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《遊廓・廓》

【揚屋】(あげや)

遊女等を抱えず、宴席や閨の場所を提供する店。現在で言えば宿泊もできる貸し宴会場のようなものか。

元吉原から新吉原の前期、正確には宝暦十年(一七六〇)まで、太夫、格子(後に散茶の一部も)といった格の高い遊女と遊ぶには、遊客は揚屋にあがりそこに遊女を呼ばなければならなかった。遊ぶのも寝るのも揚屋である。新吉原になると、揚屋は一ケ所にまとめられて揚屋町となったが、元吉原の頃には、あちこちに散在していた。(『吉原御免状』101)

太夫・格子とその店で遊ぶことが出来ない。必ず揚屋という所に呼び、そこで遊ぶのである。酒を飲むのも寝るのも揚屋でだった。(『死ぬことと見つけたり』下140) 

揚屋 あげやと訓ず。京師島原・大坂の新町は今もこれあり。江戸も昔はこれあり。いずれの年に廃すか。今は揚屋これなし。ただ揚屋町の坊名を存すのみ。

揚屋には娼妓を養はず、客至れば太夫を置屋より迎へ餐すを業とするなり。天神および芸子・幇間も客の需に応じてこれを迎ふなり。ただ鹿子位以下の遊女を迎へず。(『守貞謾稿』) 

(元吉原に)揚屋と云ふもの数戸あり。太夫および格子女郎は必ずあげやに招き遊びし。天和・貞享比、今の新吉原にても揚屋二十数戸ありて、各居屋壮麗、今世の茶屋のごとき物にあらず、皆家広く風流を尽くせり。いづれの比よりか、吉原には揚屋皆亡びて今はこれなし。

天和比の揚屋の名 桐屋市左衛門、尾張や清十郎、桔梗や伊右衛門、俵や三右衛門、和泉や半四郎、井筒や彦兵衛、揚や太右衛門、松葉や六兵衛、藤や太右衛門、海老や治右衛門、長嶋や清兵衛、網や甚右衛門、立花や四郎兵衛、橋本や作兵衛、銭や次郎兵衛、鎌倉や長兵衛、若狭や伊右衛門、伊勢や惣三郎。(『守貞謾稿』) 

「上げ屋とは、何としたる事なるや」「太夫の揚げ金も取り替いて、太夫殿へも振舞を上げ申ゆへ、上げ屋と申。太夫・買手の宿をいたす故、宿屋とも申也」。(『ぬれほとけ』)

上げ屋 『色道大鏡』一に「傾城を挙げをく宿なるによって、挙屋といふ」、「宿屋 同じく挙屋の事なり」。遊女を指名して買切りにし、宿泊する故の名。但し挙屋へ挙げられるのは、囲以上の遊女に限る。(『ぬれほとけ』注) 

揚屋は太夫・天神・囲(鹿恋)などの高級妓を呼んで遊ぶ家。(『日本の古典17』注釈) 

遊女を招きて遊ぶ家。(『廣辭林 新訂版』)

「揚屋」は遊女を揚げる場所との意味で、遊興の場所と枕席とを兼ね備えた場所。当時の遊女は太夫・格子・端女郎の三階級だったが、太夫・格子の遊女は揚屋を通さずには遊べない仕組みになっていた。また、色里内で「宿屋」という時はこの揚屋を指した。

揚屋の役割としては、茶屋より送り込まれた客の求めに応じて、指名の遊女を遊女屋に照会することと、馴染みの遊女の居ない初回の客には客の好みの遊女を選び照会する役割をしていた。この際、揚屋は遊女屋に対し「揚屋差紙」と呼ばれる遊女借用の文を差し出す事が義務付けられており、この証文にもとづき遊女屋は指名の遊女を店の若者を付けて揚屋に送り込んでいた。江戸町や京町などに住む遊女が、散在する揚屋への往復を称して「道中」と呼んでいた。男装の若衆姿にて一世を風靡した湯女上りの勝山が吉原入りし、山本芳潤抱えの太夫となると、勝山は道中の歩き方を外八文字と呼ぶ外股歩きにした故、裾が割れ白き脛が見える扇情的な歩きとなり、この姿を一目見ようと遊治郎が集まったと云われている。

