氏姓解説総覧

《院》(いん)  

[天子の御謚「院」号の起源]

○天子の御謚号に院の字を用ふること冷泉院よりはじまる。村上帝までは天王と称し奉る。

[摂家「院」号の起源]

○摂家に院号のはじまるも、一条帝正暦元年太政大臣兼家薨ぜる時、法興院と号するよりはじまる。その前は貞信公、謙徳公、仁義公、淡海公などゝいふ。兼家病中出家するによりて謚なく、其家を寺として法興院と号すればなり。

[皇后「院」号の起源]

○正暦二年帝の御母梅壺女御、藤原詮子(右大臣兼家の女)尼となり玉ひて、東三条院と号す。后の院号これより始て女院と称す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

あ行

青木氏(あおきし)

青木氏は、源義光の末から出た青木氏、武蔵七党の一つ、丹治党から出た青木氏などがある。
丹治氏は秩父氏、高麗氏に遡ると云われることから、青木氏は源氏と平氏両方の本氏があり、さらには半島渡来人を祖とするものもあるようだ。
作品に表れる青木民部は、美濃の豪族の末とされることから、源氏の流れを汲むものか、或いは全く別根の氏なのだろうか。

青山氏(あおやまし)

青山氏は、藤原秀郷の末蒲生氏の一族と、藤原北家大納言花山院師賢の孫青山師重を始祖とする青山氏がある。

明石氏(あかしし)

明石国造の末。後には、赤松氏、藤原氏の末と称するようになった。

明智氏(あけちし)

源頼光を祖とする美濃の豪族土岐光行の一族とされる。

浅井氏(あさいし)

近江浅井郡丁野に起る。嘉吉の頃、この地に流された三条大納言公綱の末とも伝えられるが、古族浅井直の末とも云われる。

浅野氏(あさのし)

浅野氏は清和天皇の第六皇子貞純親王の長子源経基を始祖とする源氏の末とされる。源経基は第六皇子の子であることから、六孫王と称された。

足利氏(あしかがし) 

足利氏は、清和源氏の嫡流源義国の子義康を租とする。義康は父義国の跡を受けて足利荘に住したことから、足利を名乗った。足利荘は藤原秀郷の末孫が開発して領主となっていたが、地方官として関東に住み着いた経基の子孫である源氏勢力に圧倒され、義国の代に寄進されたもの。義国がこの足利荘に住したことから、義国は足利式部大夫と呼ばれている。
検非違使に任ぜられた源義国は、久安の末(1150頃)、右大臣藤原実能の従者に辱められたことを憤り、従者をやって右大臣邸を焼き払い報復したため京を追われ、下野国足利に流罪同様の形で下向。この義国に、藤原氏が足利荘を寄進した。

鎌倉公方

足利尊氏の四男基氏が東国支配の拠点として置いた鎌倉府の長として鎌倉に下り、関東八カ国を支配する鎌倉公方家が誕生した。
基氏から氏満、満兼、持氏と続くが、持氏の代に五代将軍義量が没し、その義量に子が無く将軍位が空白となる状況が生れ、持氏にも将軍となる機会が訪れる。そこで持氏はそれまで幕府に反抗的だった態度を改め前将軍の義持に恭順を示す。しかし、全く相手にされず、義持は出家していた義量の四人の弟から籤で将軍になる者を選んだ。これがきっかけとなり、中央の幕府と関東の統治者公方家の対立は、以後の幕府権力の衰退へと向う要因となった。ここで関東管領職にあった上杉氏がその立場から幕府に従い、関東は公方方と幕府・上杉方で対立する構図となる。持氏は持氏の暴走を諌めた上杉憲実に対し、討伐の軍を向ける。危機感を抱いた憲実は、幕府に援軍を依頼、幕府はさっそく軍を派遣し、鎌倉府は幕府軍によって陥落(永享の乱)。持氏は自害した。これにより関東は管領上杉家の支配する所となり、これに異を唱える北関東の武将結城氏が持氏の遺児二人を擁立して挙兵(結城合戦)。対する上杉軍は十万の大軍を持って結城城を落した。しかし、足利氏の威光を頼る関東の諸氏は、管領上杉氏と対立。そこで幕府は持氏の遺児で末子の永寿丸を成氏と名のらせ公方として鎌倉に復権させるが、成氏は管領上杉氏を父兄弟の敵とみて敵対し、管領憲忠を謀殺。これに対し、関東公方家の強大化を恐れる幕府は、成氏征討の軍を発した。成氏は鎌倉を逃れて下総国古河に居を移し、鎌倉公方は四代で幕を閉じる。

古河公方

下総国古河に居を移した足利成氏は古河公方と呼ばれ、古河公方家が誕生した。以後、古河公方家はかっての力は無くなっていたが、管領上杉氏に反対する勢力の求心的役割を担い、五代百二十七年間続く。

小弓御所(公方)

古河公方足利政氏の次男は、父と不和となり空然と称して僧籍に入り諸国を遍歴。上総国の武田氏に招かれ、還俗して義明と名乗り小弓に居を構えた。そこから義明は小弓公方と呼ばれ、居所は小弓御所と呼ばれる。しかし、この頃台頭した北条氏綱によって滅ぼされる。

堀越公方

長禄元年(1457)、幕府は古河公方に代わる関東の支配者とすべく将軍義政の弟政知を関東に下向させるが、政知は管領上杉氏の妨害などで関東入りを果たせず、伊豆国韮山の堀越に居を構え堀越御所と称した。これを世人は堀越公方と呼び敬するが、政知死後、内紛で遺児茶々丸が継ぐと、伊勢新九郎(北条早雲)によって滅ぼされ、一代で滅亡する。

芦名氏(あしなし)

芦名氏は、桓武平氏村岡五郎平良文の子忠通から出て関東一円に勢威を張った三浦氏の一族で、いわゆる三浦党と称される豪族の一つ。

始祖は佐原盛連の子光盛。平氏。
桓武平氏の流れを汲む相模国三浦の豪族三浦義明の子佐原十郎義連の時、源頼朝の奥州藤原氏征討に従い恩賞として会津の地を分与された。この地を二代佐原盛連が六人の子供に分け与えた。猪苗代・北田・藤倉・加納・新宮氏らで、四男光盛が三代総領家を継ぎ芦名を名乗った。七代直盛の康暦元年(1379)に漸く会津に下り、至徳元年(1384)、門田荘黒川(福島県会津若松市)の地に東黒川館を築く。これが会津鶴ケ城の前身となる。その後、九代盛政の頃から内紛で勢力を失うが、十六代盛氏の時に芦名氏は大飛躍をとげる。盛氏は戦乱で焼失した東黒川館を改修し黒川城とすると、全会津の支配に取りかかり、ついで三春の田村氏を攻め破り、安積の諸城を攻略、政略的には白河の結城氏、米沢の伊達氏らと姻戚関係を結びその勢力を拡大した。盛氏没後、養子の盛隆が十八代を継ぐと、不運も重なり芦名氏は衰運に向かう。二十代義広の天正十七年(1589)、政宗率いる伊達氏と摺上原で戦い破れて芦名氏は滅亡した。

飛鳥井氏(あすかいし)

藤原清華家の一つ花山院家から別れた公家。
皇室の藩屏として繁栄を極めた藤原氏一門は、摂政・関白に就任しうる五摂家を筆頭に、門葉支族数十家に分れ、それぞれ家の号(称号)を名乗って分立した。飛鳥井家は、その藤原家門葉支族の一で、蹴鞠を家職とした。

安宅氏(あたきし)

本姓、橘氏。紀伊牟婁郡安宅に始り、観応の頃、備前権守頼藤は、由良城に拠って海賊を防いで功があった。「あたか」ともいう。

姉小路氏(あねがこうじし)

姉小路氏は、藤原北家の諸家の一つで、近衛少・中将から昇進して参議・大納言にまで昇る羽林家と称される家格の公卿。
洛中姉小路に邸宅を構えていたことから、その地名を家名とした。

藤原北家とは、藤原不比等(鎌足の第二子)の四人の子から始る藤原四家の一つ。藤原四家は南家・北家・式家・京家をいい、不比等の長男武智麿は、京の南に住んだので南家、次男房前(ふささき)は北に住み北家、三男宇合(うまかい)は式部卿を兼ねたので式家、四男麻呂は左京大夫を兼ねたので京家と呼んだ。

阿閉氏(あべし)

「あへ」ともいい、敢・安拝・阿辺とも通じて用いられ、伊賀国阿拝郡から始った氏とされる。その祖は、孝元天皇の第一皇子大彦命の子武淳川別命の子豊韓命を祖とする流れと、同じく大彦命の子背立大稲腰命の子彦屋主田心命を祖とする阿閉間人を祖とする流れがあったとされ、伊賀・穂積・安倍氏らとも同族とされる古い家柄。
伊賀のほか、伊勢・山城・河内・尾張のアヘ氏も同系という。

尼子氏(あまこし)

尼子氏は、宇多天皇の系譜をひく近江源氏佐々木氏の分流。佐々木(京極)道誉の孫高久が近江犬上郡甲良荘尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町)に住み、尼子を姓としたことに始る。高久の子持久は、伯父京極高詮の守護代として出雲に下向する。その時期は、残された僅かな文献などから、永亨年間(1428〜1440)には出雲国守護京極氏の領国支配の一翼として出雲に入り活動を始めたとみられるが、詳細は不明。
尼子氏が出雲の経営に乗り出した具体的な記録が現れるのは、持久の子清貞になってからで、この尼子清貞が尼子氏発展の基礎を築いたとされている。
清貞は有力国人の馬来上野介の女を妻とするなど、在地国人勢力を取り込むことに力をそそぎ、さらに出雲地方の古代からの一大勢力である国造家(出雲大社)対策に取り組んだ。こうした領国支配への積極的な取り組みは子の経久に引き継がれ、経久は幾多の苦難を乗り越えながら、ついに「十一州の太守」と称されるほどの山陰・山陽を代表する一大戦国大名へとのし上がった。

安東氏(あんどうし)

秋田介安藤愛季を祖とする。安倍氏。
「安東」はもともと「安藤」といいい、安倍貞任を祖とする安藤(安倍)頼信を始祖とし、蝦夷管領を任ぜられて津軽十三湊を本拠とした。日本海交易で大いに栄えるが、鎌倉末期の元亨二年(1322)、一族間で管領職を巡って争い、「津軽の大乱」と呼ばれる争乱を起す。又、南北朝期には南朝(宮方)として活躍。その後、安藤氏は津軽十三湊を本拠とする総領家と秋田土崎湊を本拠とする別家が互いに協力し合い、勅命による若狭小浜の羽賀寺建立に尽力した。戦国期に入ると、陸奥三戸の南部氏に侵攻され、総領家は滅びる。一族は秋田で再興、その時、総領家を継いだ愛季は、秋田介を名乗るとともに、安東と名を変え荒廃した羽賀寺の再建に精力を注ぐ。中央の権力争い関ヶ原の合戦においても愛季は動ぜず、寺院の再建に取り組んでいた。戦後、家康より叱責され常陸宍戸に国替え、正保二年(1645)には陸奥三春に転封となり明治に至った。

井伊氏(いいし)

藤原共保を祖とする。藤原氏。
徳川四天王の一人井伊直政の一族は、徳川幕府譜代大名となり、江戸期を通じ幕府要職を勤める名家だが、その祖は藤原冬嗣の流れを汲む藤原共保とされ、共保が遠江の井伊谷に住した事から井伊氏を名乗ったとされる。井伊氏は代々井伊谷城に住し、駿河守護今川家に属していた。

今川氏(いまがわし)

足利義氏の長男長氏の次男国氏を始祖とする。源氏。
足利義氏の長子長氏は、庶子であったため正室北条義時の女との間に生まれた次男泰氏が惣領家を継ぎ、長氏は義氏の隠居領吉良荘を継いで吉良氏の祖となった。その長氏の長男満氏が吉良氏を継ぎ、弟の国氏は長氏の隠居地三河国今川荘(現愛知県西尾市今川町)を継ぎ、今川氏を名乗った。
国氏には四人の男子があり、長男基氏が今川の家督を継ぎ、次男常氏は三河国関口郷(現愛知県宝飯郡音羽町)を与えられ関口氏を、三男俊氏は相模国入野郷(横須賀市太田和)を与えられ入野氏を、四男政氏は三河国木田郷(愛知県幡豆郡吉良町木田)を与えられ木田氏を名乗った。
国氏から九代目が、桶狭間で信長に敗れた義元である。

