![]()
東海道
東海道
京まで五十三次(大坂まで五十七次)
江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つ。江戸と京を結ぶ
幹線道路として、中山道とともに江戸幕府により整備された。
品川宿(しながわしゅく) 日本橋より二里
東海道第一次。本陣一、脇本陣二、旅籠九十三軒、戸数千五百六十余、人口 六千八百九十余人。奥州・日光道中の千住、中山道の板橋、甲州道中の内藤新宿と並ぶ江戸四宿の一つ。宿場は目黒川を挟んで南北二宿に別れ、町並みは九町四十間あまりだったが、後には新町が出来ている。江戸に出入りする人々の送迎の場、吉原と並ぶ遊興の場として、また宿場周辺には桜や紅葉の見所があり見物客などで賑わい、四宿の中では一番の繁栄を極めた。
宿場の成立は、慶長六年(1601)、家康が駅馬三十六疋を置かせて宿駅に指定したのが始まりだが、小田原北条氏の支配した天正十一年(1583)の「北条氏照朱印状」に「品川宿」と書かれていることから、天文年間には宿場としての機能があったものと思われている。
享保三年(1718)、飯盛女は旅籠一軒に二人と定められたが、品川宿では明和元年(1764)に五百人まで抱えることが許され、吉原につぐ色里となった。天保十四年の記録では、飯盛女を置く飯盛旅籠が九十二軒、水茶屋も六十四軒を数え、置かない平旅籠が十九軒だけで、後には三千六百人を超す数となり、ついには検挙者を出す事件も生んだ。幕末の記録では、この宿に遊びに来る客は、薩摩藩士と芝増上寺の僧侶で大半を占めたという。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「うち興じて、ほどなく品川へつく。弥次郎兵へ
海辺をばなどしな川といふやらん
と難じたる上の句に、きた八とりあへず
さればさみずのあるにまかせて
いとおもしろく歩むともなしに、鈴が森にいたり」
『地名・古地名』「品川」の項参照。
六郷の渡し
渡船渡し。六郷川(多摩川)には慶長五年(1600)に家康により架けられた六郷大橋が架かっていた。しかし、元禄元年(1688)、大洪水によりその橋が流失すると、以降、架橋されず渡船渡しとなった。
「玉川 六郷川の本名也。又多摩とも書す。多摩は武蔵の郡名也。六玉川の其一つにして、古詠多し。又入間里にては入間川といひ、海道筋にては六郷里なれば六郷川といふ。むかしは大橋あり。武蔵国三大橋の其ひとつ也。長サ百九間ありといふ。洪水に度々損するゆへ、元禄年中より船渡しとなる。又此河上より水道を作りて樋をふせ、江戸京橋より南の人家の用水とす」(『東海道名所図会』六)
『東海道中膝栗毛』にある記述
「大森といへるは麥稾ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ
飯にたくむぎはらざいく買たまへ これは子どもをすかし屁のため
それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける」
川崎宿(かわさきしゅく)
東海道第二次。本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百四十余、人口二千四百三十余人。
『国語の世界』「吉原御免状」編「川崎の宿」参照。
神奈川宿(かながわしゅく)
東海道第三次。本陣二、旅籠五十八軒、戸数千三百四十余、人口五千七百九十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はやかな川のぼうばなへつく 夫よりふたりとも、馬をおりてたどり行ほどに金川の臺に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」
注:ぼうばな(棒端) 棒の先端という意味だが、宿駅のはずれには、棒の先端に「これより何宿」と書いてあったから宿場のはずれを「棒端」「棒鼻」といった。
『地名・古地名』「神奈川」の項参照。
保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)
東海道第四次。本陣一、脇本陣三、旅籠六十七軒、戸数五百五十余、人口二千九百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はや程ヶ谷の駅につく。両側より旅雀の餌鳥に出しておく留おんなの顔は、さながら面をかぶりたるがごとく、真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの紺の前垂を〆たるは、扨こそいにしへ、爰は帷子の宿といひたる所となん聞へし(中略)
おとまりはよい程谷ととめ女 戸塚前てははなさざりけり
と打わらひ過行ほどに、品野坂といふところにいたる。是なん武州相州の境なりときけば
玉くしげふたつにわかる国境 所かはればしなの坂より
すでにはや、日も西のはにちかづきければ、戸塚の駅になんとまるべしと、いそぎ行道すがら」
戸塚宿(とつかしゅく)
東海道第五次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒、戸数六百十余、人口二千九百余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥二「ヱヽばかアいわつし。ヲヤもふ戸塚だ。笹屋にしよふか 北「とつさんや 弥二「なんだ 北「こゝじあアねつからお泊なせへといつて、ひつぱらねへの 弥二「ほんにそのはづだ。爰はどなたかおとまりと見へて、みな宿屋に札がはつてある きた「コウむかふの内がいきだぜ 弥二「コレ、あねさん。とめてくれる気はなしか はたごや女「イエ今晩はおとまりで、あいやどはなりませぬ 弥二「なむさんそふだろふ トだん/\やどをさがせども、みなふさがりとめぬゆへ大きにこまり、まごつきあるきとめざるは宿を疝気としられたり 大きんたまの名ある戸塚に
それより宿はづれにいたるに、漸くはたごやの合宿なきていにみゆるあれば、やがてこゝにたよりて 弥二「なんとわしらをとめてくんなせへ てい主「おふたりかへ。おとまりなされませ。当宿はやどやはみなふさがりましたが、私かたばかりあたりませぬ」
藤沢宿(ふじさわしゅく)
東海道第六次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数九百十余、人口四千八十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥「コウ貴様たちやア藤沢か。アノ宿も大分きれいになつたの。問屋の太郎左衛門どのは達者かの」
馬入(相模)川の渡し
渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト此内はやくも馬入のわたしにつく。北八こゝは何といふ川と人にとひしに只わたしばと斗こたへけるを弥二郎きゝて
川の名を問へばわたしとばかりにて 入が馬入の人のあいさつ
此川は、甲斐の猿はしより流れおつるよし。やがてむかふにわたりたどり行程に、此に白籏村といへるは、そのむかし、義経の首こゝに飛来りたるをいはひこめて、白はたの宮といへる」
注:白旗の宮は馬入川のはるか手前にあり、この記述は誤り。
平塚宿(ひらつかしゅく)
東海道第七次。本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒、戸数四百四十余、人口二千百十余人。
大磯宿(おおいそしゅく)
東海道第八次。本陣三、旅籠六十六軒、戸数六百七十余、人口三千五十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより大磯にいたり、虎が石を見て北八よむ
此さとの虎は薮にも剛のもの おもしの石となりし貞節
弥次郎兵へとりあへず
去ながら石になるとは無分別 ひとつ蓮のうへにや乗られぬ
斯打興じて大磯のまちを打過、鴫立沢にいたり」
注:「虎が石」大磯の延台寺にある「虎子石」のことで、大磯の長者の遊女虎御前にちなんだ石とされている。
酒匂川の渡し
夏期(三月〜九月)は歩行(かち)渡しで、冬期(十月〜二月)には仮橋が架かった渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「曽我の中むら小八わた八まんの宮を打すぎ、さかわ川にさしかゝりければ
われ/\はふたり川越ふたりにて 酒匂のかはに〆てよふたり
此川をこへゆけば小田原のやど引はやくも道に待うけて やど引「あなたがたは、お泊でござりますか 弥「きさまおだわらか。おいらア小清水か白子屋に、とまるつもりだ 客引「今晩は両家とも、おとまりがございますから、どふぞ私方へお泊下さりませ 弥二「きさまの所はきれいか 宿「さやうでござります。此間建直しました新宅でござります 弥二「ざしきは幾間ある 宿「ハイ十畳と八畳と、みせが六でうでござります 弥二「すいふろはいくつある 宿「お上と下と二ツづゝ、四ツござります 弥二「女はいくたりある 宿「三人ござります 弥二「きりやうは 宿「ずいぶんうつくしうござります」
小田原宿(おだわらしゅく)
東海道第九次。本陣四、脇本陣四、旅籠九十五軒、戸数千五百四十余、人口五千四百余人。城下町との併宿。宿建人馬は100人100疋とされ、伝馬100疋を常備していた。江戸を出立した旅人の多くは、箱根越えを控え、この小田原宿で二泊目の宿を取ったことから、桑名宿についで旅籠の数が多くなっている。また、ここ小田原宿は、箱根七湯と称される湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦之湯の温泉場を控え、長期滞在の湯治客でも賑わっていて、江戸時代の後半になると、旅人は宿場以外の宿の宿泊は禁じられていたにもかかわらず、一夜湯治と称して温泉宿に泊まる旅人の数も多くなった。そのため宿場の旅籠組合は、小田原藩や道中奉行に再三訴えたが、幕府はこうした短期宿泊を公認したため、以来、東海道往来の際に箱根で一〜二泊する旅人の数は増え続けた。そんな事情もあって、城下町の宿場ではめずらしく飯盛女が置かれたが、宿場の財政は好転せず、安政六年(1859)の記録では、旅籠の数は八十八軒と減少し、公用通交の旅客を支障無く泊まらせることができる家が十八〜十九軒で、かつ家具・夜具ともに常備してある宿は三〜四軒だったという。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなく小田原のしゆくへはいると、両かはのとめおんな 女「おとまりなさいませ/\ トよびたつるこへかしましく弥次郎しばらくかんがへ
梅漬の名物とてやとめおんな くちをすくして旅人をよぶ
此しゆくのめいぶつういろうみせちかくなりて 北「ヲヤこゝの内は、屋根にでへぶでくまひくまのある内だ 弥二「これが名物のういろいだ 北「ひとつ買て見よふ。味へかの 弥二「うめへだんか。頤がおちらあ 北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな 弥二「ハゝゝゝゝ、こうもあろうか
ういろうを餅かとうまくだまされて こは薬じやと苦いかほする
やがてやどやへつきければ、ていしゆさきへかけだしてはいりながら 「サアおとまりだよ。おさん/\。お湯をとつてあげろ。 宿の女ぼう「おはやうございます ト茶をふたつくんでもつてくる。此内下女たらゐに、ゆをいれてもつてくると、弥二郎女のかほをよこめに、ちらと見て、小ごへに北をよびかけ 弥二「見さつし。まんざらでもねへの 北「あいつ今宵ぶつてしめよふ 弥二「ふてへことをぬかせ。おれがしめるハ」
『地名・古地名』「小田原」の項参照。
箱根宿(はこねしゅく)
東海道第十次。箱根関所、本陣六、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。御状宿として、御用物だけを継ぎ立て、その他は小田原から三島まで継ぎ通した。箱根宿は元和四年(1618)、小田原宿〜三島宿の箱根八里の中間に、小田原宿から五十戸、三島宿から五十戸を移転させ、新しく設置された宿場で、小田原藩と三島代官双方の支配を受けた。宿の町並は、東の小田原宿側から新谷(屋)町、関所を通って新町、小田原町が小田原藩支配、次の三島町、そして西端の芦川町が三島代官支配となっていた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「けふは名にあふ筥根八里、はやそろ/\と、つま上りの石高道をたどり行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ
人のあしにふめどたゝけど箱根やま 本堅地なる石だかのみち
北「コレ/\松明を買はねへか。こゝの名物だ 弥「べらぼうめ。もふ日の出る時分、松明がナニいるものか 北「夜があけてもいゝはな。おめへかつてとぼせばいゝ、ゆふべのかわりに 弥「おきやアがれ 北「ハゝゝゝゝハゝゝゝゝ 又こゝに湯本の宿といふは、両側の家作きらびやかにして、いづれの内にも見目よき女二三人ヅゝ、店さきに出て名物の挽もの細工をあきなふ。(中略)
それより御関所を打過て
春風の手形をあけて君が代の 戸ざゝぬ関をこゆるめでさた
斯祝して峠の宿に悦びの酒くみかはしぬ」
箱根関所
はじめ慶長期に箱根権現の近くに設けられたとされ、箱根宿駅が開設された年の翌元和五年(1619)、宿の中に新たに設置された。関所の管理は幕府から委任された小田原藩が行い、番士と呼ばれる藩の役人が交代で勤めた。開設の当初は、「入り鉄砲、出おんな」について厳しく取締りが行われていたが、寛永十年(1633)以降には鉄砲改めを省略し女改めが主体となり、人見女という女性を二名置き、江戸方面から出る女性を厳重に改めた。
箱根峠
東海道三大難所の一つ。箱根八里といわれ、険しい峠道を無事に越すと「山祝い」を行う旅人もあった。
『地名・古地名』「箱根」の項参照。
三島宿(みしましゅく) 箱根宿より三里二十八町
東海道第十一次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十四軒、戸数千二十余、人口四千四十余人。もともとこの地は、伊豆国府で「国府(こう)」あるいは「府中」と呼ばれていた地で、足柄越え(御殿場道)の旧東海道(官道)時代から宿の機能を備えていたらしい。その後、伊豆の白浜にあった三島社が移され、三島と呼ばれるようになり、戦国期にはすでに三島宿と呼ばれていた。また、御殿場道の分岐の他に、ここから下田道が通っていたことから交通の要衝として重視され、幕府直轄地となり代官所(後に韮山代官所に併合)が置かれた。宿内は最初に伝馬役を負担した伝馬町・久保町・大中島町・小中島町の四町を中心に二十一町からなる東海道でも屈指の宿場町となり、その大部分の旅籠では飯盛女を抱え、三島女郎衆と俗謡にも歌われ全国にその名を知られた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「既に其日も暮にちかづき、入相のかね幽にひゞき、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追立て、とまりを急ぐ馬士唄のなまけたるは、ほてつぱらの淋しくなりたる故にやあらん 此とき、やうやく三しまのしゆくへつくと、両かはより、よびたつる女のこへ/\〃 「お泊なさいませ/\ 弥二「ヱゝひつぱるな。こゝをはなしたら泊るべい 女「すんならサアおとまり 弥二「あかすかべイ(あかんべえ)」
『地名・古地名』「三島」の項参照。
沼津宿(ぬまづしゅく) 三島宿より一里半
東海道第十二次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十五軒、戸数千二百三十余、人口五千三百四十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此所にて餅などとゝのへ、少しは腹の虫をやしなひ、たがひにちからをつけ合、はなしものして、漸沼津の駅につく。こゝにて先足をやすめんと、宿はづれの茶屋へはいる」
『地名・古地名』「沼津」の項参照。
原宿(はらしゅく)
東海道第十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数三百九十余、人口千九百三十余人。原宿一帯の海岸を「田子の浦」と称し、富士を望む景勝地として知られた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「このはなしにまぎれて、あゆむともなしに、小すわ大すわを打過、ほどなく原のしゆくへつく。こゝにてつれのさぶらひにわかれて
まだめしもくはず沼津をうちすぎて ひもじき原のしゆくにつきたり
北八「ヱゝおめへまだ、そんなしみつたれをいふハ」
田子の浦(たごのうら)
富士川東岸の砂丘の辺をいい、白砂青松風光明媚の勝地で、ここからの富士の眺望は東海第一といわれた。
吉原宿(よしわらしゅく)
東海道第十四次。本陣二、脇本陣三、旅籠六十軒、戸数六百五十余、人口二千八百三十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「頓て元吉原を打すぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり。弥次郎取あへず
餅の名のかしは橋とて旅人の あしをさすりて休やすらん
斯て吉原の駅につく。棒ばなの茶屋女共、いづれも黄色なる声/\に、「お休なさいやアせ。さけウあがりやアし。米の飯をあがりやアし。こんにやくと葱のお吸物もおざりやアす。おやすみなさいやアし」
富士川の渡し
渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより久沢の善福寺といへるに、曽我兄弟の石碑あるをおがみて北八
今曽我に機縁を結ぶわれ/\は 外に一家も壱もんもなし
富士川のわたし場にいたりて弥次郎兵へ
ゆく水は矢をいるごとく岩角に あたるをいとふふじ川の舟
此渉を打越けるに、はや日も西の山の端にちらつき、おのづから道急ぐ」
注:「善福寺」は「福泉寺」の誤。東海道名所図会に「其側久沢といふに福泉寺といふ寺あり。ここに曽我兄弟の石塔あり」とある。
蒲原宿(かんばらしゅく)
東海道第十五次。本陣一、脇本陣三、旅籠四十二軒、戸数五百余、人口二千四百八十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「馬士唄の竹にとまる雀色時、やう/\蒲原の宿にいたる(後編上了)
道中膝栗毛後編 下
此宿の御本陣に、お大名のお着と見へ、勝手は今膳の出る最中」
由比宿(ゆいしゅく)
東海道第十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒、戸数百六十余、人口七百十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへ ちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちよヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ/\ 弥二「ヱゝやかましい女どもだ
呼たつる女の声はかみそりや さてこそ爰は髪由井の宿
それより由井川を打越、倉沢といへる立場へつく。爰は蚫栄螺の名物にて、蜑人すぐに海より、取来りて商ふ。爰にてしばらく足を休めて
爰もとに売るはさゞゐの壷焼や 見どころおほき倉沢の宿
それより薩捶(正しくは土篇)峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしけれ」
注:倉沢(くらさわ) 『東海道名所図会』に「薩捶山東の麓西倉沢茶店に栄螺鮑を料理て価ふなり」とあり、その頃、倉沢は東海道第一の眺望といわれた。
興津宿(おきつしゅく)
東海道第十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒、戸数三百十余、人口千六百六十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「半合羽打被き、笠ふかくかたぶけて、名におふ田子の浦、清見が関の風景も、ふりうづみて見る方もなく、砂道に踏込し足もおもげに、やうやく興津の駅にいたり、爰にあやしげなる茶店に立寄」
江尻宿(えじりしゅく)
東海道第十八次。本陣二、脇本陣三、旅籠五十軒、戸数千三百四十余、人口六千四百九十余人。この江尻宿は清水湊の港町でもある。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「猶あめはしきりにふりつゞきて、いつこうしやれもむだもいでばこそ、たゞとぼ/\とあゆみなやみて、ほどなく、江尻のしゆくをうち過けるに、こゝにて雨もはれければ
降くらし富士の根ぶとをうちすぎて 江尻に雨の霽あがりたり
雨やみたればおのづから、行かふ人の足もかろげに、からしり馬の、鈴の音もいさましく、シャン/\/\」
注:からしり馬 本馬の荷物三十六貫の半量を一駄とする馬。
『地名・古地名』「清水湊」の項参照。
府中宿(ふちゅうしゅく)
東海道第十九次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒、戸数三千六百七十余、人口一万四千七十余人。駿府城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此はなしに弥次郎北八も大きにけうに入、あゆむともなしに、府中のしゆくにつく。先伝馬町に宿をかりて、それより弥二郎がしるべのかたへたづね行。こゝに金子のさいかくとゝのひ、大きにいさみ出してやどへかへり、なんでもこよひは、かねてきゝおよびし、あべ川丁へしけこまんと、きた八もろとも、其の¥したくをして、やどのていしゆをまねき 弥二「モシ御ていしゆわつちらア是から、二丁町とやらへ見物にいきてへもんだが、どつちのほうだね てい主「安倍川の方でござります 北八「遠いかね てい主「爰から廿四五町ばかしもあります。なんなら馬でも、雇てあげましやうか 北八「こいつはいゝ、弥二「から尻にのつて、女郎買もおもしろい/\。頓て爰よりから尻馬に打乗、ゆくほどに、かの安倍川まちといへるは、あべ川弥勒の手前にて、通筋よりすこし引こみて大門あり。爰にて馬をおり廓に入て見るに、両側に軒をならべて、ひきたつるすがゞきの音賑しく、見せつきのおもむきは、東都の吉原町におほよそ似たり。客とおぼしきが黒き木綿に紋のつきたる羽折などきて、手拭のさきを結ずしてかぶり、おくり行茶屋の女は、焼杉の駒下駄をひきずり、客人の神と見へしは、おほくは股引草鞋にて、いづれも祖父ばしよりなり。そゝりてやいに前垂がけの競あれば、棒のさきにもつこうなどくゝりつけて、かつぎあるくひやかしあり。行かふ男女は、開帳参の人のごとく、更に風俗定まらず、又繁昌は言斗なし」
『地名・古地名』「駿府」の項参照。
安倍川の渡し
歩行(かち)渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「やがて此駅を打立けるが、今もどりし道をますぐに、ほどなく弥勒といへるにいたる。爰は名におふあべ川もちの名物にて、両側の茶屋、いづれも奇麗に花やかなり ちやや女「めいぶつ餅をあがりヤアし。五文どりをあがりやアし/\ 弥二「おいらアゆふべ、弐朱がもちをくつて来たから、モウこゝではくふめへ 北八「そふさ/\ ト此内あべ川の川ごし道に出むかひて「だんな衆おのぼりかな 弥二「ヲイ。きさまなんだ 川ごし「かはごしでござります。やすくやらずに、おたのん申ます 北八「いくらだ 川ごし「きんにようの雨で水が高いから、ひとりまへ六十四文 北八「そいつは高い 川ごし「ハレ川をマアお見なさい ト打つれて川ばたに出 弥二「なるほど、ごうせいな水せいだ。コレおとすめへよ 川ごし「ナニおまい、サアそつちよヲつんむきなさろ ト二人をかたぐるまにのせて川へざぶ/\とはいる」
