文芸・古典の部

文芸関連

古今伝授(こきんでんじゅ) 

「古今和歌集」の中のある語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝授すること。(『広辞苑第二版』) 古今和歌集中の難解なる語彙の解釈に関する秘義の伝授。(『廣辞林新訂版』)

三木・三鳥が中心で、切紙伝授が生まれ、東常縁(とうつねより)に始まり宗祇に伝わったとされる。宗祇から三条西実隆を経て細川幽斎に伝えたものを当流(三条流)、宗祇から肖柏に伝えたものを堺伝授、肖柏から林宗二に伝えたものを奈良伝授という。(『広辞苑第二版』) 三鳥・三木の類これなり。すべて理・用・体に分かち、神・儒・仏乃至陰陽の理に附会して種々荒誕の説をなせり。東常縁に起こり宗祇に伝わる。宗祇より肖柏に伝へたるを堺伝授といひ、肖柏より林宗二に伝へたるを奈良伝授といひ、宗祇より藤原実隆を経て玄旨に伝へたるを二条家伝といふ。(『廣辞林新訂版』)

[古今伝授の伝承]
○古今伝授の次第、本朝の歌書の伝授いつの比よりか武家に相伝わり、東下野守常縁より種玉菴宗祇へ伝へ、宗祇より三条西逍遥院へ伝へ、逍遥院より称名院へつたへ、称名院より三光院へ伝へ、それより圓智院公国へ伝ふ。公国早世、その子実条漸七歳なれば、伝ふべき様もなきゆへ、丹後田辺城主細川兵部大輔藤孝入道玄旨(藤孝は足利十二代の後胤、万松院義景公の四男、母は縣翠軒義賢の女にて、飯川妙佐の妹足利没落後藤孝の母色おとろへず居れるゆへ、藤孝をつれて三ツ淵伊賀守へ嫁せり。伊賀守にて、藤孝の母一子をもふけられたるによりて、藤孝を伊賀守の縁者岸和田城主細川右馬頭元常の方へ養子にやられしゆへ、細川を名乗、本姓は足利なり。三淵大和守とは種かわりの兄弟。)多年公国の門人ゆへ、藤孝へ公国より伝へられ、実条長大の上は返し伝へよとの事なり。年を歴、実条も成長ゆへ、田辺へ呼び来し、何角の伝授大形は伝へられ候得共、いまだ幼弱なれば古今伝ばかりを残しおきぬ。実条段々生長、天子の寵恩も大形ならず、輔佐の臣にもまり給はんと風説あれば、藤孝も師門の事ゆへ、甚よろこびぬ。呼びうけ、古今の伝もとげて、師恩を報ぜんと思せし所に、はからず高麗征伐の觸あるによつて、軍用意とりまぎれ、実条卿を招請せん隙もなし。その上陣場にて討死せんもはかり難く思ひ、古今伝授の箱を自身の孫むこ烏丸大納言光広卿へあづけおきて、高麗の陣に出、討死せば、この伝の断絶なげかしく預けおけり。光広卿への口上には、何んとなく帰国せばこの箱をわれに御返し、わが手より実条卿へ伝へ申すべし。戦場のことなれば生死しれがたし。万一討死すと聞き玉はば、この箱を貴卿より実条卿へわたし給れと、頼おき二首の歌を添られたり。

  • 人の国ひくや八島もおさまりて 二たびかへせ和歌の浦波
  • 藻塩草かきあつめつゝ跡とめて 昔にかへせ和歌の浦波  玄旨

光広卿古今伝授の箱をあづかり給ふ時の返歌に曰く。

  • 万代とちかひし亀の鑑しれ いかでか明けん浦島の箱

高麗征伐におもむき、筑紫の名護屋につめらる玄旨の子、朝鮮にて軍功大きによりて、豊前国臼杵を太閤より加恩にあづかり、又帰陣の後光広卿より古今伝授の箱を藤孝へ返すとて、

