巻之四(全文)
『山崎長門守詫美越前守討死の事』 天正元年江北の軍に朝倉敗しかば、信長の兵追事急なり。朝倉が士大将山崎長門守、詫美越前守柳瀬にてふみ止り支へけるに、はげまされて返し合せて討死する者多し。山崎も大軍の中にかけ入て討れけり。詫美矢立の硯とり出し、詩一首書て、落ゆく者にたのみて故郷にかへしけり。
萬恨千悲有驀然誰識今夜入黄泉故園更莫レ灑愁涙屍暴戦場唯是天
かくて散々に戦ひて討死しける。其の間に義景のがれ得て、越府にひきとれり。
『中川重秀和田惟政を撃つ事』 天正元年将軍義昭、織田信長と不和の事出来て、和田伊賀守惟政、将軍の味方して摂津の国に陣す。信長和田を始として、誰某が首とりたらん者にはしか/\〃可レ賞、と書記して札を立られたり。中川瀬兵衛重秀、此時は荒木村重に属したりけるが、此の札を打見筆とりて、和田が名に点をかけ、自姓名をしるし家に帰り、妻に向ひ事の由を語りて、萬一生て帰りなば又こそ見参すべけれ、といひしに、妻聊患る色なく、さらば軍の門出祝たまへ、とて羹すゝめ酒とり出したり。其の夜子の刻ばかりに、伊賀守が首とつて来りけり。村重大におどろき、いかでかくたやすう和田をば討得たるぞ、といふ。重秀、さん候。明日必ず戦を決すべし。されば討るゝ者少かるべからず。同じく死むいのちを此夜の中にすてなんには、和田が首とり得つべし。敵も明日の合戦を大事に思ひ淀河の浅深をふみ見んに、惟政さる大将なり、物見をたのむべからず。自ら来らんは必定なり、あつぱれ討とらんず物を、もし又討死せば多くの敵の中に入て、大将の首とらんとて討死したりと人いはんは、武名は朽じと思ひ定め、水をわたりあなたの岸の柳かげにふしかくれてまつ。案の如く和田二陣にひかへて出来るをまぎれ入り、終にうちとりて水中に飛入、のがれ得て帰ぬ、と申ければ、人々感じあへる事大方ならず。
『梶川弥三郎槙嶋先陣の事』 天正元年信長霊陽院殿を宇治の槙嶋の城に攻る時、折しも雨ふりて川水岸をひたせり。信長馬を水涯に駐て、昔の梶原佐々木も鬼神にてはよもあらじ、といはるゝ処に、武者一騎川へうち入たるを見て、梶川弥三郎高盛なるべし。梶川討すな渉せ、と下知して、それよりわれ先にとうち入てわたしけり。此の戦の前に信長黒の馬を梶川にあたへらる。其の時信長、梶川が志重ての軍に真先かけんずる者なり、とあざ笑ひていはれしが、果して其の詞にたがはざりけり。
『山内一豊馬を買れし事』 山内土佐守一豊其はじめ織田家に仕へたりけり。東国第一の駿馬なりとて、安土に牽来てあきなふ者あり。織田家の士是を見るに、誠に無双の駿足なれど、価あまりに貴し、とて求むべき人なく、いたづらに牽て帰らんとす。一豊其の比猪右衛門といひしが、此の馬望みに堪かねたれども、いかにも叶ふべからざれば家に帰り、身貧きほど口惜き事はなし。一豊奉公の初にあつぱれかゝる馬に乗て、屋形の前に打出べき物を、とひとり言しければ、妻つくか/\〃と聞て、其価はいかばかりにてか候、と問ふ。黄金十両とこそいひつれ、と答ふ。妻聞て、さほどに思ひ給はんには、其馬求め給へ。其料をばゐらすべし、とて鏡の奩の底よりとり出して、一豊が前にさし置たり。一豊大におどろき、此年ごろ身貧しくて苦しき事のみ多かりしに、此の金ありともしらせたまはず。心強くも包み給ひけん。今此馬得べしとは思ひもよらざりき、と且は悦び且は恨む。妻仰の旨ことわりにてこそ候へ。さりながらこれはわらは此御家に参りし時、父此かゞみの下に入れ給ひて、あなかしこ、よの常の事にゆめ/\用ふべからず。汝が夫の一大事とあらん時にまゐらせよ、と戒めたまひ候き。されば家の貧しきも世の常なれば堪忍ても過ぬべし。誠に今度京にて馬揃あるべしと承れば、此事天下の見物なり、君も又つかへの始なり。よい馬召て具参せさせまうさんと存候てこそ奉れ、といふ。一豊悦ぶ事限なく、頓て其馬求めてけり。程なく京にて馬揃ありし時打乗て出しかば、信長大におどろき、あつぱれ馬や、とて事の由聞給ひ、東国第一の馬遥にわが方にひきて来りしを、空しく帰さんは口をしき事ぞとよ。それに年比山内は久しく浪人して有しと聞く。家も貧しからんに求得たるは、信長が家の恥をすゝぎたるうへ、弓箭とる身のたしなみ是に過たる事やある、と感じて、是より次第に用ひられしとぞ。
『奥平貞能父子帰降の事』 天正元年三河作手筑手の城主奥平監物貞勝入道道文、其子美作守貞能、孫九六郎信昌、皆勇気たくましき人にて有しに、近ごろ道文は武田家に心をよせ、勝頼の士大将甘利の作手の本丸におき、奥平父子は外郭に在り。信昌信玄の死したる事をかくせるを悟り居し処に、東照宮より本多豊後守廣孝を以て帰降の事をすゝめ給ふ。信昌父と大父とにすゝめて密約をなす。武田家奥平に人質を出せよ、と下知せらる。貞能いかにもすべき謀なくて、庶子千丸十三歳になりけるを、黒屋甚九郎をそへて出しけり。東照宮を不意に襲打べき謀を家臣を以て告奉る。武田にも是をあやしみ、土屋右衛門直村黒瀬に在けるが、使を以て貞能を呼よせ、勝頼の検使城所道寿も出向ひ、二心ある由聞ゆる所に、とくも来られけるよ。神妙にこそ、と詞をかくる。貞能、かゝる時には父子の間も疑ひ思ふ事世のならひなり。然れ共愛子にて候千丸を人じちに出し候へば、何の子細の有べきや、と駭くいろなければ、いざ碁をうたん、といふ。貞能心しづかに碁をうち終り、暇乞して門外に出るを、道寿又よびもどし湯漬飯を出す。貞能之を食するひまに、道寿士を門外に出し、待居たる貞能が士に向ひて、主人叛逆あらはれ、唯今討れし由をいはせけれども、奥平六兵衛うちわらひて更に駭くいろなし。これは貞能素より武田方にていかなる事をいふとも、吾首を見ざる中は驚く事なかれ、と固くいひふくめし故なりけり。かくたばかりすまして、貞能馳帰り、其夜一族打具して退散し、岩崎に赴ければ、松平主殿助伊忠、本多豊後守廣孝等、東照宮の仰を奉り出迎ひて滝山に引とりけり。
