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大名関連
大名(だいみょう)
平安末期より班田制が崩れ官田・寺社田が荘園化する一方、新たに開墾された田畑は地方土豪たちの私有田となり、開墾者の名を付けて呼ばれたことから名田(みょうでん)と呼ぶようになった。それら名田(私有田)を多く持つ者を大名といい、少ない者を小名と称した。また、このことから名田の多い東国では地主を名主というようになり、荘園の多かった西国では庄屋と称したといわれる。
この頃の名主(みょうしゅ)は、単に土地を所有するばかりでなく、下作(小作)と呼ばれる人々をも所有し、名主の家の仕事に従わせたほか、戦争に行く時には下僕として従軍させた。
守護大名(しゅごだいみょう)
室町期、守護として任地に赴任し、その後、土着化して名田を多く所有し大名となった領主。
諸侯大名(しょこうだいみょう)
徳川期に幕藩体制が確立した後、幕府によって所領を安堵された封建領主。
戦国大名(せんごくだいみょう)
室町後期、名田を持つ地方土豪が、その武力を持って守護の支配から独立、あるいは排除して領地を拡大し大名となった領主。
付庸大名(ふようだいみょう)
与力大名ともいう。付庸あるいは附庸とは、宗主国に属して、その命令に従う弱小国。従属国をいうと『広辞苑』第二版にある。この事から、付庸大名とは、宗主となる藩に従属した小藩のことを言うことが分かる。松平忠輝の川中島藩に付属した藩として皆川広照の飯山藩(四万石)の例。
名主(なぬし)
近世、領主から任命された一村の長。村役人には名主・組頭及び百姓代があり、これを村方三役とも云い、高持百姓がなった。名主という言葉は中世の名主(みょうしゅ)から転じた言葉。名主は一村の長で、年貢の配賦取立て、水利、土木工事等、いわゆる地方に関わる業務を始めとし、宗門改め、人別改め等の戸籍事務、異変の改め、風俗取締り、消防等の警察的事務、訴訟の仲裁、証書の加印等の訴訟・公証事務、代官よりの御触の伝達など、村行政万般に関わり、他の村役人と共に村を代表して訴訟し、他と交渉した。(石井良助著『日本法制史概説』)
庄屋(しょうや)
関西地区での名主の呼び名。庄屋と云う言葉は中世の庄司の住家を表す庄屋より出ている。(石井良助著『日本法制史概説』)
武家
身分・職名
家老(かろう)
年寄・宿老・老職。家老という名称は鎌倉時代からあったが、一般的に使われるようになったのは江戸時代に入ってからとされる。大小名の重臣で、家中の武士を統率し、家務を総括した職。一藩に数名以上居り、普通は世襲。(『広辞苑』第二版)『廣辭林』(新訂版)では「家臣の長。としより。」と簡単に記されている。その職にある者を特に家老職という。また譜代の家臣でない者が、その才幹を持って家老職に挙用されたのを「家老列(家老格・家老並)」と称する場合もある。
【江戸家老】(えどがろう)
江戸時代、大名の江戸屋敷に勤めていた家老。これに対して、国元にいる家老を国家老という。松平忠輝の川中島藩では、松平讃岐守親宗が江戸家老として江戸屋敷にあった。
【城代家老】(じょうだいがろう)
江戸時代、城持ち大名の留守中に居城を守り、一切の政務をつかさどった家老。城代。(『広辞苑』第二版)筆頭家老が勤めた。ちなみに、徳川幕府の職制で「城代」というのは、大坂・駿府城を守る職の名で、それぞれ大坂城代、駿府城代と称した。両城には城主が置かれず、譜代大名または重代の家臣をもってこれに補した。
【附家老】(つけがろう)
付家老。『広辞苑』(第二版)には、「江戸時代、幕府から親藩に、または大名の本家から分家に、監督としてつけておいた家老。つけびと家老。付人。御付。」とあり、『廣辭林』(新訂版)には「徳川時代に、将軍家より親藩に又は大名の本家より分家に、監督としてつけおきし家老職、譜代家老の上位におかれたり。」とある。松平忠輝の川中島藩に付けられたのが大久保長安だった。
剣術指南役(けんじゅつしなんやく)
将軍家・大名家に仕え、将軍・大名に剣術を指南(教授)する兵法家。剣術ばかりでなく、馬術・弓術・鎗術・砲術などの指南役がいた。それぞれ馬術指南役・鎗術指南役などという。
徳川将軍家の柳生但馬守、小野忠明や尾張徳川家の柳生利厳などが有名。
雑色(ぞうしき)
雑役をする下男。
一、古昔、蔵人所に属して雑役に服せしもの。二、武家にて、雑役に服する無位の者。其服色の定まりたる衣袍を着るを得ざりしよりいふ。(『廣辭林』新訂版)
【草履取】(ぞうりとり)
武家などで主人の草履を持って供をした下僕。草履つかみ。草履持ち。(『広辞苑』第二版)
替え草履を手に持って主人の供をする奉公人。年少の草履取りを小草履取といった。(『好色一代男全注釈』)
手明鎗(てあけやり)
佐賀鍋島藩において、平侍よりも下の地位だが平時には特に勤めが無く、戦時になったら鎗一本を持って戦働きをする士。是等の家臣には、一律十五石の米が支給され、捨て扶持と称されていた。
一領具足(いちりょうぐそく)
土佐藩の制で、身分は士分だが平時は農耕に勤しみ戦時には戦闘員として招集に応ずる。多くは在郷の郷士たちだったことから、山内氏が土佐に入封した時には、新領主への反感から彼等と山内家の家臣らとの軋轢が生じ、一豊は終生これらの反乱に悩まされている。
目付(めつけ)
室町時代から江戸時代にあった武家の職名。非違を検察し、これを主君に報告した監察官。
【軍目付】(いくさめつけ)
合戦中、味方の兵士の働ぶりを監察あるいは査察し、それを報告する武将。合戦後の論功行賞に影響を与える重要な役目。
物頭の身分の者が勤める。中央の軍と外側の軍では目付の役目が多少違う。中央の軍には四人または六人ついていて、内三人は大目付(君側近侍の目付)である。大目付は寸時も主君の傍を離れることがない。外の三人は本陣の先方、大纏の後にいて、先手の諸陣の様子を見たり、各隊の不揃いなどを見張っている。一人は陣の後にいて後軍の様子を見たり、隊士の不揃いを見張っている。そして何か変ったことが起ると、すぐ大将に報告するのが役目である。また君側にある大目付は、軍師を助けて陣貝、太鼓および五方旗の合図の指揮をとり、時には大将よりの使者として、先手および後陣の将へ使いに行くこともある。このように重要な役目だから、君に忠義で寡言沈着、そのうえ厳正な侍が選ばれている。[兵法新論より](稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【大目付】(おおめつけ)
江戸幕府で、老中に直属し諸大名を監視した。その初代が柳生但馬守宗矩だった。
【徒目付】(かちめつけ)
江戸幕府で、目付の下役としてあった職名。大方は目付に随行し江戸城内の巡察と取締りに当る。また、極秘の探索の仕事もした。その時は、老中がじかに命じ、同僚にもしらせず任に当たったり、遠国へ出役することもあり、後代のお庭番に当る役も兼ねていたと『捨て童子松平忠輝』(下巻255p)にある。徒横目。御徒目付。
【小人目付】(こびとめつけ)
江戸幕府で、目付の指図を受けて、探偵、変事の立合、牢屋敷の見回り、目付の遠国出張の随行などに当った職。(『広辞苑』第二版)徒目付の下に、俗称黒羽織と呼ばれる小人目付がいた。現実に隠密役を果たしたのはこの小人目付の方が多かったという。定員は決まっていなかったが、元和頃は五十人以上だったと思われ、年々増えて慶応四年には百六人と見習い五十五人がいたという。(『捨て童子松平忠輝』下巻255p)
【目付】(めつけ)
江戸幕府で、若年寄に直属して旗本などを監察する役。また、諸大名でも同じような役職を設けていた。横目ともいう。
