こどもの遊び

子供の世界


遊び

ここでいう「遊び」とは、云うまでもなく「遊戯」、すなわち「戯れ遊ぶ」意味である。この「遊び」は、現代では子供の専売特許のような観があるが、古代では大の大人がたわいもない遊びに興じていた。高山寺蔵の『鳥獣人物戯画』には、そうした庶民の遊びが数多く描かれている。
その中のいくつかの例を以下に紹介。

耳引き 向かい合って座り、輪にした細い紐を互の耳に掛けて引き合う遊び。耳から紐が外れたら負け。
首引き 同じく輪にした紐を互の首に掛けて引き合う遊び。
腰引き 同じく輪にした紐を腰に掛けて引き合う遊び。紐は腰紐などを結び合わせて、大きな輪を作ったものか。
目比べ 現代でいう「にらめっこ」遊び。
赤目 「あかんべー」のことで、瞼をくるりと剥いて相手を嫌がらせる。

また、『石山寺縁起絵巻』には、相手の耳を引っ張ったり、長刀を風車のように回して戯れる姿や、指相撲に興じる姿が描かれている。
現代では「耳引き」や「首引き」などの遊びはすたれて全く見られないが、大した道具など無くとも、古代の人々はこのように豊かな「遊び心」を持っていた。
一方、宮廷などの上流階級では、中国から渡来した遊具などを使った遊びも普及してくる。将棋や囲碁、双六などの遊びであったり、蹴鞠や貝合わせ、羽子板、振々毬打などの遊びが 公家社会でもてはやされた。

童遊(わらわあそび)

中世になると子供の世界が顕現する。こうした中で、子どもたちは子どもの遊び方を確立してゆく。西行の「たはぶれ歌」には、そうした童遊がいくつか歌われている。

隠れ遊び 

現代で「かくれんぼ」と呼ぶ遊び。平安時代からあった遊びで、『宇津保物語』や『栄華物語』にも「かくれあそび」の名がみられる。

石なご 

「石などり」ともいい、現代のお手玉遊び。数個の石を撒き、その一つを投げ上げ、他の石を拾ってから落ちて来る石をつかむ。各地でお手玉を「イシナゴ」と呼ぶのは、お手玉に昔は石を用いていた名残り。

雀弓(すずめゆみ) 

篠竹を曲げて弦を張り、弓にして遊ぶ。

竹馬

長い笹竹の根元に紐を付けて跨がって走る。「竹馬馳(たけうまばせり)」「駒走徘徊(こまばせりはいかい)」とも呼ばれる。後には竹竿の先に馬頭を象ったものを付け、末には車輪を備えた形の玩具が普及した。また、室町時代に田楽芸の「高足」から変形した二本足の竹馬が現れ、それをも竹馬と称していて、その遊びが一般的となり、今日では竹馬というとこの二本足の竹馬をいうようになった。

毬打(ぎっちょう) 

二組に別れ、毬を椎形(ゴルフクラブのような形)の杖で、平片木で作った平らな玉を打ち合う遊び。

庭の砂子の土遊び 

土遊び。砂遊びの塁。

菖蒲かぶりの茅巻の馬 

端午の節句の遊び。

これらの外に、『慕帰絵』(西本願寺蔵)に描かれている「投げこま」と呼ばれるコマ回しの遊びや、『春日権現驗記絵』(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)に描かれた『草子読み』などが子どもたちの遊びだった。この『草子読み』の画では、少女たちは腹這いになって草子を読んでいるが、行儀が悪いのでは無く、机がまだ普及していない時代の読み書き姿であったという。
このように「雀弓」「竹馬」など子どもたちの遊びには、大人の行為の模倣である場合が多い。いわゆる「ごっこ」遊びと呼ばれる遊びは、大人世界の模倣から始まった遊びで、現代でも「ちゃんばらごっこ」「ままごと」まど枚挙に暇が無い。

古き時代の子供の遊び

現代では廃れてしまった「子供の遊び」を中心に、資料と記憶を頼りに紹介してゆくコーナーです。その「遊び」の中には、今では失われてしまった社会の知恵があり、大切なものが有ったように思えますが、そこから学ぶ心のゆとりが無くなった現代社会では、単なるノスタルジーとして見られるだけでしょう。
また、どこまでの年齢を子供というかは、人によって認識が異なります。ここでは、他者を認識し自我が芽生える二歳頃から、自我が確立し、大人として自分の判断で責任をとれる十四、五歳までの間としておきます。つまりは、自我が芽生え確立するまでの精神的、社会的に成長を遂げるのに必要な期間を子供の時代とします。
そして、ここでいう「子供の遊び」とはその成長を育むための社会的な行為と定義したい。子供の遊びが「××ごっこ」という言葉に見られるように、大人社会や大人の行動を模倣する行為からきているものが多いことから、それが裏付けられるように思います。そしてそれは、決して大人の遊びとは同類ではなく、同じ「遊び」という言葉だがそれとは隔絶した、真剣で真摯な行いなのです。「遊び」と命名するのは大人で、それは大人からみた言葉ではないでしょうか。

一人でも遊べる遊び

石投げ(水きり)遊び(いしなげあそび)

石投げ(水きり)は、川や湖がある所へ行き足元に手頃な石があれば、多くの人がやったことのある行為だろう。
平らな小石を河原で拾い、水面めがけてすべるように投げつける。すると石が水面を切って、川面に点々と波紋ができ、その波紋の数を競うのが「石投げ(水きり)遊び」といった。大きな川などで、子供たちが二三人いれば、まずその中の一人が平らな小石を見つけ、いの一番に投げる。すると石は川面を何段もの波紋を残し向こうへ消える。「今、何段あったぞっ!」という事になり、まけじと他の子供たちが石を投げ、その段数を競う事になる。

