歴史用語の基礎知識

ポルトガル及びイエズス会関連用語

 イエズス会関連文書に現れる主な用語を五十音順に配しました。

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【イルマン】 司祭職に叙階されていない者のことで、一般に助修士を指し、司祭職であるパードレを補佐した。また信者の協働組織であるコンフラリアの構成員もイルマンと称された。

 

【海禁政策】(かいきんせいさく) 元末から明初にかけて、中国沿岸の海上には倭冦などの武装商人の集団が横行し、たびたび沿海地に上陸して掠奪などの騒擾事件を引き起こしていた。この種の武装商人集団の行動は、政権の統一と国内の秩序維持に努めていた洪武帝には黙視できないものであったため、朝貢船以外の来航を認めず、国内の人民には下海の禁止を発令し海上進出を一切禁じた。この政策は明朝に入って恒久化され、およそ二世紀にわたって存続した。

 

【カピタン】 capitan. 司令官という意味。ポルトガルのカピタンは、通常、王室財産監督官一人、書記など下級役職人数人、商務員一人の補佐を受け、赴任地における王室貿易を監督した。また司令官は、その任期中に独占的航海を行なう権利も有していて、一度司令官の職に就けば、巨万の富を獲得することができた。これを「カピタン=モール制」といい、インドでのポルトガル役人の腐敗と堕落の温床の一つとされている。ヴァリニャーノは、1574年十二月二十五日付、ゴア発の総会長宛の書簡において、インド駐在のポルトガル役人の腐敗のありさまを詳しく記している。

 

【クルザド】 cruzado. ポルトガル領東インドで使用された貨幣は種類が多く、制度上の変化も著しく、各貨幣の価値の変動も大きかった。このため、各貨幣間の公定換算率また実勢換算率との間に大きな乖離があったため、そのすべての貨幣に関して、現在の貨幣価値に換算することは史料上ほとんど不可能といえる。「クルザド」はポルトガル人が1510年のゴア占領直後に発行した金貨のことであり、当時、ゴアで流通していたパゴダ貨やホーン貨と同じ大きさ・価値・重量であった。ポルトガルにおいて鋳造されていた金貨は、いわゆる「計算貨幣」として流通しただけで、ポルトガル本国のクルザド金貨を必ずしも極東で使用していたわけではない。フェリぺ一世時代(1581〜98)の1クルザド金貨は400レイス(reis)(レイスはレアルの複数形で、古くからポルトガルで使用されていた基本的な貨幣単位)であった。また1クルザドはおよそ銀1ペソ、あるいは8レアル貨と同等の価値を有するものとされた。1510年にアルブケルケがゴアで鋳造したクルザド貨は420レアルに相当し、黄金にすると約60gに相当。アントニオ・ヌネスによると、1554年頃の中国では、1クルザドは銀5タンガに相当していたという。ジョアン・ロドリーゲスは、1604年当時、1クルザドを中国の銀1タエル(両)、日本の銀1匁に等しいと書き残している。1637年になると、ゴアでは1クルザドが12シェラフィンの価に相当していたらしい。なお最古のクルザド貨はアフォンソ五世が鋳造したもので、253レアルに相当したという。

【パルダウ】 pardau. スペイン語で「パルダオ」、ポルトガル語で「パルダウ」と称される貨幣の一種。特にパルダウ金貨は「パゴダ」と称された。銀貨の場合、1パルダウはおよそ300レイス、金貨ではおよそ360レイスに相当した。一般に「パルダウ銀貨」が使用されることが多かったとされ、「パルダウ金貨」と区別するために「タンガ貨のパルダウ」(pardau de tangas)「ラリンス貨のパルダウ」(pardau de larins)とも称される。また「シェラフィン」(xerafim)というインドで鋳造された銀貨と同価であったことから、「パルダウ銀貨」と「シェラフィン」は混用されることが多かったという。

  

