歴史のこぼれ話

隆慶わーるど歴史のこぼれ話

(参考文献余滴)
隆慶作品関連の史資料を渉猟するなかから、直接作品に関係ないが、疑問に感じたり、あるいはなるほどと思った事柄などを紹介しております。浅学ゆへの素朴に感じた事柄ですので、間違った解釈や見解であることが多いと思われます。それらについて、先輩諸氏の方々からのご教示を賜れば幸いです。

立春

 今日は立春。しかし、陰暦ではまだ12月21日。年も明けていない。
古今和歌集の春歌上の最初の歌に、「ふるとしに春たちける日よめる」(旧年の内に立春が来た)として、在原元方の歌が上げてある。

  年の内に春はきにけり ひととせをこぞとやいはん ことしとやいはん

これは、「年の明けぬのうちに春が来た。この同じ年を去年と言おうか、今年と言おうか」という意味の歌で、同じ一年の中で、この年の九月を去年の九月と言おうか、今年の九月と言おうかと、当惑する気持ちを歌っていると解説されている歌だ。
現在では、太陽暦を用いているので、太陽の運行に合わせた節季は、毎年同じ日前後に訪れるが、旧暦の太陽太陰暦では、今年のように春が年明け後とは限らなくなる。今年は新年までまだ十日もあるのだから、昔なら元方のように当惑する人も多かったに違いない。
これを不便と感じるかどうかは、価値観の問題だろう。太陽運行と日付はほとんど同じように連動しているのだから、近代合理主義的な価値観の下では、太陽暦が合理的と考えるのが普通だ。
 現代では、多くの人々は太陽暦でしか生活していないので、元方のような感慨を持つ事はない。だが、合理的であるのが人間の幸せなのだろうか?日本の文化では、不合理な情緒、情感、情景など、西欧的合理主義では表現しにくい領域を大切にしてきた。
西欧的な価値観を端的に表現するなら白か黒かの二元論であり単純な文化で、一方、東洋的あるいは日本的な価値観では白と黒の間には無限の階層としてのグレー領域があり、それを大切にしてきた複雑な文化だ。たとえば、情景で言えば、一日を西欧的な二元論では昼と夜であり、わが国には自明の昼と夜よりも、その昼と夜の間の領域を大事にして、彼誰時(かわたれどき)、曙、薄暮、黄昏時(たそがれどき)などなど昼と夜の境界域を表す豊かな言語がある。
 また、西欧では人と自然との二元対立構図だが、わが国は自然の豊かな表情に寄り添い、それとの共生を大切にしてきた。こうした心情の上に私たちの文化が育まれてきたことを思えば、たまには在原元方の歌った「ふるとしに春たちける」と当惑する感慨に思いを馳せるのも悪くはないだろう。
 太陰暦の文化の良さは、この自然との共生が人間社会を豊かに創造する文化で、季節や月に関連した言葉を多く生み出している。
 陰暦では春は正月から三月、夏は四月から六月、秋は七月から九月、冬は十月から十二月となり、ひと月は文字通り、一回の月の満ち欠けの時間、朔(さく)から満月そして晦(つごもり)までのおよそ三十日間をいっている。だから日にちを言えば、月齢が分かり、十五日は満月の夜で、朔日あるいは晦と言えば月の無い新月の夜となっている。
 「つごもり」は「月籠り」の意で、大晦日を「おおつごもり」というのはここから来ている。そして、晦は大体三十日になることから「みそか」と読まれるようになった。「みそか」は三(み)十(そ)日(か)のことで、和歌の三十一文字を「みそひともじ」と読むのと同じ。

ちなみに、『古今和歌集』にある立春を歌った歌をいくつか紹介。
   春たちける日よめる  紀貫之
  袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらん

   二条のきさきの春のはじめの御うた  
  雪のうちに春はきにけり 鶯のこほれる涙いまやとくらん

   雪の木にふりかゝれるをよめる  素性法師
  春たてば花とや見らむ 白雪のかゝれる枝にうぐいすの鳴く

(2010.02.04吉尾記)

いたちのまかげ

 資料として手に入れた古書を、徒然、拾い読みすることが有る。
 時には、一度目を通した書物を、今度は息抜きに再び読み直す。そんな中で、改めて興味を引く記述に遭遇したりもする。
 そんな記述の一つが、『松屋叢話』にあった「いたちのまかげ」について書かれた一文である。
「いたちのまかげ」とは、どういう意味だろうと読むと、それは、人が遠くを見るときに、陽の乱反射光を遮る意味で、手を眼上に翳す仕草を言っていることが分かった。漢字で書くと「鼬の目陰」となる。
 ではなぜ、その仕草を「いたちのまかげ」というのか。
『松屋叢話』の一文に、それが書かれている。以下はその全文。

◯春海の世におはせし頃。源氏物語にメいたちのまかげモといふ事の見えたるがいぶかしきよし。常にいはれ侍りき。その家にて歌の会せられしをりに。橘千蔭。清水濱臣などにも。かたりあはされしかど。とかうことはりいひたるものもなかりしに。このごろ余がおもひたるふしあれば。こゝにいふべし。そは源氏東屋の巻に。いたちの侍らんやうなる心地のし侍れば云々。うしろめたげにけしきばみたる御まかげこそわづらはしけれとて。わらひたまへるが云々。手習の巻に。この君のふし玉へるを。あやしがりて。いたちとかいふなるものがさるわざする。ひたひに手をあてゝ。あやしこれは誰ぞと。しうねげなるこゑにて見おこせたり云々。源平盛衰記十三の巻十一丁に。赤ク大ナル鼬ノ。何クヨリ来リ参タリ共御覧ゼザリケルニ。御前ニ参リ。二三返走リ廻リ。大ニギゝメキテ。法皇ニ向ヒ参セテ。踊上リ。目影ナドシテ失ニケリ云々。二十二の巻八丁に。真平ハ残党モ猶不審シ。我館モ如何カ有ラント思テ高峯ニ上リ。眼影ヲサシ見渡セバ。山内ニハ人アリトモ覚エズ云々。など見えたるを考わたすに。今の世にも鼬の立て。前足を目上にかざしつゝ。人をまもることあるを。いたちのまかげとはいへる也けり。遠方のぞむ時は。かならじしも眼上に手をさしかざすわざ。今もむかしもなほおなじかるべし。

この「いたちのまかげ」は、『広辞苑』(第二版)にも「いたちの目陰(まかげ)」として、「手を眼の上にかざして遠方を見ること。(鼬が人を見るときそうするという)」とある。

 私が興味を引いたのは源氏物語にあるということだったので、『源氏物語』を手にしてその箇所を確認したくなった。だが、それを確認するために、丸一日を要してしまったのだ。なぜかといえば、『源氏物語』原文を手にして、ちゃんと通読したことがなく、ましてやここに上げられている「東屋」「手習」の巻は後半の篇で、読み進める途中でめげて、これまで目も通していなかった部分だったからだ。
そんなこんなで、最初、ざっと目を通したが、当該箇所を見つける事ができず、二度三度と目を通すが、それでもどこに記載されているのか分からない。仕方なく一文一文、きちんと読むはめになった。そうして、ようやく二日目にその箇所に行き会った次第である。
 悔しいから、その部分を『松屋叢話』より多めに引用しておこう。

「東屋」巻
「あやしく、心幼げなる人を、まゐらせ置きて、うしろやすくは、たのみ聞えさせながら、鼬の、侍らんやうなろ心地のし侍れば、よからぬ者どもに、にくみ恨みられ侍る」と、きこゆ。
「いと、さ言ふばかりの幼げさには、あらざめるを。後めたげに、気色ばみたる御目蔭こそ、わづらはしけれ」とて、笑ひ給へるが、心恥づかしげなる御まみを見るも、心の鬼に、恥づかしくぞ思ゆる。「いかに、おぼすらむ」と、おもへば、えも、うち出で聞えず。

「手習」巻
「夜中ばかりにや、なりぬらん」と、思ふ程に、あま君、咳きおぼれて、起きにたり。火影に、頭つきは、いと白きに、黒き物を被きて、この君の臥し給へるを、怪しがりて、鼬とかいふなる物が、さるわざする、額に手をあてて、
「怪し。これは、誰ぞ」
と、執念げなる声にて、みおこせたる、更に、「たゞいま、食ひてんとする」とぞ、おぼゆる。

 こうして見ると、イタチは紫式部の時代から、人間社会と共に生きて来た野生動物だったことが分かる。
 昔話にも、イタチの怪といって、さまざま言い伝えられるが、その中にも、後ろ足で立つ習性をもとにした以下のような話もある。
「イタチはよく後ろ脚で立って振り向いて人の顔をシゲシゲと見るという。この時、眉毛を読まれると騙されるから、イタチに会ったら眉に唾をつけると良いという。(鈴木重光『相州内郷村話』)」

 かくして、イタチは古来から里山に住していた愛嬌のある動物だが、近年、その姿を消しつつ有る。
イタチの獲物は、魚やネズミ、ヘビなどの小動物で、人里近くにあって、時には人家で飼っているニワトリや小鳥などを襲うため、お互い敵対する事もあった。とはいえ、狐や狸、猪、猿同様、おおむね日本では人間社会と共生してきた動物だ。カワウソもしかり、ムジナやムササビも、わが国の里山は、そうした動物たちの生活圏で、人間も彼らと折り合って生きてきた。 (2010.01吉尾記)

江戸時代の地震の記録

 先日のチリ大地震や1月のハイチ大地震など、最近、大地震のニュースが多くなっていることから、江戸時代の地震の記録を調べてみた。
 以下が、江戸時代、関東周辺で起った地震の記録の一覧。

(1601) 慶長六年 十月十六日 満月の近く
大地震、房総の山を崩し、海を埋め、丘となし、又海上俄に潮引く事、三十余町干潟と成る。十七日、潮大山の如く巻上げ流死夥し。

(1627)寛永四年 八月 日付、月齢不明。
大地震。

(1630)寛永七年 六月二十三日 下弦
大地震。毛降る。

(1630)寛永七年 十二月二十三日 下弦
大地震。戌の刻光物飛行し、其の音すさまじかりし。

(1633)寛永十年 正月二十一、二十二日 下弦の近く
諸国大地震。小田原は別けて強し。同二十六日申の刻、大地震。

(1635)寛永十二年 正月二十五日 月齢24~25 下弦の近く
寅卯の刻、大地震。午未の刻、又地震あり。

(1649)慶安二年 六月二十日 下弦の二三日前
武州大地震。江戸中武家町家潰れ、死人怪我人多し(上野大仏像砕けしはこのとき也ともいふ)。

(1649)慶安二年 八月二十日 下弦の二三日前
江戸大地震。

(1662)寛文二年 三月二十四日 下弦の近く 
午刻、大地震。

(1669)寛文九年八月十一日 上弦の近く
大地震。

(1703)元禄十六年十一月二十二日 下弦
元禄大地震。宵より電強く、夜八時頃地鳴る事雷の如し。大地震、戸障子たふれ、家は小船の大浪に動くが如く、地二、三寸より所によりて五、六寸程割れ、砂をもみ上げあるいは水を吹き出したる所もあり。石垣壊れ、家蔵潰れ、穴蔵揺れあげ死人夥しく、泣きさけぶ声街に喧し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ、津波ありて房総人馬多く死す。内川一@あい差引き四度あり。此の時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の者凡そ二千二百人、小田原より品川迄一万五千人、房州十万人、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時、両国橋にて死ぬるもの千七百三十九人といへり)也し由、ものに誌せり。此の時深川三十三間堂覆へる。二十四日夜より雨ふり、明け方に及びてゆり止む。其の後十二月迄、震ふ事しば/\なり。