『東照宮大井城御退口大久保忠世高名の事』
天正二年四月、東照宮天野宮内左衛門景貫が大井の城を攻させ給ふ時、霖雨にて兵粮運送の便よからず。三倉の砦にひきとらせ給ふ処を、天野討て出、つけしたふ。高山光明の城々よりも出あひ、田野大窪の郷民も相加はり、こゝかしこより鉄砲をうちかけ、声をあげて攻かゝる。後殿の人々あまた討れしをしろしめさず。東照宮三倉にて聞し召引返させたまへば、はや敵引とりたり。玉井善太郎後殿しけるが、股を鉄砲にてうたせ、御あとをしたひて三倉にまゐりければ、手負たるか。あとに鉄砲の音せしをあやしく思ひしに軍有けるよ。此馬にのれ、と仰られ、御馬よりおりさせ給ひけり。人々君の士をいたはらせ給ふに感ぜざる者なし。大久保七郎右衛門忠世が同心杉浦久蔵(一説、惣左衛門久勝に作る)深手おひたりしに、七郎左衛門馬より飛おり、是に乗て引しりぞけ、といふ。久蔵うつけたる馬の下り所かな。わが如き者はいか計討れたり共何事かあらん。大将たる人の馬ばなれする物かは。八幡も照覧あれ、乗まじい、といへば、七郎右衛門礼義も所によるぞとくとく、といへば、久蔵、われ此馬に乗て生き、大将をすて殺してはいかゞせん、とて乗ざれば、七郎右衛門、いなゝらば馬をすつるよ、といひすてゝひかんとする処に、小玉甚内(一説石上兎角)馳来り、七郎右衛門は早のきたるぞ、といひて久蔵をひきたて馬に打のせ、やがて七郎右衛門に走りつきたり。七郎右衛門には兵藤弥惣と犬わかといふ小者と三人打つれて、細道の崖を引返し処に、跡より退来る者七郎右衛門をつきおとす。二人もつゞいて飛ける所に、犬わかあげ羽の蝶のさし物を持たるを投すてたるを、敵見てこれをとらんとする所を、弥惣走り懸りかなぐりとらんとすれば、敵弥惣を一ト刀切たりけるに、七郎右衛門とつて返し敵三人打取たり。東照宮、剛将の下に弱兵なし、と忠世を御賞美ありけり。
『渡邊守綱を鎗半蔵といふ事』 東照宮と武田の兵と大天龍にての戦に、近藤伝次郎手おひて渡邊半蔵守綱を見かけ、手おひたるぞつれて退よ、といふ。心得たり、とて手に提げたる首を投すてゝ、伝次郎を肩にかけ、三里あまり引退てたすけければ、東照宮聞召し、味方一騎討るれば敵千騎の強みといふ事あり。味方をたすけたるは七度の鎗を合せたるよりもまされり。今より後鎗半蔵といふべし、と仰あり。後に半蔵人にかたりていはく、伝次郎をわれなればこそたすけたれ。何としてのけおほすべき。かゝる時は大かたたすくる体にもてなし、刺殺して棄らるべし。味方なればとて頼みにはならぬものよ、といひしなり。
又一説、永禄五年九月参河の八幡にて、今川氏真と三河の軍戦有りて利あらず、二手にわかれて引退く。敵急に追かくる。半蔵守綱、石川新九郎返し合せ三度鎗を合す。後には半蔵一人十度に及て小返しして又三度鎗を合す。矢田作十郎足をいたみ引かねたるを、半蔵肩にひきかけて退けり。これより鎗半蔵と人にいはれしといへり。半蔵弟を半十郎政綱といふ。後新五左衛門といふ。味方原の軍に草鞋の緒のとけたるを下に居て結びけるを、半蔵いそげども心しづかにむすびて引とれり。兄の半蔵聞ゆる剛の者なるが、半十郎がごときしぶとき者はつひに見ず、と常に語りけるとぞ。
『謙信単騎佐野城に入られし事』 天正二年北條氏政、三萬の兵をもて佐野政綱をかこまるゝと聞て、謙信八千計の兵をひきゐ後詰せられけり。城危しと聞えければ、謙信、後巻はわれにおとらぬ士大将あまたあれば心やすし。佐野の城にかけ入て力をそなへん、とて物の具も著ず、黒き木綿の胴服をうちかぶり、十文字の鎗を横たへ、僅に十三騎ひき具し、氏政の陣の前を馬を静にあゆませ、佐野の軍兵見て、夜叉羅刹とは是なるべし、とて恐れて近づく者もなし。氏政囲をといて引退くを、謙信やがて門をひらかせたまへども、氏政一軍もせで引しりぞきけり。
