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全国・広域
880〜910 (九世紀中葉〜十世紀初頭)
俘囚の乱(ふしゅうのらん)
九世紀に入ると、地方に赴任した国司らが、その権限を利用し、公民らを使って開墾させ私有地の拡大に努めるなど、公地公民とされる律令制の根幹が揺らぎ、矛盾が増大。
関東・東北各地で私有財産を増やした勢力が富みを蓄え、好き勝手な振る舞いを行なう。『類聚三代記』の記述を借りると、「坂東諸国の富豪の輩」が率いる「就馬の党」と呼ばれる群盗が出没し、掠奪と殺害が横行、「凶猾党を成し群盗山に満つる」状況となった。庶民はその財力および武力によって支配される。そうした無秩序状態の中、建物が崩壊し多数の死者を出す大地震が起こり、深刻な飢饉が関東地方を襲った。
こうした状況下で律令制の埒外にあって自立し、武装した人々(俘囚)が、各地で反乱を起こす。
嘉祥元年(848)、上総で「俘囚丸子廻毛(まるこつむじ)」が反乱、朝廷は相模・上総・下総の国造に命じて討伐する。貞観十七年(875)、下総の俘囚が叛し官寺を焼き良民を殺害する乱が起り、武蔵・上総・常陸・下野などの国々から兵三百人を発して鎮圧にあたった。
元慶の乱 元慶二年(878)
関東の俘囚に呼応するかのように、出羽の俘囚が大乱を起こし、秋田城や郡の倉庫を焼き、秋田河以北の地の独立を要求した。政府はこの鎮圧に、陸奥・坂東の軍を動員するが、翌年まで乱は静まらず、妥協してようやく収まった。
こうした各地の「俘囚の乱」を鎮めるため、桓武天皇の曾孫にあたる高望王が、上総介として下向した。
936〜941(承平六年〜天慶四年)
承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)
承平六年、伊予国日振島を本拠に瀬戸内を荒し回っていた海賊の追捕に、藤原純友らが征討に赴く。一方、関東では平将門が「侘人を済ひて気を述べ、便なき者を顧みて力を託せり」(たより所のない人や世にいられない人に力をかしてやる)と武蔵介源経基を追い、天慶二年(939)、常陸国国府を襲い、乱の幕が上がる(平将門の乱)。将門は自ら新皇を称し、関東独立を計った。それに呼応するかのように、西の瀬戸内海では、先に警固使として伊予に下った藤原純友が、海賊の首領となって、中央政府に叛旗を翻した(藤原純友の乱)。
将門は翌天慶三年二月、自ら軍の先頭に立ち戦った時、敵の矢に当って討死、頭首の死で乱は急速に鎮まった。一方の純友はその後も瀬戸内海の制海権を握り、中国・四国・九州北部を襲い続ける。しかし、天慶四年(941)五月、追捕使によって誅殺され、東西の乱は平定された。
1274(文永十一年)
文永の役(ぶんえいのえき)
文永五年(1268)。蒙古の世祖フビライは、わが国に通商を求めるが、鎌倉幕府はこれを拒否、九州に執権を配し防御を強化する。これに対し、フビライは三万艘余の軍船で対馬・壱岐を侵略し、九州の筑前に上陸。ところが九州を襲った台風により、海上の船団が壊滅、退路を断たれるのを恐れた蒙古の軍勢は、わずかに残った軍船で引き上げて行った。
1281(弘安四年)
弘安の役(こうあんのえき)
先の文永の役では暴風雨のため撤退した蒙古軍だったが、その翌年、フビライは幕府に使者を送った。しかし、幕府はこれを捕らえ鎌倉で惨殺。
1350〜1352(観応元年/正平六年〜文和元年/正平七年)
観応の擾乱(かんおうのじょうらん)
足利幕府は足利尊氏と弟直義による二頭政治を行なっていたが、観応元年(正平五年=1350)、支配権を巡って兄弟が争い、各地で幕府を二分する擾乱となった。関東に於いても観応二年に高師冬が討死するなど混乱し、文和元年、鎌倉府で直義が亡くなるまで続いた。直義は尊氏に毒殺されたと言われている。
1467〜1477(応仁元年〜文明九年)
応仁の乱(おうにんのらん)
主戦場「京都」
△細川勝元vs△山名宗全
室町幕府は守護領国制をもって一国づつ守護大名を任じ、地方の武士同士の争いを抑え、領国の支配を行っていた。この制度によって南北朝の動乱は鎮静化し、安定するかに見えたが、幕府の指導力は守護大名を充分支配するものでなかったらしい。その為、幕府はしばしば守護大名と争った。それでも四代足利義持までは、まだ幕府将軍家の力も強かったが、やがて将軍家は守護大名の力を抑えきれなくなる。細川氏や畠山、山名、斯波氏等大大名の力が強くなり、幕府内の権力争いや管領職を巡り、守護大名同士の勢力争いに発展してゆく。
こうした背景の中、将軍継嗣で幕府内が乱れ、将軍義政の弟義視を推す管領職にあった細川勝元(東軍)と、義政の子義尚の母日野富子が頼った山名宗全(西軍)が対立。ついに応仁元(1467)年、両者は京都で大規模な武力衝突を起し、京の町は戦火で焼かれた。やがて東軍の総大将となっていた足利義視が西軍に走り、戦局が混迷し戦火は地方にまで拡大していった。両軍決着がつかないままに、勝元、宗全の両リーダーが没して終息した。
この乱をきっかけに足利幕府の将軍は名目だけのものとなり、各国は守護大名の独立支配となる。しかしこれは、守護大名の権威も名目だけということとなり、力のある国衆が大名にとってかわる「下克上」の思想が現れ、戦国時代へと突入して行くのだった。
1592〜1598(文禄元年〜慶長三年)
朝鮮の役(唐入り)(ちょうせんのえき)
主戦場「朝鮮半島」
文禄の役(壬辰倭乱) 文禄元〜二(1592〜1593)年 ○豊臣秀吉軍vs●李氏朝鮮・明国
慶長の役(丁酉倭乱) 慶長二〜三(1597〜1598)年 ●豊臣秀吉軍vs○李氏朝鮮・明国
天正十九(1591)年五月、秀吉の使僧玄蘇と、宗義智の臣柳川調信が、朝鮮国王李公(正しくは日編に公)の返書を持ち帰った。秀吉はこれを不服とし、翌月には宗義智自らを使いとし、李公に要求をつきつけた。この事態を受け季公は「秀吉の出兵近し」と判断、全羅道や慶尚道の城郭を増築する。一方、秀吉は半島侵略の基地として、肥前名護屋城の普請を十月から始めた。
文禄の役(壬辰倭乱)
翌天正二十(1592)年(文禄元年)正月、朝鮮を経て明にまで兵を進める出陣命令が諸大名に下され、同時に諸大名に人質を差出す命令が秀吉から発せられた。三月には「六十六カ国人掃令」を発した。これは、全国的な身分別人口調査で、朝鮮への侵略のために動員できる人的資源を調査したもので、農民を戦争へ動員する準備であったといわれている。こうしていよいよ秀吉は出陣を命じ、自らも京都を三月二十六日に出発し、四月二五日、肥前名護屋城に入った。この秀吉の下向中に、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、宗義智らの先発隊第一軍(一万八千余人)は兵船七百余艘をもって対馬大浦を出発、朝鮮の釜山浦に入港し、翌日には上陸して釜山城の城将鄭撥を殺し、城を落している。さらに加藤清政、鍋島直茂らの第二軍(二万二千余人)、黒田長政、大友義統の第三軍(一万一千人)、毛利吉成、島津義弘らの第四軍(一万四千人)、福島正則、長宗我部元親、蜂須賀家政らの第五軍(二万五千余人)、小早川隆景、立花宗茂らの第六軍(一万五千余人)の乗せた大軍船団が半島を目指していた。これら先発隊に続き、後続隊として毛利輝元の第七軍(三万人)、宇喜多秀家の第八軍(一万人)、羽柴秀勝、細川忠興の第九軍(一万一千余人)の三軍が出陣の用意をしている。これらの軍構成と人員は「毛利家文書」によるもので、上陸軍の総数は十五万八千余人に達していたという。また、日本側の拠点名護屋には徳川家康や有力大名に率いられた十万余の軍勢が集結していた。
上陸軍は三つの経路で王都京城を目指し、さしたる抵抗もなく、五月三日には第一軍、第二軍が京城を占領した。さらに小西行長率いる第一軍は北上を続け、平壌を攻略する。こうして快進撃を続ける状況に気を良くした秀吉は、五月二十六日付で関白秀次に朱印状を与え、大陸占領後の計画を発表した。この占領計画は、後陽成天皇を明の国都北京に迎え、秀次を明の関白とし、各公家たちには今までの十数倍の知行地を与える。そして日本の天皇には良仁親王か八条宮をつかせ、関白に羽柴秀保か宇喜多秀家を置くという壮大なものであった。しかし、こうした快進撃は前半だけのものとなる。戦線が伸び切ったところで、朝鮮の民衆の蜂起があちこちで起り始める。さらに、閑山島の安骨浦において日本の水軍が李舜臣の率いる朝鮮水軍に大敗し、制海権を握られ兵糧の補給がままならなくなった。こうした状況下で、九月になると明の救援軍が鴨緑江を渡って朝鮮に入り、戦局は泥沼化する。
十一月二十日、明国の使者沈惟敬が和議のために平壌の小西行長と交渉を持つが、和議に至らず帰国。翌文禄二(1593)年正月、明の李如松を総司令官とする大軍により、平壌が奪い返され、日本軍は京城に兵力を集中せざるを得なくなった。そんな中、小早川隆景らの軍勢が碧蹄館の合戦で明軍を破り、再び和議の動きが出る。この和議が具体化するのは五月に入ってからで、明の講和使謝用梓と徐一貫が名護屋に到着し秀吉と会見。秀吉は和議の条件として「明帝の女を迎えて日本の后妃にすること」「朝鮮の王子および大臣各一名を人質とする」「勘合符を復活し、商船の往来をさせる」などの七カ条を要求。使節はこれを持って帰国し、小西行長が北京に行き講和交渉に入った。こうして講和交渉の間、自然休戦となり、文禄の役(壬辰倭乱)が終息。
直接交渉に当る小西行長は、七カ条にこだわらず実利的な日明貿易再開などを全面に出し、交渉を行う。その間、朝鮮在陣中の諸大名は、そのまま朝鮮に滞陣し、文禄三年には虎狩りなどを行っていた。諸将は秀吉の歓心をかうため、競って虎を捕え肉を塩漬けにして送った。その陰には、虎を追って崖から転落したり、襲われて死んだ無名の兵士が大勢いたという。やがて交渉が長期化すると共に、各大名は守備兵を残して領国経営のために帰国。ようやく明の册封正使揚方亨が釜山を出発し日本に向ったのは、途中で慶長元年と改元される文禄五(1596)年六月のこととなる。副使の沈惟敬はそれより一足早く日本に到着し、伏見城において秀吉と謁見した。正使の揚方亨が大坂に到着したのは八月二十九日で、九月一日、正副使節が揃って大坂城の秀吉を訪問。翌二日、秀吉は二人を大坂城で饗応し、酒宴のあと猿楽などを催し上機嫌だったという。ところが宴の後、相国寺の西笑承兌に明国王の誥勅を読ませたところ、そこには「特に爾を封じて日本国王と為す」とあるだけで、先に秀吉が要求した七カ条についてはなにも触れられていなかった。怒った秀吉は册封使を追い返し、再出兵の命が下される。
慶長の役(丁酉倭乱)
翌慶長二(1597)年二月、秀吉は朝鮮再出兵の陣立書を発表。それによると第一軍と第二軍が小西行長、加藤清正が交代で勤めるようになっり、行長は慶尚道豆毛浦、清正は慶尚道西生浦から上陸していった。さらに第三軍として黒田長政、島津豊久ら、第四軍が鍋島直茂、勝茂、第五軍が島津義弘、第六軍が長宗我部元親、藤堂高虎ら、第七軍が蜂須賀家政、生駒一成ら、第八軍が毛利秀元、宇喜多秀家という陣容で、半島に残っている守備兵と合わせて十四万一千余の軍勢が再び半島に展開する。七月十五日、藤堂高虎、脇坂安治、小西行長、加藤嘉明、島津義弘らの隊が、元均率いる朝鮮水軍を巨済島で破り、上陸した軍は左右二手に分れ、慶尚・全羅・忠清の三道へ兵を進め、八月には全羅道の南原城を陥落させるなど、各地の城を再び攻めた。こうして再び半島を蹂躙する日本軍に対し、朝鮮の義兵が立ち上がり、各地で被戦闘員を巻き込む凄惨な殺戮が行われた。日本軍の戦功の証は討ち取った首だが、その数が多くなるとそれを秀吉の元へ送るわけにもいかず、首に変えてその耳や鼻だけを塩漬けなどにして送ったとされる。このことがさらに日本軍を虐殺に駆り立てた。首ならそれが兵のものかどうか分るが、耳や鼻では戦闘員か被戦闘員かの区別もつかず、女子供のものを加えても分らない。日本の各部将は、秀吉の元へ送るそれらの数を競うことで秀吉の歓心をかおうとしたので、朝鮮民衆の大量虐殺へと突き進む。こうした現場を目撃した従軍医僧の豊後臼杵安養寺の住持慶安は、その従軍記『朝鮮日々記』の中で、「むさんやな知らぬうき世のならひとて、男女老少死してうせけり」と詠じ、「夜明けて城の外を見て侍れハ、道のほとりの死人いさこのことし。めもあてられぬ気色也」と、大量虐殺の模様を記している。また、加藤清正の家臣山本安政は自分の戦功を「男女生子迄も残らず撫切に致し、鼻をそぎ其日々に塩に致し」と、覚書に記録している。
この年の十二月、加藤清正、浅野幸長らが籠る蔚山城が明の大軍四万四千人に包囲され、兵糧・水を断たれ厳寒の中、厳しい戦いを続けていた。年が明けた正月、毛利輝元らの救援軍が西生浦から到着し、清正らは窮地を脱出。この蔚山城の戦いは、慶長の役(丁酉倭乱)における主要な戦いとされている。この後、両軍は一進一退を続け、目立った展開も無く時間だけが経過する。こうして泥沼化した戦いは、秀吉の死によってようやく終止符がうたれた。
この秀吉による「唐入り」は、今日的に見れば明らかな侵略戦争であった。しかし、反幕府、反権力の裏返しとして江戸後期になると『絵本太閤記』『真書太閤記』などで豊臣秀吉がもてはやされ、こうした悲惨な事実は隠蔽されて、「加藤清正の虎退治」などの勇将伝などが脚色、誇張されて太閤人気を煽った。後に日本が日韓併合、中国大陸侵略等に国民の世論を導く格好の材料として、秀吉のこの「唐入り」が利用される。
古戦場・史蹟等
「耳塚」
京都市東山区大和大路通正面東入ル茶屋町530豊国神社前 交通:京阪本線「七条」駅下車、徒歩10分
慶長の役(丁酉倭乱)で送られた耳や鼻を埋めた場所が「耳塚」で、その数は十万を下らなかったといわれている。
北海道・東北
1051〜1060(永承六年〜康平三年)
前九年の役(ぜんくねんのえき)
陸奥の俘囚の長安倍頼時が朝廷に叛旗を掲げ、朝廷はこの追捕に、源頼信の子で豪勇の名で知られた源頼義を征討の大将に任じ、関東武者を動員して鎮圧にあたった。しかし、この動乱を鎮めるのに十年の歳月を要した。
1083〜1087(永保三年〜寛治元年)
後三年の役(ごさんねんのえき)
陸奥の清原氏の内紛から、清原家衡が反乱。鎌倉の源頼義の子義家が征討に向うが、朝廷は清原氏の朝貢により義家と家衡の戦いを私闘としたため、義家は苦戦する。兄のこうした状況を見た弟新羅三郎義光が援軍に駆けつけようとしたが、朝廷は彼が兵衛尉の地位にあることを理由に許可せず、それに対し義光は官を辞して救援に駆けつける。
この義家・義光の意気に感じた関東武者らが、続々と駆けつけ、ついに清原氏は寛治元年に滅亡し、ようやく乱は静まった。
この乱で、朝廷・貴族の権威は低くなり、関東武者の評価が高まる。わけても源氏は、この戦で武士の棟梁としての地位を確立した。もはや関東において、貴族が口を挟む余地が無くなったのであった。
1600(慶長五年)
最上の戦い(もがみのたたかい)
主戦場「最上/長谷堂城」
△上杉景勝vs△最上義光
[隆先生がアレンジした“長谷堂退却戦”(その1)]
ところで、『会津陣物語』には「此口ノ手柄大将ニハ杉原常陸溝口左馬介」とあるにも拘らず、『一夢庵風流記』では杉原常陸介の活躍は割愛されている。おそらく、杉原常陸介と直江兼続が反目していたことから、隆先生は敢えて書かなかったのであろう。溝口左馬介は、兼続に「山を隔てて陣を取る」ことを進言して事切れた人物である。しかし、この人物の取り上げ方には疑義がある。隆先生のアレンジではなかったかと思えるのだ。
どういう事かと言うと、溝口左馬介が討死したのは、『一夢庵風流記』で描かれたように兼続が切腹を決意する直前ではなく、慶次郎たちの活躍で上杉勢が撤退を開始した後なのである。これまた『会津陣物語』から、その状況を紹介してみよう。
「小荷駄雑人共」を先に立てて撤退を開始した上杉勢であったが、そこに伊達政宗率いる精鋭8,000余りが真っ黒になって追いすがって来た。これに気付いた「小荷駄雑人共」が「色メキワタリ崩ントセシ」を見た政宗は、歩兵を下げて騎馬武者のみで急追。上杉勢は小荷駄隊から崩れ始めた。それを見て取って返したのが溝口左馬介である。(2004年8月21日瓢水記)
「隆先生がアレンジした“長谷堂退却戦”(その2)」
「溝口左馬介大天衝ノ指物ニテ取テ返シ小川ノ橋爪(ママ)ニ下リ立テ目ヲイカラセ鑓ヲ臥テ我ハ是景勝カ侍ニ溝口左馬介ト云者ナリ一鑓参ラント云マゝニ政宗カ先駆ノ兵トモト鑓ヲ合セ三人突倒シケル(中略)溝口カ勢當リヲ拂テミヘケル故政宗カ兵モ二十間計リ引退テコラヘタリ」(前掲書、849‐850頁)。
この溝口の奮戦を目の当たりにした上杉勢の中から、上杉藩士石坂与五郎や前田慶次郎を始めとする皆朱の槍の面々が引き返し、溝口と共に「小川ノ橋爪」で戦った。これを見た兼続も自ら槍を取り、6,000の上杉勢を率いて最上・伊達勢の側面を襲ったため、最上・伊達勢は長谷堂に向けて撤退した。上杉勢は漸く死地を脱したのである。
そしてその夜、溝口は兼続に進言する。「夜ニ入テ人数ヲ引取リ候ハゝ大敗軍ニ成ヘク候今夜ハ堅固ノ地ニ陣ヲ取リ明朝引取給へ」(前掲書、850頁)。しかし、「溝口左馬介鉄砲三ツ中リ鑓疵八ケ所傷3箇所アリケル故其夜野陣ニテ死タリケル」(前掲書、850頁)。翌朝、それでも遠巻きにする最上・伊達勢を尻目に、上杉勢は米沢に向けて引き上げたのだった。(2004年8月21日瓢水記)
「隆先生がアレンジした“長谷堂退却戦”(その3・完結)」
このように、『会津陣物語』によれば、溝口左馬介が討死したのは兼続が切腹を決意する直前ではなく、慶次郎たちの活躍で上杉勢が撤退を開始した後なのだ。では何故、隆先生は敢えて順序を入れ替えたのだろうか。
