隆慶的歴史用語の基礎知識

信仰・宗教の部

 

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《縁起》(えんぎ) 

[仏教]因縁生起の意。多くの因縁がより集って現象が生起すること。また、事物の起原・沿革・由来をいう。(『広辞苑第二版』)

さらには、社寺などの由来または霊験などの伝説(信貴山縁起)や、縁起がいいなどと、吉凶の前兆、きざしなどをいう。

古来から白い事が珍しい鳥獣などは、神の使いとして崇敬された。白虎、白蛇、白狐、白烏など。科学的には色素の染色体に異常をきたした突然変異種だが、まれな現象であるために畏怖され、縁起を齎すものとされた。

○白蛇の霊異

過し頃、参州奥殿侯(松平縫殿頭)麻布竜土の邸内に、白蛇顕出けるを、奴卒どもこれを打殺しぬ。其祟にや、部屋の者二三十人ばかり疫死す。此程にいたりて、侯も亦病死ありける。侯の御身に係りたる事にはあらずといへども、世人往々それならんかと風評す。されば故なき殺生はすまじき事ぞかし。(『道聴塗説』)

【関連語】

縁起物(えんぎもの) 縁起を祝うための品物。正月の門松や酉の市の熊手などの類。

縁起をかつぐ(えんぎをかつぐ) ちょっとしたことにも縁起がいいとか悪いとか気にすること。

隆先生も、生前浅草の鳳神社で開かれる酉の市には良く出掛けていた。もっとも、この市で弟子の一人が熊手を売っていたことや、酉の市に限らず情緒のあるお祭り好きだったことが理由で、先生自身は縁起物を買うわけではなかったが。

 

《神》(かみ)

人間を超越した万能の力を有する存在。

[神話]日本神話では、国土を創造生育し、支配する神聖な存在。

[宗教]God.キリスト教において、全知全能で宇宙を創造し支配する唯一絶対の主宰者。またわが国においては、神社に奉祀された霊をいう。

[一般]人智を以てはかることのできない、恐れかしこむべき者の謂い。

【軍神】(ぐんしん) 

戦の神。代表的なものとして毘沙門天、摩利支天が知られる。戦国時代、「弓矢はみなまほうにて候」(『甲陽軍鑑』)といわれるように、人智で計れない力が戦の勝敗を左右するとされ、多くの武将たちは神仏に願をかけ戦いに挑んだ。我国の軍神の数は、別格とされる上記の二神を除いて九千八百神といわれ、上杉謙信の願文には、阿弥陀如来、千手観音、大日如来、弁財天、愛宕勝軍地蔵、十一面観音、不動明王、愛染明王などの神仏名が記されているという。

【神道】(しんとう) 

日本神話を元に創られた我国独自の信仰形態。「天照大神」への尊崇を中心とした古来の民間信仰が、仏教・儒教の影響を受け大系化され理論化されたといわれる。平安時代には神仏習合・本地垂迹が現れ、両部神道・山王一実神道が成立、中世になると伊勢神道・吉田神道などが起った。

【こま犬】(こまいぬ) ○神社のこま犬、高麗犬と書く。神秘鈔に神宮皇后三韓征伐の時高麗に到り玉へば、犬一匹来りて先手をせしよりして、軍旅すゝみ功をとげさせ玉ふ。その形を作りて高麗犬となづけ、神社の守護となせり。王室に今尚銅犬あり。それに諸社に獅子をおくは非なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

【神話】(しんわ) 

神について語られた話。

一般には伝説や民話と区別し、種々の自然現象・文化現象(社会制度)を未開な心意により組み立てた物語で、信仰や宗教儀礼と深く関連し、歴史的・宗教的・科学的・文化的諸要素を未分化の状態で包含しているとされる。

[日本神話]『古事記』の「上つ巻」、『日本書紀』の「神代紀」に記された物語が、日本神話の代表的なものとされる。

[その他の神話]代表的なものに「ギリシア神話」「ローマ神話」「北欧神話」などがある。

 

《原始宗教》(げんししゅうきょう) 

体系化される前の信仰・宗教・思想。アニミズム・シャーマニズムなど。

【アニミズム】(animism) 

神霊・死霊・祖霊・妖精などのさまざまな霊的存在がこの世には存在し、それらが互いに干渉し合って諸現象が起きるのだとする信仰。日本の神道や民間信仰はこのアニミズム的な性格が強いとされる。

【シャーマニズム】(shamanism) 

未開宗教の一。まだ体系化されていない宗教とされ、シャーマン(shaman)のまじないによって政を含む諸事の判断を行う。奴国の卑弥呼もこのシャーマン的な存在だったのではないかという説も有る。

【トーテミズム】(totemism)

未文明人の社会組織及び宗教形態の一。トーテムによって或る種族の含む幾つかの氏族及び氏族的集団が区別され、この集団の成員がトーテム崇拝を中心にして固く結合しているもの。

【トーテム】(totem) 北アメリカのオジブア・インディアンの語(ototeman)から出た詞。「兄弟・姉妹たる血縁」という意。未文明な社会で、部族・氏族または氏族的集団の成員と特別な血縁関係(親縁関係)をもつと見られる或る種の動物、稀にには植物・無生物。またはそれを造形化した表徴記号。部族・氏族・個人の成立・生誕の淵源として神聖視される。(『広辞苑』第二版)

 

《山家学生式》(さんげがくしょうしき)

最澄の書。『天台法華宗年分学生式』(「六条式」弘仁九年五月十三日)、『勧奨天台宗年分学生式』(「八条式」同年八月二十七日)、『天台法華年分度者回小向大式』(「四条式」同十年三月十五日)の三首からなる。比叡山天台で学生を養成するために法式を制定し、勅許を乞うたもの。当時、叡山で得度しても正式な僧となるためには、南都(奈良)に設けられた戒壇で、小乗戒による受戒が必要とされていた。そこで最澄は、叡山に独立戒壇を設ける事を決意、しかも小乗戒ではなく大乗戒による事を企図した。まず手始めとして、叡山の学生を大乗戒によって教育する規定を六ヶ条にわたって立案(六条式)し朝廷に奏上、八月には細則をとり決めた「八条式」を、翌年三月には、寺院・戒律などに大乗・小乗の別があることを述べ、大乗戒による一向大乗寺の建立を明示した「四条式」を上呈した。しかし、この「四条式」には南都の僧等から反対の声が上がり、朝廷も許可するに至らなかった。最澄は改めて『顕戒論』を著わして再考を促すが、最澄の生前には大乗戒壇の建立は許されなかった。ようやく勅許が下ったのは最澄の死後七日目のこととなる。

 

《修験道》(しゅげんどう)

修験道は山岳修行によって超自然的な力を獲得し、その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを目的とした日本独自の宗教で、修験道の実践者を修験者あるいは山伏と称した。

【日本仏教の概説】修験道」の項参照。

【山伏】(やまぶし) 

修験者。役行者を祖とする我国古来の山岳宗教と仏教の融合した修験道の行者で、人里離れた深山に籠り修行を行い、ある種の霊能力を会得したとし、それを持って加持祈祷を業とする。そのため、諸国往来人(道々の輩)と同様、移動の自由が認められ情報収集や流言などを広める役割を担うこともあったとされる。また、修行により身に付けた体術にも優れていたため、忍び働きにも重宝された。室町期、狩野探幽が天狗を山伏姿に模したのも、当時山伏の行動が天狗のように神出鬼没と映っていたためだろうと想像できる。