弓取り(ゆみとり)
古来、武士は弓馬の術を持って台頭したことから、「弓取り」が武士を称する言葉となった。
【海道一の弓取り】(かいどういちのゆみとり)
その地方で一番の武勇の誉れ有る者の喩え。職豊期、三方原の戦いでその武名を馳せた徳川家康の代名詞ともなった。
往昔武将を弓取といふ。その時に当ては弓箭ほどの利器なければ、是を最第一の兵器とする故なり。長刀といふもの出来て、打物とつての名人などゝも云しなり。鎗と云もの出来ては、鎗一とすじの主など云ふは皆利器よりの名也。これより末の世に至ては、鉄砲一挺の主と云、諸候をば銃卒幾隊の長など称することにならん。(浅野梅堂『寒檠瑣綴』)
武士心得
家訓(かくん)
庭訓(ていきん)。家庭での教訓。家庭教育。主に武家社会で重用せられた。
有名なものに毛利元就が遺した「三子教訓状」(三矢の教え)などがある。また『早雲寺殿廿一ヶ条』『葉隠』などもその類の書として諸家で利用された。とくに、室町期に出来た『庭訓往来』は、広く武家社会の家庭教育書として重んじられ、多くの武家の子息は、この書を毎日書き写すことで習字の練習、文字や文章の勉強、手紙の書き方などを学んでいた。
庭訓 〔論語、李氏篇「嘗独立、鯉趨而過レ庭、曰、学レ詩乎、対曰、未也、不レ学レ詩、無2以言1、鯉退而学レ詩、云々」より出でたる語〕家庭の教訓。父より子に対する教訓。家庭教育。庭教。にわのをしへ。 晋書、孫盛伝「雖2子孫斑白1、庭訓愈峻」 明月記、寛喜三年三月三日「昔聞2庭訓1、即如2此事1歟」 太平記、七、吉野城軍事「宮の御先途を見はて進らせよと、庭訓を残しければ」 拾遺伽婢子、一「兄が云ひ置きし事を忘るるなと、泣く泣く庭訓を残し、さて姑に向ひ」(『大言海』)
側臥(そくが)
(一)からだのわきを下にして寝る。(『角川漢和中辞典』)
『広辞苑』では(一)に「そばに臥せること。そいね。」の意を記し、(二)で、「からだを横に向けてねること。」としている。
右を下にして側臥するのが武士の嗜みだった。これは就寝中に襲われても右腕を残すためで、右腕一本あれば刀を取って戦うことができるからという。
常在戦場(じょうざいせんじょう)
武士は常に戦場にあるという緊張感を持っていなければならぬという心構えを説いた成句。
武士の定義(ぶしのていぎ)
武士 常に武術を習ひ、軍陣に出づるを職とする者。もののふ。さむらい。武者。武人。兵士。 漢書、韓信伝「高祖令2武士縛レ1信、載2後車1」 後漢書、功都夷伝「先以2詔書1、告2示三郡1、密徴2求武士1、重2其購賞1、乃進レ軍」 続記、八、養老五年正月詔「文人武士国家所レ重、医卜方術古今斯崇」 安斉随筆、十五、武士武家「武士といふは、朝廷武官の人の総称にて、上古の書にも、武士といふ名目あり」(『大言海』)
[隆慶作品にみる武士の定義]
侍は義のため、又は単なる意地のために、身を鴻毛の軽きに比し、死に狂いに死んでゆくからこそ侍なのだ。(「張りの吉原」83p)
武家関連
面扶持(つらぶち)
楽翁公執政のとき、水戸侯財政困難にして窮迫を究められければ、或る日公に救治の良案なき者にやと御相談ありけるに、公は考一考して、夫れは面扶持に為さるれば恢復すべしと勧められたり、水戸侯は楽翁公の説に随ふて面扶持の新法を実行せられけるが、数年の後稍々財政整理の効顕はれ来りけるとぞ、面扶持とは秩禄の多少に拘はらず、一人何俵と云ふ割合にて其家族の員数に応じ、切米を渡す方法なりと云へり(秋山五郎治)(『想古禄』)
別式女(べっしきめ)
帯刀女中。刀腰婦とも云う。君主以外の男子禁制の奥にあって、主に警護にあたる女性。
女ながらも男姿をし、袴をはき脇差まで差している。御台所の護衛役であると同時に、腰元たちの武芸指南役でもある。事実、剣・薙刀・鎖鎌などの達者であり、男の武芸者と立合っても、一歩も後へ引かぬ剛の者だった。(『捨て童子松平忠輝』上67p)
三田村鳶魚の書に「別式女」の記述があるので以下に紹介。
「帯刀女中の名称は家々で違いまして、別式女とも刀腰婦とも書いてあります。尾州家では刀腰婦といって菊田、豊野、小野瀬、宮木外一人、紀州家では別式女といって、町医小路意安の娘利津、料理人野上平馬の娘野崎、同心林嘉内の妹させ、小十人津田十太夫の姉岩瀬、水戸家では女別式といって、物頭秋山四郎左衛門の娘もせ、堀田源助の娘島野、森川次左衛門の娘志津などが居りました。松平越後守では別式といって、ゑつ、しづの二人、加賀宰相でも別式といって、重野井、富岡、織部、りちの四人、松平薩摩守では刀婦といって四人、鍋島丹後守では勇婦といって三人、松平陸奥守でも別式といって、さの、りく、みや、てや、早川、まき、富之助、こん、りき、野衛の十人、松平伊予守や本多中務大輔では各三人、榊原式部大輔では刀持女といって三人、酒井雅楽頭では剣帯女といって二人、細川越中守では刀婦といって四人、松平大膳大夫では刀婦女といって三人、黒田筑前守では二人、内藤主殿頭では刀腰婦といって一人、松平出雲守にも三人、阿部対馬守にも二人、といった工合でありました。諸家の妙齢な奥女中が、掃った眉の痕の青々と艷やかな顔を鮮かに眺めさせ、かいがいしい後帯に二本さした姿は美しくもあったでしょう。女の大小は諸大名の奥向の外に、江戸中の評判を煽ったのが二人あります。増山対馬守正任の脇腹の妹の利津、この女は貝方仁兵衛の妻でしたが、両刀を帯して居りました。これは武士の御内儀でありますが、小石川富坂町の河内屋十兵衛の女房ゑをは、紛れもない町人の妻であるのに、お松殿の召仕であったので、大小をさして往来していたのです。」(三田村鳶魚著『お伝の方の一族』)
牢人(ろうにん)
主家から離れ、扶持を持たない武士。牢籠の人という意味から生じた語で、室町時代の書『看聞御記』『東寺文書』に表れるのが初見とされる。江戸初期までは、諸家ではまだ新規召抱えも多く、また武芸に優れていればより高く自分を売る事ができたことから、より優れた主人に仕えようと武士の流動化は珍しく無く、進んで牢人となる者も多くいた。
しかし、元和偃武以後、幕藩体制が整うと幕府も牢人を多く召し抱える大名には警戒するとともに、警告までしたため、諸家では新たに牢人を召し抱える事は極端に少なくなった。
牢人は概ね上中下の三種類に別けられるとされる。上の牢人とは先祖や本人が戦場で武勲を上げ、系図も正しく何のたれがしと名を人に知られた者で、主君から相当の知行をもらいながらも自らの意思で主家を去った者をいい、中の牢人とは、たとえば中小姓など近習役を勤めていたが、何かの失策で主人の勘気を被り暇を賜った者や主家の取り潰し等で扶持を失った一般の士などで、江戸初期に最も多い数を数えた。そして下の牢人とされるのが、元は下端役人で私欲などから立場を失い禄を離れた者という。
この牢人という語は江戸中期頃まで使われ、後期になると浪人という語と混用されるようになった。
【浪人】(ろうにん)
元は浮浪人という意味で、牢人とは別の意味を持っていて扶持を離れた武士を表するには不適切な語だが、江戸後期には牢人と混用されるようになった。現代ではもっぱら牢人の意味で用いられ、浮浪人は浮浪者と表される。
武士関連コラム
[生肌武者・つんぼう武者]
江戸時代後期の国学者・小山田与清(ともきよ)が著した『松屋筆記』より、八切止夫関連の話をひとつ。「日本史は神徒と仏教徒の抗争史である」と主張する八切氏は、作家活動の初期に「寸法武者」「生肌武者」などの作品を発表している。私はてっきり八切氏の造語と考えていたのだが、実はそういう言葉が存在していたらしい。
