《隠密・撹乱・諜報》

【裏柳生】(うらやぎゅう)

新陰流を道統とする剣術およびその一門を表柳生と称すのに対し、伊賀・甲賀の忍びを取入れ、主に将軍(幕府)の影働きを行った柳生一門を指す。小池一夫氏の劇画『子連れ狼』で、その総帥柳生義仙の名と共に、広く巷間に知られるようになった。隆慶作品では『吉原御免状』『かくれ里苦界行』で、松永誠一郎、幻斎らと死闘を繰り広げる。他の作品においても、物語に膨らみを持たせる重要な脇として登場している。

【虎乱】(こらん) 乱剣の陣。どうしても斬らなければ成らない相手に使う必殺の型。複数の人間が、相手を二重に囲み、内側と外側の人間が互に逆方向に廻り、相手を撹乱。内側の円の人間が片手斬りで徐々に円を狭め、相手の動きを封じ、最後には外側の人間が内側の人間を踏台に飛び、頭上から真向唐竹割に斬撃を加える裏柳生の暗殺技。

 

【遠聴の術】(えんちょうのじゅつ)

聴覚の鋭い忍びが持つ技。耳助、何々の耳と呼ばれる忍び。指向性のある集音マイクのような特技か。敵の陣中に深く入り、会話などの情報を収集することを役とした。「名張の耳」などが有名。 

 

【草】(くさ)

敵地に永年にわたって潜伏し、その土地の人間になりきっている隠密。

 

【忍び】(しのび)

戦国期、忍びの者のことを、「すっぱ」「らっぱ」と称し、透波・水波・鳥波・川抜などの文字を当て「すっぱ」と読ませ、「らっぱ」には乱波の文字を当てた。「すっぱ」や「らっぱ」には、身軽く、足の速い者が多く、家や城などへ忍び入って探索や情報収集に従事したり、小集団による夜討ち、朝がけなどの奇襲作戦に活躍した。忍びには「上忍」「中忍」「下忍」とあり、「上忍」は大名などの家臣で、「中忍」はその家来、陪臣を指し主に士分であるが、「下忍」は上中忍に仕える家僕、下人の身分とされ、実働部隊の中心となった。

また、伊賀在住の郷土史家池田裕氏は『萬川集海』(伊賀忍術秘伝書)の文を引用して、上忍、中忍、下忍の区別はあくまでも「期待される忍者像」の基準として分けられたもので、上記のような組織上の区別ではなく、技量の区別であったと述べている。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)

【伊賀忍び】(いがしのび) 伊賀衆、伊賀者と呼ばれ、鈴鹿山地に続く布引山地の西麓伊賀国の地侍とその下人たち。南北朝時代、楠木正成の手勢として、笠置城攻めや北条高時の軍勢を撹乱し、その名を轟かせた。徳川家康に武将として仕えた伊賀の国人服部半蔵正成の縁で、伊賀越えの大難の時に伊賀衆は嚮導役を勤め無事に脱出させた。その功績から、伊賀の国人たちは伊賀組として徳川家に仕えることとなる。

[伊賀者の発祥] 伊賀者の祖は、鎌倉時代中期から南北朝にかけて、東大寺が荘園化した南伊賀郡黒田荘の住人たちが東大寺に抵抗した勢力として現れる。彼等は黒田の悪党と呼ばれ、弘安五年(1282)の『東大寺文書』にも「黒田荘の住人大江清定、服部康直以下の輩が山賊、夜盗、強盗、放火、殺害等の悪行を為すので討伐して欲しい」という訴状を朝廷と六波羅探題に提出したと書かれている。甲賀者もその最初は山賊として、史料に現れているように、当初は支配者層からは、反抗勢力の悪党として扱われていた。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)

【加賀忍び】(かがしのび) 加賀藩主前田利家に仕える忍びの集団。天正伊賀の乱で加賀藩に逃れてきたとされる。越前流ともいわれ、伊賀忍びの流れを汲む。『一夢庵風流記』には、その頭領四井主馬率いる加賀忍びが描かれている。前田慶次郎の従者となった捨丸も加賀忍び出身。

【木曽忍び】(きそしのび) 木曽義仲所縁の土豪衆の配下で、信濃・飛騨国境木曽谷を根拠としていた。ここの土豪の一部が義仲に従い、戸隠に依ったことから、戸隠忍びを生む。

