隆慶一郎研究


隆慶一郎の書棚

蔵書・書斎

ikeda-hanabi1.jpg隅田川花火大会の日に隆先生の書斎を占拠する池田会メンバー(1986年7月池田会では、隆先生の蔵書目録を計画しておりますが、諸般の事情により中断されたままになっております。
瓢水氏がグラビア写真を元に書き出した蔵書のリストが、コラムに掲載されておりましたので、再掲いたします。現段階では一番の資料となりますので、参考にしてください。
これらの蔵書は、瓢水氏が書かれたように、ほとんどが脚本家時代に集めたもので、時代劇の脚本を書くにあたって必需の資料として手に入れたものですが、後の小説の糧になったことはいうまでもありません。これらの資料のいくつかは、師がエッセイにも書いているように、時間が有れば古書店に入って「わくわくする時間」を味わいつつ集めたものと思われます。また、新刊書店にも毎日のように顔を覗かせ、目についた書籍を二、三冊購入することもしばしばありました。これら新刊書の多くは海外の文学作品が多かったように思います。

書棚拝見

瓢水氏のコラムより

隆先生の書棚拝見!(その1)

 平成元年(1989)11月に隆先生が66歳で死去されて約6年半の後、雑誌『文藝春秋』1996年4月号に「作家の書斎 第7回 隆慶一郎」が掲載された。全3頁で作家の書斎を紹介したカラーグラビアで、1頁目には白いワイシャツにジーンズ姿で執筆中の隆先生(撮影・篠山紀信)が、2〜3頁には主亡き後の書斎(撮影・高山浩数)が掲載されている。
 現在、隆先生の十五回忌を期して、池田会による追悼文集『それぞれの隆慶一郎』が企画され、蔵書目録も掲載される予定であると聞いている。蔵書の全貌はいずれ明らかになると思われるが、ここでは一足先に、書斎写真から判る隆先生の蔵書を紹介したいと思う。
 グラビアに写っている書斎は、広々とした白い格子形の窓の前に机があり、左側に7段の書棚が備えられている。このグラビアから判明する蔵書は僅かなものであるが、隆慶作品に関わる書籍が比較的多く写っている。なお、背表紙の書名が読み取れないもの、私の浅学によって書名を明らかに出来ないものは省略している。 (2004年5月1日瓢水記)

隆先生の書棚拝見!(その2)

 1番上の棚には、向かって右から(以下同じ)関口武『風の事典』、中村孝也『家康の政治経済臣僚』『家康の族葉』、綿谷雪『考証 東海道五十三次』、稲垣史生『武家編年事典』、松田毅一『大村純忠伝』、今谷明『言継卿記』、松田毅一・川崎桃太訳『フロイス 日本史』(全12冊中3冊)、瀧川政次郎『日本行刑史』、稲垣史生『戦国武家事典』、山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣団事典』(全2冊中1冊)、相田二郎『蒙古襲来の研究』、森銑三・野間光辰・朝倉治彦監修『続燕石十種』(全3冊中2冊)、長崎県教育会編『長崎懸人物傳』、山本大・小和田哲男編『戦国大名系譜人名事典』(全2冊中1冊)等が並んでいる。
 『家康の政治経済臣僚』は『影武者徳川家康』で駿府における家康のブレーンを描く際に、『家康の族葉』は『影武者徳川家康』や『捨て童子・松平忠輝』で家康の子女を紹介する際に、『言継卿記』は『風の呪殺陣』での「風流踊り」の描写に、『フロイス 日本史』は『影武者徳川家康』で寺内町の様子や信長上洛前の状勢を描く際に、『長崎縣人物傳』は『死ぬことと見つけたり』の資料として、それぞれ参照されたと思われる。 (2004年5月2日瓢水記)

隆先生の書棚拝見!(その3)

 2段目の棚には、『長崎市史』(1冊。いずれの版かは不明)、喜多村信節『嬉遊笑覧』(1冊本)、中村嘉太郎編『加藤清正傳』、井上鋭夫校注『上杉史料集』(3冊揃)、皆川三郎『ウィリアムアダムス研究』、松平太郎『江戸時代制度の研究』、中村孝也『徳川家康文書の研究』(2冊揃?)、岡田章雄『バテレンの道』等が並んでいる。
 『長崎市史』は『死ぬことと見つけたり』の資料として、『加藤清正傳』は『影武者徳川家康』で清正を描く際に、『上杉史料集』は『一夢庵風流記』で慶次郎の事蹟を調べるために、『ウィリアムアダムス研究』及び『徳川家康文書の研究』は『影武者徳川家康』を執筆する際の基本文献として、それぞれ参照されたのであろう。『バテレンの道』は、バテレン達が日本に到達するまでの軌跡を辿った内容であるらしい。『嬉遊笑覧』は、江戸時代の風俗に関する百科事典であり、4,000余の項目について多くの文献を引用し、詳しく解説している。時代小説家に限らず、江戸時代を扱う場合に必携の文献と言えるだろう。 (2004年5月3日瓢水記) 

隆先生の書棚拝見!(その4)

 3段目の棚には、『寛政重修諸家譜』(本編22冊、索引4冊)がズラリと並んで壮観である。『諸家譜』は旗本・大名家を網羅した壮大な家系集であり、各人の事蹟が詳細に記されているため、歴史・時代小説家にとってネタの宝庫と言うべき存在である。隆先生も『花と火の帝』や「かぶいて候」を書くに際して重要なヒントを得たと思われる。
 その他に、坂本武雄編『三訂増補 公卿辞典』、『三国町史料』1冊(複数巻あり。いずれの巻かは不明)等も並んでいる。『三国町史料』は『鬼麿斬人剣』の「第六話 潜り袈裟」の執筆に際して参照されたと思われる。
 4段目の棚には、『徳川実紀』『続徳川実紀』の全冊揃、及び『徳川実紀索引』が並んでいる。これらが隆慶作品の根幹をなす資料であることは隆先生自身も認めているし、数多くの評論で言及されていることも周知の事実である。
 その他に、『岡崎市史』の姉妹編である岡崎市役所編『関ヶ原戦記』等も並んでいる。これは、当時岡崎市立図書館長であった柴田顕正氏が執筆したものである。 (2004年5月4日瓢水記) 
「隆先生の書棚拝見!(その5)」
 5段目の棚には、辞典関係が数多く並んでいる。向かって右から、『江戸諸事典』(詳細不明)、南條範夫編『考証 江戸事典』、広田栄太郎・鈴木棠三『類語辞典』、北村一夫『江戸市井人物事典』、熊沢正興編(?)『武将感状記』(1冊本)、井上隆明編『江戸諸藩要覧』、出雲隆編『鎌倉武家事典』等である。特に『鎌倉武家事典』は、日蓮を描く構想があったこととの関連で注目に値するのではないだろうか。なお、隆先生が宮崎英修編『日蓮辞典』を所持していたことも確実である(『小説新潮』1987年3月号、189頁)。
 その他に、堂本正樹『世阿弥』、熊倉功夫『後水尾院』、『物語藩史』(第?期全8巻)等も並んでいる。『世阿弥』は、被差別民と芸能との関わりを詳細に論じたものである。「夜叉神の翁」の執筆に際して参照されたのではないだろうか。また、『後水尾院』が『吉原御免状』や『花と火の帝』の重要な参考文献であったと思われることは、浦田憲治氏による文庫版「解説」(『花と火の帝』講談社文庫版、下巻。418頁)や、縄田一男氏による『全集』第1巻の「解題」(615頁)で指摘されている。 (2004年5月5日瓢水記) 

隆先生の書棚拝見!(その6)

 6段目の棚には、『源氏物語』(10冊以上で揃いの版。新潮社刊の円地文子訳全10冊か?)、西田長男・三橋健『神々の原影』、林春海註『壇の浦夜合戦記』、網野善彦『無縁・公界・楽』、笹本正治『戦国大名と職人』、倉塚曄子『巫女の文化』、槙佐知子『今昔物語と医術と呪術』、杉山二郎『遊民の系譜』、吉野裕子『日本古代呪術』、安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち 聞き書朝鮮民衆の世界』、杜山悠『山陰道史譚』等が並んでいる。
 『神々の原影』は神道思想の入門書のようだ。『壇の浦夜合戦記』は源義経と建礼門院徳子の情事を綴った江戸時代の春本(いわゆるエロ小説)である。『無縁・公界・楽』については最早述べる必要はないだろう。興味深いのは、呪術に関する本が2冊ある点である。隆先生がこれらの他に澤田瑞穂『中国の呪法』、吉堂真澄『念力と奇蹟』を所持していたことは確実であり(『小説新潮』1987年3月号、189頁)、『花と火の帝』の執筆に際して参照したであろうことが窺える。『アリラン峠の旅人たち』は、朝鮮における芸能と市場の歴史を綴ったものであるらしいから、『一夢庵風流記』で参照したのかもしれない。 (2004年5月6日瓢水記) 

隆先生の書棚拝見!(その7)

 7段目の棚(一番下の棚)には、『神奈川県史』5冊(複数巻あり。いずれの巻かは不明)、佐賀県史編纂委員会『佐賀県史』(3冊揃)、福本和夫『日本ルネッサンス史論』、花咲一男『江戸川柳名物図絵』、石井良助編『江戸町方の制度』、原田伴彦『道中記の旅』、村山修一『日本陰陽道史総説』、桜井徳太郎『日本のシャマニズム』(上下巻揃)、藤井保編『佐賀藩の総合研究』(正・続2冊揃)等が並んでいる。
 『佐賀県史』と『佐賀藩の総合研究』が『死ぬことと見つけたり』の参考資料であることは明らかであり、『江戸川柳名物図絵』は数多くの川柳を引用したネタ本ではないだろうか。『道中記の旅』は、(その2)で紹介した『考証 東海道五十三次』と合わせて、江戸時代における旅行の日数や距離感を確認したように思われる。『日本陰陽道史総説』と『日本のシャマニズム』も呪術関連である。ここからも、隆先生の呪術に対する並々ならぬ関心を窺うことが出来る。“呪術”は、隆慶作品を理解するための重要なキーではないだろうか。 (2004年5月7日瓢水記) 

隆先生の書棚拝見!(その8)

 以上、『文藝春秋』掲載のグラビアから可能な限り隆先生の蔵書を紹介した。これだけを見ると、史料の刊本と研究書が多いことが判る。基本的な史実と学界の通説を押さえた上で想像力を働かせ、説得力のある作品を生み出したと言えるだろう。また、“事典”の類が多いのも特徴である。時代の流れや雰囲気を掴むための方法だったのかもしれない。
 それでは、隆先生はどのような方法で資料を収集したのであろうか。羽生真名「ドン・キホーテの子守歌」に貴重な証言が記されているので、長くなるが引用しよう。
 「作品を創る時の父は、まず書こうと思う人物と周辺人物に関する史料、その時代の風俗、伝承等に関する研究書を集められるだけ集め、赤や青の付箋をはさみ込みながら読み進む。子孫の方がおられればお話を伺い、現場へ足を運んでイメージをふくらませる。再び仕事場に戻ると、すでに付箋だらけの“受験生の参考書”と化した史料を机の上に積み上げ、長めの髪をかき上げる時間も惜しいのか粋な日本手ぬぐいをバンダナ代りに巻き、一気に書き進む。そういう時の父は普段の穏やかさとは打って変わり、うかつに声をかけられない凄みがあった」(『隆慶一郎読本』、191‐192頁)。 (2004年5月8日瓢水記)

隆先生の書棚拝見!(その9・完結)

 “受験生の参考書”とは面白い喩えであるが、事実そうであったようだ。前述のグラビアには、実際に使われた資料本も1冊写されている。そこには事項を記したインデックスがびっしりと貼られ、「他の資料本にも全て付箋がつけられている」と云う。おそらく、必要な資料はひとまず隅から隅まで目を通した上で、チェックした箇所をいつでも開けるようにしていたのであろう。隆先生は「資料は汚してナンボ。必要な時に必要な箇所を開けないと意味がない」と考え、それを実践していたと思われる。
 隆先生がこれらの資料をいつ頃から集めていたのかが気になるところであるが、どうやら、脚本家時代からコツコツと集めていたようだ。六本木のシナリオ教室で時代劇・時代作品について講義した際、「時代作品を書くには、まず資料を集めろ。俺は、こう見えても山のように資料を買っているのだぞ」と、熱を込めて語ったと云う(『隆慶一郎読本』、89頁)。いつかは小説を書くという“夢”に向かって、着実に準備を進めていたのである。 (2004年5月9日瓢水記)

隆慶作品書評・評論
隆慶一郎作品に言及した出版物、当サイトに寄せられた書評・評論などの紹介。

『隆慶一郎の描いた剣豪』

『剣豪伝説』

小島英煕著

 隆慶一郎の奇想天外な処女作『吉原御免状』も、一面、武蔵と柳生の剣が対決する物語である。
 肥後の山中で武蔵に育てられ、希有の遣い手に成長した松永誠一郎は、武蔵の遺言によって、吉原を創設した庄司甚右衛門を訪ねるが、裏柳生に襲撃される。彼らは、徳川家康が与えた色里御免の御書付「神君御免状」を狙っている。
 誠一郎は、実は後水尾院の皇子である。徳川秀忠は皇后である自分の娘和子の生んだ子供以外は抹殺しようとし、柳生一族に狙わせたが、偶然、武蔵が誠一郎の一命を救った。武蔵に斬られた襲撃者の七人は「いずれも選び抜かれた刀術の達者である。それを悉く一太刀で斬っている」「世にこれほどの達人がいるのか。柳生一門の考えたことは、まずそれだった」。
 なぜ裏柳生が吉原を狙うか。それは「苦界」と呼ばれる吉原が、実は自由な「公界」で、体制と相いれない世界だからである。しかも、本物の家康は関ヶ原の合戦で死に、すり替わったのが吉原の人々と同じ傀儡子一族の末裔、世良田二郎三郎元春という影武者だった。御免状には「我同朋庄司甚右衛門に之を許す」と書いてあった。これが明らかになれば、天下は引っ繰り返る。
 柳生宗矩が兵法者としては破格の出世をとげ、秀忠の刺客となったのは、影武者の秘事に感づいた宗矩が、何も知らぬ秀忠にいち早く教えた情報料であったと、隆は『柳生刺客状』で解釈してみせた。
 これらの作品に先行する五味康祐の『柳生武芸帳』、小池一夫の『子連れ狼』などで、柳生の忍者集団説、そして柳生義仙率いる裏柳生の存在を信じている人も多いようだ。確かに宗矩はのちの大目付に相当する惣目付に就任し、諸大名の動静を見張った。歴史の裏側に暗躍した分だけ曖昧なところがある。十兵衛隠密説などが生まれるゆえんだが、いずれも史実として確認されたわけではない。人々の空想が羽ばたかせた怪しげな話が多いのである。
 裏柳生の総帥、義仙は、宗矩六十六歳の時に出来た末子で幼名を六丸。宗矩が臨終の時、家光の下問にこたえて望んだように、出家して?義詮?、柳生菩提寺の芳徳寺第一世座主となった。三男で異母兄の宗冬(江戸柳生三代)とは二十二歳も離れ、非常に仲が悪かったらしい。六丸は気性の激しい人で、ぐれた時期があったというが、一時、名刹大徳寺の座主になったほどの人物である。(第一部第八章73p~74p)

 隆慶一郎の『柳生非情剣』では、左門は列堂の母というお藤が生んだことにしている。彼に対する家光の寵愛によって困難な立場に立たされた宗矩は、左門を柳生の里にこもらせる。そして十兵衛が左門を斬りに来る。左門は十兵衛の剣をしのぎ、最後は「柳枝の剣」によって十兵衛の右眼を突く。うめきながら十兵衛が横に払った剣が左門の腹を充分に斬った。まるで左門が自ら切腹したような傷になり、左門は微笑を浮かべたまま、ゆっくり膝をついた。
 隆の長編『かくれさと苦界行』では、友矩の死の理由は同様で、十兵衛に殺されるのだが、「友矩はその美しい顔を血に染めて、父を、兄を、柳生家を呪いながら、死んでいったと云う」、とニュアンスを大きく変えている。
 家光は、宗矩の死後、家禄の一万二千五百石を、そのまま十兵衛に継がせず、彼に八千三百石、宗冬に四千石、義詮に柳生芳徳寺の寺領として二百石と三分割した。一万石以上が大名であるから、この時点で柳生家は大名から直参旗本に戻された。隆によれば、「最愛の恋人だった友矩を、病死と称して殺した十兵衛への将軍家光の復讐だったといわれる所以である」と書いている。(第一部第九章80p~81p)

 隆慶一郎の『吉原御免状』は五味の舞台を踏襲した。もっとも『柳生武芸帳』の宗矩が尊皇派であるなら、こちらは徳川秀忠に忠実な刺客に想定されている。十兵衛の人柄も親しみにくい存在だ。表柳生と裏柳生両方の総帥を宗矩から継いだ剣の天才は、人を斬りすぎて怨霊に悩まされ、柳生の庄に早々と引っ込んだことになっている。
 史実の彼は家督を継いで三年後の慶安三年(1650)三月、山城国の北大河原邑弓淵に放鷹中、四十四歳で急逝した。死因は明らかではないが、酒豪であったことから、脳卒中か心臓マヒとも見られている。しかし隆は傀儡子一族の幻斎が遣う唐剣に倒されたと仮定した。(第一部第十一章90p)

 史実の荒木又右衛門なんて、面白くない、というわけか、とんでもない怪物として復活させたのが、隆慶一郎の『かくれさと苦界行』である、
 〈いつの頃からか、大和柳生の里には、一つのいいつたえが流れていた。
 柳生家存亡の危機が訪れた時、巨人が山を降りる、と云うのである。
 柳生の里から小半日もかけなければ辿りつけないような奥山に、今にも倒壊しそうな古い屋敷がある。巨人はそこにいた。柳生の者は、巨人を『メシウドさま』或は『お館さま』と呼ぶ。誰も名前は知らない。メシウドとは囚人ということである。とすれば、巨人は本来、囚人である。囚人が『お館さま』と敬語で呼ばれるところが奇妙だった。(中略)見た者の話によると、身長七尺(約二メートル十センチ)を超え、そのくせ物の怪のような速さで、疾駆するという。
 (中略)
 好奇心の旺盛な若者が、真相をつきとめるためにこの屋敷に忍び込んだ。若者はすぐれた忍びだったが、翌日、死体となって、川に浮んだ。その死体の様が凄まじかった。一切刃物は使われていない。全身を調べたが、傷一つない。ただ頭蓋骨がぐさぐさに潰されている。(中略)
 そして、この明暦四年(1658)の四月、巨人は山を降りた。〉
 『吉原御免状』の続編であるこの小説では、神君御免状に執心する老中酒井忠清と組んだ柳生義仙が吉原の取り潰しを狙い、松永誠一郎ら吉原勢と全面対決をする。そこに死んだはずの荒木又右衛門が絡む。その登場の仕方は怪奇小説だ。予知能力にたけた誠一郎の妻おしゃぶがまず、鋭い悲鳴とともに「大変!物の怪が……。こわいッ!誠さまが……」と胸を抑えて、危うく倒れそうになる。その頃、誠一郎は野村玄意と品川の宿のがずれにさしかかり
 〈後方から恐ろしい速さで接近して来る殺気の塊を感じた。目立ちたくないので、宿場の中では平常の歩度で歩いていた。玄意に声をかける暇もなかった。思い切り玄意を横に突きとばし、自分は反対側に一間を跳んだ。一瞬の裡にそこに出来た空間を、物の怪のような巨大なものが、通りぬけた。つむじ風の勢いであり、速さだった。
 「なんだ、あれは?」〉
 この物の怪が、又右衛門であることは、その後、判明し、読者はアッと驚くことになる。彼が山を降りたのは、二十六年前に大御所秀忠の命令で、誠一郎の実母一家を皆殺しにした柳生一族の罪で謹慎させられた柳生宗冬の危機を救うためである。先手組の手練三十人を悉く殴り殺し、酒井忠清を脅して、謹慎を解かせたりする。なぜ、又右衛門は生きていたのか?

 鍵屋の辻の仇討ちの成功のあと、幕閣は又右衛門と数馬の所置に窮し、藤堂藩に預けた。この時機、又右衛門の師(と隆は想定する)柳生宗矩は惣目付の要職にいて、天草四郎の旗本に服部京之介という生涯の宿敵の名を見出した。かつて宗矩は京之介に殺されかけたことがあったが、その危機を救ったのが後詰として連れて来ていた荒木又右衛門だった。妖人の京之介がキリシタン一揆の総指揮官の帷幕にいたのでは、どのような思いがけない手を打ってくるか。そう考えた宗矩は五十人の裏柳生を天草に送ったが、帰ってきたのはわずかに一人、それも両眼をつぶされ、全身に火傷を負っていた。
 宗矩は京之介を倒すのは又右衛門の野獣性しかないと確信し、又右衛門を自由の身にするために画策した結果、寛永十五年二月二十日、藤堂藩に二人を与える、という裁決が下った。その七日後、原城が落ちた。しかし、京之介が死ななかったのは宗矩にとって自明の理だった。だからといって、直ちに又右衛門を京之介捜索のため派遣することも出来なかった。
 一方、池田家は又右衛門らの身柄を貰い受ける奇策を思いついた。数馬の従弟、彦坂平六という直参旗本に藤堂藩から二人を貰いうけさせ、その上で池田家が彦坂から貰いうける、というものだった。これなら旗本も文句が言えない。ところが又右衛門は鳥取到着後、頓死した。又右衛門を欲しがる郡山藩の要求を断つために、死を装わせ家中に抑えたというが「事実は違った。又右衛門が形の上だけでも死なねばならなくなったのは、当時活き仏さまといわれた高僧を殺したためである」。
 宗矩がどこでどう京之介の捜索と惨殺の指令を又右衛門に与えたかは不明だが、とにかくこの高僧が探す相手の京之介だった。「活き仏さまを斬って、生きているわけにはゆかぬ。だからわしは死んだ」と又右衛門は明かす。思案の末、『神隠し』にあうしかないと結論を下した。彼は或る日、忽然と消えた。運ばれた茶を半分飲み、残りが温かいうつに消えた。白昼、大小も刀掛けに残したまま、まっすぐ、柳生の里にいった。十兵衛がいて、江戸に連絡をとり、宗矩は又右衛門を奥山にかくまった。かくて『お館さま』が誕生した。だが、京之介の呪いで、「いつまでも生きている死人」として永生きすることになった。
 誠一郎の爽やかさを愛した又右衛門だったが、「(吉原を守る戦闘集団・首代の束ね役)野村玄意を斬り、柳生に戻って(自分を利用するために関係をもった義仙の母の)お藤を斬った時から、荒木又右衛門は死んでいた。今あるのは死褐にすぎない。この五年、又右衛門はどうやって死ねばよいのか、そればかり考えて来た。誠一郎に斬られて死ぬのが一番よかった。だが初手から斬られるつもりで立合うことは、誠一郎に対する侮辱であり、剣法に対する冒涜であろう」。
 詞の前に思い切り己れの剣を振るってみたいという気持もある。柳生十兵衛を倒した幻斎こと庄司甚右衛門と、生死を賭けた果たし合いを申し込む。
 〈「ちょうど花も散るところだ」
 (幻斎は)さっと唐剣を抜いた。二刀である。それを翼を拡げたように、高く構えた。
 「参ろう」
 又右衛門も同時に抜刀している。驚くほど長大な刀である。刃長三尺二寸はあろうか。
 (中略)
 二人の足はそのまま無造作に間境いを越えた。唐剣と長刀が緩慢とも見える動きで交叉した。長刀が僅かに遅れ、唐剣の倖倖上倖に乗っていた。新陰流の合撃である。
 何事もなかったように、二人の躯がすれ違い、ゆっくりと向き直った。
 構えは前と同じである。
 だが幻斎の唐剣がゆっくりと下っていった。
 幻斎が顔をほころばせて微笑うのを、誠一郎ははっきりと見た。
 「満足だ」
 倖せそうに云うと、膝を折り、前のめりに倒れた。〉
 又右衛門も手傷を負った。果し合いの立会人を努めた誠一郎に「参ろうか」と声を掛け、また下段の「無形の位」をとる。手傷を気づかって日を改めようという誠一郎に、即刻の立合いを所望する。
〈誠一郎は無言で抜刀した。右手に鬼切の太刀を、左手には『はちまき』を握っている。双刀をだらりと垂らした。又右衛門と同じ『無形の位』である。又右衛門が一瞬わずかに目を瞠った。意表をつかれたのである。又右衛門は誠一郎が柳生新陰流の奥儀を自分なりに身につけていることを知らない。〉
 そこへ宗冬が割って入る。「酒井大老の約定など一文の値打もない。そんなもののためにお館を死なせるわけには……」と言う宗冬に「値打をつくるのはお主だ。それに、もう遅い」。
 又右衛門の左胸もとのしみが拡がっている。幻斎の剣の切尖は確かに刺した。「あれは相討ちだったのだ。ただ幻斎は急速に死に、又右衛門は緩慢に死のうとしている。それだけの差だったのである」。
〈「私は死人は斬りません」
 誠一郎は冷く云った。
 「む、むごいことを……」
 又右衛門がよろめいた。誠一郎も宗冬も初めて見る姿だった。
 「松永誠一郎!」
 唐突に、又右衛門の躯に凄まじい生気がふくれあがった。その生気が、一息に、まるで山崩れのように誠一郎を襲った。とびさがることも、左右にかわすことも出来なかった。誠一郎は剣士の本能に従って、逆に突進し、その山崩れを斬り、駆け抜けた。
 我に返って振向くと、又右衛門がゆっくり片膝をついたところだった。
 「有難い。やっと死ねた」
 呟くともう一方の膝も折り、前のめりに倒れた。〉
 又右衛門、七十一歳という勘定になる。誠一郎は酒井忠清に対する黒い憤怒で、神君御免状を見せる決意をする。宗冬の手から御免状を渡された酒井は、正しく地獄に堕ち、悶え死ぬことになった。家康が傀儡族であったことを知って錯乱したのだ。物語の面白さである。
(新潮社刊『剣豪伝説』より) 

コラム

瓢水氏による作品成立過程の考究

これは瓢水氏がコラム「隆慶オン・ザ・ロック」で連載したものの中から、作品成立の過程を考究した小文をまとめたものです。他のコラムについては《瓢水の「一話一言」》として、『人名事典』『隆慶一郎の生涯』その他へそれぞれちりばめてありますので、探してみて下さい。

