池田一朗シナリオ・その他作品論
池田一朗の映画脚本・テレビシナリオ・その他の著作などに関する論考。
花くれないの自由寮
池田一朗「花くれないの自由寮—吉田山の青春—」
隆先生自身が綴った三校時代の思い出
筆者:瓢水
※以下の文章は、隆先生が本名の池田一朗名義で発表した自伝的小説、「花くれないの自由寮」を紹介したものです。かなり以前に書いたため文体が異なっていますし、書き改めたい点もありますが、時間の制約上、一部を訂正するに留めました。読みにくい点があればご容赦下さい。
表題の文献からの引用箇所については特に注記を付していませんが、紹介文献以外の文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記しています。
(2004年11月4日、隆先生の十六回忌に捧ぐ)
【本編】
隆先生が、旧制三高時代の寮生活の思い出を綴った自伝的小説。高村暢児(たかむら・ちょうじ)『ああ黎明は近づけり 日本寮歌物語』(昭和44年2月、潮出版社)に収録されている。5‐64頁。
“池田一朗”は隆先生の本名。本作は隆先生が書かれた最初の小説と思われる。また、後年の「作家・隆慶一郎」の文体が既に確立しているように見受けられる点も興味深い。
「本書は、旧制の第一高等学校、第三高等学校、北大予科、大阪高等学校に取材して、それぞれを、小幡欣治、池田一郎(ママ)、高村暢児、石濱恒夫が執筆した。みな旧制高等学校に寮生活を送った作家達であり、多くが自己の体験と記憶とに基づいたものである」(高村暢児「あとがき」より)
物語は、若き日の隆先生が、旧制三高の自由寮に入るところから始まる。自由は三高の伝統であり、自由寮は、その運営自体が完全に学生に委ねられた自治寮であった。当時の自由寮の雰囲気を伝える記述を引用しよう。
「寮生は、先輩もすべて呼び捨てにすべし、と厳重にいわれていた。そうすることによって、先輩も後輩も、まったく同じ次元から、対等の資格で、議論をすることが可能であり、喧嘩をすることも、可能である。敬意とは、その人格識見に対して払わるものであって、徒らな序列の中には存在しない。それが、自由寮の掟だった」
ちなみに、隆先生はこの考え方を終生持ち続けたらしく、羽生真名『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』には、「シナリオ教室の自分より二回り以上年下の学生に対しても、またずっと年上の作家に対しても、同じ姿勢で接した。そのため、年配の方々からは非常識ととられることもあったようだ」(注1)と記されている。
さて、自由寮に入った隆先生は、食堂で開かれた歓迎コンパや歓迎ストームの洗礼を受け、講義を休むことを覚え、寮生と共に哲学的な命題について議論するのであるが、ある日、「自由の恐ろしさ」を口にする哲学的な風貌を持つ志摩利広と出会う。
三高時代の隆先生がアルチュール・ランボオ『地獄の季節』に心酔していたことは、『死ぬことと見つけたり』の冒頭などでよく知られているが、本作では、隆先生と『地獄の季節』の出会いが、志摩に仮託して描かれている。
「ランボオって奴はね、十六の年から詩を書き始めて、十九でペンを折っちまったんだ」
「そのあとは?」
「誰も知人のいない、アルジェリアへいって、隊商みたいなことをしてたらしい」
「………!」
「凄まじい自由人だと思わないか」
志摩は、女性関係を通じて、自分自身の“自由”を形作っていく。それが寮生からは“デカダン”だと取られ、二年生になると寮を出ざるを得なくなる。隆先生も、志摩を弁護して寮生と大喧嘩をしたことから、寮を出る羽目になる。
「一人で住んでいるということは、やっぱり僕には無理だった。志摩のいった意味とは、まったく違うだろうが、僕も自由の恐ろしさを、身をもって味わったといえようか」と、隆先生は寮に戻るが、同棲していた女性に逃げられた志摩は、次第にその鋭角的な性格に凄みが増してくる。そして最後に、軍事教練を担当していた配属将校の無理難題に耐えかね、ついに激突してしまう。当然ながら、志摩は退学。東北大学へと去ることになる。
そんな志摩が、別れた女性の俤を阿修羅像に見出して、隆先生に語る場面がある。
「お前にわかるかなア……自己犠牲ってことが、自由の極地だってことが……」
学徒出陣を前にした昭和18年の晩秋、二人は東京で一度だけ再会する。小さな絵の展覧会で、アルルカンの絵を本当に長い間、二人で見つめるところで、この小説は終わっている。
このように、旧制三高の学生生活を色々な意味で満喫した隆先生であるが、対一高戦のボート部を応援に行った際に“名誉の負傷”を負ってしまった。これは比較的よく知られているエピソードであるが、以下に紹介しておこう。
「レースの始まるまでが、応援合戦であり、両者とも瀬田川に和船をこぎ出して、寮歌合戦からはては舟を寄せあっての白兵戦にまで発展した。生まれて初めて喧嘩に参加した僕の持っていた旗竿は、ササラのように割れ、僕もまた目の下を櫂でかすられて、かなり深い傷を負った。東京での試合の後で、志摩が単身一高の寮に殴りこみをかけ、当然のことながら袋叩きの目にあった、という話が伝わった頃、僕は傷のことをお袋になんと弁解しようかと案じながら、東海道線の上りに乗っていた」
このエピソードは、後年発表した『見知らぬ海へ』(講談社)に登場する海賊大将・向井正綱を彷彿とさせて興味深い。
