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国語の世界

このページは歴史用語以外で隆慶一郎が使用している言葉・国語を中心にまとめたものです。
また、隆慶一郎という人物の思想を表現していると思われる文章などを、ピックアップしてみました。
さらに、資料を渉猟するにあたって、目に付いた国語に関連する全般的記述を、逐次取り上げる予定です。 

かくれさと苦界行編

かくれさと苦界行

7p(新潮文庫版 以下同)

川祓(かわみそぎ)

作品では「六月晦日に行われる御祓で、江戸各所の神社が、神主と氏子それぞれで舟を仕立て、舟の中で神主が祝詞を誦し、形代を川へ流す神事。六月祓(ろくがつみそぎ)、夏越(なごし)ともいった」と有るが、「祓」は「はらい」あるいは「はらえ」と読み、「みそぎ」は「禊」が正しい。
「はらえ」は、災厄・汚穢・罪障などを解除するために行う神事。「みそぎ」は、身滌(みそそぎ)の約で、身に罪または穢れのある時、また、重い神事などに従う前に、川で身を洗い清めることと『広辞苑』にある。禊祓で「みそぎはらえ」と読み、大祓(おおはらえ)と同じ意味だとあって、「大祓」をみると、「古来、六月と十二月の晦日(つごもり)に、親王以下在京の百官を朱雀門の広場に会して、万民の罪穢を祓った神事。現今も宮中を初め全国各神社で行われる。」とあった。また、「祓禊」と書いて「ふっけい」と読み、「災厄を払う。みそぎ。の意で、三月上巳(最初の巳の日)の節に行う祭」と『漢和中辞典』にある。
「夏越」は、「名越」とも書き、「陰暦六月末日に行われる神事。おはらいの目的で、参詣人に茅輪(ちのわ)をくぐらせる。」と『新明解国語辞典』にあり、『広辞苑』では「夏越の祓(なごしのはらえ)の略で、毎年六月晦日に、各神社で行われる神事。参詣人に茅の輪をくぐらせて祓い浄める。邪神を和(なご)めるために行うから名づけられた。夏越(なごし)の御禊(みそぎ)。夏祓。みなづきのはらえ。輪越祭。」とある。
こうしてみると、祓も禊も同じように使われている。国語的には祓は「はらえ(い)」と読むのが正しいようだが、文学的には「祓」と書きことさら「みそぎ」と読ませる事もあり得る。但し、国語の試験などでは「祓」を「みそぎ」と読んだら間違いとされるので、注意。

9p

三千世界(さんぜんせかい)

仏教でいうところの三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)の事。須弥山を中心に、日・月・四天下・四王天・三十三天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天・梵世天などを含んだものを一世界とし、これを千倍した世界を小世界とし、それを千個合わせた世界を中世界、さらにそれが千個集まった世界を大世界としている。小・中・大と千が三つ重なるので三千大千世界という。一仏の強化する範囲で、その広さは四禅天と同じとされる。
このことから、荒漠たる全世界をいったり、世間をいう。
この三千世界を三界ともいうが、三界は一切衆生が生死輪廻する三種の世界、すなわち欲(俗)界・色界・無色界の三つの世界を一般にはいう。「女、三界に家無し」などと使われるが、この場合の三界は、三種の世界でも三千世界でも同じ意味合いで、「どこにも安住の地が無い」という意味合い。また、「子は三界の首かせ」のように過去・現在・未来の三世をいうこともある。

作品では、おしゃぶの言葉として「女性は三千世界の罪障を一身に背負っているというではありませんか」とあり、「全世界すべての罪障」というような意味合いで使っている。

24p

胡乱な者(うろんなもの)

『広辞苑』では、「いいかげんであること。確かでないこと」とあり、さらに「疑わしいこと。合点のいかぬこと」ともあり、胡乱者(うろんもの)として「うろんなもの」とあって、「怪しいもの」と説明している。

作品では後水尾院の茶会で、誠一郎に会った京都所司代牧野親成が「内心、胡乱の者として容貌を脳裏にきざみつけていた。」とまさに「怪しいもの」の意で使っている。

25p

震駭(しんがい)

「震」という文字からおおよその意味の察しはつく言葉だと思うが、「駭」は亥(かい)が音を表わし、「ガイ」「カイ」と読み、驚く、びっくりするという意と『漢和中辞典』にあり、震駭はその文字の意味の通り、「ふるえおどろくこと」「驚いて、震えあがる」意と『広辞苑』などには記されている。

作品では「師走もおしつまった頃、京都所司代から届いた早馬ほど、老中酒井忠清を震駭させたものはなかったと云っていい」と使われている。

36p

お引けすぎ(おひけすぎ)

「幽霊が出るなぁ、お引けすぎって、相場がきまってるんだッ」と幻斎に言わせている言葉。
「お引け」とは「引け四つ」のことで、世間一般では「九つ」時、午前〇時をいう。

作品では幻斎のセルフとして「幽霊が出るなぁ、お引けすぐって、相場がきまってるんだッ」とあり、「幽霊が出るのは、午前零時過ぎと、相場が決まっている」という意味。

41p

たっつけ袴(たっつけばかま)

裁着袴。ただ「裁(つ)着(け)」とも云う。裾をひもで括るようにした旅行用の袴。その袴の形は、相撲の呼び出しや土俵を掃除する人が今も着しているので、それを見ればすぐに知ることができる。またテレビドラマの『水戸黄門』で水戸光圀がはいている袴が裁着袴といえば、すぐに思い浮かべられるだろう。
この裁着袴は、ポルトガル人の着ていたズボンを参考にして作られたことから別名「カルサン」と呼ばれ「軽衫」の字が宛てられている。『広辞苑』には、「カルサン」で項目が立てられ、そこには「袴の一種。形は大体指貫(さしぬき)に似て、筒太く、裾口は狭い。」とあり、「中世末期には上層武士から庶人まで着用したが、江戸時代にはもっぱら旅装として、また動きの多い下人が着けた」とある。

作品では荒木又右衛門ことお館さまの格好を表現して「たっつけ袴に革草鞋、腰の双刀は二尺二寸の脇差に、三尺五寸の大太刀である」と書いている。

47p

甲斐犬(かいいぬ/かいけん)

日本犬の一種で、小型犬と中型犬の中間的な種とされる。南アルプス山地に残存していた種とされ、毛並みは虎毛で、その色合いによって白虎、黒虎、赤虎と呼ばれる。その純粋種は少なくなり、北海道犬、秋田犬、土佐犬、柴犬、紀州犬などとともに国の天然記念物に指定されている。
日本犬は、西洋犬に比べ人工的な手があまり加えられていないので、犬の原種に近い種として貴重な動物となっている。

作品では「忠清は去年から一匹の犬を可愛がっていた。甲斐犬である」とある。

67p

すけて(助けて)

「すける」(助ける)[他動詞下一段]および「すく」(助く)[他動詞下二段]の活用形。現在では「たすける」(助ける)という方が一般的で、「すける」「すく」は古語および方言として用いられている。

作品では「ただ女に不慣れなだけだ。その分、女がすけてやらなくてはいけない」とある。「その分、女がすけてやらなくてはいけない」とは「その分、女性が助けてやらなくてはいけない」という事。

73p

遣る瀬なさ(やるせなさ)

「遣る瀬なし」の口語形。苦しさ・悲しさを紛らすものが何も無く、どうしようもない気持。心の遣りどころがない。思いを晴らす方法がない。などの意に用いられる形容詞。日葡辞典には「ヤルセモナイ」と有る。
「遣る」は進ませる。行かせるなどの意で、「瀬」は「浅瀬」などの意から「場所・場」を云い、「立つ瀬が無い」などと使われる。「遣る瀬」で「行く場所」という意味。

作品の「おれんのはりあげる嬌声の遣る瀬なさは」は「おれんのはりあげる艶かしい胸を締め付けるばかりのどうしようもない声は」というような意味合い。
また、113pには「遥かに切なく遣る瀬なく騒ぐ」と誠一郎の思いをはらす術かない苦しい胸の内を記している。

75p

仁(じん)

ひと。人物の意。「この仁・この御仁」などと使う。
「仁」は孔子の教え(儒教)の理想とされ、博愛をその内容とし、一切の諸徳を統べる主要な徳を云い、天道が発現して仁となり、これを実践すると人事・万物すべて調和・発展すると説く。このことから、愛情を他に及ぼす事、いつくしみ、おもいやり、博愛、慈愛などの意となり、そこから人物をいうようになった。

作品では「艶書の代筆をなりわいとしている仁があります」と、単に「ひと・人物」を云っている。

恋文横丁(こいぶみよこちょう) 東京都渋谷区道玄坂

現在、「109」や「ザ・プライム」が建つ道玄坂と文化村通りの三角地帯辺りの裏通りの呼称。丹羽文雄氏の小説『恋文』や映画『恋文』(田中絹代監督)の舞台となり有名となり、つい最近までラーメン屋やギョーザの店などが立ち並ぶ小路として残っていたが、2006年1月、再開発でついに姿を消した。
「恋文横丁」の名の由来は、戦後、この辺りにマーケット「道玄坂百貨街」が造られ、そこで元陸軍将校だった菅谷氏が古着屋を営み、彼が英語・仏語に堪能だったことから、アメリカ兵相手の夜の女性たちがその噂を伝え聞いて、彼に代書を頼みに来たことから始り、菅谷氏は店の前に『手紙の店』という看板を出した。そして次々に英語・外国語の「ラブレター」を代書する店が軒を列ねるようになり、いつしかその裏通りは『恋文横丁』と呼ばれるようになったという。(asahi.com参考)

作品には「第二次大戦直後の渋谷にあった有名な恋文横丁の前身のようなものである」とある。

顴骨(かんこつ)

目の斜下にある突き出た骨。ほおぼね。(『新明解国語辞典』)

作品では「顴骨が張り、骨太で、機敏そうな四肢」と「艶書の代筆をなりわいとしている仁」を評した言葉として使われている。

113p

綺羅を飾り(きらをかざり)

「綺羅」は綾織の絹と薄絹の意で、美しい衣裳をいい、「綺羅を飾る」とは着飾るという意味。
ちなみに、現在、美しい星という意味で「綺羅星」と言い習わされているが、これは「綺羅、星のごとく」という成句を、その字面だけをみて意味を考えず、誤って使われた言葉。光り輝く星を言う時は「煌星」と書き、「きらほし」といった。「綺羅、星のごとく」とは、盛装した人々が、星のようにずらりと居並んだ様子をいい、「綺羅」は「棊羅」から来た言葉で、「棊羅」とは碁石のようにずらりと並んだ様子をいう。

作品には「女たちが安心して綺羅を飾り、男たちまでが気楽に伊達を競う姿は、それはそれなりに、いい眺めである」とある。

121p

鉄砲洲(てっぽうず) 東京都中央区湊、明石町辺

隅田川河口、江戸湊の入口にあった洲の名前。
「鉄砲洲」という地名の由来は、その洲が大筒(鉄砲)の形をしていたからとも、そこで幕府が鉄砲の試射を行ったからとも云われる。諸国の廻船がこの洲に碇泊し、はしけなどに荷を詰め替えて、江戸市中へと物資が運ばれることとなり、鉄砲洲は俄に活気をおびた町となった。寛永年間(1624〜43)には鉄砲洲の北側にはしけなどを通わせる掘割が掘削され、その長さが八町あったことから「八丁堀」と呼ばれ、その堀に面した地を「八丁堀」と称した。また、この洲の先は明暦大火後に埋め立てられ、土を盛って築いた地という意味で「築地」の地名が生まれた。

作品には『「築地だって」幻斎が訊く。「鉄砲洲です」 鉄砲洲には船着場があった』と書かれている。

123p

永尋ね(ながたずね)

逃亡した罪人を、日限を定めず捜索することで、江戸時代に行われた制。とはいえ、捜索は永久に行われる訳では無く、『広辞苑』によれば、六十年で時効としたとある。それでも、この「永尋」を申し渡されれば、科人の安否・所在が掴めなければ、子・孫の代まで探索行を行わなければならない年月だ。

作品には「新吉原の名主たちは、いずれも過料三貫文ずつの罰金と永尋ねをいい渡された」とある。

131p

惻隠の情(そくいんのじょう)

「惻隠」は「いたわしく思うこと」「あわれみ」と『広辞苑』に有り、「惻」も「隠」も傷む心の切なさを表わす詞。『新明解国語辞典』には「困っているのを見聞きして、かわいそうだと同情する」意と有る。

作品では「誠一郎にもどうしてこんな切ない感じになるのか分ってはいない。しいていえば惻隠の情とでもいうしかない」と使われている。

133p

没義道(もぎどう)

人情を全く無視して、あるいは理解しないで事を行う様子。『広辞苑』には「非道なこと。不人情なこと。情しらず」と有り、一説に「無義道」(むぎどう)の転訛ともいわれているとある。

作品では「女で商売をしているくせに、女を人と認めていない。こんな没義道な話はなかった」と使われている。

伊達巻(だてまき)

女性用の和服用品。女性が着崩れを防ぐ目的で帯の下に締める幅の狭い帯。素材は多く繻子・博多織が用いられる。

作品には「小太夫が伊達巻をといた。はらりと長襦袢を捨てた」と書かれている。

137p

遣らずの雨(やらずのあめ)

来客を帰さないためであるかのように、降ってくる雨。「遣る瀬ない」の項で述べたように「遣る」は「進ませる」「行かせる」などの意で、その否定形「遣らず」は「進ませない」「行かせない」などの意。 

作品には「遣らずの雨だ、と小太夫がひきとめるのを振り切って、川岸の路を急いだ」とある。

141p

千鈞の重み(せんきんのおもみ)

極めて重いという意味の成句。鈞は重さの単位で、一鈞は三十斤相当。斤は百六十匁相当で、約600グラム。単純計算すると一鈞は約18キログラムで、千鈞はおよそ18トンという事になる。もちろん日本語の熟語を構成する「千」や「万」は、具体的な量・数を云っている訳ではなく、多いという意味合いで使われる。千古、千秋、千客万来、千載一遇など。

作品の「その自然の太刀先に、千鈞の重みがあった」とは、物理的な重さでは無く、スピリチュアルな重みを云っている。

深沈(しんちん)

落ち着いていて、動じない様子。沈着な事。

作品にある「深沈とかすかに上下し」とは、義仙の構える剣先が落ち着いていて、かすかに上下している様をいう。

滋味掬す(じみきくす)

深い味わいを汲み取り、察する事。「滋味」はゆっくり味わうと分る深い味わいや心情をいい、「掬す」は水などを両手ですくい取る意で、事情などを汲み取って察する意味と『広辞苑」にある。

作品では「まさに滋味掬すべき構えだった」と、義仙の進化した刀の構えを評している。

152p

蚊帳(かや)

