隆慶的歴史年表

天変地異編

記録に残る不思議な現象を中心に、地震・噴火・洪水および稀な自然現象等をまとめてみました。青字は当サイトで付記した注記・解説・疑問等です。この中にある「毛降る」や「光物」などの現象は推測しているだけで、正確なところは不明です。どなたかご存知の方がおられましたらご教示ください。

 

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1590(天正十八年)

1591(天正十九年)

1592(文禄元年)

1593(文禄二年)

1594(文禄三年)

1595(文禄四年)

1596(慶長元年)

6月12日、京師畿内関東諸国大霾(おおばい)、又氷毛降る(毛長さ四、五寸)。[武江年表]霾(ばい)とは土の降る事をいい、黄砂などを称す。黄砂は通常、3月〜5月にかけて降るが、この年の大霾は7月(旧暦6月)で黄砂のことでは無いように思える。一緒に氷(雹か)や毛(火山毛)も降っていることから、火山の大噴火と思われるが、どの火山か不明。毛については、以前に掲示板で火山毛ではないかという御教示をいただき、その説を採用した。しかし、実見した事が無いので、長さ12〜15cmもの毛状の溶岩物質とはどのようなものか、すぐに折れて細かくなるのでは等、疑問や興味が湧く。

閏7月12日、京都大地震。[京都府の歴史]

12月、大地震、月を逾て止まず。[武江年表]かなりの期間余震が続いたようで、M7クラス以上の地震か。

1597(慶長二年)

1598(慶長三年)

1599(慶長四年)

1600(慶長五年)

1601(慶長六年)

10月16日、大地震、房総の山を崩し、海を埋め、丘と成し、又海上俄に潮引く事、三十余町干潟と成る。17日、潮大山の如く巻上げ流死夥し。[武江年表]大津波を伴っていることから、房総沖で起きたM8以上のプレート型巨大地震と思われる。

1602(慶長七年)

1603(慶長八年)

1604(慶長九年)

1605(慶長十年)

1606(慶長十一年)

秋、六十六州竹実を結んで枯る。[武江年表]多年性常緑木だが、稀に稲穂状の花をつけ開花後は多くの場合枯死する。この年は全国的に竹が開花し、枯死したようだ。

1607(慶長十二年)

8月8日、客星現ず。[武江年表]客星とは『広辞苑』によれば、恒星に対していう言葉で、常には見えず一時的に現れる星(彗星・新星など)をいうとある。この時の星が彗星だったか新星だったか不明。

1608(慶長十三年)

1609(慶長十四年)

3月4日、月の容(かたち)方(しかく)にして現はる(「皇年代略」に、方形の月出づ、満没如春)。[武江年表]四日の月だから三日月よりやや太った月が現れるのだが、四角い月に見えたのはどうような現象だったのか。

1610(慶長十五年)

1611(慶長十六年)

1612(慶長十七年)

7月24日、大霰(あられ)降る。[武江年表]発達した積乱雲が生じたためと思われる。

1613(慶長十八年)

1614(慶長十九年)

1615(元和元年)

1616(元和ニ年)

1617(元和三年)

1618(元和四年)

8月8日、彗星出現。[武江年表]現在知られている彗星か?又、なんという彗星か不明。

10月寅の刻、長雲出で、彗星出づ。[武江年表]前出の彗星かと思われる。午前四時頃、長く棚引く雲とともに、明るい彗星が目撃されたものと思われる。

1619(元和五年)

夏より冬に至りて、毎夜白気東南に出づ。牛の角の如く長さ数十丈、又彗星東北にあつて火炎の如し。[武江年表]数十丈というと百数十メートルになるが、そんな白い気が二本毎夜立ち上るとはどんな現象か。また、彗星は前年に現れたものと同じ彗星と思われる。

5月より8月まで大旱。五穀登らず、人馬多く死す。[武江年表]空梅雨の年だったようだ。

1620(元和六年)

1621(元和七年)

1622(元和八年)

1623(元和九年)

1624(寛永元年)

1625(寛永二年)

1626(寛永三年)

1627(寛永四年)

8月洪水。大地震。[武江年表]

1628(寛永五年)

1629(寛永六年)

1630(寛永七年)

6月23日、大地震。毛降る。[武江年表]火山毛が降っているので、どこかの火山が噴火したものと思われるが不明。

12月23日、大地震。戌の刻光物飛行し、其の音すさまじかりし。[武江年表]夜八時頃、大きな音を伴う発光物体が飛来したと読んだが、何だろうか。流星か、隕石か、プラズマ火球なら音はそれほどしないと思うのだが、詳しくは判らない。次年の灰と勘案して、火山弾の可能性もある。

1631(寛永八年)

3月19日、江戸中に灰降る。[武江年表]どこの火山の噴火か不明。

10月、灰降る。[武江年表]3月の噴火が引き続いているのか。

1632(寛永九年)

1633(寛永十年)

