一番
番匠(ばんしょう) 木工の建築工。
後に大工の代表的職人として、大工といえば番匠を指すようになった。
鍛冶(かじ) 鉄を鍛え加工する建築工。
本来は釘・鎹(かすがい)など鉄を加工する建築工だったが、後には刀鍛冶の意が強くなる。他の歌合わせでも番匠と対にされる職業。
二番
壁塗(かべぬり) 壁に漆喰を塗る建築工。
後に左官と呼ばれるようになる。
檜皮葺(ひわだふき) 檜皮師。屋根を檜の皮で葺く建築工。
これら建築工は、平安後期までは修理職・木工寮に属し内裏や寺社・貴族の建築に携わっていたが、神人・供御人制の形成過程で大寺院・神社、有力貴族に属する神人・寄人となり、修理職・木工寮に属する供御人はそれぞれ数名程度だったという。番匠・鍛冶・壁塗・檜皮師には、それぞれ木工大工、鍛冶大工、壁塗大工、檜皮大工と呼ばれる人々がいたが、後に木工大工のみが大工と云われるようになった。また、壁塗師を左官と云うようになった所縁は、修理職・木工寮の惣官に左右の官があり、その「左方惣官」という言葉からきているのではないかとも云われる。
三番
研(とぎ) 研師。刀剣の研摩を行う職人。
この研師で有名なのが本阿弥家で、隆慶作品にも登場する本阿弥光悦は、茶人・陶芸家として著名だが、彼の一統はこの刀剣の研摩、浄拭(ぬぐい)、鑑定(めきき)の三業を本業としていた。
塗士(ぬし) 塗師。漆を塗る職人。
四番
紺掻(こうかき) 藍染めの染物職人。
古くから座を組織し、畿内ばかりでなく地方にも存在した。藍染に欠かせぬ紺灰を扱う座も有り、灰屋紹益はこの紺灰座の有力な家中。
機織(はたおり) 機を使って布を織る織手。
御服の錦綾織などの織手は、延喜式の織部司や、内蔵寮に属した。また春日社、北野社などの神人などもいる。室町期には内蔵頭を世襲した山科家の統轄の下にあった。
五番
檜物師(ひものし) 手水桶、杓、外居、長櫃などの檜物製品を作る職人。
近江国甲賀郡檜物荘はこれら檜物師が集住した荘とされ、各種の檜物製品を摂関家に貢進したり、中には京に住み、摂関家の細工となった檜物師もあったという。また、摂津国大膳職領木器保の檜物師集団は、摂津・河内の市をはじめ各地で「屋形を打ち、交易を垂れ、一向その芸を遂げ」(『弁官補任文書』)る特権を保証され、檜物の業を営んだとされる。
車作(くるまつくり) 牛車や牛飼・車借の使う車の車輪を作る職人。
古くは輪工と記されていた。
六番
鍋売(なべうり) 鍋を売る商人。
鋳物師(いもじ)の作った鍋や釜などを売る人の意だが、歌合では直接鋳物師の名は出て来ず、この鍋売を通して鋳物師をも現している。十一世紀、鋳物師は蔵人所に属していたが、十二世紀になると河内国日置荘の鋳物師を中心に土鋳物師と呼ばれる石方灯炉供御人、広階氏を惣官とする廻船鋳物師と呼ばれる左方灯炉供御人、草部氏を惣官とする東大寺鋳物師の三つの全国的な組織が、蔵人所小舎人の惟宗氏、紀氏を年預として成立した。
酒作(さかづくり) 現代の酒造職人。
蔵人所造酒司に属し、天皇に酒・麹・酢などを貢進した。後には諸社の神人・院宮家の公人となる者が多くなった。
七番
油売(あぶらうり) 油商人。
荏胡麻から寺社の灯火や都市民の灯火用に大量に造られていた。諸国の寺社に属していたが、特に荏胡麻の栽培地でもあった山崎の油商人が有名で、古くから長者・執行の下で活動し、後には岩清水八幡宮神人となる者も現れる。
餅売(もちうり) 餅を売る女商人。
主に正月、節句、祭など、賀儀を祝する「晴れの日」に売られた。
八番
筆結(ふでゆい) 筆職人。
筆師のことで「筆生(ひつせい)」と称していた。
筵打(むしろうち) 筵職人。
掃部寮に属し、各地で生産される藺・蒋などを原料に、筵などを作っていた。
九番
炭焼(すみやき) 炭竃で炭を焼く職人。
洛北の大原や小野山に居住する山民の職能集団。朝廷や院・寺社などに属し、自由通行権を有して各地を往反して炭・松明などを交易していた。
大原女(おはらめ) 大原の炭焼が焼いた炭や薪を頭上に載せ、洛中を売り歩く女商人。
この炭売の職能民は、大原だけに限ったことではなかったが、主に大原から来る者が多かったのでそのように呼ばれたと網野善彦氏は述べている。
『東北院歌合』では、大原女は桂女と対になっているが、ここでは大原の関連で対にしている。
十番
馬買おう(うまかおう) 博労。馬を売買する商人。
この名称は「馬を買おう」という呼び声からとも言われているが、単に「馬買い」「馬売り」よりもあざとさが無くなることから、このように呼び慣わしたと国文学の町田和也氏は述べている。
皮買おう(かわかおう) 「かわこう」と縮めてもいわれる獣皮革を売買する商人。
「馬買おう」と同様に、売買人の呼名。
十一番
山人(やまびと) 山に住み、狩猟を行い、薪を求め、炭を焼き、木を伐り出す杣人。
「異人」として祭などに参加していた。「青蓮院」に属し杣伐の夫役を負い、後年には柴木を売買し、鮎・栗・柿などを天皇家に貢献していた八瀬童子なども、この山人の職能集団だったといわれる。
浦人(うらびと) 塩焼・漁労などに携わる海人。
諸種の歌合で描かれているこうした海人は、等しく身なりも貧しく描かれているが、中世になると彼等海人は、廻船・商業・交易などに広く係わり、内陸部の人々よりも富裕な者も多くでてきた。
十二番
木伐(きこり) 樵夫。
杣人のうちで、貴族・寺社などの杣で、建築用材を伐採する職能民。荒々しく山人独自の習俗を身につけた彼等樵夫たちは、平地民からは異様で畏怖すべき存在だったといわれている。
草刈(くさかり) 厩と密接な関係にあり、牛馬の秣にする草を刈る職。
彼等草刈は「出羽介」「筑前介」などの官途を持ち、摂関家などの散所雑色として紀・茨田などの氏名を持っていたが、中世にはその社会的地位も大きく低下していったとみられる。
十三番
烏帽子折(えぼしおり) 烏帽子を作る職業。
烏帽子は男性が着用する被り物で、原型は天武天皇の時代の圭冠で、略服の際の役人の被り物とされている。色は黒で屋舎の内外を問わず、昼夜を問わずに着用した。侍烏帽子、立烏帽子、折烏帽子などの種類があった。