(1704)宝永元年二月二十七日 新月の近く
地震。四月まで度々震ふ。

(1706)宝永三年九月十五日 満月
亥下刻、大地震。

(1707)宝永四年十一月二十日 下弦の二三日前
二十日より、富士山の根がた須走り口焼くる。天暗く雷声地震夥しく、関東白灰降りて雪の如く地を埋む。西南頻りにいなびかりあり。白昼暗夜のごとくに成り、行灯提灯をともす。二十三日殊に甚だしく、二十四日に至り天晴れ、皎日を拝して諸人安堵す。又二十五日、二十六日、再び天曇り砂降り、雷声の如き響き地震あり。是れより黒灰降る。

(1753)宝暦三年正月十六日 満月の近く
地震。

(1771)明和八年五月二日 新月の近く
地震。

(1771)明和八年六月二日 新月の近く
大地震。

(1782)天明二年七月十四日 満月の近く
天明の大地震。夜九時、十五日朝、大地震。諸人戸外へ出る。この間少しの地震は算へがたし(此の節、相州大山の辺ことの外強く、屋上より石を落し、山鳴りて恐ろしかりし。又小田原はわきて甚だしかりしとぞ)。
均庭云ふ。七月の初めより、小地震は日毎にあり。今十四日子刻頃、物音つよくゆり出し、人々寝入る頃なれば、殊に驚くこと甚だし。明くる日は空くもり残暑つよく、日暮を待ちかね端ゐして涼み居たるに、俄にゆり出し、壁をふるひ、瓦落ち、戸障子打ち倒れ、あやしき小家は見るまに倒るゝも多かり。地ひゞわれて氷紋の如し。八十年前元禄十六年大地震以後、かく甚だしき事あらずと、百年近き老人語りぬといへり。

(1786)天明六年二月二十三日 下弦
相州箱根山鳴動し、二十四日の頃、地震甚だしく、両日百度計り震ひしと云ふ。

(1794)寛政六年十一月三日 新月から二三日後
子刻、大地震。

(1826)文政九年春 月齢不明
度々地震。秋、又地震数度に及ぶ。

(1835)天保六年六月二十五日 下弦から二三日後
未刻、地震。

(1836)天保七年二月九日 上弦の近く
巳刻、地震。

(1847)弘化四年三月二十四日 下弦の近く
信州大地震、人多く死す。江戸も此の夜少しの地震あり(今年三月八日より、川中島善光寺如来の開帳ありて、諸国より参詣群集する事稲麻の如し。然るに浅間山の烟常よりも減りたるを怪しみ居tるに、三月二十四日昼夜快晴にてありしが、夜四時頃俄に大地震ひ出し、立所に家屋を覆し、圧に打たれて即死するもの幾千人といふ事を知らず。善光寺近辺の旅店は参詣の輩泊り合はして、この禍に逢ふもの有り。ともに数へがたし。無程くこの倒れたる家より火燃え出でゝ大火と成る。善光寺の本堂は傾きたる儘残り、其の余は悉く灰燼となりぬ。この時山中にのがれて利益を蒙り、一命を全うせしもの数多あり。又雷鳴の如き音ありて、尚ゆり出し、夜明に及ぶ迄八十余度、四月五月にいたりても尚止む事なし。大地は裂けて泥砂湧出し、其の間へ人家堕ち入り、丹波島より二里川上、虚空蔵山二十丁程崩れ犀川へ落ち入り、洪水溢れ、丹波川水押し出し、左右湖のごとし。焼死の人馬幾といふ事を知らず。或る筆記に三万人とあるは大凡の積りにて証としがたし。水内郡は殊に甚だしかりしとなん。其の他山崩れ、水溢れ、一村を流す。云々

(1853)嘉永六年二月二日 新月の近く
巳下刻地震三度、水溜桶の水溢る(此の日同刻、相州小田原の城下町々をはじめ、神戸、大磯宿、大山辺、箱根、伊豆の熱海、三島沼津の辺に至るまで、地震数度に及び、同夜子刻に至りて人家を覆し、火災起り死亡の輩あまたありしとぞ)。

(1854)安政元年十一月三日 新月の近く
辰刻半刻、地震(市中の者は大路へかけ出す。翌五日深夜まで数度震ふ。小川町諸候のやしきには厩潰れ、其の外土蔵の壁等所々に破損多く、長屋潰れて即死に及びけるもありし由なり。同刻伊豆国甚だしく震ひ、東海道筋これに亜げりと云ふ)。

安政二年(1855)十月二日 新月の近く
安政の大地震。細雨時々降る。夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の刻の二点大地俄に震ふ事甚だしく、須臾にして大厦高牆を顛倒し、倉廩を破壊せしめ、剰その頽たる家々より火起り、熾に燃上りて黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却す。云々(今夜四時より明方迄三十余度震ひ、其の余十月迄百二十余度に及べり)。

以上、『武江年表』から

近年の大地震は、
(1923)大正十二年9月1日 
関東大震災。
この時、関東大震災の前駆活動と見られる揺れが8年前から起った。
(1915)大正四年11月 
東京で有感地震が過去最多の18回
(1923)大正十二年5月-6月、
茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)
が起こり、本震が襲った。
そして、記憶に新しい
1995年1月17日 阪神・淡路大地震 満月
2004年12月26日 スマトラ沖大地震 旧暦十一月十五日 満月 
2008年5月12日 四川大地震 月齢6.6 上弦
2010年1月15日  ハイチ大地震 新月 
2010年3月1日 チリ大地震 満月 
などが起っている。
これを見ると、先般、月の引力が関係するという論文があったように、記録される大地震が、満月・新月の前後、下弦の月前後に集っているのが分かる。
関東地方は下弦の月から新月期、満月前後が多い。
今日は、月齢19で、下弦の日は三日後。8日から新月の16日が要注意か、などと考えてしまった。(2010.03吉尾記)

天地人

 何をいまさらと言われるかもしれないが、今日はこの「天・地・人」についての雑話です。
『近代世事談』という江戸期享保年間に上梓された書を、ちらほら拾い読みしていたら、この「天・地・人」について書かれた一文があった。

◯人字訓(ひとのじくん)
人と云は一ツの下略(げりゃく)、ひとつと云事也、人は万物第一にして、日とゞまるの義、日の精霊たる名也、故に人の神魂(じんこん)、みな火気に属す、日の字は円形(えんぎょう)の中に一の字也、[◯に一(古文如レ此)]人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり、人に一を副て大とし、大に一を添て天とす、人と天地と、二物にあらず、天地同一体なり、因て天地人と云也

 ここに、「人」という字の訓読みが「ひと」と読む理由が書かれている。
これによれば、人という字は、「ひとつ」という言葉の下の「つ」を省略して「ひと」というとある。続けて、「人」を「ひとつ」という意味は、人は「天・地」(地球と宇宙)と一体となった「ひとつ」の存在で、それを現した言葉が「天・地・人」であると言っている。そして、「人は万物第一にして、日とゞまるの義、日の精霊たる名也、故に人の神魂(じんこん)、みな火気に属す、日の字は円形(えんぎょう)の中に一の字也、人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり」とその語義を述べた文である。

 では、「人」という文字の音読み「じん・にん」はどうだろうか?
その音は「仁」という文字の音「じん・にん」と同じで、ようするに「人」=「仁」であることが分かる。この「仁」という文字は、「人」と「二」からなり、「二」は見ての通り天と地を表していて、「仁」という文字は「天・地・人」合一の文字である。
 孔子は徳目の中でも「仁徳」を最高の徳と言い、それは人間の自然な愛情に基づいたまごころの徳であると言っているが、この書でも「人」の語義ついて、「人は天地の霊一とし、日輪の徳をそなへたり」と言っていて、孔子の言う所と同じ意味合いとなっている。
 また、「仁」の訓読みは「ひとし」だが、これは「仁」は「人」にひとしいという意味合いだろう。
鑑みて、現在、我々が住む世界に、「人」と言える人間が人として行動したり、生活を行なっている人間がどれだけいるのだろうかと疑問になる。私には「人非人」ばかりが跋扈しているように写るのだがどうだろうか。
 この書に「日輪の徳をそなへたり」と有るが、我々が「日本」(日の本)と名付けた地の、その名に恥じないために、今一度、「人」=「仁」であることを見つめ直してみたい。(2010.03吉尾記)

近代世事談から

 この『近代世事談』は、享保年間(1716?1735)に書かれた日常の事物などを解説した書。著者の菊岡沾涼は俳人で、広く書籍を集めていた人物ということです。
 今から三百年前の物や言葉の概念を知る上で参考になり、現代から見れば間違った解釈もあるかと思いますが、今では忘れられた事物や言葉の意味、概念を知ることが出来ます。それを知る事によって、中近世の世界をさらにリアルに想像できるのではないかと思います。

煙草について

金絲烟(たばこ)
慶長十年に、はじめて南蛮より種をつたへて、長崎桜馬場にこれをうゆる、後山州花山に刻売、是を花山たばこといふ、又吉野つゞいて丹波にうゆる、初は竹筒に入て烟を吹く、是に請取渡しの礼あり、今はすたれり、中華(もろこし)には烟酒と云、火気薫蒸して表裡に徹す、酒を呑がごとし、よつて名付り、たばこに其功四ツあり、一には飢時是を以飽しめ、二には飽食に是を以饑(すか)しめ、三には醒時是を以酔しめ、酒後にこれを以すれば、痰をくだし、残れる酔をとかしむ、四に鬱気を散す、後水尾院御製
もしほやくあまならねども煙草、なみよる人のしほとこそなれ

とある。
『武江年表』「慶長十年(1605)乙巳」の項にも、
◯南蛮よりタバコ、蕃桝(とうがらし)を渡す。長崎にて桜馬場へはじめてタバコを栽うる(一説、天正中蛮人持ち渡るともいふ)。
とあり、アメリカ大陸原産のタバコは、コロンブスが新大陸を発見してからおよそ百年後に日本へもたらされたのだ。また、「慶長十二年」の項に、
◯煙草諸州へ弘まる。上下これを翫ぶ(始めは葉を刻みて紙に貼し、これを巻きて火を吹き、其のけふりを吸ひ、其の後は、きせるを用ひて紙に貼せず。きせるの製は真鍮を用ひ、或ひは竹のラウを用ふ。又、丈長きものを下部にもたせて、遊行せる図も見えたり)。
とある。タバコは日本に渡来して僅か二年で、全国に普及したのです。
後半のタバコの四つの功が面白い。
まず、お腹が空いている時には、それを忘れさせ、食べ過ぎる時には、タバコを吸えば押えることができる、とある。これはニコチン作用で胃酸がコントロールされるからだろう。三つ目、醒めている時には酔わせ、飲酒後のタバコは痰を取り、酔いを溶かすとある。確かに、タバコを始めて吸った時にはクラクラして酔った。痰を下すかどうかはちょっと疑問だが、下戸の私は酒を飲んでいる時には、タバコが良く進む。そのお陰で悪酔いせずに済んでいるのかもしれません。ともあれ、私には四番目の功が一番かもしれない。鬱気を散らすという事は、鬱気の有る私としては有り難い。今後、喫煙できなくなると、私は鬱病になるぞ。禁煙で健康を悪くするタイプです、私は。

