色里用語の部

色里一般・関連用語

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《色里一般》

【悪所】(あくしょ)

主に江戸の俗で使われ、官許、非官許(岡場所)を問わず色里全般を云う。

色売る町を悪所といふ事。(中略)富家に生れ家督ある者の家を失ひ、老て貧苦にせまり、飢寒に窮する事、誰かこれを願ひ望んや。然共此里に通ふ人の遊女に実なく一向勤のみにて相手せんは又楽しみとするに足らず。故に真実ならざれば楽しみとし難く、真実ある時は継て悲しみ至るべし。是を思ふ時は此郭に至りて楽しむ者は終に真の楽しみを得る人なし。故に是を名付けて悪所といふ。(『享和雑記』) 

遊蕩をなす場所。いろざと。いろざとに行くを、悪所落。いろざとに入りびたりて、放蕩するを、悪所狂と云う。(『廣辭林 新訂版』) 

下の『むかしむかし物語』に云う悪所は吉原を指しているようだ。吉原へ行くには、まず色男でなければならず、大金を持ち、それなりの準備をして出かける場所だったと書かれている。

昔は若き衆悪所通ひするに、今とは大に違ひ、先男の器量あしき人は行事稀也、生付綺麗成男、器量自慢に行、扨又物騒成道、殊に夜道無僕一僕にて通る、専らとおもひ立時、支度大分六箇敷、悪所功者成懇意の人に、諸事のいきかたを習ひ、支度第一は先金子を拵て、脇差のもの好き結構に拵へ、小袖羽織袴迄右功者に談合して拵へ、伽羅の能木を求め身を嗜み、此等の支度五箇月も半年も懸り、扨やがて趣んとおもふ三四箇月も前より茶屋々々へ行茶屋女を会釈ひ、はつみを手練し、額のぬきよう髪の結様月代なり迄、功者の差図にまかせ、身の取廻しありき姿、行跡いきはり悪所風に成て、功者と同道して行く、去によって悪所かよひする人は、時宜合公儀ぶり各別に利発なり、然故に悪所へかよふ者は、一風伊達成ゆへに、そんじやうそれはたゞ者に非らず、悪所へかよふそうなと人の目に立、(『むかしむかし物語』)

○元禄、宝永の頃の悪所の繁栄は、昼は極楽の如く、夜は竜宮界の如しといへり、諸国の珍味、先此地を最上とはこび、異香匂ひ、家々に満つ、数の遊妓伽陵の袖をひるがへす、遊客は、他人百金をついやせば我は千金をついやしたりと、多くついやすを此里のきぼとす、享保よりは、他人十金をついやせば我は五金をついやして帰たりと、世智弁を元と心得たり、元禄の人は、悪所は金銀を捨る所也、不捨心ならば、此地へ足を入るのは何ごとぞや、と笑へり、又、今の心は、悪所などへ足を入るゝは、還て人にわらはるゝ種と思ふ、人に笑はれて見る程の処にてもなし、是を見るには不見には不如、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)

また、「我衣」の著者曳尾庵は、悪所通い、傾城買いについて、儒教精神の強い当時の道徳感から下のようにも述べている。

○傾城、売女に近付ものゝ七損、

○主人の機嫌をそこなふ、○身上をそこなふ、○命をそこなふ、○邪智を増し、正智をそこなふ、○正じきをそこなふ、○孝をそこなふ、○人をそこなふ、

右の内、命をそこなふ事、品々あり、

夜深にかへり、夜に入行とき、酔狂人にために、又は物取、追落しなどに逢て、死するものあり、

心中して死するものあり、是れは暫く其座を去れば留るものなり、御公儀の(吉宗公御時代)御慈悲にて、御法度になりて、近年少し、心中と唱ふる事は、芝居より出たり、相対死と云、

酒食を過し、或は瘡毒、或は腎虚などにて死する、

往来駕篭にて夜深にかへる、夜駕篭かき、多くは悪者なり、是が為に死するものあり、

船にて往来するは、慥なるようなれども、早緒切て船くつがへる事も間々あり、逆風にて船くつがへり、死たるものあり、如此あまたの品々あれば、よく/\慎べき事なり、(『燕石十種』第一巻「我衣」曳尾庵著)  

 

【色里】(いろさと)

