○京師の淫房は、はじめ所を定し事なく市井に居れり。応仁文明の乱、後世のさわがしきにかゝるたはれたる遊びもなくやありけむ。天正十七年の頃、万里小路二条辺は人まれ/\にして、古柳左右に生ひつゞきたれば、俗に柳の馬場と呼し。其時原三郎右衛門秀正と云者住せしに、秀吉公かれに命じて所の賑/\しかるべきやうにはからはしむ。秀正林又市郎等某といふ者と心をあはせ、万里小路二条押小路三町に町を立て遊女を置て柳の町と称せし婬房を慶長七年に室町六条に移さる。東は室町を限り西は新町、北は五条の橋通に至る。世に是を三筋町といふ(今ノ雪駄町ヨリ魚棚マデノ間其跡ナリ)。元和四年に遊女の舞をよく舞ふものを院にめされし時、丹波大掾藤原吉政といふ号をかりに下され、男の舞太夫に准せさせ給ひしより其一家に名ある女をば太夫と呼侍しとかや。寛永十八年に今の朱雀七条にうつす。此廓只一箇の門のみにして他の道なし。肥前国嶋原の城廓に似たれば俗島原といふ。本の名は西新屋敷といふといへり。(已上六圏点天野信景説)(入江昌喜『久保之取蛇尾』)
応永四年(1397)、将軍足利義満の時代に初めて東洞院七条下るに九条の里というのが公許された。現在その跡は不明だが、京都駅の東北方辺りにあったとされる。これが我が国最古の遊廓となるが、応仁の乱によって失われ、度重なる兵火により永らく絶えていた。(林美一『時代民俗考証事典』)
【祇園】(ぎおん)
京都にある色町の名称。古くは八坂神社の門前町として栄え、江戸期に私娼の遊廓が現れ賑わった。現在でも舞子、芸子さんたちの置屋があり、だらりの帯の舞子さんに出会える観光スポットとなっている。
祇園 祇園町は祇園の西門より四条橋東の大路を云ふ。この所を京師非官許遊女の魁とす。当所の起源いまだこれを詳らかにせず。
天保十三年府命の時、江戸・京坂非官許の遊女を禁止することあり。その時、京師も島原もとのごとし。その他祇園以下諸所これを廃す。
嘉永四年十二月、祇園以下京師にて七所を再興を許し、同月二十八日よりこれを行ふこと、もとのごとくなり。(『守貞謾稿』)
京の色里の名。『俗事百工起源』に島原の名の由来が、天草島原からきているとある。島原の乱が寛永十四年(1637)だから、この遊里ができた寛永十八年には、まだ島原の乱が人々の記憶に新しかったのであろう。
島原 京師の遊女町は古は西洞院(にしのとういん)にあり。その後、六条柳の馬場(やなぎのばんば)にあり。寛永十八年、柳の馬場より今の九条朱雀通り(すざくどおり)に移して、俗に島原の廓と云ふ。本名は三筋街と云ふ。(『守貞謾稿』)
或書に云ふ。寛永十八年、今の朱雀野に移され、一つの門のみにして他の道なし。先に事有し肥前の島原の城に似たりとて、俗に島原と呼びけるより名とはなれりと云ふ。(『俗事百工起源』)
鬼が聞く「さてまた聞こう。都で名高い島原での遊びの様子は」西鶴曰く「いやもうこの地の色遊びは、揚屋に来た女郎は情けらしい言葉を掛けますが、うわついてべたべたせず、遊女の最上というべきです。それゆえ島原に馴染んで来ますと、しっぽりとおもしろく、色とか恋とかいう騒ぎから、実意を示す深間になりますと、どんな粋人でも、粋人だからのめりこんでかえって身を亡ぼし、適当な所でやめるということができません。島原の遊女に打ち込みますと、すべての物を自分の物と思わなくなり、三代続いた家屋敷も人手に渡し、ぽっくりと死ぬ事を願っている親仁も、毎日白髪を抜いて島原に通いつめ、子供にはろくろく木綿の綿入れさえ着せないで、女郎の所へは小袖を作ってやろうともくろんでいます。」(『元禄太平記』)
[京師遊女町島原の由来]