また、3年生の寮生を送り出す「追い出し劇」で、岸田国士『落葉物語』を上演することになった際のエピソードも面白い。何と、隆先生が女形を演じたというのだ。
隆先生の役どころは、「若い時をフランスで過し、今もってフランス語の原書を読んで楽しんでいる、という恐ろしく高級な婆さん」。隆先生が選ばれた理由は、数少ない文丙(フランス語を第一語学に選んだクラス)の寮生だったかららしい。
演出を担当した副室長から、「お前の眉は女になるには太すぎる、剃り落とせ」と言われ、「ええィ、勝手にしやァがれ」と綺麗サッパリ眉を剃り落としてしまった。やけっ八で演じたせいで芝居は全く振るわず、おまけに眉が伸びるまで1ヶ月以上かかる有様。その間は仕方がないので眉墨を使い、帽子を目深に被って過したという。
羽生真名『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』に、「後のことをあれこれ考えず、まず行動をおこすのが亥年の父らしいところだった」(注2)とあるが、まさにそれを絵に描いたようなエピソードである。
余談だが、隆先生が女形を演じた『落葉物語』の作者・岸田国士とは、戦後に縁が生じることになる。岸田国士が教授を務めていた東大仏文科を卒業した縁から、北軽井沢の別荘を紹介してもらったり(注3)、『カサノヴァ回想録』(岩波文庫)の下訳を引き受けたりした(注4)のである。この点については、別の機会に述べることにしよう。
最後になったが、本作の読みどころは、古き良き三高時代を高らかに謳い揚げつつも、決して“きれいごと”に終始していない点にある。一夕、志摩に連れられて祇園を通り抜ける道すがら、隆先生は、志摩から辛辣な三校評を聞かされるのである。
なお、当時の祇園には“祇甲”と“祇乙”があり、「祇甲の方は極めて高級であり、容易に肉体を提供する妓はいない。祇乙の方は、比較的廉価かつ容易に、欲望を満たしてくれる場所」と説明されている。
「三高生だよ、祇甲の女は。結局は身体を汚して生きてゆくのに、自由だとか、人間の尊厳だとか、綺麗なこといってるだけさ。泥ンこの中で掴んだ自由、僅かな金で身体を自由にされている女にある尊厳、それが本物の自由であり、それだけが本物の人間の尊厳だと思わないか。綺麗ごとばかりいってる奴が信用できたためしはないよ」
後年の「小説家・隆慶一郎」としての処女作『吉原御免状』は、吉原が“自由のための砦”であったという設定で展開されている。本作で志摩に語らせた、遊里に生きる女たちの自由と尊厳についての指摘は、来たるべき処女作へと通じている確かな眼差しと言えるだろう。
(2002年12月16日)
【注記】
(注1)羽生真名[1991]、17頁。
(注2)羽生真名[1991]、33頁。
(注3)羽生真名[1991]、38頁。
(注4)松岡せいじ[1997]、87頁。
【参考文献】
羽生真名[1991]『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』講談社。
松岡せいじ[1997]『隆慶一郎 男の「器量」』コアラブックス。
アカデミズムの世界から映画の世界へ
大学教員時代の隆先生
筆者:瓢水
※この論考を書くにあたって文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記している。
【前説】
昭和23年(1948)4月、卒論「ポール・ヴァレリイに関するノート レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を書き上げて東京大学文学部仏文科を卒業した隆先生は、辰野隆ゼミの先輩に当たる小林秀雄氏が編集担当重役を務める創元社に入社した。入社の事情や当時の思い出は、エッセイ「失われた名演説」「編集者の頃」に思い入れたっぷりの文章で記されている。
創元社に入社した隆先生の最初の仕事は、昭和15年に同社から出版したルナン/杉捷夫訳『思い出—幼年時代・青年時代—』を、新かなづかいに直して再び出版することであったと思われる。その根拠は、巻末の「譯者後記」に「新かなづかいになおす仕事に協力してもらった祿川享、及川進兩君ならびに、創元社編輯部の池田一朗氏の勞を深謝する(中略)一九四八年六月 譯者しるす」(注1)と記されていることによる。
その後、隆先生は外国文学関係を全て一人で担当していたが、時には40件もの仕事が同時進行する多忙さから「突然勤めがいやになり」、昭和25年に創元社を退社した(注2)。退社する直前は同社版『小林秀雄全集 全8巻』の担当者でもあり、「誤植が多くて、先生にひどく叱られた」という逸話が伝わっている。ちなみに当時の隆先生は、エッセイ「喧嘩」で引用されたグレアム・グリーンの作品を愛読していたようだ(注3)。
さて、退職した隆先生は無収入になり、御殿場にあった友人の別荘に奥様と厄介になった。別荘の半分を哲学者の出隆氏が借り、残り半分を隆先生夫妻が借りていた(注4)。知人の椎野英之氏が尋ねてきて映画の脚本が金になることを知り、2回目に書いた映画のストリーを脚本に直し、それが「お母さんの結婚」として映画化されたことは、エッセイ「わが幻の吉原」に詳しい(注5)。しかし、不安定な身の上であることに違いはない。大学時代の恩師や先輩が心配し、大学教官への道を勧め、実際に後押ししてくれることになった。