江戸の飲食店について

慳貪(けんどん)
江府瀬戸物町信濃屋といふもの、始てこれをたくむ、そのゝち所々にはやりて、さかい町市川屋、堀江町若菜屋、本町桐屋など、名をあらそふ中に、鈴木町丹波屋与作といふものぞ、名高かりし也、これをけんどんと号るは、独味をして人にあたへざるの心又給仕もいらずあいさつするにあらねば、そのさま慳貪なる心、又無造作にして倹約にかなひたりとて、倹飩と書と云説此よろし

という食べ物屋が流行ったという。サービスを極力排除し、低価格、短時間で飯が食える場所だった事から、江戸っ子に受けたのだろう。『廣辭林』(新訂版)には、「昔時、江戸にて、饂飩・そばきり・飯・酒などを、客の需めに応じて一杯づつ売り、すすめもせず、極めて無愛想の客あつかひなりし飲食店、恰も一膳飯屋に似たるもの。慳貪屋(けんどんや)。倹飩。」とある。
現代で言えば、立ち食い屋、セルフサービス店、愛想の悪い主人のいるカウンター店という所か。今の「立ち食いそば屋」は「慳貪そば切り」と言った。

上記の慳貪屋で売られていたものに、そば切りがある。そのそば切りとは、現代の蕎麦のこと。

蕎麦切(そばきり)
中古二百年以前の書、もろ/\の食物を詳に記せるにも、そば切の事見えず、こゝを以見れば、近世起る事也、もろこし河漏津(かろんしん)と云、船着の湊の名物、茶店に多これを造る、よつて河漏と云、是日本のそば切の事也、江府のそば切の盛美(せいみ)には、諸国ともに及がたし

とあり、『廣辭林』には「食品の名、蕎麦粉を水にて捏ね、これをのして細く切りたるもの、茹でてつゆを掛け又はつゆに浸して食用に供す。そば。」とある。
一般に私たちが食べているものを「蕎麦」(ソバ・そば)というが、これはソバという植物の名で、正しくは「そば切り」というのが正しいようだ。
昔時、中国の船着き場で多く売られていたとあり、今で云う駅の立ち食いそば屋の原点だろう。短時間で簡易な食べ物屋は、待ち時間のうちに利用できて重宝がられるのは、昔も今も変わらない。(2010.02吉尾記)

近代世事談から(二)

江戸のスィーツ

今回は、江戸時代の江戸の人々のスィーツともいえるお菓子の記述を紹介します。

◯干菓子
菓子は今云水菓子(みずかし)の事也、よって菓子(くだもの)の字を用往古は今砂糖を以製する菓子なし、桃柿柑類等を用ひたり、伝云、干菓子は、本草に出たる所の白雪?(はくせつこう)にもとづき製之、中古あるへい糖こんぺい糖の類を渡す、これに倣て数品の干菓子を製すと也、堂上(どうじょう)の御菓子は、一條の虎屋近江二口屋能登製之 御用の御菓子は、銀町大久保主水製之

(注)
水菓子=食用となるくだもの。果物。
白雪餅=菓子の名。蓮の実を加へて製したる白色の落雁。
    落雁=菓子の名、炒粉に砂糖を加へ、型に入れて種々の形に製したるもの。
あるへい糖=有平糖。アルへイルにて種々の形に拵へたる菓子。
    アルへイル(Alfeloa:ポルトガル語)からきた名称。
    アルへイルとは、砂糖を煎じつめ、練りて飴のやうに固めたる物質。氷絲糖。
こんぺい糖=金平糖。コンペイトー。ポルトガル語のComfeitosの転訛。菓子の名。
    氷蜜に饂飩粉を加へたるものに、炒りたる芥子を種として、掻きまはして製したるもの。
    氷掛。氷掛=金平糖の製法、銅盤を火上に置き種に氷蜜をたらし掛け、数度かきまぜて製す。
堂上=公家
御用=将軍家
銀町=今の白金町

◯鹽瀬饅頭
京建仁寺第二世龍山禅師宋に入る、中華の人林和請の末裔林浄因といふ者、龍山の弟子と成る、元順宗至正元年に、龍山本朝へ帰る、林浄因從ひて本朝に来り、奈良に住し、氏を鹽瀬とあらため、饅頭を製す、これを奈良饅頭と云鹽瀬浄因の子あまたあり、一人龍山の弟子と成出家す、建仁寺の中両足院の開祖無等以倫是なり、以倫の弟鹽瀬某京におゐて製之 烏丸の鹽瀬の祖也 又林氏と呼は林和請の裔なれは也

これは、現在、東京にある和菓子舗『塩瀬総本家』の起源・由来を記した江戸時代の記述のようだ。
『塩瀬総本家』のHPに、
「塩瀬の歴史は、650年ほど前に遡ります。貞和5(1349)年、宋で修業を終えた龍山徳見禅師の帰国に際し、俗弟子だった一人の中国人が別れがたく随従して来朝しました。その人物が、塩瀬総本家の始祖・林淨因です。林淨因は暮らしの居を奈良に構え、お饅頭を作って売り出しました。これが、塩瀬の歴史の始まりです。」
とある。
ここの饅頭は、江戸時代に、鹽瀬饅頭あるいは奈良饅頭という一般名詞として知られていたのだろう。

◯丸屋求肥
寛永の頃、上使出雲の大守、京都にて求肥飴を召れ、江戸へ御帰府あつて、此菓子を尋させられしに、そこころいまだ江戸に求肥を製する者なし、それゆへ京都におゐて、求肥飴を丹煉したるものをめさるに、中嶋浄雲といふ者、江戸へ来て製し上る、とつて其頃は扶持方四季施等を拝領す、今神田鍛冶町丸屋播磨其裔なり是江戸にて求肥を造るはしめ也、よつて求肥屋と云

(注)
求肥=ぎうひあめ。求肥飴。[牛の革に似たれば此名あり。もと牛皮と書きしが、後に忌みて改む。]   菓子の名、澱粉に砂糖を入れ飴を加へて煮固めたるもの。ぎうひ。求肥糖。

◯大佛餅
根元は京誓願寺前にてこれを製す、今以堂上方へも召さる、至て其風味格別也、又方広寺大仏殿の前にあり、これ又好味なり、江戸浅草にて製するは、これを倣て大佛餅の名目を以す、近世数品の餅あり、いが餅さつさ餅あん餅くり餅の類ひ多く、提重杉折に盛りて美を尽せり、又ぼた餅は、むかしははなはだ賞玩せし物なれども、今はいやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし、牡丹のかたちに似たるにより、牡丹餅と名付、又萩の花かい餅ともいふ、堂上方には、今とても御賞玩あるよし也、最明寺殿足利義氏の許へ鶴岡社参の序に、立よらせ給ひしに、一献にうちあはび、二献に海老、三献にかい餅にてやみぬと、つれ/\草に見えたり、今も片田舎にて、歴々のふるまひをぼた餅にて饗応は、むかしの遺風なり、かならず古実は田舎に残れり、繁花の地にはうしなへる事のみ多し

○大佛餅=京都の名物餅、京都方広寺大仏殿前の餅屋にて売り出ししもの、形小なれど風味勝れ、上に五    三桐の焼印を捺す。
いが餅=毬餅。菓子の名、?(しんこ)に餡を包み、?(もち)米を上面につけて蒸したるもの。
さつさ餅=笹餅。?粉(しんこ)を水にて捏ねて煮たるを、臼に入れて搗きてちぎりたる餅。
あん餅=餡餅。あんも。餡を上につけ又は中につつみたる餅。
くり餅=項目無し。
提重=提重箱。種々の肴をつめて提げ携へらるゝやうにつくりたる組重箱。提盒。
杉折=すぎをり。杉のへぎ板にて作りたるひらたき匣。現在、折詰と言われている容器のこと。
牡丹餅=ぼたもち。「おはぎ」の事。
萩の花かい餅=現在の「おはぎ」の事。
かい餅=かいもちひ。掻餅。飯の餅。ぼたもち。

◯幾世餅
根元は両国橋西詰にあり、前は鉄砲町に住して、すこしき餅を商ふ、此者の妹にかもんと云あり、この女の夫は蕨駅の某にて大百姓なり、渠と示し元禄十七年にはじめて店をかまふ、其餅甚味美にして栄ふ、今所々にこの名あるは、これに准もの也、何ゆへに幾世餅と名付たりや

(注)
幾世餅=項目無し。

◯花饅頭
本所回向院の前伊勢屋と云見世にして山城屋三右衛門といふもの、享保十年の秋のころよりうりそめける

(注)
花饅頭=項目無し。

◯米饅頭
根元は、浅草金龍山聖天宮の麓鶴屋也、慶安のころ、此家の女におよねと云あり、すぐれて才智也、此女はじめてこれを製すゆへ、およねがまんちうといへり
  根元はふもとの鶴屋うみつらん、米まんちうは玉子なりけり
是遺侏がよみし狂歌也、遺侏は延宝の頃の歌よみ也、今に此所の米まんちうを名産とす

(注)
米饅頭=よねまんじゅう。菓子の名、餡を包みたる米の餅、円くして両端尖りたるもの。

以上、項目の注は、『廣辞林』(新訂版)による。 (2010.03吉尾記)

歴史の小話あれこれ

 歴史資料を渉猟していると、自分の調べたいことの本筋からは外れているが、その内調べてみようかと思う事柄に出くわし、それをメモしている。
そんなことどもを、調べる前にここに書いてみる事にした。この先、それを調べられるかどうか分からないからねノ。

藤太っていうのは

藤原秀郷を田原藤太といい、津軽氏の祖藤原頼秀を炭焼藤太という。この渾名の藤太というのは藤原の「藤」と、太郎に通ずる男の子という意味合いの「太」の合成語で、藤太とは「藤原さんちの男の子」って意味だろうと勝手に推測した。
この推測を補完する資料にはまだお目にかかってない。
どなたかそれを証する資料、できれば一次資料をご存知ならご教示くだされ。

骨肉相争う

今、戦国大名家の成立をサイトにアップしているが、室町・戦国期の領主をみると、多くの家で家督争いや主導権争いで兄弟、親子が生死をかけて争っていることが分かる。特に親が兄弟の幼長を顧みず特定の子を溺愛した時に、それが顕著に現れるようだ。そして、その争いに膏を注ぐのが、家臣たちの欲得、利権争い。所領主という小さな利権集団でもこの有様。
ただ、残された資料だけではどちらに義があるのか、なかなか見えないのが残念。
翻って、現代の兄弟争いの嚆矢は、鳩山兄弟であろうか。権力を目指すと、本人同士の思惑を越えて、周囲の人間による権力争いが、その関係を利用して自己を利するように行動するので始末が悪い。

伊達騒動

久し振りに、民放で大型の時代物が放映される。それは、テレ朝の「樅の木は残った」で、田村正和演じる原田甲斐が主人公のドラマ。
ことの起こりは、伊達家三代の綱宗が「逆臣らのために誤られ、遊蕩度に過ぎ」という事で、二十一歳で隠居させられ、その後を幼少の亀千代(四代綱村)が継ぎ、その後見役に一門で幕府直参となった伊達兵部宗勝と田村右京宗良がなった。特に兵部宗勝は政宗の庶子で時の藩政を牛耳っていた。こうして伊達家の秩序が乱れる中にあって、さらに一門同士の所領争い、家老たちの権力争いが起こり、藩政は腐敗の一途。そうした中で、伊達安芸と伊達式部との間で所領を巡り争う事態となった。家老の原田甲斐は藩政を刷新しなければ伊達藩そのものが取り潰されると危惧していた。寛文十一年(1671)、大老酒井邸において、所領相論が行なわれる。その席において相論に着座していた原田甲斐は、逆臣安芸らを斬った。甲斐自身もその場で斬り殺されるという事件が勃発。
伊達藩の人々は一様に驚愕、取り潰しかと震撼する。この原田のショック療法が効を奏し、目覚めた伊達藩は、以後藩祖政宗の布いた体制を維持し、幕末まで無事に家は存続することとなった。
とまあ、ざっとこんな事件で、タイトルの「樅の木」とは伊達藩の譬えです。

