《色里関連》

【編笠】(あみがさ)

予が幼年の比は、猪牙船に乗る女郎買は、皆其船宿の家名を書たる編笠をかぶる、去に依て、宿々の店にはづらりと懸てあり、是は近き比迄ありしが、此ごろは見かけず、吉原も、大門前に編笠茶屋ありて、遊客、是を着て里へ這入る事なりしといふ、(『反古籠』)

 

【色里用語の由来】(いろさとようごのゆらい)

○今亡八屋が許に有て、遊女の事を取賄ふ者をキウといゝ、老婆をヤリテといふは金山詞なりといへるはさも有べし。金を掘けるさひの左をのみ手といゝ、右を槌手といふとなん。むかし遊女町の出来たる時分、金の出盛りたるにより都てかしこの詞多く遣ふ。よこはんなどみな金山詞なりとぞ。(小栗百万著『屠龍工随筆』)

この『屠龍工随筆』は、安永期(1770年代)の俳人小栗百万の著した随筆だが、考証された事実ではなく、当時言われていた俗論を述べたものと思われる。

 

【浮世】(うきよ)

広義には今様、当世の意味であるが、それから転じて好色の意ともなり、狭義には特に遊女を相手とする好色に用いられる。「浮世狂い」「浮世茶屋」「浮世駕篭」などは何れも狭義に用いられた例。(『好色五人女』補注)

 

【おしげり】

男女の交わり。性交を行う事。

『俚諺集覧』に、「男女のしめやかに物語するを、外よりおシゲリぢやといふ。しとやかにぬるると云意なるべし」とあるように、男女が寝床を共にしてしっぽり濡れるのを「おしげり」といった。芝居言葉ではこの語を避けて「ちぎる」という。舞台の上で「ちぎりやんせ」というのは吉原で「おしげりなんし」というのと同義である。このシゲルは「繁る」ではなく「陰雨(シケ)ル」であり、たっぷり時をかけ、着衣も蒲団も悉く霑うような男女の交わりを「おしげり」といった。(『吉原御免状』213)

 

【後朝】(きぬぎぬ)

元は「衣々」と云う意で、男女が翌朝それぞれの衣(きぬ)を着て別れることを云った。

『きぬぎぬ』という言葉は、奈良時代からあったといわれる。この場合の『きぬ』は『絹』ではなく『衣』である。

 しののめのほがらほがらとあげゆけば おのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集巻十三)

とあるように、『己がきぬぐぬ』を略してただ『きぬぎぬ』と呼んだ。奈良・平安時代の男女は、同衾する時、お互いの着物をぬいでそれを下に敷き、或は上に掛けた。二人分の衣(着物9を敷いて寝た男女は、朝起きるとそれぞれ自分の着物を着なければならない。それが『己がきぬぐぬ』であり、同時に男女の別れを意味するわけである。当時、男は女の体温と体臭の残った着物を着て、朝早く帰るわけだが、歩くうちにそのぬくもりも冷え、体臭もかすかになってゆくのを、はかなしと感じ嘆いたのであろう。それが本来の『きぬぎぬ』なる言葉の語感である。これに『後朝』という漢字をあてたのは、平安時代だといわれている。後朝の『後』は『アト』又は『オクレル』と訓ずる。従って『後朝』とは、男女が同衾したアトの朝か、そのためにオクレテ起きた朝か、どちらかの意であろうと思われる。

江戸時代になると、この言葉は、もっぱら遊女と朝帰りの客との別れに用いられることになった。男が女のもとに通う『通い婚』の形式が全くなくなり『嫁入り婚』が普遍化されたためである。こうして『後朝』という言葉は廓言葉の一つと見られるようになり、それにつれて、語感も変った。廓における『後朝』は、まさに傾城の正念場である。ここで確実に客の心をとらえておかなければ、客は二度と現れることはないだろう。だから遊女は、この『後朝』に、それこそ腕によりをかけて、客の心をとらえる手練手管を発揮した。(『吉原御免状』225‾226) 

後朝 (一)一夜共寝したる男女が、其翌朝各自に己のきぬを著て別るゝこと。(二)男女相會ひたる夜の翌朝。かへるあした。「―の使」。(『廣辭林』新訂版)

 

【孔雀長屋】(くじゃくながや) 