【甲賀忍び】(こうがしのび) 鈴鹿山地の南端、伊賀国に隣接する地の地侍とその下人。甲賀衆とも呼ばれ、伊賀衆とともに楠木正成に従い軍功を上げている。甲賀衆は甲賀二十一家と呼ばれ団結力が強く、信長と戦い、その死後秀吉に一時仕えたが、些細なことから領地を没収され、反豊臣の気風が強く関ヶ原では家康側につく。その前哨戦ともいえる伏見城籠城戦では城将鳥居元忠の許で、甲賀衆も籠城し三成軍と戦った。この時の功績で甲賀衆は「甲賀百人組」として伊賀組と共に幕府に召し抱えられる。 

[甲賀の里忍術村] 隠し階段やどんでん返しなどを備えた「からくり屋敷」、約1、500点の忍術資料を展示する「忍者博物館」、忍者の常用した薬草を集めた「薬草園」などがあり、手裏剣投げや水蜘蛛などの忍者体験コーナーがあるアミューズメント・パーク。「からくり屋敷」の建物は、甲賀忍者の古文書『萬川集海』の編者の一人藤林保義の屋敷を移築したものという。

交通/JR草津線「甲賀」駅から送迎バス有り。

[甲賀流忍術屋敷] 甲賀武士五十三家の筆頭格望月家の住居で、元禄年間に建てられた建物。外観は茅葺き平屋建てだが、内部は三階構造になっている。通路落とし穴・縄梯子・忍び梯子・回転戸・地下道などのからくりが随所に施されている。また、部屋の一角には忍者人形が置かれ、忍具の説明が書かれているため、ちょっとした忍者博物館の様になっている。

交通/JR草津線「甲南」駅下車 徒歩25分

【武田忍び】(たけだしのび) 武田信玄は常時七十人あまりの忍びを抱えていたという。その内三十人を選び、十人づつの組にそれぞれ侍大将甘利備前、飯富兵部、板垣信形をつけ、諸国を廻らせ情報を集めさせていた。また、甲州流、甲陽流、信玄流ともいわれ甲州流軍法の斥候部分が武田忍びであるとされる。『影武者徳川家康』に登場する甲斐の六郎はこの武田忍び。

【戸隠忍び】(とがくししのび) 信濃・越後国境戸隠山を根拠とする忍び。戸隠山は隣接する飯綱山とともに修験道の霊場としても知られ、その行法を取り入れた個人技の優れた忍び。木曾において平家打倒の兵を起した木曾義仲が、この戸隠山に陣を置いたのが始めとされ、その家臣とされる仁科大助が、飛鳥術、銛盤投術など独特の技を身につけたといわれる。真田幸村に仕えた猿飛佐助霧隠才蔵はこの戸隠忍びとされた。

【根来衆】(ねごろしゅう) 元は根来寺の僧兵集団だったが、根拠の根来寺が秀吉に攻め滅ぼされると、彼等は各地に散った。やがて彼等は修験道を元にした体術と隣接する雑賀との関係から鉄砲にも通じていたため、紀伊藩や幕府に忍び働きの出来る者として召し抱えられる。これら根来の僧兵を元とする忍びを根来衆といった。

【蜂屋の一党】(はちやのいっとう) 蜂屋衆、尼子衆ともいう。毛利元就に滅ぼされた中国地方の戦国大名尼子氏の抱えた忍び集団。この一党は、畿内を荒し回っていた野盗で、その忍び働きを買われ尼子氏に召し抱えられたという。また、この一党は、平将門に協力した一族で、彼等はイボロ族といわれ、京の撹乱のために将門により派遣されたが、将門の死により頼る所を失い盗賊化したともいわれている。『雲陽軍実記』には「村上帝御宇天暦之末、帝闕の近辺、矢背(八瀬)、大原、鞍馬、市原、高雄、愛宕の深山茂林に強盗隠れ住みて、夜は洛中洛外、或いは畿内の中まで忍び出て、押込、辻切、追剥、夜討をなし、万民を苦しめ、富裕の者どもの財宝を掠め、奪ひ取る事夥し。官裁を以て警固し給ふと云へども、元来忍びに馴れたるもの故、爰に有るかとすれば彼所に飛び、飛鳥の如くに立ち廻り、昼は己が住家に入りて岩窟洞の内に身を潜みける故、是を防ぐに術なく、上一人より下四民に至るまで、昼夜彼が為めになやまされ、片時も易き心なし」と記されているのが蜂屋の一党とされるらしい。ここで注目されるのは、これらの賊徒は大江山の鬼と称された盗賊と行動範囲が同じで、さらには八瀬童子の祖先に繋がるように思えることだ。