水きり遊び

この石投げの波紋を数える事は、古来、物事の吉凶を占った名残りともいわれ、名称も全国各地でそれぞれの呼び名があるようだ。例を上げると、秋田では「ふりずんばい」、仙台では「ずんばぁ」、山口では「とうくねんぼ」などと呼んでいたという。

石弓遊び(いしゆみあそび)

男の子たちの遊びで、川端に生えている柳やクルミの木の股木(まかき)を利用し、手製の石弓(パチンコ)を作って遊ぶ。股木をY字形になるように小刀で切り、買ってきたアメゴム(薬屋などで安価で買えた)を二本に切り、それを股木の先に丈夫な木綿糸で括りつける。今度は、皮の切れ端を見つけて長四辺形に切り、二つの穴を開けて一カ所づつアメゴムを通し、先を折り曲げて木綿糸でしっかりと結ぶと即製の石弓が出来上がる。

石弓

これは田園に群れて飛ぶ連雀やモズ、雀などの小鳥を捕るための道具だ。石弓の玉は道端に落ちている手頃な小石で、この小石が当ると狙った小鳥は木の枝から落ちて来る。昭和の中頃までは、こうした狩猟を真似た遊びが子供たちの遊びとしてあった。現在では、野鳥保護や動物愛護の精神から、こうした遊びは禁止されている。昔はこうして捕獲された小鳥は食用にもなったが、今では、ただ殺戮するだけの行為となるから止むを得ない事だろう。

梅の種潰し(うめのたねつぶし)

津軽地方などでは「味噌こ塩こ」という、これは下駄を放って、表が出れば「晴れ」、裏だと「雨」と占って遊ぶお天気占い遊びの一種で、初夏、まだ未熟な青い梅の実を摘み取り、皮を剥き果肉を取り除き種だけにする。種はまだ硬くなっていない。それを指で摘むか、手のひらに載せ、もう片方の指か手のひらで潰す。ペシャッと潰れれば、明日は雨で、これを「味噌こ」といった。プチッと汁が出れば「塩こ」といって、明日の天気は晴れと占って遊んだ。

凧揚げ(たこあげ)

凧揚げが何時頃から子供の遊びになったのかは知らないが、子供の頃、年長の「お兄ちゃん」が作るのを、見よう見まねで作ったことがある。その手作りの凧は、決して空に舞うようなものではなく、地面を引きずってついにはバラバラに壊れてしまう代物だった。また、駄菓子屋で奴凧を親にせびって買ってもらい、意気揚々と野原に出たものの、上手に上がらず、そのうち木の枝に引っかけ壊してしまった記憶がある。その後、自分で作ったり揚げたりする事なく成人した。だから、私にとって「凧揚げ」はあまり熱中した遊びではなかったが、確かに駄菓子屋や玩具屋で売っていたし、季節風の強い冬場、広い野原や川の土手で凧揚げに興じている子供たちのいる光景を見ることが出来た。最近でもときたま、凧が揚がっているのを見ることがあるが、それは大人だったりする事が多く、「お正月」に、近所の公園やグラウンドで、まだ幼児というような幼な子とその父親が、正月風景の一齣として戯れている姿はあっても、本格的に凧揚げで遊ぶ子供たちの姿は東京あたりではもう見かけない。

顔面コ(つらめんこ)

津軽地方の土俗的な遊び。まだ風が冷たい早春、根雪が溶け始める頃に綿雪が一夜の内に何十センチも積もることがある。そんな春の雪の降った翌日は、晴天になる時が多く子供たちは外に出て、柔らかい雪の上ではしゃぎまわる。そこに暮らす大人にとってはせっかく根雪が溶けてきたのにまた積もる雪にうんざりしていたのだろうが、私も子供の頃、雪国で育ったので、新たに降り積もった真っ白な柔らかな雪に心を躍らせて走り回った経験がある。
そんな真っ白な雪面に、自分の顔を押しつけ、雪型の面を作って遊ぶ。こうした行為は津軽の子に限らず、雪国の子は誰でも経験があるが、津軽にはこれに一つの禁忌があり、その顔面コがカラスにほじられて汚されると、「不幸を招く」と大変嫌い、日の光で自然に溶けるのを待ちわびるといわれ、そうした呪術的な性格が土俗的といわれるのかもしれない。

ナスの提灯(なすのちょうちん)

盛夏、お盆が近づくと畑のナスやカボチャが大きくなってくる。子供はそれを待っていたように、畑からなるべく大きいのをもぎ取ってくる。そして家から包丁を持ち出し、ナスの片面を削ぎ、中をくり抜き、表面に目や鼻や口を切り抜く。ナスの尻の下から、七、八分の釘を一本さしてロウソク立てにすれば提灯が出来上がった。暗くなると、ロウソクを一本立てて、それに明かりを点す。当時、仏棚や神棚はどの家にもあり、容易にロウソクが子供の手に入った。ナスのヘタに錐で穴を空け、ヒモを通して輪を作り、それに指を掛けて持ち歩くようにしてある。今日のように街路灯や深夜営業の店などの無い夜間は、町中の一部を除けば田舎や郊外は漆黒の闇の世界で、そんなまっくらな中をナスの提灯がピカピカ明滅してとても幻想的で綺麗だったという。
ナスの外、カボチャ、キュウリ、うらなりのスイカなどでも作った。一人がそれを始めると、近所の子供たちも皆やり始め、子供たちは夜が来るのを待ち、どっちが良く出来たかと競べ合った。
やがてお盆がやって来ると、これらのナスやキュウリには別の役割が与えられた。折った割り箸を四本足になるようにナスやキュウリに差す。そしてナスは牛に、キュウリは馬に見立てられ、仏前に供えられるのだった。

