こども・あれこれ

子供の世界

童(わらべ)

現代では、子供を童(わらべ)という事は少ないが、児童という語があるように童は子供という意味を持つ。そして近代までは、子供というよりむしろ童というのが普通だった。この童という語は、「わらわ」「わらわべ」「わらんべ」「わらべ」「わろうべ」などといい、複数を表す時には「童部」とも書いた。子供という場合にそこに男女の違いが無いように、童も男女を問わずに用いられる。
児童が一般に童と称された時代には、現在の子供という概念よりも幅広い意味で用いられ、古代から中世においては、童の持つ自由奔放さ、闊達さ、率直さ、純真さ、いたずら好み、乱暴さかげんなどの特性が信仰と結びつき、現実世界を超えた別世界と交流する霊力の現れであると信じられていた。

7歳までは神の子

こうして児童が一般に童と称されていた時代、現代の私たちには想像もつかないほど幅広い意味であったとされる。この妾について横井清氏(中世史)は著書のなかで「なかでも古代ー中世においては、妾のもつ自由奔放さ、闊達さ、率直さ、純真さ、いたずら好み、乱暴さかげんなどの特性が、信仰の念とも深く結びつきながら、現実の世間を越えた、目にはみえない別世界と交流する霊力の現れであると信じられていたし、妾のつぶやき一つにも何かの予兆を汲みとり、成人には理解しかねるような妾の不可思議な行動一つにも、姿をみせてはくれない「神」の憑依を感じとっていたのである。そして、一定の年齢に達するまでは、産神の加護=支配のもちに妾が置かれているものと確信されていた。産神は、お産のあとさきに妊婦が新生児を見守ってくれる神であるが、その一定の年齢というのは、数えの七歳であり、七歳になると、この世のものとして認められると同時に産神の霊力が弱まり、いろんな危険に見舞われやすくなると信じられていた」と述べている。こうして子供は「七歳までは神の子」とされた。

童から大人へ

現代社会では選挙権が与えられる二十歳から成人とされ、それまでは未成年者として扱われるが、近世まではもっと早く成人となった。古代律令制下では、その時々の方の改正により若干の異動はあるものの、一般に一人前として諸税賦課の対象と認定されるのは十六、七歳。また中世荘園制のもとでは、血縁集団・地域社会において妾が一人前の成人として扱われるようになるのは十五、六歳であったという。
このことは、室町時代の山城国一揆にさいし、寄合の合議に参加した一揆衆の下弦が十五歳であった事実や、荘園領主のもとでの落書起請で責任能力者として認定されたのが、同じ年頃であったことから伺える。この妾から大人への区切りは近世にも受け継がれ、地域社会での若者組への加入が認められた。ちなみに、女子の場合には月経に関わり、十三歳頃が成人への転換点として特に重視されたという。
童の風体を「童形(どうぎょう)」といい、髪を切りそろえ先が肩に掛かる切り髪や、長く伸ばして垂れた髪を項のやや上方で束ねた「うなゐ髪」などの髪型で成人と区別される。これが年頃になると、男子は髪を短くして、頭上で元結(細紐)で束ねる。その束ねた箇所を髻(もとどり)といい、この髪を切ることは「発心入道」の場合が典型的なように、世俗を離れて別の世界に移る意志を明示する行為であった。このため、万一意に反して他者の手で切られたならば、それは屈辱そのものであったことから、中世末になって露頭が当たり前になるまでは、それを防ぐ目的で成人男子は頭頂部を烏帽子で覆い、髻を隠していた。一方、成人の女性は髪を長く垂らす垂髪が一般的であった。

元服(げんぶく)

「げんぷく」ともいい、男子が成人の表示として髪形をかえ服を改め、頭に冠を加えること。また、その儀式。年齢は十一〜十六歳ごろが多かった。貴人では童名を廃し命名・叙位のことがある。武士では烏帽子名をつける。十六世紀ごろから庶民では前髪を剃ることに代る。女子では髪上・初笄・裳着・鬢そぎがこれに当る。首服。加冠。初冠。御冠。(『広辞苑』第二版)
〔漢書、昭帝紀「元鳳四年春正月丁亥、帝加2元服1」注「師古曰、元、首也、云々、汲黯伝序云、上正2元服1、是知3謂レ冠為2元服1」首の服(頭衣)の義にて、即ち、冠のことなり、首服と云ふも、同じ、而して、加2元服1(加冠)と云ふべきを略し、元服とのみ云ひて、初冠(ういこうぶり)の意に用ゐるなり、案内を知るを、案内とのみも云ふが如し、冠とのみも云ふは、更に略するなり、此礼は、支那にて、冠、婚、喪、祭、とて、人生の四大礼とするより、移れるなり〕男子の、大人と成るを表する儀式。又、首服。童児の被髪なるが、成長して髪を結ひ、始めて、冠を着くるなり。男に成ると云ひ、初冠と云ひ、初元結と云ひ、冠する人を、冠者と云ふ。年齢は不定なれど、大抵、十五六歳なりき。冠礼 武家時代となりては、烏帽子を用ゐ、着する人を、烏帽子親と云ひ、随って冠者を烏帽子子と云ひ、童名を改めて名乗をつく、烏帽子名と云ふ。江戸時代に到りては、貴人の外、普通の武士は、烏帽子をも用ゐず、唯、前髪、月代を剃り落し、服の袖留をするを例としたり、戦国の世より、武士は常に戦場にありて、久しく胄を脱がざれば、前髪、月代を剃り去りて、逆上を防ぎしが、終に、一般の髪風となれり、前髪、月代を剃るは、即ち、一武士となるを表するなり。此礼、農工商にも行はれたり。明治以後は、男子、皆、散髪となりたれば、元服の礼、全く廃せられぬ。女子にも、元服と云ふことあり、「まゆはらひ」の条を見よ。(『大言海』第二巻)