【熊野山伏】(くまのやまぶし) 

熊野三社(熊野三山)に奉仕する修験者。

室町期に、白河上皇の熊野行幸で先達を務めた園城寺の増誉が熊野三社検校に補任され、以後、熊野三山は園城寺およびその末寺聖護院が支配し、本山派と呼ばれる聖護院派の修験道場とされ、本拠となった。

【羽黒山伏】(はぐろやまぶし) 最上の山伏(『好色一代男』)。出羽国羽黒山の羽黒大権現を本拠とする修験者。

 

《僧侶》(そうりょ)

出家して仏道を修行する人。(『新明解国語辞典』)

【僧官位】(そうかんい)

欽明天皇の時代、仏法がはじめて渡来したのち、歴代の天皇や公家の尊崇を得て仏教があたかも国教のようになると、僧侶の数が増え、その統轄上、僧正などの僧官の必要が生じた。さらに、朝廷の尊崇があつかったことからその品位も上昇し、位階が与えられて、僧官位が作られた。

【僧綱】(そうごう) 衆僧を綱領する意で、僧官僧位とももっとも高いものの総称。僧官では僧正・僧都・律師の三官、僧位では法印・法眼・法橋の三階をいう。

【有識】(うしき) 僧綱の次にあたる職分ともいわれる。已講・内供・阿闍梨の三官の総称。

これら僧綱・有識などを三綱ともいい、それ以外の僧侶を凡僧と称した。

【凡僧】(ぼんそう) ここでの凡僧というのは無官の者のことではなく、六位同等以上の待遇を得ている僧侶のこと。摂家以外の大臣を「ただひと」といったのと同じ意味合い。

【僧位】(そうい) 僧の位階。

【法印大和尚位】(ほういんだいおしょうい) 僧侶の最高位。大和尚位を略してただ法印と称される。法印とは『法印経』という仏経のなかから出た詞で、「法華一乗の法をもって衆生を利することが月光の江水に印するがごとき」という意。和尚とは、梵語で「仏法修行の功を積み徳を修め法財を出して智恵を養い成仏することの功力を生ずる」という意であるとされる。

【法眼和尚位】(ほうげんおしょうい) ただ法眼ともいう。法眼とは『問仏決疑経』という仏経のなかからとったもので、「如来相伝の正法眼をもって法位をつぎ、法の善悪を択ぶ」意とされる。

【法橋上人位】(ほっきょうしょうにんい) ただ法橋ともいう。法橋とは『地蔵十輪経』という経文に「我、仏を求めんがために、普く舟筏と為りて有海を超越す。我、法を求めんがために、また橋梁と為りて衆生を利済す」とあることによっている。また上人というのは『釈氏要覧』に、「内に智徳あり、外に勝行あり、人の上にあるを上人と名づく」とあることからきている。

【伝燈大法師位】(でんとうだいほつしい) 伝燈とは『禅林亀鏡』に「法燈を挑げ展伝して絶えず、これを伝燈と謂う」とあり、法師とは、『裟婆論』に「まさに四法を行わんとするを法師と名づく」とあることによる。

この下に、『伝燈法師位』がある。

【伝燈満位】(でんとうまんい) 満位とは五夏満(ごげまん)の意で、五夏満というのは夏冬九十日ずつ精舎に入って禁足勤行すること五ヵ度に満するものといわれる。

この下に、『伝燈住位』『伝燈入位』があり、「住位」とは僧位に居る意で、「入位」とは僧位の列に入るという意とされる。 

以上八階が僧位とされ、『法印』『法眼』『法橋』が僧綱と呼ばれた。この上位三位は清和天皇の時代に加えられたもので、それより以前は「伝燈大法師位」以下五階だった。また『和名称』によれば、「法印位」を「僧正位」、「法眼位」を「僧都位」、「法橋位」を「律師位」とし、「大法師位」を三位に、「法師位」「満位」「住位」を五位に、「入位」を七位に准じている。このほか平安初期には『修行法師位』『修行満位』『修行住位』があったことが『日本後記』『類聚国史』などに見える。

【僧官】(そうかん) 僧侶の官名。

【僧正】(そうじょう) 僧侶の濫行不正を正す職。『釈氏要覧』に「比丘に法なきは馬に轡なきがごとし。故に徳望ある者を撰び、法を以てこれを縄し正さしむ。故に僧正と云う」とある。

初め僧正は一人だったが、やがて大僧正、僧正、権僧正の三人となり、のちには『愚管抄』に「僧正は、故院の御時までも、五人にはすぎざりき、当時、正僧正一度に五人いできて、十三人まであるにや」と書かれているように、だんだんその数を増したという。しかし、大僧正は一人に限られていた。

また、一階僧正というものが有ったことが、『平家物語』などに見え、この一階僧正とは、『海人藻飼芥』に、次第を経ず加階するものをいったとある。

【僧都】(そうず) 都は統の意で、僧正についで僧侶を統べる役とされる。初め大僧都と少僧都各一人づつだったが、やがて大僧都・権大僧都・僧都・少僧都・権少僧都の五等に分れ五人となり、十二人となる。鳥羽天皇の時には、大僧都だけで八人あったとされる。

【律師】(りつし) この律師とは、律の一字をよく解して十方具足し、法制を解して衆僧に戒律を示すものとされる。『続日本記」に大律師・中律師のあったことが見え、のちに権官ができた。当初、人員も四人だったが、白河天皇の時には十五人と定められ、その後も増員が繰り返され『愚管抄』には「僧綱には、正員の律師百五、六十人になりぬるにや」と見えている。

以上の僧正・僧都・律師を僧綱といった。

【法務】(ほうむ) 法義を務める意で、もっとも重要な職とされ、諸宗の長で僧綱以外に置かれ、僧正などが兼ねたが、東寺一の長者がなる例とされていた。『神皇正統記』に「正の法務は、いつも東寺の一の長者なり。諸寺になるは皆権法務なり」とある。

のち六条天皇の時代に、仁和寺覚性法親王を総法務として、法務大僧正の上に置いた。以後、仁和寺の御室が代々総法務を兼帯した。

【威儀師】(いぎし) 定員は六人とされる。法会の時、衆僧の先に進んで威儀をつくろう役。『今昔物語』に「山階寺に、寿連威儀師といふものありけり」と見える。威儀とは、経文の中に、行住坐臥を四威儀といい、衆僧の進退作法を整えるものとされる。

この威儀師には、大威儀師、小威儀師、権威儀師があり、全体、威儀師は伝燈大法師位であるが、大威儀師は必ず法橋に叙せられた。

【従儀師】(じゅうぎし) 定員は八人とされる。法会の時、威儀師に従って威儀を正す役。

この法務、威儀師、従儀師が僧侶の職分とされる。

【已講】(いこう) 元来は南都の三会(興福寺の維摩会・薬師寺の最勝会・宮中の御斎会)の講師を勤めたものをいったが、後には天台の三会(法勝寺の大乗会・円宗寺の法華会および最勝会)の講師を勤めたものをもいうようになった。講師を命ぜられてもまだその勤めが済まない間は擬講といったと『釈家官班記』にある。