『吉原御免状』等に登場する幻斎(庄司甚右衛門)が住む場所に設定されている長屋。吉原の隣り田町にあったとされる。『浅草志』などでは、九尺長屋の訛ったものと云う。

孔雀長屋 日本堤より田町へ下る所、土手にそふたる長屋をいふ、これは本名にはあらず、田町の内なり、寛文の頃、此長屋の尻に、美麗なるむすめありしゆへ、孔雀の尻に玉あるに比して、孔雀長屋と呼来りしより、今は本名のごとくになりぬ、(『墨水消夏録』)

 

【猪牙】(ちょき)

猪牙舟。吉原への交通手段にこれを使う。多くは吉原に通うのに当初は馬にて通う客(馬道という名の起り)が多かったが、後になると四つ手駕篭という駕篭に替った。やがて船宿という今でいうとラブホテルが現れ、それへの通いに使った小舟が猪牙だったようだ。その小舟で大川を遡り吉原へも行くようになったと思われる。

猪牙の名は、ほっそりした形が猪の牙に似ているからだともいい、櫓をこぐ音がチョキチョキといったからだともいう。長吉という男が、房総から江戸に鮮魚を送るのに使う押送舟(おしょくりぶね)を真似て作り、長吉舟と呼んだ、それがなまったもの、という説もある。別名を山谷舟。本来銚子附近で漁師の使う快速船で、沖でとれた魚を料亭に運んだものだという。

猪牙舟は吃水が浅いため安定が悪く、乗り方が甚だ難しい。(『吉原御免状』85‾86) 

天保前、当世風の客は深川を良とするなり。特に吉原は江戸中央より道遠く、深川は近し。これに加へて、日本橋辺堀江町その他、諸町々の船宿へこれを招きて、酒宴も房事にも及ぶ。故に商家奉公の輩など書を投じてこれを召すに、深川遊女、芸者ともに、猪牙と云ふ小舟にて得意の船宿に来る故、客柳巷に行かずして自由す。吉原は外出能はざる故にこの行なし。(『守貞謾稿』) 

好色一代男』に「浅草川の二挺立」と吉原通いの猪牙舟を表現する言葉がある。(『日本の古典17』注釈)

二挺立 吉原通いの二挺櫓の猪牙船。吃水が浅く船足が早い小船で、定員二名。三挺櫓もあった。「立」は「だて」とも「だち」とも訓んだ例が見える。西鶴は「浅草川に近年かの里へかよひぶねをこしらへ、大かた櫓を二挺たてける也。此ちん弐匁五分、極めて目ふるうちにおしつけ侍る」(『新吉原つね/\〃草』上)と記すが、『吉原恋の道引』には、金竜山を終点として二挺立てでは、小石川水道橋・牛込吉祥寺あたり、浅草橋、新橋、京橋・木挽町崩れ橋/霊巌橋、両国橋から、それぞれ三匁五分、二匁、三匁五分、二匁五分、百文の船賃、両国橋から駒形まで一匁と記す。なお、同書には「よし吉原はそなたぞと、こがれよるべのなみに船、いとゞ心はうきにうき、此所(金竜山)に着きしかば、びんをなで襟を直し、塵はつかねども裾を払ひ、勇みて上る所ぞかし」と説く。(『好色一代男全注釈』)  

明暦年間(1655〜1657)記事 浅草見附前玉屋勘五兵衛、笹屋利兵衛といふ船宿にて、始めて猪牙船を製す。山谷通ひの輩これに乗る。又所々より白き馬に乗りて通ひしもありしなり。

均庭云ふ、猪牙船、こゝにいへるは「江戸砂子」の説なり。又一説もあれど、いづれもひが事なり。ちょき船悪所通ひに用ひそめし頃は、二挺立といへり。三挺立もあり。これら御停止にて、今は艫一挺なれども三挺の名は残れり。二挺も三挺も皆ちょき船にて、もと漁猟の船なり。正徳四年八月、深川猟師共願書を出す。そは此の度ちょき船御停止に就いてなり。元来ちょき船と申すは、猟船に御座候処、悪所通ひの船に借し候もの所々に出来申し候に付き、悪所船の名に罷り成り、猟師共家業之障に相成る可き旨、迷惑に存じ奉り候間、御訴訟申し上げ候云々と見えたり。(『武江年表』)