吉原御免状

ご落胤・松永誠一郎を生んだ一通の書簡

 「信頼できる史料が一行でもあればいい。後はその史料を拠り所にして想像力を働かせればいいんだよ」。作家デビュー直前の隆先生が門下生に語った言葉である(松岡せいじ『隆慶一郎 男の「器量」』、16頁)。それでは、隆先生が処女作『吉原御免状』を書くにあたっての「信頼できる史料」は何だったのだろうか。
 それはズバリ、細川三斎(忠興)が息子の忠利に宛てた寛永6年12月27日付の書簡である(『隆慶一郎読本』新人物往来社、124頁)。そこには、「和子以外の女官から生れた皇子は、殺されたり、流産させられていた」という衝撃的な内容が記されていた(『吉御免状』新潮文庫、68頁)。
 この書簡を読んだ隆先生の脳裏には、秀忠の酷薄な性格、柳生の役割、そして後水尾天皇(朝廷)と幕府の緊張関係が鮮明に浮かんだことだろう。そして、寛永9年正月17日の惨劇の幕が開く……。ご落胤・松永誠一郎は、細川三斎の書簡から生まれたのである。(2004年1月7日瓢水記)

松永誠一郎の師を宮本武蔵に設定した理由

 隆先生の処女作『吉原御免状』の主人公・松永誠一郎は、宮本武蔵に学んだ二天一流の名手である。隆先生は何故、誠一郎の師を宮本武蔵に設定したのだろうか。
 『異本洞房語園』という書物がある。庄司甚右衛門の末裔にあたる庄司勝富が享保5年(1720)に刊行したもので、吉原に関する基本文献である。その中に、「新町野村玄意は、其頃隠れなき柔術一統の名人一橋如見斎が弟子にして、宮本とも懇意なり。江戸町二丁目山田屋三之丞、角町並木屋源左衛門は共に宮本が弟子なり」と記されているのだ(『復刻版 吉原風俗資料 全』、54頁)。驚くべきことに、傾城宿の主人の中に宮本武蔵の弟子がいたのである。新潮文庫版49頁の記述は、確かな根拠に基づいていたと言える。
 隆先生が誠一郎の師を宮本武蔵に設定したのは、『異本洞房語園』の文言に注目したためと考えて、まず間違いないだろう。史料調査の綿密さには驚かされるばかりである。(2004年1月17日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その1)

 処女作『吉原御免状』の特徴は、網野史学を大胆に取り入れ、“上ナシ”を標榜した「道々の輩」を描いた点にある。隆先生が網野史学に出会ったのはいつだったのだろうか。
 助手代わりに史料集めを手伝った門下生の麻生未央氏によれば、『吉原御免状』の連載が始まる約1年前、まず最初に網野善彦『日本の歴史第10巻 蒙古襲来』(小学館)を渡したと云う(『戦国武将』宝島社文庫、75頁)。昭和58年(1983)の秋頃と思われる。
 おそらく、これが隆先生の網野史学“初体験”だったのではないだろうか。何故なら、麻生氏が先の文章に続けて、「隆氏は網野氏の一群の歴史研究にかなりの衝撃を受けていたようだ。後に“道々の輩”たちが隆慶一郎ワールドの核心をなしていくのをみれば、その程が窺い知れよう。それからというもの、七冊渡しても三日後には次の七冊という具合で探すのが間に合わないありさまだった」(前掲書、76頁)と書いているからである。
 麻生氏の文章を手掛かりにして、『吉原御免状』誕生の経緯を検証してみたい。(2004年1月21日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その2)

 まずは、「隆氏は網野氏の一群の歴史研究にかなりの衝撃を受けていたようだ」について考えてみよう。「網野氏の一群の歴史研究」とは何を指しているのだろうか。
 昭和58年当時、隆先生が読むことの出来た網野文献は必ずしも多くなかった。雑誌発表の論文を割愛して単著のみを挙げると、『中世荘園の様相』(昭和41年、塙書房)、『蒙古襲来』(昭和49年、小学館)、『無縁・公界・楽』(昭和53年、平凡社)、『日本中世の民衆像』(昭和55年、岩波新書)、『中世の再発見』(昭和57年、平凡社)の5冊であり、その中でも「道々の輩」関連の著作は4冊である。しかも、『無縁・公界・楽』と並ぶ網野氏の代表的な研究である『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店)が出版されたのは、隆先生が小説家デビューする約7ヶ月前の昭和59年2月のことであった。
 時系列で考えると、隆慶作品の核になったのは僅か5冊の網野文献だったことになる。(2004年1月22日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その3)

 次に、「それからというもの、七冊渡しても三日後には次の七冊という具合で探すのが間に合わないありさまだった」についてである。隆先生は何を求めて文献を渉猟したのだろうか。この点について考えるためには、少しばかり回り道をしなければならない。
 隆先生が網野善彦『蒙古襲来』に出会ったのと同じ頃、昭和58年11月、一人の編集者が隆先生のマンションを訪れた。『週刊新潮』の宮沢章友氏である。『週刊新潮』の前編集長で、隆氏の旧三校時代の同級生であった野平健一氏から、「友人が小説を書きたいと言っている。話を聞いてやってくれ」と頼まれたのだった。その際、隆先生は2つの小説のストーリーを語ったと云う。1つが後の『死ぬことと見つけたり』であり、もう1つが『吉原御免状』であった(『隆慶一郎読本』新人物往来社、208頁)。しかし、その時に提示された『吉原御免状』のプロットは、完成形とは全く違うものだったのである。(2004年1月23日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その4)

 『吉原御免状』の原型はどのようなプロットだったのだろうか。『全集 第1巻』の「解題」で縄田一男氏が紹介しているので引用しよう。断片的ではあるが、有益な資料である。
 まず物語の基本設定は、「作品の題名は『吉原犯科帖』(中略)主人公の名が松永又左衛門、神君御免状が吉原秘文、おしゃぶが庄司甚之丞の妻となっていたり、主人公に思いを寄せ、柳生忍群の犠牲となる遊女たそや」というものであった(前掲書、615頁)。
 次に物語の展開は、「一話一話は、吉原の行事、遊女の種々相としての生活、遊女をとりまく人々(やりて婆からお針まで)の哀歓、吉原で生計をたてる種々の商人の実態と生活等に題材をとり、なるべく一話完結(エピソードの完結)の形をとるつもり」であった(前掲書、615頁)。一話完結の連作小説を構想していたことがわかる。
 ちなみに言えば、「隆慶一郎」というペンネームもまだ決まっていなかった。(2004年1月24日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その5)

 当初のタイトルが『吉原犯科帖』とされていた点から、当時の隆先生の意識を窺い知ることが出来る。縄田氏が指摘しているように、『長崎犯科帖』など“犯科帖”と銘打った一連の時代劇脚本を担当したことから推し量って、「捕物帳的要素の加味が意図されていたこと」(『全集 第1巻』、615頁)は間違いないだろう。
 「吉原秘文」と「神君御免状」の内容は大同小異と思われるので、「家康=影武者」説は当初のプロットに入っていた可能性が高い。つまり、吉原風俗を背景に、「吉原秘文」を巡る柳生忍群との争いを一話完結で描く構想であったと思われる。多分に時代劇風の展開だったのではないだろうか。「私が初めて先生にその構想を伺った時にはまだ、この道々の輩という言葉は出ておらず、それは即ちその後の先生の凄まじいばかりの研鑚ぶりを物語っていたのである」(『隆慶一郎読本』、209頁)という宮沢氏の回想も一つの傍証になる。(2004年1月26日瓢水記)

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その6)

 宮沢氏の回想で重要なのは、隆先生が“道々の輩”について言及しなかったことを明記している点である。結論を書けば、『吉原御免状』連載の約11ヶ月前の時点では、隆先生に「吉原=公界の砦」という発想はなかったのではないだろうか。
 かなり回り道をしてしまったが、ここで麻生氏の回想に戻ることにしよう。麻生氏が網野善彦『蒙古襲来』を渡した後の隆先生が、「それからというもの、七冊渡しても三日後には次の七冊という具合で探すのが間に合わないありさまだった」ことについてである。
 当時の隆先生が読むことの出来た網野文献は僅か5冊だったが、その衝撃は大きかった。何故なら、幕府から自治を認められた吉原を“公界”として捉える構想を得ることが出来たからであり、自由都市としての吉原を守ることと「家康=影武者」説がピタリと重なったことで、物語に重層的な膨らみを持たせることが可能になったからである。(2004年1月27日瓢水記) 

『吉原御免状』誕生の経緯を検証する(その7・完結)

 それでは、隆先生は何を求めて資料を渉猟したのだろうか。
 それは、「吉原秘文」にはなくて『吉原御免状』にあるものに他ならない。大まかに言えば、“傀儡子”や“山窩”と呼ばれた人々が築いてきた“公界”に関する資料であり、“吉原創世記”の語り部としての庄司甚右衛門や、甚右衛門以前の“公界”の語り部としての八百比丘尼の事蹟に関する資料にも目を通したことだろう。つまり、今までほとんど語られなかった“日本公界史”に関する資料を徹底的に渉猟し、分析したと思われるのである。
 麻生氏が書いたように、「七冊渡しても三日後には次の七冊という具合」に猛烈な勢いで読み進めたのは、網野史観の衝撃の大きさを物語っている。その衝撃に突き動かされるように隆先生は勉強を重ねた。そして、自由と誇りを守るために戦った人々の歴史を描くというテーマを発見することになる。かくして、処女作『吉原御免状』は誕生したのである。(2004年1月28日瓢水記)

鬼麿斬人剣

本当は山浦清麿を書きたかった隆先生

 『鬼麿斬人剣』には、鬼麿の他に主人公がもう一人いる。鬼麿の師匠・山浦清麿である。清麿が遺した“数打ち”の刀を探す旅は、同時に清麿の心の足跡を辿る旅でもあった。
 隆先生は当初、清麿その人を書くつもりだったようだ。しかし、吉川英治の戦前作「山浦清麿」が清麿研究者の怒りを買ったという前例を知った。そこで、「余り清麿人気が高いものだから、彼をストレートに書くとまた抵抗が生じるといけないと思って、その弟子を主人公にした」(『かぶいて候』集英社文庫、181頁)のである。
 『鬼麿斬人剣』を書き上げた後も、隆先生は清麿を書きたいと考えていた。実は、清麿を真正面から描く「清麿三時間TV」の企画を温めていたのである。明田川徹「遺志を読む」(『小説新潮』1990年1月号所収)に、その導入部と思しきシノプシスが紹介されている。今となっては、隆先生の企画が実現しなかったことが残念でならない。(2004年1月9日瓢水記)

劇画化が企画されていた『鬼麿斬人剣』

 劇画化された隆慶作品と言えば、原哲夫氏の『花の慶次』が余りに有名であるが、松岡せいじ『隆慶一郎 男の「器量」』(コアラブックス)によれば、『鬼麿斬人剣』の劇画化が早い時期に企画されていたと云う。以下、松岡文献に拠りながら紹介しよう(47‐48頁)。
 「『鬼麿斬人剣』が出版されて間もない頃」というから、昭和62年(1987)の夏頃であろうか、隆先生と弟子の松岡氏、松岡氏の友人で劇画家の大矢光男氏の3人が六本木で飲んだ。その席上、『鬼麿斬人剣』にサインを貰った大矢氏が、「実はこの作品を劇画にしたいのですが……」と頼み込んだところ、隆先生は二つ返事で了承し、初対面の大矢氏に「鬼麿でこれまでに集めた資料・史料はすべて君に預けるからよろしく頼むよ」とまで言われたと云う。松岡氏はこの発言を、「隆慶一郎は自分の原作は動く映像よりも静止した劇画の方が合っていることを知っていた」と解釈している。
 しかし、大矢氏の予定が取れない内に隆先生が死去したため、この企画は流れてしまった。原哲夫氏が入院中の隆先生を訪れたのが平成元年(1989)7月であるから、もし実現していれば隆慶作品最初の劇画化となるはずであった。
【追記】隆先生が二つ返事で了承したのは、おそらく松岡氏の斡旋が事前になされていたからでしょう。劇画家・大矢光男氏について調べたのですが、ほとんど何も判りませんでした。かろうじて「怨霊の町 後編」(『週刊実話アクション』昭和48年5月11日号所収)を読むことを得たのみです。大矢光男氏の作品や作風、人物についてご存知の方は、是非ご教示下さいませ。 (2004年5月10日瓢水記)
この『鬼麿斬人剣』は、平成17年から内山まもる氏の画で『週刊大衆』に連載されていると、掲示板にて「仙台周」さまからご報告いただきました。さっそく書店で確認したところ、連載はまだしばらく続きそうで、コミック本化されるのを楽しみに、確認のため一回分を立ち読みしただけで済ませておりますw

捨て童子松平忠輝

表裏一体で描かれた“大久保長安襲撃事件”(その1)

 家康の6男松平忠輝を担いでキリシタン王国を作る準備を着々と進めていた大久保長安が人事不省に陥った事件は、『影武者徳川家康』と『捨て童子・松平忠輝』の双方で描かれた。しかし、描く視点が違うため、当事者同士(甲斐の六郎と才兵衛)がお互いの正体を知らないままに物語が進むという面白い仕掛けになっている。
 長安の屋敷に忍び込んだ六郎は「侏儒」と「忍び」の戦いを目にするのだが、これはひょっとこ斎と才兵衛である。長安を廃人とした六郎は、才兵衛の気配を感じて屏風の陰に隠れる。才兵衛は少し迷うが、長安に危害を加えることなく大久保屋敷を後にする……。
 この場面の経緯を完全に理解するためには、『影武者』と『捨て童子』の双方を読まなければいけないわけで、忠輝の描き方がほぼ同じである点も含めて、両作品は表裏一体の関係にあると言える。それでは、両作品が表裏一体の関係にあるのは何故だろうか。(2004年1月29日瓢水記)

表裏一体で描かれた“大久保長安襲撃事件”(その2・完結)

 両作品の執筆時期を確認してみよう。『影武者徳川家康』が『静岡新聞』に連載されたのは昭和61年(1986)1月4日から昭和63年11月30日、『捨て童子・松平忠輝』が『信濃毎日新聞』等に連載されたのは昭和62年5月22日から昭和63年11月16日である。
 このように時間軸に沿って検討すると、『影武者』に忠輝が登場するのとほぼ同時期に『捨て童子』の連載が始まったことが判る。よって、両作品における忠輝の描き方がほぼ同じであるのも、“大久保長安傷害事件”の場面が背中合わせになっているのも、両作品の執筆時期が重複していたことに理由があったと言えるだろう。さらに言えば、『捨て童子』が『影武者』から派生した作品であることも判るのである。
 “大久保長安傷害事件”の場面からは、同時並行で作品を書き進めていた隆先生の“苦心”と“いたずら心”が窺えるのではないだろうか。(2004年1月30日瓢水記)

前身黄色くなって死んだ兵助

 『捨て童子・松平忠輝』で大坂冬の陣の後、柳生と無縁になった伊賀の老忍・清兵衛や4人が傀儡の集落を襲撃し、兵助という伊賀者が傀儡の鎌で負傷する場面がある。隆先生は、「兵助は矢張り鎌の刃先で肝の臓を傷つけられていた。三日後に全身黄色くなって死んだ」(講談社、下巻。138頁)と書いている。
 しかし、「肺は白、肝臓は青、心臓は赤、脾臓は黄、腎臓は黒という関係図が成り立ち、肌の色に表れる」(証券会社の日報より)と言われているので、兵助が全身黄色くなって死んだのは、肝臓ではなく脾臓を傷つけられたためと思われる。脾臓は白血球を作り、老廃した血球を破壊し、血中の異物や細菌を捕捉し、更には循環血液量を調整している。
 ちなみに、脾臓の調子を整えるのは、ハチミツ、バナナ、ニンニクなど“黄色っぽい”食べ物であるらしい。五臓と色は密接に繋がっているようだ。
【追記】脾臓以外についても記しておこう。肺の調子を整えるのは、かぶ、セロリ、白身の魚など“白色っぽい”食べ物、肝臓はウコン、シジミ、菜っ葉などの“青色っぽい”食べ物、心臓はトマト、ニンジンなどの“赤色っぽい”食べ物、腎臓はゴマ、昆布、海苔などの“黒色っぽい”食べ物が良いとのことである。(2004年4月6日瓢水記)

死ぬことと見つけたり

中野求馬にはモデルがいた!

 『死ぬことと見つけたり』で活躍する加判家老中野求馬にはモデルがいた。隆先生は、光茂時代の加判家老相良求馬と年寄役中野将監をミックスしたのではないだろうか。
 相良求馬は出頭人である。手明槍の子に生まれた求馬は、光茂の遊び相手として側近く仕え、1200石の加判家老となる。『葉隠』に「中野求馬ほど発明なる人又出来まじくと思はれ候」(岩波文庫版、上巻。115頁)と書かれた程の器量人であった。光茂に強く諫言したために切腹を命じられたこともあったと云う(前掲書、71頁)。
 中野将監は年寄役として光茂を補佐し、本藩と蓮池、小城、鹿島の3支藩の関係修復に努めた人物である。光茂と小城2代藩主直能の対面の場を作り、光茂に「畢竟我等実に誤り候」と詫びを入れさせた(中巻、50頁)。しかしこの後、将監は「君徳壅蔽」の罪によって切腹させられた。将軍家より光茂に宛てて発給された公文書を光茂に見せなかったためと伝えられる(田中耕作『初期の鍋島佐賀藩』、187‐188頁)。
 『死ぬことと見つけたり』の結末の行方は、この辺りにヒントがあるのかもしれない。
【追記】中野求馬の父は“将監”であり、勝茂に諫言して切腹させられている。“長崎喧嘩”の時期も含めて、『葉隠』に拠りながらも虚実定かならざる所がこの作品の“味”なのかもしれない。(2004年2月21日瓢水記)

その御様體は童どもの兔の子取ろに似申したる

 『死ぬことと見つけたり』の「第十話」で溝田市兵衛の奸計に陥った勝茂主従は、危うく海の藻屑となるところであったが、実はこの話、『葉隠』に記されているのである。
 難儀に遭ったのは勝茂の父直茂、時は慶長年間である。奸計のためとは書いていないが、大波のために梶が折れたこと、藤島生益と持永助左衛門が直茂を屋形の上に担ぎ上げ、助左衛門が直茂を抱えて2人とも嘔吐したこと、それを見た生益が「その御様體は童どもの兔の子取ろに似申したる」と笑ったこと、代梶も折れたため、直茂が「最早力に及ばず」と脇差を所望したが生益が拒んだこと、機転を利かせた生益が船底から米俵を取り出し、細引で結び合わせて下げると船の揺れが静まったことなど、「第十話」そのままである(岩波文庫版、上巻。173‐175頁)。
 ちなみに「第十話」の発表当時、隆先生は「見知らぬ海へ」を『小説現代』に連載していた。同じく“海”を描いた点で、読み比べてみるのも一興ではないだろうか。
【追記】「兔の子取ろ」とは何だろうか。「今日は日もよか、うさぎの子とろ、親の死んだこんな、子は誰くりゅう」「おのれ、ほし」「取りゅっこんな、取ってんやい」と唄うらしいから子供の遊戯ではないかと思うが、よく判らない。ご存知の方はご教示下さい。(2004年2月22日瓢水記)

柳生非情剣

『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その1)

 「慶安御前試合」(『柳生非情剣』所収)は、柳生石舟斎から数えて第14代の道統に当たる柳生厳長氏の『正傳新陰流』(元版は講談社、改版は島津書房)に全面的に依拠した作品である。厳長氏は尾張柳生の道統であり、尾張柳生家に伝えられた記録や口伝に基づいて本書を執筆した。その中に、慶安御前試合についての言い伝えが記されている。
 立ち合いの様子は「慶安御前試合」と同じである。宗冬の右拇指を砕いた後、兵助はそのまま進んで小太刀の切っ先を宗冬のみぞおちに擬した。宗冬は俯いて足早に引き下がる。勝負が決した後、兵助は「後ろを向いて、木太刀の太刀鋒から鍔もとにかけて血ぬったその穢れを、懐紙をとり出して手ばやく拭い取った」(191‐192頁)と云う。
 ちなみに尾張柳生家には、この時の“血痕付き”の小太刀が秘蔵されており、「ときどきこれを柳生会で諸台の清鑑に供している」(192頁。昭和32年当時)とのことである。
【追記】隆先生は柳生一族を描く際、『正傳新陰流』を縦横に活用したと思われる。何故なら『かくれさと苦界行』に、「『無刀取り』について柳生流十四世の道統を継がれた柳生厳長氏に短い記述がある」(新潮文庫版、143頁)とあり、石舟斎が家康に「無刀取り」を実演する場面が紹介されているのだが、これまた『正傳新陰流』に拠っているからである。(2004年4月1日瓢水記) 

『慶安御前試合』のネタ本が判明!(その2・完結))

 この兵助と宗冬の立ち合いについて、『柳生一族』(新人物往来社)を書いた今村嘉雄氏はなかなか穿った論を展開している。以下に該当箇所を引用してみよう。
 「尾張柳生の印可をうけている現在の権威たちの話によると、この時の宗冬、兵助の演じたのは、試合ではなくて『大転』と呼ばれている勢法、つまり型であって、兵助の使太刀の打込みが早すぎたため宗冬の拳を傷つけたものである(中略)『徳川実紀』では、宗冬はそれから八日後の四月十四日には堀田正盛、久世広元等と剣術を上覧に供している。もし実際に、そのようなことがあったとすれば、落度は双方の打ち合わせ不十分の点にあり、けっして自慢すべきことでない。むしろ、こうした伝説の強調は、技法にとらわれた尾州柳生の次元の低さを証するようなものである」(291‐292頁)。
 つまり、尾張柳生家に伝わる兵助と宗冬の試合は“虚報”であり、この“虚報”は江戸柳生と尾張柳生の不和の産物であると主張しているのである。“正統派”の意見と言える。(2004年4月2日瓢水記)

『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その1)

 隆先生による一連の“柳生もの”の短編は、『柳生非情剣』として雑誌発表順にまとめられた。どれも力作であるが、中でも「柳枝の剣」は、「ぼうふらの剣」を経て「夜叉神の翁」に至るという意味で重要な作品のように思える。今回はこの点について書いてみたい。
 「柳枝の剣」を読むと、隆先生が“宿題”として残したテーマがあることに気付く。それは、元々は金春流猿楽に伝わり、後に柳生新陰流の秘伝となった『一足一見』である。又十郎宗冬が能に打ち込んだことを記す際に、「元来、能と柳生新陰流はどこかで深く関わりを持っていたらしい」と書いた隆先生であるが、「『一足一見』が何を意味するかは筆者には分からない」と保留している(講談社文庫版、67頁)。
 事実、この時点では隆先生にも判然としなかったのであろう。しかし、能と柳生新陰流の関わりには興味を持った。そこで『一足一見』を切り口にして両者の関わりを紐解こうと試みたのが、宗冬を全面的に取り上げた「ぼうふらの剣」だったと思われる。 (2004年5月21日瓢水記)

『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その2)

 しかし、「ぼうふらの剣」には合点がいかない箇所がある。それは、金春流と柳生新陰流で秘伝の交換教授をした際、柳生流から金春流に伝えたとされる『西江水』である。「ぼうふらの剣」では専ら『一足一見』に筆が費やされ、『西江水』についての記述はほとんどないのだ。両者ともに“足運び”の極意であるように思われるが、これが事実なのか、はたまた隆先生の創見なのかは判らない。
 ともあれ、金春流と柳生新陰流の関わりに興味を抱いた隆先生は、能を愛好した宗冬が思いがけずも金春流の秘伝『一足一見』を会得する過程を描いた。これこそが「ぼうふらの剣」が書かれた理由だったと思われる。しかし、隆先生の好奇心はより一層深まっていった。何故なら、柳生石舟斎と秘伝の交換教授を行ない、さらには石舟斎から柳生新陰流の極意を記した『新陰流兵法目録事』を授けられた兵法の天才、金春七郎氏勝を発見したからである。 (2004年5月22日瓢水記) 

『柳枝の剣』から『夜叉神の翁』へ(その3・完)

 この金春七郎氏勝という人物を発見した時、おそらく隆先生は、驚きのあまり声を失ったのではないだろうか。「槍を十文字槍術宝蔵院胤栄、新当流長太刀を穴沢浄見、大坪流馬術を上田吉之丞といった当代一流の師に学び、いずれも皆伝を得ている。その氏勝が剣の師と仰ぎ、皆伝を許されたのは柳生石舟斎だった」(前掲書、105頁)という熱っぽい紹介からも、「こいつは一体何者なんだ!」という驚きと、七郎氏勝への大いなる関心が窺えるではないか。
 そう、この金春七郎氏勝こそが、雑誌『野性時代』(角川書店)に僅か6回連載されただけで未完となった「夜叉神の翁——金春一族の陰謀」の主人公なのである。隆先生がこの七郎氏勝を軸に、金春流と柳生新陰流の関わりを解き明かそうと試みたことは明らかであろう。「柳枝の剣」で抱いた関心は、「ぼうふらの剣」で間接的ながらその輪郭が描かれ、「夜叉神の翁」に至って真正面から取り組むべき機が熟したのであった。 (2004年5月23日瓢水記)

試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也

 真田増誉『明良洪範』より柳生宗矩の有名な逸話をひとつ。息子の宗冬に兵法の厳しさを知らしめた内容であるが、同時に将軍家兵法師範としての処世の難しさが滲み出ている逸話でもある。読み方によっては、宗矩の悲鳴が聞こえるような気さえする。
 「大猷院様(注:徳川家光)品川御殿へ御成有り柳生但馬守御供にて剣術上覧有り御側の面々何れも試合有て御機嫌斜ならず(中略)此時但馬守が子飛騨守(注:宗冬)も御供にて父但馬守と試合せしが一度も勝事能はずして飛騨守寸の延たる太刀ならば勝べしと申されければさらば大太刀にて試合仕れと仰せられ飛騨守寸延びの大太刀を持て父子立合けるに伜推参也と云ながら唯一打に打居たり飛騨守暫時気絶したり畢竟寸の延びたる太刀ならば勝べしなど云事柳生家に生れし者の本意に有ずとて強く打たる也とぞ剣術の試合は譬御慰みなり共試合なす者は父子兄弟たり共覚悟有べき事也」(『明良洪範』国書刊行会、66‐67頁)。
 この逸話を換骨奪胎したのが、隆先生の「ぼうふらの剣」(『柳生非情剣』所収)である。宗冬の上達振りに慄然とした宗矩は、ここで負けては天下随一の剣の伝説が崩れてしまうため、秘伝中の秘伝ともいうべき『西江水』の剣を使って宗冬を昏倒させた。柳生家を出奔した宗冬は、柳生の里に近い金春重勝の稽古場に通ううち、『西江水』の由来について知ることになる。そこには、能楽と剣法の意外な接点が秘められていた……。(2004年10月1日瓢水記)

柳生兵庫者但馬守宗厳子也

 表記は、享保元年(1716)に版行された日夏繁高『本朝武芸小伝』の記述である(南條範夫『日本剣士伝』文春文庫、84頁)。柳生家の系譜は、「石舟斎宗厳—新次郎厳勝—兵庫助利厳」となっているから、「柳生兵庫者但馬守宗厳子也」が間違いであることは言うまでもない。しかし、これを地で行ったのが「跛行の剣」(『柳生非情剣』所収)である。
 南條範夫『日本剣士伝』の元版は昭和42年に人物往来社から、『本朝武芸小伝』も昭和36年に現代語訳版が人物往来社から出ている。どちらも基本文献であるから、隆先生がこれらに目を通した結果、「跛行の剣」の着想を得た可能性も考えられる。また、隆慶作品に多く見られる“父忌み”感情の視点からも読み解くことが出来るかもしれない。
 ちなみに南條範夫『生きている義親』(講談社→角川文庫:絶版)は、『保元物語』の「六條判官為義と申は、六孫王より五代の後胤、伊豫入道頼義が孫、八幡太郎義家が四男也」という記述をネタにした傑作歴史推理小説である。為義は義家の嫡男義親の子であるから、「八幡太郎義家が四男」ではない。しかし南條氏は、義親が父親に反逆した理由をここに求めて推理を展開した。こちらはご参考まで。(2005年1月12日瓢水記)

一夢庵風流記

慶次郎が朝鮮に行った理由とは?