【内供】(ないぐ) 内供奉の略で、供奉(ぐぶ)ともいう。内供奉僧とは、宮中の内道場(禁中で僧侶のお祈りするところ)に供奉し、毎年大極殿で御斎会を行なう時に読師となり、また夜居といって夜分宮中に伺候する職。

また光仁天皇の時代に、名徳の僧十人を選んで補した十禅師というものが、内供奉とともに置かれた。後には、内供奉十禅師と一つのもののようになり、諸書には内供奉とばかり見え、十禅師はあまり聞かれないようになったという。

【阿闍梨】(あじゃり) 阿闍梨とは、規範という義で、能く子弟を糾正する意。阿闍梨には、一身阿闍梨、伝法阿闍梨、七高山阿闍梨の三種がある。

七高山阿闍梨とは、近江の比叡山・比良山・美濃の伊吹山・山城の愛宕山・大和の金峰山・葛木山・摂津の神峰寺の七寺で、春秋二季に薬師悔過(やくしけか)という祈の法を行って五穀豊熟を祈るに際し、その御祈の勅命を受けた高僧をいった。この阿闍梨はこれら七高山の僧に限らず、別に指定された寺々に置かれた。これら阿闍梨は宣旨をもって補せられるが、師僧たちより解文といわれる推選する申文を上奏したものが多い。『栄華物語』には藤原道長が推挙して阿闍梨を補した例が記されている。

伝法阿闍梨とは、天台・真言の大法を伝える僧をいう。そのうちの主たる師僧を大阿闍梨といった。道家公の子法助が伝法潅頂だった時、道深法親王が大阿闍梨だったことが『増鏡』に見える。

一身阿闍梨というのは、貴種名徳の人を特別に推選して称したもので、後白河法皇も一身阿闍梨になられていたことが『百練抄』に書かれている。

以上の已講・内供・阿闍梨を有識といった。

[その他の僧官]

【得業】(とくご) 南都で用いられた称。『釈家官班記』に「三会(維摩・最勝・法華)遂業、これを以て得業と称す」とあり、徳行がすぐれ才学のあるものがなった。

【探題】(たんだい) 法会などで経典の論議があるときに題を出し、論議がすむとその可否を判定する役。『釈家官班記』には「およそ当職は、法道の淵源、学道の険難なり。朝儀さらに聊爾に処せられざる者なり。その闕ある時、楚忽の沙汰あるべからざるか」とあり、学徳ともにすぐれた高僧を選んだ。

【竪者】(りっしゃ) 『釈家官班記』には二十臈(臈とは夏臈のことで、『釈氏要覧』に法歳といって仏道の功を積んだ年のことをいう)をへたものを竪者と号すとあり、また、比叡山東塔の三十講、西塔の二十八講(法華経を講ずること)を遂業したものを竪者と称したと書かれている。

また、園城寺の竪者は高位の僧で、探題僧の次ともいわれる。しかし、日吉御輿振(神輿を舁いて宮城内にすえ置くこと)のとき、摂津竪者豪雲が大将となって御所に濫入したり、以仁王が兵を起した時、平等院因幡竪者荒大夫が味方をした事が『源平盛衰記』に書かれているのを見ると、後には高位の僧や臈を積んだ者ばかりではなかったものと考えられている。

【護持僧】(ごじそう) 御持僧とも書き、夜居の僧ともいう。夜居とは夜中こもりいる意で、つねに清涼殿の二の間(天皇の御寝所の東で、本尊を祀ってある所)に伺候して、天皇の聖体を護持する僧。もとは三人であったが、のちには八、九人になった。そのなかでは、東寺長者は必ず参候し、延暦寺・三井寺の僧も参ることがあった。

【導師】(どうし) 法会の時の主僧をいう。『釈氏要覧』に「十住断結経に云く、導師と号するは、衆生をしてその正道に類示せしむる故なり」とあるによっている。この導師や御祈のときの阿闍梨を除いたほかの僧は、いずれも伴僧という。

【講師・読師】(こうし・どくし) 講師は法会の時などに高座にのぼって講説するもの、読師は経名および経文などをよみあげるものとされる。

このほか咒願師(じゅがんし)、三礼師(さんらいし)、唄師(ばいし)、散花師(さんげし)、堂達(どうたつ)という役があり、咒願文を読んだり、馨を打ったりして法会を行った。この講師から堂達までを七僧という。

【証義】(しょうぎ) 最勝講(五月、禁中で最勝王経を講ずる儀)などに、論議といって聴衆が講師経文の義を論じあった時、その可否を判断する役。証義と同じことをする証誠というものもある。聴衆はチョウジュと読み、法会のとき、講師の講説を聴聞して経文の義を論議するもの。

【堂童子】(どうどうじ) 法会の時、花筥(籠)を配布する役。発心求道の俗人が花筥賦などを勤めるのは、堂の傍にあって便宜相応することから、堂童子といったとされる。

[『塵袋』にある堂童子の記述]

一、堂童子とはわらはにてあるべきか。

客帰伝の文に天竺の寺のことを云へるには、凡諸白衣詣2必蒭所1若専誦2仏典1、情希2落髪1、畢願2緇衣1号為2童子1。或は、求2外典1、無2出離1、名曰2学生1(就2必蒭12外典1)と云へり。此の二類の中に発心求道のおとこなどの、僧の所に至て仏法をねがふを童子となづくるは、花ばこくばりなどする役をつとめむこと尤も相応する故に、童子とは云ふか。今は泌ず発心求道の義なけれども、なぞらへてすること也。南京の諸寺には堂童子と云ふ下部あるにや。(『塵袋』五)

【定者】(ぢょうざ) 法会で行道という儀があったとき、香炉をとって前行する役。『枕草子』に「あやしうおどりてありくものどもの、さうぞきたてつれば、いみじくちゃうざといふ法師などのやうに、ねりさまよふこそをかしけれ」と書かれている。

【検校】(けんぎょう) 熊野三山、八幡、金剛峰寺、金峰山などの上首をいう。また、惣検校というものもあった。

【別当】(べっとう) 東大寺・興福寺・大安寺・法隆寺・仁和寺などの上首をいう。『延喜式』にも「およそ諸寺、別当を以て長官となし、三綱を以て任用となす」とある。また、興福寺には権別当があり、東大寺には小別当がある。

仁和寺では、代々親王が上首であったことから、御室(おむろ)といった。

【座主】(ざす) 一座の主という意で、学識の高い僧をいったが、それから移って僧官名となった。延暦寺・醍醐寺・法性寺などの首座をいう。

延暦寺の座主は、山の座主ともいい貫主(かんず)ともいう。また、延暦寺は天台宗の本山で、延暦寺座主が一宗の長であることから天台座主ともいった。

【長者】(ちょうじゃ) 長者は姓貴、大富、威猛、智深などの十徳を具えたものをいうと『法華文句』などにあるが、それから移って僧官としたもので、東寺の上首をいう。もとは一人であったが、後には四人となり、一の長者、二の長者、三の長者、四の長者といっている。一の長者を一の阿闍梨ともいった。

【長吏】(ちょうり) 三井寺、勧修寺などの首座をいう。

以上、検校以下長吏までは、名目は変るがいずれも長官の事をいう。

[その他の名称]

【和尚】(おしょう) 法印大和尚位のところで記したように、修行の功を積み徳を修めて成仏する功力を生ずる意。これも僧位であるが、位階はなくとも高僧をいい、孝謙天皇の時、鑑真に大和上の号を授けている。

