隆慶わーるど歴史用語の基礎知識

道々の輩・芸能民の部

 

 

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《海賊》

日本の海の民の称。律令制の支配から外れていたため、海賊と呼ばれる。

中世、志摩・瀬戸などの海域で活躍した海上豪族、水軍の異称。(『広辞苑』第二版)

海賊衆(かいぞくしゅう) 中世における水軍の将士。

海賊船(かいぞくせん) 中世の水軍の艦船。

海賊大将(かいぞくだいしょう) 中世における水軍の統率者。(以上『広辞苑』第二版)

【水軍】(すいぐん)

海賊衆。もともと海民だった人達が、豪族化し半島や大陸などで略奪行為を行う(倭冦)。南北朝時代から、陸の大名と結びつき、村上水軍などのように海の大名と称されるほどの勢力を持つ者も現れる。室町期に海賊取締りが厳しくなると、海上交通権などを掌握して、航行する船から通交料を徴収し、代りに護衛などを行っていた。また水軍という言葉には、村上水軍、九鬼水軍などその海賊大将の名を付した水軍名と、毛利水軍、織田水軍など大名麾下の、後の海軍と同義語的に呼ぶ水軍名がある。さらには、その地方名を付して熊野水軍、和泉水軍などの呼名があった。

中世、瀬戸内海・西九州沿海などで活躍した地方豪族。海賊。(『広辞苑』第二版)

【安宅水軍】(あたきすいぐん) 紀州安宅浦の熊野海賊の将安宅氏の水軍。この水軍の大船を安宅船と称したことから、大型船を代表する名称となったとされるが、異説も有る。[安宅船]の項参照。

【小浜水軍】(おばますいぐん) 伊勢水軍の海賊の将小浜景隆率いる水軍。武田水軍に属していたが、武田氏滅亡後は徳川家に仕える。

【九鬼水軍】(くきすいぐん) 志摩の海賊の将として台頭するが、国司北畠家に属する伊勢水軍の小浜・千賀などの在来水軍からの反発が強く、新興勢力だった織田信長と結び、在来海賊衆が没落する中、東の海賊衆の雄となる。

【来島水軍】(くるしますいぐん) 村上水軍の分流。瀬戸内伊予来島を拠点とした海賊衆来島氏が率いる水軍。

【間宮水軍】(まみやすいぐん) 元伊豆間宮村の土豪衆で、北条水軍の船大将だったが、信玄による伊豆攻撃で降伏し、武田水軍の一員として江尻の地にいた。 

【向井水軍】(むかいすいぐん) 元伊勢の海賊衆だったが、武田の海賊奉行岡部忠兵衛により小浜景隆と共に武田水軍に迎えられた。武田氏滅亡後は徳川家に仕え、後には徳川水軍の要となり海賊奉行となる。 

【村上水軍】(むらかみすいぐん) 源氏の後裔を自称し、南北朝時代に南朝に属し瀬戸内海の交通を押えた。後に能島、来島、因島の三島に分流し、「海の大名」として島々に城を構え、海関を設けるなど西の水軍の雄として君臨した。戦国時代には毛利氏の麾下に入り、毛利水軍は他の瀬戸内海賊衆をも加え最強の水軍を持った。

 

【軍船】(いくさぶね) 

海族(海賊)・水軍に欠かせぬ乗物。六世紀、半島の加羅(伽耶)国と深い関係にあった倭国(ヤマト政権)は任那(金海加羅)に半島の拠点を置いたことから、船は重要な海上交通手段として活躍したと思われる。まだこの頃は、軍船としてでは無く、人や物品の運送を目的としたものだったと思われるが、六世紀末に、隋(大陸)と高句麗(半島)の間で戦いが起り、大和政権は先に失った任那の回復を狙って大軍を半島に送っている。このことから、兵員輸送としての軍船がこの頃には登場していたと思われる。

七世紀には、日本の国も統一政権(大和政権)として確立され、海民を組織した水軍が現れる。唐と同盟を結んだ新羅が百済を滅ぼすと、百済の遺臣等は日本に救援を求め、女王斉明はしばしば水軍を組織し半島へ兵を送るが、663年、日本の水軍は白江村で唐・新羅連合軍に大敗を喫し、百済の亡命者たちとともに半島から敗退。そして、これら兵員の輸送を担ったのが、瀬戸内海や北九州・五島列島の地方首長等で、その後、彼等は海賊衆として海の領主となり、半島・大陸を度々侵蝕する倭冦となってゆく。

戦国期には、火筒を備えた大船も現れ軍船として一定の発達が見られ、そのころ漂着したポルトガル船・スペイン船などの影響もあり大航海時代の技術革新の波にのる機会が訪れたが、国内統治を優先する徳川幕府の鎖国政策によって、大船の建造が制限されたために、軍船としての発達は幕末の黒船来航まで停滞した。

喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「船」の項あり、参照ください。

【安宅船】(あたきふね) 室町末期から江戸初期に用いられた大きな軍船の総称。櫓五十挺或は八十挺以上を用いたとされる。

名称は安宅水軍の軍船からきているとされるが、『広辞苑』第二版によると「あたけぶね」と読み、「あたける」という動詞の連用形「あたけ」とある。「あたける」とは、あばれ騒ぐ、乱暴するという意。

【小早】(こばや) 小早船。関船の一つ。櫓四十挺立て以下の櫓のない船。船脚早く、物見・飛脚船などに用いられた。(『広辞苑』第二版)

○急行に用ふる小舟。小さきはやぶね。(『廣辭林』新訂版)

○小早 四十挺立て以下で、矢倉のない、半垣または欄干造りの船の称。船足が早いので、物見・使番・飛脚等に用いた。(『和漢船用集』三)

【関船】(せきぶね) 当初、海賊を防ぐために造られた早船。下関で造られたことからこの名が付いた。櫓四十二挺立てから八十挺立てまであったという。

○昔時の兵船、櫓の数四十二挺乃至八十挺あり、もと門司と馬関との渡海用に供せしもの。(『廣辭林』新訂版)

【鉄船】(てつぶね) 九鬼嘉隆が造ったとされる鉄の装甲を施した船。毛利氏麾下の村上水軍が用いた焙烙火矢からの攻撃を防ぐ目的で造られた。

【亀甲船】(きっこうぶね) 装甲をほどこした船。李舜臣率いる朝鮮水軍の軍船。朝鮮の役(倭乱)の時、大砲を備えたこの亀甲船に日本の水軍は翻弄され、制海権を掌握できなかったとされる。

 

【倭冦】(わこう)

水軍の一部の行為が海賊行為となり、倭冦と呼ばれる。南北朝期から、塩飽諸島や五島列島を本拠に半島や中国沿海部との私的交易に関わり、武力で強奪する海賊行為をも行った倭人(日本人)を中心とした海民(水軍)。中国や朝鮮の政府から取り締りを求められた幕府の取締り強化によって、後期には中国人が倭冦と称して半島や沿海部を荒し回ったとされる。

十三〜十六世紀、朝鮮・中国の沿岸を日本人が掠奪したことに対する中国・朝鮮側の呼称。瀬戸内海・北九州の海賊が中心で、もともと私貿易を目的とした。明朝ではこれを南倭と称して北虜とともに二大患とした。豊臣秀吉の禁止で消滅。(『広辞苑』第二版)

また、別名を八幡(ばはん)という。『和漢三才図絵』によれば、倭冦がその船に立てた旗に「八幡」という神号をしるしたのを明人が「バハン」とよんだからという。彼等の船を「八幡船(ばはんせん)」といった。

【八幡船】(ばはんせん) 室町末期から安土・桃山時代にかけて、中国・朝鮮の沿岸を侵略した日本の海賊船を明人などが称した語。江戸時代には密貿易船の称。はちまんぶね。(『広辞苑』第二版)

   

 

 

《曲舞》(くせまい)

南北朝期から室町期にかけて行なわれた舞芸能。かなり長い叙事的な詞章を、鼓の調子に合わせて歌い、かつ舞うもの。男は直垂(ひたたれ)、女は水干・立烏帽子で舞う。のちの幸若舞もこの一派。猿楽の能では観阿弥がこれを採り入れて能の曲節を改革した。能の「クセ」に見られる舞姿にその影響が見られるとされる。

『七十一番職人歌合』(中世職能民職種一覧』)には、曲舞々として白拍子と対に描かれている。

【幸若舞】(こうわかまい) 

中世までは曲舞(くせまい)と称した舞芸能。この曲舞の称が記録に表れるのは南北朝期観応元年(1350)の『祇園社社家記録』の「掃部曲舞」とされるが、この舞芸そのものはもっと以前からあった。室町中期頃から呼称が様々現れ、曲舞の外に、二人舞、越前舞、大頭舞、幸若舞、笠屋舞などと記されるようになる。これは、世阿弥が『五音』の中で「今は皆々曲舞の舞手絶えて」と述べているように、本来の曲舞が衰退し、新しい芽生えがあり、上演内容の変化に合わせて種々の呼称が生じたものとされる。

室町中期頃の曲舞は、寺社縁起、慶祝、無常を詠んだ短い謡い物に近いものと推測され、現存の幸若舞の曲目の多くにみられる源平物・義経物・曾我物等の軍記物を中心とした叙事詩的な語り物と質を異にしていた。

