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人名(さ〜さと)
西園寺 公朝(さいおんじ きんとも) 一夢庵風流記
右大臣。
西園寺 実益(さいおんじ さねます) 花と火の帝
右大臣。
西行(さいぎょう) (1118~90)
俗名佐藤義教。歌人。
鳥羽上皇の北面に仕えた武士で、妻は官女だった呉葉の前とされる。鳥羽上皇をめぐる皇位継承問題をきっかけに世の無常を覚え、あるいは厭世的な気持が強くなり出家、円位と号し諸国を行脚した。のちに法号を西行と改める。
残された妻呉葉の前は悲嘆に暮れ、二人の子供たちだけが頼りとなったが、その子供たちもやがて病死する。一人になった呉葉の前は自らも剃髪し、夫西行を訪ねて旅に出る。やがて安房国の恵心堂にたどりつき、そこで念仏三昧の生活に入り生涯を終えた。その後、恵心堂に立ち寄った西行は、村人から妻の悲しい最期の話を聞き、諸堂を建立して朝夕読経に勤め、妻の霊をなぐさめたという。この恵心堂は現在、西行寺として千葉県館山市にあり、本尊の阿弥陀如来・薬師如来とともに、西行自作と伝える西行像が安置されている。
建久元年(1190)二月、河内国弘川寺の山中の草庵で七十二年の生涯を閉じた。
西行は天凛ともいわれる歌の才能を持ち、その歌集に『山家集』がある。
○西行法師死せるとこは慥ならず。しかれども山城州雙林寺の傍に墓あり。續草菴集に西行上人のあとを雙林寺に住み侍べりし比、二月十六日人々きたりて歌よみし事をおもひ出して
- 昔とぞまだしのばるゝあと問ひし その二月の春の面影
これにてみれば慥に雙林寺に墓あり。しかれば京にて終れり。頓阿小野大納言能実の末葉にして、京師四条道場金蓮寺の僧なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
西郷 新兵衛元純(さいごう しんべえもとずみ) 鬼麿斬人剣
慎重派の松本藩年寄。
西郷 宗三郎(さいごう そうざぶろう) 影武者徳川家康
三河譜代。キリシタンであったため追放。
西郷 正員(さいごう まさかず) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
孫六郎。家康家臣。小田原城没収の役を仰らる。
斎藤 五郎左衛門(さいとう ごろうざえもん) 一夢庵風流記
宗家の家臣。金悟洞に慶次郎の暗殺を依頼。
斎藤 権右衛門(さいとう ごんえもん) 死ぬことと見つけたり
手明槍。鍋島家家臣。
斎藤 実景(さいとう さねかげ) 死ぬことと見つけたり
実盛十二代の孫。九州探題に従って西下。
斉藤 道三(さいとう どうさん) (1494〜1556)
幼名峯丸。
明応三年(1494)、京西ヶ岡に住していた浪人松波基宗の子として生まれる。十一歳で京・妙覚寺に入門、法蓮坊と名乗る。法蓮坊は「学は顕蜜(天台・禅・真言)の奥旨をきわめ、弁舌は富留那(釈迦の弟子の弁論家)に劣らず、内外をよくさとり」和漢の軍書から兵法まで通じたという。この時に知り合ったのが、のちに道三が頼ってゆくことになる美濃国守護代長井利隆の弟南陽坊であった。
二十歳の時に還俗し、山崎で油の専売権を持つ特権商人奈良屋の婿養子となり、松波庄五郎と名乗る。この時訪ねたのが兄利隆が城下に建てた常在寺の住職日運(南陽坊)だった。庄五郎は日運、利隆の紹介で守護土岐政頼に会うが、政頼には気に入られず、鷺山城にいた弟頼芸を訪ねてその家臣となった。文芸や謡曲、茶の湯、舞い等京の文化に耽溺していた頼芸と庄五郎の身に付けた教養で意気投合したのだ。庄五郎は長鎗で一文銭の穴を突くという武芸を身に付けていたという。庄五郎はこのころ三十歳、頼芸二十歳。
それから数年後、持ち前の人好きされる性格から、家系が絶えていた長井家の家老西村の名跡を継ぎ、西村勘九郎と名乗り、頼芸の側近として重きをなす。そして、土岐家の内紛に乗じ頼芸を唆し、兄政頼に変わって守護となるのは頼芸だとおだて上げ、大永七年(1527)、兄政頼の居城川手城を攻め、政頼を越前に追いやり、頼芸を第十一代当主に据えた。さらには頼芸の愛妾深吉野を手に入れる。この深吉野から生まれた長子が豊太丸、後の義竜である。
こうした勘九郎の専横に腹を立てた長井利安が非を責めるが、逆に勘九郎は稲葉山城を攻め利安を謀殺し、長井家を乗っ取った。これに美濃中の武将が反発し、頼芸の取りなしも効無く、勘九郎は日運の常在寺に逃げ込み、剃髪して道三と名乗った。
近江守護佐々木義秀の仲裁で騒動が治まり、道三は長良川畔に豪壮な別荘を建て、頼芸を住まわせ、都ぶりの生活をさせた。気を良くした頼芸は道三に長井姓を与え、道三は勘九郎利政と名乗って稲葉山城に住した。この時、東美濃の豪族明智家の娘お見の方を嫁に迎え、女児帰蝶(濃姫)を生む。
天文七年(1538)、守護代斎藤利良が死んで世継ぎが耐えると、頼芸はその名跡を道三に与え、斎藤左京太夫秀竜と名乗らせた。
しかし、土岐家の家臣らは道三の専横が許せず、再三道三を攻めるが、道三は頼芸を動かして、隣国の織田氏や越前の朝倉氏に仲裁に入ってもらっているため、家臣らの反抗ではなかなか結着がつかなかった。このように美濃侍の大半を敵に回していた道三だが、彼は一向に動ずる事はなかった。やがて、土岐家そのものが鬱陶しくなった道三は、長子嵩政(豊太丸)を元服させ、勘九郎義竜と名乗らせ、義竜は頼芸の子であるから家督を義竜に譲るよう頼芸に迫った。義竜を生んだ深吉野がまだ頼芸の妾の時に孕んだ子であったため、周囲では頼芸の子だとの噂が絶えなかったことから、道三はその噂を利用した。だが、頼芸は承知せず、道三は頼芸の拠る大桑城を攻め、頼芸を追い落すと、美濃の武将を慰撫するため家督を義竜に譲り稲葉山城を与え、自身は鷺山に別荘を構えて、茶の湯や風流を楽しむ毎日を送った。ともあれ、美濃守護土岐氏を滅ぼした道三は、実権を離さず、お見の方との間に出来た孫三郎や喜兵治に跡目を継がせる機会を狙う。さらに、帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせ、織田家との和睦を計った。
翌年、信長と初めて会った道三は、うつけ者という評判の信長の本当の器量を知り「わが子は、この大たわけの門前に馬をつなぐであろう」と嘆いたという話は有名である。
一方、自分の父は頼芸であると信じ始めた義竜は、頼芸を追い落とした父道三に対する憎しみを募らせていた。
やがて道三は、次男孫三郎を竜重に改めさせ左京亮に任官させるなど、義竜廃嫡の準備を始める。
それに気付いた義竜は、弘治元年(1555)、病気を装って居室に籠り、道三が鷹狩りに出た機会を利用し、竜重と喜兵治を稲葉山城に呼び謀殺。その直後、義竜は土岐姓を名乗り、美濃の武将たちに参集を命じ、父道三と敵対。翌二年、義竜の下に集った一万二千の兵が拠る稲葉山城に、僅か二千三百の手勢の道三は攻め込んだ。しかし、すぐに長良川畔に押し戻され、道三は川畔で討死した。享年六十三歳。
[美濃の斉藤道三]
○斉藤道三は山城守と云つて、美濃の土岐につかへ、後執権となり、その後美濃を押領す。嫡子義龍を廃し、愛妾の子喜平次に家をつがせんとす。義龍軍を起し、道三と戦ひ、道三臣下の為にころさる。義龍の母は道三の家臣稲葉伊予守が妹、甚艶美、たけたかきこと六尺ばかり。それゆへ義龍も長け六尺四五寸、膝をかゞめて坐せるところ、ひざの高さ一尺二寸。伊予守剃髪して一徹と云ふ。義龍一代は才智ある人ゆへ、濃州よく治れり、その子龍興の代に小牧源太、野木治左衛門、両臣権をあらそひて刃傷せるによりて、その後に臣なくて国あしくなれるを、信長公軍をおこしてほろぼしぬ。信長公は道三のむこなり。(『見聞談叢』)
斉藤 利三(さいとう としみつ) 影武者徳川家康。風の呪殺陣
内蔵助。明智光秀の家臣。春日局の父。
利三は、稲葉伊予守貞通入道一鐵が壻にて、幕下たり、利三武功絶倫たりといへ共、一鐵取立ざることを深く恨て立退事都合三度あり、然れども一鐵種々に手を下すゆへ従属す。其後明智光秀が家臣と成て彼手に属す、光秀は利三が伯父たるの由緒ある故也。是に依て光秀、信長公に深く憤の事有て、明智謀反を企て、光秀家臣多き中に肱股随一の五人の家臣に申含、其一人なり。光秀、天正十年壬午六月二日、信長信忠父子を弑せられ、同十二日、羽柴筑前守秀吉と光秀山崎合戦の時、先登に進んで合戦し、敗北して、大津の駅にて被2生捕1、粟田口にて磔罪せらる。(柳営婦女伝系八)
斎藤 別当実盛(さいとう べっとうさねもり) 死ぬことと見つけたり
無資料。
斎藤 光景(さいとう みつかげ) 死ぬことと見つけたり
斎藤実景から十代の孫。