 『一夢庵風流記』の主人公・前田慶次郎が朝鮮に赴くという着想を、隆先生はどこから得たのだろうか。隆先生が慶次郎の具体的なイメージを得たと云う『前田慶次道中日記』に、興味深い記述があったので紹介しよう(市立米沢図書館版に拠った)。
 「菩提山のふもと関か原まで付、予がめしつかふ高麗人、いたくわづらいて馬にても下るまじきなれバ、菩提の城主に文そへて預をく」(『前田慶次道中日記 資料編』、11頁)。
 慶次郎には、高麗人(朝鮮人)の従者がいたのである。『道中日記』には、この高麗人に楚慶、寉人という2人の子がいて、彼等は慶次郎に従って奥州に下ったと記されている。隆先生はここから“逆算”して、慶次郎の朝鮮行きを思い付いた可能性もあるように思う。
 なお、慶次郎が高麗人を預けた菩提山城主は、関ヶ原合戦の後に小西行長を捕えた竹中重門(半兵衛の子)であった。
【追記】今回のコラムは、HP『戦国群像』の掲示板における「『前田慶次道中日記』でも朝鮮人の従者をはじめ、何人かの従者がいることが記述からわかります」(三楽堂氏。平成15年3月2日付)という書き込みを読んで閃きました。記して感謝申し上げます。(2004年4月3日瓢水記)

慶次が朝鮮に行かなかった理由とは?

 『一夢庵風流記』の慶次郎は朝鮮に赴くが、原哲男『花の慶次』の慶次は朝鮮ではなくて琉球に赴いている。この理由は何だろうか。
 公式HPの管理人である大嶋氏が、『花の慶次』の脚本を担当した麻生未央氏よりの聞き取りによれば、「コミック化にあたり、当時、教科書問題等でお分かりのように歴史認識のズレが日韓間で微妙な問題となっていました。そこで、出版元(集英社)が朝鮮行きうんぬんはさけてほしいと要望してきた」というのが実情だったらしい。
 具体的には、「南海にかかる虹! 琉球の章」の連載が始まった平成4年(1992)当時、1月には宮沢首相が日韓首脳会談で日本の植民地支配と従軍慰安婦問題について謝罪し、同年7月には従軍慰安婦問題に関する調査結果が発表され、慰安所の設置や管理・運営に政府が関与していたことを日本政府が正式に認めたことを受けて、韓国側は歴史教科書の書き直しを要求した。麻生氏の発言は、このような時代背景を意味していたのである。
【追記】今回のコラムは、公式HPの掲示板における幸村さまと管理人さまの遣り取り(過去ログ[225][226]。平成14年1月12、13日付)及び、「新しい歴史教科書を作る会HP」を参照しました。記して感謝申し上げます。
 ちなみに、『花の慶次 第14巻』(集英社版)のカバー見返しには、「『この唐入りの章の舞台を琉球におきかえてよかったですよねぇ。原作どおりに慶次たちを行かせるわけにはいきませんよねえ』『……はあ…』」という、担当者と原氏の会話が記されている。(2004年4月4日瓢水記)

かぶいて候

書評『かぶいて候』余滴(その1)

 「三田村鳶魚氏によると、水野成貞が将軍側近の近習役を退いたのは、念友を奪われた怨みのためだと云う」(集英社文庫、98頁)とあるように、隆先生は「かぶいて候」を書くに際して、三田村鳶魚氏の研究を参照した。具体的には「幡随意(ママ)長兵衛」(『全集第5巻』、『鳶魚江戸文庫24 江戸の豪侠 人さまざま』所収)である。
 成貞及び十郎左衛門の事跡については、十郎左衛門の弟成丘の後裔に当たる水野イ(金偏に韋)十郎氏の談話が紹介されており、成貞が致仕するに至った経緯や、成貞の念友とされる“堀田庄五郎”の名も成丘系水野家に伝わったらしい(『鳶魚江戸文庫24 江戸の豪侠 人さまざま』中公文庫、38‐39頁)。
 隆先生は『寛政重修諸家譜』を紐解いた結果、成貞の念友を堀田庄五郎ではなく「堀田正重の後裔堀田甚左衛門」に比定しているが、海音寺潮五郎氏は家光の念友として有名な堀田正盛(後の老中)であると、あっさり断定している(『悪人列伝(六)』文春文庫、107頁)。とすれば、元々は成貞と堀田正盛が衆道の関係にあったことになるが、この辺りの事情についてはよく判らない。(2005年1月1日瓢水記)

書評『かぶいて候』余滴(その2・完結)

 「かぶいて候」の新味は、水野成貞が家光対忠長の政争に巻き込まれた結果、大久保彦左衛門の勧めで旗本奴「棕櫚柄組」を名乗る展開であろう。思わぬ場面で彦左衛門が登場するため驚かされるのであるが、これまた三田村鳶魚氏の著述を参照したと思われる。
 前回紹介した成丘の後裔に当たる方の談話では、「十郎左衛門は、大久保彦左衛門とは別懇な間柄で、常に行き通いをしていた。ある時、大久保と世間話をして、長兵衛はおもしろい男だというが、まだ見たことがない。呼んでみようではないか」云々(『鳶魚江戸文庫24 江戸の豪侠 人さまざま』中公文庫、35頁)ということであったが、鳶魚氏は「十郎左衛門が大久保彦左衛門と一杯飲んだというのは、全く十郎左衛門の父出雲守成貞の話が錯会したのであろう」(前掲書、38頁)と推断している。
 おそらく隆先生はこの下りを読んで、成貞を旗本奴に仕立て上げるキー・パーソンとしての大久保彦左衛門を思い付いたのではないだろうか。(2005年1月2日瓢水記)

花の慶次

『花の慶次』、かくして誕生す!(その1)

 「(於)東京医科大附属病院。隆慶一郎先生の見舞い。担当の堀江氏同行。先生は、点滴の器具をつけたまま白髪の長い髪を無造作にかきあげて、現われた。病状、気がかり」。
 平成元年(1989)7月31日、東京医科大附属病院に入院中の隆先生を訪ねた劇画家・原哲夫氏は、日記にこう記した(『花の慶次』第1巻、集英社版。196頁)。これが、隆先生と原氏の最初の出会いである。原氏が隆先生を訪ねた理由は、漫画の原作になる“オリジナル作品”を依頼するためであった。しかしその企画は実らず、『一夢庵風流記』の劇画化となった。今回は、劇画『花の慶次』誕生の経緯について紹介してみたい。
 『少年ジャンプ』の担当の堀江氏とともに次回作の構想を練っていた原氏は、『吉原御免状』をきっかけに隆慶作品に惚れ込んだ堀江氏の勧めで、隆先生を訪ねることにした。自宅ではなく病院に来るように言われた2人は、隆先生の姿を見て驚いた。「ロビーに現われた隆先生の病状は重く、点滴のキャスターをひきずってかなり弱っている様子であった」からである(『花の慶次』第1巻、新潮社版、57頁)。 (2004年5月11日瓢水記)

『花の慶次』、かくして誕生す!(その2)

 「宮本武蔵のような剣豪もののオリジナル原作を書いていただきたかった」と意気込んでいた2人であるが、隆先生の病状を目の当たりにしては、早々に辞去せざるを得なかった。2週間に1度くらいの割合で、見舞いも兼ねて話をしに通う2人は、隆先生の病状が思わしくないことに気付いた。そこで、オリジナル作品の依頼から既に発表された作品の劇画化依頼へと切り替えることにした。「『一夢庵風流記』を劇画化させて下さい!」(前掲書、57頁)
 慶次郎の魅力を熱っぽく説く2人の話を聞いた後、隆先生はポツリと呟いた。「で、何枚だ?」「は?」「だから、1回がシナリオ何枚分になるんだ?」。隆先生は続ける。「話はよく分った。ぜひ、『一夢庵〜』を漫画にしてほしい。ただし、あの小説では、主人公の若い頃が描かれていないから、漫画にするには、そこから新たに始めた方がいい。俺が書くよ。そうだな、タイトルは、主人公・前田慶次郎の“郎”を外して“慶次”、『花の慶次』はどうだ?」(前掲書、57‐58頁)。 (2004年5月12日瓢水記 

『花の慶次』、かくして誕生す!(その3)

 思い掛けない申し出に喜んだ原氏と堀江氏であったが、隆先生の病状は悪化の一途を辿っていた。東京医科大附属病院に再入院した9月22日に、特別読み切り版「花の慶次」(47頁分)のシナリオ作りが始まったが、“口述筆記”だったのである。堀江氏は語る。「すでに先生は、ペンを持てる状態ではありませんでした。そこで先生のお弟子さんのお一人が、聞き取りで原稿にまとめてくださったのです」(前掲書、59頁)。
 この“口述筆記”については、隆先生のご息女・羽生真名氏も書いている。「父は夕刊の連載だけでも体力の消耗が激しく、結局、シナリオ教室の元生徒宝亀克寿さんに最初のシナリオを手伝っていただいた。まず最初を父が書き、大体の打ち合わせをしながら、骨格を宝亀さんが書いて下さる。それから父が手直しをしたり、口述するという形で、シナリオが出来上がった」(『歌う舟人』、172頁)。また、後に漫画の脚本を一手に引き受けることになる麻生未央氏も、助っ人として参加したと云う(『花の慶次』第1巻、集英社版。199頁)。
【追記】当事者の話を総合すると、作家としてどうしても書き続けたかった「花と火の帝」の執筆で体力を使い果たしていたため、「花の慶次」のシナリオはほとんどが“口述筆記”でなされた、というのが実情だったように思われる。
 極私的余談(笑)ですが、口述筆記を手伝った宝亀氏は、あの『サクラ大戦』(SS、DC、PS2)に登場する敵役・天海の声を当てている声優さんです。ブラボー! (2004年5月13日瓢水記)

『花の慶次』、かくして誕生す!(その4)

 ともあれ、宝亀氏と麻生氏を交えての“口述筆記”は断続的に続けられたが、10月11日に「花と火の帝」の続稿3枚を書き上げたのが絶筆となってしまう。そして11月4日午後9時10分、隆先生は永眠された。享年66歳。シナリオは、慶次が松風に跨って鉢形城大手門前に現れるシーン(古屋七郎兵衛との対決の直前)で途切れていた……。
 原作者の死去に接して途方に暮れる2人であったが、幸い、全体の構成プロットは完成していた。そして同年暮れ、読み切り版「花の慶次」が掲載され、読者アンケートでも好評を博したと云う(『花の慶次』第1巻、新潮社版。60頁)。
 原作者が死去してしまったので、普通なら話はここで終わるはずだが、意外な所から連載を求める声が上がった。隆先生の遺族である。原氏と堀江氏は遺族から呼び出され、「ぜひ、『花の慶次』を連載して、全編、漫画化して下さい。お弟子さんたちが協力してくれるはずです。これは隆慶一郎の遺言です」と言い渡されたのだ(前掲書、60頁)。 (2004年5月14日瓢水記) 

『花の慶次』、かくして誕生す!(その5・完結)

 このような経緯の後、翌平成2年(1990)の『少年ジャンプ』第13号から、「花の慶次」の全編連載が始まった。尤も、遺族の意向のみで少年誌の連載が決定するとは考えにくいから、最終的には、原氏と堀江氏の熱意が『少年ジャンプ』編集部を動かしたと思われる。脚本は、門下生の麻生未央氏が担当することとなった。前田慶次郎の存在を日本中に知らしめることになる『花の慶次』は、かくして誕生したのである。
 余談であるが、数多い門下生の中から麻生氏が選ばれた理由は何だったのだろうか。あくまで私の想像であるが、(1)隆先生が作家デビューする1年くらい前から助手代わりとして資料集めを手伝っていたので、隆先生が扱っていた資料を一番よく知っている。(2)小説家・隆慶一郎を最も近くで見て来たので、隆慶ワールドの現場に最も近い人物である、というのが、遺族や他の門下生の一致した意見だったのではないだろうか。
【追記】書き漏らしたが、「花の慶次」の脚本は当初、「とりあえず二回分を、年内に父の脚本で漫画化し、他の部分は年が明けてから、シナリオ教室の生徒さん達の共同脚本で」進めることが予定されていたと云う(羽生真名『歌う舟人』、171頁)。 (2004年5月15日瓢水記) 

綜合

未完作の全体ボリュームを推理する!(その1)

 公式サイトに『捨て童子・松平忠輝』の原稿が掲載され、隆先生が400字詰め原稿用紙を使っていたことが判明した。また、隆先生が残したメモには、連載中の作品が残り何枚程度で完結するかという目算が記されている(『小説新潮』1990年1月号、136頁)。
 そこで、未完となっている隆慶作品が最終的にどの程度のボリュームになる予定だったのかを、「400字×枚数÷文庫本1頁に入る字数」という単純な計算式で割り出したい。但し会話部分は無視しているため、あくまでも参考値であることをお断りしておく。
 『死ぬことと見つけたり』は「140枚?プラス」となっているが、この作品は全18話(未完3話)の予定であったと伝わっているので、ここではパスしておく。
 『見知らぬ海へ』は「250〜300枚プラス」。よって、講談社文庫版(41字×18行)で約135〜165頁となるから、発表されたのは全体構想の約3分の2であったと推測出来る。(2004年2月28日瓢水記) 

未完作の全体ボリュームを推理する!(その2・完結)

 『風の呪殺陣』は「100枚プラス」とあるので、徳間文庫版(42字×16行)で約60頁の追加となり、既発表分の約25%をプラスする予定だったと思われる。
 「柳生刺客状」は「清正 家康 御子→秀忠 300枚プラス」とあるから、講談社文庫版(43字×17行)で約165頁の追加となる。よって、既発表分は全体構想の30%に満たない計算になる。なおこの作品は、『柳生非情剣』の続編として企画されていたと云う(前掲書、136頁)。
 『花と火の帝』は「820枚プラス」。よって、講談社文庫版(43字×18行)で約425頁の追加となるので、今の文庫本の厚さで全3巻と考えるとちょうど良いだろう。
 最後に「かぶいて候」は「350枚プラス」とあるので、集英社文庫版(40字×16行)で約220頁の追加。既発表分は全体構想の約37%となり、「隆氏が書き遺し得たのは、全体の構想の三分の一ほどにとどまっている」(『かぶいて候』集英社文庫版、215頁)と縄田一男氏が紹介しているのと、ほぼ辻褄が合うことになる。(2004年2月29日瓢水記)

『全集』未収録のエッセイを発見!

 「清水谷の池」に続いて、『全集』未収録のエッセイ「鈍感」を発見した。そこで、発表時の状況とエッセイの内容について、簡単に紹介することにしよう。
 エッセイ「鈍感」は、雑誌『アズ 1987年8月創刊号』(新人物往来社)に掲載された3分の1頁程度の短いものである。『アズ』は科学で説明出来ない現象を研究する主旨の雑誌で、創刊号の特集は「超能力」。編集部が、「私の不思議体験」というお題で複数の有名人に何か書いてもらう企画を立てたところ、既に「柳枝の剣」を『別冊歴史読本 時代小説特集号』に発表していた縁で、隆先生にも依頼があったのだろう。
 隆先生が若い時に手相を観てもらったところ、「ソロモンの十字架があります」と言われた。霊能力がある証拠らしかったが、一笑に付した。ところが戦後、仕事で旅先にいた時、夫人が見知らぬ男に突き飛ばされる情景が“見えた”。自宅に電話を入れると、財布を取られたとの由。隆先生は何故か財布は見えなかったそうで、夫人に呆れられてしまった。「お金のことには鈍感なんだから」と。そして隆先生曰く、「これが私の霊能力である」。(2005年1月17日瓢水記)

死せる隆先生、生ける縄田一男を走らす

 隆慶作品では、「死んだはずの人間が実は生きていた」という設定が上手く使われている。『吉原御免状』の庄司甚右衛門、『影武者徳川家康』の島左近、『かくれさと苦界行』の荒木又右衛門は、死者でありながら強烈な存在感で読者を魅了する。この点について縄田一男氏は、「隆慶一郎作品で度々、繰り返される“死者の遺志”というテーマの端的な現われであろう」(『かくれさと苦界行』新潮文庫、445頁)としているが、どうなのだろう。
 庄司甚右衛門は、吉原を“白紙”の状態から書き起こすため、「年齢的に少し無理だけれど、八十歳を越している甚右衛門をあえて生かして登場させました」と、隆先生自身が書いている(『かぶいて候』集英社文庫、173頁)。島左近は、新聞連載中に天竜市文化協会長の伊藤惣一氏から静岡新聞社に「左近の末裔がいる」と連絡を受けて取材に行ったことで、二郎三郎の軍師的な位置付けが固まったと云う(『隆慶一郎読本』新人物往来社、175頁)。荒木又右衛門の場合、文献からは確認出来ないが、又右衛門を登場させることで、吉原、柳生双方の“死せる守護神”が揃う格好になり、甚右衛門の死を必然と位置付けることが可能になる。
 隆慶作品に死者が登場するのは、あくまで物語の設定に係るものであり、縄田氏の所論は、「死せる隆先生、行ける縄田一男を走らす」といった類のものではないだろうか。(2005年1月21日瓢水記) 

隆慶作品書評・評論

ここでは、当サイトに寄せられた評論・小文のうち作品論に関するものを掲載しております。

書き直しが予定されていた『駆込寺蔭始末』

執筆者:瓢水

※この論考を書くにあたって文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記している。また、オフィシャルサイト「隆慶一郎World」の掲示板などでご教示いただいた内容を参照した場合にも、同様の方法で明記している。

【前説】

 『駆込寺蔭始末』は、朝廷の隠密方棟梁の家柄に生まれた主人公・麿が、アジールとしての駆込寺東慶寺に駆け込んだ女たちを巡る事件を始末していく痛快時代小説である。
 本作品の読みどころの一つは、東慶寺に駆け込む女たちの性格描写だろう。女たちを、男たちに虐げられた哀れな存在としてのみ描くのではなく、自らの意志を貫くために、したたかで、時には男たちを飲み込んでしまう魔性の生き物として描いたところは、隆先生の鋭い観察眼が生きている。
 そして、過酷な現実を生きる女たちに対置する形で登場するのが、無垢な少女の心のままに生きる東慶寺の住持・玉渕尼である。麿の婚約者であった玉渕尼は、過酷な外界と隔離される形で東慶寺に住んでいるため、駆け込んだ女たちの来し方行く末に心を痛めることしかできない。このコントラストの妙も上手い。
 駆け込んだ女たちと心を痛めた玉渕尼を救うのが、主人公・麿である。麿、そして彼を助ける八兵衛とおかつは、女たちを巻き込んだ事件の裏に潜む男たちの醜い欲望を探り出し、蔭ながら始末をつけるのである。光文社から出版された単行本の帯にある煽り文句、「隆慶一郎の痛快忍者アクション!」は、本作品の面白さを的確に示したものと言えるだろう。 
 しかし、隆慶一郎オフィシャルサイト「隆慶一郎World」の管理人・大嶋芳男氏のご教示によれば、本作品には意外なエピソードがある。実は、隆先生は連載終了後に書き直す予定で、単行本化には難色を示していたと云う。単行本が出版されてしまったのは、先生の病状が悪化するなどのごたごたが重なったためであるらしい(注1)。
 隆先生が書き直そうと考えた理由は何だったのか。そして、どのように書き直す予定だったのか。この書評では、これらについて考えてみたい。
 なお、【本編】の構成は、「1、隆慶作品における『天皇の隠密』の系譜」、「2、叡南覚照大阿闍梨の一喝」、「3、“殺”の麿から“不殺”の岩介へ」、「4、書き直しの行方」となっている。

【本編】

1、隆慶作品における「天皇の隠密」の系譜

 本作品の主人公・麿の家系は、「代々、御所忍び、つまり朝廷の隠密方棟梁だった」と設定されている(注2)。隆慶作品における「御所忍び」、すなわち「天皇の隠密」(注3)は、『花と火の帝』の岩介たちが有名であるが、意外なことに、隆先生は小説家としてデビューした早い段階から「天皇の隠密」を登場させていたのである。
 詳しくは下記の表を御覧いただきたいが、まず昭和61年(1986)11月に本作品の主人公・麿が登場。そして同じ時期に、静岡新聞に連載中だった『影武者徳川家康』において御所忍びの頭領・青地新左衛門が登場している。麿と青地新左衛門は共に「御所忍び」や「朝廷の隠密方棟梁」であり、「木曽忍び」の流れを汲む点も共通している(注4)。次いで昭和63年(1988)2月から「花と火の帝」の連載が開始され、この時点で「天皇の隠密」として岩介たちが登場することになる。
 つまり、隆慶作品においては、所謂「天皇の隠密」にはふたつの系譜が存在すると言うことが出来る。ひとつは「木曽忍び」の流れを汲む麿や青地新左衛門であり、もうひとつは駕輿丁としての表の顔を持つ「八瀬童子」の岩介たちである。 
 ところで、ほとんどの隆慶読者は、「天皇の隠密」という言葉から『花と火の帝』の岩介たちだけを想起するのではないだろうか。
 確かに、天皇を守護し奉る存在として「天皇の隠密」が設定され、彼等の活躍が本格的に描かれたのは『花と火の帝』が最初にして最後である。さらには、本作品の主人公・麿は作中で天皇を守護し奉るわけではないし、作品の完成度が必ずしも高いわけではないため、『駆込寺蔭始末』と『花と火の帝』を比較すること自体に無理があるかもしれない。
 しかし、隆慶作品において「天皇の隠密」のアイデアが最初に示されたのが、本作品と『影武者徳川家康』であることは間違いない。まずはこの点を確認しておきたい。
 ここまで述べてきたことを表にしたのが、以下に示す「隆慶作品年表(1)」である(注5)。

表1‐1 隆慶作品年表(1)

 左の「隆慶作品年表(1)」からは、様々なことが読み取れる。
 「天皇の隠密」のアイデアがまず本作品と『影武者徳川家康』で示されたこと、そして、「天皇の隠密」の初見が『花と火の帝』であると大方の人々が考えている理由が、作品の完成度もさることながら、作品の発表時期と単行本化の時期にズレが生じていることにあることもわかる。
 また、『駆込寺蔭始末』の雑誌掲載から単行本の出版まで、実に約2年半のブランクがあることも、隆先生が本作品の書き直しを考えていたことの有力な傍証となるであろう。そしてこのブランクは、「隆先生の病気が悪化するなどのごたごたが重なったために単行本化されてしまった」という大嶋氏の言葉を裏付けるものにもなるであろう。有態に言えば、隆先生が死去されてしまったため、光文社が出版に踏み切ったというのが実情だろう。 
 何故このようなことを述べたかと言うと、同じ「天皇の隠密」を扱っても、『駆込寺蔭始末』と『花と火の帝』では描き方が全く違うからである。この違いは、隆先生が本作品の書き直しを予定していた理由を考える上で重要な事柄ではないだろうか。この点については後で述べることにしよう。

2、叡南覚照大阿闍梨の一喝

 『風の呪殺陣』の連載を終えた隆先生が比叡山を訪れ、赤山禅院の叡南覚照大阿闍梨に小説の粗筋を話した際、大阿闍梨から「仏教が人を殺すかあ!」という一喝を受けたのは有名な話である(注6)。先生のご息女・羽生真名氏が、隆先生の取材に同行した方から聞いた話によれば、実際にはそれほど強烈な一喝ではなかったが、穏やかでありながらも、はっきりと確信をもって否定されたという(注7)。
 そして、大阿闍梨の一喝を受けた先生は、「作品の軸がすっかり狂ってしまった」として、『風の呪殺陣』はかれこれ百枚くらい書かないと完結しないと考えておられた(注8)。
 しかし、大阿闍梨の一喝を受けたために「作品の軸がすっかり狂ってしまった」のは、『風の呪殺陣』だけではないように思えてならない。結論を先に書けば、隆先生が本作品の書き直しを考えていた理由もまた、大阿闍梨の一喝にあったのではないだろうか。
 私の推測の根拠を、以下に示す「隆慶作品年表(2)」で説明したい(注9)。

表2‐1 隆慶作品年表(2)

 左の「隆慶作品年表(2)」から明らかなように、『風の呪殺陣』と『駆込寺蔭始末』は、ほぼ同じ時期に執筆された作品である。そして、大阿闍梨の一喝を受けた数ヶ月後、『駆込寺蔭始末』は何とも尻すぼみな形で連載を終了しているのである。 
 ここで確認しておきたいのは、『駆込寺蔭始末』の作品構成である。単行本や文庫本では、「第1話 畜生仲・うめ女」、「第2話 幼な妻・おくに」、「第3話 子連れ女・おるい」、「第4話 欠け落ち者・おかね」という構成になっている。しかし、上記の表からわかるように、単行本と文庫本の第3話と第4話は、雑誌掲載の順序を逆にしたものである。
 光文社がこのような作品構成の組み替えを行なった理由は、隆慶作品の読者なら既におわかりであろう。第4作「子連れ女・おるい」の分量が不自然に少ない上、物語に今ひとつ膨らみがない。誤解を恐れずに言えば、隆先生の『駆込寺蔭始末』という物語に対する情熱が減退しているようにも思えるのである。
 当時の隆先生の仕事を振り返ると、第4作「子連れ女・おるい」が『小説宝石』7月号に掲載される前の月(昭和62年5月)に、「捨て童子・松平忠輝」、「見知らぬ海へ」、「死ぬことと見つけたり」の連載が開始されている。よって、新たな連載に精力を傾けるため、『駆込寺蔭始末』の連載にひとまずの区切りをつけたと考えられないこともない。
 しかし、これだけでは隆先生が本作品の書き直しを考えていたことの説明にはならない。やはり、叡南覚照大阿闍梨の一喝の意味を考えてみる必要があるのではないだろうか。
 それでは、『風の呪殺陣』に対して受けた「仏教が人を殺すかあ!」という一喝は、『駆込寺蔭始末』ではどのように影響したのであろうか。
 『風の呪殺陣』と『駆込寺蔭始末』がほぼ同時期の連載であること、そしてどちらも正確には未完の作品であることを考え合わせると、隆先生が、「仏教が人を殺すかあ!」という一喝を「天皇を守護し奉る御所忍びが人を殺すかあ!」と読み替えて衝撃を受けたと推測するのは、必ずしも的外れではないと思う。
 何故なら、本作品の主人公・麿は、本来は天皇を守護し奉る御所忍びの頭領でありながら、東慶寺の住持となった許婚を守るためにその地位を捨てたとはいえ、悪人どもを退治する、ひらたく言えば”殺す”仕事をしているからである。
 また、古くから「王法と仏法は車の両輪」という考え方がある。この考え方については、隆先生も『風の呪殺陣』の“素描”とも言うべき「叡山焼亡」で紹介している(注12)。王法と仏法が車の両輪であるならば、そして仏教(仏法)が人を殺さないのであるならば、王法に連なる者が人殺しをすることもあり得ないのである。
 隆先生は、「物語ではあるが、天皇を蔭ながらお守りする者が毎回人殺しをして良いものだろうか?」と煩悶されたように思う。作品の軸が狂ってしまったのである。
 そして、徐々に『駆込寺蔭始末』の連載に情熱を失っていった隆先生は、新たな連載3本が始まるのをきっかけとして『駆込寺蔭始末』の連載をひとまず終了し、後日書き直した上で単行本化することに決めたのではないだろうか。
 以上、隆先生が本作品を書き直す予定にしていた理由を、叡南覚照大阿闍梨の一喝との関連から考えてみた。「仏教が人を殺すかあ!」という一喝の衝撃が、『風の呪殺陣』だけでなく『駆込寺蔭始末』にまで及んでいたと解釈すると、平仄がぴったりと合うのである(注13)。