『大河内政房節義の事』 天正二年勝頼高天神の城を囲んと師を出す。小笠原與八郎長忠、軍の目付大河内源三郎政房と相議して防ぎけり。東照宮後詰を信長にこはせ給ふ。勝頼城の巽の嶺に陣し、大文字の旗を中村の内公文といふ所に立る、後まで其地を大旗と称す。兵粮竭士卒疲るれば後巻を待かね、姉川の専功を捨させ給ふ、と怒て七月二日城を出て降参す。軍の目付大河内政房は、應政公の妾華陽院の甥なり。勝頼に降らざりしかば、小笠原生どりて石の牢に入置たり。勝頼降らば本領に倍してあて行ふべし、と説せけれども志を変ぜず。勝頼怒て牢の口を鎖す。政房、ことしより高天神落城に及ぶまで八年の間牢中にあり。甲斐の士、横田甚五郎高天神に来て在番せしが、大河内が節義を深く感じ、殊にねんごろにいたはりたり。かくて東照宮高天神を攻させ給ひて、天正九年三月廿二日の夜、城の守将岡部丹後真幸、横田甚五郎尹松、相木市兵衛昌朝已げ切て出、岡部は討死し、横田、相木は切ぬけて甲府に落行けり。城落ければ石川伯耆守数正城に入て政房を捜し出す。牢中に年久しく有て足痿ければ、むしろにのせて東照宮の御前に出す。多年石の牢に有し艱厄いふべからず、とて御涙を流され、御手づから刀、脇差、黄金をあたへらるゝに、政房生どられし事を口惜く思へる色あらはれしかば、人々、敵のとりことなる事は小笠原が不義にして武田に降参せし故なれば、何方にのがれ出づべきや。志は比類有まじき事なれば、生どりと成ぬる事なかなかほまれとなりたり、と口々にいひけるが、猶も其の心に憤りけん、剃髪して肖空と称せしが、仰によりて尾張の津島の湯に浴し、足の痿も愈ければ、遠州稗原の地を賜りしが、長久手の戦に討死しけるとぞ。
『鳥居強右衛門忠節の事』 天正三年勝頼奥平平九八郎信昌が三州長篠の城をかこみ攻る。東照宮援兵を織田家にこはせ給ひ、後巻の謀をめぐらし給ふ処に、城中粮米既に尽んとせしかば、此旨を告奉らん為、鳥井(ママ)強右衛門勝商に命じて密に城を出す。鳥居のがれ出る事を得ば、向のかんほうが嶺に烟をあぐべし。三日過て又かの山に烟を両度あげば、後巻なしとしり給ふべし。三度あげなば後巻ある事をしり給へ、と約しければ、信昌鈴木金七郎を鳥居にそへて、五月十四日の夜、城の西なる山の岩根をつたひ川に入、寄手素より大野川、瀧川の水底に縄を張てなる子をかけたれば、通るべきやうもなし。二人水練の達者にて川の浅瀬はよくしりつ。小脇指を抽て川底を潜り、縄を切て通りしかば、から/\となりけるを、番の兵どもあやしみけるに、其の中に一人、五月雨にはかゝる川をば鱸の通るならん、といひければさてやみぬ。二人は早瀧の下広瀬と言ふ処に上り、かんほうが嶺にて烟をあげ、十五日に岡崎に参て、しか/\の由を申処に、信長其日岡崎に着陣せらる。鳥居は、信昌尚心もとなくや候らん、しのび得て城に入る事を得ば、早後巻候べき事審に申さん、とて引返す。鈴木は信昌が父美作守貞能に告べし、と鳥居に別れけり。鳥居かんほうが嶺に上り相図の烟三度あげて後、篠原といふ所にゆき忍入らばやとするに、柵重々にふりて砂をまき、出入の人の足あとを改めしかば、中々入べき様なくてためらひけるを、穴山の手の者見付てあやしみて遂にからめられけり。勝頼逍遥軒信綱を以て子細を問るゝに、鳥居、事の由を有のまゝに答へしかば、勝頼鳥居を呼て、汝がいのちをたすくべし。汝城際に往て信長は上方の軍にて、此城の後巻重ひもよらずといはゞ城兵降参すべし。さらば汝に厚く賞せん、といはれしかば、鳥居則ち心得候とて城門近く至り、後巻とて信長父子岡崎まできのふ旗を出され、先陣は一の宮に陣せり。徳川殿御父子、野田まで御馬を出されたり。此の城運を開ん事掌の内に有、といひければ、甲州の者ども大に驚き、鳥居をひき連て、勝頼にかくと申せば、大に怒て城に向て磔にしてころされけり。長篠にて勝頼敗北して後、信長を始め鳥居が無雙の忠なる事を感じ、作手の甘泉寺に懇に葬られけり。
『酒井忠次鴟巣城を乗取れし事』 勝頼長篠の城を囲攻る事甚はげしかりしに、信長東照宮と共に後巻あり。軍評定の時酒井忠次すゝみ出、今夜わき道より長篠の附城鴟巣へおしよせ攻破らば、勝頼必ず敗北すべし、と申もあへぬに信長あざ笑ひ、汝は三河遠江の小ぜり合には慣つれど、大軍の計策はしらざりけり、と嘲られしかば、忠次いふべき詞なくて出ける処に、信長東照宮にさゝやき申されけるは、左衛門尉が申す処尤然るべし。又呼出されよ、とて酒井が側近く居より、誠にゆゝしくも計りたる哉。されども外に泄聞えんかと思て、わざといつはりて誹りたりき。とく馳向て鴟巣を攻破り候へ、といはれしかば、忠次承りて出んとする時又ひきとゞめ、同じくは信長が向ひ度所なり。あたら武功を汝に譲りき、と申されける。忠次大にいさみて、夜半計に思ひもよらぬ所におしよせて、武田兵庫頭信実、三枝勘解由、和田兵部を始としてあまた討とり、火をかけたる煙を武田の軍兵顧みて、大に勇気抽て終に敗北のもとゝなりけるとなり。此夜討に天野惣次郎は指物をさゝず、戸田半平は、道遠し夜あくる事もあらん、とて指物を持せけるが、城を焼たる火のひかり白日の如く、天野戸田先を争ひけるに、戸田が銀の髑髏のさし物かゞやきわたりて、人の目を驚しけり。信長後に酒井が功を賞して、汝は前に眼有のみにも非ず、後にも眼あり、といはれしかば、忠次忝き由申て、さて終に後を見たる事はなく候、と申ければ、信長笑て、前後の計たがはざる事を賞せんとていひ過たり、といはれければ、忠次其時、仰の旨面目有り、とて退出したりけり。
『長篠合戦の事』 長篠にて信長の先陣と旗本との間に、ほり切をかまへ柵の木ゆひて欺きて敗北すれば、武田の猛兵、敵はにぐるといふて追来り、柵の木に行なづみたる処を、数千の鉄砲雨のふるがごとくうちかくれば、空矢なく中りて討るゝ者数をしらず。引退んとすれば柵より出て付けしたふ。戦をいどめば柵の中に入りてうちしらます。勝頼の士大将勇気余り有といへども、打破るべき様なく、皆的になりて討死しけり。