斎藤 杢右衛門(さいとう もくえもん) 死ぬことと見つけたり
斎藤光景の三男。龍造寺隆信、鍋島直茂に仕える。
斎藤 杢之助(さいとう もくのすけ) 死ぬことと見つけたり
斎藤用之助の長男。
斎藤 弥九郎(さいとう やくろう) 異説猿ケ辻の変
彌九郎。神道無念流。土方楠左衛門が剣を学んでいた道場主。
越中氷見郡の生れ。江戸に出て岡田十松に師事。同門に水戸藩士藤田東湖、江川太郎左衛門、渡辺華山などがいたことから、水戸藩士との親交を深めた。二十七歳の時に独立し、飯田町に道場「練兵館」を開く。文政十二年(1829)、水戸九代藩主決定をめぐって斉昭擁立に動く藤田、会沢正志斎らの活動に助力。
斉藤道場の塾頭には桂小五郎がいて、門弟三千人と言われるほどの人気を博した。この門弟の中には、高杉晋作・品川彌二郎・渡辺昇・井上勝などの勤王の志士たちが多くいた。
斎藤 用之助(さいとう ようのすけ) 死ぬことと見つけたり
実貞。斎藤杢右衛門の長男。鍋島直茂に仕え、後小城の鍋島元茂附きとなる。
済祐法親王(さいゆうほうしんのう)
→ 好仁親王(よしひとしんのう)
三枝 助左衛門昌吉(さえぐさ すけざえもんまさきち) 影武者徳川家康
無資料。
酒井 雅楽頭(さかい うたのかみ)
→ 酒井 忠世(さかい ただよ)
酒井 重忠(さかい しげただ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
河内守。始与四郎、天正年中より奉仕し、屡軍功を励し、慶長五年、関ヶ原乱、翌年上州厩橋城を賜り、大坂の乱には江戸に止り、再乱に供奉、(『江戸古絵図考附録』)
酒井 忠勝(さかい ただかつ) (1587〜1662) 吉原御免状、かくれさと苦界行、鬼麿斬人剣、死ぬことと見つけたり
讃岐守。三代家光時代の幕府大老。父・酒井忠利、母・鈴木重直の女。幼名は鍋之助、与七郎。
元和八(1622)年、武蔵国深谷城城主(一万石)を皮切りに、寛永四(1627)年、武蔵国河越城城主を経て若狭小浜城主となる。家光の側近より累進、老中・大老として幕政運営の中心となる。
酒井 忠清(さかい ただきよ) (1624〜1681) 吉原御免状、かくれさと苦界行、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり
雅楽頭。幕府老中首座。父は酒井忠行。母は徳川家康の義弟久松定勝の女。
何らかの事情で『神君御免状』なるものの存在を知り、それを手に入れ自らの地位を磐石のものにしようと裏柳生義仙の弱味につけこみ吉原を狙わせる。
酒井忠世の孫に当たる忠清は、4代家綱期の老中首座。寛永十三(1636)年に父忠行の死に伴い家督相続、遺領のうち十万石の相続が許された。2年後には従五位下河内守に叙任される。酒井家は徳川家譜代の重臣として扱われる家であるため、忠清も若年ではあるものの幕政の枢要に参画していった。慶安四(1651)年に酒井家が代々名乗る雅楽頭を通称とし、家光死後の家綱を重臣として補佐、承応二(1653)年には、30歳という若さで老中首座となる。家光・家綱政権を支えてきた酒井忠勝や松平信綱が没した後は、名実ともに幕閣の中心となる。寛文三(1663)年には三万石、延宝八(1680)年には二万石を加増され十五万石を領した。
忠清が「殉死の禁止」や「証人制の廃止」に関わったことから、「平時体制に即応した幕藩秩序を作りあげ、あおれを巧みに動かして、『寛文・延宝の治』ともいわれる安定した一時期を作った中心人物といえる」と評価されている。しかし、名門に生まれて若くして幕閣の中心に座るとともに、家綱が病弱であったことから政治の実権を握ったことで奢りに走り、大名や旗本はその寵を得ようと盛んな運動を展開した。「下馬将軍」と呼び習わされたことからも、その権勢の凄まじさが想像出来る。
失政としては、伊達騒動・越後騒動の処理と、家綱没時に企図された宮将軍擁立の問題が指摘されているが、これらは5代綱吉の初政に関わるものであることから、前代の権臣としての忠清が失脚したことに伴う悪評という側面も考えられている。
忠清は綱吉の将軍就任後間もなく免職となり、翌天和元(1681)年二月に隠居、五月十九日に没した。58歳。法名は長得源成大昌院。厩橋の竜海院(前橋市紅雲町)に葬られた。(『国史大辞典 第6巻』参照)《瓢》
忠清について、これらに関連する記述が戸田茂睡の『御当代記』にあるので参照ください。
酒井 忠次(さかい ただつぐ) (1528〜1596) 見知らぬ海へ
徳川家家老の家に生まれた忠次は、三河松平家嫡子元信(後の家康)の寵を得、死ぬまで随伴。永禄七(1564)年、吉田城主となり、東三河一帯を治める。戦歴は、越前手山、姉川、三方原など枚挙に暇がない。長篠合戦では鳶巣山を奪取して武田勝頼の本陣を圧迫。小牧の戦でも老年に拘らず奮戦した。のち従五位下に叙し、左衛門督を称す。家康四天王の随一で、石川数正と並ぶ一方の大将。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
酒井 忠利(さかい ただとし) 捨て童子松平忠輝
無資料。
酒井 忠尚(さかい ただなお) 影武者徳川家康
上野城主。三河一向一揆に参加。
酒井 忠音(さかい ただね) 駆込寺蔭始末
讃岐守。老中筆頭。
酒井 忠行(さかい ただゆき) (1599〜1636) 吉原御免状
従四位下阿波守。酒井忠世の長男。寛永二(1625)年、上野坂鼻にて二万石を賜る。寛永十三(1636)年、父の遺領を継ぎ、前橋城主(十五万二千五百石)となるが、同年没。
酒井 忠世(さかい ただよ) (1572〜1636) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
雅楽頭。与四郎。父・酒井重忠、母・山田重辰の女。幼名は万千代、秀忠・家光に老中として仕えた。
元和三(1617)年、上野国厩橋城城主となる。元和六(1620)年の和子入内に際して土井利勝とともに供奉し、寛永三(1626)年の秀忠上洛にも随行して従四位下に叙せられ、後水尾天皇の二条城行幸に際しては所持万端を取り仕切り、その功で利勝とともに勅命によって侍従に任ぜられた。忠世・利勝の連携による幕政運営は、慶長期から寛永初期まで続いた。その後は家光側近の吏僚グループに幕政の実権が移っていった。忠世は、寛永十三(1636)年三月十九日没、65歳。法名は発向源真隆興院。厩橋の竜海院(前橋市紅雲町)に葬られた。(『国史大辞典 第6巻』参照)《瓢》
右兵衛大夫忠世、慶長十二年七月三日、雅楽と改む、(慶長十四年七月十四日御奉書には、雅楽頭と有り)屋敷御勘定所の辺なり、(『慶長年間江戸図考』)
河内守重忠が子也、天正十八年、関東御入国の時、別に五千石の地を賜り、台徳公に仕奉る、慶長五年、関ヶ原乱後、上州那須郡一万石を給ふ、同年、江州の内にて加増五千石、同十四年、加増五千石、大坂の役供奉、後年従四位侍従に叙任す、(『江戸古絵図考附録』)
酒井 正親(さかい まさちか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
三河西尾城主。
榊原 加兵衛(さかきばら かへえ) 影武者徳川家康
三河譜代。キリシタンであったため追放。
榊原 内記(さかきばら ないき) 影武者徳川家康
久能山従事。
《瓢水の『一話一言』》
[将軍に次ぐ高位に昇った榊原内記(その1)]
元和2年(1616)4月17日、徳川家康こと世良田二郎三郎は75歳で死去し、遺体は同日夜に駿河国久能山に運ばれ、翌3年4月に下野国日光山に改葬された。“東照大権現”となった二郎三郎の祭祀を勤める榊原内記は、そのために数奇な運命を辿ることになる。
榊原内記は天正12年(1584)生まれ。榊原康政の甥に当たる。17歳から二郎三郎の側近く仕え、父清政(康政の庶兄)の死後、引き続き久能城を守るよう命じられた。妻は、徳川家初代鷹匠頭・間宮信繁の女である。内記が二郎三郎の祭祀を勤めたのは、二郎三郎の遺言であった。常に側近く仕え、まめまめしく奉仕したことによる。秀忠からも、「近侍の臣多しといへども、東照宮ことさらにえらびたまひて、この事にあづかるは規模なりといふべし(中略)御疎意あるまじきのむね、仰をかうぶる」(『寛政重修諸家譜』)と、深く信用されていた。
この内記、初めは清久を名乗っていたが、二郎三郎改葬の4ヶ月後、昼寝の夢で二郎三郎のお告げがあったと称して“照久”と改めた。“東照宮”に掛けたのは明らかであろう。(2005年1月15日瓢水記)
[将軍に次ぐ高位に昇った榊原内記(その2・完結)]