3、“殺”の麿から“不殺”の岩介へ

 さて、「1、隆慶作品における『天皇の隠密』の系譜」の終わりで、本作品と『花と火の帝』では「天皇の隠密」の描き方が違うことを指摘した。そしてその違いが、本作品の書き直しの理由を考える上で重要な事柄ではないか、とも書いた。以下、これらの点について述べることにしよう。
 『花と火の帝』は、隆先生が本作品の連載を終わらせた約8ヶ月後の昭和63年(1988)2月に日本経済新聞にて連載が開始された作品であり、八瀬童子の岩介をはじめとする「天皇の隠密」の活躍が全面に押し出された内容となっている。
 本作品と『花と火の帝』の関わりで重要なのは、両作品の主人公が共に天皇を守護し奉る役割を担う者でありながら、麿が敵を倒すことで問題の解決するのに対して、岩介たちは帝に仇なす者たちの心に語りかけることで問題を解決していることである。同じ「天皇の隠密」でありながら、その描き方は全く異なるのである。
 その違いを一言でまとめると、「“殺”の麿から“不殺”の岩介へ」と言えるだろう。
 『花と火の帝』において示された「天皇の隠密」のあり方は、作品中における後水尾天皇の数々のお言葉が全てを象徴している。
 具体例をふたつだけ挙げると、大御所家康が柳生宗矩を京に派遣したことが明らかとなった際の、「殺しはあかん。柳生も殺さんと、どないかせえ。まして大御所を殺すようなことはすな。禁裏は決して人は殺さん。それだけは守って欲しい」というお言葉(注14)。
 そして、岩介が天皇のご意志に逆らって柳生者二人を殺したために、股肱と頼む鷹司信尚を暗殺された際の、「殺し合いというものは、正しくこういうものなのだ。今度こそ判ったか、岩介」というお叱りである(注15)。
 ここからは、叡南覚照大阿闍梨の「仏教が人を殺すかあ!」という一喝を受けて、隆先生がその作品に“不殺”というメッセージを強く打ち出したことが窺える。
 そういう意味では、『花と火の帝』が作家・隆慶一郎の一大転機となった作品として位置付けられると同時に、小説の設定上“殺”を続けざるを得ない『駆込寺蔭始末』の主人公・麿を否定した転機でもあったと思われる。
 本作品の書き直しが予定されていた傍証を、もうひとつだけ挙げておこう。
 いささか尻すぼみの観がある第4作「子連れ女・おるい」で、麿は丸腰の呪術師を斬り殺しているが、『花と火の帝』では天皇が「呪禁師の棟梁」と設定されているのである(注16)。この決定的な矛盾は、『駆込寺蔭始末』という物語をもう一度作り直すという、隆先生の意思表示ではなかったろうか。
 以上、隆先生が本作品を書き直す予定にしていた理由を、『花と火の帝』との関連から考えてみた。そこには、『駆込寺蔭始末』という物語の軸が根本から変わることを予感させるほどの変化があったのである。

4、書き直しの行方

 この書評の最後に、隆先生が『駆込寺蔭始末』をどのように書き直される予定だったのかについて考えてみたい。
 しかし、書き直しが予定されていたとはいえ、隆先生の構想が全く遺されていない状況である。果たしてどこまで隆先生の思考を追うことが出来るか、はなはだ心許ないものがある。また、小説家が書かなかった構想を恣意的に推量するのは失礼ではないか、という意見もあるかもしれない。その点については、何かしらの根拠に基づいた推理を展開することでお許しを頂くことにしたい。
 書き直しの行方を探るにあたって重要なのは、本作品の舞台が「享保18年(1733)」(注17)の「東慶寺」に設定されていることである。
 隆先生が網野善彦氏の研究を自家薬籠中のものとして、処女作の『吉原御免状』をはじめとする数々の作品を発表してきたことはよく知られているが、縄田一男氏も指摘しているように、網野氏の代表作である『無縁・公界・楽』の第2章「江戸時代の縁切寺」で、アジールとしての東慶寺が取り上げられているのである。本作品のアイデアが網野氏の研究に依っているのは明らかであろう(注18)。
 それでは、アジールとしての東慶寺にとって、「享保18年」という時代設定はどのような意味を持っていたのであろうか。それは、八代吉宗の治世下における弾圧を、9年後の寛保2年(1742)に控えた時期だったのである。
 隆先生も作中で言及しているように、寛保2年(1742)に吉宗が公事方御定書を制定して以降、東慶寺のアジールとしての力が弱くなっている。元禄時代以前は、東慶寺の権威が強かったため駆け込むだけで即離縁となったものが、強制的に離縁を促す御奉書を、駆け込んだ女の親元及び夫の双方に送る形になった。そして公事方御定書の制定後は、東慶寺は一種の離婚調停機関に過ぎなくなってしまったのである(注19)。
 さらに、東慶寺研究の第一人者・石井良助氏によれば、吉宗が公事方御定書を制定する前までは、尼寺は一般的に縁切寺としての機能を有していたが、公事方御定書の制定後は、東慶寺と満徳寺だけが幕府公認の縁切寺となったことが明らかになっている(注20)。
 つまり、吉宗の時代に、数多くのアジールが潰された上、東慶寺のアジールとしての力も大幅に弱められたのである。「享保の改革」を行なった名君として記憶されている八代吉宗は、アジール潰しに積極的な将軍でもあったと言えるだろう(注21)。
 『駆込寺蔭始末』の時代背景は、このような状況であった。それでは、隆先生はどのような書き直しの構想を持っていたのだろうか。
 隆慶作品で一貫して描かれてきたのは、時の権力者の執拗なアジール潰しに対して果敢な抵抗を試みた、誇り高き自由人たちの姿である。よって、書き直しの構想もこの線で進められたと考えるのも、的外れではないだろう。
 そして、叡南覚照大阿闍梨の一喝を受けた隆先生は、麿の人物設定も、“殺”から“不殺”へと変更したであろう。ひょっとすると、麿の許婚であった東慶寺の住持・玉渕尼には、『花と火の帝』における後水尾天皇の役割が与えられたかもしれない。
 さらに言えば、アジールとしての東慶寺を狙う幕府方の要人としては、公事方御定書編纂の責任者であった老中松平乗邑を想定することも可能であろう。元文3年(1738)、将軍吉宗に敵対する尾張藩主徳川宗春を隠居に追い込んだ豪腕の乗邑である。吉宗が紀州から連れて来た公儀お庭番を指揮して、木曽忍びの流れを汲む麿と、凄まじい暗闘を展開する筋立てになったかもしれない。
 今となっては、隆先生の急逝が惜しまれてならない。じっくりと時間をかけて構想を練り直し、是非とも書き直しを実現して頂きたかった。

【後書】

 この書評では、「仏教が人を殺すかあ!」という叡南覚照大阿闍梨の一喝を切り口にして、『駆込寺蔭始末』書き直しの理由と新たな構想について、色々と考えてみた。賛否両論があると思うが、私の現時点における考えを全て書いたつもりである。忌憚のないご意見を頂きたいと思う。
(2003年3月5日)

【補遺その1 書き直しの可能性は低かった?】

 一言付け加えておきたいことがある。それは、隆先生が存命であったとしても、『駆込寺蔭始末』を書き直されたかどうかは疑問ではないかということである。
 「これまで長々と書きながら何を言うか」とお叱りを受けるのは重々承知している。しかし、根拠がない話ではない。隆先生の書き直しに疑問を感じた理由はふたつある。
 ひとつ目の理由は、隆先生が書き遺されたメモに『駆込寺蔭始末』に関する記述が全くないことである。明田川徹[1990]によれば、隆先生が書き直しを予定していた作品は『風の呪殺陣』と「柳生刺客状」の2作であったという(注22)。
 ふたつ目の理由は、『駆込寺蔭始末』で狂った作品の軸が『花と火の帝』で見事に修された上に、隆先生の関心が『花と火の帝』の執筆を通じてさらなる高みへと向かっていたように思われるからである。
 例えば、『花と火の帝』に関しては、「岩介をヒマラヤへ連れていきたい」と語っていたことや、チベット密教やダライ・ラマについて勉強していたことが伝えられているし(注23)、天正遣欧少年使節団や、日蓮と宮沢賢治を扱った小説の構想が練られていたことも伝えられている(注24)。
 戦争と平和、そして文化について真正面から取り組み、“不殺”の思いを強く押し出した『花と火の帝』を執筆する過程で、隆先生の小説的関心は「宗教」や「教育」、そして「詩」へと向かっていたのではないだろうか。
 このように考えると、「叡南覚照大阿闍梨の一喝は隆慶作品を新たな地平へ導いた」とかなりの確信を持って言えるだろう。しかし残念ながら、そこには『駆込寺蔭始末』が座るべき場所を見出すことは出来ないのである。
(2003年3月18日)

【注記】

(注1)隆慶掲示板(旧)[261]。
(注2)隆慶一郎[1992]、30‐31頁。
(注3)ここでは、「御所忍び」、「朝廷の隠密方棟梁」、「天皇の隠密」を同義と捉えている。
(注4)「木曽忍び」というアイデアの由来については不明である。五味康祐『柳生武芸帳』ではないかと思って同書を繰ったが、それらしい記述は見当たらなかった。
(注5)主として新潮社編[1996]と縄田一男[1992b]によった。『駆込寺蔭始末』の初出については、掲載雑誌である『小説宝石』各号の発行年月日が不明であるため、便宜上、掲載雑誌の月号表示の1ヶ月前に発行されたものと判断した。
(注6)隆慶一郎・縄田一男[1993]、199‐200頁。
(注7)羽生真名[1991]、153頁。
(注8)隆慶一郎・縄田一男[1993]、199頁。
(注9)掲載雑誌の発行年月日の判断は、「隆慶作品年表(1)」と同じである。
(注10)隆慶一郎[1994]、32頁。縄田一男[1992a]、248頁。
(注11)縄田一男[1992a]、248頁。
(注12)隆慶一郎[1994b]、113頁。
(注13)叡南覚照大阿闍梨の一喝は、『かくれさと苦界行』の終盤における柳生義仙の描き方にも強く影響していると思われる。この点については、『かくれさと苦界行』の書評で取り上げたい。
(注14)隆慶一郎[1993a]、390頁。
(注15)隆慶一郎[1993b]、167頁。
(注16)隆慶一郎[1993b]、128頁。「呪術師」と「呪禁師」は同義である。
(注17)隆慶一郎[1992]、15頁。ついでながら、第3作「欠け落ち者・おかね」に登場する田中丘隅は「五十四歳の老人」と設定されている。田中丘隅は享保14年(1729)12月に68歳で病没しているから、「欠け落ち者・おかね」の時代設定は正徳5年(1715)ということになる。しかし、田中丘隅が酒匂川の修築に着手したのは享保11年(1726)であるため、時代が合わない。田中丘隅を「五十四歳の老人」と設定したのは、おそらく隆先生の勘違いであると思われる。
(注18)縄田一男[1992b]、196頁。
(注19)隆慶一郎[1992]、75‐76頁。
(注20)石井良助[1977]、156頁。
(注21)ここで、『吉原御免状』や『かくれさと苦界行』との関連を指摘することも可能であるが、論旨を明確にする意味で省略する。
(注22)明田川徹[1990]、136頁。
(注23)浦田憲治[1993]、420頁。
(注24)天正遣欧少年使節団の構想は、「隆慶掲示板」にての大嶋芳男氏のご教示による。隆慶掲示板(旧)[315]。日蓮と宮沢賢治を扱った小説の構想は明田川徹[1990]、135頁による。

【参考文献】

  • 明田川徹[1990]「遺志を読む」『小説新潮』1月号、133‐136頁。
  • 網野善彦[1996]『増補 無縁・公界・楽』平凡社ライブラリー。
  • 石井良助[1977]「縁切寺—東慶寺の場合—」『日本婚姻法史』創文社、143‐224頁。
  • 浦田憲治[1993]「解説」隆慶一郎『花と火の帝 下巻』講談社文庫、406‐420頁。
  • 木村行伸[2000]「解説」隆慶一郎『駆込寺蔭始末』徳間文庫、173‐184頁。
  • 新潮社編[1996]「年譜」『隆慶一郎全集 第6巻』新潮社、633‐643頁。
  • 縄田一男[1992a]「解説」隆慶一郎『風の呪殺陣』徳間文庫、247‐254頁。
  • 縄田一男[1992b]「解説」隆慶一郎『駆込寺蔭始末』光文社文庫、187‐197頁。
  • 羽生真名[1991]『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』講談社。
  • 隆慶一郎[1992]『駆込寺蔭始末』光文社文庫。
  • 隆慶一郎[1993a]『花と火の帝 上巻』講談社文庫。
  • 隆慶一郎[1993b]『花と火の帝 下巻』講談社文庫。
  • 隆慶一郎[1994a]「回峰行」『時代小説の愉しみ』講談社文庫、32‐33頁。
  • 隆慶一郎[1994b]「叡山焼亡」『時代小説の愉しみ』講談社文庫、85‐114頁。
  • 隆慶一郎・縄田一男[1993]「対談 日本史逆転再逆転」隆慶一郎『かぶいて候』集英社文庫、183‐210頁。

人間関係から読み解く「かぶいて候」の行方

執筆者:瓢水

※この書評を書くにあたって文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記している。また、オフィシャルサイト「隆慶一郎ワールド」の掲示板などでご教示いただいた内容を参照した場合にも、同様の方法で明記している。

【前説】

 「かぶいて候」は、槍一筋で戦国時代を生き抜いた福山藩祖水野勝成の三男として生まれ、後に棕櫚柄組の頭領となる水野出雲守成貞を描いた時代小説である。隆先生の急逝により、全体構想の約三分の一が書かれた時点で未完となった(注1)。
 単行本及び文庫本の「解説」で縄田一男氏が指摘しているように、本作品の読みどころの一つが、「棕櫚柄組誕生のきっかけが、家光対忠長の政治的抗争に巻き込まれた成貞を守る苦肉の策であったという新解釈の面白さ」(注2)であることは間違いない。
 また、成貞の中間山平が口笛ひとつで百匹以上の犬を呼び寄せ、彼等が成貞暗殺軍団との戦いで活躍するというアイデア(注3)、そして棕櫚柄組の頭領となった成貞に付き添う「仔牛ほどの真黒な犬」(注4)のクロ。これらは、隆先生が脚本を担当したTV時代劇『江戸の鷹』など、動物が活躍する作品と重ね合わせることが出来て興味深い。
 さらには、これまでの隆慶作品では敵役として登場していた徳川秀忠や松平信綱が、成貞のよき理解者または情誼に厚い同僚として描かれている点も注目に値する。
 物語の本筋から離れたところでも、興味深い読み込みが可能である。例えば、本作品の「父忌み」や「彦左衛門」では、成貞の父勝成に対する露骨な反感が描かれているが、「柳生刺客状」においても、少年秀忠とその兄秀康の父家康に対する反感、そして柳生宗矩の父石舟斎に対する反感が描かれていた。これらの「父忌み」感情を、『死ぬことと見つけたり 上巻』の冒頭部分(注5)と重ね合わせると、隆先生の「父忌み」感情が作品に反映しているようにも読めるのである。
 ところで本作品は、水野成貞と同じ「かぶき者」である前田慶次郎を描いて好評を博した「一夢庵風流記」の連載が終了した約4ヶ月後に、雑誌『週刊小説』(注6)(実業之日本社)にて連載が開始されている。このことは、本作品誕生のきっかけが「一夢庵風流記」の成功に由来していることを示しているのではないだろうか。この推測が許されるのであれば、「かぶいて候」は、「一夢庵風流記」に連なる作品であると言えるだろう。
 このように、隆慶ファンにとって様々な切り口から楽しめる作品となっているだけに、未完に終わったのが残念でならない。隆先生は、この物語をどのように展開する心積もりだったのであろうか。
 今回の書評では、水野成貞の生涯について出来る限り調べることで、ついに書かれることのなかった残り三分の二の構想について考えてみたい。
 なお、【本編】の構成は、「1、水野家三代の歴史だったのか?」、「2、水野成貞の生涯」、「3、物語の行方」となっている。

【本編】

1、水野家三代の歴史だったのか?

 本作品の解説を担当したのは、隆慶作品のよき理解者として『全集』の「解題」まで担当した文芸評論家の縄田一男氏である。縄田氏が、隆慶作品を論じた一連の解説を通じて隆慶作品の“読み方”の大枠を作り上げた人物であり、隆先生及び隆慶作品に関する数多くの情報を隆慶ファンに提供してくれた人物であるのは周知のことであろう。
 その縄田氏が「初刊本解説」(集英社文庫版)で伝えるところによると、本作品は「水野日向守勝成から成貞、そしてお馴染み十郎左衛門へと続く、水野家三代の男たちの生きざまを描くことが予定されていたもので、隆氏が書き遺し得たのは、全体の構想の三分の一ほどにとどまっている」(注7)とのことである。
 十郎左衛門の時代までが描かれる予定であったならば、大小神祇組を率いる十郎左衛門と激しい確執を演じたとされる町奴幡随院長兵衛についても当然描かれる予定であったはずで、縄田氏も「十郎左衛門や御存じ幡随院長兵衛はどの様にして登場するのか」(注8)と書いている。
 しかし、成貞が棕櫚柄組の頭領を名乗るところで全体の約三分の一に達していることを考えると、十郎左衛門と幡随院長兵衛の確執までを描くには、予定されていた枚数が少な過ぎるように思われる。果たして水野家三代の歴史が描かれる予定だったのであろうか。
 この疑問に答えてくれるのは、連載に先立って『週刊小説』の平成元年(1989)5月2日号に掲載された「作者のことば」(注9)である。以下にその全文を紹介しよう。

「かぶくは本来『傾奇』から来る。奇を好み、時の権力にさからって生きることだ。/男は何故かぶくか。いや、かぶかねばならないか。/幡随院長兵衛殺しで有名な水野十郎左衛門成之の実父・水野出雲守成貞は、自身もまた元和・寛永期を代表するかぶき者であり、旗本奴の祖といわれる男だった。この成貞の数奇な生涯を通じて、この疑問を明らかにしてゆくことが作者の願いである」(注10)
 ここからは、本作品執筆の意図が、「かぶき者の系譜に連なる水野成貞の数奇な生涯を描くこと」にあったことが窺える。執筆者である隆先生自身の言葉であるから、間違いないだろう。
 よって、隆先生は本作品で「成貞の数奇な生涯を書く」予定だったのであり、縄田氏が書いたように「水野家三代の男たちの生きざまを描くことが予定されていた」わけではないと考えられる(注11)。そうすると、全体構成の残り三分の二も成貞に関連した事件が描かれたことになり、物語の構成としてもすっきりするように思う。
 念の為に断わっておくが、上記の文章は縄田氏を貶めようとするものではない。
 本作品の全体構想を推測する手掛かりとしては、隆先生の「作者のことば」、そして縄田氏による「初刊本解説」と「解題」しかないのが現状である。そして、大方の隆慶ファンの目に触れるのは、集英社文庫版に収録された縄田氏の「初刊本解説」のみであろう。このような状況では、縄田氏の発言は当然大きな影響力を持つことになる。
 隆先生が考えていた構想を出来る限り正確な形で知りたいと思うのは、私だけではないだろう。そして、出来る限り正確な形で隆先生の思考を追うことで、本作品の書かれざる部分を推測することも可能となる。このような考えから敢えて記した次第である。

2、水野成貞の生涯

 本作品の行方を推理するに当たって、主人公水野成貞の生涯について確認することにしよう。旗本奴棕櫚柄組の頭領としてのエピソードは措くとして、まずは、主として徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』から成貞に関連する記事を抜き出し、年代順に並べてみた。以下の年表を参照されたい。

表1‐1 『徳川実紀』から辿る水野成貞の生涯

 左の年表を見る限りでは、成貞が致仕してから死去するまでの事蹟は不明であり、物語の行方についても推理することも不可能である。そこで、徳川幕府が寛政年間に編纂を開始した『寛政重修諸家譜』から成貞とその子女に関連する記事を抜き出し、整理してみた(注14)。左下の表を参照されたい。

表1‐2 『寛政重修諸家譜』から辿る水野成貞とその子女


『寛政重修諸家譜』に記された成貞やその子女の事蹟を読み解くことで、『徳川実紀』を読む限りでは平板なものに過ぎなかった成貞の生涯が、徐々に膨らみを持ち始めた。以下、『寛政重修諸家譜』を参照しながら成貞の生涯を組み立ててみよう。
  成貞の生涯で注目すべきは、阿波徳島藩主蜂須賀至鎮(よししげ)の次女を正室に迎えたことである。成貞の結婚については有名なエピソードがある。それは、かぶいた風体で闊歩する成貞の姿を垣間見た蜂須賀家の姫君が成貞に心を奪われ、当主に頼み込んで成貞と結婚したというものであり、旗本奴としての成貞の男振りを称えるエピソードとなっている。隆先生も『死ぬことと見つけたり 上巻』で、「後に阿波徳島の城主蜂須賀阿波守至鎮の姫君に見染められ、押しかけ花嫁同然に輿入れをされたほどの美男だった」(注15)と書いている。その真偽は定かではないが、成貞が蜂須賀家の姫君と結婚したのは事実である。
 ここで、成貞が結婚した時期について検討してみよう。
 まず、上記のエピソードが事実であると考えた場合、正確な年月日は不明ながらも、寛永2年(1625)9月以降、少なくとも致仕した後ということになる。何故なら、家光に小姓として仕えていた時期の成貞が「かぶき者」の風体で江戸市中を闊歩していたとは考えにくいからである。
 次に、成貞の嫡男十郎左衛門が何歳で切腹したかが参考になる。十郎左衛門が切腹した時の年齢は、「35歳説」と「52歳説」がある(注16)。「52歳説」を採用した場合、十郎左衛門は慶長18年(1613)に生まれたことになるが、大塚雅春[1977]によれば成貞の正室が生まれたのは元和元年(1615)としている(注17)から、辻褄が合わない。そこで「35歳説」を採用すると、十郎左衛門は寛永7年(1630)に生まれたことになる。成貞の正室は18歳で十郎左衛門を産んだわけであり、これは不自然ではない。十郎左衛門に関して言えば、寛文4年(1664)に35歳で切腹したと考えるのが妥当であろう。
 さらに、成貞の妻の生年に基づいて検討を加えると、『寛政重修諸家譜』には十郎左衛門の上に姉が2人いて、どちらも蜂須賀家の家臣に嫁いでいることが記されているから、2人の姉の母親は成貞の正室、つまり蜂須賀家の姫君だった女性であると推測される。この推測が正しければ、成貞の正室は遅くとも16歳で第一子(長女)を産んだことになるが、これも不自然ではない。
 以上の検討から、成貞の結婚は寛永4年(1627)頃と推測される。蜂須賀至鎮の姫君は当時15歳という勘定になる。残念ながら成貞の生年が伝わっていないため、結婚当時の成貞の年齢を特定することは不可能である。隆先生は成貞の年齢について、「元和九年五月。成貞二十一歳」(注18)としているが、何に依ったのかは不明である。隆先生の記述が正しいとすると、成貞は慶長8年(1603)生まれとなり、蜂須賀家の姫君と結婚した寛永4年頃は25歳ということになる。成貞が致仕して約2年の後、新郎25歳、新婦15歳の華燭の典であった。
 結婚後の成貞夫婦には、長女、次女、長男が立て続けに生まれていることから、仲睦まじい日々を過ごしたものと思われる。
 それはそれとして、ここで注目すべきは、成貞の3人の娘がいずれも蜂須賀家の家臣に嫁いでいる点である。成貞の娘たちが嫁いだ賀嶋、稲田、山崎という家は、阿波徳島藩において重職を出している家柄ではあるが、旗本水野家に生まれた女子すべてが蜂須賀家の家臣に嫁いでいるとは、かなり特異な結び付きと言えるのではなかろうか。
 また、成貞の死後のことであるが、十郎左衛門が不行跡を咎められて預けられたのも、十郎左衛門切腹の後に弟忠丘が預けられたのも蜂須賀家であり、十郎左衛門の娘が嫁いだのも蜂須賀家の家臣賀嶋隠岐重卿である。この点からも、旗本水野家と蜂須賀家がかなり密接な関係にあったことが窺える。
 このように、『寛政重修諸家譜』を読むことで成貞と蜂須賀家の意外な関係が明らかとなった。いささかくどいようであるが、本節の最後で、成貞の結婚について蜂須賀家の事情から検討してみたい。
 周知のように、蜂須賀家は太閤秀吉取り立ての大名である。阿波徳島藩祖の家政(小六の子)は、秀吉死後の政争の最中、嫡男至鎮の正室に徳川家康の養女(岡崎信康の孫娘)を迎えながらも、関ヶ原合戦に際しては西軍側についた。自身は隠居・剃髪し蓬庵を名乗り、至鎮を家康のもとに送ったことで本領を安堵されたが、徳川家の天下が確定したことで、自家の生き残りを賭けた婚姻政策を展開した。徳川家に近い大名、旗本との婚姻を積極的に行なったのである。
 具体的には、蓬庵の三女が井伊直孝(徳川四天王の一人、井伊直政の次男)に、四女が戸田忠光(徳川譜代)に、至鎮の長女が池田忠雄(家康の外孫)に、次女が水野成貞(家康の母の一族)にそれぞれ嫁ぎ、至鎮の嫡子忠英は小笠原忠真の養女(岡崎信康の曾孫娘)を正室に迎えている(注19)。関ヶ原合戦で旗幟を鮮明にしなかった外様大名の、閨閥によって生き残りを図った実態が伝わって来る。
 ここで、成貞の結婚に話を戻そう。家政が隠居して蓬庵と称した後は、蓬庵の嫡子至鎮が阿波徳島藩主となったが、藩政の実権は蓬庵が握っていたとされている。また、至鎮が元和6年(1620)に35歳で死去し、至鎮の嫡子忠英がわずか10歳で藩主となったことを受けて、蓬庵は幕府から忠英の後見役を命じられている(注20)。よって、前述のように成貞の結婚が寛永4年(1627)頃と仮定すると、この結婚が蓬庵の主導によって行なわれたのはほぼ間違いないと思われる。
 このように考えると、「蜂須賀家の姫君が“かぶいた”風体の成貞に惚れた」という逸話的側面を強調することは、この輿入れの本質を見損なうことになるのではないだろうか。このような“事件”があったと仮定しても、むしろ、姫君の祖父蓬庵がこの“事件”を奇貨として、徳川家と深い血縁関係にある水野家との繋がりを求めたことが、この輿入れの本質であったように思われるのである。
 以上、本作品の主人公水野成貞の生涯について、蜂須賀家の姫君との結婚という一点を切り口にして迫ってみた。その結果、成貞と蜂須賀家の密接な繋がりが明らかとなった。
 なお、隆先生が本作品を執筆するに際して『寛政重修諸家譜』を参照したことはほぼ間違いないと思われる(注21)ので、上記の点については既にご存知だったと考えて良いのではないだろうか。
 これらの事情を踏まえた上で、「かぶき者」水野成貞の数奇な一生を描く予定であった本作品の「物語の行方」を推理してみよう。