本論考は、隆先生が大学教官として一度はアカデミズムの世界に入りながらも、「アカデミズムの世界」から「映画の世界」へと移らざるを得なくなるまでを、諸資料に基づいて概観することを目的としている。なお、この当時の隆先生は本名の池田一朗として記すのが妥当であり、研究業績を紹介する際も紛らわしいため、以下は「池田一朗」と敬称を略して統一した。
なお【本編】の構成は、「1、恩師辰野隆教授のいる中央大学へ」、「2、中央大学助教授時代の仕事」、「3、中央大学助教授を辞職した経緯」となっている。
【本編】
1、恩師辰野隆教授のいる中央大学へ
まずは、昭和25年に創元社を退社して以降の池田一朗の仏文研究業績を、年表形式で追ってみたい。雑誌発表作品の掲載年月は、便宜上、当該雑誌の月号を採用した。
表1 池田一朗の仏文研究業績年表
以上が、私が調査した全てである。昭和25年に創元社を退社してから昭和36年3月に中央大学助教授を辞職するまで、文献上で確認出来る仏文研究業績を可能な限り追ったつもりである。遺漏もあろうと思われるので、識者からのご教示を仰ぎたい。以下、個々の研究業績について、その内容と背景を検討していこう。
まず、雑誌『演劇』に発表された「四つのアンチゴーヌ—アヌイを中心として—」と「俳優の手帖〈2〉(訳)」は、失業期間中のアルバイト的な仕事だったと思われる。前者は、劇作家ジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』が上演されたが行けなかったため、台本を読んでまとめた劇作家論であり、後者は、執筆予定者が急病のためお鉢が回ってきたものだ。
アルバイトと言えば、劇作家、小説家として仏文関係者の間でも有名であった岸田国士の存在を忘れることは出来ない。岸田は上記の雑誌『演劇』に数多く寄稿しているし、岸田の弟子であった古山高麗雄の回想によれば、「私が彼に会ったのは、岸田国士訳『カザノヴァ回想録』の下訳料を渡すためであった。池田さんは東大仏文卒の秀才で、岸田国士の下訳をしていた」とある(注6)。
「文法とマラルメ」は、大学時代に苦労した文法の学習法をマラルメ読解に託して語ったものである。創元社時代に担当したルナン『思い出—幼年時代・青年時代—』の訳者である杉捷夫教授の著作の「月報」であることから考えても、杉教授の口添えがあったことは十分に想像出来る。ちなみに杉教授はメリメの訳業で名高い仏文の大先達であり、東京帝国大学で教鞭を取った経歴の持ち主であった。
池田一朗の研究業績で注目すべきは、東京大学の先輩に当たる加藤周一(医学部)、窪田啓作(法学部)との共訳で出したルイ・パロオ編『エリュアール詩集』である。表1で確認すると、立教大学講師となった翌月に刊行されている。共訳という形ではあるが、ともかく仏文専門書を一冊出しているわけであり、研究業績の一つとして数えられるべき仕事と解釈するのが妥当なところだろう。つまり、この訳書の刊行時期に注目したいのである。
『エリュアール詩集』の翻訳は、「もと加藤の擔當するところであったが、渡佛までに譯を了せず、ために窪田と池田が殘りを引受けた」のだった(注7)。本書は「詩集」とルイ・パオロによる「ポール・エリュアール」論から成り、全49編の詩のうち加藤周一が8編、窪田啓作が36編、池田一朗が5編を担当している。池田担当分が少ないように感じられるが、54頁に及ぶ「ポール・エリュアール」論の訳を一人で担当しているから、応分以上の仕事をこなしたと判断して良いだろう。
では何故、この時期にこの訳業が舞い込んだのだろうか。おそらくは、創元社を退社して経済的に困っていた池田一朗に対する、東大関係者の好意だったと思われる。この当時の状況について羽生真名氏が、「大学の先生方や諸先輩のほうが心配して下さり、とにかく立教大学でフランス語を教えることになった」(注8)と書いていることから推測すると、「池田君を立教大学に推薦したいが、業績がないことには強く推せない。幸い、池田君の先輩で面識もある加藤君が渡仏する。加藤君の仕事を窪田君と池田君に回して業績ということにしよう」と考えた人物がいた可能性が考えられるのだ。
この推測が許されるとして、その人物は誰なのか。それは、当時は東京大学を定年退官して中央大学教授となっていた池田一朗の恩師、辰野隆教授だったのではないだろうか。確かな証拠はない。しかし、大学関係者に限らず人事異動というのは、こういう手順を踏むのが一般的であろう。何の業績もない人間を好意だけで推薦することは出来ないのだ。訳書が立教大学講師となった後に出ているのは、原稿が遅れたためか、編集作業が遅れたためと思われる。一度は勤務した創元社から自身の著作を刊行してもらい、それによってアカデミズムの世界に身を置くこととなった。池田一朗の喜び思うべしである。
以上の私の推論を補足しておく意味で、“中央大学”の辰野隆教授が何故に池田一朗を“立教大学”に推薦した可能性があるのか、つまり、池田一朗が恩師の在職している“中央大学”に一足飛びに行けなかった理由について書いておきたい。理由は簡単なことで、おそらく中央大学に空いているポストがなかったのだろう。立教大学の講師となった翌年に中央大学の講師となっていることから推測すると、この時期、上手い具合に中央大学の講師の口が空いたものと思われる。