丸子宿(まるこしゅく)
東海道第二十次。本陣一、脇本陣二、旅籠二十四軒、戸数二百十余、人口七百九十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト川ごしはすぐに川かみのあさいほうをわたってかへる 北「アレ弥次さん見ねへ。おいらをばふかい所をわたして、六十四文ヅゝふんだくりやアがつた
川ごしの肩車にてわれ/\を ふかいところへひきまはしたり
夫より手越のさとにいたるに、又もや俄雨ふり出して、たちまち車軸をながしければ、半合羽とり出し打かづき、足をはやめてほどなく丸子の宿にいたる。こゝにて支度せんと茶やへはいり 北八「コウ飯をくをうか。爰はとろゝ汁のめいぶつだの」
岡部宿(おかべしゅく)
東海道第二十一次。本陣二、脇本陣二、旅籠二十七軒、戸数四百八十余、人口二千三百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト打つれていそぎゆくほどに、はやくも大寺かわらのさか道をうちこへて、おかべのしゆくにいたりければ
豆腐なるおかべの宿につきてげり あしに出来たる豆をつぶして
先この駅にやどをとりて、川のあくまでしばらくたびのつかれをぞやすめける(二編了)
東海道中膝栗毛三編
(前略)爰にかの弥次郎兵衛喜多八は、大井川の川支にて、岡部の宿に滞留せしが、今朝御状箱わたり、一番ごしもすみたるより、聞とひとしくそこ/\に支度して、はたごやを立出けるに、はや諸家の同勢往来の貴賤櫛のはをひくがごとく、問屋駕宙をかけり、小荷駄馬飛で走る、街道のにぎはひさましく、ふたりもともにうかれたどり行ほどに、朝比奈川をうちこへ、八幡鬼嶋をすぎ、白子町にいたる」
藤枝宿(ふじえだしゅく)
東海道第二十二次。本陣二、旅籠三十七軒、戸数千六十余、人口四千四百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより平嶋口田中を打過、藤枝の宿近くなりて
街道の松の木の間に見へたるは これむらさきの藤えだの宿
此しゆくの入口にて、ふろしき包ちよいとかたにかけたる、田舎のおやぢ、馬のはねたるにおどろき、にげるひようしにきた八へつきあたると、きた八水たまりの中へころげて、大きにあつくなり、おきあがりて、田舎ものw3おひつとらへて 北八「コノ親仁め、まなこが寒烏の黒焼でもくらやアがれ おやぢ「コリヤハイ、御めんなさい」
嶋田宿(しまだしゅく)
東海道第二十三次。本陣三、旅籠四十八軒、戸数千四百六十余、人口六千七百二十余人。町並九町四十間、大井川の川留・川明を道中奉行に知らせる飛脚蕃十人が交代で詰めていた。嶋田宿付近は幕府領で、初めは嶋田代官が置かれ、一時田中藩領となるが、寛政六年(1794)からは駿府代官所の支配に入り出張陣屋が置かれた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「爰を出て行ほどに、大井川の手前なる、嶌田の駅にいたりけるに、川越ども出むかひて、「だんなしゆ川アたのんます 弥二「きさま川ごしか。ふたりいくらで越す 川ごし「ハイ今朝がけに、あいた川だんで、かたくるまじやアあぶんない。蓮台でやらずに、おふたりで八百下さいませ 弥二「とほうもねへ。越後新潟じやアあんめへし、八百よこせもすさまじい」
大井川の渡し
川越人足による歩行(かち)渡し。嶋田側と金谷側にそれぞれ加宿の河原町があり、川庄屋の下、川越役人の詰める川会所が設けられ川越人足を管理した。この渡しは十七世紀半ばまでは川越人足に頼らない自分渡しが主流であったが、旅人の増加とともに川越を助ける人足が現れ、料金を取った。万治年間頃から川越人足を専業とする者が現れ、旅人に法外な川越賃を請求するなどの不法な行為が目立つようになったため、元禄九年(1696)に川庄屋が任命され、川越の統制と管理が行われるようになり川越制度が整った。こうして川越賃銭は川会所で定める公定料金(川札)となった。賃銭は最も簡単な肩車が川札一枚で、増水して補助人足が付くと二枚必要となる。最高級の輦台になると台札三十二枚と川越人足十六人、水切り手張人足四人分の、合計五十二枚の川札が必要になった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥次郎兵衛北八爰をのがれ、いそぎ川ばたにいたり見るに、往来の貴賤すき間もなく、此川のさきを争ひ越行中に、ふたりも直段とりきはめて、蓮台に打乗見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちをも捨なんとおもふほどの恐しさ、たとゆるにものなく、まことや東海第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮台をおりたつ嬉しさいはんかたなし」
金谷宿(かなやしゅく)
東海道第二十四次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十一軒、戸数千余、人口四千二百七十余人。宿場の町並は、大井川の渡し場となる加宿(河原町)に続いてあった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「斯うち興じて金谷の宿にいたる。両側の茶やおんな 「おやすみなさいまアし/\ かごかき「もどりかごのつていじやござい 北八「コウ弥次さんかごはどふだ 弥二「イヤ、気がない。手めへのるならのつていかつし 北八「そんなら日坂まで乗ふか」
日坂宿(にっさかしゅく)
東海道第二十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、戸数百六十余、人口七百五十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより此坂を下り、日坂の駅にいたる頃、雨は次第につよくなりて、今はひと足もゆかれず。あたりも見へわかぬほど、しきりに降くらしければ、或旅籠屋の軒にたゝずみ 弥二「いま/\しい。ごうてきにふるハ/\ 北八「はなやの柳じやアあるめへし。いつまで人のかどにたつてもゐられめへ。ナント弥次さん、大井川は越すし、もふこの宿にとまろうじやアねへか 弥二「ナニとんだことをいふ。まだ八ツ(午後二時)にやアなるめへ。今から泊てつまるものか」
掛川宿(かけがわしゅく)
東海道第二十六次。本陣二、旅籠三十軒、戸数九百六十余、人口三千四百四十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなくかけ川の宿にいたる。棒鼻の茶屋おんな「おめしよヲあがりまアし。鯵とこんやくと、干大根のおすいものもおざりまアす。鮹のせんば煮もおざりまアす。おやすみなさいまアし/\」
袋井宿(ふくろいしゅく)
東海道第二十七次。本陣三、旅籠五十軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「原川を打すぎ、はやくもなくりのたてばにつく。こゝは花ござをおりてあきなふ
道ばたにひらくさくらの枝ならで みなめい/\にをれる花ござ
程なく袋井の宿に入るに、両側の茶屋賑しく、往来の旅人おの/\酒のみ、食事などしてゐたりけるを弥次郎兵衛見て
こゝに来てゆきゝの腹やふくれけん されば布袋のふくろ井の茶屋
此しゆくはづれより、上方ものと見へて、桟留の布子に銀ごしらへの脇差をさし、花色羅紗のしやうぞくかけし合羽をきたる男、供ひとりつれて、あとになりさきになり」
見附宿(みつけしゅく)
東海道第二十八次。本陣二、脇本陣一、旅籠五十六軒、戸数千二十余、人口三千九百三十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「みかのはしをうちわたり、大くぼの坂をこへて、はやくも見付の宿にいたる 北八「アゝくたびれた。馬にでものろふか 馬かた「おまいち、おまアいらしやいませぬか。わしどもは役に出たおまだんで、はやくかへりたい。やすくいかずい。サアのらしやりまし 弥二「きた八のらねへか きた八「安くば乗べい ト馬のそうだんができて、北八こゝより馬にのる。この馬かたは、すけごうに出たるひやくせうゆへ、いんぎんなり 弥二「コレ馬士どん、爰に天龍への近道があるじやアねへか 馬士「アイそつから空へあがらしやると、壱里ばかしもちかくおざるハ 北八「馬はとをらぬか 馬士「インネ。かち道でおざるよ ト爰より弥二郎はひとりちか道のほうへまがる。北八馬にて本道をゆくに、はやくもかも川ばしを打わたり、西坂さかい松のたてばにつく」
注:みかのはし(三香野橋) 磐田郡田原村(現磐田市)の太田川に架した橋。
天竜川の渡し
渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はなしのうち、程なく天龍にいたる。此川は信州すわの湖水より出、東の瀬を大天龍、西を小天龍といふ。舟わたしの大河なり。弥次郎此所に待うけて、倶にこの渉しをうちこゆるとて
水上は雲より出て鱗ほど なみのさかまく天龍の川
舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし」
浜松宿(はままつしゅく)
東海道第二十九次。本陣六、旅籠九十四軒、戸数千六百二十余、人口五千九百六十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それよりかやんば(萱場)、薬師新田をうちすぎ、鳥居松近くなりたる頃、浜松のやど引出向ひて やど引「モシあなたがたアおとまりなら、おやどをお願ひ申ます 北八「女のいゝのがあるならとまりやせう やど引「ずいぶんおざります 弥二「とまるから飯もくはせるか やど引「あげませいで 北八「コレ菜は何をくはせる やど引「ハイ当所の名物薯蕷でもあげませう 北八「それが平か。そればかりじやアあるめへ やど引「ハイそれにしゐたけ、くわゐのよふなものをあしらひまして 北八「しるがとうふに、こんにやくのしらあへか 弥二「マアかるくしておくがいゝ。そのかわり百ケ日には、ちとはりこまつせへ やど引「コレハいなことをおつしやる、ハゝゝゝゝ。時にもふまいりました 弥二「ヲヤもふはま松か。思ひの外はやく来たわへ
さつ/\とあゆむにつれて旅衣 ふきつけられしはままつの風
やど引さきへかけぬけて 「サア/\おつきだアよ やどのていしゆ「おはやくおざりました。ソレおさん、おちやと湯だアよ 弥二「イヤそんなに足はよごれもせぬ ていしゆ「そんならすぐにおふろにおめしなさいまし」
舞坂宿(まいさかしゅく)
東海道第三十次。本陣二、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数五百四十余、人口二千四百七十余人。三方を遠州灘と浜名湖に囲まれた地で、たびたび風水害の被害にあったため、明暦三年(1657)、幕府は新居関所奉行と遠州代官に命じて石垣で宿囲いするが、その後も風水害の被害は絶えず、天和二年(1682)と元禄十六年(1703)に「宿囲み」の延長工事を行い、舞阪宿はほぼ全周が高さ九尺の石垣に囲まれた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなく蓮沼、つぼ井むらを打過、舞坂の駅にいたる」
今切の渡し
浜名湖はもともと淡水湖で、湖から浜名川が遠州灘にそそいでいて、鎌倉時代には浜名川に浜名橋が架かり、橋のたもとには橋本宿があって賑わっていた。しかし、明応八年(1499)の地震と津波で川は埋まり、土地が陥没して湖と海がつながってしまう。これが今切で、この結果、橋本宿は廃れ舞浜の対岸の新居に新たに宿が作られ、舞阪・新居間を船で結んだ。この渡船の渡しを「今切の渡し」という。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「是よりあら井まで壱里の海上、乗合ぶねにうちのりわたる。げにも旅中の気さんじは、船中おもひ/\の雑談、高声にかたり合、笑ひのゝしり打興じゆくほどに、頓てなかばわたりて、乗合の人/\〃もはなしくたびれ、めい/\柳ごりに肘をもたげて、いねぶりをするもあり、又この風景に見とれて、只黙然としてゐるも有」
『地名・古地名』「今切」の項参照。
新居宿(あらいしゅく)
東海道第三十一次。本陣三、旅籠二十六軒、戸数七百九十余、人口三千四百七十余人。新居関所を併設。この地を領していた今川氏は、この新居宿の渡船場を利用して関所を構えた。徳川幕府が宿駅を整備した時も、幕府はこの新居宿の関所を残し、特に西国からの鉄砲の入りを取り締まることとなった。新居宿に関所を設けたことから「今切渡船」は新居宿が単独で運営し、新居宿はこの渡船料で潤ったが、一方の舞阪宿は浜松宿までの片継となり財政的に苦しかったという。また、この新居宿も舞阪宿と立地条件はあまり変わらず、たびたび風水害に悩まされ、元禄十二年(1699)の暴風雨では関所が大破し、百二十戸が流失、百九十二戸が損壊する被害を受け、関所と宿の一部を移転した。この結果、舞阪・新居間二十七町だった渡船が一里に延長している。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなくふねはあら井のはまにつきければ、のり合みな/\ふねをあがり、お関所を打過ける。弥二郎北八もふねをあがり
舞坂をのり出したる今切と まだゝくひまもあら井にぞつく
さるにても、腰のものゝながれたるは、前代未聞のはなしのたねと、みづから打笑ひつゝ北八
竹篦をすてゝしまひし男ぶり ごくつぶしとはもふいはれまい
それよりふたりは、此あら井のしゆくに酒くみかはしてあしをやすめぬ。(三編了)
道中膝栗毛四編
(前略)東海道に名だゝる今切の渉になん。そのかみ明応の比山の奥より、螺貝あまたぬけ出、それより海上あしくなりたりしを、元禄年中、公の命によりて、海上に数万の杭をうち、蛇籠をふせ、往来渡船の難渋をすくひ給はりし、御恵の有がたさに、風和らぎ浪低なりてわたるに難なく、かの弥次郎兵衛きた八、爰を打わたりて、あら井の駅に支度とゝのへ、名物のかばやきに腹をふくらし、休みゐたるに、げにも往来の貴賤絶間なく、舟場へ急ぐ旅人は、足もそらに出ふねをよばふ声につれてはしり、問屋へかゝる宰領はくちやかましく、果役をふるゝ馬ざしについてのゝしる」
白須賀宿(しらすがしゅく)
東海道第三十二次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数六百十余、人口二千七百余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「このうちはやくもしらすかの駅にいたる。はいりくちのちや屋女、おもてに出 よびたつるを見て、弥次郎兵へ
出女の顔のくろきも名にめでゝ七なんかくす白すかの宿
此宿をうちすぎ、程なく汐見坂にさしかゝるに、是なん北は山つゞきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」
二川宿(ふたかわしゅく)
東海道第三十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒、戸数三百二十余、人口千四百六十余人。町並十二町程の小規模な宿場。西隣に城下町でもある大きな宿場が有り、この宿に泊まる旅人が少なく、宿場の経営が苦しく本陣も経営的に苦しかった事から、火災による焼失などで本陣建物の再建ができず、世襲職の本陣職が後藤家、紅林家、馬場家と変わった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「かく打わらいてゆくほどに、境川といふにいたる。爰は遠江三河のさかいにて橋あり。弥次郎地口にてよめる
遠州へつぎ合せたる橋なれば にかはの国といふべかりける
程なくふた川の駅に着く。此ところ家毎に、強めしをあきなふ見ゆれば
名物はいはねどしるきこはめしや これ重筥のふた川の宿
両側の茶屋ごとに、旅人を見かけて呼たつる 女「お休なさりまアし。あつたかなお吸物もおざりまアす。無塩の肴で、酒でもお飯でもあがりまアし」
吉田宿(よしだしゅく)
東海道第三十四次。本陣二、脇本陣一、旅籠六十五軒、戸数千二百九十余、人口五千二百七十余人。城下町との併宿。下りは赤坂宿まで継ぎ立て。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ふせう/\〃に荷をひつかたげゆくまゝに、やがて吉田のしゆくにいたる
旅人をまねく薄のほくちかと 爰もよし田の宿のよねたち
此しゆくはづれより、遠国同者とは見ゆれ共、少しきいたふうしやべる手合五六人、高声にはなして行」
御油宿(ごゆしゅく)
東海道第三十五次。本陣二、旅籠六十二軒、戸数三百十余、千二百九十余人。下りは吉田宿が継ぎ通し、上りだけを継ぎ立てた。この御油宿と隣の赤坂宿の間は、十六町と短く、伝馬も一般の五十疋ではなく二十五疋づつ赤坂宿と分担する片継ぎの宿駅。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥次郎あとよりたどりゆくに、ほどなく御油のしゆくにいりたるころははや夜にいりて、両がはより出くるとめ女、いづれもめんをかぶりたるごとく、ぬりたてたるが、そでをひいてうるさければ、弥次郎兵へやう/\とふりきり行すぐるとて
その顔でとめだてなさば宿の名の 御油るされいと逃て行ばや
弥次郎兵衛あまりに草臥ければ、先此所はづれの茶店に腰をかけたるに、あるじの婆々 「アイ茶アまいりませ 弥次「モシ赤坂まではもふ少しだの ばゞ「アイたんだ十六丁おざるが、おまへひとりなら、此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは、わるい狐が出おつて、旅人衆がよく化され申すハ」
『地名・古地名』「御油」の項参照。
赤坂宿(あかさかしゅく)
東海道第三十六次。本陣三、脇本陣一、旅籠六十二軒、戸数三百四十余、人口千三百余人。下りだけを継ぎ立て、上りは藤川宿が継ぎ通した。御油宿と合わせて一宿の小さな宿駅だが、旅人の引き止めで飯盛女を多数抱えていたことで名高い宿となった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「二三尺手ぬぐひをとき、きた八が手をうしろへまはしてしばる。きた八おかしく、わざとしばられていると 弥次「サア/\さきへたつてあるけ/\ ト北八をくゝり、うしろからとらへて、おつたて/\あか坂のしゆくにいたる。はやいづれのはたごやにもきやくをとめて、かどにたちいる女も見へず。弥二郎は、やどからむかひの人が、もはや出そふなものと、うろつく内 北八「コウ弥次さん、いゝかげんに解てくんな。外聞のわりい。人がきよろ/\見てわりいはな 弥次「ヱゝくそをくらへ。ハテ宿はどこだしらん 北八「ナニおれはこゝにゐるものを、だれがさきへ、やどをとつておくものだ」
『地名・古地名』「赤坂」の項参照。
藤川宿(ふじかわしゅく)
東海道第三十七次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数三百余、人口千二百十余人。上りを御油宿まで継ぎ立て。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿鉢みせさきにならべたてゝ、旅人のあしをとゞむ。弥次郎兵衛
ゆで蛸のむらさきいろは軒毎に ぶらりとさがる藤川の宿
それより此宿をうちすぎ、出はなれのあやしげなる茶みせに休みて 北八「なんだか、ごうてきにむしがかぶる。ばあさん素湯はあるめへか ちゃ屋のばゞ「ハアさゆはござらぬ。水をしんぜませうか」
岡崎宿(おかざきしゅく)
東海道第三十八次。本陣三、脇本陣三、旅籠百十二軒、戸数千五百六十余、人口六千四百九十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「打わらひつゝ行ほどに、あづき坂を過、岡の江ゆふせん寺を打こへて、大平川にいたる
岸に生ふ芹のあをみに小鴨まで 水にひたれる大平の川
それより大平村を過行ほどに、岡崎の駅にいたる。こゝは東海に名だゝる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いづれも奇麗に見へたり(中略)
女郎おくり出て、さま/\〃のしやれもあれどもりやくす。弥次郎北八、しじうこのていを見て、女郎かいのからしり馬でかへるもおかしいと、打わらひながら
三味せんの駒にうち乗帰るなり 岡崎ぢろしゆ買に来ぬれば
かくてふたりも此所を立出、宿はずれの松葉川を打こへ、矢矧のはしにいたる」
池鯉鮒宿(ちりうしゅく)
東海道第三十九次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百九十余、人口千六百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「西田海道より半里ばかり北の方に、名にしおふ、八ツ橋の旧跡を思ひて
八ツはしの古跡をよむもわれ/\が およばぬ恥をかきつばたなれ
ほどなく池鯉鮒の駅にいたる」
『地名・古地名』「池鯉鮒」の項参照。
鳴海宿(なるみしゅく)
東海道第四十次。本陣一、脇本陣二、旅籠六十八軒、戸数八百四十余、人口三千六百四十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「これよりすこしみちをはやめ行ほどにはやくもなるみのしゆくにつきければ
旅人のいそげば汗に鳴海がた こゝもしぼりの名物なれば
かくよみ興じて田ばた橋をうちわたり、かさでら観音堂にいたる」
熱田(宮)宿(あつた(みや)しゅく)
東海道第四十一次。本陣二、脇本陣一、旅籠二百四十八軒、戸数二千九百二十余、人口一万三百四十余人。東海道はここから海を渡って桑名に向かう。そのため船待ちで留まる人が多く、また熱田神宮の門前町でもある事から、東海道随一の旅籠の数を誇る宿場となった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それよりとべ村、山ざき橋、仙人塚をうちすぎ、やうやく宮の宿にいたりし頃は、はや日くれ前にて、棒鼻より家毎に、客をとゞむる出女の声姦し。「あなたがたアおとまりじやおませんか。お湯もちんとわいておます。おあいきやくはおません。おとまりなされませ/\」
七里の渡し
宮から桑名の湊まで船で伊勢湾を横断する文字通りの海道。現在は埋め立てられて一帯は陸続きとなっているが、当時はまだ海が深く入っていて、この七里の航海を嫌う旅人は、陸路を佐屋まで行き、そこから木曽川を舟で下って桑名に入った。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「出ふねをよぶこへ「ふねが出るヤアイ/\ 此ときやどやの女おこしにきたり「モシいんま壱番ふねでおます。御ぜんをあげましよ 弥次「ヲイ/\北八サアおきや トふたりはおき出て、手水つかふ内ぜんも出くひしまひ、かれこれするうち、やどのていしゆ「おしたくはよふおざりますか。舟場へ御案内いたしましよ 北八「それは御苦労、サア弥次さん出かけやせう トそこ/\にしたくして、おもての方へ出かける。やどの女ぼう、おんな「御きげんよふ。又おくだりに 弥次「アイおせはになりやした トいとまごひしてふなばへ行、ていしゆこゝまでおくり来り「せんどうしゆ、おふたりさまじや、たのみますぞ 弥次「ときにわすれた。御ていしゆさん。夕べおやくそくのかの小便の竹のつゝは ていしゆ「ホンニちんときらしておきましたに、ドリヤ取てまいりしよかい トていしゆかの竹のつゝをとりにかへる。此わたし船、七里のかいじやう、一人まへ四十五文ヅゝ、其外駄荷のりものみなそれ/\〃にちんせんをはらひ、ふねにのる。此ときていしゆ竹のつゝをとつて来たり「サア/\お客さまそこへなげますぞ 北八「なんだ火吹竹か 弥次「これをあてがつてナ、とやらかすのだ。よし/\。イヤ御ていしゆさん、大きにおせは。サア是で大丈夫だ。ハゝゝゝゝ