醍醐寺座主満済の日記応永三十四年(1427)の条に、「於妙法院久世舞見物。此間山上山務法印弘然坊に召置云々。自其妙法院へ吹挙、摂州野瀬郷声聞云々。児如法堪能者也。去々年於清水寺六角堂勧進久世舞沙汰云々。雨中間以別儀召上中門了。児は水干大口立烏帽子にて舞之。男は直垂大口也。如法歴々体也。」とあり、醍醐寺の高僧たちが曲舞に興じている様子が書かれていて、摂州野瀬郷の声聞師がそれらを演じていた。(声聞師は、もと陰陽寮に属した下級陰陽師の系譜をひき、本業の卜占の外、災厄祓除の祈祷、盆彼岸の読経、年初の千秋万歳の祝福、曲舞などを演ずる雑芸を業とした。興福寺の五か所十座の声聞師などは、猿楽、あるき白拍子、あるき巫子、鉢たたきなど七道物と言われる雑芸能者の支配権を持っていた。)

また、『管見記』嘉吉二年(1442)五月八日の条に「当時諸人令弄翫くせ舞あり。号之二人舞。依家僕等勧進今日於南庭之。音曲舞尤有感激。勝宝院僧正、右馬頭父子入来。持明院羽林以下家僕等在席。舞了及酒宴。召彼舞手等於予前畢。其興不少者也。」とあり、ここでは二人舞と称されている。さらに五月二十四日条に「幸若大夫称先日礼来」とあり、幸若大夫という芸能者が来訪した事が記されている。この『管見記』の記述が、幸若という名の初出とされる。

また、『康富記』宝徳二年(1450)二月十八日の条に、「越前田中香若大夫参室町殿、久世舞々之云々」とあり、幸若大夫は越前田中の出身で、室町邸はじめ貴顕の邸宅で曲舞を演じていたことが伺える。これは雑芸の一つとして声聞師などの芸能者集団によって演じられていた曲舞が、幸若大夫という専業者が現れることにより、曲舞はより洗練された舞大夫が演じる舞芸となることでその質を変じていった。こうして、戦国期から江戸初期にかけて、舞大夫による曲舞を、幸若舞と称するようになったと麻原美子氏は述べておられる。(『舞の本』解説)

芸能民の系譜]参照ください。

 

《猿廻し》(さるまわし)

猿廻 昔より有りと聞えたり。京に来るは、伏見の辺その外所々に住す。羽織に編笠、腰に餌畚を付けて米を入るる。中国の猿にはさま/\〃芸をさするゆへ、猿牽が腰に道具多く付る也。このゆへに腰に物多く付けたるをば、猿牽といふ也。京は世智成る所なれば、薬には及ばず、辞儀をするのが奥の手也。猿牽声歌の節分けて備りたり。猿を馬の守りとする事は、猿は山の父と称し、馬は山の子と言ふゆへなりと壗襄鈔に見えたり。(『人倫訓蒙図彙』七)

紀州那賀郡栄谷村の貴志甚兵衛が日本猿引の棟梁とされ、諸国に散在したとされる。

(『好色一代男全注釈』上より)

 

《散楽》(さんがく)

中国古代の芸能の称で、古くから雅楽(宮廷の音楽)以外の民間の舞楽の総称として用いた。唐代には、軽業・奇術・滑稽物真似に音楽を伴奏したものをいうようになる。奈良時代に我が国にもたらされ、田楽その他に影響を与え、発展、伝承されたとされる。

奈良時代に舞楽とともに唐からもたらされた雑楽芸で、その内容も奇術・曲芸に属し、その母国唐においては胡人(西域人)の幻術として伝えられたものとされ、「神娃登縄弄玉」(二人の男の顎に支えた二本の柱に縄をはり、舞女が高足駄を履いてこれに登り、玉を弄しつつ渡る芸)「飲刀子舞」(仰向いて刀剣を呑む芸)「臥剣上舞」(剣上に仰向いて臥す芸)「入馬腹舞」(馬の口から侏儒を出す芸)などがあった。これらの雑伎は、後に編される『新猿楽記』に唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉などといわれる雑伎がそれに当る。

当初は雅楽寮の中に散楽戸を設け特別に練習させていた。しかし、この散楽戸は延暦元年(782)に廃止される。これは、貴族趣味の朝廷の正楽となった舞楽に対し、散楽が民衆の興味を引き一般的に普及して、自発的な修学者の増加にともない、官学として教授する必要が無くなったためと、律令制の衰退とともに多くの官戸を保護する力が無くなったためで、廃止された散楽戸の楽戸民はその技芸によって社寺に属したり、剃髪して散楽法師となった。一部は漂泊の雑芸者として各地に散り、散楽は俗楽として人々の間に広まった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)

【猿楽】(さるがく)

散楽の転訛した称で、申楽とも書く。古くは田楽・呪師などを含めた民間の舞楽の称だったが、平安時代には、滑稽な物真似や言葉芸などを中心とした舞楽をいい、相撲会の時、あるいは内侍所御神楽の夜などに演じたという。後には一時の座興の滑稽な動作をも猿楽と呼んだ。鎌倉時代に入り演劇化し、能・狂言に発展する。