1月21、22日、諸国大地震。小田原は別けて強し。[武江年表]相模湾沖(相模トラフ)のプレート型地震か。慶長の大地震から32年目。

1月26日申の刻、大地震。[武江年表]前述の余震と思われる。申刻は午後四時頃。

1634(寛永十一年)

1635(寛永十二年)

1月25日寅卯の刻、大地震。午未の刻、又地震あり。[武江年表]午前5時の地震が本震で、午後1時のそれは余震と思われる。

7月、天赤くして焼くが如し。[武江年表]時刻が不明でどんな現象か類推不能。

1636(寛永十三年)

5月、6月の間、更に雨降らず(西国北国は大雨、紀州其外南海にて海鳴る事九ヶ度)。[武江年表]関東地区は空梅雨だったという事か。南海で海鳴るという現象がどんな現象だったのか不明。

1637(寛永十四年)

1638(寛永十五年)

1639(寛永十六年)

1640(寛永十七年)

1641(寛永十八年)

1642(寛永十九年)

正月朔日、大雪。2月、大雪。3月13日、深雪。3月より7月に至り、天下大飢饉、米価貴躍し、死人多し。[武江年表]この年は、年明けから天候不順だったようだ。

1643(寛永二十年)

1644(正保元年)

1645(正保二年)

3月15日、月赤くして丹の如し。[武江年表]真っ赤な満月。空中に異物(黄砂・火山灰など)があり赤くなったのか。

1646(正保三年)

1647(正保四年)

4月15日夜、月の暈四方、月影の如く、朧の月四つ現はる。[武江年表]空気中の氷などの浮遊物質で光が屈折して起きる現象だが、珍しい現象でまだ見た事は無い。

5月13日、江戸大地震、上野大仏の像砕破す。[武江年表]直下型地震か。

7月22日、氷降る(大きさ梅の実のごとし)。[武江年表]かなり大きな雹が降ったようだ。

1648(慶安元年)

1649(慶安二年)

5月13日、河越大霰降る(重さ二斤、小は四十匁、人馬多く死す)。[武江年表]一斤は約600グラムとなるから、重さ1.2キロの氷(雹)が降ったことになる。直撃したら即死だろう。

6月20日、武州大地震。江戸中武家町家潰れ、死人怪我人多し。[武江年表]直下型地震か。

8月20日、江戸大地震。[武江年表]6月の余震か、別の震源地か不明。

1650(慶安三年)

5月、国々洪水。[武江年表]

6月4日、諸国毛降る(長さ四、五寸)。[武江年表]毛(火山毛)の長さは大体12〜15センチが多いように思われる。この時代、頻繁に毛を降らす火山が噴火しているようだが、どこの火山か不明。

8月7日、秩父郡辺大風雨、氷降る(大きさ八、九匁より十匁位)。[武江年表]一匁は3.75グラムで、30グラム前後の雹が降ったという事だと思われる。

1651(慶安四年)

1652(承応元年)

1653(承応二年)

1654(承応三年)

1655(明暦元年)

1656(明暦二年)

1月23日夜、赤雲西に出づる。[武江年表]

6月、赤気西方に見ゆる、竿の如くに二本あり。[武江年表]

1657(明暦三年)

1658(万治元年)

1659(万治二年)

7月2日、大風雨、洪水(浅草御蔵二俵通り水に浸る。よつて五尺ほど築き上ぐるといふ)。[武江年表]

1660(万治三年)

1661(寛文元年)

1月19日の夜、光物南より北へ飛ぶ。其の光物半町程も行く間、一天昼のごとし。[武江年表]隕石、火球と思われるが不明。

1662(寛文二年)

3月24日午刻、大地震。[武江年表]

5月朔日、京都激震。[京都府の歴史]

5月6日より20日まで、日月赤き事紅の如し。[武江年表]昼夜、赤みを帯びている所をみると、大気中の浮遊物質の影響か。

1663(寛文三年)

1664(寛文四年)

1665(寛文五年)

1666(寛文六年)

3月26日、人形のごとき光物東方に飛ぶ(長さ二丈余といふ)。[武江年表]一丈は約三メートル。ひとの形をしたというところが面白いが、どんな現象か不明。

1667(寛文七年)

1668(寛文八年)

1月28日、乾の方に竿の如き白気立ち、夜四つ時頃消ゆる。[武江年表]乾は北西、四ツ時は午後10時頃。

2月2日、日輪二ツ出づるが如く見ゆる。[武江年表]光の屈折現象とおもわれるが、未だ見た事が無いので珍しい現象と思われる。

1669(寛文九年)

3月3日、流星東に行く。声雷の如し。[武江年表]隕石かと思われる。

8月11日、大地震。[武江年表]

1670(寛文十年)

5月12日、辰下刻より巳半刻まで、炭の如く成る物降る(手に取り上げて見れば砂のごとし)。[武江年表]火山灰か。

1671(寛文十一年)