おのづから祈らずとても神ゐます 宮のわたしは浪風もなし
かく祝しければ、乗合みな/\いさみたち、やがて船を乗出して、順風に帆をあげ、海上をはしること矢のごとく、されど浪たひらかなれば、船中思ひ/\の雑談に、あごのかけがねもはづるゝばかり、高声に笑ひのゝしり行ほどに、あきなひ舟、いくそうとなく漕ちがひて「酒のまつせんかいな。めいぶつかばやきたて、だんごよいかな。ならづけでめしくはつせんかいな/\」
桑名宿(くわなしゅく)
東海道第四十二次。本陣二、脇本陣四、旅籠百二十軒、戸数二千五百四十余、人口八千八百四十余人。宿場の町並は二十六町で城下町との併宿。桑名藩の城下町として発展し、伊勢神宮の一の鳥居があるようにここから伊勢路が南に延び、港を抱えた交通の要地であるため、宮に次ぎ旅籠の数が多い。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此内はやくも舟はくわなのきしにいたる のり合「きたぞ/\。小便にこそぬれたれ、舟はつゝがなく桑名へきた。めでたい/\ トみな/\これよりあがりて、此しゆくによろこびの酒くみかはしぬ。(四編下了)
東海道中膝栗毛五編上
宮重大根のふとしくたてし宮柱は、ふろふきの熱田の神の慈眼す、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく、桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰を立出たどり行」
四日市宿(よっかいちしゅく)
東海道第四十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠九十八軒、戸数千八百十余、人口七千百十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより此所を立出、はつ村八幡を打過、七ツ家あくら川にいたりし頃、四日市の宿引出向ひて「これはおはやうございます。わたくしおやどをおたのみ申上ます 弥次「わつちらア帯屋へ行やす 宿引「イヤ今夕は、お大名さま、おふたかしらおとまりで、帯屋は両家とも、おさし合でござりますから、わたくしかたにおとまり下さりませ トいふはうそなり。御小身さまのおとまりで、下宿はわづかなれども、それをいゝたてに、やど引わがかたへとめんとするけいりやくなり。ふたりともぼんくらなればまことゝおもひて 弥次「そんなら、きさまの所はいくらでとめる やど引「ハイそれはいかやうとも 弥次「ゆうべは宮の斧屋にとまつたが、とんだ叮嚀にした。百五十で燭台をつけてめしをくはせるか。そして酒も菓子も出したから、コリヤアだまつてもゐられめへと、別に茶代を弐百やるつもりの所、やつぱりやらなんだから、大きに安かった。きさまの所もそのつもりで馳走するがいゝ やど引「かしこまりました トだん/\はなしながら打つれて、ゆくともなしに四日市のぼうばなにいたれば、やど引かけだして 「サア是でござります。コレおとまりさなじや やどの女房「おはやうおつきなさいました トあいさつのうち、ふたりはわらじをときながら見まはせば、いたつてむさくろしき宿にて、入くちに、すゝけかへつてよこにいがみたるぜんだなと、こはれかゝりしへつついのあるうちなり(中略)はや一ばん鶏の告わたる声/\〃、馬のいなゝきおもてにきこへ、弥次郎兵へきた八、いそぎおき出て支度とゝのへ、やがて此しゆくをたちいづるとて
やう/\と東海道もこれからは はなのみやこへ四日市なり
それより濱田村を打すぎ、赤堀にさしかゝりたる(中略)打興じ行ほどに、はやくも追分にいたる」
江戸を立った弥次郎兵衛、喜多八の珍道中は、この追分から伊勢路(参宮道)に入り東海道と別れる。この先、二人は伊勢参りをすませると京・大坂に遊ぶが、その道筋は初瀬を抜けて大和路を通り、宇治から伏見そして伏見街道を通って京に入った。その後、難波でさらに遊んで膝栗毛を終えている。
石薬師宿(いしやくししゅく)
東海道第四十四次。本陣三、旅籠十五軒、戸数二百四十余、人口九百九十余人。
庄野宿(しょうのしゅく)
東海道第四十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠十五軒、戸数二百十余、人口八百五十余人。
亀山宿(かめやましゅく)
東海道第四十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数五百六十余、人口千五百四十余人。城下町との併宿。
関宿(せきしゅく)
東海道第四十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十二軒、戸数六百三十余、人口千九百四十余人。
坂下宿(さかのしたしゅく)
東海道第四十八次。本陣三、脇本陣一、旅籠四十八軒、戸数百五十余、人口五百六十余人。
鈴鹿峠
箱根峠、大井川とともに東海道の三大難所の一つに数えられた。
『地名・古地名』「鈴鹿峠」の項参照。
土山宿(つちやましゅく)
東海道第四十九次。本陣二、旅籠四十四軒、戸数三百五十余、人口二千六百九十余人。
水口宿(みずくちしゅく)
東海道第五十次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数六百九十余、人口二千六百九十余人。城下町との併宿。
石部宿(いしべしゅく)
東海道第五十一次。本陣二、旅籠三十二軒、戸数四百五十余、人口千六百余人。
草津宿(くさつしゅく)
東海道第五十二次。本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百八十余、人口二千三百五十余人。
大津宿(おおつしゅく)
東海道第五十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒、戸数三千六百五十余、人口一万四千八百九十余人。北国街道が分岐し、琵琶湖の水運の要港として物資が集積した交通の要衝で、大津の町には加賀藩や彦根藩・旗本の蔵屋敷が立ち並んだ。宿場は北国街道の分岐点から関清水町にかけての通称「八町筋」に本陣や旅籠が集中していた。また、京への物資の輸送拠点でもあり、荷車の牛車が通うため、大津・京間の街道には車輪の幅に合わせて車石と呼ばれる平たい石が敷き詰められていた。
伏見宿(ふしみしゅく)
東海道第五十四次。本陣四、脇本陣二、旅籠三十九軒、戸数六千二百四十余、人口二万四千二百二十余人。秀吉の伏見城築城により伏見は城下町として発展するとともに、京都に通じる伏見街道、大坂への大坂道、大津への大津街道が交差する交通の要地となった。家康が政権を握ると、伏見城は破却されたが幕府は伝馬所を設置し大坂方面への継ぎ立てのため伝馬百疋を常備させた。こうして東国からの物資は京を通らず、大津街道から淀を経て大坂方面に至る宿駅になる。また、西国大名が参勤交代で江戸に向かう街道ともなり、大津街道〜大坂道も東海道と称されるようになった。
『地名・古地名』「伏見」の項参照。
淀宿(よどしゅく)
東海道第五十五次。旅籠十六軒、戸数八百三十余、人口二千八百四十余人。木津川、宇治川、桂川が合流する淀は、古くから水上交通の要衝であり軍事的な要地とされた。秀吉がこの地に淀城を築き、側妾茶々にその城を与え、茶々が淀殿と呼ばれることになったことはよく知られている。家康もこの淀の地を京都守護の目的から重視し、新たに淀城を築き淀藩を置いた。寛永十年(1633)に藩主となった永井尚政により河川の大規模な整備が行われ陸の交通が確保されると、宿駅としての整備も行われ、淀六町のうち池上・納所・下津・新町の四町が地子免除となり伝馬業務を行い、大坂、伏見、京都を結ぶ交通の要衝として発展した。
『地名・古地名』「淀」の項参照
枚方宿(ひらかたしゅく)
東海道第五十六次。本陣一、旅籠六十九軒、戸数三百七十余、人口千五百四十余人。
守口宿(もりぐちしゅく)
東海道第五十七次。本陣一、旅籠二十七軒、戸数百七十余、人口七百六十余人。
中山道
中山道
京まで六十九次
江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つで、東海道とともに江戸と京を結び、多くの旅人が往来した本街道。この街道を参勤交代に使用していた大名は、江戸末期では加賀前田家、越後高田榊原家など三十家で、東海道の百四十六家に比べると少ないが、大井川や天竜川のような大きな川がなく、川止めが少なかったことから、比宮(なみのみや:徳川家重夫人)、五十宮(いそのみや:徳川家治夫人)、楽宮(さきのみや:徳川家慶夫人)、和宮(徳川家茂夫人)などの姫君の輿入れ行列に使用された。
板橋宿(いたばししゅく) 江戸日本橋より二里半(10㎞)
中山道第一番目の宿駅。宿町の長さは滝野川境から前野村境までの二十町九間で、平尾宿・中宿・上宿の三宿からなる。本陣は一軒で中宿にあり、脇本陣が三軒あって平尾宿・中宿・上宿にそれぞれ置かれていた。『中山道宿村大概帳』によれば旅籠屋五十四軒とされる。戸数五百七十余、人口二千四百余人。
日本橋寄りの平尾宿には飯盛女(宿場女郎)を抱えた旅籠が軒を列ね、中宿には馬継ぎ場や自身番・問屋場・量目改所が有り、上宿には木賃宿(下級旅籠)が建ち並ぶ。
戸田の渡し(とだのわたし)
次の蕨宿の手前には荒川が有り戸田の渡しが有った。戸田の渡船場の渡船の権利は北岸の下戸田村が持ち、その権利を巡って蕨宿との間で争いも起きている。天保十三年(1842)の「中山道戸田渡船場微細書上帳」によれば戸数四十六軒、人口二百二十余人(内船頭八人、小揚人足三十一人)、渡船数十三艘(馬船三艘、平田船一艘、伝馬船一艘、小伝馬船八艘)となっていた。大名などの大通行になる時は、近隣の下笹目村、浮間村から馬船を定助船として徴発した。
蕨宿(わらびしゅく) 板橋宿より二里十町(約9㎞)
中山道第二宿。宿町には本陣一、脇本陣一が置かれ旅籠屋二十三軒が有ったが、荒川の出水などで川止めになる場合に備え、東の隣村塚越村にも本陣が置かれた。蕨宿の本陣を一の本陣あるいは西の本陣、塚越村の本陣を二の本陣あるいは東の本陣と呼んだ。戸数四十余、人口二百二十余人。また、旅籠には平旅籠と飯盛旅籠が有り、平旅籠は普通の旅客が利用する一般的な旅籠だったが、飯盛旅籠には飯盛女がいて強引な客引きで旅人を困らせた。そのため、江戸末期には一般旅人が安心して泊れるように平旅籠の講(旅館組合)が組織されたという。
この蕨の地は、室町期の貞治年間(1362〜67)、足利氏の一門である渋川義行が武蔵国司として蕨城を築き居城、以降渋川氏一族が領していた。長禄元年(1457)九州探題渋川満頼の孫渋川義鏡が幕府の命により関東探題として武蔵下向を命ぜられ蕨城に依る。戦国期に入り小田原北条氏の武蔵進出で、蕨城をめぐる攻防が繰り返され、義鏡の子義尭の時に破られ北条氏の支配に下った。その後渋川義基の時代、大永六年(1526)には扇谷朝興軍に攻められ落城。義基は北条方に逃れ、永禄十年(1567)北条氏康の援助で城を奪回するが同年の国府台の戦に参戦し討死、一族は散り散りになった。家康が関東に入封すると幕府領となり、廃城となった城址には家康の鷹狩時に休所として使われる御殿が建てられた。
浦和宿(うらわしゅく) 蕨宿より一里十四町(約5.5㎞)
中山道第三宿。町並みは十町四十二間で下町・中町・上町からなっていた。本陣は中町に一軒、脇本陣が上町に二軒、中町に一軒あって、旅籠屋の数は十五軒だったとされる。旅籠が十五軒という数字でも分かる通り、この浦和宿は江戸から近い事もあり宿場町としてはあまり発展しなかったが、二七市場で賑わっていた。毎月二・七の日が市日で、上町が二日・十七日、中町が七日・二十二日、下町が十二日・二十七日となっていて、三ケ所で月二回づつ開かれていた。これは本陣を勤める星野家の祖権太兵衛が、天正十八年(1591)、秀吉の岩槻攻めにあたって道案内を勤め、豊臣方を有利に導いた功績から、周辺での市場開設を許され、関東一般市場取締役に任ぜられたことに由来する。この時、権太兵衛は苗字帯刀も許され星野姓を名乗ったとされる。家康の関東入封後は名主役となり本陣職を命ぜられた。
大宮宿(おおみやしゅく) 浦和宿より一里九町(約5㎞)
中山道第四宿。町並みは九町半、旅籠屋二十五軒、問屋四軒で、宮町に本陣一が置かれ、脇本陣が九軒と、中山道の宿場では脇本陣の数が一番多い。この外、北沢家に紀州鷹場本陣が置かれ、松本家とともに鷹場鳥見役を勤めていたという。戸数三百十余、人口千五百余人。
この大宮宿は武蔵国一宮の氷川神社の門前町として栄えた町だったが、街道が神社の参道を兼ねて迂回して中を通っていたため、神社の中を通るのは好ましくないと、寛永五年(1628)、関東郡代伊奈忠次の指揮で一の鳥居から北へまっすぐに直進させ、門前にあった町家を街道の両側に移住させ宿場町とした。このことから宿の名が大宮宿となったという。
ここから西に川越道が分れた。
上尾宿(あげおしゅく) 大宮宿より二里(約8㎞)
中山道第五宿。町並み十町十間、本陣一、脇本陣三、旅籠屋数四十一軒で、茶屋が数軒有り、飯盛女が「宿村大概帳」によれば四十九人いたという。戸数百八十余、人口七百九十余人。現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などが集中している。
桶川宿(おけがわしゅく) 上尾宿より三十四町(約3.7㎞)
中山道第六宿。町並み九町半、本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒。本陣の遺構として建物の一部が現存している。戸数三百四十余、人口千四百四十余人。
宿場の外れに、弘治三年(1557)開基と伝える曹洞宗大雲寺という寺があり、その境内には「女郎買い地蔵」と呼ばれる地蔵がある。この桶川宿も飯盛女が多く、このお地蔵さんが宿の飯盛女を買いに錫杖をついてお出かけになった。困った和尚は地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ、鎖で縛ってしまったのだと伝えられている。これは、寺の若い坊主が頭を隠して一人の飯盛女に通い、怪しんだ人が後をつけると、その坊主は大雲寺に入っていった。この事を住持に告げると、住持は「きっと見つけ出し仕置しよう」と約し、次の日に鎖で縛られた地蔵が立っていた。住持は若い僧に、その罪を地蔵が被るので今後戒律を守り修行に勤めるよう諭して、一件を落着させたのだろう。
鴻巣宿(こうのすしゅく) 桶川宿より一里三十町(7㎞)
中山道第七宿。町並み十七町、本陣一、脇本陣一、旅籠五十八軒。小田原北条氏の家臣小池長門守が開発した市宿新田に、慶長七年(1602)、本宿村(北本市)の宿駅を移して鴻巣宿と改称した。戸数五百六十余、人口二千二百七十余人。
宿の手前に、関東十八壇林の一つ浄土宗勝願寺がある。この寺は、鎌倉時代に箕田郷松ヶ岡に創建され、天正元年(1573)、惣誉清巌が現在地に移し再建したもので、境内には関東郡代伊奈忠次・忠治父子の墓が有る。また、宿外れの追分から北へ延びる館林道(行田道)は、将軍家が日光社参時に使用する日光街道、日光御成街道の混雑を避けて通行する大名が使用する脇街道の役目をはたしていた。
久下の長土手(くげのながどて)
鴻巣から熊谷の間の荒川に沿った堤防上の道で、景勝の地として知られた。時代劇などで馴染んだ土手上の街道を行くのどかな旅人の情景が浮かぶが、反面、物騒な場所でもあったという。この土手の下に権八地蔵と呼ばれる地蔵がある。この権八というには、歌舞伎で知られる盗賊白井権八で、路銀に困った権八はこの地蔵の前で上州の絹商人を殺害し三百両奪った。権八は地蔵に「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、石地蔵は「吾れは言はぬが汝言うな」と口をきいた。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。
熊谷宿(くまがやしゅく) 鴻巣宿より四里六町四十間(約23㎞)
中山道第八宿。町並み十町十一間、本陣二、脇本陣一、旅籠十九軒。また熊谷宿は忍藩領で、忍藩の陣屋もあった。戸数千七百十余、人口三千二百六十余人。二、七に市が立ち白木綿・太織物などが売買されていた。またこの熊谷宿には、忍藩の方針で飯盛女は置かれなかった。途中安永年間(1772〜81)に二年間ほど置いたが、近隣の若者達が帰村しないのですぐに廃止となっている。
宿場にある高城神社は延喜式にも記されている古社で、鎌倉時代には熊谷氏の氏神として尊崇されたが天正十三年(1591)、豊臣勢の兵火で焼失、のち忍藩主によって社殿が再建された。隣にある浄土宗蓮生山熊谷寺は源平一の谷の戦で名をはせた熊谷直実の開山。直実は建久三年(1192)、久下直光との所領争いで敗れ、剃髪し上洛して蓮生坊と名を改め念仏の行に励んだといわれる。寺域は広く、本堂・庫裡・鐘楼・宝蔵などが有り、熊谷直実ゆかりの品々が保管されている。
宿を出てしばらく行くと秩父道が分れ、室町期に始まった秩父札所めぐりの巡礼たちが往来した。
深谷宿(ふかやしゅく) 熊谷宿より○里(○㎞)
中山道第九宿。町並み東西十町、南北三町、本陣一、脇本陣四、旅籠八十軒で、中山道の宿駅中もっとも旅籠が多く、飯盛女も大勢いて遊廓もあり、人口でも男性より女性の方が二割近く多い宿駅だった。戸数五百二十余、人口千九百二十余人。こうした女郎目当ての客も多く、そのために旅籠の数が多くなったのだろう。宿の外れには「みかえり松」と呼ばれる松も有り、女との別れを惜しむように男達がそこで振り返ったのだという。
この深谷には、室町末期から江戸初期までは深谷上杉氏の築いた深谷城が有ったが、寛永四年(1627)に廃城となっている。
『地名便覧』「深谷」の項参照。
本庄宿(ほんじょうしゅく) 深谷宿より三里二町(約12.2㎞)
中山道第十宿。町並み十七町三十五間、本陣二、脇本陣二、旅籠七十軒。人馬継問屋六ヶ所という中山道最大の宿場町。戸数千二百十余、人口四千五百五十余人。宿は深谷宿と並んで歓楽街として賑わい、飯盛女の数も百人をはるかに越えていた。また田村作兵衛が勤めていた田村本陣(北本陣)と内田七左衛門が勤めていた内田本陣(南本陣)二つの本陣間の競争も激しく、一年先の参勤交代や帰国に合わせて諸大名の国元や江戸屋敷に書状を送ったり出向いて予約を取ったといわれる。
ここ本庄にも城(本庄城)が有ったが、慶長十七年(1612)、城主小笠原左衛門佐信之が下総古河へ転封となり廃城となった。
宿場の手前に、三国街道の追分が有る。
勅使河原の渡し(てしがわらのわたし)
武蔵国と上野国の境を流れる神流川の渡しで、川には中洲が有って本庄側から中洲までは橋が架かり、上野国側へ渡る時に渡船を利用していた。また常水の時は上橋、出水になると舟越、川幅が二十間を越すと川留めになったという記述もある。
新町宿(しんまちしゅく) 本庄宿より○里(○㎞)
中山道第十一宿。他の宿場よりおよそ五十年遅れて出来た宿駅で、慶安四年(1651)に落合村と笛木村が合体して作られた。本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数約四百、人口千四百三十余人。
烏川(柳瀬川)渡船(からすがわとせん)
渡船の経営は、新町宿、小林伊左衛門、倉賀野宿の三者で行っていた。そのため両岸の中島村、岩鼻村は渡船の権利を奪われ悔しい思いをしていたという。
渡った岩鼻河原には刑場があり、近くの観音寺境内に刑場に散った者たちの供養塔がある。また、寛永五年(1793)に岩鼻代官所が設けられ代官の陣屋があった。
倉賀野宿(くらがのしゅく) 新町宿より一里十八町(約5㎞)
中山道第十二宿。町並み九町十六間、本陣一、脇本陣二、問屋三、戸数二百九十余、人口二千三十余人。上町・中町・下町に分れ、各町に問屋場が有り交替で取り行っていた。
この倉賀野宿は日光例幣使街道の起点で、宿場の手前がその追分となっている。朝廷から遣わされる例幣使が京を立ち中山道を下って、ここ倉賀野から日光へ向った。この例幣使の行列は大掛かりなもので、行列が通り過ぎるのに三日から四日かかったという。さらに例幣使を勤める公卿は当時財政的に非常に困窮していた事から、道中の宿々で寄進を募るため長逗留していたことから、宿場にとっては大迷惑な行列だった。
近くに有る倉賀野城址は、十五世紀はじめ倉賀野孫太郎行泰が烏川淵に築いた城で、旗本十六騎で戦国を生き抜いた武将だったが、小田原北条氏と共に滅び城も廃城となった。
慶長六年(1601)、前田慶次郎は直江兼続に誘われ、減封になった上杉景勝の下に仕えるべく、雪深い米沢の地に赴いた時の道中の記録を『前田慶次道中日記』として残した。慶次郎はこの旅程で、中山道を関ヶ原からここ倉賀野宿まで下っている。この宿場一覧とは逆の道筋となる道中記であるため宿場の記述が前後するが、一日の行程を記した記事をその日泊まった宿場毎に紹介しよう。
「六 さかもと(坂本)より安中に三十里安中よりくらがの(倉賀野)に廿五里以上五十五里 そのあたりの家に休らへば、けわひ(化粧)そこなひたる女の、ほうべに(頬紅)ぬりたるあり、行衛をとヘば、涙にむせび都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく生れたるほど、物うきはなしといふ、その女のかほ(顔)は、よこ(横)に三寸も長くて、出はごに歯がすに付、ところどころは(歯)の正躰の見ゆるあたりは、くちば(朽葉)いろ(色)にて、はぐきになのは(葉)つき、いひ(飯)つぶはさまり、物をいへば、もよぎいろ(色)なるいき(息)をふく 書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるは、人の心のさまざまなるをしらんためなり、安中、板はな(鼻)の町、高さき(崎)をとほり、くらが野(倉賀野)にとまる」
と有り、中山道の第十七番目の宿場坂本宿を発って安中宿、板鼻宿、高崎宿を通り、ここ倉賀野宿に着いた。翌日の慶次郎の日記には、
「七 くらが野(倉賀野)より柴のわたり(渡り)に十五里柴渡よりきざき(木崎)に十五里き崎(木崎)より引田に十五里 以上四十五里 柴のわたり、高崎新田町にとゞまる」
と有るように、ここで中山道と別れ、後に日光例幣使街道と呼ばれるようになる道を通り、子供二人を連れた慶次郎一行は米沢に向った。
(原文はカタカナ・ひらがな交じり文だが、読みやすくするためカタカナをひらがなに直すとともに、()内に漢字を付し、意味をつかみやすくした。以下同)佐野の並木(さののなみき)
粕沢橋を過ぎると「粕沢の滝」と呼ばれる滝があり、立場茶屋も出ていた景勝地。ここから上佐野にかけて松の並木が続き、「佐野の並木」と呼ばれていた。
高崎宿(たかさきしゅく) 倉賀野宿より一里十九町(約5㎞)