寝間に吊り下げて蚊を防ぐ、目の細かい網のおおい。「かちょう」とも読み、蚊屋とも書く。
筆者の子供の頃は、まだ一般的に使われていたように思うが、最近ではほとんど見られなくなった夏の家具。四角い箱型の網の天上になる部分の四隅の紐に、鈎となる短い棒状のものが附いていて、鈎を引っ掛ける輪が寝間となる部屋の四隅には吊るされていた。これを吊る時は、布団を先に敷き後から蚊屋を吊り、壁となる四方の網を蚊が入り込まないようにして広げる。入る時も蚊が入り込まないようにすばやく潜る。こうして窓や戸を開け放して寝ても、蚊に刺されることがなく、夏の夜を過ごせた。だが次第に、家庭用のクーラーなどの普及や、社会構造の変化、地域社会の崩壊、それによる人心の荒廃など様々な要因で、開放的な家屋構造が安全では無くなり密閉型の家屋が多くなることで、蚊帳を吊り窓や戸を開け放して寝ることも無くなった。

作品には「誠一郎は寝間の青い蚊帳の中にいた」とある。

155p

人外の化生(じんがいのけしょう)

人間の住む世界の外にいる化け物。化生とは仏教の詞で、母胎や卵から産まれるのではなく、自然に形となって現れる事をいい、仏・菩薩あるいはそれらの衆生をいう。ここから転じて、産まれるはずも無いものをいうようになり、化け物や物の怪を意味する詞ともなった。
隆慶一郎は、勝山を殺した義仙や裏柳生、駆落ちの女郎を輪姦した破落戸などを、人間に値しない男共で、獣と呼んでは獣に対して無礼だとし、これらの人非人を「人外の化生」と言い表わしている。そしてこれらの「人外の化生」を殺戮する自分(誠一郎)もまた「人外の化生」だと言わしめている。

作品には「人間と呼ぶに値しない男共である。獣と呼んでは獣に対して無礼だと思えるほどの、人外の化生だった」と使われている。

160p

道祖神(ふなどのかみ)

道祖神は一般的には「どうそじん」と読み、道路の悪霊を防ぎ行人を守護する神を云う。『広辞苑』には、「日本では、さいのかみ・さえのかみと習合されてきた。くなどのかみ。たむけのかみ。」とある。「さいのかみ」は「賽の神」、「さえのかみ」は「障の神」と書き、いづれも道祖神のことと有る。「くなどのかみ」は「久那斗神」あるいは「岐神」と書き「ふなどのかみ」を参照とあって、「ふなどのかみ」をみると「岐神」とあり、そこには「伊弉諾尊(いざなみのみこと)が黄泉国から逃避の後、禊祓の時に投げ捨てた杖から化生した神。聚落の入口などの分岐点に祀られたことから道路及び旅行の神とされた。くなどのかみ。ちまたのかみ。道祖神。」とある。「たむけのかみ」は「手向の神」と書き、「旅人が道中の安全を祈るために幣物を手向ける時などの神」。「ちまたのかみ」は「岐神」と書き、「ちまたを守って、邪霊の侵入を阻止する神。道祖神。さえのかみ」と有る。
いずれにしろ道祖神の成り立ちは古く、土着信仰の神に記紀などの神話神が結び付けられ、さらには大陸系の神が習合されたものと思われる。

作品には「この百大夫を大江匡房は、道祖神(岐神・塞の神)の一人だと云っている」とある。

コンセサマ

金勢神(こんせいじん)と呼ばれる神。『広辞苑』には、「金精神」とも書くとあり、「男根に似た自然石、または石製・木製の陽形を祀った神」とある。

作品では金勢明神として、「ドウキョウサマ(道鏡様)」とも呼ばれるとし、吉原の傾城屋の神棚に飾られたと書いている。

162p

田舎っぺの明治政府(いなかっぺのめいじせいふ)

薩長土肥の倒幕を行った下級藩士らが中心となった明治新政権の面々を称している。

作品には、「巨大な男根の大群は、田舎っぺの明治政府を嘲けるように、群集の笑いと喝采の中を悠々と流れていったという」とあり、男根をかたどった「コンセサマ」を淫らなものとして破棄を命じた新政府の野暮さ加減を江戸っ子の立場から述べた表現。

お茶を挽く(おちゃをひく)

芸娼妓が客がなくひまでいる意。これは「ひまな時には、葉茶を臼にかけて粉にする仕事をしたことからいう」と『広辞苑』にある。また、はやらない芸妓をいい、ただ「御茶挽」ともいう。

「お茶を挽きそうになった遊女が」と作品では使われている。

217p

瞋恚(しんい)

「しんに」とも読む。「自分の気持に反するものに対して激しく怒ること。怒り。」と『新明解国語辞典』にあり、『広辞苑』には、仏教用語で「三毒の一」とされ、「自分の心に違うものをいかりうらむこと」とある。

作品では「さながら鬼面だった。それも瞋恚の鬼面」と麻薬で人格を失った水野十郎左衛門のことを評している。

219p

丹田(たんでん)

人体の一部分の名称で、臍(へそ)の下一寸(三センチ)の部分。臍下(せいか)ともいい、元気・勇気の集まるところとされ、ここに力を入れると勇気と健康を得るといわれる。

作品には「誠一郎は徐々に気を丹田に集めていった」とあり、誠一郎がここに気を集め、それを一気に放射し水野十郎左衛門をはねとばした。

220p

天稟(てんぴん)

生まれつきの才能・性質。禀は受けるという意味で、天から授かったという意で、天性、天資と同じ意味。

誠一郎の刀術のことをいい、作品では「誠一郎の天稟はこの六年の間、ほとんど無意識の裡に、その型を通じて真の無刀取りの姿を模索し続けていたと云えよう」と書いている。

281p

莫逆の友(ばくぎゃくのとも)

極めて親密な友、親友の意。莫逆は心に逆らうことの無(莫)いという意で、「ばくげき」とも読み、『広辞苑』には「意気投合して極めて親密な間柄」とある。 

作品では「気心のしれあった莫逆の友のように思えた」と、誠一郎の荒木又右衛門への思いを書いている。

282p

相対死(あいたいじに)

心中のこと。江戸幕府は心中の語を禁じた。(『広辞苑』第二版)とあり、他人を交えず当事者だけで事を行うこと。双方納得すること。などの意味を持つ「相対」という文字を用いて、心中を言い表すことになった。

作品では「相対死の快感は正しくそこにあるのではないか。その予感だけでお小夜痺れた」とある。

288p

女衒中継(ぜげんなかつぎ)

「女衒」は「江戸時代に、女を遊女に売ることを営業とした人」(『広辞苑」第二版)とあり、「中継」は「双方の間に立って事を取り次ぐこと。また、そのもの」(同)とある。「女衒中継」は、娘の養育者(親など)と、遊女になる娘を求める傾城屋との間に入り、話をまとめる者をいった。

作品には「秘かに協力してくれた三人の女衒中継は、次々に不審な、しかみ無残な死をとげている」などとある。

353p

地摺りの青眼に構えた

『歴史用語の基礎知識』「武将・武家・兵の部」武術の項で述べているように、「地摺青眼」とは青眼に構え、相手をじりじりと地摺させて後退させることをいい、「地摺青眼」の構えというものは無いという。師も筆者と同じく切っ先を低く構えることを「地摺りの青眼」と思っていたようだ。

作品でも「その一刀をやや斜めに、地摺りの青眼に構えた。切先が舟板に触れるほど低い」とあることからもそれが窺われる。これは構えでいえば「下段の構え」で、作品でも次に「義仙も寸伸びの小太刀を抜いた。同じく下段」とあり、「地摺りの青眼の構え」と「下段の構え」は同じものと捉えていたように思われる。

龕灯(がんどう)

強盗提燈(がんどうちょうちん)のこと。銅またはブリキで釣鐘形の外枠を作り、内に蝋燭立てが自由に回転するように作った提燈で、先方だけを照らし、自分の方へ光のささぬ装置のもの。遮眼燈。(『広辞苑』第二版)銅板又は鉄葉などの釣鐘形の外郭内に、蝋燭立の縦横上下に回転するやうつくりたる提燈、先方をのみ照らして我方へ光のささざる装置のもの。龕燈提灯。(『廣辭林』新訂版)

作品には「幻斎の指図で首代たちがいくつかの龕灯を点し、胴の間の上の甲板が仄明るくなった」とある。

362p

玻璃(はり)

梵語(sphatika)から来た言葉で、水晶。ガラスの古称。(『広辞苑」第二版)七宝の一、即ち水晶。転じて硝子。(『廣辭林』新訂版)

作品には「人の生がすべて哀切に彩られ、玻璃の彼方に見えるような、あの感覚である」とある。この「玻璃の彼方」というのは、ガラスを通してみた景色をいう。


影武者徳川家康編

影武者徳川家康【上巻】

16p

指呼の間(しこのかん)

指指して呼べば答えるほどの近い距離。(『広辞苑』第二版)

作品では「正しく今、天下は指呼の間にある」と、関ヶ原に望む家康の立場を表現する文に使われている。

19p

現実主義(げんじつしゅぎ)

リアリズム(realism)。一般に現実的なものを重視する態度で、主義や理想に拘泥せず現実の事態に即して事を処理する態度をいう。この事から目前の既成事実に屈服する態度や日和見主義と同じ意味になる場合がある。これに対するのが理想主義(idealism)だが、現実主義をいう場合、空想や夢想におちいらず現実のきびしさを十分に知って事に処する態度をいう場合があり、この時には必ずしも理想主義と矛盾はしない。
また、夢や空想の世界にあこがれ、現実を逃避し、あまい情緒や感傷を好む傾向はロマン主義(romanticism)と言われ、現実主義者(リアリスト)の対語としてロマンチストがあるが、本来の浪漫主義は、古典主義、啓蒙主義、合理主義に反抗して、19世紀初めに起った文学・芸術上の思潮・運動で、感情・空想・主観・個性・形式の自由を重んじた態度をいう。

作品では現実主義者(リアリスト)として用いられている。「だが左近は同時に徹底した現実主義者だった。すぐれた『いくさ人』の条件である。醒めた眼で敵と味方の力を見きわめる能力なくして、どうして合戦に勝つことが出来ようか。その現実主義者島左近は、この戦いを三成の負けと見た」と、優れたいくさ人の条件が現実主義であることを述べるとともに、島左近がその現実主義者であったと書く。

高潔という言葉と武将という言葉は、本来一つになる筈のない観念

高潔とは高尚(学問・学識の程度が高く上品なこと)で潔白(何の罪科も無い真っ白な身)であることだが、武将は戦いにおいて人を傷つけ殺し、あるいは詭計を弄することを旨とする者で、二つの観念は相容れない事を言っている。

作品で「石田三成は高潔な武将といわれる」という通説を挙げ、ここで隆慶一郎は「高潔な武将」という言葉は矛盾した言葉だといっている。そして「武将という言葉を、政治家と置き換えてみれば、現代人にもその矛盾は判る筈である。高潔な政治家。現代人は笑うだろう。同じ意味で、高潔な武将という言葉も笑われていい」と述べる。

22p

金扇の大馬印(きんせんのおおうまじるし)

大きな金色の扇を掲げた馬印。馬印(馬慓・馬験とも書く)とは、戦陣で大将の馬側に立ててその所在を示す目標としたもの。天正の頃にはじまる。(『広辞苑』第二版)昔時の武具の一、大将の馬の側にたてて、軍中の目じるしとしたるもの、戦国時代の末に始まれりといふ。(『廣辭林』新訂版)この馬印を持って、大将に従う者を「馬印持」といった。

厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)

厭離穢土とは、仏教用語で、この世をけがれた世界として厭い離れるという意味。厭離は「えんり」とも読む。徒然草に「六塵の楽欲多しといへども皆厭離穢土しつべし」とある。また、欣求浄土とは心から喜んで浄土に往生することを願い求めることとされる。太平記に「厭離穢土の心は日々にすすみ、欣求浄土の念時々にまさりければ」とある。(『広辞苑』第二版)

大旆(たいはい)

中国で、天子または将軍が用い、多くは日月と昇竜・降竜などを描いた大きな旗をいう。これが我が国に伝わり、家康はこの大きな旗に「厭離穢土欣求浄土」の八文字を書いていた。ちなみに武田信玄は「風林火山」の四文字、上杉謙信は毘沙門天の「毘」の一文字を用いた。

関ヶ原の桃配山に陣した徳川家康の許には、上記の大馬印と大佩が悠然と翻っていた。

大名題(おおなだい)

元は、歌舞伎狂言が一日一本の興行であった時代に用いた標題をいい、その標題を記して劇場正面に立てる大看板をいった。それが転じ、歌舞伎役者の中の幹部役者をいうようになる。(『広辞苑』第二版)或興行の狂言総体に通じたる標題。又、其標題を表示したる看板。(『廣辭林』新訂版)

作品では「桃配山に山頂に、金扇の大馬印と、『厭離穢土欣求浄土』の八文字を大書した大旆を押したて、悠然と床几に腰をおろした家康は、まさに大名題の歌舞伎役者さながらだった」と書かれている。 

30p 316p

惻々(そくそく)

いたましいさま。哀しみいたむさま。(『広辞苑』第二版)心のかなしみいたむさま。(『廣辭林』新訂版)あわれみいたむさま。哀しみいたむさま。(『角川緩和中辞典』)とあり、同じ意味の言葉に惻然(そくぜん)がある。杜甫の「夢李白詩」に「生別常惻々」とある。

作品では「省けば史書としての資格を失う。これは読みようによっては、そうした史家の悩みが惻々として伝わって来る記述なのではないか」と、『徳川実紀』に書かれた関ヶ原で野々村四郎右衛門が家康の馬に乗りかけたエピソードを紹介する文の結びに書いている。

32p

金瘡膏(きんそうこう)

金槍(きんそう)とは、刀・槍などの金属製の武器で受けた傷。切り傷。と『広辞苑』(第二版)にはあり、膏は、いうまでもなく膏薬のこと。膏薬というのは、膏(あぶら、主に動物から取ったあぶらのこと)で練った外用薬剤のことで、金瘡膏とは、刀槍などの傷を治すための塗り薬をいう。

作品では、「金瘡膏を塗り込め、手拭いを裂いて緊縛し血止めをした」と、家康の暗殺に成功した甲斐の六郎が、二郎三郎に受けた刀傷や銃瘡を戦陣の中で手当する模様を書いている。

34p

鬣(たてがみ)

馬のうなじの毛、つまり「たてがみ」のことで、広辞苑(第二版)には「馬・獅子などの項(うなじ)から肩の近くまで生えている長い毛。たちがみ。うながみ。」とある。

たてがみとはよく使う言葉だが、このように漢字で書くことは少なく、書けといわれてもにわかに書ける文字ではない。鬣の音読みは「リョウ」で、カミガシラの下の部分が音を表す。 