上杉氏(うえすぎし)

勧修寺流藤原重房を祖とする。藤氏。
建長四年(1252)、嵯峨天皇の皇子宗尊親王が鎌倉幕府に迎えられ六代将軍になった時、親王に従って鎌倉に下った藤原重房が近習として仕え、丹波国上杉庄を与えられ上杉氏を称し、関東に住して武家となった。
重房の子が頼房で、頼房の娘清子(せいし)が足利貞氏に嫁して尊氏と直義を生んだことから、以後、上杉氏は足利氏の外戚として重んじられた。
宗家上杉氏は重房から頼重、憲房、憲顕と継がれ、十代憲政の時に小田原北条氏に追われ越後に逃げ、家督を長尾景虎(上杉謙信)に譲り、ここに藤原流上杉氏は消滅した。以降、平流上杉氏が上杉の家名を継承して行くこととなった。

山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)

上杉氏宗家を継いだ憲顕が鎌倉の山内に住んだことから、以後、上杉宗家は山内上杉氏と呼ばれる。

扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎし)

頼房の子、すなわち清子の兄弟である重顕は鎌倉の扇谷に住し、扇谷上杉家の祖となった。

犬懸上杉氏(いぬがけうえすぎし)

上杉憲房の子憲藤を祖とする上杉氏。鎌倉犬懸の地に住したことから呼ばれる。
三代上杉氏憲(禅秀)は足利氏の内紛と管領職を巡って山内上杉と争い、ついには幕府軍と戦い敗れて滅亡した。

詫間上杉氏(たくまうえすぎし)

上杉憲房の子重兼(能)を祖とする上杉氏。

宇都宮氏(うつのみやし)

藤原道兼の曾孫宗円を祖とするとされる。藤氏。
『宇都宮氏家伝』によれば、その祖は藤原道兼の曾孫円宗で、「前九年の役」の時、源頼義とともに下野国に入り、氏家郷勝山で怨敵調伏の秘法を修した。役後、その功で下野国を賜り宇都宮に移り住んだ。とあるが、『家伝』の記述には矛盾する点も多く、そのまま信じることは出来ない。別説にはその祖を「下毛野氏」あるいは「中原氏」とする説もある。
いづれにせよ、史料に登場するのは宗円の孫とされる朝綱からで、朝綱は文治五年(1189)、源頼朝が藤原康衡を討つために鎌倉を発向する時の供の名として『吾妻鏡』に宇都宮左衛門尉朝綱・同次郎業綱と記されていることによる。朝綱は友綱と言っていたが、この奥州征伐の功により頼朝から「朝」の字を賜り朝綱と名乗ったという。その朝綱だが、建久五年(1194)に、公田百余町歩を掠取していると下野国司行房から訴えられ、土佐に流刑となった。朝綱は流刑地土佐で加茂明神に願をかけ、その甲斐があって赦免となり、帰国して家督を孫の弥三郎頼綱に譲り芳賀郡尾羽山(益子町大羽)に隠棲、地蔵院阿弥陀寺を造立、自ら開山となり入道寂真心と号した。この時、土佐国の加茂明神を勧請し、土佐大明神として地蔵院の鎮守とする。以後、地蔵院は宇都宮氏代々の菩提所となった。
その後、宇都宮氏は居城とする宇都宮城で室町期を無事に過ごす。秀吉の小田原の陣にもすぐさま参陣し、秀吉の覚えも目出度く本領安堵となるが、二十二代国綱に嗣子がなかったことから秀吉は養嗣子を国綱に進めたが、弟等に反対され、秀吉の不興を買う。前後して浅野長政に、所領の検地高に不正があると指摘され、秀吉は宇都宮領の検地を行なう。結果、申告高よりも禄高がある事が判明し、慶長二年、宇都宮城は没収され、一門は闕所となり、宗円から二十二代五百年余続いた宇都宮氏は滅亡した。

江戸氏(えどし)

江戸氏(平氏)

秩父流平氏の分流。秩父重継を始祖とする。平氏。
平安末期、桓武天皇の曾孫高望王の三世平将常が武蔵権守となって下向し、秩父を本拠にして秩父氏を名乗る。その三世秩父重綱の子重継が、武蔵国豊島郡江戸郷に住して江戸氏を名乗った。重継の子重長は江戸郷を拠点に、南武蔵一帯に一族の分流を生み出し、重長は『義経記』に「八箇国の大福長者」と記されるまでの大豪族となる。
およそ二百年ほど江戸にあって、江戸氏十八支流といわれる大同族を従えた大豪族江戸氏の支流は十八とも言われ、この十八支流のなかから、六郷氏・丸子氏・鵜ノ木氏・蒲田氏・飯倉氏・金杉氏・桜田氏・芝崎氏・小日向氏・中野氏・阿佐谷氏などといった現在の東京の地名を姓としていた者が多くいた。

頼朝が伊豆で挙兵し敗れ、再び安房から南下して武家政権を打ち建てようとした時、下総で頼朝軍を足止めさせたのがこの江戸重長だった。その後、江戸氏は南武蔵・下総の在地領主として鎌倉・室町期を生きるが、戦国期に小田原北条氏によってその領地を全て失う。
各地に散らばった江戸氏を始め秩父平氏の分流は、関東各地で豪族化、国人領主化し、平安末期から鎌倉・室町期を通じて坂東武者の供給源となった。

江戸氏(藤原氏)

藤原流江戸氏。藤原秀郷の子孫藤原通直を始祖とする。藤氏。
藤原秀郷七世の孫通直が常陸国那珂郡那珂郷に住したことから始まる。始め那珂氏を称し、鎌倉御家人として活躍、南北朝の争乱期にその子孫那珂通辰は南朝方に付き、北朝の佐竹氏と対立、佐竹氏に付いた通辰の子通景以外、一族は佐竹氏と戦い敗れて全員自害した。通景は一時所領を失うが、足利軍の高師泰に所属し、観応元年(1350)石見国鼓崎城攻略に軍功を上げ、那珂郡江戸郷にを得て、その子通高の時に江戸氏に改姓した。その子通景は常陸国守護代に任ぜられ大掾氏の領地、那珂郡河和田城(茨城県水戸市河和田)を与えられ、嘉慶元年(1387)城を河和田に移す。通景の子通房は上杉禅秀の乱に参陣、馬場大掾満幹の水戸城を攻略、水戸に居を移した。その後、戦国時代を通じて隣接する守護職の佐竹氏と対立抗争を繰り返した。やがて江戸氏は佐竹氏に従属する関係となるが、天正年間には戦国大名化していた。しかし、重通の時、小田原の陣に参陣しなかったことから、秀吉から大名と認められず、佐竹氏から水戸城の明け渡しを求められ、それに抵抗して戦ったが敗れ、水戸城を本拠とした江戸氏の宗家は滅び、旧江戸氏の領地は完全に佐竹氏の支配下に入った。
なお重通の子宣通は、越前結城秀康に仕え越前の地に千石の知行を与えられ、この時江戸氏かた水戸氏に改姓した。また、通秀(通房の子)の子通治に始まる那珂郡鳥子(茨城県美和村鷲子)の江戸氏は、代々佐竹氏に仕えていて、秋田移封後も佐竹氏に仕え、改姓することなく江戸時代を生きた。

大内氏(おおうちし)

大内氏は百済王族を祖とすると称している武家だが、史料等に現れるのは鎌倉期以降とされる。
鎌倉末期から南北朝期にかけての大内氏の中心人物は大内弘幸・弘世父子で、なかでも弘世は珍奇な唐物や銭貨をもって都の人々を驚かせたという。大内氏は早くから高麗や宋との貿易を行なっており、その関心は瀬戸内海、北九州地方に向けられていた。
貞治二年(1363)、南朝方から室町幕府方に転じた弘世は、北九州に渡って南朝勢力と戦う。応安三年(1370)、今川貞世(了俊)が九州探題として下向すると、子義弘とともに探題を援け、南朝方の拠点太宰府を攻略するなど、北朝方の有力武将として名をなした。この間、弘世は今川貞世の弟仲秋の女を義弘の妻に迎えている。これは、九州の南朝方勢力を排除し幕府権力を浸透させたい今川氏と、名門今川氏と結んで幕府の中に一定の地歩を築き、北九州に勢力を拡大しようとする大内氏の思惑が一致した結果の政略結婚であった。
こうして室町幕府の重臣となった大内氏は、長門・周防・石見国の守護となる。
また弘世は、四人の女を少弐・大友・宗像・山名氏に嫁がせている。このうち前三者は、いずれも九州北部の有力武将で、今川氏との姻戚関係同様、北九州地方を確保しようという意志の現れでもあったといえる。しかし、応永の乱(1399)で石見国の守護職を失い、長門・周防の領有に専念することを余儀無くされる。
一方、義弘の子持世が女を安芸国志波庄の豪族天野元氏に嫁がせるなど、安芸進出への布石を行なっている。
応仁の乱が起き、政弘の代になってから失った石見国の守護職を復し、政弘、そして次の義興は、石見国三本松(津和野)城主吉見氏に女を嫁がせ、周防国に隣接する石見国の西半分を固めた。
こうして大内氏も、他の大名同様、近隣諸国の有力領主と姻戚関係を結んでいるが、南北朝期、大内義弘が将軍足利義満に近侍して以後、京都の公卿層との交流が始り、次第に上流の公卿家が婚姻の対象に加えられた。ことに戦国時代、大内政弘が藤原二条流の今小路家の息女を娶ったのを始めとして、義興・義隆の時代になると、足利庶家、土佐一条家、万里小路家、広橋家などとの姻戚関係が形成され、公卿的色彩を帯びるようになった。このことが、戦国大名としての大内氏の発展に、結果的に障害となったとされる。

大浦氏(おおうらし)

藤原秀郷の子孫大浦秀栄が始祖。藤原氏。
大浦氏は代々十三湊にいたが、三代秀直の時、寛喜元年(1229)、津軽野萩ノ台(現・津賀野)の合戦で、津軽の豪族安東愛季に敗れた。この時、秀直の子頼秀は姉の夫吉次信次のもとに落ち延び、戸建沢に隠れ炭焼をしていたという。これがいわゆる炭焼藤太という伝説の人物である。その後、吉次の案内で近衛家の副姫がはるばる津軽を訪ね、藤太と結婚した。近衛家では、これをすぐに鎌倉幕府に伝えると、執権北条時頼に呼び出され、左衛門尉に任じられるとともに、「大原真守」の太刀を賜り、津軽の領地を安堵された。また、北条時頼の側室唐水御前が藤太の母であったことから、時頼より「頼」の一字を拝領し、頼秀と名乗ったとされている。
五代秀信は南北朝時代、南朝方に属し北畠顕家の軍に加わって足利軍と戦い、摂津の石津で戦死。その子秀光は興国年間(1340〜45)奥羽石巻城主葛西伊予守の娘を妻に迎え、父秀信の後を継いで大光寺城に入り、次男佑高は中別所(弘前市中別府)に、さらに三男秀輔は宮館に居を構えた。七代秀信の代になると、羽州秋田氏や南部氏の勢力が次第に津軽地方に浸透、八代秀則の代になって、陸奥国司南部守行の娘を秀則の妻に迎えた。その後、秀則は南部守行に招かれ三戸に行くと、下久慈に監禁されてしまう。守行は秀信の子則信がまだ幼少であるとの理由で、則信の姉婿で守行の実子でもある金沢義光を後見役として大光寺城に送り込み、秀則の領地を手に入れてしまったのである。秀則は下久慈の監禁場所で絶食して果てた。則信は大光寺城から堀越城に移されそこで成長する。さらに、守行は則信にも娘を嫁がせ、その妻が三戸に里帰りした時を狙って堀越城を急襲、則信は自害した。則信の子元信は南部家の家臣大曲和泉秀綱に助けられ、その後、三戸に送られる。幼少の元信は南部家で成長するが、成長するに及び、父が南部守行に殺されたのを知り、長享二年(1488)、室町幕府に訴えようと家臣十八人とともに脱走を試みるが発覚し、陸奥の鬼柳で家臣もろとも斬り殺されてしまった。こうして大浦氏の嫡流は親子三代にわたって南部氏に殺された。
この元信の死後、南部家では不幸が相継ぐこととなり、これは元信の「祟り」だと云う事になり、元信の子光信は津軽に戻されることとなった。『金家記』という資料に「元信御討死ののち御たたりはなはだしく、南部家にてさまざま物の怪これあり、御子方が数人相果て候につき、南部一家の沙汰として、とにかく御本領津軽へ御安堵然るべき旨に相きまり、延徳三年(1491)三月光信を津軽鼻和郡へ御入部」と、この辺りの事情が書かれている。また、津軽側の記録『津軽歴代記類』には「大浦信濃守光信公……延徳三年三月一日、天に誓ひ復習せんと欲し、重臣らと密かに計り九戸郡下久知より来りて、大浦種里(へ入部。lpmp時年三十二。先陣は壱岐守信建、二陣は金備中守某、中軍は光信公、押軍は小山内雅楽勝経らなり。総勢およそ三百五十人」とある。ともあれ、光信は南部下久知から津軽鼻和郡種里(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町大字赤石)に入部し、後に津軽氏となる大浦氏が津軽に定着した。

