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人名(た〜たそ)
太原 崇孚(たいげん すうふ) 時代小説の愉しみ
雪斎。武田信玄の軍師。
太閤 秀吉(たいこう ひでよし)
→ 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
醍醐天皇(だいごてんのう) 影武者徳川家康、花と火の帝
無資料。
大膳 直之(たいぜん なおゆき) 捨て童子松平忠輝
長沢松平家重臣。長沢松平第八代康忠の末子。
大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ) (?〜1590) 一夢庵風流記
小田原北条氏家臣。
天正十八年(1590)、小田原落城で秀吉に切腹を命ぜられる。
大道寺 盛昌(だいどうじ もりまさ) (生没年不詳)
河越城代。鎌倉代官。伊勢新九郎の盟友大道寺発専の長男。宗真と号す。出身は山城国宇治とされる。
父発専が早雲に従って今川家に身を寄せた時、盛昌も一緒に行動した。父発専が小田原城で上杉氏と戦って討死すると、その跡を継いだ。北条氏綱を補佐し、鎌倉代官、玉縄城代、河越城代を兼務。特に玉縄城主の北条為昌(氏綱の次男)が元服の時、烏帽子親となり、昌の一字を与えた。鎌倉代官として鎌倉の町を治めると共に、天文二年(1533)から始まった鶴岡八幡宮の再建工事には、造営総奉行として活躍。北条家の宿老として重きを置いた。連歌師宗牧と交流があり、文化人でもあった。天文十九年ごろには文書に見えなくなり、このころ死去したと思われる。
盛昌の後は、資親、周勝、政繁と家督を継ぎ、政繁は小田原落城時に秀吉から主戦論の首謀者とされ切腹を命ぜられたが、一族の子孫は家康および弘前の津軽家に仕え、国家老として重きをなした。特に津軽藩大道寺家は城下奉行として善政を行なったことで知られる。
台徳院(たいとくいん)
→ 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)
内府(だいふ)
→ 徳川 家康(とくがわ いえやす)
内大臣の略称で、ここでは主に徳川家康を云う。後には二代将軍秀忠も内府と呼ばれている。ちなみに織田信長は右大臣であったため、右府と呼ばれる。
平 内左衛門(たいら ないざえもん)
→ 伊賀平 内左衛門(いがたいら ないざえもん)
平 敦盛(たいらのあつもり) (1169〜1184)
平経盛の子、清盛の甥。従五位下、無官大夫。寿永三年(1184)、一の谷の合戦で戦死。
『平家物語』では、味方の船を目指す途中、源氏方の熊谷次郎直実に、呼び戻されて討たれたという。
[平敦盛の棄子]
平敦盛幼兒あり。源家にかくすに便りなくして一条のさがり松にすつ。僧法然拾ひ得て養育す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
平 清盛(たいらのきよもり) (1118〜1181) 死ぬことと見つけたり
平忠盛の嫡男。平氏政権の確立者。平忠盛の嫡子とされるが、『仏舎利相承系図』は白河院の落胤で母は祇園女御の妹という。
大治四年(1129)従五位下、左兵衛佐。久安二年(1146)正四位下安芸守。仁平三年(1153)忠盛の死去に伴って平家棟梁となる。武士として初めて従一位・太政大臣となる。「大相国」は太政大臣の唐名。父忠盛が院に近侍して培った力を背景に、保元の乱(1156)で後白河院に与し、その功により播磨守、太宰大弐に任ぜられる。平治の乱(1159)では源義朝を破って勝利を収め、永暦元年(1160)には武士として初めて正三位参議に叙せられ、仁安二年(1167)内大臣正二位から従一位太政大臣の極官に至り初の武士政権を確立した。女の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、徳子の子が安徳天皇として即位し、天皇の外祖父となって隆盛をきわめたが、平氏一門による官位の独占や後白河院との対立で独裁専横に陥り、平氏以外の氏族等の不満が増大し、治承四年(1180)には以仁王・源頼政が叛逆、源頼朝や木曾義仲の挙兵を招き、同年福原遷都を試みるが失敗。続いて寺社勢力への対抗策で南都を焼打ち、仏敵の汚名を受け、翌養和元年(治承五年)、熱病にかかって没した。(『伽婢子』2人名索引、『舞の本』解説)
平 将門(たいらのまさかど) (?〜940)
桓武平氏の祖高望王の三男で鎮守府将軍良将の子として関東に生まれ、相馬小次郎とも称した。
父の没後、京へ上って摂政藤原忠平に仕え、その後、相馬御厨下司として帰郷する。都の腐敗、農民の困窮に憤り、自ら荘園を開墾するため鎌輪に移住した。やがて叔父の国香や良兼らと姻戚関係にあった前常陸大掾源護が将門を襲撃すると国香も護に味方し、将門と戦って敗れ自刃した。この事に怒った国香の嫡男貞盛は、将門追討の官符を受け常陸大掾となって常陸に入り、再び将門に戦いを挑んだ。天慶二年(939)、将門は常陸国府に貞盛を襲い、これを破った。この時、常陸介藤原維幾に追われた藤原玄明や武蔵權守興制王が将門と行動を共にした。
常陸国府を陥落させた後、興制王の勧めもあって将門はさらに下野、上野に軍を進め両国府をも陥れ、中央の役人らを追いやった。こうして北関東一帯を制した将門は、新皇を称し八省百官の制を定めて東国国家を樹立。翌天慶三年、貞盛や下野の押領使藤原秀郷の軍勢と下総国岩井で戦闘中、流れ矢に当って戦死。当年三十八歳だったという。(『郷土資料事典』8)
多比良 与左衛門(たいら よざえもん) 死ぬことと見つけたり
未資料
多賀 主水(たが もんど) 死ぬことと見つけたり
島原藩家老。
多賀 与一右衛門(たが よいちえもん)
加賀前田家家臣。
[逸話](『想古録』)
加州の多賀与一右衛門は、大坂の役に真田が丸乗取の先登を為して武名を一藩に轟かせし勇士なるが、茶道に達し、宗和流の名手にして、代々其技を伝へたり、或る時長甲斐守を初め万石以上の人々四五人にて多賀を尋行き、其茶を所望しけるに、珍しき物のみ饗応し、菓子の如きも是れまで見も及ばぬ珍品を馳走せり、長等は思はぬ珍味に飽き、何れもみな舌鼓して賞翫しけるに、跡にて聞けば、思ひきや、料理は下々の惣菜にて、菓子は城下の町外れに在る一文菓子なりしとぞ、多賀常に曰く、茶道は元来東山義政が世の驕奢を防がんとの意にて始められたるものなるに、豊太閤の之れを好ませられしより、翻つて奢侈を媒助するの遊びと成り行きたるは惜むべしと、或る人また多賀に、茶器は如何なる物が宜しからんと尋ねしに、茶道の本旨は節倹に在れば、其諸器具は成るべく廉価なるものを選むべし、然れば茶碗は国の近辺にて焼く粗末なるものにて宜しく、炉は床の下に横たはる破損擂鉢を拾い来りて造るも妨げなし、と答へしとぞ、蓋し茶道の極意を究めたる確言なるべし(広瀬順九郎)
高木 鑑房(たかぎ あきふさ) 死ぬことと見つけたり
未資料。
高木 貞久(たかぎ さだひさ)
→ 高木 彦左衛門尉貞久(たかぎ ひこざえもんのじょうさだひさ)
『風の呪殺陣』では駒根城主とあるが、「駒野城主」の誤り。
高木 彦右衛門(たかぎ ひこえもん)(?〜1700) 死ぬことと見つけたり
彦右衛門貞親。長崎の町年寄で、代物替会所頭取兼船並武具預りに任ぜられ、町人身分ではあるが苗字帯刀をゆるされた幕府の役人。町の中心部に広大な屋敷を構え羽振りが良く、その権勢を笠にきた横暴振りから長崎町民からは妬まれていたようだ。そんな主の使用人も当然のように町中を横柄に歩き回っていた。そんな中で起こったのが「長崎喧嘩」(元禄十三{1700}年)といわれる事件だった。
彦右衛門はその「長崎喧嘩」の一方の当事者で、相手は鍋島藩深堀領の武士。彦右衛門側の無礼な仕打ちに激怒した深堀の武士たちは、彦右衛門邸に討入り、彦右衛門は深堀三右衛門とその倅嘉右衛門の手によって斬り殺された。
高木 彦左衛門尉貞久(たかぎ ひこざえもんのじょうさだひさ) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
信長家臣。駒野城主。
美濃高木氏の祖高木貞政の子の貞次が病弱であったため、樋口氏より養子を迎え三代目となったのが高木彦左衛門尉貞久で、高木氏は当初斎藤道三に仕えていたが、貞久の代に斎藤氏が滅亡し、信長家臣となった。
高木 兵次郎(たかぎ へいじろう) 影武者徳川家康、風の呪殺陣
高木彦左衛門尉貞久の子。長島一向一揆に加担。
高木 彦八(たかぎ ひこはち) 死ぬことと見つけたり
長崎町年寄高木彦右衛門の倅。彦六は、「長崎喧嘩」での深堀武士たちの討入りの際、邸内に居たにもかかわらず隠れていたため、傷一つ負わず逃れた。が、その後の幕府の裁定で、親の危難に手合せもせず隠れていたことが不届きとされ、家屋・家財を没収された上、長崎を追放。彦六は天草に移り住んだが、高木家はここに断絶する。
高倉 嗣良(たかくら つぐよし) 花と火の帝
公家。およつ御寮人の実兄。秀忠によって豊後に流刑。
高瀬 助右衛門(たかせ すけえもん) 死ぬことと見つけたり
未資料
高津 市左衛門(たかつ いちざえもん)
一刀流小野派忠也流。忠也流十人衆の一人間宮五郎兵衛の子。
小野派一刀の始祖は神子上典膳と云ひしが、御当家へ被召出、小野次郎右衛門と名乗る。其弟は小野典膳忠也と名乗、諸国遍歴して、芸州広島に没故す。依之芸州にては忠也流と云ひて、右忠也の弟子多く、国守も尊崇して今に其祭祀を絶へず、十人衆迚忠也流を修行する者、右の祭祀の事抔取扱ふ由。右十人衆の内に間宮五郎兵衛といへるは別て其芸に長じ、同輩・家中へも師匠なし、其頃の国守但馬守も舞剣を学び給ふ。然るに五郎兵衛不幸にして中年に卒去せしが、倅市左衛門十六歳にて跡相続いたし候処、則但馬守は五郎兵衛免許の弟子故、市左衛門えも師伝之趣段々伝授之上、「其業抜群故免状も渡さん」と有し時、市左衛門退ひて其断を述ければ、「如何の存寄哉」と尋有しに、「一体親の義には候得共、流儀の心得を五郎兵衛甚未熟に致し、逸々其条行違ひ申候。依之右の誘引故、国中の一刀流いづれも下手にて、五郎兵衛師範の御家中何れも未熟の稽古に御座候」と申ければ、但馬守以之外憤り、「汝が親の教方不宜と申も緩怠也。殊に其方へは予が教へし太刀筋也。夫を不宜と申は其主人え対し候て主人をそしるに相当り、旁不届也。子細あるや」と尋られければ、「武芸の義あしきと存るを、君父のなし給ふとて不申は不忠也。其悪しきと存候所、御疑ひも候はゞ同列の名手に御立会せ成さるべし」と答ふ。但馬守弥怒りの余り、「小倅といひ無用捨可立合」とて、彼十人の内にも勝れたる者を選み、勝負申付られしに、右十人は不及申、一家中心得たる同流の者共立合けるが、一人も市左衛門に勝者なし。但馬守自身立合被申しに是又被負ければ、但馬守甚賞美して、親を誹り候処は当座咎め申付、忠也流の稽古万事市左衛門に差図可致旨被申付、殊之外家中に名誉のもの出来しとや。可惜市左衛門三十に不成して卒去して、当時其子跡相続なしけるとや。但馬守殊之外惜しみ被申しとや。(『耳袋』巻之七)
鷹司 信尚(たかつかさ のぶひさ) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝
関白鷹司信房の嫡男。母は佐々成政女。妻、清子内親王(父:後陽成天皇)。後水尾天皇の義兄でもある信尚は、後水尾帝の良き理解者であり、関白として徳川政権と闘う。家康に徹底的に嫌われ、関白の職を辞するが閑職の内覧になると、岩介たち「天皇の隠密」のリーダー的存在になり幕府と闘った。
高辻 前中納言(たかつじ さきのちゅうなごん) 駆込寺蔭始末
無資料。
高野 車之助(たかの くるまのすけ) 鬼麿斬人剣
松代藩武具奉行。
高橋 十三郎(たかはし じゅうざぶろう) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
高橋 半三郎(たかはし はんさぶろう) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
高橋 元種(たかはし もとだね) 捨て童子松平忠輝
日向七万石城主。石川康長の妻の娘婿。長安事件に連座し所領没収。
高橋殿(たかはしどの)
足利義満の妾。
《瓢水の『一話一言』》
[世阿弥と高橋殿に通じる“芸”の道]
能楽を大成した世阿弥の『申楽談議』より、世阿弥のパトロンとして有名な足利義満の愛妾高橋殿が遊女出身だったことを示す記述をひとつ。「高橋殿の立居振舞や心配りが能楽に通じるものがある」と書いているから、同じ「芸」を売る者として、お互いに認め合う存在だったのかもしれない。
「此道ハ、禮楽ニトラバ楽也。人ノ中ヲニツコト(注:和やかに)ナスベシ。シカレバ、色シリニテナクハ、住スル時節アルベシ。鹿苑院ノ御ヲモイ人高橋殿(東洞院ノ傾城也)、コレ、萬事ノ色知リニテ、殊ニ御意良ク、遂ニ落チ目無クテ果テ給イシ也。上ノ御機嫌ヲ守ラヘ、酒ヲモ、強ヰ申ベキ時ハ強ヰ、控ウベキ所ニテハ控ヘナド、様々心遣ヰシテ、立身セラレシ人也。斯様ノ事ハ、世上ニ沙汰スル事ヲ記ス」(世阿弥/表章校注『申楽談議』岩波文庫、105頁)。
高橋殿については、「補注」に次のような解説がある。「義満の愛妾で、「西御所」とも呼ばれていた(『吉田家日次記』応永9年4月15日の條)。当時の記録に_々名が見え、家人には権勢を笠に着た行為も少なくなかったようである。遊女出身であることは本書以外に記録が見当らない。永享元年まで生存し、かなり世間から厚遇されていた」(前掲書、147頁)。臼井信義『足利義満』(吉川弘文館、247‐249頁)も参照のこと。(2004年10月12日瓢水記)
高仁親王(たかひとしんのう) (1626〜1628) 吉原御免状、花と火の帝
後水尾天皇と皇后和子の皇子。齢2歳で逝去。徳川秀忠より鬼切り太刀を贈られる。
高山 右近(たかやま うこん) (1552?〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、かぶいて候
幼名彦五郎、長じて友祥、また長房といった。通称右近允。洗礼名ジュスト。摂津国三島郡清渓村高山に生まれる。父は高山飛騨守、母は洗礼名マリアとだけ伝わっている。前田家の客分としてあった時に南坊と号した。妻は余野城主黒田家の女、洗礼名ジュスタ。
キリシタン大名として知られるが、受洗は十二歳の頃、父に従って帰依し、洗礼名をシュスト(Justo)という。ジュストの和名は重出、壽須、壽子などと書きあらわしている。一部資料には重友とあるが、重出の誤読という。また、南坊・等伯と号し、利休七哲の一人として茶道にも通じた趣味・文化人でもあった。荒木村重の臣として摂津高槻城にあったが、天正六年(1578)、村重が信長に叛いたのを期に、信長に下り信長の臣となって明智光秀に属す。本能寺変後は秀吉の配下に入り、山崎合戦では光秀と戦った。これにより摂津高槻城主に復し、天正十三年(1585)には明石城主となるが同十五年(1587)のキリシタン禁止によって除封となり、一時小西行長に身を寄せ、前田利家に寄食した。慶長十九年(1614)、家康によって妻ジュアン、教徒百余人と共にマニラに追放される。マニラに到着して半年後、右近は熱病に罹りその生涯を閉じた。享年六十四歳。(歴史読本『戦国武将名鑑』、人物叢書『高山右近』参考)
秀吉の禁教令で加賀前田家に依った右近を、前田利家は老臣として四万石と能登に小さな領地を持って迎えた。築城の名人でもある右近は前田家のために尾山城・高岡城の築城などを行なった。慶長六年(1601)の家康による禁教令の際には、加賀まではその目が届かず、右近は金沢と能登に教会を三つ建て、神学校を建てるなどその宗教活動を活発に行なっている。しかし、幕府のキリシタン禁令が厳しさを増すと、前田利長・利常に難が及ばぬようにと側近を離れ、迫害される同朋への祈りと苦行を行ない修道僧のよな生活を始めたという。しかし、豊臣秀頼の居る大坂城を攻めるにあたってキリシタン浪人の精神的な支柱になると恐れた徳川政権は、右近らを国外追放処分にする。この時、右近らが乗せられた船は、エステヴァン・ダ・マコスタ号という小さなジャンク船だった。途中、暴風雨に遭いながらも三十三日の航海の後、無事にマニラに到着。マニラ総督ジョバンニ・シルヴァは、迎えのガレオン船を出して右近を王者の礼をもって遇し、大群衆の前で総督は右近を抱き締めて迎えたと云う。こうして右近は国賓待遇を受け、毎日、イエズス会の神学校をはじめ、教会などを訪問し、ポルトガル語で彼らと親しく語り合っていたが、まもなく熱病に罹り、病床についた。そんな右近を総督は付ききりで看病したという。(阿部光子「キリシタンの女性」参考)
高山 ジュスタ(たかやま じゅすた) (生没年不詳)
摂津・余野城主黒田某女。高山右近の妻。
天正二年(1574)頃、十三、四歳の時に高山右近と結婚したと思われる。ジュスタの実家黒田家は右近の父ダリヨによってキリシタンとなっていた家で、現在はその洗礼名だけが伝わる。黒田家は荒木村重とともに滅ぼされ、その領地も没収されたため、母黒田マリアは、信長から高槻城主の地位を安堵された右近を頼り、再婚相手の夫とジュスタの兄妹を伴って身を寄せた。
右近との間に長男十次郎(ジョアン)を筆頭に早世した子を含め五人の子をもうけ、娘のルチアは前田家の家老横山康玄(やすはる)と結婚し、彼女も五人の子をもうけた。
慶長十九年(1614)一月、右近らへの追放令が発せられ、加賀前田藩に預けられていた右近・内藤如庵らは金沢から長崎に送られる。この時、ジュスタら妻子は日本に留まることを許されたが、ジュスタと娘ルシアは父右近に従う事を望み、この年の十月七日、ルシアの子五人(当時上が16歳、下は8歳)を含めた右近一家は長崎から、小さなジャンク船に詰め込まれるように乗船させられ、マニラに向け出港した。マニラに着いたのは三十三日目の十一月九日で、それまでの心労と船旅の疲れから、ほどなく右近は熱病に冒され、翌二月五日、右近は天国に旅立った。この時、右近は妻ジュスタ、娘ルシアや孫たちに向けて「勇気を出しなさい。父を失うのではなく、神の御前に父を再び見い出すだろう。恐れてはいけない。主に忠実に従ってこの地に来たのだから、主は貴方がたを見捨て給わないだろう」と励ましたと云う。
こうして敬虔なキリシタンとして尊敬する最愛の夫の最期を見届けたジュスタのその後の消息は伝わっていない。娘ルシアは、その孫と共に日本に帰ってひっそりと暮したという話も伝わるが、真偽のほどは不明。(阿部光子「キリシタンの女性」参考)
高山 彦九郎(たかやま ひこくろう) (1747~1793)
正之。延享四年(1747)、上州新田郡細谷村に生まれる。勤皇の志し篤く、京都へ出て公卿の間に出入り、藤田幽谷とも交遊をもった。その後、諸国を歴遍し勤皇を説くが、幕府にその行動を監視され、志しがならないことを歎き、久留米の森嘉膳宅で自刃した。彦九郎には奇行が多く、林子平、蒲生君平とともに寛政の三奇人と称された。
高山彦九郎の墓所は久留米の真言宗遍照院境内にあり、墓碑の正面には「松陰以白居士」、左右に自刃した年月日、生国・生前名が刻まれている。幕末に尊王派として活躍した平野国臣寄進の灯籠が飾られ、国の史跡に指定されている。
高山 飛騨守(たかやま ひだのかみ) (?〜1595) 影武者徳川家康
図書。高山右近の父。摂津国高山に在した地頭。洗礼名ダリヨ。妻はマリア。
松永久秀に仕え、大和国宇陀郡沢城主となる。熱心な法華教徒だったが、日本人修道士ロレンソを折伏しようと宗論を戦わし、その明解な応答に感銘した飛騨守は、永禄六年七月、ガスパル・ヴィレラから受洗しダリヨ(Dario)の洗礼名を得る。元来、信念の強い人柄であったことから、彼の信仰は彼個人に留まらずロレンソを招いて家族・家臣らへ教義を説かせ、一晩で妻子・家臣百五十人あまりを受洗さた。この時、子の彦五郎(右近)も受洗しジュストの洗礼名を受けている。