茶ちりめんのほうろく頭巾(ちゃちりめんのほうろくずきん)

茶ちりめんとは、茶色の縮緬のことで、縮緬は絹織物の一種。縮緬は、広辞苑に「経(たて)糸に撚(より)のない生糸、緯(よこ)糸に強撚の生糸を用いて平織に製織した後に、ソーダを混ぜた石鹸液で数時間煮沸して細かく縮ませ、水洗して糊気を去り乾燥させて仕上げたもの」とある。ほうろく頭巾は、焙烙頭巾と書き、「焙烙の形をした頭巾。僧侶・老人が用いる。」とあり、法楽頭巾、法禄頭巾とも書き、大黒頭巾ともいう。焙烙とは平たい土鍋をいう。

茶色の縮緬織でできた平たい土鍋型のかぶり物(頭巾)。

39p

ここを詮度と(ここをせんどと)

一般には、「ここを先途と戦う」と辞書にあるように、「詮度」と書かず「先途」の文字が使われる。これは、太田牛一の書いた原文に「詮度」とあったことから、そのまま使ったものと思われる。但し、その原資料は確認していない。
意味は、「成敗又は勝負の決する大事の場合」(『廣辭林』新訂版)、「勝負または成敗の決する大事の場合。せとぎわ。せど。わけめ」(『広辞苑』第二版)などとある。

阿修羅(あしゅら)

梵語(asura)で、元は古代インドの神の一族をいい、天上の神々の敵とみなされた。後、仏教において仏法の守護神となるが、バラモン教では悪神として絶えず闘争を好むとされ、善悪両方の性格を持つ。地下または海底の宮殿(阿修羅宮)に住むとされる。略して修羅ともいう。
仏教の輪廻転生を説く六道に、天道・人道・阿修羅道・地獄道・餓鬼道・畜生道があり、「阿修羅道」は三番目に位置づけられている。
関連語として「修羅場」(しゅらば・しゅらじょう)がある。云うまでもなく、阿修羅場のことで、阿修羅王が帝釈天と戦う場所をいう。ここから転じて、戦乱または闘争の激しい悲惨な場所を云うようになった。

作品では「まさに阿修羅の猛進である。田中吉政はこの左近の隊に『死兵』を見たという」と、関ヶ原における島左近の凄まじい戦いぶりを描き、ここでの阿修羅は、戦いの権化と化した鬼神という意味で使っている。

40p

摩利支天(まりしてん)

梵語(marici)で、訳は陽焔。常にその形を隠し、障難を除き、利益を与える天部。時に菩薩と称す。もとの成立は日光を神格化したもので、また風神でもあるとされ、日本では武士の守り本尊とされる。護身・随身・遠行・得財・勝利などを祈る。二譬・三面四譬・猪に乗るものなどの女神像がある。(『広辞苑』第二版)

作品では、「甲斐の六郎はあべこべにその声を摩利支天のもののように聞いた」とあって、島左近の戦場での雄叫びが敵には死神のように聞こえ、味方の六郎には正反対の神の声に聞こえたという意味合いで使われている。

42p

国友鍛冶(くにともかじ)

近江国坂田郡国友村の鍛冶。この国友村には多くの鍛冶が定住し、刀などを作り京師などへ供給していた。この鍛冶集落に石田三成が鉄砲の製造を依頼。後には鉄砲鍛冶の集落となり、江戸後期には国友藤兵衛(一貫斎)という発明家としても名高い鉄砲鍛冶を生んだ。

さらに作品本文124pには「後に鉄砲製造の中心地となった近江の国友村(現在の長浜市)も堺からその技術を伝えられたのである」とあり、鉄砲鍛冶の技術が泉州堺から伝えられたことが記されている。

46p

他人事(ひとごと)

もとは人事と書いたが、近年に人事(じんじ)と区別するために「ひと」に「他人」の字を当てたもので、読みは「ひとごと」が正しい。作品では「ひとごと」とルビがあるので間違わないが、最近、TVなどのアナウンサーまでもが「たにんごと」と言っているのを耳にする。意味は、「自分以外の人の事」で解説など必要のない言葉だが、あえてここに取り上げてみた。

135p

ヤトの神(やとのかみ)

古来、自然の力を怖れ、その中に神の力を見て、何々神と名づけたものが我が国には多くあり、この「ヤトの神」もそうした神々の一人。耕作地の端境で人に噛みつくことで怖れられた蛇と同一視される神で、農耕の邪魔をするとされる神。『常陸風土記』行方郡の項などに現れる。「ヤト」の語源は不明。『広辞苑』第二版に「やと」は「谷」のことでアイヌ語源で「やつ」「やの」からきているとある。作品に、「例えば谷というようなもともと自然に出来た『境』があって、後からそこを人間が国境にしたものだ」と「境」を説明し、「自然の『境』はヤトの神の土地であり、人が犯せばヤト神は荒れ狂い、たたりをするという呪術的な意味のある場所だった」と述べていることから、「ヤト」は「谷」のことであるとすれば、「ヤトの神」とは「谷の神」となり、理解しやすい。また、「ヤトの神」が「蛇」に措定されるのは、蛇が谷間に多く生息するためだろう。
スサノオが退治したという「八俣大蛇」も、『古事記』に「その長は谿八谷峡八尾に渡りて」(八つの谷と八つの丘にまたがっていて)とあり、その大蛇が国つ神を苦しめていた。この「国つ神」は、農耕民をいうのだろう。このため、スサノオは「ヤマタノオロチ」を退治するのだが、この話は、幾重に重なる谷や丘の開発の困難さをいっているもので、スサノオ(大和政権の人間)が「ヤトの神」である「ヤマタノオロチ」(原生林やそこに暮らす原住民)を平定して出雲国の国つ神(土着の人々)に「農耕」ができるように開発したと解釈できる。

144p

唐変木(とうへんぼく)

気のきかぬ人物、へんくつな人物などを罵り嘲る語。わからずや。まぬけ。(『広辞苑』第二版)気の利かぬもの。感じのにぶきもの。(『廣辭林』新訂版)俗語で、いくらわけを話しても分らない人や、わざと分らないふりをして通す人。(『新明解国語辞典』)などとある。『風来六部集』に「悪くぬかす唐変木は、どいつでも相手に鳴る」と使われている。
一昔前までは、日常会話の罵詈などで良く耳にしたが、最近ではあまり聞かなくなったので、ここに取り上げてみた。作品では「(本多)弥八郎は頭は切れるが唐変木である。」とある。 

174p

推参(すいさん)

1、自分の方からおしかけて訪問すること。また、突然に人を訪問することを謙遜していう語。2、さしでがましいこと。無礼なふるまい。などをいう。『太平記』一六に「いかなる推参の莫迦者にてかありけん」とある。(『広辞苑』第二版) 1、推(お)して参(まい)ること。われより訪(と)ふこと。2、無礼なるふるまひ。ぶしつけなるおこなひ。「推参さり下郎」などと使われる。(『廣辭林』新訂版)

作品では「二郎三郎の眼前には、今も信長の眼があった。あの切れ長の刺し透すような眼が、常にあった。「推参なり!」その眼がそういっているように、二郎三郎には思える」また少し後には「一介の地虫が、天馬を翔ける英雄に噛みつこうなどと、推参のきわみである」とあり、ここでは両方とも、2の意味で使われている。

推参者(すいさんもの)

無礼者。ですぎもの。(『広辞苑』第二版)ですぎもの。ぶれいもの。ぶしつけもの。(『廣辭林』新訂版)

187p

臆面(おくめん)

臆する面(顔)という意味で、気おくれした顔色・様子。(『広辞苑』第二版)気おくれしたる容貌。(『廣辭林』新訂版)
多くは「臆面が無い」「臆面も無く」などと否定形で使われる。中でも「臆面も無く」は、「ずうずうしい」という意味で否定的に使われる。

作品では、「(二郎三郎の)生来の臆面のなさが、外国語習得には有利に働いた」とあり、「ずうずうしさ」という意味合いだが、本来の「気後れする様子のなさ」といった肯定的な意味合いの方が強い。

188p

直情径行(ちょくじょうけいこう)

『礼記』「檀弓」の項にある成句。自分の思うとおりを直ちにおこなって礼法や相手のおもわくをかえりみないこと。(『広辞苑』第二版)心のままをかざらずつつまず、直ちにこれを言動にあらはすこと。つつみかくしなきおこなひ。(『廣辭林』新訂版)と有り、『広辞苑』ではやや否定的な概念に、『廣辭林』では、肯定的概念になっている。

作品では「忠勝は嘘のいえぬ直情径行の武将である。その点が、同じ一族の本多弥八郎とは、根底的に違っている」と有って、『廣辭林』の肯定的な概念の意味合いで使っている。

189p

宣撫(せんぶ)

上意を伝えて民を安んずること。また、占領地区の住民に自国の本意を理解させて人心を安定させること。(『広辞苑』第二版)占領地の人民に本国政府の方針を知らせ、人心を安定させること。(『新明解国語辞典』第三版)とあり、『廣辭林』新訂版(昭和九年新訂105版)には掲載されていない事から、昭和初期頃まではまだ使われていなかった言葉かもしれない。成句として「宣撫工作」「宣撫班」などと記載されている事から、昭和の初頭から日本の軍国主義者が半島、大陸に侵略を行うに伴い、軍事的な文書において使われ、一般化した言葉ではないかと推定してはいけないだろうか。

作品では「十六日の終日にわたる行軍の中で、家康=二郎三郎のしたことは、関ヶ原とその周辺、特に中山道、東海道沿いの村々に対する宣撫工作だけである」と、関ヶ原合戦後の徳川軍の行った政策を書いている。もちろん、この当時は「宣撫工作」という言葉はなかった。

234p

股肱の臣(ここうのしん)

股肱は文字のごとく「もも」と「ひじ」の意で、『広辞苑』(第二版)には「手足となって働く。君主が最もたよりとすべき家臣」とある。太平記十六に「我を以て元首の将として、汝を以て股肱の臣たらしむ」とある。

作品では、「伊奈家は(略)徳川家にとっては股肱の臣といっていい」とある。

235p

放恣(ほうし)

放肆。わがままでしまりのないこと。(『広辞苑』第二版)ほしいまま。きまま。(『曠辭林』新訂版)

作品では「(二郎三郎の愛撫に、お梶の方は)何の罪の意識もなく放恣に声まであげている」と使われている。

246p

かいなで

掻撫(カキナデの音便)。物の表面を撫でただけで、その真相を知らぬこと。とおりいっぺんなこと。平凡。(『広辞苑』第二版)皮相(ウヘカハ)を撫でたるばかりにて、其真相(オクギ)に至らぬこと。(『曠辭林』新訂版)源氏物語(末摘花)に「かうやうのかいなでにだにあらましかばと」とある。

作品では、「(武蔵屋伊兵衛の呉服屋を)かいなでの呉服屋ではなかった」と書いている。

252p

走馬燈(そうまとう)

回燈籠(まわりどうろう)と同じ。舞燈籠。影燈籠。内外二重に作った燈籠の内枠に種々の切抜きの絵を貼り、中央に輪を立てて上部に風車を設け、燈火の熱による上昇気流を風車が受けて内枠が回転し、貼ってある絵の影が回りながら外枠に映って見えるもの。(『広辞苑』第二版)
昔は夏祭りなどの縁日でも色とりどりの美しい回燈籠が売られていたが、最近ではあまり見かけなくなった。走馬燈は、回燈籠の一種で、内側の絵に馬の絵が書かれ、影が馬の走る姿に映ったことから名付けられた。作品では、「そんな主従のやりとりが、今、左近の脳裏を走馬燈のようにかけめぐっている」と、主君石田三成の市中引き回しを見届ける島左近の心情を書いている。

255p

従容(しょうよう)

ゆったりとしてせまらぬさま。おちついたさま。「従容として死に就く」などと用いられる。(『広辞苑』第二版)挙動のゆったりとして迫らざるさま。おちつきたるさま。(『曠辭林』新訂版)

作品では「従容として辞世の歌を詠むなどという行為には、無縁だった」と石田三成が斬首に臨んだ時の様子を書いている。

土壇場(どたんば)

斬罪の刑場。しおきば。(『広辞苑』第二版)くびきりば。(『曠辭林』新訂版)
現在では、ここから転じた意味で、せっぱつまった場合。進退きわまった場合などを表す意味に使われる。作品では「土壇場に据えられた三成には、辞世はなかった」と本来の辞儀で使われている。

遊行上人(ゆぎょうしょうにん)

時宗の総本山遊行寺の歴代住職の称。(『広辞苑』第二版)

十念(じゅうねん)

浄土宗で、僧が南無阿弥陀仏の名号を授けて、仏に縁を結ばせること。(『広辞苑』第二版)南無阿弥陀仏の名号を十回唱える「十念称名」の略。
「遊行上人の十念」とは、刑場に立ち会う僧が、罪人が仏に導かれ往生するように南無阿弥陀仏の名号を唱えること。作品では「(三成は)遊行上人が十念を授けようとしたのさえ、拒否している」と書く。

264p

苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)

税金などをむごくきびしくとりたてること。中国の旧唐書穆宗記「苛斂剥2下人1」と五代史袁象先伝「誅2求其民1、積レ貨千万」からきた言葉。(『広辞苑』第二版)

作品には「苛斂誅求によって、むやみに租税をとりたて、住民を人夫に狩り出してこき使うのはたやすいが、そんなことをしては国が破れるのは自明の理である」とある。

268p

ふくべ

瓢。「ひょうたん」の事をいう。中をくり抜き、種子や果肉を取出し乾燥させ、酒などの容器に用いた。小さいものは七味入れなどにも用いられる。また、果肉は細長く削ぎ、天火で乾燥させ、再び水で戻して食材とした。干瓢(かんぴょう)。

作品では「六郎が腰に下げたふくべを渡した。中身は酒だった」とある。

282p

たつき

『広辞苑』(第二版)によれば、(一)として、「たより、よるべ」を上げ、(二)に、「手段、てだて、たずき」とあり、(三)に、「生活の手段。生計」を上げている。これを見ると、(二)の手段、てだてという意味から、生活の手段、生計を言うようになったようだ。
また、『大言海』によれば、「たづき 方便 [手着の義と云ふ]便りて寄附くべきすぢ。たより。よるべ。よすが。たづか。たどき。てづる。よきついで。便宜」とあって、万葉集などの用法を紹介している。それによれば、たづきは、鶴寸、多抒(正しくは木篇)伎、多頭吉、田付、他都枳などとあり、『広辞苑』の(一)(二)にある意味合いで、古来から和語としてあった言葉「たづき」か本来の発音で、それが「たつき」に変化した。