  • あけて見ぬ甲斐もありけり玉手箱 二度かへる浦島が波

藤孝返し

  • 浦島や光を添へて玉手箱 あけてだに見ぬ返す波哉

最早隙にもなり、実条卿招請せんとおもひける時、石田治部少輔三成にくみし、小野木縫殿助、藤懸三河守、高田豊後守、別所豊前守、杉原伯耆守、生駒左近大夫、藤孝の息忠興、関東下向田辺城中無勢なるに乗じて、都合八万三千余騎田辺をかこみせめおとさんとはかる。藤孝小勢なりといへども、各皆一騎当千の場数をへたる家来どもなれば、大敵を引きうけても事ともせず、七月七日より九月十二日までふせぎおほせて、城中をつよく固めける。寄手の先陣二千余騎うち殺され、後陣もすゝみ得ず、相互におれる時、天子三成等大軍を以て細川をせむる由し御聴に達、藤孝万一討死せば古今の伝授むなしくならんことを気毒に思食、三条大納言実条卿に、烏丸大納言光広卿、并に賀茂大宮司松下三位を介添にして、田辺の陣営へむかへしめて、伝授をうけにつかわさる。田辺城に両卿著勅使の旨聞へければ、敵味方ともにいきをおさめてしづまる。烏丸大納言宣旨をのべ、敵も引きはらひて、古今伝授あらめよとの御意をのべ玉へば、両陣いよ/\しづまりぬ。藤孝やがて本丸へ入り、焼香共して古今の箱を取りいだし、三神五社の像を掛け、一言半句ものこらず実条卿へ伝へ、その上源氏の奥義二十一代集口訣の切紙、和歌三神人丸の正体八雲の大事二時ばかりに、ていねいに認めて、神国秘密伝授音信とて一首の歌を奉りける。

  • 古も今もかわらぬ世の中に こゝろの種をのこす言の葉

と読みて、実条卿に向ひて一々箱共を渡し奉り、光広卿ついでに伝授せらる。さて伝授おわりて後、両卿より大宮司松下三位を以て、寄手の大将共へいゝわたさるゝは、藤孝入道玄旨法印に、今般天子古今伝授うけさせたまひ、法印は天子の御師範なり。この陣早く引きとるべし。さなくば朝敵に同じと宣べさせ玉へば、寄手拝伏し囲をときてひけり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

喜多村信節『嬉遊笑覧』詩歌の項に古今伝授の記述あり、参照ください。

詩歌集

古今和歌集(こきんわかしゅう) 

勅撰和歌集の始め。八代集、二十一代集の第一とされる。九○五年、紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑らが撰者となり、六歌仙・撰者らの歌約1100首を収める。巻二十。歌風は、素朴で力強い万葉集にくらべ、調和的で優美・繊細華麗とされる。真名序・仮名序がある。当初は「続万葉集」といった。

平安遷都以降、長い間漢詩文の隆盛時代が続き、和歌は朝廷の公の席に出なくなり、『古今集』「仮名序」に「色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すゝき穂にいだすべき事にもあらず」という状態だったが、漸く復興の機運が向いて来て、歌合などの催しも盛んになり、醍醐天皇の時に、勅撰和歌集の第一号として『古今和歌集』の撰進の勅命が出された。勅命は延喜五年(905)四月十八日に出され、受けたのは大内記紀友則、御書所預紀貫之、前甲斐少目凡河内躬恒、右衛門府生壬生忠岑の四人であったが、友則が撰進中に没したため、その後は貫之が中心となって進められたとされている。
貫之が「仮名序」で、
貫之らが、この世に同じく生まれて、この事の時にあへるをなむ、よろこびぬる。
人まろなくなりたれど、歌のこととゞまれるかな。(中略)まさきのかづら長く伝わり、鳥のあと久しくとゞまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらん人は、大空の月を見るがごとくに、古へを仰ぎて今を恋ひざらめかも。
と書き結んでいるのをみれば、貫之のこの撰進への意気込みと喜びは十分に察せられ、仕事へのなみなみならぬ力の入れ方分かり、かなり早い時期に一通りの形がなったものと思われている。その後、何度も手が入れられ手直しされたに違いなく、古今集研究の大家である久曾神昇氏は『古今和歌集成立論』の中で、少なくとも延喜十三年から十六年ごろまで、貫之等の手から離れなかったのだろうと推定されている。
貫之は、延喜十七年正月に從五位下に叙せられ、加賀介に任じられている。それまで京官として在京していたのは、『古今集』の完成と関係していたのではないかというわけである。

勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう) 

勅命または院宣を奉じて編纂した歌集。醍醐天皇朝の「古今集」に始まり、後花園天皇朝の「新続古今集」に終る。総称して二十一代集という。
二十一代集とは、「新古今集」までの八代集と、その後の「新続古今集」までの勅撰和歌集=十三代集(新勅撰、続後撰、続古今、続拾遺、新後撰、玉葉集、続千載、続後拾遺、風雅集、新千載、新拾遺、新後拾遺、新続古今集)を合わせた名称。

八代集(はちだいしゅう) 

八代の勅撰和歌集。古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集の八集。

[三代集、八代集、二十一代集]
○古今、後撰、拾遺(これを三代集と云ふ)後拾遺、金葉、詞華、千載、新古今合わせて八代集と云ふ。その後、後堀河院の時、藤原定家新勅撰を撰し玉ひ、後嵯峨院の時、院宣にて、藤原為家、続後撰を撰し玉ひ、同院の仰せにて、為家及び藤原光俊五人続古今を撰し、亀山院の仰にて藤原為氏続拾遺を撰し、後宇多院の時、藤原為世新後撰を撰し、伏見院の仰にて、藤原為兼玉葉集を撰し、後宇多院の時藤原為世又続千載を撰し、後醍醐の命にて藤原為藤、其子為定続後拾遺を撰し、花園院自づから風雅集を撰し玉ひ、後光厳の詔で藤原為定新千載を撰し、同時藤原為明新拾遺を撰し、後圓融の勅にて、藤原為藤、藤原為重、新後拾遺を撰、後花園院の世飛鳥井中納言雅世の奏覽せられし新続古今集を合せて二十一代集とす。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

史書

古事記(こじき)

成立は和銅五年(712)とされる。
『古事記』は、応仁の乱(672)後、強力な権力を握った天武天皇(在位672~86)は、諸家に伝わる帝紀(皇室の系図を記した記録)や旧辞(宮廷に伝わった物語)に、それぞれ異同が有るため、それらを一本化し定本を定めようと企図したことに始まる。
それは、血腥い権力争いでようやく皇位についた天武天皇が、自らの権威を高めるためには、中国に倣って一本化した正式な国史の編纂が必要だと考えた事による。そこで、天皇は大極殿に川嶋皇子ら文章に巧みな皇族・貴族ら十二人を選定し、国史の編纂を始めると共に、記憶力に優れた舎人の一人稗田阿礼(ひえだのあれ)に、諸家に伝わる帝紀や旧辞を整理する過程と内容を覚えておくように命じた。こうして、国史編纂事業が始まるが、天武天皇の崩御によりその事業は中断された。その後、元明天皇の時になって、天武天皇の発案した事業が中断されたままでは困るという事になり、詔を受けた太安万呂(おおのやすまろ)等によって、稗田阿礼の誦する一本化された帝紀・旧辞が『古事記』として、和銅五年に上奏された。

『古事記』が扱っている時代は、国造り神話の時代から推古朝(593~628)までだが、実際には五世紀末までの記述が中心となっている。

日本書紀(にほんしょき)

成立年代は、養老四年(720)とされ、我が国最古の歴史書(国史)。
『古事記』と共に、天武天皇によって進められた国史編纂事業で、先に帝紀・旧辞の定本としての『古事記』が完成するが、中国や半島の資料を含め種々の資料を駆使した正史の編纂は、史局の編纂官らによって断続的に行なわれていたと考えられ、『古事記』の完成後、新たに編纂官を任命するなどして本格的な作業に入り、養老四年に完成をみた。
六・七世紀、任那を中心とした半島との密接な関係から、新羅・百済・高麗等の半島諸国や中国唐との関係記述も含まれ、編年形体で記述。これは『漢紀』など中国の歴史書を模した形体で、当初『日本紀』として編纂された様子が『続日本紀』などの記述から伺える。しかし、まとめは各朝ごとになされ、『後漢書』などの紀伝体の形式をも持っていて、『日本紀』に「書」の字が加えられた史料が伝えられてきたことから、現在は『日本書紀』が一般的な書名となっている。