3、物語の行方

 これまで多くの論者によって指摘されたことではあるが、隆慶作品には、従来の時代小説には見られなかった大きな特長がいくつかある。
 そのひとつは、縄田氏が本作品を「どんなに手垢のついた題材でも、書き手の才能次第で新たな展開を示すことが出来るという、これは格好のテキストである」(注22)と評したように、時代小説の王道とも言うべき題材を扱いながらも、それを全く別の物語に仕立て上げる手腕である。次々と発表される物語の発想は大胆かつ華麗であるが、その裏には綿密かつ周到な史料の読み込みがあったことは間違いない。
 また、魅力的な主人公の創造も大きな特長であることは言うまでもない。特に、前田慶次郎を描いた『一夢庵風流記』では、自らの行き様を貫き通すことの出来る“漢”を「かぶき者」として捉え、従来は反体制派の一風変わった人物としてのみ扱われていた「かぶき者」に新しい解釈をしてみせた。隆先生が造形した「かぶき者」が、先生自身が理想とした“漢”の姿であったことも、これまた間違いないだろう。
 話を本作品に戻すと、時代設定は隆先生が得意とする江戸時代前期、主人公は隆先生が新しい解釈によって作り上げた「かぶき者」である。しかも、隆先生が主人公に設定した水野成貞の生涯は、今日では断片的にしか伝わっていない。
 これは正に歴史のパスルである。同時に、作家の腕の見せ所でもある。史料の行間を読むことに長けた隆先生のことであるから、史料調査を十分に行なった上で、パズルが完成した姿を想像して悪戯っぽい笑みを浮かべていたに違いない。しかし残念なことに、それは今日伝わっていない。成貞の生涯と同じく、断片的な情報が遺されているのみである。
 本節では、「ここへきて、だんだん隆さんの作品群が、相互に関連を持ち始めていると思う」という縄田氏の問い掛けに対する、「同じ形では出しませんが、同じ時代を書けば、おのずと円環を描くでしょうね」(注23)という隆先生の言葉に励まされつつ、物語の行方について推理してみたい。
 本作品の連載に際して隆先生が寄せた「作者の言葉」を再度確認しよう。「かぶくは本来『傾奇』から来る。奇を好み、時の権力にさからって生きることだ。/男は何故かぶくか。いや、かぶかねばならないか(中略)成貞の数奇な生涯を通じて、この疑問を明らかにしてゆくことが作者の願いである」となっている。

 主人公水野成貞は「かぶき者」として描かれる予定であった。しかし、プロフェッショナルな護衛役に徹したために、主君である家光とその弟忠長の政争に巻き込まれ、大久保彦左衛門の助言を受けて旗本奴棕櫚柄組の頭領となる場面で未完に終わっている。
 つまり、成貞はまだかぶいていないのである。これは重要な点ではないだろうか。物語の中盤で、成貞は果たして、どのような経緯で何に対してかぶいてみせたのであろうか。
 それを推理する材料のひとつが、前説で指摘した成貞と蜂須賀家の繋がりである。
 作品を読む限りでは、棕櫚柄組の結成は寛永2年(1625)に設定され、その時点で未完となっている。成貞の生涯を描く予定であったことから、成貞の結婚についても当然言及されたと思われる。先に検討したように、成貞の結婚は寛永4年(1627)頃と推測される。
 そして歴史年表を繰ると、それから数年を経た寛永7年(1630)、天下を揺るがす一大事件の発端となった事件が備前岡山藩池田家で起こっている。河合又五郎による刃傷事件がそれである。この事件が、後年「鍵屋の辻の決闘」と呼ばれる仇討へと繋がるのは周知の事柄であろう。
 ここまで書くと、熱心な隆慶作品のファンは『かくれさと苦界行』を思い出すだろう。『かくれさと苦界行』では、既に死んだとされていた荒木又右衛門が実は生きており、柳生家の危機を救うために江戸に現れる設定になっている。荒木又右衛門は「鍵屋の辻の決闘」の立役者であり、この一件の経緯については「決闘鍵屋の辻」で詳細に述べられている(注24)。
 そして、そこに注目すべき一文がある。岡山藩主池田忠雄の毒殺に触れた後の、「蜂須賀蓬庵は死んだ池田侯の夫人の父だ」(注25)という下りがそれである。正確には、「蜂須賀蓬庵は死んだ池田侯の夫人の“祖父”」であるが、それはひとまず措く。
 重要なのは、成貞と関わりの深い蜂須賀家の姫君が、「鍵屋の辻の決闘」に関わった池田忠雄にも嫁いでいた点である。より正確に言えば、成貞も池田忠雄も蜂須賀至鎮(蓬庵の嫡男)の娘を正室に迎えていることから、二人は相婿の関係に当たる。
 しかもこの事件は、旗本と大名の間に深刻な対立を引き起こしたのであるが、本作品に登場した大久保彦左衛門は当時存命であったし、成貞はもちろん旗本奴棕櫚柄組の頭領であった。
 『かくれさと苦界行』で不世出の剣豪荒木又右衛門を描き、『寛政重修諸家譜』を読むことで成貞と蜂須賀家の関係について気付いていたと思しき隆先生である。前述したが、「同じ形では出しませんが、同じ時代を書けば、おのずと円環を描くでしょうね」という言葉も遺されている。よって、成貞をこの事件に絡ませる構想を抱いていたと推理するのは、必ずしも的外れではないと考える。
 何と言っても、「鍵屋の辻の決闘」は天下を揺るがした一大事件である。一代の「かぶき者」水野成貞が登場するのにふさわしい舞台ではないだろうか。
 さらに踏み込んだ推理をいくつか書いておこう。
 寛永9年(1632)に池田忠雄が31歳でにわかに死去したのであるが、この件について隆先生は「明かな毒殺だった(中略)幕閣の中の誰がこの事件の下手人であったかは明かでない。旗本側の面目を立てさせようとした老職(後の老中)酒井忠勝だったともいい、逆に旗本側を抑えつけようとした六人衆(後の若年寄)の一人松平伊豆守信綱だったともいう」(注26)としている。ここに登場する松平信綱は、本作品では成貞の元同僚として描かれている。成貞が野に下ったのに対して、幕政の中心に位置して辣腕を振るった。その信綱が“毒殺”という手段で問題解決を図った。相婿の非業の死に成貞は当然怒り、幕閣に不信の念を募らせたであろう。「時の権力にさからって生きる」「かぶき者」成貞は、ここに誕生したのではないだろうか。
 幕閣、特に信綱にかぶいてみせる棕櫚柄組の頭領成貞の姿に、大久保彦左衛門を始めとする旗本連は拍手喝采する。しかし、この事件の発端は下らない男色のもつれである。しかも、河合又五郎親子の生き様が何とも気に入らない。鬱屈する成貞の前に現れたのが、荒木又右衛門ではなかっただろうか。又右衛門との邂逅、そして育まれる友情。『一夢庵風流記』における、慶次郎と直江兼続の素晴らしい関係が想起される。
 しかし、旗本連や棕櫚柄組の面々にはそれが面白くない。成貞の正室が大名連の盟主格の蜂須賀家から来ていることを槍玉に上げて、「女人への情に溺れて、武士たる者の道を誤つは宜しからず。御再考下さい」と面詰し、成貞が「我が身よかるべきとて、科もなき女房に暇くれ申す事は、義理なき事にて候」(注27)とやり返す。こんなやり取りも描かれたかもしれない。
 そして寛永11年(1634)11月7日、「鍵屋の辻の決闘」。おそらく成貞は、『死ぬことと見つけたり 下巻』の「第九話」で杢之助たちが“長崎喧嘩”を見届けたように(注28)、又右衛門が渡辺数馬に見事本懐を遂げさせたのを見届ける役回りとして描かれたのではないだろうか。
 その後、又右衛門は鳥取藩に引き取られる。当時の鳥取藩主は、信綱によって毒殺された池田忠雄の嫡男光仲であった。しかし又右衛門は、鳥取藩に到着してからわずか17日目に死んだことになっている。あまりに唐突な又右衛門の死の謎に迫る展開が描かれたようにも思うし、ひょっとすると、これこそが成貞の一世一代の大かぶきであったかもしれない。そしてこの後、成貞は「もう二度とかぶくことはなかった」(注29)のではないだろうか。
 慶安3年(1650)10月20日、一世の「かぶき者」水野成貞死去。享年48歳。法名は自光院殿前雲州太守雄安賢英大居士(注30)。墓は広島県福山市の賢忠寺にある。

【後書】

 この書評では、水野成貞の人間関係、特に正室の実家との関係を検討することで、ついに書かれなかった「かぶいて候」の今後の展開を推理してみた。成貞を直接取り上げた史料がほとんど見つからなかったためにこのような方法を選択せざるを得なかったのであるが、手前味噌ながら、「当たらずとも遠からず」ではないかという気持ちを抱いている。
 尤も、隆先生の構想が全く遺されていない状況であることは間違いない。「一人のファンの妄想に過ぎない」と批判される向きもあるだろう。しかし、私の推理が何らかの根拠に基づいた内容となっていることで、お許しを頂くことにしたい。
 最後に、隆先生が門下生の松岡せいじ氏に語った言葉(注31)を紹介して、この書評を締め括ることにしよう。珠玉の一言である。
「信頼できる史料が一行でもあればいい。後はその史料を拠り所にして想像力を働かせればいいんだよ。空想の翼を伸ばすんだ。楽しいぞォ」
(2003年4月26日)
※水野成貞について出来る限り調べたつもりですが、私の調べが行き届いていない箇所もあると思います。成貞関連の情報をご存知の方は、是非ともご教示下さいませ。 

【補遺その1】

 先日入手した徳川実紀研究会編[2003]を確認したところ、『徳川実紀』に記載された水野成貞の事蹟に関して、私が取りこぼしていた記載を3箇所発見した。以下に、当該箇所を紹介しておこう。
 まずは、寛永9年(1632)1月に大御所秀忠が死去したことを受けて、翌月26日の項に、幕閣を含めた幕臣が御遺金を賜わった旨の記述がある。その中に、「水野出雲守成貞(中略)は銀百枚」とあった。ついでながら、成貞の元同僚であり、当時は幕閣の中心に位置していた松平信綱は、銀四百枚を下賜されている。
 次に、同年7月には、朝廷から弔意の使者として親王、門跡、公卿らが江戸に下向し、秀忠が葬られた増上寺に参拝しているが、翌月6日に彼等を饗応した際に、成貞が殿上人の給仕を務めた旨の記述がある。「殿上人の給仕は水野出雲守成貞。北條右近大夫氏利等つかふまつる(日記)」というのがそれである。
 最後に、寛永17年(1640)4月に家光が日光東照宮に参詣することを受けて、その前月14日の項に、「水野出雲守成貞(中略)このたび日光山において被服の役命ぜらる(日記)」とある。
 以上3点の記述について検討する必要が生じたのあるが、寛永9年2月に、大御所秀忠の死去に伴って「銀百枚」を下賜された件は、特に問題がないであろう。
 しかし、同年8月に成貞が殿上人の給仕を務めたこと、そして寛永17年4月の日光社参に際して成貞が被服の役を務めたことに関しては、「かぶき者」としての水野成貞が実在したのかどうかについて再検討する必要があるという意味で問題となる。
 何故なら、成貞が旗本棕櫚柄組の頭領として江戸市中を闊歩していたとするならば、幕府の重要な公式行事で役を仰せつかるとは到底考えられないからである。
 国史大辞典編集委員会[1992]には、「成貞も若年のころ『かぶき者』として有名であった」と記載があり(注32)、柴田錬三郎[1989]では、成貞の棕櫚柄組頭領としての傍若無人なエピソードが紹介されている。
 しかし、死去する約10年前の日光社参に際して被服の役を仰せつかっていることから考えると、旗本奴の始祖とされる成貞像は“虚像”ではないのかと思えてくるのである。
 成貞の“実像”がどのようなものであったのか、そして柴田錬三郎[1989]等で紹介された棕櫚柄組頭領としての成貞像が何に依っているのかについては、今後の検討課題としたい。水野成貞の“実像”は、未だ明らかになっていないのである。
 ここで本作品との関連について私見を述べておくと、かぶいていたはずの成貞が幕府の役を務めていた“事実”は、隆先生が抱いていた本作品の構想には決して大きく影響しないと考えている。何故なら、本作品の目的が「男は何故かぶくか。いや、かぶかねばならないか」を明らかにすることにあったからである。この点については贅言を要さない。
 最後に、新訂増補国史大系本『徳川実紀』中に成貞が登場する箇所を、参考までに記しておこう。第2篇の169(出仕)(注33)、329(叙爵)、333(封地下賜)、350(加封)、539(御遺金下賜)、558(殿上人饗応)の各頁、第3篇の176(被物役)、678(死去)の各頁である。
(2003年7月26日)

 【注記】

(注1)縄田一男[1993]、215頁。縄田一男[1996]、641頁。
(注2)縄田一男[1993]、216頁。
(注3)このアイデアは、「白犬を二十匹も飼い馴らして、これを行列させて、登城し」たという成貞のエピソード(柴田錬三郎[1989]、267頁)を参考にしたのかもしれない。
(注4)隆慶一郎[1993b]、126頁。
(注5)隆慶一郎[1994a]、7頁。
(注6)現在は、後継誌として月刊小説誌『J‐novel(ジェイ・ノベル)』が刊行されている。
(注7)縄田一男[1993]、215頁。
(注8)縄田一男[1993]、217頁。
(注9)縄田一男[1996]、640頁。
(注10)縄田一男[1996]、640頁。
(注11)縄田一男[1996]では、「本作は『吉原御免状』でも脇役の一人として登場した水野十郎左衛門の家系を祖父の代から描こうというもの」(641頁)と、言い回しに若干の修正がなされている。
(注12)国史大辞典編集委員会[1992]、326頁。旗本で無役の者を三千石以上とそれ未満で区別し、前者を寄合、後者を小普請と称した。
(注13)国史大辞典編集委員会[1992]、326頁。
(注14)高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編[1964]、49頁。
(注15)隆慶一郎[1994a]、124頁。
(注16)大日本人名辞書刊行会[1974]、2,561頁。
(注17)大塚雅春[1977]、194頁。
(注18)隆慶一郎[1993b]、15頁。
(注19)高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編[1964]、243‐244頁。
(注20)国史大辞典編集委員会[1990]、604頁。
(注21)隆慶一郎[1993b]、98頁。
(注22)縄田一男[1993]、216頁。
(注23)隆慶一郎・縄田一男[1993]、204頁。
(注24)隆慶一郎[1990]、76‐108頁。
(注25)隆慶一郎[1990]、78‐79頁。
(注26)隆慶一郎[1990]、78頁。
(注27)隆慶一郎[1994a]、260‐261頁。
(注28)隆慶一郎[1994b]、98‐99頁。
(注29)隆慶一郎[1991]、552頁。
(注30)水野勝成公報恩会編[1967]、133頁。
(注31)松岡せいじ[1997]、16頁。
(注32)国史大辞典編集委員会[1992]、326頁。
(注33)徳川実紀研究会編[2003]の水野成貞の項には記載なし。記載漏れと思われる。

【参考文献】

  • 池田一朗[1978]『江戸の鷹』桃園書房。
  • 大塚雅春[1977]『小説 敬台院』潮出版社。
  • 河手龍海[1991]『鳥取池田家の殿様』富士書店
  • 国史大辞典編集委員会[1990]『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、603‐604頁(石躍胤央執筆項)。
  • 国史大辞典編集委員会[1992]『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館、326頁(村井益男執筆項)。
  • 柴田錬三郎[1989]「片耳奴」『木乃伊館』講談社文庫、239‐302頁。
  • 進士慶幹[1984]「水野十郎左衛門—江戸の無頼派」『別冊歴史読本31 徳川旗本八万騎総覧』新人物往来社、44‐49頁。
  • 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編[1964]『新訂 寛政重修諸家譜 第6』続群書類従完成会。
  • 徳川実紀研究会編[2003]『徳川実紀索引 人名篇』吉川弘文館。
  • 縄田一男[1993]「初刊本解説」隆慶一郎『かぶいて候』集英社文庫、211‐218頁。
  • 縄田一男[1996]「解題」『隆慶一郎全集 第5巻』新潮社、638‐644頁。
  • 大日本人名辞書刊行会[1974]『大日本人名辞書 第4巻』講談社、2,560‐2,561頁。
  • 松岡せいじ[1997]『隆慶一郎 男の「器量」』コアラブックス。
  • 水野勝成公報恩会編[1967]『物語 水野勝成』福山市文化財協会。
  • 隆慶一郎[1990]『かくれさと苦界行』新潮文庫。
  • 隆慶一郎[1991]『一夢庵風流記』新潮文庫。
  • 隆慶一郎[1993a]「柳生刺客状」『柳生刺客状』講談社文庫、9‐72頁。
  • 隆慶一郎[1993b]「かぶいて候」『かぶいて候』集英社文庫、7‐134頁。
  • 隆慶一郎[1994a]『死ぬことと見つけたり 上巻』新潮文庫。
  • 隆慶一郎[1994b]『死ぬことと見つけたり 下巻』新潮文庫。
  • 隆慶一郎・縄田一男[1993]「対談 日本史逆転再逆転」『かぶいて候』集英社文庫、183‐210頁。

松永誠一郎とは誰であったか

筆者:ぱろっと

 松永誠一郎とは誰なのか。これが私の頭を占めていた疑問であった。後水尾天皇の皇子にして宮本武蔵に育てられた剣の達人、その天稟は敵方の柳生宗冬をも唸らせるほどのものであるが、一方で普段の顔は気品に満ち限りなく優しい。その魅力的な人物設定は隆慶一郎の描く英雄としてふさわしいように思われる。だが一度それが吉原という場に設定される時、筆者の中にある違和感が広がってくるのである。他の多くの隆作品において、主人公の活躍する場は戦場であり国政であった。しかしそうした場に比べると「吉原」は舞台スケールとしてやや小さすぎるように感じられる。それにも関わらず、なぜ隆氏は誠一郎をこの舞台に据えたのか。超人的英雄を必要とするだけの何を「吉原」に感じ、誠一郎に何をさせようとしていたのか。そのことは恐らく隆氏が吉原に対する価値を反転させ、遊女を「洗う」為の「公界」として捉えなおした事と無縁ではあるまい。だがそのことについてはひとまず措く。ここでは処女作『吉原御免状』を松永誠一郎を中心とする一つの英雄神話と捉え、その構造的な把握を試みたい。
 大和岩雄氏は『遊女と天皇』の中で、折口信夫が
「吉原・新町・島原等に於ける遊廓の本格的な遊びをするお客をだいじんと言ふ語で表してゐる。大盡と書いていたが、元は大神と書いたのである。(中略)祭りのとき招かれた神が饗宴を受けるのと同じ形を、客が受けるのである。唯違ふのは、客がその費用を支払うだけである」
と述べているのを引き、
〈あそび男(神・天皇)とあそび女(神妻・遊女)の関係は、遊廓の「だいじん」と「おいらん」の関係であるが、古代の神遊びが江戸時代の遊廓にまで影響していることが、折口の文章からうかがえる。ただし、「ハレ」の日に限定された非日常の「あそび」が、日常化した「あそび」になってはいるが、それは時間だけが日常化したのであって、場所は特定化しており、まだ古代の「ハレ」の儀礼をとどめていた。遊廓の「おいらん」は、大神の依り来るのを待っていたのであり、「だいじん」は客人神である(「神あそび」は、時と場所は特定されるが、相手は特定されない。ところが、「あそび」でない性行為は、特定化された相手と、いつでもどこでも行なう。これが日常なのである)。客人は不特定であり、こうした客人の妻になるという発想は、旅人に妻を貸す習俗を生んでいる。〉
と結論している 。
 隆氏も遊女を元巫女と規定し、『傀儡記』に示されるようにかつては人妻が旅人と契り得たと書いているから、その点では大和氏に近い。とすれば誠一郎の超人的英雄的な力=神性は高尾の客たるがゆえに引き起こされたものなのだろうか。だが、殊誠一郎に限ってみる時、このような解釈には問題が少なくない。第一に誠一郎は他の客一般とは区別されており初めから特別扱いされていた事、第二に彼の神的な力は吉原に来る前から既に備わっていた事、第三に誠一郎が神だとして、彼と添い遂げ彼を斎祀る役は高尾でなくおしゃぶに与えられている事。このような点から、誠一郎の神性を遊女との関係に見ることは出来ない。
 誠一郎の神性を説明する理論として次に考えられるのは、折口信夫の「まれびと」説(先の客人神とも関係するが、ここでは貴種流離譚としての側面を取り上げる)及び和辻哲郎の「苦しむ神、殺される神」と言った捉え方であろう。この2つは尊い者、本来苦しむ筈のない者が追放され、苦しむことの哀しみに於いて共通する。縄田一男氏はこの2つを対立的に捉え、誠一郎は皇子であるが故に神性を持つのではなく、寧ろその冒さざるべき存在が無残に冒され、踏みにじられ、故無き差別を受けたからこそ聖性が宿ったのだとしており、その点では筆者も同意するのであるが、氏の議論を細かく検討すると結局彼が冒されてはならない理由は「天皇の皇子」であると言うその出自に求められている 。しかし、そうだろうか。確かに誠一郎の出自は作中で重要な役割を果たし、幻斎たちが彼を必要とした理由もまさにそこにこそある。しかし、そうした見方については他ならぬ誠一郎自身が拒否していたのではなかったか。
〈この思いに較べれば、天子の子であることなど何事でもなかった。そのために自分が自分でなくなるわけではあるまい。むしろとるに足りぬ些事ではないか。孤独の裡に人となった誠一郎の思考の異様さが、そこにはあった。〉(『吉原御免状』「御免色里」)
〈だが、何か釈然としない。もう一つ、すっきりと胸に来ないものがある。どことなく政争めいた臭いのするところが、不服なのだ。今や崩れんとしている傀儡子の砦のために、剣をとって生命を張ってくれ、というのなら、誠一郎は欣然として馳せ参じた筈である。だが、天子の血筋がどうの、というのでは、納得しがたい。大体血筋とは何だ。天子の一族であることに、何の意味があると言うのか。無意味なものを、さも大事そうに扱い、しかもそれを利用しようという気持ちが、なんとも不潔で、ぎとぎと脂に汚れた感じがする。野生児誠一郎の、生得の潔癖さであった。〉(同「樹々の音」)
上の記述から見る限り、隆氏の書きたかったのは「まれびと」とか「苦しむ神」とかいう類型に収まりきらない英雄神の姿であったように思われる。
 「まれびと」と「苦しむ神」。この両者に欠落しているものは、神を信仰し祀る人たちへの眼差しである。エリアーデによれば神話とはモデルであった。自らの生活や文化を規定し、権威付ける一つの規範として、神は在ったのである。したがって英雄誠一郎を考える時、彼を惣名主として、いわば共同体の神として戴き、且つ護ろうとした吉原の人々についてその関係を見ることが必要ではなかろうか。以下そうした観点から作中での傀儡子族・吉原者の神の変遷について論じたい。
 誠一郎は明暦三(1657)年、旧暦8月14日にはじめて吉原を訪れる。この日は新吉原が誕生し、その営業の初日であった。誠一郎は新吉原にとっての神、吉原者の新しい状況を規定する神として顕現するわけである。ではそれ以前、元吉原における神とは誰であったか。いうまでもなくそれは幻斎であろう。本名庄司甚内(後甚右衛門)、北条家の家臣にして吉原の傀儡子の長であり、元吉原の創設者兼初代惣名主でもある。色の道に通じ、女あしらいの名人として廓中の尊敬を集めるが柳生の攻撃をかわすため正保元年に死んで見せた。まさに元吉原の英雄と言ってよい。誠一郎に劣らぬ剣の達人で、且つ優しさと深い知恵を備えているが、そうした性格だけでなく構造上でも誠一郎と庄司甚右衛門には共通する点が多い。主な点を表にまとめてみよう。