結果論ではあるが、池田一朗は最終的に恩師の膝元で学究生活を送ることとなった。そして、中央大学文学部仏文科の人事権は、当然のことながら辰野隆教授が握っていたと想像される。この点からも、ルイ・パロオ編『エリュアール詩集』の訳業を斡旋したのが辰野教授であり、そのことは「池田一朗を仏文学者として育てていく」という決意の表われではなかったかと考えられるのである。
2、中央大学助教授時代の仕事
中央大学で仏文学者として学究生活を送ることとなって1年後の昭和29年3月、池田一朗は立教大学のフランス語講師を辞職した。在職わずか2年間。羽生真名氏は、「カンニング防止など、試験時の学生管理を説かれたせいらしい(中略)いっそ刑事を雇ったほうが……という意味のことを言い、失礼にもその場でやめてしまった」と書いている(注9)。恩師の膝元である中央大学の講師となったわけであるから、もともと一時的に勤めるはずだった立教大学に未練はなかったであろう。
ところで、立教大学を辞職した29年3月、副業で続けていた映画脚本が「本名」で出てしまった。映画『坊ちゃん社員』である。この辺りの事情については、後にエッセイ「わが幻の吉原」で書いている。「翌年の四月から立教でフランス語の講師をやっていましたが、それだけでは食えないので、シナリオで食いつないでいた。最初は変名で出していたんですけど、二度目に間違って本名の池田一朗というのが出てしまった。もうしかたがないと思って、ケツまくりました」(注10)。
このアルバイトについて、特に周囲から注意されたという記録はない。「次の年、中央大学に選任講師でいって、その翌年には助教授になったんですけど、給料二万円ではやっていけない。ズルズルとシナリオを書き続けていた」(注11)という本人の事情を、周囲が許容していたのだろう。「シナリオはあくまで副業である」という好意的な理解において。
昭和30年4月、池田一朗は中央大学の講師から助教授に昇進した。管見の及ぶ範囲で仏文業績は見当たらないため、辰野教授の強い推薦による人事だったのかもしれない。「池田君、後は君のやる気に掛かっているよ」という辰野教授の声が聞こえてくるようだ。
本格的に仏文学者として活躍することを期待されたこの年、池田一朗は3つの仕事をしているが、いずれも内容が異なっている点で興味深い。
まず「映畫になった『性に目覺める頃』」は、自身が脚本を担当した映画『麦笛』(室生犀星原作)の解釈論である。原作を脚本化する際に、どのような点に注意を払って作品を解釈したかが語られている。前年3月に死去した岸田国士と共に岸田作品の映画化を鑑賞した思い出話を冒頭に据え、「脚色者がその原作に讀み取ったものを、如何に忠實に繪にするか、映畫という表現樣式の中に如何に消化して示すか、ということ。脚色者の力量はこの場において始めて問題になる」(注12)とし、仏文学者らしくスタンダールの『パルムの僧院』『赤と黒』の映画化作品を引き合いに出した後、自らの解釈論を展開している。このような文章を発表出来たこと自体、周囲の理解を示す傍証となるだろう。中央大学の同僚だった室井庸一助教授(当時。現在は中央大学名誉教授)は、「明るい好男子で、率直」、「アルバイトに映画のシナリオを書いているというので、時折洩らす斯界の内幕話に好奇心をそそられたりもした」(注13)と書いている。
次の「山師カザノヴァ」は、岸田国士訳『カザノヴァ回想録』を概観して、カザノヴァという人物の魅力を語った内容である。岸田国士訳『カザノヴァ回想録』の下訳を担当していたため、出版元である岩波書店から依頼があったものだろう。文中の「カザノヴァは忍耐などというものには少しも興味がない。その夥しい才能を勝手気儘に乱費することが彼の生甲斐である。何にでもなれるということが大半で、そのうちなにかになるということは真平なのである。自由自立、束縛のない放浪が幸福なのです」(注14)という指摘は、羽生真名氏の「雲のような人だった。ふわふわと空に浮び、お天気と風向きの他には、特に影響されるものもないようにみえる雲。風が吹けば流れて行き、その時々に色や形を変えておもしろがる、入道雲のような存在が隆慶一郎という人だった」(注15)との符合で興味深い。また、「運命は同時代のあらゆる実直にして慎重な人々よりもこの図々しい無法者の方に沢山の恵みをたれています」(注16)という観察は、後の『一夢庵風流記』における前田慶次郎像と重なるようにも思われる。
最後の「象徴主義の系譜に対する一瞥」は、池田一朗が発表した唯一の専門論文である。ポオ、ボードレールに源を発した象徴主義が、マラルメ、ランボオ、ヴアレリイへと受け継がれる系譜を、“照応の形而上学”や“音楽”の重要性という視点から瞥見した内容となっている。門外漢の私がこの論文を評価するのは“おこの沙汰”であろう。そこで、池田一朗の卒論に言及した陣野俊史の記述を紹介しておこう。同じことがこの論文にも当てはまると考えられるからだ。「池田一朗の文章に、ヴァレリーの政治学はない(中略)単に、池田一朗は想起するだけだ」「こうした見方を、すでにして研究者のそれではない、と断ずる(それも五十年を経た今から)ことはさほど難しいことではあるまい。実証性は毛ほども含まれていないのだから」(注17)。