大石内蔵助

『忠臣蔵』で名高い浅野内匠頭家の家老大石内蔵助が、秀郷流藤原氏の子孫小山氏の末だったと最近知った。
大石氏は再興した小山氏の三代左馬助持政の弟良郷が近江国栗太郡大石に移住し大石氏を名乗った。内蔵助が仕えた浅野氏は、秀吉政権の五奉行の一人浅野長政の子孫。秀吉の家臣だった浅野氏は、賤ヶ岳の戦いの功で近江二万石を拝領しているので、この頃、大石氏は浅野家に仕えたのだろうか。
いずれにしても、内蔵助は秀郷流藤氏で、我が祖平将門の仇ってことだな(w  (2010.02吉尾記)

名前の読み

 日本人の名前は、姓や名に関らず漢字の読みが幾通りもあって正しく読むのが難しい。仕事で出入りしているある放送局の女性スタッフの名前は「真愛」と書いて「まがな」と読むそうだ。「愛弟子」を「まなでし」と読むように、「愛」を「まな」と読むことから「真愛」は「ままな」と読み、それが転訛して「まがな」と読むのかと思ったが、当人から万葉集に「まがなし」とあり、そこから取ったようですという話を聞いた。そこで古語辞典を見ると、「真愛し」(まがなし)とあり、万葉集(十四、三十四)3567東歌として「置きて行かば妹は真愛し、持ちて行く、梓の弓のゆづかにもがも」という歌が挙げられていた。(万葉仮名では「摩可奈之」とあり、これに「真愛し」の文字を充てた用法。)また「愛」には人名で「ちか、なる、やす、よし」などの読みがあると漢和辞典にある。閑院宮愛仁親王は「なるひと」親王と読む。言われなければ読めない。このように人名の読みには、かなり強引な読み方がある。だからといって、イメージだけで元の字にない意味や読みを無原則に行って良いというものでもあるまい。先頃、朝日新聞に「稀星」と書いて「きらら」と読ませる出生届が受理されなかったというような記事があったが、当然だろう。その文字になんの関係もない音や意味の関連しない言葉を当てるのは間違っている。こうした無茶苦茶な漢字の読みは、極力排除されるべきだ。とはいえ歴史的人物名では文句は言えない。古代、日本人の名前はその言葉の音声だけで、「スサノオノミコト」は古事記では「須佐之男命」と書き、日本書紀では「素戔雄尊」と書かれているように、その音に輸入文字の漢字を当てたのだから、音の類似、意味の類似で表記していた。そのために史料により文字が異なるものが多い。これは日本語特有の言葉(音声)と文字の関係からで、名前に限らず同音異字の表記がしばしば史料に現れる。
 この記紀の時代、日本人の名前はまだ個人の呼名だけであったが、それに豪族の名称(族名)や大王(天皇)が賜る姓、さらには官名・職名・地域名などの呼称を付けた氏(氏族)が生れ、個人を氏名で記したり名乗るようになる。(但し天皇家は氏姓を持たない)こうして時代が下がるとともに中央の支配層(公家)がその職業や居所の地名を家名として用いるようになり、さらに権力が武士階級に移ると、各地で多くの氏・家名から派生した苗字が生れ、苗字に名(幼名・通称・諱など)を付けるのが一般化した。それでも庶民はまだ呼名だけで、明治になってようやく誰もが苗字を名乗ることができるようになる。それとともに国民を管理(徴税・兵役など)する上での戸籍法が出来て、現代日本人の氏名(家族名と個人名)が確立した。
 このように我が国の氏名は、中国や西欧のように氏族名(血族名や職業名・家族名)と個人名(呼名)が比較的判然としていて同族であるかないか分明な民族ではなく、近代までは氏族名・職名・地名などが混在する家名を苗字としたため、同族であっても苗字が違ったり、同音異字を用いたりして無数の名字が生まれたという。渡辺三男氏の『苗字名前家紋の基礎知識』によれば、たとえば加治(かぢ)という苗字は、武蔵国高麗郡加治庄から起った名だが、その分流は可知、賀地、梶、勝などの文字を用いた。また同じ「かぢ」氏でも「加地」という氏があり、この加地氏は越後国加地荘から起った氏で、桓武平氏城氏の分流と近江佐々木氏の分流があり、この加地氏も梶、勝など加治氏の分流と同じ文字を用いる分流があるため、同族であっても異なる苗字を用いたり、同じ文字を用いる苗字であってもその出自は全く違っていたりする。また「勝」氏は「かち」「かつ」などとその読みが異なっている場合がある。さらに同じ「勝」氏でも「すぐり」「すぐろ」と読む「勝」氏がいて、この苗字は「村主」から来た苗字で、前者の「勝」氏とはその出自を異にする。こうして同じ文字でも読みが異なる苗字が多いのも日本人の名前の特徴だ。そこでただ「勝××」とあっても、それを「かつ」と読むのか「すぐり」と読むのか判断できない。このように文字だけではどう読むのか迷う名前が多いのも日本人名で、「吉川」は「きっかわ」「よしかわ」、「立川」は「たてかわ」「たちかわ」、「新居」は「あらい」「にいい」など挙げれば切りがない。「東」も同じで「ひがし」か「あずま」か迷う。迷ったあげく「東常縁」を「あずまつねより」と読んだら、「とうつねより」と読むのだと指摘されたこともある。そして最近、「阿閉」を「あとじ」と読んでいたが、それが間違いだったと分った。「阿閉」は「あへ」あるいは「あべ」と読むのが正しい。この「阿閉」は伊賀国阿拝(あへ)郡から起った氏で、「阿拝」(あへ)が「阿部」「阿閉」「阿辺」などと表記され、さらに「あへ」が「あべ」に転じて発音されるようになったらしい。
 こうして見ると、歴史上の日本人の名前は、文字(漢字)より言葉(音声)が優先しているようだ。以前、掲示板でも話題になった「和歌の前」「島の千歳」という白拍子の名前も、「若の前」「島の千載」と記した史料があり、どちらも同じ人物を言うように、昔の人は文字の違いよりも言葉(音声)を大事にしていたように思う。それゆへ、「加治」の同族が「梶」「勝」「賀地」と書いても、「かち」と読んでいる間は別名とは思わなかったのではないか。庶民の呼名もたとえば、「うしまつ」という者はある時は「牛松」と書かれ「丑松」「うし末」などと書いていたように思う。
 本来得川であった徳川も、「得」と同じ音である「徳」の字を当て、その漢字の持つ意味合いが「得」よりも「徳」の方が良いからと家康は「徳川」を名乗った。その徳川もまれに「とくせん」家と呼ばれるのだから、日本人名は難しい。さらに右府だの内府だの越前だのと役職名でよんだり、金吾や黄門などの唐名で呼んだり、その人物の年代により晴信を信玄、景虎を謙信などの号名で呼ぶのだから、日本の歴史的人物名はややこしい。

真愛し考

『岩波古語辞典』には「真愛(まがな)し」とあり、『大言海』を引くと「まがなし」は「真悲」とある。どちらも「かなし」という語に接頭語「ま」がついた語とあり、『大言海』には万葉集の字句「摩可奈之」という万葉仮名が記されている。この「摩可奈之」は、「まかなし」と濁らずに読むこともできる。おそらく、当初は「まかなし」と清音だったものが、後に「まがなし」と読むようになったのではないか。また『岩波古語辞典』で「かなし」を引くと「愛し」「悲し」という文字が当てられ、「どうしようもないほど切なく、いとしい」「かわいくてならない」「何ともせつない」「ひどくつらい」などとある、このことから、後に「せつない、つらい」という意味の「かなしい」という用法に「悲しい」という文字を充て、「かわいい、いとおしい」という意味の言葉に「愛おしい」と愛の字を用いるようになったように思えるのだが、先学のご教示を賜りたいと思う。

(2007.9.5吉尾記)

すたすた坊主

傀儡子や比丘尼を調べていると、江戸期には、さまざまな生業の人々がいたことがそれらの資料から窺い知れる。そのほとんどは、江戸期に現われ江戸期に姿を消し、今ではその頃の日記や随筆、絵図などで知るだけで、実際のものを見る事はない。だから、文字から想像するだけになる。畢竟、それらの字面や語感で何となく理解することで終ってしまう。この「すたすた坊主」という名前を目にした時も、面白い名前だなあと思い、一体これは何だろうと想像した。坊主の格好をした人が、スタスタと歩き、道行く人に説教でもするのだろうかなどと思っていた。ところが今回、瀬川如皐(二世)の著した『只今御笑草』(「続燕石十種」第三巻所収)を見ると、想像とは随分違ったものだという事を知る。参考までに、その部分を下に紹介。
「すた/\坊主 今も折ふしには見受る者ながら、明和の初迄は数多ありて、町々をあるきものせる、そのさまあか裸にて、しでさげたる注連の如き者を腰の程に巻、大注連の如く拵たる藁の鉢巻しめ、やれ扇、錫杖を持、さもいさましくおどりものして、
すた/\や/\、すた/\坊主の来る時は、世の中よいと申ます、とこまかせてよひことなり、お見世も繁昌でよいとこ也、旦那もおまめでよひとこ也、とこまかせでよひとこ也、
其外にもよいとこ尽しをしやべりものして、門々をおどりあるけり、」

(2004.11.15吉尾記)

鼠小僧

映画やTVの時代劇や小説の世界でしか知らなかった名前が、史料に現われるとつい引込まれてしまう。宝暦期の俳人と思われる四壁庵茂蔦という人が著した『わすれのこり』と云う書に、「鼠小僧」の記述が有り、興味を引かれた。それには、
「鼠小僧 次郎太夫事次郎吉、八町堀に住し大盗なり、常は袁彦道を以て表の業とす、此者度量広く、瑣細の盗みを為さず、常に諸侯の奥向へ忍び入り、手元金を奪ふ、生涯に贓金一万両余といふ、また慈悲心深く、難義の者を救ふこと多し、故に其名顕る、此者の伝は、芝居狂言、または絵草紙、講釈師など、往々いひ尽したれば、今記するに不レ及、彼の者刑せらるゝ時、紅粉を塗、美服を着て引かれし、予若年のときまのあたり見たり」とある。鼠小僧次郎吉が実在の人物だったことを、初めて知った。また、「袁彦道」なる言葉も初見で、何だろうと思い漢和辞典で調べると、袁彦道(えんげんどう)と有り、晋代にいた博奕の名人。転じて、ばくちのことと有る。義賊次郎吉さんの普段の顔は博奕打ちだったんですねえ。
ついでだが、同書に池波正太郎氏の名作『鬼平犯科帳』でお馴染みの鬼平こと長谷川平蔵についての記述があるので、以下に抄録。
「長谷川平蔵殿 本所花町に、火附盗賊改長谷川平蔵殿勤役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓智の捌多し、名高き稲葉小僧といふ賊も、其手にて召捕られたり、人々、今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて、世にかくれなし、上にも、町奉行になされ度き御含なれど、持高の少き故に、其御沙汰もなかりし、云々」
ここにあるように、長谷川平蔵はやはり名役人だったらしい。さらには小禄だったため、町奉行には成れなかったことも初めて知った。又、何所かで聞いた「稲葉小僧」という盗賊の名も出ている。