作品では、「(原田市郎兵衛は)せいぜい力仕事ぐらいしか、たつきの術はないのだが、やがてそれも倦きた。何よりも人夫たちのざらざらした荒びた心が、耐えがたい苦痛を与えるのである」とある。

292p

有為転変(ういてんぺん)

[仏]この世は因縁によって仮に出来ているから、移り変ってしばらくも一定の状態にないこと。世事の移りやすいこと。(『広辞苑』第二版)
【仏】浮世の物事は、うつりかはりて須臾(しばらく)も定住せざること。(『廣辭林』新訂版)
有為(うい)[梵語samskrta]さまざまの因縁によって生じた現象、また、その存在。絶えず生滅して無常なことを特色とする。反対語は「無為」。(『広辞苑』第二版)
【仏】因縁所の生滅無常なる現象。三界輪廻の境界。(『廣辭林』新訂版)
[関連成句]
有為の奥山(ういのおくやま) 無常な世を脱することのむずかしさを深山にたとえていう語。「いろはうた」にある。

作品では、「(淀君ら浅井三姉妹を評して)戦国の有為転変を幼時から味わったことがいやでも彼女たちを強い女に形成したのかもしれない」と書いている。

318p

アマルガム法 『捨て童子松平忠輝』上巻54pの「水銀流し法」を参照。


343p

胴田貫(どうたぬき) 日本刀の名。

作品では「例えば胴田貫のような刀が新しい流行になりはじめたのである」とある。

356p

輪中(わじゅう)

江戸時代、水災を防ぐため一個もしくは数個の村落が堤防で囲まれ、水防協同体を形成したもの。岐阜県南部の木曽・長良・揖斐三川の下流平野に形成されたものは有名。(『広辞苑』第二版)
一向一揆の拠点だった伊勢長島は、揖斐・長良川河口に点在する中州に造られた村落共同体で、願証寺を中心に寺内町を形成し、領主の支配を受けない、いわゆる「無主」の自治領だった。この村落自治形態が、江戸時代には水防の共同体となった。

作品には、「京都で、越前の吉崎御坊で、伊勢長島の輪中で、石山本願寺で…。」とある。

往時茫々(おうじぼうぼう)

「往時」は、過ぎ去った時をいい、「茫々」とは『広辞苑』(第二版)には(一)ひろくはるかなさま。(二)とりとめのないさま。などとある。「往時茫々」で、「過ぎ去った過去を、とりとめもなく思い出す」の意。

作品では、「二人は黙々と、まるで水のように酒をのんだ。往時茫々。過ぎ去った日々が、まるで走馬燈のように二人の脳裏をかすめ、哀切の思いが、二人の胸を満たした」と、世良田j二郎三郎と本多正信の対面を描いている。

446p

閑雅(かんが)

(一)しとやかにみやびやかなこと。(二)閑静で雅致あること。(『広辞苑』第二版)
しとやかに、みやびなること。落ちつきて、趣きあること。(『大言海』)又、閑雅は「みやび、みやびかに、みやびやかに」などの訓読みがあり、「風流なること。上品なること。みやびたること。風雅。優美」な様をいう。

作品では「広場の近くにある山小屋に案内され、これが外から見るとひどく汚い、軒さえ傾きかけたあばら屋なのに、入ってみると、閑雅な茶室風の建物で、そこでまず濃茶をすすめられ、恐ろしく上質な煙草をすすめられる始末である」と、箱根山中で捕らえられた島左近らに対する風魔の対応を述べた一節に、閑雅が使われている。

469p

向背(こうはい)

(一)従うとそむくと。(二)ようす。なりゆき。(『広辞苑』第二版)
嚮背。したがひつくことと、そむくことと。「嚮背つね無し」(二)おもてと、うらと。ひなたと、かげと。朗詠集、下、山水「山成2向背1斜陽裏、水似2廻流1迅瀬閑」(『大言海』)

化生の者(けしょうのもの)

へんげ。ばけもの。 謡、河水「いかさま汝は化生の者か」(『広辞苑』第二版)
化生 形を化へて、あらわるること。ばけもの。変化。妖怪。(『大言海』)

作品では「味方とはいえ忍びは向背常ならざる化生の者たちである。彼等に、風魔小太郎や島左近と二郎三郎の対面をしらせるわけにはゆかなかった」と忍びを評する言葉として使っている。

『捨て童子松平忠輝』編

捨て童子松平忠輝【上巻】

上巻7p

異形の者(いぎょうのもの)

異形とは、普通とはちがった形。あやしい姿をいうと『広辞苑』(第二版)にあり、よのつねにかわりたりさま。あやしむべき風姿と『廣辭林』にある。隆慶一郎は「捨て童子」という言葉にその「異形の者」のイメージがあり、そうした者として、伊吹童子、役行者、武蔵坊弁慶らを挙げている。そしてまた、松平忠輝についても「色きはめて黒く、眥さかさまに避けて恐ろしげ」に生まれ「両腕自然に三鱗あり」とその異形な姿を認め、「捨て童子」という形容を与えた。そしてまた、「鬼っ子」と蔑まれるとともに、恐れられたのが忠輝だったのだ。

上巻11p

英邁型(えいまいがた)と恪勤型(かつきんがた)

英邁とは、才知がぬきんですぐれていること、恪勤とはつつしみはげむことと『広辞苑』(第二版)にある。家康の十一人の男子で早世した二人を除く九人のうち長男信康、次男結城秀康、六男松平忠輝、十男頼宣の四人を英邁型の人物に、秀忠以下他の五人を恪勤型に分類した中村孝也氏の説を紹介している。また、これを隆慶一郎は「英雄型」と「役人型」、「破滅型」と「堅実型」に言い換えることも出来ると書いている。

上巻12p

鋳物師(いもじ)

「いものし」の約。鋳物職人。(『広辞苑』第二版)「いものし」の雅語的表現。(『新明解国語辞典』)と辞書の説明は素っ気ないが、その技を持って朝廷に仕えた職能民で、天皇以外「主ヲモタジ」とする自由の民、「道々の輩」の一職種であった。こうした技術は大陸・半島からもたらされ、大和政権の庇護のもと、鉱山資源の発見や発掘などで諸国を経巡る鉱山師とともに行動を共にしていた。また、採掘場などの山奥では彼等がたたらを踏んで風を送りながら炉を操作し金属を溶かす姿が、農業を生業とする里人たちには異様なものと写り、真っ赤な炎の照り返しを受け、ドロドロに溶けた銅や鉄を鋳型に移すなど、上半身裸で作業する筋骨逞しい彼等を畏怖したが、こうした光景をかいま見た村人が里に帰って伝えるうちに誇張や歪曲が加えられたことは容易に想像できる。こうして、後に地獄の情景や鬼の姿を顕す心象となったと谷川健一氏は『日本の神々』の中で述べている。
鋳物とは、炉で溶かした青銅や鉄・錫などの金属を鋳型に流し込んで器物などを作ること、およびそうして作られた器物をいう。ちなみに、銑鉄を溶かす炉をキューポラ(溶銑炉)といい、映画「キューポラのある町」(吉永小百合主演)は当時鋳物の町として知られた川口(埼玉県川口市)を舞台とした青春映画。

据物斬り(すえものぎり)

据物切り。据物とは、土壇などに罪人の屍などをおいて刀剣の切れ味を試すこと、またその死体をいうと『広辞苑』(第二版)にある。また「試し胴」ともいう。
この「据物斬り」で、屍一体を切る場合は「一つ胴」、二体重ねて斬るのを「二つ胴」、三体重ねると「三つ胴」と称した。柴田錬三郎は『首切り浅右衛門』の中で、江戸期、この据物斬りの達人として山野加右衛門と山田浅右衛門の名を挙げている。山野加右衛門とは寛文から元禄期の達人で、虚徹の贋物を作ってそれで試し胴を行い、大名や旗本らに高く売って多額の利益を得ていた悪人で、氏素性の知れぬ人物であったという。

上巻18p

閨房術(けいぼうじゅつ)

閨房とは「ねや」「寝室」のことで、閠門ともいい「家内に於ける男女の風儀」と『廣辭林』にある。「男女の風儀」と辞書では奥ゆかしい表現となっているが、要するに男女の交わりのことで、夫婦間の性交のことをいう。房中術ともいい、有り体に言えば性技のことだが、単なる快楽追求の手段ではなく、古代中国の宮廷を中心に人間に欠かせぬ行動の一つとして、医術・健康術の側面を含めた研究が行われ、男女の営みにおいてより効果的な術の開発がなされた。こうした閨房術・媚術は、「道々の輩」である渡来人たちによって我が国にも齎されたと隆慶一郎は述べている。

上巻29p

仕舞の名手(しまいのめいしゅ)

仕舞とは、能などで、演舞・演技することと『広辞苑』(第二版)にあり、能の略式演奏の一。囃子を伴わず、装束を着用せず、シテ一人が紋服袴で能の一部を抜粋して舞うものとある。また、『廣辭林』には、能楽にて、仕手一人装束を著けず袴だけにて出で、囃子なしにて舞ふ略式の舞とある。仕手(シテ)とは能・狂言の主役のこと。

作品では花井三九郎をこの仕舞の上手として「仕舞の名手」といっている。

仕舞とは仕手の舞う舞を略していうのかと思ったが、そのような記述はどの辞書にもないことから別の語源なのかもしれない。

上巻41p

鯉口を切る(こいくちをきる)

鯉口とは、刀の鞘口のことで、楕円形で鯉の口に似ている事から言われたと『広辞苑』(第二版)にあり、『廣辭林』には、刀の鞘口と鍔の相合う所とある。
「鯉口を切る」とは、直に抜刀の出来るよう、鯉口をすこしくくつろぐ。ゆるめる事をいい、また、刀を抜きかけることをいう。鞘に納まった刀は少しの力では抜けない。これは大事な事で、これがゆるいと歩いたり越をかがめたりするたびに抜身が外に出てしまうことになる。そこで、刀を完全に納めると、パチリと音がし、しっかりと鞘に納まるようになっているために、それを緩めることを鯉口を切るといった。

上巻52p

韃靼人(だったんじん)

蒙古系の一部族タタール(塔塔児)人の称。後、蒙古民族全体の呼称となった。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人からの呼び名ともなる。また、南ロシア一帯に住するトルコ人も、もと蒙古の治下にあった関係からその中に含めることもある。(『広辞苑』第二版)

上巻53p

小姓衆(こしょうしゅう)

小姓とは武家の職名で、主君の側近く仕えて雑用をつかさどる武士と『広辞苑』(第二版)にある。近習小姓、側小姓ともいい、小姓衆はそれらの人々を差し、小姓方ともいった。また、小姓から出世することを小姓立という。
江戸幕府においては、殿中紅葉の間に勤番して警備にあたり、儀式の周旋、将軍他行の共をし、市中の巡回にあたった軍事組織を「小姓組」といった。

蔵前衆(くらまえしゅう)

甲斐国武田家で、金穀の事を掌り、国守出陣のため不在の時は居館を警衛し、訴訟ある時は受け取って目安箱に納めることを掌った役。(『広辞苑』第二版)古昔、甲斐国武田家にて、金穀の事を掌り、国主出征のときは其居館を留守し、訴訟あれば受け取りて目安箱にをさめしもの。(『廣辭林』新訂版)作品の中でも、蔵前衆は貢税・裁判・鉱山採掘といったことが主たる仕事で、戦があっても絶対に前線に出ない役であると書いている。
また、江戸期には、江戸浅草の蔵前にあった蔵宿の主人たちをいったが、ここでは、甲斐国の蔵前衆をいっていることは言うまでもない。

上巻54p

水銀流し方式(すいぎんながしほうしき)

アマルガム法。金や銀が水銀に溶けることを利用した精錬法。粉砕した鉱石に水銀を加え、水銀と金属の合金(水銀アマルガム)を作り、水銀を蒸発させて金(銀)を回収する。(月刊「地図中心」405号)
ポルトガル人によって齎された精錬法で、慶長八年(1603)、石見銀山・佐渡金山奉行となった大久保長安は、慶長十年(1605)から慶長十五年にかけて、この技術を使って金銀山を経営、金銀の採掘量を飛躍的に向上させた。慶長十四年(1609)、イスパニア人で前フィリピン臨時長官ドン・ロドリゴがイスパニアへの帰路難船し、日本に漂着して謁見した。この時、この新技術に目をつけていた家康は、より正確な水銀精錬術をもたらすように依頼。翌十五年、その協議が行われた。しかし、ロドリゴの示した条件は、生産物の二分の一は鉱夫のもとに、四分の一はイスパニア国王のものとするというものであった。これは全てを幕府のものとしたい家康の思惑とは相容れず、協議は難航。翌十六年には堺・大坂に朱座を設けて水銀の輸入を制限し、ついには水銀の輸入をあきらめた家康は、鉛灰吹き法による金銀生産へと回帰する。こうして、長安によって齎された水銀精錬法は、慶長十八年(1613)に長安が没するとその技術も衰え、佐渡に初めて我が国に出現した水銀製錬所も水銀が輸入されなくなり閉鎖された。製錬所のあった佐渡相川の水金町は、その後も水金町として残り、『佐渡相川志』に「享保二年七月七日、山崎町傾城屋十一軒、遊女三十人、水金町へ引く」とあるように、享保以後昭和の時代まで遊郭の町として生き続けた。(田中圭一「江戸時代、日本にできた水銀製錬所」参考/月刊「地図中心」405号)

上巻72p

高手小手(たかてこて)

人を後ろ手にして肘を曲げ、頚から縄をかけて厳重に縛り上げること。(『広辞苑』第二版)人を後手に厳重に縛るさま。(『廣辭林』新訂版)また『新明解国語辞典』には、「高手小手に縛り上げる」と成句で取り上げ、「後ろ手にしたひじを上に曲げさせた、不自然な苦しい状態に縛り上げる。」と有る。

作品でも、於江の方が辰千代を「痺れ薬で麻痺している間に、高手小手に縛り上げて身の自由を奪う」とあり、多くの場合は「高手小手に縛り上げて」と成句をなす言葉。

上巻74p

元の木阿弥(もとのもくあみ)