日光写真(にっこうしゃしん)

写真屋さんごっこ。昭和の遊び。この遊びがいつ頃から現われたのか知らないが、私が子供の頃(昭和30年代)に一番流行っていたように思う。今日ではデジカメやスキャナーで、誰でも簡単に写真画像が作れ、自宅のプリンターでカードやシールにして遊ぶことが出来る。だが、一時代前はフィルムカメラが主流で、インスタントカメラ、使い捨てカメラが現れるまでは、カメラは大人の道具だった。子供は精々、この日光写真で写真ごっこを楽しんでいた。
これは、始めの頃は絵紙(ネガフィルム)を薬のついた種紙(印画紙・感光紙)にのせ、ガラスを嵌めた厚紙の枠に重ねて置き、陽の光で焼き付けるもの。絵紙の黒い部分が白く、透き通った部分が黒くなり、その透過度に応じてグレーの階調が像となって浮き出て来た。その像は映画スターの顔写真であったり、マンガのチャラクターだったりして、その画像の浮き出るさまをわくわくしながら待った。しかし、現像処理を要しない感光紙であったため、時間が経つと全体が黒っぽくなって像も薄れ、終には真っ黒になってしまう代物だった。その後、普通の写真の現像法を応用したものが現われ、感光させた種紙を現像液に入れて像を浮き出たせる第二世代の日光写真が現われた。これも定着処理がしていないので、時間が経つと像が段々薄れ、最後は真っ白くなって像が消えてしまう。
絵紙や種紙は駄菓子屋さんで売っていたり、月刊の漫画雑誌の附録、お菓子のおまけなどで手に入った。

花摘み、花人形遊び(はなつみ、はなにんぎょうあそび)

女の子が主に野原で遊ぶ遊び。春の花の咲く時期、女の子たちは戸外に出て花を摘み、草の葉を集め、それを持ち寄り思い思いの花人形を作る。アヤメやカキツバタ、イチハツなどの長い葉は帯となり、タンポポの花などは人形の首、葉っぱは着物、花びらは着物の飾りなどに利用する。こうして作られた人形が草原のしとねに寝かされ、少女たちの夢を育て、幼子の心に幻想や空想の心を養った。
また、タンポポなどの花の茎を手に持ち、互いの花の首にひっかけ、花の切れたほうが負けとなる遊びや、おおナズナでガラガラを作ったりして野で遊んだ。そうした豊かな自然の中での、おとなしく静かな遊びも子供たちの情感を育てていた。

ほおずき遊び(ほおずきあそび)

晩秋、野の草むらに赤いほおずきが顔をのぞかせる。子供たちはそれを見つけると、眼を輝かせてそれを摘み取った。茎からもがれたほおずきは赤あるいは薄緑の顎葉に包まれていて、それを破ると丸い真っ赤な実が出て来る。その実を、楊枝などで果皮を破らないように蔕の部分から慎重に中に詰まっている種をほじくり出し、果皮だけにする。この時、子供たちは童歌を歌いながら種抜きを行っていた。こうして出来た、空になったほおずきを口に含み、舌を使って転がしながら空気を入れ、膨らんだほおずきを舌で押すと「ぶー」と鳴った。こうして子供たちは、ほおずきを見つけると、実をとり、種を出し、鳴らせるようになるまでの過程を楽しんだ。
このほおずきの実にある苦味は、お腹の中の虫を外に出す効果があるといわれ、昔の人は子供に積極的にほおずきをなめさせていたという。
また、女の子たちは、ほおずきの実を使って「ホオズキおぼこ」などという人形を作って遊んだ。

松風(まつかぜ)

ぶんぶん。四角い薄板と木綿糸で作る。
薄板の対角線上に二つの穴を空け、そこに糸を通して両端に指が掛かるように結び、たるませた状態から両端を引くようにすると薄板が糸のねじれで回転する。そうして緩めたり、引いたりを繰り返すと、板は勢い良く回転し、穴を通る空気が板を振動させてぶうんぶうんと唸り音を発する。その音が、松を渡る風の音ににていることから「松風」と名付けられた遊び。玩具の無い時代、簡単に作れる子供たちの遊び道具として、なるべく大きな音が出るよう、あるいは上手く廻るように穴の位置や大きさなどを工夫して子供たちは楽しんだ。

百合の花遊び(ゆりのはなあそび)

主に女の子の遊びで、夏になり百合の花が咲くと、花びらの一枚を抜き取ったり、真ん中のめしべ・おしべ(ユリの花粉は口に入れると病気になると大人から教わっている)を取って花を摘んでくる。そして一枚の花びらを両手の手のひらの間に挟み、揉むようにして動かしながら
√袋コにな〜れ 甕コにな〜れ
と何度も唄ってしばらく揉み、柔らかくなった所で口で膨らませて遊ぶ。
このように花びらや葉を柔らかくして膨らませて遊ぶのはユリだけでなく、男の子はマンジュシャゲの刀の形をした葉や、ベンケイ草などの葉、ネギの葉を両手で揉んで口で膨らませて刀にして遊んだ。こうした葉や花を柔らかくして膨らませる植物を「葉みず、花みず」といった。

輪まわし(わまわし)

桶や樽から外したタガを、地面で転がして遊ぶ、主に男の子たちの遊び。
昔はもっぱら竹製のタガを舞わしたが、後には鉄製のタガが現われ、それが利用された。先をT字形にした棒や針金をU字形にしたものを先に付けた棒を使って、地に立てた輪をバランスを取りながら転がす。始めはなかなか上手く転がらないが、馴れて来ると車輪のように滑らかに転がる。
70年代に入る前までは、道路も現在のように舗装されている所も少なく、自動車の数もそれほど多くは無かったので、家の前の道路や路地も子供たちの遊び場だった。そんな舗装されていない道で、二三人の子供で輪まわしをしてどこまで長く、速く走れるかを競って遊んだ。現在ではタガの付いた桶や樽が日常生活から姿を消し、遊び道具となるタガが手に入らなくなった事や、車が増え道路で遊ぶ事が危険となるなど子供を取り巻く環境が大きく変わったため、すっかりその姿を見る事はなくなった。