溝口が兼続に進言したのは、戦の常道である。しかし、「長谷堂撤退戦」はあまりに苛烈であったため、隆先生は「この合戦ではありきたりの常道は通用しなかったはず」と考えたのではないだろうか。そして、このような状況で慶次郎が取った行動は、常識的に考えて死に直結するものであり、正に「無法天に通ず」であった。
溝口の討死を兼続が切腹を決意する前に持って来ることで、上杉勢が置かれた苦境が更に深刻なものとなり、それ故に慶次郎の人間離れした活躍が一層際立つ。このような理由で、隆先生は敢えて順序を入れ替えたのではないだろうか。私としては、隆先生の創作手法の一端を垣間見た感じがするのである。
【追記】現時点では、隆先生が参照したと思しき『北越耆談』を確認出来ていません。よって、フェアな書き方ではないとは思ったのですが、杉原常陸介の一族が記した文献ということで全面的に依拠した次第です。後日、『北越耆談』を確認することに致します。
なお、「無法天に通ず」が初めて使われたのは、『鬼麿斬人剣』においてであったことを確認しました(新潮文庫版、175頁)。(2004年8月21日瓢水記)
関東(含山梨・伊豆)
534(安閑天皇元年)
武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)
武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族小杵(おき)が、国造職を巡り争った事件。
『日本書紀』に記述によれば、小杵はなにかと上に逆らう事がおおく、傲慢で鼻持ちならぬ人物とされている。その小杵が、国造職を巡って使主と争い、なかなか結着がつかなかった。そこで小杵は北関東の一大勢力であった上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)に救援を求める。身の危険を察知した使主は武蔵国を脱出、都に赴き朝廷に事態を報告した。かねて全国支配を目指していた大和政権は、地方の独立勢力の懐柔・支配つとめていた事から、武蔵国が上毛野勢力の影響を受けることを憂慮し、事態を重く見て軍隊を差向けた。大和政権と全面戦争を避けたい小熊が軍を引いた事から、戦いは朝廷の軍隊を得た使主に軍配が上がり、国造職を保持した。
939〜940(天慶二年〜三年)
平将門の乱(石井の戦い)(たいらのまさかどのらん)
この乱と「藤原純友の乱」を併せ「承平・天慶の乱」とも言う。
主戦場「武蔵」
●平将門vs○藤原秀郷・平貞盛
9世紀に、東国に下った国司らはそのまま土着し、それぞれ豪族となって中央の統制から独立する動きをみせる。これら豪族達は、この頃東国にあった広大な牧を支配し、そこで飼われている馬を駆使し、弓箭を巧とする武装集団となる。彼等は「兵(つわもの)」と呼ばれ、独特の気風を生み、王朝政権から独立した動きを強めて行った。
それら豪族等の頂点に立ったのが平将門で、彼は中央から派遣された国司に圧迫される郡司や豪族達の立場に立ち、天慶二年、常陸国の国府を襲い国衙の軍勢を撃破して支配したのを皮切りに、下野、上野の国府を襲撃、国司を京に追い返し、関東をほぼ制圧する。こうして将門は王朝から独立した政権の「新皇」となった。
これに対し、王朝側は神仏に反乱の調伏を祈願するとともに、東海、東山道追捕使を任命、藤原忠文を征東大将軍に任じ、東国の鎮定に乗り出した。この時、将門と敵対関係にあった一族の平貞盛と下野国押領使藤原秀郷が、王朝政府の呼びかけに応じ、大軍を率いて将門を攻撃。将門も直ちに応戦し、自ら馬を馳せ先頭に立って決戦に臨んだが、流れ矢に当って戦死する。こうして中心的なリーダーを失った東国政権の軍は、王朝軍の前に総崩れとなって瓦解した。(網野善彦著『日本社会の歴史』中)
将門が乱を起こすきっかけは、天慶元年、武蔵国に新たに赴任してきた権守興世王と介の源経基が、国内の人民を収奪し疲弊させたばかりか、先例を破って国内を巡視し、郡司の舍宅や民家を襲って財物を奪い取るなどの非道の限りを尽し、国衙の判官代で足立郡の郡司の武蔵武芝と対立した。その対立を、先に上総介として下向した高望王の孫平将門が武蔵国に赴き仲裁する。和議が整い武芝の兵が兵の道の習いとして経基の居宅を取り囲んで祝した。それを経基は、興世王と武芝が手を結び包囲されたと思い込み、脱出して朝廷に謀叛が起こったと報告。朝廷は直ちに追捕使を送る。
こうして朝廷と対立した将門は、八幡大菩薩の使いと称する巫女の託宣を受けて、自ら「新皇」と称し、関東に独立国家をうち建てようとしたのだった。
将門は、下総国に王府を造立し関東諸国の国司、介などを任命する。しかし、翌天慶三年二月、朝廷の追捕使の要請に応じた常陸大掾平貞盛・下野押領使藤原秀卿らと下総国石井で戦い、流れ矢に当たりあえなく戦死すると、独立軍は忽ち瓦解し乱は平定された。
1028(長元元年)
平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
下総国相馬で平忠常が朝廷に叛旗を翻して挙兵し、南関東は争乱状態となった。当初、この追捕に関東の事情に通じていた平維時、直方父子が任じられたが、鎮圧できず、変わって源満仲の子頼信が派遣される。関東の諸勢が頼信とよしみを通じていることを伝え聞いた忠常は、追捕軍が箱根山を越えたと知るや戦わずに降伏して乱は収まった。この頼信は「平将門の乱」を引き起こす直接の原因を作った源経基の孫でもある。
1213(建保元年)
和田義盛の乱(和田合戦) (わだよしもりのらん)
関東に勢力を張ろうとする鎌倉幕府執権北条氏挑発を受け、ついに叛旗を翻した和田義盛が、この乱で滅ぼされる。この時、乱に加わった武蔵七党の一つ横山党の横山氏も戦死し滅ぼされた。
1285(弘安八年)
霜月騒動(しもつきそうどう)
鎌倉執権北条氏により、足立直元、池上藤内左衛門尉が討たれる。この結果、足立氏は先祖以来の足立郡の支配権を没収され、北条氏の家臣の地位に成り下がった。
1333(正慶二年/元弘三年)
分倍河原の合戦(ぶばいがわらのかっせん)
十四世紀に入ると反幕府の動きが各地で勃発。その中、幕府の本拠鎌倉攻撃の先陣をきったのが上野国の新田義貞だった。
義貞は五月八日、上野で旗揚げし鎌倉目指した。翌九日には関東の倒幕派武将が馳せ参じ、『太平記』に記述によると、その軍勢は二十万に上ったという。一方、十日に幕府軍六万が鎌倉街道上道を第一の防衛線入間川に向けて進撃を始める。十一日、入間川を渡った倒幕軍は小手指原で幕府軍と遭遇戦を展開。双方互いに譲らず、この日は勝敗がつかずに分け、倒幕軍は一旦入間川まで退いた。幕府軍も久米川まで退く。翌早朝、倒幕軍は久米川に押し寄せ幕府軍を撃破。幕府軍は第二の防衛線多摩川まで退いた。ここで幕府軍は鎌倉からの増援部隊と合流し、十万の軍勢となる。十五日未明、倒幕軍が分倍河原の幕府軍に殺到するが、激戦の末、倒幕軍は敗退する。そこへ三浦氏や相模の反幕府勢が加勢に駆けつけ、勢いづいた倒幕軍は、十六日に再び分倍河原に押し寄せ、油断していた幕府軍を打ち破った。この時、倒幕軍の中に有って「江戸、豊島、葛西、河越、坂東の八平氏、武蔵の七党」も奮戦したと『太平記』にある。その五日後の二十一日、鎌倉は陥落した。
1352(文和元年/正平七年)
武蔵野の合戦(むさしののかっせん)
直義の死によって擾乱が収まったのも束の間、直義方の気が収まらず、この機を好機と見た新田義貞の二男義興、三男義宗とその従弟脇屋義治らが挙兵し、鎌倉目指して攻め上がった。『太平記』によれば、この軍勢に武蔵七党の西党、平山、村山、横山氏らが加わり、十万余の軍勢に膨れ上がったという。一方、尊氏側には川越氏、江戸氏、豊島氏ら八万余が馳せ参じた。両軍は武蔵野台地の人見原(府中市)、金井原(小金井市)で合戦を繰り広げ、一旦は尊氏側が敗れ石浜に逃れる。そこから態勢を立て直した尊氏軍が新田軍を追い払った。
1358(延文三年/正平十三年)
矢口の謀略(やぐちのぼうりゃく)
足利尊氏が死去すると、またもや新田義奥が挙兵の動きを見せる。関東管領畠山国清は義興を亡き者にしようと、江戸遠江守らと策略を巡らす。
まず国清が江戸氏の所領稲毛荘を没収し別人に与えた、それに怒った遠江守らが稲毛荘に乱入し城郭を構え、そこで国清と一戦を交える覚悟だと言いふらした。こうして義興に近づいた遠江守は、義興に鎌倉に来るよう誘う。信じた義興は密かに鎌倉に潜入するため、小人数で鎌倉へと向った。その途次、矢口の渡し(多摩川の渡し、大田区矢口・新丸子付近)で渡船に乗ると、舟の底には穴が穿たれていて、義興らは水没し果てた。
このエピソードを後年、平賀源内が浄瑠璃『神霊矢口之渡』として上梓している。
1368(応安元年/正平二十三年)
平一揆の乱(へいいっきのらん)
河越、江戸、高坂氏ら秩父流平氏を中心に結ばれた平一揆(結合組織)が、足利政権の鎌倉府に不満を持ち河越館に楯籠り反抗するが敗れた。この敗北で、秩父流平氏は挙兵に加わらなかった一族だけが名を残す事になる。
1380(康暦二年/天寿六年)
小山氏の乱(おやましのらん)
鎌倉以来の名族小山氏が、鎌倉府の関東管領上杉氏に冷遇され、不満を爆発させた事件。
1416(応永二十三年)
上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)
応永二十三年十月、かねて関東公方足利持氏と対立していた犬懸上杉禅秀(氏憲)が鎌倉で蜂起し、持氏と関東管領山内上杉憲基を襲撃した。江戸・豊島・大石氏らが持氏方につき、武州南一揆が禅秀方について戦った。持氏方は敗走するが、駿河で幕府の援軍をえると反撃に転じ、禅秀についていた南一揆勢はその事態を受けて幕府方となり、翌正月、禅秀は鎌倉で自刃し乱は終息した。
南一揆 武蔵国の南部(東京都南多摩郡)多摩川上流から下流域の中小武士団が結んだ同盟組織。
1438(永享十年)
永享の乱(えいきょうのらん)
関東公方足利持氏が、幕府と関東管領山内上杉憲実と対立し乱となる。この乱に敗れた持氏は自害した。
1454〜1455(享徳三〜四年)
享徳の乱(きょうとくのらん)
持氏の後を受けて関東公方となった成氏(持氏の四男)は、享徳三年十二月、まだ若かった関東管領山内上杉憲忠(憲実の子)を殺害し、公方方と管領上杉方が争う乱となった。翌正月、成氏は烏森稲荷神社(港区新橋)に戦勝祈願し、府中高安寺に陣を布き、犬懸上杉憲顕を大将とした山内・扇谷上杉軍と対峙。この時、公方方は豊島氏に出陣要請を行ない、上杉方には南一揆勢が加勢した。両軍は立川・分倍河原・高幡で激しく戦い、上杉方が敗れて、犬懸憲顕は高幡不動に敗走して自害、扇谷顕房も戦死した。
1455(享徳四年)
大袋原の合戦(おおぶくろはらのかっせん)
関東公方成氏と関東管領上杉氏の対立はその後も続き、管領上杉氏の要請で幕府が軍を出す事態となり、先に上杉軍を破って勢いづく公方方と幕府の援軍を得た上杉方が激しく対立。享徳四年五月、両軍は大袋原(川越市)で合戦となった。この時、成氏方についた江戸道景・妙景父子が戦死している。六月には北上した幕府軍が鎌倉を占拠し、関東公方足利成氏は下総古河に本拠を移す。こうして公方成氏は古河公方と呼ばれるようになった。
1476〜480(文明八年〜十二年)
長尾景春の乱(ながおかげはるのらん)
山内上杉家の家宰長尾景仲の子景春は、父の後を受けて山内家の家宰になれなかったことへの不満がつのり、鉢形城(埼玉県寄居町)に寄って、主家の山内顕定を攻めた。これに呼応する形で、相武では挙兵が相次ぎ争乱状態となった。
1477(文明九年)
江古田原の合戦(えこだはらのかっせん)
上杉氏に忠節をつくしてきた豊島氏だったが、扇谷上杉家の家宰太田氏の圧迫で所領の維持さえおぼつかなくなり、長尾景春に呼応する形で本拠の平塚城(北区)、石神井城、練馬城に寄って挙兵し、江戸城と川越城の通路を分断した。それに対し、江戸城の太田道灌が豊島泰明の籠る平塚城を攻めた。すると、石神井城・練馬城の兵を率いて兄豊島泰経が進撃。両軍は江古田原・沼袋で激突した。この戦いで豊島氏は手痛い敗北を喫し、泰経は石神井城に逃げ帰ったが、道潅に攻められ落城。泰経は平塚城に寄って抵抗するが、翌十年正月、ここも落城すると、敗走して小机城に籠るが、小机城の落城と運命を共にする。ここに平安時代から続いた豊島氏の本宗家は滅亡した。
1486(文明十八年)
太田道灌の暗殺(おおたどうかんのあんさつ)
江戸城に本拠を置く太田道真(資清)、道潅(資正)父子は、東奔西走、扇谷上杉家の家宰として以上の働きで、古河公方と戦ってきたが、文明十四年、公方成氏と上杉氏が和睦すると、上杉家にとって太田道灌は邪魔者となり、山内顕定は扇谷定正に道潅暗殺を働きかける。これに定正が応え、文明十八年七月二十六日、相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の館に道潅を招き謀殺した。
道潅は入浴中に、定正の家臣曾我兵庫に切られる。この時、道潅は「当方(扇谷)滅亡」と叫んで倒れたというエピソードは、諸書に書かれ有名となっている。
1487〜1505(長享元年〜永正二年)
長享の乱(ちょうとくのらん)
前年の太田道灌暗殺により扇谷定正の人望は失われ、これを見た山内顕定は扇谷上杉家を滅ぼす好機とみて、長享元年、扇谷家を攻めた。両勢力は一進一退を続け、永正二年、山内上杉家が勝利して終息した。
1504(永正元年)
立河原の合戦(たちがわらのかっせん)
両軍が立河原(東京都立川市)で激突。優勢な山内上杉軍だったが、北条早雲、今川氏親軍が扇谷上杉に加勢し、戦いは山内側の敗北で終った。
1524(大永四年)
高輪原の戦い(たかなわはらのたたかい)
長享の乱が起きた長享元年(1487)、今川家の内紛を収めた功で、駿河の東端駿東郡に僅かな領地を貰った伊勢新九郎(北条早雲)はまたたく間に伊豆・相模を平定し、一躍戦国大名家に躍り出た。早雲の子氏綱は、早雲の遺志を継ぎ関東制覇の一歩を踏み出す。
まず氏綱は道潅の死で勢力の落ちた扇谷上杉氏の勢力圏にある武蔵国への侵攻を企図し、よそ者である北条氏を誇りの高い坂東武者たちに認めてもらう作戦から、遠謀深慮を巡らし古河公方足利高基に接近、子の晴氏と自分の娘を婚約させ、公方家と親密な関係にあることを標榜する。そうした周到な準備の末、氏綱は武蔵国の強固な防衛拠点江戸の攻略を目指した。江戸城には道潅の孫太田資高がいて、かねてから扇谷朝興に取って変わろうと目論み、江戸防衛のためと称して扇谷朝興に扇谷勢の江戸駐留を求める。
一方、扇谷朝興は武蔵防衛の拠点となる江戸・川越・岩付の各拠点を重視し、武蔵国を死守しようとした。北条勢が江戸に攻め寄せるという情報で、朝興は江戸城に軍を派遣。
それを見た氏綱は、大永元年正月、江戸へ向けて進発。その動きを知らされた扇谷朝興は北条軍を多摩川で待ち受けようと正月十三日、自ら先頭に立ち江戸城を出た。
こうして両軍は高輪原で遭遇し激戦となる。扇谷軍は曾我神四郎の奮戦などで善戦、北条軍の進撃を食い止めていたが、氏綱は軍を二手に分けていて、後陣三千の兵が密かに多摩川上流から渡河し、目黒.渋谷方面から江戸城を急襲した。その報を受けた朝興は急遽軍勢を江戸城に返すが時すでに遅く、朝興は江戸城を捨て川越城に拠った。
この戦で、江戸城主太田資高は氏綱に内応していて、その領地を安堵されている。しかし、この後、江戸城の実権は北条氏に移り、太田氏は只の国人領主となり没落する。
1530(享禄三年)
小沢原の戦い(おざわはらのたたかい)
岩付城の陥落、葛西城の陥落と南関東に於ける北条氏の侵攻は目覚ましく、扇谷上杉支配の地は北条氏に浸食され、朝興は北条氏と敵対する甲斐の武田氏と同盟を結び援軍を得て反抗に出る。
両軍は府中の南、多摩川原の小沢原で激突したが、北条氏康の軍勢に大敗を喫した。
1538(天文七年)
国府台の合戦(こうのだいのかっせん)
北条氏が武蔵国を掌中に収め房総へと勢力を拡大してくると、安房の里見氏は危機感を抱き、古河公方の一族足利義明(小弓公方)と組んで北上、下総国府台(こうのだい)に布陣した。氏綱は江戸城を拠点にこれを撃退しようと二万余の兵を集め、天文七年十月、国府台の義明陣を急襲。この戦で、義明は戦死、里見氏も一族を失うなど大敗を喫して敗走した。勝利した氏綱は下総・上総二国を制することとなった。
1545〜1546(天文十四年〜十五年)
河越の夜戦(かわごえのやせん)
主戦場 「武蔵国川越」
●上杉憲政・足利晴氏vs◯北条氏康
管領上杉憲政は天文十四年(1545)九月二十六日、六万の大軍を率いて上州を進発。古河公方足利晴氏のもとに集まった二万とともに河越城を包囲した。全軍八万による包囲網の完成は十月末。この一ヶ月、小田原にいる北条氏康の元へはとっくに知らせは入っていた。包囲軍の移動や布陣の様子は逐一情報されている。しかし、氏康は直ちに救援に駆けつけようとはしない。西に今川勢、南の海からは安房里見が三浦半島の撹乱を狙っている情勢では、動こうにも動けない状況でもあった。上杉と足利の分断が失敗したとなると、残すは西隣の今川氏と和睦しなければないない。氏康は甲斐の武田信玄を通して今川義元と和睦の交渉に入り、駿豆国境の西方に張り出した北条領を手放すことで今川氏との和睦を成立させ、関東に集中できる態勢を整えるがすぐには動かなかった。
