《色里全般》
【三大遊廓】(さんだいゆうかく)
我が国の御免色里(官許)は、全国に二十五ケ所あった。(上記「御免色里」の項参照)その中の「京島原」「大坂新町」「江戸吉原」を称して三大遊廓(色里)という。それぞれの都市の歴史や成立ちの違いから、遊廓にもそれぞれ特徴があった。
三田村鳶魚の『江戸の女気質』に、
「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」ということも、云い慣らされて居りますが、吉原に張りの強い女がいたということも、よく売れるということから来ている。遊女がよく売れるということは、女の少い土地柄として如何にもありそうに考えられますが、それを直ぐ鵜呑みにするわけにも参りますまい。吉原にはコロリという名のついた、百文の女もいたのです。
とあり、何時からか「諸分は島原、口舌は新町、張強きは吉原」というような、その色里独自の個性・特徴が醸し出されるようになっていた。さらに三田村氏は、
京都は如何にも売ろう売ろうとしている、江戸は買おう買おうとする風がある、大坂はその中間に居る、といった有様が見えます。京都の遊女はなまめいた様子で、自分の方へ招き寄せようとする風があり、江戸の方を見ると、何か高く矜恃しているといった様子で、力み返っている風がある。これが即ち「張り」ということを提起して来ているのですが、同時に遊女に対する心持も、江戸に於ては男がこれを屈服させて、愉快であると感ずる風が出来て来た。延宝の頃までは吉原は武士の世界でありまして、元禄以後はじめて町人の世界になり、資力次第ということになりました。資力次第ということは、資力の多い者が世の中の勢威を占め、世の中の栄誉を占めるということになるので、これは江戸に限った話ではありませんが、江戸の民間の事柄は元禄以降がめっきり目立って来るようになったのです。(『江戸の女気質』)
と書いている。
この三大遊廓に長崎丸山を加えた譬えが、大坂新町細見の書『澪標』や西鶴の『好色一代男』にあり、
京島原の女郎に、江戸吉原の張りを持たせ、長崎丸山の衣装を着せ、大坂新町の揚屋にて遊びたし
と云うような文句で表現された。(『かくれさと苦界行』240p)
【天明の頃の江戸遊所】(てんめいのころのえどゆうしょ)
天明の頃は、けころ、比丘尼、出合茶屋抔とて、遊女町所々にあらざるなし、併も何れも繁昌して、御番士など明ケ番には、大手外に到れば、槍、挟箱等は束ねて手拭に絞り、供の者に任せて家に帰らしめ、主人は何れも遊女屋へ通しことにて、其頃吉原へ行は、敢て包み隠す事にてもあらず、途中同役などに逢ひても、今日は何の処へ参るなどゝ、互に公然と話合ひたるよし、寛政の御改革に至り、劃然と切り替り、武家の行跡正敷なりて、已前とは天地雲泥の事なりしといふ、(『五月雨草紙』)