慣が行なわれていた。そこに茶が供されるようになり、これらの間食を「お茶」と呼ぶ習慣になったという。現在でも、野良仕事や大工仕事の合間に「お茶にしましょう」と声を掛けて、職人たちに間食を給与し休憩をとらせるのがそれだ。
こうした間食を、午前中に供されるものを「前茶」「朝お茶」「四つ茶」などといい、午後に供されるものを「八つ茶」「七つ茶」「二番茶」などと呼んだと柳田国男氏は述べている。ここにある「四つ「八つ」「七つ」は、言うまでもなく昔の時の数え方で、「四つ」は今の午前十時、「八つ」は午後二時、「七つ」は午後四時のこととなる。
現代でも、「お茶にしよう」とか「お茶でも」という時には、本当に「お茶」を飲まなくても、コーヒーやジュースなどの飲み物を飲むばかりでなく、お菓子やケーキなどを食べたり、軽い食事をすることを「お茶」と言っている。
また、「おやつ」は「お八つ」で、前述の「八つ茶」のことをいい、「おやつ」を「お三時」という家があるように、午後二時〜三時頃の間食を指していたが、現在では子供にお菓子を供することを、時間に関係なく「おやつ」と言うようになった。さらには子供のお菓子そのものを「おやつ」ともいっている。

こうした間食の習慣は我国だけに限ったことではなく、諸外国にもあって、しかも我国と同じようにそれらを「茶」や「珈琲」を代名詞に用いて呼んでいる。英語で「ティー・タイム」「コーヒー・ブレイク」などというのがそれで、イギリスなどでは特に午後のティー・タイムをアフタヌーン・ティと呼び、紅茶にケーキやスコーン、サンドウィッチなど昼食以上のボリュームのある間食を摂る習慣さえある。

お茶の子

お茶受けの菓子の意。はじめはお茶受けの食べ物(生菓子)をいったが、のちには朝食前の一仕事を行なう時に食べる食べ物をいうようになった。朝食前と同義。
日常の会話で、簡単な仕事をこなすときにいう「お茶の子さいさい」の「お茶の子」で、「こんなのお茶の子さ」というのは「こんなの朝飯前さ」というのと同じ意味である。

「今いう生菓子をなんといったかというと、百年前までの日本語はお茶の子であった。お茶の茶受けは塩出も梅干でもよかったが、何かことのある日には念入りに、こういうものをこしらえて出したので、今でも年とった人にはまだこの言葉を知っている者が少しはある。腹にたまるまでの分量は出さぬので、どうしても味をおいしくする必要があり、甘味なども少しずつこの方面から加わってきたのだが、それでもまだ田舎には、ちっとも甘くはないお茶の子、どちらかというと少しまずいお茶の子がのこっている。・・・農家の若い男女は床をはなれるとすぐに、鎌を持ち馬をひいて山へ草を刈りに行くが、その時には囲炉裏の灰の中から、昨晩入れて焼いて置いた大きな団子を掘り出して、ふうふうと灰をはたき、路々かじりながら出かけるのが、多くの農村のふつうの例であった。そうして一仕事してきてから、かえって本ものの朝飯を食べるのであった。この団子の大きさはメロンほどもあって、材料は蕎麦・稗の粉、たまに土穂といって米の調製のときに、一番あとにのこった屑籾を粉に挽いたものもある。塩も入れないのが多いから決してうまい物でないが、若い者はよろこんでこれで空腹をみたしたのであった。この団子の名はどこへ行って聴いても、大ていはお茶の子であった。すなわちもとはお茶の相手に食べたものを、後にはお茶なしに、「子」だけ食べていたのである。(略)
前には江戸といった大きな都会でも、草こそは刈りに行かなかったけれども、やはり早朝にこのお茶の子を食っていたのである。その証拠としては何によらず、それくらいな仕事はいと容易だ、またはちっともこまらないというような場合に、朝飯前だともいえばまたお茶の子だともいっていた。すなわち二つの言葉は同じで、もと朝飯を食わぬうちに、お茶の子だけで、一仕事をしていた名残である。『宝暦現来集』という書物を見ると、今から百六、七十年前の安永年間までは、朝々江戸の町を「お茶の子お茶の子」といって売りあるく商人があった。そのお茶の子は今いう鶯餅のように、餡をつつんだ餅に黄粉をまぶしたものであった。手のない家ではこれを買い取って朝茶を飲み、それで朝飯をぬきにした人が多かったということである。農家のように昧いうちから起きるのでなければ、この茶の子のあとで朝飯を食べ、それからまた昼のしたくをするというのは、なるほど必要もないことであろう。』(柳田国男「三度の食事」)




囲碁

囲碁(いご)

現代では趣味娯楽の部類に入れられているが、当初は学問教養の一つとして当時の知識人僧侶などにもてはやされた。初代本因坊は信長、秀吉、家康に以後を教えていたといわれているほど、囲碁は当時の戦国武将たちの戦略的な思考に影響を与えていた。

碁はインドから中国を経て日本に伝わったという説と、約三〇〇〇年以前に中国で考案され発達したという説がある。中国では、傑(けつ・正しくは人便がない)王の家臣烏曹が創案した説、あるいは舜王が考案し、その子の商均に伝えたという説があり、さらには堯王が編み出し、その子の旦朱が受けついだともいわれている。
わが国の文献では、大宝年間(701〜4)に僧弁正が唐に渡った際に碁を打ったことが、『懐風藻』に記されている。
霊亀三年(717)、阿倍仲麻呂といっしょに唐に渡来した吉備真備が、かの地で囲碁を習得し、天平七年(735)に帰国してこれを伝えたのが、わが国での囲碁のはじまりとされる。
わが国で碁をはっきりと体系づけたのは、京都寂光寺の塔頭本因坊の住職日海上人で、後に初世本因坊算砂名人と呼ばれるようになる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康はその算砂に師事し、いずれも五子を置いたと伝えられている。とくに家康は算砂を軍師として仰ぎ、天下統一ののちに碁所(ごどころ)を設け、碁道の普及をはかった。
江戸時代には徳川幕府の庇護のもと、碁道はますます盛んになり、本因坊家、安井家(初代算哲)、井上家(初代中村道碩)、林家(初世門入斎)の四つの家元が誕生、天保・弘化年間(1830〜48)は囲碁隆盛の絶頂期といわれる。
碁所が廃絶した明治維新以後は種々の団体が誕生して離合集散がくり返されたが、大正十三年(1924)大同団結がなり、本因坊秀哉名人を頭に日本棋院が設立される。その後、昭和十六年に本因坊二十一世秀哉が本因坊の世襲制を廃止し、実力選手権としたことから本因坊戦の行事が活発になり、戦後の囲碁ブームを創出せしめた。(「日本なんでもはじめ」)

『懐風藻』(かいふうそう)現存する最古の漢詩集。淡海三船(おうみのみふね)の撰と伝えられるが不詳。

蹴鞠

蹴鞠(けまり)

鹿革で作った鞠を蹴る遊戯。昔時の貴人の遊戯で、庭上で、数人が革沓をはき鞠を懸(かけい)の木の下枝より高く蹴上げることを続け、それを受けながら地面に落とさないようにする。その場所を鞠壷あるいは鞠庭といい、七間半四方が本式とされ、東北隅には桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植える。平安末期以後盛んに行われ、飛鳥井・難波両家が師範家となる。

一、蹴鞠はいかなる心ぞ。
まりは、黄帝のつくり給へるもの也。武芸をならはすあそびなり。後漢書の梁冀伝に見たり。鞠と毬と字ことなりといへども心ろおなじ。指毬とかきてはまりうちちとよむ。手にてなぐるなり。足にて蹴を榻(正しくは足篇)鞠(たうきく)ともいふ。もとは、草をもてつくれり。毬とかくはその心か。今はかはにてくゝるを鞠とかく。鞠の字をば、きはまりとよむ。きはを略して只まりとばかり云ふか。此の事は慥の説をきかず。一の愚推也。毛詩に、叔々(正しくは足篇)たる周道、鞠為2茂草1と云へり。又鞠の字をば養なりと釈せり。をとさじははげむは、やしなふ心にもあらむ。又高なりとも釈す。まりはたかくあぐるものにて、入雲といふことありとかや。成通卿譜にも、そらへあげてくもにいり、又ふたゝびかへらぬよしいへる事あり。まりの至極か。(『塵袋』六)

蹴鞠(けまり) 

「まりけ」と同じ。「柳に蹴鞠(の模様)」〈黄・金々先生造花夢中〉▽古くは「まり」「まりけ」「しうさく」などといった。
まり(鞠)《マロ(丸)・マロビ(転)・マリ(鋺)などと同根。球形のものの意》�蹴鞠の遊戯。「まりけ」とも。庭の四方に植えてある桜・柳・松・楓などの中で、四人・六人・八人で行なう。皇極天皇の時、中大兄皇子と中臣鎌足が法典寺の庭で行なった例が古い。平安時代、貴族の間で盛んに行なわれ、末期には難波・飛鳥井などの師範の家もできて、方式がやかましくなった。「毬に身を投ぐる若君たちの花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見るとて」〈源氏若菜上〉
まりけ(鞠蹴) まり(毬)�「花の盛りには人々参り給ひてまりけなど遊ばせ給ひし所なり」〈栄花根合〉
(以上『岩波古語辞典』)