一方の包囲軍は、補給路が安定しているという事から、すぐに総攻撃という作戦を取らなかった。包囲して河越城の守備隊が音を上げるのを待つか、しびれを切らせて討って出てくるのを待てば良いのだが、八万もの軍勢が当面の戦闘も無く一か処に長く進駐しているということは、経済効果的にいうと人口数万規模の消費都市がこつぜんとそこに出現したのと同じことになる。下級の兵たちや彼らの諸事をまかなう者たちのために市が立ち、一旦立った市は膨張する。たわいのない遊びに打ち興じたり、安酒をあおって賭け事に熱中する者たちで陣中の緊張は無くなり、たるんで来る。そうした陣中の様子を氏康が放った間諜らがしっかりと観察し、氏康に報告している。そして氏康が取った最初の行動は、十重二十重に取り囲まれた河越城に使者を送り、ひたすら忍んで時を稼ぐよう伝えることだった。河越城を預かっていた城将の北条綱成は、間諜の伝える氏康の言葉を信じた。包囲から半年、包囲軍の志気がさらに低下するのを見て、頃合いが来たと、天文十五年四月、ついに氏康が行動を起こした。
氏康は西と南の守備をおろそかにできない事情から、僅かに八千の兵を率いて小田原を出発。氏康軍発進の知らせは当然包囲軍にも伝わったが、戦場への氏康軍の到着は彼らの予想をはるかに越えて早かった。包囲軍の南方に到着した氏康は、直ちに公方足利晴氏に使者を送る。「城内はすでに糧食が尽き、飢えに苦しんでおります。慈悲をもって彼らをお助けくだされば城と領地を公方様に御引き渡しします」と。晴氏は満面の笑みを浮かべてこれを拒絶。さらに氏康はつてを頼って、同じ懇請を別ルートから晴氏に伝える。「しつこいやつだ」が晴氏の答えだった。氏康は同時に上杉憲政にも送った。むろん憲政も拒絶したばかりか、この期に一気に北条軍を殲滅しようと二万の軍勢を出撃させた。すると氏康は法螺貝を吹いて全軍を退却させた。包囲軍は勝ちどきを挙げて引き返す。するとまたおずおずと北条軍が北進。包囲軍が出て来ると、一矢も放たず再び退却する。こうした北条軍の行動は、包囲軍の将兵に、氏康は臆病者と侮らせることとなった。これこそ氏康の思う壷。この戦法は、父氏綱が残した書置五カ条の第五条、合戦の心掛けとして、「勝利にばかり馴れていると心が驕り、敵を侮りすぎることになるので心せよ」を応用した心理作戦だった。この後、氏康は入間川南岸方面で数度敵を挑発しては撤退するという作戦を行なう。包囲軍は侮りを通り越して、条件反射的にさえなってきていた。「ちょっとくらい攻めて来ても、どうせすぐに逃げるのだから、相手にするな」というわけである。
そして運命の四月二十日がやって来る。氏康は、兵士たちにたっぷりと食事と睡眠を与えた後、全軍に集結命令を出した。すでに辺りは暗闇に包まれ、包囲軍は物見の者まで油断しきっている。氏康は全員に紙製の白い肩衣を着用させ、敏捷な動きが出来るよう、各将兵に重い鎧や旗差物を捨てさせた。「敵を殺しても首を取るな。合言葉はかねての通り。もし合言葉に答えぬ者があっても、白布らしきものをつけた紛らわしい者であったら、討つな。また、どんな斬り合いの最中であっても法螺貝が鳴ったら、各隊ごとに移動あるいは撤退せよ」と各部隊に最後の訓示を行なう。それから氏康は、かねての計画通り、八千を四隊に分け、一隊だけ残して三隊を出撃させた。三段構えで出発した本隊は、暗闇の中をまだ火を点けていない松明を持って進撃する。目指すは上杉憲政の本陣ただ一点。子の刻、先頭部隊が砂窪の敵本隊後方に接近した。槍を先頭とした抜刀隊が松明に点灯し、全員が喊声を挙げて突入する。ふいを突かれた上杉軍は、何が起ったか分からなかっただろう。あの臆病な氏康が夜襲をかけてくるとは夢にも思っていないのだから。
第一隊に蹴散らされた上杉軍は、本能的に脇の方へ逃げる。それを今度は、第二隊、第三隊が左右に別れながら追撃。混乱した上杉軍はばらばらになって逃げ惑うばかりとなった。残った氏康軍の一隊は、遊軍となって敵陣の中を喊声を挙げながら縦横無尽に駆け巡る。これに呼応して城内からも守備隊三千が討って出て、足利晴氏の陣を襲撃。乱戦の中で、一方の領袖扇谷上杉朝定はじめ、多くの将兵が戦死し、包囲軍は総崩れとなって敗走した。
1564(永禄七年)
国府台の合戦・第二次(こうのだいのかっせん・だいにじ)
安房里見氏が岩付太田氏と結んで反北条の兵を結集し、北条氏の拠点となった葛西城を奪還しようと国府台に進撃。激戦となったが迎え討った北条勢が勝ち、下総・上総は完全に北条氏の支配する所となる。この戦で、江戸の太田康資は反北条方に与し、敗戦で江戸の地を追われた。
1582(天正十年)
天目山の合戦(てんもくさんのかっせん)
主戦場「甲斐/天目山」
○織田信長・徳川家康vs●武田勝頼
1590(天正十八年)
小田原の陣(おだわらのじん)
主戦場「相模/小田原」
○豊臣秀吉vs●北条氏政・氏照
[小田原征伐の一挿話、大力河田八助・楢崎十兵衛]
○秀吉北条氏康をうたんとて、天正十八年三月下旬に沼津に宿陣し玉ふ時、小早川左衛門佐隆景の臣河田八助、楢崎十兵衛と云ふ大力のほまれあるもの、八助は大指物、十兵衛は十八端の母衣をかけて通れり。秀吉公はるかに見玉ひて、使番を以て其姓名をとわせらる。使番のりつけ、馬上より、各の姓名いかに/\ととへども、二人共かへりみはしたれども、姓名をいわずすぎ去れり。はせかへりてかくと申せば、秀吉公扨は下馬もせずして名のれとかな云ひたるらん。御教書などをびたるか、両陣勝負にかゝる時などには、仏神の前にても下馬せぬ作法なり。さなきときは、人にすぐれたる大指物をさし、普通にこゑたる母衣などをかけたる士に、下馬なきは無礼なり。返答せぬこそ道理なりとて、又外の使番をして下馬してとわせらるれば、両士も亦下馬して、各姓名をのぶ。其後朝鮮陣の時、この指物母衣は、朝鮮人も目をおどろかせり。(『見聞談叢』)
[小田原征伐に於ける秀吉の竜宮奉納状]
○豊臣太閤、北条氏政をうつ時、小田原にて馬船をわたさるゝに、遠州御所崎は昔より馬の事はいふにおよばず、馬道具にてものせたる船は、損する事度々なり。それゆへ口にて馬と云ふ事をも船中にていふをきらふといふ者あり。太閤自筆の状をかきて、船頭にわたし、風波おこらん時この状を竜宮へ達せよ、先馬船をだせとありていだしければ、俄に風波をこすりすげにくつがへらんとす。船頭右の状を出し、竜宮へ投げ入れければ、風波しづまれり。其状に曰く。
今度就レ誅Ⅱ伐北条Ⅰ予使赴Ⅱ相州小田原Ⅰ、無難可レ被レ通レ之者也。
太閤
竜宮殿
北陸・中部・東海
672(弘文元年)
壬申の乱(じんしんのらん)
主戦場「美濃/関ヶ原」
○大海人皇子vs●大友皇子
弘文元(672)年壬申の年6月、天智天皇の子・大友皇子と、天皇の実弟・大海人皇子の間の皇位継承権を巡る内乱。争いは約一ヶ月に及んだ。
吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、天皇崩御の後、伊賀、伊勢を経て美濃に入り、東国を固めて、別働隊は倭古京を攻めたという。大津京にいた大友皇子はただちに詔を発して軍兵を集め、両軍の主力は関ヶ原で激突。そこで勝った大海人軍は、敗走する大友軍を追い近江国瀬田で撃破、大友皇子は自害した。大海人皇子は翌年即位し天武天皇となった。
『日本書紀』巻第廿八天武天皇の四年の条には
「六月辛酉朔壬午、詔Ⅱ村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広Ⅰ曰、今聞近江朝庭之臣等、為レ朕謀レ害。是以汝等三人、急往Ⅱ美濃国Ⅰ、告Ⅱ安八磨郡湯沐令多臣品治Ⅰ、宣Ⅱ示機要Ⅰ、而先発Ⅱ当郡兵Ⅰ。仍経Ⅱ国司等Ⅰ、差Ⅱ発諸軍Ⅰ、急塞Ⅱ不破道Ⅰ、朕今発路。」
(六月の辛酉の朔壬午(二十二日)に、天皇は、村国連男依(むらくにのむらじおより)・和珥部臣君手(わにのおみきみて)・身毛君広(みけつきみひろ)に詔して、「近江の朝廷の廷臣たちは、自分をなきものにしようと謀っているとのことだ。おまえたち三人は、急いで美濃国にいき、安八磨(あはちま)郡(岐阜県安八郡)の湯沐令(ゆのうながし)の多臣品治(おおのおみほんじ)に機密をうちあけ、まずその郡の兵士を徴発せよ。さらに国司たちにも連絡し、軍勢を発して、急いで不破の道(岐阜県不破郡。近江・美濃の国境)を塞げ。自分もすぐ出発する」と言われた。)
とあり、大友皇子が大海人皇子を亡き者にしようとしたために、対抗したとしている。ともあれ、大海人皇子は関ヶ原一帯を軍勢で塞ぎ、大友皇子が東国へ援軍の要請が出来ないようにするとともに、そこを突破しようとした大友軍を打ち破り近江へ進軍する。そして、大津京陥落の様子を『書紀』は、
「辛亥、男依等到Ⅱ瀬田Ⅰ。時大友皇子及群臣等、共営Ⅱ於橋西Ⅰ、而大成レ陣。不レ見Ⅱ其後Ⅰ。旗幟蔽レ野、埃塵連レ天。鉦鼓之声、聞Ⅱ数十里Ⅰ。列弩乱発、矢下如レ雨。其将智尊率Ⅱ精兵Ⅰ、以先鋒距之。仍切Ⅱ断橋中Ⅰ、須Ⅱ容三丈Ⅰ、置Ⅱ一長板Ⅰ。設有Ⅱ踏レ板度者Ⅰ、乃引レ板将レ堕。是以不レ得Ⅱ進襲Ⅰ。於是有Ⅱ勇敢士Ⅰ。曰Ⅱ大分君稚臣Ⅰ。則棄Ⅱ長矛Ⅰ、以重Ⅱ鐶甲Ⅰ、抜レ刀急踏レ板度之。便断Ⅱ著レ板綱Ⅰ、以被矢入レ陣、衆悉乱而散走之。不レ可レ禁。時将軍智尊、抜レ刀斬Ⅱ退者Ⅰ。而不レ能レ止。因以斬Ⅱ智尊於橋辺Ⅰ。則大友皇子・左右大臣等、僅身免以逃之。男依等即軍Ⅱ于粟津岡下Ⅰ。是日、羽田公矢国・出雲臣狛、合共攻Ⅱ三尾城Ⅰ降之。○壬子、男依等斬Ⅱ近江将犬養連五十君及谷直鹽手於粟津市Ⅰ。於是大友皇子、走无レ所レ入。乃還隠Ⅱ山前Ⅰ、以自縊焉。時左右大臣及群臣、皆散亡。唯物部連麻呂、且一二舎人従之。」
(辛亥(二十二日)に、男依らはついに瀬田に到達した。このとき、大友皇子と群臣とは、橋の西に大きく陣をかまえ、その後方がどこまであるのか見えないほどであった。軍勢の旗幟は野をおおい、そのかき立てる埃塵は天にとどくほど、打ちならす鉦鼓の響きは数十里にとどろきわたり、矢は続けざまに放たれて雨のように降りそそいだ。近江方の将智尊は、精兵を率い、まっさきに立って防戦した。橋の中ほどを三丈ばかり断ち切り、そこに一枚の長い板を置き、板をふんで渡ろうとする者があれば、すぐさま板を引いて落とそうとした。このため進攻できずにいると、勇敢な士、大分君稚臣(おおきたのきみわかみ)という者が、長い矛を捨て、甲を重ねてつけ、刀を抜いていっきに板をふんで渡った。稚臣は板に結ばれていた綱をたち切り、矢をこうむりつつも敵陣に突入した。近江方の軍兵はたちまち乱れて逃げ散り、抑えようがなかった。将軍智尊は刀を抜いて逃げる者を斬ったが、とどめることができず、智尊は橋のほとりで斬られた。大友皇子・左右大臣らは、その身だけはかろうじて免れ、逃走した。男依らはそこで、粟津岡(大津市膳所)のふもとに軍隊を集結させた。同日、羽田公矢国(はたのきみやくに)と出雲臣狛(いずものおみこま)とは、連合して三尾城(みおのき:滋賀県高島郡)を攻め落とした。壬子(二十三日)に、男依らは、近江の将犬養連五十君(いぬがいむらじいきみ)と谷直塩手(たにのあたいしおて)とを粟津市で斬った。大友皇子はついに逃げ入るところがなく、立ちもどって山前(やまさき:京都府乙訓郡大山崎町か)にかくれ、みずから首をくくって死んだ。このとき、左右大臣や群臣はみな散り散りになり、わずかに物部連麻呂(もののべむらじまろ:のちの石上麻呂)と一、二の舎人だけが皇子に従っていた。)
と記している。
古戦場・史蹟等
「関の藤川(藤古川)」
岐阜県不破郡関ケ原町
詳しくは「関ヶ原町HP」をご覧ください。
1553〜1564(天文二十二年〜永禄七年)
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)
主戦場「信濃/川中島」
△上杉謙信vs△武田信玄
甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の間で、信濃の覇権を争う戦いが北信濃の善光寺平にある川中島で繰り広げられた。この川中島での両者の戦いは、天文二十二年から永禄七年までの間に都合五度にわたった。
第一次 天文二十二(1553)年
第二次 弘治元(1555)年
第三次 弘治三(1557)年
第四次 永禄四(1561)年
第五次 永禄七(1564)年
天文十一(1542)年、信玄は甲斐侵攻を試みる信濃の豪族連合軍を瀬沢(現長野県諏訪郡富士見町)で破り、その勢で諏訪を占拠した。以後、信玄は諏訪を拠点に信濃の軍事制圧を進める。天文十七(1548)年、松本盆地に進出し、同十九(1550)年には小笠原長時を中信濃から追い出す事に成功。同二十二(1553)年には村上義満の拠点葛尾城(長野県埴科郡坂城町)を制圧した。
領国を追われたこの二人の武将は、越後春日山に赴き上杉謙信に救援を求めた。信玄が北信濃までをも制圧し国境にまで迫れば領国を脅かされないと判断した謙信は、信玄打倒の軍を北信濃に派遣。こうして両者は大軍が戦うことのできる平地川中島で対峙し、第一回目の「川中島の戦い」が行われた。この時は信玄が陣を構えるだけで動かず、小競り合いだけで両軍の主力が衝突するまでに至らなかった。信玄の出方を探っただけの謙信は、さっさと春日山城に引き上げた。謙信が再度兵を派したのは二年後の弘治元年で、両者は再び川中島で対峙。しかし今度も信玄は陣を構えるだけで自ら打って出ることはしなかった。謙信も今度は一歩も引かぬ構えで両者の睨合いが長期化する。この両者の間に今川義元が調停に入り、和睦が成立し両軍は川中島から撤退した。
弘治三年、信玄は先に結んだ和睦条件を破り、上杉方の前進基地葛山城(現長野市)を攻略。激怒した謙信はすぐさま軍を発し信玄に戦いを挑むが、慎重な信玄はここでも主力同士の正面衝突を避け、謙信が引き上げるのを待って川中島周辺をも支配下に置いた。ジワジワと侵食する信玄に対し、一度の決戦で雌雄を付けようとする謙信との戦い方の違いは、侵食型の信玄の優位に推移していた。
信玄は川中島の海津城を拠点に北信濃の支配を着々と進める。こうして信玄と謙信が直接太刀を交したとされる第四次の川中島の合戦が避けられぬものとなった。永禄四年、謙信はついに北信濃における信玄の拠点海津城攻撃に踏み切った。一万三千余の上杉軍は川中島を一気に通り抜け、海津城を望む西条山に布陣。知らせを受けた武田の本隊は、川中島の西にある茶臼山から海津城に入る。だが謙信は海津城を攻めると見せかけただけで、その夜のうちに信玄の裏をかき再び千曲川を越え、対岸に陣を布いた。謙信の読み通り、未明に信玄の軍は城を出て千曲川を越え挟撃体制を布くべく八幡原に布陣した。夜明けを待って別働隊と上杉軍の干戈の音を聞くはずだった武田軍の前に、臨戦体勢の上杉の軍勢があった。信玄はすぐさま鶴翼の陣を布いて迎撃するが、上杉軍の先鋒柿崎三河守が本隊目がけて突入。続いて上杉本隊が武田の軍勢に襲いかかり大混戦となる。信玄の本陣にまで上杉軍が迫り、旗本衆が必死で応戦した。その時、突然萌黄の胴肩衣を着、白布で頭を包んだ法師姿の騎馬武者が信玄の前に現れ太刀で斬り付けてきた。凄まじいばかりの斬撃に信玄は太刀を抜く暇もなく、手にしていた軍配で受けるのがやっとだったという。近くにいた原大隈が必死に鎗を突き出すが、外れ、二度三度突くも武者の太刀に払われる。あわやという時に鎗が武者の乗った馬の尻に当り、驚いた馬がその場から疾駆して去ったために信玄は難を逃れた。この武者が謙信本人だったか謙信と同じ格好をした影武者だったのかは明らかでない。やがて、武田の別働隊が本隊に合流し崩れかけた武田軍は体勢を整え直すと、潮時とみた謙信は退却を命じた。
見事上杉軍を迎撃した武田勢だったが、この戦で信玄の実弟武田典厩、信繁が戦死。諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘助といった諸将を失っている。その後、永禄七年にもう一度両者は川中島で対陣するが小競り合いだけで謙信が兵を返している。以後、謙信と信玄が対峙することは無かった。
古戦場・史蹟等
「川中島古戦場」
長野市松代町 交通:長野駅善光寺口バスのりばから松代行約20分 「川中島古戦場」下車
広い古戦場内には「信玄・謙信一騎討ち像」「八幡原史跡公園(信玄の陣跡)」「三太刀七太刀之跡の碑」などが散在している。
「海津城跡」
長野市松代町 交通:長野駅善光寺口バスのりばから松代行約30分 「松代駅」下車 徒歩5分
「山本勘助の墓」
長野市松代町 交通:長野駅善光寺口バスのりばから松代行約30分 「松代駅」下車 徒歩5分
「高坂弾正の墓」
長野市松代町豊栄2833
松代の町外れ、山あいにある明徳寺境内にある。
詳しくは「長野市HP」をご覧ください。
1560(永禄三年)
桶狭間の合戦(おけはざまのかっせん)
主戦場「尾張/田楽狭間」
○織田信長vs●今川義元
今川義元は駿河、遠江、三河の三国を領し、天下取りの最右翼に位置していた。義元は、甲斐の武田信玄、小田原の北条氏康とそれぞれ姻戚関係を結び、同盟を構築。永年織田家に属していた鳴海城主山口左馬助が今川方に寝返ったのを機に、西上を視野に入れて本格的に尾張の侵攻をはじめる。まず鳴海城に兵を派遣し、さらに大高城、沓掛城を攻略し、三河国境に近い織田方の拠点であった三つの城を手に入れることに成功した。
一方信長は、同族同士の戦いの末、尾張上四郡を支配していた守護代織田伊勢守信安の長男信賢が、その父信安を追い出し岩倉城に依っていたのを攻め落とし、父信秀没後乱れていた尾張の支配をようやく確立したばかりであった。とはいへ今川方に押さえられている鳴海、大高、沓掛城を放置する訳にはゆかず、信長はまず鳴海、大高城の奪還を謀ろうと二つの城の周りに砦を築き包囲した。鳴海、大高城の今川勢はすぐに義元へ注進。それを聞いた義元は、永禄三(1560)年五月、一気に信長を叩くべく二万余の軍勢を率いて駿府城を出立、沓掛城に着陣した。同じ頃、松平元康(徳川家康)らが率いる今川軍の先鋒隊は、鳴海方面から尾張に入り織田領の村々を焼くなどの撹乱戦術を行う。その元康に、織田軍に包囲されている大高城への兵糧の運び入れが命ぜられた。四百俵の米を運ぶ輸送隊を指揮し大高城に近づくが、織田方の兵が取り囲み城へ入ることができない。そこで軍勢を二手に分け、一方が城下に火を放って織田兵をひきつけている間に、もう一方の隊が兵糧を城に入れる作戦を見事に成功させた。この「大高城の兵糧入れ」は、元康(家康)生涯の軍功として徳川実紀などで讃えられている。