遊女町、傾城町など娼家が集まった町のこと。遊里、花街、柳巷、悪所などさまざまな呼名が有る。

遊女・芸者などの集まり住居する遊興の場所。花柳の巷。いうり。くるわ。(『廣辭林 新訂版』) 

三ケの津色里の始 八文字屋自笑序文

世に傾国けいせいなどゝにくてい口のやうにいひなせとも、源ふかく理義ハあまねく知る所、天竺震旦我朝とてもさら也、殊更吾国ハ天神地祇より神風の道にみちたる国の風情、大に和く日の本の風俗とかや、されバ京江戸三ケ津を此道の上品と定るも故ある事ぞかし、第一京都島原ハ天正のそのかみ原三郎左衛門林又市郎といふ浪人に許命せられて、則柳の馬場二条の北に傾城町を開し、後に六条西の洞院の東に移され、それよりはるか後寛永年中に今の朱雀野に所を易られしが、昔のちなみをもつて今も西新屋敷柳町といひ伝ふる也、そのときの原氏ハ今の島原上の町西南角桔梗屋八右衛門が祖也、又林氏は今の下の町西南角藤屋八郎左衛門屋敷その跡也、林氏は寛文年中に大坂に引越し、今の大坂新町扇屋是也、江戸はそのかみ太田氏、彼地をひらかれし砌に、御赦免にて何某多かりしが、わけて山下氏など此道の祖也、難波津新町ハ昔より繁花の大港にして、諸方に色町多かりしが、寛永の末、正保のはじめっかたひとつ所にあつめられて四筋の町となりぬ、則木村や又次郎町(瓢箪町これなり)佐渡島の勘右衛門町、四郎兵衛町、金右衛門町、吉原町これなり、其外六十六国に色里数多ありといへども、およそけいせい町と称する所のものは、あらまし泉州の乳守ならびに高州、和州の奈良に木辻鳴川、伏見の幢木泥町、大津にしばやまち、越前に三国敦賀の両町、西国筋においては播磨の室、同国鶉野の姫路や又左衛門町、備後の鞆、同じくたゝのうミ、備中の宮中、安芸の宮島の新町、下の関いなり町、長崎の丸山町、此外国/\所々に遊女は多しといへども、皆色里などゝこばして、さまざまの品位あまたなれども土地のかはりめ、風俗いろ/\あればしばらく爰に略す(『青楼年略考』)

 

【色町】(いろまち)

遊里、傾城町など遊興の地を指す。類語に花街という語が有り、主に京阪で使われていた。

いろまちと訓ず。遊里を云ふ俗言なり。(『守貞謾稿』)

色町 いろざと。遊廓。(『廣辭林 新訂版』)

 

【かくれ里】(かくれさと)

御免色里に対して非官許の色里をいう。かくれ色里。岡場所の事。

また、「隠れ里」という語は一般には四方と隔絶した別世界をいい、昔語りなどの「桃源郷」という意味で用いられ、腕貸し伝説などの話に多く現れる。

 

【傾城】(けいせい)

室町後期から江戸前期に作られた「お伽草紙」にも美女をさして傾城という言葉が用いられているように、元は美人を表す言葉だったようだが、現在は専ら遊女を云う。傾城屋は遊女屋と同義。

傾城と云ふは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一たびこれを顧みれば、城を傾け国を傾くと謡ひ、己が妹の李夫人を進むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる。(『守貞謾稿』)

「草の塵」に云ふ。傾城傾国は美女を誉めたる辞なり、自笑は契情と書たり、前漢書に李夫人の事を、北方有佳人、絶世而独立、一顧傾人城、再顧傾人国と作りたり、是よりして傾城といふなり。(『俗事百工起源』)

(一)美人。美婦。(二)遊女。女郎。(『廣辭林 新訂版』)

傾城町 いろざと。くるわ。

傾城屋 ぢょらうや。(『廣辭林 新訂版』)