【コレジオ】 colegio. イエズス会の教育機関の一つ。セミナリオでの学習を終了した者でイエズス会への入会を志願している者が、修練院での修練を済ませてから、さらにより高度な哲学や神学などを修学するために創設されたイエズス会の高等教育機関。イグナティウス・デ・ロヨラ(イエズス会創始者)が死去した1556年当時には、修学修士の勉学のためのコレジオ、修学修士とイエズス会以外の一般青年が混じって正規の教授資格をもつイエズス会員による講義と指導を受けるコレジオ、もっぱら一般青年を対象とするコレジオなど、各様のコレジオが存在していた。しかし、イエズス会の各種公式記録では、将来司祭職に就くために誓願の準備をしているイエズス会員のためのコレジオと、一般青少年のためのコレジオとは、明確に区別されている。コレジオはその機能や規模、目的によって「casa de formacion」「colegio de professores」「colegio de externos」「convictorio」「colegio maximo」「universidades」などに分類される。その意味する概念や機能を日本語で明確に表わすことは難しい。カーサやレジデンシアが原則として信者からの喜捨だけしか認められていなかったのに対し、コレジオは喜捨以外にも動産・不動産などの定収入(renta:レンタ)の獲得とその所有が認められていた。この点について高瀬好一郎氏は「イエズス会の諸機関の内、レンタ所有が許容されるのはコレジオ・修練院・大学で、…コレジオと修練院にレンタの所有が許されたのは、いわばT正会員Uになる前の修学生の養育のためである」と述べられている(『キリシタン時代対外関係の研究』吉川弘文館、1994年、13頁)。

 

【裁治権】(さいちけん) potestas jurisdictionis. カトリック修道会が、その宗教的目的を達成するために、信者たちを裁治する権能のことで、通常、司法・行政・立法の各権限を伴う。イエズス会の場合、『イエズス会会憲』第四部第十一章の規定によると、民法及び刑法上の問題に関して、イエズス会員が判事としての役職を受け、遂行することは原則的に禁止されていた。しかし現実には、インドの在地権力者とポルトガル官吏との間の法的トラブルなどを解決するに当たり、イエズス会宣教師は、教会法や神学的知識を用いて一種の判事的役目を遂行することが求められていた。また、そのような高度に専門的な知識者として、インド原住民の刑事問題や民事問題などにも介入し、その調停者としての役割を果たすことも必要であった。更にイエズス会宣教師は、戦争の決定や和睦の調停など、インドにおける司法・行政の問題にも、行政官として、ポルトガル人官吏と共同して介入することが認められていた。

 

【司教】(しきょう) 司教とはイエスの十二使徒の後継者で、司祭の上に立ち、その主たる聖務はカトリック教会の信徒共同体を司牧することにある。この司教の管轄する地域のことを司教区という。司教職の階位については、司教・大司教・首都大司教・総大司教の順で、より上位の裁治権を有している。大司教の裁治権が及ぶ地域を大司教区という。ローマ式典礼およびローマ教会法が行なわれているすべてのカトリック教会の総大司教がローマ教皇である。

【首都大司教】(しゅとだいしきょう) カトリック教会の階位において、総大司教に次いで裁治権を有する司教位。一定の教会行政管区の長で、配下の属司教に対して監督権を行使し、司教会議を主催する権能を有する。ポルトガルのインド進出に伴い、1534年十一月三日付で、ローマ教皇パウルス三世の大勅書によってゴアに司教区が設置された。その管轄区域は喜望峰からインド全域にわたる広範なものであった。その後、1557年二月四日付ローマ教皇パウルス四世の大勅書により、ゴア司教区は「首都大司教区」に昇格、ゴアに首都大司教が置かれることとなる。なお現行『カトリック新教会法典』では、「首都大司教」には「首席大司教」「管区大司教」の訳語があてられている。

 