翌昭和32年2月に刊行された佐藤朔・白井浩司篇『現代世界文学講座6 現代フランス篇』(大日本雄弁会講談社)では、「サン・テクジュペリ」の「作家評伝」と「作品解説」を担当し、昭和34年11月に刊行された安東次男編訳『世界名詩集大成5 フランス?』(平凡社)では、ジューヴ「証人」の訳を粟津則雄と担当した。おそらくは、研究業績を一つでも蓄積させるため、周囲の先輩や同僚が仕事を斡旋したものであろう。いずれの仕事も簡潔に手堅くまとめたものであり、作家の人物と物語の骨子を的確に抽出した点で、決して凡才ではない閃きを感じさせる内容である。
ただ、仏文学者としての池田一朗はこの時期、学究の徒としての将来にかなり懐疑的だったようだ。フランス語を教えながら、おそらくは象徴主義の研究を行なっていたものと想像されるが、研究対象とした詩人の本質に迫る方法が見付からず、絶望に近い心情を抱いていたことを後に述懐している。「学者になりたかったんだね。だけど、仏文というのは日本に居ちゃ学問にならないんだね。資料がないんだよ。今なら、向こう行ってマイクロフィルムとってきてってことも出来るけど、その当時はそんなこと考えられなかったしね。やってたのがサンボリズム(象徴主義。ボードレール、マラルメ、ランボー、ベルレーヌ、ヴァレリーにいたる詩)でしたから。例えば、馬鹿らしい話だけど、モンドールという金持の医者がいて、ベルレーヌの手紙も、マラルメの手紙も全部買っちゃってる、するとマラルメ伝というのはモンドールしか出来ないわけでね、そういうとこでもの凄く絶望した。それで辞めた」(注18)。
心情的に納得出来る点もあるが、一種の遁辞にしか聞こえない点もある。「仏文というのは日本に居ちゃ学問にならない」のであれば、恩師の辰野隆教授を始めとする諸先輩に倣って、本場のパリに留学する道もあったであろう。また、「マラルメ伝というのはモンドールしか出来ない」のであれば、日本の仏文学者にマラルメ研究は不可能という理屈になるが、実際にはそんなことはない。尤も、このような賢しらな指摘は後の人間が客観的に考えた結果であり、当事者にとってはどこまで行っても出口のない切実な問題だったことは間違いないだろう。ここでは、仏文学者池田一朗が研究対象及びその方法論について悩んでいたらしいことだけを指摘しておこう。
3、中央大学助教授を辞職した経緯
私の手許に、室井庸一「池田一朗事件のこと」という回顧談がある。『中央大学文学部紀要』第190号(文学部創立50周年記念)に掲載されているから、誰でも読むことが出来る。この僅か3頁の回顧談に、池田一朗が中央大学助教授を辞職せざるを得なくなった経緯が記されている。なお、室井庸一は東大仏文の同期であり、中央大学では同じ助教授として親しく付き合った仲であった。以下、この回顧談に従って当時の状況を追ってみよう。
池田一朗にとって中央大学文学部仏文科の魅力は、「何より大学時代の恩師辰野豊先生が居られたこと」であった。しかし、いつの頃からか「彼の休講が目立ち始めた」。「教授会はおろか、研究室会議にも姿の見えないことが多く、アルバイトの方に力を入れすぎているのか、それともほかに青春の逸楽に耽りすぎているのか(彼はハンサムだった)、たまたま出講した彼に苦言まじりに訊ねてみたが、彼はどちらの理由もあっさり否定した。否定はしたが、本当の理由は口外しないのである」(注19)。
中央大学助教授となった昭和30年4月以降、昭和36年3月に辞職するまでの6年間で、池田一朗が脚本を担当した映画は41本封切られている。その間、昭和34年10月の『にあんちゃん』ではシナリオ作家協会賞を受賞した。「短気の結果」、東宝から日活に移った(注20)のも中央大学時代と思われ、『陽のあたる坂道』『赤い波止場』など、若きスター石原裕次郎のために多くの脚本を提供している。かなり忙しい毎日だったと思われるが、休講の原因は必ずしも映画の仕事に追われたわけではなかったようだ。
しかし、「教師の休講頻度にも限度がある。その自ずからな限度をこえれば、職員も心配するし、学生も問題にしはじめる。教授会の話題になるのも避けられない。そういう事態になるのをいちばん心配されていたのは、事実上の主任教授として仏文科を掌握されていた秋山晴夫教授であった」。同僚の室井助教授は秋山教授から「池田君に注意してやれよ」「辰野先生にご心配をおかけしないようにな」と懸念を示された(注21)。
室井助教授が何度か秋山教授の言葉を伝えるうち、池田一朗の「周囲にいろいろな風評が立ちはじめた」。「病気休講のご本人が都内のさる場処を颯爽と歩いていたとか、二、三の女子学生がしきりに本当の出講日(!)をききに研究室に来るようになったとかいう類いの、虚実さだかならぬ類いのものであった」。そして遂に秋山教授の命令で、室井助教授が「本当の理由」なるものをどうしても聞き出すことになった(注22)。
「ある夜、新宿のさる地下酒場で彼をつかまえて眞相を教えろと迫った時、彼は、はじめはいろいろ遁辞を並べていたが、やがて彼の呟くように洩らした短い、くるしげな告白を耳にして、これが本音だなと悟った。実は池田君は、出講の義務も予定日も忘れたわけではない。頭の片隅にいつもぼんやりとわだかまっているのだが、それが、半ば夢ででもあるかのように希薄な感じで、切実な現実感がないから困るのだというのである。胸苦しい夢の中でくるしんでいるような気持ちだというのである」(注23)
