《軍用語・一般》(いくさようご・いっぱん)
【軍】(いくさ)
戦争の事。戦(いくさ)。「ぐん」と読む場合は、軍隊・兵士の事を意味する。
【攻城戦】(こうじょうせん)
城攻め。敵の籠る城塞を包囲して戦う事。
【俄攻め】(がぜめ) 奇襲攻撃。
武田信玄の十六歳の初陣で、父信虎に従って甲信国境の要害、平賀源心の立て籠る海ノ口城を攻めた戦では、大雪と敵の頑健な抵抗に遇い、武田軍はやむなく撤退した。この時、殿を務めた信玄は、無断で手勢三百の寡兵を率いて引き返し、暗くなるのを待って敵に気付かれぬよう城に接近。案の定、城内では敵の大軍を追い返した事で、源心以下城兵は酒杯を傾けての祝勝の宴で盛り上がっていた。これを見届けた信玄は、夜明けと共に裏口の八幡裏の男坂から城内に攻め入る。さしもの城兵も、泥酔し熟睡していた事から周章狼狽、源心は討取られ、信玄は海ノ口城の攻略に成功した。この他、北条早雲の小田原城乗っ取りなど、この俄攻めで成功した例は多い。
【一時攻め】(いちじぜめ) 強襲・力攻め。
大軍の勢いで敵軍の気勢をそぎ、犠牲をかえりみないで強行突破を行う、一種の人海戦術。力攻め一方の寄切り型の戦法。
その方法は、まず城の四方から城濠に迫り、矢弾をおかして濠岸に取り付き、埋草を投げ込んで濠を埋め、寄手が渡れるようにする。その後、竹槍や、帆布を帆柱に立てて矢弾をさけながら、城壁の下に蝟集し城塁をよじ登る。この時、種々の梯子を用いる場合もある。また、城兵の射撃を制するため、城壁の一狭間(銃眼)に対して四、五人の射手を配置し、援護したといわれる。
この戦法は、味方の犠牲も大きいことから、なるべく短時日で城を攻め落とさなければならない。また、城を守る側はなるべく堅固な城を築いて、こうした強襲に備えた。その代表的な築城が北条氏の築いた小田原城で、上杉謙信の十一万の大軍の強襲や、武田信玄の大軍をその鉄壁な守りで防いでいる。
【付入り】(つけいり) 追尾突入。
敗走する敵を追い、踏み止まって戦う余裕を与えず追撃を行い、城に逃げ込む敵に付いて城内に入り込み攻略する戦法。
関ヶ原の前哨戦、池田輝政らの東軍は、輝政が一万八千の軍勢を率いて木曽川上流から、福島政則が一万六千を率いて下流から渡河して岐阜城に攻め込もうとした。この時、城を守る織田秀信は、城兵わずか六千五百だったにも関わらず、城を出て池田輝政の軍に攻撃を仕掛ける。渡河中に敵軍に急襲をかけるつもりだったのだろうが、輝政の大軍に押し返され、城に逃げ帰るしかなくなった。この時、輝政は一気に織田軍を追撃、遁走する敵兵についてそのまま城内へなだれこんだ。こうなれば、もと岐阜城主だった輝政の独壇場となり、織田秀信はあっというまに追い込まれ、降伏し開城した。
【遠巻き】(とおまき) 長囲、攻囲。
長期間囲み、兵糧攻めを行う戦略。損害の多い攻撃を避け、まず周辺の枝城、属城を占領し、同時に堅固な陣地を城の前に構築して漸次攻略してゆく戦法。
これらの戦法で、小田原城や伏見城など多くの城が攻略された。
【水攻め】(みずぜめ)
川や湖などの天然の要害を利用した城は、攻め込むのも容易では無いが、逆にそれらを敵に利用されると、城が水没したり孤立させられ糧道を断たれて落ちる場合が多く有った。
この戦法をもっとも効果的に使ったのが羽柴秀吉だった。中でも備中高松城の水攻めは有名。もちろん成功例ばかりでは無い。石田三成の忍城水攻めはその失敗例とされる。
【火攻め】(ひぜめ)
石塁・石垣で囲ってあっても、建物の大部分は木造建築だった我が国では、保元・平治の乱以来、火矢などを用いた火攻めは多用された。信長はこの戦法を積極的に用いた武将で、城下町をことごとく焼き払った後に、兵を進めて敵を殲滅した。また、鉄砲伝来以後は、火箭という武器も登場し、いっそう火攻めが重用された。また、外からばかりでなく、内通者や忍びを使って内部から付け火で城内を混乱させる戦法も多く用いられた。