12月12日、晴天震動あり。昼四つ時ごろ灰降る。[武江年表]火山の爆発で空震したと思われる。どこの火山か不明。江戸からそう遠くは無いと考えられる。

1672(寛文十二年)

1673(延宝元年)

1674(延宝二年)

2月26日夜、幅一丈許の黒雲、東より西へ棚引き、空中橋を渡すが如し。[武江年表]帯状の雲だが、火山の噴煙か山火事の煙とも考えられるが不明。

国々洪水。[武江年表]

1675(延宝三年)

1676(延宝四年)

7月4日、5日、風雨。関東洪水。9月、この間、度々雨降る。[武江年表]

1677(延宝五年)

1678(延宝六年)

1679(延宝七年)

1680(延宝八年)

3月10日、朝五半時より四半時過ぎ迄闇夜の如し。[武江年表]午前9時から11時までだが、原因不明。

4月初め、日輪赤き事朱のごとし。[武江年表]

閏8月6日、大風雨。深川、本所浜町、霊巌島、鉄砲洲、八丁堀海水漲り上りて家を損し、人溺る。両国橋損し往来止まる。谷中法恩寺本堂梁折れて半ば傾く。東海道筋所々、浩波あふれて民家を溺らす。[武江年表]

11月晦日、酉の刻より坤の方へ広サ二尺余、長さ二十間余りに見ゆる白気あり。其の根の星を長空星といふ。12月に至り没す。[武江年表]長空星とはどんな星か?漢和辞典では長星(ちょうせい)は、長く光を引く星で、ほうき星の類としているが、長空星は載っていない。文脈から長星と同じものと思われるが不明。午後6時ころに、幅60センチ長さ36メートルほどの白い気が西南の方向へ流れ、翌日消えたという事だが、良く分らない。

1681(天和元年)

1682(天和二年)

1683(天和三年)

1684(貞享元年)

1685(貞享二年)

2月22日、流星東南より西北へ飛ぶ。其の光数百里を照らす。暫く有りて空に響きあり。雷の如し。[武江年表]かなり明るい発光物体が横切り、空に雷鳴のような音を残したとあるから、隕石かと思われる。

1686(貞享三年)

1687(貞享四年)

1688(元禄元年)

1689(元禄二年)

1月16日、頃日、老人星現す(老人星は吉事の瑞なり。治平福寿を主どる星なりといふ)。[武江年表]竜骨座の主星で、シリウスに次いで明るい星カノプスの中国名。寿星とも云われた。

10月25日夜、異星巽の方に出る。[武江年表]東南の方向に、見なれぬ星が現れたという事か。

1690(元禄三年)

1691(元禄四年)

1692(元禄五年)

1693(元禄六年)

1694(元禄七年)

1695(元禄八年)

1696(元禄九年)

5月(6月)28日岩城高浪の事。岩城にかみゑなみ・下ゑなみとて村有之候。かみゑなみ五百軒、下ゑなみ三百軒、右下ゑなみの次に村御座候。五拾軒ほど有之候由。かの村と下ゑなみとの間に小山御座候。海辺にて海に出ばり申候村にて御座候由。子ノ五月27日昼七つ時分、有家の者磯べに出、沖を見申候へば、白さぎをびたゞしくとびあるき申候様に見へ候由。依之家に帰此由はなし申候。年寄候者申候は、「それはさぎにては有之間敷候。なみの花にて可有之候。今見候へ、高浪可致」由申候て、取ものもとりあへず右の小山に家内不残取あがり申候。それゆへ五拾軒の者どもみな小山にあがり申候由。其後あんのごとく高浪つかまつり、余村は高浪にあひ申候へ共、かの五拾軒の者どもはつゝがなく有之候由。右は松寸はなし申候。[元禄世間咄風聞集]たんなる高波ではなく、津波と思われる。

6月19日、大地震。[武江年表]

7月23日斉藤唱水咄。星地に落て石に成申候由。先年川原に流星落てくだけ候を見候へば、たちまちに石に成いまだあつく有之候由。右は子ノ7月23日此方にてはなし申候。[元禄世間咄風聞集]隕石の落下と思われる。

1697(元禄十年)

1698(元禄十一年)

1699(元禄十二年)

1700(元禄十三年)

1701(元禄十四年)

1702(元禄十五年)

1703(元禄十六年)

11月22日、宵より電強く、夜八時地鳴る事雷の如し。大地震、戸障子たふれ、家は小船の大浪に動くが如く、地二、三寸より所によりて五、六尺程割れ、砂をもみ上げあるひは水を吹き出したる所もあり。石垣壊れ、家蔵潰れ、穴蔵揺れあげ死人夥しく、泣きさけぶ声街に囂し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ、津波ありて房総人馬多く死す。内川一ぱい差引き四度あり。此の時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の者凡そ二千三百人、小田原より品川迄一万五千人、房州十万人、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時、両国橋にて死ぬるもの千百三十九人といへり)也し由、ものに誌せり。此の時深川三十三間堂覆へる。24日夜より雨ふり、明け方に及びてゆり止む。其の後十二月迄、震ふ事しば/\なり。[武江年表]房総沖のプレート型巨大地震。百年前(1601)にも起きている。寛永の大地震から70年目。