津軽氏参照。

大岡氏(おおおかし)

『寛政重修諸家譜』によれば、大岡氏は中臣(藤原)鎌足から二十代後の九条教実の後裔忠教が、三河国八名郡宇利郷(愛知県新城市・鳳来町)に居住し、大岡を家号としたことに始る。
忠教の子伝蔵善吉の長男忠右衛門助勝が松平清康(家康祖父)、およびその子松平広忠(家康父)に仕え、享禄二年(1519)五月の吉田城攻撃で、城主牧野伝次を討取り、褒賞されて下坂長身の持鑓を与えられた。その後助勝は、主君広忠から諱の「忠」の字を与えられ忠勝と名を改めた。以後大岡家では代々名乗りに「忠」の字を用いることとなる。『大岡家文書』ではこの忠勝を大岡本家の初代とし、忠勝の子には長男忠祐、二男忠次、三男忠政がいたが、長男忠祐は吉田城攻撃の際に父と従軍し戦死、二男忠次は広忠、家康の二代に仕えたが、永禄三年(1560)の尾張国石瀬(愛知県常滑市)の合戦で戦死したため、三男忠政が大岡家の二代当主となり家康に仕える。
天正十八年(1590)、家康の関東入封に従った忠政は、翌十九年五月三日に相模国高座郡堤村(神奈川県茅ヶ崎市)に二百石(『寛政重修諸家譜』では三百八十余石)の知行地を与えられる。こうして大岡氏は忠政の代に、堤村に本貫地を領することとなった。
その後、同郡大曲村の二百二十石が加増され、大岡家の知行地は六百石となる。この忠政には、長男忠俊、二男忠行、三男忠世、四男忠吉の四人の男子があった。長男忠俊は家康に仕え慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の際、伏見城に籠り豊臣方の攻撃を受けて二十八歳で戦死。二男忠行が大岡本家三代目となり堤村の知行地三百八十石を継ぎ、弟の忠世が大曲村の二百二十石を継いだ。四男忠吉(大岡忠相の曾祖父)は慶長七年(1602)、十六歳の時に初めて家康に謁し、翌八年に相模国高座郡内で百六十石があたえられ、大岡家は本家と忠世家、忠吉家の三家となった。
本家の忠行は元和元年(1615)の大坂夏の陣で、高木主水正正次の隊に加わり、五月七日に四十歳で戦死した。そのため本家四代目を忠世の長男忠種(忠勝)が継ぎ、禄高を廩米を含め千九百三十石余に増やした。こうして大岡本家は江戸時代を通じて千四百二十石から千九百三十石ほどの家禄で、小姓組、書院番など番方の職に就く典型的な中級旗本の家として存続する。
一方、忠世家は寛永二年(1625)、三代将軍家光から朱印を与えられ正式に大曲村の二百二十石が領地となり、後、大番となった忠世は二百石を加増される。さらに組頭となり同十年には五百石が加増された。同十七年、忠世が没すると二男忠真が忠世家の二代を継ぐ。この忠真の養子として忠吉の孫忠相が入り、忠相は忠世家の三代目を継いだ。
また、忠吉家は大坂冬・夏の陣に従い戦功を上げ、寛永三年には千五百石となり昵近の列に加わる。寛永十年には秀忠の娘和子に従い、従五位下美濃守となり、山城国相楽郡において三百石を加増され、その後も加増されて計二千三百石となり、本家の禄高を凌いだ。忠吉の後を嫡男忠章が継ぎ二千石を領し、弟忠房(四男)に三百石が分け与えられた。この忠房は後に将軍家重に重用され岩槻藩一万石の大名となる大岡忠光の祖。また、忠章の後を継いだのが忠相の実父忠高で、忠相はこの忠高の四男として生れている。

大崎氏(おおさきし)

始祖は斯波家兼。源氏。
大崎氏は足利将軍家の一族斯波家兼を始祖とする武門の名族ととして知られ、足利幕府の命で、奥州管領・奥州探題として奥州に下向。探題とは守護以上の行政権を持ち、幕府の命令を地方の諸氏に伝達する役目で、奥州における最高権威者に位置づけられる。
家兼は陸奥国府近くの大崎に居し、大崎氏と称して土着、始めのうちは、探題としての職務を遂行していたが、二代直時、三代詮持と代が下がるにつれ、本務よりも領地拡大に力をいれるようになり、志田・玉造・賀美・遠田・栗原の大崎五郡とよばれる地を領有する。この奥州の地は、元来、源頼朝の奥州征伐に従軍し、平泉藤原氏の滅亡後、論功行賞で所領を与えられた人々で、土着し豪族化している。奥州の各氏は中央から離れていたこともあり、早くからお互いに領地の奪い合いを行なっていた。本来、探題はこうした諸氏を監督し、秩序の維持を行なうのが本来の職務だが、各地の豪族たちの動きに触発された大崎氏も、自ら領地の拡大に乗り出し戦国大名としての地位を確保した。
こうした動きを快く思わない関東公方足利満兼は、満直・満貞二人の弟を目付役に任じ、大崎氏の職務代行者として奥州に送り込んだ。二人は直接国府には赴かず、奥州の入口近くに居を構え、それぞれ笹川公方、稲村公方と呼ばれるが、伊達氏支配の地で二人は伊達氏の予想を上回る土地の割譲を要求したため、伊達氏と対立。結局、関東公方の思惑通りにはならなかった。また、伊達氏は早くから中央の政権と通じ、足利幕府の権力者に豪勢な贈答を贈るなど政治的な工作を怠らず、着実に自身の地歩を固めていた。この事が功を奏し、関東公方持氏が兄に攻められ死亡すると、奥州は自動的に幕府の直轄となって、伊達氏は奥州守護職に補任された。これまで守護職が置かれていなかった奥州に、改めて守護が置かれた事で、伊達氏は中央政権から奥州の支配者としてのお墨付きを得る。
一方の大崎氏は、探題という地位にあぐらをかいていたため、以後、衰退の道をたどり、秀吉政権の奥州仕置で領地を没収され、大名大崎氏は滅亡した。

太田氏(おおたし)

源頼政を祖とする。源氏。
太田姓を名乗るのは頼政から五代目資国からで、何故太田を称するようになったかは、いくつかの説がある。一般的には資国が丹波国太田郷に住してからと言われている。一説には、資国が武蔵国太田郷に土着した時からとある。
『太田家記』では資国の祖父にあたる隆綱が土御門院から丹波国五ヶ荘を賜ったことに始まり、資国が領した太田は、現在の京都府亀山市に含まれる旧桑田郡稗田野村大字太田とされる。資国は丹波国司の上杉重房に仕えていたが、その重房が建長四年(1252)、鎌倉幕府将軍宗尊親王に従って関東にやってきた時に、上杉重房に仕えていた太田資国も関東に移住した。資国は相模国愛甲郡に居を構え、以降、太田氏は関東管領上杉氏の執事を代々務めることになる。資国から五代目の資長が太田道灌である。

小田氏(おだし)

宇都宮宗綱を始祖とし、その子知家が八田氏を称して始まる。藤氏。
藤原流宇都宮氏の宇都宮宗綱の四男知家を始祖とし、はじめ下野国八田に住し、八田氏を称した。その知家の長男は家督を継ぐと姓を筑後に改姓、その孫時知の時に小田に改めた。
南北朝期には南朝方として北畠親房を小田城に向える。その後、関東公方に仕え、失地回復に奔走するが、小田原の陣で北条氏が滅びると、小田氏の領地は没収され、領主としての地位も無くなった。以後、小田氏は結城家の家臣となり家を存続させた。

小槻氏(おづきし)

小槻氏は太政官の左大史の職を世襲し、太政官の事務を担当する家柄で、その職掌から「官務家」と呼ばれた。
戦国期、周防長門を領していた大内氏と親密な関係を結ぶ。小槻氏と大内氏のかかわりは、義隆の祖父政弘の代の明応三年(1494)、小槻氏が管理する官庫が大風で大破し、所蔵の文書が風雨に曝される状態になった。その時、小槻晴富は官庫の修理資金を大内政弘に乞い、彼の援助によって無事官庫の修理を終えたことに始る。
その縁で、大内義隆の代に、正室東向殿の侍女として大内屋形に入り、義隆に見初められ、東向殿が去った後に義隆の正室(後室)となっている。
『大内家の妻たち』「おさいの方」の項参照。

小山氏(おやまし)

藤原秀郷を祖とする。藤氏。
小山氏は田原藤太として勇名を馳せた藤原秀郷を祖とする北関東の豪族。秀郷から十二代目の政光が、平安末期、小山付近に館を構えたことから「小山氏」と称された。
始祖の政光は、小山四郎と呼ばれ、父は太田大夫、祖父は太田太夫・太田別当などと呼ばれていることから、政光の前は下野国太田荘と関わりがあったとされる。頼朝挙兵の時、政光は京都にあって大番役を務めていたことから、家臣等は平氏との関係を慮って、中々応じようとはしなかったが、政光の妻寒河尼は三男を連れて頼朝の陣営に馳せ参じた。この寒河尼は頼朝の乳母だった女で、戦陣中で対面を果たした頼朝は大いに喜んだという。こうして小山氏は鎌倉御家人の地位を得る。下って十一代義政の代の南北朝期には北畠親房に従い南朝方として勢力を拡大。小山氏は足利幕府と対立、康暦二年(1380)、義政の拠る小山祇園城は幕府連合軍に囲まれ、義政と嫡男若犬丸は密かに城を脱出、逃げ延びるが幕府の追手に追いつめられ粕尾川で自刃、子の若犬丸は足尾山脈を越え奥州田村郡守山の田村庄司輝定に庇護され、そこで元服隆政と名乗り再興を期して祇園城の奪還を試みる。しかし幕府軍の反撃に会い常陸小田城、男体城と追われ、会津黒川で自刃。幼い遺子二人も川に投げ込まれて死亡し、ここに小山氏の嫡流は絶えた。
名族小山氏の断絶を惜しんだ同族の結城氏が、八代基光の次男泰朝に家名を継がせて小山祇園城に入れた。それから八代目の政種は小田原北条氏に与していたため、秀吉によって所領は没収され小山宗家は滅亡した。
なお、再興小山氏の三代左馬助持政の弟良郷は近江国栗太郡大石に移住し大石氏を称し、その孫内蔵助良雄は浅野内匠頭の家臣として忠勤に励んだ。

か行

蠣崎氏(かきざきし)