中山道第十三宿。ここは井伊直政が築いた高崎城の城下町で、代々幕閣が城主を勤めていたことから諸大名は遠慮してこの宿では宿を取らなかった。そのため、本陣・脇本陣とも置かれなかったという。旅籠の数は十五軒、問屋三軒とされ、商工業が発達していて一般の旅人はこの宿で旅に必要な物を購入するなどした。本町(三日八日)、田町(五日十日)、新町(二日七日)とそれぞれ六斎で十八日市が立っていた。また、この高崎は三国街道との分岐点で、江戸と信越を結ぶ問屋、仲買の大商家が現れ賑わった。
この地は徳川氏が江戸に入府する前までは和田と呼ばれ、和田氏の居城和田城が有り、東山道和田宿(和田駅)と呼ばれていた。この地を領していた和田氏は小田原北条氏が関東に進出するとその配下に与し、北条氏の滅亡とともに滅び、和田城跡に家康の命で井伊直政が城を築き、名も高崎城と改めた。
『地名便覧』「高崎」の項参照。
板鼻宿(いたはなしゅく) 高崎宿より一里三十町(約7㎞)
中山道第十四宿。町並み十町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十四、問屋場二、戸数三百十余、人口千四百二十余人。この板鼻宿は旅籠屋の数も多く、商店・茶屋が九十軒あり繁盛していた。旅籠屋のほとんどは飯盛女や下女を抱えていたという。これはこの先に碓氷川が有り川留めで滞留する事があったためとされる。
碓氷川の歩渡し(うすいがわのかちわたし)
当初、ここは「歩渡し」で架橋が禁止されていたが、冬季には仮土橋が架けられる。宝暦二年(1752)からは常設の土橋が架けられた。
安中宿(あんなかしゅく) 板鼻宿より三十町(約3㎞)
中山道第十五宿。ここ安中は安中城下の町で、うち宿の町並みは四町、本陣一、脇本陣二、旅籠十七軒が有り、戸数六十余、人口三百四十余人の小宿だった。そのため宿駅の困窮が甚だしく、文政五年(1822)には、道中奉行石川忠房の裁断で向こう二十五年間、助郷の数を二十五人二十五疋の継立てに半減している。また当初禁じられていた飯盛女も、嘆願を繰り返した結果、嘉永七年(1854)に黙認の形で置けるようになった。その数も当初五十七人が幕末には百人を越えたという。
安中城は、永禄二年(1559)、安中越前守忠政が築き城下町が形成された。戦国期には上杉・武田の戦に巻き込まれたが、のち武田方となり天正三年(1575)、長篠の戦に従軍し討死。その後、慶長十九年(1614)、井伊直政の長男直勝が江州佐和山から三万石で入り城を再建。その後、水野氏、堀田氏、内藤氏、板倉氏と城主が代わる。
松井田宿(まついだしゅく) 安中宿より二里十六町(約9.7㎞)
中山道第十六宿。この宿も安中藩領で町並み九町八間、本陣二、脇本陣二、問屋二、旅籠十四軒、戸数二百五十余、人口千余人、市は三、八の六斎市。ここ松井田宿は信州各藩の城米が集まる中継地となっていて廻米の半分がここの米商人(宿米)に売られ(払い米)、残り半分が倉賀野から舟で江戸に送られた。このためこの宿は「米宿」と呼ばれ繁栄した。
碓氷関所(うすいせきしょ)
江戸に幕府が置かれるとこの上野国は信州から関東への入口として重要視され、慶長十九年(1614)には関長原(現関所より半里北)に仮番所が置かれた。その後、元和九年(1623)、現在地に移されると諸設備が整備され、安中藩が管理していた。関所には常時番頭二名以下十数人の番士が守衛にあたっていたという。
坂本宿(さかもとしゅく) 松井田宿より二里十五町七間(約9.7㎞)
中山道第十七宿。町並み六町十九間、本陣二、脇本陣二、旅籠四十軒、戸数三百七十余、人口七百三十余人。寛永二年(1625)、幕命により付近の住民や安中・高崎藩の領民を移住させてつくられた宿場町。東西に八間一尺の道路、その中央を幅四尺の用水が流れ、宿場を東西に二分し、十七の橋を架け、宿場を守るため家屋の屋根に斜角を持たせ、軒を接して建てられた計画的な町作りがなされた。難路の峠を控えた宿場として人手が必要なため、近在からの助郷の数も多く、飯盛女も置かれ賑わった。
『前田慶次道中日記』には
「五 もち月(望月)よりかるいざは(軽井沢)に五十里かるいざは(軽井沢)より坂本に十五里以上六十五里 もち月(望月)の駒にのり、八幡の町、塩なだを過岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐにかるいざわ(軽井沢)まで奥道五十里の間、馬つぎ十一所かと覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権見をうつし奉る社頭在、神鈴の声幽にして道もをく(奥)まる山かげに、きねが袖ふる里かぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまどろめば、夢めみる我が京落の友、拙唱作る 向東に去北行路の難、□に隔古郷を涙した不乾、我夢朋友を高枕上、破窓そうの一宿短衣寒 是より東関の上野道也」
と記され、望月宿を馬で発ち、軽井沢宿を経て坂本宿まで一気に二百六十キロの道のりを稼いでいる。
碓氷峠(うすいとうげ)
上り口は狭く坂は急で道も悪かったという。三百mほど上った所に堂峰番所があり、裏番所と呼ばれ、碓氷関所を通らずに山中を抜ける旅人を取り締まるために設けられていた。番所から一㎞ほど進んだ所に二体の地蔵が有り、上り地蔵、下り地蔵と呼ばれ、室町期からここを通る旅人の無事を願ってきたという。ここから少し上ると坂本宿が一望できる「覗」という場所が有り、頂上近くには「弘法の井戸」と呼ばれる刎石山頂には珍しい湧水の井戸が有り旅人の喉を潤し疲れを癒したという。山頂には小左衛門が勤めた羽根石茶屋本陣、四軒茶屋などが有って旅人が休憩できた。この山頂と坂本宿の標高差は五百四十mで、ここから道はしばらく平坦となり絶景を眺めながら行く。再び「座頭ころがし」と呼ばれた上り坂を昇ると茶屋(大和屋)、さらに進むと茶屋本陣(丸屋六右衛門)や往時には十三軒もの茶屋が立ち並ぶ峠の中心部に達し、「ワラビ餅」などを振る舞って賑わった。
軽井沢宿(かるいざわしゅく) 坂本宿より二里十六町(約9.7㎞)
中山道第十八宿。町並み六町二十七間、本陣一、脇本陣四、旅籠二十一軒、戸数百十余、人口四百五十余人。ここ軽井沢宿は展望が開け浅間山を近くに望む景勝と峠を越えた最初の宿ということもあり新町が出来るほど賑わい、旅籠の多くは客引きのため飯盛女を抱えていた。中には四百人を超える飯盛女を抱える旅籠屋も有ったという。しかし、天明三年(1783)の浅間山の大爆発で甚大な被害を蒙り、さらに二度の大火に見舞われ、加えて天明の大飢饉と後年称される大飢饉が襲い、宿場は再興する余力も無いほど疲弊した。その後、宿場はやや回復し、嘉永三年(1850)には飯盛女の数が百人を超え、遊廓化した旅籠まで現れるが宿駅制度が廃されると宿場町は衰退した。
この軽井沢が蘇るのは明治十八年(1885)、宣教師A・C・ショー氏が軽井沢を訪れ、日本に滞在する西欧人等の保養地として開発した事で、現在のような別荘地として発展する。ちなみに軽井沢が別荘地として人気を博し、都会から人が多く訪れるようになると、当初静かな保養地としてそこを利用していた西欧人たちはそんな喧噪を嫌い、新たな地を求めて信越国境の野尻湖などへ移っていった。
沓掛宿(くつかけしゅく) 軽井沢宿より一里五町(約4.5㎞)
中山道第十九宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣三、旅籠十七軒、戸数百六十余、人口五百余人。この宿も浅間山の大噴火と飢饉で衰退したが、天保十四年(1843)ころにはやや回復し宿場としての体裁も維持できたという。また、この沓掛宿は草津へ抜ける草津道の起点となっていて、草津温泉往来の湯治客で賑わった。
借宿(かりしゅく)
沓掛宿と追分宿の中間、女街道との分岐点に有り、両宿が一杯の時はこの宿で泊まった。立場、茶屋、穀屋、造酒屋などが有り、商人・職人・茶立て女・中馬稼ぎなどで賑わいをみせていた。
追分宿(おいわけしゅく) 沓掛宿より一里三町(約4.3㎞)
中山道第二十宿。軽井沢宿・沓掛宿とともに軽井沢三宿の一つ。町並み五町四十二間、本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、戸数百余、人口七百十余人。ここ追分宿は越後へ通じる北国街道との追分で、交通の要所として幕府も重視し、古くから飯盛女を置くことを許可していた。三宿の中でもっとも大きな宿場町で、元禄十三年(1700)の記録には飯盛女が二百人とされ、宿場全体が歓楽地として賑わっていた。
小田井宿(おだいしゅく) 追分宿より一里十町(約5㎞)
中山道第二十一宿。町並み八町四十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五軒、戸数百余、人口三百十余人。『木曽路名所図会』に「駅内二丁ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」と書かれた寒宿だったが、隣の追分宿が男たちの歓楽地だったことから、大名の夫人や姫君はそこを避けてここで宿を取った。幕末、徳川家に降嫁した皇女和宮もここに宿したという。そのためこの小田井宿は「姫の宿」とも呼ばれていた。
皎月原(かないがはら)
中山道の名所の一つで、この「かないが原」は「明神の馬に乗り給ふ馬場」と言われ、芝に輪乗りをしたような跡(皎月の輪)があり、草が生えないという。ここで馬術を習得した押兼団右衛門(小諸藩馬術師範)の「皎月歌碑」が建っている。
岩村田宿(いわむらたしゅく) 小田井宿より一里七町(約4.7㎞)
中山道第二十二宿。ここは内藤美濃守の城下町で、町並みは九町三十間、新町・中宿・下宿とあり、中宿と下宿に問屋が有って半月交替で勤めていた。本陣・脇本陣とも置かれておらず、城下町の堅苦しさを嫌った旅人は素通りする事が多く、旅籠も九軒と少ないが、物資集散の地として商業が盛んだった。『木曽路名所図会』に「駅内の町五六町あり、相対して巷をなす。某余散在す。善光寺へ別れ道あり、又小諸の道二里なり、又甲州路の道筋あり。当駅は内藤美濃守の領地也。商人多し」と書かれているように、この岩村田の町から善光寺道、大仁田道が分かれている。
塩名田宿(しおなだしゅく) 岩村田宿より一里十町(約5㎞)
中山道第二十三宿。中山道の整備にあたり北にあった旧塩名田村と南の舟久保・町田の住民を移して千曲川岸に形成された宿駅で、慶長七年(16029)宿駅として機能を始めた。町並みは東西四町二十八間、東から下宿・中宿・河原宿となっている。本陣二、脇本陣一、旅籠七軒、戸数百十余、人口五百七十余人。隣の八幡宿との距離は短いが、ここに宿駅を設けたのは千曲川の往還を確保するためだったとされる。千曲川往還橋は急流だったため洪水のたびに橋が流されることから、宿場の任務は橋の確保と修築で向こう岸の御馬寄村と共同で管理にあたった。この宿は小諸藩領でここから小諸城下に通じる小諸道が通っている。
八幡宿(やわたしゅく) 塩名田宿より二十八町(約2.8㎞)
中山道第二十四宿。宿駅整備にあたり、北の御牧原南麓にあった蓬田・桑山村と根際街道と呼ばれていた道筋にあった八幡村を街道沿いに移して宿場とした。当初は荒町といい宿内の大字は三つ(蓬田・桑山・八幡)に分かれている。町並み七町二十五間、本陣一、脇本陣四、旅籠三、戸数百四十余、人口七百十余人で、宿建人馬二十五人二十五疋と他の宿駅の半分になっていた。宿間の距離が短いがここに宿が置かれたのは、この辺りの地質が強粘土質で、春の雪解けや長雨があると泥沼と化し、小松枝、苅敷などを敷いても人馬の通行に支障をきたしていたからといわれている。
望月宿(もちづきしゅく) 八幡宿より三十二町(約3㎞)
中山道第二十五宿。当初、望月宿は鹿曲川(かくまがわ)の右岸にあったが、寛保二年(1742)に大洪水が有り新町五十戸ことごとく流失し、その後、左岸の現在地に移転した。町並み六町余、本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、戸数八十、人口三百六十余人。八幡宿同様宿建人馬二十五人二十五疋と他の宿駅の半分となっている。
この望月の地は、奈良時代末に信濃国に設けられた最初の御牧(勅旨牧=御料牧場)が有った地として知られている。その後徐々にその制が整備され、御牧の数は平安期に信濃国に十六、上野国九、武蔵国四、甲斐国三の合計三十二牧となり、毎年二百四十疋の馬が朝廷に貢上された。信濃は八十疋の貢上で、内二十疋が望月の駒で、宮中における駒牽(こまびき)の行事が八月十五日の満月の日だったこともあり、望月の駒は多くの和歌に読まれその名声は全国に及んだ。
『前田慶次道中日記』には
「四 下のすは(諏訪)より和田に五里和田より長くぼ(長久保)に二里半長くぼ(長久保)より望月に二里半以上十里 和田峠はこゆれども、みちはまだ長くぼ也 漸あしだ(芦田)に付ば、もちみしにかはりて、あれはてたるさまなり、広野人稀にして尚禽獣不乱行烈を、田村烟絶ては更鶏犬の 無聞鳴声を、こその里にとゞまるべからずとて、野経の露に袖をひたし、もち付(望月)の町に付、在鮭けいの羮風味満つ歯頬けうに是より関東道也」
と、下諏訪宿から和田峠を経て長久保宿、芦田宿、ここ望月宿までの行程が記されている。
芦田宿(あしだしゅく) 望月宿より一里八町(約4.8㎞)
中山道第二十六宿。ここ芦田宿は中山道が整備される前、慶長二年(1597)に芦田城主の命で岩間忠助と土屋右京左衛門が新しく宿を作ったと伝えられ、町並みは東西六町、東町・中町・西町・上町からなっている。宿開設以来、その土屋家が本陣・問屋を兼ねた名主となっていた。本陣一、脇本陣二、旅籠六軒、戸数八十、人口三百二十六人。
宿の西外れに芦田七井戸の一つで、明暦三年(1658)、浅野宮君御東下の時、供御用水となり後代々姫君御東下の供御用水となった井戸があった。近年まで砂の間から豊富な水を湧かせていたが、県道工事で水脈を断ち湧水は止まってしまった。このすこし先に上田道が分れている。
笠取峠の松並木(かさとりとうげのまつなみき)
慶長七年(1602)頃、幕府より赤松七百五十三本が小諸藩に下知され、芦田宿の外れより北西に起伏している山の麓を南東に十五町に渡って植え付け、長久保入口の頂上まで並木道とした。その後、小諸藩の補填など保護が加えられ明治末には数百本あったが、松の寿命や台風による倒木などで、現在百余本となっている。街道の松並木が両側に現存しているものは全国でもまれで、箱根の杉並木とともに往時の街道の面影を保つ貴重な遺跡となっている。
この松並木を過ぎると笠取峠の頂上で、立場茶屋「小松屋」があって、旅人が床几に腰を下ろし「笠取名物三国一のちからもち」を食べて休息したという。
長久保宿(ながくぼしゅく) 芦田宿より一里十六町(約5.6㎞)
中山道二十七宿。当初、依田川に沿った下河原にあったが、寛永七年(1630)、洪水で町が流失したため、現在地に移転した。町並み七町五十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数百八十余、人口七百二十余人。宿はL字型に竪町と横町からなっていて、初めは下町・中町と呼ばれた竪町だけであったが、規模の拡大とともに横町が生まれた。ここ長久保宿は東に笠取峠、西に和田峠、さらにこの宿から北に上田・松代へ至る北国街道の大門峠を控える宿場だったことから宿泊客も人馬の往来も多く、軽井沢宿以西和田宿までの十一宿中では追分宿に次ぐ数の旅籠屋が有り、安永九年(1780)には飯盛女も置かれた。この時、助郷村の若者との間でしばしば問題が起り、助郷二十ヶ村で飯盛女の撤廃を訴願したが、宿場の繁栄上公に許可したもので廃止すれば宿の経営に影響するという事で、示談が成立した。それは、「助郷村の若者には酒食を禁じ、飯盛女は出さない、違反した旅籠屋には飯盛女を置くことを禁ず」というものだったという。
今に残る本陣の石合家は寛永頃(1624頃)の建造で、中山道本陣中、現存する最古の建物といわれている。
和田宿(わだしゅく) 長久保宿より二里(約8㎞)
中山道第二十八宿。宿は初め下町、中町、上町からなっていたが、和田峠を控えて宿泊する旅人も多く手狭になったため、正徳三年(1713)に橋場新田が作られ四町となった。町並み七町五十八間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十八軒、戸数百二十余、人口五百二十余人。和田宿の旅籠は規模が大きく、出桁造り、格子戸の宿場建物の代表的な建築だったといわれ、文久元年(1861)再建の遺構が「歴史の道資料館(かわちや)」として公開されている。本陣は和田城主大井信定の娘婿長井氏が宿創設以来勤めていた。本陣建物の御殿部分、門は売却され丸子町竜顔寺と向陽陰に残存しているが、居室部分が遺構として残り、他の部分も復元され一般公開されているほか、文久元年建造の脇本陣翠川家の御殿部分も現存し、江戸期の脇本陣の遺構としてその姿をとどめている。
宿の近くの和田城址は、戦国時代大井信定の居城だったが、信濃に進出した武田勢に仙の倉矢が崎の戦で敗れ、父子共に自害し滅ぼされた。
和田峠(わだとうげ)
標高1,600mの和田峠は中山道最大の難所として知られた。特に冬期は大量の雪が降り積もり、雪掘り、砂まき、ソダ柵、枝折などを施しても通行が出来なくなる事はしばしばだったという。峠越えのこの区間は、宿間五里十八町と長く、人馬の疲労もはなはだしく、後には峠の途中に施行所(お助け小屋)が設けられた。この施行所は江戸呉服町の豪商かせや与兵衛が金千両を幕府に寄付し、その金の利子百両を二分して、この和田峠と碓氷峠に文政十一年(1818)に設置したものだという。ここでは毎年十一月末より三月まで立ち寄った旅人に粥一杯、馬には年中小桶一杯の煮麦を施していた。その後、山崩れ(山抜け)により流出し、嘉永五年(1852)に現在地に再建された。この施行所からしばらく行くと東餅屋といわれた場所に辿り着く。ここには茶屋本陣はじめ五軒の茶屋があり、そこを過ぎてようやく頂上に辿り着いた。
下諏訪宿(しもすわしゅく) 和田宿より五里十八町(約21.8㎞)
中山道第二十九宿。町並み七町四十三間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十軒、戸数三百十余、人口千三百四十余人。この下諏訪宿は信濃国一宮の諏訪大社下社の門前町として発展し、温泉に加え諏訪湖を望む景勝があり、さらに甲州道中の追分でもあった事から旅人・商人等の宿泊で大いに賑わった。本陣の岩波家は、現住建物として今も使われ、名庭園として知られた庭に面した一部分が一般にも公開されている。
下社秋宮の前が甲府経由で江戸に上る甲州道中(甲州街道終点)との追分で、宿の西は伊奈道への分岐点となっている。
『前田慶次道中日記』には
「二 宮のこし(宮ノ越)よりなら井(奈良井)ヘ五里 なら井(奈良井)より本山に三里本山より下の諏訪に四里以上十一里 やこ原(薮原)・よし田、とりゐ(鳥居)峠を下れはならゐ(奈良井)の町行末の道をなら井(奈良井)の宿ならば日高くとても枕ゆふべく、せばのこがね山、本山の町ききやう原を分けつゝ塩尻峠に上れば、冨士の山はそこ也 すみの山のひがし(東)なるらし富士の雪 北は黄に南は青くひかし(東)白西紅井に染色の山とよみ侍れば、此富士の山を染色の山にして、雪にいとしろ(白)きは染色の山のひがし(東)なるへしとおもひ侍るはかり也、暮るまで詠をれば、ふじ(富士)のけぶりのよこ(横)おれて雲となり、雨となり、たゞ白雲のみあとを埋めは、峠を下り、諏訪の湯本の町に更闌け人寐付ぬ」
と、宮ノ越宿から薮原宿、鳥居峠、奈良井宿、本山宿、塩尻峠を経てここ下諏訪宿までの行程が記されている。
さらに次の日の記事には
「三日は湯本に猶とどまる、明はなれた湖上をみれば、たゞかゞみをかけたるやう也 こほらぬは、神やわたり(渡り)しすは(諏訪)の海 宮めぐりしつゝ、社壇を見るに、廻廊は傾き高楼は破れ、千木の片殺朽残て広前の橋板半は改り、木すゑふりにし森の木の葉、霜を羽ぶきて鳴からす、八帳破れては灯しび邃かすかなり、玉の簾落ては*内顕たり、まこと神さびて不覚涙した欄干たり あなはふと涙ことはれ神の慮心の外はことのは(言の葉)もなし、其日しも、古しへの朋友来り昔語りに傾数盃を」
と有って、慶次郎がこの宿でのんびりと過ごした様子が記されている。
『地名便覧』「諏訪」の項参照。
塩尻峠(しおじりとうげ)
諏訪郡と筑摩郡境に有り、太平洋側と日本海側との分水嶺になっている峠で、南に諏訪盆地が見渡せ、八ヶ岳・霧ヶ峰、晴れた日には富士山も見える。西には飛騨山脈(北アルプス)の山々が眺まれる景勝地。前田慶次郎も道中記の中で「塩尻峠に上れば、冨士の山はそこ也 すみの山の東なるらし富士の雪 北は黄に南は青くひがし白西紅井に染色の山とよみ侍れば、此富士の山を染色の山にして、雪にいと白きは染色の山の東なるべしと思ひ侍るばかり也」とその景観を記している。戦国期には天文十七年(1548)の武田晴信と小笠原長時の塩尻峠の戦いなど数々の戦の舞台にもなっている。峠付近には人家もなく立場もなかったことから、宝暦十四年(1764)に御小休本陣が設けられ茶屋も営まれた。また街道の北側には赤松千二百本が植えられ塩尻峠の松並木と呼ばれていたが、近年に道路工事と小学校建設で伐採され面影もなくなっている。
江戸初期、大久保長安が整備した中山道は、下諏訪から三沢(岡谷市)、小野(辰野市)、牛窪峠を越えて木曾桜沢(木曾楢川村)に至る最短コースが取られていたが、長安の死後、元和二年(1616)頃、先の道筋が廃止され、新たにこの塩尻峠を越え塩尻・洗馬・本山の三宿を経て木曾に向う道筋となった。
塩尻宿(しおじりしゅく) 下諏訪宿より二里三十三町(約11㎞)
中山道第三十宿。町並み七町二十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠七十五軒、戸数百六十余、人口七百九十余人。ここ塩尻宿は幕府領であったことから、塩尻陣屋が一時置かれていた。
洗馬宿(せばしゅく) 塩尻宿より一里三十町(約7㎞)
中山道第三十一宿。町並み五町五十間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数百六十余、人口六百六十余人。宿の手前は北国脇往還善光寺道との追分になっていて、近くに伝説「おうたの清水」が有る。盛夏の頃、木曾義仲の軍勢と出会ったこの郷の今井四郎兼平が、義仲の馬をこの清水で洗い馬の疲れを癒したと伝えられる泉で、これが洗馬の名の由来となった。この洗馬宿は善光寺詣での人々や御岳講の人々で賑わい、旅籠の数は二十九軒だが、そのうち十八軒の旅籠は間口十間以上、建坪百坪以上という二階建ての大旅籠で、多くの使用人や飯盛女を雇っていた。また、北陸から運ばれて来る塩漬けの鮭や鰤を煮て、その煮汁に大根などの野菜を煮込んだ「洗馬(せんば)汁」は、全国に知られたこの宿の名物料理。
本山宿(もとやましゅく) 洗馬宿より三十町(約3㎞)
中山道第三十二宿。町並み五町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十四軒、戸数百十余、人口五百九十余人。小野新道の廃止に伴い塩尻宿、洗馬宿とともに慶長十九年(1614)に設立された宿駅。宿場は南から上町・中町・下町に区分されていた。この本山宿の周辺では昔から蕎麦が栽培されていて、寛文十年(1670)の丹羽式部少輔宿泊の条に「そば切り」献上の記述が有り、これが文献に現れる最初とされ、宝永二年(1705)刊行の『風俗文選』(森川許六編)に
「蕎麦切というは、もと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける。云々」
と記されたように、本山宿の名産として知られ、また「蕎麦切り」発祥の地でもあるとされる。