猪牙舟 吉原へ通ふ二挺立早舟、五郎兵衛といふ舟大工、はじめて此早舟を造、二挺ろの船頭は、此五郎兵衛が舟ならでは、用ひざりしとぞ、宝永中に、この二挺ろ停止となる、ちよき舟といふは、長吉舟の略語なり、押送舟の長吉といふもの、舟の形薬研のごとくにして、至て早し、此舟のつくりを考、浅草見附の勘五兵衛、両国橋のさおゝや利兵衛などいふもの、初て此舟を作る、今これを猪牙舟を作る、今これを猪牙舟といふ、(『墨水消夏録』)

猪牙舟に乗る人、昔は編笠をかぶりし也、今はなし、然れ共、今に船宿に編笠つるし有也、屋根船は世上に少し計り有しが、近年は多く出来る、昔より有来の屋形舟は、少くなりたる也、(『飛鳥川』)

○今江戸に猪牙舟とて早船あり。江陽屋形年譜に、天文十三甲辰年二月十日、江州ニ初テ早船ト云船ヲ造ラセラル、是軍ノ為ト也、舟ノナリ、剣頭ナリ、あるものは、此猪牙船の類ならんといへり。(『橘窓自語』)

○初編に江戸の猪牙舟のことをいひしが、此頃門人中野熊充の物語にいふやうは、猪牙とは好事の人、形をもて名を負せしにて、まことは長吉といふもの作りはじめたる故に、長吉舟といふべきを、猪牙とせしよしいへり。(『橘窓自語』)

○猪牙船 明暦のころ、両国橋笹屋利兵衛、見付の玉屋勘五兵衛といふものこれを作る、押送りの長吉といふもの、船を薬研のかたちに作り、魚荷を積て押に至てはやし、これを考へて作るもの也、長吉船といふべかりけるを、ちよき舟といへり近年猪牙の二字を用ゆ、猪牙に状似たるゆへか(『近代世事談』巻之二)

【蟋蟀舟】(きりぎりすふね) 是は、二丁立の舟に、ちいさきおほひしたる舟をいふ、吉原通ひの舟なり、きり/\〃すと名づくるは、こぎ行とき、きり/\となる声あるを以、きり/\〃すと云、蟋蟀の別名をさせといふ、後拾遺集に、秋の虫のさせるふしなりと、古今の歌にも、つゞりさせてふとあるも、きり/\〃すにつゞりさせ、とよませたる也、きり/\〃すと名づけたるは、させといふ縁にてはなし、舟にさせといふ詞は、此舟の覆ひ小さく、乗にも出るにも、四つばひになりて出入す、ぐらり/\とふれ動きて、今水に入なりと思へば、あぶなき斗りにて、面白き事も遊山も、なにもかもなくなるゆへ、吉原がよひをふつゝと思ひきり/\〃す、といふこゝろなるべしと、然れども、下のすの字きこえず、又或人のいふ歌に、

きり/\〃す夜寒に秋のなるまゝに よはるゝ声の遠ざかり行

といふあり、そのごとく、夏の涼しき時は、此舟も繁昌すれど、秋風にはだ寒になれば、波もあらく、風まけもするゆへ、舟のかよひも遠ざかり行、といふこゝろなるべし、といへり、(『墨水消夏録』)

喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、猪牙舟、きりぎりす舟の記述あり、参照ください。

 

【土手の道哲】(どてのどうてつ)

土手の道哲。西方寺の別名。(台東区浅草6−36)

西方寺は関東大震災までこの地に有った(猿若町の北側)。吉原通いで通る山谷堀の吉野橋手前の土手下に有り、道行く遊客は土手下の西方寺を見下ろしながら通って行った。この西方寺の境内に庵を結び、処刑者や遊女の菩提を弔うために毎日念仏を唱える道心者がいて、その者の名が道哲であったことからこう呼ばれた。現在、山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名を変えているが、川の位置がそっくり緑道風の公園になっている。

浄土宗道哲西方寺(豊島区西巣鴨4−8)に、道哲、高尾太夫の墓が有る。

道徹 菱川師宣が恋の道引に云、堤のかたわらに、いとかすかなる庵あり、これをいかにと問に、さりし明暦の頃より、道徹といひし道心者、世をむづかしとや思ひけん、所も多きに、爰に庵をなん結びてすみしが、二六時中にかねの声たへせず、ねぶつかすかに聞ゆと云々、紫のひともとに、土手のきわに道徹が寺あり、或本に、淋しきものは道徹がかねのこゑ、とあり、今はやる与作ぶしの小唄に、そつちでうて道徹、とうたふも此寺なりと云々、按るに、此時、門前刑罪場也、彼罪人仏果得達のために、昼夜の念仏したりしが、又其後、刑罪場小塚原に移さる、今に其寺を西方寺とはよばずして、衆人皆道徹といふ、かの道てつが墓は、開山念誉の墓とならびたり、塔の上に、かねをたゝく石像あり、今寺僧に尋るに、没年詳ならず、此寺に高尾が遺物あり、

