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このコーナーは、『幻斎ブログ』としてYahooブログに公開していたものの再掲です。
日本の成立
人類史から見た日本
地域としての日本には、大部分を占める日本人と、南に琉球人、北にアイヌ人のおよそ三つの民族から成り立っている。
この命題が間違いであることは、もう多くの日本人(日本国籍を持った人)の認識するところだろう。私が思うに、日本人とは日本語を話す人々の総体の称だと解したほうが、より整合的であると考えている。
民族といっても、人類発生は今の所アフリカで、そこから世界に移動し、移動した人々のコロニーが数十世代をかけて同質的な集団をつくり、それが民族と称されるものになる。そして、それぞれの地域で使われたコミュニケーション手段としての音声記号が言語となり、さまざまな語族を生み出した。ただ、それらが同時に発生していないことから、複雑な民族模様を描き出すことになる。
ある地域では早い段階で人々が定住し、そこに大きな同質集団が形成される。またある地域では、未だ移動途中の小規模な集団が、未発達な音声記号だけで生活しているといった状況だろう。
こうして、人類発生から地球上にそれがあまねく行き渡る波が、第一の波だとすれば、大規模な同質集団から生まれた言語とそれによって齎された文明の伝播が第二の波となる。ここから、波の生じる地点が一つではなくなり、世界の数カ所で時間差をもって現れる。こうなると、それぞれの波が出会う地点では、より複雑な波を生み出す。
また、波の伝わる速度も、徒歩から馬など動物の力を借りる時代、車や船など道具を使う時代と、文明の発展とともにより早くなる。この早まる速度も、地域により異なるために均質なものとはならない。
第一の波にしても、ゆっくりとした時の流れの中で伝り、人類そのものもその時間の長さゆえに、発祥時から大きく変わってくる。さらに、定住した集団からたえず脈動するように新たな波のうねりが起こる。しかも地理的条件に左右されながら伝わるので、地球上を覆った人類は均質なものとはならず、多様性を持った。
こうした前提で日本を考察してみると、太古の時代には未だ言語を持たない原人がアフリカからユーラシア大陸を横断し、この列島にたどりつくのにはかなりの時間を要したと想像できる。その先駆者が明石原人なのかもしれない。
脈動する人類の波は、その後も列島にたえず人々を供給し続け、旧石器時代人と呼ばれる人々や、縄文人、弥生人などの分類で、列島に住んだ人々を現代の我々は呼んでいるのだろう。その後も、列島には半島や沿海州、大陸、太平洋諸島、南方、北方から人々が移り住み、人類史的には日本人と呼ばれる人々は、複合的な人種となっている。いうなれば、世界各地に民族が生まれる時代、日本列島には大規模な均質集団は無く、日本民族と呼ばれる人種を生んではいない。
その中で、より中国大陸、南方の人々に近いのが琉球(沖縄)の人々で、より沿海州、北方の人々に近いのがアイヌの人々であって、考えようによっては、多くの日本人よりも複合度の少ない人々と言えるのではないか。
文化人類学・民俗学から見た日本
わが国は水稲耕作文化を中心とした単一民族国家である。
この命題も間違いである事は諸先達の研究で、明らかになっているが、まだ画一的な学校の歴史教育の影響から抜け出せない人が多いように思う。
文化的に見れば、関西と関東が大きく違っていることは、その言葉の違いだけでも自明で、関西人と関東人ではその肌触りが違うように感じるのは私だけだろうか。アクセントの違いは言うに及ばず、たとえば、「行(い)かない」と「行(ゆ)かん」、「白く」と「白う」、「買った」と「買うた」など、東と西ではその言葉が違っている。こうした言語学的な違いから、日本語は南インド・タミール語の系統とされるが、東日本の方言はよりタミール語の影響が強い言語で、西日本の言語は朝鮮語と共通する言語とする説もある。また、言語学者の大野晋氏は著書の中で、「非常に古い時代には、東と西とによって、別系の人種、または民族が住んでいたと見る方が良い」と書いている。それは指紋にも現れていて、西日本の人々には渦状のものが多く、東日本の人には馬蹄形が多いという。
土器の出土分布から見ても、西日本には早くから弥生式土器が現れ、東日本は弥生時代初期に後期縄文土器が発達したとされる事からも、東と西の違いがあるとみる方が自然だろう。先に、日本人は複合民族で、なかでも大陸・半島から多くの移住民があったと書いたが、言語学的な特徴を大胆に取り入れて推論するならば、まず南方からタミール語族が列島に渡来し、縄文文化を築いていたが、その後、大陸(中国)・半島から稲作文化を持った民族が移住し、稲作文化と弥生式土器を列島にもたらした。その時、先住していた人々は、東に追われる。しかし、北方には北方系の民族(現アイヌ系の人々)がいて、それなりの軋轢を生みながら、彼らは東日本に定住した。こうして、縄文後期の焼畑民族と水稲耕作民族が和合し、倭人の元となったと考えてみるがどうだろうか。
こうした東西の違いが、数百年を経ても東と西の文化の相違という形で根強く残っているのは、単純な単一民族説では説明がつかないと歴史学の網野善彦氏も述べている。
卑近な食文化の違いの例をあげるなら、東は切り餅を用い、西は丸餅を用いたり、醤油は関東では濃い色、関西は薄い色のものが好まれる。また、地主を関東では「名主」といい、関西では「庄屋」といったり、社会学的には、東は家父長制が強く、西は母系的なムラ社会制が強いという。
こうして単純に、東と西を較べただけでも、様々な相違がある。その西の中でも、近畿を中心とした地域と、北九州を中心とした地域、出雲地域など、民族的な違いが認められる。後漢書等に現れる倭の諸国、卑弥呼の邪馬台国、伊都国、狗奴(くぬ)国などを成立させていたのはそれぞれ違った民族集団で、女王国邪馬台国が勢力を増し、ヤマト国となり様々な民族集団を統一させ、全国に広がる大和政権となった。
ちなみに、狗奴国とは最後まで大和政権に対抗する勢力となった毛野(けぬ)国のこと。近代の上野国、下野国の辺りに勢力を張った民族集団とされている。
歴史のドグマ
歴史の繰り返し
「土一揆」の基盤となったのは、村落の「宮座」や「惣中」などの自治組織や共同体で、貨幣商品経済が発展する室町期から、富の偏在が顕著となり、富を蓄えた者ら(守護、地頭、寺社など)は、その富を領民に貸し付け、その利息からさらに利益を得るようになる。やがて土倉と呼ばれる高利貸しとなり、持つものと持たざる者との差が拡がった。一旦飢饉などがその地域を襲うと、農民らは乞食や非人になるか、飢死するようになる。その対抗手段として、土地の農民や地侍、商工業者が高利で富を得ている土倉や寺社に対して債権放棄(徳政)を求めて立ち上がり、その地の土豪勢力と協力して、領内から中央や寺社の出先機関にいる者や直接的な支配者である守護を追出したり、土倉や寺社に押しかけて焼打ちや掠奪などの実力行使を行った。こうした土民を中心とした蜂起があちこちで起り、自らの所属する共同体が既存の支配者に代って自治的に支配する動きが「一揆」といわれるもので、「土一揆」という語が現われるのは、文和三年(1354)と云われる。「正長の土一揆(1428年)」「嘉吉の土一揆(1441年)」などが有名。また、土一揆は、主に徳政を求めたことから「徳政一揆」とも呼ばれる。(『隆慶一郎わーるど』「歴史用語の基礎知識」)
これは、「土一揆」という語の解説に、十年以上前に書いた私の一文だが、この五百年前の状況が、今まさに私たちの国を襲っている状況とそっくりに見える。
「歴史は繰り返す」という言葉が、ここでも有効であることの証明だ。
このように見れば、現代の格差社会は、歴史の繰り返しであり、歴史的必然でもある。歴史は繰り返すが、それは単に輪のように繰り返すのでは無く、螺旋状に進み、その進む早さは加速度的であるというのが弁証法的理解だ。
では、これからの展開はどうなるのか。
ちらほら散見する「新たな共同体の創出」でこの社会矛盾を乗り越えようとする考えや動きは、室町期と同じような「土一揆」的な発想であり、これも必然かもしれない。
こうして考えると、この先訪れる社会は「戦国(混乱)期」という事になり、その後に、ようやく平穏期を迎える。
ただ、室町後期から始まった混乱期が収まるには、織豊時代までの数世代の時間を要した。だが、現在進行中の社会矛盾が止揚されるまでの時間は、恐らく一世代あるいは二世代で終ると見るのが論理的帰結かもしれない。
しかし、これはわが国だけの歴史から導かれるものだ。その後、近代文明の一員となったわが国は、世界史的なサイクルに組み込まれ、近代文明社会はそれら構成員を一蓮托生とした。富みの偏在による矛盾も世界的となり、より大きな矛盾となって地球を覆っている。それらの国々の独自の歴史的必然と、世界規模の必然が、それぞれの国単位では時差を生じるのも想像に難くない。ただ、総体でみれば、現在の近代文明社会が岐路にあることも必然だろう。
そしてその先、数十年で再び矛盾が現われ、数年で収まる。これは一世代の間に起こる。こうして時間が早くなり、人類はその歴史的役割を終えるのだろう。いや人類がではなく、一つの文明社会がその役割を終え、新たな価値観の下、新たな文明が始まると考えるが、如何。
続・歴史の繰り返し
前回に引き続き、歴史は繰り返すことについて、書いてみたい。
繰り返される歴史は、事件・事象などの小さな出来事の繰り返しから始まり、それより大きな動きの繰り返し、さらに大きな社会動向の繰り返し、社会を包む状況の繰り返しなど、それぞれの段階で複雑に関連しあって、これら総体としてのうねりが歴史の動きで、そうした歴史において本質的な部分で繰り返される事をというのだろう。
先に室町末期から五百余年後の現在、似たような状況が繰り返されていると書いた。
その室町末期の十五世紀から遡る事六百有余年前の九世紀頃にも、似たような状況が有った。
律令制度の形骸化により、ここでも富みの偏在による矛盾の噴出から時代が大きく変わっている。わけても関東地方でそれが顕著に現れ、「俘囚の乱」と言われる関東地方の争乱として歴史に残った。
「俘囚の乱」
九世紀に入ると、地方に赴任した国司らが、その権限を利用し、公民らを使って開墾させ私有地の拡大に努めるなど、公地公民とされる律令制の根幹が揺らぎ、矛盾が増大。
各地で私有財産を増やした勢力が富みを蓄え、好き勝手な振る舞いを行なう。『類聚三代記』の記述を借りると、「坂東諸国の富豪の輩」が率いる「就馬の党」と呼ばれる群盗が出没し、掠奪と殺害が横行、「凶猾党を成し群盗山に満つる」状況となった。庶民はその財力および武力によって支配される。そうした無秩序状態の中、建物が崩壊し多数の死者を出す大地震が起こり、深刻な飢饉が関東地方を襲った。
こうした状況下で囚われ人となっていた庶民が、各地で反乱を起こす。
この「俘囚の乱」を鎮めるため、桓武天皇の曾孫にあたる高望王が、上総介として下向した。
こうして、中央政府は武力で秩序の回復に努める。だが、武力だけでは矛盾は解決されず、関東は動乱状態となった。そこに関東独立構想を持った平将門が出現し、「将門の乱」を頂点としてようやく混乱期が終息する。
この混乱期で新たに出現した「兵の家」が坂東武者となり、その後、十九世紀幕末まで続く武士階級を創り出した。
整理すると、
九世紀に公地公民の制が崩れ、私有財産が人々の欲望に火を点け社会矛盾を拡大。その中でも、関東という世界で混乱が頂点となる。その時に新たな階級「武士階級」がそこで出現する。
それから六百年余の時を経て、貨幣経済の無秩序による富みの偏在が社会矛盾を増大させ、「下克上」という価値観の下、戦国期という混乱期を日本規模に齎した。この混乱を終息させたのが、強大な力による押さえ込みと、その後の封建制度確立の元での分国化による競争と日本的経済統制だった。
それから四百年余、支配階級の争いはあったものの、民衆自体は経済の発展という果実を享受し、社会矛盾はその内部で燻りながらも顕現せず、体制の変動、世界戦争の動乱期にも、未だ深層で燻っていただけだった。
そして、ようやく、貨幣経済の行き着いた先の金融資本主義で、社会矛盾は世界的規模で噴出し、その結果として起こる動乱期が始まり、現在進行中なのだろう。
江戸前史
江戸の前史
先に『閑話休題』の中で「下町と山の手」(後出)について書いたが、これらの言葉の概念は、江戸に城下町が出現した後の事。それ以前には、「下町」も「山の手」も無かったことは先述した通りだ。では、そこには誰も住んでいなかったかというと、そうではない。
人が東京地域に住み始めたのは、現在確認されるだけでも、五万年前の旧石器時代に遡ることができる。おそらくもっと前から住んでいただろう事は、東北地方などで発掘されている十数年前の旧石器遺跡の存在で、想像するに難くない。ただ、有史以前のこれらの人々から江戸人を説き起こす事は意味がない。当然、江戸という言葉(地名)が起こった後からの話になる。
そこで、記録に残る最初の江戸の住人はというと、この地に住し江戸氏を名乗った江戸四郎重継というのが一番妥当な答えであると思うがどうだろうか。
ただ、重継以前には誰もいなかったかというと、そうではない。先史時代はともかく、有史以後、支配勢力となった倭人が全国を統一する四世紀頃、倭国の権力の及ぶ地域に地方支配として、それぞれ国造(くにのみやつこ)を置き、国という地域名をつけていった。こうして、大和朝廷(倭国の政府)により、徐々に全国に現代に通ずる名称がつけられていく。現在の東京と名付けられている地域も「旡邪志(むさし)国」あるいは「胸刺(むなさし)国」という名を持ち、歴史に登場してくる。その頃にも、後に江戸と呼ばれる地の周辺に人がいたのだろうと想像できる。この頃の国造は出雲族の系統といわれる兄多毛比(えたもひ)命とされ、彼の拠点が国衙だったのだろう。さらに時代が下がり、六世紀半ば、安閑天皇元年(534)、武蔵国造職を巡り、笠原直使主と同族小杵の間で争い(武蔵国造の乱)が起こる。しかし、まだこの時代には、江戸という地名は史書に現われてこない。
大化の改新(645)により、律令制が全国に布かれ、地方行政組織が国・郡・里(のち郷)と細分化される過程で、地名も整備されていったのではなかろうか。おそらく、江戸という地名が起こったのは、この時以降と思われる。江戸と呼ばれる地は、武蔵国の豊島郡湯島郷にあり、郡の中心となる政庁郡衙は現在の北区上中里で、武蔵国国府から見ると、豊島郡は武蔵国の辺境の地であり、さらにその豊島郡の中でも江戸の有る湯島郷は辺地にある。
あいにく、江戸という地名は、まだこの時点では史料に登場しないが、この湯島郷の東京湾に面した地に、入り江の門(船着き場あるいは繋留地)という意味で「江戸」と呼ばれる地が生れたのだろうと想像できる。であるならば、そこを管理する人間がいたはず。しかし、それら役(労役)に従事する人々には名は無く、記録にも残らない。名無しの権兵衛は、いても歴史上ではいないも同然になるのだから。
ちなみに「旡邪志(むさし)国」あるいは「胸刺(むなさし)国」が「武蔵国」と書かれるようになるのは、和銅六年(713)からとなっている。
参考
律令制下の武蔵国は大国とされ、当初は東山道に属し、
久良(ひら)・都筑(つづき)・橘樹(きつき)・多麻(たま)・荏原(えばら)・豊島(としま)・足立(あだち)・入間(いるま)・比企(ひき)・横見(よこみ)・埼玉(さきたま)・男衾(おぶすま)・幡羅(はら)・榛沢(はたさわ)・那珂(なか)・児玉(こだま)・賀美(かみ)・秩父(ちちぶ)
の十九郡からなり、のち、
高麗(こま)・新羅(しらぎ)「のち新座(にいくら)」
の二郡が加えられ二十一郡からなっている。
豊島郡は、
日頭(ひのと)・占方(うらかた)・荒墓(あらはか)・湯島(ゆしま)・広岡(ひろおか)・余戸(あまるべ)・駅家(うまや)
の七郷からなる。
武蔵国の高麗郡と新羅郡
先に武蔵国が出来た時の郡を紹介し、高麗郡と新羅郡についてのコメントを頂いた。
その後、歴史資料を渉猟していて、その高麗郡・新羅郡についての簡単な記述に出会った。
それによると、持統天皇元年(687)以降、新羅人の男女や僧侶がたびたび武蔵国に移住させられていたという。その後、霊亀二年(716)に、東国に散住していた高麗人1799人を集めて、武蔵国に高麗郡が設置された。さらに天平宝宇二年(758)、渡来の新羅人74人を移住させ新羅郡が設置されたとあった。
また、天智天皇五年(666)、百済人2000余人を東国においたという記事が『日本書紀』に見え、天武天皇十三年(684)に、滅亡した百済からの渡来人23人が、武蔵国に配置されたという記録から、東国には多くの半島からの渡来人が住していたことが分かる。