傾城 傾国ともいふ、仏経に、淫婦、淫女とあるも、是傾城の事なり、即、傾城、傾国といふ出所は、猶漢史に見えたり、李延年が歌に、北方有佳人氈A絶世而独立、一顧傾人城氈A再顧傾人国氈A是、傾城、傾国といふ名目のおこりなり、夏の桀王の妹喜(ばつき)・殷の紂王の妲己(だつき)、皆是傾城なり、其外、西施、虞氏、王昭君、楊貴妃など、同じく傾城なり、我朝にては、鳥羽院の御時、島の千歳、若の前といひし者、是日本遊女の根源也。其後、祇王、祇女、仏御前、亀菊、磯の禅師、静等、皆是白拍子なり、遊女、白拍子、名目はかはれども、心はひとしきなり、今の世にくらべ見れば、是をぞ上古の傾城とはいふべき、抑、当時の遊女を傾城といふ事、過分の称号なれども、用ひ来ればちからなき事也、(『色道大鏡』巻第一)

○傾城 遊女をさして傾城といふは、寛文のころよりいひはじむといへり、遊女は江口神崎等の船着にありて、船にのりて毎船に来るゆへにながれの女、浮女などゝいふ也或人の云平家西海にて亡し時官女宮女おほく下の関、門司、赤間の湊にさまよひ、世わたる業をしらざれば、人の遊びものになりて、遂に遊女となれり、よつて此湊々には今に遊女特に多し、又大磯の虎、黄瀬川の亀鶴池田の湯谷などは、今の出女の類也、傾城は遊女にかぎらず、すべての女を云り、瞻功篇に「哲夫は城を成し、哲婦は城を傾け、婦の長舌有るは、惟乱れの階」是は女の発才なるをいましめたり、又漢の李延年が、武帝の前にして起て舞ける歌に云、北方に佳人あり、絶世にして独立、一たび顧ば、人の城を傾け、再び顧ば、人の国を傾く、下略、かやうの語をとりて、巨杓なる者が、ふと名付ていひならはせしもの也(『近代世事談』巻之五)

 

【御免色里】(ごめんいろさと)

時の政権・権力者の許可を受け各地に散在する娼家を一ケ所に集めた色里で、秀吉の許可を受けた京の「柳馬場」、大坂「新町」に始り、江戸幕府の許可を受けた「吉原」などの色里をいう。一般に「御免色里」を「いろ里」と云い、岡場所など私娼のいる場所を「かくれ里」と云った。

御免色里とは時の政府機関が公に許可した遊廓のことだが、これがいつ頃から始まったかについては諸説があって定かでない。

だが傾城屋が町の一角に集中し、遊女が軒を並べた傾城屋に住み込んで競って色を売るようになったのは、京都万里小路の柳の馬場に出来た廓をもって嚆矢とする。(『一夢庵風流記』210)

京の町に公許の遊里、いわゆる『御免色里』が秀吉によって許され、柳の馬場に開設されたのは、天正十七年のことだ。これが『御免色里』のはじまりだが、この翌年天正十八年に北条氏は滅んでいる。考えようでは『風魔』らしい。先をよく読んだ転進策とは云えないか。その後、元和四年には江戸に吉原が、そして同じ頃大坂に新町が『御免色里』として許されている。請願人はそれぞれ異なるが、いずれも『風魔』と関わりのある者ではないのか。(『花と火の帝』下86) 

以下に喜田川守貞の著した近世風俗志(守貞謾稿)から江戸期の御免色里(官許遊女町)を掲出する。

今世、官許の遊女町(『洞房語園』に所載なり)

武陽浅草の吉原(新吉原)、京都島原(三筋町)、伏見夷町(橦木町)、同所柳町、大坂瓢箪恰(新町)、奈良鳴川(木辻)、江州大津馬場町(柴屋町)、駿州府中弥勒町(二丁町)、越前敦賀六軒町、同国三国の松下、同国今庄新町、泉州堺北高洲町、同国同所津守(乳守)、摂州兵庫磯の町、石見塩泉津稲町、播州室小野町、備後鞆(蟻)鼠町、芸州多太の海、同国宮島新町、長門下関稲荷町、筑前博多柳町、肥前長崎丸山町(寄合町)、薩州樺島田町、同国山鹿野。都合二十五ケ所、云々。()内は通称、俗称。

『燕石十種』「異本洞房語園」参照。

 

【柳巷】(りゅうこう)

色里、傾城町などの遊里の事。

唐・宋の遊里は、いずれも柳の樹に囲まれていたという。柳の並木が色里の象徴だったのである。そのため遊里をまた『柳巷』といった。(『吉原御免状』128)

 


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(最終更新日:2007.6.30)