やがて、猿楽師たちの団体である座が形成され、それらの多くは寺社に属した寄人・神人となる。

一般に散楽が猿楽に転訛したとされているが、日本中世史の林屋辰三郎氏はその著『歌舞伎以前』の中で、散楽の中の一つ「猿楽通金輪」(二人の男のかつぐ金輪を猿が伴奏につれくぐり抜ける演技)という雑伎の猿楽(さるごう)に由来し、その名称が拡大して散楽を猿楽と称するようになったと書かれ、それに田楽などを加えて新しい猿楽となったのではなかろうかとしている。

『新猿楽記』には、咒師・侏儒舞・田楽・傀儡子・唐術・品玉・輪鼓・八ッ玉・独相撲・独双六・無骨有骨延動・大領之腰支・蝦漉舎人之足仕・氷上専当之取袴・山背大御之指扇・琵琶法師之物語・千秋万歳之酒祷・蟷螂舞之頭筋・飽腹鼓之胸骨等々、二十九種の演目が挙げられてる。

やがて、座が形成されると、演舞を中心とした集団や手品や曲芸を得意とする集団(放下師)、傀儡子、琵琶法師などそれぞれの芸能に分化してゆく。すると、猿楽は舞や演劇を元にした能芸の名称となり、大寺院や神社を拠り所とした座には楽頭などの特権的な層が現れ、中世社会の芸能・文化の中心的な集団を形成するようになる。春日大社や日吉大社などの庇護を受けた座が、大和の外山・結崎・坂戸・圓満井の四座や近江の山階・下坂・比叡の三座などとされる。ちなみに、大和の猿楽座である外山座は宝生流となり、結崎座は観世流、坂戸座は金剛流、圓満井座は金春流となってゆく。

中世職能民職種一覧に「田楽」「猿楽」の項が有るので参照ください。

【田楽】(でんがく)

平安時代から行なわれ、もと、田植等の農耕儀礼に、笛・鼓を鳴らし唄い舞ったものだが、やがて、専門の田楽法師が生まれた。腰鼓・笛・銅拍子・ささらなどを用いる群舞と、高足に乗り品玉を使い刀剣を投げるなどの曲技を伴った舞芸が現れるが、鎌倉期から南北朝にかけて、猿楽と同様の歌舞劇である能をも演ずるようになる。後に田楽能は衰え、寺社の行事などに伝えられるだけとなった。

もと田植のときの楽なればいふといひ、又神楽を申楽と書けるが更に変じて田楽となれるなりともいふ。

古昔、農夫が耕作の労を慰むるために奏したる一種の舞楽、後、一種の芸となりて専ら法師の業となる。囃子に「つづみ」「ささら」・銅拍子などを用ふ。歌ひ舞ひ又は手玉をとり、高足(タカアシ)に乗りて軽業などす。鎌倉時代より足利時代の頃盛んに行はれ、遂に本座・新座などの流派に分かれたり。(『廣辞林』新訂版)

豆腐を串にさしてあぶった物を、なぜ田楽というのだ。されば、田楽法師が白袴を下にはき、上に色のついた物を着て、鷺足(竹馬)に乗って踊る姿と、白い豆腐に味噌をぬりたてた格好とが、よく似ているから、それで田楽というのだろう。夢庵(牡丹花肖柏)の歌に、こういうのがあるから、ついでに紹介する。

たかあしを踏みそこなえる面目を 灰にまぶせる冬の田楽

(『醒睡笑』巻の一)

田楽は五穀豊穣を祈願する宗教的な祭事に由来し、種まきや耕作に関する素朴な擬態が舞踊化したもので、やがて農民の慰安ともなる。平安時代に、散楽の影響を受け新しい広義の猿楽に含まれ京都およびその近郊の流行となり、当時の貴族生活にも深く関わるようになっていった。長徳四年(998)四月の松尾祭に、恒例として山崎津の住人が田楽をなし、雑人等と合戦におよんだと『日本紀略』に表れるように、田楽の芸団化も進み、長承二年(1133)の宇治神社の祭日の様子を述べた『中右記』の中に「田楽法師原、其興極みなく、笛は定曲なく口に任せて吹き、鼓は定声なく手に任せ打ち、鼓笛喧嘩、人耳目を驚かす」とあり、この頃には田楽法師原という集団が登場してくる。やがてこうした集団は、宮座との関わりの中、田楽座を形成してゆく。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)

[関連用語]

