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年中行事一覧
わが国の伝統的な年中行事(伝統行事)は旧暦(陰暦)で行なわれていたが、明治に新暦(太陽暦)を取り入れてからは、新暦で行なう事が多くなった。しかし、季節感からすれば旧暦で見た方がしっくりする事が多く、未だに旧暦を用いる場面もあれば、旧暦が新暦よりもおよそ一ヶ月から一ヶ月半遅れていることから、日にちだけを変えず、月遅れで行なっていたりする場合もあり、同じ行事が、旧暦、新暦、月遅れと行なわれ、極端な場合、三度遭遇するということになる。いずれにしろ、場所によっては、同じ行事を別な日に行なうので、そこに住む人以外は、混乱する。ここでは、実際の時間軸からは逆になるが、旧暦を初めに揚げ、新暦で定着した代表的なものをその後に併記するようにしてあります。
一月(睦月)(旧暦では新暦1月下旬から2月中旬ころが年初)
一月の暦・歳時・行事
一年を十二(陰暦では閏月が入る年は十三ヶ月)に別けた最初の月。正月。睦月(むつき)、初春月、子日月(ねのひつき)、祝月(いわいづき)、太郎月、年端月(としはづき)
旧暦の行事
一日 元日(がんじつ)
年の初めの日。正月の第一日。この日の朝を「元旦」「元朝」という。1月1日。
陰暦正月(旧正月)は、陽暦の2月中旬頃。我が国では、旧正月を祝う行事は一部のものを除き、すっかり廃れてしまったが、中国・台湾や国内の中華街などでは現在でも「春節」として、爆竹などを鳴らして盛大に祝われる。
[雪の元日]
江戸の元日を聞ば縉紳朱門(しんしんしゅもん=おれきれき)の事はしらず、市中は千門万戸千歳の松をかざり、直なる御代の竹をたて、太平の七五三(しめ)を引たるに、新年の賀客麻上下の肩をつらねて往来するに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追ひの三味線にめでたき歌をうたひ、娘の兒のやり羽子、男の兒の帋鳶(いかのぼり)、見るもの聞ものめでたきなかに、初日影花やかにさし昇たる、実に新玉の春とこそいふべけれ。其元日も雪国の元日も同元日なれども、大都会の繁花と辺鄙の雪中と光景の替りたる事雲泥のちがひなり。
そも/\我里の元日は野も山も田圃も里も平一面の雪に埋り、春を知るべき庭前の梅柳の類も去年雪の降ざる秋の末に雪を厭て丸太など立て縄縛に遇たるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三誌月にいたらざれば梅花を見ず、翁が句に「春も稍景色とゝのふ月と梅」と吟ぜしは大都会の正月十五日なり。また「山里は万歳遅し梅の花」とは辺鄙の三月なるべし。門松は雪の中へ建、七五三かざりは雪の軒に引わたす。礼者は木屐をはき、従者は藁靴なり。雪径に階級ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる。此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全く消る夏のはじめにいたらざれば、草履をはく事ならず。されば元日の初日影も惟雪の銀世界を照すのみ。一ツとして春の景色を不見。古歌に「花をのみ侍らん人に山里の雪間の草の春を見せばや」とは雪浅き都の事ぞかし。雪国の人は春をしらざるをもつて生涯を終る。これをおもへば繁栄豊腴の大都会に住て年々歳々梅柳耎(女篇)色の春を楽む事実に天幸の人といふべし。(鈴木牧之『北越雪譜』)
【元日の慶賀】(がんじつのけいが)
元日の慶賀は漢高祖より始る、杜氏通典に見ゆ、我朝にて正朔を賀するの儀は神武天皇の御時より始られし由、旧事本紀にしるせり(『俗事百工起源』巻之上)
宮中では古代より元日に紫宸殿において天皇が百官に宴を賜る「元日の節会」が行われた。それに参加する百官諸子が、参内するために盛装する。こうした光景を清少納言は、
正月一日は、まいて空のけしきもうらうらと、めづらしうかすみこめたるに、世にありとある人は、みなすがたかたち心ことにつくろひ、君をも我をもいはひなどしたる、さまことにをかし。(『枕草子』)
と述べて、讃岐典侍はその日記の中で、
十二月もやうやうつごもりになりて、「弁典侍殿の文」といへば、取り入れて見れば、「院より、三位殿、大納言典侍など、さぶらはぬ朔日なり、さやうのをりは、さるべき人あまたさぶらふこそよけれ、参るべきよし仰せられたる」とぞある。「いかがせん、とく参らん」とぞいそぎたつ。
と「さるべき人あまたさぶらふ」と書き、また、和泉式部日記には、
としかへりて、正月一日、院のはいらいに殿ばらかずをつくしてまゐり給へり。宮もおはしますをみまゐらすれば、いとわかううつくしげにて、おほくの人にすぐれ給へり。これにつけても我が身はづかしうおぼゆ。
とあって、元日には大勢の殿上人が御所に参内した。
【元日の節会】(がんじつのせちえ)
古代以降、元日に天皇が紫宸殿で百官に宴を賜わった儀式。(『広辞苑』第二版)
七日 人日(じんじつ)
五節句の一つ。陰暦正月七日の称。七草の粥を祝ふ慣例がある。『東方朔占書』に「歳正月一日占鶏…七日占人」とあるによって名づく。(『新歳時記』)
「七草の節句」をいう。
【七草の節会】 七草(ななくさ)
古くは正月七日に七種の草を羹(あつもの)にした。後世は、これを俎(まないた)に載せて囃してたたき、粥に入れて食べた。赤染衛門の句に「春日野の今日七草のこれならで」がある。(『広辞苑』第二版)
羹とは、菜などを入れて作った熱い吸物。囃は「七草の囃」といい、七種の祝に、前日の夜または当日の朝、俎に七種の菜を載せ、吉方(えほう)に向い「ななくさなずな唐土の鳥の日本の土地へ渡らぬ先に」、または「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、ななくさなずな手に摘み入れて」などと唱え囃しながら叩いた。
また、正月七日の七草は五節の一つで、「七草の節句」あるいは「七草の祝い」「七草の節」といった。この日は、粥に七草を入れて食べたが、のちにはナズナ、あるいはアブラナだけを用いるようになる。
『俗事百工起源』巻之上に、
七種の粥は宇多天皇五十九代寛平二年より永式とす、公事根源に、正月七日、七種の羹を食すれば其人万病なし、又邪気を除くとなん、七種
菘 大根(すずしろ) 芹 薺 御形 繁婁 仏座
大根を羅匍(両字とも草冠)とも云、仏座を田平子とも云、御形を母子草とも云、歌に、
芹なずな御形はこべら仏の座すずなすずしろ是ぞ七種
とある。
『枕草子』には、「七日、雪まのわかなつみ、あをやかに、例はさしもさるもの目ちかからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ。白馬(あおうま)みにとて、里人は車きよげにしたててみに行く。中御門のとじきみ引きすぐる程、かしら一所にゆるぎあひて、さしぐしもおち、用意せねばをれなどしてわらふもまたをかし。左衛門の陣のもとに、殿上人などあまた立ちて、舎人の弓どもとりて馬どもおどろかしわらふを、はつかに見入れたれば、立蔀などのみゆるに、主殿司・女官などのゆきちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人九重をならすらん、など思ひやらるるに、内裏にも、見るは、いとせばきほどにて、舎人の顔のきぬにあらはれ、まことにくろきに、しろき物いきつかぬ所は、雪のむらむら消えのこりたるここちして、いとみぐるしく、馬のあがりさわぐなどもいとおそろしう見ゆれば、引きいられてよくも見えず。」と七日の風景を書いている。
青は陽春の色とされていることから、「雪まのわかなつみ、あをやかに」とあるように、春を告げる七草の青色が生命の力として尊重され、それを食することで災いを避けるなど、命の再生を願う心持ちから、「七草粥」を食べる行事になった。
七日はまた「白馬の節会」ともいい、白馬はもと青馬であったが延長の頃から白馬に代り、読みだけ旧例によったもの。馬は陽の獣で、陽春の色とされる青と重なり青馬が尊ばれ、正月七日にこれを見れば災いを除くといわれた。