先に、武蔵国国造の乱の項で述べた上毛野君小熊の一族は、大和朝廷が誕生する前に半島から来た渡来人であり、大化改新前後まで大和朝廷と対立していた毛野国(狗奴国)を構成していたとされている。そうした事情から、大和政権はその頃列島にやって来た半島からの渡来人を東国に移り住ませたのではないか。さらには、この上毛野氏の一族田道が、騎馬で半島や関東で活動していた伝説があり、半島との結びつきを示唆している。
また、この上毛野氏は河内の帰化系民族荒田別氏と結びついているとされているのも興味深い。河内の帰化系住民は、わが国に馬文化をもたらした人々で、時代が下って東国に騎馬を得意とする人々が多くいたことと考え合わせば、蓋然性の高い話となる。
さらに、関東地方に半島と深い関係を示す地名が多く残されているのも、合点の行く所で、高麗郡高麗川はもとより、狛江郡の「狛」も「高麗(こま)」から来ている。調布市にある深大寺は、寺伝によれば、天平三年(733)、高句麗の血を引く満功(まんくう)上人の創建とされ、関東では珍しい白鳳仏が安置されているらしい。
こうして見ると、東国と言われる地方は大和国が出来る前後、蝦夷、半島からの渡来人たちが混在していたと考えられ、中央の大和政権と対立する勢力が強かったのであろう。
ちなみに、彼ら渡来人は、さまざまな技術を列島に齎した人々でもあり、職能集団でもあった。彼らは、西国大和を中心とした水田耕作民とはその性格や意識も違い、後に『道々の輩』と呼ばれる自由民であろう。同じく大陸からの渡来人とされる傀儡族や山民・山窩と同じ性格の民族で、わが国は多様な民族から成立している。
下町と山の手
私の高校時代の同級生に聞けば、ほとんどの友人は山の手育ちというだろう。彼らの多くは中野、杉並、渋谷、新宿に住していたのだから。その後、下町育ちの友人も増え、山の手・下町合わせ、私の友人や仲間たちの多くは東京人だ。もちろん、私を含め地方出身の友人や知人もいるが、それでも東京育ちの友人・知人が多い。下町育ちという友人の出身は、台東区、墨田区、荒川区、中には足立区の者もいて、まさに現在ではそれらの地域は下町の範疇に入る。
山の手の人間は下町の人を「下町の下品な貧乏人」と一段低く見、下町の人間は山の手の者を「気取った鼻持ちならぬ新参者」と見る傾向があって、部外者の私は面白く感じていた。確かに、戦後、山の手と称する地域は地方から来た親たちのサラリーマン家庭の子女が多く、下町は代々続く職人や商売人の家庭の子供が多い。一般人の所得も高度成長に支えられ、会社や官公庁勤めの給料取りの方が多かった。
こうした山の手・下町の概念が、いつ生まれたのかとの興味から、それとなく資料を見ると、新興都市「江戸」が生まれた当初まで遡ってくる。
一般に、隅田川周辺から武蔵野台地東縁の谷底までの低地を下町といい、武蔵野台地の東端部の台地(山手線内)を山の手台地と呼び、そこを山の手としている。これは自然の地形から来た地域名で、多くの人が納得する名称だろう。ただ、江戸幕府が編纂した『御府内備考』によると、江戸城の膝下(膝元)を御城下の町といい、その略称として「下町」といったとされている。言い替えれば、江戸の町の庶民が住む城下の町が「下町」であって、この「下町」にしか江戸町民は住いしていない。一方、山の手は、幕末の書『砂子の残月』に「山の手は山の里(て)たるべし」とあり、「山の手」には諸藩の武家屋敷や寺院が集っていて、樹木などの自然に囲まれた田舎(里)という感覚なのだろう。
当時の川柳に、そうした山の手を揶揄したものがあるのも、「下町」=「江戸の町」で、そこに住いする人々が、また「江戸っ子」なのだ。「山の手」は町とは呼ばれず「武家地」といわれ、そこに住いする住人は各藩からやってきた下級の武士が多かったため、江戸町民から見れば野暮な田舎者の住いする地だった。
では、その地域の範囲はというと、江戸初期と幕末、そして現在では大きく変わっている。下町低地と呼ばれる湿原地帯に人が多く住むようになるのは、家康が江戸に幕府を置き、江戸城を大改修してからという事になろう。それまでの江戸周辺の地は、人家が疎らな辺地で、山の手と呼ばれる武蔵野台地は未開のままだ。信濃善光寺詣での帰りに武蔵野を通った『とわずがたり』の著者二条尼が、その著に「野の中をはるばると分け行くに、萩・女郎花・荻・薄よりほかは、また混じる物なく、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、推し量るべし、三日にや分け行けども、尽きせず」と書いているような有様だった。
家康は江戸城を改築するとともに、町割りを行ない、堀を巡らす事で湿地を住地に変え、そこに三河や駿河の町民を住まわせる。まずはそこが城下の町(下町)で、今の京橋・日本橋・神田(現在の中央区と千代田区の一部)が中心だった。その後、江戸城城地の拡幅や明暦の大火で最初の江戸の町は大きく変わる。城下の町も江戸湾の埋め立てや開発で、芝(港区)から上野(台東区)辺りまで広がり、幕末には浅草や下谷が下町の範囲になったという。江戸から東京に変わるとさらに下町は東へと広がり、大正時代には本所・深川(墨田区)辺も下町と呼ばれ、現在では荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区とその範囲は東へと広がり続ける。
一方の山の手も、当初は山手台地(文京区、港区、千代田区、新宿区の一部)を言ったが、現在では目黒区、渋谷区、世田谷区、杉並区を多くの人が「山の手」と認識し、その範囲を西へと拡げている。
所詮、下町と言い、山の手と言っても、そこに住む人々の「おらが村自慢」と同じ類のものであろう。(2010.01吉尾記)
武家政権の成立
日本に三つの政権が存在した時代
今、私たちは六十年振りの政権交代で、旧政権vs新政権の混乱した状況を経験しているが、かってわが国はもっと複雑な政権争いを経験している。
平安朝末期、藤原氏を中心とした貴族政治の腐敗から、新興勢力武家の平清盛を頂点とする平氏が新たな権力の具現者として登場し、国の最高権力者となった清盛によって貴族政権から武家政権に移行したが、平氏はそれまでの貴族政権の枠組みの中で統治する。まさに現在、民主党政権が自公政権の残滓を引きずり、政権運営を行なっている状況と、平家の武家政権はあまり変りがなかった。それは、前政権の矛盾をそのまま引き継いでいるための必然でもあるが、矛盾の増大により生じた人民の不満は解消されず、その不満を糾合した平氏の対抗勢力源氏が台頭する。もちろん源氏は新たな時代の担い手として登場した新興勢力の武家であり、時代の流れの中で求められている新たな統治者の資格を持つ勢力でもあった。
そうした状況下で、源氏の木曽義仲がいち早く平氏を北陸で破り、勢いをつけ、北陸・山陰地方の勢力を糾合し、日本海経済圏とも言える新たな北国国家の政権を作りつつあった。また、平氏に対抗する勢力として早くから関東でその機を伺っていた源頼朝も東国の足場を固めて、東国政権を実質的にスタートさせる。
一方、いち早く貴族たちに取って代わった平氏も、自らの基盤となっている西国を固め、東国で勢いを増す源氏に対抗すべく、強力な西国海洋国家を構築しようと行動した。
この時、わが国には、平氏の西国政権と、源義仲の北国政権、源頼朝の東国政権が存在していたと、歴史家の網野善彦氏は述べている。
これを経済的な観点から見ると、西国国家は大陸宋や半島との交易を重視する海洋国家を目刺し、北国国家も日本海の海上交易を基盤に国家を成立させようとする海洋国家構想であったとされている。東国国家だけがもっぱら国内の生産に基づく既存経済の国家構想であった。この三つの国家構想がその後どうなるかは、歴史が記録したとおりである。
頼朝が東国政権を樹立すると、まず支配下の東国の掌握を行う。一方、義仲は自らの権力のお墨付きを得ようと京に上り、足元の掌握をおろそかにした。その結果、義仲は同じ源氏一族で東国国家の棟梁源頼朝に滅ぼされ、東西二つの勢力の争いとなった。いわゆる源平の争いである。いざ、戦争となれば地上軍で優勢な力を持った源氏が、水軍力で勝るとはいえ地上軍の弱い平氏を下すのは当然の帰結だったといえる。
こうした歴史の流れから現代を見ると、自公政権に取って代わった民主党政権は、官僚主導の政治から政治家主導の政治に代わったとすれば、貴族政治から武家政治に代わった例に例えられる。こうした観点から、これからのわが国の政治の流れを歴史に重ねて見れば、貴族政権から政権奪取を果たした平氏の政権が短命であった事に鑑み、現民主党政権も短命かもしれない。
そして、その流れの中で生まれた新しい勢力(源氏)が複数の勢力争いの中から淘汰され、残った勢力が全国を統一する。これを現代に敷衍すると、脱官僚・脱格差、あるいは対米従属か自立した主権国か、さらには貧困の無い社会、国民生活の安定・充実を求める流れが国民の真の願う所であれば、それに答えうる勢力が出てくると思う。その前に、様々な党派が現れ、我こそはと叫ぶのだろう。その時、国民がしっかりした目を持てば、多くの国民の望む政権が生まれる。
北条氏
上杉氏と北条氏
歴史上の人物で好きな人と問われれば、迷わず上杉謙信と答える。
これには訳がある。私の故郷は直江津(現上越市)で、小さいときから郷土の英雄として刷り込まれているからだが、のちに様々な歴史関係の本を読んで見ても、その思いは強まることはあっても失望することが無い。それに隆慶一郎の影響もあって、上杉景勝や直江兼続も好きな人物となっている。もちろん直江兼続の莫逆の友となった前田慶次郎もだ。
隆慶一郎はその著書の中で、直江兼続と慶次郎を義の人として描いた。彼らの侠気(おとこぎ)は、小気味よい。ましてや現代の支配層、経済人や政治家・官僚などの権力者とは正反対の人物ではないか。こうした義の人の代表として謙信がいる。その昔、ライバルとして川中島で四度も戦った武田信玄が、同盟者だった駿河の今川氏・相模の北条氏と敵対した時、塩止めされ困っていると聞いた謙信は、信玄に塩を贈った。その時の謙信の言葉が「米塩で戦っているのではない。弓矢の道で戦っているのだ」という。謙信の正義感、男気、義侠心を現すエピソードだ。
義をもって生きる。その清々しさは何だろうと思う。
一方、嫌いな戦国大名として北条氏がいた。
これも子供心に刷り込まれた印象で、ほとんど北条氏のことを知らずに嫌いだといっていたように思う。大体、小田原北条氏の祖は、伊勢新九郎という素性もはっきりしない人物で、数々の権謀術数を持ってのし上がった成り上り者というイメージが嫌いにさせていたのだろう。しかも、関東管領職を継いだ謙信と北条氏は何度も戦っている。
謙信が軍を率いて関東に来ると、その都度、北条方は小田原城に逃げ帰り、謙信が居なくなるとまた関東に進出するということで、なんとも潔くない。
ところが、北条氏もなかなかなものだと思うようになった。
それは、これまで何となく印象だけで判断し、北条氏関係の資料をあまり読まなかったせいでもあった。最近、北条氏関係の資料にじっくりと目を通す機会があり、早雲や氏綱、氏康の事跡を知ってみると、そこには戦国の乱世を生き、関東に定着した古河公方や関東管領家の既得権益勢力、さらには土着したずる賢い中小名との駆け引きまじりの戦いを戦い抜いてきた知恵がある。
仁義礼智忠信孝悌の八徳でみれば、北条氏は特に悌に優れた家柄といえる。この悌も、現代の社会では薄れてきた徳のように思う。
小田原北条氏の始まり
前回に引き続き、小田原北条氏について書いてみたいと思う。
小田原北条氏は早雲より始まり氏直まで、五代約百年続いた。応仁の乱より始まった中央政権の求心力の低下、支配権力の腐敗で諸国は各地の実権を持つそれぞれの領主らが、領国支配・分国支配を強める動きが起きた。応仁の乱は、政権の実質的な役割を担う管領家の畠山氏と細川氏そして山名氏がその権力・利権を廻って争ったことから起こった。しかも諸国を安堵する役目の守護大名たちは、任国へ赴かず、都で贅沢な生活を送っていた。さらには、土倉を中心とする金貸し業が栄え、消費生活を送る御家人(都市民)たちは僅かな知行地を担保に土倉から金を借り、返済できずに土地を取られる政治状況が続いていたのだ。
これは現在の政治状況と似ている。自民党の一党支配で、それに安住した官僚機構は腐敗を極め、それに寄生する既得権益勢力が跋扈、適正な利益配分が行き届かず、生活民や地方経済の疲弊を生み、今、改めて地方分権が叫ばれているのだから。
こうした状況下で、早雲が現われた。早雲は縁故を頼って寄宿した今川家の家督を廻る内紛が起こりそれを調停。その功で駿東郡の興国寺領を今川家から分与される。これが北条氏の初めての領地となった。今川家にとって、駿河国の辺境の地などどうでも良かったのだろうが、伊豆国と隣接するこの地を与えられた事が、早雲にとって幸運となる。当時、伊豆国には足利将軍家の足利政知が堀越公方と呼ばれて韮山にいた。その堀越公方家でまたまた家督争いから、継母とその子を殺して公方家を継いだ茶々丸と、それに異を唱える家臣らが衝突し、伊豆国は争乱状態となった。この機を早雲は見逃さず、今川家から伊豆平定の名目で兵を借り、堀越公方足利茶々丸を滅ぼし伊豆国を手に入れたのであった。
守護でも守護代でもない一介の武人が一国の領主となった。しかも公方家を滅ぼして領国を手に入れた噂は、あっという間に全国に広まり、これを境に下克上の機運が一気に高まったとされる。
また、早雲はただ運が良かっただけの人物ではない。支配者としての卓越した才もあった。自分が新参の他国者の領主である事を充分承知していたのだろう。早雲は大胆な減税策(四公六民)で領民の人心を掌握する。それまでは六公四民、良くて五公五民、中には八公二民という農民泣かせの支配が普通であったのだから、領民から早雲の政策が高く支持されたのはいうまでもない。これなどは、住民税減額を打ち出して名古屋市長となった河村たかし市長と通ずるものがある。
早雲の撫民政策はこればかりではない。伊豆侵入に際しても彼の面目躍如となる逸話がある。伊豆半島に上陸する際、早雲は部下に村民を傷つけたり、掠奪、暴行などを厳しく禁じたばかりか、たまたま上陸した地で流行病がある事を知った早雲は、病人を手当てすると共に、医薬品や医に通じた人員を置いて行軍した。これなど早雲の庶民に対する思いやりの現われで、これによって地元民の信頼を得た早雲は、以降の進軍で妨害などされず、韮山侵攻を楽にさせた。まさに「情は人の為ならず」を地で行く行為であったのだ。
小田原北条氏の祖早雲を改めて見直すと、為政者がとるべき姿勢をこれらの逸話が物語っているように思う。
関東独立王国の夢
小田原北条氏には大きな野望があった。それは、関東に独立した王国を創るという夢。
この関東独立王国を目指した人物には、北条氏より遡る事およそ六百年前、平安朝時代の十世紀初め、藤原政権による過酷な圧政に苦しむ関東の豪族を束ね、中央の王朝政府に叛旗を翻した平将門がいる。将門はその卓越した武人としての能力と、人々を引きつける魅力を備えた指導者として、瞬く間に中央政府からの支配者である国司たちと戦い、国府を陥落させていった。慌てた中央政府は、ただちに追討の軍を送り、ほぼ関東を手中に収めた将門の軍と激しい戦を展開。その合戦の最中、総司令官の将門が、流れ矢に当って討死すると、関東の軍勢は総崩れとなり、関東独立の夢は破れた。
早雲はこうした将門が果たせなかった夢を、実現しようと思ったのかもしれない。多くの戦国大名が、中央を目指し天下を取ろうとする中で、中小の豪族が割拠・蟠踞する関東に目を向け、中央政府から独立した独自の支配体制を打ち立てようとしていたと小和田哲男氏は述べている。先に早雲は現実主義者と書いたが、伊勢を発つ時、僅かな土地を手放し、それを旅用に当て旅立った、一人の男の描いた大ロマンではなかろうか。ただそのロマンを実現させる過程で、決して日々を夢想で過ごすことなく、「あるをばあるとし、なきをばなきとす」というリアリストの目が早雲には有った。
さらに早雲は、行動する前には周到な準備を行ない、決して無理をしなかったり、無駄な殺戮をしないという合理主義者でもある。こうした現実的で合理的な考え方は、当時まだ各国大名の城・館には存在しなかった常備軍を、いち早く城内に常駐させている事からも窺え、戦わずして勝ことや、敵を滅亡させるのではなく帰順を歓迎する姿勢、追いつめた敵に一度は逃げ道を与えている事等々、戦乱の世に有って独自の支配者としての理念を打ち立てている。この理念は、単なる領主としての考え方から大きく乖離している。大げさに言えば、理想的な国作りを目指さなければ、このような理念は現われないのではなかろうか。この理想が、早雲に始まり氏綱、氏康、氏政と受け継がれ、実践されたことは、その後の領土拡張の戦いや、為政者として民を大切にするという政治に現われている。