けまり(蹴鞠) クヱマリ。まりけ。略してまりとのみも云ひ、又、蹴鞠(しうきく)とも云ふ。貴人の遊戯。庭上にて、数人、革沓を穿きて、鞠を、且蹴上げ、且承けて、地に落ちしめぬ戯れなり。鞠は、鹿の革皮にて、二枚を、中にて綴りて、円く作る、径、七八寸、内に空気を満たし、軽く空にあがる。これを行ふ式、種々なれど、普通なるは、庭上に場を設く、鞠壷、又、懸りと云ふ、方、数間、四方を囲ひ、東北の隅に桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植う、(此樹々を、切立と云ふ)四木懸と云ふ、四人、又は、六人、八人、此場内に立ちて、鞠を蹴合ふなり。此技、支那より伝はりて、古代よりありしが、崇徳天皇の比の人、大納言藤原成通、練達して、妙技を称せられ、其子孫、公家衆に、難波家、飛鳥井家と称して、数十世、此技の師範家たりき。近代世事談の三に、京都の西洞院の陳外郎杏林と云ふ者、鞠に手練して、種々の曲を蹴たり。是より、地下の者も、これを学べり、外郎派と云ふ、とあり。皇極紀、三年正月、中臣鎌子「預下中大兄於2法興寺槻樹之下1、打毬之侶上、而候2皮鞋随レ毬脱落1、取2置掌中1、前脆恭奉」 字鏡集「毬、けまり」 和妙抄、四十七蹴鞠「伝玄弾棊賦序云、漢成帝好2蹴鞠1、末利古由」 下学集、下、態芸門「蹴レ鞠」 蓋嚢抄、一、鞠「或譜には、用明天皇御宇に、唐より渡れり」 本朝月令、五月「国史云、大宝元年五月五日、奏2蹴鞠会1」 西宮記、臨時、八、蹴鞠「延喜五年三月二十日、御2仁寿殿1、召2殿上人、云々1、令2蹴鞠1」 栄花物語、三十一、殿上花見「一品宮、云々、殿上人、朝夕に参り、罷出、まりけに、小弓射など、おかしく遊べり」 同、三十六、根合「花の盛りには、人々参りて、まりけなどあそばせたまひし所なり」 享徳二年晴之御鞠之記「御鞠は、弥生の下の七日の事なりけり、云々、式部卿の皇子、今日の御まりに参らせたまふ」 吾妻鏡、四十三、建長五年三月一日「於2御所鞠御壷1、覧2童舞1」 尺素往来「近日於2禁中1、可レ有2蹴鞠御会1候、随而、懸之庭被2荘厳1候、艮桜、巽柳、坤楓、乾松、各擇2奇木怪株1、被2移栽1候」(『大言海』)

○蹴鞠(しゅうきく) 用明天皇の朝にはじまる、埃嚢抄 皇極天皇の朝、中大兄中臣鎌子など、法興寺の槻の木の下にて、鞠を打と云事、日本紀に見えたり、七十七代後白河院、みづから庭におりたち給ふ時に、大納言成道卿妙術ありて、ありおふの二神、常につかへ給ひしと也、そのゝち難波頼助輔朝臣、飛鳥井雅経卿両流をはじめられたり、今に至て鞠の御家と称、八十二代後鳥羽院、此道に長じ玉ひ、鞠の明神を崇む、後嵯峨院後深草院亀山院、つゞゐてはなはだ玩び玉ひしより世に流布し、公家武家の道を得たる人多し、そのころよりして、地下にくだりて于今専玩ぶ
外郎流 洛陽西洞院陣外郎二位杏林、鞠に手練して種々の曲を蹴たり、その子右親衛政光、父の伝へを得るそのころの地下人、専これを倣ふ、外郎派の始これなり、当時御家の流儀を学ぶ輩は、転業なりとて此流を用ひざる也、頃年地下にて上手といひしは、京菱屋市右衛門、はりま屋長右衛門後に友助、籠屋清兵衛、鞠師竹の屋藤次、同大坂の甚左衛門後に甚入、江戸綿屋五郎右衛門、服部休甫、三木可真、栗本光寿等也、其外是にかぎるべからず、国々所諸に上手多かるべけれども、聞覚へたるを記すのみ
○賀茂沓 今用鞠沓なり、洛北賀茂より始るゆへに此名あり、鴨の嘴に似たるゆへに云とは非也、上古は沓なし、裸足或は韈を用ひたり、革沓出来て後、御家にもよろしきにして用ひ給ふにより、下々専これを用也、賀茂の社家松下兵部は、鞠の誉ありて世に鳴りし人也、此兵部のはじめたる事にや
○神田沓 栗本光寿は、鞠の空といふ沓味を丹練したり、又沓の形も異なるか、光寿は神田に居す、よつて此名あり、此人近世の妙足なり、総じて此道を学ぶ人は、皆御家の門弟なれば、師とも弟子ともいはず、相談と云也、当世江戸にて玩ぶの輩、三木可真をはじめ、人皆此老人の相談に至らぬはなし、今光寿の蹴方を専とす、享保十七子冬卒齡八十歳(以上『近代世事談』巻之三)

香(こう)

香木の渡来は推古天皇の時、沈木が淡路島に漂着したのを初めとし、奈良時代には遣唐僧侶によって香が伝えられたが、仏事に用いるだけであったという。この風習が、仏前や墓などで燻らせる線香であり、葬儀や法事などの焼香として現在に伝わっている。

平安期に入りその香りを楽しむ風が生まれ、座敷などでそれを焚いて燻らせ、その香りを楽しんだ。その後、茶室などでもてはやされるようになった。また、着物などにその香りを移し、現代の香水のような使い方もされた。最近では、この香の香りが精神をリラックスさせ、癒し効果が有ることから、芳香剤として愛好する人も増えている。 

木単香と練香の二種が有り、茶室などでは木単香を風炉の季節に焚き、練香は炉の季節に使用された。木単香には沈香、伽羅、白檀などが有り、練香には梅ヶ香、荷葉、侍従、黒力など数十種が有る。木単香は、木地、塗物などの香合に入れ、練香は陶磁器の香合に入れて燻らせた。また、木地などの香合に練香を入れたい場合には、椿の葉を細かく切ったものを練香の下に敷く。

香合せ(こうあわせ) 

人を左右に分け、羅国(らこく)、採蘇羅(さそら)、真名盤(まなばん)、真中(まなか)、蘇門答刺(そもたら)、伽羅(きゃら)などの香木を焚いて、その別をかぎわけ、また、その優劣を評し、勝負を定める遊び。合物(あわせもの)遊芸の一つ。
聞香(ききこう)とも云い、平安朝期に熏物合せ(香合せ)として堂上公家の間で流行した遊芸。名香合せや組み香を主とする聞香が盛んとなったのは南北朝の頃とされ、闘茶会の大立者とされる佐々木導誉はまた名香の所持者としても知られている。聞香の開祖は三条西実隆とされ、その高弟志野宗信が志野流香道を確立。その子宗温、その孫省巴にその技は世襲されるが、省巴の門弟建部隆勝が出て、その門から坂内宗拾や蜂屋宗悟などの名を知られる香道の名人が現れる。津田宗及や千宗易なども同門とされ、宗拾の弟子には古田織部や本阿弥光悦がいた。こうして香道は茶人達に学ばれ、聞香は茶湯と並び行われるようになり、その一部が茶香として茶道に取り入れられたが、聞香自体はその後衰退した。

○香道 東山慈昭院殿、始て香道の法を立らる、抑々名香二十種を左右にわかち、優劣をあらそふ、是を名香合と云、其外十主(元字は火偏)香、競馬。花月。源氏。呉越等を始。凡六十三品の法あり、所謂秘伝の香は、連理香蹴鞠香星合香(此三品あり内一品)

十種名香 東大寺 法隆寺 逍遥 三芳野 枯木 法華経 紅塵 八橋 中川 盧橘 等也
此外追加六種の名香あり、又七十種の名香、百八十六種の名香をはじめ、数品の香あり、名香本朝へ渡るは、虎関異制庭訓に云、天平年中百済国より、始て名香を貢献すとあり、又朱雀院朝閑院大臣の黒方、公任卿の承和百歩香、これ皆。合香にして、一木を用る事なし、応永のころ、京極入道道誉、一木を好て軍旅国務のいとまをたのしめり、文亀のころ香道に深き人は相阿弥 宗信 志野三郎右衛門尉行二 二階堂長秀 松田丹後守兼直 肥山左京元種 内藤大蔵祐憲 志野弥三郎盛郷 波々伯部兵庫之助省栢(夢庵)是等の人香道者なり、又法に相阿弥流志野流の二派あり(『近代世事談』巻之三) 

香合(こうごう) 

香を入れる蓋付の器。漆陶磁器、貝などで作り、茶人の愛玩物として珍重された。なかでも陶製の型物香合が賞美されていた。

講談

講談(こうだん)

講談という名称は明治以後のもので、江戸時代には講釈といい、講義読釈といって書籍、軍談、物語、記録類を平易に解釈して話すことを意味した。

講談の起源

平安時代の末(12世紀末)、吉岡鬼一法眼憲海にはじまるという伝承があるが根拠はない。
また、江戸時代初期に赤松法師が徳川家康の前で『源平盛衰記』『太平記』などの軍書を講じたのが講釈のはじまりともいう。
当時、こうした講釈の多くが『太平記』を読んだことから「太平記読み」とも呼ばれた。

講釈師の確立

元禄十三年(1700)、播州三木の郷士赤松青竜軒が堺で“よしず張り”を構えて軍談を講じた。また、同年名和長年の子孫を名乗る名和清左衛門が京都から江戸に出、町奉行の許可を得て浅草見附御門わきに小屋をつくり、『太平記』を講じたという。
一説に、青竜軒と清左衛門は兄弟で、青竜軒は名和の名をはばかって赤松を名乗ったのだともいわれている。
清左衛門の席は“太平記場”と呼ばれ、明治以後まで残っていた。現在の講談界では、この清左衛門を講談の祖としている。
清左衛門のあとを承けた1700年代には江戸では深井志道軒が世話講釈、神田伯竜子が軍談物、成田寿仙が“お家騒動もの”で世間を楽しませた。一方、滋野瑞竜軒は二本の扇を巧みに使い修羅場(戦場もの)の名人といわれた。
宝暦七年(1757)、馬場文耕が講釈場をつくり、今日の寄席講談の興行形式を定め、天明(1781〜9)ころから各流派を名乗る講釈専門の者が出て、今日の講談界の基礎が築かれた。