本山宿は宿場を通っていた国道十九号線を宿の東裏に通すバイパスを作り、宿場全体の保存をはかった。その結果、町割も路地も残され、宿内の各戸は街道に面した外観をそのまま残そうと努力し、生活しながら付近の遺構と町並みを保存している。
贄川関所(にえかわせきしょ)
贄川宿の手前に設けられた関所で、創設は建武二年(1334)頃と古く、源義仲の子孫讃岐守家村が設け、四男家光に守らせたという。戦国期には妻籠番所とともに再び設けられたとされるがその資料はない。その後、石川備前守が木曾支配中に口留番所とした。慶長七年(1602)には福島関所の副関として、幕府指定の山村氏の私設関所として設けられたが、寛保元年(1741)、幕府の公式関所となった。この関所の任務は、野麦峠や権兵衛街道のおさえと女改め、木材の密移出の取締り(白木改め)などを行っていたという。
贄川宿(にえかわしゅく) 本山宿より二里(約4㎞)
中山道第三十三宿。町並み四町六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百二十余、人口五百四十余人。宿の規模は小さく、わずかな農業と兼業の旅籠屋、茶店、商店、職人がいたと『木曾巡行記』(1838刊)に記されている。これより馬籠宿までの木曽路十一宿の常備人馬は半数の二十五人二十五疋となる。
奈良井宿(ならいしゅく) 贄川宿より一里三十一町(約7㎞)
中山道第三十四宿。町並み八町五間、本陣一、脇本陣一、旅籠五軒、戸数四百余、人口二千百五十余人。奈良井宿は旅籠、伝馬関係の人は少なく、大半が櫛塗物関係と職人、小商店で構成される特異な発展をみせた宿場町。貞享二年(1685)刊の『岐蘇路の記』(貝原益軒)に
「奈良井の町、民家百軒ばかり有、此町に、わん、おしき、まげ物などをぬりておほくうる」
とあり、宝暦三年(1753)の『千曲之真砂』にも
「此宿椀、折敷、曲もの、重箱のたくるの細工する。名物也」
とある。また、天保九年(1838)の『木曾巡行記』には
「宿内、出郷平沢は、往古より檜物、がらく細工、塗物等職業いたし、先年は夫々利徳有之故土着の人数も相増凡三千人余も有之夫々渡世せし也」
とあり、宿の繁栄ぶりを伝えている。
この奈良井宿は現代に至り、国道からはずれたため、宿場の町並みが昔のまま残り、昭和五十三年「伝統的建造物郡保存地区」に選定され、町並みの保存が地域の人々によって維持されている。
鳥居峠(とりいとうげ)
標高千百九十七mで、木曽川と奈良井川(犀川の上流)との分水嶺になっている。峠の開削は『三代実録』の元慶三年(879)の記事に現れる「県坂岑」(あがたざかみね)とされ、戦国時代木曾氏が御嶽の遥拝所として鳥居を建てたので鳥居峠と呼ばれるようになったとされる。鳥居峠は木曾防衛の要として、たびたび合戦場となり、天正十年(1582)二月、木曾義昌は織田慎忠の軍と呼応し、武田勝頼の将今福昌和と戦ってこれを破っている。このことが武田家滅亡の因ともなったといわれている。
薮原宿(やぶはらしゅく) 奈良井宿より一里十三町(約5.3㎞)
中山道第三十五宿。 町並み五町二十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠十軒、戸数二百六十余、人口千四百九十余人。宿は下町、中町、上町と続き町の裏側に職人町が有り古府町と呼ばれていた。また、六軒町高台には御鷹匠役所が置かれ、尾張藩から鷹匠および役人が出張し、捕らえてきた仔鷹をここで飼育した。当初、この役所は妻籠と須原宿に置かれていたが、荻曾の山から下ろす仔鷹が優秀であったことからここに移されたという。
この薮原宿は、境峠を越え奈川を経て野麦峠に至る飛騨街道奈川道との追分にもなっている。
宮ノ越宿(みやのこししゅく) 薮原宿より一里三十三町(約7.3㎞)
中山道第三十六宿。町並み四町三十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数百三十余、人口五百八十余人。宿は上町、本町、中町、下町からなり、木曽川の水を利用した用水が往還通りに布設され、生活・防火・馬の飲料水として使用されていた。
この宿のある宮ノ越は、木曽義仲所縁の地で、以仁王の令旨を受けて旗挙げした場所とされる旗挙げ八幡宮や義仲の菩提寺となったの徳音寺(臨済宗妙心寺派)、義仲の養親中原兼遠の菩提寺林昌寺(臨済宗妙心寺派)など多くの史跡が町の周辺に散在している。徳音寺には木曽義仲の墓とともに母小枝御前、愛妾巴御前の墓がある。
『前田慶次道中日記』には
「霜月朔日 野尻よりすはら(須原)へ一里半 すはら(須原)より荻原に二里荻原より福じま(福島)に二里福しま(福島)より宮越ヘ一里半以上八里 すはら(須原)・荻原をすぐれば、道のかたはらに大きなる鳥井(鳥居)あり、いかなる宮ばしらぞとと(問)へば、是より奥道廿里ありて、木曾の御獄と申山に権見たゝせたまふ、こゝよりその瑞籬のうちなりと云、木曾のかけはしはもと見し時はまるき(丸木)なと打わたしわたしして置ぬれば年々大水に流うせなどして、行かひも五月などはとどまることあり、太閤馬宿あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間に川の面をすぢかひにわたし、車馬往来の運送、旅人相逢の行脚、或いは都に上り、或いは東に下る、貴賤よろこばずといふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋な(名)にしおふ、とはこの事にやと、ね覚(寝覚)の床巴かふなと詠やる、此渕は義中(義仲)のおもひのともゑ(巴)といふ女房、此河伯のせひにて木曾義中(義仲)に思ひをかけ、妻になりしゆへに、ともへ(巴)か渕といへり、又或いは義中(義仲)あはづにてうせにし時、ともえ(巴)はおん田の八郎といふ武士を、義中(義仲)のまのあたりにてうち見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕に身をな(投)けしゆへに、巴がふち(淵)ともいへり 或いは義中(義仲)に別れ、あはづの国分寺にて、物具ぬぎ、忍ひて東国に下りしを、和田小太郎義盛たつね出し、妻になしぬ、やかて浅井奈か母なりと云、是も物に記せり、たゞいにしへより巴が渕とは、いふなるへし、野談はまちまちなり、ふくじま(福島)をも過、宮のこし(宮ノ越)に留」
と記され、野尻宿から須原宿、「木曽の桟」を経てこの宮ノ越宿までの行程が記されている。
福島宿(ふくしましゅく) 宮ノ越宿より一里二十八町(約6.8㎞)
中山道第三十七宿。町並み三町五十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数百五十余、人口九百七十余人。ここ福島は、戦国期に木曽氏の城下町として誕生し、江戸時代には木曽代官の陣屋が置かれ、関所を抱える宿場町となった。この福島関所は中山道で碓氷関所とともに重要視された関所で、代官山村氏が守護していた。
木曽川の断崖に臨む要害の地に設けられた関所には上番四人、下番二人が常時詰め、「女上下とも手形要す。男上下は手形要らず。鉄砲改め」と高札に書かれていて、入り鉄砲と出女を厳しく取り締まっていた。京へ六十六里三十二町、江戸へ六十八里二十七町の地で、道中のほぼ中間にあたる宿場とされた。
木曽の棧(きそのかけはし)
棧は懸け橋のことで、懸崖に橋を掛けて通路としたもので、古来より危険な通行路だったが、木曽は嶮岨な山間地であったため幾つもの棧が掛けられていた。しかし、この地を領した木曽氏によって道路が整備され、次第にその数は減少していった。ただ、福島から上松の間の波計の棧(はばかりのかけはし)が残り、木曽の棧と呼ばれる難所として江戸期まで残されていた。慶長六年(1601)、中山道経由で米沢へ向う前田慶次郎も道中記に、「木曾のかけはしは、もと見し時は丸木など打渡し渡しして置ぬれば、年々大水に流れ失せなどして、行かひも五月などは留まることあり、太閤馬宿あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間に川の面をすぢかひに渡し、車馬往来の運送、旅人相逢の行脚、或いは都に上り、或いは東に下る、貴賤よろこばずといふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋名にしおふ、とはこの事にや」とこの木曽の棧のことを記している。そんな危険な棧道だったが、正保四年(1647)、火事で焼失したのをきっかけに改造され、中間の八間だけをのこして両側を石垣に改められ、さらに寛保元年(1741)には全部石垣に改造された。
上松宿(あげまつしゅく) 福島宿より二里十四町(約9.4㎞)
中山道第三十八宿。町並み五町三十一間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数三百六十余、人口二千四百八十余人。ここ上松宿の南外れには尾張藩の材木役所があり、木曽の山林を管理していた。幕府直轄だった木曽が元和元年(1615)に尾張藩領とされた時には、木曽代官の山村氏が山方、村方の管理支配を行っていたが、寛文五年(1665)、林政改革と称し尾張藩は山村氏から山林管理権を取り上げ、この材木役所を設けて藩の直轄管理とした。藩は留山(保護林)を設定し、停止木、留木(禁木)制度を実施したという。
寝覚の床(ねざめのとこ)
上松宿の近くに有って、木曽川の激流が長年月をかけて侵食し造られた奇勝。古くから中山道木曽路随一の景勝地として知られ、立場茶屋やそば屋などの店が有り、旅人の旅の疲れを癒していた。
須原宿(すはらしゅく) 上松宿より三里八町(約12㎞)
中山道第三十九宿。町並み四町三十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒、戸数百余、人口七百四十余人。当初、宿は現在の場所より下流の川岸にあったが、正徳五年(1715)六月の洪水でそのほとんどが流失し、享保二年(1717)、現在地に移転。移転に際し、町作りが計画的に設計され、道幅を五間と広く取り、町の真ん中に用水路を通し、町裏には犬道という抜け道を設け、宿の両入口を鍵形に曲げ、宿内中央で「く」の字形に折り鉄砲に備えた。また宿内往還に豊富な湧水を引いて七ケ所に水場を設け、同時に水通しという排水溝を造るなど、模範的な宿場作りがなされている。
野尻宿(のじりしゅく) 須原宿より一里三十町(約7㎞)
中山道第四十宿。町並み六町、本陣一、脇本陣一、旅籠十九軒、戸数百余、人口九百八十余人。町は北から上町、中町(本町)、横町とあって、宿場内は七曲りといわれるように大きく曲がっている所が多い。横町のはずれには「お大石様」と呼ばれる岩上の祠があり、伝説をつたえている。その近くには野尻家益の館跡にその子孫野尻太郎左衛門が創建したとされる龍泉庵が有り、地蔵菩薩が安置されている。
『前田慶次道中日記』には
「卅日 中津川よりまご目(馬籠)ヘ二里 まご目(馬籠)より妻子(妻籠)に三里妻子(妻籠)より野尻に三里以上八里 木曾の山道、河水も落合の宿、妻子(妻籠)の里に休らへば、狐狸の返化かとうたがふばかりけわひたる女あり、山家のめづらかなりし見物也、里はづれのそば道をべに坂といへば、けはひたる妻戸(妻籠)の妻のかほの上にぬりかさぬらしべに坂の山、駒がへり、らてんなど云難山をこし、野尻にて さむさには下はらおこす野尻哉」
と記し、慶次郎は、中津川宿から落合宿、妻籠宿を経てここ野尻宿に至った。
木曽谷の難所
野尻宿と三留野宿の間は、中山道で最も危険な道だった。その道中、五橋〜羅天間には長さ七間の投渡橋と五間二尺の欄干付片端板橋、与川渡に六間二尺の欄干付板橋、牧ヶ沢に十二間の片欄干橋と五間の板橋があった。貝原益軒の『木曽路の記』に「信濃路は皆山中なり、就中木曽の山中は深山幽谷にて、山のそばづたひに行くがけ路多し、殊更、野尻とみとのの間、尤もあたうき路なり、此間左は山中なり、その山のかたわらのわづかなる石おほき道を行、右は数十間高きがけにて、屏風を立たる如なる所もおほく、其下は木曽川の深き水也、此間かけはし多し、まへにある名を得し木曽のかけはしよりあやうし、いつれも川の上にかけたる橋にあらず、そは道のたえたる所にかけたる橋なり」と記されている。
前田慶次郎は
「べに坂の山、駒がへり、らてんなど云難山をこし」
と記している。
三留野宿(みどのしゅく) 野尻宿より二里十八町(約5.8㎞)
中山道第四十一宿。町並み二町十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒、戸数七十余、人口五百九十余人。ここ三留野の宿は、成立して間もない万治元年(1658)に火事で焼失し、その後も延宝六年(1678)、天和元年(1681)、宝永元年(1704)といずれも町の中心部を焼失する大火に見舞われ、宿場は衰頽し、他の宿が発足当初よりその規模を倍にする中、三留野は規模を縮小させた。宿駅廃止後の明治にも大火が有り、本陣などの建物の遺構は失われている。
妻籠宿(つまごしゅく) 三留野宿より一里十八町(約5.8㎞)
中山道第四十二宿。町並み二町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒、戸数八十余、人口四百十余人。本陣を勤めた島崎家は馬籠の島崎家と縁戚関係に有り、明治の文豪島崎藤村の兄が養子に入っている。さらに藤村の母の生家で、藤村の名作『夜明け前』の青山寿平次の家でもある。「木曽路はすべて山の中」で始まるこの作品には馬籠や中津川など木曽路の宿場町が数多く描かれている。
現在、脇本陣の林家とともに復元され、公開されている。宿の先は、飯田街道の追分となっていて、元善光寺へ通じている。
宿の手前には木曽義昌が天正十二年(1584)に小牧・長久手の戦で徳川方の攻撃に備えて築いた妻籠城址が有る。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で中山道を上っていた徳川秀忠は、戦が終った時には、まだこの妻籠城に止宿していた。
前田慶次郎はこの宿で、「狐狸の返化かとうたがふばかりけわひたる女あり」と記した化粧の濃い女に会い、「山家のめづらかなりし見物也」とその情景を楽しんでいる。
馬籠峠(まごめとうげ)
古くは妻籠峠と呼んでいた峠で、三留野から妻籠にかけての狭い谷間を見通すことができた。峠には茶屋など数軒の集落が有り、旅人に糯米に栗を入れた強飯(栗おこわ)を売っていた。
頂上の馬籠峠と書かれた碑には「白雲や青葉若葉の三十里」と子規の句が刻まれている。
馬籠宿(まごめしゅく) 妻籠宿より二里(約8㎞)
中山道第四十三宿。町並み三町三十三間、本陣一、脇本陣一、旅籠十八軒、戸数六十余、人口七百十余人。天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦で徳川方の菅沼・保科・諏訪の軍が陣を置いた所とされる陣場下の坂道に設けられた宿駅。一段一段石垣を築いて家屋を建てた町で、坂と石畳の宿場。かってこの地で馬籠城を守った島崎監物の後裔島崎家が問屋を兼ねて本陣を勤めていた。ここは島崎藤村の生誕地で、宿場は明治二十三年の大火で焼失し宿場の遺構は石畳と枡形だけとなっているが、近年、宿場の町並みが再建され、本陣跡には、焼け残った土蔵と復元された建物が藤村記念館として一般に公開されている。
馬籠城址は宿場の南、荒町集落の小高い丘の上にあり、永禄元年(1558)、木曽義昌が築城し島崎監物が守っていたが、徳川方に攻められ妻籠城に撤退したと伝えられるが、城の遺構は残されていない。
美濃・信濃国境(みのしなのくにざかい)
新茶屋と呼ばれる集落が国境で、立場茶屋が有り名物のわらび餅を売っていた。集落の西端に藤村筆の「是より北、木曽路」の碑が有り、近くには芭蕉の「送られつ送りつ果は木曽の穐」という句碑も建っている。さらに行くと十曲峠にさしかかり、曲がりくねった道が大雨で崩れないように石を敷き詰めた石畳となっていた。「落合の石畳」と呼ばれた道筋で、近年、保存会が出来て石畳道の復元がなされた。
落合宿(おちあいしゅく) 馬籠宿より一里五町(約4.5㎞)
中山道第四十四宿。町並み三町三十五間、本陣一、脇本陣入一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百七十余人。町は横町、上町、中町、下町からなり、桝形になっている横町と上町の境に常夜燈が有って、現在もその姿を残している。中町の本陣は井口家が庄屋・問屋を兼ねて勤めていた。文化十二年(1815)に大火でそれまでの建物は焼失するが、その時建てられた建物が現在に伝えられ、建坪百三十二坪、加賀前田侯より火事見舞いで送られたという表門の門構え、玄関付き、上段の間、次の間、萩の間、鶴の間、牡丹の間と有り、さらに火急の時に備えて姿見の障子をはずして逃げ出せる欄間、忍び武士の天井、抜け穴などが仕掛けられ、本陣としての防備が施されたもので、中山道に残る八つの本陣のなかでも往時の姿を留めた建造物となっている。井口家の現住住居だが市指定史跡として保存されている。
文政版道中志には
「名物に火縄あり。昔落合五郎兼能といふ者居住なり。駅の西方に杉の大樹多くある林あり。その中に落合五郎が霊をまつる祠あり。此の宿賎し。」
と書かれているという。
中津川宿(なかつがわしゅく) 落合宿より一里(約4㎞)
中山道第四十五宿。町並み十町七間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数二百二十余、人口九百二十余人。町は淀川町、新町、本町、横町、下町とあり、宿の東外れからは飛騨街道が分岐し、横町から恵那山道が分れている追分の宿場として、穀物、塩、酒、呉服、木綿、紙類などを扱う商家が多く、三・八の日に市が立ち賑わっていた。
日本画家の前田青邨画伯はここ新町の乾物屋で生まれた。
『前田慶次道中日記』には
「廿九 おくて(大湫)より中津川ヘ六里 こゝも名におふ大井の宿、駒ば(駒場)のはし(橋)をわたり、中津川に付は 椎のは(葉)おりし(敷)きていひ(飯)かしきなどす、みつ野ゝ里に妹をゝきて、とよ(詠)みしは妹なり、東路の名こそはか(変)われ、芋の葉汁よし、是より信野也」
と記され、この日の行程は大湫宿からこの中津川宿までとなっている。
大井宿(おおいしゅく) 中津川宿より二里十八町(約9.8㎞)
中山道第四十六宿。町並み六町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数百十余、人口四百六十余人。宿は阿木川岸に有り、東から横町、本町、竪町、茶屋町、橋場と続く。それぞれの町が、街道を直角に曲げる枡形によって区切られ、それが六ヶ所も有り、整然とした町割となっている。
槙ヶ根追分(まきがねおいわけ)
尾張、伊勢に向う下街道との分岐点。尾張商人や伊勢参りで上る人、善光寺詣でで下る人たちが多く利用していた。
大湫宿(おおくてしゅく) 大井宿より三里半(約14㎞)
中山道第四十七宿。大久手とも書く。町並み三町六間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、戸数六十余、人口三百三十余人。本陣の建物は無いが、脇本陣保々家の主屋、表門などが旧状を留めている。宿は小規模だが、明かり取りの虫かご窓やこま寄せなどが残され、当時の宿場の風情を醸し出している。
『前田慶次道中日記』は
「廿八 大田より神の大寺まで五里 大寺よりをくて(大湫)へ三里以上八里 都にありし、名も床く、ふしみ(伏見)の里をとほり神の大寺にまいりつゝ、をくて(大湫)の町に宿り定む、冬までもをく手はからぬ稲葉哉」
と記し、太田宿を立って伏見宿、御嵩宿を経てこの大湫宿までを一日の行程としている。「神の大寺」は可児大寺で、御嵩宿に有る願興寺のこと。
琵琶峠(びわとうげ)
峠の登り口には馬頭観音や石碑が並び、狭い石畳の坂道となる。頂上近くはさらに道が細くなり、両側から大きな山石がせまっている。頂上からは伊吹山や鈴鹿山脈が一望でき、江戸に下る皇女和宮もここから京を振り返り歌を詠んだ。その「住み慣れし都路出でてけふいくひ いそぐともつらき東路へのたび」の歌碑が建ち、その心情が偲ばれる。
細久手宿(ほそくてしゅく) 大湫宿より一里半(約6㎞)
中山道第四十八宿。町並み三町四十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十四軒、戸数六十余、人口二百五十余人。当初、大湫宿から御嵩宿の間には宿駅が無く、山道も多く長丁場なことから、両宿の名主が、街道整備を行っていた大久保長安に宿の設置を嘆願。慶長十一年(1606)、長安の命を受けた国枝与左衛門が自力で仮宿を置いたが、放火され全焼する。長安は慶長十五年(1610)に与左衛門に米百俵を与えて宿の再建を命じ、正式な宿駅となった。ここ細久手宿は、創宿以来幾たびかの大火をくぐりぬけ、古びた家並、赤壁の土蔵などが続いた時代を感じさせる風情の有る宿場となっている。
物見峠謡坂・西洞坂(ものみとうげうとうざか・さいとざか)
藤木峠藤木坂、諸木坂と山坂が続く区間で、物見峠は和宮降嫁の時、御休憩所が建てられた場所。東に木曽御岳・赤石山脈(中央アルプス)を望み、西には伊吹山か一望でき、中山道の道筋を遠くまでたどることのできる地点。謡坂を下ると谷合の道となり、しばらく行くと急坂となり牛の鼻かけ坂とも呼ばれた西洞坂が有る。牛馬も鼻をこすりつけるほどの急坂であったことから、通行には難儀をしたという。ここを過ぎ平坦な道にでると、そこに和泉式部廟所が有る。和泉式部はこの地で歿したという言い伝えで設けられたものという。
御嵩宿(みたけしゅく) 細久手宿より三里(約12㎞)
中山道第四十九宿。町並み四町五十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数六十余、人口六百余人。宿は東から上町、仲町、下町と続き、宿外れに可児大寺あるいは可児大師と呼ばれる天台宗の寺院願興寺がある。御嵩宿はこの願興寺の門前町として発展した町で、そこが宿場となった。
願興寺の先に、「鬼の首塚」と呼ばれる塚がある。この鬼というのは鬼岩の岩窟に住んでいた「関の太郎」という鬼で、可児薬師の市に現れ美女をさらったり、数々の悪業を行ったことから市が寂れたという。そこで案じた村人が、市の日に村民は手のひらに判を押して集まることにし、それを知らずに美少年に化けて現れた鬼を発見し切り殺したとされる。その首を都へ運ぶ途中、急に首が転がり、首が「ここが首の留まる所」と言ったので、そこに埋葬したと言い伝えられた。文政版道中志には「関の太郎の首塚あり。むかし関の太郎といふ盗賊あり。それを刑したる首塚なり」と記されている。
伏見宿(ふしみしゅく) 御嵩宿より一里八町(約4.8㎞)
中山道第五十宿。町並み五町十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数八十余、人口四百八十余人。中山道と兼山道との分岐点で、初め御嵩宿へ助人馬を出す助宿的な存在だったが、元禄七年(1694)、街道の整備に伴い木曽川岸の土田(どた)宿に代わって正式に宿駅となった。とはいへ近くの商業地兼山から新村湊を経て木曽川を使う舟の交通が発達していたため、名ばかりの宿場だったらしく、町は発展せず天明三年(1783)には十三戸もの家が廃家するなど衰頽していた。嘉永元年(1848)には本陣はじめ二十六戸が焼失して本陣は再建されず脇本陣だけが再建され、遊女屋を設けるなど宿の維持に苦労していた。
太田の渡し(おおたのわたし)