扇売(おおぎうり) 扇を売る女性の職。
木工寮が扇を売る座を統轄していたといわれ、木工頭を本所として本座・中座・下座が有り、女房・上臈・御料人など官途を持つ人達の妻などがこれらの職に携わっていた。
十四番
帯売(おびうり) 帯を売る女性の職。
帯を売る専業の集団帯座を組織し、帯生産者の織手は、この座に属する帯問屋か帯棚に製品を卸していた。この販売には帯公事が課せられ、天台座主がその徴収にあたっていた。これらの座の構成員は春日神人・八幡神人で、諸役免除の特権を持っていたが、帯には適用されなかったといわれる。
白物売(しろものうり) 白粉を売る女性の職。
白粉には水銀や鉛を原料とする鉱物性のものと、糯米粉、粟などを原料とする植物性のものがあった。白粉の産地として有名なのが伊勢国飯高郡丹生に近い射和といわれ、早くから白粉座が組織されていた。また、植物性の白粉は宮内省典薬寮の女医により製造されていた。
十五番
蛤売(はまぐりうり) 蛤・貝・えびなどを売る職。
供御人としての蛤売の源流は、内膳司を通じて天皇に贅を貢進した摂津の江人とされ、彼等は摂津の広大な江で漁労を営む特権を与えられていた。
魚売(うおうり) 海や川・湖で捕れた魚を売る女性の職。
鮎を売っていた時期の桂女もこの魚売の範疇に入ったが、後年には鮎を売らなくなっていたという。
十六番
弓作(ゆみつくり) 弓打・弓師のことで、矢を射る弓を作る職人。
弓のほとんどが竹を材料とし、三年竹・四年竹が使われたという。竹の地味は嵯峨、八幡が上品とされ、山科がこれに次いだ。また美濃,三河、駿河、遠江の竹も良品とされた。
弦売(つるうり) 「つるめそ」ともいい、弓矢、弓弦、弓懸を製したが、主に弦売りを業としていたことから名付けられた。
「つるめそ」の「めそ」は「めせ」の通音で、「弦めそ/\」と売り歩いたことから生じた名称。祇園感神院に属した犬神人が「つるめそ」だったといわれている。俗には弦指・弦師と称した。
十七番
挽入売(ひきれうり) 挽入とは入子にした細工物で、それを売る女性の職。
これらは轆轤師が製作した合子で、同時に皿なども売り歩いた。
土器造(かわらけつくり) 素焼きの陶器を売る商人。
土器(かわらけ)とは釉薬を用いず、野焼きした素焼きのもので、灯明皿や地鎮の呪具などに用いられた。また食器としては日常的に用いるものではなく正月や盆などハレの儀式に用いられたという。そのため、儀式の浄器として常に新品が用いられるため使い捨てられることとなり、大量に消費され大量に生産された。
十八番
饅頭売(まんじゅううり) 饅頭を路傍で売る職。
彼等の多くは覆面姿の行商人で、中世には賎視されていたという職業。饅頭は蒸し餅の中に餡の入っているもので、中に入れる詰物は、煮熟した赤小豆や野菜などで、なかには細かく刻んだ肉を入れる肉饅頭もあったという。
法論味噌売(ほうろみそうり) ほろん味噌・飛鳥味噌ともいった味噌を売る行商人。
大和産の法論味噌は、日に干した焼味噌に、胡麻・くるみ・山椒などを細かく刻んで混ぜ合わせたものや、黒豆を煮て砕いたものを布巾で絞って水気を切ったものを加える。奈良興福寺の僧が維摩会の法論の際に食したことに由来するという。
十九番
紙漉(かみすき) 宿紙を漉く職人。
宿紙は綸旨、院宣、口宣案、図書寮関係文書などに用いられ、造紙手は図書寮に属していた。
賽磨(さいすり) 双六の賽を作る職人。賽は鹿角などを砥石で磨いて作られた。
二十番
鎧細工(よろいさいく) 甲冑師。物具細工、具足師、腹巻屋とも呼ばれ諸国に現れる職人。
一乗院寄人の銅鋳物師は、副業として鎧細工を営んでいたといわれている。
轆轤師(ろくろし) 轆轤を用いて椀・杓子などの木器を製作する職人。
弥生時代に遡る技術で、中世には寺社に属す轆轤師も現れ、諸国往来の自由や給免田などを保障されている。木地師との関係も強い。
二十一番
草履作(ぞうりつくり) 藁や藺草など草で作られた履物を草履といい、それらを作る職。
室町期には草履座も組織されていて、それらの座は奈良興福寺や一乗院に属していたとされる。
硫黄箒売(いおうほうきうり) 「ゆわうははき」と訓じ、硫黄と箒を売り歩く職。
硫黄とは付け木のことで、硫黄木とも記され、杉や檜の薄片を五、六枚重ねその先端に硫黄を塗ったもので、点火しやすく、薪などへの付け木として利用されていた。この発展形がマッチとなる。箒は藁の稈心(みご)で作られたもので、竈の掃除に用いる荒神箒。
二十二番
傘張(かさはり) 傘職人。
江戸時代の浪人の内職としてイメージされるが、中世前期までは、傘を使用した人物は、村落共同体に属すいわゆる庶民階層ではなく、村落共同体を超えた人々、貴族・武家・僧侶・制外者たちであったとされる。そのため興福寺の門跡寺院に属する傘張座、唐傘座などが組織されていた。
足駄作(あしだつくり) 「足下」とも記された履物を作る職人。
現代の下駄で、宗教者・宗教的芸能者が多く愛用したとされる履物。この他、中世の絵巻物には女性や子供など様々な人々が足駄を履いた姿が描かれている。中には一本歯の高下駄を履いた笛吹きなども描かれ、「牛若丸」のイメージに通ずるものもある。
二十三番
翠簾屋(みすや) 「鉤簾(こす)」とも称される簾を扱う商人。
「鉤簾」は端に簾を巻くための鉤がある事からつけられた名称で、極細の割竹を材料に、それを麻、絹などの糸で編み、縁を綾、緞子などで縫い、鉤には丸緒の総などが付けられた。屏障具の一つで、母屋の内外に繋架される。
唐紙師(からかみし) 建築の内装、襖に唐紙(料紙)を用いて内装や屏障具を製作する職人。
唐紙とは、唐の国の紙の意で、当初は唐より齎されるが、ほぼ同時に我国でも製せられ、我国で製した和紙をも唐紙と称した。
二十四番
一服一銭(いっぷくいっせん) 抹茶を立てて売る商売。
主に寺社の門前に掛茶屋として出店し、「振売り」ともいう。屏風絵などに女房・尼などへ振舞う様子が描かれている。
煎じ物売(せんじものうり) 一服一銭と同じ茶売り人だが、煎じ物は「薬湯」が主となる茶売り。
茶会や囃子物の稽古場など人々が集る場所に出掛けて商売をした。