これら今川軍の動きは清洲城にいる信長の下へ伝えられた。その日信長は軍議を開くことなく家臣たちを帰らせたという。翌日、大高城を包囲する丸根、鷲津の砦が今川勢の攻撃を受けたとの報告を受けた信長は、幸若舞「敦盛」の一節を舞い、鎧をつけ、立ったまま湯漬けをかきこむとすぐさま出陣。この時従ったのは、五人の小姓衆だけだった。まず熱田神宮に寄り、武運を祈願した後、善照寺砦を目指す。ここで兵が集まるのを待つが、その数わずか二千。かたや今川勢二万は、五六千づつの隊に別れて沓掛城を出発、大高城に向う。その日の正午頃、義元本隊は沓掛城と大高城の中間地点桶狭間山に到着、休憩する。手勢の少ない信長は、ひたすら義元本隊だけを狙って行動し、中島砦に移動、義元の先鋒隊も中島砦目指し動き、まず信長の先鋒三百と衝突。信長は直ぐには動かず、義元本隊の前衛部隊が動くのを待って攻撃をしかけ、前衛部隊を山際に追い込んだ。山の中腹にいた義元らも前衛に追い付こうと降りてくる。この時、天候が変り雹まじりの激しい雨が降り出した。目の前も見えぬほどの激しい雨が小康したその瞬間、信長は二千の親衛部隊に突撃命令を与え今川勢に襲い掛かった。突然の雨で右往左往する今川勢に対し、狙うは義元の首ただ一つと目標を定めた信長勢は、二千とはいえ馬廻とよばれる親衛部隊。勢の差は歴然だった。義元の乗る塗輿めがけて殺到し、義元はあえなく討死した。
『信長公記』の記述紹介。
古戦場・史蹟等
「桶狭間古戦場跡(公園)」
名古屋市緑区 交通:名鉄有松駅下車 徒歩
詳しくは「名古屋市HP」をご覧ください。
1571〜1574(元亀二年〜天正二年)
長島攻め(ながしませめ)
主戦場「伊勢/長島」
第一次 元亀二(1571)年 ●織田信長vs○長島一向一揆衆
第二次 天正元(1573)年 ●織田信長vs○長島一向一揆衆
第三次 天正二(1574)年 ○織田信長vs●長島一向一揆衆
尾張最西端の海西郡の地をめぐって願証寺と争っていた信長は、この地の小木江城に弟信興を置いて願証寺指導の一向一揆勢の抑えとしていた。両者は争う事はあっても、なんとか共存する道を歩んでいたが、元亀元(1570)年十一月、信長と織田軍の主力が志賀の陣で身動きのできない状態を見て、伊勢長島の願証寺はにわかに行動を起こした。長島の一揆勢が小木江城を襲い、信興は自刃し城は陥落した。その知らせを信長は切歯扼腕しながら聞いていた。
第一次長島攻め
翌元亀二(1571)年五月、信長は長島攻めのため五万余の大軍を率いて岐阜城を出陣した。信長はこれを三つに分け、自信が率いる本隊は津島に着陣、佐久間信盛が指揮する尾張衆の隊は小木江方面の中筋口、柴田勝家の指揮する美濃衆中心の隊は西河岸の太田口から中洲に向った。伊勢長島は木曽川、長良川、揖斐川が合流する河口部に輪中と呼ばれる複数の中洲からなり、水路が複雑に交叉する天然の要害の地として知られている。その輪中の一つ長島に願証寺はあり、一揆勢は本城長島城を中心に各輪中にそれぞれ砦を持ち、さらに西岸には大鳥居、屋長島、中江の砦、東岸には市江島、五明の砦、北に前年奪い取った小木江城など十数ケ所の要塞で守りを固めている。しかもそれぞれの砦は川で隔てられ、大軍をもって力攻めが出来ない。織田軍は、砦の近辺を放火するだけで、砦を攻撃することさえ出来なかったという。信長は四日間そこに滞留しただけで、軍を引き上げさせた。本隊と佐久間隊は速やかに軍を収めたが、柴田隊は「一騎打ち節所の道」と呼ばれる左に山、右に川の狭い道を一列縦隊で撤退せざるを得ず、困難を極めた退却となった。勝家は弓・鉄砲を先に立て、山側の一揆勢を牽制するとともに、自ら殿軍を務めて退却するが、一揆勢は殿軍の柴田の隊に襲いかかった。柴田隊は踏み止まり、しばらく応戦するも、主将の勝家が負傷し旗指物も奪われる。そこで直ぐ前にいた氏家直元(卜全)の隊が替って殿軍になった。氏家隊は柴田隊よりも少数の隊だったため、一揆勢の猛攻に合い直元が討死したのを始め多数の犠牲者を出し、からくも脱出する。まさに織田軍の完敗に終った。
第二次長島攻め
次の長島攻めは天正元(1573)年九月に行われる。年来の仇敵朝倉・浅井氏を滅ぼした信長が、江北の地を秀吉に与えて岐阜に帰ったのは九月六日だった。北伊勢の門徒である国人・土豪が長島に応じて信長に背いたとの知らせを受け、このままでは北伊勢全体が敵になると判断した信長は、居城でゆっくりする暇も無く出陣の準備に入る。先の長島攻めで船が要ることを痛感していた信長は、北畠家に養子に入っている二男具豊(信雄)に命じて、大湊の船を桑名に集めようとした。しかし、大湊の自治を主導する会合衆は、なかなか信長の要求を入れなかった。しびれを切らした信長は、二十四日に北伊勢に向けて出陣する。岐阜を発った信長は大垣を経由して、美濃南端の太田に着陣。近江からも柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆らが桑名近郊に出張し、手分けして敵城に襲いかかった。敵に寝返った国人・土豪衆の城は次々と落城し、残すは長島だけとなる。しかし、この時に至っても大湊の船は充分に調達できず、信長は諦めて帰陣の途についた。帰陣の道は二年前に柴田隊が苦戦した同じ道だった。長島の一揆勢は再び訪れた好機とばかりに、信長軍に先回りし弓・鉄砲で攻撃をかける。この一揆勢の中には伊賀・甲賀の鉄砲の名手が大勢いた。信長軍も鉄砲で応戦するが途中で降り出した雨のため、白兵戦に突入。殿軍を務めた林新二郎の隊が一揆勢の猛攻を受け、前回同様、林隊の犠牲で信長軍は大垣までたどりついた。こうして、二度までも煮え湯を飲ませられた信長の心中に、長島への憎悪が蓄えられた。
第三次長島攻め
天正二(1574)年七月、信長は長島殲滅を決意し総勢七万の大軍を率いて岐阜を出立。幾内に置かれている明智光秀、越前への押さえを務めている羽柴秀吉、東美濃で武田の動きに備えている河尻秀隆・池田忠興を除く総動員体勢で、さらに滝川一益、九鬼嘉隆、北畠具豊の水軍が南方より長島に向け出動した。信長は全軍を三手に分け、柴田・佐久間らの隊を北西の香取口から中洲に攻め入らせ、信忠の隊を北東の市江にとどめて予備隊とし、自らは丹羽の隊を加えて北方より攻め込んだ。翌日には滝川・九鬼の水軍が長島の南方に到着。具豊の軍も大船を率いて参陣した。これらの船は四方より中洲を取り囲み、一揆勢を追い込んでいった。この時の長島の一揆勢の数は三万人ほどだったという。一揆勢とはいっても老若男女とりまぜた長島の住民たちだ。戦闘集団に攻められた彼等は城塞に逃げ込むしかない。一揆勢は中洲にある長島、篠橋、揖斐川を隔てた大鳥居、屋長島、中江の五ケ所の城塞に立て籠った。八月に入り、まず大鳥居が、つづいて篠橋の城塞が落ちた。両砦を脱出した者達は大軍の包囲の輪から出る事ができず、残った三つの城塞に逃げ込むしかない。三つの城塞はみるみる定員過剰になった。この有様を見た信長は、兵糧攻めに作戦を変更。籠城が二ヶ月半に及ぶと、一揆衆の中には餓死者も出てきた。ついに本城の長島が、命を助けるという条件で開城を申し入れてきた。信長は開城を受け入れ、一揆衆は小舟で次々と城から出てくる。そこを信長は弓・鉄砲で撃ち殺し始めたのだった。しかし一揆衆も黙って殺される者ばかりではない。衣服を脱ぎ捨て抜き刀だけを持った七、八百人が決死の覚悟で水中に飛込み、対岸の信長軍に向って突進する。揖斐川の岸ではこれらの者達と信長軍との間で、凄まじい殺し合いが繰り広げられ、信長の叔父信次、庶兄信広、弟秀成、従兄弟信成、妹婿佐治信方など一族のほか大勢の馬廻衆が死んだ。これで信長の門徒衆への怒りが頂点に達したのだろう。残る二つの城に逃亡防止の柵を廻らし、四方から火を放ち二万人余の人々が焼き殺されるという悲惨な結末で、長島一揆は殲滅された。
古戦場・史蹟等
「長島城跡」
三重県桑名郡長島町 交通:JR関西線長島駅、近鉄名古屋線近鉄長島駅下車
1572(元亀三年)
三方ケ原の戦(みかたがはらのたたかい)
主戦場「遠江/三方原」
○武田信玄vs●徳川家康
元亀三(1572)年、将軍義昭の下知で信長包囲網の一翼を担った武田信玄が動いた。宿敵上杉謙信は自領を脅かす加賀一向一揆のために動けず、信長も近江の一向一揆勢に手を焼いているのを見た信玄は上洛を伺うかのように、兵を信濃に集結させた。十二月十九日、武田軍は南下して遠江に入り、二股城を落す。さらに家康の居城浜松に迫った。この時の家康の軍勢は八千、信長の援軍三千を加えても一万そこそこだった。騎馬武者を加えた二万五千の武田の軍勢とまともに戦うことはできない。軍議の末、家臣一同が籠城することに傾き始めた時、武田軍は突然進路を西に変え東三河に向う。当然、城内の者は戦わずに済んだことに安堵したが、家康の腹の虫は納まらなかった。「城に籠りおる場合ではないわっ。徳川は敵に枕をまたぎ越されても、寝たふりをしておった憶病者よ、と世にそう嘲られるであろう」と、老臣の諌めるのにも耳を貸さず全軍に出撃を命じた。この時の家康の行動を後世の史家は、家康らしからぬ無謀な行動だったと厳しい評価をしているが、「いくさ人」家康の意地が如実に現れた戦だったのではなかろうか。
二十二日、家康は三方原の南端犀ケ崖に陣を布き、武田軍を迎え撃った。しかもその陣形は「鶴翼の陣」だったという。元来鶴翼の陣は多勢も持って少数の敵を迎え、その翼を閉じるように敵を推し包む陣形で、少数の勢で多数の敵を迎えるものではない。そんな事は百も承知の家康が、あえてこうした陣形で望んだのも意地以外の何物でも無い。それに答えるように信玄も少数の敵が多数の敵に打ち向う「魚鱗の構え」で臨んだ。これは家康を愚弄した行動という見方が大勢だが、希代の「いくさ人」信玄が「いくさ人」家康に答えたものと言えまいか。ともあれ戦いの火蓋が切られると、家康軍は武田の騎馬軍団に翻弄され惨澹たる結果となった。「三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちのましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。」と徳川実紀に記されたように、家康はほうほうの態で浜松城に逃げ帰った。この時の逸話に、夏目吉信は討死しようとする家康に「将たる者は、生きて向後に備えよ」と叱咤し、自らは討死したことや、帰還した家康の鞍に脱糞していたのを見た大久保忠世が、わざと大笑いして座の重苦しい空気を和らげたという話が残されている。また、討死にした家康の兵が全員武田方に向って倒れていたことから、信玄をも唸らせたと言われている。敗れはしたものの、この戦で家康は「海道一の弓取り」と称されるのだった。
古戦場・史蹟等
「三方原古戦場」
静岡県浜松市三方原町
「安寧寺」
浜松郡雄踏町山崎2998-1 交通:JR浜松駅下車 遠鉄バス「宇布見山崎線」西の宮下車徒歩5分
開山和尚が徳川家康と親交があり、家康が三方原合戦で敗れ、三河に落ちる折に手助けした。この行為により後年47町歩もの寺領を与えられた。
1573(天正元年)
朝倉攻め(あさくらぜめ)
主戦場「北近江〜越前一乗谷追撃戦」
○織田信長vs●朝倉義景
北近江山本山城の国衆阿閉貞征(あつじさだゆき)父子が、浅井氏を裏切り味方になったという報を受けた信長は、一気に浅井氏を滅ぼすべく天正元(1573)年八月、岐阜を発した。それより一月ばかり前、信長は将軍義昭を滅ぼし、京都での手配を終えて岐阜に帰ったばかりだった。阿閉氏は浅井郡から伊香郡、竹生島にかけて広い支配地を持つ有力な国人領主。しかもその領地は越前から通じている北国街道を扼する位置にあり、浅井氏の息の根を止める絶好の機会とみた信長は、その日のうちに出陣したという。
信長は佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、その他美濃・近江の部将たちを率いて小谷(おだに)城近くまで進んだ。一方、朝倉義景も浅井氏を救援すべく越前を発し、余呉、木之本、田部山に陣を布き織田の軍勢を牽制。しかし、阿閉氏の離反の影響で、浅井氏に従っていた周辺の国人たちが次々と信長に下り、小谷城防御の城は大嶽城だけとなる。この大嶽城は小谷城に並ぶ位置にある大嶽山に作られた詰め城で、ここには朝倉勢五百が入っていた。信長はまずこの大嶽城を攻め、何なく落す。ここで信長は、朝倉の城将たちを斬らず義景の陣に帰らせた。
これは義景の性格を読んだ信長の作戦でもあったという。義景は決して一か八かの戦いはしない男で、合戦の際に逃げ込むつもりの大嶽城が落ちたと知れば、陣を払い越前に引き上げると読んだのだ。案の定、義景は信長の思惑通り撤退を始めた。この機を信長は逃さず朝倉軍の追撃を開始。
刀禰坂の戦い
味方の城のある敦賀に向けて撤退する朝倉軍めがけ織田軍は殺到し、刀禰坂あたりで朝倉軍主力と激突する。とはいえ朝倉軍は逃げようとするばかりで、一方的な織田軍の攻勢の前に朝倉方の有力な部将はことごとく討死した。
義景はからくも敦賀城にたどり着くが、そこも攻め落とされ木の芽峠を越えて一乗谷城に逃れる。三年前、浅井氏の裏切りで木の芽峠を越えることの出来なかった信長だが、勢に乗った織田勢は一気に木の芽峠を越え、義景の本拠一乗谷城を攻め落した。義景は家臣筆頭朝倉景鏡(かげあきら)のいる大野郡まで逃れたが、景鏡の裏切りにより自刃。ここに越前守護として五代続いた朝倉氏は滅亡した。
古戦場・史蹟等
「一乗谷朝倉氏遺跡」
福井県福井市一乗谷 交通:JR越美北線「一乗谷駅」下車 徒歩20分
詳細は「福井市HP」をご覧ください。
中国・四国(南海道・山陰道・山陽道)
1575(天正三年)
長篠の戦い(ながしののたたかい)
主戦場「三河/長篠」
○織田信長・徳川家康vs●武田勝頼
天正三(1575)年四月、前年に続き再度三河に侵攻してきた武田勝頼は、信玄が一度手に入れながら徳川に奪還された長篠城奪取のため、一万五千の軍勢で城を取り囲んだ。長篠城には信玄の時代に武田方だった奥平貞能の子貞昌(後の信昌)が城将として入っていたが、守兵はわずか五百人。勝頼は余裕を持って長篠城を包囲し、さらに南方の二連木城(現豊橋市)、牛久保城(現豊川市)をも攻撃し、一気に三河全土を掌中に収める目算だった。
五月に入り、勝頼はこの長篠城を押さえて三河侵攻の拠点としようと、全軍を長篠城周辺に集結させ一気に攻略を謀り、執拗に攻めるがわずか五百の奥平勢は必死にそれを防いでいた。僅か二年前、武田方の作手城主だった奥平貞能が信玄の死とともに家康に降ると、勝頼は人質としていた貞昌の弟仙丸や許婚の女性を磔にして処刑していたことから、武田には絶対降るまいとの強い意志が貞昌にはあった。とはいえこのままでは到底持ちこたえることはできない。そこで、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を伝令として城から抜け出させ、岡崎の家康の元へ走らせた。強右衛門は豊川に飛込み武田の包囲をくぐり抜けると、岡崎城に無事たどり着く。そこには家康が援軍を頼んだ織田信長もいた。早速援軍が来ることを知らせに長篠城にとって返そうとした強右衛門だが、運悪く武田方に捕まってしまう。武田方は強右衛門を磔台に括りつけて、「織田の援軍は来ない。城を明け渡したほうが良い」と叫ばせようとした。しかし強右衛門は、大音声で「信長公は岡崎まで御出馬あるぞ。城堅固に持ち給え」と叫び、その場で鎗に刺し貫かれたという。
五月十六日岡崎を発した織田・徳川連合軍は、十八日に長篠城の西の設楽郡極楽寺山に着陣。織田の軍勢三万は南北に細長く配備して「鶴翼の陣」形を布いた。徳川軍約六千はその南高松山に陣を布く。これは攻撃の陣ではなく迎え撃つ陣形だった。織田・徳川連合軍は勝頼の出方を伺うようにそこから二日間動かなかった。その間に、陣の前では壕が掘られ馬防柵が二重三重に廻らされている。これを見た勝頼は、「織田、徳川が後詰に出てきたが、なすすべもなく対陣しているだけだ」と手紙に記したという。これまで勝頼は連戦連勝してきたこともあって、完全に敵を見くびっていたのだ。先に動いたのは勝頼だった。一番山形昌景、二番武田信廉、三番小幡一党と設楽原へ繰り出し、連合軍に向って突き進んだ。それでも信長は動かない。敵が充分近づいたとみるや、柵の内側から千挺の鉄砲が火を吹き、武田軍はバタバタと倒れた。これら鉄砲隊を陣頭で指揮したのが滝川一益で、この合戦以後、一益は信長の四天王の一人と言われるようになったと『老人雑話』にあるという。
信長が動かなかった理由はもう一つある。それは家康の四天王の一人酒井忠次の提案によるもので、対峙している間に武田方の背後に廻り、長篠城を包囲していた砦の一つ鳶の巣山を急襲し背後から武田の軍勢を脅かす作戦だった。忠次とそれに付けられた信長の馬廻衆の一隊は首尾良く砦を占拠し、武田勢を追い散らした。
勝頼にとって、最早突撃するしか方法は無くなった。鉄砲の餌食と知りながら、武田軍は無謀な突進を何度も試み、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次、真田信綱ら、他国にもその名を知られた部将たちが次々と討死し、勝頼は僅か数名の騎馬武者を従えただけで、からくも脱出した。
[長篠合戦に於ける家康の態度]