明治以降

維新後、明治政府は講釈師に新政府令を語らせ、その周知に利用する。
明治五年(1872)ころから外国物の翻案講談、政治講談などが起こり、明治三十年代までに名人上手が続出し、講談の黄金時代を築いた。

衆道

衆道(しゅどう)

若衆道の略。男色の道。かげま。(『広辞苑』第二版)

我国で同性愛が罪悪視されるようになったのは、明治以降の西洋的道徳観が移植されてからのことだろう。それまでは、異性愛よりも少なく異なる道ではあっても、罪悪では無かった。そのため、男女の愛憎からくるさまざまな人間臭い事件同様、男色のもつれで引き起こされた事件も又、少なからずあった。隆慶作品においてもそこから来る事件がちらちらと現れている。その代表的な事例が荒木又右衛門の仇討で、この仇討のきっかけは衆道のもつれだった。

主道 衆道。但し『男色二倫書』(承応二年序、寛文五年刊『よだれかけ』巻五・六に所収)に「むかしは若道(にゃくどう)といひ、中ごろは主童と書といへり。男色はみちを主とするによりて、主道と書といふなり」。(『心友記』注)とあることから、『広辞苑』でいう若衆道の略で衆道となったのか、主道が衆道となったのか後考を要する。

西鶴の『好色一代男』では、「若道」と書かれ「じゃくどう」「にゃくどう」と読まれている。

にゃくどう(若道) ジャクドウとも。男色の道。男色。「自然若道などの縁を以て譲らるる様なる儀、仏法破滅の基に候」(高野山文書三、文禄二・一・一六)(『岩波古語辞典』)

『衆道物語』(心友記改題本)下に「衆道といふは、少人十二歳より二十歳まで九年の間也」とあり、『よだれかけ』五には「十六歳を若衆の春といふなり。(略)十一より二十までを蒼める花になずらへ、十五より八を盛りの花と極め、十九より二十までを散る花となん定まりし。此の理りは羅山のとはの言種とて、或る人は語りき。(略)また白玉の草子には、七歳より二十五までを若衆の一期とせり。此の道を好む者は、三十までをも用ひきにけりとあり」と記す。(『好色一代男全注釈』)

○男色をてらふものをかげこといひ、又かげまと称呼せり。ある人の物語に、鎌倉権五郎景政美小童なりし故に、八幡太郎義家寵愛し給ひ、景政をかげまと呼給ふに起れりといへり。かげのまと称すは訛なり。(『橘窓自語』)

念友(ねんゆう) 

念人・念者ともいい、男色において、少人の兄貴分として交際する男子をいった。少人とは、稚児・若衆の事。(『心友記』注)『かぶいて候』には「男の愛人を云う」とある。

牛耳の交はり(ぎゅうじのまじわり) 

血を啜りあって誓った仲。(『心友記』注)

双六

双六(すごろく)

室内遊戯の一種。元は盤双六の事で、インドに起こり中国を経て奈良時代以前に日本に伝わり、古くから賭が行われた。二人が対座し、二個の采を木または竹の筒に入れて振り出し、出た目の数だけ盤に並べた棋子(駒石)を進め、早く相手の陣に入ったものを勝とする。盤は、厚さ四寸、横八寸、縦一尺二寸が標準で、中間に横に一条の間地を設け、縦に左右十二の線を設けたものが用いられる。この遊びから、江戸時代初期に現代でも遊ばれる絵双六と呼ばれるものが生まれた。

一、双六は下臈のしわざにて、かみつかたにはせぬことのやうにおもへるは、ゆへありや。
させるゆへなきか。たゞみちにたちたる博奕打の中にこのむやうに思ひならはして、それにつきて、つぢゝかの事にしなしたるにや。今の様うたふ事も、今はめくら・つじ冠者原などのこのみすることなるゆへに、かみつ方にはもてなさぬ体の事か。昔は聖武天皇曲水の宴せさせ給けるに、詩つくらぬものには五位已上に双六局をたびて、かけ物には人別に銭に三千貫をくだされけりと見えたる事あり。
又御堂の関白の町尻殿と双六うち給ひけるとき、まちじりどのゝあしのうらに道長とかきたまひけるをみつけて、われをのろひたまふとはしりたまひにけるといふこと、よつぎの大かゞみのまきにあるにや。これらを思ふには、さしもげすしきゆへあるべしともおぼえず。兼名苑には、波羅、一名六采六字也。天竺の阿育王のおとゞのつくるなり。天監年中にはじめてわたるよし見えたり。梵網経に波羅塞戯と云へるはこれか。可勘之。(『塵袋』六)

すごろく(双六)「すぐろく」の転。「百年の久しき世上の事も、わづかに碁・双六一番打つ程の事ぞ」〈錦繍段鈔五〉

すぐろく(双六)《スゴロクの古形。スグは「双」の古い字音sungを写したもの》室内遊戯の一。二人が木製の盤を隔てて対座し、黒白の駒石各十二個を自陣に並べ、別に二個の賽を交互に振り出して、その出た目の数だけ駒石を送り、早く敵陣に入ったものを勝ちとする。盤上の遊びでは碁とともに最古のもの。中国伝来。「一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六の釆」〈万三八二七〉「すぐろく打つ時の言葉にも」〈源氏若菜下〉(以上『岩波古語辞典』)

スゴロク 雙六、双六、雙陸 〔古言、スグロクの転、字の唐音ならむ、此戯れ、天竺に出で、波羅塞戯と名づく、支那に入り、初、六箸を投じ、白棊、黒棊、各、六を行る、故に、名とす、又、二つの賽に、六の目の雙び出でたるを勝とするより、名ありとも云ふ〕古く、すぐろく。二人、相、行ふ戯れ、木盤あり、(局)雙方、各、十二の格あり、各、馬、十二を並べ、黒白を以て分つ、二個の賽を竹筒に入れて、代わる代わる振り出し、其出でたる数ほど、格を数えて、馬を送り、早く、敵の格中に送り了りたる方を勝とす。道中双六と云ふは、江戸に始り、東海道五十三駅を、渦などの状に図し、中央を京都とし、数人、順に一つの賽を振り、其出でたる数ほど己が馬を送り、早く、京に到れるを勝とす、小児の玩なり。五雑組(明、謝肇制)人部、二篇「雙陸、本胡戯也、云、胡王有2弟一人1、得レ罪将レ殺レ之、其弟於2獄中1作2此戯1、以上、其意、言2孤則為レ人レ1撃、以諷レ王也」 同「曰2雙六1者、子随レ骰行、若得2雙六1、則無レ不レ勝也」 梁書、侯景伝「嘗與レ王雙陸」 唐律鑠文(元、王元亮)「雙陸、今名2選采1也」 全析兵制録「雙六、呼2新五六古1」 持統記、三年十二月「禁2断雙六1」(博奕の具としたればなり) 著聞集、十二、博奕「小野宮は、昔、惟高の皇子の、双六の質に取給へる所也」 倭名抄、四十八雑芸類「雙六、一名、六采、博奕是也、須久呂久」 万葉集、十六廿「吾妹子が、額に生ひたる、雙六の、牡牛の、鞍の上の瘡」 同、同巻十七詠2雙六頭1歌「一二之、目耳不レ有、五六、三四佐倍有、雙六乃佐叡」 枕草子、六、六十五段、つれづれなるもの「馬下りぬ双六、又、敵の賽を乞ひて、頓にも入れねば、筒を盤の上に立て」 拾遺集、十九、雑恋「すぐろくの、市ばに立てる、人妻の、逢はで巳みなむ、物にやはあらぬ」 蜻蛉日記、上、下六「すぐろく打たむと云へば、良かなり、物見づくのひにとて、女、打ちぬ」「絵雙六」官職雙六」(位階昇進)名目雙六(天台の名目)源氏雙六」(『大言海』)

○雙六 梁武帝天監年中日本へわたす、本朝二十六代武烈帝に当る、万葉一二の目のみにもあらず、四三六五さへありけりすごろくのさい、つれ/\草に云、双六の上手といひし人に、その行をとひ侍りしかは、かたんと打へからす、まけじとうつへき也、いづれの手かとくまけぬへきと案じて、其手をつかはずして一めなりとも遅くまくへき手につくへし、下略(『近代世事談』巻之三)

骰子(さいころ)

骰。さいころの起源は、紀元前3200年以降の古代エジプト王朝時代にさかのぼるという。当時のさいころは、象牙や骨で作られた小さな六面の立方体で、現在と同じように表裏の和は七となっていた。
わが国では、天平七年(735)、吉備真備が唐から囲碁とともにもたらしたといわれ、天平十八年に長忌寸意吉麿(ながのいみ おきのまろ)が双六にさいころを使用した歌を詠んでいる。以来、文献には正月に子どもたちが絵双六にさいころを用いた記録はあるが、そのほかの用途に使用された記述はみつからない。ただ、江戸時代になり、一部の遊び人たちが博奕として「丁半」という遊びに使用していたことは知られている。(『日本なんでもはじめ』)

相撲

相撲(すもう)

角力。動詞「すまふ」からきた詞。土俵内で、二人が組み合い、力を闘わせて、相手を倒すかもしくは土俵外に出すことによって勝負を争う技。上代から行われ、国技と称される。(『広辞苑』第二版)