 両者共に、傀儡子女/遊女の死を目撃し、その怒りによって、あるいはその理不尽さへの憤りから、吉原の守護神たる事を決意したと言える。そして神としての彼らには必ず巫女が「神の妻」として付き従う。甚右衛門の場合それはお清であり、誠一郎の場合は甚右衛門の孫おしゃぶであった。この女性二人はいずれも強い超能力を持ち、夫を助ける。甚右衛門に鷹狩の虚報を教え、誠一郎を柳生の爆撃から救ったのがそれである。神の交代に際しては、神官=巫女もまた交代すると言うのが一般的であるが、ここではお清→なべ→おしゃぶといういわば女系相続が行なわれている事に注意したい。このことは母系的な嘗ての遊女の在り方を暗示すると同時に、血縁外の誠一郎を迎え入れる際吉原=信仰共同体の側の同一性を保証するという機能も果たしている。
 さて、先ほど新吉原の誕生とだけ書いておいたのだが、吉原の人々が誠一郎を必要とした背景にはより本質的な意味が隠されているように思われる。神話がモデルであると言う先の説を裏返せば、ある神話が世界を規定しえなくなったとき、人々は新たな神話を作り出すという事になるからである。そしてこの構造が物語中で表現される時には<旧い神の死>→<混沌=荒ぶる神の出現>→<新たな神の定着>という形をとる 。『吉原御免状』に当てはめれば<「庄司甚右衛門」の死>→<柳生の攻撃>→<誠一郎の惣名主就任>となろうか。つまり『吉原御免状』は庄司甚右衛門から誠一郎への交代劇そのものを描いていると言えるのだが、ここではこれ以上踏み込む事はしない。重要なのは吉原者を取り巻くどのような状況に於いて、世界像を揺るがすような変動が起きていたのかということである。端的にいってそれは、柳生の攻撃であっただろう。庄司甚右衛門が吉原を作ろうと決めた時、傀儡子は幕府による差別政策に脅かされつつあった。その象徴として傀儡子女が無残に死んでいくのを見たとき、甚右衛門は幕府に対抗する為の砦=アジールとして吉原を作る。だが彼が出来たのは公界の創設だけだった。「神君御免状」を狙って柳生が送り込まれてくるとき、甚右衛門にはそれを防ぐ事は出来てもやめさせる事は出来なかった。やや飛躍して述べれば、彼は柳生に対して無力だったからこそ神として、惣名主としては死んだのである。つまり正保元年から明暦3年にかけて、いわば「幻斎」時代において吉原者の最大の懸案事項は柳生の攻撃を止めさせることであった。彼らは果てしない闘争に倦んでいた。誠一郎が必要とされた理由はまさにその点にある。
「誠さんは後水尾院の御子だ。天子さまのお血筋だ。その誠さんに、新吉原の惣名主になって貰う。これしか、この果てしない流血沙汰に終止符を打つ道はない。わしら一同、かたくそう信じている。」(『吉原御免状』「三州吉良」)
幻斎が明確にそう述べている。だが、既に述べたように誠一郎はこれを拒否した。にもかかわらず結果として彼は惣名主となり、作品の最後で院に自らの身分を証明させるための旅に出る。と言う事は誠一郎の中で、血筋の利用に対する嫌悪をも超えうる何かが芽生えたと言う事であろう。そして、かくも重大な価値を付与された「何か」こそ隆慶一郎が書きたかったものではなかろうか。
 クライマックス、誠一郎はもう一つの嫌忌を覚えている。自らを果てしない修羅に堕とす事への嫌忌。それは血筋利用の嫌悪をも呑み込む、はるかに大きな嫌忌であろう。しかしそこから逃げ出す事は何かが引きとめていてできないと誠一郎は言う。その「何か」を知りたいと言う焦燥に駆られてあてもなく彷徨う誠一郎は、偶然入った切見世で酒宴を開き、下層の人々の持つ限りない優しさに気付く。その優しさを森の獣たちと同種のものだと観じた彼はいつしか修羅へ落ちる事をよしとしていくのだった。
 (いいじゃないか。修羅へ落ちよう)
 (こんな素晴らしい獣たちのために、喜んで修羅に落ちよう)
それはまさしく贖罪である。キリストのようでいて、しかしキリストのように押し付けがましくはない。筆者は次のような語句に注目したい。
「なぜか裏路地のほうが今の自分にはふさわしいような気がした。」
「ここにいる一人一人が、誠一郎の痛みを知っているのだ。それも、知識としてではなく、肌で心で感じている。(中略)誰もが、幾度も幾度も傷つき、宴の中にもとけこめないような辛い痛みに耐えたことのある人たち。」
 隆氏は、誠一郎の捨身を「慈悲」とか「神性」とかいう上からの言葉で片付ける事を拒否しているのではないか。誠一郎が切見世の人々と同じである事を強調しているのではないか。彼は本来「冒されざる存在」であるが故に尊いのではない。悩み苦しむ姿が人間の結晶、「限りなく優しく美しく、そして悲しいまでに脆い」人間の純化された姿であるからこそ彼は尊いのである。苦しむ神の主題、その背後に神の零落をのみ見ることは出来ない。そこには神の零落に対応する形で、常に民衆の呻きがこだましていた。その呻きは人間の肩書きを取り払い、一人の人間に戻してしまう場所としての吉原、あるいは以後故無き差別を受け続ける事になる人々の寄り集まる場所としての吉原、そのような場に於いてこそ最も効果をあげる事が出来たのではないか。そのことが英雄誠一郎と吉原とを結びつける必然であろう。
 まとめよう。ここに至って誠一郎の「無垢」性は変質を遂げる。初め、誠一郎の聖性を保証するものは「貴種」の血筋であった。読者は誠一郎の無垢さをもその高貴さの表れとして捉え、それが踏みにじられる事への絶望と怒りを新たにする。または我々に吉原の世界を案内する為に仕掛けられた一つの装置に過ぎないと見る。しかし物語の後半、誠一郎自身が血筋を軽視し、一人の人間としてある事を宣言する事でその意味は全く異なった様相を呈する。一人の人間にとって、無垢さとは過ぎ去った原初、即ち子供時代を象徴するものであろう。人が生きるとは、この無垢な聖地を絶え間なく冒されつつそれを受け入れていく事だと考える。現実によるその果てしない侵略と戦い、かつ自分を見失わない事こそが誠一郎の言う「修羅に落ちる」ことであり、生きるという使命感が誠一郎を引き止めていた「何か」であり、ひいては尾張屋の屋根で誠一郎の主張した「汚辱の世だからこそ、我が身一つだけでも濁りに染まず生きるべきだ」という言葉にフィードバックされていくのではなかろうか。生を絶対的に肯定するそのとき、血筋はもはや利用すべき道具でしかなくなった。誠一郎の変心はこのように理解すべきものだと筆者は思う。本作から6年間、自由への戦いと生の素晴らしさを書き続けた作家の、生に対する最初の限りないオマージュがここにあらわされているのではなかろうか。
 蛇足だが、ここで想起されるのはスサノヲが追放され、長雨の中を「辛苦みつつ降りき」というあの場面である。隆氏は生前この場面が好きだと語っていた。小説にしようとしていたという話は聞かないが、もし小説化するならその主題は本作と似た形をとったのではないか。例えば天つ神による支配の拡大、それによって自由を奪われて行く地上の人々(神々)。秩序の押し付けに抗って高天原を追放されたスサノヲは自らの子孫を中心に国つ神を組織して天つ神に対抗しようとした、という風にである。更に妄想を重ねれば、こちらははっきり書きたいといっていたヤマトタケルの物語 についても同じ原理が適用できる。隆氏が一番書きたかったのは水がない辛さにタケルが泣く場面であったという。それこそは当時民衆と分かち合う事のできる悲しみであり、誠一郎と同じ苦しみの表現として適切であるとはいえないか。通常ヤマトタケルノミコトは大和王朝の統一を象徴する英雄であり、景行天皇の遠征伝承はそれに付随して付け加えられたものと見られているが、ひょっとしたら隆氏は得意の発想逆転によってタケルを体制への反逆者に仕立て上げるつもりだったのかもしれない。諸国を回り様々な地方の英雄と戦ううちにタケルは彼らに親近感を覚え、自由が奪われていく事の苦しみを共有し、クマソタケルに貰った「タケル」の名のもとに彼らを組織し、自分に遠征を命じた父景行天皇の支配に反旗を翻す。吉原を「自由の砦」として読み替えた隆氏なら、あるいはそれくらいの離れ業はやってのけたのではないか。
 処女作の連載開始からはや19年。この本はほぼ私と同じ時間を生きてきた事になる。隆慶一郎と同時代を共有する事のかなわなかった無念さを思い、遺された作品群を胸に氏の冥福を祈るばかりである。

<参考>

折口信夫「巫女と遊女と」『折口信夫全集・第17巻』所収、中央公論社、1956
大和岩雄『遊女と天皇』白水社、2001(1993)
『かくれさと苦界行』文庫版解説
桜井好朗『神々の変貌』ちくま学芸文庫、2000
「対談 日本史逆転再逆転」『かぶいて候』所収、集英社文庫、1994(1993)

<後記>

 構想は前々から練っていたが、諸情報を確認する時間がなく、ずるずると引き延ばしにさせてもらっていた。しかしこれ以上放置すると永久に書かなくなりそうなので、未完成を承知で敢えて提出した所存である。したがって多々誤りがあると思うが、諸氏のご指摘とご寛恕を乞いたい。

ネットの中の隆慶一郎

ネットで公開された隆慶一郎関連の文や資料を集成して一覧できるようにしました。各サイトの諒解を得たものから、順次、転載してまいります。

著者論(総論を含む)

遥かなるわが隆慶一郎 

海坂書房学芸員・阿部茂樹

 聞くところによれば、この5月の下旬から7月の上旬にかけて、かの宝塚歌劇団が『野風の笛』を上演する、という。
 いきなり題名だけ突きつけられても読者諸兄姉はピンとこないかもしれない。
 原作は隆慶一郎の『捨て童子松平忠輝』である。
 徳川家康の六男として生まれるも家康に「鬼子」とうとまれ、次兄の秀忠にも嫌われ、大大名としての地位を得ながらも大坂の役後、改易の憂き目にあい、90近くまで生きたその人生の3分の2を配流、蟄居というかたちで終えた松平忠輝を、隆慶一郎は単なる悲劇の主人公としてではなく、武芸に秀で、語学、医術にも通じた大名としては型破りなひとりの異能者として活写し、忠輝の姿を通して人間の人間であることの素晴らしさと哀しみをも描いてみせた、まさに男泣きの伝奇時代小説である(ちなみに筆者は初めて『捨て童子松平忠輝』を読んだとき、思い切り泣いてしまった)。
 隆慶一郎は生前、同じく『野風の笛』の題で2時間枠のテレビドラマ用の脚本を書いている。筆者の記憶が正しければ、その時代劇で松平忠輝を演じたのは松平健で、これほどに男くさい物語を、宝塚で上演するというのだから正直驚いてしまった。
 ヅカファンの方々に怒られるのを承知で、どうかあまり派手派手しい突飛な劇とならずに公演がうまくゆくことを祈る。
 それはさておき、隆慶一郎の人気はいまだ衰えることを知らぬらしい。

 筆者の行きつけの大型書店の文庫のコーナーではいつ訪れても隆慶一郎の本が平積み扱いだし、いつだったか電車の中で女子高生が熱心に『死ぬことと見つけたり』を読んでいたし、うら若い女性が隆の文庫本をごっそり買っている光景も目にしたし、過日は図書館で筆者が隆慶一郎全集に納められている『夜叉神の翁』や『吉野悲傷』を読んでいたら、隣の席にいた青年が『一夢庵風流記』を熱心に読んでいるという偶然にしては出来すぎな事態に見舞われたことがある。
 さらに付け加えれば、筆者の仲間内で隆の時代小説を読んで、つまらなかったと言う者はひとりとしていない。
 時代小説初心者のO君は『一夢庵風流記』や『影武者徳川家康』のとりこになり、学校の勉強はろくにしなかったS君は隆の小説を語るときは目をきらきら輝かせて『柳生非情剣』について熱く語ってくれ、職場の先輩であったYさんは『鬼麿斬人剣』をべた褒めし、学生時代お世話になったO先生は『吉原御免状』や『花と火の帝』を高く評価し、今も交流のあるO先輩と仲良くなったのはやはり隆の時代小説について話をしたことがきっかけであったし、友人のSは『吉原御免状』の松永誠一郎と水野十郎左衛門が吉原の遊郭の屋根の上で語らう場面を、心の拠りどころととしている時期があった。
 隆慶一郎の時代小説を読むものは、まさに『隆慶一郎』という事件の渦にたちまちはまる、と言っても過言ではないだろう。
 かくいう筆者も、いまだ、例えば『影武者徳川家康』の島左近の豪放磊落さにしびれ、『一夢庵風流記』の前田慶次郎の風姿を忘れたくなくて一年に一回は読み返し、『花と火の帝』の後水尾天皇と天皇の隠密・岩介との主従の垣根を越えたつながりかたに羨望やまず、『かくれさと苦界行』の庄司幻斎と荒木又右衛門との殺陣はやはり屈指の名場面だと思うのである。
 「男惚れ」
などというのはいささか気恥ずかしいが、それでも隆慶一郎に対する思いを一言で言うならば、やはり、
 「男惚れ」
しか思い浮かばない。
 それにしても、なぜ隆慶一郎の描く世界はかくも読者を魅了してやまぬのだろうか。
 魅力あふれる登場人物たち、幅と厚みがある物語、力強い殺陣の場面、心の琴線を震わすセリフ……。
 小説はまず面白くなければならない、というならば、隆慶一郎の作品はそのハードルを充分すぎるほどにクリアしている。
 そこにさらに付け加えるならば、それは壮大で波乱に富んだ物語の根底に漂う無常観ではないだろうか。
 無常観……。盛者必衰の『平家物語』を引き合いに出さずとも、突き詰めれば、人の世はいつも、おもしろくともやがて哀しくなってくる……。
 例えば、『影武者徳川家康』では、家康の影武者・世良田二郎三郎が駿府の地に漂白民たちのユートピアともいえる公界(くがい)を創ろうとしつつも、二代将軍秀忠の度重なる妨害で、それははかなく頓挫する。
 『捨て童子松平忠輝』では、やはり秀忠の魔手から忠輝を守るため、家康と伊達政宗が忠輝を遣欧使節に仕立てイスパニアへの派遣を画策するが、家臣たちを路頭に迷わせ自分ひとりの身の安泰を得るわけにはゆかぬと忠輝はその計画から身を引き、しかし大坂の役の折、少年時代の豊臣秀頼との「不戦」の約束を守ったがために忠輝は自らを不利な立場に追い込み、結局は改易・配流の憂き目を見る。
 『花と火の帝』では、幕府のあの手この手の横暴に屈せず暗躍暗闘を繰り返してきた後水尾天皇と岩介ら天皇の隠密の奮戦むなしく、朝廷は幕府に屈することになり(もっともこれは幕府の有する「武」の力に対し、帝の有する「文化」の力で拮抗し、表面上の屈服であると受け取れるのだが)、それだけにとどまらず、皇子暗殺という悲劇の展開を控えながら、隆の急逝で物語自体が未完となった点でも、無常ということを感じさせてやまない。
 さらにうがった見方が許されるならば、隆が『一夢庵風流記』で前田慶次郎を評したひとつの言葉、「明るさの底に、厳しい悲しさが漂っている」。「厳しい悲しさ」を、「無常観」と置き換えてもいい。そしてこの一言こそが、隆の描いた世界を、ひいては隆慶一郎という作家の風姿を如実に表してはいないだろうか。
 『吉原御免状』の終盤、庄司幻斎は、柳生義仙との闘いにおいて遊女・勝山を無残に死なせてしまい、悔恨の念にさいなまれていた松永誠一郎に語りかける。
 我ら傀儡子(くぐつ)は悲しい時、つらい時に踊るんだ。悲しさは、静かな場所より賑やかな場所に似合うんだ、と。
 どん底にあった誠一郎はこの一言と、吉原あげての大騒ぎに吹っ切れ、再生を、いや修羅として生きる新生をさらりと決意する。
 哀しみをはらみながらも、なんと人の世は美しく素晴らしいことか、と思う。
 人の世は哀しい……。その思いを胸の奥底に宿しつつ、だからこそ、人は生きてゆくべきなのだと、最近、静にそう思う。
 隆慶一郎の本を読み返すたびに、そう思えるのである。
 そしてそして、こうも思う。こういうおもしろい本を読めるのなら、この世も決して悪い場所ではない。

(了)

海坂書房時代小説倶楽部 刻の小径(11) 平成十五年四月 
http://plaza14.mbn.or.jp/~unasaka/index.html より転載

隆慶一郎

By ひろさん

隆慶一郎はかなり年齢をとってから作家に転じた人だという。
ひろさんは、隆慶一郎の、荒唐無稽な時代小説ながら(と言って伝奇物ではない)、発想が自由奔放で、底抜けに明るい人物描写が好きで、人によく勧める。
また、病気や入院のお見舞いに、この人の本を差し入れる。
一度、ガンの手術をした友人に、「死ぬことと見つけたり」を贈ってしまった。 友人はどう受け止めたか聞きそびれたが、「死」ぬ本を贈ってヒヤッとしたものだ。その友人はまだピンピンしているので時効にしてくれるかも知れない。

隆慶一郎の描くテーマはいくつかあるが、
(1) 道々の輩(漂泊のひとびと=自由の民)への関心の深さ
(道々の輩とは例えば、傀儡子、幻術師、山伏、忍者の他、海民・山民、職人、 勝負師、公界僧らの自由人)
(2) 専制君主の公界(自由都市)いじめへの嫌悪
(3) 家康替え玉説
(4) 秀忠嫌い、忠輝好き
(5) 柳生嫌い
等が特徴的だ。
また、おおらかなセックス描写も各作品に共通の特徴だ。
ともかく、自由な発想の時代小説で、一冊でも読めば、そのままはまってしまう。
隆慶一郎の文庫本は、いろいろな書店にまたがって出版されているので なかなかそろわない。ひろさんは読むそばから人に勧め、人に上げてしまうので、この文を纏めるのに苦労したが、また買いそろえても良いとさえ思っている。

HP「ひろさんの旅枕」旅先で読む本 隆慶一郎より
http://www5.airnet.ne.jp/hiromi/index.html より転載

前田慶次の友になる方法

ByMarchy

『隆慶一郎(りゅう けいいちろう)読本』 別冊歴史読本 作家シリーズ(4)

 隆慶一郎さんの作品に登場する人物のなかで、こと“脇役”という存在で僕がいちばん好きなのは、結城秀康だ。ただし作品によって色んな結城秀康がいるので、『一夢庵風流記』の、と断っておく。
 前田慶次郎利益(ここでいう前田慶次は、もちろん『一夢庵風流記』の主人公のこと)の友となるには、条件が要る。一芸に秀でていることだ。
 この一芸というのが、並大抵でない。それは慶次の友として描かれる人物たちを見てみるとよく判る。奥村助右衛門は、全身どこを切っても正義という態度で前田藩の重職を務めている。
 山上道及は数多の激烈な戦闘をくぐり抜けてきた真性のいくさ人だし、直江兼続に至ってはいうまでもない。一見主従の関係に見える捨丸や金悟洞さえも、実は忍びや刺客としての腕を認められて、側にいることを許されているように見える。
 ところが、結城秀康にはなにもない。たしかに馬場で馬を並べかけてきた小姓を一刀の下に斬り捨てたという精悍さは認められる。極端な気の強さも、戦国時代の若者であれば逆に評価されるところだろう。
 が、政治の中枢に身を置きながら清廉さを保ち続ける奥村助右衛門、幾多の修羅場を経験してきた山上道及、豊臣秀吉や徳川家康と同じ土俵で堂々と渡り合ってきた直江兼続らと比べれば、その肝は小さいといわざるを得ない。
 秀康にあるものといえば、徳川家康の実子で豊臣秀吉の猶子となり、さらには下総の名門結城家の養子となった身分、くらいのものだ。ところがこういう“一芸”を慶次は嫌う。事実、初対面の際に「わしは結城秀康だ」と威張る秀康を、慶次は完膚なきまでに叩きのめしてしまう。
 ところが、この無様な敗北が、秀康に慶次の友となる条件として最後の“一芸”を気付かせるという、皮肉な、彼にとっては幸運な結果を生んだ。
 花見をしている慶次の許へ、秀康は赴く。さっきは済まないともなにもいわず、ただ招かれて隣に座る。酌をされて酒を飲み、慶次に酌をし、返杯されてまた飲む。そして、ただ、にこりと笑い合う。秀康は思う。
<我、終生の友を得たり>
 全身全霊を込めて相手に惚れ、嘘偽り打算なしに相手と接する。これが、“ただの男”が前田慶次の友になる唯一の方法。秀康はその道を僕ら“ただの男”に教えてくれる。
 こと慶次と秀康との交情の場面に限っていえば、僕は『一夢庵風流記』よりも原哲夫さんの作画による『花の慶次』のほうが好きだ。原さんが結城秀康というキャラに、たぶん僕と同じ理由で惚れているのが、垣間見えるからである。
 思えば『捨て童子・松平忠輝』の主人公松平忠輝も、「自分より劣る者」に容赦はしない。剣や槍の師範を、逆に叩きのめす。しかし奥山休賀斎やましらの才蔵のように、一旦相手の力量を認めると、やはり終生の師とし、友となる。
 だが、豊臣秀頼が心底打算なしに忠輝に惚れ、義兄弟の契りを結ぼうというと、これを拒むことをしない。そのため後に自分自身が窮地に陥っても、それを覆すことはしない。この手の男は、決して男の誠心誠意を裏切らないものだ。
 ただし、慶次や忠輝は自分では謀略を嫌うくせに、その臭いには鋭い。もし損得勘定で彼らに近づけば、そのときは一生口もきいて貰えなくなるどころか、斬り殺されても文句はいえないだろう。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 さて、『隆慶一郎読本』であります。生前の隆さんは、本人描くところの前田慶次や松平忠輝そっくりなひとだったんじゃないかと思います。素の信頼をもって、ようやく受け入れてくれるひと。でも、一旦受け入れてもらえれば、大切にしてくれるひと。
 この本で生前の隆さんについて悪く書いているひとは、ひとりもいません。すでに故人であるという一点を差し措いても、個々の文章にはその真情が溢れています。僕が特に感銘を受けたのは、こんな部分。
 苗字が偶然隆さんの本名と同じだったため、飲みにいくたび冗談で「甥です」といっていた担当編集者がいました。実際隆さんはまるで本当の甥のように、彼を大切に扱ってくれました。
 食事に誘われても酒場に誘われても、呼ばれているのは彼ばかり。そして酒場をなん軒回ろうと合流 してくる者はおらず、最後までふたりきり。これでかわいがられていないと思わなかったら嘘でしょう。
 ところが隆さんが亡くなられた後、各社の担当編集者や隆さんのシナリオ教室の教え子たち、そのほとんどが彼とは初対面だったのですが、と一緒に「偲ぶ会」をもったところ、
> 自己紹介が進むにつれて、私は落ち着かなくなった。
> 伜どころか、娘だ、姪だ、近習だと、
> 胸を張る連中ばかりなのだ。
> そして、異口同音に、飲む時食う時、
> 隆さんはいつも僕と、私と、徹底的につきあってくれた、
> 僕を、私を、隆さんはとことん愛してくれたと、
> 涙声で言うのである。
> そうか、そうだったのか・・・。
> 隆さんは、少なくともこの三十人の全員と、
> 会う時は必ず一対一で会い続けていたのである。
 これを読んで、僕も涙しそうになりました。なんて素晴らしいひとだろう。本人にはまったく気付かせずに、隆さんは多くの人間に「自分が一番大切にされている」と思い込ませていたのです。
 そして、逆にいえば、それだけ多くのひとびとが、誠心誠意打算抜きで隆さんの人柄に惚れていた、ということになるのでしょう。自分に惚れていない人間に、そこまでする義理はありません。
『隆慶一郎読本』は、基本的には隆さんの作品の解説やその背景についての文章が大半を占めています。が、僕はこの本を読むことで、隆慶一郎という人間自体の魅力を感じました。
 僕は今までずっと、「阿佐田哲也さんと麻雀を打ってみたかったなあ」と思っていたのですが、いまは「隆慶一郎さんと酒を飲んでみたかったなあ」という想いでいっぱいです。その前に、隆さんに人間として認められてなかったかもしれませんが。

註:花の慶次
『一夢庵風流記』を原作にしたコミック。少年ジャンプコミックス。最近文庫版も発行されています。ある意味、これはもうひとつの『隆慶一郎読本』です。『一夢庵風流記』だけでなく、『見知らぬ海へ』、『花と火の帝』、『鬼麿斬人剣』など隆さんの他の作品をベースにしたキャラクター、エピソードなどが豊富に使われています。特に未刊に終わった『花と火の帝』のひとつの結末をオリジナルで作り出している(最近再読して判ったのですが)のは嬉しかったです。
註:酒を飲んでみたかった
僕は前出のコミック『花の慶次』から原作の『一夢庵風流記』に走って隆さんの小説の面白さに目覚め、それから文庫本を次々に購入していったクチです。当然、最初に隆さんの文章に触れたときには既にご本人は亡くなられていました。ところが、これは『隆慶一郎読本』を読んではじめて知ったのですが、隆さんは死の直前に基督教の洗礼を受けられていました。もちろん葬儀(ミサ及び本葬)は教会で行われました。それが・・・。実は、僕が当時通っていた大学の敷地内にある教会だったんです(教会側からみれば、「うちの敷地内に大学がある」というかもしれない)。だから、もしかすると、僕は隆さんの遺体が運ばれるのを、煙草を吸いながら校舎の窓からぼーっと見ていたかもしれないんですね。・・・いや、だからどうだといわれても困りますけど。完全に“想い入れ”ってヤツです(^^;。 

著者別蔵書数(文庫本のみ)
隆 慶一郎さん・・・21冊
出版されている文庫は全部所有している筈ですし、そのほとんどを5回以上読み返しています。実働五年間の執筆生活でこれだけの作品を遺したのは偉大だと思いますが、もっとはやく作家活動を開始されていたら、と残念にも感じます。

独断と偏見の個人的ベスト10
第2位『捨て童子・松平忠輝』 隆慶一郎(講談社文庫、全三巻)
隆さんの作品はみんな好きなんだけど、最初に読んだときに主人公の最終的な年齢が自分と同じだったので、シンパシィを感じた。 “忠輝のその後”を描かずに逝かれた隆さんがうらめしい。 ついでに『死ぬことと見つけたり』も、あんな中途半端で。 あああああ。

HP「Marchy's Fieldwork」酔書日常他 より
http://moon.endless.ne.jp/users/marchy/home/home.html より転載  

死人跳梁 隆慶一郎ワールド裏の裏

by HON

 平成元年七月二十日の日付がある隆慶一郎のエッセイ集『時代小説の愉しみ』の「あとがき」の冒頭に、どうして時代小説ばかり書くのかという問いに、「死人の方が、生きている人間より確かだから」と、きまって答えると書いている。
 それは「歴史」一般にも言えることで、その言葉だけ受取れば小説としても何の新味もない。かつて司馬遼太郎も、一生を終えた歴史上の人物なら全体を俯瞰できるから、といった主旨のことを言っていたと記憶するが、隆慶一郎の時代小説を一冊でも読んで、登場人物の歴史性を知っている人なら、その「死人」の意味が単に過去の「歴史上の人物」を意味する訳ではないことに気づくはずである。
 隆慶一郎のいう「死人」とは、そこに描かれて展開する時代のそのまた過去から蘇って活躍する「死人」たちである。つまり、死んだはずの人間が実は生きていた、という伝奇的設定によって登場する「死人」たちのことである。
 もっとも、こういう設定は特に伝奇的な時代小説には珍しいものではないかもしれない。例えば山田風太郎の『魔界転生』は映画化もされて評判になったが、既に死んだはずの天草四郎や宮本武蔵が蘇って活躍する風太郎独特の伝奇時代小説であった。だが、隆慶一郎の小説に登場する「死人」たちは、趣向として「死人」が呼び出される訳ではない。
 隆慶一郎の「死人」は、かつてのその死が、どこか不審を抱かせるような死に方をした人物が多いのが特徴である。つまり、蘇りの可能性も無きにしも有らず、といった歴史性を踏まえて呼び出されているから、伝奇時代小説に有りがちな荒唐無稽さを免れており、読む者を安心して先へ進ませてくれるのである。