ここで氏綱、氏康、氏政と受け継がれと書いたが、北条氏は決して専制君主ではなかった。そこには上層階級による合議制があり、早くから封建的国家制度が北条氏の領国には確立されていたのだ。代々の当主である氏綱、氏康、氏政は北条国家の求心力として機能していただけで、実際の政治を行なう評定衆や御馬廻衆の家臣団にも、早雲の理想が引き継がれていたと見るべきであろう。それでなければ、伝統的に独立心の強い関東の豪族を従わせることは出来なかったように思う。いわば時代を先取りしていたわけで、このことが秀吉政権の絶対的な君主のもとに組織された軍事力の前では、反って災いし、後の世に「小田原評定」と揶揄される歯がゆいばかりの行動となり、早雲の関東独立国家構想も夢と消えたのだった。
小田原北条氏五代の秘訣
東京の日野に移り住んで、早四十年近くになる。生れ故郷では無いが、すっかり日野の住人になっているなと思う。日野と言えば土方歳三というほど、隣村の近藤勇とともに歴史ファンにはすっかり馴染みの土地で、その証しとして、いつしか私もその新撰組贔屓となり、土方歳三ファンになっているからだが、時代をもっと遡れば、興味深い歴史が周辺には沢山ある。あの大久保長安も隣市八王子に馴染みの人物であるし、もっと広く、武州という範囲で考えると、小田原北条氏を抜いては語れない。そこで、今回もその北条氏について書いてみる。
早雲の伊豆国奪取が下克上の魁となったことは前回書いたが、その戦乱の世にあって、小田原北条氏は秀吉が天下統一するまでのおよそ百年間、一族を発展させた希有な戦国大名であったといえる。戦国の時代、力が有るものが家を継ぐのが当り前で、例え長男であっても能力がなければ、すぐに一族の優秀な者に取って替わられる。それが下克上の倣いでもある。そうでなければ、すぐに他国から侵略され、城と領地を奪われるのだから。しかし、小田原北条氏は早雲以来、五代継いで、一度も家督争いが起きていない。そればかりか、氏政以外、全員長子が家督を継ぎ、弟たちは皆その兄を助ける立場にいた。氏政とて、兄が早世しただけで、第二子とはいえ実質長子と変わりがない。
この北条氏の長子相続制度は、封建制か確立する江戸時代にこそ、当り前となったが、早雲の時代では先駆的な制度と言われている。この制度を作り上げたのは北条氏の始祖早雲に外ならないが、おそらくこれは、早雲自身がお家騒動によってその地位を得てきたため、自らが領主となった時に、その家督争いの馬鹿馬鹿しさをしっかりと教訓にしたのだろう。有名な『早雲寺殿廿一箇条』にも二代氏綱の氏康に残した五ケ条の遺言にも、ことさら兄弟仲よくなどとは書かれていない。わざわざ書かなくとも、親子兄弟争うことの無意味さを、あるいは「忠」「信」「孝」「悌」の徳を当り前のこととしていたに違いない。
また、早雲の残した遺訓が、しっかりと後代に受け継がれていることも、北条氏繁栄の大きな要素であろう。早雲は徹底した現実主義者であったとされ、決して無謀な戦い、無理な作戦は行なわず、確かな情報の下、周到に用意を重ね、相手の心理を読み、時期を違わず、果敢に決断して実行している。こうしたリアリズムが北条氏の北条氏たる所以なのだと思う。そのリアリズムが、ロマンを求める私には今ひとつ好きになれなかった部分なのだろう。しかし、ロマンだけでは生きられない。『早雲寺殿廿一箇条』にあり、隆慶一郎も作品の中で引用している「只こゝろを直にやはらかに持。正直憲法にして。上たるをぱ敬ひ。下たるをばあはれみ。あるをばあるとし。なきをばなきとし。ありのまヽなる心持。佛意冥慮にもかなふと見えたり。」という言葉が、今、私の心に響く。
成田氏
忍城を築いた成田氏
武蔵の名城忍城は、
延徳三年(1491)、この地を領していた土豪児玉重行を滅ぼした成田親泰の築城と伝えられる。忍川流域の沼地に築かれた城は、本丸・二の丸などの各郭を橋で結び、忍の「浮き城」と称され守るに易く攻めるに難い堅城として知られ、代々成田氏が居城。北条氏に与した成田氏が籠るこの城を、上杉謙信は永禄六年(1563)と天正二年(1574)の二回にわたって攻めたが落とせなかった。天正十八年(1590)の小田原攻めの際には、城主の成田氏長は弟泰親を引き連れ小田原城に籠り、城兵ら三千が守備する忍城を、石田三成が二万三千の兵で攻囲したが落ちず、作戦を水攻めに変えても落ちなかった。小田原城落城後、氏長の降伏を命じる使者が到着してようやく城を明渡したという。北条氏が滅び徳川家康が関東に入府すると、この忍城には松平忠吉が十万石で入城し、以後、江戸期を通じて親藩、譜代の大名が入り江戸城北辺の守りとした。
現在城趾には行田市役所などが建てられているが、近年本丸跡に御三階櫓と称する天守閣が復元さた。
交通/秩父鉄道「行田市」駅下車 徒歩10分
(『隆慶一郎わーるど』「史跡・建造物一覧」より)
と記述にあり、築城者とされる成田氏は、藤原氏あるいは小野氏の末裔が成田郷(現埼玉県熊谷市)に住し名乗ったと言われる武蔵国の名族。戦国期、関東は中小領主による所領の奪い合いが始まり、成田親泰が武蔵国忍郷の児玉氏を攻めて忍に進出、忍城を築城した。以後、成田氏は忍城を拠点に勢力を張った。
そこで、忍城のある地は忍郷で行田郷ではないにも関わらず、その地をなぜ行田というのか。その疑問に答えてくれる資料に出会った。
それは『松屋叢話』という一書で、そこに、
◯武蔵国忍城をば。または成田といふ。西遊行嚢抄二之巻に。忍城ハ成田代々ノ守城也とて。成田城ともいふよし。後太平記。豊臣家譜。宗長東路土産廻国雑記。など引て記したり。按に。楠正行をまさなりとよび。連行をつらなるとよみ。御行をおなりといふなど。みな同言にて成の字も同かれば行田と通し書るを。今は字音にぎょうだとは呼ならへり。東鑑にはおほかた行田とぞ書たる。
と書かれている。
ここで書かれている内容は、「成田」は「行田」とも書き、初めその音は、どちらも「なりた」と読んでいたが、その後、「行田」を「ぎょうだ」と読むようになったという事のようだ。
『松屋叢話』というのは、源与清という者の著で、松迺屋または知非斎と号した。武州多摩郡小山田村に生れ、江戸在住の商家高田茂右衛門の養子となり、村田春海に師事、後に家務を孫清常に譲ると旧姓の小山田に復し、将曹あるいは外記といったと解題にある。
ちなみに、上杉謙信が関東管領として小田原北条氏を攻めた時、謙信に従っていた成田長泰(親泰の子)は、鶴岡八幡宮に参拝する謙信に対し、他の諸将が下馬して謙信を迎える中、一人長泰だけは「家例」だとして下馬せず、謙信と不和になったというエピソードがある。
親謙信派の私としては、この成田長泰は何者ぞ、己の一族が名門という事を鼻にかけた傲慢な奴だと思いながらも、反面、自尊心を保ち、時の権威に諂わない剛毅な武将、天晴れとも思う。
琉球国
琉球王国の悲劇
琉球王国は日本と大陸中国の間にある群島にあった王国の称。その範囲は、今の奄美諸島から沖縄本島を挟んで、与那国諸島あたりに及ぶ。
この琉球王国のあった南西諸島に、いつごろ王国が出来たかというと、1180年頃、各島々に群居する土豪たちを従わせた舜天から始まるとされる。もちろん、その前から島々には人が住んでいたわけで、おそらく大陸や半島、日本列島、それにルソン島などから来た海人が多く移り住んでいたのだろう。その舜天王の時代が八十年ほど続いた1260年頃には、英祖が新たに王朝をつくり、これも八十年ほどで滅ぼされ、1345年に察度が継ぎ、1406年には尚思紹の王朝となる。1470年になって尚円が王位につき、ようやく琉球王国は落ち着いた。日本では平安後期から室町中期にあたる。尚王朝が出来た室町期、当初幕府は勘合貿易で積極的に明国と交流を行なっていたが、倭冦が大陸の沿岸部に現われ、掠奪や放火など海賊行為をやりたい放題行なったため、日本に取り締まりを求めた明国の要求に、幕府は有効な手を打てず、業を煮やした明国政府は日本との貿易を禁じてしまう。
その頃、琉球国は明との間には進貢を通じて良好な関係を築き上げていたことから、対明貿易が変わらず行なわれていた。こうした事から、直接明との交易が出来なくなった日本の商人たちは、琉球を通じて商品を売り買いするようになる。こうして琉球国は交易の中継点となり、尚王朝は豊かな経済力を得て発展することになった。貿易や商業で豊かになると、領地の奪い合いは割に合わなくなって、次第に領主同士の戦いがすくなくなり、中央集権を確立した尚真王(1477?1526)は全土の武器を集め、王府の武器庫に収納、琉球王国は平和の道を歩み始めるのであった。
しかし、この平和は日本および薩摩によって踏みにじられることになる。まず秀吉政権が、薩摩の琉球国に対する領有を認め、替わりに琉球の課役負担分を薩摩に求めたことから始まった。薩摩は琉球王朝に過分な負担を要求。しかし琉球政府にはそれを収める義理はない。また農業国でない琉球に糧米の蓄えが有る訳も無い。時の王尚寧は出来うる限りの糧食を薩摩に送ったが、全く足りず、薩摩が不足分を秀吉に差し出さざるを得なかった。この事を口実に、慶長十四年(1609)、薩摩藩主島津家久は琉球出兵の軍令を発した。総大将樺山久高率いる三千の兵が百余の軍船で出撃し、奄美大島、徳之島、沖永良部島を次々と攻略、沖縄本島北部の運天港に上陸した。
琉球国も守備隊を繰り出すが、戦国を生き抜いた薩摩兵の敵ではなかった。平和に慣れた琉球の武士たちは、武器庫に眠っていた古い刀剣類を持ち出し抵抗を試みるが、しょせん蟷螂の斧でしかない。上陸から僅か六日で首里城は包囲され、尚寧王は無条件降伏する。これがいわゆる「薩摩の琉球侵入」「薩摩の琉球入り」あるいは「慶長の役」と呼ばれる戦役である。この戦で、薩摩は奄美諸島を直轄領にしたのだった。
現在、鹿児島県の一部となっている奄美諸島は、もともとは琉球国の領土であり、現在でいえば沖縄県の版図に入る。領土、領地問題は、現在の理屈からいえば、歴史的に見てどこまで正当性があるかという話になるのだろう。私は、無防備な平和国家に侵略した薩摩に正当性はないように思うのだがどうだろうか。
あるいは軍備を怠った琉球が悪いのであり、やはり武力を持たない平和主義は他国の侵略を受けて、国が滅びる良い例だと思うのであろうか。
琉球国の歴史を通して
武器を捨てた平和国家であったことから、薩摩の侵略を許し、その属国となった琉球王国だったが、政治体制は古代王制のままであった。薩摩の属国となったことで、近世封建制がもたらされ、この薩摩侵攻を境に琉球は「古琉球」と「近世琉球」に分けられるとされている。
琉球国が薩摩に攻略されたとはいえ、江戸幕府の徳川家康は途絶えている対明貿易の復活を望んでいて、明国と親交のある琉球王国の滅亡は望んでいない。薩摩藩としても、琉球王国が無くなっては交易で得る利益がなくなるし、徒に大国明を刺激することは得策ではなかった。こうして幕府と薩摩藩の利害は一致し、薩摩は、奄美諸島を直轄領としたが、それ以西の琉球はそのまま王国として残すことになる。
そして、幕府から琉球の支配権を認められた薩摩は、王国の形をそのまま残し、外交的には薩摩のコントロール下で明国との朝貢貿易を維持、内政的には従来の古代的な制度を廃して、近世的、つまりは封建的な社会秩序を整備して幕藩体制との一体化を計った。この琉球統治の基本方針は十五条の掟として王府に示された。だが、掟が示されたからといって、すぐに古代的な社会が近世的に変わるものではなく、琉球社会に近世的な合理主義が芽生えるにはさらに長い歳月が必要であった。
琉球の社会は薩摩の属国化で、政治・経済・社会すべての面で暗黒の時代に入る。万国津梁の国を誇った往時の独立独歩の気概は萎え、人心は沈滞し、世相は頽廃を極め、人々は誇りと希望を見失って絶望のどん底にいた。そんな社会の変革者として現われたのが、羽地王子朝秀(はねじおうじちょうしゅう:唐名尚象賢 1617?75)であった。
1666年、王府の最高ポストの摂政に就任した朝秀は、この腐朽した国家を再建するには、諸制度の改革と人心の振興が第一と考え、薩摩支配下の現状を容認し、現実的な対応を実行するほかはないと、薩摩の統治の基本方針に沿った現状改革を断行する。古来の祭礼行事の簡素化を行うには、琉球とヤマトを一体化させる必要があり、『羽地仕置』で日琉同祖論を展開、古琉球から引きずってきた琉球独特の制度や慣習を清算し、幕藩体制の枠組みの中で琉球社会を再編する必要を説いて内政の改革に着手した。
まず役人たちの腐敗ぶりを徹底的に糾弾し、王府の機構の刷新を断行。古くさい慣習や儀礼、祭礼などを大幅に縮小するか廃止し、「節用愛人」をモットーに、経費節減と適材適所の人事政策を実行する。だがこうした改革が素直に受け入れられたわけではなく、王府に巣くう守旧派から猛反発を受ける。こうした状況を朝秀は「わたしを理解してくれる人は琉球には居ない」と嘆きながら「わたしの政治に文句のある者は遠慮なく申し出てくれ、自分が相手になってやろう」と宣言している。
この朝秀の改革とそれに対する一部の国民の反応を見ると、まるで現在の我国の政治状況とそっくりではないかと思う。
なにはともあれ、朝秀の改革によって、王府の組織は整備され、財政も立ち直り、ようやく琉球は近世を迎えた。さらに、この朝秀の改革後、朝秀の路線を定着させた人物が現われる。その人物とは具志頭親方文若(ぐしちゃんえーかたぶんじゃく:唐名・蔡温 1682?1761)で、一般には蔡温と呼ばれる思想家で卓越した政治家のことである。彼は学者から政治に入った人物で、朝秀が改革者とするなら蔡温は堅実な実務家タイプの政治家であったといわれている。蔡温の最も特筆される功績は、その政治思想にあり、国民道徳の道を平明に説き、薩摩支配下の経国濟民の道を指し示す国民教科書ともいうべき『御教条』を世に出したこととされている。この国民道徳書によって、薩摩支配の二百七十年間、琉球が琉球として一個の国民精神を堅持しえたと、沖縄県立博物館の嶋津与志氏は述べ、「朽ち縄で馬を走らせる」ような苦心をはらって国家の舵取りを誤らなかった朝秀や蔡温のような政治家がいたことが、現在の沖縄の人の心の温かさを育んだ、と結んでいる。
どれだけ沖縄の人々が日本に苦しめられてきたのか。そして、現在も一部の利害関係者や既得権益者によって、日米同盟の名のもとに駐留米軍の基地を抱えさせられ、経済の豊かさとはおよそかけ離れた状況の中で、沖縄の人々の心が豊かなのは、辛い薩摩時代を経ているからではなかろうか。
黒田勘兵衛
黒田勘兵衛が事
黒田如水こと勘兵衛孝高は、戦国末期、己の才覚と知恵、そして先見性で筑前太守の大名家にまでなった黒田家の祖。その如水について、森銑三氏の著書にあまり知られていない話が取り上げられていた。
天正十年六月、信長が本能寺で明智光秀の奇襲を受け憤死した時、秀吉は中国征討のため方面部隊を指揮し中国地方に大軍を展開、この地方の最大の勢力毛利氏と備中高松で緒戦を戦っていた。毛利氏側の防衛線とも言える高松城を包囲した秀吉は、得意の水攻めを行なう。その水攻めが功を奏しはじめ、形勢は秀吉率いる信長軍の有利に展開、まさに高松城落城は時間の問題かと思われたその時、秀吉の元に信長急死の知らせ入る。この時、与力として秀吉の帷幕にいて作戦参謀として重きをなしていたのが勘兵衛だった。勘兵衛は直ちに明智を打つべしと進言したという話は知られているが、それ以外に、勘兵衛が秀吉にいったという言葉もある。
夜を徹して京へと急ぐその中国大返しの途次、ひたすら前方をみつめて馬を駆る秀吉の横に、ぴたりと馬を並べ「藤吉郎、上様が御生害で嬉しかろう」と腕を掴んで言う者があった。それが勘兵衛で、突然主君を失った驚きと怒り、そして悲しみの中、一刻も早く信長公の敵を討とうとする忠義の行動ではあるが、それだけではない秀吉の本心を言い当てていた。
それから、十数年、天下人となった秀吉は、伏見で大地震が起こり、居城とする伏見城が倒壊するという事態に見舞われた。この時、数百名もの死者が出たという噂と共に、秀吉公が亡くなられたという噂も流れ、家臣等は急ぎ城に駆けつけた。だが秀吉は倒壊する建物から素早く庭に避難し、無事だった。翌日、家臣が見舞いに訪れると、秀吉は一人一人にねぎらいの言葉を掛け、勘兵衛の時になって「勘兵衛、夕べおれが死んだと聞いた時は嬉しかつたろう」と言って、先年の仕返しをしたという話が載せられている。
ちなみに、勘兵衛が如水と号したのは、秀吉の警戒心を解くためであったといわれている。天下取りレースで幸運をつかんだ秀吉が、同じレースを闘っていた勘兵衛の知恵者としての才を一番買っていたのも秀吉で、勘兵衛が朋輩の関係から主従の関係になったとはいえ、油断のならない男と見られていたために、息子長政に家督を譲り剃髪して如水と号したのだ。まさに水の如しという心境を現しているのだが、その意味する所は深い。
また、同じ書の中に、如水の倅長政とその家臣後藤又兵衛基次の話もある。