【白馬の節会】(あおうまのせちえ)
平安以降の年中行事の一。正月七日、朝廷で、左右馬寮から白馬を庭上に引き出して天覧の後、群臣に宴を賜う儀式。この日に白馬を見ると年中の邪気を払うという中国の故事による。本来は青馬を引いたのを、後に白馬に変更、字は「白馬」と改めたがアオウマと読む。七日の節会。(『広辞苑』第二版)
七日 修正鬼会(しゅしょうおにえ)
国東半島・天念寺・成仏寺・岩戸寺 松明を持った荒鬼が乱舞する。
十五日 左義長(さぎちょう)
三毬杖(サンギチャウ)の略。初は、毬杖を三本立てたれば、名とすると云ふ、ギチャウは、又、ギッチャウとも云ふ、左義長と書けるは、借字なり、三木張などとも書ける、同じ。
(一)禁中にて、正月十五日の朝に、主上の御吉書を焼かせられし儀式、十八日にも行はせられたり。清涼殿の東庭に、青竹を束ねて立てて、御吉書、扇子、短冊を結びつけ、陰陽師をして焼かしめらる、燃えあがれば、ドウドヤと囃す、主上、出御ありてご覧ず。焼くをホコラスと云う、焼くと云う事を忌みてなるべし、此事、鎌倉時代の初期より、物に見ゆ。
四季物語(鴨長明作と云ひ伝ふ)第一、正月十五日「左義長の具も、兒だつ人の、さればみ玩弄物となり、焼け残りたる、扇に、赤き総つけたる、云々」辨内侍日記、下、建長三年正月十六日「さぎ丁、焼かれしに、誰れ誰れも参りしかども、云々」徒然草、百八十段「サギチャウは、正月に打ちたるギチャウを、真言院より、神泉苑へ出して、焼きあぐる也、法成就の池にこそ、と囃すは、神泉苑の池を云ふなり」
(二)民間にても、同様に行はれ、長き竹、数本を立て、書始の清書、又、門松、注連縄の、撤したるものを添へて焼けり、これを、トンドの火など云ひ、其火にて餅を焼きて食ひなどしたり。江戸にては、火災を警むるに因りて、早く、万治、寛文の頃に、禁制せられぬ。(『大言海』)
斎の神の祭
吾が国正月十五日に斎の神のまつりといふは所謂左義長なり。唐土に爆竹といふ唐人除夜の詩に、竹爆千門の向燈然万戸明なりの句あれば、爆竹は大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始を此火に焼て天に奉るの義とす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃し玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間にもこれを学びて正月十五日、正月にかざりたるものをあつめて燃す、これ左義長とて昔よりする事なり。これを斎の御祭りといふも古き事なり。爆竹左義長の故事俳諧の季寄年浪草に諸書を引てくはしくいへり。
さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳て火をうつらせ焼を祝事とす、おんべは御弊の訛言なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束のやうにさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千あつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇る。棹の末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事なり。これを作りてまづおのれ/\が門へ建おく事五月の幟のあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨るを祝ひとし慰とす。視る人群をなすは勿論、事をはりてはこゝかしこにて喜酒の宴をひらく。これみな、国君盛徳の余沢なり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷を盛大とす。(鈴木牧之『北越雪譜』)
十六日 薮入(やぶいり)
都から草深い田舎に帰る意。奉公人が正月及び盆の十六日前後に暇を許されて一日ほど親もとなどに帰ること。また、その、その頃。宿入。 一代女四「されども薮入の春秋をたのしみ」特に、正月十六日前後の奉公人の休みの称。盆の休みは「後の薮入り」といった。(『広辞苑』第二版)
○走百病(やぶいり) 藪入
むかしは正月十六日にかぎる事也、後七月十六日をして、終に春秋二度とす、常に隙なき仕のものも、此日は父母の家に来り、寺院に詣で先祖を拝す也、又孤独の者は、あへて依べき舎なし、たゞ藪林の中にあそびて、楽とする事也、
五穀俎云齋魯人、多以2正月十六日1遊2寺観1謂2之走百病1(『近代世事談』巻之四)
十七日 きねこさ祭(きねこさまつり)
尾張七所神社(名古屋市) 庄内川の川中に青竹を立て、一人がその竹に昇って獅子舞を舞い、他の十二人が竹を揺すり折って、倒れる向きで占いをする。
二十四日 忌の日(きのひ)
伊豆諸島では日忌み様、カイナン(海難)ボウズと呼ぶ妖怪が訪れるとされ、この夜は音を立てずに早寝する。
新暦で行なう行事
1日〜3日 初詣で(はつもうで)
正月元日は年の始めということで、各地の神社・仏閣では年賀の行事が行われ、人々はその年の息災を祈念するために初詣でに出かける。
宮中では「四方拝」(伊勢神宮と天地四方に拝礼)を行い国家の安寧を祈願、庶民はその年の干支に因んだ社寺に詣る「恵方参り」を行った。
【恵方参り】(えほうまいり)
「恵方参り」とは、「吉方参り」とも書き、「吉方」は「明の方」ともいい、古くは正月の神の来臨する方角をいい、暦術が入るとその年の歳徳神の居る方をいうようになった。その歳徳神を詣でることを「恵方参り」という。歳徳神とは、その年の徳神で暦注の一つ。この神のある方を明の方または恵方といい、万事に吉とすると『広辞苑』第二版にある。
歳徳神(としとくじん) 歳徳とも年神とも略される。恵方を司る女神である。年首に当って之を祭る。又、恵方に対して棚を造り供物を捧げて祭ることがある。この棚を恵方棚或は年棚といふ。(『新歳時記』)
【白朮詣】(おけらまいり)
元日、京都祇園の八坂神社で祇園前掛の神事が行はれる。白朮祭ともいひ、これにお詣りすることをいふのである。神事は午前四時からはじまる。檜から鑽り出した火を社殿に立てた削掛に移し、白朮を加へて焼き、其火で新年の供物を調へるのである。参詣人は其火を持帰って雑煮の火とする。昔は邪気の祓といって、参詣の途中互に悪口雑言を飛ばし合ったといふ。白朮火。火縄売。(『新歳時記』)
【破魔矢】(はまや)
昔、縄をもつて円座のやうな的を作り、これを射て遊ぶ兒戯があつた。この的を「ハマ」といったのでこの弓をはま弓、この矢をはま矢といった。後、この弓矢を飾りとして男児の初正月に贈り、その武運長久を祈ったといふ。今日京都石清水八幡宮・鎌倉鶴ヶ岡八幡宮などに於て授与される破魔矢は、義家が石清水八幡宮の神宝の矢を受け、陣中の守り矢としたものが、これに象って、武家にとつては武運長久、町民にとつては厄除お守りとして授与されるものである。(『新歳時記』)
1日〜7日 門松(かどまつ)
新年に、家々の門口に立てて飾る松。松飾り。飾り松。立て松。(『広辞苑』第二版)
一休の狂歌に「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と有り、ここから「門松は冥土の旅の一里塚」という成句が生まれた。これは、門松を立てるごとに年を重ねるから、門松は死に近付くしるしと見るべきだという意味。
世説問答(一条禅閣御説)松は千とせを契り、竹は万代を契るものなれば、年の始いはゐ事にたて侍るべし云々、夫木集に
はつ春の花の都に松うへて 民の戸とめる千世ぞしらるゝ 光明峯寺入道
右は本朝世事談綺に見ゆ、又世説問答に云、今日より月半まで、門戸に松竹を立、注連縄を張、其の上にしだゆづり葉炭などを飾ることあり、此事昔より有来ることなるべし、賤が家居は封戸なるに依て、民戸と申侍れど、昔は一町の内を五丈づつにわりて、門を立しかば、八の門有しなり、その中に賤が家居をつくり侍れば門無かるべきにあらず、其の門無かるべきにあらず、其の門の前に松竹を立侍る、松は千とせを契り、竹は万づ世をかぎる草木なれば、年のはじめの祝事に立侍るべし、又貫朶ゆづり葉は深山にありて雪霜にもしほれぬものなれば、注連縄に飾りて同敷引侍るにや、