1704(宝永元年)

2月27日、地震。4月まで度々震ふ。[武江年表]前年の大地震の余震か。

6月15日より7月朔日2日、江戸近辺大雨。大川筋其の外大水。8月4日より山水出で。下総猿が股土手押し崩し、田畑在家過半破壊して、死亡人数を知らず。本所、深川、浅草、山谷、下谷辺屋宇をひたす。[武江年表]

1705(宝永二年)

1706(宝永三年)

9月15日亥下刻、大地震。[武江年表]

1707(宝永四年)

11月20日より、富士山の根がた須走り口焼くる。天暗く雷声地震夥しく、関東白灰降りて雪の如く地を埋む。西南頻りにいなびかりあり。白昼暗夜のごとくに成り、行灯提灯をともす。23日殊に甚だしく、24日に至り天晴れ、皎日を拝して諸人安堵す。又25日、26日、再び天曇り砂降り、雷声の如き響き地震あり。是れより黒灰降る。28日、平常の如し。[武江年表]富士山の宝永の大噴火。

1708(宝永五年)

3月、地上に白毛を生ず。[武江年表]どんな現象か不明。

1709(宝永六年)

1710(宝永七年)

1711(正徳元年)

1712(正徳二年)

1713(正徳三年)

1714(正徳四年)

11月11日、夜光り物辰巳より戌亥へ飛ぶ。其の音雷の如く震動す。[武江年表]発光物体が東南から北西に飛来し、バリバリと音を立てたという。これも隕石の可能性が高い。

1715(正徳五年)

1716(享保元年)

11月29日、夜光り物飛ぶ。[武江年表]隕石、火球、流星などと思われるが詳細不明。

1717(享保二年)

1718(享保三年)

1719(享保四年)

1720(享保五年)

1721(享保六年)

1722(享保七年)

1723(享保八年)

1724(享保九年)

6月25日、東都毛降る。長さ数十尺に余るも多し。色白く馬の尾の細きがごとし。[武江年表]この毛状の物質は白色で、長さが1メートル以上とあり、火山毛とは異なるもののように思われ正体不明。

1725(享保十年)

1726(享保十一年)

1727(享保十二年)

3月朔日、夜五半時、光り物東より西へ飛び、雷の如く鳴る。[武江年表]午後9時頃、発光する飛行物体。隕石か。

1728(享保十三年)

1月16日、夜光り物飛ぶ。[武江年表]発光物体が飛行したとあるが正体不明。

1729(享保十四年)

1730(享保十五年)

1731(享保十六年)

11月13日、甘露降る。[武江年表]中国古来の伝説では、仁政がおこなわれると、天が瑞祥として甘い液を降らすとされ、その喩えで甘露降るとしたのか、事実として甘味のある液体用のものが降ったのか、どんな現象をいったのか不明。

1732(享保十七年)

1733(享保十八年)

1734(享保十九年)

1735(享保二十年)

1736(元文元年)

1737(元文二年)

1738(元文三年)

2月朔日夜五時頃光り物飛ぶ。[武江年表]午後8時頃、発光物体飛行。

1739(元文四年)

1740(元文五年)

1741(寛保元年)

1742(寛保二年)

正月下旬より、東方へ暁七時頃彗星出づる(長さ一尺五寸程)。[武江年表]午前4時頃、彗星が現れる。尾の長さ約45センチ。

7月28日より雨降り続く。8月朔日、昼八半時より大風雨、夜通し止む事なし。近郊大水漲り出で、本所深川人家を浸し、大川通り水勢烈しく、両国橋は御普請中にて杭を流し、永代橋、新大橋損じ、隅田川土手切れ、葛西へ水押し入り、千住土手切れる。5日、又利根川堤切れ、次第に水かさ増さり、溺死多し。官府よりは御助船を出されて救はれ、小屋を建て食物を給はる。8月9日、又大風雨にて水増さり、下旬に至りて引く。関東筋都て洪水にて御普請あり。[武江年表]時期的に台風かと思われる。

1743(寛保三年)

1744(延享元年)

2月5日夜、子上刻、天中央より少し西の方へ(×十字形の五星)此くの如き星現はる。嘉瑞也といふ。[武江年表]午前0時前、天央に四隅と中央に星の有る方形の星座が現れたとされるが、この夜だけだという事であれば彗星か新星が既存の星座に絡んで現れたものか。

1745(延享二年)

1746(延享三年)

1747(延享四年)

4月朔日、大霜降り積もる。[武江年表]新暦では五月の季節で、この時期に霜が降りるのは珍しい。

1748(寛延元年)

1749(寛延二年)

8月、光り物飛ぶ。[武江年表]発光物体だが正体不明。

1750(寛延三年)