この辺りから内記の異常な昇進が始まる。元和4年(1618)5月、従五位下に叙任。内記を称するのはこの時からである。元和6年6月、従四位下に進む。そして元和8年6月20日、何と従二位に昇進してしまったのだ。「久能の御宮祭主榊原大内記照久従二位にのぼせらる。照久卑賤の身高位にのぼらん事。はゞかりあるによりて。先伊勢の祭主をして。二位にのぼせしめて後。此宣下ありしとぞ」(『徳川実紀 第二篇』吉川弘文館、229頁)。
当時における武家の最高の官位は、当然のことながら将軍秀忠の従一位右大臣である。将軍世子の家光は従二位権大納言、弟忠長は従四位下左近衛権中将兼参議であった。よって、内記は忠長を追い越し、武家官位ランキングのナンバー3に踊り出たことになる。しかも、天皇家の先祖を祭る伊勢祭主の官位を押し上げての従二位下叙任であった。そして同年8月12日、幕命により上京した内記は宮中に参内し、昇殿を許されたのだった。
どう考えても、2年前に後水尾天皇の岳父となった秀忠の朝廷に対する嫌がらせが見て取れるのであるが、如何なものであろうか。内記にとっては晴天の霹靂だったろう。
【追記】ちなみに元和8年6月時点で、家康の最後の子義直(五郎太)は正三位権中納言、二郎三郎の子頼宣(長福丸)は従三位参議兼右近衛大将、頼房(鶴松)は従四位下参議、家康の孫(結城秀康の嫡男)に当たる松平忠直は従三位参議であった。(2005年1月16日瓢水記)
榊原 康勝(さかきばら やすかつ) 影武者徳川家康
家康側近。大坂夏の陣河内口二番隊。
遠江守 慶長十一年、父の遺跡を継、大坂両度の御陣に供奉、再乱に天王寺表に於て戦功を顕はし、同五月廿七日、病に臥、三十六歳にて卒す、(『江戸古絵図考附録』)
榊原 康政(さかきばら やすまさ) (1548〜1606) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、かぶいて候、柳生刺客状
榊原長政の二男。最初、小平太と名乗っていたが、初陣となった三河一向一揆との戦いで功を挙げ、家康の康の字をもらい康政と名乗る。
榊原家は伊勢国一志郡榊原村に住していたことから榊原を名乗り、康政の祖父清長の代に三河に移り住んだ。その長子長政が松平家に仕え、三河武士団の中では新参者だった。家督は長男清政が継ぎ、その家系は久能山東照宮の神主として幕末まで続いている。分家した康政は、はじめ家康付の侍童として召し抱えられた。(歴史読本1996年10月号参考)
徳川三人衆、徳川四天王の一人。慶長十一(1606)年卒。家康の股肱の臣。先駆け専門の猪武者で、掛川攻め、姉川、三方原、犬居、長篠、諏訪原、二俣、高天神にいずれも先鋒を務める。天正十二(1584)年の長久手合戦では、秀吉の先陣三好秀次を破り、功を挙げる。関ヶ原で遅れた秀忠を弁護して感謝される。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
晩年の康政は、家康と疎遠になり城地の館林城で病に臥す。死の直前に見舞に訪れた家康の使いに「それがし、腸が腐れ死ぬとお伝えあれ」と言い放ち、寝たままの布団から動こうとしなかった。
[逸話](『耳袋』)
安国寺肩衝の事
ひとつの肩衝なる茶入を、安国寺長老甚珍重せしを、榊原康政甚賞美して、「宝貨に替ん」とおもへ共、安国寺曾て承引せず。然るに上杉征罰として大神君宇都宮まで御動座の頃、上方にて石田反逆之儀発しければ、奥に上杉、後に上方の蜂起と諸軍もおどろき、君にも御心痛有りしに、康政満座之中御前へ出て、「上方蜂起、さて/\恐悦」のよし、殊之外歓びける故、「いかなれば康政は斯申ぞ」と御尋有りしに、「上杉は旧家と云へども思慮過、其上急速に御跡を付候儀有之間舗、聊押への兵を難所に残し被置候はゞ、決て御気遣ひ有之間舗、上方は烏合之集り勢、何万騎ありとも恐るゝに足らず。康政一陣に進まば一戦に打崩すべし。御勝利之上は、安国寺も石田余党なれば御征伐有べし。其時彼肩附を康政が軍賞に可給」と申上しかば、御心よく御笑ひ被遊、さて諸士・諸軍共勢ひ弥増強かりしと也。関ヶ原御勝利之後、相願候処、御約束の如く肩衝を康政に被下秘蔵しけるを、台廟の御代、右肩衝を頻りに御好にて、康政へ可差上旨被命けれ共、「右軍功之賞に給りたる調宝なれば、此儀は御免を相願ふ」由にて、御請不致故思召に不任候処、康政へ細川三斎を正客にして茶事ありしに、こぼしを取に入りし留守に、右肩衝を三斎奪ひ、乗切て御城え出、上へ差上候処、未客も退散無之内上使にて、「右茶入は兼て御懇望之処、不差上も尤の事に付、此度三斎へ被仰付、為御奪候」よし、被仰遣ける。黄金何百枚か被下候由。
但右肩衝之茶入は田安殿の御物と成、甚大切に御取計の由、拝見致し候之者物語りなり。(巻之八)
肩衝 肩の張った形の茶入。
坂崎 直盛(さかざき なおもり) (?〜1616) 捨て童子松平忠輝
出羽守。備前岡山藩の支城富田城二万石城主宇喜多忠家の長男。徳川方武将。関ヶ原の功により、津和野三万石城主となる。大坂夏の陣で、混乱の中脱出する千姫を助け秀忠の許へ届ける。
後元和二年、千姫の本多忠刻への再嫁にあたって、それに異を唱えて輿入れの途中でその輿を奪おうと邸に立て籠るが、事前に察した酒井家次、堀直寄、松平信吉らにより邸を取り巻かれ、親友であった柳生宗矩の説得で邸内で自刃した。(新人物往来社『御家騒動読本』)
この直盛の行動は、一説に、「助けた者に千姫をやる」という家康の言葉を真に受けたからだと言われているが、真偽は不明。
坂崎 政道(さかざき まさみち) 影武者徳川家康
出羽守。大御所家臣。
坂上 田村麻呂(さかのうえたむらまろ) 捨て童子松平忠輝
征夷大将軍。
○弘仁二年五月、大納言右大将田村麻呂卒す。宇治郡栗栖村にほふむる。勅によりて甲冑、劔鉾、弓矢を棺の内へ入る。王城の方へ東向にして土葬。将軍身長五尺八寸、胸板のあつさ一尺二寸、怒れば鳥獣もをのゝき、たはむれ笑へば兒女もつきしたふ。年五十四歳。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
坂本 龍馬(さかもと りょうま) (1835〜1867) 異説猿ケ辻の変
幕末の尊王攘夷派の志士。
土佐藩尊王攘夷運動に加わり脱藩。江戸に出て勝海舟の門に入り、神戸海軍繰練所塾頭となるが、幕府がこれを閉鎖すると長崎で亀山社中(後の海援隊)を組織。一方で薩長同盟を仲介し、慶応二年(1866)に同盟を締結させた。土佐藩の大政奉還を画策して成功後、京都で暗殺された。
[名言名句]
「事は十中八、九まで自らこれを行い、残り一、二を他に譲りて功をなさしむべし」(『名言名句活用事典』)
狭川 浅右衛門(さがわ あさえもん) 吉原御免状
狭川新左衛門の子。改姓して小夫姓に。→ 小夫 浅右衛門(おぶ あさえもん)
狭川 新左衛門(さがわ しんざえもん) 吉原御免状、かくれさと苦界行
裏柳生総帥義仙の直弟子。吉原から「御免状」を奪おうと執拗に誠一郎と吉原を狙う。
後に柳生家を放逐され、新陰流を名乗ることも許されなかったが子の浅右衛門にその剣術を教える。浅右衛門は小夫姓を名乗り小夫流として父から受継いだ剣術を教えた。
佐久間 信盛(さくま のぶもり) 影武者徳川家康、時代小説の愉しみ
信長の重臣。
佐久間 正勝(さくま まさかつ) 影武者徳川家康
織田信長の臣。信長の怒りにふれ高野山に籠る。
佐久間 政実(さくま まさざね) 影武者徳川家康
河内守。
佐久間 正盛(さくま まさもり) 影武者徳川家康
佐久間正勝の父。佐久間正勝とともに高野山に籠る。
佐倉 宗吾(さくら そうご) (?~1653)
下総佐倉藩公津村名主。過酷な租税負担から生活が困窮した領民を救うため、将軍に直訴し、捕らえられ死罪となった。宗吾一家六人は、公津ヶ原で処刑されたという。
三代将軍家光が逝去すると、佐倉藩主堀田正盛は殉死した。その後を継いだ正信は、譜代意識が強く、幕府の要求する軍役を忠実に負担するため家臣団の増強と軍備の増強につとめた。そのため財政を強化するため、領民に重い租税負担を強いる。さらに折からの凶作も重なり、領民の生活は困窮を極め、公津村の名主宗吾(惣吾郎)は近隣の名主ともども税の軽減と滞納処分の改廃を求めて代官所へ願い出た。しかし、その回答は無く、ますます村民の不満はつのる。ついに、大挙して強訴する手段に出ることとなり、領内の名主三百人が江戸へ赴き、堀田家の江戸屋敷に願い出るが、その嘆願は聞き届けられない。そこで、宗吾以下、高野村の三郎兵衛、千葉村の忠蔵、滝沢村の六郎兵衛、下勝田村の重右衛門、小泉村の半十郎ら六人の名主が、承応元年(1652)、月番老中久世大和守に駕篭訴を行うが却下された。ことごとく訴えを退けられ万策尽きたかに思えた時、上野寛永寺の御霊屋へ将軍家綱が参拝する事を知った宗吾は、禁じられている将軍直訴を命に代えて単身行う。幸い願書は取り上げられ、佐倉藩の政治は改められる事になるが、御法度を破った宗吾とその妻、四人の子が死罪となり、他の名主五人は追放処分となった。(『郷土資料事典』12)