取り扱う年代は、『古事記』同様、国造り神話の時代から書き起こされているが、その記述は『古事記』よりも長く、持統朝(687~97)までが編纂されている。

続日本紀(しょくにほんぎ)

成立は延暦十六年(797)とされる。
『日本書紀』に続く、国史を編纂した歴史書。この後、朝廷による国史編纂が平安中期まで行なわれ、『日本後紀』など六国史がまとめられ、日本の正史とされてきた。

政事書

藩翰譜(はんかんふ)

江戸初期の儒者新井白石が著した書で、万石以上の諸家の故事来歴をまとめたもの。

「つねに進講終りぬれば、座を賜りて、倭漢の故事等問はせ給ふ事もおはします。就中粗宗開国の時の御事に至ては、特に御心を深くし給ひしほどに、書経の講終りし庚辰の年(元禄十三年:1700)二月十一日に、国初より此かた、その封禄萬石以上の人々の事ども、進講の暇あらむをり/\に、いかにもしるしてまいらせよかしなど仰られしに、明けの年辛巳(元禄十四年:1701)の正月十一日に、その事を以て仰下さる。同き十四日に、まづ其書を撰ぶべき凡例をしるしてまいらす。しかるべき由を仰下されしかば、これより諸家の事どもたづねきはめて、七月十一日に至て草を起し、十月に至て稿を脱す。事は慶長五年(1600)に始りて、延宝八年(1680)に至るまで、八十年の間、始封襲封、及び廃除等、凡三百三十七家。その書たる正編十巻、附録二巻、凡例目録共に一巻、通計十三巻を分ちて二十冊となし、みづから浄書功終りぬれば、明る壬午(元禄十五年:1702)の二月十九日に進呈す。これよりまた書の名をば、御みづから撰び給ひて、藩翰譜とぞ題せらる。」(新井白石『折たく柴の記』)

物語・小説

源氏物語(げんじものがたり)

作者は紫式部。
夫宣孝没年の長保三年(1001)以降、上東門院彰子に出仕した寛弘二年(1005)から数年後の成立と見られる。
創作の動機については、鎌倉以降、諸処に取り沙汰されているが、いずれも伝承の域をでない。ただ岩波文庫本の校注者山岸徳平氏はその解説で、
真実の創作動機や創作過程は、具体的には明確にし難い。ただ、「蛍の巻」の物語論の中で、一般論としての創作動機論を、式部は、次の如く述べている。「よきもあしきも、世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へまほしきふし/\〃を、心にこめがたくて、言ひおきはじめたるなり」と。これは、当時の歴史的事実に、「見るにも飽かず、聞くにもあまること」が、現実として存在したのである。それを見聞して、当時の実社会、つまり、式部にとっては貴族社会の実状と、貴族たちの個々の気質とを、あるがままに書くことを、式部はねらったのであった。故に、「二本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらこそ、みち/\しく、くはしき事はあらめ」とも、断言した。『竹取物語』の如き伝奇的な作品は、全く非現実的・空想的であった。それに対して、式部は、現実的なものを期して、真実を尊重する心で、歴史や記録にも資料をもとめつつ、自身が体験した宮中生活や貴族気質や恋愛を、巧妙に融合させて描いたのである。式部の時代には、物語や小説と称する様式に関して、明確な自覚はまだなかった。其の点から見ると、式部は、物語・小説に対しては、歴史という考慮が、脳裏に強く存在し、歴史の資料にも忠実なのであった。
と述べておられる。
未だ、人々の間に、写実的・現実的描写を持って、その物語を創造する観念のなかった時代において、紫式部は、類い稀な才能でそれを実現させたのであり、その意味からも『源氏物語』は、わが国随一の小説と言っても過言ではない。

随筆・日記・紀行文

十六夜日記(いざよいにっき)