高山家は宇多天皇の皇子敦実親王から出たと伝えられ、代々摂津国三島郡清渓村高山に城を構える地頭職であったといわれる。(人物叢書『高山右近』参考)
受洗したダリヨは、熱心なキリシタンとなり先に宗門論争を行なった琵琶法師ロレンソを度々城内に招き、城下にも大きな教会を建て説教を行なわせた。さらに自分の姉妹の嫁ぎ先や年老いた母の元へもロレンソを遣わし、改宗させている。また、主筋である松永久秀は大のキリシタン嫌いで、家臣にキリシタンになる事は勿論、外見だけでもキリシタンかぶれ(洋風化)する事をも禁じていたが、ダリオはわざとロザリオを首から幾重にも掛け、松永家の周辺を歩き回った。久秀はそうした彼の威風堂々とした姿に気押され、仕方なく見て見ぬふりをしていたという話も伝わる。
その後、荒木村重の重臣となり、天正元年(1573)に、高槻城主となるが政治を息子右近に任せ、自身は引退して宗教活動に専念した。荒木村重が織田信長と対立した時には、城主だった右近は城を父に任せ、信長の元へ紙子を着して出頭、信長はその誠意に感じ、最後まで抵抗し高槻城を守備した父飛騨守だったが、荒木村重一族が厳罰に処されたのとは対照的に、死罪を免れ越前国北庄の柴田勝家に預けられるだけの処分ですまされた。
文禄四年(1595)、その二年前に病に倒れ養生のために住していた京都で、妻マリア、右近夫妻らにみとられて静かに旅立っていった。その時、遺骸は長崎の地に埋葬してくれとの遺言を遺したという。(阿部光子「キリシタンの女性」参考)
滝川 儀太夫益氏(たきがわ ぎだゆうますうじ) 一夢庵風流記
前田慶次郎の父。滝川一益の従兄弟とも甥ともいわれる。
滝川 一益(たきがわ かずます) (1525〜1586) 一夢庵風流記、見知らぬ海へ、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
左近将監。彦右衛門。滝川一勝(資清)の子として近江国甲賀郡大原村に生まれる。鉄砲の名手。尾張に出て、織田信長に仕える。
永禄十二(1569)年、信長が伊勢を制し国司北畠具教と和睦すると、伊勢五郡に封ぜられた。ついで天正二(1574)年、長島の一揆平定後、長島城主となる。また、翌年の長篠の合戦、同十(1582)年の甲州征伐の先鋒勤め、武田氏滅亡の後、上野および信濃小県、佐久二郡を領し、厩橋城主となる。しかし、本能寺の変が起り、上洛して明智光秀を討とうにも小田原北条氏が虎視眈々と狙っているため動けず、ようやく行動を起し、上野・武蔵国境の神流川で北条氏直と戦うが大敗を喫し、かろうじて信州小諸に逃れ木曾経由で本拠伊勢に戻った。同十一(1583)年、柴田勝家とともに豊臣秀吉に抗したが、勝家の敗北で秀吉に下り、翌年、小牧の戦いに出陣するも家康に攻められ、功なきを恥じ、京都妙心寺に入り剃髪して入庵と号し、越前大野に引退した。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
滝川 左近(たきがわ さこん) → 滝川 一益(たきがわ かずます)
滝川 政次郎(たきがわ せいじろう) かくれさと苦界行
未資料
滝川 忠征(たきがわ ただまさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
豊前守。高田城普請奉行。
多久 安順(たく あんじゅん) 死ぬことと見つけたり
龍造寺安順。
多久 茂辰(たくしげとき) 死ぬことと見つけたり
美作守。佐賀城留守居筆頭。
竹内 重門(たけうち しげかど) 影武者徳川家康
関ヶ原領主。
竹内 季治(たけのうち すえはる) 風の呪殺陣
未資料
竹越 正信(たけこし まさのぶ) 影武者徳川家康
小伝次。尾張藩家老。
竹田 永翁(たけだ えいおう) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
武田 勝頼(たけだ かつより) (1546〜1582) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、時代小説の愉しみ
信玄の四男。諏訪四郎、伊奈四郎。母は諏訪頼重の女(諏訪御料人)。伊奈高遠城主から天正元年(1573)信玄の死で家督を継ぎ、十八代当主となる。
信玄が拡大した領地の維持に努め、天正二年には遠江の要衝高天神城を落すなど勇猛なところもあったが、同年五月長篠で織田・徳川連合軍に大敗して多くの有力武将を失う。内政面では老臣等の支持を得られず、同九年韮崎に新府を築くものの木曾氏に背かれ、同十年、一族の穴山信君(梅雪)にも離反される中、織田・徳川の侵攻を受け、主従わずか四十名余で東山梨郡田野に自害した。(『伽婢子』2人名索引)
武田勝頼夫人(たけだかつよりふじん)
北条氏康の女。北条氏政の末妹。
天正五年(1577)、十四歳で武田勝頼の元へ輿入れ。このとき勝頼は三十四歳で、最初の妻は織田信長の養女で、嗣子信勝を生むと産後の肥立ちが悪く死去した。それから十年余り独身を過ごした後の再婚だった。
武田家に嫁いだ氏康女は、武田の女あるじ「北条夫人」として甲府の武田屋形(後の新府城)で、十四歳から武田家滅亡の十九歳までの五年間を過ごした。
信玄亡き後の武田家は、勝頼の下で団結する事なく次々と離れて行く中での北条氏との同盟強化であったが、裏切りや寝返りが絶えず、天下布武を目指す織田信長の軍勢がついに甲信国境を越え進撃してきた。天正十年二月、勝頼は二万の軍勢を持って新府城を出発。その夫の武運を祈って武田八幡宮に奉納した夫人の願文は名高い。
「敬って申す 祈願の事
南無帰命頂礼、八幡大菩薩。此の国の本主として竹田の太郎と号せしより此のかた、代々守り給ふ。ここに不慮の逆臣出で来って国々を悩ます。よって勝頼運を天道に任せ、命を軽んじて敵陣に向かう。しかりといえども、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。(略)なかんずく勝頼累代重恩のともがら、逆臣と心を一つにして、たちまち覆えさんとする。万民の悩乱、仏法の妨げならずや。そもそも勝頼、いかでか悪心なからんや。思いの焔、天に揚り、瞋恚なお深からん。我もここにして相共に悲しむ。涙また欄干たり…」
その願いも空しく、勝頼の軍は敗走する。新府城は落城寸前となり、夫人は小田原へ帰るよう勧められるが、それを断り勝頼に従って城を出で、天目山麓田野の野で夫に殉じて死んだ。
夫人は自刃の直前、輿入れにさいして北条家から従っている家臣たちを呼び寄せ、
「私が生まれた家は早雲殿以来の弓矢の家柄ゆえ、女性であっても見苦しい最期は見せませぬ。あわれ立派な最期であったと、小田原によくよく申し伝えてください」と言って丈なす黒髪を自らつかんで切り、和紙にそれを包んだ。そしてその上に次の辞世の歌を書いて家臣に手渡したという。
黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒
かつて夫人の祖父北条氏綱は、死の二ヶ月前、人間の生き方として「義を専らに守る」べきことをその子氏康に遺訓として残した。勝頼夫人は女性でありながらも、祖父のこの遺訓を見事に生き抜いた北条の女であった。
武田 軍太(たけだ ぐんた) 狼の眼
心地流の免許皆伝を得て、直も廻国修行をする剣術家。三国湊で秋山要助に剣術試合を挑み敗れる。
武田 見性院(たけだ けんしょういん)
→ 見性院(けんしょういん)
武田 信玄(たけだ しんげん) (1521〜1572) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、かぶいて候、時代小説の愉しみ
名を晴信、号を徳栄軒といった。武田信虎の子として甲斐に生まれる。信玄は入道してのちの法号。天文十(1541)年、父信虎を駿河に追放して甲斐を治める。その後信濃に攻め入り、諏訪頼重、小笠原長時、村上義清ら名だたる信州の名族を次々に倒し、弘治元(1555)年には、ほぼ信濃一円を席巻するに至った。北越の雄上杉謙信との、川中島のおける激突は広く世に伝えられている。その後、信玄は飛騨や北関東にも駒を進め、元亀元(1570)年には駿河を領し、中部地方のいたるところに「風林火山」の旗を靡かせた。元亀三(1572)年、三方原で家康を破り三河に入ったが、翌年、惜しくも陣中で病没した。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「武田信玄」の項あり参照ください。
[逸話](『想古録』)
武田信玄、身延山に詣でて日蓮書写の法華経を求められしに、与へざりければ、無已は一たび戴きたしとありけるに、僧も夫れも成らぬとも辞みかね、取出して示しけるに、信玄謹んで之を受け、拝一拝して戴きけるが、武士の一たび戴きたる者を、再び返す道理なしとて、其儘持帰れり、身延にては其処置の理不尽なるに驚き、屡々返戻を促しけるに、信玄は当時上人の贋筆に妙を得たるとの聞えありし烏石山人に命じ、紺紙金泥にて立派なる贋物を造らしめ、之を三百金にて身延に売り、烏石には百金の賞を与へたり、後に末寺の僧、其の贋物たるに気附たりと雖も、信玄より伝はりたるを売りては済むとか済まぬとか口論ありて、結局其儘になりけるとぞ(蘆沢翁)
武田信玄は死後三年の間喪を秘せしに、家臣等皆な真の病気と思ひ、誰一人として其死を知るもの無かりしに、只膳番の士のみ窃かに之を知りたりしとぞ、後に或る人其故を問へば、曰く、信玄は如何なる急劇の場合にても、箸の先頭一寸より多くは湿されざりき、然るに病気とありしより、何時も深く湿れければ、扨は我主人は長逝せられしかと推了したるのみと云へり、知るべし、信玄が平生気を練りて斯る小事より等閑にせられざりしことを(牧園文蔵)
[名言名句]
「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」
「風林火山」
『孫子』の中の詞を信玄が選んで軍旗にそれを用いた。意味は「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
「人は石垣、人は城」
『甲陽軍鑑』の中の一節。(『名言名句活用事典』)
武田 信繁(たけだ のぶしげ) 時代小説の愉しみ
武田信虎の二男。
[名言名句]
「たとえ心やすい親類、被官たりといえども柔弱の趣、あらわすべからず」
『信玄家法』の中にある一節。(『名言名句活用事典』)
武田 信虎(たけだ のぶとら) (1494〜1574) 時代小説の愉しみ
甲斐国守護武田家第十八代当主。武田信縄の子で母は岩下氏の娘。初めは五郎信直といった。
天文十年(1541)、晴信(信玄)廃嫡の事前準備として、娘婿の今川義元と会うために駿河に赴くが、甲斐本国で有力家臣団の支持を受けた嫡子晴信によって帰途を遮られ、駿河に追放される。以後、今川家の食客として過ごすが、義元が桶狭間で討死し、その混乱に乗じて甲斐の信玄に駿河を攻めるよう画策。そのことが今川家の重臣に知られ駿河を追われ、志摩に渡り九鬼氏と地頭の争いで地頭側の軍師として活躍、九鬼氏を志摩から追い出した。その後、畿内を放浪しながら京の有力者との親交を深めていたとされる。信玄は天正元年(1573)に陣没し、その時甲斐に帰れるはずだったが信玄の死が伏されていたため、信虎が甲斐に戻るのは翌二年(1574)となり、その帰途信濃高遠で病没した。享年八十一歳。
武田 信吉(たけだ のぶよし) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、かくれさと苦界行
家康の五男。水戸二十八万石領主。慶長八年卒。
武田 弥平次(たけだ やへいじ) 鬼麿斬人剣
伊賀同心。
武田 義信(たけだ よしのぶ) 時代小説の愉しみ
武田信玄の長子。
嫡子だったが義信の妻は今川義元の女だったことから、父信玄の駿河攻めに反対し廃嫡され自刃した。
武市 半平太(たけち はんぺいた) 異説猿ケ辻の変
瑞山。土佐勤王党の領袖。
竹中 重門(たけなか しげかど) 影武者徳川家康
関ヶ原の領主。
竹中 半兵衛(たけなか はんべえ) (1544〜1579) 捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり
重治、通称を半兵衛といい、美濃の地侍竹中遠江守重元の子として同国池田郡に生まれる。永禄七(1564)年、弟久作ら士卒十六人を率いて稲葉山城の斎藤竜興を襲って追う。のち浅野長政に投じたが、同十(1567)年、織田信長が竜興を討って美濃を平定するに及びその麾下となり、木下藤吉郎に属した。元亀元(1570)年の浅井攻めには秀吉の先鋒となって軍功を上げ、以後秀吉の謀将として帳幕に列した。天正五(1577)年、秀吉の播州攻略に武略参謀となり、よくその難を処したとされる。同七(1579)年。三木の向城平山の陣で病を得、その智略を惜しまれながら没した。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
半兵衛の叔父重光の子重利は、黒田如水に属し後徳川秀忠に仕えている。その重利の子重義(重興)は竹中采女正といい、長崎奉行となったが、キリシタン弾圧で新たな拷問の法を考案するなど残忍な性格であったらしい。また、私欲も強く好色でもあったため長崎市民から怖れられると同時に恨まれ、数々の非行を幕府に訴えられている。その結果、輸入品の抜取りや着服・賄賂の受取りなどが明るみに出て、子の源三郎とともに江戸浅草の海禅寺で切腹させられた。
武野 紹鴎(たけの じょうおう) (1502~1555)
堺流茶湯の開祖。童名を吉野松菊丸といい、長じれ新五郎と称し、仲村を名乗った。
村田珠光、鳥居引拙についで茶湯の名人といわれる。『武野家系譜』によると、武野氏は若狭国守護武田氏の後裔で、祖父仲清は応仁の乱で陣没し、父信久は諸国を流浪、やがて泉州堺に住し姓を武野と改める。三好氏の後援のもと武具調整のための皮革業を営み、一代にして財をなしたとされる。この武野家で生まれた新五郎は、成人すると上洛し歌道を三条西実隆に学び、朝廷に献金するなどで従五位下因幡守に叙せられた。連歌にも通じ、ついで珠光流茶湯を下京の藤田宗理、十四屋宗悟・宗陳に学ぶ。この時、実隆から藤原定家の『詠歌大概之序』の講説を聞いて茶湯の極意を悟ったという。享禄五年、三十一歳にして剃髪し紹鴎と号した。天文十八年、四十一歳の時、堺南宗寺の大林宗套から一閑居士の号を授けられる。晩年、京都四条の夷堂のそばに茶室「大黒庵」を開き、松永久秀や京堺の町衆を招いて茶事を催す。門弟に嗣子新五郎宗瓦をはじめ、堺衆の今井宗久、津田宗及、千宗易などがいる。
弘治元年十月二十九日没。享年五十四歳。
竹村 助兵衛(たけむら すけべえ) 花と火の帝
牢人。
田代 陣基(たしろ つらもと) 死ぬことと見つけたり
未資料
(たた〜たん)
政仁親王(ただひとしんのう)
→ 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
立花 忠茂(たちばな ただしげ) 死ぬことと見つけたり
未資料
立花 宗茂(たちばな むねしげ) (1569〜1642) 死ぬことと見つけたり
幼名千鶴丸。宗虎、統虎など。宗茂は晩年の名。
岩屋城主高橋紹運の子として筑前岩屋城に生まれ、立花鑑連(あきつら)道雲の養子となる。天正十三(1585)年家督を継いだ後、立花城で島津勢を防戦し、秀吉に賞され、秀吉の九州平定後、筑後柳川十三万二千石に封ぜられ、羽柴柳川侍従と称せられる。文禄・慶長の役で活躍。関ヶ原では西軍に属し、所領を没収されたが、元和元(1615)年、柳川城主に返り咲く。剃髪して立斎と号す。島原の乱にも参戦。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
辰王丸(たつおうまる)
→ 今川氏親(いまがわうじちか)
伊達 安房成実(だて あわしげざね) 捨て童子松平忠輝
伊達政宗の片腕。
伊達 忠宗(だて ただむね) 影武者徳川家康、かくれさと苦界行
伊達政宗の嫡男。
伊達 綱宗(だて つなむね) (1640-1711) 吉原御免状、かくれさと苦界行
仙台伊達藩第三代藩主。従四位下陸奥守。伊達忠宗(二代藩主)の六男。伊達政宗の孫。幼名を巳之助、藤次郎という。仙台高尾を身請けしたとされるが、身請したのは同じ三浦屋の太夫薄雲という説もある。
また、「仙台侯伊達綱宗は、五月晦日、普請鍬初めをし、作業を始めたが、綱宗は、日々普請場見廻りに出るかたわら、遊興したため、七月十八日に逼塞を命ぜられたのであるが、綱宗は「橘町ノ柳屋ト云フ風呂屋ノ遊女勝山ト申シケル、イトモ風流ナル女郎ニ、心ノ呉竹ノ思ヒニホダサレ、是ヲ買取リ給ヒケルト也。ソレニテモ止マズ」(『諸家深秘録』十八)、新吉原通いをされたとあり、また、佐藤直方編と伝える『都流の毛衣』七にも同様の記事が見えるので、「事実の有無は別として、当時世間に広く伝説せられたる事実なのである」(真山氏)が、大槻文彦氏は『伊達騒動実録』附録において、諸文献を引用、上記二文献の訛誤を指摘された上で、『洞房語園』下の記述によって、新吉原京町二丁目の山本屋芳潤抱えの太夫薫が、綱宗の遊興の相手であると推定され、「勝山が、新吉原へも移りて、万治三年まで居たりとすとも、勝山も、薫も、共に山本屋芳潤が抱へなれば、同じ家なる二人の遊女に会はるといふこと、あるべからず。且つ、『洞房語園』に、勝山が事は、委しく記してあれば、仙台侯に関係してあらば、記すべきに、記さず。却て、薫に就て記してあれば、かた/\〃、薫なりしと認むべし。仙台侯が通われし遊女といふいもの、此の外には、いかに索むれども見えず」と断ぜられたが、語釈に引用した万治三年刊『高屏風くだ物がたり』上に、丹前の勝山が記されているので、勝山が元吉原で、明暦二年八月退廓したという説(『色道大鏡』十七)は誤りで、新吉原でも太夫を勤めていたとも推定されるから、同じ山本屋抱えの薫とともに、綱宗の相手となった可能性なきにしもあらずといえよう。」(『好色一代男全注釈』)とあって、三浦屋の「高尾」「薄雲」ばかりでなく、山本芳潤方の「勝山」「薫」をも身請したという説がある。
[逸話](『想古録』)
仙台の先侯(三代目綱宗)、小人数の供廻りを連れて領下を巡視せられけるとき、二人の士が其邸内の柿樹に登りて柿子を取り居るに出会はれたり、樹上の両士は主君の門外を通行せらるるを見て如何せんと狼狽しけるが、其一人は身を踊らして飛下りたる為め頭脳を打て其場に気絶し、他の一人は樹上に俯伏し、侯の行過ぎらるるまで頭を低れて敬礼の意を表し居たり、侯帰城の後両士の姓名を取調べられ、樹上に拝礼したる士は覚悟善しとて近習役に採用せられ、飛下りて気絶せし士は不覚者なりとて禄を召上げられたり、一藩之を伝へて士気これが為めに振起しけるとぞ(斎藤貞治)
伊達 秀宗(だて ひでむね) 捨て童子松平忠輝
伊達政宗の長子。幼名兵五郎。母は側室飯坂氏の女。宇和島藩十万石城主。
伊達 政景(だて まさかげ) 一夢庵風流記
上野介。政宗の叔父。
伊達 政宗(だて まさむね) (1567〜1636) かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、かぶいて候
幼名梵天丸。伊達家十六代当主・伊達輝宗の嫡男として出羽国米沢で生まれる。