桜井 信忠(さくらい のぶただ) 影武者徳川家康
安芸守。武田の旧臣。甲斐二十五万石の奉行。
桜井 半兵衛(さくらい はんべえ) (?〜1634) かくれさと苦界行
美濃戸田家の槍術指南役。二百石。河合又五郎の妹婿。十文字槍の名手。霧の半兵衛の異名を持つ。寛永十一年(1634)、河合又五郎の助太刀として又五郎に同行。鎰屋の辻の決闘で荒木又右衛門によって斬られる。当年二十三歳と直木氏はその書に書いているので、逆算すると慶長十七年(1612)の生まれか。
直木三十五氏の『剣法夜話』に、「鎰屋の辻の決闘」前後の半兵衛を描写した文があるので、興味のある方は参照してください。
笹川 繁蔵(ささがわ しげぞう) (?~1847)
香取郡須賀山村の侠客、博徒。講談などで馴染みの「天保水滸伝」の主人公として知られる。
「天保水滸伝」では、繁蔵と飯岡助五郎の確執は、天保十三年(1842)、須賀山村笹川の須賀山明神(現諏訪大神)境内に、相撲の元祖野見宿禰命の碑を建てるため、繁蔵が諸国の親分衆に回状を出し、花会を開いたこととされている。この花会には、上州の大前田栄五郎、国定忠治、東海道の清水次郎長、福島の信夫常吉をはじめ、当時下総界隈で名を売っていた銚子の五郎蔵、佐原の喜三郎、成田の甚蔵などそうそうたる親分衆が顔を揃え、盛会だった。これを妬んだ助五郎と繁蔵の仲が悪くなり、お上の威光をかさに繁蔵一家を潰そうと、助五郎は手下を集め殴り込みをかけてきた。これを利根川原で迎え撃った繁蔵方は、用心棒に雇った食客平手造酒の孤軍奮闘で、造酒自身滅多打ちになりながらも、喧嘩は繁蔵方が勝った。こうして助五郎の捕縛の手から逃れた繁蔵はしばらく故郷を離れ、東海道から伊勢路へと身を隠す。ほとぼりが覚めた三年後、笹川に戻った繁蔵は助五郎を狙っていたが、子分の勢力富五郎にそむかれ、助五郎の倅やその子分三人に闇討ちに会い斬殺されたという。
繁蔵の首は助五郎の許へ届けられ、ねんごろに供養されたと伝えられ、その首塚と首洗い井戸が飯岡町の定慶寺境内に遺存している。(『郷土資料事典』12)
佐々木 男也(ささき おとや) 異説猿ケ辻の変
長州藩士。
佐々木 小次郎(ささき こじろう) (生年不詳〜1612)
兵法家。越前に生まれる。剣術の流派巌流の祖。
宮本武蔵と船島で戦ったことで有名だが、その生涯は不明な点が多い。『二天記』には「岩流小次郎と云剣客あり、越前宇坂の庄、浄教寺村の産なり。天資豪岩、壮健類なし」とあり「同国の住富田勢源が家人に成て、幼少より稽古を見覚え、長ずるに及で勢源が打太刀を勉む。勢源は一尺五寸の小太刀を以て三尺余の太刀に対して勝つ事を為す」と書かれている。
こうして勢源の元で剣術に励んだ小次郎は、門弟治郎右衛門(一説に勢源の弟治郎左衛門)を破って自信を得、一派を立てて「巌流」と号した。その後、豊前小倉に至り、細川三斎忠興に気に入られ、門弟を指導した。
慶長十七年(1612)の船島での武蔵との決闘時、小次郎は「十八歳の由なり」とあり、諸書の小次郎が描かれた小説などでも前立髪の美青年で、長干竿と称する長剣を背にし、燕返しの秘剣を使う天才剣士のイメージがあるが、このイメージは吉川英治氏の創作。それ以前の講談などでの小次郎は、武蔵の父の敵とされ、武蔵よりずっと年上で、髭面の悪相だったとされている。しかも勢源が梅津と仕合を行ったのは永禄三年(1560)で、勢源はその頃四十歳前後の壮年だったとされ、小次郎が『二天記』にあるように武蔵との決闘時十八歳であるなら、文禄四年(1595)の生れとなり、勢源の直弟子であったという話と矛盾が生じる。このことから、五味康祐氏は『真説佐々木小次郎』の中で、勢源が梅津と立ち会った時、小次郎は十七歳で、武蔵と戦った時にはすでに六十九歳であったとしている。
また、小次郎の剣伎「秘剣燕返し」あるいは「虎切剣」は、『二天記』などにはその記述が無く、後年の創作であろうとされる。(小島英煕『剣豪伝説』より)
佐々木 承禎(ささき じょうてい) 風の呪殺陣
無資料。
佐々木 道誉(ささき どうよ) (1295〜1373) 一夢庵風流記
佐々木京極高氏。京極宗氏(宗綱)の嫡男。南北朝時代「ばさら」と呼ばれた傾奇者。
室町幕府の成立に活躍し、幕府の要職に付き、近江ほか数カ国の守護となる。和歌・連歌・猿楽・聞香を嗜み、闘茶に耽った。洛外大原野の花の下で催した闘茶会は、特に豪奢と風流を極め、「ばさら」大名としての面目躍如たるものだったとされる。
佐々木京極家の四代当主となり、初め鎌倉幕府の御家人を勤めるが、後醍醐天皇を隠岐に流す等、執権北条氏の専横に嫌気が指し、足利尊氏らとともに、北条政権打倒に活躍。南北朝期には尊氏とともに新田氏と戦い子供たちが戦死するという悲哀を経験。入道して道誉と号したのは、それより以前、北条氏に仕えていた時で、執権北条高時が出家した時に、それに付き合って剃髪したといわれている。(羽生道英『佐々木道誉』)
佐々木道誉は、ばさら者として何事にも横車を押した大名として有名である。しかし彼は、立花に長じ風流をたしなみ、意外に信義に厚い男であった。いや、そうであるからこそ、日ごろの人を人とも思わぬ振舞いが生きてくるのであった。(中島誠『隆慶一郎の世界』)
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「ばさら」の記述あり、参照ください。
佐治 与九郎一成(さじ よくろうかずなり) 捨て童子松平忠輝
尾張大野五万石城主。於江の方の最初の夫。
佐竹 義重(さたけ よししげ) 時代小説の愉しみ
常陸太田城主。佐竹義宣の父。
佐竹 義宣(さたけ よしのぶ) (1569〜1633) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記
出羽国秋田城主。常陸太田城で佐竹常陸介義重の長子として生まれる。
天正十四(1586)年の家督相続以来、常陸国太田城に居て、下野の宇都宮氏らを援け、伊達政宗と雄を争った。天正十九(1591)年には常陸南方の土豪三十三氏をあざむき、招いて殺した。秀吉に早くからなびき、忍城攻撃に参陣。しかし朝鮮の役では、兵を渡鮮させなかった。この時義宣は、肥前名護屋の陣中で茶事に専念していたという。茶湯は利休および織部に学んだ。文禄四(1595)年には五十四万石余を領した。慶長五(1600)年、家康が上杉征伐に来ると従わず、関ヶ原戦後、常陸から秋田へ減知処分を受けた。火薬の調整法を研究し、兵法家でもあったが、文芸、特に茶道を能くし、死ぬときには家来の殉死を禁じた進歩的大名。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
寛永十年正月二十五日没。
佐藤 勝左衛門重信(さとう かつざえもんしげのぶ) 捨て童子松平忠輝
伊達家家臣。
里見(さとみ) 駆込寺蔭始末
小田原藩士。
里見 義弘(さとみ よしひろ) 時代小説の愉しみ
安房白浜城主。
里見 義康(さとみ よしやす) 一夢庵風流記
無資料。
(さな〜さん)
真田 志摩(さなだ しま) 鬼麿斬人剣
真田家家老。
真田 大助(さなだ だいすけ) (1600〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
幸村の嫡子。大阪城落城と運命を共にする。
『武辺咄聞書』に真田大助関連の記述あり参照ください。
真田 信幸(さなだ のぶゆき) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記
上田城主。真田昌幸の長男。関ヶ原合戦では東軍に加わり、戦後西軍に加担した父兄弟の助命を嘆願。父昌幸、弟幸村は死罪を免れ高野山に蟄居となり、父に替って上田城主となる。
[逸話](『想古録』)
紀州大納言頼宣卿、或るとき真田信幸を招きて四方八表の談話ありけるに、信幸談に実が入り膝を進めて、私しは御手前様に比ぶれば、五分一にも足らぬ分限なれども、明日にもあれ事あらん時、馬前にて潔よく討死せんと心懸け居る士二百騎持ち居り候と云へり、頼宣卿膝を拊て感称し、二百騎の死士は五千一万の雑兵に勝ること遠ければ、足下は分限不相応の強兵を有する者と謂ふべし、万卒は得易く一将は得がたし、足下其士を眷愛せよと懇ろの御意ありけるとぞ(佐久間)