『内藤四郎左衛門返答の事』 同じ時徳川家の先陣を下知せよとて信長の使来る。内藤四郎左衛門、われ等が主君は、先陣の下知を他人にうくる者には候はず。内藤承りて返答仕りたりと申されよ、とあらゝかにいひて追かへす。信長聞て、徳川家よき士数をしらず、といはれけり。
内藤を鳥井に作れるあり。然れども鳥井は三形が原にて討死したれば、内藤の事なるべし。
『多田久蔵が事』 同じ軍に、甲斐の士一人生どりて信長の前にひき来る。裸に緋緞子のした帯をしたり。信長名を聞るゝに、美濃の者多田久蔵と名乗る。信長手を拍て、汝は伯父の葬礼の時火車を斬たり、と聞り。美濃尾張はわれにしたしみ有る国なり、我に奉公せうとや思ふ。縛りたる縄をゆるせ、悪源太もからめられたり。弓箭とる躬の恥ならず、といはれしかば、長谷川藤五郎かたへにひきのけ縄をとけば、多田わきなる鎗を奪とり四五人つき伏る。長谷川そこにて首を切て信長に出し、しか/\なりと言へば、信長深く惜まれけり。
一説、赤地の唐おりの錦の下帯したる士を生どり来る。唯者に非じ名のれ、といへども名のらず。さら雑人の手にかけて殺さん。士ならば腹切せん、といひしかば、多田淡路が子なりといふ。信長聞て、淡路に久蔵新蔵とて二人の子ありと聞く、いづれぞ、と問はるゝに、新蔵なり、と申す。勇士なり、たすけてこそ、と有ければ、生どりと成たる恥辱とく首を刎らるべし、と乞たり。信長の前にて縄をときしに、門外に立かけたる鎗をとり、あたりの者をつき殺すによりて、遂に新蔵を切ころしけり。
『佐久間信盛偽りて勝頼に降る事』 長篠合戦の前信長謀をめぐらし、佐久間信盛より潜に長坂釣閑がもとに使を遣し、日比信長に恨る子細あり。願はくは勝頼軍をすゝめ戦あらんには、其の時信盛裏切して信長の旗本へ俄に切りかゝるべき旨をいひ送りしかば、釣閑悦んでこれをたばかるとはしらず、勝頼に一戦をすゝめける故、馬場美濃信勝を始として、侍大将の軍評定していひける事共を勝頼悉く用ひずして、楯なしを誓て進で軍すべき、と決断せられしかば、其後は諸大将諌る事を得ざりけるとなり。
『二股城攻内藤桜井功名の事』 天正三年六月東照宮二股の城を攻給ふ。城主は依田下野守幸成なり。其の子右衛門大夫幸致城を出て、鳥羽山の下なる小川を隔て防ぎ戦ふ。内藤弥次右衛門家長、強弓の手きゝにて散々に射しらます。松平弥右衛門忠長が子彦九郎、敵に朱のちやうちんのさし物あるを見て、味方にも此さし物有ければ、あやまりて敵の中へまぎれ入しを、朝比奈弥兵衛一箭にて射伏たり。内藤は彦九郎と縁者のしたしみ有ば引返して弥兵衛を射る。其の箭弥兵衛が乗たる馬の鞆の前輪よりあと輪をかけて射貫く。弥兵衛が弟弥蔵はせ来りて、兄が屍をひき退んとするを、二の矢にて是も射倒したり。城兵二人の屍をひきのけんとするを、本多忠勝等進みかゝりて追つたてたり。城兵引退く中に、一人手負てひきかねたる者有けるを、一人とつて返し、是をたすけ門内に引入けるを、桜井荘之介勝次、敵の首を一ツ取たりしが、又すゝんで追かけ行く。東照宮御覧ぜられ、茜の四半のさし物は桜井なるべし。深入するよ、と仰られけり。其時敵の手負を助くる者やう/\一の木戸揚錠門の中に入り、手負たる者はいまだ半見ゆる処に、勝次走りつき、手負ひたる者の足をとりて三間計ひき出し、遂に其首をとる。其時門内より勝次がさし物を打折けるが、屍にかゝりとまりしをしらずして、五六間計引とる時、従者かくといへば、又取て返しさし物をとり得て鳥羽山に帰り首を奉る。東照宮唯今の勇気のいかめしさ、誠に無双と覚ゆるなり。然れども是より後はゆめ/\今日のごとく深はたらきすべからず、とて遠州にて禄を増したまはりけり。彼の従者も度々はたらき有て後、士となし内田彦右衛門といひけり。
『蘆田信蕃二股城を退く事』 勝頼長篠敗北の後、蘆田常陸介信蕃二股の城を守る。三河の軍五月下旬より此を攻る。南方の山に東照宮御陣をすゑられ、巽の方鳥羽山、東は三十原口の山、西は和田嶋に向城をかまへらる。信蕃固く守りて十一月に至りて、城をわたし甲州に引入べし、勝頼再三下知せらるれども聞入ず。勝頼自筆の書をもて下知せられしかば、十二月下旬に人質を出し、廿三日に城を渡さんと約せしが、雨ふりければ蓑笠にて見苦く候、とて翌廿六日天晴て後城をわたし、二股の川の辺にて人質をとりかへ引とれり。信蕃小勢にて久しく守り、且城をわたす作法正しかりけるを御感ありて、後終に徳川家に仕へけり。
『信長公秋山伯耆を刑し給ふ事』 天正三年信長美濃岩村の城を攻て秋山伯耆晴近を生どり、生ながら逆ばり付といふ物にせられけり。此は信長の姑遠山内蔵助が妻にて、遠山は其の前岩村に有けるを、秋山遠山の七家と称せし人々と和平してたばかり、元亀二年信長の加勢の士三十五騎を殺害し、城を奪とりて内蔵助が後室を己が妻としけり。遠山は是より前に病死し、其嗣信長の男御坊丸を甲州へ送りやり、岩村を居城とせしかば、信長怒りにくまるゝ事深くてかくはせられしなり。秋山口をしくもはかられけるかな。われは信長と縁類のしたしみあり。かくせらるゝ事無念なり、とて歯をかみ、信長の末を見よ、と罵りて、七八日ばかり有て死しけり。信長信州法華寺にて兵粮つかはれける時、いろいろの小袖を著たる女房一人来り、懐より錦の袋に入れたる茶入をとり出し、是を信長に見せたまはり候へ。見しりておはしまさん、といふ。信長走り出て茶入をば石に当てうち砕き、刀を抽てかの女房を切ころされけり。此秋山が妻にて信長のをばなり。