按に貫朶はもろむきと云ふ名によりて夫婦の相生を祝ひ、ゆづり葉は諸木にかはり、新葉生出て旧葉退謝する木なれば、父子相続を祝ひて、注連縄にかざり、又は歯がための具にも用るなるべし、枕の草紙にゆずり葉をはがための具に用る事見え侍れば、いにしへより有けることと見へたり、
しめ縄といふ物は相縄によりて縄のはしをそろへぬものなり、そは清浄なるいはれなり、はしを揃へぬは、すなほなる心なり、されば天照大神の天の岩戸を出給ひし時、しりくめ縄とてひかれたるは今の注連縄なり、浄不浄をわかつによりて神事の時は、必引く事に侍り、賤が家居にひく事も正月の神を祝ひ祀る心立てなるべし、昔は門松を貴家には立ざる事にや、藤原為尹、都の立春に題する歌に、
今朝はまた都の手ふり引かへて 千いろのはじめ賤が門松
しりくめ縄の事、卜部の説に打たぬわらをもちて左縄になふもの也、端を出す事、七五三と分つは天道は十五にして成義なり、左り縄にするは天道は相旋する心なりといへり、按るに歳時記に正月一日画鶏を戸上に貼し、帯祭を其上にかくるといへること侍れば、もろこしにも注連縄かくるに似たる事侍にや、又門松に炭をかくることは、本草綱目に云、白炭、除夜立2之戸内1、亦避2邪悪1、この遺意なるべし、(『俗事百工起源』巻之上)
○門松 世諺問答 一条禅閣御説 松は千とせを契り、竹は萬代を契る物なれば、年の始いわゐ事に、たて侍るべし云々
夫木 はつ春の花の都に松うへて、民の戸とめる千世ぞしらるゝ 光明峯寺入道
(『近代世事談』巻之四)
【松の内】(まつのうち) 1月1日〜7日
この門松を立てておく期間を、「松の内」という。古は元日から十五日までをいったが、後世には七日までをいうようになった。時代と共にのんびり正月気分に浸っておれなくなったのか。現在では、正月三が日を過ぎると社会が動き出し、正月気分をなるべく早く払拭する風潮になっている。
『武江年表』寛文二年(1662)の項に「家々松飾り、今年より七日に取払ふ(是れ迄は十六日也)」とある。
2日 書初め(かきぞめ)
筆初めともいい、新年に初めて文字を書くという意味。
古来、正月二日に、吉方(えほう)に向ってめでたい意味の詩歌などを書いた。書かれたものを吉書という。
この風習は現代でも残り、毎年1月2日には北野天満宮で書初め(筆初め祭)が社前で行なわれ、それら吉書を奉納し、25日の初天神の日に展覧している。
1日夜あるいは2日夜 初夢(はつゆめ)
正月元日の夜、あるいは二日の夜に見る夢。この初夢で吉凶を占う事を「初夢合せ」という。俗に吉夢は一富士二鷹三茄子といい、これらが登場する夢を見るとその年は縁起が良いとされる。
1日〜7日 七福神詣(しちふくじんまいり)
松の内、七福神の祠を順詣し、其歳の福徳を祈ることである。恵比寿・大黒・福禄寿・弁天・毘沙門・寿老人、それに布袋和尚を加へた七神で、民間の信仰は中々厚い。東京では向島・谷中・山の手など特定の区域があるのである。七福詣・福神詣ともいふ。(『新歳時記』)
近頃正月初出に七福神参りといふ事始りて、遊人多く参詣する事となれり、その七福神は不忍の弁才天、谷中感応寺の琵沙門、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺の恵比須、大黒、布袋、田畑西行庵の福禄神等也、近頃年々にて福神詣する人多くなれり、又正月初亥の日摩利支天参りといふ事を始たり、其内多く人の参るは上野広小路東裏通りの摩利支天と深川仲町也という、(『享和雑記』巻四の五十)
[七福神]七柱の、福の神。即ち、大黒天、蝦子の神、毘沙門天、弁財天女、福禄寿、寿老人、布袋和尚、の称。 書言字考節用集、十、数量門「七福神」注「弁財天、毘沙門天、大黒天、恵比酒、福禄寿、布袋和尚、猩猩」 南嶺子、一「世に、七福神のかけ物と云ふものあり、漢土の布袋、日本の蛯兒、天竺の吉祥天女、余さず、もらさぬ取こみようは、貪欲者流の物好なるべし」(『大言海』)
3日 吉兆と番内(きっちょうとばんない)
島根県簸川郡・出雲大社 年男が鬼面を被り幟を先導して町内を祝福。
6日 アマメハギ
石川県鳳至郡 天狗、鬼、猿などの面をつけた若者が家々を祝福して廻る。
7日 七草(ななくさ)
七種とも書き、春の七種の菜をいうが、「七草の節句」の略でもある。七種の菜とは、芹・薺(なずな)・御形・繁婁(はこべら:両字とも草冠)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・清白(すずしろ)の称。
7日 鬼すべ(おにすべ)
太宰府市・太宰府天満宮 堂に籠る鬼を松葉を焚いて追い出す。
年始 万歳(まんざい)
年の始めに、風折烏帽子を戴き素襖を着て、腰鼓を打ち、当年の繁栄を祝い賀詞を述べて舞を演ずること、またそれを行う者。近世には、太夫と才蔵とが連れ立ち、才蔵がいう駄洒落を太夫がたしなめるという形式で滑稽なかけあいを演ずる興業物となった。この万歳師の本拠の一つが三河にあり、そこから諸国へ巡り門付をして歩いた、これを「三河万歳」といい、この三河万歳がもっとも活動が盛んだったので万歳の代名詞ともなった。さらにこれを現代化したものが関西で起こり、「漫才」と称されるようになった。
同書に云、六十六代一条院の朝、長徳の頃、大江定基、参河守に任じてければ、其国の民ども毎年の始に来り千歳楽万歳楽と舞かなでけり、定基は仏乗に寄して、横川の源信僧都に法を受て、一向釈氏の学びに深かりければ、仏教伝来の因縁を述て、苅谷の郷の庄司吉郎大夫といふものにあたへて、年の旦に舞はせけり、是万歳のはじめ、今以て三河の国より来る也、(『俗事百工起源』巻之上)
○萬歳 六十六代一条院の朝長徳のころ大江定基三河守に任てければその国の民とも、毎としのはじめに来り、千歳楽萬歳楽と舞かなでけり、定基は仏乗に奇して、横川の源信僧都に法を受て、一向釈氏の学びにふかゝりければ、仏教伝来の因縁を述て、刈谷の郷の庄司吉郎太夫といふものにあたへて、年の旦に舞せけり是萬歳のはじめ、今以三河の国より来る(『近代世事談』巻之四)
【万歳楽】(まんざいらく)
万歳の元となる芸能で、雅楽の一つ。平調の唐楽で、舞は四人または六人で、めでたい文の舞として、武の舞の太平楽とともに即位礼その他の賀宴に演じられた。「まざいらく」ともいう。(『広辞苑』第二版)
【三河万歳】(みかわまんざい)
愛知県西尾市を本拠とする万歳。江戸時代、烏帽子に大紋を着た太夫と鼓打の才蔵とが家々を回って祝言を述べ滑稽な掛け合いを演じた。現代も新年に関東・関西を訪れる。(『広辞苑』第二版)
10日〜14日 火打合(ひぶちあい)
「しぶちゃ」とも呼ばれる行事で、福島県いわき市で、川をはさんで二組が燃える薪を投げ合って戦う。一方が勝てば大漁、他方が勝てば豊作と占う。
【石合戦】(いしかっせん) 1月14日
「火打合」が行われるいわき市では、大正のころまで子供の行事として「石合戦」が行われていた。二組の子供たちが川をはさんで石の投げあいをする。
14日 鬼走り(おにばしり)
奈良県五條市・念仏寺 三匹の鬼が松明をもって駆け廻る。
15日 なまはげ(生剥)
「なま」は「なもみ」の意で、秋田県男鹿半島地方などで、正月十五日夜の行事。青年数人が大きな鬼面をかぶり、蓑を着、木製の刃物・幣束・桶・箱などを携え、戸毎に訪れて酒食の饗応を受け、祝儀を貰う行事。「なもみ剥ぎ」ともいう。(『広辞苑』第二版)
現在では観光化されて大晦日の夜に、鬼の面をつけた若者が一組になって、各家へ「ウォー、ウォー」と叫びながら入り、「親のいうごと聞がねワラシはいねが」などとどなって回る行事が、男鹿市内各地区で行われている。
この「なまはげ」と似た習俗に、能登地方の「あまめはぎ」がある。これは六日の夜、天狗・猿・鬼などの面をかぶった若者たちが家々を回り、悪を払い、年の初めを祝う行事。この「あまめはぎ」は佐渡などの民話に「アマミハギ」といわれる妖怪として伝わっている。