「そのうち、彼が脚本家を本業として選んだという噂が流れ、それはどうやら事実らしかった。その時点で、教授はやむなく退職勧告を決断された。しかし池田君は拒否した。一つには、脚本家としての将来に何の保証があるわけでもない御本人の不安のせいであろう。遂に教授は匙を投げて、池田君が尊敬できるただ一人の恩師辰野先生の出馬を要請された。
ある日、辰野先生は私を呼んでこう嘆息された。
『室井君、ぼくは今まで、誰一人むりに辞めさせたことはないんだよ』
それに、先生は池田君の男らしい人柄をかねがね愛しておられたのだ。私は、返す言葉もなかった。その翌日、池田君をさがし当てて先生の心情を伝え、自ら辞職するように最後の説得をこころみた。
池田君はきっぱりとこう答えた。
『俺は、辰野のおやじの口から直接申し渡しを受けたいよ』
こうして、彼は中大を去ったのである」(注24)
昭和36年3月、仏文学者池田一朗は恩師辰野隆教授直々の退職勧告を受け、中央大学助教授を辞職した。時に池田一朗、37歳。辰野教授は当時73歳と老境にあり、東大仏文時代の最後の弟子を退職させる心痛はいかばかりだったであろうか。普通ならば、これまでの経緯から「裏切られた」と感じたであろうが、辰野教授の懐は限りなく深かった。自身が初めて退職させた若い弟子のために、新たな就職口を世話しようとしたのである。
シナリオライター池田一朗に師事した松岡せいじは、次にように記している。「昭和三十八年のある日、夫人が珍しく愚痴をこぼされた。『九州大学の先生の口があったんですのよ。あの時、受けててくださればねえ……』(こんなやり繰りの苦労もせずに済んだでしょうに)というニュアンスが篭もっていた/隆慶一郎はその時、ただ黙って苦笑いを浮かべていたが、内心では自分の我がままを許してくれと夫人に詫びていたのではないだろうか」(注25)。
池田夫人は「辰野先生」とは明言していないが、九州大学の口を世話したのが辰野教授だったことは用意に推測出来る。「男らしい人柄をかねがね愛しておられた」ことに加えて、初めて退職勧告をした弟子の行く末を案じて、さらには映画の脚本で食べていけるかどうか不安を抱いていた本人の身を案じて、このような措置を取られたのであろう。辰野教授にとって、隆先生は若手の愛弟子だったと思われる。
では、何故九州大学だったのだろうか。いくつかの理由が考えられるが、第1に、東京近辺の大学では角が立ち、池田一朗本人も肩身が狭く、辰野教授も関係者を説得出来ないこと。第2に、おそらくは辰野教授の有力な知人が九州大学にいたと思われること。第3に、これが一番重要な理由だと思われるのだが、これは一種の“踏絵”だったと推測出来ることである。つまり、九州という東京から遠く離れた地方への就職を世話することで、アカデミズムの世界と映画の世界のどちらで生きていくのかを選択させたのではないだろうか。九州大学の口を世話したと思しき辰野教授の意向は、「池田君、映画の世界とは手を切って、もう一度仏文研究に専念しなさい」というものだったと考えられる。
しかし、池田一朗は恩師の厚意を受けなかった。理由は判らない。アカデミズムの世界への未練はあったが、「辰野のおやじにこれ以上の迷惑はかけられない」と考えたのか、映画脚本の仕事だけでなくテレビの脚本も手掛けるようになっていたため、脚本家として生きていく自信を少しでも持つようになっていたのか……。
ともあれ、このような経緯で、池田一朗はアカデミズムの世界を去り、映画やテレビの世界で生きることとなったのである。そして3年後の昭和39年2月28日夜、恩師辰野隆教授は胃癌のため虎ノ門共済病院にて午後11時25分永眠した。享年76歳であった。
【後書】
この論考では、仏文学者としての池田一朗の業績を可能な限り明らかにした。立教大学、中央大学で教鞭を取るに至った経緯についても、推測を交えながらではあるが根拠も提示しつつ検討を行なった。さらに、中央大学を辞職するに至った経緯については、当時の同僚であった中央大学名誉教授室井庸一氏の回顧談に全面的に依拠して紹介した。深く御礼申し上げる次第である。
作家隆慶一郎の前半生は、創元社の編集者時代、大学教官時代、シナリオライター時代に区分されるのが一般的であると思われる。創元社の編集者時代については隆先生の手によるエッセイが遺され、シナリオライター時代については隆先生のエッセイ以外にも、関係者や友人、そして弟子の方々による手記が刊行されている。しかし大学教官時代については、概観した内容のものがこれまで皆無であった。この論考がその一端でも明らかにし、隆慶一郎という人物に少しでも近づく縁となれば、これ以上の幸いはない。なお、遺漏や思わぬ検討ミスもあろうかと思われるため、識者からのご教示やご批判を頂戴したい。
最後になりましたが、本論考を書くに際して参考とさせて頂いた著作、論文の著者の方々、池田一朗関係資料をご教示下さった近畿大学附属図書館の司書の方に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
(2005年8月15日)
【注記】
(注1)ルナン/杉捷夫訳[1949]、399頁。
(注2)隆慶一郎[1993]、177頁。羽生真名[1991]、33頁。
(注3)槌田満文[1990]、26頁。
(注4)隆慶一郎[1993]、178頁。羽生真名[1991]、36頁。野平健一[1992]、200頁。
(注5)隆慶一郎[1993]、178‐179頁。
(注6)古山高麗雄[1989]、680頁。