(2004.11.13吉尾記)

御湯殿の上の日記

歴史の門外漢であった私は、師の小説でこの『御湯殿の上の日記』という資料があるのを初めて知った。これが禁中の女官達が記した書ということもその時知った訳だが、湯殿を浴室と思って、その上に女官達の部屋がありへんな場所にあるのだなあと思ったが、冬の寒い季節にはオンドル効果で案外と良かったのかもしれないなどと一人合点していた。
ところが最近読んだ『硯鼠漫筆』(せきそまんぴつ)という幕末の国学者黒川春村の書いた書の中の「御湯殿上日記」という項で、湯殿が浴室の事ではないことを知った。そこには「御湯殿上日記数十巻あり。文明頃より慶長頃迄の禁中女房の仮字日記なり。さて御湯殿を辺鄙の学生は浴室とおもひまがへて、此御日記の在どころこそこゝろ得られねと問おこせたる事ありき。都遠き田舎人などはしか疑へるもことわりなりけり。これは御浴殿には非ざるなり。永正八年家中竹馬記云、私云、御前とは禁中にての御前なるべし。御湯殿のうえと申すは、きこしめさるゝ御茶の湯せらるゝ処を申す。御所にては(春村曰、将軍家の御所也。)常の御所の御次也とあるを見るべし。今武家にていふ御茶の間、是なり。」とある。
まさに私は文中の「都遠き田舎人」であった訳で、江戸時代の人々の中にも御湯殿を浴室と勘違いし、なぜそんな処に湿気に弱い紙の日記を置くのかと疑問をもっていた「辺鄙の学生」がいた事にニンマリした。
しかし、まだ一度もこの『御湯殿上日記』に目を通したことがない。(吉尾記)

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歴史のこぼれ話

参考文献余滴(二)
何となく知っているつもりで、良く考えたら知らなかった言葉の意味や、歴史の中のエピソードが、歴史を改めて見つめ直すことでより正確に、あるいはより深く理解できた。そんな小話の数々を集めたページです。

お江戸日本橋

子供の頃、意味も判らず聞いていた歌の文句で、ずいぶん年を経て得心したものが有る。三橋美智也さん(たぶん)の唄っていた歌に「バハンセン」という言葉のある歌があった。歌の題名も歌詞も覚えていないが、その「バハンセン」という言葉だけが記憶に有り、何となく音が南蛮船に通じていたことから、南蛮船の類いを言っているのだろうと子供心に思いこんでいた。ある時、倭冦の船が「バハン船」と呼ばれている事を知り、あああの歌は「八幡船」を唄っていたのかと大人になって理解した。
童謡として馴染んでいた「お江戸日本橋」もそんな歌の一つといえる。

  • お江戸日本橋七つ立ち 初のぼり
  • 行列そろえて あれわいさのさ 
  • コチャ 高輪夜明けて 提灯消す コチャエ コチャエ

覚えているのはこの一番の歌詞だけだが、誰もが一度は口ずさんだり、耳にしたことが有ると思う。
だが、私は歌の意味を全く知らず、ただ丸覚えで唄っていたように思う。その後、年を取るにつれそんな歌があったと思う事があっても、それを意識して口に出す事は無く、歌詞の意味を考えることもなかった。昔の「時」の数え方を知ってからも、この歌の歌詞を意識にのぼせることもなく過ごして来たが、ある日、「お江戸日本橋七つ立ち」という歌詞が浮かび、「七つは四時」となんとは無しに思いいたっている自分がいた。それからこの歌詞を思い出し、「お江戸日本橋七つ立ち」は「江戸日本橋をまだ暗い午前四時頃に出発」したという意味で、「高輪夜明けて 提灯消す」は「高輪あたりで夜が明けて、提灯の火を消した」って事だったんだと納得した。
しかし、「初のぼり」は「初めて都に上る」という意味だと判るが、「行列そろえて あれわいさのさ」の意味が判らない。何の行列?誰の行列?「コチャ」や「コチャエ コチャエ」は間の手だと判るが、「あれわいさのさ」って何?かけ声?というレベルの得心だ。
さらに、二番、三番があるのだろうとネットで探したら、

  • 登る箱根のお関所で ちょっと待った
  • 若衆のものでは受取らぬ 
  • コチャ 新造じゃないかと ちょっと三島 コチャエ コチャエ
  • お前は浜のお庄さま 潮風に
  • 吹かれてお顔は まっ黒け 
  • コチャ 吹かれてお顔が まっ黒け コチャエ コチャエ

とあったが、これまたどういう意味かさっぱり分らず、ますます己の無知を思い知った。二番に至っては、お手上げ状態で「箱根の山に登れば、関所で待たされる」のはいいが、「若衆のものでは受け取らぬ」とはどういう意味だろうか。「新造ではないかと、ちょっと三島」って何だろうと思う始末。箱根と若衆と新造の関係が分らない。まあ、三番は、お前は浜のお庄さま、潮風に吹かれた顔は真黒に潮焼けしている、というほどの内容だと分る。でも「浜のお庄さま」というのは誰かという疑問は残った。
ちなみにこの「お江戸日本橋」と称されているこの童謡は、江戸時代に流行った「はねだ節」という俗謡が元歌で、明治時代には、一節が終るごとにコチャエといったことから「コチャエ節」と云われた民謡だと「江戸東京博物館」のHPで知った。現在知られている「お江戸日本橋」という歌は昭和になって古老から聞き取ってまとめられたもので、十八節からなっているという。これは江戸から京都までの道中を唄ったもののようで、『民謡のふるさと 明治の唄をたずねて』(服部龍太郎著、朝日新聞社刊、昭和42年発行)にこの京までの登り唄十八節が記述されているという。また、下りの歌詞もあったようで、それは『東京の風俗』(木村荘八著、毎日新聞社刊、昭和24年発行)に合わせて掲載されていると「江戸東京博物館」のHPに書かれている。

(2006.9.2吉尾記)

歴史のこぼれ話

『参考文献余滴』として掲載した小文。筆者の素朴な疑問から発した私説です。

吉原以前

『吉原御免状』には吉原以前の江戸の遊里として、「江戸にある三つの色里、すなわち麹町、鎌倉河岸、そしてこの柳町」と三つの名が上げられている。また柳町の色里について、「この色町はもともと京橋柳町にあったのだが、慶長十年江戸城修復にともない、ここが御用地になったために、現在の日本橋室町あたりと思われるこの元誓願寺前に転居を命じられたものである。」(335p)と記されている。また『守貞謾稿』にも「城西麹町に十五戸、鎌倉川岸に十四、五戸、大橋内柳町に二十余戸等なり。けだし大橋と云ふは、今云ふ常磐橋なり。柳町は今云ふ道三川岸なり。この柳町の遊女屋を慶長中、元誓願寺に移す。この遊女屋は京師万里小路柳原の者多く、鎌倉川岸の者は駿府弥勒町および城州伏見夷町の者多く」と有る。麹町は現千代田区麹町あたり、鎌倉河岸は現千代田区内神田あたり、京橋柳町(道三河岸)は現千代田区大手町一丁目あたりで、町外れにできたであろう傾城町が全て千代田区内に有り、慶長当時の江戸の町の規模がおよそ現在の千代田区の大きさだったことが分る。
その後、まず京橋柳町(江戸城地に組み入れられた後、柳町の名は無くなり、千代田区の旧町名一覧には、江戸末期は武家地として記され町名は無い)の遊里が江戸城地の拡大で転居を命じられ、元誓願寺前に移り、さらにこの三ヶ所の傾城町は、当時まだ潮入りの葭原だった日本橋葺屋町辺に移転し、御免色里吉原町が誕生した。この時、吉原開設の中心となった人物が庄司甚右衛門である事は周知の事で、これは甚右衛門が吉原町の惣名主となっている事からも知れる。また、『神代余波』に「むかしは、京橋住町、柳町の辺にありしよし」と吉原の前身を柳町の傾城町としていることから、柳町の傾城町に庄司甚右衛門が関係していたことが推測できる。
しかし、柳町の傾城町が移転したという元誓願寺前がどこだったのか確かな事は不明。『吉原御免状』では、日本橋室町あたりとされているが、『そらをぼえ』には「江戸町壱丁目 大橋(今の常盤橋也)の内、柳町に有りしが、城地御用に付、神田元誓願寺前へ移り、又吉原の地へ移りて、江戸町といふ」と有って、神田となっている。それを確認しようと中央区のホームページにあたるが、元誓願寺あるいは誓願寺という文字は全く見つからない。誓願寺で検索しても日本橋室町の地と誓願寺が関係する記述は見つからない。しかし、『浅草下谷散歩』というHPに、神田須田町に有った誓願寺が、明暦の大火で焼けて浅草田町に門前町ごと移転したという記述が有った。『むさしあぶみ』にも「次に堂社にハ。神田明神。山王権現。天神の社。神明の本宮。誓願寺。知足院。云々」と誓願寺の文字が見え、神田に誓願寺の元地が有ったことが確認された。では元誓願寺前とは神田須田町あたりをいうのだろうか。だがこの誓願寺の元地は明暦の大火後のことで、すでに傾城町は元誓願寺前から移転して吉原を開いていたのであるから、神田の元誓願寺前であるはずはなく、『そらをぼえ』の筆者は元誓願寺の地が神田にあったことから間違えたものと思われる。
思うに、誓願寺は浄土宗の寺である事から、天正十八年(1590)、家康が駿府から江戸に入府した際、一緒に駿府から移って来た寺で、その頃誓願寺は日本橋室町辺(まだ日本橋および室町という地名は無い)に建てられたが、その後、慶長九年(1604)以前に神田須田町へ移転し、明暦大火で焼失すると浅草の地へ移ったと考えるのが妥当と思われる。

『歴史用語の基礎知識』【江戸の遊里】参照。

(2006.9.1吉尾記)

