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このコーナーは、当サイトに寄せられた論文・論考などを中心に、小説家隆慶一郎あるいは脚本家池田一朗に関する小文・覚書などをまとめたコーナーです。
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隆慶一郎が好きだった詩
中原中也
「寒い夜の自我像」
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志明らかなれば
冬の夜を我は嘆かず
人々の憔懆(せうさう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻される女等の鼻唄を
わが瑣細なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもつて
われはわが怠惰を諌(いさ)める
寒月の下を往きながら。
陽気で、坦々として、而(しか)も己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであつた!
「中也詩集・山羊の歌」より
この詩の最終節にある「坦々」という文字は、隆慶一郎の墓碑に彫られている。
辰野隆 フランス文学者
明治二十一年、東京に生まれる。東大佛文科を卒業、大正十年東大助教授を経て教授となる。父は東京駅を設計した建築家の辰野金吾。仏蘭西文学考などの論文、ボオドレエル、ポオル・ヴアレリイなどの訳書、随筆、対談集など著書多数。
旧制三高を卒業した隆先生は、その三高時代に出逢ったフランス文学、特に象徴詩の世界に傾倒し、当時フランス文学の研究者として第一人者であった辰野隆先生を慕って東京帝国大学に進んだ。
小林秀雄 文芸評論家
明治35年(1902)東京に生まれる。東京帝国大学仏文科卒業後、昭和四年に「改造」の懸賞評論で、「様々なる意匠」が二席に入選し、以後評論家として活躍。日本における近代批評の確立者といわれ、その評論の対象は文学のみならず、古典、哲学、芸術全般に及んだ。昭和10年、「文学界」の責任編集者となり「ドストエフスキイの生活」の連載を開始する一方、「私小説論」を発表。「無常といふ事」「考えるヒント」「本居宣長」などの著書、ランボオ「地獄の季節」等の翻訳などで知られる。
辰野先生を慕って入った東大仏文科で出逢ったのが、当時仏文科の指導教官をしていた小林秀雄先生である。隆先生はそこで小林秀雄を師と仰ぐことになった。そして、東大を卒業すると小林先生が当時参画していた東京創元社に入社する。
阿木翁助 脚本家 日本放送作家協会の創設メンバー 文献紹介
阿木先生は長野県諏訪の出身。戦前から新宿ムーランルージュ、松竹新派などで劇作家として頭角をあらわし、戦後はラジオドラマ『花くれないに』、テレビでは大河ドラマの先駆けとなった『徳川家康』、舞台戯曲、映画シナリオなど多方面にわたって活躍。「酒は銘柄ではない。人で飲む」というのが口癖で、人と人との親身になっての付き合いを大切にした。
TVシナリオを書くようになった隆先生は、阿木先生から酒の飲み方と人との付き合い方を学ぶ。隆先生は生前、「自分が協会の理事を勤めるのは阿木先生のためなんだ」と言っていた。
たばこ/ショートピース缶入 その他、香りの良い刻みたばこを手巻き紙に包んで、その香りを楽しんだ。
普段は缶ピースを手放さず、どこに行くにもそれを手にしていた。書斎では、筆記具入れにペンとともに手巻き紙があり、気分転換に刻みタバコを器用に巻いて、その香りを楽しんでいた。後年、入院した病院の病室にもその手巻き紙が置いてあったことを覚えている。
酒/日本酒(冷) 美味しいお酒ならなんでも飲む。
バーなどでは、スコッチやバーボンのダブルをストレートで味わい、弟子共には珍しい洋酒があるとそれを勧め、感想などを聞いていた。ある時、酒はアルコール度の強いものなら味なんか何でもよいという弟子に、「ロンリコ」という酒を飲ませ、撃沈させた。日本酒は蔵元を訪ねるほど好きで、会食や宴会では好きな銘柄の酒が無いと知ると、一升瓶を持ち込んで飲んでいた。海などへ行く時は、必ず日本酒を弟子に用意させ、現地の居酒屋などに珍しい地酒があるとそれを調達する。日本酒は冷酒で飲んで美味しいものが好みで、氷を入れるクーラーボックスも欠かせぬアイテムとなる。
好きな食べ物/卵焼き 蟹 晩年は上海蟹を好んで食べていました。
旅先などの宿で、おかずが少ないと必ず卵料理を注文した。地方の食堂に入り、特に食べたいメニューが無いと、「目玉焼き」を注文。師曰く「どんな地方でも、厨房に卵が無いところはないからね」といい、「目玉焼きなら料理の腕もそれほど関係なく食べられる」との事。しかし、親子丼を注文した事が無いので、ある時、「とり肉は食べないのですか」と聞くと、「うん」と頷き「可哀想だから」という答えが帰ってきたのを覚えている。
普段好んだ服装/Tシャツとジーンズ
日常的には、夏でも冬でもTシャツにジーンズ姿で過ごしていた。しかし、そのTシャツやジーンズは、青山辺のブティックで購入して喜んでいた。一見、どこのものともそれほどデザインに変わりが無いTシャツだが、タグを見たものが、それを知っていると嬉しそうだった。
好んで唄ったカラオケ曲/「風雪ながれ旅」
左は宝亀さんカラオケが普及する前は、ピアノの弾き語りがあるバーだと、リクエストして唄っていたのがシャンソン系の曲だったか、カラオケが普及すると、そうしたシャンソン系の曲も唄うが、必ずといっても良いほど「風雪流れ旅」を唄った。また、唄の上手い弟子には、あれを歌えと指示し、それを一緒に口ずさむ事も多かった。
神田『登志松』 神田小川町
池田会の忘年会でも何度か利用したお店。入院した晩年、何を食べても良いという事になった時、ここの主人が上海蟹を差し入れしていた。
築地市場内 寿司処『山原』
築地市場の中にあるお店で、種がとびきり新鮮だったことから、青魚(いわし・さんまなど)の刺身が美味しかった。この店でも何度か池田会の忘年会を行なった。
向島 ケーキ『アンジェラ』
後年、向島に引っ越してから、散歩の途中に立ち寄り、紅茶とケーキを楽しんだ。体重を落すために行なっていた散歩だが、消費したカロリー以上が、この一時でふいになっていた。
熱海 洋食『スコット』
海と温泉が好きだった師は、熱海の温泉付マンションを購入。その時、良く食事をしたお店。我々も、毎年、弓が浜辺で海合宿した帰り、その別荘に立ち寄る事が度々有り、その機会に連れていってもらった。
六本木 スナック『ダンダン』
宝塚出身のママさんが経営していたスナック・バー。放作協から歩いて行ける距離に有り、教室終了後、生徒たちを引き連れて良く飲みに行ったお店。西武ライオンズの東尾修さんも常連で来ていて、何度かご一緒となり、ご迷惑をおかけしていました。
その他、銀座『ラドンナ』赤坂『フォギー』新宿『大蔵』飯倉片町『ユニベール』浅草『十兵衛』など先生とよく談笑したお店は、そこのママさんやおかみさん、マスターなどが亡くなり、今では多くのお店が無くなっています。