わが国での相撲の古い形を示すものとして『古事記』に建御雷神(たけみかずちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)の力競べの説話があり、この勝負によって「国譲り」が行われたとされる。また、『日本書紀』には垂仁天皇七年(638)七月七日に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の決闘が行われ、宿禰が蹶速を蹴り倒して、踏み殺したという記述がある。
本来、わが国の相撲は、農作物の豊凶を占う神事との結びつきからはじまったもので、現在でも全国各地で行われている「奉納相撲」などにその名残りを見ることができる。また、土俵、神明造りの屋根、塩、力士が前に下げる「さがり」、横綱の注連に飾る御幣など、いずれも神事と深いかかわりがあることがわかる。
わが国の相撲は、皇極天皇の元年(642)に百済の使者をもてなすため、宮廷の兵士を集めて相撲をとらせたと『日本書紀』にあるのが歴史上の初見である。弘仁十二年(821)には宮中儀式の重要行事と定められ、相撲節会(すまいのせちえ)として以来、三百年間続いた。
相撲取りが職業化したのは寛永元年(1624)といい、元祖は明石志賀之助。江戸四谷塩町の笹寺の境内で寄相撲と称し、晴天六日、諸国相撲を公開したのがはじめで、有料勧進相撲が許されたのは貞享元年(1684)からである。
本場所は、寛政三年(1791)四月から本所の回向院境内で行われるようになったのがはじまりで、晴天十日間興行した。十五日間六場所制になったのは第二次世界大戦後である。

横綱(よこづな)

安永二年(1773)に行司・式守五太夫の書いた記録によれば、神社、寺、城、屋敷などを建てるとき、相撲の最手(ほて=最上位の者、大関)を一人か二人招いて地鎮祭の地固め式に「しこ」を踏む儀式が行われたという。式に出る力士には五条家から式作法の奥義と秘伝を伝授した。これを『横綱之伝を免許する」といった。これは、「しこ」を踏む力士が身を清める意味で「しめなわ」を身につけて地固めの法を行うことに由来する。
この作法は寛永元年(1624)、上野寛永寺建立のころはじまったといわれ、この儀式をのちに勧進相撲の土俵の上で演出したのが、もと五条家目代を務めていた吉田追風である。
寛政元年(1789)十一月、谷風梶之助、小野川喜三郎が、はじめて吉田司家(つかさけ)から「横綱土俵入り」の免許を受け、徳川将軍が上覧相撲を催したとき「しめなわ」をしめて「土俵入り」を行った。これが「横綱土俵入り」のはじめである。
「横綱」は、はじめ地鎮祭のとき地面に張った綱をいったが、土俵入りする力士の腰にまとう「しめなわ」のこともさすようになり、やがて最上位の力士である最手の名称となった。
初代横綱は明石志賀之助とされているが、番付面に横綱が登場するのは明治二十三年(1890)五月場所十六代横綱の初代西ノ海(高砂部屋)からである。横綱が地位として成文により確定したのは明治四十二年六月、国技館開館のとき規則改正されてからであり、同時に個人優勝制度が設けられた。

土俵入り

横綱の土俵入りには雲竜型と不知火型の二つがあり、横綱はそのどちらかの型を行う。うしろの結び目が一輪になっているのが雲竜型で、蝶結びになっているのが不知火型である。これは十代横綱雲竜久吉(追手風部屋)と、十一代横綱不知火光右衛門(境川部屋)の土俵入りが評判だったことから、その名前をとったのだといわれる。

大関(おおぜき)

相撲は横綱、大関の段位が最高とされているが、昔は一番高い位の力士を最手(ほて)と呼んだ。これが大関のはじめで、江戸時代のなかごろからの呼び名である。
昔は力士のことを相撲人(すまいびと)とか防人(さきもり)といい、関所の守りに用いられたことから力士のことを「◯◯関」というようになったといわれる。また、力士が相手に勝つことを「関を取る」といった。「関取」というのは、本来大関のことをいうのだが、現在では十両以上の力士の敬称となっている。

仕切り制限時間

現在、相撲の仕切り制限時間は幕内四分、十両三分、幕下二分と決められているが、これは昭和二十五年に定められた。その前の昭和二十年に決められたのは幕内五分、十両四分、幕下三分、さらにその前の昭和三年では幕内十分、十両七分、幕下五分だが、江戸時代には立ち合いの制限時間はなかった。
仕切りに制限時間がなかったころ、ある相撲であまりに仕切りが長いので、外を一回りし食事をして帰ってみたらまだ仕切りがつづいていたという話がある。
相撲史上で最初に「待った」をかけたのは享保(1716〜36)のころ、当時天下無敵の谷風を倒すため「待った」を連発し、谷風を怒らせて勝った八角であるとされている。

弓取式

弓取式は、江州常楽寺で行われた上覧相撲で、優勝した宮居眼左衛門に織田信長が愛用の弓を与え、眼左衛門がお返しにその弓をもって土俵上で舞ったのがはじまりといわれている。

行司

奈良時代から平安時代にかけて宮廷で行われた相撲節会(すまいのせちえ)に「行事」と呼ぶ役職があり、相撲のことをとりしきった。聖武天皇のころ(724〜49)、行事人であった志賀清林の子孫が越前の吉田家に世話になった事から、その恩返しに先祖から伝わる書式のすべてを吉田家に伝えた。
後鳥羽天皇の文治二年(1186)、相撲節会再興のとき、吉田家の当主善左衛門家長が召し出されて「追風」の名を賜り、從五位、豊後守に任ぜられるとともに「行事」の上役である「相撲司家」に合わせ任ぜられ、今日の「行司」のもととなった。吉田追風家は現在熊本にあって、いまでも行司の任免権と横綱免許の任免権を持っている。
行司は相撲道に関してはあらゆることをよく知っていなければならない。また、行司が下した判定に対して力士は絶対に抗議することはできない。ただし、検査役があって、行司の判定に異議の申し立て(物言い)をし、検査役合議の上、勝敗あるいは取り直しなどの判定を行なう。行司は検査役の判定にしたがわなければならない。木村庄之助、式守伊之助は代々「立行司」として知られている。

土俵

土俵のはじまりは室町時代末期、織田信長が全国的な相撲大会を催したとき、境界線を設けたのが原型で、これがのちの江戸時代に土俵ができるもととなった。それまでは、直径四〜五間(約7.3m〜9.1m)ほどの丸い人輪をつくったなかで勝負が行われた。
元禄時代(1688〜1704)に円土俵に統一され、このときから土俵場をいままでの平面から土を盛った高い壇上に築き、外側の縁にも俵を四方に埋めて土止めとし、見物人に見やすいようにした。江戸時代後期に内径十三尺(約4m)に定められ昭和まで続いたが、昭和六年夏場所から内径十五尺(約4.5m)に広げた。俵も十三尺時代は二重土俵で、十六俵づつ二重と、徳俵四俵の「三十六俵」であったが、十五尺に改めたとき一重とし、現在では十六俵(寸のび)と徳俵四俵の計二〇俵となった。
土俵は米俵を三分にして土と小じゃりを入れた細俵とし土中に六分ぐらい埋める。円の外は一稜十八尺(約5.5m)の正方形で囲み、これをひっくるめて高さ約一〜二尺(約30〜60cm)に盛り上げる。土俵場の上には神明造りの屋根がある。これは江戸時代初期から四本柱によって支えられていたのだが、昭和二十七年秋場所から取り払われ、いまの吊るし屋根となった。四本柱には青、赤、白、黒の各色の布が巻かれていた。現在はその代わりに四色の房が垂らされている。それぞれ青龍・北東隅・春(青房)、朱雀・南東隅・夏(赤房)、白虎・南西隅・秋(白房)、玄武・北西隅・冬(黒房)といい、中国の漢代ごろに、東方、南方、西方、北方を守る四神として四方に配することが行われたことからはじまった。
土俵の北の方を正面、反対側を裏正面または向こう正面といい、正面の客席に向かって右手が東方、左手が西方となっている。

蒙御免(ごめんこうむる)

相撲の番付表の中央の一番上に「蒙御免」と書いてあるが、これは江戸時代の勧進相撲の名残りである。勧進相撲というのは神社、仏閣の建立・修理の資金を集めるために相撲を催して見物人を厚め、寄進をを勧めることで、そのために寺社奉行の許可を受けなければならなかった。「蒙御免」は、寺社奉行に届けて許可を得ているというしるし。










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伝統行事

伝統行事(でんとうぎょうじ)

我が国古来に始まり、連綿と受け継がれてきた行事。それらの行事の多くは、先進文明国であった中国(隋・唐などの大陸の大国)から齎され、その文明・文化をいち早く取り入れた朝廷の宮中行事や、仏教・学問などとともに寺社で執り行う宗教行事となり、さらにそれらが民間に広まり稲作を中心とした農耕儀礼と融合した行事として我が国の風土や習慣に合わせて独自に発展し根付き、やがて社会に定着し広まったもの。それらの行事は、社会生活を営む上で重要な季節や時期を知らせ、無事息災を祈り、人々に生活のめりはりをつける年中行事あるいは祭事として現在にも受け継がれてきているが、多くはその意味が失われ、形だけとなっている。

年中行事(ねんじゅうぎょうじ)

「ねんちゅうぎょうじ」ともいう。宮中で、一年の中に一定の時期に慣例として行われる公事。民間の行事・祭事にもいう。(『広辞苑』第二版)