二十五番
琵琶法師(びわほうし) 琵琶(楽器)で平曲を奏でて主に「平家物語」を語った盲目の僧。
当初は平曲を奏でる座頭と地神経を唱える盲僧には区別がなかったが、久我家を本所とする当道座が形成されると、その特権の享受とともに排除のシステムが発生し、排除された地神経盲僧は各地に分散し、竈祓いや耕作の祈祷などに携わったという。
女盲(おんなめくら) 琵琶法師と対比される盲目の女性芸能者。
膝に大鼓を構え「曾我物語」などを語った。一般には「贅女(ごぜ)」と呼ばれている。「贅女」の「ごぜ」は「御前」からきている。江戸期に入ると、楽器は三味線に変った。
二十六番
仏師(ぶつし) 木像の仏像を彫る職人。
絵仏師と区別して木仏師ともいった。これら仏師には長円、賢円等の「円派」、院助、院覚等の「院派」や運慶以降の流れの「運派」の三流あり、「運派」は江戸期までその系脈を保っていた。
経師(きょうじ) 経典などの書を写し巻物などにする職人。
元は寺社の写経師として現れ、十二世紀に経巻や巻子本を製作する職人として自立したとされる。
二十七番
蒔絵師(まきえし) 漆の下絵のある漆器に、金銀粉・色粉などを撒き、絵ようの象を現す職人。
正倉院宝物中の「末金鏤」の装飾が蒔絵の初期の技法とされ、『竹取物語』にある「まきゑ」という文字が文献に現れる最初とされている。
貝磨(かいすり) 螺鈿細工の職人。
螺鈿の螺は貝をいい、鈿は物をちりばめるという意味。貝の細工には二種類あり、薄い貝片を用い漆器あるいは木地に嵌め込む細工をその色から特に青貝師といい、厚い貝片を細かくしてちりばめる細工を螺鈿細工と称した。貝磨はその両方の意。
二十八番
絵師(えし) 屏風絵、障子絵、衣服調度彩色、構築物彩色、作物彩色などの製作に携わる職。
古くは画師といい、諸寺の仏像を描く役割の者、中務省画工司に属す者、画工司解体後の画所に属する者共をいった。やがて、絵画を職とする人々を総じて指すようになった。
冠師(かぶりし) 礼服、朝服着用時の被り物を製作する職。
まず最初に冠を被る人の頭の寸法を計り、それに合わせて桐木で頭型を作って冠を製作したという。また、冠師は理髪座に属し、理髪にも携わったとされる。
二十九番
鞠括(まりくくり) 蹴鞠で用いる鞠を作る職人。
蹴鞠は貴族階級の遊戯で、蹴鞠に使う鞠は、通常鹿の皮で作られ、大事に扱われていたというが、鞠括の実態はあまり知られていない。
沓造(くつつくり) 木靴を作る職人。
沓と書かれる場合は、木製を意味し、皮製のものは靴(かのくつ)と称していた。木製の物は黒の漆塗りで、浅沓と呼ばれ公家が衣冠を着する時に用いられる。東市の専売品とされ、桐を材料として外面に漆を塗り、内側には紙が貼られていたとされるが、沓造の詳細は不明。
三十番
津・泊などを根拠に船で移動し、好色や歌舞などを業とした遊女・傀儡女などの女性芸能者を源流とし、屋を構えず路上で客を引いたことから立君と呼ばれた。
図子君(づしぎみ) 辻子君。屋を構えて、好色客を迎える遊女。
主に国々の宿を根拠とし好色や今様・朗詠などの芸能を業とし諸国を移動・遍歴していた遊女・傀儡女が源流とされ、主に京で辻子(屋)を構えて商売とした。
立君・図子君共に古代の「遊行婦女」を源流とし、後宮や官司に属し、芸能を身につけていた女性たちで、十一世紀には女性の長者に率いられた座的な臈次を持つ独自の集団をなしていた。十二世紀には、遊女は白拍子とともに「公庭の所属」といわれ江口・神崎の遊女はおそらく内教坊・雅楽寮などの官司や、鎌倉幕府における遊女別当のような別当の統轄下で、五節の舞の儀式をはじめとする宮廷行事に加わるなどの「公役」を勤めていたと網野氏は述べている。
このように南北朝期までは遊女の社会的地位は決して低く無かったが、それとは別に面を隠して客を引く「夜発」と呼ばれる売色も現れ、十四世紀以降、遊女が津・泊に定着したり、辻子を構えて客を迎えるようになると、徐々に「夜発」などとの区別が薄れてくる。
『色里用語事典』《遊女一般・遊女の位/私娼》参照。
三十一番
銀細工(しろがねざいく) 銀工、銀匠。銀の磨彫、鏨鎚、鑞の細工を行う工人、職人。
銀を磨き、文様を彫ったり打ったり、さらには鉛と錫の合金で接合など技を持つ。
薄打(はくうち) 箔打。金、銀、銅、錫などの金属を槌で打ちたたいて押し広げた、いわゆる箔を作る職人。
金箔は純金ではなく、金に銀、銅を混ぜたものが使われる。その割合により金箔の色見も変った。四、五%の銀、銅を加えると山吹色に、一%だと青身がかった色になるという。
三十二番
針磨(はりすり) 針を作る職人。
始め鍛冶が針をも作っていたが、やがて針専門の職が生まれ中世前期には、鍼針、縫針両方を作っていた。近世に入ると金・銀・真鍮・鉄・竹製の鍼針を作る針磨と縫針を作る縫針師とに分化している。
念珠挽(ずずひき) 数珠を作る職人。
材料には雑木の類から、菩提樹の実、栴檀、黒檀、水晶、琥珀などさまざまな物が用いられ、珠に加工し、それに舞錐で小さな穴を空けて糸を通した。数珠の玉の数は元来は百八で、百八の煩悩の数に由来する。
三十三番
紅粉解(べにとき) 堅紅粉を解いて皿へ移した紅粉を売る女商人。
紅は臙脂ともいい、紅花から作られた。紅粉は『源氏物語』にも現れるように、平安期には女性の化粧に使われている。戦国期には上京、下京にそれぞれ紅粉座が作られていた。
鏡磨(かがみとぎ) 鏡を磨く職人。
鏡を磨いて欲しいという依頼に応じて家宅に出向く出職。鏡は古くから水銀と酸漿(かたばみ)、柘榴の酸を用いて磨いた。磨き方は、まず磨板の上に鏡面を置き錆を落し、鉛の混入していない純粋な錫に水銀を加えて砥粉に混ぜ、それに少量の酸を加えたものを塗りつけて磨く。この作業で鏡面に錫アマルガム膜が形成され、反射がよくなるが、磨き終ったら表面についた水銀を炭火などで過熱させ、蒸発させて取り除かなければならない。水銀が残っていると腐食が進み鏡が早く傷んだ。
三十四番
医師(くすし) 医者。