関ヶ原前哨戦で、西軍が鳥居元忠らの守る伏見城を攻略したのも、内外からの火攻めだった。
【仕寄り】(しより) 正攻法の城攻め。
あらゆる兵器と機材を用い、なるべく損害を少なくして城を攻略する戦法。遠巻きと同様、まず本城の廻りを固める枝城・砦などを一気に攻め落とした後、敵の本体が籠る城を取巻き、梯子や大筒・鉄砲など以下に掲げるあらゆる武器・機材を用いて城内に突入して攻略する。
[雲梯・飛梯・竹飛梯]
城内を瞰望するための一種の梯子で、望楼を造り、敵状の偵察監視を行うとともに、火矢などの火器を使用するのに用いられ、戦国時代には欠かせぬ攻城具。
[亀甲車]
牛皮で亀甲形に四面を覆った四輪車で、中に兵士十人ほど入って城壁に肉迫するもの。南北朝時代にこれに似たものがすでに造られていたが、本格的にその効果が発揮されたのは鉄砲伝来以後という。
朝鮮の役で加藤清正がこの亀甲車を使って朝鮮の城を攻略したことは有名。
まお、同じような用具として、木牛車・蒲鉾形をした厚竹圏蓬(竹製)などがあった。
[摺畳橋]
濠を渡るための梯子のようなもの。
[砲楼・行砲車]
砲撃のさい、大筒を高く撃ち上げるために用いた。また、運動自在な弩、あるいは大筒を撃つために行砲車が用いられた。
[填濠皮車]
矢弾をふせぎながら濠を埋める埋填材料を運ぶ車。
[火車]
城門を焼打ちするために用いられた。
[塔車]
城の構造物を手当たり次第引っ掛け、これを引き落とす車。
[竹束]
矢弾除けとして、戦国時代、信濃から発達し、攻城のさい、持楯と称する携行用のものが大いに利用された。また、これら竹束を電光形に土嚢などとともに積み重ね、あるいは塀を作るなどして接近路を設け、城に近付くのに用いた。
この他、当時の戦闘において、竹は重宝な資材として大いに利用されている。織田信長が設楽原で武田の騎馬軍団を迎え打つのに築いた竹柵は、武田軍の機動力を大いに殺いだが、それに用いた竹は、岐阜城発向の際に携行したものだったという。
[築山]
孫子でいう距堙で、城内を俯瞰し、かつその上に大筒などを備えつけて狙い撃ちにするために設けた。
[穴仕寄・地道]
坑道。城壁の下に穴を掘り進め、石垣・城門などを崩壊させて城内に進入しようとする戦術。
弘治元年、厳島合戦のとき陶晴賢軍は毛利元就方の宮尾城攻略の際に用いたが、成功しなかったという。さらに、永禄五年の武田信玄・北条氏康連合軍の松山城攻撃の時には、城を守る上杉憲勝軍の善戦で被害が続出したため坑道隊を組織し、地道を掘って進入を試みたが、それを予め想定していた憲勝は坑道を四方に掘り、水源地から水を引いていた。そのため甲州方の坑道がその深坑にぶつかるやいなや、たちまち水浸しとなり先に進めなくなった。そのため、ついに休戦となったという。
[大筒]
砲弾を発射させる火器。
大坂冬の陣で、徳川方はこれを淀君のいた本丸に打ち込み、恐怖心を抱いた淀君の意向で休戦を迎えたとされている。
【遭遇戦】(そうぐうせん)
敵軍と山野で対峙し、あるいは出会い、野戦となる戦い。
【一番乗り】(いちばんのり)
攻城戦などで、真先にに敵城砦に乗入れ名乗りをあげる事。一番乗りは軍功とされ、武士の名誉でもあった。
【一番槍】(いちばんやり)
第一に敵陣に槍を突き入れること。(『広辞苑』第二版)
野村筑前といふ、近江士のあらはせし撰士篇に、一番鎗の条に、世の中に主はひとり我ひとりと心ゆる勇気のもの一番鎗いるゝとみへたり。(広瀬蒙斎『しがらみ』)
中里介山の『続日本武術神妙記』に、