「元の木阿弥になる」という成句で「一時うまく進行していた物事が、何かのきっかけで再びそうする前の状態にもどってしまう」ということと『新明解国語辞典』にあり、『広辞苑』(第二版)には、「再びもとのさまにかえること。いったん貧窮から起って資産を作った人が、再び元の無一物に戻ること」と有り、『廣辭林』(新訂版)には「再び以前のさまに立ち帰りて、更にはえなきこと」と有る。
この成句の成り立ちは、昔時、筒井順昭が病死したとき、嗣子順慶がまだ幼かったので、遺言により、南都の盲人木阿弥(杢阿弥)の声が順昭の声に似ているのを利用して、彼をほのぐらい寝所に置いて順昭が病気で寝ているようにみせかけ、外来者に示した。嗣子順慶が長ずるに及んで初めて順昭の喪を発し、木阿弥はもとの市人となったという故事に基づいた言葉。
ちなみに、日和見主義を喩えて「洞が峠を決め込む」という成句も筒井順慶の故事に拠っている。この筒井順慶という戦国武将は、大和の小大名ながらこの時代の鍵を握った興味深い人物の一人のように思える。

上巻103p

佳例(かれい)

嘉例とも書く。めでたい先例。吉例。嘉躅(かちょく)。(『広辞苑』第二版)『新明解国語辞典』には「嘉例」として、「そうすることがよいとされる、決った行事」と有る。作品では「父が佳例にならぞらへ、今度奥方の大将承て、名を天下に揚給へ」と資料にある家康の言葉を紹介した文に使われている。
「佳」の原義は、美しい人という意味で、そこから「美しい」「よい」という意味になって、「佳作」「佳品」などのように使われ、美しい人・美人という元々の意味をいうために「佳人」の語が改めて作られた。

上巻112p

蒲柳の質(ほりゅうのたち)

蒲柳とはカワヤナギの異称のことだが、そのたよりなげな様から、身体の弱い事をいう。(『広辞苑』第二版)「蒲柳の質」で、弱くて病気にかかりやすい体質をいうと『新明解国語辞典』に有る。

作品では、「忠吉について伝えられるのは、病いの話ばかりである。本質的にはそれほど蒲柳の質だったらしい」と書いている。

上巻115p

亭々(ていてい)

樹木などの高くまっすぐにのびているさま。(『広辞苑』第二版)樹木などの丈高くすなほにのびたるさま。(『廣辭林』新訂版)木などが高くまっすぐ伸びている様子。すくすく。(『新明解国語辞典』)とあり、「亭々たる」「亭々と」などと使われる名詞、副詞。

作品においても、「亭々たる木曽檜の林道を辿りながら」と木曽谷の描写に使われている。

上巻161p

附家老(つけがろう)

付庸大名(ふようだいみょう)

作品では、皆川広照は松平忠輝の付庸大名として飯山の地を与えられた小大名で、新井白石の『藩翰譜』に忠輝の附家老とあるのは謝りであると指摘している。

上巻174p

未通女(おぼこ)

まだ世間を知らずすれていないこと、または女性。まだ男性と性的関係を持たないこと、または女性をいう。(『新明解国語辞典』)いわゆる処女をいい、「おぼこ」という言葉に、その意味合いから「未通女」の文字を当てた言葉。『広辞苑』(第二版)によれば、「産子(ウブコ)」という言葉の転訛かとある。「産子」とは、生まれたばかりの子、赤子(あかご)という意味で、当然、まだ異性との性的関係はなく、その事から、処女(未通)の女性を「ウブコ」と喩え、それが「おぼこ」に転じたという解釈。

上巻182p

悋気(りんき)

情事に関した嫉妬。やきもち。(『広辞苑』第二版)男女の間のやきもち。(『新明解国語辞典』)この言葉は、『吉原御免状』(47p)他数カ所にも用いられている。
「悋」は、ケチを表す語「吝嗇」の「吝」と同じ意味で、訓では「ねたむ」「やく」と読まれる。「やぶさか」「しわい」「けち」「おしむ」などの意がある。「やぶさか」とは、「あえてそうする必要のないとためらうこと」をいい、多くは「やぶさかでない」と否定形で用いられる。

上巻186p
常民(じょうみん)

普通の人々、庶民を言う。代々社会の底辺に生きて来た、名も無い人びとを、民俗学で呼んだ称。(『新明解辞典』)とあるように、民百姓、農山漁村の村民などの庶民を民俗学で「常民」と呼んで用いたことから一般的に使われるようになった称。

作品では「定住民」と同義に使われ、傀儡子など「漂泊の民」が「農村を中心とする定住民」から畏れと排斥の双方の対象となり、「常民」から疎外されていたという文章で使っている。

上巻188p

渺茫の奥山(びょうぼうのおくやま)

渺茫とは渺々と同じ意味で、ひろびろとして限りないさま、果てしない様子をいう。(『広辞苑』第二版等)この事から「渺茫の奥山」とは、山また山が連なる人跡稀な山地を表現している。

作品では、「『渺茫の奥山』とは諸国の国境に近い山岳地帯を指し、中世ではそこは誰の所有でもない自由の土地と看做されて来た」と書かれている。

捨て童子松平忠輝【中巻】

中卷9p

巻狩り(まきがり)

狩場を四方から取り巻き獣を追いつめて捕らえる狩り。(『広辞苑』第二版等)
諸国の大名や将軍は、良く狩りを行った。この巻狩りなどは軍事演習を兼ねていたのだろう。特に家康は狩りが好きで、訓練された鷹を使って獲物を捕る「鷹狩り」や「巻狩り」を頻繁に行っている。

作品では「大巻狩り」とあり、これは諸大名も参加した大規模なもの。

中卷37p

三州田原(さんしゅうたわら) 

三河国田原のことで、渥美半島の中央部、現在は愛知県田原市となっている。地元の人はともかく、三州や江州、加州と言われてすぐにそれが三河、近江、加賀をいうのだとピンと来る人は少ない。一方、甲州、信州、紀州などは甲斐、信濃、紀伊というよりも馴染みがあり、現在でも一般的に使われているので、すぐにそれが山梨県、長野県、和歌山県を指すと理解する。三州はいぶし銀色をした瓦、「三州瓦」で名を知られていたが、現在では三州瓦独特の色を用いた屋根は少なく、瓦葺きの家も少なくなって「三州瓦」という言葉も東京では過去のものとなっているように思える。
余談になるが、ある時、友人に秩父にある「甲武信岳(こぶしだけ)」というのはどういう意味かと尋ねると、拳の形だからかという答えが返ってきた。私が首を振り「甲州、武州、信州、この三州の国境にあるから甲武信というのだ」といったら、「武州」って何と言われた。

中卷128p

傀儡子師(くぐつし)

広義では人形使いのことをいい、文楽・浄瑠璃などの人形使いと区別し狭義では路上で操り人形を見せる芸人のこと。隆慶作品では傀儡子族としての傀儡子と区別して「師」の字を当てているが、辞書などでは「傀儡」(傀儡子)だけで、あやつり人形、またその芸をいうとあり、人形使いの称としている。元来、漂泊の一族が、人形をあやつる芸を得意としたことから、これらの民を「傀儡(子)」と呼び、その称が定着して漂泊の民を傀儡(子)族と呼び倣わされてきた。作品ではその一族を人形使いで有る無しに拘らず「傀儡(子)」と呼び、職業としての人形使いを「傀儡子師」と読んで区別している。この場合の傀儡子師は、必ずしも傀儡子族ではない。

作品では「肩から下げた箱の上で小さな人形を操ってみせる『傀儡子師』、編笠をかぶって猿に芸をさせる『猿まわし』、「ささら」という楽器を鳴らしながら哀調を帯びた節まわしで神仏の霊験譚を語る『説教師』、奇術を見せる『放下師』、女芸人の『歌比丘尼』、更には両腕を失って足で弓を射てみせる女や、頭二つの子供、ろくろ首、山うば、珍獣・奇獣の見世物などが、河原狭しとばかりに群れている」と江戸初期の京四条河原の賑わいを描写し、これらの人々を、傀儡子同様、自由な漂泊の民、「道々の者」として紹介している。

中卷158p

寸鉄人を刺す(すんてつひとをさす)

寸鉄とは、小さい刃物のことだが、そこから転じて、短くて人の胸をつく語句、警句、警語をいうと『広辞苑』(第二版)にある。また、「寸鉄人を刺す」という成句は、「警句や警語で人の急所を衝くことのたとえ」とある。

作品では「正信は嬉しそうに、にたりと笑った。この男の寸鉄人を刺すような毒舌は江戸城内でも有名である」と本多正信のことを述べている。

捨て童子松平忠輝【下巻】

下巻27p

ガレオン船(がれおんせん)

大砲などで武装した大型帆船。16世紀の大航海時代に活躍したイスパニア・ポルトガルなどの国が製造した船のことだが、作品では、幕府と伊達藩がこれを模して遣欧使節団の為に造った船をもガレオン船と呼んでいる。

『歴史用語の基礎知識』[ポルトガル&イエズス会関連用語]の「ナウ船」の項参照。

ところで、古代エジプト・ギリシア時代、地中海で活躍した両舷から上下二列の櫂で漕ぐ船(兵船)を「ガレー(galley)船」と称したが、ガレオンの語源はここから来ているのだろうか。後日、調べてみたいと思うが、詳しい方がおられたら、是非ご教示下さい。

下巻42p

黒川金山(くろかわきんざん)

甲斐国にあった金山で、甲斐武田氏の軍用金を賄ったとされるが、家康の治世下、大久保長安の元でよりその採掘量を増した。ここで採取された金は身延道を通って、駿河の家康のもとへ送られていた。

『地名便覧』[甲斐国篇]「城・寺社・その他の建造物一覧」「黒川金山」の項参照。

下巻61p

千利休門下の十哲(りきゅうもんかのじゅってつ)

普通は七哲と称し、蒲生氏郷・高山右近・細川三斎・芝山監物・瀬田掃部・牧村兵部・古田織部の七人を挙げるが、その七人は他の伝書によって多少の移動があり、古田織部が除かれ荒木道薫・織田有楽などを入れているものもある。また、山上宗二も利休から殊光相伝の秘事を受けており、これらを合わせると十人となる。ここから「利休門下の十哲」としたのだろうか。十哲とした資料は未見。

『歴史用語の基礎知識』「茶の湯」の項「利休七哲」参照。

下巻82p

売僧(まいす)

「まいす」は「売僧」の字の唐音読み、『廣辭林』には宋音とある。『広辞苑』(第二版)などには「仏を売り仏法を商う俗僧。悪徳の僧を罵っていう語」とある。

作品では、金地院崇伝に対して用いている。

下巻84p

茶阿の局(ちゃあのつぼね)

文意からすると「阿茶の局」(あちゃのつぼね)のことか、お茶阿の方は、「お茶阿」「お茶阿の方」とあるので、「阿茶の局」とするところを「茶阿の局」と誤って書いたものと思われる。この作品全体を通して、「阿茶の局」を「茶阿の局」と誤って記されており、94pに「お茶阿の方」を「お茶阿の局」と書いている個所が一カ所ある。「お茶阿の方」を「お茶阿の局」という資料は未見だが、「方」を「局」という場合もあったのだろうか?そうであれば、「茶阿の局」は「お茶阿の方」ということも考えられるが、文脈からは「阿茶の局」とするのが正しいように思う。この「阿茶の局」と「お茶阿の方」は紛らわしく、司馬遼太郎の小説にも、「お茶阿の方」とすべきところを「阿茶局」としていた作品があった。

下巻187p

先手(さきて)

まっ先に進む軍勢。先陣。先鋒。(『広辞苑』第二版)とあるように、戦において先陣を勤める軍勢のこと。

作品では「やむをえず主水正は伊達政宗隊の先手である片倉小十郎隊の背後につき、主水正自ら政宗のもとにとんで行った」と、片倉隊が伊達政宗隊の先手を勤めたことが書かれている。

江戸幕府の職制に「先手組」(さきてぐみ)というのがある。これは若年寄の配下にあって、弓組・鉄砲組とあり、その下に与力・同心が付属し、江戸城本丸諸門の警衛を掌り、将軍他行の際に警固にあたり、後には火付盗賊改として市中を警戒した。おそらく、先手組とは最前線で活動する役目だったことから、「先手」の称がついたのだろう。

下巻246p

驕恣の至り(きょうしのいたり)

「驕恣」とは、「心がおごって気ままなこと」(『広辞苑』第二版)「おごりて心のままにふるまふこと。ほしいまま。きまま」(『廣辭林』新訂版)とあり、「驕恣の至り」で、「心がおごり、気ままきわまる」というような意味となる。

作品では、「忠輝が詫びの一言もいわないのは驕恣の至りなり」と秀忠の忠輝に対する言葉として上げてある。

下巻255p

徒目付組頭(かちめつけくみがしら)

冬の陣後、雨宮次郎右衛門が家康から任命された役職。代官手代から直参旗本に取り立てられ、いきなり徒目付三十人を束ねる役職についたことの経緯を作品で述べている。

『歴史用語の基礎知識』「武家・武士・兵の部」「目付」の廣参照。

柳生刺客状編

柳生刺客状

12p

黄ギ魚(ぎぎうお) 

結城秀康の幼名於義丸の由来となった魚の名。

義義(ぎぎ)。コイ目の淡水魚。体長二十五センチ。体は細長く、体表は滑らかで、褐灰色を呈し、暗色の不規則な斑紋があり、死後は黄色を増す。八本の髭と脂鰭をもつ。背鰭・胸鰭のとげにさされると痛い。本州中部以南産。尾鰭が二叉した点でギバチと区別する。ハゲギギ。(『広辞苑』第二版)

16p

金吾中納言(きんごちゅうなごん)

権中納言左衛門督に叙任された小早川秀秋のこと。
金吾とは衛門督(えもんのかみ)の唐名で、多くは中納言・参議が兼帯したと『官職要解』にあり、秀秋はこの以前に、参議右衛門督となっている。

「官職・官名の解説」参照。

与力(よりき)

本来は字義の通り、力を与(とも)にすることで、協力・助力・助勢することだが、室町時代になると、その家に付属する士、すなわち被官の士を言うようになる。戦国時代になると、侍大将・足軽大将などに付属する騎士・寄騎を称した。江戸時代に入ると、幕府の奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などに付属し、同心を指揮して上役の事務などを分掌・輔佐する職名となった。
ここでは、二番目の侍大将などに付属した騎士のこと。是が非でも仕官したい柳生宗矩は、関ヶ原の戦いで、家康の陣中に赴いてようやく本多忠勝隊の与力として戦に参加できたことを述べている。

後出の「天満与力」の項、参照。

17p

根廻し(ねまわし)

本来は、大木などを移植するために、その一、二年前にその周囲を掘って、側根の大きなものと主根とを残し、その他の根を切って髭根を発生させ、移植を容易にすることをいう。これは、大木に限らず、果樹の結果を良くするためにも行われる作業。
このことから、比喩的に、成る事を行うに当り、あらかじめ周囲の各方面に話をつけておく行為をいうようになった。(『広辞苑』第二版)

作品では「家康の周到な根廻しがものを云った」と、石田三成の挙兵に対して、上杉討伐に向かった豊臣方諸将への対応を述べている。

18p

鍾愛(しょうあい)