●そのデビュー作である『吉原御免状』の主人公、松永誠一郎とは実は後水尾天皇の第一皇子賀茂宮であったが、五歳で逝ったと記録される。ところが賀茂宮は皇位継承の資格を持つことから、徳川二代将軍秀忠の娘和子入内にあたり、暗殺されたのではないかといわれる。
 五味康祐はその未完の長編『柳生武芸長』の物語が生まれる発端として、賀茂宮は徳川の娘が産んだ子とし、徳川の血が皇室に入ることを忌んで暗殺させたとし、その秘密を記録した武芸帳をめぐって血を血で洗う果てしない争奪戦を展開させた。主人公の霞の忍者兄弟は、大儀も目的もなく、唯ただ強敵を次々に斬り倒して行く。
 しかし、実は賀茂宮は宮本武蔵に危機一髪で救出されて肥後の山中に育てられ、剣士松永誠一郎として蘇ったという設定から隆慶一郎の物語は始まる。死の淵から蘇った者は、いづれにせよその死にまつわる悲惨を背負わざるを得ない。だが、誠一郎は育ての親の武蔵の計らいで、まるでその悲惨さを知らぬ気に、爽やかに登場する。
 松永誠一郎の現れた場所、それが江戸浅草は華の吉原であった。武蔵の遺した遺言一つが誠一郎と吉原を結びつけ、抜きさしならない関係へと発展する。それは死んだ武蔵の意志、死者の意志によっ生きらさせれていることを、誠一郎をして自覚させていくことになる。

●華の吉原、そこはかつて「道々の輩」だった傀儡子(くぐつ)たちが定着して、表向きは遊女を売る遊里だが、実は「要塞吉原」であった。吉原の主で創始者の庄司甚右衛門は既に死んだはずだが、これもまた唐剣の使い手幻斎として生き延びていた。吉原を要塞と化し、忍者ばりの首代たちを用心棒として守備している。そこは幕府の統治から免れた治外法権地帯、自治区域とされる。
 この要塞吉原の特権を許したのが、幕府創始者の徳川家康であり、その許可書である「神君御免状」を幻斎が所持していることから、それを取り返そうと裏柳生の剣が次々に要塞吉原に襲い来る。しかし何も知らない誠一郎は襲撃者たちを無心に斬り捨て、次第に要塞吉原へ関わり深くなっていった。
 誠一郎が「神君御免状」とは何なのかと幻斎に問うと、吉原の仲間に入らなければ教えないとばかり、花魁高尾太夫によって誠一郎は男にされ、そして吉原惣名主を継ぐことを頼まれてしまう。

●松永誠一郎に「神君御免状」の秘密を教えるのは、死の国熊野からやって来た八百比丘尼、人魚を食べて八百歳を生きるという、これも死人同様ではあるが艶な巫女である。
 徳川家康は何故、吉原に治外法権という特権を与えたのか。家康は吉原の傀儡子たちを「我同朋」と記した、それが「神君御免状」の秘密文書たることの全てだった。
 徳川家の先祖が流れ者、「道々の輩」ではなかったかということは、既に村岡素一郎の『史疑徳川家康事蹟』があり、その素一郎を小説化した南條範夫の『三百年のベール』がある。隆慶一郎の家康はそれらを踏まえてさらに一歩進め、徳川家康は関が原戦以降は「影武者」であったする。傀儡子たちの「我同朋」徳川家康は影武者であったというところに、歴史的に無理のない設定を見出したのである。もっとも、家康影武者説と道々の輩出身説といえども、既に八切止夫によって精力的に主張されてきたものでもある。
 こうした類似の先行作品の数々があるにもかかわらず、隆慶一郎のそれは死んだはずの家康もまた影武者として蘇ったという、隆慶一郎ワールドの要の位置に据えたことにある。作家の処女作はその後の作品群の行方を決めるということはよく指摘されるが、隆慶一郎は後に『影武者徳川家康』によって、家康の影武者になった「道々の輩」世良田二郎三郎を主人公に、本物の家康の子の二代将軍秀忠との暗闘を描いてみせた。
 世良田二郎三郎を家康の影武者に推挙したのは、その貌が家康に似ていることを発見した天海僧正であったが、これもまた死んだはずの明智光秀の世を忍んで蘇った姿だった。そして十年間、二郎三郎は家康の影となって付き従い、その癖や好み、政治的判断の仕方まで学ばされ、関が原戦で家康が倒れると、すかさず入れ替わったというのである。

●隆慶一郎ワールドを覆うばかりの死人の山、死人の跳梁は何処から来て、何処へ行こうとしているのか。
 隆慶一郎フアンなら直ぐに『死ぬことと見つけたり』の元になった山本常朝の武士の修身書『葉隠聞書』を挙げるかもしれない。なにしろ戦争体験のある隆慶一郎が、戦地へ隠し持って行って「死は必定と思われた」とその体験を語っているくらいであり、しかもその物語の主人公二人は、のべつ死について語り、死に場所を探しているような生き方の物語なのだから。
 しかし『葉隠聞書』からは傀儡子など「道々の輩」へ繋がるものは出てこない。家康の影武者世良田二郎三郎の前身は、デビュー作の『吉原御免状』ではあまり詳しくは語られなかった。それが『影武者徳川家康』にいたって、一向一揆の同調者として各地を転戦した鉄砲の名人ということが明らかにされた。
 つまり、一向一揆研究に一生ささげて名著『一向一揆研究の研究』を著した井上鋭夫のいう「渡り」である。世良田二郎三郎そのものが影武者になる以前、道々の輩「渡り」として描いたのである。
 隆慶一郎没後に出版されたエッセイ集『時代小説の愉しみ』のなかには、「ワタリ」や「叡山焼亡」のなかで井上鋭夫と「渡り」について触れている。そして、一向一揆とは一揆の拠点たる「寺内町」を死守するために立ち上がったことを、隆慶一郎が正確に捉えている。
 白土三平は抜忍『ワタリ』によって百姓一揆を劇画にした。隆慶一郎による「ワタリ」は傀儡子に生まれ替わった。そして、傀儡子たちが表向きは遊女を売る遊里、要塞吉原とは水路で囲まれて自治を誇ったかつての要塞「寺内町」の再現に他ならなかったのだ。

●隆慶一郎ワールドに登場する死人たちが何処かへ行着く場所、行こうとした場所の全ては「寺内町」の変奏である。未完に終った『死ぬことと見つけたり』の主人公の目指したものは、遺されたシノプシスによって「補蛇落渡海」であったことが判る。つまりはユートピアであり千年王国である。要塞吉原もまた「道々の輩」のユートピアを死守しようとする物語である。
 問題は、それが何故、松永誠一郎という天皇の皇子を惣名主に迎えて死守されねばならないのか、という点にある。『鬼麿斬人剣』の主人公鬼麿がたどり着いた「かやの里」は、幕府権力の統制の埒外にある桃源境として描かれたが、これも朝廷につながりある地とされる。
 隆慶一郎ワールドにおける数多の「道々の輩」たちの根拠は、紛れもなく天皇に根拠を置くことによって成り立っている。
 「道々の輩」と天皇の関係をストレートに設定されたものに、『吉原御免状』の主人公、松永誠一郎の父にあたる後水尾天皇とそこに仕える天皇の忍者とされた洛北八背の八背童子を描いた『花と火の帝』がある。天皇の忍者という設定は、既に半村良の『産土山秘録』において比叡山を根城とする「勅忍」があった。
 半村良における天皇観は屈折しているということは、既に何人も指摘されている。簡単にいってしまえば、勅忍は天皇のために命を賭けて働いたにも関わらず、最期に裏切られてしまうという、屈折の仕方にある。
 しかし隆慶一郎ワールドには、そんな屈折は微塵もないといえる。幕府権力を転覆させるには、天皇といえども「玉」として利用するという幕末の薩長勢力の醒めた意識もうかがえないのである。それは幕府権力の陰険さに比して、どこまでも無垢な存在として措定されている。
 隆慶一郎ワールドは中世史学の最先端を取り入れていることは、いろいろと指摘されている。しかし、例えば網野史学に先立って措定された半村良が『産土山秘録』の「勅忍」は「日」であると同時に「非」であり「卑」でもある、と設定したとき、その天皇観は「稲の王」・「里の王」としてだけでなく、「山の王」すなわち「賎民の王」・「流民の王」であった。中世史学の最先端は半村良の小説に十年遅れて、それを学問的になぞったのである。

●半村良の小説に『嘘部シリーズ』がある。ケチな嘘でなく、国家を動かしかねない巨大な嘘をでっち上げ、その嘘を世間に撒き散らす嘘部は、まるで小説家そのもの、とりわけ伝奇小説の作者とは嘘部に他ならないというアイロニーがある。その嘘部が半村良の伝奇小説の中で存在の根拠が与えられるのは、これまた「天皇の嘘部」だから、ということになつていた。ここでも天皇は「伝奇」という「奇」なる者の根拠とされたのである。
 隆慶一郎ワールドの中にアイロニーを探すとすれば、それが「死人」であることによるだろう。既に死んだはずの者が蘇って跳梁する、その死人に他ならない。史学者からも指摘されていることだが、隆慶一郎ワールドにおける「道々の輩」たちが死守しようとするユートピアは、少し時代がずれている。せいぜい中世前期、鎌倉時代までに可能だったユートピアに過ぎない。それを江戸時代初期に設定しようとすれば、無理が重なる。その無理を承知で押し通そうとすれば、そこで跳梁するのは「死人」でしかないということになる。
 時代がずれているという意味では、「要塞吉原」もまた同じことである。史実における「道々の輩」の要塞とは、かつて家康の影武者世良田二郎三郎が同調者として応援した一向一揆の拠点になった「寺内町」にほかならない。一向一揆の寺内町なら、隆慶一郎ワールドに強調されるように、道々の輩に「上なし」、つまり支配者のいない要塞であった。だからこそ、戦国を統一しようとした信長によって「寺内町」は壊滅されたのである。
 華の吉原といえども幕府の支配下にあったなどと野暮はいわないまでも、そこは同じ「道々の輩」たる穢多頭浅草弾左衛門の支配下にあったことは、紛れもない史実である。同じ浅草にいる弾左衛門にまったく触れずに「要塞吉原」を死守しようとする設定は、だから時代がずれた「死人」の溜まり場でしかないことになる。
 そして、この様な虚構の空間を成り立たせるために、半村良の小説と同様、「天皇の道々の輩」という虚構をでっち上げねばならなかったのが隆慶一郎ワールドである。「道々の輩」が存在したとすれば、それは「天皇制」という所詮は特定の歴史的存在以前から有り得たはずである。正しく「奇」なる者は天皇制以前に遡って存在したのだ。「伝奇」が成立し得るとすれば、それはこの「奇」総体を「天皇制」と切り離して、如何に措定できるか、ということにしかないのではないか。

HP「坂東千年王国」より
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/index.htm より転載











池田一朗シナリオ・その他作品論
池田一朗の映画脚本・テレビシナリオ・その他の著作などに関する論考。

花くれないの自由寮

池田一朗「花くれないの自由寮—吉田山の青春—」

隆先生自身が綴った三校時代の思い出

筆者:瓢水
※以下の文章は、隆先生が本名の池田一朗名義で発表した自伝的小説、「花くれないの自由寮」を紹介したものです。かなり以前に書いたため文体が異なっていますし、書き改めたい点もありますが、時間の制約上、一部を訂正するに留めました。読みにくい点があればご容赦下さい。

 表題の文献からの引用箇所については特に注記を付していませんが、紹介文献以外の文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記しています。
(2004年11月4日、隆先生の十六回忌に捧ぐ)

【本編】

 隆先生が、旧制三高時代の寮生活の思い出を綴った自伝的小説。高村暢児(たかむら・ちょうじ)『ああ黎明は近づけり 日本寮歌物語』(昭和44年2月、潮出版社)に収録されている。5‐64頁。

 “池田一朗”は隆先生の本名。本作は隆先生が書かれた最初の小説と思われる。また、後年の「作家・隆慶一郎」の文体が既に確立しているように見受けられる点も興味深い。
 「本書は、旧制の第一高等学校、第三高等学校、北大予科、大阪高等学校に取材して、それぞれを、小幡欣治、池田一郎(ママ)、高村暢児、石濱恒夫が執筆した。みな旧制高等学校に寮生活を送った作家達であり、多くが自己の体験と記憶とに基づいたものである」(高村暢児「あとがき」より)

 物語は、若き日の隆先生が、旧制三高の自由寮に入るところから始まる。自由は三高の伝統であり、自由寮は、その運営自体が完全に学生に委ねられた自治寮であった。当時の自由寮の雰囲気を伝える記述を引用しよう。
 「寮生は、先輩もすべて呼び捨てにすべし、と厳重にいわれていた。そうすることによって、先輩も後輩も、まったく同じ次元から、対等の資格で、議論をすることが可能であり、喧嘩をすることも、可能である。敬意とは、その人格識見に対して払わるものであって、徒らな序列の中には存在しない。それが、自由寮の掟だった」
 ちなみに、隆先生はこの考え方を終生持ち続けたらしく、羽生真名『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』には、「シナリオ教室の自分より二回り以上年下の学生に対しても、またずっと年上の作家に対しても、同じ姿勢で接した。そのため、年配の方々からは非常識ととられることもあったようだ」(注1)と記されている。
 さて、自由寮に入った隆先生は、食堂で開かれた歓迎コンパや歓迎ストームの洗礼を受け、講義を休むことを覚え、寮生と共に哲学的な命題について議論するのであるが、ある日、「自由の恐ろしさ」を口にする哲学的な風貌を持つ志摩利広と出会う。
 三高時代の隆先生がアルチュール・ランボオ『地獄の季節』に心酔していたことは、『死ぬことと見つけたり』の冒頭などでよく知られているが、本作では、隆先生と『地獄の季節』の出会いが、志摩に仮託して描かれている。
 「ランボオって奴はね、十六の年から詩を書き始めて、十九でペンを折っちまったんだ」
 「そのあとは?」
 「誰も知人のいない、アルジェリアへいって、隊商みたいなことをしてたらしい」
 「………!」
 「凄まじい自由人だと思わないか」
 志摩は、女性関係を通じて、自分自身の“自由”を形作っていく。それが寮生からは“デカダン”だと取られ、二年生になると寮を出ざるを得なくなる。隆先生も、志摩を弁護して寮生と大喧嘩をしたことから、寮を出る羽目になる。 
 「一人で住んでいるということは、やっぱり僕には無理だった。志摩のいった意味とは、まったく違うだろうが、僕も自由の恐ろしさを、身をもって味わったといえようか」と、隆先生は寮に戻るが、同棲していた女性に逃げられた志摩は、次第にその鋭角的な性格に凄みが増してくる。そして最後に、軍事教練を担当していた配属将校の無理難題に耐えかね、ついに激突してしまう。当然ながら、志摩は退学。東北大学へと去ることになる。
 そんな志摩が、別れた女性の俤を阿修羅像に見出して、隆先生に語る場面がある。
 「お前にわかるかなア……自己犠牲ってことが、自由の極地だってことが……」
 学徒出陣を前にした昭和18年の晩秋、二人は東京で一度だけ再会する。小さな絵の展覧会で、アルルカンの絵を本当に長い間、二人で見つめるところで、この小説は終わっている。
 このように、旧制三高の学生生活を色々な意味で満喫した隆先生であるが、対一高戦のボート部を応援に行った際に“名誉の負傷”を負ってしまった。これは比較的よく知られているエピソードであるが、以下に紹介しておこう。
 「レースの始まるまでが、応援合戦であり、両者とも瀬田川に和船をこぎ出して、寮歌合戦からはては舟を寄せあっての白兵戦にまで発展した。生まれて初めて喧嘩に参加した僕の持っていた旗竿は、ササラのように割れ、僕もまた目の下を櫂でかすられて、かなり深い傷を負った。東京での試合の後で、志摩が単身一高の寮に殴りこみをかけ、当然のことながら袋叩きの目にあった、という話が伝わった頃、僕は傷のことをお袋になんと弁解しようかと案じながら、東海道線の上りに乗っていた」
 このエピソードは、後年発表した『見知らぬ海へ』(講談社)に登場する海賊大将・向井正綱を彷彿とさせて興味深い。
 また、3年生の寮生を送り出す「追い出し劇」で、岸田国士『落葉物語』を上演することになった際のエピソードも面白い。何と、隆先生が女形を演じたというのだ。
 隆先生の役どころは、「若い時をフランスで過し、今もってフランス語の原書を読んで楽しんでいる、という恐ろしく高級な婆さん」。隆先生が選ばれた理由は、数少ない文丙(フランス語を第一語学に選んだクラス)の寮生だったかららしい。
 演出を担当した副室長から、「お前の眉は女になるには太すぎる、剃り落とせ」と言われ、「ええィ、勝手にしやァがれ」と綺麗サッパリ眉を剃り落としてしまった。やけっ八で演じたせいで芝居は全く振るわず、おまけに眉が伸びるまで1ヶ月以上かかる有様。その間は仕方がないので眉墨を使い、帽子を目深に被って過したという。
 羽生真名『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』に、「後のことをあれこれ考えず、まず行動をおこすのが亥年の父らしいところだった」(注2)とあるが、まさにそれを絵に描いたようなエピソードである。
 余談だが、隆先生が女形を演じた『落葉物語』の作者・岸田国士とは、戦後に縁が生じることになる。岸田国士が教授を務めていた東大仏文科を卒業した縁から、北軽井沢の別荘を紹介してもらったり(注3)、『カサノヴァ回想録』(岩波文庫)の下訳を引き受けたりした(注4)のである。この点については、別の機会に述べることにしよう。

 最後になったが、本作の読みどころは、古き良き三高時代を高らかに謳い揚げつつも、決して“きれいごと”に終始していない点にある。一夕、志摩に連れられて祇園を通り抜ける道すがら、隆先生は、志摩から辛辣な三校評を聞かされるのである。
 なお、当時の祇園には“祇甲”と“祇乙”があり、「祇甲の方は極めて高級であり、容易に肉体を提供する妓はいない。祇乙の方は、比較的廉価かつ容易に、欲望を満たしてくれる場所」と説明されている。
 「三高生だよ、祇甲の女は。結局は身体を汚して生きてゆくのに、自由だとか、人間の尊厳だとか、綺麗なこといってるだけさ。泥ンこの中で掴んだ自由、僅かな金で身体を自由にされている女にある尊厳、それが本物の自由であり、それだけが本物の人間の尊厳だと思わないか。綺麗ごとばかりいってる奴が信用できたためしはないよ」
 後年の「小説家・隆慶一郎」としての処女作『吉原御免状』は、吉原が“自由のための砦”であったという設定で展開されている。本作で志摩に語らせた、遊里に生きる女たちの自由と尊厳についての指摘は、来たるべき処女作へと通じている確かな眼差しと言えるだろう。
(2002年12月16日)

【注記】

(注1)羽生真名[1991]、17頁。
(注2)羽生真名[1991]、33頁。
(注3)羽生真名[1991]、38頁。
(注4)松岡せいじ[1997]、87頁。

【参考文献】

羽生真名[1991]『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』講談社。
松岡せいじ[1997]『隆慶一郎 男の「器量」』コアラブックス。

アカデミズムの世界から映画の世界へ

大学教員時代の隆先生

筆者:瓢水

※この論考を書くにあたって文献を参照した場合には、本文中に(注)を付すことでその旨を明記し、【注記】にて参照箇所を示すとともに、【参考文献】にて当該文献の書誌情報についても明記している。

【前説】

 昭和23年(1948)4月、卒論「ポール・ヴァレリイに関するノート レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」を書き上げて東京大学文学部仏文科を卒業した隆先生は、辰野隆ゼミの先輩に当たる小林秀雄氏が編集担当重役を務める創元社に入社した。入社の事情や当時の思い出は、エッセイ「失われた名演説」「編集者の頃」に思い入れたっぷりの文章で記されている。
 創元社に入社した隆先生の最初の仕事は、昭和15年に同社から出版したルナン/杉捷夫訳『思い出—幼年時代・青年時代—』を、新かなづかいに直して再び出版することであったと思われる。その根拠は、巻末の「譯者後記」に「新かなづかいになおす仕事に協力してもらった祿川享、及川進兩君ならびに、創元社編輯部の池田一朗氏の勞を深謝する(中略)一九四八年六月 譯者しるす」(注1)と記されていることによる。
 その後、隆先生は外国文学関係を全て一人で担当していたが、時には40件もの仕事が同時進行する多忙さから「突然勤めがいやになり」、昭和25年に創元社を退社した(注2)。退社する直前は同社版『小林秀雄全集 全8巻』の担当者でもあり、「誤植が多くて、先生にひどく叱られた」という逸話が伝わっている。ちなみに当時の隆先生は、エッセイ「喧嘩」で引用されたグレアム・グリーンの作品を愛読していたようだ(注3)。
 さて、退職した隆先生は無収入になり、御殿場にあった友人の別荘に奥様と厄介になった。別荘の半分を哲学者の出隆氏が借り、残り半分を隆先生夫妻が借りていた(注4)。知人の椎野英之氏が尋ねてきて映画の脚本が金になることを知り、2回目に書いた映画のストリーを脚本に直し、それが「お母さんの結婚」として映画化されたことは、エッセイ「わが幻の吉原」に詳しい(注5)。しかし、不安定な身の上であることに違いはない。大学時代の恩師や先輩が心配し、大学教官への道を勧め、実際に後押ししてくれることになった。
 本論考は、隆先生が大学教官として一度はアカデミズムの世界に入りながらも、「アカデミズムの世界」から「映画の世界」へと移らざるを得なくなるまでを、諸資料に基づいて概観することを目的としている。なお、この当時の隆先生は本名の池田一朗として記すのが妥当であり、研究業績を紹介する際も紛らわしいため、以下は「池田一朗」と敬称を略して統一した。
 なお【本編】の構成は、「1、恩師辰野隆教授のいる中央大学へ」、「2、中央大学助教授時代の仕事」、「3、中央大学助教授を辞職した経緯」となっている。

【本編】

1、恩師辰野隆教授のいる中央大学へ
 まずは、昭和25年に創元社を退社して以降の池田一朗の仏文研究業績を、年表形式で追ってみたい。雑誌発表作品の掲載年月は、便宜上、当該雑誌の月号を採用した。

表1 池田一朗の仏文研究業績年表
 以上が、私が調査した全てである。昭和25年に創元社を退社してから昭和36年3月に中央大学助教授を辞職するまで、文献上で確認出来る仏文研究業績を可能な限り追ったつもりである。遺漏もあろうと思われるので、識者からのご教示を仰ぎたい。以下、個々の研究業績について、その内容と背景を検討していこう。 
 まず、雑誌『演劇』に発表された「四つのアンチゴーヌ—アヌイを中心として—」と「俳優の手帖〈2〉(訳)」は、失業期間中のアルバイト的な仕事だったと思われる。前者は、劇作家ジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』が上演されたが行けなかったため、台本を読んでまとめた劇作家論であり、後者は、執筆予定者が急病のためお鉢が回ってきたものだ。
 アルバイトと言えば、劇作家、小説家として仏文関係者の間でも有名であった岸田国士の存在を忘れることは出来ない。岸田は上記の雑誌『演劇』に数多く寄稿しているし、岸田の弟子であった古山高麗雄の回想によれば、「私が彼に会ったのは、岸田国士訳『カザノヴァ回想録』の下訳料を渡すためであった。池田さんは東大仏文卒の秀才で、岸田国士の下訳をしていた」とある(注6)。
 「文法とマラルメ」は、大学時代に苦労した文法の学習法をマラルメ読解に託して語ったものである。創元社時代に担当したルナン『思い出—幼年時代・青年時代—』の訳者である杉捷夫教授の著作の「月報」であることから考えても、杉教授の口添えがあったことは十分に想像出来る。ちなみに杉教授はメリメの訳業で名高い仏文の大先達であり、東京帝国大学で教鞭を取った経歴の持ち主であった。 
 池田一朗の研究業績で注目すべきは、東京大学の先輩に当たる加藤周一(医学部)、窪田啓作(法学部)との共訳で出したルイ・パロオ編『エリュアール詩集』である。表1で確認すると、立教大学講師となった翌月に刊行されている。共訳という形ではあるが、ともかく仏文専門書を一冊出しているわけであり、研究業績の一つとして数えられるべき仕事と解釈するのが妥当なところだろう。つまり、この訳書の刊行時期に注目したいのである。
 『エリュアール詩集』の翻訳は、「もと加藤の擔當するところであったが、渡佛までに譯を了せず、ために窪田と池田が殘りを引受けた」のだった(注7)。本書は「詩集」とルイ・パオロによる「ポール・エリュアール」論から成り、全49編の詩のうち加藤周一が8編、窪田啓作が36編、池田一朗が5編を担当している。池田担当分が少ないように感じられるが、54頁に及ぶ「ポール・エリュアール」論の訳を一人で担当しているから、応分以上の仕事をこなしたと判断して良いだろう。
 では何故、この時期にこの訳業が舞い込んだのだろうか。おそらくは、創元社を退社して経済的に困っていた池田一朗に対する、東大関係者の好意だったと思われる。この当時の状況について羽生真名氏が、「大学の先生方や諸先輩のほうが心配して下さり、とにかく立教大学でフランス語を教えることになった」(注8)と書いていることから推測すると、「池田君を立教大学に推薦したいが、業績がないことには強く推せない。幸い、池田君の先輩で面識もある加藤君が渡仏する。加藤君の仕事を窪田君と池田君に回して業績ということにしよう」と考えた人物がいた可能性が考えられるのだ。
 この推測が許されるとして、その人物は誰なのか。それは、当時は東京大学を定年退官して中央大学教授となっていた池田一朗の恩師、辰野隆教授だったのではないだろうか。確かな証拠はない。しかし、大学関係者に限らず人事異動というのは、こういう手順を踏むのが一般的であろう。何の業績もない人間を好意だけで推薦することは出来ないのだ。訳書が立教大学講師となった後に出ているのは、原稿が遅れたためか、編集作業が遅れたためと思われる。一度は勤務した創元社から自身の著作を刊行してもらい、それによってアカデミズムの世界に身を置くこととなった。池田一朗の喜び思うべしである。 
 以上の私の推論を補足しておく意味で、“中央大学”の辰野隆教授が何故に池田一朗を“立教大学”に推薦した可能性があるのか、つまり、池田一朗が恩師の在職している“中央大学”に一足飛びに行けなかった理由について書いておきたい。理由は簡単なことで、おそらく中央大学に空いているポストがなかったのだろう。立教大学の講師となった翌年に中央大学の講師となっていることから推測すると、この時期、上手い具合に中央大学の講師の口が空いたものと思われる。
 結果論ではあるが、池田一朗は最終的に恩師の膝元で学究生活を送ることとなった。そして、中央大学文学部仏文科の人事権は、当然のことながら辰野隆教授が握っていたと想像される。この点からも、ルイ・パロオ編『エリュアール詩集』の訳業を斡旋したのが辰野教授であり、そのことは「池田一朗を仏文学者として育てていく」という決意の表われではなかったかと考えられるのである。