二人遊び(二人以上で遊ぶ遊び)

おはじき遊び(おはじきあそび)

一人遊びや数人でも遊べるが、基本は二人で遊ぶ女の子の遊び。おはじきは、昔は貝殻や小石などを使っていた。やがて陶器製やガラス製のものが現われ、お店で売られるようになり、子供たちはお小遣いで買って遊ぶようになる。xおはじきを「あんコ」と呼ぶ地方もあり、陶器製のものを「壁あんコ」といった。
遊び方は色々あり、一番一般的な遊び方は、それぞれ自分のおはじきを数個づつ同じ数出し合い、それを畳や床、机の上などにばらまく。ジャンケンなどで順番を決め、勝った者から一つのおはじきを選んで人差し指で他のおはじきをはじく。はじかれたおはじきとおはじきの間を、指先で押さえた他のおはじきが触れずに通れば、一つが自分のものとなる。それを失敗するまで続け、失敗したら変わる。こうしてより多くのおはじきを取って遊ぶ。この遊びの変形で、はじかれたおはじきの間を指先が通れば取れるルールもある。どこまでが指先か分らないが、爪を長く伸ばした子が爪先だけを通していたのを覚えているので、ルールも時代とともに変わったのだろう。
また、おはじきをはじくのでは無く、人差し指で他のおはじきに重なるように跳ね上げ、一方の上に載せれば、下のおはじきが取れる遊び方もある。おはじきを「あんコ」と呼ぶ津軽地方などでは、この重ねる遊び方が主流のようだ。
このおはじき(あんコ)は、お店屋さんごっこのお金代わりにも利用された。

狐・狩人・庄屋遊び(きつね・かりうど・しょうやあそび)

じゃんけん遊びの一種。部屋の中で二人で遊んだ。この遊びには所作が伴い、狐になるには両手人差し指を立てて両耳の上に掲げ、狐の耳を作る。狩人は左手を胸の前に突き出し、右手で引き金を引いて獲物を狙う格好をし、庄屋は、両こぶしを座った膝の上に載せて威張った格好をする。
遊び方は、はじめに「さんさん」と前文句を言い、すばやく上記三つの中のいずれかの格好をとりそれぞれの掛け声を出して、互いに睨み合う。掛け声は、狐は「コン」で「さんさん、コン」と云う。狩人は「ドン」、庄屋は「ざァえ」(左衛門の略か)で、それぞれ「さんさん、コン」「さんさん、ざァえ」と云う具合になる。勝負は狐は庄屋に勝ち、狩人に負ける。狩人は狐に勝ち、庄屋に負ける。庄屋は狩人に勝ち、狐に負けるという三すくみで、グー、チョキ、パーと同じ要領となる。
これと良く似た遊びに、お茶屋でのお座敷遊びの一つで「とらとら」というのがある。狐が虎になり、狩人が加藤清正、庄屋が老母となり、それぞれ格好も虎の姿や、槍を突く、杖を突くなどと変わるが、遊び方は同じ。

玉栗(たまくり)

江戸の兒曹が春の遊は、女兒は繍毬羽子擢、男兒は紙鴟を揚ざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪にならざる處なければ、歩行に苦しく路上に遊をなす事少し。こゝに玉栗といふ兒戯あり。(春にもかぎらず雪中のあそびなり)始は雪を圓成て雛卵の大さに握りかため其上へ/\と雪を幾度もかけて足にて踏堅、あるいは柱にあてゝ圧堅、これを肥といふ。さて手毬の太さになりたる時他の童が作りたる玉栗を庇下などに置しめ。我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる。強き玉栗を砕くをもつて勝負を争ふ。此戯所によりて、コンボウ・コマ・地独楽・雪玉(里のなまりに雪をいきといふ)・ズゝゴ・玉ゴショ・勝合などいふなり。此玉栗を作るに雪に少し塩を入るれば堅なること石の如し、ゆゑに小兒互に塩を入るを禁ずるなり。こゝを以てみる時は、塩は物を堅むる物なり。物を堅実にするゑ塩蔵にすれば肉類も不腐、朝夕嗽に塩の湯水を以すれば歯をかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は兒戯なれど、塩の物を堅する證とするにたれり。故にこゝに記せり。(鈴木牧之『北越雪譜』)

羽根つき(はねつき)

お正月の遊び。バトミントンと同じ遊びだが、羽子板で羽子(羽根の付いた玉)を打ち合う。激しい運動ではなく、主に年長の女の子(娘さん)が綺麗な着物を着て、振り袖の袖を片手で押さえ、わらべ唄を歌いながら衝いた。羽根のついた木の玉を木の板で打つので、カチーン、カチーンと音が鳴り正月気分を誘った。
羽子板は桐・杉などで作られ、片面には絵が描かれたり、押絵が付いている。羽子は「むくろじ」の実の堅い核に穴をあけ、小鳥の彩色した羽を挿したものが用いられる。はね、つくばね、おいばねなどとも呼ばれる。