又兵衛は、朝鮮の役で亀甲車を考案し朝鮮の城を攻略したり、大坂の陣では真田幸村や明石全登などと共に大坂城に籠城し、豊臣方に加勢した浪人の一人として、その名を後世に伝えている。このように名前が残っているのは、一武人として卓越した才を有していたからだが、その又兵衛が、仕えていた黒田家を去ったのは、主君長政との間がしっくりいかなくなったからだというのが通説となっている。もちろん、そうした事情があったのだろうが、ただそれだけでは無かったと森銑三氏はいう。
又兵衛は母親孝行で、黒田家の地福岡で一緒に暮らしていたが、その母親が故郷の大坂に帰りたがり、やむなく母親を故郷に帰らせていた。その母親が倒れ、看病のために黒田家を辞したのだ。その母親は、又兵衛が向かっている途中で亡くなり、仕方なく又兵衛は、途中の播磨でしばらく過ごし、その後、京で浪々の生活を送った。
長政とて、才智優れた家臣である又兵衛が黒田家を去ることを看過した訳ではなかろう。あれこれ慰留に努めるが、又兵衛の心は変わない。そんな又兵衛に対して、長政も黙って見過ごしてはいなかった。又兵衛が京にいることを聞いた長政は、剛の者二人を密かに京に送り、又兵衛を討ち取らせようとしたのだ。又兵衛討取りの命を受けた二人は、又兵衛を襲撃する機会を狙った。ある時、又兵衛は下僕一人だけ連れて町に出る。この時とばかりに二人の刺客は、木戸の陰に身を隠し又兵衛を待ち伏せた。又兵衛はすでに気づいている。二人の側を通る時、「われらを討ちに参ゐつたか」と一言浴びせ、悠々と通り過ぎて行く。二人は、又兵衛の大胆な振る舞いに圧倒され、手がでなかった。
首尾を果たせず国元に帰った二人は、仕置覚悟で長政に仔細を報告する。すると長政は、「いかさま、さうでもあつたらう。そち達を後藤に差向けたのは身の過ちぢや。勘弁せい」と笑い、立腹するどころか二人に百石づつ加増した。
秀吉と勘兵衛(如水)、長政と又兵衛、いずれも優秀な部下を持った者の、愛憎半ばするエピソードだ。しかし、勘兵衛にせよ又兵衛にせよ、彼らは乱世においてその才能を開花させた。乱世が終れば自分たちの出番は終ると、彼ら自身が一番良く知っていたのだろう。如水はともかく、又兵衛や雪村といった大坂浪人組たちは、幕引きのための最後の花として咲き、華々しく散っていった。
真田幸村
真田雪村大坂入城の事
「真田左衛門佐信賀は、父安房守昌幸と同しく、高野山九度山に配せられ、父昌幸は慶長の末に彼地に病死す。左衛門佐、独九度山に住居せ しか、大坂御陣の初、秀頼公より大野修理亮治長承にて御頼有しかは「大坂の城へ可篭」とて内支度する。紀伊国守浅野但馬守長晟よりも橋本峠村近辺の百姓共に下知して「若世上騒き候へは、真田左衛門佐大坂走篭む事有へし。油断不可仕」旨触られたり。高野門主并衆徒中よりも、其旨九度山辺へ申付る。真田は此色を察しつゝ「九度山近辺、橋本・到下・橋谷等の庄屋・年寄・小百姓、不残振舞候はん」と触廻し、不残九度山宿所 へ呼寄、仮屋を打て、数百人並居、様々饗応し、酒を出し上戸も下戸も不論酒を強る事不斜。皆酔臥、前後も不知成ける時、百姓共の乗来れる馬共にひた/\と荷をつけ、妻子をは乗物に打乗せ、上下百余鉄砲弓を前後に押立、紀川を渡り、橋本・到下・橋谷へかゝり、木目峠を越、河内へ入、大坂さして趣けり。道筋の百姓共は、不残九度山に集り酔伏たり。在々所々には、女童扨は小百姓計なるに、真田は鑓長刀抜身にて鉄砲に火縄はさみ通りけれは、可止様なし。百姓共は是を不知、沈酔して、其夜は真田か宿所に酔臥し、夜明酔さめて見れは、真田宿所には一人もなし。雑具迄取払ひ、跡形なし。「是は出し抜れたり」とて東西を尋れ共、昨晩退たる事なれは、可追付様なし。橋本・到下・ 橋谷の己か家々に帰尋れは、留守の者共「昨日の八つ時分に、真田殿は奥方御子達引連、 馬共に荷を付け、弓鉄砲押立てつゝ、河内の方へ通り給ふ」と告けれは、百姓共皆頭を かひて後悔すれ共甲斐なし。」
これは、『武辺咄聞書』にある雪村大坂入城の記述であるが、『仰高貴録一名松代遺聞』という真田家の士が書いた写本には、別の記述がある。
雪村は、慶長十八年十月八日の夜、高野山の或る僧房にいた。雪村は僧どもに招かれ、従者一人をつれて出掛け、僧たちとたわいもない話に興じたり、碁を囲んだりして時を過ごしていたのだった。ちょうど初の亥の刻となり、搗きたての亥の子餅の馳走になっていると、回国修行を終えた高野聖が帰って来て、話がまたも賑わった。「何か変わったことはござらんか」という問いに、高野聖は得たりとばかりに話し始める。変わったどころか、今にも戦が起こりそうだといい、各地に関所が設けられ、警備が厳しく、怪しい者はくい留められるなど諸国往来の者は難儀していて、幕府の役人の動きも慌ただしくなっている現状を語り、もはや、大坂方と関東方の正面衝突が避けられそうも無いという話をした。それを聞いた僧たちは、思い思いに意見を述べる。豊臣方の肩を持つものもいれば、「すでに戦う前に勝敗は決まっている。わしは徳川じゃ」と、現実順応型の僧もいた。そんな話を黙って聞いていた雪村にも、「真田殿、お手前はノ」と水を向けられる。
雪村は「さようでござる。世が世なら、それがしなども打って出て、一働きいたさうものを、かやうな浪々の身となり果てては、それも詮ないことでござる。まあ、亥の子の餅のご相伴に与って、高みの見物をするくらゐが、関の山でござる」と笑って交わした。それに釣られて僧たちも笑い、「さらば、われらもまた一いくさいたさうか」と、改めて碁盤に向かう者がいる。雪村はそれを見て、厠に立つと従者を招き寄せ、そっと耳打ちした。
「いよいよ大坂へ打ち立つ時がまゐった。すぐさま帰って支度をいたせ。追っ付けまゐる。かねての申しつけ通り、一同は街道への出口で待て」従者は「心得ました」と万事を飲み込んで去る。
雪村は再び座に戻り悠々として、碁の勝負を眺めていたが、「夜も更けたらしうござる。どりやお暇いたそう」と、軽く挨拶して立った。僧たちは盤の上の戦いに夢中で、雪村の事など誰も気をつけていなかった。
下山するなり雪村は、宿所にもよらず定めの場所に向かう。そこにはすでに物の具に身を固めた武士たちがすでに控えていた。雪村は用意されている馬にひらりと跨がると、高野の山を後にし、翌日には大坂に入城したとある。
『武辺咄聞書』にあるように、雪村は百姓どもを酔わせ、酔いつぶれた隙に、その百姓どもの馬をかっさらって大坂に向かったという話と随分違う。
この話を紹介した森銑三氏は、「雪村は高野を出づるのに、近村の百姓等を、酒宴に招いて酔ひつぶさせ、その乗って来た馬に乗って出でたといふのであるが、雪村ともある者が、土民の馬を盗んで、それに乗って入城したといふのでは、器量を下げざるを得なくなる。『仰高貴録』に伝ふるところの方が、真を得てゐようと思われる」と書いている。私も森氏の意見に従いたい。
大名の概念
大名の概念の変遷
現在、大名というと江戸幕藩体制下、幕府により万石以上の領主を大名とすると制度化された諸国(藩主)大名をイメージするが、大名という名の起こりは、土地の経営者である名田堵(みょうでんと)からきている。
田堵とは、「田畑現地」を意味する田頭(でんとう)のことであったが、のち土地の直接経営者である田堵住人をさすようになり、荘園領主の土地を請負って耕作する耕作経営者をいい、土地所有者としての権利は有していなかった。その耕作者が次第に耕作権を強め、土地所有の方向へ進み、その所有した土地に自分の名をつけ名田(みょうでん)と称した。
初め名田堵(みょうでんと)と称し、大土地所有者を大名田堵(だいみょうでんと)、小規模のものを小名田堵(しょうみょうでんと)といった。その田堵は「主」と同じ意味を持つことから、大名主(だいみょうしゅ)、小名主(しょうみょうしゅ)となり、大名(だいみょう)、小名(しょうみょう)と呼ぶようになった。
ちなみにこの「名田堵」から生まれた「小名主」は、たんに「名主」とも呼ばれ土地持ちの称となり、江戸時代の「名主」(なぬし)の語源となっている。いってみれば、「大名」と「名主」は、その出自を同じくする言葉である。
これまで国土は律令制の下、公地公民であったが、寺社領、院領、親王領という形での「荘園」と呼ばれる私的領有が行なわれるようになると、公地公民制は崩れ、変わって荘園制が一般的な土地所有の形態となる。平安後期には、その荘園領の在地土地経営者が私的に所有する土地(名田)の所有者を大名・小名と呼んでいただけで、大名といっても武士的性格は備えていなかった。
しかし、荘園の所領地がこれら名主たちの台頭で蚕食されると、在地の有力者(地頭)による土地の囲い込みが横行し、彼らはその所有地に一族郎党を住まわせ、武装させて自らの土地を守るようになった。こうして名主たちの中に、在地の武士化した豪族(国人)と化すものが現れたのである。鎌倉時代に入ると、これら武装し武士化した大土地所有のものを大名というようになる。
なかでも、財政的な基盤を強化する目的で、文治元年勅許を得て全国の公領・荘園に、土地の管理、租税の徴集など経済的任務を主として置いた地頭が、その地位と権限を利用し在地領主(武士)化する例が多くなる。
一方、国家の統治制度であった律令制が荘園制によって骨抜きになったとはいえ、中央政府の行政機関として、それぞれの国府の国衙には官人組織が残っていた。この官衙を監督強化する目的で、鎌倉幕府はそれぞれの国に形骸化した国守に変わり大番催促、謀叛・殺害人の逮捕という軍事・警察権を有し、管轄地域の御家人の検断権を持つ守護を置く。
守護は管内の地頭御家人に対して大番役勤仕などに招集する権限を持つとともに、地頭に比べて広範囲の地域を支配。やがて彼ら守護が自らの領国支配のために、管轄領内の在地領主(武家)化した地頭を被官として支配下に置き、守護の領主(武家)化が一方で進んだ。
こうして制度と現実の間に矛盾が生れ、それが大きくなって古に帰ろうとした建武親政期を経て、南北朝の動乱が起き、再び足利尊氏による武家政権が生まれた。
足利幕府は領国支配のために守護を新たに任命し各地に置くが、これは鎌倉幕府時代の守護よりも領主的性格の強いいわゆる守護大名であった。
守護大名は守護職という職=権利を幕府から与えられたもので、領国を所有するのではなく、あくまでも国内の権利行使を行なうものであって、幕府権力を背景としていた。そのため、幕府への求心的傾向が強く、幕府と結びつきの強い家柄や親密度がかなりの重要性を持った支配階級が占める。彼らは屋形・大守・諸候などと呼ばれ、守護請段銭、守護出銭などで幕府の財政を支えていた。
だが、荘園領内の中における守護の領主化という二重支配の矛盾が権力闘争を惹起し、国を二分する応仁の乱へと発展。中央の権力争いが幕府の権威を失墜させて、混乱は地方に波及する。この混乱に乗じて荘園領、守護領内で在地領主同士の領地の奪い合いが始まり、さらには自領の拡大を目論む守護大名が現われたり、守護に変わってその領地を奪い取ろうとする者も現われ、下克上の幕が上がったのだった。
こうして誕生するのが戦国大名と呼ばれる領主たちである。この戦国大名は、守護大名とは異なり、自らの武力と人望で在地の国人、民衆を従えて一円を知行地化し、分国法と呼ばれる独自の法秩序を持って、中央政府から独立した権限を持つにいたった。
この戦国大名には、下克上の風潮とともに様々な階級から支配階級へとのし上がってゆくものが多くなる。守護大名から戦国大名に移行した例としては、東国の佐竹・武田・今川氏、西国の大内・大友・島津氏、機内では細川・六角・畠山氏などが見られるだけで、このうち鎌倉時代から江戸時代を経て明治維新まで続いた武家は島津氏だけとなっている。
それ以外、すべて元の領主の被官であったり、他領の有力勢力の進出であったり、在地の豪族であったりする。
戦国大名の出自を見ると、守護代、準守護代などから戦国大名となったものに、上杉・朝倉・織田・尼子・三好氏などがあり、地頭・国人層からなったものに伊達・松平・浅井・毛利・長宗我部・竜蔵寺・有馬氏など、さらに守護大名の家臣・国人からのし上がった北条・由良・斉藤・松永氏などがある。
こうした大名の変遷を整理して見ると、
初め在地の耕作経営者を「名田堵」と称したことから起こった「大名田堵」を呼称の始まりとし、「大名主」から「大名」となる。この時点では、武家的性格はなく大土地所有の者を言っていた。
鎌倉時代に入って、一族・郎党を武装させ広大な所領地を持つ者や、領地を有する武家を「大名」と称し、武家的な性格を持ち始める。
室町期になり、中央の武家と呼ばれる階級から任じられた領主的権限を持つ守護が各地に置かれ、それらを「守護大名」と呼ぶに至って「大名」=「武家」の図式が出来上がる。やがて、武力に拠る武家同士の領地の奪い合い(戦国期)が始まり、守護大名の支配地を領有した武家が、「戦国大名」と呼ばれるようになる。
その戦国大名から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが現われ、動乱に終止符が打たれた。その天下統一の最終章にいた家康によって作られた江戸幕府は、一万石以上の知行地を持つ武家を「大名」として制度化し、幕府の統治機構に取り込んだ。これが現在我々のイメージする「大名」の概念となっている。
家系と血筋
私の母方の祖母は相馬家のお姫さまであったと、母方の兄弟が集まるたびに聞かされていた。まだ私が小さい頃には、その祖母の母親にあたる大祖母さんがいて、その人を相馬のばあさんと言っていたように思う。また、祖母は筆を能くし、和歌にも通じていたので、あながち叔母たちの話も嘘ではないのかなと思っていた。
ただそんな事にはなんら関心を持っていなかった私は、聞えてくる以上の内容を知ろうとも思わなかったし、当然、家系を調べた事も無い。家系的に言えば、祖母の婚姻先の家、つまりは祖父の家が私の家系ということで相馬家ではないのだが、いつしか相馬と聞けば耳をそばだてていて、なんとなく関心を持つようにはなっている。
直系ではなくとも、その家系をたどるのも面白いと思い、相馬の系譜を調べると、祖先は桓武平氏に遡り、その子孫に相馬小次郎と称した平将門がいる。どうりで、中央の権力に逆らう血が騒ぐ訳だ、などと訳の分からぬ理屈を玩んで喜んでいる自分がいる。
わが国は欧米と違い、血統という系譜より、家系という系譜が強い。庶民はともかく、いまだにその家柄を大事にしているいわゆる上流層がある。どこそこの家の出であるとか、家柄が良いとか、とにかく血脈でなく、その出自の家系が大切にされて来る。
それもそのはずで、源氏と言おうが、平氏と言おうが、あるいは藤氏(藤原氏)と言っても、その祖をたどれば、源氏、平氏、藤氏等々、血脈は入り乱れてくる。
例えば、徳川氏の場合をみても、二代秀忠の子家光は、母が織田信長の姉の子お江与で、浅井氏(正親町三条家を祖とする藤氏)と織田氏(平清盛の孫資盛を祖とする平氏)の血が混じっている。血脈的に言えば家光は、源氏ともいえ、平氏とも、あるいは公家の藤氏を祖とするといっても良い。それだけ、日本人は狭い世界で交配を続けてきたのだ。
だからこそ、家系を重視し、嫡流・庶流、本家・分家などとその家系に優劣を付け、差別化することで、家父長制度が確立した鎌倉期以降の秩序を形成させてきたのだろう。総領家を継ぎ家系を絶やさない事が、一族の拠り所でもあったのだ。その家系は、血筋が繋がってなくとも良かった。それは養子縁組であったり、家督を譲り受けて継ぐ場合もある。戦国大名の上杉氏は、越後長尾家の長尾景虎が山内上杉憲政から管領家の家督を譲り受け、上杉氏を称し上杉家を継いだ。その謙信自身にも子が無く、謙信の後を受けた景勝は長尾家からの養子である。
上杉氏は勧修寺流藤原氏を祖とするので、藤氏という分類だが、謙信以降は長尾氏の血流で、長尾氏は高望王(桓武平氏)を祖とする平氏であるというわけで、血筋は平氏、家柄は藤氏ということになろう。そもそも江戸期以降の家系図などというものは、その家柄を由緒有るものにするために、遡った最後には、血脈を源氏、平氏、藤氏などの貴種に強引に結びつけるのを慣いとしていた。
と、ここまで書いて気がついた。どうも私は、平氏に縁があるようだ。生国所縁の上杉氏にしろ、出自に繋がる相馬氏、現在住いする地域には平さんが多くいて、江戸幕府が出来る前までは、北条氏が支配していた。そのいずれもが平氏に繋がっている。
これも牽強付会には違いないが・・・
鬼平
鬼平こと長谷川平蔵異聞
TVドラマなどで有名な池波正太郎の『鬼平犯科帳』は、この鬼平こと長谷川平蔵を主人公としている。『清陰筆記』に「盗賊を捕らえて死刑に処し、僅かの間に六百人の首を刎ねたり」と記されているように、平蔵の火付盗賊改としての働きは目覚ましく、悪化した江戸の治安回復に尽力、将軍から時服を賜わる。放火・強盗などの凶悪犯に対する取り調べは厳しく、「鬼平」と綽名されるが、庶民からは「今大岡」と賞賛された。
平蔵はこの火付盗賊改として取り締まるばかりでなく、幕政にも参画し、江戸湾の佃島・石川島を人足寄場(職業訓練所)とし、犯罪者の社会復帰に供するなど民政にも力を注いだ。しかし、老中松平定信に嫌われ、人足寄場が軌道にのると金五枚をもって役を退けられたという。以後、火付盗賊改の仕事だけに没頭し数多くの仕置(裁判)に精を出すが、過労がたたったためか寛政七年(1795)五月、突然倒れ五十一歳の生涯を閉じた。