【雅楽】(ががく) 雅正の楽という意で、中国古代には主として祭式楽。日本では、狭義には奈良時代前後に中国・朝鮮などのアジア大陸から輸入した楽舞とそれを模した日本製の曲(唐楽・高麗楽)、広義には日本の古楽(神楽・久米歌・東遊など)や唐楽・高麗楽の影響下に作られた新声楽(催馬楽・朗詠)も含めた宮廷音楽全般で、寺社でも演奏。(『広辞苑』第二版)

東遊(あずまあそび) 平安時代から行われた歌舞の一種。初めは東国地方の神事芸能であったが、宮廷や公家の間に採用、神社の祭礼にも奏する。舞人四人または六人で、狛笛・篳篥(ひちりき)・和琴を用い、笏拍子を打つ。現在は宮中の皇霊祭や日光東照宮祭・賀茂祭・氷川神社祭に行う。東舞(あずままい)ともいう。

神楽(かぐら) 「かむくら(神座)」の転訛した詞。神遊ともいう。宮廷で神を祭るに奏する舞楽。楽は和琴・大和笛・笏拍子の三つを用いたが、後、篳篥をも加え、歌は神楽歌を用い舞を伴う。民間の神社などで演じられる神楽と区別し、「御神楽(みかぐら)」ともいう。(『広辞苑』第二版)

御神楽の夜になりぬれば、事のさま、内侍所の御神楽にたがふことなし。これは、今すこしいまめかしく見ゆる。みな人たち、小忌(おみ)の姿にて、赤紐かけ、日かげの糸など、なまめかしく見ゆるに、かざしの花のありさま見る、臨時の祭見る心地する。

みな座につきて、おのおのすべき事ども、とりどりにせらるるに、殿も本末の拍子とりたまふぞうるはしき。日の装束なる殿は、今すこし、人たちの座よりはあがりて、御座しきなれば、それにゐさせたまひたり。使のかざしの花挿させたまひたる見るに、さまかはりてめでたき。本の拍子、按察使の中納言、笛、その子の中将信通、琴、その弟の備中守伊通、篳篥、安芸の前司経忠。あまたゐたりしを、こと長ければ書かず。

かくて御神楽はじまりぬれば、本末の拍子の音、さばかり大きに、高き所に響きあひたり。声聞き知らぬ耳にもめでたし。御神楽やうやう果てがたになるときこゆ。「千歳、千歳、万歳、万歳」と謡ふこそ、天照神の岩戸にこもらせたまはざりけんも、ことわりときこゆ。わが君のかくいはけなき御齢に、世を保たせたまふ、伊勢の御神も護りはぐくみたてまつらせたまふらんと、位保たせたまはん年の数そひ、末は長井の浦のはるばると、浜の真砂の数も尽きぬべく、御裳すそ川の流いよいよ久しく、位の山の年経させたまはん。まことに白玉椿、八千代に千代をそふる春秋まで、四方の海の浪の音静かに見えたり。

かくて御遊、果てがたになりぬれば、殿、御琴、治部卿基綱、琵琶、拍子、もとのごとく宗忠の中納言、笙の笛、内大臣の御子の少将雅定、笛・篳篥、もとの人々御つがひにて、殿の御声にて、「万歳楽いだせ」とて、われうち添へさせたまひ、二返りばかりにて、「安名尊」、「伊勢の海」など、乱れ遊ばせたまふ。宗忠の中納言、拍子とりていだす。(『讃岐典侍日記』)

上の記事は『讃岐典侍日記』にある御神楽の記述。内侍所の御神楽は十二月の吉日を選んで行なった。「小忌の姿」とは、神事にたずさわる官人が装束の上に小忌衣をつけた姿をいい、白の麻布に花や蝶や鳥を青摺りにしてある衣姿。それに赤紐を掛け、「日かげのかずら」という白や青の糸を組んだ「日かげの糸」を冠の左右にかけて垂らした姿は艶かしく見えるが、冠を飾っている造花の「かざしの花」を見ると、石清水や賀茂の「臨時の祭」を見ているようだと、その情景を述べている。

また、「『千歳、千歳、万歳、万歳』と謡ふ」というのは、本方が「千歳、千歳、千歳や、千歳や…」と謡うと、末方が「万歳、万歳、万歳や、万歳…」と謡う神楽の謡いをいう。「御遊」というのは音楽の事をいい、神楽が終った後の音楽。「万歳楽」は、舞楽の名で、「安名尊」と「伊勢の海」は、催馬楽の曲の名。

久米歌(くめうた) 古代歌謡の一。久米部(くめべ)が久米舞にうたう歌。記紀によれば神武天皇が久米部をひきいて兄猾(えうかし)・八十梟師(やそたける)・兄磯城(えしき)・長髄彦(ながすねひこ)を討伐した時、軍士を慰撫・鼓舞した歌および道臣命(みちのおみのみこと)が忍坂(おさか)で八十梟師の余党を討った時に歌った歌の総称。現在は宮内庁楽師が雅楽歌曲として演奏。