真田 信之(さなだ のぶゆき) 捨て童子松平忠輝
信幸。真田昌幸の長男。
信州上田城主を経て松代城主となり、以後、真田家が代々松代城主となった。
真田 昌幸(さなだ まさゆき) (1547〜1611) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、柳生刺客状
信州上田城城主。真田幸隆の三男。幼名・源五郎、安房守。妻は山之手殿、子に信幸(信之)、信繁(幸村)、信勝、昌親がいる。
人質として武田家に出仕。武藤家の養子となり、喜兵衛と名乗り武田信玄の側近となった。信玄の軍略を間近でよく学んだと言われている。兄二人が長篠合戦において戦死したため真田家を継ぎ、武田勝頼の参謀となる。織田軍の武田総攻撃の際、勝頼を上州に逃すために働いたが果たせず武田家は滅亡。本能寺の変を経て真田家は独立した大名となり、上杉・北条・徳川などの大勢力の狭間で、巧みに難局を乗り切った。秀吉と家康が対立すると、家康からそれまで敵対していた上杉景勝につき、上杉氏の勢力を後ろ盾とし徳川の大軍をみごとに迎撃した。
その後、長男の信幸には家康の養女である本多忠勝の娘を、次男信繁(幸村)には大谷吉継の娘を娶る。関ヶ原の戦いでは、信幸が徳川方、昌幸と幸村が石田方と分かれて真田家の存続を図る。この時昌幸は中山道を関ヶ原方面に向かう徳川秀忠の大軍を上田城で迎撃。これによって、徳川方主力の一翼を担う秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった。しかし石田方が敗北し、長男信幸の嘆願により助命され、次男幸村ともども高野山に蟄居を命ぜられ、のち山麓の九度山に幽居。慶長十六年(1611)九度山で病没。没年は慶長十四年の説もある。
慶長十九(1614)年、大坂城に真田氏が入ったと聞いた家康は、その知らせをもたらした者の部屋へ自ら出向き「入城したという真田は親か子か?」と尋ねた。その時、家康が手を添えていた戸はガタガタと震えていたという。「安房守はすでに病没し、倅の左衛門佐が入城いたしました」との返事で、家康はやや安堵の表情を浮かべたと伝えられている。それほど真田昌幸は、家康に怖れられていた。(宮崎惇「ふしぎなる弓取り」)
真田 幸貫(さなだ ゆきつら) 鬼麿斬人剣
松代藩藩主。
真田 幸村(さなだ ゆきむら) (1566〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
信繁。真田昌幸の次男。幼名お弁丸。のち源次郎、左衛門佐と称する。慶長五年の関ヶ原に父昌幸と一緒に西軍に参加。上田城で秀忠らを食止めた功績は大だったが、敗戦で敗戦で報われることなく、高野山流罪の身となる。冬の陣が勃発すると、秀頼に招かれて大坂入城。真田丸なる塞を築いて、さんざんに徳川方を苦しめる。冬の陣後、一応和議が整うが、それが長続きしないと見越した幸村は、徳川方の誘いにも乗らず城に留まる。翌年、再び戦端(夏の陣)が開かれるや、城外で血刀を振う。大和口で後藤基次らと敵兵を迎え討ち、伊達軍と接し、遂に天王寺付近で松平忠直軍の鉾先に斃れた。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
『武辺咄聞書』に真田幸村関連の記述あり参照ください。
讃岐(さぬき) 影武者徳川家康、花と火の帝
官女。兼安備後の妹。
誠仁親王(さねひとしんのう) (1552〜1586) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
正親町天皇の第一皇子で皇太子。即位の前に薨去。
佐野 右京助茂義(さの うきょうのすけしげよし) 死ぬことと見つけたり
佐野茂之の養父。
佐野 九郎兵衛(さの くろべえ) 影武者徳川家康
柳生兵庫利厳の門弟。
佐野 茂之(さの しげひさ) 死ぬことと見つけたり
対馬藩宗家江戸留守居役。正茂の弟。
佐野 綱正(さの つなまさ) 捨て童子松平忠輝
未資料。
佐野 信吉(さの のぶよし) 一夢庵風流記
未資料。
佐原 与左衛門利国(さはら よざえもんとしくに) 一夢庵風流記
佐渡領主。
早百合姫(さゆりひめ) (?~1583)
佐々成政の側妾。紺屋の娘。成政の越中時代、富山の呉羽山に狩りに出掛けた帰りに、一休みのため土地の富家に立寄り茶を所望した時、盆をささげ持ち現れた当家の娘早百合姫のしとやかな立ち居振る舞いに一目惚れした。成政はすぐに召し連れ、側妾とする。早百合姫は美貌ばかりでなく、教養もある才媛で、堤防工事の際の人身御供の悪習を止めさせるなど、成政への助言も行い善政を施したといわれる。しかし、天正十年(1582)秀吉が天下人になろうと画策し、それに反対の立場の織田信雄と徳川家康が連合して争う(小牧・長久手の戦い)と、成政も反秀吉の立場に立ち、加賀に移封したばかりの親秀吉派の前田利家と争う。家康が秀吉と和睦を図ると戦うように勧め、さらには利家との戦いの加勢を求める目的もあって、家康のいる岡崎へ出向いた。こうして国を留守にして帰った成政に、早百合姫と小姓竹沢熊四郎とが密通したという讒言が待っていた。その時、早百合姫は懐妊していて密通云々はデマであったが、成政はその言に踊らされ、熊四郎を即座に斬殺し、早百合姫の身内十八人を処刑すると、最後に早百合姫を神通川添いの榎の大木に全裸で逆さ吊りにして、身籠った子は誰の子だと執拗に責め、アンコウ切りにして惨殺した。この時、早百合姫は「立山に黒百合が咲く頃、佐々家は滅びるでしょう」と言い残して息をひきとったという。果して成政は、その後秀吉に誅され自刃。佐々家も断絶した。
猿田彦(さるたひこ) かくれさと苦界行
神話の人物。
国つ神の一人。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の際、天の八橋にいて邪眼を以て神々を恐れさせたが、天鈿女命(まめのうずめのみこと)に制せられ、天孫の先頭に立ち、後、伊勢国五十鈴川上に鎮座したという。
容貌は魁偉で、鼻長七咫、身長七尺余と伝える。日本書紀には、これを俳優または衢(ちまた)の神とした。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びつける。(『広辞苑』)
咫(あた)は尺度の単位で、親指と中指を開いた広さとされる。
佐和(さわ) (?~1613)
大姥殿。秀忠の乳母。三河武士岡崎与惣兵衛貞綱の妹。
今川義元家臣河村善右衛門と結婚、今川家滅亡後、相州小田原に移りすんでいたが、天正七年(1579)、秀忠の乳母に迎えられた。佐和は容姿が美しかったばかりでなく、才智にも優れ、その力量は大の男にも勝っていたとされ、今川家人質時代に佐和を知っていた家康は、佐和の才智と力量を惜しんでいたため、秀忠が出生するとただちに使いを小田原に出したという。
乳母となった佐和は、江戸城でその賢婦人振りを発揮し、「大姥殿」と呼ばれ尊敬され、秀忠の将軍姿を見届けて、慶長十八年(1613)、江戸城で卒した。生前の言動は『明良洪範』や『烈婦伝』に記され、多くの逸話を残している。
早良親王(さわらしんのう) 死ぬことと見つけたり、時代小説の愉しみ
桓武天皇の弟。
皇太子だったが、藤原種継暗殺の嫌疑を受け、寺に幽閉され自ら食を絶って餓死した。この事件の後、平城京には快事が相次ぎ、早良親王の怨霊の仕業と、それを恐れた桓武天皇は都を長岡へ移した。
沢田 瑞穂(さわだ みずほ) 風の呪殺陣
未資料。
三条 公光(さんじょう きんみつ) 一夢庵風流記
大納言。
三条 実隆(さんじょう さねたか) 花と火の帝
逍遥院内大臣。宗祇より古今伝授を受ける。
三条 実美(さんじょう さねとみ) 異説猿ケ辻の変
攘夷激派の公卿。
山椒太夫(さんしょうだゆう) かくれさと苦界行、花と火の帝
さんせう太夫。中世の説教物語『山椒太夫』の敵役の名。これを題材にとった森鴎外の『山椒太夫』が有名。子供向きには『安寿と厨子王』の名で知られる物語の悪長者。
三条西 公国(さんじょうにし きみくに) 花と火の帝
三条西実澄の子。
三条西 公保(さんじょうにし きみやす) 花と火の帝
三条実隆の子。父実隆より古今伝授を受け、子の三条西実澄に伝授を授ける。
三条西 実条(さんじょうにし さねえだ) 影武者徳川家康、花と火の帝
権大納言。大納言。武家伝奏。
三条西 実澄(さんじょうにし さねずみ) 花と火の帝