と、『隆慶一郎わーるど』の「人名事典」に書いたように、平蔵は江戸の治安維持に尽力した正義感の強い、職務熱心な幕府役人であったと思われ、51歳の若さで亡くなったのは、今で言う過労死ということになるのだろう。
その平蔵について、江戸後期の嘉永年間(1848?1853)江戸城西の丸留守居役内藤安芸守忠明の書いた『内安録』に、平蔵の記述があるので紹介しよう。
火附盗賊改といふ役は、仮令ば町奉行勘定奉行は大芝居、加役は乞食芝居と人口にいひ伝へたれど、夫よりも猶いかゞと思ふ事は、忍び廻りの自身召捕を、組にて御馬先と唱へ、立派な名目にてあれど、何日には忍廻りをすると組へ達せば、組のものも二三日も前より五里六里先にて、召捕しものをその日の頭の休息する自身番屋へ朝よりクゝシ置、組の吟味するもあり、又組にて□□其ものを御馬先捕と唱へ、自身捕の取扱にする也、魚猟御成の前日、取溜鷭雉鶉御成の鳥と同じ取扱に、卑賤なりとも人間を比するは本意なき様也、勝手入用の為に在方捕ものをかせぎ、組のものは御褒美の為に火附をあらそうは、猶更本意なし、しかいふは当時の小量をのみいふことにて、吉原、芝居、角力、年の市、花火のあげ初など、すべて繁華の所々へ忍び歩行とは、今の世には迚も出来ぬ業にて、むかし人の大量甚感ぜり、
大つごもりには、必ず夜中歩行て、深川或は高輪にて初日を拝し宿へ戻、御禮には二日登営する古例也、按に加役は無罪の非人を屋敷内へ呼置、昼夜罪人を扱役なれば、觸穢の憚、元日には登営せぬことなるべし、
ここに加役とあるのは火附盗賊改の事で、頭とあるのは長谷川平蔵の事。自身番屋は現在の交番か。平蔵が忍び廻りをしていたことは、『江戸會誌』「人足寄場」の項に書かれている。忍び廻りというのは、今で言う大臣視察のようなもの。
ここで内藤安芸守は、役目熱心な平蔵に、部下たちが、事前に知らされた視察日に、前もって捕らえた科人を交番に留め置いて、さも今捕らえたように報告し、褒美に与っていた事を、どうかと思うと書いている。同時に、そんなことは小さな事で、自ら危険を伴う繁華な場所へ出向き、民衆の中へ入って職務を行なっている平蔵に感銘した事を書き留めた文である。
長谷川平蔵は、時代的な制約があるにせよ、立派な役人だったと見るべきであろう。己の立場と既得権益勢力の利益に汲々とする、どこかの特捜部長のような人物ではなかった事だけは確かだ。
火附盗賊改(ひつけとうぞくあらため)
市中を巡回し盗賊および放火犯を逮捕する役。先手頭の兼職。
先手頭(さきてがしら)
先手組の組頭。
御先手組(おさきてぐみ)。始めは三十四組あったが、後には弓八組、鉄炮二十組となった。先手頭が一人づつあり、与力、同心を率いた。蓮池・平川口・梅林坂・紅葉山下・坂下の五門を交替で警衛し、将軍が上野・増上寺に参詣するときは両寺を警護する役。武勇のすぐれた者のなかから選んで任じた。
歴史資料の解説と現代語訳(意訳)
日本書紀
日本書紀
神武天皇編
磐余彦(いわれひこ)の父の名は「ひこなぎたけうがやふきあへず」といい、母の名は玉依姫といった。磐余彦はその二人の四番目の子として生まれる。彼は生まれながらに賢く、意思も強かった。十五歳の時に王の後継者となり、成人して日向国の吾田村から吾平津媛(あひらつひめ)を迎え妃とした。そして妃との間に手研耳(たぎしみ)を生む。
45歳の時、兄弟や子供たちに語って聞かせた。
私の先祖は、天照大神が天の岩戸に籠った時、その岩戸の扉を開き、大神の行幸の露払いをして、この地日向に来た。
まだ世界が暗い闇に包まれていた時、暗いながらも日向の地で我らの先祖は、豊かな国を創り善政を施し民を治めていた。そのころ、日向から遠くはなれた地域では、村ごとにそれぞれの首長がかってに治めているので、我々のような王の恵みを得られていない。
さて話は変わるが、吉事を告げる塩土という老人がいうには、東に周囲を山に囲まれ緑豊かなところがあり、その地に「空を飛ぶ舟」に乗った繞速日(にぎはやひ)という者が現れ、この地に都を造ろうと言っていたという。
私が思うに、その地は大きな事業をするために最適な土地のようだ。そこに我らが国の首都を造ろうではないか。と言うと、皇子たちも同意し、早くそこへ行きましょうと磐余彦を促した。
それは甲寅の年の話です。
甲寅の年の冬十月一日、神武天皇は一族と水軍を引連れ、東征の途についた。舟が速吸之門に着くと、一人の漁民が舟に乗り近づいて来た。天皇が「お前は誰だ」と尋ねると、彼は珍彦と名乗り、地元の者だが、曲浦で釣りをしていたら、天王が来ると言うので迎えに出たという。
天皇は、彼に道案内を頼むと、彼も承知した。そこで天皇は、椎の木でできた竿を差し出し、彼を自分の舟に引き入れる。そして、彼に椎根津彦という名を授けた。この椎根津彦は倭直部の始祖である。
彼らはさらに進み、筑紫の宇佐という場所にたどり着く。ここには宇佐国造の祖先となる菟狭津彦・菟狭津媛がいた。
天皇はここで從臣の天種子に、この菟狭津媛を娶らせたのだった。天種子というのは、後の中臣氏の祖先である。
十一月一日、神武天皇は筑紫国の岡水門に着いた。十二月一日には安芸国に着き、立派な屋形に住んだ。翌年の春三月一日に、吉備国へ移動し、仮の屋形を立てそこに居した。この屋形を「高島宮」と言う。それから三年の月日が経過し、舟や食糧が蓄えられると、天下を平定したいという欲望が涌いた。
戊午の年二月一日、遂に天皇は舟を並べて東征の途についた。難波碕という所に差し掛かると、そこは大変潮流の激しい所であったため、その地を「浪速国」と名付けた。これを「浪花」とも言う。現在、難波というのはこの「浪速」「浪花」が訛ったものである。
三月一日、川を遡り、道なき道を行き、盾津(草香津)に至った。
夏四月一日、軍勢を整えて竜田に向おうとしたが、その道は狭く嶮しかったので進む事ができず引き返し、東の生駒山を越えて奈良盆地に入ろうと試みた。
その時、長髄彦がこれを聞き、天神の子孫という者は必ず我が国を侵略する意図があるのだと軍勢を集めた。こうして神武軍と長髄彦は孔舎衛坂という所で戦い、神武軍の司令官五瀬命の脛に矢が当り、神武軍は進む事が出来なかった。
神武天皇はこれを憂慮し、あれこれ作戦を思いめぐらせた。そして、今回の作戦は太陽に向って進んでいたためで、天の子孫である我らが日に向って戦をしたため、天の道に反していた。ここは一旦退却し、敵に弱いと思わせよう。改めて天の神と地の神に祈り奉り、太陽を背にして戦えば、天の力で敵もおののき退散するであろうから、血を流すことも少なかろうと。諸臣同意し、全軍に退却を命じ、草香村まで退きそこで盾矛を並び立てて武威を誇示し、軍を奮い立たせた。
よってその地を「盾津」と名付けた。今「蓼津」というのはその転訛である。また先に、「孔舎衛」の戦で大きな木の陰に隠れて難を逃れた人が、その木を指して「母のような恩をその木に感じます」と云うのを聞き、その地を「母木村」と名付けた。
五月一日、紀伊国茅渟の山城水門という所に着く。その時、手傷を負っていた五瀬命の傷が悪化し、彼は剣を握りしめ「ああこの私が、卑しき人間の手に懸かってその仇を討つ事もなく死ぬのか」と悔しがった。それから軍勢は竈山に向うが、その地で五瀬命はついに落命し、彼は竈山に葬られた。
六月一日に、神武の軍勢は名草村に到着する。ここで名草戸畔という女性のボスを殺し、狭野を越えて熊野の神村に着き、天磐盾という山に登る。さらに軍勢を率いて徐々に進軍した。
海上にいる時に暴風に遇い、船団は漂泊し、稲飯命が歎いて「ああ、私の先祖は天の神、母は海の神なのに、なぜ私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのか」と言った。
そして剣を抜いて海に入り、鋤持神となった。三毛入野命もまた恨んで「私の母と叔母は、共に海の神だ。それなのに何故波浪を起して、溺れさせるのか」と言って、浪に中に消え、常世郷に行きました。
天皇は兄弟を失い一人になって、皇子手研耳命と一緒に、軍勢をを率いて進み、熊野の荒坂津(丹敷浦)に着いた。この時、丹敷戸畔という女のボスを殺した。
その時、神が毒気を吐いて、人々は悉く病に伏した。是によって、神武天皇の軍勢は進軍する事が出来なくなった。ちょうどそこに、熊野の高倉下と言う人物がいて、その夜、彼は夢を見た。それは、天の神である天照大神が武甕雷神に「それ葦原中国(本州あるいは奈良盆地)はまだ争いが絶えない。お前がそこに行って鎮めよ」と告げている夢だった。
さらに夢の中で、武甕雷神がそれに答えて、「私は仰せに従い行きますが、国を平定するための剣を下されば、国は自然に治まります」と言う。天照大神は「承知した」と言っている。
さらに高倉下の先祖武甕雷神が彼に語りかけた。「私の賜ったフツ霊(ふつのみたま)という剣は。今まさにお前の倉庫の裏に置いておく。それを取って天孫である神武天皇に捧げなさい」と告げたのだった。
高倉下は「おお」と言って目覚めた。そして翌朝、夢の中の教に従って、倉庫を開いて視ると、果して天より落ちてきた剣が倉庫の底板に突き刺さっていて、高倉下はそれを取って神武天皇に捧げた。それまでぐっすりと寝ていた天皇が、突然目覚めて、「私は何時間寝ていたのだろう」と言う。さらに毒に当って眠っていた兵士も、全員目覚めて起き上がった。やがて神武の軍勢は、中洲に進軍を始める。しかい山中は嶮しく、進むべき路も無い。
ただ彷徨だけで、進むべき道が分からなかった。その夜、神武天皇は夢を見た。天照大神が天皇に教えるように、「私が今、頭八咫烏を遣す。それに従って行きなさい」と告げた。
果して頭八咫烏が空より翔び降ってきた。天皇は、「此の烏が来るというのは、自分の夢が叶えられる吉祥だろう。偉大な我が皇祖天照大神は、私の大業を為す事を助けてくれるのだろう」と言った。
この時、大伴氏の遠祖日臣命が大来目を引連れて現われた。彼らは兵軍の大将として、山を踏み開き、烏を追い、その烏の向う方向へ進む。すると莵田下県という所に到着し、その地を莵田の穿村と名付けた。神武天皇は勅して日臣命を誉め、「お前は忠義に励みしかも勇気がある。我らが軍勢を導いた功績を認めよう。そして、お前の名を道臣と改めてあげよう」と言った。
秋八月の一日に、天皇は莵田県の豪族兄猾と弟猾を呼びつけた。しかし、兄猾は従わず。弟猾が馳せ参じた。そして、神武天皇の陣門を見て、その勢威に驚き、「私の兄兄猾は、あなた方が来るというのを聞いて、兵を起して襲うつもりです」と言う。
「神武の軍勢を高みから眺めた兄は、その軍勢の多さに怖じ気づき、新宮を作って兵を潜ませて、饗応する振りをしてそこに導き入れ襲うつもりです。くれぐれも油断なさらないでください」と言う。天皇は道臣命を遣して、それを偵察させた。道臣命は委しく調べ、その陰謀を知って大いに怒り「お前ら、自分で作ったその家の中に居ろよ」と言い放つ。兄猾は罠を仕掛けた中に軍勢を誘い入れようとするが、罪を天に獲た彼は、神罰が当り、崩れた家に押しつぶされて死んだ。
神武天皇はその屍を斬り刻み、流れた血がス�ワで達したという。故にその地を名付けて、莵田の血原と言う。そして、弟猾は牛や酒を用意し、神武の軍勢の労をねぎらうために饗応した。
天皇は酒肴を、兵士らに分け与え、謡を謳った。
莵田の 高城に 鴫羂張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鷹等障り 前妻が 肴乞はさば 立稜麦の 実の無けくを 幾多ツソゑね 後妻が 肴乞はさば 斎賢木 実の多けくを 幾多ツソゑね
(莵田の高城に鴫網を張って、鴫が懸かるのを待つが、鴫が懸からないで鷹が懸かった。古女房が分けてくれというので、肉のついてない痩せた部分を与え、若妻には肉がたっぷりついた部分を分け与えた)
これを久米歌と云う。今、楽府でこの歌を謡うときには、舞いの手の拡げ方、音声の強弱が有り、これは古式に則ったものだ。この後、天皇は吉野の地を見たいと望み、莵田の穿邑より、自ら軽装の兵を率いて視察した。吉野に至ると、人が井戸の中より出て来た。その人物は光って尾がある。天皇がその人物に、「おまえは誰だ」と問いかけた。その人物は、「私はこの土地の者で、名を井光といいます」と答えた。この人物が吉野首部の始祖である。更に少し進むと、また尾の有る人物が磐石を開けて出てきた。天皇がその人物に、「おまえは誰だ」と問いかけた。その人物は、「私は磐排別の子です」と答えた。この人物が吉野の国樔部の始祖である。さらに川に沿って西に行くと、梁を作って魚取する者がいた。天皇が問いかけると、その人物は、「私はュcミu担の子です」と答えた。これが阿太の鵜飼の始祖である。
九月一日に、神武天皇は莵田の高倉山の戴きに登り、大和の国中を望見した。時に、国見丘の上に八十梟師という猛将がいたので、女坂に女性軍を配置し、男坂に男性軍を配置して、墨坂という所に赤く焼けた炭を置いた。女坂・男坂・墨坂の名前は、これが起源である。また兄磯城の軍がいて、磐余邑に布陣している。天皇に逆らう賊の拠る所は、皆、要害の地だ。そのため、道路はすべて塞がれ、通れる所が無い。天皇はこれらを憎み、その夜、自ら祈り眠りについた。夢に天神が現われ、「天香山の社の中の土を取って、天平瓦を八十枚造り、併せて神酒を入れる瓶を造り、天神地祇を敬ひ祭りなさい。そして潔斎して呪詛を行なうことだ。こうすれば、敵は自づから平伏するだろう」と告げた。天皇はその夢のお告げを聞いて、将兵らにその話しを披露する。その時、弟猾が申し出た。「大和国の磯城村に、磯城の八十梟師がいます。また高尾張村には赤銅の八十梟師がいます。これらの賊党は皆天皇と戦うつもりです。私は天皇を慕い憂へております。今から天香具山の埴土を取ってきて、天平瓦を造り、天神・地祇を祀る社を造り、それらの神を祭りましょう。そうして後、敵を撃てば、彼らを排除できましょうから」と言った。天皇は喜び、椎根津彦をして、卑しき衣服と蓑笠を着せて、老父の格好にさせた。又、弟猾には箕を着させ老ケ痰フ姿に変えさせ、「お前たち二人、天香具山に登り、密かにそこの頂の土を取ってきなさい。私達の偉業の成否は、まさにお前たちの肩にかかっている。油断するなよ」と言った。
この時に、敵の兵が道に溢れていて、通行もままならない。椎根津彦が「我らが大王が、神意によってこの地を国に定めたのであるなら、道は自ずと開かれるであろう。もし、そうでないならば敵に妨げられよう」と言って道を進んだ。
敵兵たちは、二人を見て大いに笑ながら、「なんだ、みすぼらしい老人と老婦ではないか」と言って、二人に道を開けたのだった。ハ
こうして二人は山に登る事ができ、土を取って帰って来た。天皇は大いに喜んで、持ち帰った土で、多くの平瓦と聖なる瓦を作り、丹生川の上流に行き、社を造った。ハ
この地が莵田川の朝原という所で、森厳幽谷の地である。
そして天皇は、「八十平瓮を使って水無しで聖なる瓦を造ろう。これができれば、武力を使わず、座して平和が訪れるだろう」と、神意に賭けた。
すると自然に捏ねられ聖なる瓦が出来上がった。天皇は再び神意に賭けた。
「この瓦を丹生川に沈め、魚がそれに酔って浮き上がれば、私は必ずこの国を平定できるが、もしそうで無ければ、私の事業は失敗したという事だ」と言って聖なる瓦を川に沈めた。
しばらくすると、魚が水面に浮き上がり口をパクパクさせた。
これを見た椎根津彦が、それを天皇に報告すると天皇は大いに喜び、丹生川の上流にある榊を抜き取り、諸神を祭った。
この時から聖なる瓦を置くようになる。
それから天皇は道臣命に告げた。「私は今から自らに高皇産霊尊を乗り移らせて、祭祀を執り行う。お前を巫女と見立て、祭祀の主とし、そこの瓦を聖なる瓦と名付ける。また、火の名を聖なるカグツチと名付け、水を聖なるミツハノメ、食べ物を聖なるウカノメ、薪に使う木を聖なるヤマツチ、草の名前を聖なるノヅチと名付けよう。
冬十月一日に、天皇は聖なる瓦に盛った食べ物を食べ、兵を整えて出陣した。
まず土地の強者を国見丘で撃退する。この戦勝で、天皇の志は必ず成し遂げられるという強い意志を現すために、謡を舞い歌った。
「伊勢の海の大石に這いまわる細螺のように、わが軍よ、細螺のように這いまわって、必敵を撃ち敗かしてしまえ、敵を撃ち敗かしてしまえ」
歌の意味に合わせて、国見丘に見たてた岩の上に登って舞った。
しかし、敵の勢はまだ多く、実情はなかなか把握できない。そこで道臣命に「大来目部を率いて忍坂村に大室を作り、大宴会を催して敵を誘い入れ、討取りなさい」と命じた。
この密命を受けた道臣命は、忍坂に大室を掘り、勇猛な者を選んで敵の中に混ぜ入れる。そして「宴たけなわになった頃、私が立ち上がって歌を歌うから、お前たちはその歌声を聴いたら、直ちに敵に斬りかかれ」と示し合わせた。