【司教座聖堂】(しきょうざせいどう) ecclesia cathedralis. カトリック教会において、「司教座」(cathedra)が置かれている司教区の中心となる聖堂。司教座は教会の祭式中、司教が座している椅子のことだが、ここから司教の権威、もしくはその権威ある教えの象徴を意味するようになった。司教座聖堂は教区聖堂や参事会聖堂よりも格付けは上とされる。十九世紀になると、パリのノートル・ダム大聖堂など、十二世紀後半以降の北フランスを中心としたゴシック様式による巨大聖堂も司教座聖堂に加えられる。当初の司教座聖堂は、古代ローマの集会所であったバジリカ様式を継承し、ローマの総督や財務執政官の座す椅子に司教座が取って代った。八世紀頃には大聖堂は洗礼堂、司教館と共に司教座聖堂複合体を形成するのが一般的となり、二つの大聖堂が並列する例も見られるようになった。大聖堂には付属学校が付置されることもあり、十三世紀に都市の大学が取って代わるまで、その地の文化・学問を担う拠点としても機能した。

 

【司祭】 padre. カトリック教会における叙階の一つ。司教の下に位置し、一般には教会を統轄し儀式を司る。また小教区内の司牧を行なう。

【教区司祭】(きょうくしさい) clerigos. 修道会に所属せず司教区に所属し、その司教区の司教の管轄下で信者の司牧の業務に当たる非修道会員司祭のこと。修道会に所属する司祭は修道(会)司祭という。ちなみに、日本における初の邦人教区司祭は、長崎代官村山当安の子フランシスコ村山ら三人で、彼らは1600年に叙階された。

【助任司祭】(じょにんしさい) カトリック教会で小教区の司牧全般において主任司祭を助け、必要な場合には主任司祭の代理を務める司祭。主任司祭と共に小教区の司祭館で共同生活をする。助任司祭は原則として所属教区の司教から任命されるが、修道会の司祭が助任司祭に就く場合は、所属修道会の上長から主任司祭への諮問と司教への推薦を経て、最終的に司教によって任命される。

【聴罪司祭】(ちょうざいしさい) カトリック教会の秘跡の一つである「赦し」において、信者の罪の告白を聴く司祭のこと。聴罪司祭は、赦しの秘跡を受ける者と、神および教会との和解を仲介することとなる。

 

【四旬節】(しじゅんせつ) cuaresma. キリストが行なった四十日間の断食、受難、十字架上の死を想起し、また自身の宗教的聖化を高めるために、教会が定めた悔い改めの時期のこと。具体的には「灰の水曜日」に始まって、キリスト復活の前日までの六週間半をこれに充てる。

 

【下地区】(しもちく) ヴァリニャーノは日本を下・豊後・ミヤコの三地区に分け、それぞれに地区長(superior local)を配置して日本布教を統轄させた。下地区は現在の長崎県を中心とする地域を指していた。

ミヤコは京都の事で、畿内一帯を指していた。

 

【ジャンク船】(じゃんくせん) 現在では一般に中国風の船舶を指す言葉であるが、当時は東南アジア方面で使用されたナウ船に次ぐ大型帆船の呼称だった。

 

【修練院】(しゅうれんいん) イエズス会への入会希望者は、実際に入会する前に、本人の知力や精神の安定度、道徳性や入会動機などを調べられたうえで入会が許可される。この経過を経て「修練者」(novicius)になると、修練院での二年にわたる、祈り、霊的読書、肉体労働、「霊操」などの研修を行なう。そして、この修練期の終わりに、イエズス会員への人生を選択鵜した場合は、「清貧」「貞操」「従順」の終生誓願を立てて、修学修士になる。

 

【巡察師】(じゅんさつし) Visitador. 当初はイエズス会の組織上の通常役ではなく、ある特定の目的のために派遣される一時的な役職。その任期と権限に一定の任期はなく、その目的を達成した時点、あるいは任期中に総会長が死去した場合には自動的に終了するものであった。しかし、イエズス会の東洋布教地はローマのイエズス会本部から最も遠く離れていただけでなく、その状況はヨーロッパのものとは異なり、ヨーロッパの事例だけでは解決が困難な問題を抱えていた。そこでヴァリニャーノは上に記した事情に鑑みて、見解を総会長に上程、総会長は彼の見解を受け入れた。このことにより、東洋布教地の巡察師はこれまでの慣例とは異なりイエズス会の通常役となり、普通の巡察師よりも広範な権限(管区新設の認可やコレジオの設立、イエズス会士として不適格者の会からの退会の決定など)を与えられた。

 