久米舞(くめまい) 古代、久米部の行なった歌舞。久米歌をうたい、笏拍子・和琴・竜笛・篳篥・を使用。舞人四人・歌人四人。歴代天皇の遊宴などに用いたが、平安以後は大嘗会・豊明節会にだけ行い、室町時代に廃絶。明治以後は大嘗会と紀元節とに用いられてきた。

催馬楽(さいばら) 雅楽歌曲の一種。馬子歌の意、或いは前張(さいばり)の転ともいうが、定説がない。奈良時代の民謡を、平安時代に至って雅楽の管弦の影響によって歌曲としたもの。句頭(主唱者)だけが笏拍子を打ち、和琴・笛・篳篥・笙・箏・琵琶などの楽器を伴奏とした。近世には和琴を用いない。

前張(さいばり) 雅楽歌曲の一種。神楽の採物の歌の次、雑歌の前に歌われる歌。大前張・小前張十六曲の称。また大前張七曲中の一曲の名。榛(さいばり)ともいい、割榛(さきはり)の音便ともいわれ、皮をはいだときに出る樹液を染料にしたものをいったもので、神楽歌に歌われた。

唐代に渡来し、唐文化を積極的に摂取した奈良朝の宮廷や寺院によって、その式楽という意味合いから歓迎された舞楽。左楽と右楽があり、左楽は唐楽の意で、これには林邑楽(安南シャム地方の楽)およびインド楽を含む。右楽は高麗楽の意で、靺鞨楽(渤海国・沿海州の楽)を含んでいる。これらは朝廷の雅楽寮、社寺に専属する楽師、楽生によって演奏・上演された。この芸能は古い物語中の興味ある一断面を演出しているが、一見しては何を意味するか判らないまでに抽象化され、当時においても内容を理解して観賞することは困難であったのでは無いかといわれ、国家の正楽として保護を受けないかぎり、それ自体が多くの人々の興味を引くまでにはいたらず、律令国家の衰退とともに衰微し、大衆芸能には発展しなかった。(林屋辰三郎『歌舞伎以前』より)

【伎楽】(ぎがく) 日本に最初に伝えられた楽舞。612年(推古二十年)、百済から帰化した味摩之(みまし)が伝えたとされる。味摩之は、中国南朝の呉国から学んだ伎楽舞(くれのうたまい)に長じていたことから、朝廷はこれを大和桜井里で少年に伝習させ、その後、諸寺院の仏会に荘厳として盛んに演じられた。その演技は科白を伴わない黙劇で、たぶんに滑稽味をおびたものであったことから、国家の正楽にはならなかったとされる。その後に伝えられた舞楽によって、奈良朝末期には衰退し、「教訓抄」に、そのころわずかに南都の四月八日の仏生会と七月十五日の伎楽会とに残存していたと書かれている。法隆寺正倉院に残る伎楽面から、インド・ギリシアの影響を受けた中央アジア起源の楽舞曲であったようだといわれている。

[『塵袋』にある伎楽の記述]

一、伎楽と云ふ、伎は何の意ぞ。

伎は衆の意也。一種ならず、あまたの心なるべし。伎は岐也と釈せり。岐はまた也。またはわかれてあまたになる義か。伎とかよはして釈す。妓とかくことあり。伎楽と云ふは、楽は八音をあやつりて衆音和合する故に、あまたの心をあらはす。凡そ伎は芸の心也。手にあるをば伎と云ふ、身にあるをば芸と云ふと釈せり。打物・引物・吹き物、皆な手のあやつりをはなれぬ能なれば、伎楽とも云ふか。両方何もたがはず。妓の字は女の義也。かみによりてかよへるか。慎子曰、毛薔(正しくは女篇)・西施則天下之美妓也と云へり。是は美女の心か。(『塵袋』七)

芸能民の系譜]参照ください。

 

《山賊・盗賊》(さんぞく・とうぞく)

海の民同様、山中を移動して生活するため律令制の支配から外された山の民。『吉原御免状』で「山人」(やまびと)とあるのもこの山の民の事で、山窩、傀儡子、樵夫、マタギ、木地師など山で暮す人々の総称。

隆慶一郎は小田原北条氏に仕えた箱根を本拠とする風魔一族と傀儡子族を同じ系譜の人間とし、彼らは定住せずに漂泊して生活する民族で、大陸からの移動で列島に渡ってきた渡来民と関連づけている。

【山窩】(さんか)

主に山岳地帯を住処とし、狩猟・採集などで生計を立てていた事から定住せず、一族を治める長(おさ)の元、集団で移動していた。彼等は近代まで中央の権力に与しない誇り高き人々であり、中央政府の支配が及ばない人々であったため山賊・盗賊として扱われ、また恐れられていた。