若狭武田氏の支流。最初の氏祖は不明。源氏。
松前氏の祖となった蠣崎慶広の祖は、新羅三郎義光を祖とする武田氏で、義光の曾孫信義の代に武田を氏としたとされる。そこから十一代武田信繁の代に足利将軍義教から若狭理にを賜り、父子相継いで若狭国守護職となった。その孫信広は生来豪勇で良く強弓を引いたが、粗暴の振る舞いが多く、家を追い出される。信広は国を出て陸奥南部の田名部(青森県下北)に移り蠣崎に寓した。享徳二年(1453)八月、安東政季に従って蝦夷地に渡った蠣崎季繁とともに、季繁の客人である信広も同行する。
康正二年(1456)、アイヌと倭人の鍛冶屋との間の諍いから、その鍛冶屋がアイヌ人を刺し殺したため怒った蝦夷人が蜂起、大乱へと発展する。翌長禄元年(1457)、全滅の危機にあった倭人を救ったのが武田信広だった。信広はその強弓で東部の酋長コシャマイン父子を射殺し、わずかに残された倭人の拠点茂別、花沢の二館は事なきを得た。その年、信広は蠣崎季繁の養女と結婚し蠣崎氏を継ぐ。こうして松前氏の祖となったのが蠣崎信広である。

松前氏参照。

葛西氏(かさいし)

江戸氏と同じ頃、秩父平氏の一族が葛西に住して名乗る。

片桐氏(かたぎりし)

片桐氏は本姓清和源氏で、信州伊奈郡片桐村より起り、近江に移住し、浅井長政に仕え後秀吉に属した。
子の石見守貞俊は、父貞隆の死後遺領大和河内一万六千四百石を継ぎ、将軍家茶道師範となり石州流の茶道の祖となっている。

京極氏(きょうごくし)

京極氏は近江の守護佐々木氏の一族で、佐々木信綱の四男氏信が、京都京極高辻に居したのに始まる。三男孝綱は六角東洞院に居を構え六角氏を名のる。京極氏は足利幕府に仕えて功あり、侍所の所司に任ぜられ四職家(他は山名・一色・赤松)に数えられる。(『伽婢子』2人名索引)

吉良氏(きらし)

足利義氏を祖とする。源氏。
足利義氏の子長氏が三河国吉良荘を与えられ吉良を称した。その弟義継も吉良荘の東条に拠り吉良を称した。この関係から、宗家吉良氏を西条吉良家、義継の系を東条吉良家と通称され、のち東条吉良氏が武蔵に移り住んだことから、吉良氏は三河吉良氏、武蔵吉良氏と呼ばれ、二つの系が現れた。

九鬼氏(くきし)

九鬼氏は熊野三山別当家を祖とするといわれ、志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏が誕生したとされる。志摩国はそのほとんどが伊勢神宮領で、そこを領地とした九鬼氏は海に面した地の利を生かし、船で伊勢湾の海上交通を支配、通航する物資や人から銭を取って稼ぐ海賊行為で富を蓄えていった。こうして後に水軍の雄となる九鬼氏が誕生する。

鴻池家(こうのいけけ)

鴻池家は尼子氏の家臣山中鹿之介幸盛を遠祖とし、その次男幸元(新右衛門新六)を始祖としている。摂津国鴻池村に住したことから、鴻池を称する。酒造を業とし、清酒は鴻池家で下男がいたずらに濁酒のなかに灰をなげこみ、偶然に生まれたのが最初だという。また清酒の江戸おくりも鴻池新六の創始にかかるという。元和期に大坂に出た鴻池の諸家のなかで最も発展したのは新六の八男善右衛門正成の系統だった。同家では三代目の善右衛門宗利のときは飛躍をとげ、鴻池新田を開発した。このころから鴻池は初期の酒造・海運業・商品取引から大名貨を中心とする両替業に専門化する。十人両替ともなり、大坂随一の両替商となる。

小早川氏(こばやかわし)

小早川氏の粗は、頼朝七騎の一人として名高い源氏の武将土肥実平とされる。実平は子の遠平とともに頼朝の平家追討で活躍し、初め備前・備中・備後三国の守護に任ぜられたが、安芸国沼田(ぬた)荘(蓮華王院領)の地頭職を拝領すると、一族をあげて相模国から移ってきた。その後、四代茂平の嗣子雅平が沼田本家五代となり、正嘉二年(1258)に四男政景が本家から分立し竹原小早川氏を名乗り、小早川家は二家となった。やがて竹原小早川家は応仁の乱では本家と戦火を交えるなど本家をしのぐほどになったが、竹原十三代興景に世嗣がなく、毛利元就の三男徳寿丸を養子に迎え竹原十四代隆景とした。間もなく沼田本家十五代正平が尼子氏との戦いで戦死し、十五代繁平が幼時に失明していたことから、隆景が繁平の妹を娶り二家の小早川家を一つとなして沼田本家十六代を継いだ。その後、秀吉に属した隆景は実子陽平を廃し、秀吉の養子秀秋を養世嗣に迎え、慶長二年(1597)、隆景が没すると秀秋が十七代当主となるが、関ヶ原で東軍に寝返り勝利を齎した功で備前岡山城主となった二年後に急逝し、小早川家は断絶した。(『郷土資料事典』34)

さ行

佐々木氏(ささきし)

佐々木氏は宇多源氏、また近江源氏を称する守護大名。近江佐々木荘を本拠とし、秀義とその子定綱以後、一族は諸国に広がり、西国十数か国の守護職を得て、その勢力を誇った。定綱嫡流の孫が六角氏、京極氏を名のる。(『伽婢子』2人名索引)

佐竹氏(さたけし)

新羅三郎義光を祖とする常陸の名族。源氏。
常陸国で諸豪族が土地を巡って争いを起こした。その常陸の領主であったに新羅三郎義光(源義光)の孫昌義は勅命を持って下向し平定にあたった。その昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着し、その郷名から「佐竹冠者」と呼ばれるに及び「佐竹」を名乗った。
昌義の家督を継いだ四男隆義は、居館を久慈郡太田郷に置き、以降、常陸太田が義宣の時代まで本拠となる。後、義宣は居城を水戸に移すが、関ヶ原の戦いで、豊臣方に与したため、代々常陸の盟主であった佐竹氏は家康のよって秋田に移封され、秋田藩二十万石の外様大名として明治を迎えた。

佐野氏(さのし)

秀郷流藤原有綱を祖とする。藤氏。
佐野氏の拠った佐野唐沢城は、藤原秀郷が天慶五年(942)唐沢山の頂上に築いたと伝えられ、関東七城の一つに数えられる名城。
秀郷から六代の孫兼行が別家を興し、その三世家綱の七男有綱の子基綱が佐野庄司として唐沢城を守っていた叔父成俊の婿として唐沢城に入った事に始まる。
佐野氏は戦国期上杉、北条、武田と関東に進出する勢力に玩ばれながら、徳川家康関東入部まで家を保つが、唐沢城は江戸幕府の山城禁止令により廃城となり、南方の天明郷春日岡山(現・佐野市)に移される。
慶長十九年、江戸の火事を禁止されていた山頂の櫓から見て早馬で駆けつけた事を咎められ、改易となり、佐野家は断絶した。

里見氏(さとみし)

八幡太郎義家の孫源(新田)義重を祖とする。源氏。
里見氏は清和源氏新田氏の末流といわれ、新田義重の子義俊が上野国碓氷郡里見荘に住し、里見を称したのに始まる。義俊の後裔家基は祖父の代から常陸国小原に移るが、結城合戦(1440〜41)で討死。嫡子義実は逃れて三浦氏の援助を受け、安房白浜の野島崎に上陸。四年余ののちの文安二年(1445)には安房国を平定した。この義実が安房里見氏の祖とされ、以後里見氏は安房にあって、六代義尭のころには上総・下総方面にも勢力を拡大し、五十七万石を領する大名になった。しかし、天文七年(1538)に小田原北条氏綱と、永禄七年(1564)には七代義弘が北条氏康と戦い、ともに国府台で敗れ、次第に領地を失っていく。八代義頼も北条氏政に攻められ本拠安房に近い久留里、佐貫の城が攻撃された。
こうして度々小田原北条氏の侵攻を受けるが、その北条氏は天正十八年(1590)、秀吉の大軍に攻め滅ぼされた。この時、九代義康は秀吉の軍陣に遅参したため、領国を安房一国九万余石に削られ、関東に入部した家康の支配下に置かれた。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では鹿島二万二千石を加封され、十代忠義も幕府に重用されたが、慶長十九年(1614)、大久保忠隣の失脚に伴いそれに連座し、倉吉三万石に減じ移封された。(『郷土資料事典』12) 

義俊の子義成は頼朝挙兵の報を聞くと直ちに参陣、以後頼朝に近侍しその功をもって安房国守護に任じられ、安房国平群郡に住し、後に安房国を本拠とする縁が生まれた。
里見氏は鎌倉・室町・戦国時代を生き延びたが、里見忠義の代に徳川幕府の外様大名潰しの策謀で、慶長十九年(1614)、大久保忠隣の改易に連座し、伯耆国倉吉に移封となった。しかし忠義が天和八年(1622)に死亡すると嗣子が無く、里見家は断絶した。
この忠義の死に八人の家臣が殉死を遂げ、この八人が『南総里見八犬伝』に登場する忠臣のモデルとなっている。

斯波氏(しばし)

足利泰氏を祖とする。源氏。
足利泰氏の子家氏が陸奥斯波郡高水山城に下り斯波を名乗る。
南北朝動乱期の建武三年(1336)、三代高経は越前国守護となり越前府中に本拠を置き、北朝方の主力として新田義貞と戦い勝利。越前の争乱が治まると高経は京に上り尊氏を助けて幕政に後見するが、尊氏が高経の持つ源氏伝来の「鬼切」太刀を所望したが譲らなかったために不和となる。高経は尊氏と弟直義が不和になった時に直義とともに南朝方となり、一時は京を占拠した。その後、兄弟が仲直りすると将軍義銓を補佐し幕府の重鎮となり、管領職を務めるとともに、越前を始め若狭・佐渡・越中・能登・佐渡・信濃・尾張・遠江などの守護を兼ね、斯波氏の勢いは幕府をも凌ぐほどとなる。
しかし、戦国動乱期になると、在地の勢力が力を増し、各地で守護代が守護に取って変わるようになり、斯波氏の領国でも越前の朝倉氏、尾張の織田氏などの勢力が台頭し戦国大名となって斯波氏の勢いは衰えた。
斯波氏の支流に、大崎氏、最上氏などがある。

相馬氏(そうまし)

千葉常胤の次男小次郎師常を祖とする。桓武平氏。
桓武平氏の流れを汲む平将門は、名を相馬小次郎といった。相馬氏は、その将門の後裔にあたり、直接の祖は千葉常胤の次男師常である。小次郎師常は下総国千葉郡で生れ、頼朝の平泉征討に父と共に従軍し、その軍功により陸奥国行方郡(福島県相馬郡)を与えられ、相馬を名乗る。鎌倉後期まで、下総と陸奥両国の領地を総領家が継ぎ、四代胤村が下総を長男(千葉氏)に、陸奥を次男師胤(五代)に与え、六代重胤に至って行方郡に一族を率いて移住した。初め別所館(原町市)に本拠を置き、のち小高城(小高町)を築いて移る。別名を「紅梅浮舟城」といい、以後およそ三百年間の居城となった。
東北の覇者伊達氏が南奥を制覇しようとした時にも、相馬氏だけは屈せずその領地を守った。その後、関ヶ原では伊達氏との関係から上杉氏と通じていたため、参陣せず、戦後、徳川政権によって領地を没収され、十六代義胤は三春に閑居した。その子らが、領地回復のため奔走し、三代家光の誕生もあって、十七代利胤の時に本領を回復。慶長十六年(1611)に、中村城を築いて小高城から移り、相馬中村藩が誕生し、以後、幕末まで続いた。

た行

平姓(たいらせい)

一般には平氏「へいし」と読まれる姓で、源氏同様、臣下に下る天皇の庶子に与えられた姓。主に桓武天皇の子が平氏を名乗り繁栄したことから、「桓武平氏」が平氏の代表とされる。

