【越中褌】(えっちゅうふんどし)
大坂新町の遊女越中が馴染みの客に作ったことから、その下着を越中褌と称するようになったといわれる。
しかし、喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、
「『みをつくし』(大坂の遊所細見)、「延宝年中木村や又次郎抱へ越中といへる大夫裕。ある時あげやにて我相方の客風呂へ入らむとせし時、下帯迄はづして入らむとせしかば、姿見苦とて俄に思ひ付、湯具の緋ぢりめんの二布をときはなし、それに紐付て与へしより此風を越中ふんどしと云。越中国より始りしとは大なる俗説なり」といへるも又俗説と聞ゆ。」とあり、『茶事指月集』『歌林雑話』の文を引用して、延宝年中より古くからその体裁はあったと述べている。
【勝山結】(かつやまゆい)
当時流行した髪型。花魁道中で外八文字を広めたのも勝山で、遊女勝山は今で云うファッションリーダー的存在だったようだ。
同書に(『北女閭起源』)に云ふ。宝永三年より十一月十一日玄猪の紋日に始て勝山出たり、其時の髪の風よければ今も是を襲ふ。今は上々方迄も此の髪の風なれりと云ふ。
政運が云ふ。勝山結の其の初は、勝山は猛きに恐れぬ気性なれば、其頃の男達放駒四郎兵衛、勝山の揚屋いりの心にくさよ、驚かせ肝を冷やさせ呉んと、氷の如き刀を抜、大夫如何にと切つくるに、切先かうべの上に閃き、島田髷の元結を切ければ髷のいちひらけたり、勝山少しも驚きたる風情もなく、仰山な御方とばかり云ひて見向もせねば、流石の放駒も舌をまきて恐ける、是より島田髷のひらけしを勝山風といふと云々。(『俗事百工起源』)
婦人の髪の結い方、今の丸髷の前形、承応の頃、江戸吉原の妓女勝山の結ひしに始まるといふ。(『廣辭林』新訂版)
勝山髷 勝山仙州はじめて結しより流行、(或説に曰、江戸吉原巴屋勝山と云女郎始むとも云)(『近来見聞噺の苗』)
とあり、一説には勝山仙州という歌舞妓の女形が結ったのが広まったともいう。この『近来見聞噺の笛』は、大坂の戯作者暁鐘成(木村弥四郎)の著で、享和より文化に至る浪華の異事珍説を記したもの。
○勝山結 女の髪に此結やうあり、元禄の頃、吉原巴屋の勝山といふ女、ゆひはじめしなり。又島田といふ風は、東海道島田の宿の女、此風を常にゆひける、それゆへに此名ありといへり、詳ならず 傍注:島田髷は歌舞妓役者島田万吉始むといふ(『近代世事談』巻之五)
【島田結】(しまだゆい)
島田髷。遊女の髪型の一つ。
◎島田結のはじめ
同書(「北女閭起源」)に云ふ、島田と云ふ髪の風は、寛永年京都四条にて、歌舞妓の者島田甚吉と云ふ者あり、舞子の結び初たる事とぞ(『俗事百工起源』)
【なげ島田】(なげしまだ) 島田髷を後へ倒れるように反らした当時(天和ー貞享頃)流行の派手な髪風。(『好色五人女』校注)
丹前風呂、丹前勝山。紀伊国屋風呂などの風呂屋が堀丹後守の屋敷前にあったことから、その風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女だった勝山を丹前勝山と云った。
今の神田佐柄木町・雉子町の続きに堀丹後守の邸前に風呂屋多くあり。各々美女を抱へて浴客の垢をすり、また髪を梳くを名として、その実売色を専らとす。丹州邸前を中略して、世人方言して丹前と云ふ。(『守貞謾稿』)
「丹前風」江戸神田松平丹後守の邸前にあった風呂屋を丹前風呂といい、そこの湯女勝山の風をまねておこった風俗。また丹前風呂へ通う「かぶき」者の風俗をもいう。(『日本の古典17』注釈)