七歳の時、疱瘡により片眼を失い、のち独眼竜とあだ名される。天正五年(1577)、元服して藤次郎政宗と名乗る。天正七年(1579)、三春城主・田村清顕の娘・愛姫と結婚。天正十二年(1584)、家督を継ぎ伊達家十七代当主となる。翌天正十三年、畠山氏を滅亡させ二本松領を入手する。天正十七年(1589)には、芦名義広を会津磐梯山麓にて破り会津を支配。奥州の雄としての地歩を固める。この年、居城を芦名氏の居城だった黒川城(会津若松城)に移す。天正十八年には、豊臣秀吉に小田原の役への参陣を促されるも遅参し、会津地区を没収され、米沢に戻る。続く秀吉の奥州仕置で参陣しなかった葛西・大崎氏等東北の大名達はことごとく領地を没収され、新たな領主が治めることになるが、葛西・大崎氏らの遺臣が一揆を持って抵抗。この時、政宗は一揆鎮圧を命ぜられ出陣するが、一揆を扇動した疑いがかけられ釈明のため上洛(天正十九年)。この時の政宗のいでたちは白装束で、金箔の十字架を引き立てて行ったという。こうした政宗の態度が秀吉の勘気を和らげた事は間違いない。政宗は侍従に任ぜられ、羽柴姓まで賜った。こうして帰国した政宗は、岩出山城(宮城県玉造郡岩出山町)に拠り、葛西・大崎の一揆を鎮圧。これにより長井・信夫・伊達・田村・刈田・安達郡(福島県北部・宮城県南部)に替えて葛西(石巻市)領・大崎(現在の仙台市付近)領の地12郡を与えられた。
慶長二年(1597)、秀吉の死で慶長の役(第二次朝鮮出兵)が幕を閉じると政宗は秀吉後の天下を狙って積極的に動く。その布石の一つが翌慶長三年(1598)の長女五郎八姫と辰千代の縁談だった。さらに隣国会津の上杉氏に対抗する必要から、慶長五年、大崎の千代に新たな城を築きその地を仙台と改めた。慶長十八年(1613)には家臣支倉常長をローマに送る(慶長遣欧使節)。大坂の陣では、奈良口の先手をつとめ、道明寺口片山の麓で、後藤基次・薄田兼相らと戦う。これら諸将を討って、天王寺まで勇戦。寛永三年(1626)、従三位中納言に叙せられ、同十一年(1634)、近江国蒲生・野洲郡の一部、常陸国の一部を賜って計六十二万石余を領す。和歌に長じ、木下長嘯子と交わり、茶道と書にも巧みであったという。
また、この時期の武将の例にもれず政宗にも念友がいた。政宗五十一、二歳の頃に書かれたという小姓只野作十郎へ宛てた手紙には、政宗の作十郎への恋情が縷々認められている。作十郎には別の男がいるとの密告から、嫉妬心を起した政宗が人前で作十郎をなじった。それに対し疑われた作十郎は、自らの血で起請文を書き政宗に送る。手紙は、その起請文への返書で、政宗は作十郎を疑った事を深く恥じて詫びている。
[逸話](『想古録』)
往昔の英雄は、特り戦闘上に気根強きのみならず、平常の事務上にも亦気根強かりし、仙台人士の口碑に拠れば、藩祖政宗は、其日其日の政務上の出来事を、悉皆取捌き了らざれば眠に就かず、事務多端にして用事の残るときは、徹夜寝に入らず、燭を秉て天明に至りしことありけるとぞ(大槻民次)
政宗と云へば、人みな横着者のやうに思へども、幼少のころは小心翼々たる性質にて、人より物など云ひ掛けらるるときは、赧然面を赤め、臣下をして此の乱世の主と為すは気の毒なりと思はしめし程なりしが、成人の後其性質一変して、竟に一代の英傑と仰がるるに至れり、初めには処女の如く、後には脱兎の如しとは、移して政宗の評語と為すべし(斎藤貞治)
伊達政宗は秘計術策を主とし、隣国を欺いて広大なる土地を奪ひ、終に東北の一大諸侯と為られたり、平日家士を領分界に住居せしめ、他より来攻の報あるときは、一騎にても乗出し、時としては僅々百人内外の兵を指揮して大敵を破らるることもありけり、されば国界を守る士は落涙して君の武を称し、徳の厚きを感じ、皆楽みて敵に向へり、故に政宗の地終に敵の馬足に侵されたることなしといふ(斎藤竹堂)
大坂落城の後天下一に帰して四海太平を謡ひけるが、非望を覬覦するの徒未だ其迹を絶たず、島津義弘は薩南に割拠し、毛利秀元は防長に仮睡し、伊達政宗は東奥に雄視し、枕を高うして安眠するの時世は前途猶ほ遼遠なるが如く見えければ、徳川家にては窃かに不慮に警戒して万一の防衛に抜目なく、奥州口の如きは丹羽五郎左衛門長重を白川に封じ、加藤左馬助嘉明を会津に封じて暗々裡に其衝を守らしめたり、丹羽長重は元と加州小松の城主にて、義勇の誉れ高き驍将にてありければ、伊達政宗も殷勤を通じて常に長重の藩邸に立寄られけるが、或るとき酔廻り、耳熱して談鋒稍や佳境に入りけるに、政宗、長重を一睨し、加藤左馬助と貴様(貴様とは軽侮の語に非ず、当時尊称に用ゐしなり)とは奥羽の押城のよしなるが、我若し数万の大軍を率ゐて押通ることにてもあらば、必らずや難儀せらるるならんと戯れられけるに、長重莞爾として、如何に我軍が小勢にても、短兵勇を鼓して直ちに貴様の旗本にさへ突入らば、貴様の大軍も争で白川の関を越えられ得べきや、と挨拶せられければ、政宗亦横手を拍て大笑し、太平の世に亦此の談話ありと云はれけるとぞ(沢弥八郎)
内藤左馬介の邸にて能狂言の催しありけるとき、伊達政宗も招かれて其座に列りけるが、席を離れて厠に行くとき、誤て臨席に坐せる兼松又四郎の膝頭を蹴たり、兼松深く其無礼を憤はり、政宗の再び坐に復するや、突然扇子を上げて政宗の肩頭を後方より三ツ四ツ撃ちけるに、政宗顧みて叱斥し、卑怯なり、左程腹立たば何ぞ切らざるやと、膝を進めて兼松に逼り、今にも大事と為るべき形勢となりければ、一坐の諸賓驚いて其中に入り、漸く双方を慰撫めて仲直りの献酬を為さしめけるに、政宗先づ土器の酒を飲乾して兼松に属し、兼松之を受けて意気昂然、坐上の衆賓を睥睨し、風雨纔かに収まりて天色猶ほ黯澹たる惨色を帯ぶるとき、政宗突如と起ち、兼松殿に肴致さんとて、扇を翳して、「打て腹だに癒るならば、幾らも打てよ兼松め」と長く引いて謡ひ且つ舞はれければ、兼松再び憤激し、全身ぶるぶると震へて、手に持ちたる土器を覚えず二つに掴み破りけるとぞ(斎藤竹堂)
(『見聞談叢』)
[政宗秀吉に降る]
○豊太閤、北条氏政をせめて、小田原に陣せし時、陸奥の伊達左京大夫政宗侯二十四歳にて太閤へ降参に来れり。太閤具足羽織をき玉ひ、床几に尻かけて、目見をうけ玉ひ遠くより来れる馳走に陣小屋を見せん。うしろの山に登り玉へとて先へ立ち玉ひければ、政宗侯あとに従ふて、山にのぼる。太閤刀を政宗侯にもたせ、御小姓一人具し、片岸にたつて終にうしろをふりかへりみる事なし。政宗侯の今日降参せる人なれども、用心をせらるゝ体もみへず蠢虫ともおもひ玉わぬ体なり。政宗侯のちに小田原におひて太閤にはじめて目見し、かゝることあり。その時うしろより太閤をいかやうにうたんことも自由なれども、たゞをそれ入りたるばかりにて、一念の害せんとおもふ心はをこらず。大器にて自然に威のありし人なりと語り玉へり。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之五)
[名言名句]
「礼に過ぎれば諂いとなる」(『名言名句活用事典』)
田中 伸(たなか しん) 死ぬことと見つけたり
未資料
田中 太郎右衛門(たなか たろうえもん) 影武者徳川家康
慶長遣欧使節の一員。
田中 吉政(たなか よしまさ) 影武者徳川家康
関ヶ原東軍徳川方武将。
谷 衛友(たに ゆきとも) 花と火の帝
出羽守。西軍武将。細川幽斎が立て籠る丹波田辺城を攻撃。
玉藻の前(たまものまえ)
西域で斑足王の夫人、中国で周の幽王の后褒以(正しくは女偏:ほうじ)となり害をなし、日本に渡り、「玉藻の前」と称し、鳥羽院に仕えた美女。後、素性が分り追放されて狐となり、那須野で殺されたとされる。謡曲「殺生石」、御伽草子「玉藻草紙」などで有名。(『御伽草子』市古貞次注)
田宮 長勝(たみや ながかつ) 吉原御免状
田宮抜刀流居合元祖(田宮流開祖)。
田宮平兵衛重正嫡男。田宮長勝は後に紀州藩主、徳川頼宣に召され800石を得る。 父の剣法を全て受け継いで剣名高く、入門者も多かった。大坂冬の陣で、池田信輝のもとで功を挙げ、家康に気に入られた。家康は長勝を池田家からもらいうけ、御三家の一つである紀州の徳川頼宣の家臣とした。以後常円と号す。その子の平兵衛長家も達人で、三代将軍家光に招かれて抜刀術を演武。以後代々紀州家の師範をつとめた。
田宮 成道(たみや なりみち) 吉原御免状
孫次郎左衛門。田宮長勝の玄孫。
田村 清顕(たむらきよあき) 捨て童子松平忠輝
三春城主。愛姫の父。坂上田村麻呂の後裔。
為尊親王(ためたかしんのう) 花と火の帝
冷泉天皇の皇子。弾正宮。
(ち〜ちん)
千坂 景親(ちさか かげちか) 一夢庵風流記
対馬守。
千々石 ミゲル(ちぢわ みげる) (1569~?)
天正遣欧使節正使。千々石清左衛門。有馬晴純の弟で千々石家の養子となった直員(なおかず)の子といわれる。天正八年(1580)ポルトガル船の司令官ドン・ミゲル・ダ・ガーマを代父として受洗。天正十年(1582)二月、有馬鎮貴、大村純忠の名代という名目で使節団正使としてヴァリアーノに伴われ、伊東マンショらと共に長崎を出港した。一行は八年余が経った天正十八年(1590)七月、長崎に帰国。この時ミゲルは、長旅の疲れから一人では立っていられないほど衰弱していたという。その後、体力を戻し、マンショらとヴァリア-ノに従って上洛、秀吉に謁見している。文禄二年(1593)イエズス会修道士としての誓願を立てイエズス会士となるが、元来病弱だったことから、秀吉の伴天連追放令以降、日々強まる迫害に絶えきれず、慶長六年(1601)棄教、清左衛門と名乗り大村喜前に仕え、その後有馬氏を頼り一時有馬に住したが、最後は長崎に住したとされる。
千葉 周作(ちば しゅうさく) (1794〜1855) 鬼麿斬人剣
幼名於兎丸。成政。江戸後期の剣術者。北辰一刀流開祖。
奥州栗原郡の医者の子として生まれる。剣の達人であった父の影響で早くから剣を学び、やがて、江戸に出て浅利又七郎の門に入り、その剣の腕を磨いた。水戸藩剣術指南を勤め、 神田お玉ヶ池で千葉道場(玄武館)を設け、多くの門人を輩出した。坂本竜馬、清川八郎、有村次左衛門などが学んだことでも有名。墓所は豊島区巣鴨5丁目 本妙寺。
また『千葉周作遺構』の「千葉周作小伝」によれば、周作は寛政六年(1794)元旦、仙台気仙郡気仙村で生まれたとある。父は幸右衛門、母は相馬中村藩士千葉吉之丞の娘とされる。母方の祖父吉之丞は北辰夢想流を始めた剣の達者で、「北辰」の流派名はここからきている。周作は三人兄弟の二男で、兄は又右衛門成道、弟は後に桶町千葉道場で小千葉と称された定吉成胤。父幸右衛門はその父清右衛門と吉之丞から剣を学んでいて、周作も幼少のころから父に習って剣を学んだ。やがて、幸右衛門は子供達を世に出そうと、江戸近郊の松戸に出て、浦山寿貞と名乗り医者を開業した。周作は旗本喜多村石見守正秀に仕え、小野派一刀流の浅利又七郎義信の道場で修行し師を凌ぐほどになった。浅利は師匠の中西忠兵衛に推挙し、中西道場で寺田、白井、高柳又四郎らに交じって、さらに腕を上げる。
その後、喜多村家を致仕し、浅利の妻の姪小森氏を娶って、浅利道場の跡取りの地歩を固めるが、伝統的な一刀流に不合理があることを批判し、ついに北辰一刀流を興すに至った。
周作の生まれた地には、もう一つ、二戸郡荒沢村荒屋説がある。
[逸話]
干葉周作が当時無念流で名人と称ばれた木村定次郎と、野州佐野宿で仕合をした時に千葉が苦もなく勝利を得たが、その後間者を入れて風聞を聞いて見ると定次郎が人に語って云うには、「千葉との仕合の節、この方星眼で使ったことは一生の不覚であった、向うは一刀流のことだから平常下段星眼の仕合は馴れたものである、そこでこっちが上段にとって手合せをしなかったことが返す返すも残念であった」と定次郎が口癖のようにいっているということを聞いた。その後右定次郎の門人で我孫子理太郎というものが、師の仇を報わんと千葉をつけ狙っていた、それを聞くと千葉は、ハアその理太郎君が来る時は必ず上段で来るだろう、よし、その節は先を取ってやろうと工夫をしていた。それから五年程後に宝山流の師武藤虎之助という人の処へ千葉が仕合を申込んで行った節、我孫子理太郎は、姓名を変えて虎之助方にひそんでいたが、仕合が一通り終った時分に、虎之助がもう一人門人で熱心のものがある、是非ともお相手を願い度しと、たっての頼みであった、千葉はこれが我孫子であることを知ってその日は辞退したいと云ったけれども聞かれず、遂に立合うことになったが、挨拶しているうちに何、大した敵ではないと、先方の腕が凡そわかったけれども、それでも立ち合うとかねて工夫の通り、直ぐとこちらから上段に取ったので、先方は先を取られて狼狽の有様が眼中に現われた、そこを遁さず、さんざんに打ち据え、打ち込み、或は下段で打ち、星眼で突きを入れたり、大いに悩ましてしまったことがあるという。(剣術名人法)(中里介山著『日本武術神妙記』より)
千葉周作の関連記述が『剣法夜話』にあるので参照ください。
千穂(ちほ) 影武者徳川家康
本多正純の幼名。
→ 本多 正純(ほんだ まさずみ)
千村 良重(ちむら よししげ) 捨て童子松平忠輝
木曽義利の遺臣。
中和門院(ちゅうかもんいん)
→ 近衛 前子(このえ さきこ)
中宮 禧子(ちゅうぐう きし) 花と火の帝
後醍醐天皇の正室。
中宮 和子(ちゅうぐう まさこ)
和子(まさこ)→ 東福門院 和子(とうふくもんいん まさこ)
中条 右京(ちゅうじょう うきょう) 異説猿ケ辻の変
姉小路公知卿の護衛だったといわれる人物。
中条 長秀(ちゅうじょう ながひで)
兵庫助。中条流の祖。
中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利将軍義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音というものに就いて剣道を修めたということである。この中条流からは多くの流儀を生み出している。(中里介山『日本武術神妙記』)
長 連弘(ちょう つらひろ) 鬼麿斬人剣
加賀八家の一人。
長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか) (1540〜1599) 影武者徳川家康、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、時代小説の愉しみ
幼名弥三郎。土佐の戦国大名。長曾我部とも書く。
永禄三年(1560)、二十歳にして家督を継ぎ、土佐岡豊城主となり長浜合戦に初陣。その後、本山氏の諸城を攻略し、土佐中央部に地歩を固め、安芸国虎を討つ。天正二年(1574)、一条兼定を豊後に逐い、崎浜の土冦を平定し、名実共に土佐一統を達成した。その後、阿波・讃岐への侵攻と合せ、伊予をも侵し、四国平定を進める。しかし、四国制覇の夢は秀吉の出現によって遮られた。本能寺の変で秀吉が一時四国から手を引いたのを機に、元親は四国全土を掌握した。しかし山崎の合戦後、秀吉は再び四国征伐の軍を向け、それに抗しきれず、土佐一国浦戸城主として従う。その後は九州征伐、小田原の陣、朝鮮の役などに秀吉麾下として出動。また、土佐に儒学講習所を設けるなど、文化政策にも力をそそいだ。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
[名言名句]
「一芸に熟達せよ、多芸を欲ばる者は巧みならず」
十五ヶ条からなる「長宗我部家法」にある一条。(『名言名句活用事典』)
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
大阪城浪人衆。
[逸話](『想古録』)
阿州の初代二代に仕へたる長坂甚兵衛と云へる勇士は、長曾我部盛親を生捕るとき、単刀直入一人にて大勢の中に飛込みけるに、其場に居合せたる盛親の臣下は先きを争ふて悉く逃去りけるが、独り中井惣右衛門のみは悠然として盛親と共に捕はれたり、家康公、甚兵衛の功を称賛せられ、何にても褒美の望みあれば遠慮なく所望せよと言はれけるに、甚兵衛畏り、別に所望の品これ無く候へども、今回生捕りたる惣右衛門を下さるべし、然らば此上なき御褒美と存じ奉ると申上げ、本人を申受けて自身の邸内に連れ帰り、我が千石の禄の内より四百石を箚きて之に分与せり、扨て甚兵衛は一二ヶ月の間惣右衛門を左右に引附けて其動作を試験たる後、之を主人蜂須賀侯に推薦して侯の直臣にしたりと云へり、甚兵衛の如きは、忠義勇略兼備の名士と謂はざる可らず(増田道太)
(つ〜つん)
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん) (生没年不詳/一説1489〜1571) 花と火の帝
通称小太郎勝義。鹿島神宮神職吉川覚賢の二男として生まれる。幼名を朝孝。同族で佐竹家の家老塚原土佐守(常陸国塚原城主)の養子となり、新右衛門高幹(しんえもんたかもと)と名乗る。生没年は不詳だが、延徳元(1489)年に生まれ、元亀二(1571)年に没したという説がある。
卜伝の生家吉川(卜部)家は、古くから「鹿島の太刀」と呼ばれる剣術の古流を伝えている家柄で、祖父吉川加賀入道はその秘伝を受け、自らの剣を「鹿島中古流」と称していた。また、父覚賢は越前の「戸田流」(剣、短剣、縄術などの流派)を取り入れ「外の物」と呼んだ。こうして卜伝は父から家伝の「鹿島中古流」と外の物「戸田流」を学んだという。さらに神道流名人飯篠山城守の門人の中で四天王の一人と云われた養父塚原土佐守より「神道流」を学び、上泉伊勢守の門に入った。その剣の腕前は師秀綱をしのぐほどだったといわれる。
晩年、卜伝と称したのは、吉川家の本姓が「卜部」氏だったことから「卜」の字を取ったものという。彼の興した流派は「新当流」とも「卜伝流」とも呼ばれている。(『歴史読本』昭和55年3月号所収杜山悠「秘剣・音無の太刀」および講談社刊『講談全集塚原卜伝』参考)
「塚原卜伝は常州塚原の人なり。父は塚原土佐守、飯篠長威斎について天真正伝を得、しかしてその子新左衛門、刀槍の術を継いだが、不幸にして早死す。そこで弟卜伝、兄の伝脈を継ぎ、諸州を修行して大いにその名を現わす。このとき野州に上泉伊勢守なる者あり。陰流の祖、刀槍の達人なり。卜伝すなはち野州に赴いて、上泉に謁し必要を究む。のち平安城下にいたり、将軍義輝公及び義昭公に謁し、刀槍の術を授け奉る。およそ列侯諸士にして卜伝に術を習ふもの少なからずあり。勢州国司具教卿特に傑出す。故に一の太刀を授く」(『武芸小伝』)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「塚原卜伝」の項があるので参照ください。
津軽 信枚(つがる のぶかず) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝
未資料
津川 左近(つがわ さこん) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
津田 宗及(つだ そうきゅう) (?~1591)
助五郎。天王寺屋。茶匠。堺の会合衆の一人。宗達の長男。
堺南宗寺の大林宗套和尚に参禅し、天信の道号を授けられ、また幽更斎と豪した。父宗達から紹鴎流の茶道を学び、和歌・連歌・挿花・聞香・蹴鞠・刀剣の目利きに長じた。永禄十一年(1568)織田信長が堺に二万貫の矢銭を課した時に、堺衆の強硬派は富力を恃んで信長と一戦交えようと主張したが、宗及は時勢の推移を看破し、穏健派の側にたって主戦派を説得し事なきを得たといわれる。元亀二年(1571)以後、次第に信長に接近し、今井宗久・千宗易とともに茶頭となり、社会的地位を高めた。信長の歿後は豊臣秀吉の茶頭八人衆の一人となり、三千石を賜わった。天正十五年(1587)の北野大茶湯には利休とともに指導役となった。同年十一月十日の大坂城の朝会を最後に、彼の茶事は「宗湛日記」にもその跡を絶っている。利休の死に少し遅れた、天正十九年四月二十日没。享年不詳。一説に、文禄元年八月九日没したともいわれる。(『茶道辞典』)