【風魔一族】(ふうまいちぞく) 高麗の一部族だったが、国王に叛逆し、一族をあげて海を渡り日本の地に亡命した。その一族は古来から拳法の秘儀を伝え、忍びの術にすぐれていた。(『花と火の帝』下85)

北条氏直に仕え、その数二百人といわれた伊賀・甲賀と並ぶ忍び集団。一党は馬術に優れ、箱根山中を平野のように乗回し、風魔小太郎の許、一糸乱れぬ統制がとれていたという。北条忍者ともいい、相模国足柄下郡風祭に近い風間谷に居住していた事から、風魔といわれるようになったとされる。

また、風魔は風間(かざま)と史書には現れ、万治四年(1661)刊の『古老軍物語』巻四「軍陣に忍びの者を詮とする事戴淵が事風間といふ忍びの事」には、北条氏直と武田勝頼が黄瀬川に対陣した時、氏直方に近江の甲賀より出た風間の三郎太郎といふ並びなき大力で勇者がいて、この男が忍びの上手で変幻自在、さんざんに武田方を苦しめたという話を載せている。(『伽婢子』2人名索引)

また、風間一族の末裔毛利氏の『我流』ブログに風間関連情報があるので参照ください。

 

【御所忍び】(ごしょしのび) 実在したという資料は無いが、隆慶一郎は御所忍びとして二つの系統の忍びを設定している。一つは『影武者徳川家康』に登場する青地新左衛門、『駆込寺蔭始末』の主人公麿らの木曽忍びの流れを汲み、主に御所警護を任とする忍び。もう一つは、『花と火の帝』で描かれた駕輿丁「八瀬童子」を御所忍びとしている。

 

【忍者の発祥】(にんじゃのはっしょう) 『近江輿地誌略』の「忍者」の項には、「世上普く伊賀・甲賀の忍者と称する事は足利将軍家の鈎御陣の時、神妙奇異の働ありしを日本国中の大軍眼前に見聞する故に其以来名高し、鈎陣に伊賀の河合安芸守一族家士、忍に於て抜群の功あり、故に代々伊賀者を称せらる、之伊賀者の名の起こり也、甲賀は伊賀の別伝也」と記している。また『萬川集海』にも「伊賀が忍術の本なり」とあり、伊賀が忍者発祥の地としている。(歴史読本2004年8月号「特集忍びの戦国史」)

【忍び関連逸話】

会津藩の阿武太郎左衛門は忍術を以て名を博したる人なり、初め猫を捕へんとて追廻しけるに、素早く摺り抜けて手に合はざりければ、一室に立籠め、手燭を照して捜し見けるに、何処に隠れけるや其影だに見えず、扨は立籠めたりと思ひしに、早已に逃去りしものなるべしと独語きつつ、手燭を下に置かんとしけるに、図らざりき猫は尚室内中に在り、其手燭の下より飛出でたり、是れ火の影を追ふて其身を潜め居たるものと知られたり、阿武は是を見て忽ち忍術の妙処を了り、鍛錬の末遂に達人と呼ばるるに至りぬ、されど此人性狷介にして人の厭忌ることを好み、動もすれば他を苦しめければ、其終りを令くする能はざりしは惜むべし(橋爪介三郎)(『想古録』) 

【跳躍の術】(ちょうやくのじゅつ)

跳躍、飛び技。身軽さを身上とする忍びの得意とする術。塀や木の上に素早く飛び移り、城や砦に侵入した。この技を得意とする術者は、「飛助」「飛び××」あるいは「猿」などの文字を当てて称される。「猿飛佐助」はこの術の達者。

【猿飛びの術】(さるとびのじゅつ) 地面に降りる事なく、樹から樹へと移って移動する技。

【天狗昇飛切の術】(てんぐしょうとびきりのじゅつ) 気合いと共にその場から六、七尺(約2m)飛び上がる術。摂津花隈城主戸沢山城守が得意とした。塚原卜伝、亀井武蔵守茲矩らが戸沢山城守から学んだという。宮本武蔵が卜伝に師事した時にも教えを請うている。亀井武蔵守は新十郎といい、槍の名手。

 

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