天台宗では「かしょう」といい、法相宗では「わじょう」ととなえ、そのほかはみな「おしょう」といい、和上とも書いた。

その後、ただの僧をも和尚というようになった。

梵語の俗語khosaの音を写した語で、師を表す。師僧・高僧・和上。法眼。転じて僧侶、坊主。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある和尚の記述]

一、和上と和尚と真偽如何。

諡号たまはりたる先徳をばかしづきて、大師とも和尚とも云ふ、是は漢音也。和上とは師の名に云ひ習はせり、是は呉音也。されどもかよはして用ふ。源は一也。和上は梵語、翻じて知有罪・無知罪と云ふ。是はつみならずとよくはからひさだむ、明律の心なるべし。天竺に博士をば烏(正しくは邑)婆那(うばな)と云ふ、又略しては烏社とよぶ。烏社をいひゆがめて和社と云ふ。是は義浄三蔵の説也。常には師をば烏婆陀那と云ふ、翻じて親教と云ふ、又依学とも力生とも云へり。烏婆陀那をも烏婆遮迦とも、優婆陀訶とも云ふ。梵も漢も一種ならず。義広れば翻訳もさま/\〃也。難尽ければ省略す。(『塵袋』五)

【学匠】(がくしょう) 学生とも書く。『古事談』や『古今著聞集』には学侶とも学徒ともある。仏道を学習しているものをいう。

仏道を修めて師匠たる資格あるもの。(『広辞苑』第二版)

【供僧】(ぐそう) 本尊に供奉する僧の事で、供奉僧の略。

供奉僧。中世、社寺の僧侶の身分。(『広辞苑』第二版)

【愚僧】(ぐそう) 僧が自分をへりくだっていう言葉。(『広辞苑』第二版)

【国師】(こくし) 国師とは、『僧史略』に「西域に昔、尼健士あり。三蔵を学び、兼ねて五明に達す。挙国帰依、すなわちこの号を彰す」とあることによったもので、後宇多上皇が紹明に円通大応国師の諡号を賜ったのが始め。僧疎石が生前に国師号を賜って夢窓国師と称したことが『太平記』などに見える。

奈良時代の僧官。諸国に分置し、その国の僧尼を監督し、これに経を講じたもの。後、講師と改称。(『広辞苑』第二版)

【三昧僧】(ざんまいそう) 三昧僧とは、念仏三昧、法華三昧など、専心に念仏したり法華経を読誦する僧をいう。

専心に念仏などをする僧。法華三昧堂に常住して法華三昧を修する僧。(『広辞苑』第二版)

【寺主】(じしゅ) 延暦寺では「じしゅ」といい、仁和寺では「てらしゅ」と読むという。寺主とは、鎮寺法主の意で、説法知法僧を法主とする義であると『釈氏要覧』にある。

鎮寺法主の義。諸大寺・定額寺などの三綱の一。一寺を知事する職位。てらし。(『広辞苑』第二版)

【沙弥】(しゃみ) 梵語。『元亨釈書』に「国俗、髪を剃り梵儀を全うせず、妻子ある者、在家、沙弥と称す」とあり、出家しても俗家にいて妻帯しているものをいった。

梵語で、息慈・勤策男または求寂の意。出家して十戒を受けた少年僧。年齢によって三種類に分ける。五衆・七衆の一。さみ。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある沙弥の記述]

一、沙弥は何なる義ぞ。

沙弥は梵語、翻じて求寂と云ふ。勤策。とも息悪とも云ふ。道宣律師の釈には、初入仏法多存2俗情1須息悪行慈云へり。(『塵袋』五)

【沙門】(しゃもん) 沙門とは、凡語で僧の惣名とされる。桑門(そうもん)も同じ意味。

梵語で、勤息即ち善を勤め悪を息むる人の意。出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。桑門。出家。さもん。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある沙門・桑門の記述]

一、桑門と云ふはよすて人の栖に桑のかどを立つる心か。

世の人なべて此の心をしれり。但し此れは実義には違へり。沙門は天竺の詞ば、桑門も沙門も音通ずる也。またの梵語を訓によむべきいはれなし。沙門と云へばとて、いさごを門にする謂なし。桑門もくはの門と云ふ義に非ず。原憲がとぼそをくわの木にてしたると云ふは、まことの木か。原憲は僧にあらねば義たがひぬ。別の事也。沙門の梵語は一に非ず。或は、沙迦懣嚢とも、舍羅摩拏とも、室摩那拏とも、沙門とも、桑門とも云ふ、同事也。唐には、是は翻じて、功労とも乏道とも貧道とも云へり。打任ては、仏弟子に限て沙門の名はあれども、羅什三蔵は、仏法及外道凡出家者皆名2沙門1云へり。外道は随分に家業を忘て苦行するを、出家とも、天上に生ずるを出離とおもへり。かれが意に順じて、暫く沙門とも云へるにや。日本のぼろ/\など云ふもの、外道の部類なるべし。唐には乱常のとがとて、徳いたらぬものゝ、異相を現ずるをば、とがめらるゝとかや。(『塵袋』五)

注:ぼろ/\ 有髪の乞食僧。文字は梵論(ぼろ)とする

【住持】(じゅうじ) 仏法をとどめたもって護持すること。寺の主長である僧。住持僧。住職。(『広辞苑』第二版)

【住職】(じゅうしょく) 住持職の略。住持の職分。寺の主長である僧。住持。(『広辞苑』第二版)

【出家】(しゅっけ) 世の塵をさけて家を出る義。

家を出て仏門に入ること。僧。(『広辞苑』第二版)

【出家得度】(しゅっけとくど) 仏門に入り度牒を受けて僧・尼となること。現今は、寺に入って剃髪の式をあげること。僧籍に入ること。(『広辞苑』第二版)

【上座】(じょうざ) 衆徒の上に座する意で、年臈高才の人を任じた。法事以下の事を掌る役で、下に権上座があった。

法臈十年以上の者。比丘の敬称。三綱の一。年長・有徳の者で、寺内の僧侶を統監し、寺務をつかさどる役僧。禅宗で師家を呼ぶ第二人称。曹洞宗の僧階の一。長老。(『広辞苑』第二版)

【上人】(しょうにん) 法橋上人位のところに記したように、徳行智恵がすぐれて人の上に在る意で、僧位であるが、位階のない僧でも、徳行のすぐれたものを上人といっている。とはいえ、形式上、朝廷に願って勅許を得たものとされる。

智徳を具備し道俗の導師・範となる僧侶の敬称。僧位の名。法橋上人位の略。(『広辞苑』第二版)

【聖人】(しょうにん) 『大蔵法数』に「聖は正なり。凡性を捨て正性に入る。故に名づけて聖と為す」とあり、『大般若経』に「仏菩薩を聖人となす」とあることから、高僧のことを聖人といった。

ただ上人と同訓であることから、混用した例が多い。また、聖人を略してといい、それを訓読みにて「ひじり」ともいう。

仏・菩薩をさす。聖法・七聖財・七聖覚を有するからいう。見道以上の位にあるもの。惑を断じ理を証しているからいう。上人に同じ。また、上人に対して、それより重い意味に用いる。例えば、真宗では法然・親鸞は聖人、烈祖は上人。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある聖の記述]