津田 隼人正家(つだ はやとまさいえ) 一夢庵風流記
未資料
津田 元勝(つだ もとかつ) 影武者徳川家康
長門守。伏見城在番御家人。後藤庄三郎、茶屋四郎次郎両家の家人(女)たちに乱暴狼藉を働く。
土御門 有世(つちみかど ありよ) 影武者徳川家康
十四代陰陽頭。
土御門 久脩(つちみかど ひさなが) 影武者徳川家康、花と火の帝
陰陽頭。土御門泰重の父。
土御門 泰重(つちみかど やすしげ) かくれさと苦界行、花と火の帝
無資料。
土屋 新之丞(つちや しんのじょう) 捨て童子松平忠輝
新蔵信重。大久保長安の兄。土屋右衛門尉直村の寄子となり土屋姓を貰う。武田家の小姓衆となり、長篠の戦いで討死。
土屋 長吉重治(つちや ちょうきちしげはる) 影武者徳川家康
家康の家臣。
一揆側に付くが家康の危難に遭遇し寝返って一揆側と闘い討死。(武徳編年集成)
土屋 藤十郎(つちや とうじゅうろう) 捨て童子松平忠輝
大久保長安。兄新之丞とともに土屋右衛門尉直村の寄子となり土屋姓を貰う。 → 大久保 長安(おおくぼ ながやす)
土屋 直村(つちや なおむら) 捨て童子松平忠輝
右衛門尉。武田家譜代家老。
土屋 昌次(つちや まさつぐ) 捨て童子松平忠輝
右衛門尉。武田二十四将の一人。
土山 五郎兵衛(つちやま ごろべえ) 死ぬことと見つけたり
佐賀藩江戸留守居役。
筒井 順慶(つつい じゅんけい) (1549〜1584) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
幼名藤勝。大和添下郡筒井城に、順昭の子として生まれる。
父に次いで筒井城に任し、興福寺衆徒の棟梁となって大和に勢力を張ったが、永禄二(1559)年、松永久秀に筒井城を追われた。のち織田信長に属し、明智光秀とともに久秀を信貴山城に追って滅した。この功により天正八(1580)年、信長より大和一国を与えられ、郡山城を築城。山崎の合戦では家臣松倉右近の献策で、洞が峠で日和見の態度をとり、光秀を裏切って秀吉に従った。ついで織田信孝を岐阜城に攻め、翌年には、越前に柴田勝家を討って功をたてる。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
(て〜てん)
寺尾 庄右衛門(てらお しょうえもん) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
寺尾 直政(てらお なおまさ) 柳生非情剣
土佐守。
寺尾 孫乃丞(てらお まごのじょう) 吉原御免状
肥後藩士。
武蔵の高弟で、武蔵の死後、誠一郎が二十六歳になるまでの十二年間彼を養育する。
寺沢 堅高(てらさわ かたたか) 死ぬことと見つけたり
唐津領主。
寺沢 広高(てらさわ ひろたか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、見知らぬ海へ
志摩守。長崎奉行。
寺田 蔵人(てらだ くらんど) 鬼麿斬人剣
加賀藩馬廻役。
天武天皇(てんむてんのう) 影武者徳川家康
無資料。
(と〜とくお)
土井 利勝(どい としかつ) かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣、死ぬことと見つけたり、かぶいて候
大炊頭。下総古河領主。家康の生母於大の方(伝通院)の兄水野信元の子として生まれ、土井利昌の養子となる。
初甚三郎と云、幼年より台徳公へ仕へ奉り、慶長七年、下総小見川にて采地を賜はり、同十五年、下総佐倉の城主に被レ成、老中に輔せらる、(『江戸古絵図考附録』)
[名言名句]
「大将至極の心得は、人をよく見知る義なり。役々申付け候と雖も、夫々の器用を知らずしては、例えば船頭を山へ使い、杣人を海へ仕うが如し」
『土井利勝遺訓』の中の一節。(『名言名句活用事典』)
《瓢水の『一話一言』》
[土井利勝の神君御落胤説]
『明良洪範』より土井利勝の出生と智謀についての有名な逸話をひとつ。利勝の出生について、当時から「家康の落胤ではないか」と噂されていたことが判る。確かに、肖像画を見比べると顔立ちは似ているように思う。実際のところはどうだったのだろうか。
「土井大炊頭利勝は土井小左衛門利昌の養子也實は水野下野守信元の二男也一説には神君の御落胤也と云或人殿中にて利勝の髭を見て貴殿の髭は神君の御髭によく似たりと云利勝翌日髭をそり落して登城しける此頃迄は髭を立置く風俗なりしが利勝が剃落たるを見て人々追々剃おとしけると也(中略)後年執政たりし時密事を評議する事有り然るに是迄は密事を評議するには茶室などの様なる狭き所にて其邊の障子など皆立切て評議せしに此度は利勝大廣間の眞中に坐し其邊の障子襖を残らず取拂ひて評議衆のみ一座し餘は人拂いにて評議しける故餘人忍び聞きする事ならざれば是迄の様に密談漏るゝ事少しもなかりし也利勝の智慮衆人の及ばぬ所と将軍家も深賞美し給ひける」(『明良洪範』国書刊行会、465‐466頁)
利勝の出生については、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』にも記載がある。「實は利勝は利昌が子にてはなし。水野下野守信元の庶子なりしを。信元織田殿の為に討れし時。わづか三歳なりしが。利昌子とせしといひ。また或説には神祖御鷹狩のとき。御道のほとりに乳母いだき居て泣くどきて申事ありしかば。すぐに御輿の中に召具せられしともいふ。御外戚の御よしみをもて。厚くやしなはせ給ひしかば。實は御子にてましますらんなど申すものありけるとぞ」(『新訂増補国史大系 徳川実紀 第三篇』吉川弘文館、362頁)。「御外戚の御よしみをもて」とは、水野信元が家康の母親の兄に当たるという意味。つまりは、異例の寵遇と昇進の理由が当時の人々にも不明だったのではないか。(2004年10月23日瓢水記)
土井 利昌(どい としまさ) 影武者徳川家康
土井利勝の養父。
土肥 勝五郎(どい かつごろう) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
問田殿(といだどの)
大内義隆の側室。内藤興盛の長女。
義隆に迎えられた興盛女は、内藤氏が問田村に住していたことから「問田殿」と呼ばれた。義隆との間に一子亀鶴をもうける。
陶晴賢は義隆の甥義長を当主に立て大内義隆を倒すが、弘治元年(1555)、厳島で毛利元就に敗れ、陶氏に担がれた義長も毛利氏に攻められ長府で自刃。その義長の残党が、遺子問田亀鶴を担いで障子岳に立てこもった。しかし、毛利方の内藤隆春(亀鶴の叔父)らに攻められ十一歳の亀鶴も殺され、大内氏の嫡流は断絶した。
その後の「問田殿」の消息は伝わっていない。
東 胤行(とう たねゆき) (1194〜1273) 花と火の帝
鎌倉幕府御家人となった東氏の三代目当主。美濃国郡上郡山田荘に入封。
藤原定家の孫娘を妻とし、その妻の父藤原為家から歌道の奥義を伝授される。古今伝授の家元となる。
東 常縁(とう つねより) (生没年不詳) 花と火の帝
美濃東氏十代目当主。七代目東下総守益之の五男とされる。
宗祇に古今伝授を授ける。
唐犬 権兵衛(とうけん ごんべえ) (?~1686)
江戸の町奴。
幡随院長兵衛の子分で、慶安三年(1650)(一説に明暦三年(1657)七月十八日)、長兵衛が水野十郎左衛門成之に惨殺されたのち、その一党の頭目となった。唐犬を土足で踏み殺したというので、唐犬という異名で呼ばれるようになったという。貞享三年(1686)九月二十七日入牢、間もなく鈴ケ森で打ち首・獄門の刑に処せられた。
『武江年表』「承応三年(1654)」の項に、
○今年町奴御穿鑿あり(夢の市郎兵衛、唐犬権兵衛などいへる男伊達と号せし悪党の事なり。六方組などゝ号して市中をはいくわいし、喧嘩を仕かけ諸人の妨せしもの也。六方組、六方言葉等の事、醒世翁が「奇跡考」、柳亭翁の「用捨箱」等を見て其の趣きをしるべし。
と有り、貞享三年(1686)に捕らえられ打ち首となる前にも幕吏に捕らえられている。
東郷 重位(とうごう しげたか)(1561〜1643)
幼名弥十郎。のち藤兵衛。晩年には肥前守。示現流の流祖。
島津家家臣東郷藤兵衛重為の二男として、永禄四年(1561)、鹿児島で生まれる。剣は藩の師範東小太郎(権右衛門)正直と丸目蔵人佐の高弟藤井六弥太統長からタイ捨流を学んだ。天正十五年(1587)、藩主島津義久に従って上洛、天寧寺に参禅、剣を遣う僧善吉(赤坂弥九郎)に会い、翌年六月天真正自顕流の秘伝を相伝された。
帰郷して思索と修行を重ね、慶長二年(1597)、藩指南役タイ捨流の東新之丞(小太郎の子)を御前試合で破り、師範に取り立てられた。流名を「自顕」から「示現」に改まったのは『示現流兵法書』に「大竜寺文至和尚曰く、経文に示現神通力と云る文あり。然ば先の自顕流の二字は、此示現にて有んと云り。其に依て、家久公貴命を以て文字をあらため、示現流と号せり」とある。
重位は和歌や茶道にも明るく、和漢梵にわたる教養を備え、能書家でもあった。その兵法理論も独特で、藩主家久の信頼も厚く、肥前守を称することを許され、高千石、坊津の地頭職にも任命された。寛永二十年(1643)六月二十七日、八十三歳で没した。
藤堂 高虎(とうどう たかとら) (1556〜1630) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記
通称、与吉、与右衛門。高山公と呼ばれる。父は近江犬山郡藤堂邑の地侍藤堂源助忠高。母は浅井長政の養女とされる。佐渡守。和泉守。安濃津藩初代藩主。
初め浅井長政に属し、姉川の合戦には十五歳で出陣、敵首をあげる。ついで羽柴秀長に仕え三木城攻め、賤ヶ岳合戦で功を挙げ、小牧の役、伊勢松ヶ島攻め、四国征伐では阿波の木津、一宮両城を攻め、九州征伐では日向の目白城攻めに軍功を挙げるなど、戦の度に武名を高めた。秀吉没後は家康に与し、関ヶ原では先鋒となって岐阜城を攻略。その功で伊勢伊賀三十二万石を領し、大坂の陣では長宗我部盛親と戦った。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
築城術にも秀で、伏見・亀山・篠山などの築城を手掛け、日光廟造営に才幹を発揮した。秀忠の時代には、公武関係の周旋にも大きな役割を果たし、和子入内に一役買っている。
和泉守、元江州の人、父は源助高虎(ママ)と云、高虎、慶長関ヶ原乱より神君に属し奉り、忠功を顕はす、依て、伊勢安濃津の城を賜はり、後年従四位少将に任ぜらる、寛永七年に卒す、(『江戸古絵図考附録』)
[逸話](『想古録』)
慶長の昔、将軍家に祝ひごとありて、諸侯を饗せられしとき、引物に鯛の丸焼を出せり、藤堂高虎、邸に帰りて近侍の士に誇り、大名の身となりたればこそ斯る珍味をも賜はるなれとて悦ばれしとぞ、今にては鯛の丸焼何か有らん、僅々二百余年の間に、倹者の懸隔を生ぜる此の如し(津坂孝綽)
藤堂高虎は築城に巧者なりし、江州膳所の城も高虎之を築き、江戸城も高虎の縄張に由て之を修築せり、其築城法は初め四角に縄を張り、夫れより彼の角を欠き、此の隅を取り、地勢の向背に随ひて城と為すの法なりしと云へり(津坂孝綽、中村微)
藤堂の国祖高山公、其臣藤堂主膳の邸へ立寄られけるとき、談話に時を移して覚えず黄昏と為りければ、主膳晩餐を献ぜんと申上げけるに、公之を止め、菜は予て申し付置きたる物を城より取寄すべければ、湯漬飯だけ馳走にならんとて、城中より菜を取寄せられけるに、其の好みの菜と云へるは鯵の干物五枚にてありけるとぞ、国初の質素倹樸想ひ見るべし(斎藤拙堂)
[名言名句]
「我が女房に、情なくあたる者あり、大いに道に違いたることなり」
高虎遺訓『高山公実録』にある一節。「我が女房」とは自分の妻という意味。
「少しの物も、人の物は借るまじきなり。たとい、借り候とも、追つき戻すべし」
嫡子高次に残した高虎遺訓「掟書十九ヶ条」の中の一節。(『名言名句活用事典』)
藤堂 出雲(とうどう いずも) かくれさと苦界行
未資料
藤堂 式部(とうどう しきぶ) かくれさと苦界行
未資料
東福門院 和子(とうふくもんいん まさこ) (1607〜1678) 吉原御免状、影武者徳川家康、花と火の帝、柳生非情剣
和子。徳川秀忠の五女。後水尾院の皇后。中宮。
慶長十二年(1607)、江戸城で生まれ、同十九年(1614)に入内の宣旨がなされ、元和六年(1620)、後水尾天皇の后として入内。同九年(1623)、興子内親王(後の明正天皇)を生み、寛永元年(1624)に中宮宣下。寛永三年には第一皇子高仁親王を生むが、同五年に僅か三歳で逝去。寛永五年に再び皇子(光融院)を生むが、これも夭折した。寛永六年(1629)、後水尾天皇が皇位を興子内親王に譲り退位したため、女院(東福門院)となる。
和子は後水尾天皇との間に二皇子五皇女を生むが、内五人は女御、中宮時代に生み、女院時代は寛永九年の賀子内親王と翌十年に生まれ夭逝した皇女の二人だけで、この時和子は二十七歳だったが、以後、二人の間には子供が生まれていない。これより前、寛永七年に和子は皇子を流産していて、この時の出産が変調に終ったための影響ともいわれるが、その後、二人の子を生んでいる事から、この時の流産が和子の身体に異常をきたしたとは考えにくいとされる。
高仁親王が逝去した寛永五年、細川忠興は六月二日付の手紙で「親王様御腫物気之由、さほどの事にて無レ之由候」と親王の健康について腫物が出来たが大したことは無いと書いていたが、六月十六日には「急度申候、親王様崩御之由、上方より申来候」と細川忠利に知らせている。この事から日本史の水江漣子氏は、「十日あまりで死に至らせるような幼児の腫物とは、どうしたことであろう。」と述べている。また、皇子を流産した寛永七年、同じく忠興は、「中宮様九月、御誕生之御祝儀も被レ仰登由候事」と八月十三日付の手紙で書き、八月二十三日には「今度、中宮様御誕生之王子流申由候、ふしぎなる儀候事」と予定の出産が変調に終った事に疑問を抱いた一条を書き添えている。
こうした事から、隆慶一郎は『花と火の帝』の中で、岩介に「男子が生まれなければよい」と言わせ、呪法を使ったように仄めかせたと思われる。
ともあれ、和子は寛永十年(1633)以後、院との間に子をもうけていないが、二人の仲は以前にも増して睦まじくなったとされる。それは、後水尾天皇が上皇となり仙洞御所に移ると、隣の女院御所へ頻繁に通っていたことや、院が造営した修学院離宮を始め、院とおよつ御寮人の間に生まれた第一皇女の文智尼が法灯を守る円照寺に詣でるなど、院のかず多くの御幸に、二人は連れ立って訪れていることが記録にしばしば現れていることから伺える。
後水尾院は幕府との軋轢の末、早々に譲位し政治の世界から身を引き、仙洞御所を中心とした宮廷文化を花開かせるが、その相方の和子もまた、京中立売小川の呉服商雁金屋宗柏から大量の衣裳を購入する事で、宗柏の子尾形光琳・乾山のパトロン的役割を果し、寛永文化の担手となっている。
遠山 久太夫(とおやま きゅうだゆう) かくれさと苦界行
お虎の前夫。
遠山 綱景(とおやま つなかげ) (?〜1564)
江戸城主。遠山直景の長男。藤九郎のち隼人佑。甲斐守、丹波守を称す。氏綱から一字拝領。
北条氏康に仕える側近衆の一人。天文十三年(1544)、江戸城に連歌師宗牧を招き連歌会を催すなど文化人でもあった。
下総国府台で里見義弘と北条氏が激突した時、綱景は江戸衆を率いて父直景と共に出陣、富永政家と先鋒を務め、里見方の正木時茂、太田康資と激戦、綱景は父直景と共に討死をとげた。
冨樫 政親(とがし まさちか) 影武者徳川家康
加賀守護職。
土岐 頼次(とき よりつぐ) 時代小説の愉しみ
美濃国守護。
斉藤道三により美濃を追われる。
常盤御前(ときわごぜん) (生没年不詳)
近衛院の妃九条院の雑司の女。源義朝との間に阿野全成(今若)・義円(乙若)・源義経(牛若)の三子を設ける。
平治元年(1159)、平治の乱で義朝が大敗した後、平氏の探索を受けて六波羅に降り、三子助命のために清盛の妾となり、一女廊御方を生む。後、藤原長成に嫁ぎ、能成を生んだ。(『舞の本』解説)
(とくがわ)徳川
徳川 家重(とくがわ いえしげ) (1711〜1761) 吉原御免状
九代将軍。徳川吉宗の世子。
将軍在位1745(延享2)年〜1760宝暦10)年。徳川吉宗の世子、幼名を長福丸という。母お須磨の方、弟には徳川宗武(田安家)、徳川宗尹(一橋家)、息子として徳川家治、徳川重好(清水家)がいる。江戸城から上野の寛永寺へ行くのに23カ所も便所を設けなければならなかったといわれ、「小便公方」と渾名される。
徳川 家継(とくがわ いえつぐ) (1709〜1716) 死出の雪
七代将軍。六代家宣の嫡子。
父家宣の死により僅か四歳で将軍職を継ぐ。家宣時代に登用された側用人間部詮房、儒者新井白石等によって輔佐され、家宣時代の「正徳の治」と呼ばれる善政が継承される。
しかしあまりにも若い将軍だったため、大奥が紊乱し、「絵島生島事件」などという大奥の不祥事を引き起こした。
この家継は在位居三年、僅か七歳で没し、徳川宗家の血が絶えた。
徳川 家綱(とくがわ いえつな) (1641〜1680) 吉原御免状、かくれさと苦界行、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、死ぬことと見つけたり
四代将軍。
将軍在位1651(慶安4)年〜1681(延宝8)年。父徳川家光、母お楽の方、弟には徳川綱重、徳川綱吉がいて、息子はなし。家光が48歳という若さで死去。家綱は僅か11歳で将軍職に就いた。家綱の治世は、前半が輔弼役の保科正之を中心に家光時代からの大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋らが取り仕切り、後半は酒井忠清によるワンマン政治が行われた。
《瓢水の『一話一言』》
[家綱初期の浪人対策〜武断政治から文治政治へ〜]
真田増誉『明良洪範』より4代家綱初期の逸話をひとつ。幼い家綱を支えた保科正之、酒井忠勝、阿部忠秋、井伊直孝、松平信綱などの幕閣が、当時の大きな社会問題であった浪人の扱いについてどのように考えていたかが窺える逸話である。
「慶安四年由井正雪御仕置後十二月に至て江戸中に浪人置べからず残らず追拂ひ申べきに極まらんとする所に忠秋(注:老中阿部忠秋)曰天下は天下の人の天下也と云り上一人の為に萬民を苦めん事仁政に有ず其上浪人共の一揆を恐て江戸中を拂はれしなど世の嘲弄とならんには後代迄の御恥辱也又江戸中を拂共六十餘州の中何れにか居るべし悪事を企んとの御苦勞は同然也と申されければ井伊直孝も浪人を恐て江戸を拂ん事御仕置の手薄に似たり是迄の通り差置れて然べしとて夫に定まれり是忠秋の仁心より出て大勢の浪人安堵せる也」(『明良洪範』国書刊行会、380頁)。
井伊直孝は、“徳川四天王”と称された井伊直政の後継者で彦根藩主。幕閣の中枢で重きを成しながらも、3代家光を見限っていたようだ。「井伊掃部頭直孝、この人などはたしかに家光では駄目だと思って居った(中略)家光が亡くなった時にも、どうも家綱公は大果報な御方だ、先代公方様がもう一二年も御在世だったら、世の中は大変乱れたに相違ない、それが早く亡くなられたのは大変御仕合せだ、と云って居ります」(三田村鳶魚『徳川の家督争い』河出文庫、55頁)。三田村氏が出典を明らかにしていないのが悔やまれる。(2004年10月5日瓢水記)
[京で“馬鹿”と噂された4代将軍家綱]
明和2年(1765)11月に若狭小浜藩士の山口安固が書き上げた『仰景録』より、上方における4代家綱の噂をひとつ。『仰景録』は、家光・家綱期の幕府を元老として支えた酒井忠勝の言行録である。「板倉周防守」は、京都所司代・板倉重宗(勝重の子)のこと。