享保五年刊行の「吉原丸鑑」によると、享保初年(1716)の吉原には三千余人の遊女がおり、同五年には太夫も揚屋の健在で、揚屋の六美人と呼ばれる極々上の太夫がいた。京町三浦屋四郎左衛門内高尾・薄雲、江戸町山口屋 七郎右衛門内音羽・白糸・初菊、京町三浦屋甚左衛門内三浦の六人。この六美人は美貌だけではなく、女性一般の教養と遊芸に秀でており、最高な気品を競った彼女達により吉原は華やかな、品位のある情緒をかもしだし、新吉原の最盛期が形成されていたと記されている。しかし、八代将軍吉宗による奢侈禁止を中心とする 「享保の改革」が実施され、新興商人による豪奢な遊びは幕府を憚り蔭を潜め、吉原も一つの節目とも云える時期を迎えるのだった。

享保末年頃から元文年間になるとさしもの新吉原も衰退期に入り、新吉原 での揚屋を用いた豪華な遊びが激減し、揚屋自体も減少、遊びの質が変化していたことを「喜遊笑覧」では次ぎのように記している。

『元文頃まで太夫有りしは三浦屋三軒と玉屋のみなり。徒流云元文五年頃迄揚屋五軒あり、尤も揚屋町にはなし、新町(京町二丁目なれどもいつの頃よりか新町といふ)海老屋治右衛門、尾張屋清十郎、橘屋五郎左衛門、若狭屋庄三郎、京町和泉屋清六其後揚屋とも皆破壊して尾張屋清十郎のみ揚屋町へ転宅し栄えたり』

 

揚屋の書出し 揚屋の請求書は毎月十五日で締める。但し支払は翌月の二日。これを「二日払い」という。(『けしすみ』注)

 

【置屋】(おきや)

主に京坂の習で、遊女、芸子、舞子等を抱え、揚屋、茶屋等からの要望があると娼妓を派遣する。現代で云えば芸能プロダクションのようなもの。

置屋 おきやと訓ず。京坂官許・非官許の地ともに遊女・芸者を抱へ養ひ、揚屋・茶屋・呼屋等より迎ふる時、これを遣はして自家に客を迎へざるを云ふ。(『守貞謾稿』)

 

藝妓又は娼妓などを抱へ置き、揚屋・茶屋などの迎へに應じてこれを遣わすのみにして、客を上げて遊興せしめざる家。(『廣辭林 新訂版』)

 

【切見世】(きりみせ)

娟鈍(けんどん)女郎、端女郎など局より劣る下品、最低ランクの女郎の店。長屋女郎とも云う。

一切つまり須臾(現代の約十分か)の間に用をすますから(『吉原御免状』27) 

切見世 本名局女郎なり。けだし昔の吉原局女郎は中品妓なり。今世は吉原および岡場所ともに下品妓の名とす。

切と云ふは須臾(わずかの時間の漢語的表現)を一と切(ひときり)と云ひ、一切銭百文なり。一切、須臾なるが故に房事に及びがたく、多くは一倍あるひは二、三倍す。けだしこの切見世のみ定制一切百文とすれども、客の意により銭を定制より多く与ふ者多し。(『守貞謾稿』) 

切店 遊廓にて、娼妓が時間ぎめにて嫖客に接する遊女屋。(『廣辭林 新訂版』) 

【鉄砲見世】(てっぽうみせ) 切見世の事。安い料金で専ら売春だけを目的とした女郎、およびその店をいう。

この切見世をまた百文河岸、鉄砲見世ともいう。約十分間の情事の値が五十文または百文だったためであり、ふぐ(鉄砲という)と同じく毒にあたり易いからだ。(『吉原御免状』28) 

またこの女郎(切見世)を鉄砲見世とも云ふなり。江俗、この妓には房事二、三回に及ぶ者稀、多くは一回なり。一回なるが故にこゝに往くを、一つ放しに往くなど云ふより、鉄砲と云ふなり。また鉄砲には百目玉等の名あるの意をも兼ねたり。(『守貞謾稿』)

 

【轡】(くつわ)

遊廓、傾城屋の事。転じて「くるわ」となったのかは不明。「くつわ」の仮字が亡八で、遊女屋の主を音読みにして「ぼうはち」と云ったという説もある。

遊女屋の主人はまた『くつわ』とも呼ばれた。(『花と火の帝』下75) 

