《軍用語・兵制》(いくさようご・へいせい)
【足軽】(あしがる)
戦国期に至ってはじめて「馬上の侍」と「足軽」の二つの階級ができた。侍は家中衆で軍陣において騎士として一隊の中軸となり、足軽はこれに対して歩卒であった。戦国期に集団戦闘が重視されると、多数の足軽を必要としたので、臨時に農工民から徴集補充したが、これを「雇足軽」という。足軽ははじめ卑しめられ、侍に対しては路上で会っても敬礼すべしとされ、「貴様」と呼び捨てであった。しかし追々改められて、豊臣時代には足軽以下、中間、小者までも服制が定められ、「取立侍」という登用の道も開けた。秀吉自身が足軽から立身したせいもあってのことだが、侍対足軽の観念もこれによってだいぶ変った。
足軽の解釈についてはいろいろ説があるが、進退足軽く疾走して働くという意味からこの名が生じたとするのがいいようである。その役目も文字通り平常にあっては気軽に飛び廻って雑用を果し、戦場では第一線に立って歩卒として戦った。弓、槍が足軽の武器であって弓組、槍組(長柄組)を編成していたが、戦国時代に鉄砲の威力が重視されると、鉄砲組を新たに加えて、量質ともに足軽は集団戦闘の基礎兵力となった。しかし、足軽の中には世の乱れに発生した山賊夜盗の類が多く、主従の観念が薄かったために、無頼の徒としてさげすまれたこともあった。応仁の乱に際し、放火、掠奪をやったのは、軍律など念頭にない足軽のしわざだが、その弊害を知りつつ彼等を雇い入れねばならなかった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
馬廻というのは主将の馬のまわりを警固するという意味である。馬廻衆、または馬廻組は騎馬の兵士であるが、近衛兵だけに体力のすぐれた者を選んであった。古くはただ主君の馬側に扈従しただけなので、一定の従者ではなかったが、戦国の世になって特定の顔ぶれも定まり、馬廻という職名ともなった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
昔時、武家にて、主君の馬のまわりにつき従ひし武士。(『廣辞林』)主君の護衛役の武士。
[戦国武将の護衛]
○源君於遠州天方天野宮内左衛門にあひ玉ひ、危かりし時御近習わづか六七人、無類のはたらきをして難をのがれしめ玉へり。此の時より諸士の二男三男有力の者を召し出され、御陣にては御馬廻りに相ひしたがへ玉ふ。是を小十人と名づく。信玄も随兵三十人、謙信も二十人あり。古へ正成、義貞皆しかり。(『見聞談叢』)
中でも有名なのが織田信長直属の馬廻で、信長の親衛隊を特にいう。千名ほどで構成され、それぞれの郎党を合わせ約五千人の部隊を直接指揮した。また、馬廻と呼ばれる武将達は、安土城内に居住する義務を負っていたという。彼等馬廻たちは、常に信長と行動を共にし、その身辺警護にあたった。
【母衣衆】(ほろしゅう) 馬廻の中から、とくに戦功のある二十人を選抜し、「母衣衆」と名付けた。これら二十人をさらに十人づつに分け、それぞれ「黒母衣衆」「赤母衣衆」と呼び、名誉の地位を与えられている。「黒母衣衆」の筆頭といわれた河尻秀隆は、その戦功を認められ、領地を与えられて嫡男信忠付きの与力となり、武田勝頼を滅ぼした後には、甲斐一国を与えられている。
永禄十二年八月二十日、伊勢国へ信長は出馬した。この頃信長の馬廻の中、戦功の衆二十人を母衣衆に定めた。母衣は背に負う矢除けの武具で、その色により階級を設けたのである。母衣衆は下の通り。
黒母衣衆 佐々内蔵介成政、毛利新左衛門、川尻肥前守鎮吉、生駒勝介、永野帯刀左衛門、津田左馬介、蜂屋兵庫頭頼隆、中川八郎右衛門、中村主水、松岡九郎次郎