一、ひじりをば聖人と書き又上人と書く、何れをか正説とする。

聖をばひじりとよむ。ひじりなれば聖人といはむ、さしあたりては、不理。俗典には、権者めかしき人をば聖人と云へり。但し内典には、上人をもて正説とすべきか。翻訳名義に律文をひきて、瓶沙王称2仏弟子12上人1云へり。瓶沙王とは頻婆羅王の名也。翻じて影坐と云ふ。入宋の僧の中には瓶沙をばびんしやとぞよむ。大品経に、若一心行2阿辱多羅三獏三菩提1心不2散乱1、是名2上人1と云へり。聖の字をば或は外書に聖と云ふは声也。言聞声知情、故曰聖と云へり。(『塵袋』五)

【禅師】(ぜんじ) 禅定を修する師という意。これを諡号としたのは、後宇多天皇の時代、道隆に大覚禅師の諡を賜ったのが始めとされる。

禅定とは治心の法のことで、仏門に入ったものをも禅定とも禅定門ともいった。藤原兼良を一条禅閤(禅定太閤の略)、平清盛を大相国禅定門といった例。

禅定に通達した師僧。中国・日本で、智徳の高い禅僧に朝廷から賜る称号。一般に法師の称。(『広辞苑』第二版)

【大師】(だいし) 大師とは、仏を三界の大師と称することからいう。『瑜珈論』に「邪穢外道を摧滅し、世間に出現す。故に大師と号す」とあり、衆生を救済して善に導くものであることから、高僧の諡号とした。最澄・円仁・空海に伝教大師・慈覚大師・弘法大師の諡を賜ってからのち、この諡号をうけた高僧は多い。栄西は生前に大師号勅許の請願を出したが、生前にはその例が無いと退けられている。

大導師の意。仏の尊称。中国・日本で朝廷から高僧に賜わる号。多くは諡として賜わる。わが国では、天台宗の伝教(最澄)・慈覚(円仁)・智証(円珍)・慈慧(良源)(元三大師)・慈摂(真盛)・慈眼(天海)、真言宗の弘法(空海)・道興(実慧)・法光(真雅)・本覚(益信)・理源(聖法)・興教(覚鑁)・月輪(俊仍)、真宗の見真(親鸞)・慧燈(蓮如)、曹洞宗の承陽(道元)・常済(瑩山)、臨済宗の無相(関山)、浄土宗の円光(源空)、融通念仏の聖応(良忍)、時宗の円照(一遍)、黄檗宗の真空(隠元)、日蓮宗の立正(日蓮)の二三人に勅賜。高僧の敬称。特に弘法大師(空海)をさす。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある大師号の記述]

一、高僧名徳の中に、大師号かうぶると申すは、さるつかさのあるべきか。

別に大師号と云ふことばなし。諡号也。李周翰が云く、諡は名也。又諡法に云、諡は行之迹也云々。行徳ある僧などのうせて後、其の跡を忍て徳を表するために名を授らるゝ也。大師の二字は、遺弟の祖師をかしづく詞也。大師の二字の上に諡号よびつゞけて、弘法大師とも伝教大師とも申す也。大師号といふ事はあるべからず。(『塵袋』七)

と『塵袋』にはあるが、後には『愚管抄』六に「大師号なんど云さまあしき事さたありけるは」と書かれているように、大師号というものが設けられた。

【大徳】(だいとこ) 『釈氏要覧』に「行満徳高を大徳という」とあるが、貴賎にかかわらず僧侶の通称にも用いられる。

だいとく。仏のこと。徳高く行いの清い僧。高僧。転じて、単に僧侶。だいとこ。(『広辞苑』第二版)

【都維那】(ついな) 維那は説衆の意で、衆僧に法義を説き示すことや、そのほか寺院内のこといっさいを掌る役。

維那(ゆいな・いな)に同じ。三綱の一。寺中の寺務を司る役。綱維。知事。都維名。禅家ではイノ・イノウと読む。(『広辞苑』第二版)

【入道】(にゅうどう) 仏道に入る義。出家した者を入道と称した。また大入道というのは、別に意味があったわけではなく、北政所に対して大政所という類のもので、道長を入道というのに対して、その父兼家を大入道といった。

仏道に入って修行すること。また、その人。在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。仏道に入った三位以上の人の称。坊主頭のものをあざけっていう称。坊主頭の妖怪。(『広辞苑』第二版)

【入道親王】(にゅうどうしんのう) 親王宣下を受けて後に仏門に入った皇族。(『広辞苑』第二版)

【入道の宮】(にゅうどうのみや) 入道した親王・内親王・女院の称。(『広辞苑』第二版)

【比丘・比丘尼】(びく・びくに) 釈迦の弟子を四種に分け、出家の男女を比丘・比丘尼といい、在家の男女を優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)と称した。

びく。梵語。仏門に帰依して具足戒を受けた男子、即ち僧。乞子。→比丘尼。誤って比丘尼の称。女子をいやしめていう語。(『広辞苑』第二版)

びくに。梵語。出家して具足戒を受けた女子。必芻尼。尼僧。あま。→比丘。鎌倉・室町時代、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。絵解比丘尼・小歌比丘尼など。江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼。科負比丘尼の略。(『広辞苑』第二版)

[『塵袋』にある比丘・比丘尼の記述]

一、比丘尼をあまと云ふは和語か。

根本は皆な梵語也。比丘は僧の名、翻じて怖魔とも乞士とも破悪とも殺賊とも不生とも除饉とも云へり。尼の字は女とよむ。善見律には阿摩と云ふものと云ふ。老母也。重尼故称之と云へり。比丘をば必蒭とも云ふ。新古の不同也。(『塵袋』五)

【比丘尼御所】(びくにごしょ) 江戸時代の寺格の一。皇女・王女または公卿の息女などで出家した人が住職となった尼寺。女王御所。(『広辞苑』第二版)

【坊官】(ぼうかん) 房官とも書き、延暦寺では座主などに奉公する輩で、別に任官叙位もせず、坊号や公名をつけて、つねに歯を染め妻帯しているもの。

門跡家の家司。妻帯し、法衣を着し帯刀する。房官。(『広辞苑』第二版)

【法師】(ほうし) 伝燈大法師位のところで記したように、四法を行うものをいう僧位であるが、昔から僧侶の通称となってきた。

仏法によく通じてその教法の師となる者。僧。出家。ほっし。(昔、男児は頭髪を剃ったことから)男の子供。或る語に添えて「人」の意を表す。瘠法師。影法師など。(『広辞苑』第二版)

【法師武者】(ほうしむしゃ) 僧形の武者。僧兵。(『広辞苑』第二版)

【坊主】(ぼうず) 一坊の主僧。住職。僧。武家時代に幕府・諸大名に仕え、僧体で茶の湯や給仕などの雑役を勤めたもの。同朋。童坊。髪を剃っている頭。また、その人。(『広辞苑』第二版)

【門跡】(もんぜき) 門跡とは一門一跡という義で、それから宮様のいる寺院の尊称となったとされる。宇多法皇が仁和寺にいたことから、御門のいた跡という意で仁和寺御室のことをいい、それから移って他の寺にも門跡という称号をつけるようになったといわれるが、それは誤りとされる。

この門跡には、脇門跡・准門跡があって、それらを区別するために宮門跡・摂家門跡・清華門跡という名称が生まれた。宮門跡とは親王が入室した寺院で、摂家門跡・清華門跡はそれぞれ摂家・清華の者が入室したことから呼ばれる。またそこに住職したものを門主といった。これら門跡は、勅許でなければ称することはできない。