14日〜15日 鳥追(とりおい)
農村行事の一つで、正月十四日の晩と十五日の朝との二回、田畑に害を与える鳥獣を追い払う歌をうたい、若者たちが、ささら・槌・杓子・棒などを打って回る。(『広辞苑』第二版)
また、新年に乞食が人家の前に立って扇で手をたたきながら祝詞を唱えて米銭を乞うたものを「鳥追」といった。扇をたたくことから「たたき」ともいい、この動作が鳥追の動作に似ているからか。さらに、江戸時代の門付の一つにも「鳥追」があり、これは年始に非人の女太夫が新服を着て編笠をかぶり、鳥追歌を唄い、三味線を弾き、人家の門に立って合力を乞うものも「鳥追」という。この「鳥追歌」は、農家の鳥追の歌から出て、江戸時代、初春に田畑の豊年を祈る祝詞となり、門付歌として一般的な祝歌となった。
同書に云、踏歌の遺風なり、相伝ふ、延文の頃三河国に長者有、数千町の田圃を持ち、土民にして土民ならず、武士にあらず、さりながら常に貴人高位に交り、三槐九棘に因あつて、富て貴き人なり、代々時宗を尊み遊行上人を仰ぐ、一とせ正月、遊行上人此第宅に舎せり、村の土人歳首礼を長者の家になす、その中にさゝらをすりて唄ふもの数人あり、いかなる者ぞと上人の尋ねられしに、鳥追と云者なりとぞ、蓋鳥追は長者の田園の鳥を追ふばかりの勤にて、妻子を養ふ者ども、長者の訳を歌にうたひ、年の始にことぶきをのぶるなり、唄の発端に、せちよやまんちよの鳥追といふは、千代も万代も殿の田の鳥を追ふべしと也、お長者のみうちへおとずるは誰あろ、右大臣に左大臣、関白殿の鳥追、御内証へおとづるゝ人は高位高官、さては鳥を追ふ我々かとなり、にしだもよせへで、よひかしたもよせんてよは、東西には八千町の田を持てる事を云へり、(『俗事百工起源』巻之上)
15日頃 左義長(さぎちょう)
三毬杖とも書く。もと毬杖(ぎちょう)を三つたてたことからいう。正月十五日及び十八日に吉書を焼いた儀式。禁中では清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬杖三個を結び、これに扇子・短冊・吉書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。この行事が民間に伝わり、「どんど焼き」といわれる小正月の行事となった。民間では、長い竹数本を立て、正月の門松・七五三飾(しめかざり)・書初めなどを持ち寄って焼く。その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くという。地方では今でも行われ、「さいとやき」「ほっけんぎょう」「ほちょじ」などとも呼ばれている。
【どんど】
どんど焼きの事で、どんと焼き、とんど焼きなどともいう。小正月に村境などで行なった火祭。また、門松・注連縄などを集めて焚く習俗。(『広辞苑』第二版)これを行なう特定の場所を「どんど場」といい、多くは村境の道祖神を祭った道祖神場(さえのかみば)であった。
- 1月8日、鳥越神社どんど焼 門松・注連縄などの正月飾りを焼き、健康と家内安全を祈る。燃え上がる火の周囲では子供たちが「どんどやどんど」とはやしながら青竹で地面を叩く。
- 1月14日、仙台大崎八幡どんと祭 14日夜から15日の早朝にかけて行なわれる松納めの行事。
- 1月14日 吉祥草寺茅原とんど 本堂前に雄と雌の二つの大とんどを作り、これに火をつけその年の豊凶を占う。この寺は役行者の誕生地ともいわれ、山伏が多数参加する。
- 1月15日 堺市家原寺とんど左義長 高さ五メートルほどの大とんどに、書初めの作品などを投げ込む。昔、僧の行基が中国の慣習をまねて儀式化したものと伝えている。
15日 小正月(こしょうがつ)
旧暦の正月十五日、或いは十四日から十六日までの称。元日を大正月というのに対する。小年、二番正月、若年などともいう。
【小豆粥】(あずきがゆ) 1月15日
もとは七種粥(ななくさがゆ)の一種で、小正月に米・粟・稗・黍・小豆・胡麻など七種のものを入れて炊いた粥だったが、後には小豆だけを入れるようになった。これは小豆を米にまぜてたいた粥で、多くはそれに餅を入れる。邪気を除くとされ、一月十五日にこれを食し、またそのたきあがり方で豊凶を占った。桜粥ともいう。土佐日記に「十五日。けふ小豆粥煮ず」とある。
『枕草子』に、「十五日、節供まゐりすゑ、かゆの木ひきかくして、家の御達・女房などのうかがふを、うたれじと用意して、つねにうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにかあらん、うちあてたるは、いみじう興ありてうちわらひたるはいとはえばえし」とあって、「十五日、節供まゐりすゑ」の注に、望粥(もちがゆ)の御膳を供するとあり、延喜式に望粥には「米・粟・小豆・胡麻など七種の穀類を煮る」とある。また、「かゆの木」の注で、かゆの木は望粥を炊いた木で、この木で女の後を打てば子を産むという俗信があり、女達が木を手にして互いに相手を打とう打たれまいと興じている様子を書いている。
枚岡神社粥占神事 1月11日から15日に行なわれ、小豆粥を煮た釜の中に早稲・中稲・晩稲と記した竹の管を入れ、その中に入った粥の多少によってその年の豊作・凶作を占う神事。
1月15日 秩父三峰神社筒粥神事 一年の作物の豊凶を占う行事で、長さ数センチに切った葦の筒三十六本を麻糸で結び、これを小豆粥の中に入れて午前三時頃に焚く。取り出した筒に入った米と小豆の割合で作柄を占う。
1月15日 京都下鴨神社御粥祭 この日は白米と小豆で紅白の粥を作り、神前に供えて五穀豊穣を祈願する。
中旬 鏡開(かがみひらき)
近世、武家で、正月に男は具足に、女は鏡台に供えた鏡餅をその月の二十日、後には十一日に切って食べたこと。鏡割ともいうが武家では切る、割るという詞は禁句なので、開くといった。具足開きともいわう。現代でもこの風習は残り、切った餅を雑煮やお汁粉にして食べる。
毎年1月の第二日曜日に行なわれる講道館の鏡開が有名。
28日 【ヌエ祓い】(ぬえはらい)
静岡県伊豆長岡町で、この日、大きな張り子の怪獣を退治する。源頼政の伝説に因む行事。
2月(如月)
二月の暦・歳時・行事
如月(きさらぎ)、梅月(うめづき)、雪消月(ゆききえづき)、初花月(はつはなづき)、木芽月(このめづき)、梅見月(うめみづき)
旧暦の行事
八日 事八日(ことようか)
この日と十二月八日には、各地で大眼(おおまなこ)などと呼ばれる妖怪やハリボクなどと呼ばれる怪魚が現れるとされる日とされ、目籠を庭に掲げるなどして防御する。
新暦で行なう行事
3日頃 節分(せつぶん)
季節の移り変わる時をいい、立春・立夏・立秋・立冬の前日をいうが、特に立春の前日を称するようになった。
この日の夕暮、柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打豆と称して炒った大豆をまく習慣がある。(『広辞苑』第二版)
この「豆まき」は、最近では家屋構造が西欧化し和室が無い家も多くなったせいか、あまり見られなくなった。幼稚園などでは、大豆の代わりに皮付きピーナッツを撒くという所もある。これは撒いた豆を拾って年の数だけ食べると縁起が良いという俗習から、元来畳の部屋での行為だったが、幼稚園など畳の無い室内で大豆を拾って食べるのははばかられるが、皮付きピーナッツであれば甘皮を剥けば食べても大丈夫という心持ちからだと思われる。
豆まきが行われるようになったのも、そのとき唱える「服は内、鬼は外」も、厄年の人が節分に自分の年齢の数だけの豆を食べるとその厄をまぬがれることができるという風習も、また、年男が豆をまくということも、いずれも室町時代にはじまったとされる。
また、近年、「恵方巻き」と称する巻き寿司をこの日に食べるようになったが、これは東京などでは無かった習慣で、話によれば関西から伝わったものだという。大方、関西商人が考えた商魂逞しい俗習で、クリスマスのケーキ、バレンタインデーのチョコレートなどのように、群集心理に弱い日本人の心情につけいった商売上の戦略でしかない。