羽子擢(はごつき)(我里俗はねをつくといはずはねをかへすといふうちかへすの心なるべし)
江戸に正月せし人の話に、市中にて見上るばかり松竹を飾たるもとに、美く粧ひたる娘たち彩たる羽子板を持て並び立て羽子を擢んとて、まづ其處を見たてゝ雪をふみかためて角力場のごとくになし、羽子は溲疏を一寸ほど筒切になし、これに鸜雉の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比れば甚大なり。これを擢に雪を掘木鋤を用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空にあがる事甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童はまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯をなすなり。一ツの羽子を並びたちてつくゆゑにあやまちて取落したるものは始に定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭より雪をあぶする。その雪襟懐に入りて冷に耐ざるを大勢が笑ふ、窗よりこれを視るも一興なり。京伝翁が骨董集に(上編ノ下)下学集を引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前、文安のころありしものにてそれよりもなほさきにありし事は詳ならずといはれたり。又下学集には羽子板にハゴイタ・コギイタと両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに兒女のはねをつく所もあり。(鈴木牧之『北越雪譜』)

【藤入れ遊び】(ふじいれあそび)

藤の花が咲き、その葉が伸びた頃、女の子たちの間で行われた遊び。「藤入れやらない?」と皆を呼び集め、藤の葉を沢山取って、小さい葉を葉柄から全部もぎ、長い葉柄だけにする。これを手に握って、二人づつで行う。まず、「何本出す?」と二人で出す本数を決め、それを一緒にして「大きな穴、つくれつくれ」と口々に言って地面にばらまく。まかれた藤の葉柄はいろいろな形を作るが、その中の最も大きな四角形に、自分のもっている葉柄を何本かまとめて、縁に触らないように入れる。それを相手に確認させ、それを再びそっと抜き、その数を数えてその数の分の葉柄を相手から貰う。葉柄が少しでも縁に触れれば、権利を失い相手に行う権利が移った。これを交互に行って、葉柄を多く集めて喜んだ。この遊びは古く、古書に「フジフジ」と出てきて、ハナシゴ、ツバナフリ、藤突きなどと呼ばれた。又、東京では「フジきっちょ」、新潟は「サンマタ」、長野では「フジコンバ」、秋田では「フジダメ」、岩手では「ニツキ」などと呼ばれていた。

【松葉遊び】(まつばあそび)

子供は身近なものを使って遊ぶ才能に丈ている。針のように尖った松葉を使わない手は無い。松葉を手にした子供は、大抵、それを針にして回りの子を刺して回る。刺されてもけがをする訳では無いが、子供たちは刺されまいと逃げ回る。そんな単純な遊びから、松葉の二葉を利用し、互いに絡み合わせて両方から引っ張り、切れた方を負けとする「松葉切り」遊びや、ユスリ葉を結わえた小枝をそれぞれ畳の上に置き、それを組ませてトントンと畳を叩き倒れた方を負けとする「松葉相撲」をして遊んだ。
また、女の子は、松葉の先端の針で別の松葉の先に穴を空けて通し、次々に松葉を繋いで二方連続模様の形を作って楽しむ「松葉がらみ」や、松かさを拾ってきてそれに草の葉をとってきて着せ、十二単のように襟を何層にも見えるように重ね着させて、長い草の葉を帯に絞めて「まつぼっくり人形」を作り、それを大事にして遊んだ。
数人で遊ぶ遊び

【おしくらまんじゅう】

寒い冬の日の遊び。外に出た子供たちがまず身体を暖めるために、一人の子供の「おしくらまんじゅう、やろう」という掛け声で始められる。子供同士身体をぶつけ合いながら「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」などと声を出して、お互いの身体をぶつけ合い、押し合う。これを何度も続けるうちに身体が暖まり、元気が出て、次の遊びに移っていった。
津軽地方では、「おっつけらっコやるがー」と言って始めるという。そのときの唄も「おっつけらっコ、へらもておっつけろ」と言う。また、弘前辺りでは「おっつけじょへじょこ」などとも言う。

【お店屋さんごっこ】(おみせやさんごっこ)

主に女の子たちの遊びで、そこに弟など幼少の男の子も混じる。売る物によって遊びの名称も変わる。

あぶらコ

津軽地方では、「油売り」ごっこを「あぶらコ」というらしい。むしろを敷きみかん箱に色とりどりの水の入った小さな瓶を並べて、「油売り」ごっこを始める。ひとりがむしろに座って店屋の姉さんになり、二三人の子供がお客となって、空き瓶を手に買いにくる。色水の入った瓶や、客が手に持つ瓶は、親が使った白粉などの入っていた容器の空き瓶が用いられ、その中に入れられる「赤・青・緑」などの色水は、大事にとっておいた「ねぶた」に使われた絵の書かれた色とりどりの紙を、水に溶かして作る。油に見立てた色水をすくう柄杓は、朝餉や夕餉で食べた「しじみ汁」のシジミの貝殻を割り箸の一本に割れ目をつけて挟んで作る。こうして子供たちは、ほとんどお金をかけずに道具を作って遊んだ。

ここはだき

「粉はたき」の意か。石を細かくはたいて粉にし、お店に並べて売る遊び。砥石やレンガなどの柔らかい石を堅い石の上に載せて、手にした堅い石で叩いて、はたき粉を沢山作り、この粉を四角に切った薬の包み紙につつんで粉薬に見立てて、店の主人になった子供が、お客に売るまねをして遊ぶ。
津軽地方では、岩木川の河原にある柔らかい石を「アマ石」といい、これを見つけた子供は拾って帰り、縁の下などにしまっておいて、春になり、外で遊ぶ時期がくるとこれを取り出し、兼平石(かねひらいし)という平たい石を下に敷き、堅い「カド石」と呼ばれる石で「アマ石」を叩いて粉にし遊んだという。
当然、四角い紙片でちゃんと粉薬のように包む技術がいり、これを綺麗に包める子供が薬屋の主になったのだろう。こうして子供たちは、遊びを通じて生活の技術を磨いていった。