【伊勢平氏】(いせへいし)

平貞盛の子維衡を祖とする平氏。
この子孫の平正盛は、西国で威を揮う対馬守源義親の追捕使に白河院より任ぜられ、これを契機に西国に進出、平氏の西国での基盤を作った。これにより、東国の源氏、西国の平氏の構図ができる。

○平忠盛は桓武の末なれども、国香貞盛以来武士となりて父正盛まで田舎に住せり。伊勢に久しく居住ゆへ、世に伊勢平氏と号し、しかるに忠盛白河鳥羽の御気色にかなひ、崇徳帝長承元年白河法皇の御願所得長寿院を建立し、三十三間の(今方広寺の南にある三十三間堂なり。二間間にて三十三間と云ふ)堂を立て一千体の仏をすへらるゝ時、忠盛その奉行となり、成就の後但馬国を賜り、昇殿をゆるさるゝよりして段々栄へ来れり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

【坂東八平氏】(ばんどうはちへいし)

九世紀末、桓武天皇の曾孫高望王(たかもちおう)が、坂東の争乱を鎮めるため、上総介として下向。その子孫が各地に土着、頻発する反乱や対立抗争を武力で解決するという役割を担い「兵の家」としての地歩を築いた。いわゆる「坂東武者」の礎を築いた。

秩父氏(ちちぶし)

高望王の子平良文の孫平将常(まさつね)が武蔵権守となって秩父郡に本拠を置き、秩父盆地を開発して「秩父氏」を名乗った。武蔵国秩父郡から現在の東京都東部まで勢力をはった
秩父氏とその分流を「秩父平氏」あるいは「秩父流平氏」と総称する。

  • 秩父氏分流
  • 秩父平氏惣領家の河越氏(かわごえし)、武蔵国豊島荘を本拠とした豊島氏(としまし)、そこから別れ葛西荘を本拠とする葛西氏(かさいし)、豊島郡江戸郷の地を本拠とする江戸氏(えどし)、さらに畠山荘に畠山氏、長野氏、小沢郷に小沢氏、稲毛荘の稲毛氏、河崎荘の河崎氏、高山御廚の高山氏、小山田荘の小山田氏、渋谷荘の渋谷氏、榛谷(はんがや)御厨の榛谷氏などがある。

中村氏(なかむらし)

相模国中村に勢を張る。

三浦氏(みうらし)

相模国三浦郡に勢を張る。三浦介。

大庭氏(おおばし)

相模国。

梶原氏(かじわらし)

相模国。

長尾氏(ながおし)

相模国。

千葉氏(ちばし)

平忠常の子常将が下総国千葉郡に住して名乗った。
下総国。千葉介。

上総氏(かずさし)

上総国。上総介。

武田氏(たけだし)

武田氏は清和源氏新羅三郎義光の子義清を祖とし、義清が甲斐国巨摩郡の荘官となって定着、甲斐源氏となった。鎌倉幕府の創設には源頼朝に属して活躍し甲斐を領有し続けた。応永二十四年(1417)の上杉禅秀の叛に十代信満が加担して自害し、以後同国を統治する者が出なかったが、永正四年(1507)に家督を継いだ十六代信虎が統一し、十七代信玄において全盛を迎え、十八代勝頼で壊滅した。(『伽婢子』2人名索引)

《橘姓》(たちばなせい)

○養老八年、従三位葛城王に橘姓を賜り名を諸兄と改む。これ橘姓のはじめ。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

伊達氏(だてし)

始祖は藤原鎌足を流祖とする藤原魚名の末藤原(中村)実宗の後裔中村朝宗。藤原氏。
常陸国真壁郡伊佐荘中村(茨城県下館市中村)を本領とする朝宗が文治五年(1189)、源頼朝の奥州征伐に四人の子供を従軍させ、伊達郡(福島県)阿津賀志山の闘いで大功を上げたことから、頼朝よりその論功行賞で伊達郡を賜り、伊達氏を称したのが始まり。
伊達は古くは「イダテ」と読み、後「ダテ」に転訛したといわれ、『保暦間記』や延元年間(1336〜40)の『白河文書』にも「イダテ」が見える。正宗がローマ法王に宛てた書状にもローマ字で「イダテ」と書かれ、正宗時代でも古式にのっとった公式文書などには「イダテ」を用いたようだ。伊達を名乗る前までは、朝宗の本領地の伊佐、または中村を称していた。
朝宗の本領は長子為宗が継ぎ、伊達領を継いだのは次子宗村で、この宗村が奥州伊達氏の祖となった。始祖朝宗、二代宗村の時代の居城は高子岡城(福島県伊達郡保原町)で、三代義広に至り伊達郡桑折の粟野大館に移住、亀岡八幡宮を城辺に遷座した。
南北朝時代、奥州南朝(宮方)の武将として七代伊達行宗(行朝、左近蔵人)が現われ、建武の中興にあたり白河の結城氏らとともに奥州武将代表の形で式評定衆に名を連ねた。延元二年(建武四年)、南朝方の国府多賀城が北朝軍(武家方)に落され、行宗は国司北畠顕家を霊山城(伊達郡霊山町)に迎え南朝方の拠点として北朝方と戦うが、八代宗遠の時代に南奥最後の南朝方拠点宇津峰城(須賀川市)が陥落すると、伊達氏も北朝方に転じた。
九代政宗(初代)は奥州随一の武将といわれ、探題大崎詮持が北畠国詮の所領加美・黒川両郡を横領したのを止めさせるなど、大崎氏以上の探題権を行使した。後に独眼竜政宗として名を残す十七代政宗は、この初代政宗の勇名にあやかったのである。

千葉氏(ちばし)

平良文の孫平忠常を祖とする。坂東八平氏の一。平氏。
始祖の平忠常の子常将が下総国千葉郡に住して名乗ったとされる名族。北斗七星の剣光を祀る武の神「妙見菩薩」を守護神とし、家紋も九曜を用いている。
千葉という姓は、「樹木が多く、実り豊かな土地」の意。また、アイヌ語の「ティップ・パ」(船着き場)から来ているという説もある。
千葉氏中興の祖と言われる千葉常胤は、十八歳で家督を継ぎ、下総権介に任官、相馬御廚の下司を勤めた。頼朝の挙兵で一旦敗れた頼朝が、房総から再挙兵した際には、常胤父子が頼朝に与し、近隣の豪族の頼朝への帰属に影響を与えた。

十七代胤直の時、公方方と管領方に別れ抗争、内紛から千葉氏の勢いは衰える。戦国期にはかろうじて北条氏に従い命脈を保つが、小田原の陣で北条氏とともに滅びた。

分流に原氏、馬加(まくわり)氏などがある。

津軽氏(つがるし)

大浦為信を津軽氏初代とする大名家。藤原氏。
弘前藩の遠祖とされるのが、南部下久慈から津軽鼻和郡種里に三十二歳で入部した大浦光信といわれ、光信は入部すると直ちに下流の赤石に城を築き、子の政信の次男守信を据えた。さらに大浦城を築いて養子の盛信を置く。自身は種里を離れることなく生涯を閉じ、家督をついだのが大浦城の盛信で、盛信の後を受けて政信が第三代となり、守信と続く。その後を受けたのが為信で、為信の出自には二説ある。南部久慈側の系図には南部一門の平蔵為信、五郎清信の二人が、津軽に行き石川高信の家臣となり、さらに大浦氏に養われて大浦平蔵と改め、右京と称したとあり、津軽側の系図では、堀越城主武田守信の子で、幼名を扇と称していたが、大浦守信の長子為則の娘阿保良(戌姫)の婿養子となり、永禄十年(1567)三月、大浦城に入り、大浦右京亮為信と名乗ったとされている。いずれにしろ、この為信が津軽を統一し南部氏から独立。秀吉から領土安堵の朱印状を得た後、近衛家から庶流と認められて、近衛家の家紋に良く似た杏葉牡丹の紋所の使用を許可され、津軽氏を名乗った。関ヶ原では東軍に属し、徳川幕府から領土を安堵され、津軽藩として幕末まで続く事になる。

大浦氏参照。

柘植氏(つげし)

柘植氏は伊賀国柘植郷から起こる。伊勢小造家に仕えた柘植三郎左衛門は、より高い立身を計り同郷の滝川三郎兵衛とともに、織田信長の臣滝川一益に内通し、永禄十二年(1569)信長を伊勢に導き入れ、伊勢国司北畠家の滅亡に加担したといわれる。(『伽婢子』2人名索引)

筒井氏(つついし)

筒井氏は大和国添下郡筒井(現郡山)から出た土豪で、興福寺の衆徒(僧兵)となり、南北朝の動乱期に勢力をのばし、室町期には衆徒の棟梁となり、応仁の乱を経て、順昭の頃大名化して大和を押さえた。子の順慶の時信長と結んで松永久秀を破り大和一国の領主となる。(『伽婢子』2人名索引)

土岐氏(ときし)

源光衡を祖とする。源氏。
清和源氏の源頼光を祖とする美濃源氏で、頼光から五代目の光基の養子光衡が、美濃国土岐郡大富に住して土岐を名乗った。光衡は光基の弟の次男で、頼朝に従って大功をあげ、美濃国守護に任ぜられた。
六代頼遠は厚見郡長森城に本拠を移し、尊氏に従って戦功が多く、「御一家の次、諸家の頭たるべき」と言われ管領の次に列席するが、驕慢になり天皇の行列を犯す不敬罪を起こすなどで、幕府から斬罪を命じられている。
明智光秀、金森長近、仙石秀久、三河の菅沼氏、播州赤穂の浅野氏などは土岐氏の同族とされ、江戸幕府の大老となった土井利勝、同じく江戸幕府で老中となる土岐頼稔などが同じく土岐一族とされる。

徳川氏(とくがわし)

松平広忠の子家康を祖とする。
源氏の系図を元に家康は自家の先祖を源氏とするため、松平家の祖を世良田頼氏の曾孫満義に求め、その孫親季が徳川郷に住んだ時、徳川を名乗ったことから自らの姓を徳川とした。
このとき、松平を徳川に結びつけるために、親氏が松平郷に来て松平の養子となり、以後松平を称していたが、もともと親氏は新田源氏の出身だったと説明する。こうして新田源氏の末流吉良氏から系図を譲り受け、親氏以前の系図を作成したとされている。
また、家康の祖父清康は世良田を名乗ったともいわれる。それは、大樹寺(愛知県岡崎市)に清康が建立した逆修供養塔の棟礼に世良田二郎三郎清康と書かれ、また、世良田清康と署名された清康の発給文書も残っていることからきている。すなわち世良田も徳川も新田氏所縁の姓で、隆慶一郎は影武者に世良田と名乗らせた。

世良田氏と徳川氏(せらたしととくがわし)

世良田(せらだ)や得川(徳川)という名は、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)の郷名。上野国新田荘は源氏の末裔新田氏が所領していた地で、新田義重の子義季は新田荘徳川郷にいる時徳川義季を名乗り、その長子頼有は徳川(得川)、二男頼氏は世良田姓を名乗った。

群馬県太田市の隣、新田郡尾島町には世良田という地名が今も残り、世良田東照宮が有る。この東照宮は得川義季(とくがわよしすえ・新田義重の子、八幡太郎義家から見ると曾孫)が開基となった長楽寺に有り、寺の住職だった天海が徳川発祥の地である世良田に誘致。日光東照宮の奥社を寛永十九(1642)年に移築し長楽寺の復興をはかったとされている。
※この尾島町には「縁切寺」として「松ヶ岡・東慶寺」と並び称される「満徳寺」(満徳寺跡)もあり、隆慶ファンとしては一度訪れてみたい町のようだ。

戸沢氏(とざわし)