「板倉周防守様御参府、御目見なされ候上、忠勝様へ仰せられ候は、当公方様厳有院様は上方にては御馬鹿だと沙汰仕り候、此度御目見仕り、御様子拜し奉り候処、御聡明の将軍様と見えさせられ、恐悦に存じ奉り候旨、御物語なされ候由、淳古たる御事なり」(荻野由之監修『日本偉人言行資料 圓心上書 仰景録』国史研究会、205頁)。
おそらくは家綱の将軍就任後、間もない頃の逸話と思われる。家綱は「そうせい様」と呼ばれたように消極的な性格だったらしい。同様の逸話が『徳川実紀』の「厳有院殿御実紀附録」にあるが、「御馬鹿」ではなく「専ら御寛厚過させ給ふ様」と記されている(『新訂増補 国史大系 徳川実紀第5篇』吉川弘文館、343頁)。「寛厚」とは、「心が広く親切なこと。心が広くおだやかなこと」の意。『酒井空印言行録』(『仰景録』のこと)を参照しての記述であるが、公式記録に「馬鹿」とは書けなかったのだろう。(2004年10月8日瓢水記)
徳川 家斉(とくがわ いえなり) (1773〜1841) 鬼麿斬人剣
十一代将軍。
十代将軍家治に子が無かったため、一橋家から世子として入っていた家斉が、家治病没後将軍となる。家治時代、幕閣を牛耳っていた田沼意次を罷免し、白河藩主松平定信を老中首座に据え、寛政の改革を行うが行き過ぎた緊縮財政で庶民の信を得られず失敗。その結果、定信は失脚するが、それまで定信に押さえられていた家斉の欲望が爆発し、側室を四十人も抱えその子女五十五人という乱れた生活をおくる。
将軍がこの有様だったため、庶民もこれに倣い文化・文政の爛熟・廃頽文化を産んだ。この時代から急速に徳川政権は没落に向う。
[逸話](『想古録』)
文恭公(十一代将軍)、将軍嘱を襲がせられし初め、手自から仮山を築き、閣老以下諸有司を召して一覧なさしめたり、拝観の人々は何れも皆立派なり、風雅なり、言ふべからざる妙味ありなどと、異口同説に讃め立てけるに、独り吉田侯のみ黙してありければ、将軍これを怪み、伊豆は此の仮山を如何思ふやとありけるに、豆州は臆する色なく、天下を知し召す上からは、斯る小事に御心を用ゐさせられず、吉野の桜、初瀬の楓を御庭と思召されたく存ずるなり、と申上げぬ、将軍は殊の外御不興にて、直ちに奥へ入らせられけり、一座の人々皆手に汗を握り、跡にて色々批評しけるに、楽翁公のみ深く感歎し、豆州に先を越されたるは悔しきことなり、然れど上の為めには好き人を得たれば、我れ老職を退くも思ひなしとて喜ばれたり、後に幾ばくも無く老中と為り、松平伊豆守信明の名、四海の内に響き渡れり(竹尾)
白河楽翁老中を罷められしより、天下の災変を将軍(十一代将軍家斉公)に申し上ぐるもの一人もなし、これに依て将軍は今の世の中を尭天舜日と思ひとられ、却て水戸(烈公)の所為を危みて、毎々隠密の偵吏を派遣はさるると云へり、将軍常に曰く、田安の学問を好むは無用のことなり、水戸の百姓の世話まで焼くは政治の方法を知らざる者なり、と申されしとぞ、諂佞の言事実を転倒して下情弥々上達せず、誠に危き世の中と申すべし(川田嘉)
将軍家には御使棄の金とて、日々目に見えぬことに使用する費用あり、此費金は一月大凡二三百両に過ぎざりしに、憲廟(五代将軍)のとき奢侈を窮め六百両となれり、其後取締り附きて再び旧に復せしに、当将軍(十一代文恭公)に至り次第に増額して今や八百両を要すと云へり、其豪奢想ひ見るべし(安井仲平)
楽翁公閣老の職を辞して水野羽州代りて政権を握りたる後、十一代将軍の左右に出入するものは、総て阿諛侫曲の俗吏のみにて、将軍に向ひ直言諷諌を申上ぐるもの一人だも無く、これに因りて将軍の驕傲は日に募り、天下の政治は無為にさへあれば泰平なりとの誤解を将軍の胸中に起さしめたり、近年凶荒打続きて米価騰貴し、都鄙の別なく餓孚路に満つるの惨状を究むるも、将軍毫も之を知らざるなり、大塩平八郎、貧民救助の主意を以て乱を大坂に起したるも、将軍は百姓一揆と見做して何の心痛せられざるなり、只だ侫臣を近付けて夜となく日となく遊び戯れ、今歳は首尾よく御代換りが済みたれば、取分け目出度きことのみ多しと申上ぐれば、其の申立たる御側衆は忽ち千石の禄を増賜せられ、今日は丹頂の鶴が御城の上に舞来りて、二声三声高く鳴き、揚々然として舞去れりと申上ぐれば、夫れは目出度きことなりとて、其者にも亦五百石を加禄せられ、此の凶荒物騒の世の中を知し召さず、我が無為の美政に由て天下の形勢は泰平富裕の世の中と為りたりと自負せられたり、将軍の昏迷此くの如くなりければ、我が智を恃みて他人が馬鹿と見え、田安老公が学術を好まるるを毀りて、三卿とも云はるる者が文字を学び、経史を研究するとは、身分に似合はぬ不行状と謂はざる可らずと非難せられ、又水戸に隠密を出して烈公の施政を探り、彼れが如く綿密なる世話を焼きては国の治まる道理なき筈なるがと危まれ、天下の政事は予の如く、金銭を吝まず、物事を気に懸けず、醒むれば美酒を飲み、酔へば珍味を食し、後宮三日の花の如き美少艾を相手として娯しまば、士民は政治の寛仁大度なるに感服し、上の好むところ下亦これに倣ひ、都鄙の人心親睦和楽して、民富み国栄え、老幼男女泰平を謡ふて余が徳を称賛するが如き、目出度き世柄に為るべきにと誇られけるとぞ、其昏迷暗愚も斯に至りては之を医するの道なきなりと、豊州翁の眉を顰めて語りたり(羽倉用九)
徳川 家宣(とくがわ いえのぶ) (1662〜1712)
六代将軍。幼名虎松。後に綱豊。三代家光の次男甲府宰相綱重の長子。母はおほら。
母「おほら」は、天樹院の乳母松坂局の下女で、父綱重が正室を迎える前の寛文二年に生まれたが、その出生は伏せられ、家老新見正信に引き取られる。その後、綱重に嗣子がなかったことから呼び戻され、甲府家を継いだ。
五代綱吉は実子徳松を将軍の座につけようとしたが、その徳松は天和三年(1683)、五歳で夭折した。その後、『生類憐みの令』を強化し、実子の誕生を願った綱吉だったがついに男子の出生はなかった。最後の望みとして紀伊綱教に嫁した実の娘鶴姫に、世継ぎを期待したが、その鶴姫も宝永元年(1704)、病に倒れ綱吉の望みは断たれた。こうして甲府家を継いでいた綱豊に将軍の座が巡ってきて、宝永元年十二月に江戸城西の丸に入る。このとき名を、綱豊から家宣に改めた。家宣の将軍就任はそれから五年後の事となる。
将軍に就任した家宣は、甲府家に出仕していた新井白石を幕臣に用い、「朝幕関係の融和増進」「武家諸法度の改定」「金銀復古政策の採用」「司法関係諸事件の処理促進」など、白石と一体となって推進した。
徳川 家光(とくがわ いえみつ) (1604〜1651) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、死ぬことと見つけたり、駆込寺蔭始末、柳生非情剣、かぶいて候、わが幻の吉原、対談日本史逆転再逆転
三代将軍。秀忠二男。幼名竹千代。母は正室於江の方。
将軍在位1623(元和9)年7月27日〜1651(慶安4)年4月20日 。
母於江の方は三男国松(徳川忠長)を寵愛し、次期将軍の座も三男に継がせようと思っていたが、竹千代付きの乳母お福(後の春日局)の働きで大御所家康によって、嗣子とされた。これは、慶長十六(1611)年、江戸城に赴いた家康の食事の席に、当時七歳の竹千代と五歳の国松が挨拶に訪れ相伴することになった時のこと。国松付きの奥女中らは当然のように、国松の膳を竹千代に並べて相伴させようとしたらしい。これを見た家康は不快気に
「竹千代は正しき儲副(もうけぞえ:嫡流)のことなれば、相伴あるべきなり。国松は庶流なれば行末竹千代が家頼(家来)となり、忠勤を抽(ぬきんず)べき身なり。いかで君臣位を同じくして座を並べんや。」(『台徳院殿御実紀』)と奥女中達をたしなめたという。これによって、一座の者達は次期将軍が竹千代であると認識した。
家光の将軍継承当初は、前将軍秀忠との二元政治であった。秀忠の死後、土井利勝らの優れた補佐を得て、将軍への権力の一元化が進んだ。法制・職制・兵制・参勤交代などの諸制度が整い、幕藩体制が完成した。また、異母弟保科正之を認知し、実子家綱の後見に当らせ御三家並の格を与えている。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に家光関連の記述あり参照ください。
[逸話](『想古録』)
三代将軍、百人番所を成らせらるるとき、屋上に一羽の鴉あるを御覧じて、彼れ撃て、と命ぜられたり、御附の衆進み出で、銃器を携帯せざるよし申上げけるに、将軍は番所に備付けある小銃を指し、彼の銃にて、と御意ありければ、番所詰の者胆を冷して狼狽せり、元来番所の銃器は非常の用に備ふる物なるに、太平やや久しく武備漸く弛みて、装飾の為め廃銃を並べ置くことと為りけるを、将軍其弊を矯めんとして斯る不時の命令を下されたるものなりとぞ、此評判早くも其向きへ伝はりければ、諸番所にては俄かに良銃を買入れ廃銃と交換し、警備の実を整頓しけるとなん、其後数年を経て慶安の隠謀事件生じたり(赤井東海)
徳川 家茂(とくがわ いえもち) (1846〜1866) 異説猿ケ辻の変
十四代将軍。十三代将軍家定が安政五(1858)年に病没し、紀州藩主徳川慶福が家茂と名を改め将軍となる。
これより前、家定が将軍になった嘉永六(1853)年には、ペリー率いる黒船が来航し、幕府は開国か鎖国を続けるか混乱していた。家定は生来病弱で暗愚だったとされ、早くから後継者選びが始っていて、井伊直弼を中心とする保守派が紀州公を推し、水戸家の徳川斉昭や島津斉彬らは斉昭の実子で英邁の誉れ高い一橋慶喜を推した。しかし、この時大老となった井伊直弼は慶福を将軍世子と決定し、一橋派や攘夷派に大弾圧を加える(安政の大獄)。この事が機で、直弼は万延元(1860)年、江戸城桜田門外で水戸浪士らの刃に倒れた。
家茂は四歳のときから紀州藩主となっていたが、自身も病弱で将軍職を継いだ時点では若干十二歳の若さだった。
徳川 家康(とくがわ いえやす) (1542〜1616) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり、柳生非情剣、見知らぬ海へ、かぶいて候、わが幻の吉原、対談日本史逆転再逆転、柳生刺客状、時代小説の愉しみ
幼名竹千代、初名を元信のち松平元康と名のる。永禄六年(1563)家康と改名、同九年(1566)姓を徳川と変える。
江戸幕府初代将軍 (在職 1603〜05)。院号は安国院。織田信秀、次いで今川義元の人質となったが、永禄三年(1560)、義元が桶狭間の戦いで敗死すると、岡崎に帰り、織田信長と親交を結び戦国大名として成長。本能寺の変で信長が弑された時、小勢で和州堺に在り、明智の軍勢に狙われる直前に伊賀国を経て領国三河へ帰る。この時の逃避行が「伊賀越への大難」といわれ家康の四大危難の一つとされている。豊臣秀吉の天下統一に協力、五大老の筆頭として重きをなす。秀吉の死後、石田三成と反目して慶長五 年(1600)関ヶ原の戦いに三成を破り天下の覇権を握る。同八年二月十二日将軍宣下。同十年将軍職を子秀忠に譲って大御所として駿河に引退するもなお幕政を後見した。大坂冬・夏の陣 で豊臣氏を滅ぼし、幕府の基礎を築いた。元和二 年(1616)三月太政大臣となる。墓所は初め久能山、のち日光山東照宮。
十八歳の時に、今川方武将として、信長の軍勢に包囲されている大高城への兵粮入れを命ぜられ、「大高城兵粮入れ」(『武辺咄聞書』『東照宮御実紀巻二』『常山紀談』『三河物語』)として名高い初の軍功を上げる。
三河の兵法家奥山休賀斎公重に七年間奥山流の刀術を学び皆伝を得ている。(『吉原御免状』)
徳川次郎三郎。父広忠。母お大の方(伝通院、水野忠政養女、青木政信女)
天文十一年壬寅十二月廿六日、降-2誕于岡崎城1、同十六年丁未、出2岡崎城1赴2尾州1、此後為2岡崎御城代1石川右近大輔、阿部大蔵大輔正澄、總奉行鳥居伊賀守忠宗、松平次郎右衛門重吉相-2守之1、永禄三年庚申五月廿三日、再岡崎御還城(柳営婦女伝系一)
家康四大危難
一、今川家人質 『東照宮御実紀巻一』『三河物語』
二、三河一向一揆 『東照宮御実紀巻二』『常山紀談』『三河物語』
三、三方原の戦 『東照宮御実紀巻二』『常山紀談』
四、伊賀越へ 『東照宮御実紀巻三』『常山紀談』
徳川家康の武芸 家康は剣道は新当流の皆伝、弓術は吉田出雲の門人竹林派の石堂藤右衛門に就いて免許を受け、馬術は大坪流、八条流共に印可皆伝を受けた。鉄砲は最初美濃の斎藤内蔵助の門人を師として学び、後稲富外記に教えを受けて免許を取った、何れも武芸に精通している、尚この外に武術の各流に就いて奥妙の域を窺うていた消息は前の武術神妙記にも記したところである。(中里介山著『続日本武術神妙記』)
秀吉亡き後、ようやく巡ってきた天下取りの機会に、家康はライバル潰しに取りかかる。秀吉の五大老の一人として同輩だった前田利家が慶長四年(1599)に亡くなると、その後を継いだ嫡子利長に対し、家康を亡きものにしようと企んだなどと難癖をつけ加賀前田家を脅したのを皮切りに、会津に転封したばかりの上杉景勝へも喧嘩を売る。利長は母芳春院(まつ)を江戸に人質に出すという形で家康に恭順を示したが、謙信公以来武勇の誉高い上杉家は、売られた喧嘩を買って出た。
家康は会津征伐の軍を差し向けるが、これは見せ掛けだった。案の定、上杉勢との戦に呼応するかのように石田三成が西軍を組織して家康を潰しにかかってきた。してやったりと家康はほくそ笑む。家康の上杉家への言い掛かりは、三成を誘き出す陽動作戦にすぎなかったのだ。
かねてこの時が来ることを計算していた家康は、三成が組織した西軍の諸大名に書状を送り充分な根回しを行っている。こうして、西軍の絶対有利な陣が布かれている関ヶ原に、家康はゆうゆうと乗り込んできたのであった。桃配山に陣し、霧の晴れるのを待っていた。ようやく霧が薄れ、先鋒が動き、まさに合戦が始まらんとすると家康はさっそうと馬上の人となった。その時、霧の中から突然現れた刺客に、家康は突殺されたのだった。(『影武者徳川家康』)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「徳川家康」の項あり参照ください。
[逸話](『想古録』)
東照公は難戦と為り、敗軍と見るときは必ず指の爪を噛み、若し討死と覚悟のときは、一層劇しくポリポリと噛み玉へり、然るに小牧の役には、初め織田より加勢の義を言ひ来るや、直ちに爪を噛み初め、十指とも嚼尽されたるよし、去れば初めより討死の覚悟なりと見ゆ(恩田為)
徳川家康は家臣を人の前にて叱ること決して無し、若し過失あるときは必ず人の居らざる処にて、汝の父又は先祖は何処の戦に斯々の功ありしに、汝は何故に此の如き心得違を為しけるぞと、真綿もて喉を絞らるるが如き異見を加へられければ、何れも皆その厚誼に感激して、忠勤を擢づるに至りぬ、之を織田右府が驕傲酷薄にして、竟に本能寺の変を招きたるに比すれば、霄壤の懸隔ありと謂ふべし、二百余年の昇平、豈由る所なからんや(岡本花亭)
徳川公、味方原に敗れて其軍を引揚ぐる際、幕下の諸将士左右を護衛して、追ひ来る敵を支へたり、跡にて誰は御馬に附従へり、彼は御側には見えざりしなど争ひける、公諸将士の刀を取寄せて一々検められ、何某は我が右に附き、誰彼は我が左に随へりと明瞭に指示されたり、此は公が後に斯る争ひあるべきことを予知し、馬上より左右に向て、唾沫の有らんかぎり吐掛けられしにて、刀身に存留せる汚点の有無に憑りて、随従の虚実を確め、併せて其の左に在り、将た右に居りたるまでを判断するを得たるなり、三軍気沮みて旗色既に乱るるの時、此の後日の地をなすに綽々として余裕あり、其の器量の非凡なること想ひ見るべし(古賀同庵)
関西三十三国の諸侯に紙鈔を許して、関東三十三国の諸侯に之を許されざりしは、東照公の秘謀に出でたるものなり、其奥意は、金銀の物たる真物に非ざれば乱世の用を為さず、非常の場合には紙鈔は紙屑同様の反古となるものなり、されば後来斯く定められたるものなりと云へり、然れば藤堂家に紙鈔あるは、伊勢にては成らざれども大和の古市にて造る名目にて許され、又紀州も大和に領地あれば其所にて造る名義にて許されたるものなりとぞ(竹尾全竹)
紅葉山の御宝蔵に東照公の御胄三箇あり、是れ若、壮、老と三度換りたるものと云へり、老年に用ゐ玉ひし胄は、其鍬形中間より折れたり、是は大坂の役に真田方より狙撃せる銃丸に触れて打折られたる者なりと云ふ、太平の将軍、豪奢の公子は此の祖宗の胄に対して何等の感も無き者にや(桜任蔵)
江戸紅葉山の御宝蔵に東照公の用ゐられたる寝具あり、世上普通の夜被布団とは全く其趣きを殊にし、薄き小布団の如きものを幾枚も重ね掛けて寒を防ぎ、暖を取る様になり居る者なり、是は上より人に押へられたるとき、左右前後へ逃げ抜けるに便せんが為め、斯くの如く作られたる者なるべし、戦国に生れて四面皆敵の間に立ちたる者は、一国一城の主にても毫末の油断なかりしと見ゆ、児孫たる者が乃祖の苦辛艱難を忘却して栄耀栄華に月日を送るは、宗廟社稷に対して済まぬことなるに(泉本正助)
[逸話](『見聞談叢』)
[家康茶を秀吉に進む]
○豊臣太閤伏見におひて東照宮及び利家、氏卿を享せらる。これより聚落に往きて共に遊興し帰る次で、徳川殿の宅へよるべしとの事なれば東照宮忝しとて宅にかへり、聚落にて美食の上なれば、唯茶を奉るべしと云て、座敷を払い庭を洒ぎ、自ら壺の口を切り、茶一袋を茶童朱斎に命じてひかしむ。明日東照宮聚落城を坐を早く立ち玉ひ御覧ずるに、ひける茶減少せり。朱斎を召して大に怒り玉へり。朱斎申上げるは、水野監物之をたべ候ぬ。上の御茶なりと制し候ひつれども、聞入れ候はずと申す。監物は御寵愛の美童なり。又新に壺の口を切りて一袋を取り出し、茶童休閑にひかしむ。加々爪隼人上は早御成と申す。唯今ひきては遅かるべし。初めの御茶減少なりとも、献じ奉るほどはあるべしと申せば東照宮の玉ふ。隼人縦茶をひきいださずして、太閤いたづらにかえらせられて、無興なるとも、已に人の飲たる余を献る道やあらん。其志ならば、汝が奉公正しからじと戒め玉へり。
[家康麦飯を食し倹約の範を示す]
○東照宮於三河毎歳夏中は麦飯を召しあげらる。近侍の人ひそかに白米のいひを御椀のそこへ入れ、上に麦飯すこしばかりをほふて、御膳をあげられければ、御覧ありて、今かゝる戦最中軍役人賦うごかぬ年なし。士卒いそがはしふして寝臥食物やすからず。予れ独りなんぞあきたらんや。且われ一身のやしなひを倹約して、軍用にたさん。百姓をつからして自らゆたかなることをせじとの玉ふ。聞者皆感服す。
[名言名句]
「堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思え」
『東照公御遺訓』の中の一節。この『東照公御遺訓』は、家康の残した言葉をまとめたものだが、家康自身が書いたものではなく、後日、まとめられたもの。
「白鳥でさえ、これを捕うるに四人がかりならでは捕らえられぬもの」
これは大坂冬の陣での軍議に際し、老臣山名禅高が威勢の良い城攻め策を進言したことに家康が答えた言葉。白鳥でさえもこれを捕らえるためには一人が捕り手になり、一人がくちばしをとり、一人が羽を押さえ、あと一人は胴をつかまえるというように、四人がかりでなければできない。まして、城を落とすという大難事に立ち向かうには、全員がそれぞれの役割をくわしく定め、用意周到に手はずを整えたうえで、慎重に事を運ばなければならないと説いたという。
「諸士の心入れ悪く、作法乱れるは、その家の破れになるもほどなきものなり」
「凡そ人の上に立って下のいさめを聞かざる者の、国を失い家を破らざるは、古今ともこれなし」
以上二つは『岩渕夜話別集』にある家康の言葉。