【貝さらい】(かいさらい)

津軽地方で「貝(ケ)コさらえ」とよばれる遊び。女の子の遊びで、家の中の畳の上で行う。海で拾ってきた貝で、赤・白・黄・青などに彩色された銀杏の実を拾って遊ぶ。
まず何個出すか決め、それぞれその数だけの銀杏の実を出し、それをまとめて畳の上にばらまく。じゃんけんで順番を決め、貝で実を一個すくい上げる。また、二個、三個と並んで付いているものは一度にさらうことができる。一番最後の実は「おさめ」と言って貝もろとも裏返しにしてふせるルールになっている。貝をさらう時には、
√いものご にんじん さんしょう しいたけ ごんぼう むきだけ 納豆 やきどうふ くめ(米) とうふ
などと拾う人も回りの人も口を揃えて数え歌を唄いながら行った。現在では遊びに使えるような大きな貝殻は海岸で拾えることも少なく、銀杏の実なども簡単に手に入らなくなり、こうした遊びも行われなくなったようだ。

【影踏み鬼】(かげふみおに)

じゃんけんなどで鬼を決め、鬼になった子供は他の子供の影を踏むように追いかけ、影を踏まれた子供が今度は鬼となって他の子供を追いかける遊び。
津軽地方ではこの遊びを「かげぶつ鬼(おっこ)」と呼び、中秋の名月の前後の月明かりが明るい宵、夕食後に子供たちが誘い合って外で遊んで過ごしたという。月に照らされて出来た影は、月が雲に入ると消え、再びあらわれると濃い影を作った。影が消えると鬼は踏むものが無く、鬼以外の子供たちは、追いかけられることも無くなり一息つける。こうして月影を踏む遊びには、日中には無い面白さがあった。
また、同じような遊びで、「つながれ鬼(おっこ)」というものもある。これは、子とろ子とろ遊びの一種で、影踏み鬼の要素が加わったもの。数人の子供が縦に繋がり、一番前の子が両手を広げて鬼を通せんぼし、後の子供の列があとに続く。鬼が一番後ろの子の影を踏むと、その子に鬼が変わるという遊び。

【がろろ遊び】(がろろあそび)

がろろとはカラスのことで、カラスが田圃でタニシをついばむ様子から生まれたとされ、この名がついたともいう。
遊びは家の中の畳の上で行われる。子供たちが輪になって座った中央に、銀杏の実を蒔き散らす。そして順番を決めると、人差し指を二本突き出すように手を組み、組んだ手のひらで出来た窪みに、二本の人差し指を箸のように使って銀杏の実を挟んで入れる。それを続けて、取り損なったり、手の中からこぼれ落ちたりしたら次の人に変わる。この時、
√がーろろ、がろろ
とカラスの鳴きまねを唄って代わる。こうして、銀杏の実を沢山取った人が勝ちとなった。銀杏の実に代えて、おはじき(あんコ)やカントマメなども用いられる。

【釘さし(ねんぼう)遊び】(くぎさしあそび)

土の地面に描かれた輪に、釘(暴きれ)を打ちつけ、それを倒して遊ぶ遊び。
子供二三人から数人で、棒きれなどで地面に輪を描き、それを囲むように輪を作り、じゃんけんで釘を打つ順位を決める。一番に勝った(あるいは負けた)子供が先ず最初に自分の釘を地面に投げおろして立てる。その釘(棒)を次の子供から順番に上から投げおろし、先にある釘(棒)を倒すように地面に刺す。倒せば自分が勝者となって釘(棒)は自分のものとなる。負けた人は、次には別の釘(棒)で続けた。こうして得た釘(棒)は、勝った子供の財産となって、大事にとっておいた。
津軽地方では、この棒さしを「こぎ打ち」という。多くは稲刈りの終わった田圃などで、土を皆で踏み固め、長さ三十センチばかりの棒の先を火で焼いてこがして先を尖らせ、土の上に気合いを込めて打ちこんで遊んだ。
昔はこうした遊びが都内でも、家の前の道路や路地で盛んに行われたが、道路が舗装され、空き地も少なくなって、遊ぶ場が少なくなったことと、釘や棒先が尖っていて危険の伴う遊びだったことから、「危ない遊びは止めなさい」という母親たちの干渉で次第にすたれていった。

【源平合戦】(げんぺいかっせん)

騎馬戦と同じような遊び。男の子の遊びで、雪国では雪のある時期によく行われた。二つの組に分れ、一方を源氏、他方を平家と名付け、肩を組んだ上に大将を乗せ、大将はそれぞれ紅白の鉢巻きを締める。両者がぶつかり合い、鉢巻きの取り合いを行う遊び。騎馬戦は肩を組んだ騎馬だけで行うが、源平合戦では鉢巻きを締めただけの子供も合戦に参加し、相手の鉢巻きを取り合うこともある。源氏が白、平家が赤で、それぞれの色の鉢巻きをしめた子供が二組に別れ、陣地に旗や幟、棒を立てて争う。これを「源平どり」「源平はちまきどり」ともいい、始める前に、前軍の子供が「一、二、三!」などと合図の掛け声を掛けて始められる。

【心遊び】(こころあそび)

占い遊び。冬の厳しい津軽地方などでは心を「こごろ」と発音し、「こごろ遊び」として親しまれたという。夕飯後の長い冬の夜、兄弟姉妹近所の子供たちは、炉端に集り四方山話を楽しんで過ごした。そのうち、誰からともなく「こごろ、やらねえか」と言い出し、和紙の反故紙が用意される。一片の和紙をひねって紙縒(こより)を作り、それに炉の火を点し、別の紙に火がついたまま差す。その火が消えぬうちに次の人も同じように紙に紙縒を通す。こうして次々に差し通された紙には、燃え広がった大きな穴や、大小さまざまな大きさの穴が空く。その穴の大きさで「よし子のこごろは、広くて大きい」とか「とおるの心はちいちゃくて細かいなあ」などと言い合って楽しむ。それを始める時には始めに「誰々のこごろ」と宣言して、火の点いたこよりを紙に差し通す。