2、中央大学助教授時代の仕事
 中央大学で仏文学者として学究生活を送ることとなって1年後の昭和29年3月、池田一朗は立教大学のフランス語講師を辞職した。在職わずか2年間。羽生真名氏は、「カンニング防止など、試験時の学生管理を説かれたせいらしい(中略)いっそ刑事を雇ったほうが……という意味のことを言い、失礼にもその場でやめてしまった」と書いている(注9)。恩師の膝元である中央大学の講師となったわけであるから、もともと一時的に勤めるはずだった立教大学に未練はなかったであろう。
 ところで、立教大学を辞職した29年3月、副業で続けていた映画脚本が「本名」で出てしまった。映画『坊ちゃん社員』である。この辺りの事情については、後にエッセイ「わが幻の吉原」で書いている。「翌年の四月から立教でフランス語の講師をやっていましたが、それだけでは食えないので、シナリオで食いつないでいた。最初は変名で出していたんですけど、二度目に間違って本名の池田一朗というのが出てしまった。もうしかたがないと思って、ケツまくりました」(注10)。
 このアルバイトについて、特に周囲から注意されたという記録はない。「次の年、中央大学に選任講師でいって、その翌年には助教授になったんですけど、給料二万円ではやっていけない。ズルズルとシナリオを書き続けていた」(注11)という本人の事情を、周囲が許容していたのだろう。「シナリオはあくまで副業である」という好意的な理解において。
 昭和30年4月、池田一朗は中央大学の講師から助教授に昇進した。管見の及ぶ範囲で仏文業績は見当たらないため、辰野教授の強い推薦による人事だったのかもしれない。「池田君、後は君のやる気に掛かっているよ」という辰野教授の声が聞こえてくるようだ。 
 本格的に仏文学者として活躍することを期待されたこの年、池田一朗は3つの仕事をしているが、いずれも内容が異なっている点で興味深い。
 まず「映畫になった『性に目覺める頃』」は、自身が脚本を担当した映画『麦笛』(室生犀星原作)の解釈論である。原作を脚本化する際に、どのような点に注意を払って作品を解釈したかが語られている。前年3月に死去した岸田国士と共に岸田作品の映画化を鑑賞した思い出話を冒頭に据え、「脚色者がその原作に讀み取ったものを、如何に忠實に繪にするか、映畫という表現樣式の中に如何に消化して示すか、ということ。脚色者の力量はこの場において始めて問題になる」(注12)とし、仏文学者らしくスタンダールの『パルムの僧院』『赤と黒』の映画化作品を引き合いに出した後、自らの解釈論を展開している。このような文章を発表出来たこと自体、周囲の理解を示す傍証となるだろう。中央大学の同僚だった室井庸一助教授(当時。現在は中央大学名誉教授)は、「明るい好男子で、率直」、「アルバイトに映画のシナリオを書いているというので、時折洩らす斯界の内幕話に好奇心をそそられたりもした」(注13)と書いている。 
 次の「山師カザノヴァ」は、岸田国士訳『カザノヴァ回想録』を概観して、カザノヴァという人物の魅力を語った内容である。岸田国士訳『カザノヴァ回想録』の下訳を担当していたため、出版元である岩波書店から依頼があったものだろう。文中の「カザノヴァは忍耐などというものには少しも興味がない。その夥しい才能を勝手気儘に乱費することが彼の生甲斐である。何にでもなれるということが大半で、そのうちなにかになるということは真平なのである。自由自立、束縛のない放浪が幸福なのです」(注14)という指摘は、羽生真名氏の「雲のような人だった。ふわふわと空に浮び、お天気と風向きの他には、特に影響されるものもないようにみえる雲。風が吹けば流れて行き、その時々に色や形を変えておもしろがる、入道雲のような存在が隆慶一郎という人だった」(注15)との符合で興味深い。また、「運命は同時代のあらゆる実直にして慎重な人々よりもこの図々しい無法者の方に沢山の恵みをたれています」(注16)という観察は、後の『一夢庵風流記』における前田慶次郎像と重なるようにも思われる。 
 最後の「象徴主義の系譜に対する一瞥」は、池田一朗が発表した唯一の専門論文である。ポオ、ボードレールに源を発した象徴主義が、マラルメ、ランボオ、ヴアレリイへと受け継がれる系譜を、“照応の形而上学”や“音楽”の重要性という視点から瞥見した内容となっている。門外漢の私がこの論文を評価するのは“おこの沙汰”であろう。そこで、池田一朗の卒論に言及した陣野俊史の記述を紹介しておこう。同じことがこの論文にも当てはまると考えられるからだ。「池田一朗の文章に、ヴァレリーの政治学はない(中略)単に、池田一朗は想起するだけだ」「こうした見方を、すでにして研究者のそれではない、と断ずる(それも五十年を経た今から)ことはさほど難しいことではあるまい。実証性は毛ほども含まれていないのだから」(注17)。 
 翌昭和32年2月に刊行された佐藤朔・白井浩司篇『現代世界文学講座6 現代フランス篇』(大日本雄弁会講談社)では、「サン・テクジュペリ」の「作家評伝」と「作品解説」を担当し、昭和34年11月に刊行された安東次男編訳『世界名詩集大成5 フランス?』(平凡社)では、ジューヴ「証人」の訳を粟津則雄と担当した。おそらくは、研究業績を一つでも蓄積させるため、周囲の先輩や同僚が仕事を斡旋したものであろう。いずれの仕事も簡潔に手堅くまとめたものであり、作家の人物と物語の骨子を的確に抽出した点で、決して凡才ではない閃きを感じさせる内容である。 
 ただ、仏文学者としての池田一朗はこの時期、学究の徒としての将来にかなり懐疑的だったようだ。フランス語を教えながら、おそらくは象徴主義の研究を行なっていたものと想像されるが、研究対象とした詩人の本質に迫る方法が見付からず、絶望に近い心情を抱いていたことを後に述懐している。「学者になりたかったんだね。だけど、仏文というのは日本に居ちゃ学問にならないんだね。資料がないんだよ。今なら、向こう行ってマイクロフィルムとってきてってことも出来るけど、その当時はそんなこと考えられなかったしね。やってたのがサンボリズム(象徴主義。ボードレール、マラルメ、ランボー、ベルレーヌ、ヴァレリーにいたる詩)でしたから。例えば、馬鹿らしい話だけど、モンドールという金持の医者がいて、ベルレーヌの手紙も、マラルメの手紙も全部買っちゃってる、するとマラルメ伝というのはモンドールしか出来ないわけでね、そういうとこでもの凄く絶望した。それで辞めた」(注18)。
 心情的に納得出来る点もあるが、一種の遁辞にしか聞こえない点もある。「仏文というのは日本に居ちゃ学問にならない」のであれば、恩師の辰野隆教授を始めとする諸先輩に倣って、本場のパリに留学する道もあったであろう。また、「マラルメ伝というのはモンドールしか出来ない」のであれば、日本の仏文学者にマラルメ研究は不可能という理屈になるが、実際にはそんなことはない。尤も、このような賢しらな指摘は後の人間が客観的に考えた結果であり、当事者にとってはどこまで行っても出口のない切実な問題だったことは間違いないだろう。ここでは、仏文学者池田一朗が研究対象及びその方法論について悩んでいたらしいことだけを指摘しておこう。 

3、中央大学助教授を辞職した経緯
 私の手許に、室井庸一「池田一朗事件のこと」という回顧談がある。『中央大学文学部紀要』第190号(文学部創立50周年記念)に掲載されているから、誰でも読むことが出来る。この僅か3頁の回顧談に、池田一朗が中央大学助教授を辞職せざるを得なくなった経緯が記されている。なお、室井庸一は東大仏文の同期であり、中央大学では同じ助教授として親しく付き合った仲であった。以下、この回顧談に従って当時の状況を追ってみよう。 
 池田一朗にとって中央大学文学部仏文科の魅力は、「何より大学時代の恩師辰野豊先生が居られたこと」であった。しかし、いつの頃からか「彼の休講が目立ち始めた」。「教授会はおろか、研究室会議にも姿の見えないことが多く、アルバイトの方に力を入れすぎているのか、それともほかに青春の逸楽に耽りすぎているのか(彼はハンサムだった)、たまたま出講した彼に苦言まじりに訊ねてみたが、彼はどちらの理由もあっさり否定した。否定はしたが、本当の理由は口外しないのである」(注19)。
 中央大学助教授となった昭和30年4月以降、昭和36年3月に辞職するまでの6年間で、池田一朗が脚本を担当した映画は41本封切られている。その間、昭和34年10月の『にあんちゃん』ではシナリオ作家協会賞を受賞した。「短気の結果」、東宝から日活に移った(注20)のも中央大学時代と思われ、『陽のあたる坂道』『赤い波止場』など、若きスター石原裕次郎のために多くの脚本を提供している。かなり忙しい毎日だったと思われるが、休講の原因は必ずしも映画の仕事に追われたわけではなかったようだ。
 しかし、「教師の休講頻度にも限度がある。その自ずからな限度をこえれば、職員も心配するし、学生も問題にしはじめる。教授会の話題になるのも避けられない。そういう事態になるのをいちばん心配されていたのは、事実上の主任教授として仏文科を掌握されていた秋山晴夫教授であった」。同僚の室井助教授は秋山教授から「池田君に注意してやれよ」「辰野先生にご心配をおかけしないようにな」と懸念を示された(注21)。
 室井助教授が何度か秋山教授の言葉を伝えるうち、池田一朗の「周囲にいろいろな風評が立ちはじめた」。「病気休講のご本人が都内のさる場処を颯爽と歩いていたとか、二、三の女子学生がしきりに本当の出講日(!)をききに研究室に来るようになったとかいう類いの、虚実さだかならぬ類いのものであった」。そして遂に秋山教授の命令で、室井助教授が「本当の理由」なるものをどうしても聞き出すことになった(注22)。 
 「ある夜、新宿のさる地下酒場で彼をつかまえて眞相を教えろと迫った時、彼は、はじめはいろいろ遁辞を並べていたが、やがて彼の呟くように洩らした短い、くるしげな告白を耳にして、これが本音だなと悟った。実は池田君は、出講の義務も予定日も忘れたわけではない。頭の片隅にいつもぼんやりとわだかまっているのだが、それが、半ば夢ででもあるかのように希薄な感じで、切実な現実感がないから困るのだというのである。胸苦しい夢の中でくるしんでいるような気持ちだというのである」(注23) 
 「そのうち、彼が脚本家を本業として選んだという噂が流れ、それはどうやら事実らしかった。その時点で、教授はやむなく退職勧告を決断された。しかし池田君は拒否した。一つには、脚本家としての将来に何の保証があるわけでもない御本人の不安のせいであろう。遂に教授は匙を投げて、池田君が尊敬できるただ一人の恩師辰野先生の出馬を要請された。
 ある日、辰野先生は私を呼んでこう嘆息された。
 『室井君、ぼくは今まで、誰一人むりに辞めさせたことはないんだよ』
 それに、先生は池田君の男らしい人柄をかねがね愛しておられたのだ。私は、返す言葉もなかった。その翌日、池田君をさがし当てて先生の心情を伝え、自ら辞職するように最後の説得をこころみた。
 池田君はきっぱりとこう答えた。
 『俺は、辰野のおやじの口から直接申し渡しを受けたいよ』
 こうして、彼は中大を去ったのである」(注24) 
 昭和36年3月、仏文学者池田一朗は恩師辰野隆教授直々の退職勧告を受け、中央大学助教授を辞職した。時に池田一朗、37歳。辰野教授は当時73歳と老境にあり、東大仏文時代の最後の弟子を退職させる心痛はいかばかりだったであろうか。普通ならば、これまでの経緯から「裏切られた」と感じたであろうが、辰野教授の懐は限りなく深かった。自身が初めて退職させた若い弟子のために、新たな就職口を世話しようとしたのである。
 シナリオライター池田一朗に師事した松岡せいじは、次にように記している。「昭和三十八年のある日、夫人が珍しく愚痴をこぼされた。『九州大学の先生の口があったんですのよ。あの時、受けててくださればねえ……』(こんなやり繰りの苦労もせずに済んだでしょうに)というニュアンスが篭もっていた/隆慶一郎はその時、ただ黙って苦笑いを浮かべていたが、内心では自分の我がままを許してくれと夫人に詫びていたのではないだろうか」(注25)。
 池田夫人は「辰野先生」とは明言していないが、九州大学の口を世話したのが辰野教授だったことは用意に推測出来る。「男らしい人柄をかねがね愛しておられた」ことに加えて、初めて退職勧告をした弟子の行く末を案じて、さらには映画の脚本で食べていけるかどうか不安を抱いていた本人の身を案じて、このような措置を取られたのであろう。辰野教授にとって、隆先生は若手の愛弟子だったと思われる。
 では、何故九州大学だったのだろうか。いくつかの理由が考えられるが、第1に、東京近辺の大学では角が立ち、池田一朗本人も肩身が狭く、辰野教授も関係者を説得出来ないこと。第2に、おそらくは辰野教授の有力な知人が九州大学にいたと思われること。第3に、これが一番重要な理由だと思われるのだが、これは一種の“踏絵”だったと推測出来ることである。つまり、九州という東京から遠く離れた地方への就職を世話することで、アカデミズムの世界と映画の世界のどちらで生きていくのかを選択させたのではないだろうか。九州大学の口を世話したと思しき辰野教授の意向は、「池田君、映画の世界とは手を切って、もう一度仏文研究に専念しなさい」というものだったと考えられる。 
 しかし、池田一朗は恩師の厚意を受けなかった。理由は判らない。アカデミズムの世界への未練はあったが、「辰野のおやじにこれ以上の迷惑はかけられない」と考えたのか、映画脚本の仕事だけでなくテレビの脚本も手掛けるようになっていたため、脚本家として生きていく自信を少しでも持つようになっていたのか……。
 ともあれ、このような経緯で、池田一朗はアカデミズムの世界を去り、映画やテレビの世界で生きることとなったのである。そして3年後の昭和39年2月28日夜、恩師辰野隆教授は胃癌のため虎ノ門共済病院にて午後11時25分永眠した。享年76歳であった。

【後書】

 この論考では、仏文学者としての池田一朗の業績を可能な限り明らかにした。立教大学、中央大学で教鞭を取るに至った経緯についても、推測を交えながらではあるが根拠も提示しつつ検討を行なった。さらに、中央大学を辞職するに至った経緯については、当時の同僚であった中央大学名誉教授室井庸一氏の回顧談に全面的に依拠して紹介した。深く御礼申し上げる次第である。
 作家隆慶一郎の前半生は、創元社の編集者時代、大学教官時代、シナリオライター時代に区分されるのが一般的であると思われる。創元社の編集者時代については隆先生の手によるエッセイが遺され、シナリオライター時代については隆先生のエッセイ以外にも、関係者や友人、そして弟子の方々による手記が刊行されている。しかし大学教官時代については、概観した内容のものがこれまで皆無であった。この論考がその一端でも明らかにし、隆慶一郎という人物に少しでも近づく縁となれば、これ以上の幸いはない。なお、遺漏や思わぬ検討ミスもあろうかと思われるため、識者からのご教示やご批判を頂戴したい。
 最後になりましたが、本論考を書くに際して参考とさせて頂いた著作、論文の著者の方々、池田一朗関係資料をご教示下さった近畿大学附属図書館の司書の方に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

(2005年8月15日) 

【注記】

(注1)ルナン/杉捷夫訳[1949]、399頁。
(注2)隆慶一郎[1993]、177頁。羽生真名[1991]、33頁。
(注3)槌田満文[1990]、26頁。
(注4)隆慶一郎[1993]、178頁。羽生真名[1991]、36頁。野平健一[1992]、200頁。
(注5)隆慶一郎[1993]、178‐179頁。
(注6)古山高麗雄[1989]、680頁。
(注7)ルイ・パロオ編/加藤周一・窪田啓作・池田一朗訳[1952]、227頁。
(注8)羽生真名[1991]、33頁。
(注9)羽生真名[1991]、33頁。
(注10)隆慶一郎[1993]、179頁。
(注11)隆慶一郎[1993]、179頁。
(注12)池田一朗[1955a]、15頁。
(注13)室井庸一[2002]、23頁。
(注14)池田一朗[1955b]、14頁。
(注15)羽生真名[1991]、7頁。
(注16)池田一朗[1955b]、14頁。
(注17)陣野俊史[1995]、133頁。
(注18)池田一朗[1980]、8頁。
(注19)室井庸一[2002]、23‐24頁。
(注20)羽生真名[1991]、73頁。
(注21)室井庸一[2002]、24頁。
(注22)室井庸一[2002]、24頁。
(注23)室井庸一[2002]、24‐25頁。
(注24)室井庸一[2002]、25頁。
(注25)松岡せいじ[1997]、167頁。

【参考文献】

池田一朗[1955a]「映畫になった『性に目覺める頃』」『文庫』第43号、15‐17頁。
池田一朗[1955b]「山師カザノヴァ」『文庫』第50号、11‐14頁。
池田一朗[1980]「仕事場訪問? 池田一朗」『ドラマ』第2巻第9号、6‐10頁。
陣野俊史[1995]「透明で明澄な絶望」『現代詩手帖』第38巻第2号、132‐137頁。
辰野隆[1991]『忘れ得ぬ人々』講談社文芸文庫。
槌田満文[1990]「池田一朗さんのこと」『大衆文学研究』第93号、26頁。
野平健一[1992]『矢来町半世紀』新潮社。
羽生真名[1991]『歌う舟人 父隆慶一郎のこと』講談社。
古山高麗雄[1976]『岸田国士と私』新潮社。
古山高麗雄[1989]「水の如く、木の葉の如く」『小説すばる』冬季号、680‐681頁。
松岡せいじ[1997]『隆慶一郎 男の「器量」』コアラブックス。
室井庸一[2002]「池田一朗事件のこと」『中央大学文学部紀要』第190号、23‐25頁。
隆慶一郎[1993]『かぶいて候』集英社文庫。
ルイ・パロオ編/加藤周一・窪田啓作・池田一朗訳[1952]『エリュアール詩集』創元社。
ルナン/杉捷夫訳[1949]『思い出—幼年時代・青年時代—』創元社。

「お母さんの結婚」

「お母さんの結婚」〜脚本家池田一朗の誕生

著者:ぱろっと

 ここに一冊の古びたシナリオがある。B5版で50枚位、藁半紙に手書きの文字がコピーされたものだ。題は「波紋」。先日神田でこれを買い求めた際には横に「お母さんの結婚」とメモが貼られてあった。
「お母さんの結婚」といえば「我が幻の吉原」(『かぶいて候』集英社文庫、1993、pp178〜179)に記される池田一朗脚本の記念すべき第一作。東宝椎野英之氏の勧めで書いたとされるものだ。同書には次のように書いてある。「最初は変名で出していたんですけど、二度目に間違って本名の池田一朗というのが出てしまった。もうしようがないと思って、ケツまくりました。」翻ってシナリオの方を見ると、脚本家の名前は「池田和夫」。確かに「池田一朗」の変名と考えられなくはない。内容も「お母さんの結婚」というにふさわしいものである。
 ではこれが隆氏の書いた第一作目のシナリオに間違いないのか。期待は膨らむ。だがシナリオの題はあくまで「波紋」となっている。最初についていたメモ紙も包装時に取り払われてしまっていた為、筆者の勘違いという事があるかもしれない。念のためこれを買った古本屋に問い合わせてみる事にした。
 古本屋のご主人によると、シナリオの題が変更されるのはよくあることであるという。では「波紋」を「お母さんの結婚」と比定した根拠はなんなのか。ご教示いただいた所をかいつまんで述べると、まず台本タイトルには「波紋」とあるが日本映画でこのタイトルの作品は製作されていない。従って、このタイトルが仮題である可能性が高くなる。次に正式なタイトルを調べるべく、脚本としてクレジットされていた「池田和夫」の作品一覧を調べると、池田和夫の映画作品は「お母さんの結婚」一本だけであることが確認された。となると、台本は「お母さんの結婚」である可能性が非常に高い。確認のため、台本と「お母さんの結婚」のスタッフ、登場人物名が合致しているかをチェック。結果「お母さんの結婚」と判断した、ということになるそうだ。
 これで手元の「波紋」が「お母さんの結婚」というタイトルで映画化されたことはほぼ間違いないことがわかった。しかし果たして「池田和夫」が「池田一朗」の変名であるか否かには未だ確証がない。ご主人もこちらは不明との事であった。
 そこで以下、年次からの比定を試みる。
 まず、通常のシナリオ名鑑によれば池田一朗の映画デビューは1954年。「坊ちゃん社員」という映画であった。一方「お母さんの結婚」は日本映画新社のデータベースによれば1953年の製作である。年次としては極めてふさわしい。
 ここでご息女羽生真名氏の書かれた『歌う舟人—父隆慶一郎のこと』(講談社、1991)72頁に次のような記述があるのが目にとまった。「昭和28年、父がシナリオを書き始めたのは、創元社時代から交友のあった東宝のプロデューサー、椎野英之氏の勧めによる。」 昭和28年といえば1953年。まさに「お母さんの結婚」の世に出た年である。世間に知られているところの脚本家生活開始年と、本人の意識していたそれとでは1年の差があることがわかる。「池田和夫」の映画作品が同作一本だけであることをみても、どうやらこの作品が池田一朗の変名で出した第一作と考えて間違いはなさそうだ。(註1)
・・・と、ここまで考えてきてふとネットで検索を懸けてみた。すると何の事はない。goo映画に「日映の劇映画製作第一回作品。法大、立大の仏文学講師池田和夫が東宝の脚本第一期生としてはじめて書いたオリジナル・シナリオによって「嫁ぐ今宵に」の齋藤達雄が二度目のメガフォンをとっている。撮影はニュース・カメラの白井茂、音楽も映画に初登場の中田喜直(芥川也寸志と同期)である。「愛情について」の二本柳寛、藤原釜足、千石規子、「母と娘(1953)」の坪内美子、の英百合子、また「嫁ぐ今宵に」の子役加島春美、斎藤監督の姪の小林すみ子などが出演している。」とはっきり出ているではないか(笑)。法大はよくわからないが中央大学の事だろう。「我が幻の吉原」に出てくる映画関係者が躍起になって池田氏に脚本を書かせようとしているように見えるのも、脚本家が少なく人材発掘期に当っていた為であるらしい。
 以上ながなが検討を重ねてきたが、まあそもそも最初の古本屋さんの推定を信じていればよかった話で、プロにはかなわないという事だろうか。せめてもの自己満足に、あらすじ紹介と感想を少しばかり書き込ませていただこう。

<あらすじ>

健一には父がいない。ある日飼い犬の血統のことから友達と喧嘩となり、健一はいないお父さんにみんなの前で電話をかけなければならなくなった。健一はあきらめ顔ででたらめにダイヤルをまわす。たまたまその電話にでたのが野田商事の課長岡田宏だった。彼は三十六才、妻と子を相次いでなくしており、健一の声を無意識に我が子と重ね合わせる。そして彼は健一の仮のお父さんになる事を約束するのだった。健一の誕生日祝いにグローヴをおくったことから二人の関係が健一の母澄江に知られ、澄江は岡田のもとにお礼に出かける。岡田と澄江はともにそれまで再婚を拒みつづけてきたが、この邂逅を機に両者は互いに惹かれあっていく。しかし健一は独占してきた母の愛を岡田に奪われるような、一種の不安におそわれる。殊に北海道栄転のきまった岡田が澄江に求婚してからというもの、その不安が激しくなった。澄江がプロポーズの返事をするため出かけて行くと、それを察した健一は悲しみに憑かれて遠く自転車を走らせ、迷い子になって警察に保護される。澄江は岡田との結婚をあきらめる気になった。岡田が札幌へ立つ朝、上野に見送りに出た澄江に、岡田は「いつまでも待ちますよ」と約束をする。汽車が徐々に動き出し、見送る母子。やがて健一が突然叫んだ。「おとうさあん!」。澄江の目に涙があふれ、母子は駅を後にしたのだった。

<感想>

 筆者は脚本に関してずぶの素人であるが、それでもこの作品は初めて書いたシナリオとは思えない程よく出来ている。冒頭、銀座の洋裁店からして映像が目に浮かぶようであり、話としてもなかなかに面白い。ことに健一が自転車で遠乗りし、岡田に貰った宝物のグローブを捨ててくるくだりなどは仲々胸に迫るものがある。
 さて、隆慶作品の特徴といえば「にあんちゃん」に代表されるように子供の描き方の優れていることが挙げられよう。本作も、時々母澄江の視点が入ってしまうものの、基本的には健一の視点から描かれた物語である。子供社会のいじめ、同じ母子家庭の混血児エマとの交流、捨て犬を拾ってくるエピソードなど生き生きと子供の社会を描ききっており、後の作品に繋がるものを感じさせる。
 本作の主題は新しい父を受け入れる健一の心の葛藤である。隆慶作品には秀忠はじめ忠輝、岩助、成貞、慶次郎など父子関係の描写が比較的多いように思うのだが、池田氏自身の体験など何か影響を与える所があったのだろうか。ちなみに健一が拾ってくる子犬の名前、作中では「五郎」とつけられているのだが、羽生氏前掲書41頁によると昭和27年前後から池田家には秋田県の雑種で「五郎」という忠犬が飼われていたらしい。飼っていた犬の名前を劇中に使ったか、あるいは初作品に出てきた犬の名前を飼い犬につけたか。作中での「五郎」はやや突飛な感じがするので、恐らく前者であろう。

以下、映画情報である。

お母さんの結婚
製作=日本映画新社 配給=東宝 1953.07.01 7巻 1,800m 白黒 、66分 
製作 ................  中村正
監督 ................  斎藤達雄
脚本 ................  池田和夫
撮影 ................  白井茂
音楽 ................  中田喜直
美術 ................  北川恵笥
録音 ................  国島正男
照明 ................  近藤兼太郎
出演 ................  二本柳寛 坪内美子 藤原釜足 加島春美 斎藤達雄 英百合子 

ちなみにこの映画、ビデオも出ているそうなので見つけた人は是非御覧あれ。

(註1) 羽生氏が「次に中央大学の専任講師から助教授になり、以後はフランス語を教えるかたわら、昭和二十八年ごろから本名の池田一朗で映画のシナリオを書き始めた。」と書いておられるのは、だから若干不審である。