藤原為家の側室阿仏尼が著した「路次記(ろじのき)」(旅日記)。『阿仏記』『阿仏房紀行』『かべのうち』『路次記』など様々に呼ばれる。『かべのうち』と呼ぶのは、冒頭に「むかし、壁のなかより、もとめ出でたりけんふみの名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上のことは、しらざりけりな」とある事からきている。
夫為家が没した後、嫡子為氏と阿仏尼の実子為相が、播磨国細川の荘園の相続を巡って争った時、母の阿仏尼は幕府に直接訴えようと鎌倉に下る。その旅の記録が『十六夜日記』である。『十六夜日記』の名の由来は、弘安二年(1279)の十月十六日、「いさよひの日」に都を出発したので『いざよひの日記』と名づけたという。

方丈記(ほうじょうき)

平安末期から鎌倉時代にかけての歌人鴨長明が著した随筆集。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」という有名な書き出しで知られる。

この『方丈記』は、長明が五十歳の時に禰宜職を巡る同族間の権力闘争に嫌気がさし出家、日野外山に庵を結んで隠遁生活を送り、四季折々の自然を愉しみながら、読経三昧の生活を送るかたわら書き上げた随筆集。
「もとより妻子なければ、捨て難きよすが(人間関係)もなし。身に官禄(地位)あらず、何につけてか執を留めん(執着するものはなにもない)」と世捨人となった理由を同書の中で書いている。前田慶次郎が『無苦庵記』の中で書いた「抑此無苦庵は、孝を勤むべき親もなければ、憐むべき子もなし。こころは墨に染ねども、髪結ぶがむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕篭かき小揚やとはず。七年の病なければ三年の蓬も用ひず。雲無心にして岫を出るもまたをかし。詩歌に心なければ、月花も苦にならず。寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ、八万地獄に落つべき罪もなし。生きるまでいきたらば、死ぬるでもあろうかとおもふ」に通ずるものが有るが、長明はニヒリストとして世を捨てた隠遁であり、「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」と正直に告白しているように世俗への未練を捨てきれずにいるが、慶次郎は戦国乱世を命をはって自由奔放に生き抜いた一つの到達点で、ある満足感が有り隠棲に対し何の未練もない。
ともかく世俗から離れ方丈の庵で独居生活を続けて『方丈記』を書き上げたのは、建暦二年(1222)、五十八歳のときであった。

随筆。一巻。鴨長明著。1212年成る。仏教的無常観を基調に種々実例を挙げて人生の無常を述べ、ついに隠遁して日野山の方丈の庵に閑居するさまを記す。文章は簡潔・清新な和漢混淆文の先駆。(『広辞苑』第二版)