中世以前の医師は、薬草などの処方が主で、現在でいえば薬剤師的な側面を合わせ持っていた。宮内省典薬寮に属する被官の医師と、僧医などの民間医が存在した。前者は後に和気、丹波家の両家が世襲し、後者では念仏宗の聖などが多かったとされる。
陰陽師(おんようじ) 怪異な現象などを平癒・安寧な状態とするために行う陰陽道祭などを主宰する職。
中務省の陰陽寮の被官で、後には賀茂・安倍両家が陰陽道を分掌した。室町期になると声聞師と呼ばれる民間の陰陽師も現れ、活発に活動していたとされる。やがて土御門(安倍)家が諸国陰陽師の支配権を獲得し、天和三年(1683)陰陽師の再編を行っている。
三十五番
米売(こめうり) 米穀商人。
米座はすでに嘉禎二年(1236)の文書に「米座・土倉」と見え、京を中心に奈良、伊勢の山田等に「米座」あるいは「米売座」が見られるようになる。また室町期になると米場法が成立し、京での米販売は必ずこの米場を通して行われた。
豆売(まめうり) 大豆を売る商人。
豆には黒大豆、赤小豆、緑豆など様々な種類があったが、ここでは黄白の大豆を売っていたと思われる。大豆をことに好んだのは僧侶たちとされ、まだ熟しきらない青い豆、いわゆる枝豆を食した記録もある。庶民は節分や物日の前日に買うくらいだったとされている。
三十六番
いたか 百面、居鷹、為多加などと書き、ある種の僧、乞食僧とされる職。
「いたか」とは板書からきたとされる名で、功徳、善根、供養などのため、板の卒塔婆に経文、戒名等を書し、流灌頂を行い、読経して銭を乞うたとされる。
穢多(えた) 「清目」「河原者」等の皮革を扱い、土木・井戸掘・築庭などに携わった職能民。
「エタ」という語は、餌取がつづまった事からきている。元は僧形の「濫僧」をいったが、「イキ物ヲ殺テウル、エタ躰ノ悪人也」とあった所から、屠者を「エタ」と称するようになった。永仁四年(1296)に成立した『天狗童子』に「穢多」という字が初見するとされ、ここで穢多は、河原で肉を扱い、鳥を取る童形の人物として描かれ、天狗に恐れられる存在となっていた。南北朝期までは「清目」「河原細工丸」と呼ばれる寺社の寄人・神人となっていた職能民だったが、「穢」に対する社会の意識の変遷とともに、賎視されるようになる。穢多が非人とともに被差別身分の公的呼称となったのは十七世紀以後の江戸幕府による。
[『塵袋』に有る穢多の記述]
一、キヨメをエタと云ふは何なる詞ばぞ。
根本は餌取と云ふべきか。餌と云ふはしゝむら(肉)を、鷹等の餌を云ふなるべし。其をとる物と云ふ也。えとりをはやくいひて、いひゆがめて、エタと云へり。たととは通音也、エトをエタと云ふなり。エトリを略せる也。子細しらぬものはラウソウ(濫僧)とも云ふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀、僧にもあらぬを濫僧と名けて、施行ひかるゝをば濫僧供と云ふ。其れを非人・カタヒ・エタなど、人まじろひもせぬ、おなじさまのものなれば、まぎらかして非人の名をエタにつけたる也。ラムソウと云ふべきをラウソウと云ふ。弥しどけなし。天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。いき物を殺てうる、エタ体の悪人也。(『塵袋』五)
三十七番
豆腐売(とうふうり) 豆腐を売る商人。
当時、豆腐は奈良や宇治で造られ、主に寺院の門前で売られていたという。当初、運搬上にがりを多くした堅い作りの、いわゆる堅豆腐だったが、近世になり都にも豆腐を造る店が現れ、にがりも少なく、淡雪のような柔らかく白い豆腐が好まれるようになる。
索麺売(そうめんうり) 索麺を売る商人。
索麺は日常的にも食され、七夕の索麺、盆の精霊棚の索麺などのように、お供えとしても重要な役割を持っていたとされる。索麺座は中世前期に見え始め、京の索麺座は南北朝期に中御門家の支配下の供御人として史料に現れる。また、大和でも大乗院門跡や一乗院門跡などの座として組織されていた。
三十八番
塩売(しおうり) 塩商人。最も早く現れたとされる商人。
縄文時代後期には、交易を前提とした製塩が行われており、内陸部にまで塩を供給する商人の活動が有ったとされる。我国の塩は塩浜・塩田で製塩される塩だったため、塩売は廻船で行われていて、特に塩の最大の生産地とされた瀬戸内海地域を背景に、十二世紀にはその集積地となった淀津を根拠に、八幡神人となった塩商人が活動している。また、左右衛門府供御人も塩売だったという。
麹売(こうじうり) 酒麹を売る商人。
当初は造酒司に属した供御人で、「酒麹商価之輩」と呼ばれ、六番の酒作と同一の職だったが、酒作から麹を売る人間が独立し、麹売となった。
三十九番
玉磨(たますり) 玉類の生産に携わった職人。
玉は琥珀、めのう、水晶、珊瑚、真珠などの宝石類とガラスを含めた総称。古代には玉造りに携わる部民として、玉造部があり、豪族たちの装飾品として造られていたが、その後衰退し玉造部は消滅するが、その技術は受継がれ、玉磨として登場した。
硯師(すずりし) 硯を作る職人。
原石を硯石の大きさに切り、荒彫用の鑿で硯池・硯道を彫り進み、仕上用の鑿で形を整え、最後に金剛砂で研磨して完成する。
四十番
灯心売(とうじみうり) 灯油に浸して灯火に供する灯心を売る商売。
「とうしん売」とも言う。灯心の材料は、藺草の一種「灯心草(おおい草)」の穣(芯)を取り出して用いた。
葱売(ひともじうり) 葱を売る商人。
葱は「ねぎ」と読まず「ひともじ」というのは、葱の古訓が「キ」という一文字だったことから来ているという。
四十一番
牙曾(すあい) 女性の職で、主として上方を中心に活動した仲買人。
買手と売手の間に立つなど、商行為の媒介で利益を得ていた。牙曾の曾は正しくは人篇。
蔵回(くらまわり) 質流品の古着、古道具などを買い集め、それを売り歩いた商人。
蔵は質蔵の意。
四十二番
筏師(いかだし) 杣で伐り出された木材を筏に組み、流し運ぶ人。
筏師は『梁塵秘抄』に「嵯峨野の興宴は鵜舟、筏師、流れ紅葉」として表れ、広く諸国の河川で活動していたとされる。東大寺の寄人となった筏師も多く、治承二年(1178)の史料には筏師たちが皆東大寺の筏と号して、津料を出さずに罷り通ると訴える文書もあり、伊賀国の東大寺領の杣、津、木屋には宇陀川・名張川等で活動する筏師がいた。とくに泉木津には筏師・車借が多数集っていたといわれる。