一門の法跡の意。祖師の法統を継承し、一門を統領する寺。また、その僧。皇子・貴族などの住する特定の寺の称。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡に区分して制度化した。本願寺管長の俗称。(『広辞苑』第二版)

【門跡奉行】(もんぜきぶぎょう) 室町幕府の奉行の一。門跡に関する政務を掌ったもの。(『広辞苑』第二版)

(この項、()で資料名を付したもの以外は和田英松『官職要解』による)

 

《寺》(てら)

パーリ語のthera(長老)あるいは朝鮮語の礼拝所という言葉からきているという。仏像を安置し、僧・尼が居住し、道を修し教法を説く殿社。中国で「寺」はもと外国の使臣を遇する所の意。伽藍。蘭若。梵刹。(『広辞苑』第二版)六世紀中頃、仏教の受入れに積極的な蘇我氏らが、それに批判的な物部氏を滅ぼして、大陸・半島から本格的に仏教を移入したことから始まり、我国の仏教寺院は、まずヤマトの政権の権威を誇るためと、国の安定を祈願するためにもたらされた。本格的な寺院はその頃造営された飛鳥寺とされ、やがて摂津の四天王寺(摂津国分寺)などが次々と造営され、ヤマト政権の偉容を誇ることとなる。

日本仏教の概説 日本仏教の概略と主な宗派を紹介。

【国分寺】(こくぶんじ) 唐の国制である律令制をもって列島の支配をほぼ確立(東北北部以北と南九州を除く)したヤマト政権は、天平十四(742)年、聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺とともに各国ごとに建立された。正式名を金光明四天王護国之寺といい、大和(奈良)の東大寺を総国分寺とした。

【国分尼寺】(こくぶんにじ) 国分寺とともに国ごとに建立された尼寺。正式名は法華滅罪之寺といい、法華経を講じさせ、大和(奈良)の法華寺を総国分尼寺とした。

【南都】(なんと) 本来は平安京を北都というのに対して大和(奈良)をいう。そのことから、奈良興福寺を称して「南都」というようになった。

【南都七大寺】(なんとしちだいじ) 奈良の東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の総称。

【北嶺】(ほくれい) 南山(高野山)に対して比叡山をいう。また、興福寺の「南都」に対して比叡山延暦寺をいう。

【五山】(ごさん) 元々は釈尊(釈迦)の旧跡、王舎城付近の五つの山をいう。その後、インドの祇園・竹林・大林・誓多林精舎および那爛陀寺の五精舎を差すようになる。それを模して、南宋の時代、中国の杭州・明州地方にある径山寺・育王寺・天童寺・霊隠寺・浄慈寺を中国五山と称した。我国に南宋の禅宗がもたらされた時、その中国五山に倣って、禅宗最高寺格の五つの寺を五山と呼ぶようになる。鎌倉中期にその兆しが現れ、暦応五(1342)年、鎌倉・京合わせ、1建長・南禅、2円覚・天竜、3寿福、4建仁、5東福の五山が定まる。浄智寺は五山に準じ、浄妙寺以下十刹も定められた。やがて、相国寺が造営され、至徳三(1386)年、南禅寺を五山の上とし、京・鎌倉各五寺を定めた。この時、大徳寺は五山に列せず、林下と呼ばれ蔑まれたが、五山の諸寺が権力と結び堕落すると、禅宗の正統は大徳寺に受け継がれたという。

【京都五山】(きょうとごさん) 京都にある臨済宗の五大寺。天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の総称。南禅寺を首格、大徳寺を次とし、五山はその下に位置する。

【鎌倉五山】(かまくらごさん) 足利義満の時に定めた鎌倉の臨済宗の五大寺。建長寺・円覚寺・寿福寺・浄妙寺・浄智寺の総称。関東五山ともいう。

【尼寺】(あまでら) 尼の住む寺。尼屋。尼家。尼寺(にじ)。比丘尼寺ともいう。また特に寂光院をいう。

【尼寺五山】(あまでらごさん) 京都の景愛寺・護念寺・檀林寺・恵林寺・通玄寺をいう。

【鎌倉尼五山】(かまくらあまごさん) 鎌倉にある太平寺(高松寺)・東慶寺・国恩寺・護法寺・禅明寺の五つの尼寺の称。

【縁切寺】(えんきりでら) 夫の不身持や強制結婚に苦しんで駆け込んだ女を助け、前夫は勿論、その他から何等の故障を言わせない特権を有する寺。鎌倉の東慶寺や、群馬県新田郡尾島町の満徳寺など。かけこみ寺ともいう。(『広辞苑』第二版)

東慶寺・満徳寺は、江戸時代に存続した数少ない幕府公認の駆込寺。東慶寺は鎌倉山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は松岡山。1285年(弘安八)北條時宗の後室覚山尼の開創になり、江戸時代初頭には豊臣秀頼の娘が入室して幕府の厚遇を受けた。満徳寺は上野国徳川(現群馬県尾島町)にある時宗寺院。徳川家とはゆかりが深い。両寺とも次第に幕府権力に吸収されつつも、江戸時代終末まで縁切寺として機能した。(『週刊朝日百科』26)

【普化寺】(ふけでら) 虚無僧寺ともいう。江戸時代に隆盛した禅宗の一つ普化宗の寺。普化宗は、唐の普化を祖とする禅宗の一派で、1254年、東福寺の覚心が伝来。下総一月寺・武蔵鈴法寺を本山としたが、1871年廃宗。普化宗の有髪の僧を虚無僧といい、由来は、室町時代、普化宗の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで菰(こも)の上に座して尺八を吹いたから菰僧というとも、楠木正成の後胤正勝が僧となり虚無と号したからともいう。深編笠をかぶり、絹布の小袖に丸ぐけの帯をしめ、首に袈裟をかけ、刀を落し、尺八を吹き、銭を乞うて諸国を行脚した。

【無縁寺】(むえんでら) 女郎や無宿の者など、身内などの引取り手のない無縁の亡者を葬る寺。

と辞書にはあるが、隆慶作品での「無縁寺」の意は、あらゆる世俗の権力から「無縁」の公界に造られた寺という意味で、ここに入ったものは、権力の追求から免れられた。その替り、駆込んだ者も、世俗の縁とは一切無縁となった。

中世、俗世のあらゆる縁(主従・債務・親子・男女など)から逃れられる聖域=避難所(アジール)的性格を帯びた社寺。「無縁所」(むえんしょ)「無縁寺」(むえんじ)といい、「公界所」「公界寺」ともいう。寺院は大名・領主によって種々の特権を保証されていたが、その特権の根拠は「氏寺」と「公界寺」では大きく異なる。氏寺には、通常、大名・領主の子弟が入寺し、その人的なつながり=縁を通じて特権が与えられたのに対し、公界所・公界寺の場合は、特権はその寺院が本来的に有していたアジール的性格=無縁性を追認したものである。(『週刊朝日百科』26)

【門跡寺院】(もんぜきじいん) 祖師の法統を継承し、一門を統領する寺、およびその僧を門跡というが、門跡寺院という場合は皇子・貴族などの住する特定の寺を云う。宇多天皇が出家して仁和寺に入ったのに始まり、室町時代には寺格を表す語となり、江戸幕府は宮門跡・摂家門跡・准門跡に区分して制度化したとされる。