『松平忠次諏訪原城を守らるゝ事』 天正三年八月東照宮諏訪原の城を攻させ給ふ。此の城は甲州馬場美濃守氏勝が、城制の法にてきづきたりし名高き城なりといへども、城兵力弱りて、廿四日の夜城を棄て小山の城に迯落けり。東照宮、此の地は高天神に往来の要路、駿州田中持船の敵と、大井川一筋を隔たり。勝頼必ず隙を伺ふべし。誰か此に在て城を守り、敵を防ぐべき、と仰有けるに、松平左近忠次すゝみ出、身不肖に候へども、此の城を守り申べし、と申ける。御感有て松平の姓を賜はり、御諱の字を下され、松平周防守康親と申せしは此の時よりの事なり。勝頼が暴悪殷の紂王に似たり。これより攻入て打ほろぼすべき、とて諏訪の原の城を牧野の城と改められしとなり。
『山内治大夫進士清三郎功を譲る事』 諏訪の原の城を甲州より攻来りて合戦あり。松平康重(康親の子)の士山内治大夫、進士清三郎、山崎惣左衛門三人殿しけるに、山内は精兵の手きゝにて、射払て引退く時矢だね尽たり。山縣源四郎猶追かくる時、進士清三郎矢一筋を山内ふみ止りて射けるに、志村金右衛門が胸板を射通し、後の松の木に射つけたり。夫より物わかれす。山縣此の矢を康重に送り返して、強弓精兵無双なり、とぞほめたりける。康重其矢に進士が姓名の彫付たりしを見て賞する処に、是は山内が射申たるにて候、と申す。復山内を呼出して、しか/\なりやと聞るゝに、清三郎が射たるにて候、とゆづりけり。康重両人に感状をあたへたり。世の人両人を今の孟子反といひあへり。
『長九郎左衛門能登国発向の事』 天正五年畠山修理大夫義隆毒殺せられ、家臣七尾の城に據て信長に属し、能登大に乱れければ、義隆の伯父上杉弥五郎義春越後に在て是を聞、謙信にかくと告ぐ。謙信即ち師を出して、義春先陣して七尾の城を攻おとす。此の時長九郎左衛門重連七尾にて畠山が長臣温井三宅に殺さる。重連が弟恩光寺使僧となりて、信長に此の由を申せば、柴田勝家、丹波長秀、長谷川、前田利家、羽柴秀吉、瀧川一益、氏家卜全等四萬計にて打立ち、八月五日加州手とり川を渉り永嶋に陣取りたり。謙信は能登一州悉く旗下につけ、八月朔日兵を返して、加州にて長が一族の首七ツ、倉部柏野の間なる浜に竿ゆひ渡しかけ並べ、札を書て立られたり。松任の城主蕪木右衛門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戦すべし、と手くばりあり。七尾既に落て、謙信これまで打向れたり。爰にて合戦無益なり、とく引退くべし、と信長の陣々いろめき立つ。恩光寺人に首を見するに、名のみにて面貌異なり。上方の軍のおし来るを聞き、謀を以て長一族の首をいつはり設たるならん。能州をすて松任に在は、後詰を防ん為なるべし、といふを聞てさわぎもしづまりけり。即夜戌の刻に及で恩光寺、柴田、木下が陣に行き、先には味方一同に敗北すべきいろ有を見て、たばかりて申せしなり。七つの首は吾父兄弟にて候、と告しらせしかば、爰にて合戦すべからず、とて信長引きかへさる。恩光寺是非一軍と乞へども聞入れず、恩光寺は後信長の命にて還俗し、長九郎左衛門連龍といひしは此の人なり。勝家越前の大橋に札を立て、長九郎左衛門能州に発向す。立身を志す輩はわが被官たりとも参るべし、と書たりければ、相あつまる士八十余人、天正七年三月二日能州穴水の城に入る。旧好の者共馳あつまり百人に及べり。上杉より有坂備中を七尾におきけるが、長曾検見與十郎を大将としておしよせ戦ふに、長敗北して危かりしを、谷大学討死し、長やうやく引とりたり。紀州士鈴木因幡、初長にしたしみ有り。北越に居て今能州に来り、長有坂を和平し、従者は陸、長は船にて有坂が方に来るべし、との使に鈴木来りしに、長に従へる石黒大膳、井久留了意、合田民部、木嶋小介、如何すべき、といふ。石黒、今七尾にゆかば必ず害にあはん。船中にて鈴木を殺して退くべし、とすゝむ。長聞て、汝が志悦ぶべし。然れども陸より囘る家人皆殺されなん。吾独生べき義なし、とて七尾にゆき、法道寺に入て、遂に有坂に対面す。殺害にきはめたれども有坂事故なく長を帰しけり。松川兵部、今日長を討もらし残多く候。おしよせて討ん、といへども有坂聞入ず、長は石動山にかゝり越中に赴く。石黒、敵よせ来らんに残る者なくば口惜きなり。姓名をたまはり候へ。敵を支て討死せん、といへども、長、汝をすて殺し、吾子孫をとりたてたまはれ、といふ処に、七尾の商来りて、敵おしよする、といふ。長は石動山にかゝり、石黒は物の具して待ども敵来らざれば、あとより乗付て共に越中に赴き、神保安芸守氏春のもとに居たり。後長は前田の家に仕へて、浅井なはてに武功ありしは此の人なり。長後又恕庵と称しけり。
『越中にて謙信月を賞せられし事』 謙信越中にて秋夜諸将をあつめ、月を賞して詩あり。
霜満軍営秋気清。数行過雁月三更。越山並得能州景。任他家郷念遠征