4月23日、朝曇り、八ツ時過ぎ、西北大風雨。大霰降る(本所辺、凡そ三十匁、四十匁位、竜巻とて家を潰す。小川町、番町は十匁位。筋違外勧進能舞台、竜巻にて家根を取らる。近在道中、人馬多く損す)。[武江年表]

1751(宝暦元年)

1752(宝暦二年)

1753(宝暦三年)

正月、大雪や雨、地震、大風雨と天候不順。[武江年表]

1754(宝暦四年)

1755(宝暦五年)

1756(宝暦六年)

1757(宝暦七年)

1758(宝暦八年)

1759(宝暦九年)

1760(宝暦十年)

1761(宝暦十一年)

1762(宝暦十二年)

1763(宝暦十三年)

1764(明和元年)

1765(明和二年)

1766(明和三年)

1767(明和四年)

1768(明和五年)

1769(明和六年)

7月下旬より8月上旬迄、珍星現ず。長さ数丈、箒の如し(稲星といふ。孛星也と云ふ)。[武江年表]一丈約3メートルだから、十数メートルの長さの尾を持ったほおき星。稲星も孛星(はいせい)もほうき星のことをいう。

1770(明和七年)

6月上旬、星月を貫く。[武江年表]星が月を貫通したという意味か。どんな現象か不明。

7月28日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る。[武江年表]

1771(明和八年)

5月2日、地震。[武江年表]

5月17日、光り物飛ぶ。[武江年表]正体不明。

6月2日、大地震。[武江年表]

1772(安永元年)

2月28日、江戸天火坤より艮へ飛ぶ。[武江年表]南西より北東に飛来したと有る天火はこれまでの光り物とは違う表現。おそらく昼間の発光物体ではないかと思われる。

8月、駿河国より両頭の亀出る。これは7月6日、武州荏原郡石河村の百姓孫左衛門といへるが捕得しなり。[武江年表]当初、何らかの原因で生まれた変異固体で、頭が二つ有る双頭の亀を思い浮かべたが、両頭という文字に引きずられ、前後に頭が有る亀かもしれぬと思い至った。双頭と両側に頭が有るのでは、変異の程度がかなり違ってくる。おそらく双頭の亀を云っているのだろうが、これだけでは断定できない。

1773(安永二年)

1774(安永三年)

1775(安永四年)

1776(安永五年)

1777(安永六年)

夏より伊豆大島焼け始め、南海へ火燃え出づる。品川沖にて夜々火光天に映ずるを見る。[武江年表]伊豆大島三原山の噴火。

1778(安永七年)

1779(安永八年)

去年暮より、伊豆大島焼け出し、夜毎西南鳴動して江戸迄も響き渡れり。[武江年表]

10月朔日、夜より2日迄、灰、雪の如く降る。大隈国櫻島焼けたりしが、其の灰江戸迄も降りしといふ。[武江年表]桜島の火山灰が江戸にまで及んでいる事から、かなりの大噴火と思われる。

1780(安永九年)

1781(天明元年)

10月26日夜、亥ノ刻過ギ震動夥敷、暫ク有て赤色之光リ物現はれ、東ノ方より西をさして飛び、形ハ満月之如く、白昼よりも明るく相成候ニ付、諸人何れも胆を潰し驚き見申候、追て承レハ諸国共同夜同様之由、誠ニ奇異事也き、[天明紀聞]夜十時過ぎ、震動とあるのは、空気震動か。かなり大きな火球が広い範囲で目撃されている。大きな隕石と思われる。

1782(天明二年)

7月14日15日、夥敷大地震にて、相州小田原城中へ水押入り死亡せし者甚多く、此地城下町家農家等へも同様水おし上ケ死人数しれず、此旨15日ニ及て江戸へ注進到著也、此ひゞきにて右の両日共江戸中も余程の地震也き、又大山石尊へ登山之者、彼ノ地震にて困難云計りなく石尊近辺ハみな大石こけ落ち、是が為メニ死人怪我夥しく目もあてられぬ有様の由、此せつ御代官遠藤兵右衛門殿手代沼津辺へ御用にて参り被居候所、この辺は17日ニ至て大地震なり、人家多くゆり潰し、同人止宿被致候旅籠屋も同様くづれ候故、無拠取物も不取敢表往来筋へ駈出され候得ば、こゝかしこ地われ泥ふき出し候ニ付、又々裏之畑へ立抜れ有合せの戸板等をしき其夜しのぎ被居候次第、存も不寄難義被レ致候由也、又甲州筋は同じく14日より16日まで引つゝきの大地震にて、名高き猿橋もゆりくづれ、房州辺は大津波にて一村にて人家一軒も残らぬ処有之由、実に類稀なる大変なり、[天明紀聞]房総沖か相模湾沖のプレート型巨大地震。元禄の大地震から79年目。

1783(天明三年)

2月2日、大地震。[武江年表]