木曽川の渡船場。「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠が無くばよい」と詠われた中山道三大難所の一つに数えられていた。木曽川の川湊新村湊から土手上の松並木の道(現在松は無い)を下ると船着場となる。この道筋は寂しく追い剥ぎも出たといわれている。元は太田宿の対岸にあたる土田宿が渡し場となっていたが、川幅も広く流れも急な木曽川はしばしば氾濫し、渡し場も土田宿から徐々に上流へ移動していったという。
また、中山道の宿駅から外された土田宿は尾張藩が使った名古屋街道の宿駅として存続し、本陣もそのまま置かれていた。
太田宿(おおたしゅく) 伏見宿より二里(約8㎞)
中山道第五十一宿。木曽川の左岸に設けられた尾張藩領の宿駅で、町並み六町十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数百十余、人口五百余人。宿は東から上町、中町、下町とつづき、上町に一ケ所、中町に二ケ所問屋場が有った。尾張藩はこの太田宿に、木曽川を上下する川船を監視するため錦織奉行支配下の川並番所を設け、船荷の改め、抜荷の取締り、狩下げ筏を管理していた。また西のはずれには尾張藩太田代官所が天明二年(1782)に設置され、恵那から鵜沼まで統括した行政の中心地となり、宿場は東西に延び、旅籠屋・駕篭屋・遊女屋・商家が立ち並び繁栄した。
中町には庄屋・問屋を兼ねた脇本陣林家の明和六年(1769)に建てられた建物が現存し、国の重要文化財に指定されている。
『前田慶次道中日記』には
「廿七 赤坂より河手(河渡)に五里、河手(河渡)より売間(鵜沼)ヘ四里売間(鵜沼)より大田渡に二里以上十一里 河手(河渡)、みろく縄手、さけをうるま(鵜沼)の町過て大田のわたりなり」
と有り、中山道を下って赤坂宿から河渡宿、鵜沼宿を経てここ太田宿に達した事が記されている。
岩屋観音(いわやかんのん)
岩屋観音は岩山の洞窟に祀られた観音石像で、勧請は推古天皇の時代とされている。当初、この辺りは通行が困難な地だったが、享保十五年(1730)に大工事を行い通行を容易にした。参道には太田宿、鵜沼宿の有力者や京・江戸・越後・信州などの商人の寄進者の名が刻まれた石柱が立ち並び、広い地域から信仰されていたことが知れる。ここから長坂・乙坂を登るとうとう峠で、木曽川・犬山城・美濃平野が一望できる。
鵜沼宿(うぬましゅく) 太田宿より二里(約8㎞)
中山道第五十二宿。町並み七町三十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数六十余、人口二百四十余人。宿内を南流する大安寺川で東町と西町に分れ、西町には本陣・問屋場・脇本陣が並んで建ち、その前の往還を水抜きが東西に流れていた。脇本陣の野口家は、大谷刑部少輔吉継の三男大谷九右衛門吉短を祖とする。関ヶ原で敗れた吉短は、野口村に潜み、やがて鵜沼村に移り名を野口甚兵衛と名乗って百姓となり、問屋・庄屋を務めるようになったという。
加納宿(かのうしゅく) 鵜沼宿より四里十町(約17㎞)
中山道第五十三宿。町並み二十一町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数八百余、人口二千七百二十余人。加納城の城下町として発展した加納は、宿場町と城下町が渾然一体となった町で、宿の入口には番所が設けられていた。
加納城は関ヶ原で勝利した徳川家康が、美濃国を東国への備えとして重要視し、関ヶ原後築いた最初の本格的な城で、慶長十年(1605)に完成し、亀姫の聟奥平信昌を十万石で入城させ、加納城初代城主とした。
河渡の渡し(ごうどのわたし)
長良川の渡船場。長良川は常水の時の川幅は五十間ほどであったが、洪水時には百五十間にもなったという。御入用金で修理される渡船二艘が常備され、武士は無料、商人は荷一駄に付き人馬とも十八文、一般の旅人六文とされていた。
河渡宿(ごうどしゅく) 加納宿より一里十八町(約5.8㎞)
中山道第五十四宿。町並み三町、本陣一、旅籠二十四軒、戸数六十余、人口二百七十余人。渡船場に設けられた宿で、長良川の洪水の度に水害に悩まされていたことから、文化十年(1813)、美濃代官が幕府の貸付金二千両をもって宿場全体を五尺高く土盛りし、宿全体を大改修した。
美江寺宿(みえじしゅく) 河渡宿より一里八町(約4.8㎞)
中山道第五十五宿。町並み五町十九間、本陣一、旅籠十四軒、戸数百三十余、人口五百八十余人。本陣は加納藩主が建て、問屋山本金兵衛が管理し脇本陣は置かれない小宿で、長良川の氾濫の度に泥水に漬かり、宿としての条件は最悪だった。幕末頃には雲助、博徒、無頼漢が横行し、中山道で最もがらの悪い宿場として旅人からは敬遠された。しかし、これらの徒によって浪費される金によって飯盛女、酒場が繁盛し、宿場は栄えていたという。
本陣裏に美江寺城址が有り、城は美濃国守護土岐氏の部将和田八郎が居館を構えたことに始まる。以来和田氏の居城となっていたが、斉藤道三が美濃の実験を握った時、和田氏は土岐氏に従ったため、道三に攻められ美江寺城は落城、焼失した。
呂久の渡し(ろくのわたし)
揖斐川の渡船場。川幅は平水で五十間、中水で七十間、大水で百間に及び、薮川が揖斐川に注ぐため急流となり水深も深く、難所の一つと云われる。中山道が整備される以前より交通の要所であったことから、この渡しは設けられていた。
赤坂宿(あかさかしゅく) 美江寺宿より二里八町(約8.8㎞)
中山道第五十六宿。町並み七町十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠十七軒、戸数二百九十余、人口千百二十余人。かつては杭瀬川が宿の脇を流れ、数百艘の川舟が出入りする赤坂湊として賑わった。また、赤坂宿近くの岡山は、徳川家康が関ヶ原の戦で最初に陣を置いた場所で、戦勝を記念して勝山と名付けた小さな小山があり、将軍専用の宿泊所「お茶屋敷」が設けられていた。
『前田慶次道中日記』には
「関ヶ原より赤坂ヘ三里(略)ほのほのと赤坂とこそやらに、日暮れて来る」
と記され、大津から船で琵琶湖を渡り前原湊から北国街道を上って関ヶ原に至った慶次郎が、さらに足を延ばしてこの赤坂宿で宿をとった事が知れる。
青墓(あおはか)
元東山道の宿駅で、平安末期から鎌倉期には多くの遊女や傀儡師のいた宿として知られる。青墓の長者大炊家の関係では、源義朝と延寿、夜叉御前、さらに美濃源氏との関係も深く、照手姫水汲みの井戸の話なども伝わり、長者の管轄下に多くの遊女がいたとされ、その中には芸能や文学に秀でた者が多かったと云われている。この青墓は戦国期まで宿として存続していたと推測されている。
熊坂長範物見の松(くまさかちょうはんものみのまつ)
大盗賊の熊坂長範が、「熊坂長範隠しうまや」と呼ばれる古墳に馬を隠し、古墳(綾戸古墳)の松の木から東山道を通る旅人を物見させ、旅人から金品を奪うなどこの地方を荒らしまわっていたという。その古墳の北側には願証寺と国分尼寺跡が有り、近くの美濃国府跡とともにこの地方の古代の政治中心地だった。
垂井宿(たるいしゅく) 赤坂宿より一里十二町(約5.2㎞)
中山道第五十七宿。町並み七町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、問屋三軒、戸数三百十余、人口千百七十余人。垂井宿は美濃路の起点となる追分の宿場町として賑わった。美濃路は中山道と東海道を結ぶ脇街道で、利用者も多く、ここから大垣、墨俣、起、萩原、稲葉、清須、名古屋を経て東海道の宮宿に達する重要な役割を担った。この辺りの中山道は松並木だったが、戦後まもなく切り倒され、現在、脇街道の美濃路に松並木が残り往時を偲ぶ姿を留めている。また、この地は美濃紙の発祥地で、宿には紙屋塚が有り紙屋の守護神「紙屋明神」が祀られている。さらに南宮神社(美濃一宮南宮大社)への道「御幸道」が通じ、その入口には大鳥居が建っている。
垂井宿より北へ5キロほどの所に竹中半兵衛重治の子重門が、関ヶ原の戦の功績で旗本となり、五千石を領して構えた陣屋がある。
藤古川古戦場・桃配山(ふじこがわこせんじょう・ももくばりやま)
王権継承を巡り対立(壬申の乱672年)した大友王子と大海人王子の両軍が、関ヶ原の藤川(藤古川)を挟んで対峙し戦った合戦場跡。この西に小山が有り、ここに陣を取った大海人王子が兵士に桃を配り士気を鼓舞したことから桃配山と呼ばれる。それから約千年の後、関ヶ原に万全の陣を布く石田三成ら西軍に対し、徳川家康は関ヶ原での最初の陣をここ桃配山に置き、桃を配って勝利したという大海人王子の故事に倣って家康も桃を配ったという。
また、平安時代にはこの付近に長者館が有って遊女(野上の遊女)が多くいたことでも知られている。吉田の少将が長者の家に泊まり遊女花子と結ばれるが、別離の後、花子は少将への恋慕の情がつのり、とうとう狂女になってしまったという話も伝わり、そんな花子の守り本尊を祀った観音堂が近くの真念寺境内にある。
関ヶ原宿(せきがはらしゅく) 垂井宿より一里十四町(約5.4㎞)
中山道第五十八宿。町並み十二町四十九間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、問屋六軒、戸数二百六十余、人口千三百八十余人。ここ関ヶ原宿は北国街道、伊勢街道の分岐点で、三街道が交差するため人馬の通行も多く、旅籠には飯盛女も置かれ大変な賑わいを見せていた。
「関ヶ原は、むかし不破ノ関のあった地で、美濃の不破郡にある平原。近江の伊吹山脈と美濃の養老山脈との相つらなる処。中仙道と北国街道との交差点になっている四通八達の要路である」と記される様に交通の要地であった事から、慶長五年(1600)、石田三成ら西軍はここに陣を布き、東から来る家康軍を迎え撃つ事となった。
『前田慶次道中日記』に、
「菩堤山のふもと関ヶ原まで付、予がめしつかふ高麗人、いたくわづらひて馬にても下るましきなれば、菩堤の城主に文そへて預をく、楚慶 寉人とて子ふたりあり、これは奥につれて下る、親子の別かなしむ、楽天が慈烏失其の母を唖々吐哀音をといへり、此ひとこま(高麗)人なれば、不如禽の悲に、是さへ涙の中だちとなりぬ」
と有り、慶次郎の召し使う高麗人が体調を崩し、道中を共にする事が出来なくなり関ヶ原菩提の城主に預ける事となるが、その高麗人には子供二人がいて、奥州に下る子供との別れを悲しむ親子を慶次郎は優しく見守っている様が伺える。
『地名便覧』「関ヶ原」の項参照。
不破関跡(ふわせきあと)
壬申の乱後、天智大王(大友王子)が東国からの防衛地点としてこの地を重視、東山道に設けた関跡。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の一つ。
今須峠(いますとうげ)
美濃国の西端にある峠。一条兼良の『藤川の記』に「伊増たうげといふはみののさかひにて堅城とみえたり」と記され、古来より嶮要の地とされ、馬も滑るほどの急坂だったが、峠の頂上には茶屋が有り、旅人で賑わった。この峠の手前藤下村の集落の西外れに義経の母常盤御前の墓が有る。義経を追って東国へ下る途中、土賊に教われ殺害された。これを哀れんだ源氏所縁の青墓の長者がこの地に墓を建てたという。この墓の傍に「義朝の心に似たり秋の風」と詠んだ芭蕉の句碑が有る。
今須宿(いますしゅく) 関ヶ原宿より一里(約4㎞)
中山道第五十九宿。町並み十町五十五間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、問屋七軒、戸数四百六十余、人口千七百八十余人。美濃国最期の宿場で、濃州三湊と米原湊を結ぶ九里半街道の荷継ぎ宿として北国街道の荷継ぎ宿関ヶ原宿と荷継ぎを巡り度々争った。
柏原宿(かしわばらしゅく) 今須宿より一里(約4㎞)
中山道第六十宿。町並み十三町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十二軒、問屋五軒、戸数三百四十余、人口千四百六十余人。東山道の宿駅として古くから存在し、町は東町、宿村町、市場町、今川町、西町と続き近江国内で一番長い町並みを形成していた。ここ柏原は伊吹艾(もぐさ)の名産地として知られ、『木曽路名所図会』にも「此駅は伊吹の麓にして名産伊吹艾の店多し」と記されている。
宿の近くには倒幕を企てたとして鎌倉幕府により逮捕され鎌倉へ送られる途上、幕命によりこの柏原の地で殺された公卿北畠具行の墓が有る。
醒井宿(さめがいしゅく) 柏原宿より一里十八町(約5.8㎞)
中山道第六十一宿。町並み八町二間、本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、問屋七軒、戸数百三十余、人口五百三十余人。醒井の地名の起こりは、居醒の清水に由来するといわれ、清水にまつわるさまざまな伝説が有る。宿の手前加茂神社の石垣から沸き出していて、日本武尊の腰掛石、鞍掛石などが並び、往来する旅人が杖を置いて休息したという。この外、十王水、西行水と呼ばれる泉が周辺に沸き出し、醒井の名勝として知られる三水四石を生んだ。文政期の道中案内には「この宿駅に三水四石の名所あり。すなはち、日本武尊居寝の清水、十玉の水、西行の水これ三水。日本武尊腰掛石、くらかけ石、蟹石、明神影向石これ四石」と書かれ、宿場の中にきれいな水が流れる「水の宿」として知られた。
番場宿(ばんばしゅく) 醒井宿より一里(約4㎞)
中山道第六十二宿。町並み一町十間、本陣一、脇本陣一、旅籠十軒、問屋六軒、戸数百七十余、人口八百余人。慶長八年(1603)、北村源十郎が米原港を築き、中山道と港を結ぶ米原道との合流点に旧東山道の宿を移転して作られた宿駅。
「…ところは江州阪田の郡、醒ヶ井から南へ一里、磨鉢峠の山の宿場で、番場という処がござんす」という長谷川伸の名作『瞼の母』の中で、番場の忠太郎が、めぐり合えた母に向って云う台詞。ここ番場宿はその「番場の忠太郎」所縁の宿でもあり、宿場にある蓮華寺に、「忠太郎地蔵」が祀られ「南無帰命頂礼 親をたづぬる子に親を 子をたづぬる親には子を めぐりあわせ給え」という長谷川伸の言葉が刻まれている。またこの蓮華寺は一向上人の開基で、六波羅探題北条仲時が、北朝の光厳天皇と後伏見・花園両上皇、十六皇族を奉じて南朝軍と戦い、仲時以下四百三十余人が、この寺の本堂前庭で自刃している。
鳥居本宿(とりいもとしゅく) 番場宿より一里一町(約4㎞)
中山道第六十三宿。町並み十町、本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百九十余、人口千四百四十余人。彦根藩主井伊直孝が中山道から彦根城に通ずる道(彦根道)を建設し、その合流点に東山道の宿だった、元東海道、中山道当初の宿場小野宿を移転し鳥居本宿とした。この地の名産は雨合羽で、最盛期には十八軒もの店が軒を連ねていたという。
小野(おの)
古代からの宿駅だったが、中山道の整備に伴い宿駅機能は鳥居本宿へ移された。この小野の集落の近くには小野小町の出生地を伝える小野塚が有る。
高宮宿(たかみやしゅく) 鳥居本宿より一里十八町(約5.8㎞)
中山道第六十四宿。町並み七町十六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十三軒、戸数八百三十余、人口三千五百六十余人。高宮宿は多賀大社の門前町として栄えた宿駅で、高宮布の産地として知られた。多賀大社は伊邪那岐命・伊邪那美命を祀る官幣大社で、江戸中期には多賀講もでき「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀さんへは月まいり」などと謡われ、「お多賀さん」と親しまれた大社。ここの名物が「お多賀杓子」で、「おたまじゃくし」の語源ともいわれている。
愛知川宿(えちがわしゅく) 高宮宿より二里(約8㎞)
中山道第六十五宿。町並み五町三十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数百九十余、人口九百二十余人。
武佐宿(むさしゅく) 愛知川宿より二里十八町(約9.8㎞)
中山道第六十六宿。町並み八町二十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒、戸数百八十余、人口五百三十余人。ここ武佐宿は湖東と伊勢を結ぶ八風街道の分岐点となっている。
守山宿(もりやましゅく) 武佐宿より三里半(約14㎞)
中山道第六十七宿。町並み十一町五十三間余、本陣二、脇本陣一、旅籠三十軒、問屋三軒、戸数四百十余、人口千七百余人。
草津宿(くさつしゅく) 守山宿より一里半(約6㎞)
東海道第五十二宿、中山道第六十八宿。町並み東西四町三十八間、南北七町十五間余、本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百八十余、人口二千三百五十余人。ここ草津は東海道と合流する追分宿で、本陣も二つ有り、多くの旅人で賑わった。
大津宿(おおつしゅく) 草津宿三里二十四町(約14.4㎞)
東海道第五十三宿、中山道第六十九宿。町並み東西十六町五十一間、南北三十六町十九間、本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒、戸数三千六百五十余、人口一万四千八百九十余人。中山道最後の宿で東海道の宿駅大津は、商業の町として東海道でも有数の町であったことから、多くの人々でごったがえしていた。琵琶湖舟運の集荷場として、街道筋には米穀類の問屋、幕府および各藩の蔵屋敷が建ち並び、米相場もここで決まったといわれる。
江戸より京まで百三十二里の長い道中は、余すところあと三里となる。
甲州道
甲州道
下諏訪まで四十五宿三十一次
徳川家康が江戸に幕府を開くと、古くからあった交通路の東海道・東山道(中山道・奥州道)を、江戸を起点とした街道に整備した。その時、関東の防備となる要地甲斐国に通じる道の整備を、大久保長安に命じて開通させたのが甲州道であった。
始めは甲府までの道中だったが、中山道下諏訪宿まで延伸し、家康没後、東照宮が日光へ移されるに及んで、奥州道と併設した日光道が開通し、幕府直轄の五街道の制度が整い、甲州道中も整備された。しかし、この甲州道中は、新たに作られた宿駅が多く、伝馬業務を相宿・合宿で行なう宿が多かったため、次数よりも宿場の数が多い変則的な街道で、宿駅の数え方も三十一次、三十三次など、さまざまとなっている。
内藤新宿(ないとうしんしゅく) 日本橋より二里
甲州道中第一次(つぎ)。町並み九町十間余、本陣一(寛政期には三軒となっている)、旅籠二十五軒(後には五十二軒に増加)、戸数六百九十余、人口二千三百七十余人。
始めこの甲州道中第一番目の宿は高井戸宿だったが、日本橋からの距離四里余と長かったことから、継立ての人馬が苦労した。そこで、浅草阿部川町の名主高松喜兵衛(後喜六と改名)を筆頭に四名連署の請願を出し、元禄十一年(1698)に認められ、新しく作られた宿駅。幕府がまとめた地誌『新記』には「内藤新宿は昔は萱野芦原なりしが、元禄十一年、内藤氏の旧邸あるを以て、其儘内藤と名附、人馬継立の駅亭とせらる」とあり、高遠藩内藤氏の江戸屋敷跡地を利用して作られた事から内藤新宿という宿場名となり、現在ではただ新宿と呼ばれるようになった。この新宿は、甲州裏路と呼ばれた青梅道(街道)との追分で、品川、板橋、千住とともに江戸四宿の一つとして大いに賑わった。天保年間(1830〜43)に刊行された『飛鳥川』には「四ッ谷大路の田舎馬、引きもきらず。内藤新宿のうかれめ(浮かれ女)に、引手茶屋も物好きを顕はし、四ツ手駕もしげ/\通ひ、頗る賑はひのみやびあれど、元是杓子の名ある駅妓なり」と記され、飯盛女(杓子)が置かれ、一種の色町として繁栄した。しかし、こうした繁栄が風紀の紊乱をもたらし、明和元年(1764)、八代将軍吉宗によって宿駅は廃止された。その後、明和九年(1772)に老中田沼意次が、冥加金百五十両を毎年上納する条件で再開させた。
高井戸宿(たかいどしゅく) 内藤新宿より下高井戸宿まで二里
甲州道中第二次。元甲州道中第一番目の宿駅として設けられたが、内藤新宿が作られ、道中二駅目の宿場となった。下高井戸宿と上高井戸宿の二宿の合宿で、宿間は十二町四十間となっている。下高井戸宿の町並み右側(杉並区側)十八町、左側(世田谷区側)十三町四十間、本陣一、旅籠三軒、戸数百八十余、人口八百九十余人。上高井戸宿の町並み六町、本陣一、旅籠二軒、戸数百六十余、人口七百八十余人。問屋場はそれぞれ一軒づつあり、上十五日が下高井戸宿、下十五日が上高井戸宿と半月交替で荷を取り扱った。
布田宿(ふだしゅく) 上高井戸宿より国領宿まで一里十九町
甲州道中第三次。初め上石原宿、下石原宿の二宿の合宿で「石原宿」と称したが、やがて人家が増え、国領宿、上布田宿、下布田宿が形成され、『新記」に「上布田、下布田、上石原、下石原、国領の五宿、総称して布田宿とす」と有るように、後には五宿を総称して布田宿と呼ばれた。国領宿の町並み七町半余、旅籠一、戸数六十余、人口三百余人。国領宿より三町で下布田宿に至り、町並み三町三十七間、旅籠三、戸数九十余、人口四百二十余人。下布田宿より上布田宿まで二町、町並み五町五十八間、旅籠一軒、戸数六十余、人口三百十余。上布田宿より下石原宿まで八町、町並み六町四十間、戸数九十余、人口四百四十余人。下石原宿より上石原宿まで七町、町並み五町五十一間、旅籠四軒、戸数七十余、人口四百十余人と『宿村大概帳』に有り、本陣・脇本陣は置かれていなかった。問屋の継立ては国領宿の一日から六日より始まり、順番に六日づつ交替で務めた。
この石原宿は、江戸期に甲州街道が整備される以前より、江戸と小田原を結ぶ鎌倉街道(古東海道)の中継地として知られ、太田道灌が主君扇谷上杉定正の居館のあった相模国糟屋(現伊勢原市)に通った道でもある。道灌の弟資忠の妻はこの地の豪族石原出雲の女という。国領からは元三大師として知られる深大寺への道が通じ、参詣客で賑わった。また、布田は古くは補陀とも書かれ、布多天神が祀られている事でも知られている。この布田宿町が調布という市の名前になったのは、万葉集に「玉川に曝す調布(てづくり)さらさらに 何ぞこの児のここだ愛しき」とあるように、古来からこの地方では織布が盛んで、布を租税として納めていた事から付けられた名前で、近代になって生まれた地名。
府中宿(ふちゅうしゅく) 上石原宿より一里十町
甲州道中第四次。武蔵国府のあった地で、始め東山道に属し上野国府からここへ官道の支路(川越道)が延びていた。しかし、これでは交通が頗る不便だったため、宝亀二年(771)、東海道に組み入れられ、官道も相模国府(現海老名市)から座間・町田を経てここに通じる形になった(古東海道)。江戸口から新宿・本町・番場宿と並び、三宿からなっている。町並み東西十二町六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十九軒、問屋場三軒、戸数四百三十余、人口二千七百八十余人。
中心は本町宿で、甲州道中ができる前から、川越道、相模道(鎌倉道・古東海道)に沿った宿として古くから形成されていた。新宿は五十嵐采女が中心となって宿立てをした事から、采女宿と呼ばれ、番場宿も同様に矢島茂右衛門らが宿立てを行なったことから茂右衛門宿と呼ばれた。府中宿で公認の飯盛旅籠ができたのは安永六年(1777)とされ、最初二軒だけだったが、後には八軒に増えている。
日野の渡し(ひののわたし)
多摩川の渡船場。甲州道の開設当初は下流の四ッ谷村から対岸の満願寺村に渡っていたことから「満願寺の渡し」と呼ばれていた。その後、上流(現在の日野橋より二百m上流)に移動し、「日野の渡し」と名が変わる。渡しの管理運営は日野宿が行ない、その利益が宿にもたらされたという。
日野宿(ひのしゅく) 府中宿より二里