○長篠合戦の時諸勢武田家の武威をおそれて、いさめる気色なし。東照宮盃を出し興を催して酒井左衛門尉忠次侯を召して、海老すくひの狂言を仕れとありければ、即坐にたちてつとめ玉ふ。忠次侯元来上手なるによりて、坐中どつとわらひ鬱もひらき、屈ものぶ。そのきほひをぬかさず軍の評議を定め玉ひ、勝頼果して大きに敗れて、これより武田の武威をとろへぬ。(『見聞談叢』)
古戦場・史蹟等
「長篠城祉」
愛知県南設楽郡鳳来町長篠 交通:JR飯田線「長篠城」駅下車
周辺には奥平方の忠臣鳥居強右衛門磔死の碑、武田勝頼公本陣跡の医王寺、武田氏宿将の墓、設楽原決戦場跡など合戦にまつわる多くの史跡が散在。
1578〜1581(天正六年〜九年)
御館の乱(おたてのらん)
主戦場「越後/直江津」
○上杉景勝vs●上杉景虎
絡飾して不犯の誓を立て生涯を独身で過した謙信には子が無く、姉(仙桃院)の二男(当時五歳)を養子に迎え喜平治顕景と名乗らせる。顕景は二十二歳で元服し名を景勝と改めた。その後、謙信と北条氏康が和睦した際に、人質として謙信の元へ送られた氏康の七男三郎氏秀を養子として迎え、自らの幼名景虎を氏秀に与え三郎景虎と名乗らせていた。
天正六(1578)年、後継指名の無いまま謙信が急逝すると、上杉景勝と三郎景虎が後継を巡って争うこととなった。三郎景虎は身の危険を避けるため春日山城を出ると前関東管領上杉憲政の館(御館)に逃れ、景勝と対峙する。二人の争いは越後国内を二分し、北条、武田をも巻き込む混乱となり、両陣営の戦いは足掛け二年にわたって続けられることとなる。翌七(1579)年三月、三郎景虎のたてこもる御館が景勝の総攻撃を受けて落城。三郎景虎は味方の堀江宗親の居城鮫ヶ尾城に逃れるが、堀江宗親はすでに景勝に内通していたため三郎景虎は自刃。景虎死後も、景虎派は越後各地で景勝に反抗を続ける。しかし、景勝軍の猛攻で、天正八(1580)年には栃尾城将・本床秀綱、三条城将・神余親綱らが降伏し、翌九(1581)年二月、北条(きたじょう)城(柏崎市)の北条輔広も降伏し、越後における景勝の領国支配が確立した。
古戦場・史蹟等
「御館跡(御館の乱の跡)」
上越市春日山 交通:JR信越本線春日山駅下車 徒歩
「三郎宅址(春日山城三の丸)」
上越市春日山 交通:JR信越本線春日山駅下車 徒歩
詳しくは「上越市HP」をご覧ください。
1580〜1581(天正八年〜九年)
高天神城攻め(たかてんじんじょうせめ)
主戦場「遠江/高天神城」
○徳川家康vs●岡部長教
天正七(1579)年、北条氏政が武田氏との同盟関係を解消した。これは徳川家中に武田氏打倒の気運を高め、長男信康を失い失意の中にあった家康を立ち直らせるきっかけともなった。武田氏との戦いの再開にあたってまず家康が目指したのは、奪われていた高天神城の奪回だった。この高天神城は「高天神を制する者、遠江を制す」といわれる要地にあり、武田氏が家康の領地を脅かす際の最重要拠点となっていたのだ。
翌天正八(1580)年三月、家康は遠江の大坂、中村の二城を修築、六月には鹿鼻に築城して高天神城攻略の準備を整えた。十月、いよいよ五千の兵を従え家康は出陣した。横須賀、馬伏塚に陣を布き、高天神城を包囲する。城への糧道を断たれた高天神城城将の岡部長教は、勝頼に対し何度も救援を要請するが、関東から睨みを利かす北条氏の牽制で、勝頼は兵を動かせない。この間、家康は長教に対し繰り返し投降を呼びかけるが、長教以下の城兵は迫りくる飢餓に耐え、半年もの長きに渡って籠城し続けることとなる。
年が明けて三月も二十一日を過ぎようとする夕暮れ、籠城している将兵から家康の陣に向って声が掛った。「寄手の陣中に幸若舞をよくする方がおられるとお見受けした。差し支えなくば、われらのためにも一差し舞ってはいただけまいか」声の主は城の副将栗田刑部だった。長期戦を覚悟していた家康は、陣中の慰みに幸若舞の名手を同行させていたのだ。栗田の願は快く聞き入れられ、幸若與三太夫が城の広場に進み出て、『高館』を謡い舞った。城兵が感涙にむせぶ中、與三太夫が舞い納めると、長い籠城にもかかわらずきちんとした身なりの若衆が出て来て、太夫に織物などの謝礼を贈って引き下がったという。
翌二十二日、昨夜の舞を一期の見納めとした城兵は、果敢に城外へ討って出る。討ち取られた首六百八十余という激闘の末、城将岡部長教が討死し、高天神城の攻防戦は終った。生残った武田勢のほとんどは助命されたが、ただ一人孕石主水だけは切腹を命じられた。孕石は元今川氏の家臣で、今川家が滅亡した後、武田に仕えていたのだった。家康が今川家の人質時代、鷹狩りの獲物がしばしば孕石の屋敷の庭に落ち、拾いに行く度に「三河の小倅の顔など飽きはてたわい」と吐き捨てるのが常だったという。
古戦場・史蹟等
「高天神城祉」
静岡県小笠郡大東町下土方 交通:JR東海道本線掛川駅下車 静鉄バス大坂行20分「土方」バス停下車徒歩15分
特に整備された史跡では無く、現地案内板と土塁などが残るだけの場所。それ故、俗化していないので、返って「兵どもが夢の後」という感慨が生ずるかも知れぬ。
1584・1585(天正十二年・十三年)
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)
主戦場「尾張/小牧・長久手」
△羽柴秀吉vs△織田信雄・徳川家康
本能寺で信長が倒れた後、その後継者となってもおかしく無い部将に徳川家康がいた。家康は、織田家中の序列とその実力および人望の点から、後継者とみなされていたが、「本能寺の変」の直前に信長の招待を受け、堺の町で穴山梅雪らとともに休暇を楽しんでいたために、明智討伐で秀吉に先を越され、後継レースに一歩出遅れた。そんな家康だが、秀吉が柴田勝家を討ったときには戦勝の祝いを述べ、贈物を贈っている。しかし、秀吉が信長の三男信孝を自殺に追い込んだあたりから秀吉への警戒を強める。また信孝の自殺に加担した二男信雄も、次第に秀吉のやり方に疑問をもつようになった。こうして家康と信雄が連合し、家康は盟友信長の遺子を助けるという大義を得て秀吉に敵対。それに対し、秀吉にはなんらの名分もなかった。しかしすでに、秀吉の力は信雄・家康勢をはるかに凌駕し、着々と天下人への道を歩いていた。小牧・長久手の戦いは、この秀吉の実力と家康の大義の戦いとなる。
小牧の戦い
天正十二(1584)年十二月、家康は八千の軍勢を率いて浜松城を出、清洲で信雄と会見する。この時、秀吉方の池田恒興の子元助が信雄の属城である尾張犬山城を急襲し、占領した。続いて秀吉方は森長可を尾張羽黒に侵入させるが、家康の部将酒井忠次、榊原康政がこれを撃退した。敗戦の報に接した秀吉は、自ら三万余の軍勢を率いて出陣。その他の隊を合わせて十万を超える大軍勢になった。一方の信雄・家康連合軍は合わせて一万六、七千だったという。両軍は尾張・小牧山で対峙する。数の上では圧倒的な秀吉軍だが、戦巧者ぶりを発揮する家康の軍に翻弄され、幾つかの小競合いで秀吉軍は犠牲を出すばかりだった。これらの小競合いを総称して「小牧の戦い」という。
また、この時の戦いで秀吉軍の鋭気を挫き、味方の士気を高めた榊原康政の檄文が、秀吉の陣中に立てられた。その檄文の内容は「それ羽柴秀吉は野人の子なり、草莽より出てわずかに馬前の走卒となる。信長公これを寵せられ、その将師となって大禄を食む。信長公の君恩の高きことは天にも似て、深きことは海にも似たり。しかるに信長公卒するや、秀吉たちまちその主恩を忘れ、さきに信孝公を殺し、いままた信雄公と兵を結ぶ。大逆無道である。わが君家康公は深く信長公の旧恩を思い、赫然として旅をととのえ、大義の当然たるによりて、天下のにくむ逆賊秀吉を討たんとす」というようなものだったという。これを見た秀吉は激怒し、康政の首に十万石の賞金をかけたという。
そんな秀吉だが、僅か五百の手勢を率いて秀吉の大軍と並行しながら時々鉄砲を撃って挑発する本多忠勝が、鹿の角の立物を夕日に輝かせながら、悠々と馬の口を洗わせているのを見た士卒の一人が、鉄砲で狙撃しようとするのを見て「五百にも足らぬ兵をもってわが大軍の進行を少しでも妨げようとする志、勇といい、忠といいまことに類なき本多かな。あのような者は生かしておくものぞ」と、涙を流している。
長久手の戦い
翌十三(1585)年四月、秀吉の甥秀次を総大将とする池田恒興、森長可らの軍勢が三河の撹乱を狙って南下。それを待伏せていた家康の軍勢との間で、激戦が繰り広げられた。これを「長久手の戦い」という。この戦では、池田恒興、森長可ら秀吉の名立たる部将たちが討死するという秀吉にとって惨澹たる事態になった。
こうした状況で戦い続ければ犠牲が多いと判断した秀吉は、得意の調略で信雄と単独講和を結ぶ。家康は信雄を助けて戦うという大義名分を失い、この年の十二月、二男義伊(後の秀康)を秀吉の養子に出して全面講和がなった。
この戦いは、家康が戦闘で勝ち、秀吉は戦争に勝ったといわれている。
[長久手合戦に於ける家康の態度]
○長久手の戦に成瀬隼人正成十七歳なりしが、敵軍に入りこみて、かぶと首を取りて東照宮へ見参にいる。被レ仰るゝは汝は勇士なり。旗本の兵すくなし。まづこゝを守れとおほせられけるゆへ、御馬のまへにあつていきをつぐところに、御先手のさわぐを見て、又かけいださんとす。馬とりくつわをとりてはなさず、いふやうは、既にかぶとくびをとり玉ひて功名をとげられたり。敵の中へ入り、いのちをほろぼして何のえきかあらんと云ふ。隼人おほきに怒り罵とも、馬とりくつわをはなたず。刀をぬきてむねうちし、小利をむさぼり大義を失ふは武士の道か、今日の戦は敵やぶれ陣おち入り、にぐるをおひつめて後やむべし。名もしらぬ首一つに身をかへりみんやと、むちをうてどもあをれども馬取猶はなたず源君三十間ばかりあいだありて御覧ありけるが味方あしをためかねたり。壮士の討死すべき処はこゝぞ、たゞ其こゝろざしにまかせよとおほせられければ馬とりしの時くつわをはなつとひとしく、ま一文字にのり入りて又かぶと首を二つゑたり。さて東西へはせまわり、味方をはぢしめて上まぢかく御覧ぜらるゝ所に黒にげはしりては、なんの面目ありて、後人にまみゑんやとはげまされて、ひきいろなる者もふみとめすゝめる者はいよいよいさめり。
源君其年のくれに根来五十人をあづけ玉へり。隼人が長久手のはたらきは、宿将老師もはづべからずと感じ玉へり。徳川家にて十七歳の大将となりたる者は隼人のみ。(『見聞談叢』)
古戦場・史蹟等
「小牧山」
愛知県小牧市堀の内1-1 交通:名鉄小牧線小牧駅下車乗換 名鉄バス・こまき巡回バス「小牧市役所前」下車
永禄6年(1563)、織田信長が美濃攻略の拠点とした小牧山に築城。後に小牧・長久手の戦いの際に家康が陣を置いた。
「長久手古戦場」
愛知県愛知郡長久手町 交通:地下鉄東山線藤ケ丘駅下車乗換 名鉄バス砂子下車 徒歩5分
周辺の松林の中に戦死した豊臣軍の武将の墓や無名戦士の首塚、家康が軍議を開いた色金山の胡牀石などが残る。
「犬山城」
愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2 名鉄犬山線犬山駅下車 徒歩20分 または 犬山遊園駅下車 徒歩10分
国宝。天文6年(1537)に現在の位置に天守が造営され、織田与次郎信康が城主となった。その後、元和3年(1617)成瀬隼人正正成が城主となり、現在では成瀬家の所有となっている。また現存する城では、日本最古といわれている。
1589(天正十七年)
佐渡攻め(さどぜめ)
主戦場「佐渡/川原田」
○上杉景勝vs●本間一族
1600(慶長五年)
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)
主戦場「美濃/関ヶ原」
○徳川家康vs●石田三成
大垣城攻め
慶長5年(1600)9月18日、大垣城に篭城していた相良長毎、秋月種長、種長の弟高橋元種は元々東軍に通じていたため、同じく篭城していた熊谷直盛、木村由信父子、垣見一直を謀殺。大垣城の主将であった福原長堯(石田三成の妹婿)は、9月23日ついにある条件(勝成から福原への「加賀井重望の子某を引き渡せば、城兵の命は助ける」という申し入れ)で和議を容れて降伏、伊勢朝熊に退去して自殺した。また、水野勝成の父忠重を斬殺した加賀井重望の子某は、大垣落城とともに死んだ。東軍に通じた相良長毎、秋月種長、高橋元種の3名はいずれも戦後に所領安堵となる。実際のところは、関ヶ原の合戦に参加していなかった勝成が、「このままでは功名を立てる機会を失う」と、西軍方の大垣城に攻撃を仕掛けたという。
大垣城は、石田三成など西軍の主力部隊が終結していた重要な拠点であり、主力部隊が関ヶ原に向かった後は、城を守備するための留守部隊が残っていた。《瓢》
関西
587
蘇我・物部の争い(そが・もののべのあらそい)
主戦場「大和」
○蘇我馬子vs●物部守屋
大伴氏が朝鮮半島における敗退で失脚したあと、仏教の受け入れに積極的な大臣(おおおみ)曾我稲目(そがのいなめ)と、これに批判的な大連(おおむらじ)物部尾輿(もののべのおこし)との二大勢力が競合し、「ヤマト政権」(倭・大和、まだ日本という国号は無い)は動揺を続けていた。
欽明のあとを受けた大王敏達(おおきみびたつ、天皇という称号もまだ無い)が死ぬと、大臣蘇我馬子(稲目の子)と大連物部守屋(尾輿の子)の対立が表面化し、新たに大王となった用明が即位した翌年(587年、元号もまだ無い)に病気で早逝すると、一挙に両者の関係は武力衝突をするまでに発展した。守屋はさきの大王欽明の子穴穂部(あなほべ)を大王に推したのに対し、馬子は敏達の大后豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、後の推古)や用明の子厩戸(うまやど、のちの聖徳太子)と結び、馬子側は守屋の推す穴穂部を殺し、さらに守屋を攻めて、激戦の末ついに物部氏を滅ぼした。
こうして最大の競争相手物部氏を滅ぼした馬子は、穴穂部の弟を大王崇峻とし、自ら大臣となって有力首長たちのなかで一段とぬきんでた立場にたった。(網野善彦著『日本社会の歴史』上)
1570(元亀元年)
姉川の合戦(あねがわのかっせん)
主戦場「近江/横山城近郊姉川」
○織田信長・徳川家康vs●浅井長政・朝倉義景
元亀元(1570)年六月、近江国を一時は掌握したかに見えた信長は、先の朝倉攻めに際し浅井氏が離反したため、再び近江に不安定要因を抱えることとなった。その元凶ともいえる浅井氏を叩くため、同十九日、信長は岐阜を発して小谷城近くの虎御前(とらごぜ)山に着陣する。しかしその小谷城は思ったよりも堅固な要害の地にあったため、長期戦に備え支城の横山城をまず押え、そこを根拠に小谷城を攻める作戦に変更した。
二十二日、虎御前山から撤退する信長軍に、浅井長政は軍勢を小谷城から出撃させ、追撃戦を行う。この時、殿軍を命じられた馬廻(うままわり:信長直属)の梁田広正、佐々成政、中条家忠らが目覚ましく活躍し、無事に総軍を龍ケ鼻(たつがはな:現長浜市)まで移動させることに成功した。二十四日には横山城を攻めている。やがて、家康の援軍五千も到着。しかし、それとほぼ同時に浅井氏の元には、朝倉軍約八千の援軍が到着した。こうして両軍は姉川を挟んで対峙することとなり、二十八日、遮蔽物のない平地で激突する。織田・家康軍二万超に対し、浅井・朝倉軍一万四千。数の上では織田連合軍の優勢で楽勝かと思われるが、ここで負ければ後が無い浅井軍は、必死の抵抗を試みて善戦。江戸時代に書かれた史書などには、織田方は次々と切り崩され、家康軍の奮闘で勝ったとされている。やがて朝倉軍、浅井軍と崩れ、北国脇往還を北へ向って退却した。信長は予定通り横山城を落し、そこへ木下秀吉(豊臣秀吉)を置き江北に対する前線基地とした。
『信長公記』の記述紹介。
古戦場・史蹟等
「姉川古戦場」
滋賀県 交通:JR北陸本線「長浜」駅下車 乗換 湖国バス近江高山線「浅井町役場」下車 乗換 浅井町循環バス
詳細は「浅井町HP」をご覧ください。
[姉川](あねがわ)
近江国浅井郡(滋賀県東浅井郡浅井町と坂田郡伊吹町の間)を流れる川。俗に、閻魔王の姉が女龍王となり、この川を栖としたと伝えられた事から名付けられたという。
1571(元亀二年)
比叡山焼打ち(ひえいざんやきうち)
主戦場「比叡山」
○織田信長vs●比叡山門徒衆
〈比叡山焼打ちの伏線〉
姉川の合戦に勝利した信長は、休む暇もなく将軍義昭とともに三好三人衆討伐のため摂津へ赴いた。その機に乗じて、姉川で敗北を喫した浅井・朝倉勢は再び近江に進出。琵琶湖西岸を進み坂本に布陣した。浅井・朝倉勢に加え一向門徒衆が加わり、その数三万という大軍だったという。
坂本・宇佐山の戦い(さかもと・うさやまのたたかい)
信長は浅井・朝倉軍の抑えとして宇佐山城に森可成と弟信治を付けて三千ほどの軍勢をおいていて、浅井・朝倉軍を迎え討つため坂本の町外れで交戦。しかし、多勢に無勢、このとき可成、信治を含め織田勢合わせ数百人が討死したという。
この知らせを聞いた信長は急遽兵を返し、京から逢坂を越えて近江に入った。坂本に着陣していた浅井・朝倉軍は信長との直接対決を避け、比叡山に上り方々の峯に陣を張った。山上に陣取る敵を攻めるのは難しい。信長は比叡山の僧侶十人ほどを呼び、敵を利する行為を辞めるよう依頼するが比叡山側はそれに答えず、あくまでも浅井・朝倉勢に与する態度を変えなかった。
志賀の陣(しがのじん)
信長はしかたなく持久戦を覚悟し、総軍を上げて比叡山を包囲する。
信長はしばしば決戦を挑み義景を徴発するが、義景は徴発に乗らず、両軍の対峙はおよそ三ヶ月にも及んだ。この間、両軍が直接戦闘を行ったのが「堅田の戦い」と呼ばれる「いくさ」だけだったといわれる。
堅田の戦い(かただのたたかい)