「たんぜん」は江戸時代の道楽者や侠客の間に流行した冬着の一種で、「褞袍(どてら)」ともいう。承応・明暦(1652〜8)のころ、江戸・神田佐柄木町の堀丹後守邸の前に有名な町風呂屋があって多くの美人の湯女を抱え、昼は浴客の身体を流し、日が暮れると上の場び座敷をかまえて客を接待した。この風呂屋を、丹後守の邸の前にあることから「丹後殿前風呂」、略して「丹前風呂」と呼んだ。この丹前風呂の勝山という湯女が、髪を白元結で片まげの伊達風に結び、編笠に裏つきの袴をつけ木太刀の大小を差したいでたちが、丹前の勝山ともてはやされ、その姿を「丹前」といった。丹前風呂の浴客は、綿入れの広袖の衣を着物の上に引っかけ、その上に帯をしめて出入りしたことから、その広袖の着物まで「丹前」と呼ぶようになった。(『日本なんでもはじめ』)
昔松平丹後守上屋敷前に、町屋風呂屋おびたゞしく有、美麗を尽し、風呂女とて遊女多く有しが、貴賤諸人入込み、度々喧嘩口論有レ之故、御法度に成しとかや、其時よろづ風呂へかよふ歌舞妓どもを、異名に丹前と云、丹後守前と云心なり、今に何にゝも伊達道具を丹前といふ、是よりの事成よし、(『むかしむかし物語』)
寛永年間(1624〜1643)記事 寛永の頃まで神田佐柄木町、雉子町の続きに、堀丹後守殿御屋敷あり。丹後殿前といふを略して丹前といふ。此の辺風呂屋多く、美麗なる湯女もありて、こゝに遊びける若人等のさまを、歌舞妓に学びて丹前風といひし事、諸書に見えたれば爰に略しつ(堀家の御やしき、寛永の末正保の頃、下谷へ引移りたり。承応の江戸図には、既に戸田侯の御やしきに改りたり)。(『武江年表』)
「抑丹前風と申は、江戸にて丹後殿前に、風呂ありし時、勝山といへるおんな、すぐれて、情もふかく、髪かたち、とりなり、袖口広く、つま高く、万に付て、世の人に替りて、一流是よりはじめて、後はもてはやして、吉原にしゆつせして、不思議の御かたにまでそひぶし、ためしなき女の侍り。」(『好色一代男』)
○丹前風 丹前風呂の湯女勝山の特殊な風俗から起こった、伊達闊達な風俗をいう。「昔は、松平丹後守屋敷前に、町屋風呂有り。美麗を尽し、風呂女とて遊女これ有り。諸人入り込み、喧嘩たび/\故、御法度に成る。その時、風呂屋へ通ふかぶき者ども、異名に丹前へかゝる人といふ。これよりの事のよし」(『八十翁昔かたり』)によれば、この風呂に通う客の風俗をも、丹前といったのである。「見たてまつれば、をのをのも丹前風とやらん云ひて、刀・脇差・月代までも、古へに違ひてせらるゝと見えたり」(『理非鑑』下)、「彼の町や昔は風呂の花たりしが (四)友 小歌に忍ぶ丹前の春 (似)春」(『山の端千句』上)の用例を見れば、その両者を合わせて丹前風と称した。
○丹後守殿前 堀丹後守殿(越後村上城主、禄高十万石)屋敷前の略称で、さらに略して丹前ともいった。その所在地は神田四軒町(現千代田区神田淡路町辺)にあった。(真山氏)(『好色一代男全注釈』)
【丹前節】(たんぜんぶし) 小歌の一つで「丹前」ともいう。丹前風呂の一つ桔梗風呂の湯女吉野が元祖といい、その弟子に紀伊国風呂の市野、勝山などがいる。
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『色道大鏡』巻第八参照。
【土手節】(どてぶし)
吉原通いの遊客が口ずさんだ小唄。待乳節ともいった。
【兵庫結】(ひょうごゆい)
兵庫髷。遊女の髪型の一つ。
同書(「北女閭起源」)に云ふ、兵庫結、この髪風は摂州兵庫磯の廓風にて、こゝより起たる名なるべしと云々(『俗事百工起源』)