『信長公松永弾正を恥しめ給ひし事』 東照宮信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり。信長、此老翁は世人のなしがたき事三ッなしたる者なり。将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗をながして赤面せり。
東照宮後長臣等を召て、御物語有ける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が浅井と一味を疑ひ進退きはまりしに、松永信長に告て朽木が方へ参りて、味方に引付け候べし。朽木同心せば人じちをとりて打具し御迎に参るべし。若し又帰りまゐらずば、事ならずして朽木と刺ちがへて死したりとしろしめされよ、といひて、朽木が館に赴き、事なく人じちを出させ、それより信長朽木谷にかゝりて引かへされしなり、と仰られしとぞ。
『山口六郎四郎奥田三河守高屋城を落る事』 松永が士大将山口六郎四郎、奥田三河守高屋の城を守りけるを、信長攻らるゝに、越中力尽て一方をかけ破り落んとせしに、山口風雨の夜鉄砲をあつめ、東の門の寄手へ向て散々にうたせければ、すはや打て出るとさわぎける。其のひまに西の門を開き、一同にかけ出、撃破りて落ゆきけり。
『長坂釣閑跡部大炊邪佞の事』 謙信卒して(天正六年三月九日)養子上杉三郎景虎(改政虎実は北條氏康の子也)猶子喜平治景勝遺跡を争ふ。景虎縁ある故武田勝頼に援兵を頼む。勝頼兵を出す。此時景勝謀て、勝頼の寵臣長坂釣閑跡部大炊助に使者を送り、勝頼に黄金一万両、寵臣に二千両宛を与へて加勢を乞ふ。両寵臣勝頼を勧て政虎を放されたり。是れより諸士勝頼をうらみけるが、終に勝頼の妹聟木曾左馬頭儀昌信長に従ひて勝頼に叛く。勝頼これを討んとて、軍を信州諏訪原に陣す。小山田左兵衛信茂もこれに従ひて、御宿監物友綱に送る。
汗馬惣々兵革辰。東西戦鞁轟レ辺恨。世上乱逆依レ何起。只是黄金金五百鈞。
砂金を一朱もとらぬわれらさへ薄恥をかく数に入るかな
友綱和讃、
甲越和親堅約辰。黄金媒介訟レ神恨。倍臣屠尽平安国。可レ惜家名換万鈞。
薄恥をかくはものかはなべて世の寂滅するも金の諸行よ
両寵臣弥邪義を行ひて武田家滅亡せり。
『東照宮勝頼と大井川にて御対陣の事』 天正七年九月、東照宮勝頼と大井川のいろうにて川を隔て対陣しおはします。時に大木川上にて川にまろび落ける。其の音波にひゞきてこと/\〃しく聞えしかば、すはや勝頼夜討に寄るとさわぎたちてとまらず。牧野半右衛門に、先陣をしづめよ、と仰せられしかば、牧野馳行て、何事にさわぎ候や。御旗本もさわぎ候ぞ。とくしづまり候へ、と呼りければ、愈みだれたちけり。かかる処に、大久保七郎右衛門忠世馳来り、勝頼おし寄べし、とて御ン旗本は物の具固め敵を待かけたるに、何とて先陣の人々かくまで驚きうろたへ候哉。後日に嘲りわらはるべし。とくしづまり候へ、と罵りければ、是に恥しめられて、程なくさわぎもしづまりけり。
一説、持船の城を攻おとさせ給ひ、保ちがたし、とて焚すてらる。此の時勝頼沼津の城普請、ついぢの上にて此の烟を見られしが、北條家の軍を後にして、九月廿日東照宮客戦は危しとや御思慮有けん、兵をかへして大井川の伊呂をわたらせたまふべきに定させ給ひしに、俄に惣軍さわぎたちてしづまらず。牧野半右衛門制し止れども弥さわぎしに、七郎右衛門忠世御旗本に大挑燈を高くさしあげさせ、士をつけおきて、わが帰るまで動くべからず、といひふくめ、先陣に行きて御旗本は二の身を討ん、とてしづまりたり。其の證はあの火の動かぬを見よ、といひければ、是によりてしづまりければやがてのり帰り、先陣はよくしづまりて敵を待体なり。以後先陣の人々にわらはるべし、といひければ、これもまたしづまりけるといへり。
『栗田刑部幸若が舞所望の事附時田が首実験の事』 東照宮高天神の城をかこませたまひ、柵を付て固く守らせらる。城中後詰を乞ども勝頼出ず、粮尽けり。栗田刑部使をもて、幸若が舞を一曲所望し、是を今生の思ひ出にせん、と申けるを、東照宮聞し召、やさしくもいひけるよ、とて幸若に高館を舞せらる。栗田が最愛の小姓時田鶴千代といひし者に、絹紙様の物をもたせ出して幸若に贈りあたふ。其の後落城の時、時田討死しけるを首をとりたれども、女の首なるべしと人々疑へり。東照宮聞し召れ、眼をひらき見よ。女ならば白眼なるべし、と仰せ有りければ、ひらいて見るに黒眼あり。又幸若忠四郎も高館を舞ひける時見しりたれば、時田が首に定りけり。
『岡田竹右衛門見切の事』 天正八年七月、東照宮田中の城を攻させ給ひ、八幡山に御陣有て苅田ばたらきあり。勝頼後巻せんとて甲州を打出る。松平康親が士岡田竹右衛門元次、此ごろ夕立洪水有べき時なり。大井川は一ト夜に水出て渉りがたし。勝頼血気の勇将にて候へば、もし俄に押よせ候事あらん。苅田終らばとく川を渉て、兵をかへされ然るべし、と申す。東照宮尤なりとて、川を渉り兵ををさめ給ふ。果して其の夜大雨はげしく大井川水出でたり。