年中行事が年中行事であるためには、毎年決められた時に同じことが繰り返されねばならない。それをいつ行なうかは、暦という時間軸上で定められることになる。年中行事だけではない。国家の運営スケジュールそのものも暦に従う。時間を支配する暦を支配することは、王権にとって重要な要素である。暦に従って、内裏から在地社会まで同じ日に、何らかの行事を行うようになることは、王権の時間に従属することになる。年中行事が年中行事として繰り返されていくことにより、時間の循環と、そのうえに成り立つ王の統治が確認されていく。とくに一年を更新する意味をもつ正月の行事は、天皇の統治と律令国家の支配にとってきわめて重要な役割をはたす。
元日の儀礼は、天皇が大極殿に出御して朝廷に全官人が参列し、国庁では郡司層までを結集した観念的には全国家的な朝賀と、参列者を限定し内裏内で行なわれる節宴の二重構造をとる。朝賀は、その場の構造とあわせ、天皇を唯一の超越した首長とし、夷狄と奴婢を排除した擬制的共同体関係を形成する律令国家の秩序を全国家的規模で表現する儀礼となる。
それに対し正月七日節は、蕃客や夷狄の参列があり、律令国家の小帝国構造を表現する儀礼とされる。正月七日節の基本儀礼は、饗宴のほかに、イ)御弓奏、ロ)白馬の牽き回し、ハ)叙位である。このうち御弓奏は構造的に射礼・賭弓と連関すると考えられる。兵部省が天皇に弓を献上する儀礼であるが、ここに天皇の軍事指揮権と、天皇を首長とする国家成員の軍事的服属が表現される。それをうけて軍事的守衛と礼的秩序を表現するために全官人が射る十七日の射礼へとつながっていく。白馬には、年頭にそれをみると邪気祓になるという観念が根底にある。しかし、国飼馬がそれに奉仕すること、大同元年(806)以前は五位以上も装馬を進上することになっていたことを考えると、八世紀においては、五月節と同様に諸臣諸国が貢馬をすることで、天皇への臣従を年頭にあたって表現し確認するための儀礼として成立したものであったことをうかがわせる。弓と貢馬を中心に、擬制的共同体を形成する諸臣、夷狄、蕃客を従える首長としての天皇の統治と、臣従奉仕を表現しているのである。
正月二節の儀礼に表現された関係は、射礼、五月五日節、駒牽、相撲節、大儺と、行事の性格はそれぞれ異なるものの、それに奉仕する貴族・官人と天皇の関係にも表現されていた。射礼では弓矢をとり、五月五日節では馬を貢じ菖蒲の呪力を用い、相撲節では相撲人とともに相撲司に編成され、儺では桃弓・葦矢をもって疫鬼を追い、擬制的な共同体と首長である天皇に臣従し守衛することを表現している。年中行事としてそれを繰り返し表現し、確認していく、そうした具体的な行為とともに、儀式のなかにおける座が、天皇との位置関係を視覚化する。『内裏式』『儀式』などの儀式書が天皇から各参列者の座の配置、参入・着座の記述にかなりの部分をさいているのはそのためである。(略)
こうした儀式の構造は九世紀半ばころから変容しはじめる。まず天皇が出御する儀式の場からは六位以下が排除される。王卿を中心に侍従・次侍従を加えた範囲の儀式となる。たとえば元日朝賀は十世紀初めには行われなくなり、かわって王卿が清涼殿前で天皇に拝礼する小朝拝が慣例化していく。それと歩調をあわせるかのように、正殿を中心とした規格性をもった国庁域の遺構は、十〜十一世紀には廃絶するという考古学的な知見が示されている。射礼においては、全官人が天皇の前で射をする構造は分解し、天皇と王卿の弓場始、天皇・王卿と衛府官人の賭弓、公卿と衛府官人の射礼という三重構造が成立した。同様に相撲節は、王卿も天皇と同様に観者の立場になり、それに対して近衛府が相撲人を率いて奉仕する構造に転化する。五月五日節は、節会としては十世紀に分解し、近衛府の騎射手結や臨時競馬などの行事に置換されていく、大儺も追儺に変化し、王卿の家など各所でも追儺が行われ重層化していく。
こうした年中行事の各儀式の変容は、官僚機構が確立し分業と重層化が進展した結果、全官人が天皇の前に列立する必要がなくなったことによる。これは近衛による専門化と芸能化が確立したことが背景としてあり、律令国家成立当初の構造が展開し、官僚機構の上に天皇を中心とした貴族層の新たな結合と秩序が成立していったことを示している。(大日方克己『古代国家と年中行事』)

節句(せっく)

大宝元年(701)に施行された「大宝令」で、正月一日、七日、十六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月大嘗を節日とし、朝廷では節日の宴を節会と呼んでいた。のち、平安時代に一月一日の元日節会、七日の白馬節会(あおうまのせちえ)、十六日の踏歌節会(とうかのせちえ)、五月五日の端午節会、十一月の豊明節会(とよあかりのせちえ)の五節会と三月三日、七月七日、九月九日の節会などが行なわれていた。この朝儀の五節会に対し、公家衆以下一般の家庭では、正月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょういし)、五月五日の端午、七月七日の七夕(しちせき)、九月九日の重陽を五節供としてお祝いしていたが、鎌倉時代ころから五節会が衰え、五節供がもっぱら行なわれるようになり、明治六年(1873)に廃止されるまでつづけられていた。(『日本なんでもはじめ』)

端午の節句(子どもの日)

五月五日の端午の節句に「鯉の吹き流し」を立て、「武者人形(五月人形)」を飾って男の子の前途を祝うようになったのは、徳川時代からである。
五月五日の節句は、五と五を重ねるころから「重五」、ショウブを用いることから「菖蒲の節句」などと呼ばれる。古く中国では「五」と「午」が相通ずることから、初節句を「端午」「端五」(端ははじめの意)と書いた。ショウブは薬草で邪気を避け、悪魔を払うと同時に火災を除くという昔からの信仰があり、節句にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴し、あるいは酒にひたして飲んだ。武家時代には「菖蒲」が「尚武」と音が通ずるために喜ばれた。平安朝のころから、子どもらはショウブで飾った紙の兜をつけ、石合戦などの遊びをした。元禄時代(1688〜1704)になって紙や木でつくった菖蒲人形を庭先に立てるようになり、それがいつしか室内に飾るようになるとともに、人形美術も発達して種類もふえた。
室町時代から武家では五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」を立てた。これが「鯉のぼり」のはじまりで、徳川時代になって町人たちの家々でも紙でつくった鯉を竿につけて高く掲げるようになった。
コイはもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り」などと伝えられ、子どもが元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられている。

ひな祭り

五月五日の男の節句に対し、三月三日は女の節句とされ、「桃の節句」ともいう。この日、モモの花を飾って女児の健やかな成長を願う。
「雛人形」ということばは、江戸時代後期に生まれた。平安時代、貴族の子どもたちが、ふだんの遊びに用いた人形を「雛(ひいな)」と呼び、「ひいな遊び」といった。室町時代にも、公家の間では三月の節句と関係なく、雛と雛道具を若い婦人に贈る習慣があった。
雛の製作がはっきりしないが、はじめは布製で公家の正装の姿をつくったのは元禄(1688〜1704)に近いころで、江戸時代なかごろから内裏雛をはじめ、紙雛以外の人形や調度類をいろいろ飾り、雛壇を設けるようになった。

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能楽

能楽(のうがく)

日本芸能の一。能と狂言との総称。狭義にはそのうち能のみを指す。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代になって歌舞劇が生れ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されて来たが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世・宝生・金春・金剛・喜多のシテ方五流のほか、ワキ方三流(宝生・福王・高安)、狂言方二流(大蔵・和泉)、囃子方一四流がある。(『広辞苑』第二版)[関連語]能楽師。能楽堂。

『自由民・道々の輩の部』「散楽」の項参照。

能(のう) 

日本芸能の一。外来の舞楽や古来の田楽・猿楽、諸種の舞や節を折衷して、足利義満のころ、観阿彌(結崎清次)・世阿彌(元清)父子が大成した仮面楽劇。能舞台に仕手・脇・連などの役者が登場し、笛・大鼓・小鼓・太鼓の囃子に合わせて謡・舞を演じる。武家の式楽となり、観世・宝生・金剛・金春の大和猿楽の四流を四座(よざ)と称し、近世初期、喜多流が一派を立てた。「此の比の能の稽古、必ず其の物自然と仕出す事に、得たる風体有るべし」(風姿花伝)(『岩波古語辞典』)

能 〔猿楽の能芸と云ひしを、後に略して単に能と云へり〕舞楽の一種。最初は神前の舞踊なりしが、当時の舞容、音楽などを集めて大成し、後には将軍家の式楽となれり。而も猿楽の一種の能芸として立ちたるは、鎌倉時代の末ならむと云ふ。室町時代の初に、諸国の大社には、各、数座の猿楽の家あり、神事能を勤む。春日神社に結崎(後世の観世)、外山(後世の宝生)、坂戸(後世の金剛)、圓満井(後世の金春)、の四座あり。日吉神社に山階、下坂、比叡の三座、伊勢大神宮に和田、勝田、主門の三座、賀茂、住吉にもありたり。応永中、結崎次郎清次、足利義満の童坊となり、此伎を演じて寵せらる、観阿彌と称す。其子元清、世阿彌と称し、父子、新曲を製し、孫元重、音阿彌と称し、観世音の頭字を取りて観世と改称す。盛に武家に用ゐられ、観世、宝生、金剛、金春を四座の猿楽と称し、徳川時代に及べり。徳川綱吉、更に喜多の一座を立つと。能楽。さるがく(猿楽)の条をも参見せよ。 尺素往来(一乗兼良)「新座本座田楽、各可レ播2所能1候」(田楽、猿楽、友に能なり、其猿楽能は歴史上の事を演じ、単に能とも云ふ) 太平記、廿七、田楽事「新座本座の田楽を合せ、老若を分ち、能較をぞせさせける」油糟(寛永版、貞徳)「高砂の、能の面の、煤はきて」(『大言海』)