こうして集った土民たちとの宴が開かれたが、土民たちはそこに陰謀があることは知らず、勧められるままに酔い始めた。
頃合いを見計らって道臣命が立ちあがり、
忍坂の大きい室屋に敵が多勢入っているが、入っていても、御陵威を負った来目部の軍勢の頭椎の剣、石椎の剣で撃ち敗かそう。
と歌った。
この歌を聞き、潜入した仲間たちが、頭椎剣を抜いて、一気に土民たちに襲いかかり、一人残らず討取った。天皇らはこれを聞いて大いに喜び、天を仰いで笑う。そして歌を歌った。
蝦夷を、一人当千の強い兵だと人は言うけれども、来目部に対しては、全然、抵抗もしはしない。
皆はこれに倣って歌った。しかし、率先して笑った訳ではなかった。
この時、天皇が言う。
戦に勝って驕る事が無いとは、良い将兵である。今、一番の強敵が滅び、敵は恐れおののいているが、同じような賊がまだ十数ある。その実情は把握できない。ここに滞在し続ければ、どんな叛乱があるかもしれない」と言って、陣営を移動することにした。
十一月一日、天皇が率いる軍勢は磯城彦の勢を攻めることにした。それに先立ち、使者を遣して、兄磯城に従うように要請した。兄磯城はその命に従わなかった。更に、八咫烏を遣して帰順するように促す。八咫烏、兄磯城の陣営に行って告げる。「天皇さまがお前を軍に加わるように言っているよ。さあ行こう」と鳴いた。兄磯城が怒って「優れた大王が来たと聞いて、私は妬んでいる最中に、なんで烏が来てうるさく鳴くのだ」と言って、弓を射ったので、烏は逃げ去った。
八咫烏は次に弟磯城の宅に行き「天皇さまがお前を呼んでいる。さあ行こう」と鳴いた。弟磯城がかしこまって「優れた大王が来ると聞いて、朝夕、畏れ奉っておりましたら、大王の使いの鳥が来た。素晴らしいことだ」と言って、平皿八枚に餌を盛って饗応した。
そして烏に従い、天皇に拝謁して「私の兄の兄磯城は、大王が来ると聞いて、武装した猛者たちを集めて戦おうとしております。早く対策を立てるべきです」と申し上げた。
天皇は諸将を集めて「今、兄磯城が逆らって我々と戦うつもりだ、呼んでも来ない。どうしたものか」と述べた。諸将たちは「兄磯城は悪賢い人間です。まず弟磯城を遣して、諭しましょう。同時に兄倉下・弟倉下に説得させましょう。それでも従わなければ、兵を挙げて征伐しても遅くはないでしょう」と述べた。
しかし、弟磯城たちはなお頑固に戦う事を主張し、承知しない。そこで国人の椎根津彦が、「では我らが女性軍が忍坂から進軍しましょう。敵はそれを見て必ず精鋭軍を派遣するでしょうから、私は強者を率いて墨坂に行き、行軍を邪魔している真っ赤に燃えた炭に水を掛けて消します。敵が忍坂に向いている隙に、不意をついて攻撃すれば、負けることはありません」と申し上げた。
天皇はその作戦を誉め、女性の軍団を進めた。敵は大兵が攻めてきたと、軍勢を整えて待った。見方の甲冑に身を包んだ兵たちは、度重なる戦で疲れ果てていたが、敵を粉砕するまでがんばろうと、必勝を誓った。
それを見た天皇は、将兵の労をねぎらうため謡を謡う。
楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも い行き膽らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒 今助けに来ね
こうして天皇は味方を鼓舞し、武装した男性軍に墨坂を越えさせ、敵の背後から攻めて挟み撃ちにして、敵勢を撃破し、兄磯城らの猛者たちを討取った。
今昔物語
今昔物語に見る歴史人物
聖徳太子
用明天皇がまだ親王であった時に、穴穂部間人の娘に生ませた子供と『今昔物語』にある。
その夫人が懐妊するとき、夢に金色に輝く僧が現われ「私は世を救おうと誓いを立てました。しばらく、あなたの胎内に宿ろうと思います」と云う。夫人が「あなたは誰ですか?」と聞いた。僧は「私は救世観音(菩薩)と云う者です。家は極楽浄土のある西方にあります」と答えた。夫人は「私のお腹は穢れています。なぜそんな所に宿るのでしょうか」と聞くと、僧は「私は穢れなど厭いません」と云って、踊るような動作で口の中に入って来た。その時、夫人は夢から覚めた。しばらくして、喉の中に何か物が有るように感じていると懐妊したと記している。
これは、釈尊が生まれる時に、六牙の白象が胎内に入る夢で懐妊したとする仏話に模したものとされる。
救世(くぜ)観音(菩薩)は、衆生を救うとされている観世音(かんぜおん)菩薩と同じ。
観世音菩薩とは、大慈大悲で衆生を救度することを本領とし、勢至(せいし)菩薩と共に阿弥陀如来の左右に侍している。
観世音は六観音、三十三観音や千手(せんじゅ)観音、如意輪(にょいりん)観音、馬頭(ばとう)観音など様々な姿で現れるとされるが、その本は聖(正)観音で、その住居は南海の補陀落山(ほだらくさん)にあると言われている。
それからしばらくして、用明天皇の兄敏逹天皇が即位する年(572年)の正月元日、夫人が宮中を巡り歩いて厩の近くにつくと産気づき、太子が生まれた。その赤子を侍女が抱いて寝殿に連れて行くと、寝殿は黄金色に輝き、太子の身体からは、芳しい香りが立ち昇っていたと伝えている。
四ヶ月後、太子は早くも言葉を話し、その物言いは大人びて諸人を驚かせる。明くる年の二月十五日の朝には、太子は両手を合わせて東に向い「南無仏」と唱えて礼拝したという。
この二月十五日は、仏陀入滅の日で、僅か二歳、満一才を過ぎたばかりの赤子が、そんなことをするとはとうてい思えないが、生後四ヶ月で言葉を覚え、大人と会話が出来たならそれも有りかなと思う。その頃、聖徳太子は聖人として崇められる存在であったのだから、その出自においても凡人とは違うことを、人々に知らしめなければならないのだから。
さらに『今昔物語』は、太子の超人的な能力を認めてゆく。
太子が六歳になった年、百済国から僧が経論を持って渡来した。それを聞いた太子が「その経論を見よう」と言ったので、天皇は驚いて、その理由を聞くと、太子は「私が昔、漢の国に居た時、南岳に住して仏道を学んでおりました。今度、この国に生まれてきましたが、ぜひともその経論を見てみたいのです」と答えた。
南岳というのは中国湖南省にある名山で、五岳の一つとされ、衡山ともいわれる仏教の聖地。
天皇はこれを許し、許可を得た太子は、香を焚いて経論を紐解き、読んだ。読み終わった太子が「月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日、これを六斎の日と言います。この日には、梵天・帝釈が人間世界の政事を見ております。できれば、この日だけでも国内での殺生を慎むべきです」と言った。天皇はこれを聞いて、天下に宣旨を下し、この六斎日の殺生を禁じたのだと書いている。
梵天(ぼんてん)とは、仏教守護神の大梵天王(だいぼんてんおう)の事で、初禅天(しょぜんてん)の主とされる。帝釈は、同じく仏教守護神の帝釈天(たいしゃくてん)の事で、ノ{利天(とうりてん)の主。
初禅天とは、仏教で云う四禅天の一つで、その最初の世界。鼻・舌の二識が無く、眼・耳・身・意の四識だけの世界。
四禅天とは、四つの禅定を修する者が生まれる色界の四天、すなわち初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天の総称。
また、ノ{利天とは、仏教で云う六欲天の第二天で、三十三天と訳されている。須弥山(しゅみせん)の頂上、閻浮提(えんぶだい)の上、八方由旬(はっぽうゆじゅん)にある。中央に帝釈天の止住する大城があり、その四方の峰に各八天が有り、合わせて三十三天となっている。
六欲天とは、三界のうちの欲界にある六天の事で、四王天・ノ{利天・夜摩天(やまてん)・兜率天(とそつてん)・化楽天(けらくてん)・他化自在天(たけじざいてん)をいう。
三界とは、一切衆生の生死輪廻する三種の世界、即ち欲界・色界・無色界を云うと『広辞苑』にある。
現在は廃れたが、この六斎日には在家の信徒が、諸処の寺院に詣でた後、村や町の清掃など善事に努めたという。地方によっては、この日、寺院の境内には市が立ち、これを六斎市と言って、菜園で採れた作物や日用品などを交換・売買した。
ちなみに、『廣辞林』には「六斎日(ろくさいにち)」として、「在家にて、一箇月中に六度斎戒する日、即ち、陰暦にては八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・晦日なり、此日は悪鬼勢を得て、人を逐ひ人を殺さんとし、諸の凶事生ずべし、故に戒を持し善事をなすを要すといふ」とある。
こうしてみると、さすがにこの『今昔物語』は、仏教が盛んだった頃の物語だというのが分かる。随所に仏話や仏教用語が現われ、現在の我々にはなかなかイメージしにくい所があるが、じっくり読んでみると、新たな発見があるかもしれない。
また、太子が八歳になった年の冬、新羅国から一つの像が渡来した。太子はこれを見て「これは西国の聖人釈迦如来の像ですね」と言ったという。
また、百済国から日羅という人が渡って来た時、太子は難波の津に行き、粗末な身なりをして地元の子供たちに混じり日羅が上陸するのを密かに見ていた。すると、日羅が太子の元へ近寄って来たので驚いて逃げるが、日羅は太子の前に跪き両手を合わせて、「敬礼救世観世音、伝灯東方粟散王」(謹んで救世観音菩薩様に申し上げます。私は仏の教えを伝えに、この東方の粟が散ったような小国の王に会いに来ました)と言った。
日羅がそう言う間、彼の身体は黄金に輝き、太子の眉間からも黄金の光が出て、まるであたりは真昼のような明るさになったと『今昔物語』は書いている。
このエピソードは、来日した日羅が物見に集った村の子供たちの中から即座に太子を見つけたのは、太子が救世観音そのものであったからに他ならなかったことを記している。
また、百済より弥勒菩薩の石像が渡来した。その時、蘇我馬子はその使いをもてなし、石像を安置する堂塔を建立する。
そこで太子が、塔を建てたならば、その塔には仏舎利が必要だと言って、仏舎利一粒を得て瑠璃の壷に納め塔に安置する。こうして気の合った太子と馬子は我が国に仏法を広めたのだという。
これが、日本で建立された最初の本格寺院で、寺号を『法興寺』といい、後に明日香に移され、飛鳥寺といった。ちなみに寺号の『法興寺』は、仏法が興るという意味で名付けられた。
しかし、二人の事業は順調には運ばない。まもなく国内に病気が蔓延し、こうした災いを招いたのは、太子や馬子が神の国で仏法を広めたからに違いないと、物部守屋と中臣勝海らが天皇に申し立て、天皇は彼らの意見を取り入れ、「仏法を断つべし」と命令を下した。
その時、太子は「彼らは因果応報を知らないのです。善い政治を行なえば、国には幸いが訪れ、悪い政治を行なえば、禍が起り、民が苦しむのです。これが仏法でいう因果応報で、彼ら二人には必ず禍が及ぶでしょう」と天皇に忠告するが、天皇は聞き入れず、馬子の建てた寺を破却し、三人の尼を追い出した。
それから間もなくすると、守屋らは痘瘡を患い、高熱に苦しんだ。
この痘瘡は、原文では「世に瘡(かさ)の病発て、病痛む事焼割くが如し」とあり、天然痘が流行したのだろうとされている。
二人は悔い改め、なんとかこの苦しみから逃れさせてくれるよう仏の力に縋りたいと天皇に願い出たので、再び三人の尼を召し出し、仏に祈らせる。『今昔物語』には、二人の病が治ったとは書かれていないが、たぶん落ち着いたのだろう。天皇は再び寺を建立させ、元のようになったと書いている。
やがて、太子の父が即位し用明天皇となり、天皇は仏法に帰依した。
この時、初めて宮中に僧が入り、太子は大いに喜んだと物語は書く。ここで崇仏派が排仏派に勝利したわけだが、これで排仏派が諦めたわけでは無かった。
崇仏派の太子・馬子と排仏派の守屋・勝海の確執は続き、ある時、勝海が守屋の耳に「馬子らが兵を集めているそうだ」と告げたことから、守屋も兵を集める。さらに馬子の耳に守屋らが天皇を呪い殺そうとしているという噂が入り、この話を聞いた馬子は、守屋を討つべしと太子を通して天皇に上奏する。こうして、蘇我大臣馬子と物部大連守屋の戦いが始まった。
太子ら官軍は賊軍となった守屋の陣営を攻撃するが、強力な物部氏の軍勢に何度も押し戻され、攻め倦む。
この時、太子は軍の司令官秦川勝にすぐに四天王像を造るよう命じ、それを押し立てて戦おうと作戦を練り、この戦に勝利したなら、その像を祀る寺院を建立しようと誓った。
こうして、川勝が刻んだ四天王像を太子は先頭に立て、守屋陣営への攻撃を再開した。この時、太子は十六歳だったという。
秦川勝は、半島からの帰化系氏族の有力者で、秦氏の祖とされる。
強者を自負する守屋は、氏の大神に祈り、自ら櫟井の木に登って太子めがけて剛弓を放った。矢は見事太子めがけて突き進んだが、太子の鐙に当って落ちた。
今度は太子が四天王に願って弓を射る。空高く放たれた矢は、放物線を描き、木の上の守屋の胸に当り、彼は木から落ちた所で首を刎ねられた。こうして、物部氏は滅びたのであった。
また、太子が造った四天王像を祀ったのが、現在大阪に有る四天王寺の起源とされている。
思うに、この時、物部守屋を唆した中臣勝海は、その後も有力な豪族として存続し、鎌足の代には、残った二大勢力の一つ蘇我氏も滅ぼし、天皇家以外では並ぶ者が無くなって、中臣(藤原)氏がちゃっかり中央政権の中枢に座った。穿った見方をすれば、中臣氏は初めから物部氏と蘇我氏を反目させるように行動したのではないかと思う。排仏を煽ったのも中臣氏で、物部氏が天皇を呪殺しようとしていると蘇我氏にちくったのも中臣氏ではなかったのか。
そう思うと、私には藤原一門が好きになれない一族だなあと感じるそもそもが、ここに有るのかも知れない。
太子の伯父崇峻天皇が即位すると、天皇は政治を全て太子に任せた。その時、百済国皇子阿佐が使節として来日して、太子に面会し、「敬礼救世大悲観世音菩薩 妙教々流通東方日国 四十九歳伝灯演説(謹んで救世観世音菩薩を礼拝します。太子は妙なる仏教を東方日本国に広め、四十九年の間、法を伝え説かれるでしょう)と言って、太子の寿命を予言した。その間、太子の眉間より白い光が放たれていたと『今昔物語』は書く。
これは先述した日羅の来日の時と同じで、太子そのものが仏の化身で、仏法を修めた者にはそれが見えている事を言っている。
また、甲斐国から貢ぎ物としてやって来た足首の白い黒馬がいた。太子はそれに乗ると空に翔け昇り、雲の中に入って東に飛んでいった。その時、馬に副うていた使丸という従者も一緒に空に昇ったという。人々は是を見て、空を見上げながら口々に感歎の声を挙げた。太子は天馬に乗って信濃国から北陸国境を巡り、三日後に帰って来た。
このエピソードは、ギリシャ神話のペガサスの話が、変形して我が国にも伝わったのだろう。
その後、太子の叔母推古天皇が即位するが、彼女も政治を太子に任せた。
太子は天皇の前で高座に昇って勝鬘経を講じる。この時、多くの高僧が聴きに来て、太子にその解釈を尋ねると、太子は判り易く解いた。この太子による勝鬘経の講義は三日にお呼び、終ると空から蓮華が降った。その花の大きさは三尺あり、それが地面に十センチ以上も積る。翌朝、そのことを天皇に報告すると、天皇は非常に興味深く思い、その地に寺を建立し、橘寺と名付けた。その時の蓮華の花が、現在もその寺に伝わっているという。
また太子は、小野妹子を随に使わせるが、その時、太子が前世、衡山にいる時に誦経していたという法華経を持ち帰ってくるよう依頼した。
太子に依頼された妹子が衡山に行くと、老僧が出て来て、待っていたと喜び妹子に経を渡す。こうして無事に法華経を譲り受けて妹子は帰朝する。
また太子は、斑鳩宮の寝殿の横に小屋を建て、夢殿と名付けて一日三度、そこで沐浴した。こうして身を清めた太子は、世俗の善悪について論じ、様々な経典の解説を行なったという。
ある時、太子が寝殿から姿を現さず音も聞えぬ日々が七日七夜続いた。人々が怪しんで狼狽えていると、高麗の恵慈法師が「太子は三昧定に入っているのです。驚かしたりしなうように」と言った。
三昧定とは、七日間、断食・無言を通し瞑想する禅定で、太子は八日目の朝になって、ようやく部屋から出て来た。その傍らの玉の机の上には、一巻の経があった。
太子は「この経が、私が衡山に居た時に写した経です。去年、妹子が持ってきたものは、私の弟子が写経したものです。これを妹子に渡した老僧たちは、私がこの経を何処に仕舞ったのか、分からなかったのでしょう。私のものと違う事が分かったので、魂を遣わせて取ってきました」と恵慈法師に語った。
またこの年、百済国から道欣という僧ら十人が来日し、太子と面会した。僧らは太子に「前世で太子が衡山で法華経を説いている時に、私たちはしばしば訪れて、その教えを聴いておりました。その時、廬岳から来ていた修行僧というのは私たちです。」と語った。