鍾は集めるという意味があり、あつく寵愛すること、愛情をそそぎあつむること、最も寵愛することなどと、『広辞苑』や『廣辭林』にはある。

作品では、「石舟斎の鍾愛を一身に受けた涼やかな若者だった」と兵介が祖父石舟斎の愛情を一身に集めて育ったことを書いている。

51p

四半刻(しはんとき)

およそ30分間のこと。一刻(いっとき)は約二時間で、半刻(はんとき)が1時間となり、その半分、四半刻は30分となる。また、「刻」に変え「時」を用いる場合があり、四半時とも書く。「刻」の場合は「こく」と読み、それぞれ「いっこく」「はんこく」「しはんこく」と読むことが多い。

作品では「四半刻(とき)も兵介の狂態は続いた」と、「刻」を「とき」と読ませている。

『歴史用語の基礎知識』「時」の項参照。

70p

薙ぐ(なぐ)

横ざまに払って切る、あるいは倒すこと。草を薙ぎ払うなどと使用される。(『広辞苑』第二版)

作品では、結城秀康を暗殺しようとする「宗矩の左脚の脛を充分に薙いでいた」と、兵介の剣捌きを書き、以後、柳生宗矩が義足を用いていたという柳生家の秘事を明かしている。しかし、『影武者徳川家康』では、この結城秀康襲撃場面で、宗矩は甲斐の六郎に鉄砲で狙撃され、秀康暗殺を妨害された。しかも、この時宗矩が撃たれたのは右足だ。この事は、瓢水氏のコラム(『人物事典』「柳生宗矩」参照)に詳しいので多くは語らないが、宗矩が義足だったというのは柳生家の秘事だったのだから、どちらの脚か定かでないのは当然かもしれない。

張りの吉原

76p

京の女子(きょうのおなご)

言うまでもなく「京都の女性」のこと。俗に「東男に京女」と言われ、男の第一は江戸っ子で、女は京の女が一番という意味の成句。京の女性は優雅で美しいとされていたからで、これは江戸の町人から見た言葉であろう。
しかし、この「張りの吉原」では、難波女の花扇に「京の女子の性の悪さは天下一品やないか。まあ、ええべべどすなあ、いいながら、ちょいとまくって裏地を見る、というのが京の女子や。さわらば落ちん風情に見えて、おなかの中は真っ黒くろ。お金と物しか眼に入らんし、本当の情など、かけらもない」と言わせている。こうした京都人に抱く印象は、少なからず私の中にもある。それは多分に、柔らかな京都ことばの中に、辛辣な皮肉を感じるためかもしれない。つい私など、京都弁で何かものを言われると「べらんめぃ、おすだかどすだか知らねえが、しゃきっとものを言ってくんな」と思ってしまう。

吉原のはつん、新町のはしゃん

同じく花扇に言わせている言葉で、吉原にあるという「張り」は「つんつん」しているだけで可愛気が無いじゃないかという。その点、大坂新町のそれは「しゃん」とした心持ちがあると言う。
ともあれ、生れ育った土地や風土を自慢する気持というのは、卑下する心より良いのかもしれない。

79p

吉原は違った町になっちまった。

吉原の惣名主庄司又左衛門勝富に言わせている言葉。かつて吉原は、『吉原御免状』で「この頃の太夫は決して売女ではない。いわば『どこにもいない女』だった。諸大名の奥向、公卿の子女にも、これほどの学識をもち、遊芸の道に達した女性はいない。琴、鼓、三味線にすぐれ、茶道、香合、立花に通じ、書道、和歌、俳諧、絵画をよくした。『八代集』や『源氏物語』を手放さない者もいたという。いわば、現代の最高教育を受けた『スーパー・レディ』だったのである」と書かれているように、諸芸に優れた太夫によって支えられていたが、時代が下がるにつれ遊女の質も落ち、太夫を張れる遊女は数が少なくなったという。そうした状況にあった吉原に惣名主として生きた庄司又左衛門が、大坂新町から「吉原の張り」を見届けに来た花扇に向けていった言葉が、「吉原は違った町になっちまった。もうすぐなくなるんじゃねえか」だった。事実、それから間もなく、宝暦十年には吉原から太夫の姿が消え、ただの女郎町となり、岡場所や宿場の女郎町と変わらなくなった。

隆慶一郎は『吉原御免状』を発表し、その続編である『かくれさと苦界行』を書いた。そして、あと二作で「吉原四部作」を完結する予定だったが、その四作目が『張りの吉原』で素描した「吉原」であったように思う。太夫がいなくなり、吉原創立者庄司甚右衛門ゆかりの西田屋も又左衛門勝富が亡くなると姿を消した。残ったのは「吉原」という名前だけで、そこには昔日の「吉原」はもうない。かつて甚右衛門が「道々の輩」の砦として、あるいは幕藩体制下で庶民を支配するために強化された身分制の下、「非差別民」として社会の最下層に落とされた「傀儡子女」を、身元を洗って太夫という最高級の女性に仕上げ、「身請け」あるいは「年季明け」とともに最下層から引き上げて社会に送り出す役割が「吉原」にはあった。その甚右衛門の目的とした「吉原」が消えて行った。隆慶一郎が描きたかった「吉原四部作」の最後は、その「吉原の落日」だったのか、あるいはその先の夜明けだったのだろうか。

新造(しんぞう)

字義通り、新たに造る意味で、新たに造船した舟などを新艘といったのと同じ語として用いた。ここから、嫁入り前の女性をいい、やがて新妻、若妻をいうようになる。さらに転じて、他人の妻女の敬称となった。また、江戸時代には、遊里の花魁などの姉女郎に付き従う女郎の名ともなった。
ここでは、「振袖新造」「番頭新造」とあるように、遊里での名称。『歴史用語の基礎知識』「遊女の位・職種」の項参照。
また、同書134p(「銚子湊慕情」)にある「エエ御新造さんえ」とある「新造」は、他人の妻女を敬していった言葉。

80p

太夫の芸(たゆうのげい)

太夫とは諸芸に通じた『スーパー・レディ』だったとは、先述した通りだが、それだけでは無いという意味で、
「本来、座敷に明るさを生むのは太夫の役である。一言の口もきかなくても、何の芸もしなくても、ただそこに坐っているだけで座が明るくなるのが太夫の芸である」と書いている。

御寮さん(ごりょうさん)

御料とも書く。元は貴人の子息・息女の尊敬語御寮人(御料人)の略語で、多くは貴人の子女をいう。近世にいたり、中流の人の娘、または年若い妻にも尊敬語として用いられた。

ここでは堺の大店の主に身請けされ内儀となった花扇のことを言っている。

83p

間夫(まぶ)

情夫のことで、間男と同じような言葉。一般には有夫の女が夫以外の男と密通する相手を情夫といい、間男といったが、遊里で女郎が密かに通じた男を、特に間夫と称した。

狼の眼

99p

印可(いんか)

元は仏教から来た言葉で、『廣辭林』には「師が弟子に、其熟達を認めて、奥義を授け照明を与えること。ゆるし」とあり、それに加えて『広辞苑』に「芸道のゆるし。免許」とある。もちろん武芸も芸道の一つで、剣道の流派の免許にも用いられる。

作品では「要助は三年前の寛政二年、十九歳で神道無念流の印可を受け、現在麹町道場の師範代をつとめている」と、秋山要助が神道無念流の免許を得たことが書かれている。

卯歳の飢饉(うどしのききん)

「天明の大飢饉」と称される東日本を襲った地震・長雨・噴火・冷害などの一連の大災害の一つ。天明二年(1782)の七月に起った小田原の大地震に始まり、この年から東北地方では冷害による不作が続き、翌三年には「春より霖雨、晴天は稀也」(『武江年表』)といった異常気象に襲われ、七月に浅間山が大噴火を起し、周辺は壊滅的な被害を被った。さらに、東北地方は噴火の影響でその後三年続きの冷害に襲われる。この天明二年から七年にかけての東日本を襲った未曾有の飢饉のことを「天明の(大)飢饉」と称し、特に酷かった年が天明三年卯歳に東北地方を襲った飢饉だった。

100p

打ちこわし(うちこわし)

『広辞苑』(第二版)には、「江戸時代、人民が為政者に抗し、奸商・高利貸・役所などを襲ったこと。主に米騒動などにいう」とあり、『廣辭林』(新訂版)には「暴民の徒党をなして、所々の人家を破却すること」とある。多くは生活に窮した庶民が、あくどい商売をする商家や高利貸・問屋などを襲って、家などを破壊する示威行動で、現代でも「打ちこわし」とは言わないが、類似の民衆の行動は世界各地にあり、それは「暴動」と呼ばれる。

銚子湊慕情

131p

下手(しもて)

芝居の舞台の、見物席から見て左の方をいい、右側を上手(かみて)という。
では何故、右を上(かみ)というかというと、中国の漢の時代、座席を右の方を上席としたことから、右を上とする慣習が我が国にも齎されたことによる。その人より優れた者がいないという意味で「右に出る者が無い」という成句も、この右を上とする慣習からきている。
ちなみに、古い歌舞伎劇場にはこの下手奥から、橋懸(はしがかり)という舞台に通じる廊下が設置されている。これは、能舞台の楽屋から舞台に通じる渡り廊下を「橋懸」(欄干を備えた渡り廊下で橋に喩えた)といい、これを模して歌舞伎の舞台が作られたことによる。

133p

板(いた)

舞台の事をいい、舞台で上演することを「板にかける」という。

作品でも「この中村座の二番目狂言として初めて板にかけられたものだった」と書かれている。
ちなみに、舞台が暗転し、つぎのシーンで明るくなった時に、舞台上にいる状態で登場する事を、「板つき」という。

138p

あくのぬけた男女

「あく」は「灰汁」のことで、元は灰を水につけた上澄み液のことだが、その液が渋みを持つことから、植物などの渋み成分をも「あく」と称するようになった。ここから転じて、人の性質や文章などに感じられる癖やあくどさを言う。その癖やあくどさが強いと「あくが強い人」ということになり、「あくの抜けた人」とは、洗練され、さばけた人を表現する成句となった。

作品では「揃いの半纏に身を包んだあくのぬけた男女が立ち働くさまは、きびきびとして見ているだけで小気味がいい」と、猿若町の芝居茶屋街の粋な光景を描写する文に使っている。

落しざし

落(し)差。刀をきちんとささずに、刀のこじりをますっぐに下げてさすこと。(『広辞苑』第二版)腰刀をこじりさがりに佩ぶること。(『廣辭林』新訂版)とあり、正式な差し方では、こじりが突き出て、町を歩くと人にぶつかるなどの不都合から、町廻り同心や浪人が、この差し方で町内を歩いた。こじりとは、鐺と書き、刀の鞘の尻の部分をいう。

死出の雪

161p

恬然(てんぜん)

『広辞苑』(第二版)には「やすらかなさま。心に何も感ぜず、平気なさま」とある。ここでは、後半の「心に何も感ぜず、平気なさま」をいう。

作品では「彼等は等しくその没義道ともいうべき悲運をしかと受けとめ、等しく一言の弁解もなく死んでいった。なんら死ぬ必要はないのに、黙々として死んでいった」と、この敵討ちに関わった男たちの清冽な生き様に心を動かし、一方の、原因となった女の生き様を「この見事な男たちの上に、悲劇を招来させた女は、恬然として生きた」と書いている。これは作品の冒頭の「すべて女が悪い」という文章に懸かっている。

162p

尚武の気風(しょうぶのきふう)

『広辞苑』などには、尚武は「武事、軍事を重んずること。武事を尚(たっと)ぶこと」とあり、気風は「特に、或る集団や地域内の人々が共通に持っている気質」とあり、「尚武の気風」と、成句として使われる場合が多い。

作品では、大和郡山藩の気風を「尚武の気風」としている。

179p

仇討ち免許状(あだうちめんきょじょう)

仇討ちは、一般には「主君・親族又は故舊を殺したる人を殺して仇をかへすこと」と『廣辭林』にあるように、主君や親族、朋友などの敵を討つことで、敵討ちともいい、害された者の関係者による復讐・報復行為をいった。こうした行為は古来から行われていたが、江戸時代になると盛んに行われるようになったため、幕府は規制に乗り出し、仇討ちを行える範囲を尊属に限るようにした。しかも当該藩主・奉行等の許しを受けなければならなくなった。その時、藩庁あるいは奉行所がその者に免許状を与える。これを「仇討ち免許状」と云った。しかし、一旦この免許状を受けると、仇を討とうとする者は、本懐を遂げるまで家には帰れず、平常の生活はできなくなる。

天満与力(てんまよりき)

ここでの与力は、先述した「与力」の解説で、最後に上げた「幕府の奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などに付属し、同心を指揮して上役の事務などを分掌・輔佐する職名」のこと。「天満与力」とは、大坂奉行所の与力をいい、彼等が大坂天満に屋敷地を与えられて住していたことからきた名前。一方、江戸町奉行所の与力は八丁堀に住していたことから、「八丁堀」あるは「八丁堀のダンナ」などと称された。

『吉原御免状』編 

p5(新潮文庫版、以下同)

川崎の宿(かわさきのしゅく) 現神奈川県川崎市川崎区

東海道の第二番目の宿駅で、品川宿からおよそ二里半(10キロ余)、日本橋へはおよそ四里余(18キロ弱)の距離に有る。川崎宿が出来たのは元和九年(1623)で、他の宿駅よりも遅れてできた。これは品川宿から神奈川宿の間が六郷川を挟みおよそ十里と長く伝馬業務が困難だったため、品川・神奈川の両宿の者が幕府に陳情して新しく作られたことによる。

誠一郎は川崎の宿を朝方発ち、浅草日本堤までのおよそ六里(24キロ余)を休み無しで歩いてきた。旧暦八月十四日とあるから、九月下旬、仲秋の明るい月(満月の一夜前)が東の空に昇りはじめた頃、土手道を歩いていたことになる。

肥後の山中(ひごのさんちゅう) 現熊本県熊本市

武蔵は晩年、細川家の食客となり、始め城下(現熊本市千葉城町)に居を構えていたが、彼を招いた藩主忠利が没すると、城下の西方に有る金峯山の霊厳洞に籠り、『五輪書』などの書画を書き認めていたとされる。

このことから、誠一郎の育った山はこの金峯山一帯の山々だと推定できる。作品においても後に「金峰山」(118p)と書いている。

6p

刀法に自在を得る(とうほうにじざいをえる)

「自在」は「束縛も障りもなく、心のままであること。思いのまま」(『広辞苑』第二版)と有るように、刀が思うように自由に扱えるようになるという意味だが、ここでは、武蔵の教えに従わなければという観念が、それを超えて自得した自然のものとなり、「教えに従う・守る・理解する」という思い(心の束縛)からも開放された境地をいうのだろう。