【節分会】(せちぶんえ)
せつぶんえ。立春の前日、あるいは当日寺社などで行う行事・祭儀。節分祭(せつぶんさい)。「節分の豆まき」として一般の家庭でも行うが、現在では多くの寺社で、その年の年男・年女などの著名人を招き、境内で鬼打ち豆を撒くなどの「豆まき行事」を行っている。元来この「豆まき」は「鬼遣(おにやらひ)」、あるいは「追儺(ついな)」という朝廷行事の一つであった。
文武天皇の慶雲三年(706)、諸国に疫病が流行したことから、鬼遣(おにやらい)の儀式を行ったことが節分会のはじまりとされている。
【追儺】(ついな)
「鬼遣(おにやらひ)」ともいい、古来朝廷公事の一つで、疫病をはらひ除く意の儀式。支那風俗の伝来といふ、もとは十二月晦日の夜に、疫鬼に扮装したる人を追ひはらひしものなりしが、後世民間にて節分の夜、大豆を炒り「おにうちまめ」と称して「福は内、鬼は外」と高く呼びて、これを撒く。(『廣辭林』新訂版)
[追儺の始]
中臣大祓図会に云、人王四十二代文武天皇御宇慶雲元年秋より冬に至る、都も鄙も疫病大ひに流行て、家々戸々に病臥死亡する者甚多かりき、帝是を憐愍給ひ、冬十二月始て儺の式をなさせ、疫神を禳はせ旧ひければ、其徳にや疫病漸次に止にけり、是我朝儺の権輿にて、末代迄朝廷の恒例として行はるゝ処なり、民間節分の夜に柊の枝を門戸に挿し、豆を爆て屋内に撒き、鬼は外、福は内と唱ふるも、此の儺の式を摸する処にて最も古き事なり(「俗事百工起源」卷之上)
節分には、鬼にかかわる行事が各社寺で行われる。例えば、
【鬼追い】(おにおい)
奈良市・法隆寺西円堂・興福寺など 松明を振って暴れる鬼が毘沙門天に取り押さえられる。
【鬼踊り法楽】(おにおどりほうらく)
京都市・廬山寺 踊り狂う赤鬼、青鬼、黒鬼が護摩の法力により門外に退散する。
第1日曜日 御田祭(おんだまつり)
奈良県高市郡飛鳥坐神社。赤天狗とお多福が床入りを演じ、稲の豊穣を祈る。
8日 針供養(はりくよう)
二月八日と十二月八日に、婦人が裁縫をやすむこと。折れた針を集めて豆腐に刺し、淡島神社に納める地方もある。(『広辞苑』第二版)婦女が二月八日に、平素の裁縫にて折れたる針を悉く淡島社に納めて、其日の裁縫を休むこと。(『廣辭林』新訂版)
淡島神社(淡島社)は、「淡島さま」と呼ばれ、婦人病に霊験があるとされている神社で、全国各地にある。東京では浅草寺境内にあるのが有名。毎年二月八日には、使い古した針や折れた針を備えて裁縫の上達を祈願する婦女で賑わう。また、和歌山市加太の淡島神社では、使い古した縫い針を持ち寄って供養し、針塚に埋めるという。
この他、東京では正受院(新宿区新宿)、西光寺(葛飾区四ツ木)、森厳寺(世田谷区代沢)でも「針供養」が行われる。
初旬 【初午】(はつうま)
二月の初の午の日。京都の伏見稲荷神社の神が降りた日がこの日であったといい、全国で稲荷社を祭る。この日を蚕や牛馬の祭日とする風習もある。(『広辞苑』第二版)
伏見稲荷の大祭が一番有名で、全国各地の稲荷社で「初午祭」が行われる。近年では、伏見稲荷を始め多くの稲荷社では新暦の2月の「初の午の日」に行うが、松尾寺の大祭など一部の稲荷社では、旧暦で行っているところもある。
ちなみに、京都伏見稲荷、常陸笠間稲荷(茨城県笠間市)、肥前祐徳稲荷(佐賀県鹿島市)が我が国の三大稲荷とされている。
10日、11日 【鬼祭り】(おにまつり)
豊橋市・安久美神戸神社 天狗が赤鬼を打ち負かす。
3月(弥生)
三月の暦・歳時・行事
弥生(やよい)、桜月(さくらづき)、染色月(しめいろづき)、花見月(はなみづき)、雛月(ひいなづき)、夢見月(ゆめみづき)
旧暦の行事
三日 上巳の節句(じょうしのせっく)
三月三日の節日。五節句の一つで、別名「桃の節句」と呼ばれ、また「雛祭り」といっている式日。中国の上巳の行事と、我が国の呪術的な人形を祀る行事が一体化したもの。
始め、陰暦三月の初の巳の日をいったが、後には三月三日となる。宮中では、
この日、曲水の宴を催した。この時、人形(ひとがた)に切り取った紙を流して遊ぶ。これからひな人形が生れ、女児のお祭りとなったともいわれる。
◎雛祭
同書に云、敏逹天皇二年に始る、雛は元鳥の子の総名なり、鳥の子は愛らしきもの故名とせり、小女是を玩ぶは女は世帯の諺を元とすの教なり、近世大裡雛とて公卿の形に作るあり、昔は紙雛なり、
源氏、十にあまりぬる人は、ひいな遊びはいみぬる物を、枕草紙過にしかた恋しきものゝ枯たる葵、ひいな遊の調度、増山の井に云、三月三日の条に云、ひいな遊こそ慥なる期もあらねば、打まかせたるは雑なるべし云々、ひいな遊、遠からぬ事なるべし、天正以後の事歟と云々、
又或書に云、昔神功皇后と生れ玉ふ皇子とは小船に乗せて武内の外戚の国紀伊州へ巡したり、難風に遭せ玉ひ海上に漂泊し給ふか、御船流れしより恐多き事なれども、御産後海上に漂泊し玉ふ故御体病安からず、此辺に社やあるとて、少彦名命の社を尋ねさせ、御自身紙にて形代を切て、神前にて身を拭ひ祓をして参詣し玉ふ、息子の御形代をも、又かくのごとくしたまふ、天子皇后と雖、鄙に窶れ給ふ御姿の形代故、是より鄙の名起れり、後代に雛の字にかへ用ゆ、然れば雛は御母子なり、今用る夫婦にあらず、粟島の本社少彦名命にて、後に神功皇后を合祀せり、夫より体病に祈り、或は雛を以て祭ると、先年紀国公より壷井安左衛門へ粟島の考被2仰付1しと云々、(『俗事百工起源』)
○雛(ひいな) 敏達天皇二年にはじまる、雛は元鳥の子の惣名也、鳥の子は愛らしきものゆへ名とせり、小女これを翫ぶは、女は世帯の諺を元とすの教なり、近世大裡雛とて公卿の形に作るあり、むかしは紙雛也源氏 十にあまりぬる人は、ひいなあそびはいみぬる物を枕草子 過にし方恋しきもの、枯たる葵、ひいなあそびの調度(『近代世事談』巻之四)
三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。柳などをかしきこそさらなれ、それもまたまゆにこもりたるはをかし。ひろごりたるはうたてぞみゆる。
おもしろくさきたる桜をながく折りて、おほきなる瓶にさしたるこそをかしけれ。桜の直衣に出袿して、まらうどにもあれ、御せうとの君たちにても、そこちかくゐて物などうちいひたる、いとをかし。(『枕草子』)
【曲水の宴】(きょくすいのえん)
古代に朝廷で行われた年中行事の一。三月三日(桃の節句)に、朝臣が曲水に臨んで、上流から流される杯が自分の前を過ぎぬうちに詩歌を詠じて杯をとりあげ酒を飲み、おわって別堂で宴を設けて披講した。もと中国に行われたものという。略して曲水、曲宴ともいう。(『広辞苑』第二版)
- 【曲水】(きょくすい)
- 庭園または樹林・山麓をまがり流れる水。(『広辞苑』第二版)
- ◎曲水
- 或書に云、上巳の曲水の宴は、二十四代顕宗天皇の御宇に始ると云々、(『俗事百工起源』)
この「曲水の宴」は、太宰府天満宮で、梅林の中の流れの所々に殿上人や官女に扮した神職・有志らが座をしめ、歌を詠み上流から流れ来る杯を受けて酒を飲む風雅な行事が三月の第一日曜日に行われている。
新暦で行なう行事
1日〜14日 【二月堂お水取り】(にがつどうおみずとり)
東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)。東大寺の僧侶が、自身の犯した罪や穢れを二月堂の本尊十一面観世音に懺悔し、あわせて国家安泰と人々の豊楽を祈る行事。天平勝宝四年(751)に始まり、今日まで千二百数十年続いている。行事は十四日間(1日から14日まで)行われ、本尊にお供えする霊水を若狭井から十三日の深夜、十四日午前一時過ぎに汲み取る儀式を「お水取り」という。この修二会の期間、二月堂の回廊を練行衆が大松明を振り回す「おたいまつ」の行事が行われ、一般にはこの「おたいまつ」を「お水取り」といっている。この期間、その火の粉を浴びれば息災になるという伝えから、善男善女が大勢参詣に集る。