○延喜元年(醍醐)法皇東寺にて潅頂、御室を仁和寺につくる。御室とは今にては仁和寺のことの様に人々覚へ、所の名に似たれども、法皇の菴室をいづかたにても御室と云ふ。たま/\大内山仁和寺に寛平法皇の御菴室をつくられたるゆへ仁和寺を御室といふなり。これ天子御室のはじめ。後世に御門跡と云ふこともこれより起る。宇多法皇のをわします所なれば御門の跡と云義なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

隆慶作品に登場する各地の寺社については、『歴史地理・地名便覧』にある「旧国名」のそれぞれの国名の末尾に「城郭・寺社・その他の建造物一覧」に有るので参照ください。

【仏像伝来】(ぶつぞうでんらい)

○人王三十代欣明天皇十三年百済王使者を献じ、釈迦の像并はた、天かいを献ず。大臣稲目は拝し玉へとすゝむ。物部尾輿は拝すること甚無用とすゝむ。因つて稲目に賜ふ。稲目よろこんで其家をすてゝ寺となし。向原寺と号し仏像本邦へわたりて伽藍を作りし初めなり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

 

《比丘尼》(びくに)

@(梵語bhiksuni除女・薫女と訳す)出家して具足戒を受けた女子。必芻尼、尼僧、あま。A鎌倉・室町時代、尼の姿をして諸方を遊行した一種の芸人。絵解比丘尼・小歌比丘尼など。B江戸時代に尼の姿で売色した下級の私娼。(『広辞苑』第二版)

○牛王売の比丘尼宝印を売に出す、比丘尼に文庫の内へ入てもたせ、又腰に勧進ひさくをさゝせ、米を貰はせたる修行なり、寛文の頃、「びんざゝら」をもたせ、歌をうたはせしより、風俗大に下る、尤唱歌もやひなり、此時より、売女のきざしをあらはせり、天和の頃より、世上遊女はつかうするにより、かやうの族も売女とはなりたり、然れども、元来僧形なれば、衣服は木綿を著したり、

○天和、貞享頃は、浅黄木綿頭巾、白き布子、浅黄も有、素足、わら草履、菅笠、手覆かけ、ひしやく腰にさし、文庫を持せたり、腰帯をする、

○元禄頃より、黒桟留頭巾を著す、是より外の色の布子を著す、されども無地也、すげ笠、手覆、文庫を持、

○宝永より、小比丘尼に柄杓をさゝせ、文庫を持せたり、元禄より、中宿ありて是へ行、朝五ツ過或は四ツを限りに出、夕七ツ限りに宿へ帰る、昼の間彼中宿にありて、他へ修行に出る事なし、和泉町北側裏ごとに有り、新道へ抜て大方中宿なり、玄冶法印とて公儀御医者の屋敷也、是を玄冶店といふ、又、八官町御堀通り町屋に中宿有り、後京橋畳町に有、正徳頃は茅場町組屋敷に出す、享保九年、小浜民部殿屋敷脇へ引、往来は木綿服なれども、中宿にては、サアヤ、縮緬嶋、八丈の紅裏模様を著す、夏冬黒ちりめんの投頭巾を著す、尤長し、櫛笄さゝぬ遊女にひとしく、けしからぬ有様也、其頃、浅草門跡の脇、法恩寺前にも中宿有り、是は劣れり、宿は神田多町より出る、又、深川新大橋向より出る、安宅丸の跡の町家なり、是をあたけ比丘尼と云、下品なり、四ツ谷の早稲田と云在よりも出る、下々なり、小身屋敷の門番或は寄合辻番を頼み、宿とす、享保十年、茅場町組屋敷白コシ長屋より、八丁堀松平越中守屋敷北の方、鳥居丹波守殿上り屋敷の跡へ引こす、寛保二年、八官町に心中出来る、公辺になり、つゐに売女に落て、それより中宿堅く御停止にてやみたり、延享二年まで、神田の宿にて客を留ると云、此ごろは又々何方へ行やらん、往来するなり、

○延享のころより、御停止を破り、元のごとくに成しなり、

○頭巾、古来は浅黄のつねていの頭巾也、老比丘尼は冬しころなどもつけたり、元禄のころより長くする、

(中略)

○宝永よりむな高帯にする、幅はあまり広からず、享保より少し幅広くなる、腰帯、はゞ広き平ぐけなり、但、結び下げにはせず、

○比丘尼雪駄とて、尻の皮そらし、きびすかくるゝやうにしたり、平人は不用、元文末よりはやる、

(中略)風俗をこしらへ往来するゆへ、はなはだ歩行遅し、寛保御停止の節は、中以下の比丘尼、古来のごとく勧進に出る、漸一年の間なり、

○夫比丘尼、容形は、眉をおき、歯白く磨き、紅をつけ、白粉を化粧、月代を中がりにして、忌中の男の月代の如し、異体なる者なり、正徳年中、中村源太郎と云女形の役者有、これに面よく似たる比丘尼あり、源太郎比丘尼と云名高き比丘尼也、

○又、宝永の頃、鶴と云名高き比丘尼あり、同宿より、小鶴とて又一人出す、然るに、宿は神田にて、同店の裏より出火ありけり、勿論、宝永の頃は、附火の御吟味つよき折節なれば、自火、附火の御吟味ありけるに、出処怪敷ゆへ、自火とも申がたく、六ケ敷なりける、同店者共不残召出され、御吟味有けるに、一人、彼鶴と申比丘尼、朝くわへぎせるして厠へ行たる由申上る、彼鶴を召して、右くわへぎせる致せしと申者と対決に及ぶ、鶴申ひらき成がたくして、火附の科にをち、火罪になりたり、聊の事にても、法度を不守時は、もし凶事出来たる時、法度を不守咎にて大罪に行れたり、前々より往還并門外くわへぎせる御停止にてありける、可慎々々、(『我衣』曳尾庵著)

(中央公論社刊『燕石十種』第一巻より) 

【歌比丘尼】(うたびくに) 歌念仏をして勧進をする尼。後には色を売るようになった。(『広辞苑』第二版)

五十 今はむかしの事 (前略) 一、唄比丘尼といふ者ありて勧進す、宝暦の頃迄所々繁華の宮社へ来り、参詣の人の休息する茶屋へ入、びんざさらを鳴し、唄諷ふて米銭を貰ひて世を渡る者也、いつか此類絶て今は見る事なし、むかし此比丘尼の中に容色あるを好色の者密に奸淫して大幸を得しより、色を商ふ比丘尼といふ者も出来りといふ、然るに其色比丘尼の始りしも古き事と見へたり、正保三年丙戌八月廿三日(頭書 正保三年丙戌より享和三年癸亥迄百五十八年)評定所へ阿部豊後守出座の時、御旗本の士渡辺源蔵といふ者、神田田町の比丘尼の親方弟子比丘尼を源蔵隠し置たる由、願い出たるを豊後守取計宣敷、源蔵三四十金出して内済せし由を記置たる書を見れば、もはや其頃より以前色比丘尼有し事明らか也、(後略)(三田村鴛魚編『未刊随筆百種』第二巻「享和雑記」より)