またある時、太子が難波からの帰路、片岡山辺りで人が飢えて倒れているのに行き会った。乗っている黒馬がそこで停まって動かないので、太子は馬から降りてその人の傍らに座り、「片岡山に、飢えて倒れる旅人は、哀れである。可哀想に親もいないのだろうか」と歌った。するとその飢人が頭を持ち上げ「例え斑鳩の富雄川の水が絶える事が有っても、私はあなた様のお名前を忘れる事は有りません」と返歌で応じた。太子はどうする事もできずやむなく帰るが、その後、しばらくしてその飢えた旅人が死んだという知らせを受けた太子は悲しみ、彼を鄭重に葬った。それを聞いた重臣らの内七人ほどが、何故そのような者を手厚く葬る必要があるのかと、太子の行いを非難した。
彼らの不満を聞いた太子は、彼らに、片岡山に行って彼の人の棺を覗いて来なさいと言う。そこで七人は、片岡山に行って棺を見るとそこには遺体が無く、香しい匂いが立ちこめていたので、彼らは皆驚いた。
それからしばらくして、斑鳩宮の太子は、妃に「私は今夜、この世を去ります」言って、沐浴し頭を洗い、清浄な衣を着て、妃とともに寝床についた。翌朝、太子も妃も起きて来ないので、様子を見に行くと、二人は永眠していた。その死顔はまるで生きているようだったと書いている。
この時、太子は、丁度四十九歳であった。
その日、太子が飼っていた黒馬は、一切餌を食べず、水も飲まないで死んだ。さらに、太子が衡山より取り寄せた法華経も消えた。現在、この世にある法華経は妹子が持ち帰ったものという。
また、新羅から渡来した釈迦像は興福寺の東金堂にあったが、1017年、雷に逢い焼失。百済より渡来した弥勒の石像は元興寺東金堂にあった。太子が書いた法華経の注釈書は、今、太子の持ち物とともに斑鳩の法隆寺にある。
太子には三つの名前が付いた。一つは厩戸皇子、厩の辺で生まれたことから名付けられた。二つ目は八耳皇子、一度に数人の人の話を聞く事が出来た事から名付けられた。三つ目は聖徳太子、教えを弘め、人を導いた事から名付けられたという。また、推古天皇の時に、政治を摂り行なうため王宮の南に居していたことから、上宮太子とも言う。
これらが『今昔物語』に書かれている聖徳太子の記述で、現在、私たちが語り継いだり、イメージする世俗の太子像が、すべてこの書に盛り込まれていることが分かる。
行基
行基は和泉国大鳥郡で、何かモノに包まれて生まれてきたという。
成長して物心がつくと、彼は隣家の子供や村の子供たちを誘って、仏を讃える歌を歌って時を過ごした。
やがて、牛や馬の面倒をみている年長の少年たちも、幼い子供たちの歌に聞き惚れ、仕事がはかどらなくなっていた。親たちが注意に来ると、その親までもが、その貴い歌の内容に聞き惚れ、中には涙を流して聞いている。ついには、村中の人々が農作業そっちのけで、貴い歌に聞き惚れるようになった。
仕事がはかどらない事に業を煮やした村長が注意に行くと、その村長も感動し、一緒になって聞き惚れる。そんな村長をさらに嗜めようと郡長が来るが、彼も同じく感動する。こうして郡こぞって小さな子供の唱える歌に影響され、仕事にならなくなっていた。
怒った国司が、それを諌めようと使いを出すが、使いの者たちも、一人残らず心を奪われ帰って来ない。国司はどうした事かと自ら様子を見に来るが、その国司さえもが、子供の唱える歌に感動し、涙を流した。
国司は都に帰るとこの事を公に言いふらした。その噂を聞いた天皇が興味を抱き、その童を呼んで歌を聞くと、とても貴い内容なので感銘する。
その後、少年は出家して薬師寺の僧となり、行基と名乗った。行基は学んだ法文を誰よりも深く理解し、どんな先輩僧に負けないほどの才能を示す。
それから行基は修行のため諸国を遍歴し、数年後に再び本国に戻ってくるのだが、その遍歴の途次、ある池の畔を通ると、人々が集って魚を取って食べているのに出会った。
行基がその脇を通ると、一人の若者が「どうぞ、召し上がれ」と言って、小魚の膾を彼に差し出す。行基はそれを有り難く受け取り、食べるのだが、その後で池の端に立ち、口から食べた魚を吐き出した。口から吐き出された魚は、生返りふたたび池を泳いだので、それを見た人々は驚き畏れたという。
こうした行基の行いを聞くにつれ、天皇はますます彼を尊崇し、ついには彼に帰依したのだった。そして天野は東大寺大仏建立に協力して貰うため、彼をいきなり大僧正に抜擢したのだった。
天皇の寵を得た行基は、その後、畿内に四十九ヶ所の寺を建立するが、寺を建てるばかりで無く、同時に畿内の道を整備し、川に橋を渡して人々に大いに感謝され、人々は行基を讃え、文殊の化身であろうと後世に語り伝えたという。
鑑真(がんじん) (763没)76歳
唐招提寺の開基として知られる鑑真和尚(わじょう)は、聖武天皇の時代に震旦国楊州の江陽県(中国江蘇省江都県・楊州市の東)で生まれ、俗称を淳于(じゅんう)といった。
長安元年(701・周の年号)、十六歳で楊州大雲寺の僧知満(ちまん)禅師のもとで出家し、菩薩戒を受けて竜興寺(りゅうごうじ)に住した。
戒律を保つ事に勤め、老年に達したとき、法を学びに日本からはるばる来た栄睿(ようえい)に戒律の法を授けるとともに、彼の懇請により日本へ戒律の法を伝えに来る事となる。
天宝十二年(752・唐の年号)十月二十八日、竜興寺を出て長江のほとりに着いた鑑真は、船で蘇州黄泗(こうし)の浦に下った。その時の同行者は僧十四人、尼三人、俗人二十四人で、仏舎利三千粒・仏像・経論・菩提樹の実三個、その他多くの土産を持参した。
一行は暮の二十五日に薩摩国秋妻(鹿児島県川辺郡坊津町秋目)の浦に着く。そこで年越し、明けて天平勝宝六年(754)正月十六日、従四位上大伴宿禰古麻呂に鑑真和尚の渡来が奏せられ、二月一日、一行は難波に到着する。
これを聞いた天皇は、大納言藤原朝臣仲麿を使いに立て、鑑真和尚に来朝の目的などを問いただした。
鑑真は答えて「私は大唐楊州の竜興寺の僧で鑑真といいます。私は戒律の法を修めており、この法を広め伝えるためにこの国に参りました」と言う。
天皇はこれを聞くと、正四位下吉備朝臣真備を遣わし「東大寺を建てるつもりだが、そこに戒壇を設ければ、戒律の法を伝えることが出来るようになるでしょう。それは大変喜ばしい事です」と伝え、鑑真を貴み敬い迎えた。
こうして東大寺が建立され、戒壇が設けられると、鑑真を戒師として天皇は登壇・受戒した。次いで皇后・皇子が続き、それぞれ沙弥戒を授けられた。さらに賢憬(けんけい)・霊福(りょうふく)など僧侶八十余人も受戒する。その後、大仏殿の西に戒壇院が設けられ、諸々の人々が登壇・受戒した。
ある日、皇后が病気になった時、鑑真は薬を調合し奉った。その薬が効いて皇后の病気が平癒すると、天皇は喜び、鑑真に大僧正の位を授けようとしたが、鑑真はそれを辞したので、改めて大和尚の位に叙した。また、新田部(にいたべ)親王の旧宅を鑑真に与え、住居とした。鑑真はそこに寺を建てる。それが今の唐招提寺の起源となった。
天平宝字七年(763)五月六日、鑑真は西に向いて結跏趺坐したまま卒した。
彼が死んで三日後まで、暖かみが有り香ばしい香が立ちこめていたという。「死て後三日まで頂の上暖ならむ人をば、此れ第二地の菩薩也と可知し」との言い伝えから、庶人は皆、鑑真を第二地の菩薩様だったのだと感じ入ったという。
彼が持ち来った仏舎利三千粒は唐招提寺にあり、彼はその近くに葬られ、墓が建てられた。
こうして、我が国の戒壇は鑑真によってもたらされたのである。
これが『今昔物語』にある鑑真の記述だが、他のものに比べると、説話臭が少なく、法力や奇瑞などの突飛な話しも無いので、受け入れ易いものとなっている。
今年は平城京遷都1300年で、奈良が注目されている。
私もこのゴールデンウィークの前半、カミさんに付き合わされ京都・奈良を旅したが、残念ながら、唐招提寺まで足を延ばせなかった。
今度、ゆっくりこの唐招提寺を訪れ、時間があれば、斑鳩や明日香を歩いてみようと思う
論語
『論語考』(一)
史実から離れた話題になるが、これまでの記事の中で、私は随分古くさい徳目を並べている。いわゆる八徳という徳目で、この八徳とは仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳をいう。
この八徳は、孔子の教えである儒教からきている。我国では、早くから仏教とともに伝わった概念で、人倫の元となる道徳観をこの儒教から学んでいた。
道徳観とはその時代の秩序を維持するために必要な価値観で、そのために、時代により、その時代の状況に合わせて解釈も変容し、時には支配者、権力者の都合の良い論理に利用される。しかし、江戸時代では、寺子屋などの初等教育には必ずこの『論語』の素読があり、人々は解釈よりも、孔子の言葉そのものから、知らず知らず孔子の教えを受け入れ、血肉としていたのだろう。幕末、我国に来航したヨーロッパ人の多くが、日本人の礼儀正しさに驚き、精神文化の高さに瞠目している。これは、日本人が人民レベルで、徳を大切にしていた結果ではなかったのかと思う。
近代になり、デモクラシー(民主主義)という概念が西欧からもたらされ、それが新しい価値観となり徐々に広まるが、戦前においてはむしろ儒教的な道徳観を為政者の都合の良い形に変えた道徳教育(修身)が行なわれ、デモクラシーという概念は一部の知識層の中でしか共有されず、しかも取り付き易い過激な概念だけが突出し、国民の精神的な血肉にはならず、むしろ弾圧される過激思想と化した。近代の幕開けとなる明治政府は、いわば一般民衆が身に付けていた儒教精神を利用し、為政者の都合の良い形に変容した儒教的道徳で教育する、いわゆる臣民教育を施し、儒教的な「修身斉家治国平天下」をお題目とした。
こうした事情から、戦後、アメリカから齎された民主主義教育で、儒教道徳の価値観は古くさいものとして、市民的な民主主義的価値観からは忌避される。そのために、儒教的道徳観は顧みられることなく、今日を迎えた。
しかし、改めて孔子の『論語』を読んでみると、その根本は人の道を説いたものだ。その道とは人間としての生き方で、それを孔子は徳を積むことと措定し、それぞれの立場においての徳を上げ、その受け手の器量に応じて説いていることが分かる。いわば徳とは、人としての生き方をいっている。勿論、孔子の言葉には、その時代に制約されているという限界がある。よって、現代にそのまま通用する訳がないが、そのエッセンスには普遍的なものがある。
だから、人とは何か、人道とは何かを考える時、もう一度、徳とはなにかを考えてみるのも大切なことかもしれない。
私が、この八徳と言う言葉を最初に知ったのは、多分、『南総里見八犬伝』でだったように思う。もちろん、滝沢馬琴の作品そのものではなく、読物化された児童本でだったが。それから、何十年も立ち、師の作品の中で「亡八」という言葉があり、その解説で、この八徳が出て来る。「亡八」とは傾城屋(遊女屋)のオヤジを指す言葉で、つまり傾城屋の主人になるには八徳があってはなれないという意味合いからそう呼び始めたという。それから何となく、私の頭の片隅にそれらの言葉が住み着いた。そしてある時、古書店で『論語』を見つけ、初めてきちんと『論語』を読んでみたというお粗末な次第だ。
それにより、漠然と理解していた概念が、少しずつ深く理解できるようになった。たとえば、孝といい、悌といっても、それがどんな意味合いなのか、それまでは深く考えもせず流してきたが、「子曰く、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹しみて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ」という文を読み、それがどんな意味かを考えるようになった。
ちなみに、上記の文は「孔子先生が言いました。年少な者は、家庭では父母に孝行し、外に出たら兄姉や年長者を敬う。そして謹み深く誠実に人と接し、誰をも広く愛して、すぐれた徳のある人と親しくしなさい。そうしてなお余力があるなら、そこで書物を学びなさい」といっている。こうした教えは、時代を越えて現在でも有効なのではなかろうか。
『論語考』(二)
「友有り、遠方より来る。また楽しからずや」という成句は、どこかで誰かが口にするのを聞いたことの有る人は多いと思う。
これは『論語』「学而第一」の最初に出て来る一節「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎」から来ていて、一般的に読み下すと「子の曰く、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや」となる。
ここで一般的としたのは、「有朋自遠方来」を「朋、遠方より来たる有り」と読む点置法があるからだが、この読み方の方が古く、新しくは「朋有り」としている。また、字句の読解もいくつかあり、「慍(うら)みず」の「慍」を「怨」とし「うらまず」とする鄭玄の注、「怒」と読み「いきどおらず」とする『集解』の注が有る。これらの違いによって、文章に微妙な味わいの差がでるが、大筋ではそれほど変わらない。
これを解り易く解釈すると、
「孔子先生が言われました。学んでは適当な時期におさらいする、そうすれば、その度に理解が深まって向上するのだから、心嬉しいことです。学問向上の上で得られた同志の友が、遠くから訪ねてきたら、同じ道について語り合える、それは楽しいことです。人が分かってくれなくとも気にかけない、それが徳の出来上がった人なのです。凡人ではできませんから」
と言うような内容になる。
ここでも分かるように、古文を現代に通じるように書くと、どうしても長くなる。これは、同じ文字でも、その時代の概念と今の概念に違いがあったり、その語彙を使った人物がどういう概念で使ったかも忖度しなければならないからだ。
例えれば、文中の「朋」は、現代では「朋」=「友」=「仲間」という概念が一般的で、孔子の使う「朋」には、「友」=「朋友」=「志を同じくする人」という意味合いが含まれる。また、「君子」は、現代の一般的な概念は、「君主」あるいは「位の有る人物」という概念が強いが、孔子の使用する「君子」には、「徳に励む人」あるいは「徳の出来上がった人」という意味合いが有り、「凡人」と対比した語彙である。
このように、言葉は、その時代、状況、個人によってその使う概念が微妙にずれる。そのズレが、誤解を生み、曲解を生む。そして人は傷ついたり、悩んだりする。
そうした誤解や曲解を少なくするには、それらの語彙、語句の持つ意味をなるべく多く知っていなければならない。さらに、共同概念(幻想)を自分のそれとなるべく近づける作業を行なう事が大切となる。また、言葉はデリケートなもので、それを使用するには、発する言葉一つ一つを大切にする必要がある。
表現方法で言えば、人が比喩を用いるのは、個的概念を共同化させる一つの方法であり、その為に、人はより多くの物事を学び、書物を読んで知ろうとする。そして、教養とは、それらの積み重ねを言うのだと思うのだが、どうだろう。
ついでに、徳について考察してみよう。
徳とは、「得」と同じで、心に取得し身について離れないものだと朱子は述べている。また、『廣辭林』によれば、「心に得て行為にあらはるること。品性の傾向及活動」とあり、「心正しく行善なること。道にかなひ義にしたがふこと」としている。さらに『大言海』を見ると「集韻『徳、行之得也』正韻『凡言レ徳者、善美、正大、光明、純懿之稱也』禮記、樂記篇『禮樂皆得、謂2之有徳1、徳者得也』(一)心の善く正しくして、すべて人の道にかなひたること。道徳。(徳は得なり、心と共に得て居る真味正味のもの。酸いは梅の徳、甘いは砂糖の徳、親を見れば愛らしく、忍びられす真味の心の中より生じ来る類なり。又、得と同音にて通はし用ゐる。即ち、徳は我が平素養ひ得て居る善なり。例へば、廉直と云ふは、義理にて、それを養ひ得て、廉直なる身になりたるが、徳なり)とあり、『論語』「里仁篇」にある「子曰、徳不孤、必有鄰」を用例として挙げている。この読み下しは「子の曰わく、徳は孤ならず。必らず鄰あり」で、現代文で分かり易くすると、「先生がいわれた。道徳は孤立しない。きっと親しい仲間ができる」となる。
その徳の中で、最高の徳目を孔子は『仁』ととなえ、人間の自然な愛情にもとづいたまごころの徳であるとしている。
論語考(三)
今回は、それが論語の中にある言葉とは知らなかったり、なるほどと思った言葉を集めてみた。
◯子曰、不患人之不己知、患己不知人也
(子曰く、人の己れを知らざることを患えず、人を知らざることを患う)
これは、人が自分を知らないことなど気にかけないで、自分が人を知らないことを憂えることが大切、という意味合い。
人間、どうしても自己中心的で、自分が人に認められたり、知られることを求めるが、翻って、自分はどれだけ他人のことを認めたり、知っているだろうかと考えることがおろそかになるものだ。孔子はそれを簡潔に述べた一文。