この「修二会」の行事は、三月二日に二月堂の「お水取り」の行事と一体のものとして、若狭神宮寺でも行われ、「だったんの神火」でお水を浄め、柴灯護摩法要の後、遠敷川(おにゅうがわ)の上流、鵜の瀬まで山伏姿の人を先頭に数百人が行列し、送水文を読み上げ、これを流れに投げて水を切る行事「お水送り」が行われている。
3日 【ひな祭り】(ひなまつり)
【桃の節句】ともいう。本来は旧暦三月三日の行事。
この日、京都上京区にある宝鏡寺では、「ひなまつり」を行い、寺所蔵の古い「雛人形」を陳列公開する。光格天皇愛用の人形を数多く所蔵し、人形寺として名高い。また、各地で「雛流し」などの行事が行われる。
【流し雛】(ながしびな)
各地で行われるが、鳥取県では竹と紙で作った雛人形を桟俵に乗せて川に流す。身の穢れを人形に託して送り流す行事。
20日前後 【春の彼岸会】(はるのひがんえ)
春のお彼岸。二十四節季の一、春分の日の前後七日間に行う仏事。
彼岸会は平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には庶民の年中行事となった。彼岸とは、梵語para(波羅)のことで、河の向う岸を意味し、終局・理想・さとりの世界、涅槃、波羅密をさす。対して、こちら側、すなわち現世を此岸(しがん)という。(『広辞苑』第二版)
この期間に、お墓に参り先祖の供養を行う。我が家では「入りぼたもち、明け団子」と称して、この時期にあんこ餅(半搗きにした餅米にあんをまぶしたもの)やみたらし団子を食している。ちなみに同じあんこ餅を秋の彼岸では「おはぎ」という。「ぼたもち」の「ぼた」は「牡丹」の事で、春の花とされ、「おはぎ」の「はぎ」は「萩」の事をいい、秋の花とされる。団子は仏前に供したものを焼いて食べるのが本来だが、現在では「みたらし団子」を「ぼたもち(おはぎ)」と一緒にセットにして和菓子屋などで売っている。
この頃より 【病送り】(やまいおくり) 3月〜
「やんまいおくり」とも。各地で行われていた河原の行事。宮城県黒川郡では、団子を作って藁に包み、川に流して病を送る。山形県寒河江市では、幟、団子木(団子えお付けた木)、鬼の絵を持って練り歩き、それらを川に流す。
4月(卯月)
四月の暦・歳時・行事
卯月(うづき)、卯花月(うのはなづき)、鳥月(とりづき)、鳥待月(とりまちづき)、花残月(はなのこりづき)、清和月(せいわづき)
第一日曜日 【マダラ鬼神祭】(まだらきじんさい)
茨城県真壁郡・楽法寺 鬼が護摩を焚く。
8日 【灌仏会】(かんぶつえ)
花まつり。四月八日はお釈迦様の誕生日とされ、全国各地の寺院では灌仏会が催され、花御堂を設け、甘茶の接待や稚児行列などが行われる。
陰暦四月八日(現在は陽暦)に釈尊の降誕を祝して行う法会。花で飾った小堂を作り、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶(正しくは五種の香水)を釈尊像の頭上にそそぎ、また持ち帰って飲む。日本で606年元興寺で行われたのを最初とする。降誕会。仏生会。花祭。(『広辞苑』第二版)
上旬 【花見】(はなみ)
この時期、桜の開花に合わせて各地で人が集い、花(桜)を愛でて遊ぶ風習。陰暦三月三日あるいは四日ころ、村人たちが見晴らしのよい岡の上などに集まって飲食する風習で、花見正月、やまいそ遊びなどと言った。(『広辞苑』第二版)
桜の名所では大勢の人出で賑わう。そこでは人々が花見の宴を楽しむ。歴史的に有名なものでは秀吉の催した「醍醐の花見」がある。それにちなんで現代でも、伏見の醍醐寺で「花見の宴」が行われている。
21日〜29日 【壬生大念仏会】(みぶだいねんぶつえ)
鎌倉時代から行われている念仏会で、境内の舞台では「壬生狂言」が演じられる。毎年4月21日から29日に京都壬生寺で行われる。壬生狂言は、猿楽系統の民俗芸能の一つ。全員仮面をつけ、一切無言で鰐口・笛・太鼓の伴奏に合わせて演じる。演目は独自のものと、能や狂言を再脚色したものとがある。壬生猿楽。壬生念仏。(『広辞苑』第二版)
中旬 【伏見稲荷神幸祭】(ふしみいなりしんこうさい)
「おわたり」あるいは「おいで」と称され、稲荷の神が年に一度、氏子の地域を巡幸するという行事。毎年4月の二の午の日に行われる伏見稲荷社最大の祭り。五月の初卯に遷幸祭が行われ、神が帰る。これを「おかえり」という。また、二月の初午の日にも祭りが行われ、この日に稲荷社に詣でることを特に「稲荷網で」という。
5月(皐月)
五月の暦・歳時・行事
皐月(さつき)、早苗月(さなえづき)、橘月(たちばなづき)、田草月(たくさづき)、吹喜月(ふっきづき)、梅色月(うめのいろづき)
旧暦の行事
五日 【端午の節句】(たんごのせっく)
五節句の一つ。端午は端五とも書き、端は初の事で、午(五)の初旬の五の日、すなわち五月五日をいう。陰暦五月五日の節句で、上巳の節句(陰暦三月三日)が女子の節句であることから、端午を男子の節句とした。陰の気を払うため蓬や菖蒲を軒に飾り、菖蒲打ちの行事を行う。またこの日、菖蒲湯に浸かったり、蓬餅、柏餅を食す。近世以降、武士にならって甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗や鯉幟を立てて男子の成長を祝う。あやめの節句。重五。端陽。(『広辞苑』第二版)
◎五月幟之起 歳時記云、今日山城紀伊郡深草の里藤の森の祭には、鎧を著して競馬あり、此神は延喜式にいへる真幡きの神社なり、日本後紀に鴨別雷神の別なりと云へり、其後又三所の皇子をも此処に祭らる、早良親王、伊予親王、井上内親王なり、今日の祭に鎧を著することは、人皇四十九代光仁天皇の御宇天応元年に、異国の凶賊せめ来る由聞えければ、天皇第二の御子早良親王に大将軍として退治有べきよし宣旨ありければ、当社に祈誓し玉ひて、五月五日に出陣し給ふ、神感しるし有て、俄に大風吹来りて、大海浪をひるがへしければ、異賊一戦にも及はず、波に漂ひて悉く亡びにける、其時親王の出玉ふ軍勢のさまを学びけるとかや、又都鄙の童子、今日菖蒲のかぶと太刀をもて遊ぶ事も此祭を学ぶとなり、されば此事むかしは篤き紙に人形をほり付、薄き板を胄の形にこしらへ、或は菰の葉にて馬を作り、或は木を槍長刀の如くけづりなどして戸外に立侍りしが、近年は風俗美巧を好みて木を以て人馬の形をきさみ、又ははりこにして彩色をほどこし、或は甲冑を着せ剣戟をもたせ、戦闘の勢をなさしめて戸外に立侍る、是をかぶとゝ云ふ、又紙籏に色々の絵を書て長竿につけ、是をも戸外に立侍る、これを幟と云、或は絹を用るもあり、或は長籏を加へて是を吹流しと云、朔日より五日迄児童の弄事とす(『俗事百工起源』)
○五月甲 光仁帝天応元年、蒙古の賊本朝に来る、早良親王をしてこれを討しめ給ふ、親王藤杜のやしろに祈て出陣あり、時に五月五日、たちまちに神風ふきて、賊船立所に敗走し、戦ずして勝事を給ふ、よつて五月五日に、兵器を飾る(『近代世事談』巻之四)
『俗事百工起源』にある「藤の森の祭」は、京都伏見区深草にある藤森神社で毎年五月五日に行われる藤森祭のことで、端午の節句(菖蒲の節句)の発祥の祭りとして知られている。三台の神輿と、甲冑をつけ旗幟を翻した駆け馬の武者行列が、町内を巡行する。また、境内の馬場では馬の曲乗りが行われる。『近代世事談』の「藤杜のやしろ」は藤森神社のこと。
二十七日 鹿島流し(かしまながし)
秋田県大曲市などでは、柴で舟を作り、鹿島人形を乗せて川に流す。悪しき物を村外に追い出す呪法。
新暦で行なう行事
1日頃 【八十八夜】(はちじゅうはちや)
立春から数えて八十八日目。5月の1日2日頃で、種まきなどに最適な時期とされるとともに、茶どころでは、この日に若芽を摘み、茶まつりなどが行われる。
2日 【鬼踊り】(おにおどり)
兵庫県加東郡・朝光寺 翁と鬼が乱舞する。
3日〜4日 【博多どんたく】(はかたどんたく)
室町時代、博多の商人が領主に松ばやしを仕立てて年賀のお祝いに行った行事が始まりで、その後、江戸時代には博多商人の間で、年に一度の親類縁者への無礼講の挨拶回りとなり、途中、中断されながらも続けられ明治に至った。現在では5月の3日4日に市民の祭りとして行われ、全国から大勢の観光客を集める行事となっている。