歌比丘尼([朱書]今は絶てなし) 往古、紫の一本などにも見へし、いづみ町、八官町びくになぞの余流にて、天明の比まで、新大橋の東詰、浅草みしま門前などに、葭簀立よせし花売、江口の宿にてありしが、勧進にていづるは春のころ、飛鳥山、日ぐらしの辺、目黒の不動、雑司ヶ谷なんど、人群集の所へ、十六七、廿計の比丘尼、薄化粧して、無紋に浅黄ねづみ、紬よふの小袖うち着て、幅ひろき帯前にむすび、つむりは、納豆ゑぼしとかいへるものゝ如く、黒木綿にて折たるぼうしをかむり、牛王箱にやあらん、だい箱とはいへる黒ぬりの文庫様のもの小わきにかいこみ、小唄うたふてもの乞ふ事にありける、これにも小比丘尼二人り三人りつれたり、また小比丘尼は、そまつなる木めん布子にて、きやはんはき、手おひかけて、うしろへ垂れのある常の角頭巾、黒もめんにてつくりたるをかむり、五合程も入るべき柄杓の柄のみじかきを持たるが、年のころ六ツばかりなるより十一二比迄の小びくに三人り四人りうちつれ、これには、御寮比丘尼とて、四十有余にていとにくさげなるが、同じ出たちにて、牛王箱かゝへてつきそひ、町々門々へ来てうたひける、唱歌よくも覚へぬど、

鳥羽のみなとに船がつく、今朝のおゐてにたからの舟が、大こくとおゑびすとにつこりと、チトくわんおやんなん、

とて、愛々敷こわねにて物こひける、(『只今御笑草』)

天和年間記事 ○此の頃はやりし唄比丘尼の内、神田めつた町(多町なり)より出づる、永玄、お姫、おまつ、長伝といふが名とりにてありしとぞ。しゆすか羽二重の投頭巾をかぶるによつて、これを繻子鬢と名づけたり。又宝永の頃までありし、綿摘といひしも土妓にてありし。(『武江年表』)

艶道通鑑』にある歌比丘尼についての記述。

【勧進比丘尼】(かんじんびくに) 「歌比丘尼」の別称。

勧進比丘尼 歌念仏を唱え、地獄極楽の絵解きをして米銭を乞い歩いた比丘尼。歌比丘尼ともいう。一方熊野権現から出て、熊野の牛王の宝印を売り、熊野権現を勧進してまわった比丘尼があり、これを熊野比丘尼といったが、これらはかたわら売色もしたので、同義語として用いられるようになった。(『日本の古典17』池田弥三郎注)

○勧進比丘尼、売女比丘尼の事、我等若年の頃は、年頃なる比丘尼、びんざゝらを鳴し、歌をうたひ、小女比丘尼を召連、みだれ箱様なる箱を抱へ、小尼に柄杓をもたせ、門々に立、米銭をもらひ行かふ事也、売女比丘尼は、芝八官町、神田横大工町にて、美服を着し売ける由、是につゞきて、下直の比丘尼は、浅草田原町、同三島門前、新大橋河端などにて、家毎に二三人ヅゝ出居たり、右両様の比丘尼共、今は絶てこれなし、(小川顕道『塵塚談』)

【熊野比丘尼】(くまのびくに) 近世、熊野三所権現を諸国に勧進した尼僧。後には歌をうたい、また色を売る者ともなった。(『広辞苑』第二版)

熊野比丘尼勤に出る事、如何の謂れや、勧進して牛王を売しよし、何れとなく売女となる、先づ神田より出るを上として、わせ田、下谷竹町、本所、あたけ下として、宿は新和泉町上とし、八官町を中とし、其外浅草門跡前、京橋太田屋敷、同心町所々へ出ぬ、下も船へ出る、元頭巾は、黒ちりめん、加賀笠なり、正徳二年、俄に、頭巾、浅黄木綿に成る、当座殊の外見苦しく、後は上比丘尼は子比丘尼二人連れる、但、吉原の太夫のまねにして、衣類を着飾る、大鶴、小鶴などとてはやり、歴々の遊びにして、全盛目を驚かしける、元文六年、八官町にて、桜田辺の武士と心中して、其跡より、一切比丘尼町屋へ出間敷旨御停止なり、此頃比丘尼の商ひ夥し、衣類、頭巾の仕立各別違ひ、着たる姿よきやうにして遣しける、去によつて、姿よろしき也、(『江戸真砂六十帖』巻の四)

日本中世史の脇田晴子氏は、これら歌比丘尼、勧進比丘尼、熊野比丘尼は、歩き巫女と同類とし、神仏習合により仏教化したものとしている。そして、出雲のお国が勧進舞を舞って出雲大社の造営資金を集めたのと同様、熊野比丘尼から伊勢神宮の造替のために勧進して諸国を遍歴した慶光院伊勢上人らが現れたと書かれている。これら熊野比丘尼は、お国らの歩き巫女と同じく散所や声聞師集団に属していた。

【科負比丘尼】(とがおいびくに) 古来、人の穢れは人形類が身替わりとなって吸い取るといわれていたため、貴人の中には身近に人形を置く習慣があったが、その人形の役目を比丘尼が勤め付添っていた。そうした比丘尼の称。代参、身替わり信仰の類とされる。(『日本の古典17』池田弥三郎注)

色里用語事典【色比丘尼】参照。

『人物・人名事典』「八百比丘尼」参照。 

中世職能民職種一覧』参照。

 

《巫女》(みこ) 

巫子、神子、御子。神に仕えて神楽・祈祷を行ない、または神意をうかがって神託を告げる者。未婚の少女が多い。かんなぎ。(『広辞苑』第二版)

一般には神社に所属し、そこの神子として奉仕するが、勧進を求めて諸国を廻る者も現れた。歌舞妓の創始者とされる「出雲のお国」も出雲大社の巫女といわれる。やがて、どこにも所属せず諸国を廻り求めに応じ、占や祓いをする巫も現れる。これらは「あるき巫女」と呼ばれ、十座の支配下の七道者として諸国を往来した。

中世職能民職種一覧にも「巫」の項あり。

【あるき巫女】(あるきみこ)

特定の神社に属さず、諸国津々浦々を遍歴し、客に求めに応じて神おろしなどを行い、舞を舞って浄財を集めていた。散所や声聞師集団に属していた彼女らは、遍歴したとはいえただあてもなくさまよった訳では無く、諸国にあった彼ら雑芸能集団の集まる公界(国境・河原など)の舞場で舞っていた。

【外法】(げぼう) 

巫女などが用いる妖術。また、それに用いる猫の頭骨、髑髏などを云う。外法仏。司馬遼太郎氏の『城を取る話』に、村巫女のおううと関連して、この外法の話が有る。

【ノロ】(のろ)

琉球国で巫女をいう。ノロは琉球王府によって任命され、公儀の祭祀をつかさどるために村々におかれていた神職。明治十二年(1879)の琉球処分の頃、王府から任命されていたノロの数は、沖縄本島だけで212人いたという。ノロの最高位は聞得大君(きこえおおきみ)で、国王の姉妹、王妃から選ばれ、王と王国を守護する琉球王国最高の巫女として、大きな宗教的権力を持っていたことから、王と並ぶ権力を有したが、1667年、大君の位を王位の下に位置づけ、職掌も縮小され、大君になる資格を王母のみとした。大君の下には大阿母(おおあも)が置かれ、その下にノロが組織される。ノロの司る祭祀には、麦と稲の穂祭、収穫祭、海神祭、シヌグなどがあった。


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(最終更新日/2007.1.19)