四条天皇の子尾輪親王を祖とする四条平氏。
支場院の子尾輪親王は臣下に下って平氏を名乗る。その子兼盛は從三位中将に任ぜられ、陸奥国岩手郡雫石庄戸沢に移り住んだ。そこで尾輪平兼盛は名を戸沢に改めた。
その子孫十代家盛の時に出羽国角館に進出。
家盛から七代後の盛安は、弱冠ながら才智あって、夜叉九郎の異名をとる猛将で、治部少輔に任じられた。天正十八年(1590)秀吉が小田原を攻めた時には、東北の武将の中で真っ先に参陣。秀吉を多いに喜ばせ領地安堵の朱印状を貰っている。しかし、盛安はその陣中に没し、弟盛光が継いだ。その盛光も朝鮮出兵で肥前名護屋に赴く途次、病没した。まだ独身だった盛光には嗣子が無く家臣等は窮地に陥る。その時、家臣の一人が、先君盛安に遺児のいることを打ち明けると、まだ三歳だったその遺児を急遽継嗣に定め家督を継がせた。成人したその遺児は盛政と名乗り、関ヶ原では東軍に与し、常陸国多賀・茨城二郡を賜り角館から国替えする。大坂陣後には出羽国最上・村山二郡に国替えとなり、最上郡新庄に城を構えた。以後、戸沢氏は新庄六万石城主として明治を迎えている。

豊島氏(としまし)

江戸氏と同じ頃、秩父平氏の一族が豊島に住して名乗る。

な行

内藤氏(ないとうし) 

内藤氏(幕臣)

三河譜代の徳川家家臣で、内藤済成は家康の関東入封に先立ち、青山忠成とともに地ならし役を勤めた。
新宿の名の元となった内藤新宿の内藤は、内藤家の領地であったことから名付けられた宿名だが、この内藤家にちなんでいる。

内藤氏(長門)

藤原道長の子頼高を祖と称し、鎌倉時代には尾張国に所領を持つ幕府御家人であったという。その後、西遷して周防国に所領を得、惣領家・庶子家が分かれて戦ったが、室町期、内藤盛貞(智得)のとき大内盛見に属して以降、代々大内氏に従い、長門国守護代職を勤めた。

長尾氏(ながおし)

高望王の孫平忠通の二男景成の子景政を祖とする。平氏。
長尾氏の系図は複雑で、平良文の二男忠道あるいは三男景村を祖とし、その七代後を上野長尾氏の始祖景為とする説、あるいは、景政を忠道の五男とする説もある。
いずれにせよ、平氏の系統で、景政が相模国長尾郷に住して称したとされる。当初、長尾氏は鎌倉氏を称していたが、頼朝が鎌倉殿と呼ばれるようになった為、長尾氏に替えた。
その五代景能の子景為が上野国に移り上野長尾氏の始祖となり、その弟景桓が越後長尾氏となる。その後、足利長尾氏が別家を起し、長尾氏は鎌倉、上野、足利、越後の四家に別れた。
建武四年(1338)、藤原(上杉)重房が鎌倉六代将軍宗尊親王に供奉して鎌倉に下向した時、長尾氏は重房の介添役となり、以降、上杉氏に仕え、代々上杉家の家宰を勤め、各地の長尾氏は上杉氏が守護を務める国の守護代となっている。越後守護代長尾氏の八代が長尾景虎(上杉謙信)である。

成田氏(なりたし)

小野泰、あるいは藤原宣直を祖とする。小野氏または藤氏。
成田氏は、平安後期、小野篁の子孫小野泰が武蔵守に任ぜられ、その子義孝が武蔵七党の横山党を起し、その孫成任が騎西郡成田郷に住して名乗ったといわれる。
藤また、藤原道長の末裔が武蔵国騎西郡成田郷に住して名乗ったとも、武蔵守として下向した藤原伊尹の子孫藤原宣直が成田郷に住して名乗ったとも言われる武蔵国の名族。鎌倉時代には代々下総守を拝命、成任の子七郎助綱の四代顕泰は、武蔵国忍郡(埼玉県行田市)の忍一族を攻め滅ぼし、その地に忍城を築き、以降忍城が成田氏の本拠となる。小田原北条時代は北条氏に従うが、小田原の陣で小田原城籠城中に難攻不落の忍城を密かに開かせ、陣後、秀吉から領地を安堵される。徳川政権下でも大坂役に参陣し、加増されるも、相続を巡る内紛で一万七千石を没収される。さらに元和八年(1623)、当主房長が急死、嗣子がなく、幕府に弟泰直を後嗣に願い出たが許可されず廃絶となった。

南部氏(なんぶし)

若狭武田氏の支流。源氏。
奥州南部氏は平泉藤原氏の滅亡した文治五年(1189)、従軍の功により陸奥国額部郡地頭職に補任された南部光行を始祖とする。
光行は甲斐国巨摩郡南部郷を本領とする武士団の頭領だが、その祖は源新羅三郎義光から起こった武田氏の義清、そこから起こった逸見氏の清光、さらに加々美氏を称した遠光と続き、光行はその加々美遠光の子である。
その後、光行の後裔南部師行が陸奥守北畠顕家から北奥州の奉行に推挙され、額部郡八戸根城を拠点とするにいたった。南北朝時代には、南朝方として足利氏と戦い、その地盤を強固なものにした。とりわけ、二十四代晴政の代には他を圧倒するほどにその領地を拡大した。戦国中期の天文・永禄頃、三戸を拠点とする晴政は額部産出の駿馬を使った騎馬隊を駆使し、四隣を掠奪・侵略して奥州随一の戦国大名にのし上がっている。その晴政にも思うに任せぬ事があった。それは世継ぎの問題で、大勢の妻妾を抱え子を産むが、後を継ぐ男子に恵まれず、やむなく長女の婿信直を養子に迎え、嫡子とした。信直は晴政の叔父で三戸田子城主高信の長子であったが高信が銀台城主一方井定宗の娘に生ませた庶子であったことから、男子のいない本家に預けられ養子待遇で処されていたこともあり、家臣の誰もが晴政の後を継ぐのは聡明な信直かと思っていた。そこで終っていれば何の問題もなかったのだが、信直を養子とした直後に、晴政に実子鶴千代が生まれる。晴政は戦上手ではあるが、素行は極めて乱暴で、異常性格ともいえる性格破綻者でもあった。ために晴政の性格を良く知っていた信直は、すぐさま養子縁組を辞退するが、実子可愛さのあまり、晴政は僅かでも晴継の相続に障害となる恐れの信直を黙って生かしておくことが出来なかった。晴政は信直を亡き者にしようと密かに暗殺の機会を狙う。ある時、信直が郊外の毘沙門堂を参詣するという情報を掴んだ晴政は、手兵を引き連れ信直一行を急襲する。信直は重臣川守田常陸の屋敷に逃げ込み、その場は何とか難を逃れたが、これで晴政が諦める訳がないと判断した信直は、一族の実力者八戸城主八戸薩摩守政栄のもとに身を寄せて、晴政からの執拗な仕打ちから逃れることに成功した。この南部家を巡る家督相続の騒動は、数年後、まだ幼い鶴千代が晴継と名を改め第二十五代当主となることで決着。それも束の間、天正十年(1582)正月、晴政が死去したと思うと、その僅か二十日後に晴継が頓死する。晴継はまだ十三歳だった。晴政・晴継親子の死によって、南部氏の直系が絶えたことから、再び相続問題が再燃、先に養子縁組を辞退した信直の存在が重みを増してきた。しかし、この間に、信直の妻も死んでいて、本家とは遠くなっている。一番本家に近い立場にあったのが、次女の夫九戸実親だった。南部本家は信直支持派と実親支持派に割れ、一触即発の事態となった。両派の抗争暗闘が続く中、一族重臣による相続会議が開かれる事となり、大勢が実親に傾きかけた時、五女の夫北房愛の父信愛が会議の席上「南部家を継がれるお方はすでに決まっている。いまさら論議するまでもない」と声高に叫ぶと、用意しておいた侍百人、鉄砲百挺の武装兵力で一座を威圧し、かねて迎えておいた信直を有無を言わせず第二十六代当主に据えてしまった。いわば北房愛のクーデターが成功したのだった。信直は南部大膳大夫となると、直ちに前城主晴継の葬儀を行なったが、参列を拒否した家臣が多かった上に、葬儀場とした万年山聖寿寺からの帰途、暗殺者集団に襲われた。干戈を交える事数刻、信直はなんとか城に戻った。そこからの信直の行動は実に見事なもので、城に入るやいなや、すぐさま全家臣の総登城を命じ、命に服さぬ者は反逆者とみなす、と触れたのであった。信直のライバル実親の父親で、信直が南部家を相続してからもなお、実親に期待をつないでいた九戸政実以下十人の武将たちも、こうなれば反抗を中止せざるを得なかった。なぜなら、下手をすれば反逆者の烙印をおされ、とことん追いつめられる恐れがあるからと、全面抗争を行なうほどの武力が準備されていなかったために、大人しく矛を収めるしかなかったのだと言われている。
こうして九戸氏の乱を鎮めた信直に、新たな問題が生じる。津軽郡代で信直の弟石川政信の家老大浦為信が、郡代の急死で叛旗を翻し、郡代の拠点である浪岡城を急襲、占拠するという事件が起こった。急報を受けた信直は、ただちに浪岡城奪還のための行動を起す。まず九戸政実らに先鋒を命じるのだが、政実らはその出陣命令を拒否し全く動こうとしなかった。これは大浦為信と九戸政実が密かに通じ合っていたためといわれ、これで為信の津軽独立が成ったのだった。この事件の起きた天正十八年(1590)は、関東では秀吉政権による小田原攻略が行なわれていて、為信は直ちに関東へ赴き、秀吉に謁見すると所領安堵の朱印状を賜っている。これで南部氏にはもやは津軽奪還の名分がなくなってしまった。
翌、天正十九年、先に津軽の独立が成功したのを受けて、今度は九戸政実が南部氏からの独立を目論んで信直に叛旗を翻した。政実の軍は南部氏の諸城に殺到し激しい攻撃を加える。が、小田原陥落の前と後では情勢が一変していた。この時、秀吉は小田原攻略の余勢をかって、厳しい奥州仕置を行なうために、大軍を北上させていた。信直は秀吉に使者を送り、鎮圧を依頼。それを受けた秀吉は、秀次の軍十五万を南部領に差し向け、九戸の乱を鎮圧する。厳しい仕置を覚悟していた信直は、前田利家の斡旋もあって、北上川沿いの和賀、裨貫、斯波三郡の加封と南部領一万石の領地を確定させることができ、拠点を三戸から盛岡に移した。こいうして盛岡藩が誕生し、南部氏二十万石の盛岡藩は幕末の第四十代利剛まで続くことになる。戦国期から幕末まで、元の領地で存続した大名家は、この南部家と薩摩の島津家だけである。

二階堂氏(にかいどうし)

藤原南家工藤為兼を祖とする鎌倉幕府御家人で文吏の工藤山城守行政が始祖。藤氏。
二階堂という姓の由来は、平泉征討で目にした奥州藤原氏建立の二階大堂に感銘した頼朝が、それを模した堂を鎌倉に建てて、そこが二階堂という地名になり、そこに住した山城守行政がそれを氏として名乗ったことに始まる。

二階堂氏(須賀川)

奥州須賀川の二階堂氏の起こりは、十三代後の二階堂為氏の時、所領の統治を任せていた代官の治部大輔が年貢を納めなくなったことから、為氏自らこれを攻め、治部大輔を城から追い出して須賀川城に入城したことによる。
須賀川二階堂氏は他の南奥州の小領主たちと同じく、芦名、伊達の両雄の狭間で苦慮する。十八代盛義の時、芦名氏との戦い敗れ、子の盛隆を人質として差し出した。その芦名家で予想外のことが起こる。芦名氏十六代盛氏が隠居し十七代を盛興を当主に据えるが、その盛興が二十九歳で没し、再び盛氏が当主の座につくが、盛氏は人質の盛隆を養子とし、盛興の未亡人を嫁がせ十八代当主に据え、盛隆は二階堂と合わせ両家の当主となり、芦名、二階堂は一体化する。ところがその盛隆が家臣に弑逆されて死亡。盛義の未亡人が
須賀川城を守っていたが、天正十七年(1589)、伊達政宗に攻められ滅亡した。


は行

畠山氏(はたけやまし)

畠山氏(二本松)