『朝日千介西郷伊予を討つ事』 田中の城を攻らるゝ時、西郷伊予といふ剛の者足軽を引具し、度々打て出、寄手を破りければ、東照宮、誰かある、西郷をうつべき者は、と仰有けれども、答奉る人なし。其夜菅沼大膳が陣に人々あつまりて、此事をいひ出したるに、菅沼が小姓朝日千介(後には丹後と申す)十八歳なりしがすゝみ出、討とるべし、といふ。菅沼聞て、汝寝言を言ふや、といひしに、必定討取申さん、といへば、さばかりの古兵も軍しかねつる西郷なり。たやすく討ん事思ひもよらず。そこ立され、と罵りければ、かたへより、いやとよ、千介がつらたましひなみ/\ならず。末頼母しきわか者なり、といひなだめけり。千介、あすを待れよ。西郷が首提げて参らん物を、と独言して退きけり。かくて夜深て菅沼が愛せし鉄砲をとり出し、暁陣屋をひそかに出、岡部のかたへの小山に陣しておはせしが、敵又出たると仰せ有ける処に、千介鉄砲をためすゑ、西郷を馬より打落し走り出て首をとり、かけ帰りてかくと申す。東照宮、あはれ、剛の者よ、とほめさせ給へば、是より千介が名高く聞えけり。
『菅沼定盈膽気附山口五郎作後藤金助討死の事』 天正二年勝頼兵を出して、菅沼新八郎定盈が新にかまへたる城を攻んとす。定盈が一族を嚮導として不意におしよする。謀をしりたる者有て告しらせけり。□月廿九日の曙に定盈が士ども、大敵和田嶺本宮坂二筋にわかれて攻め来り候間とく退れよ、といふを聞て一ト軍もせず迯落ん事弓箭とる身の恥なり、といふ。人々永禄年中今川家より攻し時は、西郷孫九郎元正加勢たりき。今多からぬ士卒打ちりたれば、早く城を出て運をひらくの道こそ然るべからん、といへども、定盈兵を出して敵の様を見せしむ。山縣が軍競来る由告けるに、定盈厠にゆきてうたひをうたひて出ず。足軽の頭山口五郎作しひて諌ければ、厠より出手を洗けるが、又湯をもて口すゝぎたる体常のごとし。しひて諌れば南の郭より退きけるが、途中にてわれ等が伏所に火をかけざる事、後に敵に嘲らるべし。誰かは帰りて城に火をかけ、又日比愛したる鷹を携へ来るべき、といひもあへぬに、中山與六十八歳なるが引返し城にもどり、火をかけ鷹を臂にて出たりけり。定盈は宇利を経て西郷へ赴きける。あとをしたひて與六海倉淵まで退きけるに、與六が一族後藤金助追ツかけ来て、きたなくも敵に後を見するよ、と詞をかけたりしかば、與六馬ひき返しむずと組て、既に金助が首をとらんとせしに、多嶺の士あまたおちかさなりて終に討れけり。山口は定盈が後殿して、主従三騎素綯瀬を渉る処に敵追来る。山口引返して敵あまた射伏たれども、馬疲れければ敵は近く。鍬田村にかゝり吉祥山に赴く。敵猶追かけ来れば、散々に射しらましけるが、馬動くざりける故、乗はなちて歩だちになり山にかゝる。箭二筋のみ残れり。菅沼刑部鹽津傅助追つめければ射たれども中らず、指添を抽て手裏剣にうつ。刑部が頭上をうちかすりたり。山口も終にそこにて討死し、其墓今にありといへり。
『岡崎三郎君の御ン事』 岡崎三郎君天正七年二股の城にて自殺おはしましける事は、信長より叛逆の志有て勝頼に内通し、二股の城へ甲斐の兵を引入るべきとの三郎謀あり。此の事は酒井左衛門尉よく存知たりと告申されしより事起りて、つひに死を賜はりぬ。
忠次を信長召寄て、三郎君の北の方より告申されし十二条の悪事をあげて忠次に問はれしに、忠次是より前三郎君の侍女、おふうといひし美人をひそかに己が妾とせし事によりて、三郎君憤深かりければ、陳謝の事に及ばずといへり。
又一説に、佐久間右衛門尉信盛三河に参りけるに、東照宮御馳走ありけるが、三郎君をめされ御対面有しに、佐久間黄なる綿ぼうしをかぶり居たるを、三郎君ひき奪ひてなげ棄、無礼なり、と怒らせ給ふ。東照宮驚き思召けるに、三郎君、われは信長の聟にてこそあれ、仰せられしかば、佐久間無礼を謝し申せしが、是も信長に讒言せし故ともいへり。三郎君は勇気たくましくきはめて物あらくおはしまして、軍に臨て気色かはり髪毛も逆にたつべく見えしを、東照宮御覧じて、摩利支天の像に似たり、と仰せ有しとぞ。
平岩七之助親吉は三郎君の傅なりしかば、臣が諌申さゞる罪を以て死刑に行れ、首を信長におくり、三郎君をば獄におしこめおいて、時を御待あれ、と申けるを、東照宮、汝が忠心は誠にいふべき詞も非れども、よく察せよ。武勇われにまされりと思ふ子を殺すは忍ざるの至なり。汝が首を信長におくるとも、既に吾家の長臣酒井が信長にあくまであしくいひつると覚たれば、なかなか聞き入れられじ。汝を殺さば恥の上の恥損の上の損とは是なるべし、と仰せられけるとぞ。其後年経て忠次目を煩ひて久しく引こもりたりしが、御前に出て、年老候ひぬ、子を不便にせさせ給へ、と申けるを聞召、信康生て有るならばかはかり心を労すまじきよ、汝も子の不便なる事をしりたるが怪しき、と仰せられしかば、言なくて退出したるとなり。又ある時幸若大夫が満仲を舞たりしを御ン聞有て、満仲の舞は大久保は得見まじい、と仰せられしかば、忠世も引こもりけり。これは三郎君を忠世に御ンあづけ有しに、定て引き具しまゐらせて片かげの山林に身をひそめなんと思召けるに、さはなかりける故、三郎君の御事を悔ませ給ふをり/\御ン詞には出ざれども、事にふれ数年の後も愁傷の色あらはれさせ給ひけるとぞ。