高尾襟掛地蔵 銅仏立像、一寸八分、高尾守袋へ入し仏也、

同位牌 法号転誉妙身信女

同所持羽子板

右羽子板、表背ともに総金地模様、上下に鶴あり、中に松あり、墨蒔絵なり、右のかたに紅葉の紋、朱なり、裏に欒の実あたりたる跡あり、中の金具は後につけて、垂撥にしたるものなり、裏に春の字あるを以見れば、高尾の所持にあらざるに似たり、蓋春日野といひし名妓の所持なるべし、

又、此寺に高尾の墓あり、碑面に地蔵をほる、上に紅葉の紋あり、右に、転誉妙身信女、万治三庚子年十二月二十五日、左に、寒風にもろくもくづる紅葉哉、とあり、墓のうしろに紅葉の木あり、是は後世に立たる墓にて、高尾を葬し所にあらず、故に年月も相違せり、委春慶院の処にしるす、

[頭書]如道人いふ、世に伝ふる、仙台侯、三またの船中にて、高尾を手打にし給ふといふは、いつはりなり、仙台侯、薄雲といへる太夫がもとに通ひ給ひしこと一両度也、そのことを張皇して、放蕩の浮名をたゝせ、将軍家の首尾をあしざまになさんと、侯家の逆臣ども、土佐座の狂言にとりくませしとぞ、その狂言を三世二河白道といふ、足利頼兼の人形、竹に雀の紋所付たる衣裳をきせ、傾城を船にてさげ切にする所をせしとぞ、近来、高尾が首ながれよりしといふて、永代橋舟見番所のあき地に、小さきほこらをたて、紅葉の木などうへ、願をきくとて、無知の男女参詣す、わらふべき事也、と嵩斎ぬしのかたられき、(『墨水消夏録』)

 

【比翼塚】(ひよくづか)

情死あるいは後追い心中した男女をともに葬った塚。(『広辞苑』第二版)

翼を並べて飛ぶ鳥の様子を比翼といい、この言葉から二つ並んだ塚の形を形容するとともに、男女の睦まじい仲を譬える「比翼の鳥」という言葉から名付けられた。

吉原の遊女小紫は、馴染みの客となった平井権八と深い契りを結ぶが、権八は盗賊であったため捕えられ刑死する。やがて小紫は身請けされ出廓するが、里を出たその夜、宿を抜け出し権八の墓に行きそこで後追い心中した。委細を知った住民が、そのことを不憫に思い権八とともに葬り、その塚は目黒の比翼塚として、後々まで菩提を弔う人が絶えなかったという。

【比翼の鳥】(ひよくのとり) 中国の伝説上の鳥で、雌雄各一目、一翼で常に一体となって飛ぶ鳥。(『広辞苑』第二版)と有るように、想像上の鳥で、『好色訓蒙図彙』上の「爾雅注」に「比翼鳥、鳧(かも)に似たり。目ひとつ、はがひ一つの鳥なり。夫婦身を合せて飛行なり。されば、刹那も離れず、ぎやうに深い中也。羽の色一鳥は蒼く、一鳥は赤しと」と説明されている。

また、白楽天の長恨歌に「天ニ在ラバ願ハクハ比翼ノ鳥ト作ラン、地ニ在ラバ願ハクハ連理ノ枝ト為ラン」と詠われている。因に「連理ノ枝」も、男女の契りが深い喩えで、「連理枝 もと一本にして、左右の枝中にてあひ、皮肉通りて連なれり。」と前掲書に有る。(『好色一代男全注釈』)

[比翼連理] 夫婦の深い契りのたとえ。ここから紫式部は『源氏物語』で「朝夕の言ぐさに、「羽をならべ、枝をかはさむ」と、契らせ給ひしに、かなはざりける、命の程ぞ、尽きせず恨めしき」(桐壺)と書いている。

 

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