甲州道中第五次。江戸口から下宿・中宿・上宿と続き、町並みは東西九町余、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数四百二十余、人口千五百五十余人。中宿から高幡不動へ通じる高幡道(不動道)と呼ばれた道が別れていた。日野宿に宿泊する旅人は少なかったが、富士参りの富士講の旅人が定宿としていた。これは、日野宿には平旅籠しかなく、飯盛女がいなかったことから講中に好まれたためという。
横山宿(よこやましゅく) 日野宿より一里二十七町四十八間
甲州道中第六次。八王子の宿場で総称を横山宿といい、八王子十五宿といった。八王子宿の本宿は横山宿と八日市宿で、伝馬業務を助ける加宿十三宿があった。東から街道沿いに横山宿、八日市宿、八幡宿、八木宿、追分を経て久保宿、嶋の坊宿と続き、その北側に新町、本宿、横町、本郷宿、南側に馬乗宿、子安宿、寺町、上野原宿、小門宿の十五宿からなり、町並み東西三十五町四間、本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒、問屋場二、戸数千五百四十余、人口六千二十余人とされる大きな宿場町。八王子宿の追分は、案下道(陣場街道)との追分となっている。
『地名便覧』【東海道】「武蔵国」地名解説にある「八王子」の項参照。
駒木野宿(こまきのしゅく) 横山宿より一里二十七町
甲州道中第七次。町並み東西十町、本陣一、脇本陣一、旅籠十二軒、問屋場三軒、戸数七十余、人口三百五十余人。町並みは下宿・中宿・上宿と続き、中宿が中心となっていて、ここに小仏関所が置かれていた。継ぎ立ては小仏宿との相宿。
小仏関所は、駒木野関所とも呼ばれ、関東四関の一つで、「入り鉄砲、出女」を厳しく取り締っていた。関所の守りは当初、八王子千人同心が警備についていたが、元和九年(1623)専任の関守として四家が定められ、常勤となった。
小仏宿(こぼとけしゅく) 駒木野宿より二十八町
甲州道中第七次。町並み二十町四十七間、旅籠十二軒、戸数五十八、人口二百五十余人。駒木野宿との相宿で、本陣・脇本陣は置かれず、伝馬継立ての業務を半月交替で行なっていた。旅籠も農家兼業の木賃宿だけだったという。
小仏の名の由来は、奈良時代に僧行基が山に寺(小仏山宝珠寺)を設け、小さな仏を安置したことによるとされている。
小仏峠(こぼとけとうげ)
小仏峠の標高は548mで、笹子峠とともに甲州道中の二大難所として知られ、荻生徂徠の『峽中紀行』などに道中の難儀の様子が記されている。峠頂上が武蔵国と相模国の国境で、戦国時代には小田原北条氏が国境の備えとして、この地に警備の隊を常駐させていた。江戸期に入ると、駒木野に関所が設けられる迄、関東警固の要地として八王子千人同心が警備にあたった。
小原宿(おばらしゅく) 小仏宿より一里二十二町
甲州道中第八次。町並み二町半、本陣一、脇本陣一、旅籠七軒、戸数六十余、人口二百七十余人。次の与瀬宿との相宿で、甲府方面への継ぎ立てを行なう片継ぎの宿場。
本陣家屋が現存し、神奈川県下では唯一の現存建物として相模湖町教育委員会の管理により、一般に公開されている。
与瀬宿(よせしゅく) 小原宿より十九町
甲州道中第八次。町並み六町五十間、本陣一、旅籠六軒、戸数百十余、人口五百六十余人。相模国を流れる一番大きな川相模川の渓谷にそった宿で、木材の川流し、舟運で成り立っていた集落で、幕府の番所も置かれていた。宿場としての継ぎ立ては、江戸方面の伝馬だけを扱う片継ぎ宿で、ここを出て小原宿を通過し、小仏宿まで継いだ。「此宿左裏相模川有之。右川筋にて鮎之漁猟有之」と書かれた宿で、鮎料理が評判の宿として知られたが、安藤広重の『広重甲州道中記』で「与瀬の宿入口茶屋に休。あゆのすしをのぞむ。三人手つだいて出来上がり出す。甚だ高値、其の代りまづし」と酷評され、打撃を受けたという。武田家の旧臣坂本家が本陣を務め、次の吉野宿の本陣とともに甲州道中では規模の大きな本陣だったという。
吉野宿(よしのしゅく) 与瀬宿より三十四町二十八間
甲州道中第九次。町並み三町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠三軒、戸数百余、人口五百二十余人。この宿も相模川に沿ってある宿場で、江戸と甲府の中間点(共に十八里)に位置し、本陣を中心にあらゆる業種が軒を連ね、旅人に必要な物品を提供する宿場だった。本陣は名主吉野家が務め、与瀬本陣坂本家とともに甲州道中最大規模の本陣であったという。
関野宿(せきのしゅく) 吉野宿より二十六町
甲州道中第十次。町並み一町十六間、本陣一、脇本陣一、旅籠三、戸数百三十、人口六百余人。甲州道中で一番小さい町並みで、街道沿いは僅か二十五戸だったという。相模国最後の宿場で、宿場の先にある境川が相模国と甲斐国の境をなしている。
上野原宿(うえのはらしゅく) 関野宿より三十四町
甲州道中第十一次。宿場は新町と本町に別れ、町並み六町十八間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十軒、問屋場二軒、戸数百五十余、人口七百八十余人。伝馬継ぎ立ては上十五日を本町が行ない、下十五日は新町と交互に行なっていた。この宿の手前で、八王子から別れた案下道(陣場街道)が合流する。この案下道は甲州道の裏街道として古くから知られており、花井の集落に口留番所があったという。『津久井日記』には「商人軒を並べ、織もの、畑物、干魚、うつは、何くれとなくひさくにそ、酒売門には鮎の魚ほこら顔にならべ立るも、所の名物なれこそ」と記され、その商業活動が盛んだったことが伺える。
また、『勝山記』に「天文二十三年極月、晴信様の御息女を相州へ送る。ひきめの役は小山田弥三郎殿、御供の騎馬三千、人数一万、請取渡は上野原にて御座候、相州より御迎にて遠山殿、是も五千許にて候」とあり、戦国期から一万五千人もの人数を引き受けられる集落として発展していた。
鶴川の渡し(つるかわのわたし)
「増水時、徒歩(かち)渡し」とされ、甲州道中唯一の徒歩渡しだった。増水時とは夏季四月から九月までで、冬期十月から三月は板橋が架けられていた。橋と渡しの管理は上野原宿と次の鶴川宿が共同で行なっていたが、ここの渡し人足は無頼の徒が多く、法外な渡し賃を請求したり脅し取って旅人と度々問題を起こしていたという。
鶴川宿(つるかわしゅく) 上野原宿より十八町
甲州道中第十二次。町並み二町三十間、本陣一、脇本陣二、旅籠八軒、戸数五十余、人口二百九十余人。鶴川の川留めに備えた宿で、渡し人足の横暴で、恣意的に川留される事もあったという。ある時、諏訪因幡守が江戸参勤の折、川留に遇ったが飛脚が来ると飛脚だけを通し、またすぐに川留となり、諏訪家の家中が怒り自力で渡河した。その後、鶴川宿の宿役人は厳しく咎められたという。
野田尻宿(のだじりしゅく) 鶴川宿より一里三町三十間
甲州道中第十三次。町並み五町余、本陣一、脇本陣一、旅籠九軒、戸数二百九十余、人口六百余人。当時の旅籠の様子を安藤広重は「小松屋と云へるにとまる。広いばかりにて、きたなき事おびただし、へのような茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなきのた尻の宿」と『広重甲州道中記』で書いている。さらに続けて「塩あじ半切、汁菜、平氷どうふいも菜、飯」と夕食の献立も載せている。賄い付きの旅籠とはいえ、天保十二年(1841)になっても、山間の宿屋ではこの程度の食事が普通だったらしい。
犬目宿(いぬめしゅく) 野田尻宿より三十一町
甲州道中第十四次。町並み五町二十六間、本陣二、旅籠十五軒、戸数五十余、人口二百五十余人。この宿は、甲州道開設時に、現在の集落より南方の斜面にあった犬目村の集落を街道に沿って移転させて出来上がった。
鳥沢宿(とりさわしゅく) 犬目宿より下鳥沢宿まで一里六町十四間
甲州道中第十五次。この鳥沢宿は、下鳥沢宿と上鳥沢宿の合宿で、半月交替で継ぎ立てを行なった。宿間は五町三十間、下鳥沢宿は下町、中町、上町の三町からなり、町並み四町三十間余、本陣一、脇本陣二、旅籠十一軒、戸数百四十余、人口六百九十余人となっている。この宿の町並みは、人馬継ぎ立てや駕篭の乗降を考えて、街道筋から奥まって建てられていた事から、道幅が広くなった現代でも、街道に沿って家並みが続き、往古の面影を留めている。上鳥沢宿は下宿、中宿、上宿と続き、町並み七町十七間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、戸数百五十余、人口六百五十余人となっている。
鳥沢という名の由来は、次宿の猿橋宿の申と、前宿の犬目宿の戌の間にある事から、十二支の並びで申戌の間の酉の付く鳥沢という名を付けたという。
猿橋(さるはし)
桂川に架かる橋。橋桁を用いず、両岸から四層にせり出したはね木を設け、それを支点に木のけたを架け渡す「肘木けた式橋」という独特の構造を持つ橋で、岩国の錦帯橋、木曽の桟とともに「日本三大奇橋」の一つとなっている。伝説によれば、推古天皇の頃、百済からの渡来人志羅呼(芝耆麿)が猿の群れが川を越える様子を見て発案し、架橋に成功したとされる。また、「算橋」が訛って「猿橋」となったという説も有る。ともあれ、その渓谷の美しい景観に溶け込んだ構造物として高く評価され、国の名勝にも指定されている。
猿橋宿(さるはししゅく) 上鳥沢宿より二十六町半
甲州道中第十六次。町並み三町三十四間、本陣一、脇本陣二、旅籠十軒、戸数百三十余、人口五百四十余人。景勝「猿橋」を見物しようと、旅籠や茶屋に宿泊したり休息する旅人で宿は賑わった。
駒橋宿(こまはししゅく) 猿橋宿より二十二町
甲州道中第十七次。町並み十町五十四間、旅籠四軒、戸数八十余、人口二百六十余人。本陣も脇本陣も無く、町並みは十一町弱と長いが、家並の間に田畑がある寂しい宿場であったという。現在は国道から外れたおかげで、古い家並を残し、旧観を留めた静かな佇まいを見せている。
大月宿(おおつきしゅく) 駒橋宿より十六町二十六間
甲州道中第十八次。町並み四町余、本陣一、脇本陣二、旅籠二軒、戸数九十余、人口三百七十余人。この宿場も家並の間に田畑があり、旅籠も二軒だけという寂しい宿場。大月という名の由来は、宿場手前の三島神社にあった大欅を大槻と呼んだことから、「大月」の名が起こったという。」また、別説には宿内の「不動堂」(無遍寺)から見た月が、扇山と高畑山の低い所から出て、月が大きく見えたことから「大月」という名が起こったともいわれる。
宿をでるとすぐに大月の追分がある。ここは、甲州道から東海道へ抜ける「豆州相州道」が別れていた。豆州相州道は谷村を経て桂川沿いに吉田に至り、上吉田で鎌倉道と合流し籠坂峠を越えて東海道の豆州三島宿、相州小田原宿へと通ずる脇往還として利用された。
花咲宿(はなさきしゅく) 大月宿より下花咲宿まで十三町四十二間
甲州道中第十九次。下花咲宿と上花咲宿からなる合宿で、継ぎ立ては上花咲宿が上十五日、下花咲宿が下十五日と交替で行なった。下花咲宿の町並みは四町十六間、本陣一、脇本陣二、旅籠二十二軒、戸数七十余、人口三百七十余人とされ、上花咲宿は、下花咲宿より五町五十八間で、町並み四町十一間、本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒、戸数七十余、人口三百余人とされる。
初雁宿(はつかりしゅく) 上花咲宿より下初雁宿まで三十五町三十六間
甲州道中第二十次。下初雁(初狩)宿と中初雁(初狩)宿の二宿の合宿で、宿間は八町二十四間、継ぎ立てを中初雁宿が上十五日、下初雁宿が下十五日と交替で行なっていた。下初雁宿の町並み七町、本陣二、脇本陣二、旅籠十二軒、戸数百五十余、人口六百十余人。中初雁宿の町並み十町四十四間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百余、人口四百五十余人。
前宿の花咲村、初狩村周辺は甲斐国郡内領と呼ばれ「郡内織」という良質な絹織物の産地として知られた。花咲宿、初狩宿の女性たちはそれらの織物に携わっていた。また、天保七年の大飢饉を切っ掛けに起こった郡内騒動と呼ばれる宿駅を巻き込んだ一揆の舞台ともなった。
白野宿(しらのしゅく) 中初雁宿より一里八町
甲州道中第二十一次。町並み五町十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四軒、戸数八十余、人口三百十余人。この白野宿は、次宿阿弥陀海道宿、次々宿黒野田宿との相宿で、継ぎ立てを一月のうち二十三日から晦日まで白野宿が行なった。天保の「郡内一揆」勢はこの宿の天神坂に集結したという。
阿弥陀海道宿(あみだかいどうしゅく) 白野宿より十八町
甲州道中第二十一次。元禄年間以降、吉窪村落に新たに作られた宿駅。町並み四町、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百三十余人。白野宿、黒野田宿との相宿で、継ぎ立ては十六日から二十二日までを担った。宿場入口近くに阿弥陀堂があって、行基が刻んだ阿弥陀如来像が祀られていたという。そのことからこの辺りを「阿弥陀が谷」と呼んでいたといい、それが訛って「阿弥陀海道」となったと云われている。
黒野田宿(くろのだしゅく) 阿弥陀海道宿より十二町
甲州道中第二十一次。町並み四町、本陣一、脇本陣一、旅籠十四軒、戸数七十余、人口三百三十余人。白野宿、阿弥陀海道宿との相宿で、一日から十五日まで人馬継ぎ立て業務を行なっていた。難所とされる笹子峠を控えた宿場で、三宿の中では一番賑わっていたという。賑わったとは云え、旅籠はみすぼらしかったらしく、安藤広重は『甲州道中記』に「扇屋へ行く、断る故若松屋といへるに泊る。此家古く、今きたなし、前の小松屋(野田尻宿)に倍して、むさいこといはん方なし、壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれども、ほこり埋み、蜘蛛の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり」と記している。
笹子峠(ささごとうげ)
甲州道中最大の難所と云われる標高1096mの峠。黒野田宿を出て、沢沿いに広重が『道中記』の中で「笹子峠と云ふ大難所、さみしき山也、殊之外高し深山也」と記した山道を登り、鬱蒼とする杉林の中を行く。しばらくすると中の茶屋(笹子茶屋/三軒茶屋)が有り、全盛期には旅人の憩いの場として栄えたという。そこからさらに登ると「矢立ての杉」と呼ばれる杉の大木が有る。源頼朝が富士の巻狩りで射た矢がこの杉に当たって立ったからという伝承が有り、戦国期には戦場に向う武士がこの杉に矢を射立て、武運を祈願したとも言い伝えられた杉木で、広重も「夫より又のぼりて、矢立の杉、左にあり、樹木生茂り、谷川の音、諸鳥の声、いと面白く、うかうかと越えて、休む」と記し画にも書いている。またさらに登り天満宮が祀られている山頂に達し、ようやく下りになる。下る途中には『五街道中細見記』に「名物あま酒茶屋」と記された甘酒茶屋が有った。また、反対からの登り口の沢沿いにも「桃の木茶屋」と呼ばれた三軒の茶屋があったという。現在はすべて跡地だけとなっている。
駒飼宿(こまかいしゅく) 黒野田宿より二里五町三十二間
甲州道中第二十二次。町並み四町余、本陣一、脇本陣一、旅籠六軒、戸数六十余、人口二百七十余人。次宿の鶴瀬宿との相宿で、人馬の継ぎ立てを二十一日から晦日までこの宿で担った。
鶴瀬宿(つるせしゅく) 駒飼宿より十八町
甲州道中第二十二次。町並み三町半余、本陣一、脇本陣二、旅籠四軒、戸数五十余、人口二百四十余人。人馬の継ぎ立ては駒飼宿との相宿で、一日から二十日までこの宿が務めた。
この宿の入口には甲州一二関の一つとされる鶴瀬番所(口留番所)が設けられていて、「入鉄砲に出女」を取り締まっていたが、『津久井日記」に「はや鶴瀬の関近し、女二人はここよりうら山に入ぬ」と、同行の女が番所を抜けるため裏道を通ったことが公然と記されていて、境川番所(上野原)同様、かなり甘く形式化していたという。
勝沼宿(かつぬましゅく) 鶴瀬宿より一里三町
甲州道中第二十三次。宿は東から上町、仲町、本町、下町、富町、堰合と続き、町並みは十二町と長く、本陣一、脇本陣二、旅籠二十三軒、戸数百九十余、人口七百八十余人とされる。
この勝沼の地は、武田信虎の弟次郎五郎信友が館を構え勝沼氏を称していた。しかし、二代信元の時、永禄三年(1560)、「逆心の文あらはれて勝沼五郎どの御成敗」(『甲陽軍鑑』)と記され、勝沼氏は本家に攻められ二代で滅びている。上町の南、日川右岸の段丘上に、その館跡があったが遺構はほとんど残されていない。
栗原宿(くりはらしゅく) 勝沼宿より三十一町三十六間
甲州道中第二十四次。町並み六町、本陣一、脇本陣一、旅籠二十軒、戸数二百四十、人口千五十余人。毎月四、九の日に六斎市が立ち、物資の集散もあって、茶屋などが立ち並び宿場は繁栄していたという。
石和宿(いさわしゅく) 栗原宿より一里二十町三十間
甲州道中第二十五次。町並み六町余、本陣一、脇本陣二、旅籠十八軒、戸数百六十余、人口千百四十余人。
石和は、この地に住していた石和(武田)五郎信光が、兄の宗家武田有義の死により、宗家を継ぎ甲斐国守護となって以来、信虎が躑躅ヶ崎に移すまで甲斐国の守護所として政治の中心となっていた。
石和の渡し(いさわのわたし)
別名「川田の渡し」といい、笛吹川の渡し。四月から十一月までが渡船、十二月から三月にかけては長さ六十間余の仮橋を架けて通行していた。石和河岸からは身延詣での舟が発着し、講中の人々の通路として賑わった。
甲府(柳町)宿(こうふしゅく) 石和宿より一里十九町
甲州道中第二十六次。甲府の城下町に付属した宿場で、柳町の町並み東西南北四町四十七間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数二百余、人口九百余人。旅籠屋は柳町二丁目から三丁目の両側に軒を連ね、最盛期には三十四軒が営業していたとされ、安永二年(1773)には一軒につき二人の飯盛女を置く事が公認されていた。この他、甲府の城下町は城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金手町、工町、八日町、片羽町、西青沼町の九ヶ町からなっていた。
『地名便覧』【東海道】「甲斐国」にある地名解説「甲府」の項参照。
韮崎宿(にらさきしゅく) 柳町宿より三里二十町五十間
甲州道中第二十七次。町並み十二町、本陣一、旅籠十七軒、戸数二百三十余、人口千百四十余人。この宿の街道沿いの家並みは、鋸歯状に道路に一定の角度をつけて斜に建っていた。これは斜交家屋といわれ、宿場の設立時に街道に面した家屋をそのようにするよう取り決めて作った計画的な町作りで、中山道塩名田宿など他の宿場にもみられる。鉄砲を避けるためとか、街道の埃が風で家の中に吹き込むのを防ぐためとか諸説あるが、馬繋ぎの柵や石の位置から馬の荷物を積み降す際に、通行の邪魔にならないようこのように作られたと考えられている。こうした町作りからも伺えるように、この韮崎宿は、富士川の舟運が開かれ荷物の集散地として賑わい、馬宿としても栄えた町だった。
台ヶ原宿(だいがはらしゅく) 韮崎宿より四里
甲州道中第二十八次。町並み九町半、本陣一、旅籠十四軒、戸数百五十余、人口六百七十人。この台ヶ原宿は次宿教来石宿、次々宿蔦木宿三宿との変則的な相宿。甲府・江戸方面の人馬継ぎ立ては一日から二十五日まで韮崎宿へ、武家荷物は丸一月間韮崎宿へ継いだ。諏訪方面へは一日から二十五日は蔦木宿へ、二十六日から晦日までは教来石宿へ継ぎ立てた。
教来石宿(きょうらいししゅく) 台ヶ原宿より一里十四町
甲州道中第二十八次。町並み四町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠七軒、戸数百四十余、人口六百八十余人。江戸方面への武家荷物は取り扱わず、その他の荷物を一日から二十五日は台ヶ原宿へ、二十六日から晦日は韮崎宿へ継いだ。諏訪方面へは二十六日から晦日の間だけ蔦木宿へ継いだ。申し合わせ内容も複雑で、違反が多く訴訟になることもあった。この教来石宿は、休息、伝駅業務を目的とした宿というよりも、甲斐・信濃国境にあったことから国境の防備的な性格をもっていたという。
蔦木宿(つたきしゅく) 教来石宿より一里六町
甲州道中第二十九次。町並み四町半、本陣一、旅籠十五軒、戸数百余、人口五百余人。『金草鞋十三編』に「あくれば、二里半ほどゆきて、つた木の宿にいたる。この宿にも大さかや源えもんというよき宿屋あり」と記し、「名にめでで蔦木のしゆくやたび人にからみつきたるとめ女ども」と狂歌に詠って、飯盛旅籠の風景など宿場の様子を描いている。
金沢宿(かなざわしゅく) 三里四町二十五間
甲州道中第三十次。町並み八町、本陣一、旅籠十七軒、戸数百六十余、人口六百二十余人。甲州道中が甲府まで完成し、その後下諏訪まで延伸された時に造られた新宿で、当初は宮川と矢ノ川の扇状地権現原平に設けられ「青柳宿」と称した。しかし、この地域が宮川の氾濫などで度々水害に見舞われる事から、大火で全焼したのを期に慶安四年(1641)、現在の地に移って「金沢宿」と改称した。
上諏訪宿(かみすわしゅく) 金沢宿より三里十四町
甲州道中第三十一次。町並み五町余、本陣一、旅籠十四軒、戸数二百三拾余、人口九百七十余人。この上諏訪宿のある地は、室町期にこの地方を支配していた諏訪氏の本拠地で、諏訪宗領家が武田氏に滅ぼされるまで諏訪地方の中心地だった。
宿の手前(江戸より)に追分があり、大門道が分れている。大門道はここから矢ヶ崎を通り上川沿いに湯川に出て、柏原を経由して大門峠に通じていた。
『地名便覧』【東山道】「信濃国」にある地名解説「諏訪」の項参照。
下諏訪宿(しもすわしゅく) 上諏訪宿より一里十二町
甲州道中終宿。諏訪大社の門前町、温泉町、そして中山道第二十九宿として栄えた宿場町。
ここから江戸へは行程五十三里余、諏訪湖を眺め、甲斐駒ヶ岳、富士山を仰ぎ見ながら、清流にそって笹子峠、小仏峠の狭い道を抜け小仏関所を通って江戸に至った。一方、中山道は行程五十五里余り、宿場の数は二十八宿、途中和田峠、碓氷峠の難所を越え、浅間山の噴煙を眺めながら高原の爽やかな空気を満喫して、碓氷の関所を通り江戸に達した。
日光道
日光道
日光鉢石まで二十一次
この日光街道は、元和三年(1617)、徳川家康の廟所が久能山から日光に移されてから、奥州道を利用して整備された。このため、この道中は将軍の東照宮社参で使用されたため、その折にはさまざまな規制が街道の宿町村に触れ出された。
享保十三年(1728)、将軍吉宗の社参に際し、幕府が大目付・勘定奉行・作事奉行・普請奉行・目付六人の連署による触書を街道各宿駅、沿道の村々に通達した覚には、
「申三月覚 当四月、御成の節、道中宿々ならびに宿間の百姓、家居の男女共、寛文三卯(1663)の通り、女並びに子供は軒下に指し置き、男は後ろの方に罷りあり候ように心得られるべく候。もっとも出家・聲女座頭は指し出し申し間敷く候。盛砂の儀、宿々そのほか野間共盛砂仕り、並びに宿々には手桶を並べ指し置き候よう申しつけられるべく候。但し、手桶、盛砂、十間に一つ程指し置くべく候。御成、還御の筋は、途中にて若し夜に入り候儀もこれあり候はば、宿々村々御道通り家々の前にあり合せ候提灯または行灯にても指し出し候ように申しつけられるべく候」
とあり、天保十四年(1843)の社参の覚書には、
「一、便所は凡そ十町に一ケ所の割りで葭簾囲で作っておけ。一、畑の畝は見通しのよいように直しておくこと。一、通行以前に犬を出さないようにし、大きな穴を掘り、その中に入れて置くこと。一、二階は閉め切りにして目張りしておくこと。一、村境杭、道標等は新しく立直すように」