「生肌(すはだ)武者つんぼう武者雑人原白歯者青葉者 同部(注:甲州直伝歩騎必用口伝二巻兵具部)生肌武者つんぼう武者雑人原白歯者共といへる條にコノ三ヶ條ハ古ヘナキコトバナリ近代云ナラハスト見エタリ生肌武者トハ薄手ヲ負其疵未癒ザルニ大合戦アレバ出ズシテ叶ヌユヘソレゾレノ支配頭ヘコトハリ具足ヲキテ出ルモノヲ云又一説ニ手負武者頭ニコトハリ具足ヲキズ羽織バカリニテ出ルヲ云トノ二説ナリツンボウ武者ハ具足ヲ著テ指物ヲサヽヌヲ云雑人原トハ中間荒子ノ類一度モ具足ヲキヌモノヲ云コレヲ青葉者トモ云なり」(『松屋筆記 第二』国書刊行会、369‐370頁)。
八切氏も次のように書いている。「兜をつけ、上から下まで身なりの寸法(恰好)のとれたのを、寸法武者という。この上は、旗指物を許されて背につける指物武者があるが、ひとかどの者といえば、寸法武者である」(『乱世武者列伝』秋田書店、15頁)、「当時の言葉で、戦傷などうけ鎧をはずしている武者のことを(生肌武者)とよぶのだが、これは陣頭に立って進む恰好ではない」(前掲書、133頁)。
しかし、「子守唄武者」「母子草武者」「花嫁武者」「おいらん武者」「すけべえ武者」「幽霊武者」「座頭市武者」「○○七武者」(全て作品のタイトル)となると、その過剰なまでの読者サービスに苦笑せざるを得ない。未だに評価が定まらない一因ではないだろうか。(2004年9月30日瓢水記)
武器
武器(ぶき)
ウメガイ
山窩の山刀。短く重い拵え。
刀(かたな)
片刃(かたは)の転かともいひ、又、片薙(かたなぎ)の転かともいふ。(『廣辭林』新訂版)
刀剣の鞘のコジリに小さき穴をあけたるは、水練の潜のわざのためなりとぞ。久しく水底に沈をらんとき、この鞘を口に含て穴あるコジリをば水上に出しをきて、息をつく便とするよしなり。この事昔の書には見えぬ事なり。(浅野梅堂『寒檠瑣綴』)
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「刀脇指」の項あり参照ください。
大刀(だいとう)
太刀。脇差と揃えて帯びる大刀(佩刀)。
小刀(しょうとう)
脇差のことをいう。
【脇差】(わきざし)
守り刀。差し添えの刀。鎧通し。
【大脇差】(おおわきざし)
脇差の大振りなもの。侠客など士分以外の者が差した。長脇差ともいう。『柳営禁令』に「此日命ぜらるゝは、刀は二尺八九寸、脇差は一尺八寸を限とすべし」とされ、一尺七、八寸のものを大脇差と称していた。
なお、町人が大脇差を帯びることの禁制は、寛永六年十月十八日の『京都町中諸法度』に見え、大坂では慶安元年四月五日、万治二年六月朔日に「町人にて昼夜ともに刀・大脇差無用たるべし」との町触が出ている。また、江戸においては正保五年二月二十二日に「町人長刀并びに大脇差を指し、奉公人の真似を仕り、かぶきたる体をいたし、がさつ成る儀并びに不作法成る者これ有るに付いては、御目付衆御廻り見合ひ次第御捕へ、曲事に仰せ付けられ候間、向後奉公人の真似を仕り、刀を指し申す間敷候由相心得申し、以来万事慮外成る儀仕らざる様に其の心得仕る可きの事」との町触が出されている。しかし、実際は一尺八寸以上の大脇差を指していたらしく、「此の比の町人共を見るに皆侍を学び、二尺余りの大脇差、三尺余りの大刀、照り輝くばかりの伊達拵へ、真一文字に指しはしらかし」(『可笑記』三)等と有り、また江戸の六方組の棟梁深見十左衛門は「二尺四五寸の朱鞘の大脇差を離さず」(『近世奇跡考』四)だったらしい。(『好色一代男全注釈』)
小太刀(こたち)
小形に造られた太刀。主に女性が持つ太刀。
忍び刀(しのびかたな)
大脇差ほどの長さで、反りのない直刀。
刀の種類
古刀(ことう)
慶長以前に作った刀剣をいう。(『広辞苑』第二版)
正宗(まさむね)
鎌倉時代の刀工。鎌倉に住し名工とされた。
村正(むらまさ)
村政とも。南北朝期の刀工。伊勢の人で、正宗の弟子。家康の祖父清康がこの刀で殺されたことから、江戸時代には妖刀といわれ忌まれたという。
[逸話]
村政の刀を御当家にて禁じ給ふは、後風土記・三河記等にも委敷、人の知る所也。或る蔵書にありしとて人の語りけるは、灘波御陣とや、亦は其已前なりけるか、織田有楽軒手づから討留し首を持参して、御前へ出けるに、「手柄致したるや」と上意あり。「老人のおとなげなく少々働き、手作りの首」の由申上ければ、遖の由御賞美にて、「其打物御覧被遊候」よしにて、有楽の鎗を上覧之処、いかゞ被遊ける哉少々御怪我有りし故、「此鎗は村政の作なるべし」と御尋なさる。「御尋の通」のよし申上けるに、「村政は不思議に御当家に相当なき」よし、人々申ける故、即座に折捨しと也。(『耳袋』巻之二)
村政は正宗の弟子にて美濃の住にありし由。至て上手にて切れ物なれ共、其の人となり乱心同様の性質にてありし故や、右打物所持いたし候へば、御当家昵近の者に限らず怪我いたし候由。今も村政が子孫美濃にて剃刀など打しが、兎角怪我いたしける故、今は其家業も止めしと也。いつの頃にやありし、打物の商ひしけるもの、村政の短刀を才覚し、村政と銘ありては人々嫌候故、銘を摺潰し、「是は正宗に成り候」とて、甚歓びしを、心安き人聞て、「夫は不宜事」と、異見を加へしに、「商売筋に左様の事を忌嫌ひては、金もふけは成らざるものなり」と、欺き笑ひて過しが、其妻いかゞせしや、右村政の短刀にて自殺しける故、驚きて右刀を捨しと也。予一年信州に在勤の折から、召仕ふもの村政の払もの調候積にて為見けるが、至て美事なるものにて好ましき刀なりき。しかし聞及びし事もあれば、「此刀調ひ候事必無用」の旨、切に申含早/\かへさせける。(『耳袋』巻之二)
新刀(しんとう)
慶長以後の製作の刀。堀川国広を最初の名工とする。(『広辞苑』第二版)
『浪速人傑談』に「新刀名家」の記述有り参照ください。
○正宗刀
正宗といふ鍛冶八人あり、相州鎌倉に一人、五郎入道と云、京に三人、達磨と云、三代なり、武蔵二人、父子、備後に一人、大和一人なり、又近世高位に此名あり打物に術を得給ふ、此銘には、為2遊興1打レ之とあり、鍛冶にてはなし、又おなじ唱への政宗三人あり
○宗近刀
宗近三人あり、京一人小鍛冶、伊賀に一人、九州に一人 (以上『近代世事談』巻之三)
[刀工逸話]
相州正宗の刀を打つとき、常に三貫目の鉄を三百五十目に打鍛えたり、然るに今の鍛冶は如何なる妙手名人にても、五百目より以下には鍛えられず、強て打つときは鉄の性抜けて用を為さざるに至ると云へり、是に由て之を観れば、正宗の手腕中には一種特得の伎倆ありたる者なるべし(海保帆平)(『想古録』)
【新々刀】(しんしんとう)
幕末・明治以後に作られた刀。(『新明解国語辞典』)『鬼麿斬人剣』に登場する源清麿はこの新々刀の名工。
陣太刀(じんたち)
反りのある大刀を太刀といい、主に儀杖等に使われるが、総大将が陣中に赴く時に佩びた。刃が下に向くように腰に釣り下げる。
鎧通し(よろいどおし)
古昔、戦陣にて太刀・脇差の外に、別に佩し短刀。敵と組みあひしとき、これを刺すために用ひしもの。(『廣辭林』新訂版)
刀関連用語
試し斬り(ためしぎり)
剣、刀などの切味を試すこと。昔時は実際の人体を用いてなされた。その人体は、討ち取った敵や斬首や磔刑に処せられた罪人の死体を用いた。江戸の初期頃には、磔刑になった切支丹などが試し切りされたという。死体を二つ重ねて斬ることを「二つ胴」、三つ重ねを「三つ胴」などと称した。江戸期に入ると幕府の将軍などの佩刀の試し切りは、山田浅右衛門のようなそれを専門とする役の者が現れた。
切り柄(きりつか)
白木の柄で、試し斬り専用の頑丈に作られた柄。詳しい解説は『鬼麿斬人剣』26pにある。
寝た刃合せ(ねたばあわせ)