畠山国氏の遺児国詮を祖とする。源氏。
鎌倉幕府の御家人畠山重忠は、鎌倉武士の鑑と言われた人物で、人望が篤かった。その重忠が執権北条氏の策略で敗死。その妻が下野(栃木県)の豪族足利義純(足利義兼の次男)に再嫁する。義純は重忠の旧領を継承し畠山を名乗った。
四代後の高国に至り、南北朝の動乱が始まり、高国は足利一門として高師直に従い、子の国氏とともに奥州に転戦した。霊山や宇津峰の戦いを経て、貞和二年(1346)、吉良貞家と奥州管領に補任された。この高国から二本松に住し、国氏が管領を継ぐ。やがて奥州管領が対立し、中央では足利尊氏と直義兄弟が争い、国氏は直義に付き、宮城郡の岩切城に拠った。観応二年、国氏は吉良貞家に攻められ自決。国氏の遺児大石丸を家臣の箕輪貞家が、会津の山中に連れて逃げ、大石丸は長じて国詮と名乗り元の安達郡二本松に戻り、二本松畠山氏を名乗った。これが二本松畠山氏で二本松氏とも言う。
しかし、この奥州管領畠山氏の権勢は、徐々に衰え奥州管領職を大崎氏に奪われると、かっての勢いを無くし、さらには奥州の二大勢力となった芦名氏と伊達氏に常に狙われる。
高国から十代の義継に至り、戦国動乱の虚々実々の駆け引きの中、ある時、義継が伊達輝宗を拉致したため、父を取り戻そうとした政宗により義継は銃撃され死亡、人質となっていた輝宗も畠山勢に殺され、怒った政宗により、天正十四年(1586)、二本松城を攻められ義継の子国王丸が良く守るも落城し、二本松畠山氏は滅亡した。
国王丸は会津に逃げたという。

広橋氏(ひろはしし)

広橋家は藤原北家出身の日野兼光の五男頼資を祖とし、代々、内大臣に任ぜられることが多かった。また、広橋兼秀の伯母守子が後柏原天皇の乳母であったように、天皇の乳母を多く出している。

《藤原姓》(ふじわらせい)

中臣鎌足を始祖とする姓。
鎌足以降、藤原氏が朝廷の実権を握り、その子孫は代々朝廷の要職についた。

○天智帝八年、鎌足へ大織冠と云ふ官を賜わりて、中臣を改めて初て藤原姓を賜。大織冠は正一位にあたる官なり。藤原は鎌足のむまれたる在所の名なり。其年薨ず。歳五十と云ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
一、藤原氏の始を、大織冠と云ふ、何なる心ぞ。
天智天皇の御時、二十六階の冠を作給ふ。二十六階と云ふは、大織冠、小織冠、大縫冠、小縫冠、大紫冠、小紫冠、大錦(上中下)、小錦(上中下)、大山(上中下)、小山(上中下)、大乙(上中下)、小乙(上中下)、大建、小建、已上二十六階。此の大織冠はをりもの冠也。をりものを以て作れり。繍を冠のへりにたていれたり。是をきる人の袍の色は、こき紫也。
天智天皇八年冬十月に、天皇東宮(天武)を大臣(鎌足)の家に遣して、此の冠をさづけ給ふ。其の時始て藤原の姓を賜はる。鎌足は此の冠を給たる人なれば、冠の名を大織冠とは申す也。後に又十九階の冠になされたる時も、大織冠はあり。十九階の冠は、ことながければしるさず。又十三階の冠と云ふ事もあり。此の外に鎧冠あり。今の世にもちゐる物也。(『塵袋』五)

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)

「将門の乱」で、平貞盛と共に追捕に参加した関東の乱賊藤原秀郷を始祖とする藤原氏。
奥州の支配者安倍氏を「前九年の役」で滅ぼし、陸奥六郡の支配者となった出羽の俘囚の長清原氏の内訌に乗じ、陸奥守となった源義家が東北の征服を目論み、清原氏を攻めた「後三年の役」で、その義家に協力した藤原清衡がまんまと東北の主に収まり、平泉に本拠を構えた。これが奥州藤原氏四代の祖となった。

細川氏(ほそかわし)

細川氏は清和源氏、義家流、足利氏の支族。義家の孫義康(足利家祖)の曾孫義季が三河国細川荘に住したことに始まる。足利尊氏の挙兵に従い、室町幕府の管領家として、讃岐・阿波を中心に河内・和泉等で大勢力を誇ったが、応仁の乱後次第に衰え、家臣の三好によって晴元の代に殆ど権力を失った。その後、支流の藤孝(幽斎)・忠興父子が再興し、この筋は豊臣・徳川に仕えて、忠興の子忠利は肥後熊本五十四万石の領主となった。(『伽婢子』2人名索引)

本阿弥姓(ほんあみせい)

『近代世事談』に『雍州府志』からとして、本阿弥という姓は足利尊氏の時代、鎌倉に住していた妙本阿弥という者が、尊氏に従って京に上り本阿弥を名乗ったとある。この妙本阿弥は本性松田氏で、その家の嫡子が代々妙本阿弥を名乗り、鎌倉で刀剣目利き、研磨などを業としていた。後に本阿弥清信が足利義教から、その功により光の字を賜り、剃髪して本光と号したことから、以後代々諱に光の字を付けるようになったという。
『岩波古語辞典』には「刀剣鑑定の名家。室町初期の本阿彌長春に始まり、以後歴代刀剣鑑定に従い、七代以後十一分家が生じて本阿彌十二家と称した。近世初期の光悦が特に有名。また、一般に鑑定家の称となった。」とあり、ここでいう本阿彌長春と妙本阿弥は同一人かと思われる。さらに『大言海』には、
本阿彌 (一)鑑定家の通称。刀剣の新古、及、真贋の鑑定、并、刀研の家の名を観る人。足利尊氏の時、鎌倉の妙本阿彌と云ふもの、京都に住す、これを祖とす。後、氏となる。 
とあり、続けて『雍州府志』の一文を掲げている。
雍州府志、七、土産門、下「磨刀、相伝、足利尊氏卿之時、相州鎌倉有2妙本阿彌者1、専相2刀剣之新旧真贋1、并事2磨礪1、尊氏卿入洛日、従レ後而来、遂住2京師1、元松田氏也、然始妙本嫡流一人、以2本阿彌1為2称号1、自レ茲後一家中為2嫡子1者、亦称2本阿彌1、至2庶子1不レ能レ称2本阿彌1、用2本氏松田1、云々、凡擇2刀刃之新旧真贋1、則嫡流本阿彌某宅聚2一族1、相共撰2擇之1定2真贋1、并茎無2冶工之名1、則擇2其所レ作之巧1、謂2何国誰某之所レ1作也、倭俗是謂2目利1、於レ茲本家嫡流一人出2折紙1、其法、白紙横折レ之、其中央書2鍛工誰某作而価幾何1也、其終貼レ印、凡価黄金五枚以上、称2折紙1、自2黄金一枚1至2四枚1、謂2之礼物1、白紙細切レ之、其表記2誰氏作代幾何1也、上古無レ紙、元簡木札記レ字、其後以レ紙雖レ代レ之、直謂レ札」

○家研(いえのとぎ)
本阿彌家を称す、雍州府志に云、尊氏公の時、鎌倉に妙本阿彌と云あり、専に刀剣新旧真贋を相し、并に磨礪を業とす、尊氏公入洛の時、従ひ来り京師に住す、元は松田氏なり、妙本嫡一人本阿彌と称し、又一家の内も、嫡子ならざれば、松田を名乗也、又光の字を諱に加ふる事は、普廣院義憲公の時、本阿彌清信と云あり、此人功あつて、剃髪の後本光とめさる、これより一家光の字を通字とす、(『近代世事談』巻之三)

ま行

松平氏(まつだいらし)

三河国松平郷が姓の由来。出自不詳。
松平氏は三河の山間部松平郷から出た土豪で、まず家康から九代前の親氏が山間十七ヶ村を切取って小領主として台頭したことに始まる。二代泰親は三河の中原に進出し、岩津・岡崎の二城を構えた。三代信光は西三河の安城に進出し、ここを拠点に勢力を拡大する。 

【十八松平の成立】

三代信光には四十八人の子女がいたとされ、信光はそれらを各地に分封、あるいは国内の有力な領主に嫁がせ血縁関係をつくり勢力の拡大を図った。この時に分家して出来た庶家が、竹谷(たけのや)松平・形原(かたのはら)松平・大草松平・五井(御油)(ごい)松平・深溝(ふこうず)松平・能見(のみ)松平・長沢松平の一族七家である。一族の分封はその後も行われ、四代親忠のときに、大給(おぎゅう)松平・滝脇(たきわき)松平がつくられ、五代長親の代には福釜(ふくがま)松平・桜井松平・東条松平・藤井松平が立てられ、六代信忠のときに三木(みつき)松平が起こされる。この他、諸書によって異同がある岩津松平・宮石松平・鵜殿松平・石川松平の四家を合わせて十八家の松平家が起こされた。こうして三河の主要な地は松平一族によって領される。しかし、こうした同族による分封支配は長くは続かなかった。やがて同族間の争いや庶家が宗家を脅かすようになり分裂の兆しをみせる。七代清康はこうした庶家の分治を改め、宗家の下に明確に位置付けるため、宗家に忠誠を誓った譜代の家臣と同等の扱いを行う。こうして、後に徳川政権を支える松平一族と三河譜代の二本柱の体制が形成された。

【三河譜代】

譜代は、もともと在地の小領主だったものが、早くから宗家に仕え、長い間宗家と運命をともにしているうちに、特別に強い主従関係が生まれたもので、宗家の忠実な直臣団であるとされる。これらの譜代は、宗家に服属する時期によって、松平郷(岩津)譜代・安城譜代・山中譜代・岡崎譜代に分けられる。
松平郷譜代・安城譜代は、初代親氏から三代信光を経て、七代清康が居城を安城から岡崎に移すまでに服属したもので、最古参の直臣団である。初代親氏の庶子広親を始祖とする酒井氏をはじめ、本多・大久保・内藤・鳥居・平岩・石川・青山・阿部・成瀬・渡辺・植村の各氏をいった。山中譜代は、大永四年(1524)、七代清康が一族松平信貞の反抗を押さえるために、居城を安城から岡崎に移したさいに服属した信貞の家臣をいう。岡崎譜代は、七代清康の岡崎入城から八代広忠を経て、家康が居城を岡崎から浜松に移すまでに服属した家臣で、その中には、榊原・松井・伊奈・天野・安藤・永井・久世・米津・大岡の各氏の他、清康の東三河平定のさい服属した牧野・戸田・奥平・菅沼の各氏が含まれる。

松前氏(まつまえし)

若狭武田氏の支流。源氏。
前の氏は蠣崎。初代松前藩主となった蠣崎慶広が、慶長四年(1599)、秀吉没後に実権を握った豊臣政権下の徳川家康に謁した時に、氏を蠣崎から松前に改めた。
その後、松前氏は関ヶ原に東軍として参陣、幕府成立後には家康より蝦夷地支配権を認める黒印状が下賜され、松前藩が成立。以後、明治まで松前氏支配の松前藩が存続する。

蠣崎氏参照。

万里小路氏(までのこうじし)

万里小路家は、藤原北家勧修寺流で吉田資経の四男資道を祖とし、南北朝時代、嗣房の頃、万里小路姓を名乗った。嗣房以来内大臣に任じられる名門。
戦国時代には、能証院内大臣と呼ばれ正二位に叙せられた万里小路秀房は、息女貞子を大内義隆に嫁がせ大内氏と姻戚関係を結び、その力に頼った。また貞子の妹(清光院)は正親町天皇の後宮に入り、誠仁親王(陽光院門跡)を生んでいる。

皆川氏(みながわし)