3月末、夜分光り物飛行す、人家之屋根を去ること僅三丈許にして、ひかり赤く又白し、北之方より飛出し南ノ方へ行たり、いつ方も同じ様に見かけしとぞ、尤一二夜ならず、是を見し者前後相違せしにて可知、此頃に伊豆之八丈島のはなれじま青ヶ島の温泉焼抜け、其近辺皆火をふらし、十日計り之間、天地も崩るる程に震動せり、是が為に即死怪我人夥敷かぞふるに遑なく、委細之義可取調取敢注進致ス由申来る、[天明紀聞]発光物体の正体は不明。人家の屋根からわずか10メートル上空を飛んでいる。

5月24日より信州浅間山焼出し、7月に及て益々甚敷、大震動誠に前代より聞及ばぬ大変也、其委敷事ハ追々聞伝次第記すべし、[天明紀聞]

信州浅間山火杭大いに焼く。江戸にては7月6日夕、七ツ半時より、西北の方鳴動し、翌7日猶甚だし。天闇く夜の如く、6日の夜より関東筋毛灰を降らす事夥し。竹木の枝、積雪の如し。8日にいたり快晴となる。[武江年表]鬼押出しを生起した大噴火。ここで火山毛を筋毛灰と称している事から、他で記述された「毛降る」も火山毛と推定できるが、噴火の記述が無く、その形態もかなり長い事から断定できない。

1784(天明四年)

旧冬27日頃より、正月3日頃にいたり、彗星坤の方に顕はる。[武江年表]南西の方向に彗星。

1月8日昼過キ俄ニ暗闇に相成リ、夥敷土ほこり吹あげ東西を弁じかね候、尤人の面も見へぬ程故暫ク間往来も止リ候、甚奇異之有様也、又此月始メより何ヤラン異星西方ニ現はれ、長サ壱丈許、光り以之外すさまじく誠ニ怪敷事共なり、[天明紀聞]ここでは彗星を異星と表している。

1785(天明五年)

1786(天明六年)

2月23日、相州箱根山鳴動し、24日の頃、地震甚だしく、同日百度計り震ひしと云ふ。[武江年表]火山性の群発地震か。

3月初ヨリ相州小田原鳴動之響キ有リ、又6月28日京大坂共に満月出ツ、7月初より夜陰になれば空中に鼓の声あり、15日には江戸川々大出水也、此節大サ車輪之如き物、西北より東へ飛びゆき、或は人之腕の形チしたる物にて、其先キ指之如く六本にわれたる光り物飛行し、人家にゆき当れば悉く破損し、是が為に小日向斉藤帯刀殿表長屋潰れたり、又此頃中諸国共に大洪水にて山崩れ、常州筑波山などは大巌石落来り人家等大破せし所有之由、其他諸所にて山岳鳴動し響き殆ント雷之如く、或は異形之物あらわれ、又はとび歩き、人民甚恐怖せし趣追々申来る、且下総印幡沼も新田開発之御積りにて余程埋立候得共、今度之洪水にて悉くくづれ元之如く沼になれり、又葛西辺一旦水溢れ、跡に蛇多く集り居り甚困り候由なり、此外諸国より色々と申来りし変事多けれ共、一々慥ナル事共受難ケレバ略之、[天明紀聞]車輪のような形の飛行物体と先が六つに分かれた人の腕の形をした飛行物体とは何か。地上に落下し物損を伴っているので、火山弾か隕石群かと思われるが、不明。

夏より冬にいたり、諸国飢饉。諸人困窮す。[武江年表]

1787(天明七年)

1788(天明八年)

4月11日夜、戌刻、光り物飛ぶ。昼の如し。[武江年表]午後8時頃、発光物体が飛来し昼のような明るさになったという。隕石生起の火球と思われるが、頻度が多いように思われる。やはり、正体不明としたほうが良いかもしれない。

1789(寛政元年)

1790(寛政二年)

1月23日、空に車輪之大サ程之光り物飛昇れり、諸人是を見受しか共何物タルヲ弁し者なし、此節狐諸方へ玉を落し置き拾し者もまゝあり、[寛政紀聞]かなり大きな火球。後半の狐の話はどのような現象か不明。

6月初メ、以之外火気烈しき光り物、田安ノ方へ飛来り、牛込御門之方へとび行キ、終に落たりしに、其所ハ大御番与頭何某之屋敷にて忽ちに火事となり、一軒焼ケにて鎮火せしが怪し共不思議ともいふ計りなし、[寛政紀聞]隕石か。

11月27日、夜大地震。[武江年表]

12月2日、3日夜、甘露降る。[武江年表]

1791(寛政三年)

2月上旬、元浜町にて狗の子角あるもの生まる。耳の上に指ほどの物ありしなり。公に訴へ出る。[武江年表]

8月6日、総州辺津波、関東大あらし、深川辺まで同じく津波にて余程の騒動、[寛政紀聞]津波とあるが高潮か高波と思われる。

1792(寛政四年)

6月18日亥刻、光り物西南より東北へ飛ぶ、大きさ笠の如し。[武江年表]前出の車輪の大きさのものと同程度と思われる。

1793(寛政五年)