すべらかな刀身、特に刃の部分に荒研叉は木賊でこすってざらざらにする事。これは、磨きたてのすべらかな刀身に、摩擦力を加え、より斬れやすくする為に行った。また、切り合いを重ね、血糊などで切味が鈍ったときにも行う。
名刀の名前
鬼切りの太刀(おにきりのたち)
源満仲が戸隠山中で鬼を斬ったと伝えられる名刀。茨木童子の腕を切り落したとされる渡辺綱(わたなべのつな)が所持し、大江山の酒呑童子退治にも持参した。後、徳川家に渡り、後水尾天皇に嫁した和子が皇子高仁親王を生んだ時に、秀忠が、孫にあたるその皇子に贈った。その皇子は二歳で夭折したため、後水尾院はその太刀を、女御の生んだ御子に与える。その御子とは、柳生の凶刃から武蔵が救い出し育てた松永誠一郎のこと。
戸隠山中の鬼は、戦国期にも出没していたらしく、浅井了意の『伽婢子』に、「門外にて、多田淡路守に行あひたり。鶴瀬思ふやう、これは信玄公秘蔵の足軽大将にて、武勇力量すでに家中にゆるされ、名を近國の諸大将にしられ、信州戸隠山にをいて鬼を切たるほどのもの」とある。
源氏の宝剣とされ、平氏の名刀「抜丸」とともに伯耆国西伯郡の大原で鍛造されたとされ、この鍛冶跡が西伯郡岸本町に「大原鍛治跡」として現存している。(『郷土史料事典』31)
菊一文字(きくいちもんじ)
後鳥羽上皇の勅命によって鍛えられた刀で、刀茎に十六葉の菊の紋が刻まれている。
『艶道通鑑』に「菊一文字の助宗」という記述がある。助宗は、備前長船の刀工の名。
小がらす丸(こがらすまる)
平家重代の名剣。根岸鎮衛の『耳袋』に有識故実家伊勢家に伝わると有り、『倭訓栞』の「たち」の項には、伊勢氏に伝える小烏の太刀は、もと一尺ほどは常の刀の如く末は両刃で先が尖るとある。
左文字(さもんじ)
今川義元秘蔵の名誉の刀。桶狭間合戦で敗れた時、織田信長が手に入れ自らの佩刀にしたという。(『信長公記』より)
九州筑前の刀工の名。九州の刀工には、鎌倉時代に名を現す刀鍛冶良西の一派があり主流とされる。この一派は、良西から西蓮国吉、実阿と続き、実阿の子が左文字で、刀の銘に左と書いた。左文字は相州正宗に弟子入りし、正宗十哲の一人に数えられ筑前鍛治の名を高らしめた名工。その子に左安吉がおり、門下では吉貞、貞吉、国弘等多くの名工を輩出した。(廣井雄一「名刀拝見」『歴史読本』昭和54年10月号所収)
下坂康継の刀(しもさかやすつぐのかたな)
家康が太田資宗に与えた名刀。
はちまき
大鳥逸平の佩刀だったが、市橋如見斎に贈り、如見斎が野村玄意に贈ったとされる名刀。
四谷正宗(よつやまさむね)
江戸の刀工山浦環源清麿が鍛えた刀。新新刀の名刀と云われる。
古代剣
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
素戔鳴尊が退治した八岐大蛇の尾から出て来た霊剣。素戔鳴尊はこれを天照大神に献上した。のちに日本武尊が持ち、草薙剣と呼ばれる宝剣となり、皇室の神璽の一つとなった。
大葉刈(おおばかり)
『日本書紀』に現れる味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)の佩刀。別名を神戸剣(かむどのつるぎ)。味耜高彦根神は天雅彦(あめわかひこ)の友人で、天雅彦の葬式に天国(あまつくに)に行き、死者に間違われた事から怒り、天雅彦の喪屋を大葉刈で切り倒した。その喪屋が地上に落ちて山になるが、その山が美濃国の藍見川上流にある喪山とされている。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
天皇の標とされる三種の神器(神璽)の一つ。前述の天叢雲剣と同一のもの。日本武尊が東征の帰途、尾張国で病に倒れ没した時、同地の吾湯市村に留め置かれた。その後、武尊の妻簀媛命がこの地に剣を祀るために社(熱田神宮)を構えた。
十握剣(とつかのつるぎ)
拳十個を重ねた長さの剣の汎称。他に八握剣、九握剣も有る。十握剣は素戔鳴尊が出雲国で八岐大蛇を退治した時に用いた剣で、大蛇の尾を切った時に、霊剣にあたり刃がこぼれた。この剣を別名蛇の麁正(おろちのからまさ)、あるいは蛇の韓鋤剣(おろちのからさひのつるぎ)といい、吉備国の石上神宮(備前国赤坂郡にある石上布都之魂神社といわれる)に祀られたとされる。石上神宮の詳細は不明。
鎖鎌(くさりがま)
鎌の柄に分銅のついた鎖をつけた武器。分銅で相手に打撃を与えたり、鎖を相手の刀に絡ませ動きを封じ、鎌の刃で攻撃する。
手裏剣(しゅりけん)
主に忍びが使う飛道具。殺傷力はそれほど無く、相手が怯んだ隙に逃げるための武器。
十字手裏剣(じゅうじしゅりけん)
十文字形をした、一般的な手裏剣。
棒手裏剣(ぼうしゅりけん)
重い鉄の棒の一端を尖らせたもの。
錐刀(すいとう)
暗殺用の武器。長さ三寸ほどの鋭利な刃の付いた針に柄を付け鞘に納めたもの。
鉄砲(てっぽう)
天文十二(1543)年、一艘のポルトガル船が種子島に漂着し、二挺の火縄式銃が我が国に初めてもたらされた。領主種子島時尭は、これを買取り製造法を研究。やがて国産化に成功し、その技術は雑賀の海賊衆を通して紀州根来、泉州堺に伝えられる。こうして根来、堺に鉄砲鍛冶が誕生し、十年ほどで全国に火縄式銃が広まった。しかし、この頃の銃の射程距離は最大で500〜300メートル、有効射程距離では200〜100メートル程だったという。また一発打つ毎に筒の掃除、火薬の充填、玉込めを行うため発射準備に十〜二十秒要したとされる。さらには火薬の原料となる煙硝や鉛玉も高価であったため、合戦で弓にかわるほどの武器とはならなかった。こうした中で、いち早く大規模に鉄砲を用いたのが織田信長で、長篠の戦いではおよそ三千挺の鉄砲を使用し、武田の騎馬武者に率いられた槍隊を打ち破った。信長はこれより前に、雑賀の鉄砲衆と戦い、自らも狙撃され、その威力を実感していた。
鉄砲伝来
○後奈良帝天文八年南蛮船一艘大隅国種ケ島に著く。船中衆百余人あり。浦人いろ/\と言語にて問へども通使なければ不レ通。其ふねの内に本唐の人一人あり。のり組み居れり。その者地へあがりけり。島主兵部丞時暁いでむかゐて、つける杖にて砂の上に書けるは、われは大明国の儒者五峰使と云ふものなり。たま/\蛮人と同船して漂着し、この地に来れり。それによりて漸く南蛮船たることをしれり。其船の中のかしらと見へて名を牟良叔舎(ムラシュクシャ)といふ者手にもてる鉄のぼうの様なるものより火をはなちて浦主へ見せけり。鳴るおと甚しく聞くものおどろけり。時暁おもひけるは、軍用の重宝ならんと。大分に金子その外色々の玩好の品を贈りて其仕形をとひ求む。叔舎志にかんじて炮術および、薬方銕錬(たつ)多(金篇:もぢり)耆(金篇:ねぢ)の秘術をのこらず時暁に伝へこの器名を鳥銃といふとおしへ、且つ所持せる鉄炮三挺を時暁におくる。暁尭島津義久に献上し其術を根来寺の僧杉の坊につたふ。さて義久鉄炮一挺を将軍義晴公へ献ぜらる。杉坊関東に至りて広く其術を伝ふ。これより鉄炮天下にひろまれり。漢土へはその後日本より伝へたりと云ふ説あり。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之一)
○鉄炮(てつぽう)
弘治元年、南蛮人氏宇志倶智といふ者琉球国へわたり、烏嘴銃を造る事を教ゆ、琉球より薩州多禰島にわたる、同年三月京師に入て、義輝公へ献じ、その術を伝ふ、而後佐々木義秀に命じて、江州国友村に居住させらる、義秀則彼者に百貫の地をあたふ、古への百貫は、凡今の百石の領地なり、日本の工人彼が製に倣ふ、泉州堺芝辻清右衛門入道妙西と云もの巧手たり、羅山文集に云、井上氏正継此術に長じ、巧を運て奇を呈す、製様機あり、尋常の及所にあらす、又朝鮮へは日本よりわたしけると也、朝鮮の柳相国が懲比録に云、日本天正十八年庚寅三月、対馬大守より孔雀と烏銃を送る、吾国烏銃あるは、此時より始ると記したり 補註:銃器は天文十一年に甫人の来伝たるを始めとす其外の説は皆誤りなり(『近代世事談』巻之二)