(注7)ルイ・パロオ編/加藤周一・窪田啓作・池田一朗訳[1952]、227頁。
(注8)羽生真名[1991]、33頁。
(注9)羽生真名[1991]、33頁。
(注10)隆慶一郎[1993]、179頁。
(注11)隆慶一郎[1993]、179頁。
(注12)池田一朗[1955a]、15頁。
(注13)室井庸一[2002]、23頁。
(注14)池田一朗[1955b]、14頁。
(注15)羽生真名[1991]、7頁。
(注16)池田一朗[1955b]、14頁。
(注17)陣野俊史[1995]、133頁。
(注18)池田一朗[1980]、8頁。
(注19)室井庸一[2002]、23‐24頁。
(注20)羽生真名[1991]、73頁。
(注21)室井庸一[2002]、24頁。
(注22)室井庸一[2002]、24頁。
(注23)室井庸一[2002]、24‐25頁。
(注24)室井庸一[2002]、25頁。
(注25)松岡せいじ[1997]、167頁。
【参考文献】
池田一朗[1955a]「映畫になった『性に目覺める頃』」『文庫』第43号、15‐17頁。
池田一朗[1955b]「山師カザノヴァ」『文庫』第50号、11‐14頁。
池田一朗[1980]「仕事場訪問? 池田一朗」『ドラマ』第2巻第9号、6‐10頁。
陣野俊史[1995]「透明で明澄な絶望」『現代詩手帖』第38巻第2号、132‐137頁。
辰野隆[1991]『忘れ得ぬ人々』講談社文芸文庫。
槌田満文[1990]「池田一朗さんのこと」『大衆文学研究』第93号、26頁。
野平健一[1992]『矢来町半世紀』新潮社。
羽生真名[1991]『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』講談社。
古山高麗雄[1976]『岸田国士と私』新潮社。
古山高麗雄[1989]「水の如く、木の葉の如く」『小説すばる』冬季号、680‐681頁。
松岡せいじ[1997]『隆慶一郎 男の「器量」』コアラブックス。
室井庸一[2002]「池田一朗事件のこと」『中央大学文学部紀要』第190号、23‐25頁。
隆慶一郎[1993]『かぶいて候』集英社文庫。
ルイ・パロオ編/加藤周一・窪田啓作・池田一朗訳[1952]『エリュアール詩集』創元社。
ルナン/杉捷夫訳[1949]『思い出—幼年時代・青年時代—』創元社。
「お母さんの結婚」
「お母さんの結婚」〜脚本家池田一朗の誕生
著者:ぱろっと
ここに一冊の古びたシナリオがある。B5版で50枚位、藁半紙に手書きの文字がコピーされたものだ。題は「波紋」。先日神田でこれを買い求めた際には横に「お母さんの結婚」とメモが貼られてあった。
「お母さんの結婚」といえば「我が幻の吉原」(『かぶいて候』集英社文庫、1993、pp178〜179)に記される池田一朗脚本の記念すべき第一作。東宝椎野英之氏の勧めで書いたとされるものだ。同書には次のように書いてある。「最初は変名で出していたんですけど、二度目に間違って本名の池田一朗というのが出てしまった。もうしようがないと思って、ケツまくりました。」翻ってシナリオの方を見ると、脚本家の名前は「池田和夫」。確かに「池田一朗」の変名と考えられなくはない。内容も「お母さんの結婚」というにふさわしいものである。
ではこれが隆氏の書いた第一作目のシナリオに間違いないのか。期待は膨らむ。だがシナリオの題はあくまで「波紋」となっている。最初についていたメモ紙も包装時に取り払われてしまっていた為、筆者の勘違いという事があるかもしれない。念のためこれを買った古本屋に問い合わせてみる事にした。
古本屋のご主人によると、シナリオの題が変更されるのはよくあることであるという。では「波紋」を「お母さんの結婚」と比定した根拠はなんなのか。ご教示いただいた所をかいつまんで述べると、まず台本タイトルには「波紋」とあるが日本映画でこのタイトルの作品は製作されていない。従って、このタイトルが仮題である可能性が高くなる。次に正式なタイトルを調べるべく、脚本としてクレジットされていた「池田和夫」の作品一覧を調べると、池田和夫の映画作品は「お母さんの結婚」一本だけであることが確認された。となると、台本は「お母さんの結婚」である可能性が非常に高い。確認のため、台本と「お母さんの結婚」のスタッフ、登場人物名が合致しているかをチェック。結果「お母さんの結婚」と判断した、ということになるそうだ。
これで手元の「波紋」が「お母さんの結婚」というタイトルで映画化されたことはほぼ間違いないことがわかった。しかし果たして「池田和夫」が「池田一朗」の変名であるか否かには未だ確証がない。ご主人もこちらは不明との事であった。
そこで以下、年次からの比定を試みる。
まず、通常のシナリオ名鑑によれば池田一朗の映画デビューは1954年。「坊ちゃん社員」という映画であった。一方「お母さんの結婚」は日本映画新社のデータベースによれば1953年の製作である。年次としては極めてふさわしい。
ここでご息女羽生真名氏の書かれた『歌う舟人—父隆慶一郎のこと』(講談社、1991)72頁に次のような記述があるのが目にとまった。「昭和28年、父がシナリオを書き始めたのは、創元社時代から交友のあった東宝のプロデューサー、椎野英之氏の勧めによる。」 昭和28年といえば1953年。まさに「お母さんの結婚」の世に出た年である。世間に知られているところの脚本家生活開始年と、本人の意識していたそれとでは1年の差があることがわかる。「池田和夫」の映画作品が同作一本だけであることをみても、どうやらこの作品が池田一朗の変名で出した第一作と考えて間違いはなさそうだ。(註1)