などと細かく指示していた。
千住宿(せんじゅしゅく) 日本橋より二里八町(約4.7㎞)
奥州街道・日光街道第一宿。本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒、遊女屋三十六軒、人口九千五百余人。日光街道では宇都宮とここに貫目改所が有った。千壽とも書く。
千住という名の由来は、嘉暦二年(1327)、荒川より出土した千手観音像からとも、足利義政の妻千壽姫の生地だったことからとも云われ、諸説有って定かでは無い。文禄三年(1594)、伊奈忠次を普請奉行に千住大橋が架けられてから、橋の周辺に人が集まり住むようになった。寛永二年(1625)、日光道中・奥州道中の初宿に定められ宿場町として発展する。また、文政十年(1827)刊の佐藤信淵が著した『経済要録』には、「江戸千住近在の民は、漉き返し紙を製すること毎年十万両に及ぶ」と記され、『新編武蔵風土記稿』にも、「村民戸ごと世にいう浅草紙といふものを漉きて生産の資とす。(中略)農隙に浅草紙といへる紙を漉きて江戸にひさげり」とあるように、ここ千住は漉き返し紙の産地としても知られている。
漉き返し紙というのは再生紙のことで、宮中で使用した書類を年末に焼却処分しているのを見た後水尾天皇が、「無駄なことを」と清涼殿の下の泉に浸して漉き直させたことに始まるという。これが江戸に伝わり、千住近郊の農家の副業となって生産され、浅草の紙問屋に卸され「浅草紙」として流通した。この「浅草紙」は、「還魂紙」、「並六」などと呼ばれ、その品質から「落とし紙」として利用され、「まぐそがみ」などとも呼ばれた。その製法は市中で使い古された紙クズを大釜で煮立て、それを石臼でドロドロにして紙酸き船に満たし、これに布袋葵の根を叩きつぶしてしぼり汁を加える。こうして出来た白濁水を簀桁ですくい上げて水を切り、板に貼る付けて乾燥させる。この方法を応用したのが、江戸名産の浅草海苔で、その発祥は寛永年間(1624〜43)頃とされている。
『おくのほそ道』(松尾芭蕉)旅立の項に、
弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧〃として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。
とあり、芭蕉は上野谷中から舟に乗り大川を遡って千住に入った。
草加宿(そうかしゅく) 千住宿より二里八町(約4.7㎞)
奥州街道・日光街道第二宿。本陣一、脇本陣一、旅籠六十七軒、人口三千六百十余人。慶長元年(1596)に設けられた奥州街道の草加・越谷間は、当時八条・大相模を通る迂回路だったが、篠葉村の大川図書が中心となり、幕府の許可を得て新道開削を行ない、茅原を開き沼を埋め立てて草加・越谷をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。この事が基となり、その後、図書は付近の住民とともに宿駅を設ける願いを出し、寛永七年(1630)、近隣九ヶ村で構成された新しい宿駅「草加宿」が誕生する。草加の名の由来は、茅(草)などを刈って開いたことによるとされている。
名物の「草加せんべい」は、街道の草加松原で茶店を出していた「おせん婆さん」が、ある時、客に出す団子が腐りやすいと嘆いたところ、それを聞いた客の武士が「団子を薄くのばし、それを天日で乾かし、火で焼いてみなさい」と教えた。それがいつしか宿場の名物となり、世間に広まったという俗説もある。「草加せんべい」は醤油せんべいで、醤油が一般に普及し始めたのは江戸時代末期の文化・文政年間(1804〜30)といわれるので、その頃に始まった可能性はあるが、明治八年(1875)発行の『武蔵野国郡村史』にもその記載がないことから、明治時代の末期に盛んになったと考えられている。
『おくのほそ道』には、
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。
とあり、旅の最初の宿を、この草加宿でとったことが知れる。
越谷宿(こしがやしゅく) 草加宿より一里二十八町(約7㎞)
奥州街道・日光街道第三宿。町並み十八町四十八間、本陣一、脇本陣四、旅籠五十二軒、人口四千六百余人。
宿の近く、元荒川の側に徳川秀忠が慶長九年(1604)に建てた越谷御殿が有った。明暦の大火で江戸城が焼失した時、この御殿の建物が江戸城復旧のため移築されたという。
粕壁宿(かすかべしゅく) 越谷宿より二里三十町(約11㎞)
奥州街道・日光街道第四宿。町並み十町二十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数七百七十余、人口三千七百余人。粕壁は春日部とも書いた。この宿は米の集積地として知られ、毎月四、九日に開かれる六斎市には多くの人々で賑わった。当初、岩槻藩領であったが、元和五年(1619)、岩槻城主高力忠房の浜松転封により幕府の直轄地となった。宿を出てしばらく行くと「関宿往還」(せきやど道)との追分がある。
「春日部」の語源は、「春日」と「部」からなり、「春日」は雄略天皇の皇女春日大姉の春日、「部」は皇族に仕えている人を御名代部と呼んだことから、その「部」をとった。つまり春日大姉に仕える人々という意味で「春日部」といい、そう呼ばれた人々がこの地に住んでいたという説が有る。また、「春日」は第二十七代安閑天皇の后春日山田皇女からきたという説もある。これとは別に、この辺りは低地で川も浅く、水が出た後に壁状の土砂がよく堆積したことから、川の「粕あたり」と云う意味で「糟ヶ辺」「粕壁」となったという説もある。江戸時代に宿名として「粕壁」が用いられ地名となった。昭和十九年に町村合併で「春日部」町となり現在に至っている。
杉戸宿(すぎとしゅく) 粕壁宿より一里二十一町(約6.2㎞)
奥州街道・日光街道第五宿。元和元年(1615)に近郊の家々を集めて作られた。本陣一、脇本陣二、旅籠四十六軒、戸数三百六十余、人口千六百六十余人。
杉戸という名の由来は、その昔、日本武尊の東征で真間の入江を渡る時、薩手島の南岬に上陸、そこには鬱蒼とした杉が繁り水門(みなと)を覆っていたことから、その地を「杉門」と名付けたという言い伝えがあり、ここに利根川の渡しが有った頃、「杉津」「杉渡」あるいは「杉門」と書かれ、「すぎと」と称されていた。それが杉の戸と書くようになったという。渡しのあった利根川は当時江戸湾(東京湾)に注いでいたが、幕府は江戸を洪水から守るため、まず元和七年(1621)、伊奈忠治に命じて瀬替えをし渡良瀬川に分流、さらに承応三年(1654)には伊奈忠克に命じて鬼怒川と合流させ、大平洋にそそぐ河川とした。こうして従来の利根川は廃川となったが、東部の水不足を補うため用水路となり、古利根川として現在に至っている。
御成街道追分(おなりかいどうおいわけ)
日光御成街道との合流点。御成街道は、元和三年(1617)、久能山にあった家康の廟所が日光に移された時、二代将軍秀忠が日光に向った時に使用した道で、江戸本郷追分から中山道と分れ、岩淵を経て荒川を渡り、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の四宿を通って幸手宿に至り、奥州道を経て日光へ通う道。その後、日光への道は奥州街道を利用した日光街道が設けられるが、江戸期を通じて十三回、将軍の日光参詣に使用された。
幸手宿(さってしゅく) 杉戸宿より一里二十五町(約6.7㎞)
奥州街道・日光街道第六宿。本陣一、旅籠二十七軒、人口三千八百八十余人。日光街道、御成街道の合流する宿場で、筑波道の起点、さらには権現堂川などの開削により江戸への水運基地として廻船問屋などが立ち並ぶ物流の中継地として栄えた。
「さつて」の地名は、高野永福寺由来『龍燈山展燈記』に日本武尊が東征の折、薩手島に上陸したとあり、「薩手」と書かれているのが初見とされ、その後、下川辺庄の一地区名だったとされる。「幸手」という文字が使われるのは、慶長四年(1599)、伊奈備前守忠次が内国府間(うちこうま)の野原太郎右衛門へ宛てた書状の中に「幸手領幸手町」と書かれている事から、家康の関東入封頃には「幸手」の文字が使われていたと思われる。
栗橋宿(くりはししゅく) 幸手宿より二里三町(約8.2㎞)
奥州街道・日光街道第七宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数四百余、人口千七百四十余人。慶長年間(1596〜1615)、栗橋村の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、今の上町に開宿し、次第に宿の体裁が整って、元和二年(1616)、正式に宿駅となり栗橋宿が誕生した。
宿の外れには「静御前」の墓が有る。
栗橋関所(くりはしせきしょ)
幕府は元和二年(1616)、関東十六津をみだりに渡ることを禁じた。そこで、ここ房川渡の渡船場に役人を派遣し取り締まるだけだったが、日光街道に関所が無いことから、寛永元年(1624)頃、ここに街道随一の関所を設け、東海道の箱根、中山道の碓氷とともに「出女、入り鉄砲」を厳しく取り締まることとなった。関所の番士には加藤・足立・宮田・島田の四家が代々勤め、屋敷を宿の西の八坂神社の近くの堤防の手前に構えていた。
房川渡(ふさかわのわたし)
利根川の渡し(渡船場)。『宿村大概帳』によると「常水川幅四十間程、船渡なり」とあり、「川越半里」といわれるほど長かったという。渡し賃は、「水丈八、九尺を常水として往来船で一人十文、茶船(十石積)は十二文、荷物は一駄につき二人分、なお水一尺増すごとに人馬、荷物とも五文増し」と寛政三年(1791)のお達しにあるという。
中田宿(なかたしゅく) 栗橋宿の利根川を挟んだ対岸
奥州街道・日光街道第八宿。『略記』に「地名の起こり、さだかならす、元和十年(1624)、日光道中の宿駅と定む」と有り、利根川を挟んだ対岸に有る宿場。江戸を立ったほとんどの旅人が、二日目には栗橋宿かここ中田宿に宿を取ったという。
古河宿(こがしゅく) 中田宿より一里二十町(約6㎞)
奥州街道・日光街道第九宿。本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒、戸数千百余、人口三千八百六十余人。この宿は、古河の城下町に作られた宿場で、町は城下町と宿場町からできている。
将軍の日光社参の時に宿泊所としたのは、家康の関東入部で小笠原秀政が入城して以来、代々譜代の大名が城主を勤めた古河城で、街道から城への入口には御茶屋を設け、そこで休息して城の御成門から入城した。
野木宿(のぎしゅく) 古河宿より二十五町二十間(約2.8㎞)
奥州街道・日光街道第十宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百二十余、人口五百二十余人。
現在、ここには宿場の面影は全く残されていない。
間々田宿(ままだしゅく) 野木宿より一里二十七町(約6.8㎞)
奥州街道・日光街道第十一宿。町並み九町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十軒、戸数百七十余、人口九百四十余人。元和四年(1618)に宿駅に指定された宿場で、日光を上として土手向町、上町、上中町、下町からなっていた。
小山宿(おやましゅく) 間々田宿より一里二十三町(約6.4㎞)
奥州街道・日光街道第十二宿。慶長十三年(1608)から元和五年(1619)までこの地を領した本多正純の居城小山城の城下町として発展した町で、町並み十二町十三間、本陣一、脇本陣二、旅籠七十五軒、戸数四百二十余、人口千三百九十余人とされる(『宿村大概帳』)。宿の外れから日光道中の脇往還壬生道が分れている。壬生道はここから北西に進み、飯塚・壬生宿を経て楡木に至り、中山道倉賀野から分れた日光例幣使街道と合流し、奈佐原・鹿沼・文挟・板橋の宿々を通って今市で再び日光道中と合流する。
日光街道には十二ケ所に将軍の休憩施設として御殿が設けられていて、ここ小山にもその一つ「小山御殿」が有った。この御殿は、元和八年(1622)、秀忠社参の際に「小山評定」の吉例に倣って設けられたとされ、東西百間余、南北五十間余、北は小山城と接し三方に堀が廻らされ、座間・広間・台所などで構成されていたという。しかし、御殿を使用した将軍は秀忠・家光・家綱の三人、御止宿六回だけで、天和二年(1682)、幕府の財政難から廃止された。「小山評定」とは、慶長五年(1600)、会津の上杉征伐のため東進した家康とその連合軍だったが、大坂にいた石田三成が家康を挟撃しようと五大老の一人毛利輝元を総大将に反家康の軍を起こしたため、上杉軍との決戦目前で軍を止め、小山城で黒田長政等諸将と軍議したことをいう。
ここ小山は下野守藤原秀郷の子孫、四郎政光が都賀郡太田からこの地に移り居城を構え小山氏を称したことから始まる。政光は頼朝に従い信頼を受け、小山氏は鎌倉期には下野国の広い地域を得て隆盛を極め、関東の豪族となったが、南北朝期に十代小山義政が隣接する宇都宮氏と争い、関東管領足利氏満の軍勢に攻められ落城。以後、小山氏は凋落。その後、小山氏の支族結城泰朝が入って、小山氏を再興した。戦国期に入ると、関東に進出した小田原北条氏に従い、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにあたって、当主小山政種が小田原城に籠城したため所領は没収され、結城秀康に与えられた。家康が天下を取ると、当初は宇都宮藩領とされたが、慶長十三年(1608)、本多正純が三万三千石で小山城に入った。
新田宿(しんでんしゅく) 小山宿より一里十一町(約5㎞)
奥州街道・日光街道第十三宿。本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、戸数五十余、人口二百四十余人。
小金井宿(こがねいしゅく) 新田宿より二十九町(約3㎞)
奥州街道・日光街道第十四宿。町並み六町四十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数百六十余。
元は金井村といい、現在地より西に有ったが、慶長九年(1604)、現在地に移住し村名に「小」をつけて「小金井村」と称するようになった。
石橋宿(いしばししゅく) 小金井宿より一里十八町(約5.9㎞)
奥州街道・日光街道第十五宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、戸数七十余、人口四百十余人。
石橋の地名の起源については、「村名の起こりさだかならざれど、むかし池上明神前の水流に石橋あり、今は土橋なれど土人は石の橋と唱う。これ村名の起こるところなりぞ」と古書にあるという。
雀宮宿(すずめのみやしゅく) 石橋宿より一里二十三町(約6.4㎞)
奥州街道・日光街道第十六宿。町並み五町二十間、本陣一、脇本陣一。江戸時代初期、下横田村の街道沿いに集まった集落が分村し台新田村となり、寛永年間に宿駅となったといわれる。
宇都宮宿(うつのみやしゅく) 雀宮宿より二里一町(約8㎞)
奥州街道・日光街道第十七宿。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、荷物貫目改所、戸数千二百十余、人口六千三百五十余人。日光道中と奥州道中の分岐点で、日光参詣の将軍、藷侯の宿泊地であり、宇都宮藩の城下町として大いに栄えた。飯盛女も多く、嘉永年間には旅籠四十五軒となり、そのうち四十二軒が飯盛旅籠だったという。天保年間の飯盛女は百八十二人で、うち子供が三十九人と有る。この子供というのは、幼少の者のことで、子守り等で何年か過ごした後に「食売女」(飯盛女の幕府での公式の呼び名)になるもので、台所仕事をする「水仕」、給仕などをする「出居女」としても使われた。彼女らの親は貧困のために子供を身売りし、その身代金は三両から五両だったとされる。年齢や容貌などに応じ、もっと高額の者もあったという。こうした親たちの多くは、親自身が助かるためというより、子を餓えさせないための苦肉の策でもあった。
宇都宮の地名の由来は、下野国一の宮二荒山神社の「一の宮」から転訛したという説と、神社の別号「宇津宮神社」からでたという説がある。「宇都宮」が定着したのは、康平六年(1063)、藤原宗円が日光座主・宇都宮社務検校職に任ぜられ、亀ガ丘城(宇都宮城)に入り、宇都宮氏を名乗った事から始まる。
静桜(しずかさくら)
宇都宮宿と徳次郎宿の中宿として立場の有った野沢村にある桜の古木。古来より一枝に一重と八重の花をつける珍しい桜として知られる。名の由来は、奥州に落ちのびた義経の元へ向う途中、静御前がこの地を通った時に挿した桜の枝が根を張り、大木に育ったという伝説と、他の桜より遅く咲くことから静桜と名付けたという話が伝わる。
徳次郎宿(とくじろうしゅく) 宇都宮宿より二里十三町(約9.3㎞)
日光街道第十八宿。宿は三宿からなり、下徳次郎宿の町並み三町十二間、仮本陣一、仮脇本陣一、中徳次郎宿は二町五十一間、本陣一、脇本陣一、上徳次郎宿は三町十四間、本陣一、脇本陣二と有り、旅籠は三宿で七十二軒、問屋各宿に一所、総戸数百六十余、総人口六百五十余人となっていた。この徳次郎宿が三宿となった経緯は「元和三年(1617)、日光へ御鎮座あらせられし頃は、上徳次郎宿のみにて人馬を継立てしが、中下の二村も願ひにより享保十三年(1728)より上中下合宿と定められ、一月を三分して上十日を中徳次郎、中十日を上徳次郎、下十日を下徳次郎と割て人馬継立を役す。此割方、上中下の次第に配当せざるゆへは、三村合宿となりし時、中旬は往還の旅人も多くして継立混雑なるべければ、仕馴たる方にて扱ふべしとて上徳次郎を中旬と定められ、ついに永例となる」と『日光道中略記』に記されている。
徳次郎という名の由来は、日光に大きな勢力を持っていた一族に久次郎(くじら)氏が有り、その久次郎氏が奈良時代末期に日光二荒山神社から御神体を智賀都神社に勧請し、日光の久次郎に対し外久次郎(そとくじら)と称したことによるとされている。
大沢宿(おおさわしゅく) 徳次郎宿より二里十四町(約9.4㎞)
日光街道第十九宿。町並み四町四間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数四十余、人口二百七十余人。宿は日光街道整備後に作られた家並が宿駅となったもので、『日光道中略記』には「むかしは大沢と唱えしを、元和三年(1617)日光御鎮座の後、街道ひらけしより宿場の数に入りて大沢宿とあらためて唱う」とある。飯盛女を置くことを許されていて、茶屋・旅籠は大いに賑わったという。
宿の出口近くに、日光街道に設けられた将軍の御休所十二ケ所の一つ大沢御殿が有った。この御殿は寛永三年(1626)に大沢の稲荷山を切りくずして着工され、翌四年に完成した。しかし、ここを使用したのは家光と家綱だけで、以後の休息所は宿内にある竜蔵寺が使われ、御殿には留守居が居るだけであったという。
今市宿(いまいちしゅく) 大沢宿より二里(約8㎞)
日光街道第二十宿。町並み七町二十一間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数二百三十余、人口千百二十余人。宿内の道路には中央に水路が走り、壬生道・会津西街道の合流する交通の要所として市が立つなど大いに賑わいをみせていた。古書には「開発の年代は詳ならず。むかしは『今村』といひしを、宿駅となりて近郷の民移住し、次第に賑わって市場となりしかば、今市宿と改め、毎月一と六の日を市の定日として諸品を売買す」とあるという。
鉢石宿(はちいししゅく) 今市宿より二里(約8㎞)
日光街道第二十一宿。町並み五町余、本陣二、旅籠十九軒、戸数二百二十余、人口九百八十余人。元和三年(1617)、日光に東照宮が鎮座したのに伴い、正保元年(1644)に日光道中の最終駅として設置され、以後日光参詣の人々で賑わった。
鉢石の由来は、この付近の地質が砂岩・粘板岩などの古生層からなり、その一部を石英斑岩・花崗岩が貫いて鉢を伏せたような形で地表に現れたものを「鉢石」と呼んだことによる。
奥州道
奥州道
白河まで二十七次
奥州道は江戸時代に定められた五街道の一つで、日本橋から陸奥国白河までの官道として整備され、慶長七年(1602)、東海道・中山道に次いで伝馬制が布かれ道中奉行が管轄した。元和三年(1617)に日本橋から宇都宮までが日光道中となり、奥州道中の宿継ぎは宇都宮までは日光道と併設し、そこから白河までが単独の奥州道中となる。
宇都宮宿(うつのみやしゅく) 雀宮宿より二里一町(約8㎞)
奥州街道・日光街道第十七宿。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、荷物貫目改所、戸数千二百十余、人口六千三百五十余人。日光道中と奥州道中の分岐点。
白沢宿(しろさわしゅく)
奥州道第十八次。本陣一、脇本陣一、旅籠十三軒、戸数七十余、人口三百六十余人。
氏家宿(うじいえしゅく)
奥州道第十九次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百三十余、人口八百七十余人。
喜連川宿(きつれがわしゅく) 氏家宿より二里
奥州道第二十次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十九軒、戸数二百九十余、人口千百九十余人。喜連川藩の城下町で、町並十七町三十間で荒町・河原町・台町・上町・仲町・本町・下町・田町の八町からなっている。この他に武家屋敷地があって、町方との往来は禁止されていた。
佐久山宿(さくやましゅく) 喜連川宿より二里三十町
奥州道第二十一次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数百二十余、人口四百七十余人。
大田原宿(おおたわらしゅく)
奥州道第二十二次。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、戸数二百四十余、人口千四百二十余人。大田原城の城下町。
鍋掛宿(なべかけしゅく)
奥州道第二十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十三軒、戸数六十余、人口三百四十余人。下り芦野宿までの片継ぎ。
越堀宿(こしほりしゅく)
奥州道第二十四次。本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、戸数百十余、人口五百六十余人。上り大田原宿までの片継ぎ。
芦野宿(あしのしゅく)
奥州道第二十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百六十余、人口三百五十余人。
白坂宿(しらさかしゅく)
奥州道第二十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数七十余、人口二百八十余人。
白川宿(しらかわしゅく)
奥州道第二十七次。白河とも書く。本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、戸数千二百八十余、人口五千九百五十余人。白河藩の城下町(白川城)で、宿内町並は南北三十一町で、通りに添って新町・天神町・中町・本町・横町・田町・向寺町と並び、天神町から田町までの五町を特に通り五町と読んでいた。白川宿の常備人馬は他の宿と同様の二十五人・二十五疋で、上りは白坂宿へ、下りは脇往還となる仙台道(奥州松前道)の宿場踏瀬宿へ月初めの十日間を継ぎ、以後二十日間は大田川宿まで継ぎ立てを行った。

HOME