『洞房語園』に曰く、御奉行島田弾正様、ある時甚左(右)衛門に御尋ねなされ候は、惣じて傾城屋のことを轡と云ふこと、いかなる子細あると御尋ねの時、甚左(右)衛門申し上げ候ところ、契情屋をくつわと申すこと、元御当地の言葉にては御座なく候と承り及び候。京都六条の三筋街と云ふは、天正年中に浪人原三郎左衛門と申す者取り立て候由。この三郎左衛門義は元大坂太閤様御方に御厩付の御奉公仕りたる者にて、御出馬の節は御馬の口取り仕り候ところ、病気にて浪人いたし、かの遊女町を取り立て申し候。この子細を存じ候人は、三郎左衛門に異名を付して轡屋と呼び申し候。しかるにその比、京都伏見の若侍衆中は、傾城屋へ行くと云ふことを轡が所へ往くなど申されしより、いつとなく傾城屋の惣名と罷りなり申し上ぐる、云々。(『守貞謾稿』)

『燕石十種』「異本洞房語園」参照。 

古昔、伏見の遊里撞木町の町筋を十字形に割りて、其形轡に似たるより此名起こるといふ、一説に、遊女の異名を馬といひ、馬を御するが如く遊女を使役するよりいふと。遊女屋又は遊里の異稱。又、遊女屋の主人の異稱。(亡八)。(『廣辭林 新訂版』)

轡 傾城屋の異名なり、此名目の由来をしらざれば、年ごろ諸書を考るといへども、所見なし、諸郭に至りて尋ぬれども、是をしらず、只卑賤の譫言にいひならはせるなるべし、新注を付見んにも、心のかよひたる所なければあたらず、いかさまにもいぶかしきことなり、(『色道大鏡』巻第一)

 

【廓】(くるわ)

遊廓の事

郭、曲輪。もとは城や砦などの防備のため、周囲に巡らす土や石の囲いを云う。狭義で遊廓を「くるわ」と云う。(『新明解国語辞典』) 

色里。遊里。(『廣辭林 新訂版』)

 

【青楼】(せいろう)

遊廓の雅名

「遊女屋」の意の漢語的表現。(『新明解国語辞典』)

あげや。ぢょらうや。妓楼。遊女屋。(『廣辭林 新訂版』)

 

【茶屋】(ちゃや)

茶屋という呼び名だが、主に酒肴を提供し、遊興を行う場所。当時のサロンというような所か。現代でも京などにあり、茶屋遊びができる。茶屋遊びに付き物なのが、芸子、舞子、そいて太鼓持(江戸で云えば芸者に幇間)。当時はそこに馴染みの遊女を侍らせて遊んだ

三都ともにこれあり。京阪の茶屋は天神を揚げて遊ぶの楼を云ふ。故に天神茶屋と云ふなり。天神茶屋には天神と鹿子位の遊女および芸子を迎へ、ただ太夫を迎ふこと能はず。また見世附等の下妓をも迎へず。(『守貞謾稿』)

茶屋 吉原も古は揚屋あり。中古以来絶亡し、今は茶屋あるのみ。茶屋には双枕を許さず、芸者を揚げ酒宴は許す。女郎も茶屋まで送迎はするなり。宴の席にも侍坐するのみ。(『守貞謾稿』)

 

【局】(つぼね)

女郎屋で下級の女郎に割り当てた個室。通りに面して柿暖簾を垂らし。客を呼び込む。(『けしすみ』注)

 

【見返り柳】(みかえりやなぎ)

色里の出入口に植えられた柳。現在、吉原の五十間道が日本堤通りに交わる辺に何代目かの柳が植えられている。

この廓(六条三筋町の廓)の周囲には人家が詰まっていて、柳の並木で囲むことが出来ない。やむをえず、廓の出入口に一本だけ柳を植え、昔を忍ぶよすがとした。これが所謂『出口の柳』であり、別名『見返り柳』と呼ばれたものである。そしてその『見返り柳』は京島原の廓に伝えられ、島原から江戸の元吉原へ、更にはこの新吉原へと引き継がれた。つまり、新吉原の『見返り柳』の起源は、遠く唐の色里平庚里の柳樹にまで遡る。(『吉原御免状』129)

 


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(最終更新日:2007.1.16)