・・・と、ここまで考えてきてふとネットで検索を懸けてみた。すると何の事はない。goo映画に「日映の劇映画製作第一回作品。法大、立大の仏文学講師池田和夫が東宝の脚本第一期生としてはじめて書いたオリジナル・シナリオによって「嫁ぐ今宵に」の齋藤達雄が二度目のメガフォンをとっている。撮影はニュース・カメラの白井茂、音楽も映画に初登場の中田喜直(芥川也寸志と同期)である。「愛情について」の二本柳寛、藤原釜足、千石規子、「母と娘(1953)」の坪内美子、の英百合子、また「嫁ぐ今宵に」の子役加島春美、斎藤監督の姪の小林すみ子などが出演している。」とはっきり出ているではないか(笑)。法大はよくわからないが中央大学の事だろう。「我が幻の吉原」に出てくる映画関係者が躍起になって池田氏に脚本を書かせようとしているように見えるのも、脚本家が少なく人材発掘期に当っていた為であるらしい。
以上ながなが検討を重ねてきたが、まあそもそも最初の古本屋さんの推定を信じていればよかった話で、プロにはかなわないという事だろうか。せめてもの自己満足に、あらすじ紹介と感想を少しばかり書き込ませていただこう。
<あらすじ>
健一には父がいない。ある日飼い犬の血統のことから友達と喧嘩となり、健一はいないお父さんにみんなの前で電話をかけなければならなくなった。健一はあきらめ顔ででたらめにダイヤルをまわす。たまたまその電話にでたのが野田商事の課長岡田宏だった。彼は三十六才、妻と子を相次いでなくしており、健一の声を無意識に我が子と重ね合わせる。そして彼は健一の仮のお父さんになる事を約束するのだった。健一の誕生日祝いにグローヴをおくったことから二人の関係が健一の母澄江に知られ、澄江は岡田のもとにお礼に出かける。岡田と澄江はともにそれまで再婚を拒みつづけてきたが、この邂逅を機に両者は互いに惹かれあっていく。しかし健一は独占してきた母の愛を岡田に奪われるような、一種の不安におそわれる。殊に北海道栄転のきまった岡田が澄江に求婚してからというもの、その不安が激しくなった。澄江がプロポーズの返事をするため出かけて行くと、それを察した健一は悲しみに憑かれて遠く自転車を走らせ、迷い子になって警察に保護される。澄江は岡田との結婚をあきらめる気になった。岡田が札幌へ立つ朝、上野に見送りに出た澄江に、岡田は「いつまでも待ちますよ」と約束をする。汽車が徐々に動き出し、見送る母子。やがて健一が突然叫んだ。「おとうさあん!」。澄江の目に涙があふれ、母子は駅を後にしたのだった。
<感想>
筆者は脚本に関してずぶの素人であるが、それでもこの作品は初めて書いたシナリオとは思えない程よく出来ている。冒頭、銀座の洋裁店からして映像が目に浮かぶようであり、話としてもなかなかに面白い。ことに健一が自転車で遠乗りし、岡田に貰った宝物のグローブを捨ててくるくだりなどは仲々胸に迫るものがある。
さて、隆慶作品の特徴といえば「にあんちゃん」に代表されるように子供の描き方の優れていることが挙げられよう。本作も、時々母澄江の視点が入ってしまうものの、基本的には健一の視点から描かれた物語である。子供社会のいじめ、同じ母子家庭の混血児エマとの交流、捨て犬を拾ってくるエピソードなど生き生きと子供の社会を描ききっており、後の作品に繋がるものを感じさせる。
本作の主題は新しい父を受け入れる健一の心の葛藤である。隆慶作品には秀忠はじめ忠輝、岩助、成貞、慶次郎など父子関係の描写が比較的多いように思うのだが、池田氏自身の体験など何か影響を与える所があったのだろうか。ちなみに健一が拾ってくる子犬の名前、作中では「五郎」とつけられているのだが、羽生氏前掲書41頁によると昭和27年前後から池田家には秋田県の雑種で「五郎」という忠犬が飼われていたらしい。飼っていた犬の名前を劇中に使ったか、あるいは初作品に出てきた犬の名前を飼い犬につけたか。作中での「五郎」はやや突飛な感じがするので、恐らく前者であろう。
以下、映画情報である。
お母さんの結婚
製作=日本映画新社 配給=東宝 1953.07.01 7巻 1,800m 白黒 、66分
製作 ................ 中村正
監督 ................ 斎藤達雄
脚本 ................ 池田和夫
撮影 ................ 白井茂
音楽 ................ 中田喜直
美術 ................ 北川恵笥
録音 ................ 国島正男
照明 ................ 近藤兼太郎
出演 ................ 二本柳寛 坪内美子 藤原釜足 加島春美 斎藤達雄 英百合子
ちなみにこの映画、ビデオも出ているそうなので見つけた人は是非御覧あれ。
(註1) 羽生氏が「次に中央大学の専任講師から助教授になり、以後はフランス語を教えるかたわら、昭和二十八年ごろから本名の池田一朗で映画のシナリオを書き始めた。」と書いておられるのは、だから若干不審である。

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