【草履隠し】(ぞうりかくし)

鬼ごっこの一種。近所の子供たちが数人で、履いている草履を片一方づつ脱いで一列に並べる。それから唄を歌って指差しながら草履を数え、文句の終わった所で止まった指の先にある草履の持主が鬼になる。鬼は草履片方をはいて目を両手で隠し、他の子供たちが皆で鬼の草履を、垣根などに隠す。「よーし」「いいよ」などという声で鬼は草履を捜し回る。なかなか見つからないと廻りの子供たちは、「上みろ、下みろ、奥の隅っこ、ちょっとみろ」などとかけ声を掛ける。鬼がなお見つけられずにいると、「鉈一丁借りれば、今出すぞ」などと降参を促す。そうして、どうしても見つけられない時には、鬼の法から、「鉈一丁、釜一丁借りた!」と降参する。
鬼が見つければ、また草履を並べて再び鬼を決める。

【こより遊び】(こよりあそび)

昔は家庭で和紙の反故紙がでると、それを鋏でほどよく切り、子供に与えてこれをひねらせ、こよりを作らせたりした。それで半紙を束ねたり、ちょっと物を留めるのに使ったりした。また、こよりで犬を作り、幼児の前に並べてあやしたりもして、反故紙もちょっとした玩具になっていた。
こより作りを覚えた子供たちは、これを使って遊ぶ。もっとも簡単で座をもり立てるのが、かぎ占い。数人が部屋に集り丸くなって座り、一人がこよりの先をちょっと曲げて手に持ち、両方の手のひらに挟んで揉むようにぐるぐる回す。この時、
√べろべろのカメ(神)コ とおといカメコ
だれ屁コふたべがな だれそれ(人の名)屁ふたべがな
だれでもかれでも 屁コふた方ずサ ちょとむげヨ
などと唱えて、唱え終わった時に回していたこよりを静止させ、こよりのカギが剥いた子が屁をこいた犯人だと言い張る遊び。これは占いの神事のまねごとであるといわれている。
家族とともに遊ぶ遊び

【影絵遊び】(かげえあそび)

家の造りが小家族向きの瀟酒な家屋となり、純和風の住宅は少なくなった。昔は居室と庭の間に廊下か広縁があって、障子で区切られていた。その障子を利用して指や小物を使ってお父さんやお兄さんが影絵を映し、それを小さな子供が何か当てて遊んだ。その影絵は、指や手を動かす事で動画のように動き、子供たちは喜んでいた。
現在では、障子の有る家も少なく、障子に指や手で犬や鳥などの影絵を作れることさえも知らないのかもしれない。

【竹の子遊び】(たけのこあそび)

今のようにオモチャが手軽に手に入らなかった時代、生活で使う様々なものが遊び道具となった。初夏に出回る竹の子もその一つだ。昔は山で掘ったばかりの竹の子を、町に出て「タケノコ、買わんかね〜」と家を一軒一軒のぞいて声を掛けて売り歩くおばちゃんがいて、こうした旬の竹の子を各家で買い求めた。その竹の子をおばあさんやお母さんが外皮を剥いて芯に近いところを削ぎ、それを家族皆で剥きにかかる。剥いた竹の子は、食べられない節のところを包丁でとって小ザルに入れておいた。こんな時、小さな子供もお手伝いした。
小ザルに入れておいた食べられない節の部分は、そんな子供の遊び道具になるのだ。節を串にいくつも差して、子供同士それを投げて競ったり、おばあさんが包丁でちょっと細工し、マッチの軸などで手桶や花差しを作って与えた。また、竹の子の皮の角を二本糸で結んで頭に被り、爪の先にも皮をはめ、両手を上げて鬼の格好をして見せたり、綺麗で柔らかい皮で梅干しを包みおやつにしてくれる。こうして子供たちは、自然のものを使って工作する術や、郷土の産物を使って遊ぶ知恵を家事を手伝いながら授かった。

【手あぶり遊び】(てあぶりあそび)

昔は部屋全体を暖める暖房は現在のように発達しておらず、囲炉裏や火鉢で暖を取っていた。そこで三、四歳の小さな子などは、冬の寒さが厳しい日には、外から帰ってくると凍えたその小さな手を自分の息で暖めながら入ってくる。そんな時、家の中にいるお母さんやお祖母さんがその幼子の手をさすって暖めてやる。囲炉裏や火鉢に火があれば、お母さんやお祖母さんがその子を側に座らせ、幼子の手を取って暖めてやっていた。
津軽地方ではそんな時、
√カレコ(鰈)焼エで、とっくらけして(ひっくり返して)また焼エで とっくらけして おみそ(味噌)つけで また焼エで お皿サとって、むしゃむしゃ
と童歌を唄いながら、子供の手を暖めてやっていたという。そんな子供にとっては、手あぶりもお祖母さんと遊ぶ一時となった。

【なぞなぞ遊び】(なぞなぞあそび)