○京師の遊女町島原の地、元来朱雀野と号す。上古には鴻臚館異国の客をあいしらし所なり。此遊女町始め洛陽六条南室町、同西洞院中道寺にあり。寛永年中にこの所にうつさる。其年肥前の島原切支丹の一揆あり。それゆへ世人島原と名づくといふ。又は肥前島原賊徒のたてこもる所、一の門斗をかまへそれにるいせるゆへ、島原と名づくとも、内に六町あり。南北にわたり三筋にわかつ。よつて三條町とも云ふ。上の町中の町下の町也。又西洞院中道寺あけや町ともいふ。女色をあきなひ町をたつること秀吉公の代にはじまる。秀吉公の時、洛中万里小路二条の南北二三町、人家なき所大路のかたわらに柳数本あり。是ゆへ柳馬場と号す。今人家となり柳無けれどもその号を称す。時に原三郎左衛門と云ふ者あり。その人家なく柳斗ある所を以て傾城町とせんとたくみ、終に訴訟す。秀吉公たま/\その辺御往来をうかゞひ町にいでゝ直奏をとぐ。其隋御免を蒙り雙樹の柳をきりてほどなく店つくり、又所々より来りて三郎左衛門につきて多くの遊女ををきて繁栄日にしたがふてとげ、傾城町となる。天正十七年の事なり。即その所を柳町と号す。二条の南北三町の所なり。その後洛中に傾城町あるもいかゞゆへ、その柳町を慶長七年室町の六条にうつされ四十年後寛永十年今の島原にうつさる。今島原に亀屋と称するものあり三郎左衛門が末なりと云ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
【揚屋町】(あげやまち) 胴筋を西へ突き当った左の一町は、鹿恋以上の遊女を挙げて遊ぶ揚屋ばかりがあった。(『たきつけ草』注)
【衣紋の馬場】(えもんのばば) 今の夷馬場町を北へ、廓の塀沿いに大門に達する野道。遊人衣紋を繕うよりいう。(『たきつけ草』注)吉原の衣紋坂も同じ理由で名付けられた。
【朱雀の野辺】(すざくののべ) 島原の廓の周囲は葛野郡大内村に属する田野で、朱雀野といった。(『色道小鏡』注)
【朱雀の細道】(すざくのほそみち) 丹波海道町を出離れると田圃道となり、南下して西へ行くと島原の西端衣紋の馬場に達する。これより大門までの間を言う。後に一貫町通り突抜一丁目より西へ畦道伝いに大門に達する近道が出来た。これを朱雀の新細道と言った。今の花屋町通りに当る。(『たきつけ草』注)
【丹波口茶屋町】(たばぐちちゃやまち) 大宮通西入る丹波海道町に茶屋あり。ここにて駕篭を下り休息する。(『たきつけ草』注)
【出口の茶屋】(でぐちのちゃや) 大門を入った所を島原では出口といい、水茶屋があった。但し昼の内ばかり端女郎を挙げることが出来る。遊客の出入激しい所であったから、廓内の出来事はすぐ話題になったことから、噂町の茶屋とも言った。(『たきつけ草』注)吉原でいう待合の辻にちかい場所。
島原大門口の茶屋。島原の東の一方口を出口と称し、大門があったが、この門を通り抜けて突き当りの中之町の裏側を出口の茶屋町といい(一名噂町)、水茶屋が並んでいた。大尽客の休み所となり、また、昼間は端女郎を揚げて遊興することも許されていた。茶屋の数は、『色道大鏡』と『朱雀遠目鏡』で、それぞれ十五軒、十三軒の名を図示しているが、他に北向の茶屋をそれぞれ四軒、五軒ずつ挙げており、西鶴は「出口十七軒の茶屋」(『西鶴織留』一の一)と記している。また『人倫訓蒙図彙』七には「入口の茶屋にて、又それ様の御越しと言へば、「早うござちました」と答ゑつゝ、大尽の尻に付きて揚屋へ送り、門口より帰る」と記している。(『好色一代男全注釈」)
【出口の門】(でぐちのもん) 島原の入口の大門のこと。入口を出口という、島原七不思議の一つ。(『けしすみ』注)
【胴筋】(どうすじ) 廓内中央を東西に通ずる道路。(『たきつけ草』注)吉原の仲の町と同じようなメイン通り。
京の御免色里があった処の名。万里小路二条から慶長七年(1602)に室町六条通りに移され、寛永十八年(1641)九条朱雀通りに再度移転した。どの町も三筋町だったが、最初を「柳の馬場」と呼び、三番目を「島原」と俗に呼ぶため、ただ三筋町と云う時には二番目の室町六条通りを指すようになった。