○能 東山殿の時、諷と同くはじまる、観世観阿彌始てこれをなせり、此観世は秦川勝の末流にして、俳優なれば、渠に命じて此技をなさしむ、能は神楽をやはらげたるものなれば、すゝしめのため、神事の砌執行ひ、これを神事能と云、神事を奉により、大社に属す、太神宮には和屋、勝田、主同の三座、伊勢にあり、日吉には、山階、下坂、比叡の三座近江にあり、賀茂住吉には、本座丹波新座河内法成寺摂津是三座、春日には、外山宝生結崎観世坂戸金剛圓満井今春此春日の四座は就中名誉を得たり、よつて東山殿へもたひ/\めされしと也、今春は秦氏安二十九世也、山州竹田に住居す、因て武田共云、宝生は伊賀国服部の産也、故に服部と称す

喜多は、攝湯群談に云、喜多長能、字は七太夫、泉州堺の産、乳は医師願慶と云家に武勇のほまれあり、当津勘太夫に習ひて踏舞の妙を得たり長能は喜多の始祖也、堺桜町に、長能の旧屋あり

式三番 翁は天照太神、千歳は八幡大神、鈴の太夫三番叟は春日明神と称す、諷ものは多羅尼の神道の言葉を雑へたる也、是仏者の作所と云

脇師 進藤福王春藤高安宝生新之丞等の家あり

申楽 翰林葫蘆集に云、秦川勝にはじまる、推古帝の朝厩戸皇子天神地祇を祭祀し、安国の政をしく、よつて六十六番の曲を作り、川勝に命じ、紫震殿の前にて、大優の技をなさしむ、太子此神楽の神の字をわけて、申楽と名付、説文に申(しん)も又神(しん)也といへり、大歳神申の方にある時は、猿を以これに配す、よつて猿楽と云、神楽をやはらげ、おもしろう戯をなすを、俳優といふ也、宇治拾遺に云、内侍所御神楽の夜職事家綱をめして、今宵めつらしからん申楽つかうまつれとあり、源氏乙女の巻にもさるかうかましくとあり(『近代世事談』巻之三)

勧進能(かんじんのう) 

社寺で勧進のために催す能楽。後には単にそれを名目にして入場料を取る興業をさし、江戸時代には特別の許可を要した。(『広辞苑』第二版より)

○勧進能 後花園院寛正五年甲申四月、京糺河原におゐて勧進能興行あり勧進の聖は、鞍馬青松院善盛法印、干レ時九十八歳なり、猿楽は観世太夫音阿彌、干レ時三十六歳、その子又三郎ともにこれをつとむる、是勧進能のはじめ也、東山慈照院殿御上覧あり、

初日(四月五日) 御一献 還御、管領細川勝元仮亭にて饗レ之、
演目 相生 みるまの長者 八島 かくれがさ 三井寺 さるひき 邯鄲 見ち 源氏供養 くはいちう 丹後物狂 八幡のまへ 鵜飼

二日 御一献 還御、畠山尾張守政長宅饗レ之、
演目 鵜羽 ひけかいたて 敦盛 うさま 山姥 大か小か 春近 鬼のまめ 松風 いものし 自然居士 ししやく 恋のおもに

三日 御一献 還御 斯波治部少輔義廣宅饗レ之
演目 白楽天 三本柱 誓願寺 こよみ 箱王曾我 あさいな 二人静 はやかき 四位少将 くらつゝみ 砧 なきむこ しき天狗 入間川 杜若 わかめ 放下僧 名とりの老女 御乞能 養老瀧

二日目、山姥の能のなかばに大地震あり、慈照院殿博士をめして御たづねありしに博士の申上るは、時節の巡りにて、さらに猿楽のゆへにあらずと考ふるによつて、次の能ありてつゝがなく、三日の能成就ありけり棧敷割などかやうの例か
細川畠山斯波各一萬疋、猿楽に授く、相伴衆衣服脱被レ下レ之と云々
諸大名より御肩衣下さるゝ事あり、かやうの例か(『近代世事談』巻之三)

【勧進】 
元は庶衆を教化し、勧めて善に向わせることの意で、そこから、社寺・仏像の建立・修繕などのために人に勧めて金品を募集すること。また、その人を言うようになった。勧進聖、勧進僧など。ここから転じて、金儲け、商いを言うようになり、さらには、乞食と同義語のようにも使われる。[関連語]勧進帳。勧進相撲。勧進舞。(『広辞苑』第二版)


狂言(きょうげん) 

能楽の狂言。平安時代に既に発達していた猿楽は、鎌倉時代になって真面目な歌舞劇である能を生んだが、他方本来の笑いの要素が洗練されて、狂言と呼ばれるせりふ劇となり、鎌倉・室町時代の主要な芸能となった。江戸初期に大蔵流・鷺流・和泉流が確立し、幕府の式楽として能とともに一日の番組に組み入れて演ぜられた。能狂言。(『広辞苑』第二版)

○狂言 能と同じうはじまる、高官高家は下へ遠く卑賤の事しろしめさず、よつて俳優にことよせ、下のありさまをしらしめんがためあらぬ事を作りことば狂はしく狂人の言葉のごとくなれば、かく名付たり、鷺派、大蔵派の二派あり、

吼歳(正しくは口偏) 堺鑑に云、大蔵某狂言におゐて名を揚、家を起せり、永徳年中、泉州堺南の庄に、少林寺と云あり、塔頭耕雲庵の住僧を、伯蔵主といへり、鎮守の稲荷の神を信じ、毎日に法施を奉れり、ある時やしろの辺にて、三足の狐を得たり、抱き帰て養育す、此狐すこぶる霊ありて、蔵主に従ひよくつかへ、賊を追難を防ぎ、未前の凶を告る、此狐の子孫、今に寺内に住すといへり、大蔵此事を狂言に作り、吼歳と称し、又釣狐ともいふ彼狐これを感じ、老翁と化して大蔵氏が狂言をつら/\視て、其能を称美し猶野狐の所作はたらきの骨髄を、悉く口伝せしめ、忽然として去、これより大蔵益妙を得て、此狂言を以家の大事とす、道に達しぬれば、かゝる奇特もありけるといへり(『近代世事談』巻之三)

歌舞伎狂言(かぶききょうげん) 

歌舞伎劇の演目。『傾奇』項の「歌舞伎」を参照ください。

風呂屋・湯屋

風呂屋・湯屋(ふろや・ゆや)

「風呂屋」と「湯屋」は、現在で言えば「サウナ」と「銭湯」といった所か。現在の辞書では、風呂屋も湯屋も同意語のように書かれているが、この二つには厳然とした違いがあった。江戸時代になると、この二つは同じような店となって区別がなくなってくる。『守貞謾稿』には、「京坂にて風呂屋と云ひ、江戸にて銭湯あるひは湯屋と云ふ」とあり、江戸後期になると、同じようなものを地方で呼び方が違うという差でしかなくなった。 
慶長のころから京都、大坂では、風呂と湯屋を、はっきり分けてある。起源を言えば風呂のほうが古く、光明皇后の遺事もあるし、歴史のある禅寺には浴室が残っている。風呂は蒸気を立てた部屋に入る、いわゆる蒸風呂で、湯屋は浴槽の湯に身体をひたして温まる、という違いがある。
江戸のころ丹前風呂といわれたのは、戸棚の中が蒸風呂になっていて、客は下帯をつけて入る。中は簀の子が敷いてあり、その下に熱くした石を置き、水をかけて湯気を出す。充分に温った客が流し場へ出ると、着物の袖と裾をからげた湯女が、指先で客の垢を掻き落す。だから湯女は、吉原の遊女から猿と悪口を言われたが、この湯女の中にも、のち吉原へ移って名妓といわれた勝山のような女もいる。丹前風呂とは、神田雉子町の堀丹後守屋敷の前に、こういう種類の湯屋が出来たからで、丹後風呂と言い、丹前風という侍の派手な装束も生まれた。
嘉永四年五月に、江戸の湯屋仲間が出した三十八丁の『洗湯手引草』という書物がある。湯屋の由来、湯屋の心得、市中の湯屋仲間の番組などが記してある。これを読むと、文化三年三月四日の江戸大火で、市中が焼野原になったとき、湯屋も焼けてしまったので、諸方で据風呂を焚き、銭をとって薬湯と称し、客を入湯させた、というのがわかる。これでは湯屋を商売にしている者たちがたまらないので、文化五年、北町奉行小田切土佐守へ願い出て、湯屋番組という、一種の株をこしらえた。ご府内を十組に分け、株はすべて五百二十株になる。これは、江戸市中の一町内に一軒ずつ、湯屋がある勘定で、素人が薬湯などと称えて商売をするのは、役人から取払いの沙汰を受けた。
江戸の銭湯は、男女混浴だったが、老中松平定信の風俗改革で、寛政三年正月から男女入込ご停止となる、と『洗湯手引草』にも出ている。もっと古く慶安のころは、男女ともに銭湯へ行くときは、べつに褌(女は湯具)を持って行って、しめかえて入る。古いものをしめて入るのではない。男女とも、素裸ではなかった。湯からあがると、底の浅い下盥で、湯に濡れた褌や湯具を洗い、きれいにそそいで持ち帰った。慶安から時代が下って、手拭が一般に出はじめ、男女とも手拭で前を隠して湯へ入り、身体を洗うという習慣が普通になり、下盥というものも銭湯では見られなくなった。

『洗湯手引草』を見ると、享保のはじめのころまで、客によって銘々の印をつけた大きな桶を湯屋に預け、これに湯を入れて身体を洗っていたという。おそらく町内の大商人であろうが、こういう預り桶の習慣も、嘉永のころにはなくなっている。
この『洗湯手引草』の巻頭に、湯語教というのが出ている。一部を抜いてみる。