隆慶一郎は『捨て童子松平忠輝』(上巻183P)で、「山窩は傀儡子と同じ血族であり、傀儡子が町や街道をさすらい、芸能を職とするのに対して、山窩は山間をさすらい、蓑づくりを職とする」と書いている。

諸藩の山廻り同心は、なぜか山窩を目の敵にしている。不幸にしてぶつかれば、十のうち十まで闘争になり、どちらかが死ぬことになる。山窩側は、何故自分たちが目の敵にされるか分からない。何一つ悪いことはしていないのである。自分たちの生きざまそのものが、幕府の法に叛いているなどと考えてもいなかった。山窩には国境がない。山はどこまでもひとつながりの山であり、自由に歩きまわれる自分たちの栖であり、庭である。己の庭を歩いていて、何故咎められねばならないか。年数も数えきれぬほどの太古から、自分たちはこうやって生きて来たのである。領地といい、国境いといい、侍たちが勝手気ままに決めたものを、自分たちに押しつけるのは迷惑だった。そんなものは、決めた侍同士が守ればいい。自分たちは放っておいて貰いたい。第一、国境いなどといっても、侍は本当の奥山まで来たためしがないではないか。まして栖んだことなどあるわけがない。それが山窩のいい分だった。(『鬼麿斬人剣』55p)

 

【野武士】(のぶし)

落武者などの具足を剥ぎ取って武装した土民。(『新明解国語辞典』)野伏り(のぶせり)の転訛した詞ともいわれ、山野に住み峠道などに出没する山賊と化し、通行人から通行料など金品を脅し取る者が多かった。

 

白拍子(しらびょうし)

中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女。(『平家物語』佐藤謙三注)

ここでいう遊女とは、上代の遊女(広義の遊女)の意で、白拍子と人をいう時には、今様を謡い舞を舞う(白拍子舞)ことを得意とする遊女を云う。

一、平安朝末に起りし遊女の歌舞、又、其歌舞をなしし遊女、鳥羽院の頃、島の千歳及和歌の前といふ二人の女の舞ひ始めしものといふ。鎌倉時代には多少行はれしが、足利時代に入りて遂に其跡を絶てり。始めは水干を着け立烏帽子を戴き白鞘巻をさし今様を謡ひつつ舞ひしかば、男舞とも稱せしが、後には水干・袴ばかり着ても舞へり。歌はもと神佛の縁起などを謡ひしが、後には戀愛・慶賀のものをも謡へり、囃子は鼓・笛・銅拍子なりき。二、妓。藝妓。(『廣辭林』新訂版)

※銅拍子 鐃鉢(にょうはち)に似て小さい真鍮製の楽器。

白拍子の始祖と云われる「島の千歳」、「和歌(若)の前」の名は『平家物語』『源平盛衰記』に現れる。

 『衆道考』(貝原益軒『大和事始』)「白拍子」の項に、寛永年中、男色の劇しかったこと書いて曰く「盛衰記平家物語などに鳥羽院の御時、島の千歳若前とて二人の遊女舞はじめけるとあり。是白拍子の始也。兼好法師がつれづれ草には、磯の禅師、又其娘静より始るといへり。其ころまでは、猶古にちかゝりしかば、妓女の輩も郢曲をうたひ箏琵琶を弾ぜし由古記に見えたり。され共それは倡家の礼をよみ、屠兒の仏を拝するたぐひなるべし。

 白拍子といへるは、近世の歌舞伎の類なり。歌舞伎の始は僧衣を着て鉦をたゝき仏号を唱て、念仏をどりと云ひしに、其後、名古屋山三郎と云しもの、出雲巫(みこ)くにといふものに密通し、くにに刀をさゝせ頭を包んで早歌ををしへ舞せければ、歌舞伎と云。これ慶長十九年の事也かの歌舞伎の歌に比田の横田の若笛とうたふも、皆出雲國の里の名にて、彼國より事始りける故也。淫侏の舞なれば、寛永年中に之を制禁し給ふ。其後叉小童を女形に仕立させて舞ほどに世の放蕩の子弟達男女にふけり淫風猶甚だし」と。(『江戸時代の猥談』阪田俊夫著)

また、『庭訓往来』の寛永以前の旧注を集した『庭訓往来抄』の「白拍子」の項では「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也。昔は白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也。」と有り、島千歳という妓女が、和歌の舞を舞ったのが始まりとし、通説である「和歌の前」を「和歌の舞」として、人の名としては「島千歳」一人となっている。これは、「和歌の前」を「和歌の舞」と読み違えたものか。

喜多村信節(均庭)の『喜遊笑覧』に「白拍子」の記述あり、参照ください。

【今様】(いまよう) 神楽・催馬楽・朗詠等に対して、平安時代の新しい歌謡をいう。(『艶道通鑑』注)