慶長七年、廓は六条室町に移された。これが六条三筋町の廓である。(『吉原御免状』129)
三筋町にしたのも楊柳を植えたのも明の妓院の模倣であり、明の妓院は唐代の長安の色里平康里以来の伝統に従ってつくられたと云われる。(『一夢庵風流記』210)
この六条三筋町は、本来六条柳町という。三筋町は俗称でその由来は柳町上ノ町・柳町中ノ町・柳町下ノ町が、室町通と新町通の間にあり、そこに遊女屋が軒を並べたからだ。ところが元和初年に至って、あらたに西洞院通東側に、太夫町、別称西洞院町が出来た。これは非公許で娼家まがいのことをしていた店を集めて一町とし、六条柳町に所属させた京都所司代のはからいだった。こうして六条三筋町の遊廓は三筋町と西洞院町(上・下太夫町)との間にあった湯屋町一町まで含む広さになった。(『花と火の帝』下122)
慶長七年に淫房を室町六条通に移さる。東は室町を限り、西は新町、北は五条橋通りに至る。世に是を三筋町と云ひしなり。(『俗事百工起源』)
慶長七年に二条柳馬場から移り、寛永十七年に島原へ移転するまで、三十九年間営業していた京都の遊廓。初めは、北は五条通り、南は六条通り、東は室町通り、西は新町通りに囲まれた地域に、北から上之町・中之町・下之町の三筋の街並みが設けられたので、三筋町といったが、のちに西側に発展し、太夫町(西洞院町とも)・中堂寺町・湯屋町ができて、区域が広がった。(『好色一代男全注釈』)
西洞院辺りやその他の地に散在していた遊廓を、太閤秀吉の許可を受けて、原三郎左衛門という人物らが一ケ所に遊廓をまとめた。これが御免色里の魁となる。この色里建設は、戦後(応仁の乱)の復興事業でもあったようだ。
我が国に初めて出来た遊廓は京の柳ノ馬場である。万里小路(までのこうじ)二条の南、方三町の御免色里(許可をうけた遊里)。天正十七年のことだ。この万里小路二条の廓を柳の並木で囲むように作ったのは、明かに唐・宋の『柳巷』の真似である。そのために此所をまた『柳町』ともいった。万里小路二条のあたりは、天正の頃には、応仁の乱に焼かれたままの野ツ原だった。だから周囲を柳の並木でめぐらすことが出来た。(『吉原御免状』129)
遠く唐の都長安の遊里平庚里(ピンカンリー)を真似たのさ。柳ノ馬場を創めたのは、太閤さまの馬丁原三郎左衛門と浪人林又一郎ということになっているがね、この二人の背後にいた相談役は実は五山の坊さまたちなんだね。お坊さま方は、遥々海を渡って彼の地に到り、勉学のかたわらその色里で遊んだおぼえがある。その経験を柳ノ馬場に生かしたわけだ。(『吉原御免状』103)
西洞院に遊女町があったことは様々な記録に残っている。その西洞院の遊女町を、応仁の乱によって焼野原と化した柳の馬場に移して土地の繁栄を図ったのがこの廓だった。二条押小路南北三町を上中下三町に分ったいわゆる三筋町のはじめであり、廓の周囲に楊柳を植えたので『柳町の遊里』と呼ばれたと云う。(『一夢庵風流記』210)
或書に云ふ。京師淫房は、始処を定めし事なく、市井に居れり。応仁文明の乱後、世の騒がしきに斯る戯れたる遊もなくや有けん。天正十七年の頃、万里小路二条辺は人の家稀々にして、古柳左右に生ひ続きたれば、俗に柳の馬場と呼ぶ。其時原三郎左衛門秀正と云ふ者住せしが、秀吉公渠に命じて処の賑しきやうに計はしむ。秀正、林又三郎某と云ふ者と心を合せ、万里小路二条押小路の三町に町を立て、遊女を置きて柳の町と称せし。(『俗事百工起源』)
○万里小路を今は柳馬場といふことは、むかし二条の上に遊女町ありて、そこに柳の在しよりの名といへり。さだかなることはしり侍らねども、その柳を六条三筋町にうつし植、又島原にうつし、出口にうゑたりと、廓中のものいひ伝へたり。(『橘窓自語』)
『色道大鏡』に有る京の傾城町の記述参照。