歌舞伎十八番『助六』の事

私は生憎、歌舞伎を一度も観劇した事が無い無学・無趣味な人間で、当然この『助六』という歌舞伎を見た事が無い。歌舞伎座の近くで仕事をしていた時もあり、毎日歌舞伎座の前を通っていたり、知人に歌舞伎界の人間もいたが、興味を持った事も無かった。ただ何となく話に聞いたり、TVや雑誌、本などで、その名と登場する人物の風体を知る程度で、ストーリーも知らない。近年、師に触発され、『一夢庵風流記』の前田慶次郎や『かぶいて候』の水野貞成、『吉原御免状』の水野十郎左衛門などの傾奇者を通じて、傾奇なるものを調べている内に、歌舞伎が傾奇からきているなどで、少しずつ歌舞伎に関する資料にも目を通すようになった。そんなレベルの人間の話で、すでに御存知の方のほうが多いと思われるが、歌舞伎十八番『助六』に関わる小文を試みた。
この歌舞伎十八番『助六』は、伊勢屋宗三郎の『三升屋二三治戯場書留』によれば、元は『花屋形愛護桜』という狂言で、後に曾我物語をモチーフにした狂言と合わされて『助六所縁江戸桜』となり、今日に至ったようだ。
この『助六』の主人公「助六」は男伊達(傾奇者)花川戸助六として登場し、吉原三浦屋抱えの花魁揚巻と馴染みになる。そこへもう一人の男伊達髭の意休が現れ、揚巻に横恋慕し、助六と花魁揚巻を巡って争うのだが、この花川戸助六、実は曾我兄弟の末曾我五郎時致という侍で、その昔曾我五郎が持っていた名刀友切丸を捜していた。その刀が吉原通いの男伊達が持っていると聞き、男伊達の大尽花川戸助六を騙って吉原に通っていたのだった。そして、その刀を持つ男伊達が髭の意休で、助六は意休に喧嘩を売って首尾よく刀を取り戻す。というのが『助六』の筋書となっている。
ここで私が面白いと思ったのは、「傾奇」由来の歌舞伎者が、傾奇者(男伊達)を演じている事だった。片や「カブキ」という音が、歌舞妓という文字に変り、その人の目を曳く派手な衣装や見栄が芸能として受け継がれ、片やその生き様、反骨心が男伊達(男達、男立)という風俗として受け継がれ、表現する者と表現される者に分かれてある事に、歴史の面白さを感じた。
ほとんど喰わず嫌いだった歌舞伎だが、こうした視点を持つと、何となく見たくなった。そのうち、機会を見つけて『助六』を観に行こうと思う。
ところで、この「助六」や「髭の意休」にはモデルがいる事は『人物・人名辞典』の「助六」「髭の意休」の項に記したが、「髭の意休」に関しての愚考を少し述べてみたいと思う。
森島中良(万象亭)の『反古籠』によれば、揚六さんと渾名された鳥暁(助六のモデル)の太鼓持ち(牽頭持)髭の無休が髭の意休のモデルである事が知れる。そして『武江年表』元禄年間記事に「○幇簡髭の無休といひしも此の頃なり」という記事と合わせて、この無休という人物はどうやら吉原通いの大尽に付き従う幇間であったと思われる。この幇間無休が、なぜ助六の仇役になったのだろうと考えると、その答えのヒントも『反古籠』にある。「湯島の浪人田中三右衛門といふ者も、揚巻が客にて、其事につき、度々喧嘩ありし」と書かれている事がそれで、助六が前述の鳥暁と大坂の万屋助六、花川戸の男伊達戸沢某あるいは夢の市兵衛とを合わせた人物であるのと同様、「髭の意休」も伊勢屋宗三郎がその著『三升屋二三治戯場書留』「助六始」の中で「其頃のえた久米八といふあり、よし原に通ふを意休とするなり、いづれも三人合せし書物なり」と書いているように何人かの人間を合わせた人物である事が窺える。
おそらく『助六』の作者津打治兵衛(『反古籠』では津打半右衛門)は、助六の仇役を鳥暁の恋敵田中三右衛門になぞらえ、それを男伊達の遊客に設定、名前を髭の無休から借り意休としたのでは無いかと推察できる。それでも幇間の名を男伊達の仇役に用いた意図が分らなかった。そんな事は、作者でないかぎり分りっこないと言われればそれまでだが、その狂言芝居が民衆の評判を得るには、作者は重要な登場人物に、市民が感情移入しやすい人物の名、あるいはそういう人物を想起させる名を用いるはずで、特に世話物と呼ばれるものは、世間で話題となった出来事や人物をモチーフとしている事から、登場人物の設定はその名も含めて重要視する。何も幇間の名を借りる必要も無く、もっと仇役に相応しい人物を措定してもよかったのではないかと思っていたら、その疑問を喜多村信節の『嬉遊笑覧』にある文が解決してくれた。
『嬉遊笑覧』巻之一下に、「此男髭を生じたる故、髭の十と異名をとれり」と有って、『仁侠伝』からの引用として「髭の達人は唐土に関羽、日本に朝比奈・宗祇、女郎買に無休あり。十あり云々」と記されていた。この「髭の十」とは、同書によれば傾奇者深見十左衛門の事で、この深見十左衛門については『武江年表』にも「○この頃、男伊達六方組等あり。深見十左衛門など其魁首なりしとぞ」(寛文年間記事)、「侠客深見十左衛門遠流。其の後十八年を歴て、宝永中帰郷を許さる」(天和年間記事)に見え、当時、男伊達で名を馳せていた事が窺える。こうした事から、「髭の何某」とすれば十分「髭の十」こと深見十左衛門を連想できたのだと推測できる。そして「髭の意休」とする事で、助六を鳥暁(『三升屋二三治戯場書留』では暁雨)にも重ね合わされ、江戸の市民はより身近な物語として芝居を楽しむこととなったように思われる。

(2006.8.13吉尾記)

日本人の曖昧さ

『日本書紀』を久々に開いてみた。日本海に浮かぶ小さな島「竹島」をめぐり日韓がまたまた対立した。それは、竹島を実効支配している韓国側が、さらに既成事実を積み重ねようとする行為にでようとしたため、お人好しな我国もさすがに反発し、海上保安庁の調査船を竹島海域に派遣しようとして、一触即発の事態になったからだ。以前、掲示板に書き込んだ『想古録』にある「竹島」に関する記述の中に、竹島が日本の領土であるという記述が『日本書紀』にも記されていると書かれていたので、それを確認しようと『書紀』を手にした次第。
竹島問題がこじれている理由
江戸時代から、漁民の間でこの島をめぐっての争いが繰り返されていたことは、前述の『想古録』で知ったのだが、領海や経済水域等の概念が国際的に合意され、領海法などの国際法が整備された以降も、争いを続けている一番の要因は、戦後の日本の政府がより大きな問題(日韓国交正常化)をクリアするために、小さな問題(竹島の領有権)を棚上げしたまま、何十年も先送りしてきた結果に他ならない。この間、我が政府は口では領有権を主張するが、実際に漁民が困っていることなど眼中にないのか、具体的な行動は一切とらないできた。一方、韓国は警備隊を常駐させるなど、実質支配を進めている。こうした事態にいたっても、我が政府は曖昧な態度に終始。自ら火中の栗を拾おうとする政治家や役人がいなかったことに現状の竹島問題がある。
曖昧さは、日本社会の和を尊ぶ心持ち
この曖昧な態度は、竹島に限った事では無い。曖昧な戦後処理で、問題を先送りしてきた結果が、アジア外交の行き詰まりだろう。占領軍を駐留軍と名前を変えただけで、それを認めて来た曖昧さが、各地の基地問題となっている。
こうした曖昧さは、何も我が政府だけの問題だろうか。憲法の解釈も曖昧なまま、実質的な軍隊を軍隊で無いといってきた詭弁を何の抵抗も無く受け入れてきた国民でもある。こうした国民性は、私も含め、日本人全体が持つ国民性であるように思える。これは、重大な問題の先送りは困るが、大きな目的のためには周辺の小さな問題は先送りし、時間が解決するのを待つ、間(ま)を重視した和(わ)の文化で、無理矢理白黒をその場でつけず、自然に収まるべき所に収まるのを待つ柔軟な態度といえ、お互いに傷つく事を最小限にとどめる知恵だ。これは恥ずべき事ではなく、一つの文化の優れた在り方といっても良い。我が国のあうんの呼吸とか、間を大切にする文化は、細大もらさず全て明文化し、契約書を取り交わさなければ何事も事が運ばない社会とは全く異質なものだからだ。我が国のこうした文化的基盤が、過去には神仏習合を産み、明治の文明開化をもたらし、戦後の復興に大きく作用している。
しかし、こうした曖昧さを内包した間や和を大切にする柔軟な文化には、抜け目ない者につけ入られる隙を与えたり、無責任という負の側面を合わせ持っている。あうんの呼吸は良い意味合いだが、文化的規範が無くなると、それはなあなあな関係、馴れ合い、凭れ合いとなる。文化が衰頽すると、正の部分が失われ、特に負の部分だけが大きくなる。そして、この曖昧さは、日本語の持つ曖昧さから来ているもので、避けられない。だとすれば、常にそのことを念頭に置いた自律的な規範を合わせ持った文化の再構築を行なわなければ、早晩、日本と云う国は滅びるだけだろう。
日本人の曖昧さは、今に始まったことではない
『日本書紀』の話が、日本人の曖昧性に及んだのには、井上光貞氏の「『日本書紀』の成立と解釈の歴史」(中央公論社刊『日本書紀』所収)に、『日本書紀』という書名が曖昧な名称としてつけられたとあったからに他ならない。井上氏は、『日本書紀』という書名は『日本紀』と『日本書』という二つの性格が異なる書の名称が付された曖昧なものという。『日本書紀』の本来の名称は『日本紀』で、この「紀」とは、中国の編年体の歴史書『漢紀』『後漢紀』を意識したものとされる。これは、後に続く歴史書が『続日本紀』と有ることから、当初は『日本紀』とされていたのだろうという。しかし、『日本書紀』の記述は純粋な編年体ではなく、編年で記述されてはいるが、帝ごとの紀伝体の要素を持ち、皇帝ごとにまとめた紀伝体の『漢書』『後漢書』の「書」という文字が書き加えられ、『日本書紀』という曖昧な名になったという。

追記
『日本書紀』にあるという「竹島」の記述は、一ケ所目についたが、
「到2于吾田笠狭之御碕1。遂登2長屋之竹嶋1。」(神代下第九段)と有り、明らかに今問題になっている島の事ではない。この他、全体に目を通してみたが、残念ながら、『日本書紀』に「竹島」が日本領だとする証拠となる記述を見つける事ができなかった。
ざっと斜読みしただけなので見落としているかもしれません。もし御存知の方がおられましたら、御教示賜れればと思います。
ちなみに『想古録』の件の下りを下記に再録しておきます。

「儒者不学にして、竹島を朝鮮に取らる
常憲公(五代将軍綱吉)のとき、日本の漁船、竹島に渡り、同島近海にて漁猟しけるに、朝鮮人と争闘を開き、数名を殺傷せられたり、此事葛藤の種となりて、終に竹島所属の争ひとなりけるに、我よりは彼方にて、貴国の竹島は我蔚繚島なりと云ひしを廉に取り、貴国の竹島と云ふ以上は、其島の日本の属地たること分明なりと云募りしに、彼方にて、其れは言辞の誤りなれば取消すと為し、何なりとも確実なる証拠を示すべしと云ひ来れり、然るに当時の掛り儒官は林鳳岡にて、其調査充分ならざりければ、「日本書紀」に竹島のこと出で、又「三国志倭国伝」にも、又「梁書」にも竹島の事出で居るを気附かず、別に証拠は無しと答へしかば、彼よりは「輿地勝覧」を引きて、其の朝鮮所属なるを証し、竟に我が曲と為るに至れり、寔に惜むべく、憾むべきことと謂ふべし」 

(2006.4.25吉尾記)