童形(どうぎょう)

近世までは髪型だけで成人か未成年か明確に区別できたが、中には児童の年齢をはるかに越えた人が童と同じ髪型の人々がいた。このような人々の中には、特殊な事情で元服加冠が遅れた人もいたが、多くは制度や慣習に基づき童形のまま生涯を過ごす人々がいた。こうした人々も童とか童子と呼ばれる。『花と火の帝』にある「八瀬童子」と呼ばれる人々もそんな人々であった。また、牛車を扱う牛飼童(うしかいのわらわ)もその一例で、年若い牛飼童とともに、長年主家に仕える熟練者の「老いたる童」もいたとされ、今日の感覚ではなかなか捉えられない意味が「童」という語にはあった。
こうした童形に込められた意味合いを、中世史家の横井清氏は「神仏習合のもとでの寺社には、稚児という少年たちが奉仕していたことはよく知られている。むろん彼らも童形であった。稚児といえば、たんに幼い子を示すこともあったが、宗教組織では格別な意味をもっていた。つまり、稚児は神の依代ともみられ、「尸童(しどう)」(よりまし)とされて神祭の主役の位置にすえられたし、神そのものが稚児の童形で現れることがあると信じられさえしたのである」と述べている。またさらに、「稚児の内でも美形なのは、美童寵愛趣味が公家・武家・宗教人の世界で盛行をみた中世において、ことに女人禁制の寺院社会で男色の対象として年長・高位の僧侶たちの飽くことなき関心を惹きつづけていたことも軽視できない。稚児には、古来の幼な神(童神)の面影がかさなるとともに、「女」と「男」という二本立ての「性」観念の枠組みをはるかに越えた地平に、その価値が認められたのであり、たんに異性の代替などではなかったのである」といい、さらに「稚児は、たいていは沙弥への道をたどったが、沙弥になる前の修行において従者として雑役に従事し、これを童子(あるいは童男)と称した。そして、この童子役が宗教組織内の底辺で身分的に固定してゆくうちに、終生、雑役に従う者が生まれたのだ」という。

童子

「八瀬童子」の例のように成人しても童形の者を童子といった。堂童子と称される人々もその例で、彼らは年齢の如何によらず童形であった。この堂童子は、寺院の諸堂に隷属して駆使された半俗の下部で、寺院・霊場の警備、仏供灯明の管理、燃料・水の確保などの力役に従事しただけでなく、諸堂・内陣の扉の鍵の掛け外しというきわめて重い役目を担い、さらには年始の修正会では鬼役を勤めるなど、行事の際には重要な位置をしめ、しかるべき役割を果たしていた。
彼らは元服などの通過儀礼を経なかったために童形であるのだが、それは私的な事情や偶発的な理由というものではなく、社会での身分的な位置づけであったことによるとされ、中世の身分制における童形の意味が学会などで問われつつある。また、説話のなかにも成人とおぼしき童がしばしば登場することは、あらためて言うべくもない。大江山の酒呑童子などはその好例で、描かれる「酒呑童子」やその取巻きの鬼たちは総じてざんばら髪・乱髪で、いわゆる童風、童形であると横井清氏はいう。つづけて氏は「鬼は、住む世界を確実に童と共有したのであり、どこの誰がいくたび「退治」したとて永遠に、顔も体も真っ赤に染めつつ、年齢・世代の如何など問われることなき童子の宇宙を生き、羽ばたきつづけたのである」と書いている。

護法童子

虚構の世界に生きた童形の者たちは、共通して別世界との交流を明示するか暗示し、この世のものならぬ霊力・呪能力を持っていて、仏教説話や寺社縁起に現れる「護法童子」もその好例で、「法善神」に仕える空想上の「童子」は護法天童とも呼ばれ、乱髪を風になびかせ天空を瞬時に飛翔し、命ぜられた任務を完璧に全うするべく奔走する。
『信貴山縁起絵巻』の護法童子は毘沙門天の使者で、風切って回る金剛輪を先導に宮廷めざして天駆け、着くや否や金剛輪(輪宝)を踏み立て、床に臥す天皇の病を癒した。仏教的世界観では、風鈴・水輪の上に金輪があり、この三輪が地下から大地を支えている。そして護法童子が使ったのが「金輪の法」という息災の法であり、俗世の人間どもには「金輪際」果たせぬ、最高の呪法なのだとされている。

竹馬の友

主に武士階級の男の子たちで、共に竹馬に跨がって遊んだ仲をいう。この場合の竹馬は二本足のものではなく、笹竹を馬に見立てて跨がり、騎馬武者のごとく走り回る遊び。竹馬馳。
竹馬の友 【晋書殷浩伝】ともに竹馬に乗って遊んだ幼時の友。おさなともだち。(『広辞苑』第二版)
竹馬の友とは、をさなともだちのこと。わらはともだち。(『大言海』第三巻)

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