櫛引(くしひき) 櫛を造る職人。
櫛材を鋸で挽き造ることから名付けられた。櫛の材は光沢の有る黄楊(つげ)や柞(ゆす)の木などの堅い木が用いられた。和泉国近木郷に「和泉国近木御櫛供御人」がいたことが知られている。
四十三番
枕売(まくらうり) 住居兼工房で作られた枕類を袋に入れ、路上売りした行商人。
当時の枕は、木製の枕が主流で、木枕の上に錦や絹地を張ったものや、黒漆塗りが多かったという。
畳刺(たたみさし) 畳職人。畳大工ともいった。
藁を糸締して造った畳床を刺して作ることから畳刺と称した。また、畳の縁は、その人の位階・身分によって色や柄が決められていた。
四十四番
瓦焼(かわらやき) 瓦を造る職人。
当初、宮内省土工司に属し、後、木工寮に併合された瓦作を源流とする職能民。
笠縫(かさぬい) 菅笠を作る職人。
我国の笠と称されるものは、宮崎糺氏の『笠の民俗』によれば「縫い笠、編み笠、組み笠、押え笠、張り笠、塗り笠の六種」であるという。この内の縫い笠が菅を縫った円盤形、円錐形などの笠であるとされる。
四十五番
鞘巻切(さやまききり) 鞘巻を作る職人。
鞘巻とは、刀のことで、腰刀といった。長さは六七寸から八九寸(20B〜30B)程度で、鍔は無い。鞘巻は色彩・形状で呼ばれ、白鞘巻は銀作りで、白拍子が水干に指して舞った刀。
鞍細工(くらさいく) 鞍作りの職人。
「延喜式」の左右馬寮の職掌が源流で、室町期には馬術で高名となる大坪流が現れ、鞍や鐙を作っていた。
四十六番
暮露(ぼろ) 鎌倉時代の末期に現れた遍歴宗教者。
梵論・発露・ホロ/\修行者とも呼ばれた。これは、彼等が一字金輪呪「ポロン」を連続して誦したことからきているといわれている。
通事(つうじ) 通訳。
文献史料に「通事」が初見するのは、『日本書紀』に、小野妹子を遣随使として派遣したさいに、鞍作福利を通事としたと記した部分とされる。古代にはこの漢語の通事の他に、新羅、奄美、勃海等の通事がいたことが分る。中世の通事のほとんどが中国人であったという。変った事例としては、応安七年(1374)に渡来したヒシリ(聖)の長子は、幼名をムスルといい、アラビア人だったとされる。このムスルは成人して西忍と名乗り、長らく大乗院に出入りし明貿易に従事していた。
四十七番
文者(ぶんじゃ) 文士の事。
蔵人や史、外記などの官職についた下級の公家で、文筆を持って奉仕した。祐筆とも呼ばれ、行政官となった彼等が王朝文化を各地に広めた。
弓取(ゆみとり) 武士の事。
朝廷の警護を担って誕生した武官、および、地方において狩猟民的な要素を持つ存在で武力を高めた土豪たち。中世武士団の本領は刀ではなく、弓矢による合戦で、弓の射程が短いために馬に乗って素早く移動し、戦うという戦法が主流で、これら武士は「弓馬の両道」といわれた。
古代・中世における職能民とは、何等かの技術を持って朝廷、あるいは権門勢家に奉仕した人々の事で、文士、武士ともその技で朝廷に奉仕していた。このため、後に支配階級となるが、鎌倉幕府が誕生するまでは彼等も「道々の輩」だった。
白拍子とは、雅楽の拍子の名で、声明道で延年舞の時、童僧が「素(しら)声」で謡うことからきていて、遍歴する男の白拍子がいた。やがて女性でありながら水干に袴姿の男装をして、舞い謡う白拍子が現れ、世にもてはやされるようになった。「舞女」「舞妓」とも呼ばれた白拍子は、遊女と同様に宮廷の白拍子奉行人に統轄され、公的な行事に奉仕していた。
曲舞々(くせまいまい) 物語性のある舞を舞う芸能者。
岩崎小弥太氏の『芸能史叢説』によれば、当初は散文的な物語を朗吟風に謡う簡単な舞踊とされ、伴奏も拍子を取る鼓だけで、太夫は扇を持って足踏みして舞ったとある。立って舞うものを「仕方舞(立舞)」と称し、舞から離れ謡うだけのものを「居舞」といい、居舞のうち特に面白い部分だけを謡うものを「小舞」といった。やがて曲舞は、勧進興行や公家たちの私邸で盛んに舞われ、男舞、女舞、児舞、女曲舞、二人舞、三人舞など多様な芸能となった。
四十九番
放下(ほうか) 異形の宗教的芸能者。
鎌倉末期に現れ、有髪に烏帽子を被り、簓を擦りながら「狂言」を行う勧進僧。やがて、その宗教性・異形性を見失った放下僧たちは、輪鼓・品玉・手鞠・雛を操る「術」で観客を集め勧進して諸国を廻った。
近世の放下師については、前田金五郎氏が『好色一代男全注釈』の中で、「手品曲芸師」とし、その技芸として「たとえば放下の玉を茶碗に入れて、目の前にて生き物になし、或ひは菓物になし、或ひは狐や狸の尾などになして、人の目をくらましける」(『為愚痴物語』五の七)「放下と云ふ者は、矢の篦を二丈も三丈もつぎ、第一の上は、茶碗を置き、己が鼻の先に乗せ、くる/\と廻せども、その茶碗落ちざるやうにする。これ奇特なれども、本意に達せねば、何の用にも立たぬを以て、放下とは名付けり」(『甲陽軍鑑』品八)「放下は字訓の意はなちくだす也。禅家にをゐて、諸縁を打捨つるを放下するといふ其の心也。縦へば鼻の上に立て物をし、枕を重ねて自由に使い、山の芋を鰌にするたぐひ、皆これ変化不思議のていを為す事、万事の当体を放下して、物にとゞこほりなき体にしなす故に、放下といふ也。綾折り・金輪使い皆放下なり」(『人倫訓蒙図彙』七)などの引用を行い、街頭の乞食芸と述べている。
鉢叩(はちたたき) 都市を徘徊し、勧進を請う宗教的芸能者。
鹿杖を突き、瓢箪を叩きながら寺社の勧進を誘っていたとされ、「金叩き」とともに、五か所・十座の声聞師が支配すべき七道者とされていた。また、『雍州府志』には、空也堂極楽院に居住する十八家の妻帯・有髪の鉢叩きが、常には茶筅を製して売り、冬期には竹杖で瓢箪を叩き、洛中の墓所・葬場を廻っていたことが記されている。