正月、関東地震。[武江年表]

4月10日、浅草福井町壱丁目にて犬子四匹生る。内一匹四足は犬にて面は人に似たり。しやくまづして円く、鼻高く猿の面にも似たり。四ツ時すぎ名主浜弥次郎兵衛方へ町内より持行き、奉行所に訴へ出づ。即日御見聞之有りて、奉行所へ持参の事。母犬の乳を欲せず、他の食物落雁などにて養ひけるに、頓て斃れたりとか。[武江年表]

7月16日、白き毛降る。[武江年表]どんな現象か不明。

1794(寛政六年)

1795(寛政七年)

7月13日、星月を貫く。[武江年表]どんな現象か不明だが、木星食の記述から、これも星食の類だと思われる。

1796(寛政八年)

1797(寛政九年)

1798(寛政十年)

7月初メ頃、快霽うち続き残暑以之外烈しく、夜分ニ至り候得バ、火毬飛行致し、往来之人々多く見当り候、荻原鐐太郎殿も小石川にて見受られ、又々竜慶橋へ渡りかゝられ候節、横町より一ツ飛出し候由、此節自分庭前之将几ニ涼ミ居候所、隣家之境へ火玉落ち、見る間ニ消失せ申候、又去月23日夜、筑土下片町沢仁左衛門屋敷前、石橋向ニ当り、夜八ツ時頃、大提灯程之焔毬、地上四五丈許之所ニ一時計りも止マリ居り候由、此事聞伝へ、私宅より一見ニ右場所へ参り懸り候内ニ跡形なく消失せ申候、当時炎暑はげしき故、火気凝て致す処歟、[寛政紀聞]小隕石群の落下か。炎暑が激しくその熱が固まったという見解は面白い。

10月29日、初夜過ぐる頃より星多く飛んで、夜半ばかりに至りては、空の気色一面に雪の降るが如く見えし也。[武江年表]下の記述と合わせ大流星群の目撃談。

10月29日夜宵より快晴にて星多く相見得候所追々大小之星流れ行き、跡に光を長くひき、段々夜更九ツ時より四方より縦横ニ星流れ、光殊之外かがやき、一天あたかも帛之目の如し、誠に奇と為べき有状也、古書ニ天星而如織と有ハ如此事をいへる歟、[寛政紀聞]

11月3日、夜星の飛ぶ事前の如し。[武江年表]

1799(寛政十一年)

1800(寛政十二年)

1801(享和元年)

1802(享和二年)

1803(享和三年)

3月4日、暮六時過ぎ、大地震。[武江年表]

10月朔日、伊豆大島焼く。2日、江戸中灰降る。[武江年表]

1804(文化元年)

2月17日、昼四時頃、西南より東北へ白き籏雲出る。[武江年表]

1805(文化二年)

1806(文化三年)

1807(文化四年)

5月始めより、猫死する事夥し。[武江年表]猫の伝染病だが、どんな病気か不明。

8月、この頃西の方に箒星出る。[武江年表]

9月3日酉の刻、北東より南へ光り物飛ぶ。大サ毬の如く青みあり。[武江年表]プラズマ火球か。

1808(文化五年)

1809(文化六年)

1810(文化七年)

1811(文化八年)

1812(文化九年)

11月4日、昼八半時、大地震(所々土蔵毀れ、用水桶の水こぼるゝ程なり。品川神奈川辺分けて強く、家倒れ傾き怪我人多し)。[武江年表]天明の大地震から30年目。

1813(文化十年)

11月9日明六半時、東より西方へ大きさ二尺余りの光り物飛ぶ(武州生麦村の辺へ落ち、其の響雷の如く、大いなる野衾の如き獣にして肉翼ありしといへり)。[武江年表]落下物が有ることから隕石と思われるが、話では獣となっていることから正体不明。

1814(文化十一年)

1815(文化十二年)

1816(文化十三年)

1817(文化十四年)

11月22日、晴天未刻頃、江戸市中雷鳴の如き響して、光り物空中を飛ぶ(武州八王子横山宿の畑中へ落ちたり。長さ三尺、幅七尺、厚さ六寸程燻りたる石也)。[武江年表]隕石か。

1818(文政元年)

1819(文政二年)

1820(文政三年)

8月15日夜、月の内に木星入る。[武江年表]木星食。

9月28日夜、光り物飛ぶ。[武江年表]

1821(文政四年)

1822(文政五年)

正月21日辰中刻、日暈再び重なり、両傍に虹あり。巳刻に至りて消ゆる。閏正月21日、又同じ。[武江年表]稀な気象現象。

1823(文政六年)

10月8日夜、牛込辺大さ一間半程なる石零つ。昼雷鳴あり。夜に入り光り物通る。先年も王子辺へ石落ちたる事ありといふ。[武江年表]隕石と思われるが、昼の雷鳴と発光物体は関係あるのか不明。