  • 湯屋者是一生財 身滅則子株主成
  • 湯屋不磨無光沢 無光常客人不入
  • 石垣不磨糠汁穢 奇麗湯屋常繁昌

「湯屋は、これ一生の財、身を滅しても、すなわち子は株主となる。湯屋は磨かざれば、光なし。光なきは常に客人入らず。石垣磨かざれば糠汁でよごれ、きれいな湯屋は常に繁昌す」この湯語教を読むと、湯屋の心得がいろいろ書いてある。
江戸の銭湯は、それぞれ町の名を頭につけて、麻布市兵衛町の湯とか、小石川小日向町の湯とか呼んだが、組合には、三河屋、上総屋、伊勢屋などと、屋号と共に亭主か女房の名で届け出てある。大坂では、桜湯とか松の湯とか、湯屋に名前がついている。
銭湯のざくろ口が廃止されたのは、明治になってからで、薬湯温泉というのが東京市中で流行した。二階には酒肴を出す座敷があり、酌女がいて、売春行為をしたので、ときどき警察から咎められている。(村上元三「『洗湯手引草』」)

湯殿は通常小庭の一番奥の方にあり、檜造りである。その中に風呂すなわち蒸風呂設備、または水風呂すなわち温浴風呂の設備がある。日本人は、入浴して汗を流すことが四肢の疲れをいやす方法であるとし、旅行中毎日入浴する習慣があり、毎日夕刻、こんなに早くと思う時刻に、もう風呂の用意が調えられている。それに日本人は、雑作なく簡単に衣服が脱げるので、一風呂浴びようと思うと、すぐ風呂場へ急ぎ、帯を解く。帯を解いて体を振れば、もう衣服は後へずり落ち、褌一丁の丸裸になり、風呂の前に立っているのである。(ケンベル著『日本誌』)

風呂屋(ふろや) 

蒸し風呂。まずこの「風呂屋」が先に現れたと思われる。上掲の『守貞謾稿』には「『今物語』に、僧板ぶろと云ふ物に入りしこと見えたり。その文を考ふるに、戸ある物と聞ゆ。文治・承久比の人、信実朝臣の書かれたる物なり。風呂と云ふ名、古きことと見へたり。」とあり、「風呂は風炉の仮字にて、風気を得て火勢を増すものならん。もし、しかる時は、方今の鉄炮風呂または槽、腹上下二口の銅器を備へ、上に薪および炭を納むれば、下口より風気をもって火勢を増すものあり。これらをこそ風呂と云ふなるべし。」とある。

湯屋(ゆや) 

湯水の浴槽に身を沈める。半蒸し風呂。「『難波鶴』『京羽二重』等に湯やとふろやを別に出せり。ある人云ふ、湯屋は今の銭湯、風呂やは今の空ぶろか。」(『守貞謾稿』)とあるように、湯屋は現在の湯舟に浸る形の風呂に近かったと思われる。

○風呂屋(湯屋といひ銭湯共いふ)江戸中に六百軒余有レ之、明ケ六ツ時より夜五ツ時迄、浴湯人有り、皆、湯函一度に廿人宛も入湯する事也、京、大坂、其外賑かなる地に湯屋あれど、湯函小さくして、一度に四五人ならでは入湯ならざる由、然のみならず、昼時頃より湯を焚、暮頃には仕廻由也、江戸の如く成は、余国には絶て無レ之由、(小川顕道『塵塚談』)この頃は江戸末期(文化年間)のことで、銭湯という言葉にみられるように、現代の風呂という形に近くなっている。

○風呂屋の始は、御入国の始つ方、諸見附御門御普請の最中、今の常盤橋見附の外へ(又内の土堤とも云)水茶屋をしつらひたる人あり、勤番の武家方江都遊覧の始なれば、日々に多くつどひ歩行、又は丸の内の事なれば、長屋の住居の鬱を晴さんとて、五人三人打つれて彼茶屋へ来り、終日茶を喫て語り合つ、夫より段々酒となりし頃、或一人の侍の曰、久敷湯あみせずして身体不浄に思ふ儘に湯あみしたきものと云へば、何れも然りと云、こゝにおゐて、彼茶屋工風をして、己が宿所へ風呂を立、諸人を入らせけり、夫より髪をすく女を置きたり、此事一統に流行して、夫より鎌倉河岸辺に多く出来たりと云、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)ここでいう風呂屋は湯屋のこと。

八、湯屋の事 町家に前々より男女入込湯有レ之、又、女中湯といつて、女計入候湯も、三丁に壱軒位ヅゝ有レ之候が、女の気性に依て、女中湯は込合候てやかましき抔と云て、男湯へ入込候ものも有レ之、右に付候ては、猥成事も間々有レ之候由の処、寛政三年亥年二月十五日より、男女入込停止被2仰付1、乳呑の外、女一切入申間敷旨被2仰渡1候に付、入湯込合候儀も自然に薄く罷成候、以前入込の節は、若き女など入候へば、風呂の内押合候て、甚困り申候由、然る処、唯今迄男湯計有レ之候湯屋も、女湯願候て拵へ、追々所々江女湯出来致し候へば、女中もこまり候儀も無レ之候、湯銭の儀は、安永二三年の比までは、薪も高直に無レ之哉、町家にて大勢入湯いたし候内にては、壱人前七十二文位にて、一ケ月留湯いたし候由、其比は、壱人前六文、子供四文と申札出し申候、湯札の儀は、百文に二十四枚致し候を覚居申候、又其後、追々に上げ候て、壱人前八文、子供六文と相成、当時は十文と罷成候へ共、兎角に前々より定銭通りは遣し不レ申、無銭の者有レ之候故、引合不レ申候由、安永五六のはやり歌に、

  • きまつたよふできまらぬは、湯やの張札と直段附、

右の唄をうたひ申候、且又、四十ケ年程以前(宝暦中頃)までは、湯屋の入口の屋根に、木にて拵候矢を看板に出し置申候、是は湯屋を新規に拵候へば、弾左衛門方江罷越相届け、先ヅ一旦は留候へども、強て申人候へば、其節此看板を遣候由、湯屋は弾左衛門手下の渡世、如レ斯到来候由、世上にて風聞いたし候、或時、我等、弾左衛門由緒書と申て為レ見候に付見候処、彼が下の商売数多有レ之、後は矢の再建む不レ致、世上にていかゞに申ふれ候得ば、不レ出も道理かと存候、我等など覚候て、所々に有レ之候を覚居申候、([頭書]慶応元年頃より、湯銭十六文と相成申候、)(『親子草』)

幕末の湯屋(ばくまつのゆや) 

この時代になると、ほとんど現在の銭湯に近い形になり、1791年には、江戸の銭湯では徳川家斉によって男女混浴が禁止されている。しかし、男湯・女湯の区別は湯桶を板で分割した程度のもので、脱衣場や洗い場まできちんと別れたものではなかった。そのような湯屋が一般的だったため、慶応元(1865)年6月に日本を訪れたシュリーマンの目には混浴と映ったようだ。その辺りの江戸の湯屋の情景を描いた彼の文があるので紹介しよう。湯屋に絡めて、日本人をどう見ていたかという興味深い記述もあり、長めに引用する。

 日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも一日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。しかも気候が素晴らしい。いつも春の陽気で、暑さにうだることも、寒さを嘆くこともない。しかし、にもかかわらず日本にはどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の原因を探るには実に苦労した。いろいろ見聞したことから推量するに、唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚(刺身)にあると断言できると思う。(※1)
 公衆浴場は大きな部屋で、側面の壁には衣類を置くくぼみができている。浴室の一隅に湯を満たした大きな風呂桶が置かれ、湯は台所から導管によって引かれている。浴場は、道路に面した側が完全に開放されている。名詞に男性形、女性形、中性形の区別をもたない日本語が、あたかも日常生活において実践されているかのようである。夜明けから日暮れまで、禁断の林檎を齧る前のわれわれの先祖と同じ姿になった老若男女が、いっしょに湯をつかっている。彼らはそれぞれの手桶で湯を汲み、ていねいに体を洗い、また着物を身につけて出て行く。
 「なんと清らかな素朴さだろう!」初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らは衣服を身につけていないことに何の羞じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ!
 オールコック卿(※2)の言うとおり、日本人は礼義に関してヨーロッパ的観念をもっていないが、かといって、それがヨーロッパにおけると同様の結果を引き起こすとは考えられない。なぜなら、人間というものは、自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識が生まれようがない。父母、夫婦、兄妹―すべてのものが男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。(石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』)

※1 疥癬(かいせん) 疥癬虫(蛛形類ダニ目の小虫)の寄生によって生ずる伝染性皮膚病。人体の指間・腕及び肘関節の内側、脇の下・下腹部・内股などを犯しひどくかゆい。(『広辞苑第二版』)とあるように当時の人足たちが疥癬にかかっていたとすれば、それは生魚を常食としていることと関係のないことは明らかだ。考えうるに、シュリーマンが訪れた時期がちょうど梅雨時ということで、畳や筵に疥癬虫が発生し流行していたのではないかと思われる。

※2 『大君の都』の著者。

柘榴口(ざくろぐち) 

浴槽の前に天井から板をたらしたもので、板の端と床との距離が短いので、身を屈めて入る。「屈み入る」を「鏡鋳る」と置き換え、昔は鏡をみがくのに柘榴の実の酸を使ったため、柘榴口といったという説がある。

「風呂といえば、どのみち入浴するためのものだが、普通に使われる風呂のほかに、入口に戸のない柘榴風呂というのがある。柘榴風呂とは何故いうのだろうか。それは、「かがみいる」というなぞなのである。」(『醒睡笑』巻の一)

昔の銭湯は柘榴風呂であった。蒸し風呂の効果をたかめるために、浴槽の手前に、天井に取付けた仕切りの板が下がっていて、入浴するには、体をかがめてその板の下をくぐって入る。だから、屈み入るのである。昔の鏡は金属製でくもりやすかったので、鏡とぎという職人が時々廻って来て磨いた。鏡を磨くには水銀を使ったが、さらに古くはザクロの実の酸が使われた。つまり、柘榴は鏡要る、このしゃれ語源説をそのまま採用している辞書もあるが、別の説ではいわゆる柘榴口の形がザクロの実のえみ割れた格好に似ているからだとされている。(『醒睡笑』解説)