【聖金曜日】(せいきんようび) viernes sancto. 「聖週間」(sacra hebdomada)(復活祭前の一週間)中の金曜日に、キリストの十字架上の死を記念した日のこと。

 

【聖職禄】(せいしょくろく) beneficium. 聖職者の生活を維持するために聖務に付随する教会財産や収入のこと。

 

【荘厳洗礼】(そうごんせんれい) 現在では厳密な規定はないが、司祭や聖歌隊などを伴って施される洗礼の司式で、洗礼の意義・内容を豊かにすることが、その目的とされる。ヴァリニャーノが滞在していた頃のゴアで、どのような盛式荘厳洗礼が行なわれていたか、その詳細は不明であるが、この盛式荘厳洗礼についてヴィッキ師は、1557年十一月三十日付、ゴア発のルイス・フロイスの書簡を例示している。そのフロイスの書簡が記すところによると、受洗者たちは晩課が終了後、ゴア大司教、インド総督、聖歌隊を交えた一行と共にサン・パウロ・コレジオから洗礼式を行なう教会へと向かった。受洗者らは蝋燭を手にし、聖歌隊の子供たちはフルートやトロンボーンなどの伴奏で『旧約聖書』中の「詩編」や賛美歌を歌い、教会は旗で色とりどりに飾られていた。このような形で洗礼が施されると、全員が秘蹟の祈りを唱えて終了したという。ヴァリニャーノ滞在当時のゴアにおける荘厳洗礼も、フロイスの書簡に記されているものと、ほぼ同じ形式で行なわれたものと思われる。『イエズス会会憲』第四部第一章細則Aによると、「荘厳」はイエズス会のこれまでの習慣、荘厳ミサが挙げられる土地の習慣に従って解釈すべきものであるとされている。つまり典礼として確定的な形式があったわけではなく、イエズス会に旧来から伝わる各地での「慣習」が「荘厳」の実質的な在り方を規定していた。

 

【荘厳ミサ】(そうごんみさ) missa solemne. 歌ミサにより、蝋燭、香炉などキリスト教の様々なシンボルを用いて行なわれるミサの事。助祭、副助祭、聖歌隊なども伴うことがある。現在の正式名称は「盛時ミサ」といい、かつては「盛儀ミサ」ともいった。

【歌ミサ】(うたみさ) missa cantada. 我が国の正式名称は「歌唱ミサ」という。これはミサの司会者とミサに参列する会衆が役割を分担しつつミサ全体を歌うもので、カトリック教会におけるミサの標準的な形態。祈りをより深いものとするために、またミサ自体をより豊かなものにするために、対話句などの重要な箇所から歌う歌唱ミサが奨励されている。

 

【托鉢修道会】(たくはつしゅうどうかい) orodines mendicantes. 十三世紀頃にヨーロッパであいついで成立した修道会で、托鉢行に従事しつつ使徒的生活を追求することを目的とする。フランシスコ会、ドミニコ会、カルメル会、アウグスティノ会が代表的な托鉢修道会である。

 

【ナウ船】(なうせん) 大航海時代の主役を勤めた大型帆船のこと。船体は30mほどのものが一般的であったが、中には45mに達するものもあった。ナウ船は一般的に武装しているが、特に大砲などで重武装しているナウ船もあり、これをガレオン船といった。

 

【ピコ】 ピコはマライ語「pikul」の対音で、人一人が担げる重さを意味し、およそ60Lから61Lの重量とされる。

 

【秘蹟】(ひせき) sacrament. 人類救済のためにキリストが制定された神の「愛」と「恵み」の徴。カトリック教会には、洗礼、堅振、聖体、告解、終油、結婚、叙階の七つの秘蹟がある。

 