7p

杜鵑(ほととぎす)

時鳥、不如帰などとも書かれるカッコウ(杜鵑[とけん])目カッコウ科に属する鳥で、アフリカ東部から中国南部に広く分布し、夏になるとインド・中国から産卵のために半島・日本へ渡って来る渡り鳥。地鳴きはピッピッピッピッピとそれほど特徴の有る鳴き声では無いが、昼夜とはず突然、キョキョキョキョと鋭く大きな声で鳴き、テッペンカケタカ、オッチョンカケタカなどと聞こえるという。筆者の自宅近くの木立でも、真夜中に突然キョキョ、キョッキョン、キョキョとするどく鳴く声で驚く事がある。わが国では、ウグイス同様、その初音を聴いて楽しむことが風流として好まれ、それらの様子がさまざまな和歌や日記に記されている。一方、夜中でも突然するどく鳴くことから、その声に驚く事が多く、またその鳴き声から「鳴いて血を吐くホトトギス」などとも歌われ、不吉な事と結びつけられる場合もあった。

誠一郎がこの杜鵑の声を聞き、瞬時に「不吉」という想念が浮かんだのも、こうした「杜鵑の鳴き声」が持つ意味合いを含ませている。

10p

ああた

「そりゃいけやせんよ、ああた」と新吉原「どろ町の中宿」の茶屋の男に言わせている言葉で、「あなた」という意味の江戸前詞。「いけやせん」「分ってるン」など江戸前風の詞を使わせているが、これらはいわゆる江戸弁とされる「べらんめい」調とも違う詞で、幇間や郭の亭主などの使う里詞由来で、花柳・芸能界などで使われていた江戸前詞と思われる。

11p

山谷堀(さんやぼり)

隅田川から今戸橋の下を通り山谷に通じていた掘割。現在は埋め立てられその姿は無い。作品中で幻斎が「山谷堀の水路さえ、わざわざ中途までしか拡げず、大門の前まで舟が来れないようにしてある」(181p)と言っているように、この掘割は狭く吉原通いの猪牙舟は隅田川畔待乳山の桟橋までだったようだ。拡げれば大門の前まで舟で行けたはずだが、それは隆慶一郎の推察(吉原は道々の輩の砦)による理由だったかどうかは不明。
江戸湾の入江に造られた江戸の町は、干潟の埋立と掘の掘削で縦横に運河や水路のある水の都であったが、明治以降、水運の衰退と陸運の発達でそのほとんどは埋め立てられ道路に変じた。これは同じく水運のため縦横に運河があった大坂の町も同様の運命を辿り、現在に至っている。アジアの水の都として知られるバンコクも、自動車などの交通量が増え、運河を埋め立て道路に変りその面影を失いつつある。都市の発展のためにやむを得ないのだろうが、目先の経済発展だけが豊かさではない。水辺の持つ豊かな情景を大切にしながら都市計画を行っていたなら、東京にみられるヒートアイランド現象も無く、パリに負けぬ文化的に豊かな都市になっていたと思うのだがどうだろう。

23p

紅鹿子の小袖(べにかのこのこそで)

赤い鹿子絞(紋)の小袖で、鹿子は、鹿の子の紋様のように白い星を浮き出させた絞り染めの称。小袖は平安末期頃から衣裳の下に重ねて着る肌着をいい、袖が筒のように小さい事から名付けられた。やがて、それらを重ねて着るようになり、普段には上着として着るものや、間着の小袖、一番下に着る肌小袖などが現れた。

ここでは、遊女の盛装である大袖の下に着たもので、雲井のかすかな体臭を感じさせる着衣。

34p

伝法(でんぽう)

乱暴なという意味合いで、『広辞苑』などでは「いなせな態度。特に女が勇み肌をまねること」ともある。
本来は仏法を師から弟子に伝えることを云う仏教用語だが、江戸浅草伝法院の下男が、その境内で興行する見世物小屋などへ、寺の威光をかさに着て、無銭で見物した事から、こうした乱暴でならずもの的な行為を指していうようになった。そこから転じて、江戸っ子のぶっきらぼうな物言いや、威勢の良い女性の態度をいうようになる。

「少し酔ったか、ものいいが伝法になって来ている。」と幻斎の言葉の調子を表わしていて、ここでは「乱暴になって来た」という意味合い。

38p

秋葉山常燈明(あきばやまじょうとうみょう)

水戸尻に建つ常燈明。常燈明とは常に明かりを灯しておく灯明で、多くは石造りで、現代の街路灯のようなもの。また、秋葉山は防火の神を祀る秋葉神社の本宮が有る山の名で、秋葉神社の別称とされ、常燈明には火が有る事から、ここから火事が起らないように、灯明にこの「秋葉山」の文字を彫り、防火の神の加護を祈念した。

たぞや行灯(たぞやあんどん)

誰哉行灯と書き、吉原の妓楼の戸前にかかげて往来を照らした。現代の門灯のようなもので、その多くは木製の行灯であった。仲の町の通りは、この行灯の火がずらりと並び大通りを照らしていた。

42p

内所(ないしょ)

一般には家の奥まった所、主婦のいる所をいう。また、「遊女屋」などの主人や家族のいる場所を「内所」と言ったと『広辞苑』に有る。
家人のいる場所を内所ということから、主に内所にいる主人の妻を敬って「内儀」というようになる。また、身分ある人の妻を「奥の方」「奥方」というのは、地位のある家の家人のいる内所を「奥所」「奥」ともいったことから来ている。ここから転じて人の妻を「奥様」「奥さん」というようになった。江戸時代、将軍家の妻たちの居る場所を大奥というのもここから来ている事は言うまでもない。
また、自分の妻をただ「奥」ということから、いろは歌で、「おく」が「やま」の上にあり、「奥」を「やまのかみ」(山の上)と洒落て、「山の神」の字を当て、妻を「山の神」と称したのだとされる。(『東海道中膝栗毛』注)これはS.キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」で、宇宙船に搭載されたコンピューターを「IBM」の上をゆくという意味で名付けた「HAL」に通じる言葉の遊びだろう。
しかし、『広辞苑』第二版では「山の神」の徴しが杓子であることから、食事の際杓子を持つ内儀(かみさん)を「山の神」というようになったとしている。『廣辭林』新訂版では「山の神」を妻をあざけていう称とあり、『新明解国語辞典』では、「恐妻家」が妻をいう時の言葉とある。
古代、「山の神」は狼や熊をいった。狼や熊は山の獣の王で、恐れられていたためだが、この山の神と産土神とは関連があり、日本の各地に山の神と産に関連した伝説が残る。これは狼や熊の産が安産であったことから、産婦の安産のお守りに、熊の内蔵を干したものを腹帯に巻いてそれにあやかるという風習があったと、谷川健一氏はその著『日本の神々』の中で述べている。こうした「山の神」と「産婦=母親」との関連から、妻を「山の神」と言うようになったとも考えられる。いずれにしろ、「山の神」が「妻」を意味し、そこから妻を「カミさん」ともいうようになったのであろう。それに尊敬語の「お」をつけて主人・他人の妻を「おカミさん」と称した。
やがて、「内儀」を「カミさん」と読ませ、「女将」を「おカミ」「おカミさん」と読ませるようになっていったものと思われる。

[参考]いろは歌

いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
(色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず)

48p

お目もじ(おめもじ)

御目文字と書き、「お目にかかる」という意味の女性詞、女房詞。作品では勝山に「いずれまたお目もじしとうござんす」と言わせている。

51p

大川(おおかわ)

大きな川の意だが、江戸では隅田川下流を大川と称した。また浅草に架かる吾妻橋を大川橋とも称し、それより下流域の右岸を特に大川端(おおかわばた)と云った。この隅田川は別名浅草川とも呼ぶ。
ちなみに大阪を流れる淀川の下流域も大川と称した。

92p

絶世の佳人(ぜっせいのかじん)

佳人というのは美人の漢語的表現で、「絶世の美人」という意味。
「絶世」は、世に比較するもののない事。並はずれていることを云い、「絶世の佳人」「絶世の美人」とは、この世に二人といない美人というような意味合い。

93p

贅六(ぜいろく)

抜け目が無いという意味で、江戸の人間が上方人(関西人)に対していった蔑称。才六(さいろく)の江戸風に訛った言葉。『広辞苑』によれば、才六とは丁稚、奴僕のこととあり、さらに江戸の人が上方の人を卑しめていう言葉とある。
なぜ丁稚を才六というかというと、双六用語の「でっち」と同音のところから双六の賽の目の六(小者という意味)が連想され、采六、才六というようになったとされる。双六用語の「でっち」とは「畳一」(でふいち)の転訛で、二つの采(才)両方に一の目がでることとある。

「贅六らしい傲りから太夫に投げ盃をした。」と有るのは、大坂の富商鴻池善右衛門は、遊女を含めて文化的には上方の方が上だと云う傲りが有り、江戸吉原の太夫に盃を投げ渡したという行為を著わしている。

96p

帖合(ちょうあい)

帳合、丁合とも書く。代金・商品などを照合し、帳簿と合っているかどうかを確かめること。

103p

百目蝋燭(ひゃくめろうそく)

百匁蝋燭の事で、一本の重さが百匁、すなわち375グラムある大きな蝋燭をいう。

106p

闕所(けっしょ)

領主のいない荘園をいい、領主などの居なくなった土地の事をいったが、江戸時代には、死罪・遠流・追放などの罪に付加する刑罰で、刑者の財産・領地などを没収する処分をいう。

衒売(げんばい)

衒も売る意で、売る事をいう。
「衒売のため貴人を装っていることが明らか」とは、売る目的で貴人を装っていることが明らかだという意味。

108p

こけらぶき柿葺。こけら板で屋根を葺くこと。また、その屋根。こけら(柿)とは鱗に似た木片の意で、屋根をふく薄い板を指す。

『嬉遊笑覧』「巻之一」に屋根およびこけら葺等の記述有り。

117p

ひとたらし

人誑。誑(たらし)とは、『広辞苑』『明解国語辞典』などでは「だます」と云う意味で、誑す(たらす:他動詞四段・五段)の連用形。「誑す」とは悪意を持ってだますのではなく、元来子供などをすかしなだめる意で、甘言を持って相手の気持を引き付け、自分の意にそわせるようにするような意味合い。隆慶一郎はこの「ひとたらし」の他、「女たらし」「男たらし」「子供たらし」「大人たらし」など「たらし」という語を文中にしばしば用いていて、『捨て童子松平忠輝』(上巻184p)には「お万は一族の中で『たらしのお万』と呼ばれている。男たらしの名人なのだ」と書いている。

「四郎左衛門は、驚嘆していた。高尾の美しさにではなく、高尾からこの美しさを引き出した幻斎の『ひとたらし』の腕に、である。」と有るように、『広辞苑』などの辞書に有るようにたんなる「だます」という意味ではなく用いているのが分る。

123p

野分(のわき)

「のわけ」とも云う。二百十日、二百二十日前後に吹く強い風をいい、現在の台風の事をいった。野の草を分けて吹くことから名付けられた。

125p

戟尺の間(げきしゃくのま)

戟は中国古代の兵器の一つで、戈の刃の両側に卍形の枝のような副刃が付いた矛の事。尺は長さ、たけの事をいい、戟の長さの間という意味合い。およそ二メートルくらいの距離(間)をいうのだろう。

126p

鏘然(そうぜん)

鏘鏘(そうそう)と同じ意。鏘とはしゃんしゃんと玉や鈴が鳴る音声を表わした語で、鏘然は金石の音、鈴の音、また音楽の響きをいうと『漢和中辞典』にある。

「鏘然と誠一郎の太刀が鳴った…」は、誠一郎の太刀に宗冬の太刀が合わさり、金属音を立てた様をいう。

129p

花柳(かりゅう)

花街柳巷(かがいりゅうこう)の略語。中国で色里、遊里を称する言葉が伝えられ、わが国でも色里・遊里を花柳と称した。遊廓が禁止された後には芸者町をいう。
また、芸者や遊女の世界を花柳界(芸能人の世界を芸能界というのと同様)といい、色里・遊里で遊んで罹る病気(性病)を花柳病と称した。 

134p

膾(なます)

膾とは魚肉や野菜を細かく切って酢にひたした食べ物を云い、その事から、細かく切り刻む譬えとして使われる。

「高尾の性技に腑抜けになった誠一郎の帰途を襲って、膾にしようという狙いである」とは、いい女にメロメロになった誠一郎を襲って切り刻むという意味。

135p

麝香(じゃこう)

香・熏物(たきもの)の一種。麝香は麝香鹿の雄の下腹部にある鶏卵ほどの大きさの袋状の腺から分泌する黒褐色の液を乾燥させものから取れる香料で、高級品とされる。その芳香は強く薬としても使用される。 
また、次頁にある「侍従」は、練香の一種で、沈香・丁子香・麝香・鬱金香など数種の香料を練り合わせて作られる熏物。

『歴史用語の基礎知識』「香」の項参照。

145p

鎌鼬(かまいたち)

転んだり、ふとした動作を行った後に、何かにぶつけた訳でもないにもかかわらず、鎌で切ったように皮膚がすっぱり裂かれる現象。一般には、小旋風などで生ずる真空状態が原因とされている。昔はこれを鼬の仕業とした事から、「鎌鼬」と呼ばれるようになった。この話は信越地方に多く伝えられる。 

『歴史用語の基礎知識』[民俗・民間信仰・伝承/超科学の部]「日本の妖怪一覧」(カマイタチ)の項を参照ください。 

148p

遣る瀬ない(やるせない)

心のやりどころのない。思いを晴らす方法がない。など、胸が鬱積して心が晴れない思いを云う「遣る瀬なし」の口語。日葡辞典には「ヤルセモナイ」とある。(『広辞苑』)
苦しさ・悲しさを紛らわすものが何も無くて、どうしようもない気持。(『新明解国語辞典』)

169p

かいなで

掻撫(かきなで)の音便。物の表面を撫でただけで、その真相を知らぬこと。とおりいっぺんなこと。平凡などの意味。

「あれはかいなでの男たちにとれる陣型ではない。」とは「あの陣型は、通り一遍な巷の男達がとれる陣型ではない」というような意味。

169p

蕭条(しょうじょう)

ものさびしく風の吹くさま。ものさびしく雨の降るさまなど、目に写る自然のながめが、単調で殺風景な様子をいう。

「秋雨が蕭条と降っていた。」というのは、秋雨が単調にものさびしく降っている様を言っている。

170p

けれん

「外連」と書き、多くは「けれんが無い」「けれん無く」などと使われる。ごまかす。まぎらすなどの意味。元は義太夫・歌舞伎などで、客受けを狙って笑わすことや、俗受けを狙って演じることを言った。