大筒(おおづつ)
大砲。使用するに数人以上の協力を要する火器。(『廣辭林』新訂版)
○大筒(おほづゝ)
其暫後、外国より大筒を渡す、鋳筒玉目一貫斗の筒也、此筒のことき大銃を製すへき者ありやと、諸国の鍛冶をめしあつめさせけれども、御請申ものなかりしに、堺の妙西が子理右衛門入道道逸、かしこまつて領掌す凡本口一尺三寸、末口一尺一寸、長一丈、玉目一貫五百目の筒を、不日に張て奉れりこれ日本大銃のはしめなり 堺鏡に見(『近代世事談』巻之二)
馬上筒(ばじょうづつ)
馬上からも撃てる短身の銃。短筒(拳銃)よりも長く、それの前身的なもの。
遠町筒(とおまちづつ)
狙撃銃。射程距離を伸ばすために銃身を長くした銃。手持ちではなく、銃身を銃座で固定して撃つ。
早合(はやあい)
適量の火薬と弾丸をつめた紙袋。火薬と弾をセットにしてあり、素早く銃につめるために工夫されたパッケージ。
鉄砲関連
国友鉄砲鍛冶(くにともてっぽうかじ)
姉川左岸にある国友の里(現滋賀県長浜市国友町)は鍛冶の村だったが、天文十三年(1544)足利十二代将軍義晴の命で、六匁筒二挺を作って献上したのに始まり、以後、信長・秀吉・家康らへ鉄砲を供給する鉄砲鍛冶の村として発展した。
堺鉄砲鍛冶(さかいてっぽうかじ)
天文年間(1532〜55)、堺の貿易商橘屋又三郎が、琉球へ行きポルトガル人から鉄砲一挺を譲り受け、それを持ち帰って製造した事に始まる。
雑賀鉄砲衆(さいがてっぽうしゅう)
元は紀ノ川下流域を根拠とした海賊衆で、雑賀荘とその近郷四郷の土豪としてそれぞれの荘郷で独立した自治組織を持っていた。これらの総体を雑賀衆といい、その中の鉄砲が達者な者を組織し、鈴木(雑賀)孫一が率いていた集団。雑賀の鉄砲術は海賊流と呼ばれる焔硝混合法と種子島伝来の着火式銃を改良した雑賀鉄砲を使った。また、その玉込めも三人一組の分業で、射手は射撃だけに専念したといわれる。
長巻(ながまき)
刀に長い柄を付けたような武器。
焙烙玉(ほうろくだま)
木の碗を二つ合わせたような殻の中に、鉛の玉が二三十箇と煙硝・硫黄が詰めてあり、その外側に何枚もの紙を巻き表面に牛皮を貼り付け、口火を付けた武器。口火に火をつけて投げると爆発し、鉛弾を撒き散らす。鉛弾も同じ仕掛になっていて、中に煙硝が詰められている二重構造。多人数殺傷用の強力な武器。(『一夢庵風流記』)
槍(やり)
槍は古く縄文時代から狩猟用の道具として使われてきた。この頃の槍は、スポーツ競技の槍投げのような投げ槍だったと思われる。この槍が戦闘用の武器として登場するのは、南北朝からだという。
秀吉のエピソードに、「槍は長い方が有利か、短い方が有利か」と信長が家臣に問うた時、槍術の指南を勤めていた上島主水が即座に「短い槍が有利」と答え、末席にいた藤吉郎が、「槍は長ければ長いほど宜しい。槍術など知らぬ足軽に、長い槍と短い槍を持たせ戦わせれば一目瞭然」と答えたという。この結末は、長短それぞれの槍を足軽五十人づつに持たせ試合を行い、結果長い槍の組が勝ち、秀吉は信長から大いに誉められたという話で、この逸話は『絵本太閤記』にあるだけの創作話だが、この頃の足軽隊は、長い槍を突き出し槍ぶすまとして敵陣に向った。
○鑓(やり)
軍用に専用ゆる所の鑓は、楠正成が作れる所と云、大平記住吉合戦に楠正行が兵士天野了願法師と云法師武者、柄の長さ一丈ばかりに見へたる鑓、馬の平首に引そへたりとあり、此時節は珍らしそうに書たり、専に用る事は室町家の時分より起ると云、近江国天九郎俊長と云者鑓を作るの上手也と有、延文のころの人也、大むかしも鑓ありしかとも、今のやうに小どりまはしなるものにあらす、大騒に拵たるものと見へたり、三代実録に元慶五年條下に、槍一百八十竿、鑓槍或は鯰尾の槍とあり(『近代世事談』巻之二)
管槍(くだやり)
近世の槍の一種。柄に手頃の金属製の管を通し、柄の先のけら首に近い所にこれを留める鍔がある。左手でその管を握り、右手で柄をしごいて突く。(『広辞苑』第二版)
○管鑓(くだやり)
慶長のころ、江州佐和山の主大谷刑部始て作る所也、刑部は病ふ事ありて、手の中心にまかせず、よつて管鑓を工夫すと也、事始に云、手ぼう左馬之助始て作ると有、
按手ぼうといふ苗字、未しらす、さためて異名なるべし、手ぼうといふによりて見れは、刑部が手のうち自由ならざるといふにひとし、刑部を始は左馬之助といへるかまさしく同し人なるべし(『近代世事談』巻之二)
長柄の槍(ながえのやり)
長5メートル。主に足軽組が持つ。
持ち槍(もちやり)
長2.5メートル。主に馬上で使われる。
朱柄の槍(しゅえのやり)
柄全体を赤く塗った槍。名誉の槍とされ、戦場往来の武門の誉れ高い者や、侍大将などが主君から与えられて手にした。
槍術逸話
下谷竹町に長尾某と云へる槍術家あり、七十俵五人扶持にて、幕府の槍術師範役たりき、或るとき槍術に名を得たる一人の修業者、其道場に尋ね来りて頻りに試合ひを所望しければ、長尾は之を辞し、必らず怪我あるべければ、御見合せ然るべしとて、再三其所望を拒みけるに、相手は中々肯入れず、是非にと云ひて迫りければ、長尾も後には辞み兼ね、然らばとて、稽古道具に身を固め、丈余の素槍の最と太きを提げて其場に臨み、頓て一礼を述べて立合ひたり、修業者は強て勝負を望みたる程の者なれば、其腕前素より尋常ならず、下段に構へて長尾の隙を窺ひけるが、絶叫一声撞き出したる鋒尖は、其の疾きこと電光の如く、傍観せる門人等をして、アハヤ先生不覚を取られたりと思はせけるに、長尾は心得ある老練家とて、容易く彼等が手に乗らず、彼が槍を横に払ふて我槍を竪に振揚げ、掣電一撃声掛けけるとき、難なく彼を道場の真中に打倒したり、修業者は其術の意外に出でたるに驚きて、倒れたるまま長尾を罵り、槍術に打敲く法やあると、声励まして其無法を難じけるに、長尾は呵々と打笑ひ、足下は槍を撞くものとのみ考へらるるは誤りなり、戦場にて敵と鋒を交ゆるときは、撞くこともあり撃つこともあり、両陣入乱れて激戦する時は、撞くは三分にて撃敲くが七分ならざる可らず、是れ槍術の奥意なり、古代の武士は斯る尋常普通の技術は、平生見慣れて別に珍らしきことも思はざりしとの遺話あるに、泰平打続きて足下の如き槍術家までが、真面目に此の質問を起さるるとは、存外千万の事ども哉、と窘めければ、修業者は夢の醒めたる思ひして起き直り、悄々として立去りけり、憐むべし修業者は、余りに強く打据られて骨筋違ひ、復た槍を執る能はざる廃疾人となりぬ、爾来武家奉公を断念し、身を卜筮師に落して其生涯を送りけるとぞ(羽倉外記)(『想古録』)
蜻蛉切り(とんぼきり)
徳川四天王の一人本多忠勝が持ったとされる名槍。長さ二丈(約6m)、柄が太く青貝をちりばめたもので、トンボが飛んできて穂先にとまったとたん真っ二つに切れたと言われ、その名がついた。忠勝は、この槍の石突の根元を、片手で握って振りまわすほどの膂力があったという。
弓(ゆみ)
武器としての弓矢の出現は、弥生時代に入ってからという。縄文時代には狩猟用の弓矢はあったが、人を攻撃する道具ではなかったらしい。紀元前後、弥生人が各地の平野に小国を築き、小国間の土地争いや利権をめぐって各地で戦いが行われるようになった。弓矢は、その頃の主要な武器で、丸太を用いた80センチから120センチの長弓で、長い矢を飛ばした。この弥生時代の戦いは、両軍が少し離れたところから矢を射かけあう形でなされたといわれる。この長弓の時代がしばらく続き、源平合戦などに用いられた弓は、改良され洗練されて来るが、基本的にはこの長弓(大弓)で、かなりの膂力が必要とされた。やがて、騎馬での戦いが重視されると、馬に乗ったまま射かけやすい短弓(半弓)が南北朝期に表れる。こうして武器としての弓矢は、江戸期に至るまで半弓が主流となった。