方丈記 解題
本書は鴨長明が日野山の閑居に於いて自己の感想を述べたるものにして、これによりて、吾人は作者の生活せし時代の状態と作者の境遇及び性格とを察するを得るなり。
按ずるに作者の時代は天災地変ついで至りし時なるのみならず、歴史上の大転回期にあたりたれば、社会上に種々の大転回期にあたりたれば、社会上に種々の欠陥を生じ、人事の転変また甚しきものありしなり。されば世の無常を観じ厭世主義に傾く者の生じ易きはいふを待たず。而して作者はその社会に於いて軽き意味にての敗者としての境遇に立てりしものと認めらる。かくの如き内外の種々の事情は作者をして世を遁るるに至らしめしならむ。
作者は仏教の思想に基づき呵て、無常を観じ、世を遁れたるものなれど、天を怨むるにもあらず、世を詛ふにもあらず、淡白に世を離れて閑居し、消極的ながら自己の境地に一種の安慰を見出せり。さればその無常観も厭世主義も共に徹底せざる観あり。これ或は日本人が根底に於いて楽天的なるのいたす所か。要するに本書によりて日本人の性格の消極的方面は或はあらはれたりとするとも積極的方面は恐らくは認め難き所ならむ。
本書は随筆と称せらるれども、首尾一貫せる一篇の文にして他の随筆が断片的に感想を述べたる小篇の集まりに過ぎざるものと同一に論じうべきものにあらず。而して全篇を通じて些のゆるみなく、読者をして巻を措くこと能はざらしむるものあるはその手腕の平凡にあらざるを見るに足る。惟ふに本書は長明が、一夕、今を思ひ昔を顧みて、感慨に堪へざるあまり筆を呵して、一気に草し了りたるものなるべく、その文章に生気ありて人を動す力に富めるも亦、これが、丁豆補綴の余に出でしものにあらずして、一気呵成の文たるが故なるべし。この書を評するもの、よくこの主眼点に眼を着くるを要す。
本書は随筆中の異彩としてわが文学史上に光を放てるのみならず、その文体も亦わが文学史上重要なる地位を占むるものなり。この文体は所謂和文漢文融和の文体の先駆をなせるものの一として爾後日本の文章の主なる潮流をなすに至れるものなり。この文体は上述の如く、漢文の特色を和文に混淆調和せる点に存するものなるが、本書の文体はよくこれに成功せるものにして、当時の同一系統に属すべき海道記東関紀行等の文体に比して優に一頭地を抜けるものあるはこれこの作者の文才の偉大なるによるものといふべし。この文体は蓋し漢文の口調と敍法とを和文に応用したるものなるべきが、それが、生硬にも不調和にも感ぜられず、よく敍述の井然たると理路の明確なると声調の軽快なるとありて、一言を以ていはば、簡潔の二字を以て評すべきものなり。而してこの特色は主として、漢文の声調句法を善用したる点に存すといふべく、この特色の存することは、この作者の和漢の文章に精通せる学才が、その文才と相待つてはじめて功を奏したるによるものなるべし。単に、漢文の故事熟語等を和文に混淆せるに止まる生硬なる文章と同日を以て談ずべからざると共に、本書が一気呵成して成れる点とを顧みてこの文の古今に希なる名文たる所以をも首肯しうるべきなり。


社会時評

落書(らくしょ) 

諷刺を目的とした匿名の投書のようなもの。形態は何でもよく、手紙型、謡曲のもじり型などさまざまな形態がある。もっとも多い形態は狂歌を使ったもので、これを特に落首という。

嘲弄又は諷刺の意を寓し、市街の要所又は権家の門壁などに、窃に貼りつけおく匿名文芸。(『廣辞林』新訂版) 

落首(らくしゅ) 

狂歌の形態を使った落書。 
落書の一種で、嘲弄又は諷刺の意を寓し詠者の名を匿したる狂歌体の戯歌。

安楽庵策伝『醒睡笑』より
[信長関連]
信長公が諸大名を寄せて馬揃えをされた時のこと、各大名それぞれ花やかないでたちが実に見事で、古来例のない事だと、もっぱらの評判であった。正親町天皇も簾中からご覧になった。

  • 金銀をつかい捨てたる馬ぞろえ 将棋に似たる王の見物

(馬揃えは観兵式。天正九年春の大馬揃えをさす。)

信長公が上洛されて、京都に石垣の普請を仰せ付けられ、毎日々々石を曳き運ぶ音がやかましい程であったから、

  • 花よりも団子の京とぞなりにける 今日もいしいし明日もいしいし

(団子を女房ことばで、いしいしという。いしはおいしい。『寒川入道筆記』には信長が巨石藤戸石を足利義昭邸へ数日がかりで運ばせたので、いたずら者が詠んだとある。)

摂津国高槻の城主だった和田維政という侍は、一時信長公に重用されて、ときめいた。そこで、

  • 信長のきては破るる京小袖 わたがさし出て見られざりけり

(和田維政(1530~71)は足利義昭に従って流浪したのち、義昭が信長に擁立されるにいたって高槻城主となり、細川幽斎とともに重用されたが、元亀二年義昭に属し信長と戦い、摂津郡山で敗死した。)

信長公が即座に裁決を下された訴訟事件があった。負けた方は、信長の覚えめでたい織田右馬允に取りなしを頼んで、対決のやり直しを願い出た。その時の右馬允の奔走ぶりを評して、