「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し。急ぐべからず」
『東照公御遺訓』の中の一節。(『名言名句活用事典』)
徳川 忠長(とくがわ ただなが) (1606〜1631) かくれさと苦界行、花と火の帝、柳生非情剣、かぶいて候
権大納言。秀忠の三男。母於江の方。幼名国松。
母於江の方に寵愛され、兄家光を差し置いて次期将軍候補として家臣たちにもてはやされて育てられるが、大御所家康によりその夢はついえ去る。それでも諦めきれず、家光が将軍職を拝領する直前には、兄の暗殺を謀ったとされる。(『かぶいて候』)
駿河五十五万石藩主となり駿河大納言と呼ばれ、一時は御三家より上に立つ存在とみなされていたが、父秀忠により蟄居、秀忠没後には家光によって上野国高崎城に幽閉され、やがて死を命ぜられ当家は廃絶となった。
先に書いた暗殺云々は、隆慶一郎の小説の世界だが、幼少から甘やかされちやほやされていたために、そう思われても仕方のない人格に育ったようだ。忠長は駿河入りするとまもなく、駿河にある殺生禁断の浅間神社の神獣とされていた猿を狩ると言い出した。家臣の者達は必死に諌めたが聞き入れず、数万人の勢子を動員して千二百四十余匹の猿を捕殺して意気揚々と帰途についたという。また、鷹狩りに出て暖を取ろうとしたが、なかなか火が炊けなかったのを怒り、家臣の一人を手討ちするなど、狂暴奇矯な行為を重ねたため、秀忠も終には甲州に蟄居させざるを得なかったという。
[逸話](『想古録』)
駿河大納言忠長卿は表面上にては御生害と沙汰したれども、其実は水戸義公の義救に由て一生涯を船橋の西山寺に全うせられたり、其ころ虚無僧の徒には義侠なる勇僧多かりければ、義公これを利用し、彼の寺に頼みて十七名の勇僧を選抜し、夫等のものに失敗世を忍ぶ叛逆公子を護衛せしめ、公子は無事に其天命を終られたりといふ、彼れ十七名のものは其後義公の劵顧を蒙り、水戸領にて各々一ケ寺づつの新寺院を拝領しけるが、其寺々は今尚存在するよしなり(松崎慊堂)。或るとき此事を古賀同庵翁に話しけるに、翁大いに喜び、余嘗て三代将軍を評して徳川歴代中の名珠と為し、唯一友于の全からざる瑕瑾あるを惜みけるが、西山寺の逸話をして果して事実ならしめば、三代将軍は真に完璧無瑕の名君なりと云はれたり(古賀同庵)
徳川 綱吉(とくがわ つなよし) (1646〜1709) かくれさと苦界行、捨て童子松平忠輝、わが幻の吉原
五代将軍。家光の四男。
延宝八(1680)年、病弱だった家綱が嗣子のないままに没し、その跡を継ぐべき次弟の甲府宰相綱重も既に亡く、その嫡子綱豊がまだ幼かったため、家光の子で館林藩主綱吉のもとに将軍職が巡ってきた。
ただこれもすんなりと決まった訳ではなかった。時の大老酒井忠清は、鎌倉幕府の執権北条氏が源氏の血が絶えた時に、公家・皇族から将軍を迎えた例にならおうと、皇族からの擁立をとなえた。しかし、あくまでも将軍家の血統をという堀田正俊の主張で忠清の意見は退けられた。その意趣返しに、綱吉は将軍になるとすぐに忠清を罷免。
綱吉の時代は元禄期にあたり元禄文化が開花した時代だが、側用人柳沢吉保を重用し、老中職を軽んじて政治体制を歪め、また生母桂昌院の迷信に影響され「生類憐れみ令」を発布し「犬公方」と渾名されるなど毀誉褒貶があり、評価の分かれる将軍。
[逸話](『想古録』)
五代将軍常憲公(徳川綱吉)、上野へ御成のとき、筋違の伊賀侯の屋敷にて、窓より幾人も覗き居けるに、如何なる機みにや、窓の戸外れてバタバタと落ちければ、覗き居ける人々の顔、隠す余地もなく其処に顕れたり、幕府の法として、是等の者は無論所刑せらるべき筈なるに、常憲公莞爾と笑給ひ、彼の窓の戸は大勢にて押へ居ても落ると見えたり、爾来よくよく打附さすべしとありければ、此の人々は図らず処刑を免かれたり(赤川千二郎)
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ) (1579〜1632) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣、かぶいて候、わが幻の吉原、対談日本史逆転再逆転、柳生刺客状、一夢庵風流記
二代将軍。幼名竹千代。家康の三男。母はお愛の方(西郷の局)。正妻は於江(お江与)。
関ヶ原の戦いに遅れた秀忠は、父家康が生きていたら二代将軍になれるはずもなかった。ところがその父家康が合戦直前に殺され、影武者世良田二郎三郎が家康になりかわっていた。その事実を知る者は僅か数人にすぎない。秀忠は家康の子のなかでただ一人その事を知る。合戦に勝ったとはいえ、まだ徳川家が天下を治めるには「海道一の弓取り」家康という巨人の名が必要だった。「たかが影武者ごときに…」秀忠は臍を噛む思いで、二郎三郎が家康であることに従う。それとて自分が将軍になるまでの話で、せいぜい二、三年我慢すれば良いと思っていた。しかし二郎三郎にしてみれば、利用されるだけされて簡単に棄てられてはたまったものではない。こうして秀忠は、生来の「いくさ人」二郎三郎と虚々実々の暗闘を、十六年の長きにわたって繰り広げることになる。(『影武者徳川家康』より)
二代将軍になった秀忠は実は西郷の局の前夫の子で、家康との間に生まれた子は風魔三郎という風魔一族の頭領となった、という設定の小説もある。(柴田錬三郎『眠狂四郎独歩行』)
隆慶作品で描かれる秀忠は、父家康に比べると月とスッポンほどの人間の器の違いがある。これは多分に隆氏個人の評価なのだが、全く出鱈目な評価では無いと思わせるエピソードが、中里介山の『続日本武術神妙記』にあるので参照ください。
[逸話](『見聞談叢』)
[台徳公の律義]
○台徳公一年駿河の城二の丸に一月ばかり御坐ける時 東照宮阿茶局を召して、将軍は壮年なり。旅ずまひ既に一月なれば、枕席定めて徒然ならん。花が容貌美なり。彼を使にして菓子を持せ、うら道より忍びやかにやれ。将軍幸ぜられば心をも慰よといへ。吾が命といはゞ隔あらん。汝が心得にて、よくはからへと仰らる。阿茶局右の様子を花にいひふくめ、紅粉を粧せ下女に御菓子を持せ三更のころ裏道よりひそかに参れり。兼て阿茶より斯と将軍へ申上げ置きければ、将軍も上下を召して花を待玉ふ処に、花妻戸を音づるれば、将軍自立ち玉ふて戸をあけさせられ、花を上座にをき御菓子を戴き、手をつきて御返答を仰せられ、花とく帰られよとて先に立て、戸口まで送せらる。威儀正く言詞をごそかなるに由りて、花顔をあかめて立帰り其ありさまを阿茶に語る。東照宮聞せ給ひ、早かへされたるか将軍元来律義第一の人也。われ梯もおよぶ所にあらずと仰らる。
[台徳公の人生観]
○台徳公の玉はく、道理さとき者多くは道理をつくさず。これその才智にはせて事の根源をよく察せざるのあやまりなり。これより外はあるべからずと思ふ事をも人に問ひ、みづからかへりみる時は、こゝのさわりかしこのうれへあり。
《瓢水の「一話一言」》
[秀忠は小田原に隠居するつもりだった?]
柳生宗矩と並ぶ隆慶作品の偉大なる敵役・徳川秀忠。隆先生は細川三斎の書簡から「陰険で凶悪な男」(『隆慶一郎読本』、124頁)と解釈し、従来の秀忠像をひっくり返した。その秀忠は家康に倣い、小田原に隠居して大御所政治を行なうつもりだったらしい。
「大御所(注:秀忠)相模の小田原城を。莵裘(注:トキュウ。隠居すること)の地となし給ふべしとの御内虜により。先手頭阿部四郎五郎正之を小田原に遣はされ。巡察せしめられしとぞ(中略)神祖には御隠退後駿府にましましけるが。このころ駿府は忠長卿領せられしゆへに。小田原をもて御棲遅(注:セイチ。隠退すること)の所におぼしめし立られしなるべし。されどもいかなるゆへにかはたされざりけん。此外にしるせしものもなければ。その趣意たしかなる事は傳らず」(『徳川実紀』、寛永2年是年)。
実は寛永2年(1625)当時、小田原藩は存在しなかった。小田原は幕府代官が支配する天領であり、小田原城は幕臣が守備する“番城”であったのだ。秀忠は愛息忠長を家光から守るため、小田原に隠居することを考えたのかもしれない。(2004年4月24日瓢水記)
徳川 和子(とくがわ まさこ)
→ 和子(まさこ)
徳川 万次郎重好(とくがわ まんじろうしげよし) (1745〜1795) 吉原御免状
徳川家重の次男。母於逸。
母於逸。徳川三卿の一つ清水御屋形を興す。
父は9代将軍・徳川家重、母は側室・お遊喜の方(安祥院。浪人・ 三浦義周女)。幼名は松平万次郎。異母兄に10代将軍となる家治がいる。宝暦3年(1753)に 賄料3万俵、宝暦7年には守衆が付けられる。宝暦9年に元服と同時に従三位・左近衛権中将となり、 徳川宮内卿を称した。年末には清水門内の屋形に移り、ここに清水徳川家が成立。宝暦12年、 関東・畿内7ケ国に10万石を与えられ、田安・一橋の両徳川家と同列となり、御三卿の正式な一員となる。寛政4年(1792)、権中納言に昇った。寛政7年に没。行年は51歳。
徳川 光圀(とくがわ みつくに)(1628〜1700) 花と火の帝、対談日本史逆転再逆転
中納言。水戸藩第二代藩主。初代頼房(よりふさ)の第三子。幼名千代松(ちよまつ)。
水戸家に仕える女房の子として水戸城下三木元次の家で生まれ、5歳になるまで認知されなかったという。9歳で元服し光国と名乗る。後に国の字を圀と改めた。社寺の整理と復興、殉死の禁止、大船快風丸による蝦夷地探険など高い識見による種々の政策を実施した。また自ら学問を修め、彰考館を設立し「大日本史」を編纂する等、学問にも精励した。
また、官名の中納言の唐名から水戸黄門と呼ばれ、講談などで『漫遊記』の主人公として「天下の副将軍」と庶民に親しまれる名君だったが、そんな彼の青年時代は手におえないほどの「かぶき者」だったという話もある。
御傳(おもり役)の小野言員が、当時の光圀に対して品行を改めるように諭す諌言書が現存し、それによれば、三味線を弾き脇差を突っ込み差しにして、「両の御手を御ふりあわせる」光圀の風俗は、正真正銘のはすは者かぶき者と人々の顰蹙をかっていた。「かろ/\しく御ざ候て御かぶきなされ候」と言員は書き、藩内では軽率でかぶきな振舞いの多い若様と、広く取沙汰されていたという。(氏家幹人著『江戸藩邸物語』)
寛文元(1661)年、父徳川頼房(初代水戸藩主)の死に臨み、二代藩主となった光圀は諸大名に先んじて藩法で殉死を禁じた。同じ年には会津藩主保科正之も殉死を禁じ、同三(1663)年に改定された「武家諸法度」でも「三年癸卯五月幕府海内に令して殉死を禁ず。蓋し正之及び徳川光圀の建議に出づと云ふ」(『会津松平家譜』)とあるように保科正之と共同で幕閣に建議し、殉死禁止の項が付け加えられた。(中村彰彦著『保科正之』)
「元禄三年十月十四日、水戸宰相殿御願之通御隠居被仰付候、少将殿へ御跡無相違被遣候、同十五日水戸殿光国(圀)卿登城、中納言ニ拝任、甲府宰相殿も任中納言」(『御当代記』)とあるように、光圀が水戸黄門と称されるようになるのは隠居した元禄三年(1690)以降で、元禄十三年(1700)十月病に倒れ十二月に没するまでの11年間となる。
[逸話](『想古録』)
薩摩芋は中が脹れて、上下が痩せ、瓢箪は中が痩せて、上下が肥ゆ、余は瓢箪を好むものなり、とは水戸黄門の、上皇室を思ひ、下人民を憐まれたる金言なり、譬得て面白し(海保帆平)
水戸の黄門公、会津の土津公、備前の芳烈公は其時代と賢明とを同じうしたる英主なり、此の三英主が領国の寺院を破毀するの政略、期せずして符合したるは一奇なり、而して其寺院を破毀するの法、三英互ひに其法を異にし、各々其天然の本性を顕はしたるは、亦是れ絶奇と謂はざる可らず。芳烈公は殷其一発国中に令して大小の寺院を取毀ち、其便宜の地に在るものは之を残して学生の講学所に充てられけるに、次代の綱政仏を信じて再び寺院を建立せり(服部空斎)。土津公は一向法華を以て世を毒するものと認められけるも、遽かに之を潰しなば激して禍害を生ぜんことを慮かられ、其僧にして法に背く者ある時は放逐して寺院を毀ち、両宗の寺院を再建若くは新築することは一切これを禁ぜられければ、爾来次第に寺数を減じて今や仏法の勢力は有れども無きが如き衰運に傾き居れり(橋爪介三郎)。水戸黄門公は排仏家の巨擘なれども、仏を制するの手段は別に新機軸を出されたり、初め有徳の名僧を招き来りて之が為めに寺院を建てしこと十余箇寺の多きに及べり、是れ其の暴烈なる排仏家に非ざることを示したる者なり、已にして又国中に令し、仏法は名僧智識の誡行を守る者ありてこそ其光輝を発する者なるに、今や俗僧天下に充満し、祖誡を破り、私慾を貪り、世の風教を紊さんとするは以ての外のことなりとて、数百ヶ所の寺院を毀ち、其僧侶を追放せり、是れ言を僧侶の汚行に托して其本懐を達したる者なり、名僧を迎へて十余寺を建立し、俗僧を逐ふて数百寺を破壊す、名義に於て欠く所なくして仏を排するの実已に挙れり、其政略奇抜にして力ありと云ふべし(原十左衛門)
水戸義公(光圀)、ある時古歌の、
すみ馴れて住めばすみれの花にさへ うきを忘るゝよもぎふの宿
とあるを誦み、大いに感ぜられ、世の中は斯くも心やすく亘るべき道あるものをとて、飄然として西山に隠れ、世を風流雅致の境に過させ給へり(加藤隣)
人みな水戸の勤王論は、二代目の義公より始まりたる如く想ひ居れども、威公(頼房)も亦王室を憂へられ、時々京都衰微の談話あらせられしと云へり、然れば義公は父君の素志を継がれたる者にて、水戸家の勤王は初代より今に至るまで、終始変らざる者なり、然れど唯々義公は不世出の英傑にて、出籃の力量を顧はされければ、其終生の言行人口に膾灸し、著大なる事蹟は総て義公に帰しけるなり、蓋し義公若し霊あらば必らずや勤王の自身より始まりたる世評を、地下に頷せられざるべし(藤田、窪)
義公の臣下を召抱へらるるや、筋目を第一とし、芸能の如何は之を問はず、若し自身の口より芸能の有無を申立る者あれば、其士は排斥して用ゐられざりし、国老某これを怪み、或るとき公に向て、此義を伺ひけるに、公は却て其問ひを奇とせられ、士風は世の治乱に依て変遷するも、士情は長へに替る可らず、仕官を求むるものの士情は区々なるも、忠義の二つは肝要なり、武芸とは治世の俗語なれば、武家の口にすべき言葉に非ず、槍剣弓馬は武士の産業なれば、必らずしも聞糺すに及ばざる所以を合点すべしと答へられければ、国老は公の奥意を推量して、其卓識に服しけるとぞ(加藤隣)
徳川 慶勝(とくがわ よしかつ) 異説猿ケ辻の変
幕末期の尾張藩主。
徳川 義利(とくがわ よしとし)
→ 徳川 義直(とくがわ よしなお)
徳川 義直(とくがわ よしなお) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣
家康の九男。大納言。尾張五十三万石太守。
[逸話](『想古録』)
天草四郎時貞は慧敏にして気を恃み、其才操掬すべきものありけり、青年のころ父に伴はれて尾州に至り、仕を求めて義直公に謁しけるに、目見えの後何の御沙汰も無かりければ、江戸に下りて更に奉公口を求めけるに、其ころ禄なき者の子は召抱えざる法規を立てられし時にてありければ、再び尾州に赴き、曾て推挙し呉れたる人に頼りて出仕の成否を捜りけるに、迚も見込なしとのことにありければ、怏々として西国に下り、終に島原騒動を企つることと為れり、初め四郎の尾公に謁するや、近侍の臣、其風采の非凡なるを称し、御召抱になるべきやと伺ひけるに、公首を左右に打掉り、彼様なる利発者を使ふときは、他の者遅鈍に見えて為めにならず、又彼が如き利発なる者は、主人に謀反など勧めかねぬ者なれば、先づ近づけざるが得策ならんと云はれけるとぞ、義直公は温和にして著るしき才識あらざりけるが、落付きて了簡ありたる質と見えたり(長谷川運平)
熊沢次郎八、芳烈公(池田光政)に用ゐられて備前の国老と為り、政事家の名を遠近に轟かしたり、江戸に下るとき尾州宮駅に宿しけるに、尾侯義直、予て次郎八がことを念頭に掛け居られければ、好き機会なりとて、成瀬隼人正に命じ、窃かに事慣れたる士を旅亭に遣りて、彼が動作を探らしめけり、翌朝次郎八出発の後家士帰り来りて、熊沢の挙措別に変りたる所これ無し、但し召連れたる供廻りのもの一同粛然として謹慎し、粗忽軽佻の振舞ひ聊かも之れ有らざりしは、品位の高尚なるものと見受け候、又人々の寝静りたるとき一人の士、供廻り一同の寝所を巡検して、行燈の燈心を一筋づつに減したるは、天物を暴殄せざる意なるか、又は二筋にては油早く尽き、火早く滅えて無用心なりとの意なるかを知らざれども、兎に角理由あることならんと見受け候、と申上げけるに、義直感歎し、其の少しく異なる所あるは、彼が大いに異なる所以なりと称讃せられけるとぞ(大岡廉平)
[名言名句]
「己が智にほこり、人の不才をあざけり、物ごと我意にまかせまじき事」
『徳川義直遺言状』にある一節。(『名言名句活用事典』)
徳川 吉宗(とくがわ よしむね) (1684〜1751) 吉原御免状、駆込寺蔭始末、わが幻の吉原
八代将軍。将軍在位1716(享保元)年8月13日〜1745(延享2)年9月25日 。
父徳川光貞、母紀州家家臣巨勢八左衛門利清女おゆり(由利)(紋子)といわれているが、彦根の医者の女、巡礼の女など諸説ある。
紀州藩主光貞の四男。幼名源六。次いで新之介、頼方。宝永二(1705)年、長兄綱教、次男頼職が相次いで没したため家督を継ぐ。家継が亡くなり、将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から選ばれて将軍に就任。自ら質素倹約に努め、新田開発の推進など、逼迫した幕府財政の立て直しを図った。また、官僚機構の整備、目安箱、小石川養生所、町火消しの設置、飛鳥山や墨田川堤などへの桜植樹など、自ら取り立てた大岡忠相と共に政治、経済、社会全般にわたる政策を展開。この享保の改革により、江戸幕府は新しいシステムに生まれかわったといわれている。
歴代将軍の中でも吉宗は異色といわれる。その出自も、紀州家の庶子として生まれたのも関わらず相継ぐ兄の死で家督を継いだ幸運と、嗣子がなく没した将軍家継の後継として選ばれる時にも、直前に御三家筆頭の尾張家の嫡流が絶えたためにお鉢が廻って来たという幸運に恵まれた。
しかし、為政者としての才能は紀州藩主時代にすでに発揮されていて、破綻した藩の財政を立直すなど、藩政の改革に努めている。この時から質素な生活をしていたが、将軍になってもそれは変らず、冬でも襦袢を着用しなかったり、食事も一日二回しかとらず、しかも一汁三菜をまもっていたという。元禄ころから一日三食の風習が一般に行き渡っていたが、吉宗は「一日二食で身を養うには充分であり、それ以上はみな腹の奢りである。太平無事のときに飽食するくせをつけておいたら、非常のときに充分働くことができない」といって、三食とることを承知しなかったという。また、この頃には将軍や大名の教養として和歌や管弦などを嗜む事が多かったが、吉宗は全く関心を持たず、近衛基熈などには「和歌においてはもっとも無骨なり、笑うべし笑うべし」と揶揄されるほど貴族的教養は持たなかったが、中国の経書・史書を始め、和漢の古書・古文書を読み漁るなど実用的な学問には貪欲であったらしい。さらには、鷹狩り、馬乗などを好んだ。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「徳川吉宗」の項あり参照ください。
[逸話](『想古録』)
大奥の女中に美人多きは累代其軌を一にせり、然るに八代将軍吉宗公の紀州より入て征夷の職を襲がるるや、百般の弊習を改革せられ、大奥に於ける積醜の如きも、一掃清潔にせられたるは、徳川累代中の美談と謂はざる可らず、公時々年少の奥女中を聚めて、隠然其醜美を検せられけるが、容色美なるものは相当の相手を撰んで之に嫁入えあせ、容色不器量にして其の嫁付方六ヶしき者は、永く大奥に留めて之を使用せられしと云へり、其潔白慈仁なる、想ひ見るべし(新見伊州)