『摂津国花隈城落つる事』 摂州花隈の城は荒木摂津守村重が一族荒木志摩守元清こもれり。天正八年信長の命にて付城をかまへ、花隈の北諏訪が嶺には護国公、西の方金剛寺山には士大将伊木清兵衛忠次、森寺清右衛門忠勝、南の方生田の森には護国公の嫡子勝九郎之助守り給ひぬ。いづれも花隈より六七町計を隔たり。三月二日城より兵を出す。勝九郎廿二歳にて組討の功名あり。国清公(此時古新と申す、後に三左衛門尉輝政公)十六歳にておはせしが、是も組討にて首を出す。護国公敵自ら討とり、伊木清兵衛、秋田嘉兵衛、堀與左衛門、芳賀五郎右衛門、石黒武右衛門、佐橋武右衛門、後藤市兵衛、波多野弥蔵等はげしく戦ひて追崩す。ある夜護国公森寺政右衛門を呼で城中へ忍入、よく見来れ、と命ぜらる。森寺行く時梶浦勘兵衛も打つれんとす。森寺、今夜の物見は大事なり、相倶はん事叶べかず、といふ。梶浦聞て、思ひ立たる事空しく帰るべきや。自害するより外なし、と中々帰るべき体にあらざればうちつれたり。陣と城との間に小き坂あり。城中より武者二人鎗を提げ来るに出あひ、二人とも討とり首をば草の中に匿し置たる首を持帰り実検に入れ、城中の有様を申せば、護国公、はや城は攻とりたるこゝちするよ。いかにしてかは此功を賞すべき。但湯桶は何とて行たるや、と問るゝに、湯桶承はりて政右衛門に仰られしを、物かげにて聞候て、と申す。護国公、近習の人をのけていひつる事を立聞し、且軍法を破りたる、と怒りたまふ。其時森寺、只今忝き仰を承り候き。さして賞美の望候はず。勘兵衛が咎をゆるさせ給ひ候へかし、と申せば、護国公、さてやみなん、とぞ仰ける。かくて七月二日に及で、生田の森の南へ馬の草刈に雑人出けるを、城中より兵を伏置て追ちらしけるを、生田の森の付城より是を見て、勝九郎、馬上に鎗を横たへ、つゞけ者共、とて馳向ふ。梶浦兵七、河崎忠三郎、大陽寺左平次、臼田喜平次、日置清十郎など追つゞき声をあげて切かゝる。竹村黄左衛門、乾平右衛門、長谷川新次郎鎗わきを射る。淵本弥兵衛は四寸角の柱の一丈余りなるを打ふりて、敵をたゝき伏相戦ふ。金剛寺山の伊木森寺も大手の軍はげしきを見て、搦手より乗とらんとおしよする。城より野口與一兵衛といへる者、半町ばかり打て出防けるが、野口も討死すれば城ぎはへおしつむる。大手の戦に寄手多く討れ危かりければ、引返さんと護国公、梶浦に詞をかけらるれば、勘兵衛、唯今あげんとせば、弥みだれあしに成べし。さきほどは鉄砲の数少く覚つるに、俄にましたるは、搦手より大手へ救来りぬらん。政右衛門早からめ手へおしつめ乗こみ申べし。然るに只今大手の味方を引きとらば、敵搦手へまはりて政右衛門討死すべし、と申す。護国公尤なり、とくゆきて見来れ、と仰られしかば、勘兵衛馳せつけてしか/\の事なりといふ。政右衛門、よくこそいひたれ。早乗入べし。大手を攻られ候へといへ、といふ。勘兵衛此場を見すてゝ帰らんは口をしけれども、使の仰重ければ、とてかけ帰りかくと申せば、護国公、無二無三に乗破れ、と下知せらる。勘兵衛は城兵の必ず突て出べき門脇につめよせたり。搦手よりも伊木、森寺先をあらそひ門を破りて攻入たり。森寺はことしの春案内はよく見たりし故、門を破る透間にかたへの屏を踰。敵鎗にて突きけれども、飛こみて其まゝ討とりたり。梶浦が察せし如くからめては防ぐ兵少かりければ、攻入て火をかけたり。城兵も大手の門をおしひらき切て出る。勘兵衛待請て鎗を合す。城兵爰を切ぬけんと死狂に成て戦ひけるに、寄手からめてより攻入たるが、敵の後へ切てかゝりしかば、城兵浜辺をさして敗北せり。兵庫の築嶋に雑賀孫一郎花隈の加勢として有けるを、伊木、森寺先陣にておしよせ攻落す。此時湊川にて勝九郎五輪作右衛門といふ剛の者と鎗を合す。森寺政右衛門も馳付たれば、作右衛門引返して退きけるが、五輪のさし物を、是はかくれなきさし物なり、両人へまゐらするよ、といひて川へ飛こみて迯れ得たり。黒き四半に白き五輪の形を染たるなりしとなり。信長より勝九郎国清公に馬をまゐらせらる。護国公、今度の軍わが目前にて、各功名したるなれば明に見届ぬ。中に就て梶浦が決断、鎗を合せたるよりも忙しき場にこそ察したれ、とてかへす/\〃賞美有りけるとぞ。
『高天神落城仁科信盛戦死の事』 天正十年勝頼の弟仁科五郎信盛高遠の城を守る。織田信忠僧を使として、勝頼の滅ん事近きにあり、とく城を出らるべし、といひ送りたりければ、信盛怒て返答もせで、僧の耳鼻をそいで追出す。信忠、さらば攻めよ、とておしよせてきびしう攻むるに、城兵残りずくなく討れ、信盛、小山田備中、渡邊金大夫照、春日河内守、原隼人、今福安左衛門、諏訪荘右衛門已下十八人、十二間に七間の広間にこもり、火をちらして戦ふ。信忠浅黄金襴のほろかけて屏にあがり、桐梧の枝にとりつき下知せらるゝを、目にかけ七八度打てかゝる。此の時三十五六歳計の女房の緋おどしの物の具著、眉尖刀を提げ、諏訪荘右衛門が妻なりと名のり、七八人なぎ伏て自害しけり。信盛を始として死狂に切てまはれば、攻あぐみたる時、森武蔵守長可屋根の板引破らせ、鉄砲をこみたりければ、信盛床の上にあがり、腹切て腸をつかんでから紙に擲ち倒れ死す。其の血痕後まで有といへり。小山田已下も自害したり。信盛此の時十九歳なり。信忠のとりつかれし梧桐に鎗刀のあとひしと付きて、大広間の天井も柱も鎗太刀のあとひしと付きて、大広間の天井も柱も鎗太刀のあとありて血にそまらぬ所なし。庭に残れる雪に血かゝりて紫となれりとぞ。
岩波文庫版『常山紀談』上巻を底本としました。