12月2日より、卯辰の方に彗星現はる。[武江年表]東南東の方向。

1824(文政七年)

8月15日夜、雨中牛の如き怪獣二疋、北より南へ空中を飛行。光あり。[武江年表]雨の降っている夜、光を放つ牛のような形の物体が二つ空をよぎったという。怪獣としているが、正体不明。

1825(文政八年)

1826(文政九年)

春、度々地震。秋、又地震数度に及ぶ。[武江年表]

1827(文政十年)

1828(文政十一年)

1829(文政十二年)

1830(天保元年)

7月2日、京都大地震。[京都府の歴史]

1831(天保二年)

1832(天保三年)

1833(天保四年)

1834(天保五年)

1835(天保六年)

6月25日未刻、地震。[武江年表]

1836(天保七年)

2月9日巳刻、地震。[武江年表]

1837(天保八年)

1838(天保九年)

1839(天保十年)

1840(天保十一年)

1841(天保十二年)

1842(天保十三年)

1843(天保十四年)

1844(弘化元年)

1845(弘化二年)

1846(弘化三年)

1847(弘化四年)

3月24日、信州大地震、人多く死す。江戸も此の夜少しの地震あり(今年3月8日より、川中島善光寺如来の開帳ありて、諸国より参詣群集する事稲麻の如し。然るに浅間山の烟常よりも減りたるを怪しみ居たるに、3月24日昼夜快晴にてありしが、夜四時頃俄に大地震ひ出し、立所に家屋を覆し、圧に打たれて即死するもの幾千人といふ事を知らず。善光寺近辺の旅店は参詣の輩泊り合はして、この禍に逢ふもの有り。(略)又雷鳴の如き音ありて、尚ゆり出し、夜明に及ぶ迄八十余度、4月5月にいたりても猶止む事なし。大地は裂けて泥砂湧出し、其の間へ人家堕ち入り、丹波島より二里川上、虚空蔵山二十丁程崩れ犀川へ落ち入り、洪水溢れ、丹波川水押し出し、左右湖のごとし。)[武江年表]直下型大地震。

1848(嘉永元年)

1849(嘉永二年)

1850(嘉永三年)

1851(嘉永四年)

1852(嘉永五年)

1853(嘉永六年)

1854(安政元年)

1855(安政二年)

10月2日、細雨時々降る。夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふ事甚だしく、須臾にして大厦高牆を顛倒し、倉廩を破壊せしめ、剰その頽たる家々より火起り、熾に燃上りて黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却す。2日夜よりこのかた、地震屡ありて更に止む事なし。この度の地震、近郷は更なり。近国にも及べりとぞ。地震の前兆、色々の談あり。[武江年表]安政の大地震。文化の大地震から46年目。天明の大地震から76年目。関東地方(江戸)は、30〜80年に一度の割で大地震に見舞われている。関東大震災(1923)から80年以上過ぎているので、いつ東京に大地震が起きても可笑しく無い状況のようだ。

1856(安政三年)

春も少しき地震度々あり。[武江年表]

1857(安政四年)

1858(安政五年)

8月初旬より彗星、宵は乾の方、暁は艮の方に現はる事毎夜也。光芒北に靡きて甚だ長し。次第にちひさくなり、坤の方へより光芒南へ靡きけるが、9月中旬に至りて見えずなりぬ。[武江年表]彗星。乾は北西、艮は北東、坤は南西方向。

1859(安政六年)

1860(万延元年)

1861(文久元年)

2月16日、酉半刻地震。[武江年表]

5月22日夜より、亥の方に異星現はる。光芒竪に延びて長し(稲星といふ。其の後曇りて見えず。又28日夜現はる)。[武江年表]亥は西北西、安政五年の彗星か。

8月25日、夜子刻地震。[武江年表]

9月頃より街頭に犬多く死す。又馬の斃れたるも多し。この月、犬病流行、11月までに多く斃る。俗に犬のコロリといふ。[武江年表]犬の伝染病、馬にも感染するウィルス性の病気と思われる。

1862(文久二年)

1863(文久三年)

1864(元治元年)

5月3日、明六時過ぎ、地震強く長し。[武江年表]

1865(慶応元年)

1866(慶応二年)

1867(慶応三年)

1868(明治元年)

1869(明治二年)

 


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参考資料

『京都府の歴史』「歴史シリーズ26」 赤松俊秀・山本四郎編著 1985年2版11刷 324,98p

『元禄世間咄風聞集』 長谷川強校注 岩波文庫黄270-1 1994年発行 330,10p

『天明紀聞寛政紀聞』 「未刊随筆百種」第二巻 三田村鳶魚編 1976年発行 446p

『武江年表』1 斉藤月岑著 金子光晴校訂 東洋文庫117 平凡社 1978年10刷 237p

『武江年表』2 斉藤月岑著 金子光晴校訂 東洋文庫118 平凡社 1978年11刷 268,60p

 

(最終更新日/2006.8.3)