今様という言葉の母体となる「今めかし」という語は、平安中期の文献に初出し、源氏物語・栄華物語などの物語にも現れる。当世風という意味で「今様」という語が使われ始めるのもこのすぐ後で、「枕草子」の「歌は」の条に「杉たてる門、神楽歌もをかし、今様はながくてくせづきたる、ふぞく(風俗)よくうたひたる」とある。しかし、当世流行の歌謡そのものを表わすようになるのは、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」(『吉野吉水院楽書』)とあるように、もう少し後の院政期に入った頃とされる。

後白河院が編纂した『梁塵秘抄』には、これらの今様が集められている。

【遊女】(ゆうじょ) 平安時代、帝や公卿・貴人の宴席に招かれ歌舞や歌合せなどに加わったり、酒席に侍るなどして場を華やかに盛り立てた職能民。遊び女、浮かれ女ともいう。江口の君と云われた「妙の前」などが有名。

「亦、もろもろの遊女・傀儡等の歌女(うため)を招きて」(『今昔物語』十三)

○うかれ女 遊女。「その後、いづれの御時にや、たはれめ、うかれめ、ゆうぢよ、ゆうくん、けいせいなどゝ、申しけるとは、うけたまはりて候」(『あづま物語』)

「遊女といふは、室の泊・三嶋江などにありて、船路の旅人に愛せられし故に、しか云ふ。是をたはれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ。古来和歌に読来れるも、遊女は水辺の事によせて読めり。(略)(六百番)歌合に、兼宗朝臣、波の上にうかれて過ぐるたはれめも頼む人には頼まれぬかは。皆是、遊女の題にて読める歌なり」(『色道大鏡』一)

『燕石十種』にある「遊女考」(前半後半)参照。

後年の娼婦という意味と同義の「遊女」は『歴史用語の基礎知識』「色里の部」【遊女】の項参照。

【前】(まえ) 前述の「和歌の前」「妙の前」などの前は、婦人に付ける尊称。

九、貴女の名に添えていう敬語。「玉藻の前」(『広辞苑』第二版)

また、この「前」に御の字を付けて「御前」ともいった。「静御前」「虎御前」など。

同・寄稿論文「遊女・白拍子と家父長制の浸透について」参照

『画証録』に「遊女 白拍子」の項有り、参照。

中世職能民職種一覧』参照。

芸能民の系譜]参照ください。

 

《道々の輩》(みちみちのともがら)

「隆慶わーるど」のキーワードの一つで、広義の「職人」を指す詞。この場合の道は、道路や街道に使われる道のように物理的な過程(行程)を指す言葉ではなく、柔道、剣道、あるいは茶道、華道に使われる道で、特別あるいは特殊な技能、技術の修得の過程を指す。すなわち「道々の輩」「道々の者」とは、鎌倉時代の「職人歌合」などに出て来る医師、陰陽師、鍛冶、番匠、刀磨、鋳物師、博打、海女、遊女など手工業者から芸能民、宗教家などさまざまな職能民を云った。隆慶作品に登場する傀儡師や猿楽師、武芸者などもこれらの職能民に入る。

平安時代後期から室町時代にいたり「道々の輩」あるいは「道々の細工」という言葉がもっぱら使われている。「道々」というのは、職人と呼ばれる職能種の人々に、それぞれの道があったからで、たとえば手工業者の場合、木工には木工道、漆工には漆工道、螺鈿をつくる人々には螺鈿道があり、博奕打の場合に博奕道があった。「兵(つわもの)の道」も同じことで、これらの人々はそれぞれの「道」に即して自分の職能を働かせている。そこから「道々の者」という言葉が出てきた。(網野善彦著『日本中世の民衆像』)

室町時代末期に成立されたとされる『七十一番職人歌合』は、様々な「歌合」の中でも後期に作られていることから、そこに現れる職人の種類が尤も多い。そのため中世の職人像をイメージしやすい資料とされている。そこで、そこに記された職種を『中世職能民職種一覧』としてまとめましたので参照ください。

【七道往来人】(しちどうおうらいにん) 「諸国往来人」ともいう。「七道」とは五畿七道の七道で全国という意味。「道々の輩」と呼ばれた各種職能民達は、その職能、技術を持って朝廷に奉仕する供御人であったり、社寺の神人(寄人)で、朝廷や社寺の庇護を受け、諸国に設けられていた関所を自由に往来する権利を得ていた。

【供御人】(くごにん) 内蔵寮や掃部寮、造酒司、主殿寮などの天皇直属の内廷に属し、その技術を持って奉仕していたため、一般の農民や町民が負う年貢や公事が免除されていた。

【神人】(じにん) 石清水八幡宮、春日社、日吉社などの神社に奉仕し、供御人と同様に年貢や公事から免除されていた。また清水寺や興福寺などの大寺院に奉仕している場合も同様で、「寄人」(よりうど)と呼ばれる。

 

  


 

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(最終更新日/2007.1.26)