『常山楼筆餘』にある弓について記された記述を参照ください。
大弓(おおゆみ)
長弓。三尺(90m)から四尺(120m)ほどの長さの弓。
半弓(はんきゅう)
短弓。5、60mほどで、大弓の半分の長さの弓。
鉄弓(てつゆみ)
大弓の一種で、躬が鉄でできた強弓。弦を張るだけでかなりの膂力が必要とされる。
兵法
居合(いあい)
すわったまま、あるいは立った姿勢で、素早く抜刀し、敵を切り倒す剣法。戦国末期、林崎甚助重信が創始し、神夢想林崎流と号した。
「居合は太刀打の根元なり。兵法といふは、敵に向って太刀を合するは、腰より抜出しての上也。抜かずして兵法有るべからず。然れば抜くを第一とす。長短の打物によつて、抜きやう品々有り。又は所の広狭、地形の高下と、座したると立ちたるとあり。敵に其の色をさとらせず、柄に手を掛くるより抜きいだす。遅速によつて、勝負の二道こゝにあれば、いかでか学びずしてあらんや。諸流多き中に、関口流の名高し」(『人倫訓蒙図五彙』二)
又、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、
ゐあひは『人倫訓蒙図彙』にも、「ゐあひ・とりて」と并べいひて、「柄に手をかくるより、抜出す遅速によつて、勝負こゝにあれば、いかで学びずしてあらんや」といへり。諸流多き中に関口流、其名高し。されども、ふるくゐあひといへるは、かたな抜わざのみをいはず。
とあり、抜刀術だけを居合といった訳では無いとしている。
一伝流(いちでんりゅう)
居合の流派。
関口流(せきぐちりゅう)
林崎甚助の弟子関口柔心が開いたもので、一に新心流とも称し、居合と柔術とを組み合わせた流派。
田宮抜刀流(たみやばっとうりゅう)
居合の流派。清水礫洲の『ありやなしや』には田宮流居合剣術とある。田宮長勝が興したとされる。
この「田宮流」についての記述が直木三十五の書にもある。
「この居合を大成したのは「田宮流」の田宮重政であるが、この人が殆ど林崎甚助と同時代に長柄刀を発明している。普通の柄より長く、八寸の柄にしたのである。一口に「柄に八寸の徳、みこしに三重の利」と称しているが、これも、微細なる研究から発明されたものである。
力学上から見て、重心が手元に近ければ近いだけ、刀尖の運動は早く、鋭くなる。三尺の刀へ五寸の柄をつけたのと、八寸の柄をつけたのと、腕の疲労の比率、力の入り方、切味から見て、長い柄の方がいい。特に、居合の如く、早く抜き、早く斬らんとする術にとって、この柄の長短は研究に価するものであって、田宮重政がこれを発明したのは居合家として当り前の話である。」(直木三十五著『剣法夜話』)
双刀居合の術(そうとういあいのじゅつ)
大小二刀を座ったまま、あるいは立って瞬時に抜く技。
印地打ち(いんじうち)
礫。石投げ。中世期、武器を持たぬ庶民の飛道具だった。楠木正成の部隊の中にも石投げ隊があったという。
小石を打ちあひて戦ふたはむれ。(石戦)。(『廣辭林』新訂版)
喜多村信節の『嬉遊笑覧』武事の項に「印地」関連記述あり、参照ください。
組み討ち(くみうち)
足軽による集団戦が主流となる以前の戦は、もっぱら騎馬武者同士の騎射から槍・太刀による打ち合い、そして最後には両者が馬から落ちて組み合いになった。こうして敵の首をとる事が多く、組み討ちによる武功が多かったという。この組み討ちの技を競ったのが相撲で、戦陣の際の武者達の娯楽として左右に分かれて組み合い、その力を誇示し合っていた。
湯浅常山の『常山楼筆餘』に相撲にからめて、その辺りの事情を記した文があるので参照。また、『燕十種』「相撲伝書」に以下の文がある。
相撲教ヘ方の事
一、戦場は甲冑の上なり、具足は鉄を錬、切突の業自在ならず、透間に非ざれば、切突事容易からず、しからば、平時に徒膚にて切突事を手練し、甲冑堅具にうつりて、中ざる事多かるべし、甲冑の理合は武備の指要なり、されば、甲冑の上にて、切り突事自在ならざれば、十度ビの戦ひ、六度、七度は組打になる事必然なり、古戦の物語にも、多くは組打なり、其業、剣槍を離れ、唯四肢心体の得失を以、一向生死の各異あり、故、武の要用なる所は組打なり、其一大事成ル組打に至りては、いかなる業を以勝理を得ン、往古の武士相撲を取ル事、こゝにあり、それ相撲の業は、四肢心体の、強弱、虚実を教へ、其手数の理合、戦場組打の用にあらずといふ事なし、これを能ク練察する時は、心体互に熟シ、業に隋ひ、縦横、順逆の理を尽し、機に臨み、変に応ずるのみ、其心活生にして滞る事なく、剛健にして屈せざる事をなすときは、一心に籠る所の理、自らあらはる故、一心に徹シ、堅強ならざれば、其体また固からず、勇気惣身に充るときは、強を発して能クたもち、妙術を得ル事明らけし、百五十有余の手数、悉ク四肢心体の業なれば、備はらずといふ事なし、彼は徒膚に叶ひ、是は甲冑に叶はずといふは、未練の至りなり、心体熟するときは、心体万事の用を失はず、博ク悟ルときは、せまからざるなり、(『相撲伝書』)
兵法家(へいほうか)
兵法を諸侯に教えることをもって身を立てる人。剣術使いの異称。(『新明解辞典』)
刀、槍等の武術をもって諸家に仕える者。宮本武蔵、柳生十兵衛、松山主水など、隆慶作品に登場する多くの剣術家を兵法家という。
剣術者 築地蜊河岸 桃井春蔵 三番町角 斉藤弥九郎 下谷御徒町 伊庭軍兵衛 神田於玉が池 千葉周作 其外あまたあらん、(『わすれのこり』)
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に兵法の記述あり参照ください。
弓術・弓術家(きゅうじゅつか)
弓の技術。
雪荷派(せっかは)
吉田流弓術吉田六左衛門を始祖とする流派。
鎗術・鎗術家(そうじゅつ・そうじゅつか)
馬上から弓を射って相手を倒す戦いから、確実に相手を討取る武器として太刀に柄を付けた長巻、薙刀が工夫されると共に、突くだけの武器として鎗が生まれ、戦国期には鎗を持った騎馬武者同士の戦いが主流となった。
やがて、その鎗術に優れた者も現れ一流を起す。
大島流(おおしまりゅう)
槍術の流派。
人静流(ひとしずかりゅう)
薙刀の流派。
無辺流(ぶべりゅう)
大内無辺流ともいう。出羽国横手郡大内庄の大内無辺が起した槍術。無辺は戸倉河畔で育ち、鮭を突き捕るのが得意で、そこから槍術を悟ったという。その弟子に山本無辺斎宗久(加兵衛久茂)がいる。山本は越後国村松の処士(浪人)で三代将軍家光の上覧試合でその技を披露し、家光に気に入られ再び上覧の栄誉に浴している。
宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)
十文字鎌槍を得意とした宝蔵院胤栄の伝える槍術。笹の才蔵と異名をとる槍の名手可児才蔵も胤栄の教えを受けていたという。槍法として「表九本」「真位六本」合わせて十五本の式目を定めている。清水礫洲の『ありやなしや』には高田派宝蔵院流槍術とある。
胤栄のあとを権律師禅栄坊胤舜が継いだ。
【穂と石突】(ほといしづき)
宝蔵院流の槍、石づきは穂の長さと同じことになっている、穂先きが打ち折れた時は石づきで勝負をするようになっている。(古老茶話)
馬術・馬術家(ばじゅつ・ばじゅつか)