白拍子考

白拍子とは
白拍子は『喜遊笑覧』に「白拍子とは、もと拍子の名なるが、やがて歌舞の名となりたる也」と有り、これは『平家物語』佐藤謙三氏の注にも「中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女。」と有るように、元来は歌舞の拍子の名とされる。では一体どんな拍子を白拍子と云ったのか。さまざま調べてみるが、はっきりとはしない。『喜遊笑覧』は「白拍子はかぞふるものにや。『長門本平家物語』にも、[白拍子かぞへて]と有(今も春日若宮の神楽、翁の歌に[シラ拍子、ラン拍子]といふこと有とぞ)」と有って、「ラン拍子」が「乱拍子」ならば、「シラ拍子」は「平(ヒラ)拍子」の転訛で、平らかな拍子の意ともとれる。
こうした語から推察すると「乱拍子」とは音の高低、強弱のある御囃子のような、いわばリズムの有る拍子を云い、「平拍子」とは高低、強弱の無い単音、いってみれば御詠歌を詠む時の振り鈴が刻む音のような拍子ではないかと思われる。さらには「乱拍子」は鈔、笛、鼓などのアンサンブルで、祭囃子のように歌を伴わない器楽曲としても成立つが、「平拍子」は、歌の歌い出し、所作のきっかけを刻む拍子を云ったもので、そこには必ず舞や謡いが伴っていたのではなかろうか。
また、「シラ拍子」は「素(しろ)拍子」の事で、「素」が同音同義の「白」に転じただけと考えるほうが自然かもしれない。この場合でも、歌の歌い出し、所作のきっかけを刻む拍子という概念はそれほど外れていないように思う。「白」「素」という字には「まじりけがない」「あきらかにする」という意があり、鉦あるいは鼓だけで拍子を取る事を云ったと考えられる。
つまりは、「白拍子」という語は、現代で「手拍子」「足拍子」という場合と同じような意味合いであったのではないか。また、『庭訓往来』に「職掌の神楽男は、調拍子を合はせて、拝殿に祗候す」や菅江真澄の『かすむこまかた』に「十四日 けふは空晴て長閑なれば、雪ふみならし、わらまきちらし、莚しきて童あまた群れ集りて、笛吹、太鼓、銭太鼓、調拍子(テビラカネ)にはやして鹿舞の真似をし、また田植踊のまねして遊び、また箱の蓋を頭に戴て念仏舞のさまをし、また剱舞てふ事せり云々」とある「調拍子」(どびょうし、てびらかね)は、その注として『庭訓往来抄』に「土、調に作る。神楽同時に始て之を作る。▲昔、調拍子に土をかく、今は調、よき也。(舞に合わせて用いる振り鈴か。) 」とあり、楽器の名称として拍子の文字が用いられている。さらに『廣辞林』には「銅拍子」(どびょうし)として、「一種の楽器、真鍮にて作り、形鐃鉢(にょうはち)に似て小、二個を以て一対となし、各其外側の中央に紐を通し、其紐を指に挟み拍ら合はせて鳴らすもの」と有ることから、「白拍子」も何等かの楽器をいうか、拍子をとる楽器が一つだけで、それを現わす意味で素拍子(白拍子)となった事も否定できない。
「白拍子」が「素拍子」から来たことは、『七十一番職人歌合』の注で「白拍子とは、雅楽の拍子の名で、声明道で延年舞の時、童僧が「素(しら)声」で謡うことからきている」と書かれていて、あながち的外れではないと思う。

舞楽の呼び名としての白拍子
こうして元来、「白拍子」は拍子あるいは楽器・謡声を現わす語だったが、その拍子の音や謡と共に舞を伴っていたことから、やがてその舞を指す語となる。『喜遊笑覧』にも「白拍子を歌舞するさま、『続古事談』に、[妙音院相国云、白拍子といふ舞あり、其曲を聞ば五音の中には商の音なり。此音は亡国の音也。舞のすがたをみれば、立周り空をあふぎて立り。白拍子、後世にもみゆれど、其余流なりや否をしらず。声容は絶て、たゞその名ばかりなるべし]云々」と有り、白拍子舞の事が現れる。
この白拍子舞は、当初、男女ともに舞手として現れ、『廣辞林』に「歌はもと神佛の縁起などを謡ひし」と有るように、主に神楽舞や延年舞などと共に寿ぐ意味で、寺社に奉納されたものと考えられる。やがて、男の舞手は同時期に起ったと思われる曲舞に吸収されたか、陶冶され、「白拍子」は女の舞手ばかりとなったようだ。これも臆測にすぎないが、この曲舞は、前述の「ラン拍子」に発する舞楽ではないかと推察してみたい。
このようして「白拍子」は女性が舞う舞楽としての名称となる。この時の舞手はおそらく神社に仕える神人や巫女が主な担い手で、始めは神仏に捧げる舞だったが、神社の勧進などで諸国を巡るようになると、観客を引き付ける興行的な要素を取り入れた舞に発展する。「水干(旱)を着け立烏帽子を戴き白鞘巻をさし今様を謡ひつつ舞ひしかば、男舞とも稱せしが、後には水干・袴ばかり着ても舞へり」(『廣辞林』)と有るように、その舞曲の内容も神仏の縁起から今様へと変化した。今様とは、今日でいえば流行歌という意味で、白拍子舞は宗教性を薄め、平安末期にはより世俗的で享楽的な舞楽となっていたと思われる。
また舞手の衣裳は、水旱と称される質素な着衣で、後に見られるような華美な舞衣は着ていなかった。そもそも水旱とは、水張にして干した絹の意で、当時においては官人が普段私服として着す染めていない簡素な狩衣の一種をいう。しかし後世になると、染めた衣裳が一般的となり白無垢の衣裳は「常住の衣裳に非ず、天下旱水を祈らんが為に此の服を着る也」(『庭訓往来抄』)ということになる。こうして「白き水旱に立烏帽子、白き鞘巻を差す、人皆、男舞と云ふ、中比より烏帽子、刀を除て、白き水旱計着けたり。故に白拍子と云ふ也」(『庭訓往来抄』)とする書が後に現れるようになった。

遊女・舞女としての白拍子
平安時代末期に白拍子舞を得意とする妓女が現れる。やがてその妓女を「白拍子」と称することになり、「白拍子」=「遊女」という概念が生れた。その始めが『平家物語』『源平盛衰記』に現れる「島の千歳」「和歌の前」の二人の妓女とされ、「白拍子」の祖と言い習わすことが通説となった。また吉田兼好の『徒然草』に磯の禅師の女「静」が白拍子の始りと有ることから、一説では「白拍子」の祖を義経の愛妾「静御前」としている。
この時代、朝廷や公家たちの宴に華を添える遊女、舞女の存在が諸書の史料に現れる。こうした遊女たちは、その容貌の美しさばかりでは無く、支配層の貴族等と対等に付き合えるだけの教養の高さ、機智に富み技芸に秀でた才を持っていたことが窺え、「白拍子」と呼ばれた彼女らはその舞のトップクラスの遊女だったのだろうと想像できる。
こうした流れが生まれると共に、依然、神社等の勧進を目的とした神子たちの活動が絶えた訳ではなく、白拍子舞を持って諸国を巡っていた女性たちがいたと思われる。白拍子舞の原型を留めた彼女らの舞は、発展した「白拍子舞」と区別され、「念仏おどり」などと称されるようになる。この「念仏おどり」をもって戦国期に出雲の社から勧進のため諸国を巡っていた女性が、後に「歌舞伎」の祖と云われる「出雲於国」であることは良く知られている。このことから、「出雲のお国」を白拍子とする書もある。
「白拍子」の祖の通説に反して
以上の事柄が、これまで目を通した僅かな史資料等から、私が現在知り得る「白拍子」についての知識と概念だが、『庭訓往来抄』にあった「白拍子」の注釈に触発され、これまでの通説を否定する妄説を立ててみた。
この注釈文には「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也」と有り、「島千歳という者が、和歌の舞を舞ったのが始り」と有るのを、注釈者が「和歌の前」を「和歌の舞」と取り違えて説明していると『歴史用語事典』では書いた。しかし、本当に間違いなのかという疑問も生じた。
遊女白拍子の祖とされる「島の千歳」「和歌の前」の典拠は、前述したように『平家物語』『源平盛衰記』で、どちらも口承文学として伝えられたもの。伝承者の語るものが文字化された事から、後年何々本『平家物語』と称される幾つかの写本が現れる。やがて江戸期に読物文学が一般に流布すると、それぞれ口承者あるいは名家が持っていた写本の幾つかが板本となり、それらが現在に伝えられたため、一番流布した板本が元となりそれがスタンダードとなった。
しかし、現在でも伝わる写本の中の異本間では、骨格となるストーリーは変らないものの、細かい部分で異同がある。近代に入り、それらは文学者・歴史学者によってそれぞれ研究され、現在では一つの正しいと思われる事実に収斂しているのだが、ある部分では、多くの資料が同じ記述であるという理由から、事実と認定しただけのものもあるのではないかという疑念が生まれた。
その一つが、「島の千歳」「和歌の前」の記述である可能性も否定できなかった。ひょっとすると、江戸初期の『平家物語』の写本の中に、『庭訓往来抄』の注釈を記した人物が「和歌の舞を始舞」とする根拠の写本があったと考えられる。それでも、その写本が間違えていたのだと言えるが、「和歌の舞」を「和歌の前」と写し間違えたという逆の解釈も否定できないように思う。
現在の印刷本『平家物語』では「昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳(せんざい)・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり」とされ、これがスタンダードとなっていることから、これが『平家物語』の本来の記述だと信じ、誰も疑わずに「島の千歳」「和歌の前」の二人を「白拍子」の祖としているに過ぎないのではないか。
「鳥羽院の時島千歳の和歌の舞を始舞也」が本来の記述であるならば、「白拍子」の祖は「島の千歳」一人で、彼女は「和歌の舞」という舞を踊ったという事になる。そこで「和歌の舞」なる舞など史実に現れないのだから、「和歌の前」の誤りだとされているならば、語り手はただ単純に、和歌を題材とした舞を舞ったとしただけで、とりたてて「和歌の舞」という名の舞楽を言ったわけではないのではないかと言いたい。また、「和歌の舞」は「若の舞」だとすれば、別の解釈も生まれると思われる。
それでもこの論は妄説に過ぎない。「白拍子」の祖が「島の千歳」一人だったなら、「彼等二人が舞ひ出したりけるなり」という記述と矛盾するからだ。しかし、語り伝える中で、「ワカの舞」が「ワカの前」となり、二つの人名が生じたことから、後に「彼等二人」と付け足したとは考えられないだろうか。いづれにしても、「島の千歳」だけは「白拍子」の祖と今のところ言えるのだろう。

(2005.11.20吉尾記)