細川幽斎に古今伝授を授ける。
三宮 政仁親王(さんのみや こと〈ただ〉ひとしんのう)
→ 後水尾天皇(ごみずのおてんおう)
(し〜しほ)
志賀 与三左衛門(しが よさざえもん) 一夢庵風流記
蒲生浪人。上杉助っ人。
志駄 義秀(しだ よしひで) 一夢庵風流記
上杉方武将。
篠井 泰信(しのい やすのぶ) 一夢庵風流記
最上の戦い上杉軍第二軍。
柴田 勝家(しばた かついえ) (1522〜1583) 影武者徳川家康、花と火の帝、一夢庵風流記、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
権六。信長家臣。秀吉重臣。越前北庄城主。
織田信長の弟信行に仕え、信長の殺害を企てたがならず、頭を剃って信長の配下に。以来、戦ごとに信長の先鋒をつとめ、退く時は殿軍という献身ぶりを示す。元亀元年(1570)、近江武佐の長光寺守衛の任につき、佐々木承禎父子に包囲され、水瓶を割って突進、佐々木氏を破って「瓶割り柴田」の異名を得た。信長が本能寺で死んだ時には、越後上杉氏と対陣中であったため機を逸し、秀吉に遅れをとった。後嗣問題では秀吉に屈し、悶々の日々を送るが、信長三男神戸信孝、滝川一益らと謀り、遂に天正十一年(1583)四月、近江柳瀬に進軍。先ず甥の佐久間盛政を賤ヶ岳に送ったが失敗。内部からは柴田勝豊、前田利家らの変心が相次ぎ、命からがら北の庄に帰った。秀吉勢が迫ると、七度敵中に斬り込み、辞世の和歌を詠んで腹を切った。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
柴原 勘次郎(しばはら かんじろう) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
氏家卜全の家臣。
一向門徒となり信長と戦う。
志波原 清右衛門(しばはら せいえもん)(?〜1700) 死ぬことと見つけたり
鍋島藩深堀氏の家臣。
「長崎喧嘩」で深堀三右衛門、志波原武右衛門らに加勢し、高木邸に討入る。後、切腹。
志波原 武右衛門(しばはら ぶえもん) 死ぬことと見つけたり
柴原とも書く。鍋島藩深堀氏の家臣。
長崎の深堀蔵屋敷に勤番中、同僚の深堀三右衛門と長崎市内を歩いていた時に、長崎の町年寄高木彦右衛門の使用人に因縁をつけられ、終には鍋島藩対高木家の争いになった「長崎喧嘩」の一方の当事者。討入り後、高木彦右衛門を討ち取った事を市民に告げ、西橋の袂で立ち腹を切って果てた。
(しま〜しん)
島 金八(しま きんぱち)
→ 島 左近(しまさこん)
島 権三(しま ごんぞう) 影武者徳川家康
島左近の倅。
島 左近(しま さこん) (生没年不詳) 影武者徳川家康、柳生非情剣、対談日本史逆転再逆転、時代小説の愉しみ
勝猛。大和の出身とも対馬の出身とも云われる。清興、友之、清胤ともいう。
石田三成の侍大将を勤める島左近は、関ヶ原で西軍方の敗北を予想し、敵の総大将家康の首を取ることで形成の逆転を狙った。左近はこの時のために面倒を見ていた甲斐の六郎に、家康の暗殺を依頼する。首尾よく六郎は家康を刺殺するが、影武者二郎三郎の機転でそのもくろみは脆くも崩れ、西軍は左近の予想通り敗北した。
落武者となった左近は、六郎の助けで関ヶ原を逃げ延び、京の呉服商武蔵屋伊兵衛方に匿われる。そして京の町を市中引き回しされる三成と接触し、家康が贋者でありその贋家康は秀頼の味方だと知らされる。やがて二郎三郎の真意を知った左近は、二郎三郎の陰の参謀として対秀忠との闘争に協力するのだった。(『影武者徳川家康』)
最初は筒井順慶に仕え、重臣松倉右近とともに筒井の「右近左近」と並び称され、伊賀上野城を預かっていた。順慶の死後、その子定次と意見が合わず浪人し、近江江南の高宮に隠棲した。当時(天正十一年=1583年頃)甲賀水口四万石の城主になったばかりの三成がこれを知り、高禄で招いた。関ヶ原の戦いで討死したと云われている。
関ヶ原で討死にした時の左近は61歳だったという説もあり、逆算すると天文九(1540)年生まれとなる。
後年、島金八を名乗り百姓をして天龍二股で晩年を過ごしたとされる。
島 新六(しま しんろく) 柳生非情剣
柳生兵助の別名。
島 八郎右衛門(しま はちろうえもん) 死ぬことと見つけたり
大坂在番の鍋島藩士。
島 弥左衛門(しま やざえもん) 影武者徳川家康
一正。大御所家臣。
島田 左近(しまだ さこん) 異説猿ケ辻の変
前関白九条尚忠の家士。
薩摩の刺客人田中新兵衛に天誅と称して斬られる。
島田 所助(しまだ しょすけ) 風の呪殺陣
未資料。
島田 清左衛門直時(しまだ せいざえもんなおとき) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
徳川家臣。
島田 虎之助(しまだ とらのすけ) (1814〜1852)
見山。直親。島田市郎右衛門親房の四男。
文化十一年(1814)四月三日、豊前下毛郡島田村に生まれる。父は中津奥平家の家臣で、禄高三十石、料理方を務めていた。剣は藩の師範堀次郎太夫に戸田(外他)一刀流を学んだ。
十八歳で九州で方を並べる者がなくなった虎之助は、京阪に上り勇名を馳せた後、江戸に下る。そこで剣聖と称せられた直心影流の男谷精一郎信友に出会い、彼に心服してその門に入る。
天保九年(1838)、浅草阿部川町に道場を開く。道場訓は「剣は心なり」という。
島津 家久(しまづ いえひさ) 影武者徳川家康、花と火の帝、死ぬことと見つけたり
徳川方武将。
島津 維新(しまづ いしん)
→ 島津義弘(しまづよしひろ)
島津 忠恒(しまづ ただつね) 影武者徳川家康
島津維新の子。薩摩藩主。
島津 豊久(しまづ とよひさ) 影武者徳川家康
関ヶ原西軍石田三成方武将。島津維新入道義弘の甥。関ヶ原で戦死。
島津 久光(しまづ ひさみつ) 異説猿ケ辻の変
幕末期の薩摩藩主。
島津 義久(しまづ よしひさ) 影武者徳川家康、花と火の帝、死ぬことと見つけたり
竜伯。島津維新の兄。
[逸話](『想古録』)
川上大和、新納武蔵、山田新助の三士は、智勇兼備の俊英なり、島津龍伯、此の三士を薩摩の柱石と崇め、此の三士は我家の宝なりとて、其木像を刻ませ、毎朝礼拝して生祀せられけり、主将の法、努めて英雄の心を撹るの格言を服膺したるにや、宜なり、其の雄を西海に称せしと(篠崎氏)
艱難困苦が人の家を興し、宴安佚楽が人の国を亡ぼすは、古来の歴史上に於て隠れなき事実なれども、暑を過ぐれば樹蔭を忘るるは人の常患なればとて、島津龍伯は其居間の屏風又は襖などに、和漢歴代の国を亡ぼし、家を失ひたる悪虐無道の人の事蹟のみを絵かしめられしとぞ、英君明王が心を用ゐるの周到なること、想ひ見るべし(篠崎甚七)
島津 義弘(しまづ よしひろ) (1535〜1619) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり
維新入道。幼名を中(忠)平、他に義珍、又四郎と称し、維新と号す。薩摩守護・島津貴久の次男。島津義久の弟。
天文二十三(1554)年の初陣以来、武勇をもってその名をとどろかせ、大隅(鹿児島県)の平定に功名をあげた。耳川の戦いで大友氏の大軍に圧勝し、弟の歳久、家久とともに兄・義久を助け、一族団結して九州を制覇した。
天正十五(1587)年、25万の大軍を率いて九州入り(九州征伐)した秀吉の前に無条件降伏するが、義弘は大隅一国を与えられた。文禄の役で朝鮮に出兵、泗川(サチヨン)の戦などで武名を馳せる。また朝鮮より陶工を連れ帰り、今日の薩摩焼を生み出した。 関ヶ原の戦では西軍として出陣、戦場で中立を保っていたところ、最後の標的として東軍に包囲された。このとき、三百あまりの寡兵で敵陣の中央突破を敢行して薩摩に帰還、その勇猛ぶりは後生の語りぐさとなった。
[逸話](『想古録』)
島津義弘は啻に勇武の将なるのみならず、兼て文学をも好まれたり、若し近侍の童児に過失ある時は、必ず寺に遣りて禁足し、且つ其間に四書五経の素読を受けしめ、夫れさへ恙なく守り了れば、又元の如く膝下に使はれけるとぞ、英主の士を教養する方案、なかなかに旨味ある者なり(宮内清之進)
島津 竜伯(しまづ りゅうはく)
→ 島津 義久(しまづ よしひさ)
清水 越前守(しみず えちぜんのかみ) 見知らぬ海へ
北條水軍の船頭。伊豆海賊衆。
清水 康英(しみず やすひで) (?〜1591) 見知らぬ海へ
加納城主。太郎左衛門。上野介。はじめ吉広、のち氏康の一字を拝領して康実、康英と改名した。