丹前風呂(たんぜんぶろ) 

勝山が湯女をしていた事で、その名が有名な風呂屋。「承応・明暦の比、神田四軒町雉子町のつゞきに、何某丹後守様御屋敷ありて、その比この側に湯風呂あり。」(『守貞謾稿』)とあるのが丹前風呂。丹後守様御屋敷前を略して丹前と云った。『色里の部』「色里の風俗」項の「丹前」を参照ください。

戸棚風呂(とだなぶろ) 

戸棚のように密閉された浴槽に、戸を閉めて入る。

水風呂(みずふろ) 

西鶴の『好色五人女』に「水風呂に入ても、くび出して睨」という文があり、その註には「据風呂(すえふろ)に同じ。焚口のついている風呂桶に湯をわかして入るもの。蒸気に浴する蒸風呂に対す」とある。

水風呂は元来、茶の湯に用いる銅製の湯沸し器をいい、その構造は一方に火を入れ、他の一方に鉄製の湯沸しを仕組んだ形式で、それに構造が似ている所から、風呂桶を水風呂というようになった。据(居)風呂というのはそれが転じたものという。また、林美一氏の『時代風俗考証事典』には、「なお江戸で家庭風呂として用いられた風呂は据風呂である。なまって水風呂というが、はじめは湯を少し入れて蓋をし、蒸気を立てて蒸風呂の気分を簡易に味わったものだという。のち湯をたたえて入浴する温浴式に変ったが、身分の高下にかかわらず、最も多く愛用された。(中略)関西の家庭では据風呂の代りに、もっぱら五右衛門風呂が愛用された。水面に底板が浮いているので、湯が早く沸く利点があった」とあり、水風呂は据風呂の転訛としている。

当時の旅籠屋では、必ず入口に水風呂を置き、湯を湧かして旅客を誘い込む手段としていて、元禄以前の草子類に屡々それを見る事ができると、木村捨三氏は『西鶴雑考』のなかに記している。こうして当初は門口に風呂が設けられていたが、氏はさらにその著の中で「その後宿駅の制度も改まり、旅宿の構造も変って来たので、漸次門口の風呂桶から風呂場となって、屋内深くしつらえられた事の年代は判然としないが、恐く幕府の諸法令の整備した享保頃ではないかと思ふ」と述べている。

湯具(ゆぐ) 

風呂屋で入浴するようになった江戸初期には、全裸で風呂に入る事はなく、男は風呂褌、女は湯文字と呼ばれる湯具を身に纏って入った。宝永二年(1705)刊の『御前独狂言』に、ある人が酒に酔って風呂褌をせずに風呂に入ったところ、「あるまじきこと」といって笑われた話が記されている。その後、手拭の出現によりこの風習は次第に無くなり、五十年後の明和年間(1764〜71)には男女とも手拭で前を隠すだけとなった。

ちなみに湯文字とは、湯具をいう女房言葉で、恥ずかしいを「はもじ」、寿司を「すもじ」、杓子を「しゃもじ」というのと同じであるという。現代では襦袢を湯文字と称している。(林美一『時代風俗考証事典』)

湯女(ゆな) 

風呂屋女。垢掻き。「湯女と云ひてなまめける女ども、二十人三十人並び居て、垢をかき髪をすゝぐ。さてまた、そのほかに容色たぐいなき、心ざま優にやさしき女房ども、湯よ茶よと云ひて持ち来たり戯れ、浮世語りをなす云々とあり。」(『守貞謾稿』)「風呂屋女…昔はあかゝきといひしが、今はしやれて猿とも名づく」(『好色床談義』三)

湯女は背中を爪で傷つけないように客の背の垢をかいた。風呂屋には浴後の休息座敷があり、彼女たちはそこで客にサービスし、酒の酌もすれば、三味線も弾く、果ては売春する者まで現れた。そのため、風気紊乱となり明暦三年(1657)に禁止されたが、その後も江戸では元禄末頃まで湯女の風俗は絶えなかった。(林美一『時代風俗考証事典』)

面縛

面縛(めんばく) 

手を背後に縛って、ただ面(顔)のみを前方に差出すこと。(『廣辭林』新訂版)

両手を後手に縛って面を前方にさし出すこと。「古の降者は、其の甲兵を去りて、面縛して命を待ち」(三代実録元慶二・一〇・一三)(『岩波古語辞典』)

但し『吉原御免状』で述べられているものは、この意味では無く、
「唐や朝鮮で、敗軍の将が敵に降服する時の作法で、顔を白い布で覆い、更にその上を同じ白い紐で縛る事」と隆氏はその作品の中で述べている。

立花

立花(りっか)

立華とも書き、「たてばな」とも読む。華(花)道の基本的な法式。

仏前に供える三具の一つの花の法式より発達したものとされ、花のある木を立てるので、「たてばな(立花)」とも称した。これを仏像の安置されていない書院の床飾りの花としてその法式を考案したのは、瓶花の名手としても知られた六角堂の池坊専慶とされる。谷川流立花の秘伝書といわれる『仙伝書』に、「真を仏と用ひ、次に枝を神と用ひ、下草を人間と用るなり」とあるように、花木の中心をなす幹を仏と見なし、これを真と称し、「しんをすぐに立」とあるように、これを真直ぐに立てるのが立花の基本的な方式。立花に用いる花木には、季節に応じて松・桃・竹・柳・紅葉・檜などが選ばれた。池坊立花の秘伝書『華厳秘伝之大事』には、花に序破急があると説き、序の花の性格として「序は道をただしく、円く直成故、真と云ひて序の花とす」と述べ、破の花については「いかようにもなげくるひたる」とし、急の花は「いかにも尋常にいつくしく露の姿に立べし」と説いている。この序破急は、後に真行草と呼ばれ、真を本格とし、行草はこれをくずしたものとされた。序の花は三具足、荘厳の花、破の花は狂った花、急の花は左右の花、常の花瓶の花を指す。以上の三様式が立花の原則であったが、文明の末頃、池坊に当世風の立花と称する様式ができ、春夏秋冬の分別もあらわさずに、初めて目に触れる草木をも嫌わず、ただ趣の深いように花を立てる形が生まれた。しかし、木では山うつ木、ぼけ、あせび、こめ柳、草ではまんぞう花、じゅうやく、しおん、かわほねを禁花としている。これを四華四葉の禁制と称した。これは四が死に通じ、その不吉を嫌ったためであるという。室町末期の天文年間には池坊流立花の法式が大成し、天文十一年の『専応伝書』には、真・副・真隠・みこしの枝・前置などの形式が定められている。立花は、枝条を屈折するのに釘、針金などを用いる。流儀には池坊の他に、大受院、周王などの派があった。江戸中期以後、生花の普及に圧倒され立花は衰微し、現代では、華道といえば生花を指すようになった。(『茶道辞典』)

二代池坊専好は、室町期の書院飾りとして発展した『たてばな』を『立花』(りっか)に昇華させた名人である。その専好の最高の理解者であり、パトロンでもあったのが後水尾院だった。押板の掛物の前景を飾るにすぎなかった『たてばな』を、一瓶の花が自立した観賞の対象となる完結性を備えた『立花』に成長させた最大の功労者は、いわば後水尾天皇だったのである。天皇の異常とも思えるほどの立花好きと場所の提供がなかったなら、いかに二代専好といえどもこれほど見事に立花を大成することは出来なかった筈だ。(『花と火の帝』下巻)

生花(いけばな) 

活花とも書き、「せいか」とも読む。
今日の華道の一般的な形式。立花を略した形式のものが流儀花と名付けられ生まれたが江戸中期までは立花に圧倒されそれほど顧みられていなかったが、江戸末期の文化・文政期になると、大衆の生活に適する簡易な室内装飾として支持され発展した。
永禄九年の池坊専栄の伝書に「生花の事さだめりたる枝葉はなし。先さこ合を嫌ふ也。出生の姿肝要也。生物の口のとをりよりも、枝葉のさかりたるも、一色を幾所も置たるもくるしからず、草木のへだてなく、いく本にもいくる也。座敷により生物によりて心遣あるべし」と説き、草木の出生の姿を尊重することに主眼点を置いている。

生花は、一部の流儀を除き、花留で枝幹を支持し、屈折するのに器物を用いない。その形には真行草、天地人、請(うけ)、留(とめ)、流(ながし)などの称があって、遠州流、石州流、古流、未生流など数十流の流儀があり、秘事口伝と称して、みだりにその法式を伝えないものが多かった。(『茶道辞典』)

生花 平安時代から伝わる伝統芸術
わが国の伝統芸術として発展してきた生(活)花は平安時代からの歴史をもち、今日に受けつがれている。花を花瓶に挿し、あるいは壷に入れ、鉢に生ける生花の技術は、瓶花(へいか)、挿花(そうか)、盛花、投入花などがあるが、「生花」の発生は、観賞的立場(室内装飾)と仏前に供える供華(くげ)としての宗教的立場の二つが考えられる。
室町時代の中葉、八代将軍足利義満のころ、数多くの生花の名手があらわれたが、とくに京都六角堂頂法寺の司僧池坊専慶の名が有名であった。池坊では専慶を元祖としているが、その後十一世専応にいたって技芸の実を結び、十三世専好、池坊不世出の名人といわれる二世専好(十四世)らの輩出によって、池坊は生花の代名詞にまでなった。
江戸時代初期まで池坊の独占であった生花界も、時代とともに一流一流を立てるものがあらわれ、現在、池坊、小原流、草月会などをはじめ、その流派は二千とも三千ともいわれる。(「日本なんでもはじめ」)


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