  • 銭轡はめられけるか右馬允 人畜生とこれをいうなり

(『信長記』によれば、右の訴訟は、堂上人と上北面の侍との争で、信長の老臣佐久間信盛・京都所司代村井貞勝も手こずって信長の直裁を仰いだ。信長の命により衆議の結果、堂上人の勝訴と決定したが、北面の侍は織田右馬助に依頼し、再三裁決の取消し方を運動した。信長は右馬助に右の一首を与え、以後御前向きがうとくなり、老衰で死んだとある。右の右馬助はのちに津田盛月といった人。信長の黒母衣衆だったが、柴田勝家の代官を斬り、追放(または脱走)、のち家康、秀吉に招かれたが、信長に所在を知られ、殺されようとしたが本能寺の変で助かり、九州の役に従軍し、文禄二年(1593)に死んだ。醒睡笑より二十年近く遅れて寛永十九年に刊行された『可笑記』には、陸奥に仁君あり、その出頭人に花の牛介という者がいた。人から買収されて主君の前に訴訟が有利になるよう運動したので、主君から「鼻の穴通されけるか牛の介人畜生とこれをいうらむ」の歌を与えられ、以後鬱々として病死したとある。) 

[秀吉関連]
秀吉公の時に、ならかし(平均。徳政のこと)ということがあって、金を貸した者は元金を取返せぬばかりでなく、けしからぬやり方だというので、さらに罰金まで課せられた。そこで、

  • ならかしやこの天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな

(「奈良坂やこの手柏のふたおもてとにもかくにもねだれ人かな」の作りかえ。徳政は借金棒引令の施行。これを平均ともいった。ならかすは均らす、すなわち徳政の意。天正二十年九月秀吉が奈良・京・大坂・堺で経済撹乱行為をする金貸しを検挙した事件で普通の徳政とは少し違う。)

天正十八年庚寅の年三月朔日、大相国(太政大臣)秀吉公が小田原の北条左京大夫氏直退治のため、駿河に長陣を張って居られた時のこと、富士の裾野で、ある人が、「曾我兄弟が、水よりほかには乗馬に与える飼葉もないと、貧窮を嘆じた故事が、いま自分の身に引きくらべて思いやられる」と嘆いた。これを聞いて大村由己が、

  • 在陣をするがのふじの山よりも たかねにかうは馬のまめかな

(大村由己は秀吉の右筆。秀吉に関する伝記的著作が多い。松永貞徳の父は由己と同門であり、後年まで兄弟同様の仲で、貞徳自ら記している。(『鷹筑波』第五))

同じ年の三月二十九日には、箱根の山中の城を攻め落された。その勢に恐れて北条方が、足柄の城を明けて退却したのを、

  • 山中を攻むれば明くる箱根山 逃ぐるも早き足がらの敵 

[家康関連]
慶長十九年の冬、源将軍(徳川家康)が大坂城を攻められた時、日本六十余州の軍兵は一騎も残らず出陣におよんだ。本陣は天王寺の茶臼山であった。何者のしわざか、

  • 大将はみなもとうじの茶臼山 ひきまわされぬもののふぞなき

(宇治の茶に掛ける。) 

[その他]
比叡山の衆徒が三井寺を打破り、鐘を奪って叡山へ取上げてしまった時のこと、

  • 三井寺の児は歯白になりぬらん つくべきかねを山へ取られて

(鐘と鉄漿、撞くと付くのかけことば、これも『寒川入道筆記』にある。なお、延暦寺と三井寺との衝突はおびただしい回数に上るが、鐘を奪ったのは文永元年(1264)五月のこと。この事件が後世、弁慶の釣鐘の伝説を生んだ。)

美濃国で、土岐家と斉藤山城守道三と争いになり、ついに土岐殿が没落したころのこと、

  • ときはれど糊たてもせぬ四布(よの)袴 三布(みの)は破れて一布(ひとの)にぞなる

(土岐頼芸が家臣斉藤道三のために天文十一年(1542)領国を追出された事件。三布と美濃、一布と人のの掛けことば。また土岐はるは解き張るを掛ける。『寒川入道筆記』には、右の返歌がある。「ときはれはのりたてぞするよのはかま みのは破れてひとのをぞしく」。右の落首はよほど喧伝されたものとみえ、多聞院英舜の『多聞院日記』(天文三年)にも詞句に小異あるものを載せ、また『土岐斉藤軍記』『老人雑話』『曽呂利狂歌咄』にもある。)