前掲の前田氏の書で、「鉢開き。門付けして米銭を乞う乞食坊主。鉢坊主・鉢坊とも」と近世の「鉢たたき」を解説している。そして、「鉢ひらき俗語也。これ則ち仏在世にあつて頭陀の行なり。沙門はこれ持斎の法にして、不過昼食とて、昼過ぎては食せぬ法也。然れば斎料は朝五つ前に乞ふ事也。末世渡世の蒼道心、この分には及びなし。脚半・草鞋をしめはきて、日の入るまで貰ひ歩く。さても益なき衣かな。後の世こそは哀なり」(『人倫訓蒙図彙』七)「鉢坊主・鉢尼といふ有り。これらは非人也。なまじいに衣きるゆへ、人も僧のやうに思ふはひが事なり。かれこれひたすらに、ものを貰ふ事をむさぼりて、東西南北を駈け廻り、こゝの米のくれようは、たゞ一つまみ涙ほどくるゝ。かしこの米は色が黒いなどゝ、悪口のみ言ひて、数万の鉢貰い毎日を渡る。鉢貰いの餓死にたる事も聞はず。仏法のしみわたりたる事、こそげても落ちず。世界は広し」(『人倫訓蒙図彙』五の二)などの記述を紹介し、放下師の乞食化を、天正十一年の文書にある「誠に鉢ひらきのやうなる此の間の正慶小僧が、此の如く申し候事、口広き申し事にて候へ共」(『毛利家文書』所収)などの一文を上げて、「すでに戦国時代には始まっていたようだ」と論じている。
田楽(でんがく) 剃髪の法体で、散楽系の業や田楽踊り、能などの興行を行う。
田楽は農耕儀礼の一つとして、田植えの時に歌舞をもって豊作を祈った田遊びを、大陸伝来の散楽系の人々がそれを取り入れ、固有の芸となしたとされる(異説も有る)。田楽の初見は、十世紀頃とされ、このころには専業とする集団がいくつか現れている。室町期の記録によると、まず中門口・立逢と称する田楽踊りが踊られ、次いで散楽系の雑技芸、そして能(田楽の能)や狂言が演じられたという。
猿楽(さるがく) 散楽が源流の芸能。
散楽とは、雅楽に対する雑楽の意で、曲芸・奇術・滑稽技などが演じられていた。九世紀以後、朝廷の相撲節会や神楽のさいに演じられ、これがやがて猿楽と呼ばれるようになる。やがて、寺社の神事などに奉納される呪師走りが、猿楽の者によって担われるようになり、これが翁舞の起りともいわれている。こうした舞と簡単なパントマイム芸が融合し、猿楽の能が生まれた。これが今日にまで伝わる能の祖形とされ、観世によって大成された。猿楽の芸人、猿楽法師は、大和・山城・近江・丹波・摂津などに広く分布し、それぞれ座を形成していたが、近世まで生き延びたのは、大和の今春・金剛・宝生・観世の、いわゆる大和四座であった。
五十一番
縫物師(ぬいものし) 刺繍を施す工人。
地布の表に鹿の子(薄様紙)を張り糸を刺し易くし、次に細筆に青花の汁などを含ませたもので地布の上に絵や模様を描き、その上を五彩の糸で縫い刺して絵模様を浮き立たせ、刺し終えたら張った紙を丁寧に剥がして完成する技術。
「縫物師 諸の衣裝其の外織物に、さま/\〃の糸をもて、模様を縫あらはす。縫に色々の名有り。暖簾に松をゑがきて印とす。縫薄屋と書く家には、紋形の際薄・摺薄等をもするなり。吉備大臣入唐の時、相伝して来れりとかや。縫物師の元祖と仰ぐなり」(『人倫訓蒙図彙』五)「縫物は、昔吉備大臣唐へ遣唐使に渡り給へば、唐帝大臣の才智の程を試みんために、野馬台の詩を作りて読ましむ。大臣未だ知らざる事なれば、わが国に向つて、長谷の観音に祈請し給へば、観音蜘蛛となつて、糸を引きて読ましめ給ふ。大臣死を逃るゝのみならず、この賞美に七の宝を得、又縫といふ事を相伝し給ふ。さて大臣帰朝の後、縫い給ひて、御門へ奉り給ふ。おほやけ叡感なゝめならず、上達部・殿上人に指南をえさせ給ふ。その縫所をば縫殿と名付けて、今に内裏に有りとなり。これより世に広まりて、人の所作とはしけるとなり。吉備大臣の縫い給ふより伝はれる業なれば、今も縫物屋は男の縫ふ業なり。吉備大臣は御霊八所の明神の内の一座にいわひ奉る。縫物屋は下御霊へ社参すべき事也」(『人倫重宝記』二の二)
組師(くみし) 糸を組み合わせて紐を作る職人。
「組打」「組屋」ともいう。組紐の用途は広く、武具・馬具・仏具や調度品などに使われ、近世では、具足の縅糸、柄糸、帯締、羽織の紐などに使用された。
五十二番
摺師(すりし) 唐紙などに用いる紙に模様を版木で刷る職人。
料紙に刷る職人、唐紙に刷る職人がいて、それぞれ仕上の職人と同居していた。
畳紙売(たとうかみうり) 帖紙、いわゆる懐紙を売る商人。
畳紙は化粧具で女房衆の鼻紙、袖紙として用いられた。鼻紙以外の用法では、文や和歌を書いたり、手習、絵などを記したり、時には辞世の頌を認める事などに男性が用いたとされる。
五十三番
葛籠造(つづらつくり) 葛藤などの丈夫なツル性の植物で編んだ蓋付きの箱を造る職人。
時代が下がると、竹網代で代用し、竹の籠の上に柿渋や漆を塗った紙を張ったものが一般的になった。葛籠は湿気につよく、軽いので衣服などの保管や運搬に適し、婚礼用具にもなっている。
皮籠造(かわごつくり) 皮籠を造る職人。
皮籠とは竹で編んだ容器に、皮を被せたもので、衣料などの入れ物として利用された。後には皮の代りに、紙が用いられ葛籠と似たものになった。
五十四番
矢細工(やざいく) 矢を作る職人。
中世までは弓が最高の武器とされ、武士を弓取りと称した事はすでに述べたことだが、その弓で放つ矢も、長さや矢羽根の仕様で大きくその性能を異にした。矢の長さは長い程射程距離は延び威力も増すが、それに比例して弓の長さも変り、射る力も必要になる。通常、弓の長さは十二束(手の拳の十二個分)であったが、坂東の武者は十五束の弓を射る剛腕だったといわれる。また、弓は軍用ばかりでなく、儀杖・神事などにも用いられ、左近衛の従者は鷲、右近衛の従者は鷹の切斑の矢を用いたとされる。しかし、この矢細工についてはほとんど知られてはおらず、わずかに南北朝期に成立した『安居院神道集』に弓矢の座があったことが記されているだけだという。
箙細工(えびらさいく) 矢を入れる武具を作る職人。
箙は、矢を差しいれて腰に背負う箱筒状の入れ物。弓を携帯する道具として、古代では靫(ゆき)・胡禄(ころく)、中世では胡禄(やなぐい)・箙・空穂(うつぼ)などが用いられたという。胡禄(やなぐい)・箙は古代の中国から伝来した胡禄(ころく)の形式を受けたものとされ、本来は竹の骨に防已(つづらふじ)を懸けた葛箙が本儀だったが、摂関家に随行する際に猪の毛皮を張り込んだ逆頬箙(さかつらえびら)が用いられ、それが主流となり室町期には式正となった。