中古の兵法は弓馬の術といい、東国武士から発した兵の戦い方で、馬上から弓を射かける戦いが最も有効であった。この事から兵(つわもの)、武士(もののふ)の術として乗馬術が重んぜられ、戦いの最終段階では士大将同士の一騎打ちで勝敗を決したともいわれる。平将門が東国を支配したのも、この弓馬の術に優れた軍団を持ったことによるが、将門自身は乱戦の中、流れ矢に当ってその命を失った。
以後。馬を使った戦法は義経の曲馬で有名な「一の谷」の戦いに見られるように、東国武士団を組織した源氏に受継がれ、甲斐武田騎馬軍団へと繋がってゆく。この中で、馬上の武器も弓からより接近戦に有効な鎗、長刀へと変化している。
大坪流(おおつぼりゅう)
大坪道全が起した騎馬術の流派の名。戦国時代、騎馬の訓練法や騎馬を用いる戦術・戦法を説いた。
以下は「大坪本流軍馬物見之巻」に記されているといわれているもの。
- 【一文字駆込み】(いちもんじかけこみ) 少数の人数で敵の堅固な備えを破る時や、急用があって敵陣を通り抜ける時、または敵に包囲された時、これを突破するのに用いたという法。
- 【追討】(おいうち) 味方の勝利が決定的となり、追撃に移った時には、隊伍の整頓など気にせず、急速度で敵を追い散らす事。
- 【乗用三段】(のりようさんだん) 敵陣を破る騎馬法。
- 【鑓襖(やりぶすま)を騎(のり)崩す事】 先手の長鑓隊の後ろに騎馬の達者をおよそ百騎ばかり備え置き、足軽の逼り合う所において、敵の虚を看て一度に馬を乗り入れて乗り破ることで、好機を捉えて全騎馬武者一致して奇襲的に乗り込み、敵の陣備えをつき崩す事。
- 【騎切りの事】 騎馬の達者を選抜して二手、三手に分置し、敵陣の真先、または左右からも馬を入れ、一文字、十文字に騎切って敵の備えを破る事。
- 【騎込の事】 多くの騎馬武者が群集し、敵の虚を看て遮二無二敵陣に騎込み、集散、離合、縦横無尽、神出鬼没の動作で、敵の騎兵に当たってはこれを突破し、歩兵に触れては踏倒し、電光石火のごとく、一文字、十文字、八花形に乗り破る事。
また「大坪本流常馭之巻」には、戦場での緩急極まりない動きに対応できるように、序・破・急の息をとりまぜて乗り、馬の肺力・心力を鍛練する事、退口(後退)をよく慣らす事、歩様、走行距離を伸ばす訓練などを伝えている。(『歴史読本』1996年10月号片山寛明「最強騎馬軍団」より)
砲術・砲術家(ほうじゅつ・ほうじゅつか)
伝来当初、鉄砲は新参の武器として多くの武士は蔑み、鉄砲を足軽など下級のものの武器とした。やがて、鉄砲の有効性が高まり、普及も相俟って砲術が起る。
稲富流(いなどめりゅう)
砲術の流派。稲富一夢斎を祖とする鉄砲、大筒の射撃術。
他の砲術の流派
「種子島流」「一火(いっか)流」「井上流」などがある。
その他の武術(そのたのぶじゅつ)
十文字流(じゅうもんじりゅう)
十手術の流派。
宝山流(ほうざんりゅう)
振り杖の流派。堤山城守宝山が興した流派。剣術より棒術、槍術を得意としたものと思われる。「念流」の流れを汲むという。
騎射流鏑馬(きしゃやぶさめ)
流鏑馬は鎌倉時代に武士たちの武芸修練の一つとして行われたのが起こりで、のち型や礼式が整えられ流派が生まれた。
【武田流】(たけだりゅう)
甲斐源氏の流れをくむという武田信直から、母方の叔父にあたる細川藤孝(幽斎)・忠興父子に伝えられ、熊本藩主となった忠興の子忠利が、家臣の竹原維成に伝授した。以来、竹原氏が代々宗家を世襲する流鏑馬の流派。
指弾の術(しだんのじゅつ)
元来は中国の少林寺拳法にあったといわれる術。鉄砲玉より小さい鉛弾を人差し指ではじき飛ばす。
水練術(すいれんじゅつ)
古式泳法のこと。
【小堀流踏水術】(こぼりりゅうとうすいじゅつ)
江戸時代中期の宝永年間(1704〜11)、熊本藩士村岡伊太夫によって創始され、子の小堀長順によって流派の形が整えられた。泳ぎとしては、「手繰泳」「足撃」「立泳」「潜泳」「早抜泳」を基本とし、高度な「御前泳」や基本を応用した「水弓」「水剣」「水書」などがある。
畳返し(たたみかえし)
掌を軽くあてるだけで畳を立たせる技。大広間などで多数の敵に襲われた時の応手。
手矢(てや)
弓を使わず手で矢を放ち射る技。
捕手(とりて)
人を組み伏せて捕縛する術。小具足とも腰廻りともいう。
「その手間にては居合・早態(はやわざ)・やはら・とり手の一つも稽古してこそ」(『可笑記』評判四)や「(水戸藩主)成公御代、御近習同心と云ふは、何れも捕手・柔術に達せし者を召仕はれ」(『桃蹊雑話』九)とあるように、やはら(柔術)と分けて称されていた。
柔(やわら)
柔道・柔術の事。中国より伝わった体術。『和事始』などに、「柔術は陳元贇より始る」と有るが、喜多村信節は『嬉遊笑覧」の中でこれを否定、「慶長頃、とりて・ゐあひはやる」とあるとりては、即やはら也。と述べ、『原本洞房語園』、「新町野村玄意は、其頃かくれなき柔気一流の名人市橋如見斎が弟子にて、宮本氏とは懇意なり。」を引用し、陳元贇が来朝したのは武蔵が没した正保二年(1645)より後の万治二年(1659)だから、陳元贇が来る前より有ったとし、この『原本(異本)洞房語園』にある柔気一流の柔気は柔術の事とある。
『武江年表』にも「○明人陳元贇、彼国の乱を避けて本邦へ来り、江戸三田台町永寿山国昌寺に偶居す。其の時浪人福野七郎右衛門、磯貝次郎左衛門、三浦与次右衛門等に語りけるは、明に人を捕ふる術あり。我其の技を見るにしか/\〃なりといふ。三人此の術を聞き、其の態を工夫す。起倒流柔術の始め也(元贇は寛文十一年六月九日、八十五歳にして尾州に終れり。起倒流柔術福野氏より寺田氏某に伝はり、寺田氏より滝野貞高に伝はる。貞高の門人比留川某又加藤長正に伝ふ。長正は安永中の人にして、門人千余人に及べりとなり)。
均庭云ふ、この事貝原氏が「和事始」に出て、これを柔術の始めなりといへるは誤りなり。もとより其の事はありて居合といへり。今は太刀を抜くわざにのみゐあひといふ。是等のこと考へあれど、事長ければこゝに記しがたし。」とあり、もと柔術を居合と称していたことは記されている。
○柔和(やはら) 近世大明の陳元贇といふもの本朝に来り、江戸麻布国正寺に寓、その頃磯貝次郎左衛門、三浦與次右衛門、福野七郎右衛門と云三人の者、浪人してかの寺にあり、元贇かたりて曰、大明に人を捕ふ術あり、そのなす所はしらざれどもそのありさまは覚たりと云、三人の士その言葉に随ひ、是を工夫しておの/\術を得たり、是本朝の始也(『近代世事談』巻之五)
【柔道】(じゅうどう)
柔道は従来の柔術を基礎として改良を加え、体育・修心・護身の三目的を同時に達成できる新しい方法を打ち立てたもので、明治十五年(1882)、学習院教授で文学士の加納治五郎(1860〜1938)が創始した。
加納治五郎は、弱い身体を鍛えようと、まず、福田八之助について天神真楊流を学び、ついで磯正智について同流を学び、ついで飯久保恒年について起倒流を学び、これらとほかの流派も合わせ比較研究し、それぞれの特徴を取り入れ、明治十五年、東京下谷北稲荷町永昌寺内に柔道場を開設した。これが講道館柔道の起こりである。
創立当時の入門者は十数人にすぎなかったが、明治十八年の警察武術大会で西郷四郎らの活躍により、柔術家たちに圧勝し、講道館柔道の真価が認められ、しだいに隆盛となった。その教育的価値が認められ明治十六年の学習院を皮切りに、海軍兵学校、東京大学、慶応義塾の正科や部活に取り入れられ、やがて、全国の主な学校で行なわれるようになった。さらに、日清戦争(1894〜5)、日露戦争(1904〜5)による国民士気の高揚とあいまって武道振興の機運が高まり、明治二十六年には大日本武徳会が設立され、のちのは学校の正科として小学校五年以上の児童に剣道とともに必修させるようになった。