赤母衣衆 織田越前守、前田又左衛門利家、飯尾隠岐守定宗、福富平左衛門貞次、原田備中守直正(塙九郎左衛門のこと)、黒田次右衛門、毛利河内守、野々村三十郎、猪子内匠助 (稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【軍師】(ぐんし)
軍師は「軍監」または「軍者」ともいい、以前は一軍の大将がこの役目を果し、別に軍師という役はなかったが、武田家の山本勘助が軍者となってからこの役が出来たという。副将の格式を持っていて、策戦のみならず軍法の制定にも参画する。番頭、大番頭の身分で、一部隊の軍師でも物頭である。陣中では大将の傍にいて、大将と共に軍機を謀る役柄だから、知謀衆にすぐれ、和漢の兵書に通じていなければならぬ。天文地理、城塞の優劣を見きわめ、奇謀術策に巧みな老功の士を用いるのが普通である。いよいよ開戦となれば、片時も大将の傍を離れず、陣貝、太鼓の指図、旗幟の進退を命ずる。戦国末期には一部隊の出撃にも軍師をつけるようになった。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【侍大将】(さむらいたいしょう)
侍大将とは、その身侍にして一軍の将となり、軍士を指揮する者をいえるなり。〈侍とは六位の人の諸家に祇候する者をいう〉「平家物語」「太平記」「伯耆巻」「宝篋院殿将軍宣下記」等に見えたるはこれなり。されどこれは平日に定めおかるるものにあらず。事あるに臨みて、侍の中よりさるべき者を選びてその職に従わせしなり。室町殿の末に至りては、名儀やや乱れて、家々の定め同じからず。果てには侍大将、足軽大将と並べ呼ばるることとなりて、侍一組をあずかり指揮する者の称となれり。後世の番頭(ばんがしら)は大かたこの職掌にかなえり。[武家名目抄](稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【足軽大将】(あしがるたいしょう) 弓足軽を指揮するのが弓大将、鉄砲足軽を指揮するのが鉄砲大将、槍組の足軽を指揮するのが長柄大将。それらを総称して足軽大将といったのである。足軽組はまた二十人の小隊に分かれていて、その一隊を指揮するのが足軽頭、足軽小頭といわれたが、諸家によって支配の人数は一定していない。(稲垣史生『考証戦国武家事典』)
【使番】(つかいばん)
戦場で指揮官の命令などを各武将(侍大将など)に伝える役。主に譜代の若侍が勤めた。
現代の伝令将校あるいは副官の役目で、戦国初期には現れていて伝令を伝えるばかりでなく、軍中の巡察も行った。江戸時代に入ると幕府の職制となり、若年寄に属し戦場では使命を伝え、平時においては諸国を巡回して遠国役人を監察し、また、将軍の代替わりに大名の治績を視察した。また、将軍家大奥の女中にも使番という職名があった。
使番とは伝令将校のことだ。戦闘中総指揮官の側近にいて、各隊へ指令を伝えにゆく役どころである。いずれも若く、馬術の達者を揃えてある。徳川家の使番の印しは、黒地に金で『五』の字を書いた。幅五十センチ、長さ九十センチほどの長方形の旗だ。背につけたこの旗を風にひるがえしながら、戦場を疾駆する使番こそ、正しく全軍の花であり、徳川譜代の若武者の憧れの的だった。(『影武者徳川家康』上8p)
【旗本】(はたもと)
本来は本陣・本営と同じ意味の詞だが、そこを警衛・警固する武者をもいうようになり、その大将に直参する将士をいった。幕下。
江戸時代には武士の階級の一つとなり、将軍家に一万石未満の碌で仕え、御目見(おめみえ)(五百石)以上の格式を持つ者をいった。それ以下を御家人という。
『影武者徳川家康』に本多忠勝を「御旗本先手侍大将」とある「御旗本」は江戸時代の旗本ではなく、本陣・本営と同義の旗本で、本陣にあり先陣を勤める侍大将をいう。