5日 【猿猴祭り】(えんこうまつり) 5月5日
島根県桜江町では、猿猴(カッパ)のいたずらや水難を避けるため江川に祀った水神さまの祭りを行う。高知県南国市では、後川に住む猿猴を祀る子供たちの祭りが六月上旬に行われる。
15日 【神田まつり】(かんだまつり)
江戸の三大夏まつりの一つ。毎年、5月15日に、神田神社(神田明神)で行われる。氏子が京橋から下谷までの広範囲に及び、神輿が下町を派手に練り歩くことで有名。
15日 【葵まつり】(あおいまつり)
5月15日に行われる下鴨神社、上加茂神社の賀茂社の祭り。古へより、「賀茂のまつり」と親しまれた祭り。供奉者の衣冠から牛馬にいたるまで桂と葵の葉をつけるので「葵まつり」といわれる。呼び物の行列は、午前十時半過ぎ京都御所を出て、丸太町通から川端通を通って午後二時ころ下鴨神社へ、ここで小憇の後、上加茂神社へ向う。
中旬 【三社まつり】
江戸の三大夏まつりの一つ。毎年、五月の第三日曜日を最終日とする四日間にわたって、浅草神社で行われる祭り。
6月(水無月)
六月の暦・歳時・行事
水無月(みなづき)、常夏月(とこなつづき)。風待月(かぜまちづき)、松風月(まつかぜづき)、蝉羽月(せみのはづき)、鳴神月(なるかみづき)
旧暦の行事
十五日 み葦流し(みよしながし)
尾張国津島(愛知県津島市)の津島神社の神事。葦を束ね、これに疫病を移して川に流す。
晦日 夏越の祓(なごしのはらえ)
各地で行われる行事。穢れを人形に移し川に流す。
新暦で行なう行事
1日 【蚤送り】(のみおくり)
東北地方では、オオバコなどの葉を座敷に散らし、これを掃き集めて川に流す。蚤の駆除行事。
この頃 【川祭】(かわまつり)
「川入り」ともいい、各地で行われる。川で水浴し、禊を行う。
日枝神社山王まつり
【日枝神社山王まつり】(ひえじんじゃさんのうまつり) 6月10日頃
江戸の三大夏まつりの一つ。徳川家の産土神を祀る日枝神社で、毎年6月10日頃の一週間行われ、期間中、お囃子と演芸の奉納がある。
中旬 【チャグチャグ馬コ】(ちゃぐちゃぐうまっこ)
岩手県盛岡市で、農耕に従事させた馬の慰労をねぎらう行事として始められた。毎年、6月中旬に行われ、金銀紅紫の色とりどりの晴れ着で飾られた馬が行列をなし、馬の神様といわれる蒼前神社に安全と健康を祈願する。
12日頃 【梅雨入り】(つゆいり)
入梅(にゅうばい)ともいい、陰暦では芒種の後の壬の日を入梅とし、陽暦では太陽が黄経80°になる日を入梅としている。
○入梅の井 摂州矢田郡丹生山田庄原野村栗花落理左衛門第宅に井あり、渡り三尺、深さ一尺、常に水なし、梅雨に入てかならず湧出す、その水口の数を以、入梅の日を定む、終に姓と成りて、栗花落理左衛門といふ、五月栗の花の落る頃は、入梅の時節なるが故に、栗花落と書り、彼家伝に云、始祖山田左衛門尉真勝、幼名を花光丸と号、人皇四十三代廃帝天皇の御宇に奉仕す、于時横萩右大臣豊成の娘、白滝姫を恋ふ、白滝姫一首をおくる、
雲だにもかゝらぬ峯のしら滝を、さのみなこひそ山田男よ
とよみてつれなかりければ、猶おもひまされり、これに返事申さば得さすべしとあれば、真勝
水無月の稲葉の末のこがるゝに、山田に落よしら滝の水
とかきておくりければ、豊成卿かれが心を感じ、終に帝に奏して、白滝姫を真勝が家に送る、叡慮浅からず、天国の御剣を賜ふ、此家の珍とす、而後しら滝姫世を去る、此時仲夏にあたる、遺骸を第宅の東の境に葬るべしと也、その蔵す所を、叢詞となし、弁財天と祀祭、その地について、此水湧出し、今に至て仲夏をしらしむ、白滝姫は当麻寺の中将姫の妹なりとぞ(『近代世事談』巻之四)
【梅雨】(つゆ)
入梅からおよそ三十日間の淫雨期をいい、温暖湿潤な東南気候風中の水蒸気が凝縮する等から霖雨となり陰鬱な天気が続く時期。梅雨(ばいう)ともいい、梅が熟する頃の雨という意味。また黴雨(ばいう)とも書き、これはジメジメして何もかも黴が生えるという意味からくる。
【五月雨】(さみだれ)
梅雨の次期に降る雨をいう。陰暦五月に降ることから名付けられ、「さみだれ」とは「五月(さつき)」の「さ」に「水垂れ」がついた言葉とされている。
第二土曜日 【青鬼祭り】(あおおにまつり)
大津市・石山寺 中興の租が死に臨み、青鬼となって降魔招福を誓ったという伝説に因む。
22日頃 【夏至】(げし)
二十四節気の一つ。一年で最も昼が長く、夜の短い日。
7月(文月)
七月の暦・歳時・行事
文月(ふみづき)、七夕月(たなばたづき)、文披月(ふみひらきづき)、秋初月(あきはづき)、蘭月(らんげつ)
旧暦の行事
七日 七夕
◎七夕 近代世事談に云、公事根元に孝謙帝天平勝宝七年に乞巧奠はじまる、此事諸書に委しければ茲に略、或書七月七日、織女牽牛会の夜なりといふ、続斉諧記に始て武丁か妄言をあぐと云々、
さかしらに誰いひ初て七夕の今宵なき名のそらにたつらん 仁斎
(『俗事百工起源』)
十五日 盂蘭盆会(うらぼんえ)
盂蘭盆とは、梵語でullambanaのことで、倒懸と訳される。甚だしい苦しみの意。七月十五日に種々の食物を祖先の霊に供えて、餓鬼に施し、祖先の冥福を祈り、その苦しみを救うこと。この日、一般には墓参・霊祭を行い、僧侶が棚経にまわる。地方によっては日が異なる。(『広辞苑』第二版)
◎盂蘭盆 続日本記に、七月十五日盂蘭盆の供養をすること、聖武帝の天平五年に始ると云々、又公事根源に云、天平五年七月始て盂蘭盆を大膳の職に備ふとあり、盂蘭盆と云ふは梵語なり、世事談に云ふ、(後略)
○盆 公事根源に云、天平五年七月、始て盂蘭盆を大膳の職に備ふとあり、盂蘭盆と云は梵語なり、倒懸救器と翻訳す、倒懸とは餓鬼の苦みをおもふに、倒に懸たるがごとし、救器とは苦を救ふ器なり、
釈氏要覧云、盂蘭盆此釈氏申レ孝報レ恩、救レ苦之要、以2目連救母1為始、梵語盂蘭、此救倒懸也、盆即此方器也矣、
聖霊をまつる事、むかしは十二月晦日にも祭れり
つれ/草、こと年の名残も心ほそけれ、なき人の来る夜とて、玉まつるわさは、此ころ都にはなきを、あつまのかたには、なほすることにてありしとそ、下略
なき人の来夜ときけと君もなし、我住里や玉なしの里 和泉式部
六盆の事 報恩経に云
二月十五日 寅時来 次日午時帰
五月十五日 卯時来 次日巳時帰
七月十四日 卯時来 次日午時帰
八月十五日 辰時来 次日申時帰
九月十六日 羊時来 次日申時帰
十二月晦日 午時来 正月朔日卯時帰 (『近代世事談』巻之四)
【盆】(ぼん)
盂蘭盆の前後数日の称で、陰暦七月十五日の前後をいうが、現代では月遅れの十五日前後を盆とする地方が多く、中元の「後の薮入り」と一緒となり、この時期に「お盆休み」といって、長期の休暇を取る慣習となった。
【中元】(ちゅうげん)
陰暦七月十五日の称。上元(一月十五日)・下元(十月十五日)と共に三元の一。中国古来の道教思想が、仏教の盂蘭盆と合流し、死者の霊を慰めまつる日となったもの。日本では近世から贈答の風習が加わり、今日に及んでいる。(『岩波古語辞典』)
【送火】(おくりび)
盂蘭盆の最終日、七月十六日の宵に、祖先の霊を送るために門前で焚く火。(『岩波古語辞典』)
○東山大文字 弘法大師始てこれを作る、浄土寺村慈照寺村の植えの山に有、毎年七月十六日、両村の土人四百余人松明を灯す、聖霊の送り火と云ふ、七月六日山に入て、松木を二三尺に切て日に乾す、十六日の晩、これを携へ山上に至る、大の字の跡あり、弘法大師の書する所なり、所々に少き穴を穿、小石を以徴とす、凡大の一字、横の一画其長四十間に及ぶ、炬火十箇余也、左竪の一画八十間余、其間炬火二十箇、右の一画六十八間、その間炬火二十九箇余なり、所謂携る所の薪を、徴の右の上に積、同時に火を点す、其光り赫奕たり、其日に伐所の薪、誤て他事に用ゆる時は、其家かならず祟あり、深くこれを慎(『近代世事談』巻之四)
現在、この送火は、京都の夏の終わりを告げる行事「大文字五山送り火」として毎年8月16日に行われている。午後八時に東の大文字山の「大」に点火、次いで左京区松ヶ崎西山に「妙」、同じく東山に「法」、北区西賀茂明見山に「船型」、大北山に「左大文字」、嵯峨曼陀羅山に「鳥居形」と点火される。