近江をほぼ制圧した信長だったが、この堅田だけは堅田衆と呼ばれる水軍が支配し、信長の支配に属していなかった。その堅田衆の地侍数名が信長に通じて来たため、この時期を逃さず堅田を押さえようとした信長は、重臣の坂井政尚を派遣し堅田を確保しようとした。この動きを察知した朝倉義景は、さっそく前波景当らの軍を堅田に送り、それに一向一揆衆が加わった大軍が堅田を襲った。一千ほど手勢の坂井らの軍は、多勢の前に敗れ坂井ら多数が討死し、堅田は朝倉勢が占拠した。
比叡山に籠って織田軍の攻撃を封じ、時に応じて兵を出す。さらに本願寺の檄で一向一揆衆も加わるこの両軍の対峙は、浅井・朝倉軍のペースで進んだ。しかし冬を控え兵糧の乏しくなった浅井・朝倉軍もこのまま山に籠り続けることもできない。まさに我慢くらべの状況だった。そんな時、伊勢長島の一向一揆が蜂起し、小木江城を守っていた弟信興が攻め殺されるという報が国許から入る。信長は、将軍義昭と関白二条晴良を動かし和睦の仲介をさせ、ようやく両軍の陣は引き上げた。
翌元亀二(1571)年五月、信長が伊勢長島の一向一揆を攻めている時期に、近江では木下秀吉が城将となっている横山城が浅井軍の攻撃を受けた。
箕浦の戦い
小谷城と横山城の戦線は、しばらく膠着した状態だったが、信長本隊が手薄な時期を見計らって、浅井長政は小谷城を出て横山城近くに陣をはった。そして、部将の浅井井規に信長方の国衆堀氏の居城鎌刃(現坂田郡米原町番場)を襲わせた。この鎌刃城攻撃には江北の一向一揆勢も加わって五千人もの人数だったという。その報を受けた秀吉だが、横山城を浅井本隊に牽制されているため全軍を動かすことができず、城兵のほとんどを城に残し、自ら百騎あまりを率いて救援に向った。秀吉は大勢の敵から隠れ、山の裏を南下して鎌刃城に到着。鎌刃の城兵と合流すると一気に箕浦に着陣している浅井軍を攻めた。この時の秀吉軍は鎌刃の兵を合わせても五、六百ほどだったが、数倍もの敵を切り崩し、追撃。浅井軍は小谷城に逃げ込むしかなかったという。
こうして、秀吉は信長の江北での拠点横山城を守り抜いた。一方、信長は長島での攻撃が失敗し軍を岐阜に収めていたが、八月になって軍を動かす。まず秀吉の拠る横山城に入り、北の浅井・朝倉勢を牽制すると一転して南に軍を進め、丹羽長秀の守る佐和山城に入った。九月に入り、江南に配置していた佐久間信盛、柴田勝家、中川重政、丹羽長秀の四将に命じて、小川・志村の両城を攻めさせた。この両城には、六角氏に従っていた神崎郡の国衆小川祐忠、志村筑後守がいて、浅井氏に通じ信長に反抗していた。信長本隊は江南の一向一揆の拠点である金森城を攻め、開城させた。こうして江南の反信長の拠点を次々に攻略し、三井寺付近に着陣。この時、京の人々は信長が上洛するものと信じていたようだが、信長は京に行かず坂本の町に入った。
比叡山の焼打ち
町に入った信長軍三万はすぐさま坂本の町に火を放ち、延暦寺の堂舎や郊外にある日吉神社を焼き滅ぼす。その勢で比叡山に上った信長軍は、山上の延暦寺を目指して突き進む。この間、出合った人々は皆殺しにしろとの命が出ていて、僧はもちろん女子供さえも助命されなかったという。山上の根本中堂をはじめ建物には全て火が放たれ、最澄以来七百年続いた聖域は、地獄図の如き様を呈して破壊された。
古戦場・史蹟等
「坂本〜比叡山」
滋賀県大津市 交通:JR湖西線比叡山坂本駅下車、京阪石山坂本線坂本駅下車
「堅田周辺」
滋賀県大津市 交通:JR湖西線堅田駅下車
焼打ちそのものの遺跡は無いが、坂本、比叡山、堅田周辺にはさまざまな時代の史跡が豊富。
1573(天正元年)
小谷城攻め(おだにじょうせめ)
主戦場「近江/小谷城」
○織田信長vs●浅井久政・浅井長政
元亀三(1572)年七月、信長は江北へ向けて出陣した。この時は嫡男信忠の初陣で、佐久間、柴田、木下、丹羽、蜂屋など主だった部将のほとんどが動員され、五万余の大軍となった。横山城に入城した信長は、木下(羽柴)に支城の山本山城を攻撃させ、浅井氏に味方する一向一揆の拠点となっている寺々を焼き払い、山に籠った一揆勢をことごとく切り捨てた。さらに、湖から明智の率いる船団が浜手に火を放って攻撃。そして信長は小谷城の南方二キロの虎御前山に砦を築き、いよいよ小谷城攻めに取りかかろうとした。
一方浅井氏は朝倉義景に応援を要請。義景は一万の大軍を率いて越前を立ち柳ケ瀬(現伊香郡余呉町)に着陣する。しかし、小谷城をびっしりと囲む織田勢を見た義景は、決戦を避け小谷城の北西にある大嶽(おおぞく)山に陣を張った。そして、この高地に軍を集結させたまま、まったく攻勢に出る気配をみせない。そんな優柔不断な義景に愛想をつかし、重臣の前波吉継はじめ数将が投降してきたが、一気に小谷城を攻めたい信長は焦っていた。信長包囲網の一画武田信玄がいよいよ動くという情報を得ていたからだ。信長は義景に日を決めて決戦を申し込むが、そんな虫の良い申し出を義景が受けるはずもなかった。やむなく城攻めを諦めた信長は、横山と虎御前山の間にある八相山と宮部に繋ぎの砦を築き、横山に引き上げ、間もなく岐阜に帰陣した。
翌天正元(1573)年八月、信長包囲網を画策した将軍義昭を京から追放し、岐阜に帰ったばかりの信長の元に、浅井氏麾下の国人領主山本山城主阿閉貞征が、信長方に寝返ったという朗報が届いた。信長はこの機を逃さず浅井氏を滅ぼそうとすぐさま出陣。大嶽山の北にそびえる山本山に陣を布いた。再び義景が援軍を率いて江北に現れる。しかし今度は信長が先手を打って大嶽山を攻略し、逃げ込む砦を失った朝倉軍は撤退した。信長は小谷城下に抑えの兵を置くと、まず朝倉軍を追撃(朝倉攻め)。義景を滅ぼすと小谷に取って返し、虎御前山の砦に入った。攻撃の先陣を切ったのは、横山城にあってずっと浅井氏の抑えを務めていた羽柴秀吉だった。秀吉はまず長政の守る本丸と、父久政のいる小丸の間にある京極丸を占領し、父子の連絡を断った。続いて小丸を攻撃し、久政を切腹に追い込む。その後、長政は本丸に籠って二日間抵抗を続けたが、もはや朝倉の援軍は無く、残された道は潔い自害だけとなった。長政は妻のお市と三人の娘を城から出し、許されない嫡子万福丸を密かに脱出させると切腹。こうして三年間、信長の攻撃に絶え抜いた小谷城は落ちた。脱出した万福丸は潜伏先の越前で捕えられ、関ヶ原の地で磔にされ、江北の戦国大名浅井氏は三代で滅びた。
古戦場・史蹟等
「小谷城祉」
滋賀県 交通:JR北陸本線「長浜」駅下車 乗換 湖国バス近江高山線「浅井町役場」下車 乗換 浅井町循環バス
詳細は「浅井町HP」をご覧ください。
1576〜1580(天正四年〜八年)
石山合戦(石山本願寺攻め)(いしやまかっせん)
主戦場「摂津/大坂石山本願寺」
○織田信長vs●顕如・教如
天正三年、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅などの勝利の余勢をかって、一気に本願寺を攻めるものと思われていた信長は、本願寺に講和を申し入れ、両者は一時的な休戦状態にあった。しかし、翌四年四月、大坂で小競合いが起り、信長は本願寺攻めに踏み切った。動員された部将は荒木村重、長岡藤孝、塙直政、そして明智光秀の四将。四将の部隊は三手に別れて本願寺を包囲。本願寺側は楼岸(ろうのきし)から木津に至る海岸線に砦を築き、海上通路を確保していた。この通交路を封鎖しなければ、本願寺に与する雑賀や毛利への連絡も容易で、本願寺攻略も難しくなる。信長は楼岸・木津間の中間に位置する三津寺(みつでら)を占領する作戦を立て、その攻略を天王寺に陣を布いた塙直政に命ずる。佐久間信栄の率いる援軍も到着し、明智隊とともに天王寺城に入り守備を固めると、直政は降ったばかりの三好康長とともに三津寺の砦を攻撃した。本願寺側も雑賀(さいか)衆を中心とした援兵を楼岸より送り防戦する。この時、楼岸から送った援兵は、鉄砲千丁を含む一万人という。数の上では直政隊もひけをとらなかったが、雑賀衆の鉄砲で散々に打負かされ、直政が戦死。本願寺勢はその勢いで、天王寺城をも攻めた。信長は早速諸将を集め後詰に向う。その数三千だったが、信長の指揮する部隊は圧倒的な数の本願寺勢を席巻し、敵を本願寺へ押し戻すことにかろうじて成功した。
この戦いで苦戦を強いられた信長は、本願寺の四方に十ケ所の付城を築き、宿将筆頭の佐久間信盛を主将とする軍団(方面軍)を投じ、さらに真鍋、沼間ら和泉の水軍を住吉に配して、海上の備えとして本願寺の包囲を強化する。これで陸上の包囲は完璧となったが、依然として海上路は封鎖できずにいた。
第一次木津川口の海戦
天正四年七月、毛利氏配下の村上水軍が大坂湾に現れる。それは大船八百艘を擁する大船団だった。すぐさま和泉の水軍が木津川口に向い封鎖するが、その数と操船術、装備において数段上の村上水軍の敵ではなかった。焙烙火矢の攻撃を受け真鍋、沼間の水軍はまたたく間に火につつまれ沈没。村上水軍は、一艘の被害を出さずに本願寺に兵糧を運び入れ、ゆうゆうと引き上げていった。
その後もしばしば雑賀・毛利の船が大坂湾に現れ、本願寺に兵糧や軍需物資を補給した。いかに本願寺を陸上で完璧に包囲しても、大坂湾の制海権を握らなければ兵糧攻めは成功しない。織田方の水軍は和泉水軍が主力だが、毛利の村上水軍に比べはるかに弱体だと痛感した信長は、滝川一益と志摩の水軍の将九鬼嘉隆に、大船の建造を命じた。
一方、佐久間信盛率いる大坂方面軍は包囲したまま戦闘らしい戦闘を一度も行わずにいた。兵糧攻めである以上、無駄な戦死者をださない意味でも包囲軍から仕掛けることは無く、包囲された本願寺勢も討って出ることがなかったからだ。それだけ本願寺の糧食は豊富だった。この状態は終息するまで、結局四年間続き、後に佐久間親子が信長に追放される原因となった。ようやく九鬼、滝川の大船が完成したのは天正六年六月のこと。滝川一益の船は白木のままだったが、九鬼嘉隆の作った船は鋼鉄船だったという。「人数五千ばかり乗る。横へ七間、竪へ十二、三間もこれあり。鉄の船なり」と多聞院英俊が日記に書いた大船を嘉隆は六艘建造した。こうして完成した大船七艘は、多数の小船を伴って熊野灘から堺を目指す。途中、雑賀から淡輪沖あたりで一揆衆の攻撃を受けたが、敵船を引き寄せ大砲を撃って撃沈し、九鬼・滝川水軍は七月には無傷で堺に入港した。九月には信長自ら堺を訪れ、これら大船を観閲している。
第二次木津川口の海戦
十一月、村上水軍は再び六百艘の船団で大坂湾に現れた。すかさず和泉水軍に加えて、新たに加わった滝川・九鬼の大船七艘を擁する志摩水軍の船は、木津川口を封鎖。それを突破しようとする村上水軍と激突し、激しい海戦が繰り広げられる。なかでも九鬼水軍の鉄船の威力は凄まじく、村上水軍の発する焙烙火矢をものともせず、敵の指揮船だけを狙い大砲を放ち、機動力を殺いだ。指揮が乱れバラバラになって後退する村上水軍にさらに追い打ちをかけ、織田の水軍の完勝に終った。
制海権を織田方に握られ追いつめられた本願寺は、総攻撃に備え全国の門徒衆に檄をとばした。しかし、信長は力攻めせず、天皇を介して和睦を進めようとしていた。翌八年三月、信長から本願寺へ和睦の条件が提示される。勅使として近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保が派遣され、翌閏三月和睦が成立し顕如は本願寺を出た。しかし、和睦に反対する息子の教如と雑賀衆は父顕如の命を無視し立て籠り続け、全国に籠城の決意を檄文にして発した。これを見た信長は一戦を覚悟し筒井順慶らに出動を命じ、臨戦体制で再度、和睦の提案を行い、八月にようやく教如も本願寺を出た。教如が出ると雑賀衆も海や陸から蜘蛛の子を散らすように逃れ去った。しかし、栄華を誇った石山本願寺は、明け渡される直前に火が放たれ全焼する。
古戦場・史蹟等
「蓮如上人袈裟がけの松」
大阪市中央区大阪城 交通:JR【環状線】森ノ宮駅、大阪城公園駅【東西線】大阪城北詰駅
本願寺八世蓮如が袈裟をかけたと伝えられる松で、現在は松の巨木の根が残る。石山本願寺発祥の地ともいわれる。大阪城公園の玉造口から梅林へ向う途中に見られる。
詳しくは「大阪観光案内」をご覧ください。
1582(天正十年)
本能寺の変(ほんのうじのへん)
主戦場「京都・本能寺」
○明智光秀vs●織田信長
天正十(1582)年五月末、一年振りに京都に入った信長は京での常宿としている本能寺に到着。その日は誰とも会わず、翌六月一日に勅使権大納言甘露寺経元や前太政大臣近衛前久とその子内大臣信基、前関白九条兼家、関白一条内基、右大臣二条昭実等々、堂上公家たちの訪問を受け茶会を開くなど彼等と数時間懇談する。夜になると、嫡男信忠が宿所の妙覚寺から本能寺を訪れ、京都所司代村井貞勝や京都市内に宿をとっている馬廻の面々が次々とやってきて酒宴となった。昼間の公家たちの堅苦しいものとは違い、身内だけの気楽な場だったと思われる。彼等が引き上げた頃は、夜もかなり遅くなっていた。ようやく信長が疲れた身体を床に横たえたのも束の間、その夜が明けきらぬ二日の払暁、時ならぬざわめきの声で信長は目を覚ました。同じく森蘭丸ら小姓たちも目を覚まし、信長の元へ駆け付ける。やがて閧の声と共に鉄砲が打込まれてきた。この時の『信長公記』には信長と小姓の短いやりとりが記載されている。
「これは謀叛か。いかなる者の企てぞ」
「明智が者と見え申し候」
「是非に及ばず」
こう言い残して信長は自ら弓を取り、乱入する明智軍と応戦。少し離れた表御堂にいた小姓衆も駆け付け、壮絶な斬り合いとなった。しかし、この時の信長の身辺警護は、小姓衆の二、三十人、中間衆を含めても数十人程度だった。対する明智の軍勢は軍仕度を整えた一万三千。どう足掻いても勝ち目はなかった。信長は弓の弦が切れると鎗でひとわたり戦った後、本殿の奥の間に入って切腹したという。やがて、火をかけられた本能寺は、午前七時頃に焼け落ちた。
この間、信長の親衛隊馬廻の武士たちは何もしなかった訳ではない。京の町中に分宿していた五百人が本能寺に駆けつけたが、時すでに遅く、嫡男信忠が泊まっている妙覚寺に駆けつけている。妙覚寺にも馬廻五百人がいて、信忠が救援に駆け付けようとした時には、明智の軍勢に取り囲まれた本能寺へは近づくことも出来なかったのだ。家臣の一人が逃げるように勧めるが、信忠は明智の軍で逃げ道も塞がれているだろうと観念し、隣の二条御所に移って馬廻千人と籠城する。御所に籠ってまもなく、明智の軍勢が御所を取り囲んだ。信忠は所司代村井を仲介にたて、御所にいた皇太子一家を上御所に避難させるべく光秀と交渉する。光秀の狙いは信忠の首ただ一つ。要求を入れ皇太子一家や公家たちが、軍勢の中を避難すると、光秀はただちに攻撃を開始した。しかし信忠と馬廻衆がしぶとく応戦したため、明智軍は押し戻される始末だった。このままでは犠牲が多すぎると判断した光秀は作戦を変更。隣の近衛前久の屋敷に乱入して、そこの屋根から弓・鉄砲で攻撃をかける。奮戦していた馬廻たちが次々と討たれ、信忠の周りにはわずかな兵が残るだけとなった。ついに観念した信忠も、父信長の後を追うように切腹して果てた。
古戦場・史蹟等
「本能寺」
京都府京都市中京区寺町通御池下ル東側本能寺前町522 交通:京阪本線「三条」駅下車、徒歩10分/市バス「河原町御池」下車、徒歩5分
天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立された。しかし本能寺の変で焼失し、天正15年(1587)現在の場所に移された。本堂背後には織田信長一族と森蘭丸をはじめ、本能寺の変で亡くなった家臣の供養塔がある。
1582(天正十年)
山崎の合戦(やまさきのかっせん)
主戦場「洛南/山崎」
○羽柴秀吉vs●明智光秀
天正十(1582)年六月、中国方面軍を指揮して毛利の属領備中高松城を攻めていた秀吉は、本能寺の変を聞くと素早い行動に出た。敵がまだ信長の死を知らない内に和議を結び、軍を京に向け転進させた(中国大返し)。六日に高松城を後にした秀吉は八日に拠点の姫路城に入りそこの蔵を明けさせて金銀を将兵に分け与えた。生きて戻らない覚悟を示すと共に、志気を鼓舞するのが目的だったという。そこから三日で摂津富田に到着している。それまでに秀吉の軍に参加する部将も増え、秀吉軍は三万余に膨れ上がった。
一方、明智光秀は、信長を討ち取った後、自らの主導で天下布武を成すべく、四方手をつくして味方を集めていた。その時光秀が一番頼りにしていたのが、娘婿の細川忠興と幽斎父子だったという。光秀は「信長襲撃を実行したのは、婿の忠興殿を売り出したいからである。あと五十日か百日もあれば幾内を制圧できるので、その暁には我が子十五郎と忠興殿にすべてを引き渡すつもりである」という内容の手紙を幽斎に送っている。しかし細川父子は光秀の要請を拒絶、幽斎は信長に弔意を現し剃髪、忠興は妻を幽閉した。また筒井順慶は要請に応じたものの、兵を動かさず様子を伺うなどしている。その他の部将たちからも色良い返事が得られず、逆に信長の命で光秀の与力大名として配下におかれていた中川清秀と高山重友(右近)は、光秀を見限り秀吉に与した。ともあれ、光秀にもう少し時間があれば事態は変っていただろう。思いもよらぬ秀吉の素早い行動によって、単独で戦わざるを得ない状況になる。