美濃国の土岐の二郎(土岐頼次)は斉藤道三の聟であったのを、道三がだまして殺してしまった。その悪逆を、

  • とき世とて聟を殺すはみのおわり 昔は長田今は山城

(土岐と時、身の終りと美濃尾張の秀句。長田は長田忠致。主の源義朝と聟の鎌田政家とをだまし討ちにした。この落首を載せたものには、『天正記』『天正事録』『江濃記』などがある。道三のやり方があまりあくどかったので、それに比例してこの落首が世にひろまったのだろう。)

甲斐国の武田信虎公の息女を菊亭大納言(今出川晴季)の室に迎える約束が成立したが、まだ聟入りもせぬ先に、信虎の方から菊亭殿へ出かけた。そのことを、

  • むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道

(永禄六年(1563)のこと。聞く体よりは猛けたに菊亭よりは武田を掛けた秀句。これも『寒川入道筆記』にある。「先ず聟見にとて案内なしに菊亭殿へ信虎公御出の沙汰ありければ」とある。信虎は信玄の父。)

いつのころであったか、日吉太夫が山城国のへたがつぼという所で、勧進能を行ったが、連日雨降りだったので、

  • 能はただ上手ときけど下手がつぼ 日吉といえど雨は降りけり

(日吉太夫は近江猿楽の一派。)

京で日吉太夫が能をした時、『浮舟』の能が始まったころから、豪雨が降りしきったので、何者か、次の歌を詠んで舞台へ投げ上げた。

  • 名は日吉能するたびに雨ふりて 芝居のうちに浮舟をこぐ

(芝居は、芝生に設けた見物席。)

幸若舞の太夫大頭彦左衛門と弟子の黒助と、何かの原因で対立し、仲たがいとなった時、

  • 舞々の師弟の中も尅すれば太夫も今はないがしらなり

(尅するは争う意。大頭は幸若丸の孫に大あたまの人があってあだ名に呼ばれたのが、後には流派の名称のようになったものらしい。)

越前の守護朝倉殿(敏景)には子息が十二人あった。金吾(義景。信長に亡ぼされた最後の当主)というのが十二番目である。四番目を小太郎といい、五番目を五郎といった。これは五人張りの強弓をひいた豪傑である。或時兄弟が寄合い、双方の家来を出して相撲を取らせたところ、小太郎方が勝った。そこで小太郎は弟に向かって「参ったろう、参ったろう」とはやした。五郎はこれを無念に思い、いきなりそばに寄ると、一刀のもとに小太郎を斬り殺してしまった。小太郎の女房は尼になったが、どうしても遺恨を忘れることができない。軍勢を催して五郎の館に押寄せ、ついに追放してしまった。その時、

  • 越前にものきれ二ついで来たり あまくに太刀に五郎入道

(物切れはよく切れる刀。また切れ者(やりて・権勢家)。天国は日本刀剣師の祖。尼が権勢をふるう国、尼国に掛けたしゃれ。)

狂歌(きょうか)

和歌の一軆。諧謔・滑稽な感想を詠んだ卑俗な短歌(和歌)。万葉集の戯咲(ぎしょう)歌、古今集の誹諧歌の系統をおそうもので、平安・鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸中期以後に流行、俗語を用いた。ざれごとうた。ひなぶり。へなぶり。(『広辞苑』第二版等)

川柳(せんりゅう)

前句附より一轉したる発句の一種。宝暦・明和の頃、柄井川柳の詠み創めしもの、普通に俳句と同じく五七五の三句より成り、中には七七五乃至五七七などの三句より成るものあれど、そは例外なり、俳句とは其趣を殊にし、切字・季等の約束なく、殊に人生の弱点を挙げ世態の欠陥を諷し、最も著想の奇抜なるを尚べり。(『廣辞林』新訂版)



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