小山政光を祖とする。藤氏。
藤原秀郷の子孫小山政光を祖とした結城氏の同族。小山氏初代の長子朝政が小山氏を継ぎ、その弟二男宗政が長沼氏を名乗り、その孫宗員が下野国都賀郡皆川荘に居館を構え皆川四郎左衛門尉宗員と名乗る。その後、六代宗常の時、鎌倉執権北条高時に背き、元亨三年(1323)、所領を没収され生害して皆川家は断絶した。それから七十数年後、先に奥州に移住していた長沼紀伊守秀光が本家小山家を頼って下野に戻り、栃木に挙を構えるが、その子秀宗が永享元年(1429)頃、皆川に城を築いて皆川家を再興。こうして重興皆川氏の初代となる。
皆川氏は戦国期を合戦に明け暮れる日々をおくるが、五代広照の代に小田原北条氏に拠り秀吉の小田原陣で秀吉の軍に攻められ皆川城は廃墟となった。しかし、広照自身は密かに小田原城を抜け家康を通じて降伏したため、所領の三万五千石は安堵された。いがて家康が天下を取ると、広照は家康の六男忠輝の附庸大名となり信州飯山に四万石加増され、七万五千石の大名となるが、忠輝改易を受けて皆川広照も所領を没収された。
以後、皆川氏は五千石の旗本として存続する。

《源姓》(みなもとせい)

一般には、源氏(げんじ)と呼ぶことが多い。源を姓(かばね)とする氏続の総称で、天皇が臣下に下り武家となったその皇子に賜った姓。複数の天皇の皇子が源姓を賜っていることから、天皇の諡によって、それぞれ宇多源氏、清和源氏などと区別して呼ぶ。

[宇多源氏](うたげんじ)

宇多天皇第九皇子敦実親王を祖とする源氏。親王の王子雅信・重信・寛信の三人が源氏の姓を賜った。

[清和源氏](せいわげんじ)

清和天皇(850〜880)の孫経基王(つねもとおう)が源氏の姓を賜り、臣下に下ったのに始る。清和天皇が源氏の姓を与えた王子は何人かいるが、経基王の系統だけが栄えたことから、清和源氏の始祖は経基王となった。
清和源氏は源満仲の代に藤原氏との関係が強まり、藤原良房の子孫(藤原北家)が天皇の外戚となることに協力し、摂関家の地位を確立するのに一役かったとされる。

満仲の本流は、頼信、頼義、義家、義親、為義、義朝と続き、義朝の二男頼朝が鎌倉幕府を創る。
為義の二男義賢の子が義仲(木曽義仲)。
満仲より三代後の義家の次子義国が、新田氏の祖となる義重、足利氏の祖となる義康の父親。

《三宅姓》(みやけせい)

[田道間守(たじまもり)は三宅連の始祖である](『日本書紀』巻第六)
田道間守は、『日本書紀』によれば新羅王の子天日槍(あめのひほこ)の曾孫。

三好氏(みよしし)

三好氏は清和源氏、義家流、甲斐小笠原氏の支族。阿波国三好郡を本拠とした。三好之長の頃、細川氏に従って畿内に進出し、永正年中、之長は細川澄元の先陣として入京。その間、管領細川家の内紛とともに浮沈を繰り返し、一時は阿波に逃れるが、大永六年(1526)に之長の子元長が澄元の子晴元を擁して挙兵し、翌七年細川高国を追い、足利義維を立てて和泉堺に幕府を置き、享禄四年(1531)には高国を摂津天王寺に破って晴元政権を確立させた。翌年元長は、晴元に攻められ敗死するが、天文十七年(1548)元長の子長慶が高国の養子氏綱を擁立して挙兵し、同十八年将軍義輝と管領晴元を追い、三好政権を確立、畿内を中心に八カ国を一族で領有する全盛期を現出した。(『伽婢子』2人名索引)

毛利氏(もうりし)

戦国時代、守護大名大内氏、尼子氏を滅ぼし、中国地方の大大名として名を馳せ、また村上水軍を傘下に入れて本願寺顕如に援助を行なうなど信長に対抗、その後、和睦し、秀吉政権下で五大老に列した。

毛利氏は鎌倉幕府の功臣(公文所初代別当)大江広元から相模国愛甲郡下毛利荘を譲り受けた四男季光が、毛利を称したことから始る。
大江広元は土師氏を祖とし大枝姓を名乗った家系で、大江はその姓。大江匡房は広元の祖父にあたる。もとは「おおえのひろもと」といったが、武家の氏として認められ「おおえひろもと」と名乗った。その後、鎌倉幕府に反したことから、武家としての大江氏の嫡流は滅亡する。
季光の四男経光が越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職につき、その子時親から吉田荘に定住した。この時親から八代あとが毛利元就の父弘元となる。(『伽婢子』2人名索引)
こうして安芸国の地頭・国人領主として室町・戦国期を過ごした毛利氏は、周防の守護大名大内氏、出雲の守護大名尼子氏の二大勢力に挟まれ、常に存亡の危機のなかにあった。しかし、安芸国には有力な守護勢力が無く、国人領主が乱立していたことが毛利氏に活路を産むこととなる。
これら国人領主たちは、時に応じて大内氏に付いたり尼子氏に付いて生き延びるが、毛利氏はこれら国人領主たちとの同盟に強め、姻戚関係、兄弟関係を結ぶことで擬制的な血縁関係を築き自領の防衛を図ると共に、勢力の拡大に努めた。なかでも元就は、二男元春を吉川家に、三男隆景を小早川家の養嗣子に送り込み、毛利宗家とその両輪となる吉川・小早川両川体制を築き、嫡男隆元の妻に大内義隆の養女を迎えるなど政略的な婚姻、縁組を最大限に活用してその勢力を伸ばした。その後、大内氏の重臣陶氏が大内氏に叛き大内氏を滅ぼしたことから、元就は主君の敵打ちという名目で陶氏と戦いこれを破る。こうして中国地方の一大勢力となった毛利氏は、出雲地方の雄尼子氏とも戦い諸戦で尼子氏を破り、天正十九年の段階で、安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐の七カ国と備中半国、伯耆三郡の百二十万石を領する大大名にのし上がった。
毛利家を継いだ嫡男毛利隆元の子輝元は、秀吉政権下では徳川家康・前田利長らとともに五大老に列していたが、関ヶ原の役で石田方西軍に与したことから防長二国に減封。以降、周防・長門(山口藩・長州藩)藩主として明治に至る。

最上氏(もがみし)

足利一門斯波氏の子孫斯波(大崎)家兼を祖とする。源氏。
最上氏の始祖は、大崎家兼の次男家頼で、奥州探題職を任ぜられた家兼が最上郡に入部させた。家頼は最上に入るとすぐに山形城を築城する。二代直家は周辺各地に庶子を分封し、惣領制を取る。戦国期に入るとその惣領制も崩れ、支族間で対立、十代義定の時には隣国の伊達氏にも侵攻され、長谷堂城を落され山形城に肉薄され窮地に陥るが、伊達氏とどうにか姻戚関係を結んで和睦。十二代義光になって庄内の武藤義氏を倒し最上川流域の領地化がなった。小田原の役には参陣せず問責を受けるが、家康の取りなしで所領は安堵された。その後、会津に入った上杉氏と対峙。関ヶ原の前哨戦となる形で上杉軍と戦う。役後、上杉氏は米沢に減封となり、最上氏は新たに由利郡などを与えられ五十二万石の大大名になるが、慶長十九年(1614)、義光が没すると、最上氏は急速に没落への道をたどった。十三代義親が三十六歳で急死。僅か十一歳の義俊が十四代を継ぐが、我が儘な性格から家臣に嫌われ、叔父義忠を押す一派と内紛となり、幕府の介入を受けて所領は没収となった。

《物部姓》(もののべせい)

[「春日臣の族で、名を市河というものに(石上神宮を)治めさせよ」と述べられた。そこで市河に命じて治めさせた。これが、いまの物部首(もののべのおびと)の始祖であるといわれている。](『日本書紀』巻第六)
[大中姫命は、物部十千根大連に授けて神宝を治めさせた。物部連らが、いまに至るまで、石上の神宝を治めるのは、それによるのである](『日本書紀』巻第六)

や・ら・わ行

柳生氏(やぎゅうし)

柳生の里は、仁和元年(885)、関白藤原基経がこの地を荘園として、楊生四箇郷にまとめたことから始る。その後、長暦二年(1038)に関白藤原頼通が四箇郷を藤原氏の氏神春日社に寄進。社領はいつしか管理者四人が領することとなり、地方豪族の領地となった。豪族化したそのうちの一人で小柳生庄を管理した大膳長永が柳生家の始祖となったと柳生家の旧記『玉英拾遺』にあるが、定かではない。公然と柳生姓を名乗るのはそれから三百年後の播磨守永珍で、永珍は笠置山の僧となっていた異母弟の中ン坊源専(成就坊、のち伊予守)とともに後醍醐天皇に味方し、笠置が落城するとともに所領を没収されるが、建武の中興で復活した。

結城氏(ゆうきし)

秀郷流藤原氏の小山政光を祖とする。藤氏。
秀郷流藤原氏の小山政光の三男朝光が、寿永二年(1183)に源頼朝から下総国結城郡を与えられ結城氏を名乗る。
裕紀家の宗家になる嫡男朝広は鎌倉御家人として幕府に使えるが、執権北条氏の一族への権力集中と、四代、五代の夭折により家運が衰える。また三代広綱の弟祐広は陸奥国白河荘を拠点に白河結城氏を興し、白河結城第二代宗広は北条得宗について奥州御家人の地位を確保したが、後醍醐天皇が反北条の旗を掲げるといち早く天皇方につき、南北朝期には南朝方の重鎮となり、宗家を凌ぐ勢力となる。一方の宗家は、八代直光の代になって戦功を重ね、鎌倉公方足利氏を補佐し、失地を回復。しかし、関東公方と関東管領上杉氏の対立で、十代氏朝は上杉・幕府軍と戦い、公方持氏の敗戦により結城家も一時滅亡するが、氏朝の末子成朝が再興し、戦国期には上杉氏と北条氏の間で対応に苦慮しながら生き延びた。天正十八年(1590)、秀吉の養子羽柴秀康(徳川家康の二男)を養嗣子とする。そして、家督を継いだ秀康は越前に転封となり、その子忠直が松平姓に復したため結城宗家は消滅した。

竜造寺氏(りゅうぞうじし)

竜造寺氏は、藤原秀家が文治二年(1186)に肥前国佐嘉郡龍造寺郷の地頭職に補せられたのに始まるという。隆信の時に全盛を迎え、肥前全域のほか筑前の半ば、豊前・筑後・肥後北半まで支配し、九州で大友・島津氏と鼎立する力を持った。(『伽婢子』2人名索引)

留守氏(るすし)

伊沢家景を祖とする奥州の豪族。藤原氏。
留守氏は文治六年(1190)三月に起きた大河兼任の乱後、源頼朝によって「陸奥国留守職」に任ぜられた伊沢左近将監家景をもって祖とする。その出自は藤原姓で、家景は粟田の関白藤原道兼の門葉と伝えられている。
留守職は陸奥の勧農、その他の民生一般を司る公家型、文官型だったが、多賀城周辺の「高用名」と呼ばれた地頭職も兼ねていたことから、時代を経るうちに領主的な性格を強め、武家になってくる。留守氏を称したのは二代家元からで、三代家広あたりまでは「留守職」の権能を有していたが、建長八年(1256)頃からその権限を失い、一介の地頭となった。南北朝期、八代家次が「館応の擾乱」が起こり、畠山氏に味方した家次は敗け大正となり切腹、一時は滅亡の危機に陥るが、文和元年(1352)、足利尊氏から留守松法師が宮城郡などの領地を安堵され、滅亡の淵から浮上。しかし、応永年間に十一代詮家が一族の「村岡氏騒動」に巻き込まれ、奥州探題から切腹を命ぜられる。その家督を巡って兄持家と弟飛騨守三郎二郎が争い、伊達氏の支援を要請した持家が勝って十三代を継ぐが、これ以降、伊達氏の内政干渉が強まり、十四代に伊達持宗の五男を迎える事になった。永禄十年(1567)には嗣子に伊達晴宗の三男政景が迎えられるに及んで、留守氏は伊達氏の傀儡となった。そして、十九代宗利は氏を伊達に替え、留守氏は完全に伊達氏の中に取り込まれた。

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