こうして十三日には京都の南の入口山崎が決戦の舞台となった。山崎は片側を天王山、片側に淀川が流れる隘路で、この地を押さえれば、いかな大軍でも容易に京都へ入って来れなくなる。しかしここでも先手を取ったのは秀吉だった。合流したばかりの高山重友を山崎に、中山清秀を天王山麓に送りそこを占拠。しかし光秀も凡将ではない。山崎に近い勝竜寺城を前進基地にして迎撃体勢をとり、隘路から出てくる秀吉軍を各個に撃破する作戦に出た。隘路の出口に一隊が釘付けになれば、後続の部隊は出ることが出来ない。その間に天王山を奪還し、山上から秀吉軍の側面を攻撃し、秀吉の軍勢を切り崩すのが目的だ。だが山上に入った羽柴秀長の部隊がしぶとく戦い、光秀軍からの攻撃をしのいでいた。やがて、淀川添いに進んだ池田忠興、加藤光泰の隊が進撃し、出てきた隊を迎撃する明智軍の津田隊と激戦を展開。津田隊がズルズルと後退を始めると、正面で秀吉軍と戦っていた明智軍本隊も、側面が気になり出し攻撃力が鈍ってきた。それを見た秀吉軍本隊が突進し、明智軍一万三千の倍以上の軍勢三万に近い兵が一気に平野部に展開する。こうなると多勢に無勢、明智軍の諸隊は光秀必死の下知にもかかわらず戦線を離脱。光秀自ら出陣しようとしたが、家臣の忠告で出撃を思いとどまり、勝竜寺城に後退した。勢に乗った秀吉軍は勝竜寺城を攻撃。夜になって光秀は本拠坂本城目指して脱出するが、途中小来栖に差しかかった時に、土民の竹鎗が脇腹に刺さり、落馬した。その傷は腸が飛び出るほどの深手で、家臣の横尾が介錯し切腹して果て、光秀の首はその横尾が何処とも知れぬ土中に埋めたといわれている。
古戦場・史蹟等
「山崎合戦記念碑」
京都府乙訓郡大山崎町 交通:JR東海道本線「山崎」駅・阪急京都線「大山崎」駅下車、徒歩30分(天王山への登山路の途中)
「天王山秀吉の道散策道」
京都府乙訓郡大山崎町 JR東海道本線「山崎」駅又は阪急京都線「大山崎」駅下車、徒歩
天王山麓にある大山崎山荘美術館から天王山頂に至る間に秀吉の出世物語を日本画で描き、それを陶板に焼きつけたものが6ヶ所間隔を置いて設置されている。秀吉の中国大返しや山崎合戦、光秀の最期、天下人秀吉といった場面に分かれ畳2〜8枚分といった大画面でそれらを見ながら山頂へと達することができる。特に中腹の旗立松展望台にある山崎合戦の場面は圧巻である。
「天王山」
京都府乙訓郡大山崎町 交通:JR東海道本線「山崎」駅又は阪急京都線「大山崎」下車 頂上までは徒歩にて約40分
「勝龍寺城跡(勝竜寺城公園)」 京都府長岡京市勝竜寺13-1 交通:JR京都線「長岡京」駅東口下車、徒歩10分
1583(天正十一年)
賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)
主戦場「近江/賤ヶ岳」
○羽柴秀吉vs●柴田勝家・佐久間盛政
天正十一年四月、羽柴秀吉の軍勢と柴田勝家の軍勢が賤ヶ岳北方天神山あたりを境に対峙した。この二人は共に信長の重臣で、信長没後の主導権を争っていた。勝家と秀吉はもともと犬猿の仲らしく、二人の対立は秀吉が山崎で明智光秀の軍を破った直後、諸国に遠征していた信長の重臣らが尾張清洲城に集まり信長政権の後継を巡る会議(清洲会議)で深まった。信長の嫡男信忠の子三法師(後の秀信)を推す秀吉派と、信長の三男神戸信孝を推す勝家派に割れ、丹羽長秀、池田恒興らが明智光秀を破った最大の功労者秀吉に与し、筆頭家老の地位にあった勝家の意見は退けられた。続く信長の遺領の分配でも、秀吉は遺領の半分近くを領し、一挙に二百数十万石となったのに対し、勝家は新たに近江長浜六万石を得ただけに終った。さらに両派の対立が決定的になったのが、十月に京都大徳寺で執り行われた信長の葬儀といわれている。ここで秀吉は葬儀を取り仕切り、天下に信長の後継を知らしめる。しかし無名の家柄出身の秀吉が天下人として振舞う事を心良く思わない諸将も多く、佐久間盛政、前田利家、滝川一益らは柴田勝家に与し反秀吉派として秀吉派と対立。両者の武力衝突は避けられない状勢となる。ところが勝家にとって冬に向うこの時期、直ちに雌雄を決する戦いを起こす事ができず、時間稼ぎのために秀吉との間で和議を締結した。
一旦は和議を受け入れた秀吉だが、雪で勝家が動けなくなると和議を無視して近江長浜の柴田勝豊(勝家の養子)を包囲し降伏させ、次いで神戸信孝の岐阜城を包囲し降伏させた。さらに伊勢の滝川一益を攻撃する。見かねた勝家は雪解けを待たず出動を決意。安芸の毛利輝元、四国の長宗我部元親に出撃の要請をすると、富山城の佐々成政に上杉景勝の抑えを依頼し、前年七尾城に入ったばかりの前田利家、利長父子と勝家の甥の佐久間盛政を先発隊として出陣させた。勝家自身は三月九日に出陣。北国街道を南下して近江に進出し、余呉湖の北、柳ケ瀬の内中尾山に布陣。知らせを受けた秀吉は、北畠信雄と蒲生氏郷を一益の抑えとして残し、近江に急行して木之本に布陣した。当初、短期決戦のつもりだった秀吉は、勝家の布陣を見て長期戦を覚悟する。これは、近江に秀吉を釘付けにし、増援部隊の到着を待って包囲し殲滅する作戦を取り、持久戦に持込もうと考えていた勝家に有利な展開だった。この時の両軍の勢力は秀吉軍五〜六万に対し、柴田軍は三万程度だったという。
両軍対峙したまま一月あまり経った頃、岐阜城の神戸信孝に不穏な動きがあるとの知らせで、二万の軍勢を率いて大垣城に向った。こうした事態は秀吉軍に動揺を来たすこととなり、山路将監が敵に寝返るという結果を招いた。この山路将監がもたらした秀吉の不在という情報は、柴田軍を勢いづかせた。なかでも佐久間盛政は「今こそ膠着状態を撃ち破る好機」と余呉湖を迂回し、敵の最前線の背後にある大岩山の敵陣を急襲する作戦を立てた。しかし勝家はその戦術的価値を評価しつつも敵陣深く突出するリスクを考え、難色を示す。だが盛政は執拗に迫り、仕方なく勝家は大岩山を攻略したらすぐ戻るという条件で許可した。
夜陰に乗じ盛政は大岩山を急襲した。砦を守護していた中川清秀の隊は、敵が最前線を素通りして攻めてくるとは夢にも思っていなかったため混乱し、清秀は単独では防ぎきれないと、北の岩崎山にいる高山右近と南の賤ヶ岳に陣を布く桑山重晴に支援を要請。ところが高山隊にも佐久間勢が押し寄せ、賤ヶ岳の桑山隊は柴田勝政隊に牽制され動けず要請は拒絶される。中川清政は単独で砦を死守することを決意し、八倍以上の敵を相手に奮戦し八時間あまり持ちこたえていたが、最後は数十騎を従えて敵に突撃し討死した(一説には自害)。大岩山の砦は陥落。岩崎山の高山右近も陣を引いて羽柴秀長に合流した。賤ヶ岳の桑山重晴も柴田勝政の降伏勧告を受け入れ明け渡す準備にかかった。こうした佐久間隊の奇襲攻撃で羽柴軍に動揺が拡がり、戦線を離脱する者が出始めていた。この窮地を救ったのは、北国勢に備えて坂本城に詰めていた丹羽長秀だった。秀吉不在を聞き琵琶湖を船で助勢に向う途中、賤ヶ岳の異変を察知し、近くの岸に強行上陸。陣を引こうとする桑山重晴を説得、退却を思い留まらせ賤ヶ岳に再布陣する。
一方、大垣にいた秀吉の元にも、柴田軍の急襲を知らせる急使が到着。秀吉はただちに軍を反転させ、北近江に急行する。佐久間盛政は大岩山を攻略したらただちに陣に戻れという勝家の命に背き、あまりにも旨くいった奇襲攻撃で欲を出し占領地に万全の陣を布いて、あわよくば全軍を前進させようと画策。こうして秀吉が戻ってきた時には、突出した形で佐久間隊と柴田勝政隊が賤ヶ岳周辺にいた。即座に状況を把握した秀吉は、慌てて撤退にかかる佐久間隊に追撃をかけるとともに、佐久間隊の撤退を支援する勝政隊への攻撃を開始。この時の追撃戦で大活躍をした秀吉子飼いの近習たちの内、特に活躍し秀吉から感状を受けたものを「賤ヶ岳七本槍」という。
佐久間隊は秀吉軍の攻撃の矢面に立った勝政隊を救援し奮戦していたが、側面を援護するはずだった前田利家隊が突然戦線を離脱。これがきっかけとなり不破隊、金森隊も離脱を始め、柴田軍に大きな動揺が拡がり、戦意を喪失した柴田軍は総崩れとなった。勝家の本陣からも離脱者が続発し、七、八千いた将兵が三千に激減。勝家は戦場を離脱し、本拠地越前北ノ庄での再起を試みるのだったが、勢に乗った秀吉軍はそのまま北ノ庄城を囲んだ。やがて秀吉軍の総攻撃を受けた勝家は奮戦むなしく自害。妻のお市の方(信長の妹)もこの時一緒に命を断ったという。
古戦場・史蹟等
「賤ヶ岳古戦場」
滋賀県木之本町 交通:JR北陸本線木ノ本駅からタクシーで4分(約1,000円)、湖国バスで4分(菅浦線か深坂線、大音下車)賤ヶ岳ロープウェーで山頂直下まで
詳しくは「木ノ本町観光案内」をご覧ください。
「北ノ庄城跡(柴田公園)」
福井市中央一丁目 交通:JR福井駅より徒歩5分
詳しくは「福井市HP」をご覧ください。
1585(天正十三年)
紀州攻め(きしゅうせめ)
主戦場「紀州/紀北」
○羽柴秀吉vs●根来衆・雑賀衆
天正十三(1585)年三月、羽柴秀吉は十余万の大軍を率いて大坂を出陣、根来衆、雑賀衆などの紀州の諸勢力の討伐に向った。この頃の紀州は、紀南・中紀には湯川、畠山、玉置、山本などの諸氏に加え熊野三山の勢力が有り、紀北では根来衆、雑賀衆のほか粉河寺などの勢力が協力し合ったり、敵対するなど複雑に入り乱れていた。こうした中で、秀吉が紀州征伐を行った原因は、根来衆などが和泉地方(大阪府南部)に勢力をのばしたための、いわゆる「泉州知行」を巡っての争いだった。また自治意識の強い紀州の土豪衆と中央集権化を進めていた秀吉との戦いでもあった。
この争いは信長の葬儀が終った天正十(1582)年十月に、秀吉が根来衆などを詰問した時から始り、秀吉自ら出兵する計画を持つが、その後、柴田勝家らとの抗争などで延期されていた。さらに織田信雄、徳川家康と小牧・長久手で争った時、泉南の押えの岸和田城が根来・雑賀衆の一揆勢に攻められ、秀吉は紀州攻めを決意した。
根来・雑賀の衆は、秀吉の大軍が南下してくると、和泉の近木川流域(現貝塚市)のいくつかの砦を固めて迎え撃った。彼等は大量の鉄砲を持ち、操作にも熟達していることでも知られ(雑賀鉄砲衆)、この特技を活かして戦ったが、圧倒的な兵力差からすべての砦が陥落する。この間に、秀吉軍の別働隊が根来寺を攻め、占領する。この時に根来寺から火が出て、全山が焼け落ちた。さらに兵を進めた秀吉軍が雑賀に迫ると、紀ノ川下流域の雑賀荘を中心とする幾つかの郷は、それぞれの砦や城に籠って抵抗を続けるが、秀吉に積極的に協力する者、降伏する者、国外へ脱出する者などが続出し、それぞれの地域で自治を行っていたさしもの雑賀の土豪衆も、秀吉の前に屈することとなった。
太田城攻め
秀吉軍の紀州攻め最後の仕上げが、宮郷の太田党が籠る太田城の攻略となった。この太田城は周囲に土手を設け、要所に櫓を設けただけの平城で、堅城といえるものでは無かったとされるが、秀吉はこの城を高松城と同じように水攻めにし、干殺しの作戦に出た。この小さな城に郷民一千余が立て籠ったといわれ、兵糧攻めに遇えば落ちるのは時間の問題だった。籠城一月余りで、太田党の長老太田二郎左衛門は和議を申し入れ、城主太田左近や主だった重臣、女房五十数名が自刃して開城した。
こうして投降した雑賀衆らは、すべて武装解除され帰農させられた。この秀吉による紀州攻めは刀狩りと兵農分離政策の走りだったともいわれている。
古戦場・史蹟等
「根来寺」
和歌山県那賀郡岩出町根来2286 交通:和歌山線岩出駅よりバス紀伊駅行き根来下車 または阪和線紀伊駅よりバス岩出行き根来下車
詳しくは「岩出町HP」をご覧ください。
「太田城跡」
和歌山市太田、来迎寺境内 交通:JR和歌山駅下車 徒歩10分
現在は、太田城跡に建つ来迎寺境内にその碑があるだけ。当時の大門は市内橋向丁の大立寺の山門として移築され、現在和歌山市の指定文化財として保存されている。
1614・1615(慶長九年・十年)
大坂の陣(おおさかのじん)
主戦場「大坂城」
冬の陣 慶長九(1614)年 △徳川家康vs△豊臣秀頼
夏の陣 慶長十(1516)年 ○徳川家康vs●豊臣秀頼
大坂の陣については、隆慶作品『影武者徳川家康』『捨て童子松平忠輝』に詳しく、改めて述べる必要もないのだが、「通説」とされる経緯と戦の概況を紹介。
江戸に幕府を置き、将軍職を息秀忠に譲り徳川の世襲政権を打ち立てた家康だったが、秀吉の嫡子秀頼のいる大坂城は難攻不落の堅城の上、秀吉が蓄えた莫大な財産が有り、政権を奪取したとはいえ豊臣家は依然脅威だった。家康はまず豊臣家の財産を減らすために、大坂城の実質的な主である淀君の心理を巧みに掻き立て、神社仏閣に多額の金を遣わせた。その際たるものが方広寺の大仏殿再建だった。慶長十九(1614)年四月、その大仏殿が完成し修復の奉行を務めた片桐且元は、竣工式を行うため駿府の家康にそれの報告に訪れた。工事および式の準備は全て幕府の京都所司代監督の下に行われ、何の問題もなく準備万端整った上での、形式だけの報告の筈だった。ところが幕府は鋳造された鐘の銘に難癖をつけ(方広寺鐘銘事件)、式の延期を命じる。これは幕府の挑発で、大坂方はまんまと引っ掛かり主戦派の大野治長らを勢い付かせた。
大坂冬の陣
十月、大坂方に不穏な動きがあるとして家康が譜代、外様大名に出陣を命じた。大坂方は先の関ヶ原の戦いで領地を失い浪人となっていた長宗我部盛親、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛らを召集し、およそ十万の軍勢で迎え撃つ体勢を取る。徳川方は二十万の軍勢で城を囲むが、総攻撃を主張する秀忠に対し、家康は終始示威行動を命じただけだった。この時期の家康は大軍勢で城を囲み相手の戦意を喪失させ、戦わずして豊臣家を臣下に収める心づもりだったという。この時の大きな戦いは、上杉景勝、佐竹義宣の部隊と大坂方木村重成、後藤又兵衛らが今福・鴫野で出合い激戦になった(今福・鴫野の戦い)ものと、外堀に造られた出城真田丸を秀忠の命で蜂須賀至鎮の隊が力攻めをかけ、惨澹たる結果に終った位だった。家康は大坂城の本丸に大砲を打ち込み、充分相手方を恐怖に陥れて、和睦を申し入れた。
この時の和睦の条件はあいまいで、秀頼の領地・身分の保障、淀君を人質として江戸に送らない、籠城した浪人を咎めない、そして大坂城の外堀を埋めるというものだったが、徳川方は約束を破って櫓を破壊し、内堀までをも埋めてしまう。この時大坂方は直ちに抗議を行ったが、工事を指揮した本多正純は父正信の命で詳しいことは知らぬととぼけ、正信は病を理由になかなか会おうとせず、家康はさっさと駿府に戻っていた。やがて全ての工事が終り大坂方の使者に会った正信は、「正純は若くて頼りにならん。わしが病気で臥せっている内に勝手に事を進めてしまったようだ。今更埋めたものを元に戻すこともできぬ。しかし、和睦も成立したことだから、心配することもあるまい」と抜け抜けと言いのけられ、老獪な本多父子に大坂方はまんまとしてやられるだけだった。この堀を埋める作戦は、秀吉が生前家臣たちに「要塞のように頑丈な大坂城は、力攻めでは落すことはできまい。この城を落すには、二つの方法しかない。持久戦に持込んで籠城させ、兵糧の尽きるのを待つ。もしくは、一旦和睦に持込み、その間に堀を埋めて再び攻めこむかだ」と語っていたのを、家康は実行したのだ。こうして難攻不落の大坂城が丸裸にされると、家康は大坂方に浪人の追放と秀頼の大和または伊勢への国替えを迫り、大坂方は再戦に追い込まれていく。そして元和元(1615)年四月、数々の徳川方の理不尽な仕打ちに怒った大坂方が京に火を放ったのをきっかけに、再び戦いが始った。
大坂夏の陣
裸にされた大坂城での籠城戦ができない大坂方は、野戦で迎え撃つべく浪人組を中心に所々に陣を布いた。さらに積極的に討って出るため、堺や近隣の町村に火を放って混乱状態に陥れる作戦に出た。
樫井の戦い
紀州方面に出撃した大野治房隊は、八町畷を経て樫井郡に入ったところで紀州藩浅野長晟の隊と遭遇戦を戦い、大坂浪人組の塙団右衛門がこの戦いで戦死した。
しかし、十五万を擁する徳川軍の敵ではなかった。五月七日、家康は総攻撃を命じる。徳川の大軍勢に次々と大坂方の部隊は撃破され、唯一真田幸村が率いる部隊が家康の本陣目がけて奮戦し、あわやの距離まで肉迫するも及ばず、真田隊は壊滅した。これを機に大坂方は総崩れとなり、さらに徳川方に通じていた台所頭による放火で、大坂城が火に包まれると徳川勢は城に雪崩れ込んだ。覚悟を決めた秀頼は、一縷の望みを託して秀忠の長女である妻の千姫を脱出させる。千姫は徳川方の武将坂崎直盛に保護され、秀頼と淀君の助命を嘆願するが聞き入れられなかった。翌八日、大坂城は焼け落ち、秀頼・淀君母子は炎の中で自害し果てたという。秀頼二十三歳、淀君は四十一歳だった。
以上が史実に基づいた「大坂の陣」の概況だが、多くの庶民は秀頼や真田幸村らの討死を信じなかった。そこには秀頼の遺体が確認されていないことや、幸村の戦術家としての能力が高く評価されていて、後に真田十勇士の伝説が生まれるように優秀な部下を多く抱えた幸村は、影武者を使って何度も幸村死すの誤報を生じさせていることから、「夏の陣」においても討死したのは影武者で、幸村自身は生き延び、大坂城が陥落する直前に秀頼を伴って脱出したと信じられている。これらは庶民の判官贔屓からくる願望だが、講談や『真田三代記』のフィクションの世界で彼等は生き続けた。
[大坂役の首帳]
○大坂の戦に木村長門守重成が家来、松浦弥右衛門、堀田図書勝嘉が家来浅部清兵衛、二人共に敵を斬りて首をとりたり。秀頼公の右筆、白井甚兵衛その日首帳の役たり。松浦はやく首をもち来りて、一番と記し玉へといふ。白井首一つ松浦弥右衛門と斗かきて、一番としるさず。松浦いかれども、白井きゝいれず。しかる処へ、浅部又くび一つをもち来る。白井せんぎするに、浅部は首をとりし場、松浦よりくび帳の場へ遠し。くびをとりし時刻は松浦より殊外はやし。其証拠分明なるゆへ、浅部を一番としるせり。白井松浦にむかひて、二の首を待たで、一の首をしるす事、首帳をつくる故実なり。(『見聞談叢』)
[大坂冬陣堀埋の事]
