小早川 秀秋(こばやかわ ひであき) (1577〜1602) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状
通称辰之助、のち左衛門佐、権中納言。金吾中納言。従五位下。諱は秀俊。北政所(高台院、おね)の兄木下家定の子。天正十二年、秀吉の猶子となる。
秀吉に寵愛され、天正十九年に小早川隆景の養子となり、筑前、筑後、肥前から二郡づつを貰い受け、参議従四位下右衛門督に任じた。文禄元年には権中納言、左衛門督に叙任。隆景没後、その家督を継ぎ、朝鮮の役に加わる。再征の時には元帥となり自ら敵兵に切り込み十三人を斬って功をあげるも、軽挙を問われ秀吉の叱責を受ける。その時、家康が弁護をしてくれたため、心が家康に傾く。その伏線が有って秀吉没後、関ヶ原では西軍に属してはいたものの、態度が固まらず、遂に戦半ばで西軍に叛旗を翻し、大谷吉継の陣を急襲して東軍圧勝の因を作った。戦後、宇喜多秀家の旧領を貰って岡山に住し、関ヶ原から僅か二年後、二十七歳で没した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
秀吉はこの秀秋を毛利家の養子に送り込み毛利家を縁戚として取り込みたかったという。そうした秀吉の動きを察した小早川隆景は、すでに毛利元就の九男秀包を養子にしていたにもかかわらず、毛利本家を守るために秀吉に願い出て秀秋を養子に迎えた。
関ヶ原の戦いで、東軍勝利の立て役者となり、その功績で家康から備前岡山四十七万石を賜り大大名となったが、裏切り行為の自責で精神的に異常をきたしていたからか、失政が多く家老稲葉正成(春日局の夫)ら多くの家臣が秀秋の許から去った。秀秋自身は夜な夜な大谷吉継の亡霊に悩まされ衰弱死したといわれる。
こうして嗣子をもうける間もなく秀秋は慶長七年(1602)に没し、鎌倉以来の名門小早川家は断絶した。