五十五番
蟇目刳(ひきめくり) 矢の一種の鏑矢を作る職人。
蟇目は響目の略で、鳴矢である大鏑の一種とされる。笠懸用の笠懸蟇目、犬追物で用いる犬射蟇目、産所で用いられた産所蟇目などがある。いずれも大型で、内部に空洞をあけ高い音響を発するように工夫されている。蟇目は、その大きな音響を発する事から、破邪・降魔の呪術的力をもつものとされ、特にお産のさいに安産を願って執り行われた。
行縢造(むかばきつくり) 行縢を造る職人。
行縢は、乗馬で遠出したり、狩猟を行うさいに、両足の表面を雨露やいばらなどから守るために、腰から下につけるはきもの。中国から兵士用として伝来し、平安時代に入ってからは、行幸に供奉する武官が用いた。材料として布・熊皮・虎皮なども見られるが、後に武士の式正となったのは鹿皮製。
五十六番
金掘(こがねほり) 黄金採掘者。
十五世紀までは、採金のほとんどは砂金洗取だったが、十六世紀に入ると山金の採掘が活発となり、金掘(金山衆)が重要な役割を担いはじめた。戦国期の大名たちの中には、領国経営の財源とする者も多く、各地で金山・銀山の開発が奨励される。また、金掘の技術は築城にも役立てられていた。
汞掘(みずかねほり) 水銀採掘者。
辰砂・朱砂を採掘し、それを精製して水銀を得る。産地としては伊勢国飯高郡丹生が有名で、産出された水銀は「伊勢おしろい(はらや、軽粉)」の原料になった。
五十七番
包丁師(ほうちょうし) 魚鳥を料理する料理人。
魚鳥を捌く刀を包丁刀といい、現代では刀の字が取れて、人を現す包丁が「刀」の呼称となった。四つ足の獣は蝶理の対象外で含まれず、魚鳥だけを捌く。包丁師にはくどいほどの式正の作法があったとされ、包丁法として四条・大草などの流派の名もある。魚は現代でも食される種類の物ばかりだが、鳥は野鳥が殆どで、江戸時代に特に好まれたという三鳥(鶴・雉子・雁)などは、絶滅危惧種として食することはおろか、捕獲すらできなくなっている。
調菜(ちょうさい) 主に僧侶向けの点心と呼ばれる副食物を料理する料理人。
禅家にいう点心は、一般には中食にあたるもので、水繊(葛切り)・砂糖羊羹などの菓子類、紅糟(あかもろみ)やこんにゃく味噌などの副食物、素麺・うどん・饅頭などをいう。特に饅頭を造り販売する人を調菜と言った。この饅頭は饅頭売の売る饅頭とは違い、蒸餅の中に餡を入れたもので、餡には赤小豆や青物(野菜)を用いる。
五十八番
白布売(しらぬのうり) 青苧を原料とした白布を売る商人。
信濃・越後・越中などで生産された白布は、京中においては白布座を通して売られた。座の商人には課役免除の特権が与えられていて、その代償として棚売(店鋪販売)には営業税が課され、その得分は南御所のものとされていた。また、駕輿丁にも白布売がいて公事を免除されていたが、南御所はこれにも一律に公事を負担させようとしたが、駕輿丁側は諸役免除の特権を楯に応じなかったという。
直垂売(ひたたれうり) 直垂を売る商人。
直垂とは衣服の一種で、就寝の際寝具として掛けるものと、常用する出仕直垂がある。出仕直垂は本来仕事着であったとされるが、武士が好んで用いたことから、後には殿中への出仕用として用いられた。この直垂売については、あまり資料がなく詳しい事は分かっていない。
五十九番
苧売(おうり) 苧とは麻の古名で、それを扱う商人。
苧を売買する苧座には、天王寺苧座、京中苧座、坂本苧座、越後苧座などがみとめられ、特に天王寺苧座は、文明(1469〜87)の頃には、天王寺浜市に七、八軒の店鋪を構えていたとされ、本座として青苧の特産地である越後まで買い付けに赴き、その独占権を保持していた。この苧座に課役の知行を行っていたのは三条西家だったとされる。
綿売(わたうり) 綿を扱う商人。
綿は遠江、駿河、上総、下総、常陸、越前、加賀、越中、越後、但馬、石見などの各地の荘園・公領で年貢とされ、市庭でも売買され、広く流通していた。その売買に携わる「綿売」は、各地にいたと思われるが、最も著名なものに祇園社に属し、京都を中心に活動した綿商人で、保延年中(1135〜41)に下居御供神人となった本座神人、建仁年中(1201〜04)に三月三日御節供神人となった新座神人が、洛中を中心に綿商売の特権を保証されていた。
六十番
熏物売(たきものうり) 熏物(香料)を売る商人。
熏物は煉香ともいい、調合した香料(粉末)に甘葛などを混ぜて固形化したもので、「仏の御世」の聖なる香りとして高家の人々に珍重された。これら熏物には常用されるものとして「梅花」「荷葉」「菊花」「落葉」「侍従」「黒方」の六種があった。
薬売(くすりうり) 薬を扱う商人。
令制下では、医療機関として宮内省典薬寮が置かれ、その下で薬園が営まれていた。その後、皇后宮職に施薬院が設置され、室町期まではこの施薬院を薬売りは本所としていた。やがて、興福寺一乗院に属した薬座や各地にも独自の薬座が現れる。中でも越中府中の薬座の「薬売り」は積極的に諸国を廻り「越中富山の薬売」として後世にも名を馳せている。
六十一番
山伏(やまぶし) 山岳修行者または修験者。
役小角あるいは理源大師聖宝が開祖とされる。聖護院配下の天台系修験(後に本山派といわれる)と醍醐寺三宝院配下の真言系修験(後に当山派といわれる)の二大勢力がある。また、九州の彦山、出羽の羽黒山など各地の霊山にも修験の組織ができた。山伏は荘園公領制下で荘園の代官を勤める事も多く、棟別銭の徴収などを行っていたことから、強力とともに民衆からは嫌われ揶揄される存在となった。山伏の法螺貝は、それを吹く事によって罪障消滅・仏敵降伏の意味があったが、民衆から揶揄される存在となると、「法螺を吹く」という意味が出鱈目を言うという意味に転じた。
持者(じしゃ) まじないによって悪霊を退散させる男巫。
女装した男という説や、巫女とある辞書もあり、この持者についてはあまり詳しい話は伝わっていない。修験道や陰陽道に関わる職だったとされる。
六十二番