八代将軍は五代六代の濫政に懲り給へるにや、将軍職を継がるるの後、「嗚呼将軍たるものは書を読む可らず」との御意ありけるとぞ、五代六代の両将軍は、学問上の御世話は善く行届きけるが、施政の成績は一も見るべき者なく、徳川家の財産と制規とを泥土に埋めて、壮遊傲奢を恣にせられければ、八代将軍吉宗公は既往の失政を鑑みられて、覚えず此歎声を発し給ひたる者なるべし(松本来蔵)
五六七代将軍は徳川累代の制規を破りて、華美豪奢を究められければ、官紀内に紊れて士風外に荒み、照祖以来の金誡玉律も楓山宝蔵の反古紙と変じ去れり、然るに僥倖にして六代は五年にて薨去せられ、七代も亦在職僅かに四年にて世を辞せられ、其跡を継がせられたる八代公は、三代以来の名君にて、中興の偉業を成就せられたる非凡の英傑にて在らせられければ、油尽き、風急にして今や暗黒世界に陥らんとせし徳川名族の残燈を、公の果断に由て再び往昔の煌々たる大光に復せられたり、公の紀州より入て征夷の栄職を拝せらるるや、先づ大奥の紊濫を経理し、内部の紀律整頓するや、始めて大政の改革に着手せられ、其の節倹令を発布せられたる時は、四十二日間にて命令海内に行亘り、大小侯伯の士大夫より通邑都会の豪農富商に至るまで、絹布を脱ぎて綿衣を服し、全国の形勢一変して検僕質素なる世態に復帰せり、初め節倹令の実行せらるるや、是れまで華美に誇りたるもの、贅沢品を弄びたるもの、衣器飲食の商業を営みたるものは、自家身上の利害損益に眷々して、幕府の新政の過酷なるを懇望しけるが、芝居の役者も絹布を廃し、芳原の遊君も綿服を着し、勤倹力行の結果は数年の後に、着実高尚なる美俗を養ひ来りて、負債を償ひたるもの、財産を殖したる者、生活に苦しまざる者、治安の世の中を楽むもの次第に増加し、貧人は貧を免かれ、富家は富を増し、中等以下の農商漁工者は暮し易き世柄と為りければ、終には享保の昭代とて新政の恩沢を感称するに至りける(岡本近江守)
有徳公、本所辺へ御成ありて、五百羅漢の渡船場にて御船より上陸あらせらるるとき、御徒士御筒持のもの一人濘べりて路上に仆れけるが、御筒を一間も先へ投げ出したり、御徒士頭其者を卻け、他の徒士に代て御筒を持たせけるに、還御の後公は御徒士頭を喚出され、今日の徒士は酷く転びたれども怪我は何処も為ざりや、彼は兎に角気力ある者なり、善くも双刀を投出さざりし、一体持筒に緒を付けて首に掛けて持行かば、誤ちて転ぶも筒を投出す如きことは有らざるべきに、以来は持筒に麻緒を付けよと仰せられたり、御持筒に緒を付けあるは此時より始まりたるなりと云へり、蓋し八代公の慈仁に出でたる結果なるのみ(毛受貫助)
徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生刺客状
家康の十男(二郎三郎の子)。紀州大納言。
[逸話](中里介山『日本武術神妙記』)
或る時、紀州侯徳川頼宣に逸物の犬を進上する者があった、予て聞えた荒犬であったので、人附添うて庭へ出た、頼宣から、「これへ引いて参れ」と云われたので附添の者は縁鼻へ引付け、頼宣のお小姓に向い、「この犬はトテも人に荒いのでございますが」といったが、頼宣は頓着なく、「いい犬だ、定めて猟ききだろう、顔構えも悪くない」と云って、足で頬を撫でた時、果して犬が猛然として怒り出し一声捻って頼宣の足に噛み付いた、その時、頼宣は足を犬の咽喉へ突き込んでしまったので犬は驚いて逃げ出したが、それから頼宣を見れば尾を垂れ首を術して柔順であったという、この時もし頼宣が足を引いたならぱ却ってこれが為に噛み付かれて大怪我をしたであろうが、咄嵯の間の機先を制した働きは平生武術の鍛錬の教ゆる処であった。
徳川 頼房(とくがわ よりふさ) 吉原御免状、影武者徳川家康、花と火の帝、柳生刺客状
家康の十一男(二郎三郎の子)。水戸中納言。
徳川 頼将(とくがわ よりまさ)
→ 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)
(とくだ〜とん)
徳大寺 実久(とくだいじ さねひさ) 影武者徳川家康、花と火の帝
無資料。
徳永 寿昌(とくなが ひさまさ) 一夢庵風流記
朝鮮の役停戦の使者。
土佐 庄五郎(とさ しょうごろう) 影武者徳川家康
大阪城と運命を共にする。
戸沢 政盛(とざわ まさもり) 一夢庵風流記
出羽角館城主。
智忠親王(としただしんのう) 花と火の帝
八条宮の嫡子。桂離宮を完成さす。
智仁親王(としひとしんのう) 一夢庵風流記
皇弟。秀吉の猶子。
外島 機兵衛(としま きへえ) 異説猿ケ辻の変
京都守護職公用局員。
戸田 某(とだ) わが幻の吉原
竹千代(家康)が今川家に人質に行く途中、それを奪って信長の元へ連れていった人物。
戸田 雅楽(とだ うた) 異説猿ケ辻の変
三条実美卿の家臣。
戸田 采女(とだ うねめ) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。
配流となった忠輝に従う。
戸田 覚弥(とだ かくや) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。
配流となった忠輝に従う。
戸田 勝豊(とだ かつとよ) 死ぬことと見つけたり
未資料
戸田 左門(とだ さもん) 捨て童子松平忠輝
未資料
戸田 左門氏銕(とだ さもんうじかね) 死ぬことと見つけたり
未資料
戸田 図書壮誠(とだ ずしょ) 鬼麿斬人剣
改革派の松本藩年寄。
戸田 清玄(とだ せいげん)
戸田流(富田流)。
戸田弥六左衛門清玄は福島正則の家臣で、戸田流の達人であったが、この人は人と仕合をする時には殊更に長袴を着けて、一尺九寸の木刀を用いるので門人達も皆これを真似ていた、清玄がいうのに、「武士は礼服を着て威儀を整えている場合に異変が起って刀を振うことがないとも限らん、そこで常に用心して長袴をつけた時にも狼狽しないようにしているのだ」(中里介山著『日本武術神妙記』)
戸田清玄は戸田流剣術の名家であって、福島正則に仕えていたが、人が試合を所望すると長袴をつけ枇杷の木刀の一尺九寸五分なるを持って敵の三尺の白刃と仕合をした、その流儀の者は皆それにならっていた。
清玄が云う、
「礼儀の場に於ても、刀を振うことが無いということはない、そういう場合には身は長袴で頼むところは小刀一本のみである、急に臨んで袴の裾をからげたり、腰をとったりしている余裕のないことがある、その場合を慮っての服装である」(中里介山著『続日本武術神妙記』)
[剣術の名人戸田清玄]
○戸田清玄、剣術を以て世になる。一代仕合をする事二度なり。長袴をき枇杷の木刀の一尺九寸五分あるを以て、相手三尺の真剣をもさけず、手もなくかちしより、其流をまなぶもの、是を師とす。礼義の場にても大刀わざをせざるべきや。其時は長袴ちひさ刀なり。袴のすそをはさみ、腰をとるにひまあるべからず。故に此出立にてしあいをするを剣術者とすと戸田人にかたれり。(『見聞談叢』)
戸田 忠道(とだ ただみち)
讃岐守。六百石取旗本。
《瓢水の『一話一言』》
[窪田清音、山浦清麿、戸田忠道]
『新選組始末記』で有名な子母澤寛氏(1892‐1968)は、敗者として明治を黙々と生きた旧幕府の人々をこよなく愛した。温かい筆運びで描かれた彼等を見ると、読む方も心が穏やかになる心地がする。エッセイ「消えた剣客」で取り上げた戸田讃岐守忠道という旗本もその一人。
「藤枝??豊橋、殊に豊橋の在方の高塚。あすこは戸田讃岐守忠道という六百石の旗本の知行所で、この人は講武所師範役で、将軍にも指南申したという当代一流の剣客だ。温厚で、人を押しのけて何かやろうという人柄ではない。ひところ静岡にいたが、明治三年から知行所に五十坪ばかりの屋敷を構えて、ここで静かに百姓をして再び世に出ず一生を送られた。剣客としての名前も残らないし、すぐれた人間としての話も残らない(中略)私は一個の俗人として、この人をもう少しはっきりと後世に残したいなどと大それた気持を起して、今、しきりに調べている。やせて鶴の如く、自から号して鶏斎、一に鶏骨斎。この人の本当の姿をつかみたい気持で一ぱいである」(子母澤寛『ふところ手帖』中公文庫、178‐180頁)。
子母澤氏によればこの戸田忠道、隆先生の『鬼麿斬人剣』に登場する窪田清音の弟子だったようだ。「田宮流の窪田助左衛門の弟子で、この師匠が山鹿流の軍学なんかをやって、仕事にも下手な談義が多いので、みんなにきらわれた。相当な学者なんだが、当時の地口に下手の長談議の見本にされている」(前掲書、179頁)。そして、窪田清音に剣術を学んだあの山浦清麿の刀を所持していたらしい。「日本中この人の外に使いこなせる者はないといわれた源清麿作、刃渡り二尺八寸三分、束の長さ三尺の長巻は、今上野の博物館にある。時価百万円という」(前掲書、180頁)。清音が主唱した清麿の「武器講」に参加させられた口だろうか。思わぬところで隆慶作品と繋がった嬉しい一編であった。(2004年10月14日瓢水記)
戸田 藤左衛門(とだ とうざえもん) 影武者徳川家康
長安の家臣。長安事件で斬首。
戸田 信光(とだ のぶみつ) 影武者徳川家康
加賀守。松平忠吉の家臣。
戸田 (松平)光則(とだ みつさだ) 鬼麿斬人剣
松本城主。
戸田 康長(とだ やすなが) 捨て童子松平忠輝
丹波守。常陸国笠間城主。花井主水正が預けられた先。
松平丹波守康永。本苗戸田氏にして、弾正忠重が子なり、始孫六郎と称す、後御称号を賜り、松平氏に成、文禄元年、丹波守に任じ、神君異父同母御妹(久松佐渡守俊勝女)を賜り、室とす、関ヶ原の役に供奉、(『江戸古絵図考附録』)
冨田 景家(とだ かげいえ)
治部左衛門尉。冨田流二代目当主。冨田勢源の父。
『山崎軍功記』によれば、景家には三子あり長男の九郎左衛門郷家は景家の存命中に没し、次男が五郎右衛門入道勢源、三男が治部左衛門景政となっている。
冨田 景政(とだ かげまさ)
治部左衛門。与六郎。冨田景家の次男(三男)。
聾唖であった兄五郎左衛門(勢源)に代わって家督と冨田流(中条流)の道統を継承する。
前田利家に四千石で仕え、能登七尾城の城代となる。文禄元年(1592、一説に文禄二年)没。享年七十歳。
冨田 重政(とだ しげまさ)
越後守。加賀前田家家臣。冨田流小太刀の祖。
中条流の道統を継ぐ山崎流の山崎左近将監景成の弟で、山崎与六郎。後に六左衛門、また大炊という。
前田利家に百石で仕えて、越中末森合戦で一番槍の功を上げ、中条流の冨田景政の女と結婚し冨田姓とともに冨田流(中条流)の道統を継いだ。「名人越後」と呼ばれ、天正十八年(1590)の八王子城攻め、慶長五年(1600)には粟田辺で敢闘、慶長八年大聖寺城攻め等、五度の戦功により加増を重ね一万三千五百七十石、人持組頭となる。元和元年(1615)の出陣で挙げた首十九、金沢に慈雲寺を開基、寛永二年(1625)四月十九日没。享年七十二歳。
[逸話]
前田利常が、「その方が家の芸に無刀取という秘術があると聞いたが、これをとって見よ」と侃刀をスラリと重政の面前に突き出した、重政はかしこまって、「無刀取は秘術でござります故に他見を揮ります、御襖の陰から此方をうかがうものがござるによってお叱りを願い度い」といったので利常は思わずうしろを顧みた、その隙に利常の手を強く握って、「無刀取はこれでござる」といったので、利常もなるほどと感心してしまった。
重政が、或る日家僕に髭を剃らせていた、家僕は心ひそかに思うよう、「如何なる天下の名人と難も斯ういう場合に刺したら一突きだろう」重政はフト僕の面を見て、「その方の面色は尋常でない、然し、思ったことをする勇気はあるまい」と云われたので縮み上った、この重政は中条流で武名を四方に輝かし将軍秀忠の上覧を経て名人越後と呼ばれ、富田流の祖と呼ばれた人である。(中里介山『日本武術神妙記』)
【名人越後】(めいじんえちご) 冨田重政は冨田流剣法の師で加州侯に仕えて世に所謂「名人越後」と称せられ、一万三千六百石の扶持を得ていた。
寛永武術上覧の時に前田利長が重政を江戸へ遣わして柳生宗矩と仕合いをさせようとした、重政がそこで当に発足しようとしたが、利長がまた考え直して云うには「柳生も冨田も二人共に無双の名人である、仕合をさせればどちらかが負ける、何れに怪我があらしめても名人の名を傷つけるによって出立を見合せたがよろしかろう」とさし止めた、利長も何か別に考うところがあったと見える。
重政の子宗高が家を継いでまた武術に精妙であったが子が無くして家が絶えた。(中里介山著『続日本武術神妙記』)
富田 勢源(とだ せいげん) かぶいて候
五郎左衛門。越前国宇坂荘の一乗浄教寺村で生まれる。父は冨田治部左衛門(与五郎景家)。富田は冨田が正しい。
冨田家は中条流の名家で、勢源が長子であったが、眼病を患い、父の遺蹟を弟景政に譲って髪を剃り勢源と号し隠居した。また、『山崎軍功記』では景家には三子あり、長男の九郎左衛門郷家は景家が存命中に没し、次男が五郎右衛門入道盛源(勢源)、三男が治部左衛門景正(景政)となっている。
作品『かぶいて候』では、「名人越後」と云われ鐘巻流の流祖とされると勢源を紹介しているが、「名人越後」は勢源の弟景政の養子重政とするのが正解。
[逸話]
『本朝武芸小伝』に、永禄三年(1560)夏、勢源が美濃に遊んだ時の逸話がある。それによれば、美濃を支配していた斎藤義龍の剣術師範で常州鹿島出身の梅津某という神道流の名人がいた。彼は勢源が来るというので、弟子たちに「試合をして中条流の小太刀がみたいものだ。宿に行って試合を申し込んで来い」と言った。弟子が訪ねると、勢源は「愚僧は兵法未熟なればその望みに応じ難し。よくよくの望みであれば越前に行かれるがよかろう。しかし、中条流は他流試合はかつてしないことになっている」と断った。梅津はこれを聞いて「わが兵法は関東に隠れなし。三十六人の相弟子どもは、おれの太刀先に及ばず、皆、弟子になった。先年、この国に来た時、吹原大書記、三橋貴伝などずいぶん強い者だったが、おれの太刀にはかなわなかった。勢源も越前では広言を吐いているが、この梅津には及ぶべくもない。おれは相手がたとえこの国の主であっても容赦はしないからな」とあざ笑った。この広言を聞いた義龍は、「あわれ勢源、そこまで言われては出て来ざるをえまい。試合をせよ」と、武藤淡路守、吉原伊豆守を使者にたて、勢源の泊まっている朝倉成就坊(越前朝倉殿の叔父坊主で、当時斎藤氏の武威が盛んなため、朝倉殿より美濃へ詰めさせていた)の宅へ行かせた。しかし勢源は「中条流は試合をしません。そのうえ無益の勝負は嫌でございます」と承知する気配もなかった。両使がそれを義龍に報告すると、義龍は「勢源の所存はもっともであるが、梅津の過言をそのままにすれば、他国まであざけりを受けよう。だから、たって頼みたい、と申せ」と言い、両使は再び勢源を訪れ、主の所存を申し述べた。これを聞いた勢源は、「この上は辞するわけにはいきません。このような勝負は人の怨みを受けることですので、かつてしたことがありませんが、国守の命とあれば背くことも出来ますまい」と答えた。両使は急ぎ帰り報告すると、義龍は大いに喜んで「試合は武藤淡路守の宅でいたせ」と言って、七月二十三日辰の刻と決った。勢源が検使を望んだので、武藤と吉原に申しつけた。一方の梅津は、斎藤氏の一族大原家に宿泊していたが、試合が決った宵から湯がけして神に祈った。勢源はそれを聞いて「心が真っ直ぐなら祈らずとも利があるのに」と感想をもらした。試合当日、成就坊の屋敷から供の者を四五人つれて淡路宅へ行く。彼はそこに積まれていた薪の中から、一尺二三寸の割り木を見つけ、元を皮で巻いた。他方、梅津は大原が同道し、弟子も数十人引き連れ、長さ三尺四五寸の八角の木刀を綿の袋に入れて持たせていた。器量も骨柄も人に優れてみえることから、誰もが梅津が勝つだろうと取り沙汰した。淡路宅に着いた梅津は、検使に「願わくば白刃にて試合をしたい」と言い、これを勢源に告げると「かの仁は白刃でされるがよい。私は木刀でよい」と答え、仕方なく梅津も持ってきた大木刀にした。梅津は空色の小袖、木綿袴で大木刀を右脇にかまえる。その姿は「龍の雲をひき虎の風に向ふがごとし。眼は電光に似たり」。対する勢源は、柳色の小袖に半袴。立ち上がって板縁を歩いて行ったが、「割木木刀を捧げ悠然として立つ風情、牡丹花下の眠猫とも云うべし」。勢源は梅津に声を掛けて、進んで勝負をした。梅津は小鬢から二の腕まで打たれ、頭を打ち切られ身体中血で染まった。梅津は木刀を取り直し、振り上げて打つと、勢源は少しも騒がず、梅津の右腕を打ち、梅津は勢源の前に倒れ、大木刀が勢源の足元に触れるや、一足でそれを踏み折り飛んだ。梅津は起き上がり脇差を抜いて勢源を突こうとしたが、打ち倒された。そこで検使が間に割って入り、梅津を武藤宅で傷の手当をして、大原宅に帰した。勢源は武藤宅に留め、武藤、吉原両氏が義龍に勢源の木刀と梅津の折れた木刀を見せ試合の様子を子細に語った。義龍は勢源を大いに誉め、末代めでの物語にと、割木の木刀を手元に残し、鵞眼万疋と小袖ひとかさねを贈った。しかし、勢源は「中条流では、このような勝負は禁制ですが、国守の命には背きがたくして行ったことですので、ご褒美として下された物は受け取れません」と返した。使者が再三渡そうとしたが、ついに受け取らなかった。義龍は勢源の志を感じ、対面したいと申し送ったが、これも辞退し、当国にいては梅津の弟子どもが怨んで襲ってくるかもしれないと、翌朝、越前に帰ったという。
この話は中里介山氏の『日本武術神妙記』にも紹介されている。
冨田 長家(とだ ながいえ)
景恒。九郎左衛門。 越前朝倉氏の家臣。
中条流の流れを汲む冨田流の祖。
『武術流派大事典』によれば、冨田流は中条流の大橋勘解由左衛門から同流を嫡伝されたとある。また、現在中条流を継承する山嵜正美氏によれば、中条流は大橋勘解由左衛門から越前新庄城主山崎右京亮昌巌に伝わり、そこから当時浪人して昌巌方に寄食していた長家に伝わったという。
鳥羽天皇(とばてんのう) (1103〜1156) 吉原御免状
第74代天皇。堀河天皇の第一皇子で、母は藤原実季の娘苡子。
母苡子が没すると白河法皇に引き取られ、法皇の下で養育された。父帝堀河天皇が崩じると、五歳にして践祚。保安四年(1123)、わずか五歳の第一皇子顕仁親王(崇徳天皇)に譲位し、自らは上皇となるが、大治4年(1129)に白河法皇が崩ずるまで政治の実権は白河法皇が握っていた。白河法皇が崩じると自ら院政を引き継ぎ、崇徳、近衛、後白河の各天皇三代28年に渡って実権を掌握。康治元年(1142)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
富小路 秀直(とみこうじ ひでなお) 花と火の帝
無資料。
富田 知信(とみた とものぶ) 一夢庵風流記
未資料
富田 信高(とみた のぶたか) 捨て童子松平忠輝
伊予宇和島十一万石城主。石川康長の妻の娘婿。長安事件に連座し所領没収。
富永 九郎兵衛(とみなが くろべえ) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。
富永 丹波守(とみなが たんばのかみ) 影武者徳川家康
松平忠吉の家臣。
友野 宗全(ともの そうぜん) 影武者徳川家康
駿府三年寄の一人。
豊岡 随資(とよおか ずいし) 異説猿ケ辻の変
攘夷激派の公卿。
豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ) (1569〜1593) 捨て童子松平忠輝
小吉。母は秀次と同じ秀吉の姉とも。丹波少将。丹波亀山城主を経て岐阜城主。関白秀次の弟で、十八歳の時に秀吉の養子となり秀勝を名乗る。於江の方の二番目の夫となるが、文禄の役(壬辰倭乱)の際、巨済島(唐島)で没した。