「あるとすれば、けれんでありだましである。」

198p

修羅(しゅら)

阿修羅の略語。梵語で古代インドの神の一族。天・竜・夜叉等と共に釈迦の親衛隊に任じられ仏教の守護神とされたが、帝釈天との戦いを運命づけられ、天上の神々の敵となる。バラモン経では、絶えず闘争を好む悪神とされた。また、阿修羅の住む世界を阿修羅道(界)といい、天道(界)・人道(界)と地獄道(界)・餓鬼道(界)・畜生道(界)の中間に位置する。修羅界の男は醜怪で、女は美貌だとされる。
この阿修羅王と帝釈天の闘う場を修羅場と称し、このことから、戦乱または闘争のはげしい悲惨な場所を云う。

「悪鬼羅刹の修羅を生きる」とは極悪非道の血に飢えた鬼の住む世界に生きるという意味。

206p

ピカ札(ぴかふだ)

花札で松に鶴、梅に鶯などの絵柄のある札。花あわせやコイコイ遊びなどで20点あるいは10点に数えられる札の事。
花札は、花がるたとも云い、天正期にポルトガルから伝えられたカルタ(カード)ゲームが、日本風にアレンジされたカード遊び。現在、一般的に使用される12ヶ月×4枚(計48枚)の花札は、江戸期に現れ、明治初期に完成されたとされている。 

217p

嫖客(ひょうかく)

「瓢客」とも書き「ひょうきゃく」とも読む。花柳街に遊ぶ男の客(『広辞苑』)。遊廓などで遊興する客(『新明解国語辞典』)の意の漢語的表現。和語では「うかれお」と云った。

222p

媚術(びじゅつ)

媚(び)は美からきている音で、元はいつくしむ意であったが、後にはこびへつらう意に多く用いられ、「こび」と読まれる。『漢和中辞典』によれば、媚には、こびへつらう意の他に、なまめく。あでやかで情をふくむさま。あるいは、みめよく、すがた形が美しい。いつくしむ。かわいがる。などの意味があると有る。
ここで媚術とあるのは、遊女が客に対して媚びる術だが、あでやかで情をふくんだ艶かしい技術・対応術といったほうが良い。

この媚術について、
「『毛を抜く』という所作も、その媚術の一つであった。勿論、遊女のすべてが、高尾のように、完全な無毛にしていたわけではない。各人が自分の美しいと信ずる形に整え、手入れを怠らなかっただけである。割れ目の上(これを額と称する)に、ひとむら残しておく者もあれば、まんべんなく形よく抜いている者もあり、堅い毛を酢につけて柔らかくしている者もある。」(222p)
「ちなみに秘所の匂いについても、当時の傾城たちは大変な気の使いようで、悪臭を放つ結果を招く、なまもの、臭いの強い野菜などは一切口にせず、香料をいれた風呂に入り、諭文字にまで香をたきこめ、更には秘所の内部に常時匂袋をさしこんでおく、という涙ぐましいまでの努力をしたものである。」(223~224p)
と太夫たちの媚術の一端を示し、「このような多岐にわたる媚術を遊女に教えこむ機関が、吉原にあったわけではない。俗にいわれるように、傾城屋の主が、抱え女郎に教えるのでもない。秘法の伝授は、すべて女対女で行われた。つまり姉女郎が自分づきの妹女郎、或は禿に、口うつしで教えるのである。」と書いている。

223p

バレ句(ばれく)

ばれ句。「ばれ」とは下(しも)がかったこと、みだらなことをいい、「ばれ句」は淫らな内容を持つ川柳の事と『広辞苑」にある。

作品中にある五つの川柳は、いづれも商売女を読んだ句で、このような内容の川柳を「ばれ句」と称する。

半可通(はんかつう)

半可通の可は接辞の「か」で「可」はその借字。通人ぶることや、よく知らぬのに知ったふうにふるまう、知ったかぶりをする人を半可通という。通人の半ばというような意味合いか。
このことから、半可(はんか)というだけで、未熟、中途半端な事を意味し、「生半可」などと使われる。
筆者(私)も多分に半可通なところが有る。
また隆慶一郎は、通人について、遊女の手練手管の嘘の最大のものが「惚れんした」という言葉だが、それを聞く客のほうも、「嘘と百も承知で『やさしくも申すもの哉』とそれこそ優しく受けとめてやるようでなくては、所詮通人にはなれまい。洗練された遊女は、またそうした通人の心意気を敏感に感じとり、これに応えるものだ」(224~225p)としている。こうした大人の機微を楽しむことが、通人とされている。

228p

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)

行くと止まると坐ると臥すと。仏教用語で、日常の起居動作である四威儀の事。すなわち、普段の生活、日常の立居振舞をいう。

「行住坐臥、隙のないことを心掛ける剣士の立居振舞」と有り、ここでは行住坐臥を日常の生活という意味で書いている。

239p

猖獗(しょうけつ)

手がつけられないほど荒れ狂うという意味で、流行病や賊徒の勢いが激しくて防ぎきれない事を云う。
猖獗を極める。と言い習わされることが多く、作品でも、「大名から町人までこの唄(柴垣節)を口ずさんだといわれるほど猖獗を極めた。」と使われている。『広辞苑』では「たけくあらあらしいこと。わるものの勢いが盛んなこと、」と有り、ただ単に大流行したという意味では無く、悪ふざけが過ぎるものとして流行ったという意味を持っている。

246p

後の月見(のちのつきみ)

旧暦九月十三日に行われた十三夜の月見。
月見は月を賞し愛でることを云うが、教義には旧暦八月十五日の仲秋満月の月見と、旧暦九月十三日の十三夜の月見を云い、この十三夜の月見を「後の月見」と称した。 
ちなみに、わが国には中国の影響を受けて、月を愛でる文化が公家社会を中心に育ち、十五夜、十三夜に限らず、月を読んだ歌が多く創られている。十七日の月を「立待の月」、十八日の月を「居待の月」、十九日の月を「寝待の月」というのもこうした文化が背景にあった事によるのだろう。

253p

樒(しきみ)

シキビ、香の木、木密、仏前草などの異称が有る。モクレン科の常緑小喬木で山地に自生し、墓地などにも植えられている。樹の高さはおよそ三メートルほどで、葉は平たく滑らかで光沢が有る。春に葉の付け根に細い多数の花弁を持つ黄白色の花をつける。全体に香気が有り、仏前に供されるほか、葉と樹皮を乾燥させて粉末にし、抹香あるいは線香の材料に用いられる。材は器具などに加工され、実は甘いが猛毒が有る。

253p

趙(ちょう) 古代中国の国名。

紀元前五世紀半ば、春秋時代の五覇の一つ晋国が分裂して三国に分かれた時の一つの国。この趙のほかの国名は韓と魏国。この頃から周国の諸侯が建てた春秋五覇と呼ばれた諸国がそれぞれ王号を主張し始め、戦国時代に突入した。

この趙国の首都が邯鄲で、文中にある『邯鄲の枕』という故事の舞台である。

257p

水干(すいかん)

狩衣(かりぎぬ)系の装束。狩衣に似ているが、菊紋を胸、背面・左右の袖の縫目の四ケ所に二ツづつ付けることと、丸組の緒を前面領の上の角と、背面領の中央とに付けることとが違う。地は紗・精好・平絹などで、色は白が多く、袴は直垂(ひたたれ)の袴に似たものを着する。元は民間の常用服だったが、後に公卿の私服、元服前の少年の晴着などに用いた。

ここでは国司の供侍が着しているが、この水干に立烏帽子姿で舞ったのが白拍子だった。

260p

無主の荒野(ぶしゅのこうや)

国司、荘園主などの領主の支配が及ばない土地。古代、わが国は五畿内七道六十八カ国を定め、これら諸国に国司を置いて律令制を布き支配していたが、各国の国境や津・泊、河原、常人の通わぬ山岳地帯はその支配から外されていた。そうした地を無主の荒野という。やがて律令制による班田制が崩れ、荘園などの私有地が増加するようになっても、その多くは依然無主でありつづけていた。
こうした無主の地の内、国境や津・泊・河原などは七道往来人と呼ばれる道々の輩が集まり、やがて市が立ち、さらには交通の要所として発展する地が現れる。摂津国と和泉国の国境である堺などはその典型的な例として名高い。また、河原や山岳地帯は近代に至っても依然無主の地であった。人里に近い河原は、あまたの芸能の民がその地で興行を行ったり、さまざまな職業を営む人々の格好の地として賑わうが、そうした領主の支配が及ばない地に暮す人々は、やかて河原者として蔑まれ、非定住民として漂泊する山人は山窩や傀儡子族として恐れられかつ差別されるようになった。

294p

裏白の葉(うらじろのは)

「裏白」はウラジロ科の常緑シダ植物。アジア各地に広く分布し、根茎は匍匐し所々に葉柄を出し、分岐して二叉となる。葉は大きく、葉片は羽状に分裂、裏は帯白色。葉の裏に胞子嚢四個からなる子胞をつけている。葉は正月の飾りに用い、葉柄は乾燥させて器具を製した。ヤマクサ、ホナガ、モロムキ、ヘゴなどの名で呼ばれている。
正月飾りとして、注連縄に海老、橙、昆布などと共に飾られる。

「女たちは毎年歳の暮には、笠の上に裏白の葉と注連飾りをつけたのをかぶり。」とあるのは、正月飾りのいでたちを言っている。

295p

小意地が悪い(こいじがわるい)

すこし意地が悪い。ちょっと意地悪などの意味。「小意地」の「小」は、小ぎれい、小うるさい、小憎らしい、小雨、小耳に挟むなどに使われる造語成分で、「お」や「ご」などの接頭語よりも実質的な意味を持つ言葉と『新明解国語辞典』に有る。

「幻斎は見ようによっては小意地の悪い、にたにた笑いを浮かべている。」

297p

狷介(けんかい)

狷は分を守って不義をなさぬ意、介は堅い意で、固く志をまもって人と相容れないことと『広辞苑』にある。また、操を守って孤立していること。片意地をはるともあって、性質がひねくれていて、自尊心が異常なまでに高かったり、人とむやみに歩調を合わせない様子を云う。小心狷介。狷介孤独などの成句がある。

「性格は狷介、鬱屈している分だけ、感情が奔出した時は、凄まじい爆発力を持つ」と世良田二郎三郎の性格を描写している。

301p

行水(ぎょうずい)

暑中、汗や身体を洗うためにたらいなどに湯や水を入れて浴びる事。禊のため清水で身体を洗い浄める行の水という意で、水を浴びる事を云うようになった。
風呂が今日のように日常的に沸せる時代で無かった昔時、毎日、汗をかく夏場に風呂代りに湯や水を浴びて汗を流し、現在のシャワー代りとした。この行水の多くは、たらいに湯や水を入れたものを庭に据え、その中に入って身体の汗を流した。それは、現在に見られる、ビニールのプールに水を入れて水遊びをする子供の風景と似ている。しかし、現代では農家を除けば広い庭の有る家が少なくなったことや、地域社会が崩壊し見知らぬ他人が平気で路次裏にまでウロウロする社会では、およそ見られなくなった夏の風物詩。

312p

門余助左衛門宗勝(もんよ〈な〉すけざえもんむねかつ)

本文中、『徳川実記』からの引用文の中にある人名だが、「門余」でなく「門奈」が正しい。この後の314pにも「門余」と有り、隆慶一郎が「奈」を「余」と書き違えたか、入力する時に「奈」を「余」と読み違えたと思われるが、出版社がきちんと校閲するか、校正者に歴史の知識があれば防げたミス。ただ、本作品が歴史書でなく小説であることから、門余とわざと仮名にしたとも考えられ、本人がいない今となっては確かめようがない。

335p

元誓願寺前(もとせいがんじまえ) 

吉原以前の江戸に散在していた色里の一つがあった地。もとは京橋柳町に有ったものが移ってきたといわれ、庄司甚内(甚右衛門)がその色里の中心的な人物だったと隆慶一郎は書いている。

場所は現東京都中央区日本橋室町辺としているが、それを記した資料はまだ未見で、確認していない。

336p

鎌倉河岸(かまくらがし) 千代田区内神田二丁目

元誓願寺と同様に、江戸に散在していた色里の有った地。江戸城の築城や江戸の町の建設の為、全国各地から船で資材が運び込まれ、それらの資材を陸揚げするために江戸湾に面した河岸が開発される。その一つがこの鎌倉河岸で、鎌倉河岸という名の由来は、鎌倉から来た材木商が建築資材を取り仕切っていたことから名付けられたという。

337p

正鵠を射た(せいこくをいた)

「正鵠を射る」の「正鵠」は、弓の的の中央の黒い丸の部分を云い、狙い所、物事の急所、要点を意味する。ここから「正鵠を射る」とは、「的を射る」という語と同様、物事の急所や要点を突くなどを意味する成句となった。

寛闊(かんかつ)

「寛」は、ひろい、ゆとりがあるなどの意で、寛大、寛容などと用いられ、「闊」も同じくひろいという意で、闊達、闊歩などと用いる。『広辞苑』によれば、ゆったりとしていること、寛大なこと、度量の広いことなどの意味が上げられている。

「諸事について寛闊な老臣たちは後退し、秀忠の側近だった、若い、緻密な、それだけに融通のきかぬ譜代の家臣」とあり、家康時代の戦国生き残りの老臣たちは、秀忠時代の官僚的な若い家臣よりも度量が広く寛大だったという意味で用いられている。

373p

風花(かざばな) 

空が晴れていて、雪片がちらちら舞う様子を風花が舞うとイメージしていたため、『広辞苑』にある「風上の降雪地から雪片が風に送られて他の地にまでまばらに飛来すること」と思っていたが、同じく『広辞苑』には「初冬の風が立って雪や雨がちらちらと降る様子」とあり、また、『新明解国語辞典』には「晴れた日、風の吹き出す前などに舞うように降る粉雪」ともある。

「霜月(旧暦十一月)に入って、風花のちらつく日が多くなった」とあり、この後の甚之丞の言葉と合わせ、ここでは初冬の冷たい風が吹き細かい氷片が舞う様子をいっていると理解した。

412p

用心籠(ようじんかご)

用心駕篭とも書く。火災などの時に家財を入れて運ぶ大きな駕篭の事。
「用心籠や長持をかつがせて乗込み、正月用品を夫々きまった店で買い求める慣例」と、江戸浅草寺の歳の市では諸大名、旗本、大店などが、正月用品を大量に買い込んでいたという。さらに「籠の左右に箒をさかさに立て、おかめの面を飾り、景気をつけて帰途についたものである」とその籠の様子を描いていて、こうした買物客の往来で賑わい、否応も無く年の瀬の慌ただしさをかき立て、師走の江戸の町はさぞや活気に満ちたものだったのだろう。



















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