禰宜(ねぎ) 神社で祭祀を執り行う神官。
各神社により置かれ方はそれぞれ異なるが、伊勢神宮では、当初内宮・外宮それぞれ一名づつであったが、後には各十名となり、さらに権官も置かれ、御師の温床となったという。これら御師と呼ばれた「伊勢の禰宜」は、掛素袍に御弊を担いで諸国を廻国した。
鍛冶・鋳物師などの妻として共に諸国を廻り、「占、神遊、寄絋、口寄」の上手とされ、民衆の依頼により占いなどを行った。これら「あるき巫女」は、猿楽、あるき白拍子、金たたき、鉢たたきなどと共に、五か所・十座の支配する七道者とされる。
六十三番
競馬組(けいばぐみ) 上賀茂社の騎者。
乗尻ともいう。上賀茂社の競馬は、堀河天皇により寛治七年(1093)競馬料の寄進により行われたのが契機とされ、天下泰平・五穀成就を祈願するために毎年行われるようになった。
相撲取(すもうとり) 相撲を取る者。
当初、朝廷で行われた相撲節会で相撲を取った。節会は、左右近衛府が諸国に相撲使を派遣し相撲人を集めていた。その後、相撲節会は行われなくなったが、伝統は残り、各社で神事として祭礼の日に催された。
六十四番
禅宗(ぜんしゅう) 禅宗の僧。
禅宗とは、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、さらには普化宗をも含む仏教の宗派で、栄西によって中国よりもたらされ、台密禅三宗兼学の道場として建仁寺が建立されて以後、教線を拡大し、やがて武家政権と結びつき政治・経済・文化の諸分野で重用された。
律家(りっけ) 律宗の僧。
叡尊が組織した僧集団を「律家」といい、鎌倉時代に大きな活動を行った宗派。始祖の叡尊は戒律の復興と慈善救済事業に生涯を捧げた。また、叡尊とその弟子忍性は非人への施食・供養を積極的に行い、多才な技術を持つ彼等非人たちを組織下に起き、宇治橋などの土木事業を推進した。
六十五番
念仏宗(ねんぶつしゅう) 浄土宗の僧。
ここでいう念仏宗とは、融通念仏宗や浄土真宗、時宗ではなく、法然を開祖とする浄土宗をさしている。
法花宗(ほっけしゅう) 日蓮(法華)宗の僧。
法華宗は日蓮を開祖とする宗派で、釈迦・『法華経』のみを絶対視し、他宗に対する強烈な折伏の論理を秘めていたとされる。とりわけ日蓮は法然の念仏に批判の鉾先を向けていたとされる。
ここで念仏宗と法花宗が対とされていることは、天文法華の乱、その後の一向一揆勢との対立に見られるように、両派の思想的な対立と無縁では無い。
六十六番
連歌師(れんがし) 連歌を指導する事で生計を立てている人。
連歌会で、連歌作法に必要な約束事やルールをなどを守らせる仕事が主なものとされる。
早歌謡(そうかうたい) 早歌を謡って生業とする芸能者。
催馬楽や朗詠のようにゆっくりと抑揚に富む謡いぶりでなく、やや早いテンポで謡ったことから名付けられたという。
六十七番
仏教の規定では比丘、比丘尼と在家の優婆塞、優婆夷を合わせて四衆、あるいは四部衆という。比丘が男子の出家者で、比丘尼は本来受戒した女性の出家者をさす概念で、皇族・公卿の息女が住持となった比丘尼御所のような尼寺がある一方、八百比丘尼、熊野比丘尼のような遍歴の女性宗教者をもさす言葉として、その概念は卑俗化した。熊野比丘尼は熊野本廟に所属して勧進のため諸国を遍歴し、『熊野観心十界図』を絵解いて地獄比丘尼とも呼ばれる。やがて、これら遍歴の比丘尼の中には遊女化して行く者もあり、ルイス・フロイスがその著書で「日本では比丘尼の僧院はほとんど淫売婦の街になっている」と述べているような状況も生じ、比丘尼という概念が俗化したイメージに引きずられてきた。
尼衆(にしゅう) 女性の剃髪者。
尼は比丘尼をも含めた広い概念で、比丘尼・式叉魔那尼・沙弥尼の区別があるとされ、尼寺に止住する完全剃髪の者から、髪を削いだだけのさげ尼まで、多様な尼が存在した。
六十八番
山法師(やまほうし) 比叡山の坊主。
比叡山に属する大衆と呼ばれる僧体の者で、刀杖・刀剣・弓箭で武装し、世俗的な利害を主張し悪僧と呼ばれた。
奈良法師(ならほうし) 南都の坊主。
とりわけ奈良興福寺の衆徒が、比叡山の悪僧と対立し甲冑で武装していた。
六十九番
華厳宗(けごんしゅう) 華厳教学を修めた学僧。
「華厳経」に基づく宗派で、初唐の時代に法蔵の弟子審祥によって天平八年(736)に日本へ伝えられた仏教。
倶舎衆(くしゃじゅう) 「倶舎論」を研究する僧。倶舎宗。
「倶舎論」は「華厳経」と共に仏教の二大テキストとされ、インドの世観が著し玄奘が漢訳した『阿毘達磨倶舎論』に基づく宗派で、道昭によって法相宗と共に伝えられた。
七十番
楽人(がくにん) 雅楽の演奏者。
伶人、楽士ともいう。令制では雅楽寮に属すが、雅楽寮が衰退すると新たに楽所が設けられ、蔵人所の管轄下になる。
舞人(まいびと) 雅楽の舞楽をはじめ、神楽歌などの舞を舞う人。
楽人と同様、雅楽寮に属していたが、後には楽所に属し、舞楽の一部づつを譜代相伝する家が形成されていった。左方舞を相伝した狛氏、右方舞を相伝した多氏、異流右方の山村氏など。
七十一番
酢作(すづくり) 酢を作る職人。
酢は古くから日本各地で醸造され、なかでも和泉産が上質とされた。
心太売(こころぶとうり) ところてん売り。
酢醤油で食するために、酢作と対にされている。寺の門前で、心太を突いて供していたとされる。
以上百四十二種の職業が挙げられているが、これで全てではない。文中や他の「職人歌合」に出てくる「鋳物師」「桂女」などの名はここには出て来ないが、彼等も「道々の輩」で有り、他にも記されていない職種がまだ有る。
『好色一代男全注釈』上巻 前田金五郎評注 岩波書店刊 1980年発行 454p
『新日本古典文学大系61』「七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集」 岩崎佳枝・網野善彦・高橋喜一・塩村耕校注 岩波書店 1993年発行 621p
『広辞苑』第二版 新村出編 岩波書店 1974年8刷
『廣辭林』新訂版 金沢庄三郎編 三省堂 1934年発行
(最終更新日/2006.12.6)