◯子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩
(子曰く、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず)
これは、良く、三十にして立ち、四十にして惑わず、と口にされ、四十歳を不惑の年などとも使われている。意味は、私は十五歳で学問を志し、三十歳で独立した立場を持ち、四十歳になってあれこれと惑わず、五十歳で天命をわきまえ、六十歳になって人の言葉が素直に聞かれ、七十歳になると思うままに振る舞っても、道を踏み外れないようになった。と言うことで、存外軽く、四十にして惑わずだよ、などと言っているが、かの孔子がそうであったと言っているので、我ら凡人が簡単になせる技ではないだろうと思う。まあ、それを目指して精進することが大切というように理解すれば良いのだろう。
◯子曰、温故而知新、可以為師矣
(子曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師と為るべし)
これは、「温故知新」と言い習わされ、「古きを尋ね、新しきを知る」と日常会話にも良く使われている。これは、古いことに習熟して新しいこともわきまえれば、教師となれるだろう、ということで、意味合いとしては、過去のものごとを良く知り、かつ新しい知識にも通じていれば、それだけで良き教師になれる、と言うことになる。私は若い頃、これを「古いものを見れば、新しいものが見える」あるいは「古いものを知れば、新しいものが分かる」というような意味合いで使っていた。
◯子曰、学而不思則罔、思而不学則殆
(子曰く、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし)
意味合いは、書物や人から学んでも考えなければ物事ははっきりしないし、考えるだけで書物や人から学ばなければ独断に陥り危険だ、ということ。これなどは、素直にその通りだなと思う。
◯子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不為、無勇也
(子曰く、其の鬼(き)に非ずしてこれを祭るは、諂いなり。義を見て為(せ)ざるは、勇なきなり)
この一文では、「義を見てせざるは勇なきなり」の部分が、良く知られている。全文の意味は、我が家の精霊でもないのに祭るのはへつらいである。人として行なうべきことを前にして行なわないのは臆病者である、ということ。なんとこの頃、この「義を見てせざる」勇の無い者が多いことかと思うのは私だけか。
◯子曰、朝聞道、夕死可矣
(子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり)
この文も良く聞く。意味は。朝、真実の道が聞けたなら、夕方には死んでもよい、ということ。人が人として生きるということは、生きる意味や目的あるい生命の真実を求めて生きている。その答えは一生を費やしても分からない。だから、それが分かれば、死んでも良いと言っている言葉。
◯子曰、放於利而行、多怨
(子曰く、利に放(よ)りて行なえば、怨み多し)
利益にばかりもたれて行動していると、怨まれることが多い、と言っている。今日では、言わずもがなかと思う言葉だ。
◯子曰、不患無位、患所以立、不患莫己知、求為可知也
(子曰く、位なきことを患えず、立つ所以を患う、己れを知ること莫きを患えず、知らるべきことを為すを求む)
意味は、地位のないことを嘆き、それに気を煩わさないで、地位を得るための確かな方法を探すことに気持ちを向けることだ。自分を認めてくれる人がいないことを嘆いていないで、認められるだけのことをしようと努めることだ、ということ。
人間、どうしても自分に地位や名声が無いと、無いのは環境や社会など自分以外の何かのせいにして、自分がやるべきことをやったかについては、あまり考えない。この一文はそんなことへの戒めか。
◯子曰、君子喩於義、小人喩於利
(子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る)
意味は、君子は正義に明るいが、小人・凡人は利に明るい、ということ。
最近は利に明るい小人ばかりで、君子たる者がいないので、正義が無いのも仕方ないのか。
◯子曰、父母之年、不可不知也、一則以喜、一則以懼
(子曰く、父母の年は知らざるべからず。一は則ち以て喜び、一は則ち以て懼る)
意味は、父母の年齢は知っていなければいけない。なぜなら、一つにはそれで父母が長生きしていることを喜び、一つにはそれで父母の老い先を気遣うのだ、ということ。
私など、普通に親の年齢は知っていたが、当たり前のごとく知っていただけで、「一則以喜、一則以懼」という、知っておかなければならない理由は考えても見なかった。不孝な息子です。
◯子曰、君子欲訥於言、而敏於行
(子曰く、君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す)
意味は、君子は口を重くしていて、実践には敏捷でありたいと望む、ということ。
わが国の政治家諸兄にこの言葉を捧げたい。
論語考(四)
今回の論語考は、ちょっと私の中で引っかかったものの紹介です。
◯子曰、人之生也直、罔之生也、降而免
(子曰く、人の生くるは直し、これを罔(し)いて生くるは、幸にして免るるなり。)
意味するところは、「人の生きているのはまっすぐだからだ。それをゆがめて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ」だが、おいおい本当かよ、と思う。これはお天道様の下で、のびのび育つ事ができた時代の話で、今では真っ直ぐな人は生き難い世の中だ。歪んだ生き方の人間ばかりが蔓延っているように思う。
◯子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者
(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。)
意味は「知っているというのは好むのには及ばない。好むというのは楽しむのには及ばない」という事。うん、楽しみながら学ぶのが一番ですね。
◯子貢曰、如能博施於民、而能済衆者、如何、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、堯舜其直病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人、能近取譬、可謂仁之方也己、
(子貢が曰く、如(も)し能(よ)く博(ひろ)く民に施して能く衆を済(すく)わば、如何。仁と謂うべきか。子の曰く、何ぞ仁を事とせん。必らずや聖か。堯舜も其れ猶お諸れを病めり。夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す。能く近く取りて譬(たと)う。仁の方(みち)と謂うべきのみ。)
意味は[子貢が「もし人民にひろく施しができて多くの人が救えるというなら、それは仁といえるでしょうか」といった。先生は言われた。「どうして仁どころか、強いて言えば聖だね。堯や舜でさえ、なおそれを悩みとした。そもそも仁の人は、自分が出世したいと思えば人を出世させてやり、自分が成功したいと思えば人を成功させ、他人の事でも自分の身近にひきくらべることができる、そういうのが仁の道というのだろう」]となる。
う?ん。聖人にも仁者にも未だお目にかかった事がないので、良く分からないが、聖人も仁者も、現代人にはほど遠い存在である事は確かだ。
◯子曰、徳之不脩也、学之不講也、聞義不能徒也、不善不能改也、是吾憂也、
(子曰く、徳の脩めざる、学の講ぜらる、義を聞きて徒る能(あた)わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂いなり。)
意味は「道徳を修めないこと、学問を習わないこと、正義を聞きながらついてゆけないこと、そうなるのが私の心配事である」と。
孔子がそうなる事を恐れる人間ばかりが、今の世に蔓延っている。どだい、今日では徳を積むという事の意味さえ分からないのだから、鼻から駄目じゃん。
◯子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣、
(子曰く、仁遠からんや、我れ仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る)
意味するところは「仁は遠いものだろうか。私たちが仁を求めると、仁はすぐにやってくる」という事で、最高の徳と言われる「仁」も、求めればすぐに現れるのだが、「仁徳」と言われても分からないのだから、求めようが無いと言うべきか。
◯子曰、奢則不遜、倹則固、與其不遜也寧固、
(子曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固(いや)し。其の不遜ならんよりは寧ろ固しかれ。)
意味は「贅沢していると尊大になり、倹約していると頑固になるが、尊大であるよりはむしろ頑固の方がよい」となる。まあ、私も「尊大不遜」な人間よりも、頑固な人の方が好きです。
◯子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚、
(子曰く、君子は坦らかに蕩蕩たり。小人は長えに戚戚たり。)
意味するところは「君子は平安でのびのびしているが、小人はいつでもくよくよしている」だが、私はやはり小人のようだ。良くくよくよするからなあ。望むところは「坦らかに蕩蕩たり」なのだけどね。
論語考(五)
本日は、孔子が政治について述べた項目の特集。
孔子自身は、
或るひと孔子に謂いて曰く、子なんぞ政を為さざる。子曰く、書に云う。孝なるかなこれ孝、兄弟に友に、有政に施すと。これまた政を為すなり。なんぞ其れ政を為すことを為さん。
と、書経に「兄弟、友に孝を為すことが政治とある」と言って、兄弟、友人を大切にしていることが政治を行なっていることなのだから、あえて政治をしなくとも政治を行なっている事なのだよと述べている。
巻一 為政第二
1 子曰、為政以徳、譬如北辰居其所、而衆星共之、
子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て衆星のこれに從うがごとし。
孔子が言った。「政治をするのに徳を持って行なえば、天空で動かない北極星のように、他の多くの星がその周りを挨拶するように廻るようになるものだよ」
と、孔子は言い、人徳があれば自ずと人々がついてくると言ってます。
3 子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以礼、有恥且格、
子曰く、これを道びくに政を以てし、これを齊うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てすれば、恥ありて且つ格し。
孔子が言った。「法制禁令などの小手先の政治で国民を導き、刑罰で国民を統制していくなら、人々は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼節を持って国民をまとめて行けば、人々は羞恥心を持ち、そのうえ正しい行いをするようになる」
13 子曰、能以礼譲為国乎、何有、不能以礼譲為国、如礼何、
子曰く、能く礼譲を以て国を為めんか、何か有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何。
孔子が言った。「譲り合う心で国を治めることに、何の難しいことがあろう。譲り合う心で国を治めることができないなら、礼節、マナーの定めがあってもどうしようもない」
巻四 泰伯第八
9 子曰、民可使由之、不可使知之、
子曰く、民はこれに由らしむべし。之を知らしむべからず。
孔子が言った。「人民は従わせることはできるが、その理由を知らせることはできない」と、訳にあり、一般に「依らしむべし、知らしむべからず」と使われる意味合いとは、ちょっと違う。この訳に従えば、人民は従わせられても、その従う理由を知らせ、理解して貰うことは出来ない。といった意味合いにも取れる。
巻六 顔淵第十二
7 子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立、
子貢、政を問う。子曰く、食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ。子貢が曰く、必らず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何をか先きにせん。兵を去らん。曰く、必らず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。曰く、食を去らん。古えより皆な死あり、民は信なくんば立たず。
子貢が政治のことを尋ねた。孔子が言う。「食料を充分にし、軍備を充分にして、人々には信頼を持たせることだ」子貢が「どうしてもやむを得ずに捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか?」孔子は「軍備を捨てる」と言った。さらに子貢は「どうしてもやむを得ずに捨てるなら、あと二つの中でどれを先に捨てますか?」と言うと、「食糧を捨てる。食糧が無ければ人は死ぬが、昔から誰にでも死はある。しかし人々は信頼がなければ安定しない。それぞれ殺しあうことになるから」と言われた。
今日、たまたま観たTVで、田勢氏がこの一節を引用していた。田勢氏はその中で、食を経済のことと解説していた。確かに生業としての経済活動が有っての食だが、経済というとちょっと広すぎるように思った。
14 子張問政、子曰、居之無倦、行之以忠、
子張、政を問う。子の曰わく、これに居りては倦むこと無く、これを行なうには忠を以てす。
子張が政治のことを尋ねた。孔子が言うには「その地位にいて職務を怠ること無く、事を行なうに際しては、真心で行なうことだ」と。この国の全ての官僚に言いたい言葉です。
17 李康子問政於孔子、孔子対曰、政者正也、子師而正、享敢不正、
李康子、政を孔子に問う。孔子対えて曰わく、政とは正なり。子師いて正しければ、誰か敢えて正しからざらん。
李康子が政治のことを孔子に尋ねた。孔子は答えて「政とは正ということです。あなたが率先して正しくされたなら、誰もが正しくなろうとつとめましょう」と。これも政治家・官僚全ての人間に言いたいな。
巻七 子路第十三
1 子路問政、子曰、先之労之、請益、曰、無倦、
子路、政を問う。子の曰わく、これに先きんじ、これを労す。益を請う。曰わく、倦むこと無かれ。
子路が政治のことを尋ねた。孔子は言う、「まず自らが率先すること、そして他者を労うことだ」もう少しお聞かせください。「それは常に職務を怠らないこと」だと言っているんですね、政治家の皆さん、口先だけでなくまず率先し、他人には慰労の気持ちを忘れずに。
12 子曰、如有王者、必世而後仁、
子の曰わく、如し王者あらば、必らず世にして後に仁ならん。
直訳では、孔子が言った。「もし天命を受けた王者が出ても、今の乱世ではきっと一代(三十年)たってからはじめて仁の世界になるのだろう」という事だが、現代に直せば、「もし時代の要請を受けた優れた為政者が現れても、この乱れた世の中が良くなったと実感するのは、三十年ほど経ってからの事だろう。という事。政権交代したからと言って、すぐに世の中が良くなる訳ではない事の譬えかもしれません。
13 子曰、芍正其身矣、於從政乎何有、不能正其身、如正人何、
子曰く、芍くも其の身を正しくせば、政に從うに於いてか何か有らん。其の身を正しくすること能わざれば、人を正しくすることを如何せん。
孔子が言った。「もしわが身を正しくさえするなら、政治をするぐらいは何でもない。わが身を正しくすることもできないのでは、人を正すことなどできないだろう」と。政治家諸氏よ、この事をよく心しておいて貰いたいものだ。
16 葉公問政、子曰、近者説、遠者来、
葉公、政を問う。子曰く、近き者説(よろこ)び遠き者来たる。
葉公(しょうこう)が政治のことを聞いた。孔子が言う。「近くの人々は悦び、遠くの人々はそれを聞いて慕ってやって来るようにする事だ」と。まさに全国の首長たちが、これを競って貰えればいいのだが。
27 子曰、不在其位、不謀其政、
子曰く、其の位に在らざれば、其の政を謀らず。
孔子が言った。「その地位にいるのでなければ、その政務に口出ししないこと」。う?ん、これは手厳しい。正に素人が口出ししては、良い事も悪くなろう。だが、今の日本に、その地位に相応しい人間が、その地位に付いているとは限らない。

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