氏康の側近衆で、のち伊豆奥郡代、評定衆を務める。伊豆加納城を本拠として各地を転戦。上野国支配の一部をもまかされる。北条氏直の信任も厚く、天正十八年(1590)四月、伊豆下田城に籠城して豊臣方の水軍相手に善戦。小田原落城後、一族は結城氏に仕えた。
下尾 諸家(しもお もろいえ) 一夢庵風流記
佐渡守。
酒呑童子(しゅてんどうじ) 捨て童子松平忠輝
『歴史用語の基礎知識』「童子」の項参照。
承快法親王(しょうかいほうしんのう) 花と火の帝
後陽成天皇の二宮。梶井宮門跡。
掌侍(しょうじ) 影武者徳川家康
女官。内侍司における官女の官名。
庄司 甚右衛門(しょうじ じんえもん)
甚内。吉原創設者。
◯吉原傾城町の開発人庄司甚右衛門は、北条家に仕へし者の子なり。父果てて後小田原落去あり、其の頃年十五歳にてありしが、家来の介抱にて江戸へ下り、所縁のものにちなみて居住しけるが、成長の後傾城町開基の事をはかり、官許を得て廓をひらけり。尚元和の件にしるせり。(『武江年表』文禄元年)
○庄司甚右衛門(小田原産、初名甚内)、官許を得て、遊女屋を一ツに集め、花街を葺屋町の末にいとなむ。翌年十一月、普請成りて、舗を開き商売をはじめ、吉原町と号す(「そゞろ物語」に云ふ、此の町繁昌する故、草の仮屋を破り、西より東より北より南へ町割をなす。先本町と号し、京町、江戸町、伏見町、さかい町、大坂町、墨町、新町などゝ名付け、家居美々敷く軒をならべ、板葺に作りたり。さて又本町を中にこめて、其のめぐりに揚屋町と号し、幾筋とも数しらず、横町をわり、能歌舞妓の舞台を立てをき、毎日ぶがくをなして是れを見せける。其の外勧進舞、蜘舞、獅子舞、角力、浄瑠璃いろ/\さまざまのあそびして興じける云々。○甚右衛門渾名をおやぢといふ。吉原開発の事にあづかりしもの皆壮年なり。甚右衛門は四十に越えたるをもてかくはいへりとぞ。親仁橋も元吉原道路のため、願ひて掛けたるなり。甚右衛門が伝「洞房語園」等に出でて、世人の知る所ゆへこゝに略す。同書に、遊女屋十七軒、揚屋二十四軒、町数五町、方二町とあり。此の時廓中十文字に通りを付して、銜町といふとあり。思案橋、わざくれ橋もこの頃の名なり。是れは元吉原通ひせるわかう人等、吉原へ行かふか行くまじきかと思案する意にて、しあん橋と名づけ、わざくれ橋といふは、其の頃の方言にて、わざくれは今の俗言にマゝヨといふに通ぜり。吉原へ趣くを決意して行く意也。「江戸惣鹿子」に、捨格橋の文字を用ひたれど、編者の意にてこの文字をあてたるなり。但し其の頃の思案橋は今のあらめ橋也。わざくれ橋は安永中よりこれなし)。
均庭云ふ。「見聞集」巻七、「そゞろ物語」にいへるは、庄司甚右衛門が事とは見えず、其の末文に、これに惑ひて、身を亡ぼすに至れる者多かりければ、とかく彼等を江戸に置くべからずとの議にて、女の数を改め給ふに、和尚と号する遊女三十四人、其の次に名を得たる遊女百余人、皆悉く箱根相坂をこし西国へ流し給ふとあり。これ慶長中に一たび加様のことありしなり。「落穂集」にも、慶長五年以前葭原町の事をいへり。然れば甚右衛門は其の後願ひて再興したるなり。右に和尚と号するといへるは、上色の遊女をいへり。又云ふ、思案橋は今の思案橋なるべし。(『武江年表』元和三年)
庄田 喜左衛門(しょうだ きざえもん) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝
柳生宗矩の高弟。
聖徳太子(しょうとくたいし)
厩戸皇子。父は用命大君(天皇)。
○聖徳太子は用明帝の王子。御母太子誕生の時、厩のほとりにやすらひて産れ玉ふゆへ厩戸皇子と云ふ。天皇甚愛して内裏の上の宮におき玉ひし故、上宮太子とも云ふ。生れつきさとく賢なるゆへ、聖徳太子云ふ。又八人にて奏する事を一度にきゝてさばき玉ふゆへ八耳太子とも云ふ。豊聴ともいふ。これも耳のはやきことなり。推古の朝に太子とし四十九にして位をつがず死す。
[聖徳太子御事蹟]
○推古の朝、兄の子聖徳太子を太子と定め、馬子とこゝろを一にして天下治めしめ玉ふ。太子みづから憲法十七箇条をさだむ。又大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智といふ十二の冠の名をたてゝその色をかへて十二階の位を定む。
[聖徳太子隋へ書を遣はす]
○推古の時、隋の帝の時代にあたる。本邦より小野妹子を使として隋へ書を遣す。其書を聖徳太子したゝめ玉ふ。其詞に「日出る処の天子、書を致す、日没処の天子、恙なしや。」と書す。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
称徳天皇(しょうとくてんのう) (718〜770) 吉原御免状、花と火の帝
第48代天皇。聖武天皇の第一皇女。皇女として初めて皇太子となり、聖武天皇に譲位されて即位(46代孝謙天皇)した。
父帝聖武太上天皇が没すると、遺詔に従って新田部親王の子、道祖王を皇太子に立てるが、言動がそぐわないとして皇太子の位を剥奪。台頭著しい藤原仲麻呂の進言によって、舎人親王の子、大炊王を皇太子に立て、翌年、大炊王(淳仁天皇)に譲位した。譲位した後、弓削道鏡を寵愛し、それを咎めた淳仁天皇と激しく対立。政治の実権を淳仁から剥奪し、やがて重祚して48代称徳天皇となった。(HP「歴史DBスクリーバ」より)
正之助(しょうのすけ) 捨て童子松平忠輝
秀頼の太刀持ちの小姓。
庄林 宇右衛門(しょうばやし うえもん) 死出の雪
明石藩士。生田伝八郎の兄。
荘林 十兵衛(しょうばやし じゅうべえ) 死ぬことと見つけたり
未資料。
庄林 八左衛門(しょうばやし はちざえもん) 死出の雪
明石藩士。生田伝八郎の父。
逍遥院(しょうよういん)
→ 三条 実隆(さんじょう さねたか)
白井 亨(しらい とおる)
義謙。天真伝一刀流。
信州中野の郷士白井彦兵衛の娘が嫁した江戸の町家大野某との間に天明三年に生まれ、祖父彦兵衛の養子となる。八歳から十五歳ごろまで、機迅流の依田秀復に剣を学ぶ。のち中西道場の中西子啓に師事。享和元年、師の子啓が没すると諸国を遊歴。備前岡山で白井の剣が高い評価を得、ここに落ち着いた。岡山藩では白井に道場と住居を与え、藩士への剣術指導を依頼した。この間に白井は兵学師範の滝川万五郎俊章に学んで印可を得ている。文化八年、江戸に住む母の病気を伝えられ岡山を去った。再び江戸に戻った白井は、中西道場で兄弟子だった寺田宗有と再会。旧知の二人は互いの剣技を比較しようと立合ったが、寺田の剣が数段の進歩を遂げていたことから、白井は自分の未熟さを知り、寺田に弟子入りする。
こうして白井は、寺田の修行法の一つである灌水の法を実践した。飲酒肉食を禁じ、朝夕、水行すること五年、白井は身体を壊した。白井にはこの法が合わなかったようで、母が嘆いて水行を止めてほしいと頼んだので、灌水を止めて専修練丹の法に改めた。この時、白井は三十三歳だったという。これを続けているうちに、病も癒え、身体も元に戻った。文化十二年(1815)八月、寺田から天真伝一刀流の印可を受け、二代を継いだ。
新羅 三郎義光(しらぎ さぶろうよしみつ)
→ 源 義光(みなもとのよしみつ)
「しんら」とも読む。
城山 丑之助(しろやま うしのすけ) 影武者徳川家康
裏柳生。
進士(しんじ) 吉原御免状
明智光秀の家臣。
山崎の合戦で負けた後、落武者となった光秀が土民に殺されると殉死したとされる。
進士 清三郎(しんじ せいざぶろう) 捨て童子松平忠輝
尾張藩士。
新上東門院(しんじょうとうもんいん) 影武者徳川家康、花と火の帝
後陽成天皇の母。
新大佐(しんおおすけ) 影武者徳川家康、花と火の帝
官女。広橋大納言の娘。
神保 相茂(じんぼ ともしげ) 捨て童子松平忠輝
徳川方武将。
神武天皇(じんむてんのう)(AD711〜AD585) 花と火の帝
『日本書紀』の記述によると、甲寅の年に兄の五瀬命らとともに日向高千穂宮を出発し、瀬戸内海を経て河内に上陸。大和に向かうものの地元の豪族の抵抗に合い、紀伊熊野を迂回してようやく大和地方を制圧。辛酉の年の元旦(太陽暦の2月11日)、橿原宮で即位を宣して初代天皇になったとされる。(HP「歴史DBスクリーバ」より)
親鸞(しんらん) (1173~1263)
浄土真宗の始祖。承安三年(1173)四月一日、藤原南家を祖とする日野氏の一族日野有範の子として伏見・日野で生まれる。一説に宇治の三室戸ともいう。
九歳の時、比叡山の高僧慈円の寺坊で得度、建仁元年(1201)までのおよそ二十年間を延暦寺で過ごし、堂僧として修行した。しかし、叡山二十年の修行をもってもなお悟りが得られなかった親鸞は、専修念仏を唱える法然の門を叩き、法然の教えに深く傾倒し帰依した。こうして親鸞は、法然の念仏による専修一向の教えをさらに深めることとなった。