「一番槍 松宮春一郎氏の主宰した雑誌「同人」の第百三十五号(昭和三年十一月発行)の小集記の中に、遠藤佐々喜氏の談として次の如くある。
先頃古本屋漁りの一興中、偶然手に入った昔の武道の秘伝「秘書一番槍之説」(半紙本墨付六枚)という小冊子の中に柄にもなく私の共鳴した最も興味ある一節を、原本を朗読して紹介いたします。
(前略)「両陣攻寄スルコト二十間程マデハ互ニ五三間押立ラレ進退アリ。コノ前後ノ内ハ敵ト槍ヲ合セ或ハ突臥ルト云エトモ、場中ノ働キニテ未ダ一番槍ノ功ニアラズ。敵味方十二三間程近クナリタル時ニ弓鉄砲ノ得道具ヲ持チタル諸士ハ、槍ト取替テ一番槍ヲ心懸ルナリ。コノ時槍ノ卒五七間モ後ニ居レバ槍ヲ取替ル間ナキ故、直々槍脇弓請ヲ心懸ルナリ。矢玉尽キテナキモノハ大刀ノ槍脇ヲ心懸クベシ。サテ槍ヲ入ル節ヲ見計ウコト肝要ナリ。双方実ナル備エハ一間二間宛位詰メニ相進ムナリ。コノ時、一番ニ進ミ出テモ続ク味方一人モナケレバ槍ノ功ニアラズ故ニ出タル者モ是非ナク引退クコトアリコレヲ引渡リノ槍卜云イ、味方弱相ナリ、尤モコノ時未ダ槍合セノ期ニアラズ。既ニ双方相寄ルコト七尺間近クナレバ、互ニ一足モ進退スルコトナラズ、敵味方トモニ手負死人眼前ニアルヲ見テモ、出テ首ヲ取ルコトナラズ、手負ヲ引カケ退クモナラズ、両陣ノ戦士互ニ眼ヲ動カスマデニテヒッソリト鎮マリ、暫クタメラウコノ時備エノ強弱見ユルナリ。強キ方ノ諸士ハ冑ノ立物差物前へ侑キ、イツトナク虎口前ヘニジリ寄リテ備エノ字形ニナルナリ。コレ諸士ノ気前へ進ミ互ニ位ヲ見合ル如此ナリ。コレヲ勝色ノ備エト言イテ吉相トス。
双方トモニ強気勝劣ナク、互ニソノ筋ヲネラウ時ハ勝負ノ間久シキ故ニ備エ横槍ヲ入レントマワルヲ見テ敵ノ備エ中ニテ進ム者へ目ヲ付ケ、マタ槍脇ノ味方ヲ見合セ、足ヲ踏ミ出シ槍ヲ振上ゲ、何某一番槍ト高声ニ名乗リテ槍ヲ入ルベシコレ一番槍ト言ウナリ。コノ人ニ前後ヲ争イテ続イテ槍ヲ入ル者ハ、何某一番槍ト名乗リテ槍ヲ入ルナリ。コレヨリ続イテ味方ノ惣兵一同ニテ突懸ケテ推敗ルナリ。一二ノ槍ハソノ敵ヲ討チトラズモ、マタソノ身敵ニ討夕レテモ鋭勇ノ志アルヲ以テソノ功ヲ空トセザルナリ。如此諸士ノ気一致ニシテ、陣路ノ間ヲ開ク味方ニ引続キ敵陣へ進ミ駆クルコト、タトエバ飛雁ノ行列ヲ断タザルガ如クニ非ザレバ益ナキナリ若シ一番槍ヲ入ルヤ否ヤ敵ノ備エ崩レ立テ、槍ヲ合スル敵ナケレバ一番槍トハ言ワズ、崩レ際ノ功ト言ウナリ。弱キ備エハ強勢ノ敵鋭気外ニ発スルヲ見テ自然ト備エノ色白ケ中クボノ形ニナリテ、武者ノ冑立物差物仰クモノナリ。コレ漸ク進ム気衰エ後へ気アル故ナリ。コレヲ敗相ノ備エト言ウ。(中略)凡ソ一番槍ノ功ト言ウハ両陣ノ鋭気互ニ勝劣ナク、相気勢ニアラザレバコノ働キナシ。時所ニ依リテ勢ニ強弱ナシト言ウコトナシ。弱キ方ハ多分場中前後ニ備エ色メキ槍合セニ至ラヌ以前崩ルル故ニ、毎戦槍ノ功アルコトニハアラズ」以上。
私はこれまで一番槍とは唯所謂抜け駆けの功名のことで、軍陣に於ける単独の行動とばかり軽く考えておりましたが、この説を玩読して処世訓としても大いに悟るところがありました。」とある。
【一騎駆け】(いっきがけ)
ただ一騎をもって敵陣に斬り込むこと。前田慶次郎が得意とした。
【胄首】(かぶとくび)
胄(兜)を着けた首。我国では敵の首級をもって戦の功の証としたことから、死者の首を持帰った。なかでも部将クラスの将士は胄を着用するため、胄を被った首を挙げる事は名誉とされ、軍功となった。
【先駆け】(さきがけ)
真先に敵陣に攻撃を仕掛ける事。
【抜駆け】(ぬけがけ)
多くの場合、誰が先駆けを務めるかは事前に軍議で決められるが、それを無視して先駆けをする事。上手く行けば功績となるが、失敗すると戦に勝っても腹を切らなければならない賭け的な行為。