謎かけ遊び。TVやゲームなどの無い時代、子供たちは冬の長い夜を家族とともに囲炉裏端やコタツでお話ししながら過ごした。とくに祖父や祖母のいる家では、おしいさんやおばあさんが語り部となって、昔話をしてくれる。好奇心旺盛な子供は、話の途中にも「鬼さん恐いの?」「食べられちゃうの?」などと問いかけてくる。やがて、そうした問いかけから発展し、謎かけ遊びになったりもした。
話の流れにより、おじいさんやおばあさんがなぞなぞの問題を出す。子供たちはそれに答えたり、今度は自分で出したりして楽しんだ。こうして家族団らんの時を、なぞなぞ遊びや昔話を聞きながら、子供たちは社会性を身につけていったのだろう。
冬の長い地方では、こうした遊びを多くの家庭で楽しんだ。津軽地方ではなぞなぞ遊びを始める時、一人が問いを出す前に「なんじょ」と言い、受ける側が「たでろ」と答え、続けて「立でだり弁慶、掛けムシロ」と言って問いがかかるのを待つ。また、「なぞなぞ、ななぞ、腰にさしたる小刀、蝦ピンと跳ねだ」などといって始める地方もあるという。
地域(大人)社会との関わりの中での遊び(子供のお祭り)

【おひな様】(おひなさま)

旧暦三月三日の「雛祭り」のこと。昔は代々伝わる格式のあるお雛様を持つ旧家では、それを飾って子供たちに見せてくれたという。
子供たちは三月三日の来るのが待ち遠しく、よそ行きの着物や帯を着せてもらって、友だちと一緒に出かけていった。旧家のお雛様は豪華で古式のものが多く、何段もの段に赤い毛氈を敷いた上に飾られ、それと一緒に押し絵や江戸絵(錦絵または浮世絵)を部屋のぐるりの壁に掛けめぐらし、美しく飾りたてられていた。子供たちは「ごめんください、おひな様みにきした」と挨拶して家に入れてもらった。また、「おひな様拝見、お菓子ちょうだい」といって入った時代もあった。おひな様を見せてくれる家々では、子供をお客の一人として丁寧に迎え、熱い甘酒を飲ませてくれたり、炒った米に砂糖をまぶした「あられ」を紙を三角に折った袋に入れてあげたり、お餅をあげてもてなした。
こうして「雛祭り」は、子供たちの社交的な遊びとなり、そこから家庭での礼儀作法を学んでいった。

【二十五日】(にじゅうごにち)

二月二十五日は菅原道真公の命日で、各地の天神さま(道真公を祀る社)ではこの日にちなんで毎月二十五日が縁日として、さまざまな行事が行われる。本来は旧暦(陰暦)の二十五日がその日だが、現在では新暦(太陽暦)で行い、1月25日のように初天神として各地の天満宮や天神さまは参拝客で賑わう。
弘前の八坂神社は旧暦三月二十五日は大祭の日で、この社にも天神さまが祀られていたことから、「学問の神様」といわれる「天神さま」に詣でる子供たちの姿が絶え間なかった。この日は、白い長い紙に毛筆で「松竹梅」とか「日の出」などとその子の学年に合わせた文字を書いて奉納する。これをこの地方では「大文字(おもじ)を天神さまに捧(あ)げに行く」といった。受けとった神社では、それを神前に供えてくれる。長い紙の文字は、境内の五重塔の頂から提げてくれたりもし、「大文字」がいくつも塔に下がってヒラヒラ風に舞う光景がとてもきれいに見えたという。
滅多に住んでいる地域から外に出る事のない時代、この日は子供たちにとって特別な日で、祖母や母親に連れられて町に出る。それだけでも充分わくわくするが、帰りには縁日の道端に並んだお店で、金魚や花火、駄菓子などを買ってもらえた。そして、次の年も、この日が来るのを心待ちにし、天神さまに奉納する文字を真剣に書く。こんな素晴らしい学習の仕方が、昔はあった。現在は大抵の所へは連れて行ってもらえ、欲しい物は何でもお金で買える時代だが、この頃の子供たちのわくわくする心持ちは、決してお金では買えない。

【もぐら追い】(もぐらおい)

まだ地域社会が生き生きしていた時代、村々で、あるいは集落毎にある鎮守の宮を共同で管理していた。その「お宮」の境内は、格好の子供たちの遊び場だった。
雪国のお宮では、雪に埋もれていた地面が顔を覗かせ、ノビルの芽が出る頃、地面も乾き固くしまってと、お宮の境内もきれいに清掃される。その境内を子供たちが一列になって、シタラ(藁で作った細長いタワシ)や藁打ち槌を結んだ藁の紐を手に握り、それを引っぱって歩く姿が、大正の末頃までは見られたという。もうすたれてしまって見れないが、これを「もぐら追い」あるいは「もぐら打ち」といい、地域の春を告げる行事となっていた。子供たちは朝早く神社の境内に集り、
√モッコもぐらもち ナマコ殿が通ります
などと口々に叫びながら、シタラや槌を引いて歩く。こうして、土中のモグラをその地面の下から追い出し、平らな地面がモグラのためにボコボコにならないようにした。子供たちにとって「もぐら追い」は大人社会に自分の力が役立つ機会で、晴れやかな気分になると同時に、日常の時間とは違う高揚感もあって、楽しみな行事でもあった。遊びというより地域社会の奉仕活動だが、皆ではしゃぎながら行う行事は、子供たちにとって普段の遊びと同様の楽しい時間だったのだ。こうして子供たちは、「お宮」の境内を自分たちの手で世話し、大人から「お宮」の境内が神聖な場所という事を学ぶとともに、「遊び場」として親しんで行った。
ちなみに、この頃の子供たちは、童謡の「村まつり」にある歌詞を素直に理解しイメージ出来たと思う。
√村の鎮守の神様の 今日はめでたいお祭り日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ

追記:「もぐら追い」の遊びは、現在では「もぐら打ち」という行事として残っている。鹿児島県大口市などで行なわれているこの行事は、少年たちが長い竹竿の先にわら束を括り付けたものなどを持って家々を訪れ、庭や畑などを叩いて回り、餅や菓子などを貰うという。

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