【三人の秀勝】
秀吉には秀勝と名乗らせた子供が三人いる。一人は天正四(1576)年に死んだ実子石松丸で、母は正室お禰(高台院、北政所)。これには側室の誰かという説もある。二人目は信長の四男於次丸で、天正六(1578)年頃、信長に願い出て養子として迎え、秀勝と名乗らせている。この於次秀勝は、京都大徳寺で行われた信長の葬儀で喪主を勤めた。また於次秀勝は賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどにも従軍し、丹波亀山城をまかされたが、天正十三(1585)年に亀山城で没した。於次秀勝の死後、秀吉は姉ともの子小吉を養子に迎え、同じく秀勝を名乗らせている。この小吉秀勝が『捨て童子松平忠輝』の中で紹介されている秀勝となる。これまで秀吉の実子は、側室茶々(淀殿あるいは淀君)の子である鶴松と秀頼の二人だけとされていたが、長浜城主時代にお禰との間に、石松丸という子がいたという事が明らかにされ、この石松丸が秀吉が秀勝と名付けた最初の子である可能性が高いという。また、二人の養子は共に丹波亀山城主であったことから、混同されやすいという。
豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ) (1568〜1595) 一夢庵風流記
秀吉の甥。母は秀吉の姉瑞龍院(とも或は智)。
秀吉から近江二十万石に封じられ、八幡城を築く。のち尾張・伊勢五郡百万石に移封。秀吉の後を受けて関白となるも、秀吉の嫡男秀頼が生まれた事で秀吉との関係が悪くなり、高野山に追われ自刃した。
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが) (1540〜) 一夢庵風流記、捨て童子松平忠輝
秀吉の弟。小一郎。
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし) (1536/1537〜1598) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり、柳生非情剣、かぶいて候、柳生刺客状
関白、太政大臣。幼名日吉丸。木下藤吉郎。羽柴秀吉。
生年は天文六年という説もある。父木下弥右衛門は織田信秀の足軽だったという。その頃、足軽は農業に従事していることもあり、後世の身分制度が確立された百姓農民とは意味合いが違う。はじめ木下籐吉郎。少年時代、駿河今川氏の家臣松下元綱に、永禄元年、尾張織田信長に仕え、しばしば戦功をたて次第に重用され、羽柴姓を名乗る。天正元年、近江浅井氏滅亡後、その旧領十八万石を与えられ、近江長浜城主となる。天正十年、中国征伐の任を負って備中高松城を包囲中、明智光秀による本能寺の変の知らせを受け、急遽毛利輝元と和して軍を返し、山崎の合戦で光秀を討った。信長死後、主導権をめぐって織田信孝、柴田勝家と対立。翌天正十一年、勝家を賎ヶ岳に破り、信孝を殺して大阪城を築城。同年、織田信雄、徳川家康と尾張小牧・長久手に戦って和す。続いて、四国の長宗我部氏、九州の島津氏、関東の北条氏、奥羽の伊達氏を平定し天下を統一した。(歴史読本「戦国武将名鑑」参考)
上記の説はいわゆる通説と言われるもので、秀吉の父は苗字持ち百姓ではなく、弥右衛門とだけいうのが正しいようだ。小和田哲男氏は、のちに秀吉が松下元綱に仕えたことから、自らを称するに松を憚り木下としたのだろうと推測されている。こうして藤吉郎は木下藤吉郎を名乗り、その事から父弥右衛門をも木下と呼ぶようになった。また出生地についても、これまで名古屋市中村区中村町の中村公園のある所(上中村)が出生地とされ、そこには『豊太閤御誕地』という碑まであるが、実際はそれより南の中中村であるという。つまり秀吉は、尾張国愛知郡中中村の自小作農弥右衛門の長男として、天文六年二月六日に生まれたというのがどうやら歴史学の定説となるようだ。いずれにしろ、その父弥右衛門が亡くなり、母が織田信秀(信長の父)の同朋衆だった筑阿弥と再婚すると、その継父との間が旨く行かず家を出奔、こうしてなんとか武家に仕えようとしていた藤吉郎は、今川家の家臣松下元綱に仕えた。(小和田哲男『豊臣秀吉』参考)
尾張中村の百姓の子として生れ、16歳の時に家を飛び出し、信長の足軽から身を興し、一代で天下人となり、関白にまでのし上がった戦国期の出世頭。この秀吉が聚楽第にいる時に、京で名を馳せる傾奇者慶次郎の噂を聞き前田利家に命じてお目見えさせる。「まつ」のたっての頼みもあり慶次郎は秀吉の前に出るが、そこは慶次郎、一坐の度胆を抜く登場でさすがの秀吉をあっと言わせた。この時、秀吉は名馬「野風」を慶次郎に与えると共に「傾奇御免」のお墨付きをも与えた。
[逸話](『想古録』)
六十余州の群雄を感服して、北八道の山河を蹂躙したる豊太閤も、其臨終には気力衰弱したりと見え、前田利家を枕辺に呼寄せて、我此度は存命覚束なし、其訳は昨夜織田右府儼然来り臨めり、是れ我が死期の到れるなりと、悄々として語られけるとぞ、鳥の将に死んとする其鳴くや哀し、力山を抜き、気世を蓋ふ、豊公の雄も亦此感想を免るる能はざりし乎(羽倉用九)
豊太閤の九州を征伐せられし時、軍馬に恐ろしき仮面を被らせたり、其比九州にて馬面は絶て無きものなれば、他の馬駭きて困却せしとぞ、馬面は最初被らせたる時は後へのみ下りて用を為さず、久しく被せ置きて慣れたる後に初めて用を為すものなりと云ふ(江藤東一、満岡仁之助)
豊太閤、石川五右衛門を釜煎にせんとて、其釜の製造を筑前の或る鋳物師に命ぜられけるに、是れまで茶道の釜は鋳造いたしたれども、斯る大釜の鋳造は未だ経験あらざることゆゑ、御辞退申すべしとて応ぜざりけり、豊公悦ばず、小さき釜を製するの方法に由り其模型を造れば、如何なる大釜にても製し得る者なれば、至急其製造に取掛るべしと、強て厳命を下されけるに、鋳物師は益々辞退し、人を養ふ為には多くの釜を造り候へども、人を煎る釜を鋳造することは家例に無之ことに候へば、是非共御免を被りたしとて謝絶せり、豊公大いに憤りて其一家を追放し、其財産を没収せられたり(牧園文蔵)
東、北条を滅し、西、島津を降し、六十余州を一手に掌握して、朝鮮八道の山河を馬蹄の下に蹂躙したる豊臣関白の大坂蔵入米は幾何なりしやと調べ見けるに、僅々六十万石に過ぎざりし、想ふに当時諸大名に与へたる高は是れ皆我物のみと思ふて惜気もなく与へられたる者なるべし、其胆量偉大なる哉(西阪錫)
[秀吉三夫人]
○秀吉公に三夫人あり。高台寺殿、淀殿、松丸殿
▲高台寺殿は正妃にて政所と呼。公薨ぜる後尼となりて高台院に住せらる。姓は杉原、其父は信長の外様の士。
▲淀殿は浅井備前守女。秀頼卿の実母。淀の城内にすめり。ゆへに淀殿とよぶ。法号淀光院。
▲松丸殿は姓は佐々木源氏京極長門守むすめ。伏見の松の丸に住す。公薨せる時松丸の東第に住す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
[名言名句]
「人と物争うべからず。人に心を許すべからず」
「浪華のことは夢のまた夢」
辞世の歌の下句。(『名言名句活用事典』)
豊臣 秀頼(とよとみ ひでより) (1593〜1615) 吉原御免状、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、柳生非情剣、かぶいて候、柳生刺客状
秀吉の世嗣。豊臣秀吉の次男。母は茶々(淀殿)。
秀吉の側室淀君が生んだ次子であるが、長子の鶴松が夭折したため名実ともに秀吉の後継者となり、両親の愛を一身にうけて成長した。慶長三年(1598)には従二位権中納言に昇進。秀吉が死ぬ間際、徳川家康らの五大老、石田三成らの五奉行はじめ主要武将は秀頼への忠誠を誓約させられた。関ヶ原の戦の後、政権は徳川家康に奪われ、公儀権力に支えられた存在であったが、実質は摂津、河内、和泉の60万石を領有する一大名に転落する。
秀吉の遺児として大坂城にあるも、まだ幼く徳川家の台頭を押さえることが出来なかった。唯一の友ともいえる結城秀康や家康となった二郎三郎の陰ながらの助力にも関わらず、豊臣家を滅亡に導く。しかしそれも母淀君の高慢さが齎したものだった。(『影武者徳川家康』)
秀忠の将軍就任の挨拶に訪れた一歳年上の忠輝と意気投合し、義兄弟の契りを結ぶ。この時の忠輝の不戦の誓いが後に、忠輝失脚の原因にもなった。また、冬の陣後、二条城にいた家康との講和の席に出席した秀頼は、その帰り、忠輝に誘われ京の町を初めて散策する。(『捨て童子松平忠輝』)
松浦静山はその著『甲子夜話』の中で、秀頼は落城の際、大坂城から脱出し肥後に逃げ延びる。しかし、肥後の細川家では家康の手前もあって薩摩の島津家に送った。薩摩でも状況は変らなかったが、「大坂城落城して、秀頼生害と披露ある上は、生存すとて死に同じ。其のままにて置べし。然れども他国へは出すべからず」として九十一、二歳まで生き、その子孫は農民になったという伝えを記し、秀頼の墓が残っていることを記録している。
[逸話](『想古録』)
薩摩中将光久参府の期満ちて将さに其封土に帰らんとするとき、三代将軍に謁して御暇乞ひを申上げけるに、将軍には二三の御話ありて其語次、国の隠居へも宜しく云ふて呉れとの御意ありしと云へり、国の隠居とは大坂の落人を指したるものにて、即ち秀頼にも宜しくとの意味なれば、当時幕府にては秀頼の薩摩に在ることを探知したるも、見る所ありて默許に付し置きたる者なるべし(樋口良之助)
ドラード,コンスタンチーノ (1567頃~1620)
天正遣欧使節随員。日本名不詳。肥前諫早の出身といわれ、同宿(教会の奉仕者)という身分で使節に加えられる。彼には印刷術を修得してくる使命か課せられていたという。日本名は詳らかでないが、「ドラード」という名がポルトガル語で「金細工師」を意味する事から、「飾屋」あるいは「錺屋」と関係する家の倅で、金物細工に通じていたために、印刷術の修得を期待されたのだろう。帰国後の文禄四年(1595)にイエズス会に入った。慶長十九年(1614)の追放令で原マルチノと共に日本を離れマカオに赴き、二年後の1616年司祭に叙せられた。ラテン語とポルトガル語に秀でたマルチノは、日本から追放された時に運び出した印刷機によって、出版事業にいそしんだという。晩年にはマカオのセミナリオの院長に任ぜられるが、1620年病死。マカオのサン・パウロ教会に葬られた。
鳥居 相模守(とりい さがみのかみ) 捨て童子松平忠輝
鳥居四郎右衛門の祖。
鳥居 四郎右衛門(とりい しろうえもん) 捨て童子松平忠輝
柳生宗矩配下の暗殺集団の長。
鳥居 甚左衛門(とりい じんざえもん)
砲術。
鳥居甚左衛門は砲術の達人なり、常に距離を測量する秘書を懐中し、砲を放たんとする時は必らず其秘書に就き、之に由て其の弾射を誤らず、百発百中の名誉を搏したり、其の秘書は彼が秘物中の秘物にて、多くの門人あるも誰一人これが伝授を受くるを得ず、武衛一郎右衛門なる者あり、切に其の伝習を熱望し、鳥居の娘を娶りて婿となり、一意に懇情を尽して彼れが歓心を買ひけるに、鳥居益々其秘を秘し、厠へ行くにも之を懐ろにし、湯殿に入るにも之を携へ、疾で病床に臥すも肌を離さず、漏洩の注意至らざる所なかりければ、武衛の心算全く齟齬して、其失望一方ならざりしが、偶ま鳥居大病に罹りて人事を省ざること数日に亙れり、武衛之れを機とし、朝夕傍らに在りて其病を看護し、且つ窃かに其秘書を偸写せり、已にして鳥居全瘉し、再び射的場に出て門人等の稽古を監査するに、武衛の術著るしく進みて毎も其の命中を誤らず、鳥居大いに之を怪み、若くは我が病中に我が秘法を偸みたるかを詰問す、武衛叩頭して罪を謝し、年来先生の秘法を熱望せしかども其志ざしを果たすを得ず、仍て斯く斯くの隠事を行ひたり、願はくは先生許し玉へ、と有の儘に白状して宥恕を乞ひけるに、鳥居以ての外に気色を損じ、直ちに其場にて破門し、且つ其娘を取戻せり、然れども武衛これに由りて後に一流を創始し、大いに世に行はる、武衛流と称する砲術即ち是れなり(藤田虎之助)(『想古禄』)
鳥居 忠広(とりい ただひろ) 影武者徳川家康
家康の家臣。三河一向一揆に参加。
鳥居 忠政(とりい ただまさ) 捨て童子松平忠輝
右京亮。奥州岩城城主。
慶長五年、父の遺跡を賜り、左京亮に任ぜられる、同七年、奥州岩城を賜り、大坂の役、若君の守護として江城に止る、(『江戸古絵図考附録』)ここでは、左京亮となっているが、どちらが正しいか後考を要す。
鳥居 成次(とりい なりつぐ) 捨て童子松平忠輝
甲斐谷村城主。
鳥居 元忠(とりい もとただ) (1539〜1600) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ
彦右衛門。伏見城守護。西軍の伏見攻めで討死。通称彦右衛門。徳川譜代の臣、鳥居伊賀守忠吉の子として生まれる。家康十歳の時、元忠十三歳で側近に侍す。
元亀元(1570)年の姉川の戦には真先駆けて功をたて、三方原では戦傷を負い跛となった。本能寺の変後、甲斐古府中で北条氏勝と戦って破り、家康より甲斐郡内の地を与えられる。小田原の役では北条氏房の居城岩槻を抜いて功あり、秀吉から感状を受ける。家康の関東入国に際し下総矢作四万石を領した。家康の会津征伐では伏見城留守居役を請け、その後の西軍の攻撃で孤立無援の中、討死。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
鳥居 耀蔵(とりい ようぞう) 鬼麿斬人剣
甲斐守。林大学頭述斎の次男。江戸町奉行。
[逸話](『想古録』)
林述斎先生病重きを加へて既に危篤に逼りければ、林皇(大学頭)を始めとし、五六の子孫枕頭に集りて交互手を看護に尽しけるに、或る日述斎諸子孫に向ひ、此度は頗ぶる大患なれども、一度は全快して見たき者なり、と云はれければ、看護の諸子互に顔見合せて目くばせしけるが、其れは必らずしも期し難きことに非ず、我々も一度は御快気あるならんと思ひ居り候と、異口同説に答へけるに、唯だ鳥居甲斐守のみ独り黙して何の言葉をも発せざりければ、述斎は顧みて鳥居に向ひ、耀蔵(甲斐守の通称)は如何に思ふやと問はれけるに、私の考へにては、此度は迚も御全快あるまじく存じ居り候と答へぬ、述斎大息一声し、或ひは其方が云ふ通りならんも知るべからずとて、悽然として長歎せられけるとぞ、実父の命脈今や将さに絶えなんとするに、之を慰めんとは思はずして、言ふに忍びざる答へを其耳に入るるは、如何なる惨酷の所行なるぞ、斯る場合に斯る答弁を口にするは、直言と云はんより寧ろ不人情なる毒言と謂はざる可らず、吁甲州は父に忍ぶことすら此くの如し、彼れが恩義ある矢部駿州を陥れ、加之ならず首領と仰ぎ居たる水野越前侯の裏切りを為し、多年刎頸の交りを結びたる親友知己を、水火陥穽の中に投げ込みて靦然たるは、固より怪しむに足らざるなり、弘化二年の二月、積悪の報来りて一敗地に塗れたるは、蓋し天鹽の明あるを証したるものならん歟(羽倉逢翁)
鳥居耀蔵は林大学頭(述斎)の二男にて、幼少の頃より家厳に仕込まれ、非凡なる才能学力ありけるが、其性質奸佞陰険にして反覆表裏を辱とせざりければ、幾多の義人名士は之れが為めに思はぬ陥穽に擠入れられたり、耀蔵初め通伝を沼津閣老に求めて権勢ある地位を狙ひけるに、沼津は間もなく歿して政権は小田原の手に移り、小田原亦病歿して浜松遂に政柄を握るに至りければ、爾来耀蔵は浜松に取入り、中奥御番より御目付に進み、天保の末年には甲斐守に任官せられて江戸町奉行の栄職にまで昇進せり、是れ耀蔵が水野越前侯を抱込みて、立身出世の階梯を踏み初めたる第一歩にて有りしなり(岡本花亭翁)
是れより先き矢部駿河守定謙は賢明の誉れ高く、朝日の昇る勢にて英断直截の市政を行ひければ、耀蔵は駿州の伎倆に感服し、我が立身の土台を造るは駿州と交りを結ぶに若くはなしとて、親しく其門邸に出入して其歓心を買はんと骨折けるに、慧眼炬の如き駿州、早くも耀蔵の邪曲なるを見て取りければ、佞人近づく可らず、之を近づくれば禍ひを招くべしとて、障らぬやうに耀蔵に遠かりけり、耀蔵も亦抜目なき頴物なれば、駿州の奥意を覚り、爾来切歯して駿州を怨み、我れ彼を利用するの計を誤りたる上は、彼を障害するの策を運らさざる可らず、然れども彼は正廉潔白にして摘発すべき過失あらざれば、剣師を雇ふて之を暗殺するこそ捷径ならんとの悪謀を目論見、当時下谷の車坂に道場を設け、剣道を以て其名を都下に轟かし居る井上伝八郎を手に入れて、密かに駿州を殺害する隠謀を諮りけるに、井上は元来正義の人なれば、其隠謀に与かることを辞するのみならず、却て耀蔵に忠告し、如何なる御事情あるやは知らざれども、矢部は此頃評判最も宜しき名士なり、彼の不都合は枉げて之を恕し、更めて彼と親密なる交誼を結ばれなば、他日彼は何歟の御為めになること有るべしと信ず、但し今回の秘密の御相談は拙者堅く武士道を守り、今後如何なる場合あるも此事ばかりは誓て他言致さざるべければ、其辺は必らず御気遣ひ下さるまじくと、精神を打明けたる意見を述べて別れけり(岡本豊州師)
猜疑心深き耀蔵は、井上の忠告を逆に受けて、寝ても起きても安心せず、井上を殺さんとの念慮は却て駿州を殺さんとの念慮よりも深くなりて、我が敵を除くには先ぢ井上より始めんと決心し、種々に手を廻して漸く一人の壮年剣客を手懸けたり、耀蔵は毎日毎宵其剣客を厚遇し、時々金銭などを与へて慰撫しけるに、剣客は耀蔵の深きに感じ、何事か耀蔵の眷顧に報ゐんとの容態を示しければ、耀蔵心中に鑼を鳴し、我事成矣と喜びて或る夜密に其剣客を召入れ、井上を殺さねばならぬこと、井上を殺す詭計とを委しく打明しけるに、剣客は喜び勇みて耀蔵の嘱託を引受け、直ちに其手筈に取掛れり、聞けば鳥居の詭計と云ふは、井上の体格に相当したる竹の大箍を桶屋に造らせ、井上の外出先きを捜り置き、不意に背後より其箍を嵌め、彼の両腕を殺したる上にて抜打ちに斬殺すべしとの悪巧みなりしと云へり、剣客は鳥居の工夫を絶妙と感じ、或る日井上を御成街道に待受け、井上と行違ふや否や予て用意せる竹箍を手早く井上の頭より嵌め、嵌むると同時に腰刀を抜きて何の会釈もなく斬付けたり、無双の剣道の達人なる井上伝八郎の腕前も、鄙劣なる欺討には敵する能はず、哀れ毒手に掛りて空しく其場に斃れて絶命しぬ、鳥居は首尾よく井上を除きたれば、次ぎは矢部駿州なりとの悪心を増長し、讒構を浜松閣老に吹込みて難なく駿州を陥れ、其後又恩義ある浜松に叛きて浜松を老職より突落し、当時正義派と称せられたる羽倉外記を擠入れ、新見伊賀守を擠入れ、成島図書頭を擠入れ、井上備前守、梶野土佐守を擠入れ、根本、篠田、曾根、長山等の諸吏をも亦皆讒構の下に擠入れけるが、弘化元年八月六日、旧悪悉く露顕して再び復職せる浜松閣老に投付けられ、翌年二月二十三日評定所に召喚せられて、吟味の末終に厳罰に処せられたり、天網恢々疎にして漏さずとは蓋し鳥居耀蔵の事なりとて、公平正実なる人々は皆其末路を慊しと思ひたり(岡本近江守)
鳥居耀蔵林家より出でて、鳥居家の養子と為りけるに、未だ幾月をも経ざるとき、其奥方が悋気がましきことを云ひたるが気に障れりとて、厳冬の寒夜に其衣裳を剥取り、裸体と為して終宵庭樹に括り置きたり、此の折檻が病源となりて、奥方は終に病蓐の怨鬼となられたるが、実父の林述斎は之を聞て大ひに怒り、如何に我児にても余りに残酷なるを憎まざるを得ずとて、其所行を譴責し、一時耀蔵の出入目通りを拒絶せられしとぞ、耀蔵の才子にして其の酷薄軽浮なる毒性なくんば、有為有用の人物なれども、大切なる処に大暇瑾あるは、彼が為めに深く惜まざるを得ざるなり(羽倉用丸)

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