好戦的な日本人

民族の好戦性について通俗的な論しか持ち合わせていない筆者は、菜食文化の民族より肉食文化の民族のほうがより好戦的であるとの俗説を受け入れていて、アジア人よりアングロ・サクソン人のほうがより好戦的で、この地球上で最も好戦的で暴力的な国民は、世界一牛肉を食しているアメリカ人であると思っている。
ところが、ヴァリニャーノの『東インド巡察記』の中に日本人を評して、「世界中のあらゆる人種の中で、日本人は最も好戦的で戦争に没頭している」との記述があり、なんだこりゃと思った。戦国期に来日したのだから、彼がそう見るのも仕方のない事かとも思ったが、どうやら戦国時代だからという理由だけで片付けられない精神構造が日本人にあるのかもしれないと、その後の記述を読んで思う。
「日本人は、人を殺すことを、動物を殺すことよりも重大には考えていない。そのため取るに足りない理由からだけではなく、自分の刀の切れ味を試すためであれば人を殺してしまうのである。各自は自分の屋敷でも人を殺すことがあり得るし、戦争が実に絶え間ないので、大部分の人々が刀で命を奪われているものと思われる。日本人は次のような非常に残酷な行為に及ぶ。すなわち、母親自らが子供を産むや否や「この子は養えない」とだけ言って、ごく当たり前のように首を踏みつけて殺してしまうのである。それに自らの脇差を使って切腹し、自害する者も大勢いる」
しかし、このヴァリニャーノの見解について、多くの日本人は、苦笑し「そんな時代があったかもしれないが、今は違う」というだろう。それは当時においては生産性が乏しく糊口を凌ぐ上のやむを得ない行為であったり、なによりも「恥」を忌避し「誉」を重んじる武士道の精神の発露から自ら切腹する事で、潔く「死」する道のほうが生き恥をさらすよりも尊いと思っていた時代のことで、ましてや「無礼打ち」などは封建時代の遺物であって現在ではありえないと答えると思う。また、「子殺し」や「親殺し」などの行為は何等かの精神異常者の行為で、普通の人は行なわないものだと断ずるはずだ。
かつて戸坂潤氏がその著『思想と風俗』の中で「日大生殺し」を取り上げ「社会では両親はいつも息子や娘を可愛がるものであり(従って子供は親孝行をする義務があるというところへ行くのだが)、妹は女で年下なのだからいつも兄を大切にするものだと決めてかかっている。つまり家庭は少なくとも相愛し合った親子関係が中心で出来ていると仮定している。」と述べておられるように、現在でも多くの日本人は、多かれ少なかれ、こうした家族愛や親子の愛を信じているはずだ。戸坂氏が言及した時代(昭和初期)は、現在よりもそうした社会的通念は強く、保険金殺人の第一号とも称される「日大生殺し」事件がセンセーショナルに報じられたのだが、現代では保険金殺人や「子殺し」や「親殺し」などの家庭内事件など日常茶飯事のように起こっている。
こうした事を考えると、ヨーロッパの人々は、ヴァリニャーノが日本を訪れた十六世紀から現代に至るまで、「人を殺すこと」について、その意識はあまり変化していないように思われる。少なくとも家族や自国民・同朋に対する愛は日本人よりも強く、その価値観は一貫している。
その点我が国は、中世的な死生観のまま、近世をある意味平穏に過し、その間に儒教的倫理観を強めはしたが中世からそれほど離れずに来ていたと思われ、より止揚した近代西欧的な死生観を持つキリスト教的倫理観が明治以後に流入し従来の日本的道徳観と融合したため、「人を殺すこと」に対する意識は揺れている。確かに日本人の価値観は近代に入って百八十度転換し、欧州に比べると一貫性は無く、さらには現在でも独特の死生観を持っていると思われるが、だからといって、私はヴァリニャーノが断ずるように日本人が好戦的だとは思わない。
なぜなら死生観と好戦性・暴力性とは別物と思われ、自死・自刃する事を罪と思わず、むしろ名誉とする価値観と、自殺を禁じ、むしろ殉死することを名誉とする価値観の違いが死生観の違いであって、そこには好戦性・暴力性は入ってこない。
人が好戦的・暴力的になるのは、その社会になんの規範も無く、人に先んじて自我の欲望を満たす事だけを重要と考える社会に現れるように思われる。ヴァリニャーノが日本を訪れた戦国期はまさに中世の規範が崩壊し、それぞれの領主が己の欲望を満たそうとした時代だった。中世的規範は、一部の荘園領主や中央の支配層たちがそれぞれの支配に都合のよいように形成されてきたもので、そこにはおのずから限界があり、貨幣経済の浸透とともに中世的規範・秩序の埒外にあった人々が力をつけてきたことにより崩壊をきたすのだが、こうした歴史の発展は、ヨーロッパ中世においても同じだった。しかし、ヨーロッパにおいては封建領主の誕生とともに、それ以外の人々の間には市民としての意識も生まれ、支配層から生まれた市民としての権利や価値観が断絶することなく一般の人々の共通の価値観となって裾野を広げた。それを可能にしたのがキリスト教という共通の倫理観があったためだろうと推測する。そのために、王や廷臣、地方領主、民衆すべてを律する倫理的価値観が生まれ、国の秩序もそれに沿った形で現れる。
それに反し、我が国では宗教は救済であり学問ではあったが、行動規範とはならず、貴族は神道・王道、武士は武士道、坊主は仏道、修験道などなど、それぞれの職能階層に別れた行動規範が生まれていたことから、その「道」ごとに「徳」を積むことが良しとされ明治には「道徳」という言葉さえ生じしめた。この道徳観が日本人の行動規範で、「日本人は、ヨーロッパでは極めて重大な罪を徳として考えており、坊主も神官も、罪は徳なり、と人々に説いて教え込んでいる。」とヴァリニャーノが述べているように、我が国では国民全体を包括した宗教的倫理観の発達をみる事は無かった。そのため、我が国が国としての秩序を保つのは、時の支配者の「道」であることから、その支配が揺らげば国としての規範も弱まり、無政府状態となる。
さらに言えば、我が国においても、中世的規範・秩序の崩壊とともに、ヨーロッパ同様「一揆」や「堺の町」などに見られるように、市民による自治意識も芽生えたが、「市民=civil」という言葉のような人間社会全体で通用する概念は生まれず、それら自治の担い手は一方では「門徒衆」であり、また「会合衆」であって、「衆」という言葉で表現され「民主」あるいは「市民権」というような概念が生まれなかったことと通じるかもしれない。
ともあれ、ヴァリニャーノが訪れた時期の日本は、奇しくもヨーロッパと時を同じくして王の権威に基づいた中世的支配が揺らぎ、新興勢力が台頭する時期であった事から、先述したように新たな支配者が現れるまでは、国としての規範も定まらず無政府状態化していた。このような状態では武力を持つ者は好戦的となり、すこしでも領地を拡大して自分の欲を満たそうとするのは、ある意味自然な成行きだろう。これは日本人に限ったことでは無い。国あるいは社会の規範が揺らげば、欲望だけで行動する人間が必ず現れる。これらは、個人的な攻撃性、暴力性であって好戦的な行動につながるものだが、これを持って特に日本人を好戦的とするヴァリニャーノの主張には同意できない。むしろ、この時期に圧倒的な武力を持ってアジアやアフリカ、アメリカ大陸を植民地化したヨーロッパの国々のほうがより好戦的な国だったのではないだろうか。
だからといって、日本人が平和的な人種とも思わない。ヴァリニャーノが目撃した時期の日本には確かに好戦的で、暴力的な勢力が溢れていたし、信長がそうした状況を平定したのもより暴力的な手段でなし得たにすぎなかった。また、新たな規範を国にもたらした秀吉は、朝鮮半島へ侵略を行なっている。唯一、徳川政権時代だけは善かれ悪しかれ三百年近くの間、平和的な国家であったといえよう。

最後に、大平洋戦争後、自国民や朝鮮・中国・インドシナの人々、さらには戦った相手国のアメリカやイギリスの人々を含めた多くの犠牲の上、武力を放棄し不戦を誓って六十年間、まがりなりにも平和国家を標榜し、多くの日本人が平和を希求し、その理想を実現させようと様々な努力を行なってきた。言わば戦後の日本の「道」は平和で、それに基づいた道徳や規範で進んで来たように思う。だが今、その拠り所である「憲法九条」が改正されようとしている。
誰もが「憲法九条」を少し変えた位で、この日本がすぐに戦争を起こすなどとは考えないだろう。しかし、本当にそうだろうか。今、この日本には普遍的な倫理観も無ければ、道徳も無いに等しい。あるのは拝金主義的欲望だけで、国のトップでさえ経済効率という名の魔物に取りつかれ、国民の多くも大金を手に入れようと躍起だ。人間の行動を律する規範が薄れている時代に、人は攻撃的となり暴力的となるのは、現在でも同じだと思う。その徴候はすでに様々な家庭内暴力や保険金殺人という形で現れていることは先述した通りだが、「振り込め詐欺」や「ネット詐欺」が横行するのもそうした風潮があるからだろう。特にインターネットの世界は無政府状態で、状況は十六世紀の戦国時代とある種共通している。
こうした状況の時に、我々日本人の多くが好戦的となる事を忘れてはならない。

(2005.10.10吉尾記)

宮本武蔵の子育て

『吉原御免状』『かくれさと苦界行』の主人公松永誠一郎は、生まれたばかりの時に柳生の刃にかかる所を、宮本武蔵によって助けられ肥後山中で育てられた事になっている。もちろんこれは隆先生の創作だが、寛政期の大坂町人の国学者加藤景範の著した『間思随筆』に、武蔵が棄子を拾い育てたという記述を見つけ、武蔵が自分の子でない見ず知らずの子供を育てたという話は全くのフィクションではなかったのだと知った。以下に当該箇所を紹介。
「○宮本武蔵は世に評されたる人也。其子伊織なる人は、なべての世にはしられざりけれど、才かしこくいみじき人にて、君の覚えも父に増りて、家高く成のぼれり。そのかみ武蔵、外にまかる道に棄子の有けるをみて、かれ眼ゐたゞものにあらずとて、ひろひ帰り養し子也。伊織常に評議の座に付て、さかしらに云出る事もなし。かたへの柱によりて衆議を聞れしとぞ。身まかられし後、伊織柱とて其所を改作事にも柱は其まゝのこして、今にさて有となん。」
この伊織と名付けられた子は、賢く素直な子供に育ったらしい。なんとなく誠一郎の面影に似ている。武蔵は養い親として、子育てもしっかりした人だったのだろう。(吉尾記)
前田慶次郎と同時代を生きた傾奇者
様々な資料を読み漁っていると、隆慶作品に登場しないが、慶次郎と同時代を生きた人々で、後世にもその名を知られている人物が大勢いる。
傾奇者というより泥棒、盗賊の名で知られる石川五右衛門もその一人だろう。慶次郎との係わりは史実で明らかにされていないが、海音寺版『戦国風流武士前田慶次郎』には、この石川五右衛門が登場している。五右衛門が京で秀吉の御蔵に忍んで刀剣類を奪ったというような逸話が有り、彼の行動は時の為政者への反発だったのかも知れず、後の歌舞伎などの五右衛門の衣裳は傾奇者そのものの格好だ。だから『一夢庵風流記』に登場してもおかしく無い人物なのだが、先行作品などで既に登場していたりあまりにもイメージが固定しているので、隆先生はあえて登場させなかったのか、などと勝手に想像している。その石川五右衛門についての短い文が『望海毎談』にある。隆慶作品の人物・人名事典には五右衛門の項がないので、それをここに紹介。
「一、石川五右衛門と云者、生国遠州浜松の侍なり、始は真田八郎と云ふ、河内の石川郡の山内古庵と云ふ医者と所縁あるを以て、其家を頼み居り、石川五右衛門と改号し、終に強盗と成る、文禄の末年捕られ、釜炒の刑に行れたり、時に三十七歳なり、一郎と云ふ幼き子も、相共に煮らる、石川や云々と辞世したり」(吉尾記)

仙台高尾考

『燕石十種』の「高尾考」にある一文によれば、俗に「仙台高尾」と呼ばれている太夫は、島田重三郎という客になじみ、仙台侯の誘いを断った由。よって「島田高尾」と云うとあった。
こうして仙台侯の誘いを断ったことから、この高尾は仙台侯に身請されたが操を通し、三股(みつまた)にて逆さ吊りにされて斬り殺されたとか、船から身を投げて自殺したとか、後世にさまざま言い伝えられているが、これらは間違った説で、仙台侯は高尾を諦め、薄雲という太夫と馴染み、薄雲を身請して仙台に住まわせ一子をもうけたとある。
また、高尾が病に臥せった折、仙台侯が出廓させ江戸屋敷で養生させようとしたが、駕篭にて運ぶ途中みまかったという丁(吉原)の老婆の話も取り上げている。
さらに、仙台にある高尾の墓に触れ、高尾がもうけた子は椙原重太夫と云い伊達藩に致仕し、千石の禄を得たとする話も載せている。
こうしてみると、広く世間に知られている「仙台高尾」の話は、この「高尾考」にも書かれているように、浄瑠璃語りなどで劇的に脚色されたものと思われる。とはいえ、初代を仙台高尾とするものや、二代目説、四代目説などがあって定かでない。これは「仙台高尾」に限ったことではないようだ。これらの資料から、初代高尾は戒名を妙身(妙心)と云い、春慶院に葬られたというのが分るが、この「妙身高尾」を「子持高尾」とする説と、「子持高尾」を別の「高尾」とする説などが有り、資料によって異なっている。(吉尾記)

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