【副王】(ふくおう) インド副王、メキシコ副王など。「副王」「総督」の役職は、大航海時代を俟つまでもなく、イベリア半島において既に存在していた。しかし、ポルトガル、スペイン両国家による海外進出、特にスペインによる「西インド」すなわち「新大陸」の植民地経営が行なわれるに至って、「副王職」が前代よりも顕著に制度化されるようになった。コロンブスが1492年四月にカトリック両王との間で結んだ協約には、彼が発見する島と大陸に対して、カトリック両王の「副王兼総督」(visorrey y gobernador general)とする条項があった。その後、新大陸における征服・植民の進展に伴い、「総督」(gobernador)、「前線総督」(adelantado)、「総司令官」(capitan general)、「最高司法行政院長官」(audiencia)など、スペイン王室に直結する職制が設置された。「副王」は任期三年で、スペイン王権の行使者として強大な権限を持ち、破格の給与を得ていた。また副王はその職に就任すると、自動的に自己の治める副王領内の最高司法行政院の「院長」(presidente)を兼務した。一方、ポルトガルの海外領土において「副王」による統治が実際に行なわれたのは「東インド」と「ブラジル」であった。特に東インドは新大陸におけるスペインの植民地とは異なり、「副王領」が形成されたわけではなく、副王」(vice-rey)の称号を与えられた者がいたにすぎないのである。ポルトガルの東インド総督も任期は三年であった。ポルトガル国王が1505年にドン・フランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督(彼は副王の称号も与えられた)に任命して以後、1640年までに四十六人の総督が誕生したが、その中で副王の称号を付与されたのは約半数の二十四人とされる。つまり東インド領国をポルトガル国王に代って統轄した総督には、「副王」の称号を帯びた者と帯びない者がいたのである。ポルトガル国王は安易に総督を副王に任じなかったわけであるが、中には副王に相応しい人物であっても、総督の地位で終った者も少なく無かったといわれる。また、東インド領国の統治に関して発布された「勅令」の様式などは、「副王」の称号を帯びた者であれそうでない者であれ、両者の間には基本的な相違はなく、統治に際しても、副王が総督よりも大きな権限を持っていたわけではなかった。

 

【霊操】(れいそう) Exercitia spiritualia. 「心霊修行」とも訳されるが、現在だは「霊操」が一般的な呼称となっている。イエズス会の創始者であるイグナティウス・デ・ロヨラが考案した黙想方法。四週間にわたってキリストの生涯と死、復活について瞑想しつつ、良心を究明し、自己聖化を図る。ちなみにロヨラ自身は「霊操とは、その名の示す通り、良心を究明すること、黙想すること、観想すること、その他の霊的働きなどのあらゆる方法を意味する。…霊操で目指すことは、まず、すべての邪な愛着を己から除き去り、除去した後、魂の救いのために自分の生活をどのように調えるかということについて、神の御旨を探し、見い出すことである」(門脇佳吉訳『霊操』「解説」岩波文庫、1995年、57、58頁)と述べている。

 

【レグア】 距離の単位。その長さは国によって必ずしも一定していない。ポルトガルの場合、1レグアは海上では約5.93〜6.1H、陸上では約5.5Hであった。ちなみに1575年12月6日から18日にかけてショラン島で開催された「インド管区協議会」の「諮問第一」の議事録の一節には「コチンの院長は長期間コレジオを留守にし、180レグアもの道のりもある地方を巡察することはできない」とあり、文中「180レグア」について、ヴィッキ師は「およそ1,100H」という脚注を付している。これに従うと1レグアはおよそ6.1Hである。

 

【レンタ】 スペイン語で「renta」、イタリア語で「rendita」、ポルトガル語で「renda」というのは、貿易収入、国王やローマ教皇からの年次給付金、土地収入、聖職禄など、その収入の性格を問わずに、定期性のある収入という意味で用いられ、一般に「定収入」という訳語があてられる。国王や教皇の給付金に代表されるような第三者から付与される収入、貿易に見られるようなイエズス会が自ら入手する収入も「定収入」と称された。イエズス会では教会やカーサは喜捨を収入源とし、定収入は認められていなかった。しかし、コレジオと修練院には、正規のイエズス会員となる前の修学生を収容して養育するため、例外として喜捨とは別個の枠で「定収入」の所持が認められていた。


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ここでは、主に『東インド巡察記』(東洋文庫734、2005)の脚注を元に作成してあります。同書にはさらに細かい注が付されておりますので、興味の有る方は同書をご覧下さい。さらに他資料に現れる記述がある時には、随時加筆して参ります。