○大坂冬陣に、東照宮京へかへらせ玉ひ、和談の印に総堀をうずめらる。本多上野介侯正純奉行たり。そとぼり一重うづめをわりて、又内ぼりにかゝる処に、城中より一重ばかりの約束なり。内ぼりの事にあらずと制すれども、正純公、総様皆うづむべし。一重ばかりと云ふは、こゝろ得あやまりとて、耳にもきゝいれず。こはいかにと驚きて、淀殿より阿玉の局を使として、正純にまづ役人をやめよと云ひ出されければ、正純阿玉の局に対してかくの返事はいわず、あわれ美女なる哉、願くは盃を玉わらんと云。阿玉いへるは野州狂気せられたるかわれは淀殿よりの使なるに、何ぞ無礼なると、いかりけれども、猶艶語どもなるによりて、せんかたなく城中へかへりて、しか/\〃と申す。淀殿京へ使をたて玉ひ成瀬隼人につゐて源君にうつたへんとす。隼人正いへるは、われらははじめより、此事をぞんぜず候。本多佐渡守令をきひて、其子上野介下知いたし候。佐渡守につゐてたつせられよとて取りあゑず、佐渡侯の宅に至れば、病気と称して対面せず。使の往来日かずをへる間に人足をまして、ほりはのこらず埋みたり。其後佐渡侯大坂にゆきて、わざとおどろくまねして、倅壮年なるによりて何の分別もなく、かゝる粗忽を仕り候。老臣をりふし病気、この事をつまびらかにうけ玉はりとゞけず。後悔今は益なく候。又あらためてこの堀をほるは、うづむより十ばいのついゑに候。すでに御和睦に極り、太平の上は、ふたゝび兵をうごかさずとの吉ずいなるべし。何の御心を労せる事かあらんと云つて帰り玉ひぬ。(『見聞談叢』)
古戦場・史蹟等
「大坂城」 大阪市中央区大坂城 交通:地下鉄【谷町線】天満橋、谷町4丁目【中央線】森ノ宮、谷町4丁目
詳しくは「大阪観光案内」をご覧ください。
中国・四国
939〜941(天慶二年〜天慶四年)
藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)
この乱と「平将門の乱」を併せて「承平・天慶の乱」とも言う。
西国では伊予日振島を本拠とした海賊が、大和政権と大陸・半島を結ぶ大動脈である瀬戸内海で掠奪・焼き打ちなどを繰り返し、しばしば政権を揺さぶっていた。この事態を受けて、承平六年(936)、海賊追捕の命を受けた伊予掾藤原純友が、伊予国警護使として現地に下った、
その純友が、東国の「将門の乱」に呼応するかのように、海賊の首領となって叛乱を起こした。天慶二年の末、備中を襲い、淡路を襲撃して兵器を奪い、備前・播磨の国司を純友軍が摂津で捕らえ、叛乱軍は畿内にまで迫る。その後も純友軍は瀬戸内海の制海権を握り、関東で将門の乱が鎮定した後も活発な動きを行なっていた。八月には伊予・讃岐を四百余艘の水軍で襲撃、備前・備後の兵船を焼き払った。十月には太宰府の追捕師使の軍を打ち負かし、太宰府を焼いた。十一月、周防の鋳戦司を焼くなど、中央政権の要衝を執拗に攻めるが、翌四年(941)五月、征西大将軍が任命され、追捕使小野好古、源経基などによって誅殺され、ようやく乱は終息した。
1582(天正十年)
高松城水攻め(たかまつじょうみずぜめ)
主戦場「備中/高松城」
○羽柴秀吉vs●清水宗治
天正十(1582)年四月、信長の命を受けた羽柴秀吉は毛利討伐のため中国方面軍を率いて姫路城に入城し、そこを拠点として毛利の属将清水宗治の居城備中高松城を攻める。高松城は現在の岡山市西方吉備郡高松にあった城で、東西および北に沼が有り南には足守川が流れる天然の要害の地にあり、毛利方が備中支配の拠点としていた。秀吉は自らの軍二万と宇喜多軍一万の三万の軍勢で高松城を包囲した。
秀吉は当初正攻法で攻めるが、被害が大きいため翌五月に入ると水攻めに作戦を変更。高松城は低湿地に造られた平城で、足守川の下流を堰きとめれば城が水浸しになることを計算し、八日から堤を築き始め十九日にはそれを完成させた。こうして、高松城を人工的に造った湖に孤立させる。援軍に駆けつけた毛利軍一万も手の出しようが無かったという。こうして最後の詰めを信長に託そうと、秀吉は援軍を要請した。ところが信長は、明智光秀に援軍を命じた。この信長の措置が光秀の謀叛を招き、本能寺で明智の軍勢に攻められ(本能寺の変)自害することとなるのだった。
手柄を全て信長に渡すつもりで、毛利方と交渉しながら信長の到着を待っていた秀吉の陣に、六月三日の夜、不審な男が侵入し捕えられた。男は毛利方の陣と間違えて秀吉の陣に入り込んだ明智の密使で、毛利軍参謀小早川隆景に宛てた密書を携えていた。そこには、本能寺で信長を誅殺した旨が記されていた。驚きとともに悲しみに暮れた秀吉だったが、すぐさま京都に戻り光秀を討とうと決意し、すばやく現実的な行動に出る。先ず海上と街道を軍勢をもって封鎖し、毛利方に異変を知らせぬ厳重な情報管制を布いた。続いて毛利軍との和議の折衝に入り、信長の死を秘すばかりか間もなく信長が下向して来るかのごとく振るまい、信長本隊が到着してから和議に入るのでは遅すぎると敵を欺いて交渉した。その結果、毛利側の使者安国寺恵瓊は秀吉の提案を受け入れ、高松城主清水宗治の命と引替えに城の兵たちの命は助けられるという条件で和議は成立した。五日には和議の儀式が行われ、堤防が切り崩され毛利軍も撤退を始めた。翌六日には高松城の包囲を解いた秀吉は、京に戻るべく移動を始めたのであった。
この時の秀吉の行動は、まさに綱渡り的で、水攻めとともに和平交渉に入っていたことが幸いしていたと、小和田哲男氏は著書のなかで述べている。
古戦場・史蹟等
「備中高松城跡」
岡山県岡山市高松 交通:JR吉備線備中高松駅下車 徒歩10分
「高松城水攻築堤跡」 岡山県岡山市高松 交通:JR吉備線備中高松駅下車 徒歩10分
詳しくは「岡山市HP」をご覧ください。
九州(含沖縄)
527〜528
磐井の乱(いわいのらん)
主戦場「筑紫国御井郡」
●筑紫国造磐井vs○大和朝廷軍物部麁鹿火
四世紀から五世紀にかけて、大和の豪族連合大和政権がほぼ国内の統一を終え大和朝廷(倭国)を建て、半島の任那にも拠点を構え、半島への覇権を目指すが、三韓の一つ新羅が台頭し、六世紀初頭には新羅は任那への侵攻を始める。それに対して大和朝廷は新羅征討の軍を、継体天皇の二十一年(527)、派遣することにする。しかし、北九州地域に強大な勢力を持つ筑紫の豪族磐井は、半島での強力な勢力となってきた新羅と結び、反大和の姿勢を明確化した。磐井は大和朝廷により筑紫国の国造に任命されていたが、朝廷よりも半島との交流が古く独自の行動をとったのだった。こうした磐井の反乱に、大和政権は物部大連麁鹿火に命じて、磐井征討の軍を送り、翌528年、筑紫国御井郡で両軍が戦い、朝廷軍に包囲された磐井が自刃したことで朝廷軍の勝利に終った。
『日本書紀』継体天皇の部二十一、二年の条には、下記のように記されている。
「廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率Ⅱ衆六萬Ⅰ、欲下往Ⅱ任那Ⅰ為Ⅱ復興建新羅所レ破南加羅・碌(正しくは口篇)己呑Ⅰ而合中任那上。於是筑紫国造磐井、陰謨Ⅱ叛逆Ⅰ、猶預経レ年。恐Ⅱ事難Ⅰレ成、恆伺Ⅱ間隙Ⅰ。新羅知レ是、密行Ⅱ貨賂于磐井所Ⅰ、而勧防Ⅱ遏毛野臣軍Ⅰ。於是磐井掩Ⅱ據火豊二国Ⅰ、勿Ⅱ使修職Ⅰ。外邀Ⅱ海路Ⅰ、誘Ⅱ致高麗・百済・新羅・任那等国年貢レ職船Ⅰ、内遮下遣Ⅱ任那Ⅰ毛野臣軍上、乱語揚言曰、今為Ⅱ使者Ⅰ、昔為Ⅱ吾伴Ⅰ、摩レ肩触レ肘、共器同食。安得四率爾為レ使俾Ⅲ余自Ⅱ伏爾(元字は人篇)前Ⅰ、逐戦而不レ受。驕而自衿。是以毛野臣、乃見Ⅱ防遏Ⅰ、中途淹滞。天皇詔Ⅱ大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等Ⅰ曰、筑紫磐井反掩、有Ⅱ西戎之地Ⅰ。今誰可レ将者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通Ⅱ於兵事Ⅰ、今無レ出Ⅱ於麁鹿火右Ⅰ。天皇曰、可。○秋八月辛卯朔、詔曰、咨大連、惟茲磐井弗レ率。汝徂征。物部麁鹿火大連再拝言、嗟、夫磐井西戎之奸猾。負Ⅱ川阻Ⅰ而不レ庭。憑Ⅱ山峻Ⅰ而稱レ乱。敗レ徳反レ道。侮慢(正しくは女篇)自賢。在昔道臣、爰及Ⅱ室屋Ⅰ、助レ帝而罰。拯Ⅱ民塗炭Ⅰ、彼此一時。唯天所レ贊、臣恆所レ重。能不Ⅱ恭伐Ⅰ。詔曰、良将之軍也、施レ恩推レ恵、恕レ己治レ人。攻如Ⅱ河決Ⅰ。戦如Ⅱ風発Ⅰ。重詔曰、大将民之司命。社稜存亡、於是乎在。助(元字は日冠)哉。恭行Ⅱ天罰Ⅰ。天皇親操Ⅱ斧鉞Ⅰ、授Ⅱ大連Ⅰ曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。専行Ⅱ賞罰Ⅰ。勿Ⅱ煩頻奏Ⅰ。
廿二年冬十一月寅朔甲子、大将軍物部大連麁鹿火、親與Ⅱ賊帥磐井Ⅰ、交Ⅱ戦於筑紫御井郡Ⅰ。旗鼓相望、埃塵相接。決Ⅱ機両陣之間Ⅰ、不レ避Ⅱ萬死之地Ⅰ。遂斬Ⅱ磐井Ⅰ、果定Ⅱ彊場Ⅰ。○十二月、筑紫君葛子、恐Ⅱ坐レ父誅Ⅰ、獻Ⅱ糟屋屯倉Ⅰ、求レ贖Ⅱ死罪Ⅰ。
(二十一年の夏の壬辰の朔甲午(三日)に、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が六万の軍兵をひきいて任那におもむき、新羅に破られた南加羅(ありしひのから)・碌己呑(とくことん:いずれも任那の国名)を再興して任那に合わせようとした。筑紫国造磐井は、かねて叛逆を企て、事が失敗するのを恐れてためらいつつもすきをうかがっていたが、新羅はこれを知ってひそかに賄賂を磐井におくり、毛野臣の軍を防ぐようにと勧めた。そこで磐井は、火(佐賀県・長崎県・熊本県)・豊(福岡県東部・大分県)の二国にも勢いを張って朝廷の命をうけず、海路を遮断して高麗(高句羅)・百済・新羅・任那などの国の毎年の朝貢の船をあざむき奪い、任那に派遣する毛野臣の軍を抑えて、「今は使者だなどといっているが、昔はおれの同輩で肩肘触れあわせ、ひとつ食器で食事をしたものだ。急に使者になったからといって、そうおめおめと従うものか」と豪語し、交戦して従わず、気勢がさかんであった。このため毛野臣は前進をはばまれ、中途に滞留した。天皇は、大伴大連金村(おおとものおおむらじかなむら)・物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかい)・許勢大臣男人(こせのおおおみおひと)らに詔して、「筑紫の磐井が反乱し、西辺の地を占領している。だれを将軍としたらよかろう」といわれた。大伴大連らがみな、「正直で仁慈も勇気もあり、軍事に精通しているという点で、麁鹿火の右に出る者はございません」と申しあげたところ、天皇は、「よろしい」といわれた。
秋八月の辛卯の朔に、詔して、「大連よ、磐井が従おうとしない。おまえが征討せよ」といわれた。物部麁鹿火大連は再拝して、「磐井は西辺の奸賊で、嶮岨な山川をたのんで反乱し、道義にそむき、おごりたかぶっております。道臣(大伴氏の祖。神武天皇に仕えたとされる)の昔から室屋(大伴室屋。金村の祖父)にいたるまで、武将が天子を助けて征伐し、民の苦しみを救うことに変りはございません。ただ天の助けのみを、私はいつも大切に思っております。つつしんで命を拝し、征伐いたしましょう」と申あげた。天皇は詔して、「名将は出陣にあたっては将士を恵み、思いやりをかける。そして川が決壊する勢いで攻め、風の吹きおこり勢いで戦うものだ」といわれ、重ねて、「大将は民の生命を左右する者で、国の存亡もここにかかっている。しっかりせよ。つつしんで天罰を行なうのだ」といわれた。天皇はみずから斧鉞を取って大連に授け、「長門(山口県)から東は自分が統治しよう。筑紫(福岡県)から西はおまえが統治し、思いのままに賞罰を行なえ。一々奏上する必要はない」といわれた。
二十二年の冬十一月の朔甲子(十一日)に、大将軍物部大連麁鹿火は、みずから賊の首領磐井と筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し、軍勢のかき立てる埃塵も入りみだれた。両軍は勝機をつかもうと必死に戦ってゆずらなかったが、麁鹿火はついに磐井を斬り、反乱を完全に鎮定した。
十二月に、筑紫君葛子は、父(磐井)に連座して誅せられるのを恐れ、粕屋屯倉(福岡県粕屋郡)を献上して死罪を購う(財物を出して罪を免除される)ことをこうた。)
1570(永禄十二年)
今山合戦(いまやまかっせん)
主戦場「肥前国今山」
○竜造寺隆信vs●大友宗鱗
永禄十二年(1569)、豊前の大友宗麟は六万の大軍を率いて肥前征服の軍を起し、龍造寺氏の籠る佐賀城を陥落寸前まで追い詰めたが、中国の毛利氏がその虚に乗じて九州進出を図ったため、兵を一旦撤退させた。そして、翌元亀二年(1570)、再び肥前への侵攻を行い、肥前国今山に陣を構えた。この時、龍造寺信隆の将鍋島信昌(直茂)は大友軍の本陣に夜襲をかけ、宗麟の甥親貞を討ち取るなどの成果で大軍を混乱に落とし入れ、大友軍を撤退させた。この戦い以後、龍造寺氏は勢力を盛り返し、肥前全域を手中に収め大友・島津両氏とともに九州の雄として君臨することになる。
1584(天正十二年)
島原の戦い(しまばらのたたかい)
主戦場「島原/沖田畷」
●竜造寺隆信vs○島津家久・有馬鎮貴(晴信)
肥前を中心に九州北部をほぼ調略しつつ有った龍造寺隆信と、九州南部から更に勢力を北に拡大しつつあった島津義久との、九州の覇権を巡る一大決戦といわれる戦い。主に島原半島の森岳城の近く、沖田畷で戦った事から「沖田畷の戦い」あるいは「森岳の戦い」とも言われる。
天正十二年(1584)、島原を領する有馬鎮貴は肥前の龍造寺隆信に圧迫され、予て北上の機会を狙っていた薩摩の島津義久と連携して龍造寺軍に抵抗した。こうした動きを封ずるため龍造寺隆信は六万の大軍をもって島原半島に進出。対する島津義久は弟家久を総大将として救援に向わせ、龍造寺軍を迎え打った。
「島津中務(家久)ヲ大将分ニテ三千人、天正十二年甲申三月中旬ノ比、有馬村日野江ノ城迄被Ⅱ致(到)著Ⅰ候。扨又有馬人数モ三千人、都合六千人ナリ。然シテ晴信公、中務・安留越中、其外武功ノ者共ヲ集メ、軍ノ評定有レ之。晴信ト誰者島原森岳マテ出張、敵ヲ平場ヘ待受、有無ノ合戦ヲ可レ致由申候ヲ、中務ヲ始一同ニ可レ然由ナリ。如レ儀催、森岳ニ備ヘ相究候処ニ、隆信六万ノ人数ニテ、三会村迄押寄候ノ由、天正十二年甲申三月廿三日ニ注進有レ之ニ付、森岳ヘ出張。諸勢ニ向ヒ、定テ、明日可レ有Ⅱ合戦Ⅰ。然ハ明日ハ懸戦時者不レ得Ⅱ勝利Ⅰ、待テ戦時ハ大ニ利ヲ得ル日ナリ。仮令、敵頭ニフミカゝリ候トモ、旗本ヨリ具不レ立先ニハ、必ス合戦ヲ初メ申マシ。敵大軍ニテ候間、味方一人ニ敵十人宛可Ⅱ討取Ⅰ、運ヲ開クニ於テハ、高名ノ上中下、後日ニ可レ有Ⅱ其沙汰Ⅰ之由、晴信直ニ下知有テ、則チ森岳ノ麓ニ備ヲ立。」(『有馬晴信記』)
と有るように、龍造寺軍六万の大軍に、島津・有馬連合軍は六千の寡兵で待ち受け、隆信の首を取り勝利した。
1637(寛永十四年)
島原の乱(しまばらのらん)
主戦場「島原/原城」
●キリシタン一揆衆vs○松浦藩・徳川幕府
乱・変・合戦一覧(五十音インデクス)
あ
あさくらぜめ 朝倉攻め 北陸・中部・東海
あねかわのかっせん 姉川の合戦 関西
いしやまかっせん 石山合戦 関西
いまやまかっせん 今山合戦 九州
いわいのらん 磐井の乱 九州
うえすぎぜんしゅうのらん 上杉禅秀の乱 関東
えいきょうのらん 永享の乱 関東
えこだはらのかっせん 江古田原の合戦 関東
おうにんのらん 応仁の乱 全国
おおさかのじん 大坂の陣 関西
おおたどうかんのあんさつ 太田道灌の暗殺 関東
おおぶくろはらのかっせん 大袋原の合戦 関東
おけはざわのかっせん 桶狭間の合戦 北陸・中部・東海
おざわはらのたたかい 小沢原の戦い 関東
おたてのらん 御館の乱 北陸・中部・東海
おたにじょうぜめ 小谷城攻め 関西
おだわらのじん 小田原の陣 関東
おやましのらん 小山氏の乱 関東
か
かわごえのやせん 河越の夜戦 関東
かわなかじまのたたかい 川中島の戦い 北陸・中部・東海
かんおうのじょうらん 観応の擾乱 全国
きしゅうぜめ 紀州攻め 関西
きょうとくのらん 享徳の乱 関東
こうあんのえき 弘安の役 広域
こうのだいのかっせん 国府台の合戦 関東
こうのだいのかっせん2 国府台合戦・第二次 関東
ごさんねんのえき 後三年の役 関東
こまき・ながくてのたたかい 小牧・長久手の戦い 北陸・中部・東海
さ
さどぜめ 佐渡攻め 北陸・中部・東海
しずがたけのかっせん 賤ヶ岳の合戦 関西
しまばらのたたかい 島原の戦い 九州
しまばらのらん 島原の乱 九州
しもつきそうどう 霜月騒動 関東
じんしんのらん 壬申の乱 北陸・中部・東海
せきがはらのたたかい 関ヶ原の戦い 北陸・中部・東海
ぜんくねんのえき 前九年の役 東北
そが・もののべのあらそい 蘇我・物部の争い 関西
た
たいらのただつねのらん 平忠常の乱 関東
たいらのまさかどのらん 平将門の乱 関東
たかてんじんじょうぜめ 高天神城攻め 北陸・中部・東海
たかなわはらのたたかい 高輪原の戦い 関東
たかまつじょうみずぜめ 高松城水攻め 中国・四国
たちがわらのかっせん 立河原の合戦 関東
ちょうきょうのらん 長享の乱 関東
ちょうせんのえき 朝鮮の役 広域
な
ながおはるかげのらん 長尾景春の乱 関東
ながしののたたかい 長篠の戦い 北陸.中部・東海
ながしまぜめ 長島攻め 北陸・中部・東海
は
ひえいざんやきうち 比叡山焼打ち 関西
ふしゅうのらん 俘囚の乱 関東
ぶばいがわらのかっせん 分倍河原の合戦 関東
ぶんえいのえき 文永の役 広域
へいいっきのらん 平一揆の乱 関東
ほんのうじのへん 本能寺の変 関西
ま・や・ら・わ
みかたがはらのたたかい 三方ケ原の戦い 北陸・中部・東海
むさしのくにのみやつこのらん 武蔵国造の乱 関東
むさしののかっせん 武蔵野の合戦 関東
もがみのたたかい 最上の戦い 東北
やぐちのぼうりゃく 矢口の謀略 関東
やまさきのかっせん 山崎の合戦 関西
わだよしもりのらん 和田義盛の乱(和田合戦)関東

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