【精霊迎え】(しょうりょうむかえ) 旧七月十五日
盆行事の一つで、日暮れに川べりに出て、先祖の名を呼び、仏を背負って家に迎える地方もある。
【精霊送り】(しょうりょうおくり) 旧七月十五、十六日
盆の終わりに当り、精霊舟に供物を乗せ、川や海に流し先祖を送る。この日、河原で苧殻(おがら)を焚く地方も多い。
【川施餓鬼】(かわせがき) 旧七月十五日
盆に水死者の供養を川辺で行う行事。
新暦で行なう行事
7月中 【祇園祭】(ぎおんまつり)
毎年、7月に行われる京都八坂神社の祭り。1日の吉符入から29日の奉告祭までのほぼ一月間にわたって行われる。クライマックスは、17日の山鉾巡幸で、毎年大勢の人出で賑わう。
7日 【七夕】(たなばた)
五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという七月七日の夜、星を祭る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の風習とわが国固有の「たなばたつめ」の信仰とが習合したものといわれる。奈良時代から行われ、江戸時代に民間にも広がった。庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾り付け、書道や裁縫の上達を祈る。(『広辞苑』第二版)
【七夕送り】(たなばたおくり) 7月7日
七夕の飾りを川や海に流す行事。この日、子供が川で水浴する習慣も、穢れを流し禊を行う意味合いがあった。
15日 盂蘭盆会(うらぼんえ)
旧暦の行事がそのまま新暦で行なうようになった行事。
16日 【鬼来迎】(きらいごう)
千葉県匝瑳郡・広済寺 地獄で鬼に苦しめられる罪人や子どもを観音菩薩が救う無言劇。
下旬 【禍事流し】(まがごとながし)
神官より渡された菅の葉で身体を撫で、穢れを移して舟に乗せ流す関東地方などで行われる行事。夏越行事の一つ。
8月(葉月)
八月の暦・歳時・行事
葉月(はづき)、月見月(つきみづき)、萩月(はぎづき)、唐月(もろこしづき)、紅染月(べにそめづき)、木染月(こぞめづき)
1日〜7日 【眠流し・ネブタ流し】(ねむりながし・ねぶたながし)
北日本各地。灯籠などを川に流し、睡魔を祓う。
16日 【鬼の舞い】(おにのまい)
和歌山県伊都郡九度山町椎出・厳島神社 赤鬼が長い棒を持って舞う。
旧七月七日 七夕
現在では、各地で陰暦に代わり月遅れの8月7日に七夕祭を行っている所が多い。
旧七月十五日 盂蘭盆会
現在では、月遅れの8月15日をこの日に宛てている所が多い。
旧七月十六日 【河原飯】(かわらめし)
中部地方などで、河原に小屋をかけ、料理を楽しむ。多くは子供の行事で、辻で食事をする辻飯もある。
9月(長月)
九月の暦・歳時・行事
長月(ながづき)、菊月(きくづき)、紅葉月(もみじづき)、菊咲月(きくさきづき)、祝月(しゅくげつ)、青女月(せいじょづき)
18日 【面掛行列】(めんかけぎょうれつ)
鎌倉市・御霊神社 十種の面を被った行列が練る。
旧八月一日 八朔
この日、贈答をして祝う習俗がある。
中古より八月一日を田の実と号して佳節とす、わけても今年(天正十八年)御打入八月一日なるゆえ、毎年八朔の御祝儀五度の佳節と等しく、御嘉例となりしとぞ。(『武江年表』天正十八年)
八朔の雪
八朔の日に吉原の遊女が全員白無垢を着る風習があったが、そのさまをいう。八朔の白無垢。
旧八月十五日 十五夜
仲秋の名月。団子を供え、ススキを飾って愛でる風習がある。
ちなみに、陰暦十七日の月を立待月、十八日の月を居待月、十九日を寝待月という。
10月(神無月)
十月の暦・歳時・行事
神無月(かんなづき)、時雨月(しぐれづき)、初霜月(はつしもづき)、神在月(かみありづき)、良月(りょうげつ)
10月〜12月の特定の日【鮭の大介】(さけのおおすけ)
東北・北陸地方。 この日、巨大な鮭が川をのぼり、その声を聞くとその者は即死するといい、鮭漁を休んだりする。
10日 【笑い祭り】(わらいまつり)
和歌山県川辺町・丹生神社 雄鬼・雌鬼などを従えた鈴振り役が「笑え、笑え」と囃しながら練り歩く。
29日 【宇和津彦神社秋祭り】(うわつひこじんじゃあきまつり)
宇和島市 鬼の面をもつ巨大な牛鬼が練る。
旧九月十三日 十三夜
十五夜(仲秋の名月)と並び称される月見の日。
11月(霜月)
十一月の暦・歳時・行事
霜月(しもつき)、神楽月(かぐらづき)、神帰月(かみきづき)、子月(ねのつき)、霜降月(しもふりづき)、雪待月(ゆきまちづき)
3日 【ベッチャー祭】(べっちゃーまつり)
広島県尾道市。天狗や大蛇などに変装した者が、祝い棒で子供たちを叩いてまわる行事。
15日 【大護摩供】(おおごまく)
京都市・法住寺 三匹の鬼が護摩の周りを練る。
15日 【七五三】(しちごさん)の宮参り
七五三とは、五歳の男児、七歳三歳の女児の祝いだが、七五三そのものの歴史はそれほど古いものではない。
起源的には、武家社会で男児が五歳になると「袴着」、女児は七歳になると「帯とき」と称して吉日を選んでお祝いしたことにはじまるという。「七五三」という言葉が生まれたのは、明治以降で、商業的な政策から盛大になった。
当時の社会では、三歳ごろからようやく社会の一員に迎えられ、人別帳あるいは氏子帳への登録が行なわれたことから、この時、披露の意味もあり神前で「ひもおとし」などの行事が行われ、宮参りの風習ができあがったと考えられている。これらが、武家的な価値観から七・五・三と整備されていったもののようだといわれる。
この宮参りが11月15日となった理由は、この日が家々の家業に関係の深い神々を送る霜月祭に相当する日で、ほかの祭礼とは重ならない日であったからではないかと考えられている。
12月(師走)
十二月の暦・歳時・行事
師走(しわす)、弟月(おとづき)、限月(かぎりのつき)、春待月(はるまちづき)、三冬月(みふゆづき)、年積月(としつみづき)
1日 【川浸り】(かわびたり)
各地。この日は小豆を食べるまで川を渡るなといったり、餅を川に流して水神に供する。
大晦日 【ナマハゲ】
秋田県男鹿半島 かっては小正月に行われた行事で、蓑を着け鬼の面を被った若者が各戸を回る。
旧十一月十五日前後【天狗祭】(てんぐまつり)
埼玉県秩父市ほか。山の神の祭。子供たちが天狗の祠に参り、臨時の小屋を焼く行事。
師走
「師走」の語源は、平安時代の歌学書『奥義書』や国語辞典『色葉字類抄』などによれば、貴族たちが年の瀬に行われる「仏名会」(ぶつみょうえ)で、僧侶をあちこちで呼んだため、都を忙しく走り回る僧侶の姿がよく見られたことから生まれたという。この「仏名会」は、三世(過去・現在・未来)の諸仏の仏名を唱えて、一年間の罪障を懺悔して消してもらう「法会」。何千とある三世の仏名を全部唱えられる貴族は少なく、そのためそれを僧侶に依頼した。
また別説に、「年の果て」=「年果つ」(としはつ)から「しはつ」=「しわす」と転訛したとも言われる。
「晦日(みそか)」と「つごもり」
「みそか」とは三十日をそのまま読んだ音で、「つごもり」とは月がこもること、月がその光を隠すことをいい、つまりは月の無い新月の夜のこと。陰暦では月末の「みそか」と「つごもり」は同じ日を言うが、太陽暦となった現代では、「晦日」が必ずしも新月の晩ではない。そればかりか月末は三十一日が多く、「みそか」ではなく「みそひとか」となっている。
この「みそか」「つごもり」に「大」の字をつけた「おおみそか」「おおつごもり」とは、年に一回の年の暮れを言う言葉で、その言葉が現代でも年の暮れの12月31日を「おおみそか」といっている。
また樋口一葉の『大つごもり』という作品が発表された明治二十七年の大晦日は、五日の月が出ている日で、「おおつごもり」という真っ暗な夜の意味合いからは離れ、ただ単に年末の日をいっている。
参考文献
週刊朝日百科12

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