第二次大戦後、剣道とともに禁止されたが、昭和26年に解除され、修業者が急激に増加。一方、諸外国でも多いに振興し、1952年には国際柔道連盟が設立されて、日本も翌年これに加盟する。
剣術
剣術・剣術家(けんじゅつ・けんじゅつか)
兵法の内、特に刀剣術をいう。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、「『北条五代記』四巻、「兵法の起りは、鹿島の神に始るよし」などいひて、鹿島の住人飯篠山城守家直、兵法の術を伝へしよりこのかた、世上に広まりぬ。此人、中古の開山也。」とあるように、剣術流派の起りは、飯篠山城守の起した『天真正伝神道流』から始るとされている。
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一足一刀(いっそくいっとう)
一歩踏み出せば刀が相手に届く距離。一歩踏み出せば間境いを超える距離。
【間境い】(まざかい)
刀が届く距離。
構え(かまえ)
剣の構え方。かたち。
【翅鳥の構え】(しちょうのかまえ)
大小二刀を鳥が翼を拡げたように左右に開いて構える。『吉原御免状』(193p)で幻斎が柳生十兵衛に対してとった構え。
【刺突の構え】(しとつのかまえ)
刀を胸の高さで真直ぐ伸ばす捨て身の構え。
【青眼の構え】(せいがんのかまえ)
正眼、星眼とも書く。両手で刀を臍の位置に真直ぐ構える構え。剣道における基本的な構えで、試合を行う時には、始めはこの構えで相手と対する。
清眼 刀の先を相手の目に向けて中段に構える構え。(『耳袋』解説)
- 【地摺りの青眼】(じずりのせいがん) 青眼に構えた太刀の剣先を低くさげて構える構え、と解釈したが、『剣術名人法』という書に、「一刀流皆伝の箇条に、敵をあとに追い込むには、何程太刀を眼中または咽喉につけても敵はあとへは下らぬものである、その節は地上の心ということがある、この心で敵を攻むれば、如何なる豪敵たりとも次第次第に後に下るものである、その事を地摺星眼とはいうけれども地摺星眼の構えというのはないものである。」とある。
【大上段】(だいじょうだん)
刀を頭上高くふりかぶり、相手を威圧する構え。上段の構えを強めて言う言葉。
【とんぼの構え】(とんぼのかまえ)
八相(双)の構えの一つで、子供が蜻蛉を取るように振り上げた右手に左手を軽く添える構え。
【八双の構え】(はっそうのかまえ)
剣または薙刀の構えの一つ。正面より右寄せにして立てて構える。
【無形の位】(むぎょうのくらい)
防禦の体勢をあえてとらない形。
観想の法(かんそうのほう)
すべての達人が目指す剣の極意。観の術ともいい、心の眼で見る事。塚原卜伝など剣の至極に至った兵法者は、十里を離れて敵の接近を察知し、観法を凝らす事によってその敵の容貌、服装から習癖まで手に取るように知ったという。
介者剣法(かいしゃけんぽう)
甲冑をつけた者同士の剣法。
剣型(けんがた)
剣を操る型。剣技。それぞれの兵法家(剣術家)が、剣の使い方を工夫し、それを実践する法および型。また、それら独自に開発した型・技などの名称。
【逆風の太刀】(ぎゃくふうのたち)
柳生新蔭流における奥義の剣型。
肩膝を折るように曲げると同時に大刀を抜き、下から真上に切り上げる。その瞬間、たわめた脚をバネにして跳び、真っ向上段から切り下げる。それを躱されたら、左下から瞬時に斜に切り上げ、そのまま右袈裟に斬り下ろす。それを躱そうと後ろに跳ぶと、その着地する位置に刀が仕込まれていて相手はその刀を踏みダメージを受けるという型。(『吉原御免状』)
【秘剣鷲の羽】(ひけんわしのはね)
松永誠一郎が使う「逆風の太刀」の応用型。
【丸橋の太刀】(まるはしのたち)
左足を踏み出し、右手で柄を握り、左手を大刀の峰に添える。一見すると刺突の構えだが、右足を踏み出した瞬間、突くと見せかけた大刀を右からの素早い斬撃に変えて斬りつける。(『吉原御免状』)
【無刀取り】(むとうどり)
柳生新蔭流における秘伝の奥義。上泉伊勢守が考案し、柳生石舟斎が完成させたといわれる剣の極意。
柳生宗矩著『兵法家伝書』に「無刀巻」が有るので参照ください。
咒師走り(ずしばしり)
咒師すなはち弱法師のように、隙だらけで頼り気ない歩き方、走り方。松永誠一郎が得意とした。この『咒師走り』は、現在でも東大寺二月堂のお水取りに行われているもので、古く中国の遁甲兵術から来ている。(『吉原御免状』7p)
【禹歩】(うほ)
咒師走りの中の一つの型。よろよろとよろめいているかのように見える歩き方。また、宮家準氏の『修験道』には「呪文を唱えて左右ふみちがえるように歩む」とある。
『広辞苑』等には、貴人が外出する時に陰陽師が呪文を唱えて舞踏する作法ともある。反閇(へんぱい)。
聞一多著の『伏義考』に「我が国(中国)古代の「禹歩」という一本脚の舞踏はもともと蛇の跳ねるのをまねたもの」と有り、その訳注には「禹歩。跛行すること。伝説によれば禹は治水に苦労したため病んで跛となった。のち巫師などが巫術を行うとき禹をまねて独特の歩き方をするのを禹歩という。『尸子』広沢篇ほかに記載がある。「舞踏」とする記載は未詳。」とある。
斬法(ざんほう)
剣などを用いて敵を斬る斬り方。
【片手斬り】(かたてぎり)
片手で武器を持ち、斬りつけること。
【袈裟掛け】(けさがけ)
袈裟斬り。一方の肩から斜めに他方の脇の下へかけて斬り下げること。仏僧の用いる袈裟のように、身体を斜めに縦断することから名付けられた。
【逆袈裟】(ぎゃくげさ)
袈裟斬りの反対で、下方から斜めに斬り上げること。
【四方斬り】(しほうぎり)
前方、左右、次いで後方の敵を連続して斬る事。
【抜打ち】(ぬきうち)
刀を抜くやいなや斬りつけること。
【脳天唐竹割り】(のうてんからたけわり)
幹竹を割るように、頭上から縦に真直ぐ斬り下ろすこと。
見切り(みきり)
相手の太刀行きを見定める技。
【五分の見切り】(ごぶのみきり)
相手の太刀先を五分(およそ15cm)の距離で見極め、交す技。
【一分の見切り】(いちぶのみきり)
相手の太刀先を一分(およそ3cm)の距離で見極め、交す技。ほとんど身体を動かすことがない。
竹刀(しない)
剣道の稽古で使う割竹製の刀。剣術・剣道の稽古には、木枝や木刀が使われていたが、木刀などの道具で打込みをすると相手に大怪我をさせる為、直前で太刀を止める技法が用いられていた。それでも、強く打降ろした木刀を寸前で止めることは難しく、対人稽古はなかなか出来なかったが、こうした不便を解消する目的で、上泉伊勢守が考案したのが最初とされる。当初、割竹を束ねて袋に入れ刀替りとした。やがて、竹を束ねた現代のような竹刀となり、その簡便性から江戸期に入ると広く普及し、全国に道場が生まれ、剣道が発展する。
【袋竹刀】(ふくろしない)
割竹を革袋で包んであることから称される。新蔭流の始祖上泉秀綱が考案した稽古道具。
【蟇肌竹刀】(ひきはだしない)
柳生流独特の竹刀。上記の「袋竹刀」と同じように革袋の中に割り竹を仕込んだもので、表面が縮んで皺が寄りがま蛙の肌に似ていたため「ひきはだ竹刀」と呼ばれた。(『捨て童子松平忠輝』上93)
剣術・海外
七星剣(しちせいけん)
中国山東省に古くから伝わる剣法。鳳が翼を拡げたように、大きく左右に手を伸して構える。七剣底母法、十三剣、二十四剣、など八法があり、王耀臣から、呉公玉、宋友軒、宋脊平と伝えられたとされる。
跳双剣(ちょうそうけん)
中国の擲剣。

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