ちょうどその頃、専修念仏への迫害が強まり法然は釈明に追われる。しかし、延暦寺を中心とする反念仏宗の動きは止まず、建永元年(1206)十二月、天皇の留守中、女官らが公家出身の法然門下の安楽房遵西、住連房信空の集まりに出席し、外泊するという事件が発覚、翌承元元年、安楽房と住連房は逮捕され死罪となった。この不祥事をきっかけに念仏宗徒への弾圧は激しさを増し、法然と親鸞も捕らえられる。これが承元の大弾圧といわれる事件で、法然は土佐へ配流(のち配流先は讃岐の塩飽島に変更となる)、親鸞は越後へ配流となった。
この時すでに親鸞は妻帯していたとされる。親鸞の越後時代を支えた妻は恵信尼である事は史料などから明らかとなっているが、この恵信尼の前に妻(善鸞の母)がいたという説もあり定かではない。その相手は九条兼実の娘玉日姫だったという伝説も伝わるが、今日ではこの玉日姫の話は否定されている。この越後時代に親鸞は一児(信連房明信)をもうけた。この事も有り、建暦元年(1211)には赦免されたが、親鸞はすぐに越後を去らず三年後の建保二年(1214)、妻子ともども常陸国に移住した。この関東時代に『教行信証』を書き上げ、関東での布教にも一段落ついた嘉禎元年(1235)頃、京都へ引き上げた。
京に戻った親鸞一家の生活は厳しく、ほどなく小黒女房、明信、有房などの子供たちは自領の有る越後に下り、妻の恵信尼も建長六年(1254)以前には越後に下ったとみられている。京に残ったのは親鸞と長男善鸞、末娘覚信尼の三人となるが、建長の弾圧で動揺した関東の信徒を落ち着かせようと善鸞を使いに出す。このことが親鸞にとって大きな問題を抱えることとなった。関東に入った善鸞は、そこで自身の勢力を拡大しようと専修念仏の教えから逸脱し、現世利益を求める世俗権力と癒着、熱心な宗徒たちの疑問の声が親鸞の元まで届くようになった。やがて親鸞と善鸞の対立は幕府をも巻き込む事態となり、専修念仏の教義を守るために、親鸞はやむなく善鸞と親子の縁を切るという「義絶状」をしたためる。専修念仏への根強い反感も収まらず、頼りにしていた長男に裏切られ、晩年に至ってなお逆境の中にあった親鸞だが、このことが親鸞の思想を深める事になり、後世の名著『歎異抄』を生む。
こうして親鸞は心身の痛みに耐えながら、著述や門弟の指導に力を尽くす日々を送り、弘長二年(1262)十一月下旬発病、同月二十八日入滅した。享年九十歳。みとったのは覚信尼と越後から来た第五子の益方有房、東国の門弟顕智、専海らであったという。
人名(す〜すん)
推古天皇(すいこてんのう) (554〜628) 吉原御免状
33代天皇。欽明天皇の第三皇女。異母兄敏達天皇の皇后で、蘇我馬子の姪にあたる。歴代天皇の中で最初の女帝。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階、十七条の憲法の制定など統治体制の強化につとめる一方、対外的にも遣隋使の派遣や、百済、高句麗との通交など、積極的な外交を行った。また斑鳩寺(後の法隆寺)の造営、『国記』『天皇記』の編纂を命じるなど、文化事業にも力を入れていた。(HP「歴史DBスクリーバ」より)
とされ氏制制度の導入などで、この時期に「ヤマト政権」は中央政権として確立しはじめるが、百済、新羅が高句麗と争うなどの半島情勢の混迷や、仏教導入の是非などを巡って、必ずしも政権は安定したものとはなっていなかった。大王欽明の後を受けた大王敏達が死ぬと、国内の有力首長らの間に動揺が広がり、政権内も大連(おおむらじ)物部守屋と大臣(おおおみ)蘇我馬子が争い、国内は混乱した。その混乱を鎮める意味で、大王敏達の后豊御食炊屋姫が大王となり、その巫女的な影響力で国内の動揺を鎮めた。こうして大王となった大王推古は象徴的な王で、実際の政務は先の蘇我・物部の戦いで勝利を収めた馬子と大王推古の甥で大王用明の王子厩戸(聖徳太子)らが執った。
この時代、天皇という称号はまだなく、『宗書』「夷蛮伝倭国条」などの史料には「倭王」として現れ、国内では「大王」と称していたようだ。この大王推古の時代に、中国の帝国隋に入貢の使節(遣隋使)を送りその国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と記し、隋の皇帝煬帝が激怒したと伝えられている。大化改新後、再び隋に使節を送った大王推古は、その国書で「東の天皇、謹みて西の皇帝に白す」と書いて、ここで初めて「天皇」の称号が用いられたと伝えられているが、これも後年の『日本書紀』の潤色で、疑わしいと網野氏はその書で述べている。ともあれ、この時期から、女王推古を補佐する王子厩戸(聖徳太子)や大臣蘇我馬子ら「ヤマト政権」の中枢達は、東アジア地域の覇権の確立のために、積極的に中国の制度や仏教を取り入れ、移入した「帝記」や「旧辞」に手を加えて「ヤマト政権」の正統性に勤めたとされる。
また『古事記』には、「妹、豊御食炊屋比賣命(とよみけかしぎやひめのみこと)、小治田宮(おはりだのみや)に座しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(とせ)なりき。戌子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき。」
「妹、豊御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下参拾漆歳。戌子年三月十五日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。」とある。
末次 平蔵(すえつぐ へいぞう) 死ぬことと見つけたり
長崎代官。
須賀 久兵衛(すが きゅうべえ) 影武者徳川家康
三河譜代。御鷹師。慶長十七年三月、キリシタンであったため駿府から追放。
素鵞宮(すがのみや) 吉原御免状
京極局の皇子。後水尾天皇の第四皇子。後の後光明天皇。
→ 後光明天皇(ごこうみょうてんのう)
菅谷 隠岐守(すがのや おきのかみ) 時代小説の愉しみ
小田左京大夫政治の代官。
菅沼 定顕(すがぬま さだあき) 影武者徳川家康
三河佐崎城主。
杉浦 甚兵衛吉利(すぎうら じんべえよしとし) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。
杉原 親盛(すぎはら ちかのり) 一夢庵風流記
最上の戦い上杉軍第一軍。
菅 達長(すげ たつなが) 見知らぬ海へ
未資料。
菅 六之助(すげ ろくのすけ) 影武者徳川家康
黒田長政の家臣。
助六(すけろく) かくれさと苦界行
歌舞伎十八番『助六』の主人公の名。花川戸助六の事。
下記に録した『反古籠』によれば、モデルは吉原通いで名を馳せた蔵前の米屋の倅で烏暁という男伊達とある。また、伊勢屋宗三郎著『三升屋二三治戯場書留』では、「助六の狂言に作りし万屋助六といふは、義太夫にあり、上がたのものなり、又、花川戸の男達助六といふは、戸沢何某のことなり、西入浄心信士、承応二年巳二月十一日、と浅草三谷新鳥越易行院に石塔あり、江戸狂言に書入しは、明和、安永の頃に、御蔵前礼差大口屋治兵衛暁雨といふ、是を助六に見立たるゆへ、其頃のえた久米八といふあり、よし原に通ふを意休とするなり、いづれも三人合せし書物なり」と書かれ、上方の義太夫にあった「万屋助六」と、花川戸の助六と称された男伊達「戸沢何某」、そして蔵前の礼差「大口屋治兵衛暁雨」を合わせた人物としている。
作品における設定では、この花川戸助六という名は騙り名で、実は曾我五郎の名刀友切丸詮議のため吉原に出入りする曾我五郎時致となっている。愛人三浦屋の揚巻に横恋慕する男伊達髭の意休がその刀を持っている事を知った助六が、意休に喧嘩を仕掛け、終に刀を奪い返すという物語。
またこの歌舞伎演目『助六』の正式名称は『助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』といい、世話物と呼ばれる通し狂言で、津打治兵衛の作といわれる。山村座でニ代市川団十郎が初演した。
助六 元禄の末、蔵前の米や鳥暁といふ侠者、新吉原三浦や四郎右衛門が抱への揚巻に馴染を重ねけるを、上方の揚巻助六になぞらへて、鳥暁を揚六様ンと仇名しける、牽頭持は髭の無休なり、湯島の浪人田中三右衛門といふ者も、揚巻が客にて、其事につき、度々喧嘩ありしとなり、其後正徳三年、山村座の花館愛護桜の二番目に、其事を、夢の市兵衛が事と、上方の万屋介六を取交ぜて、作者津打半右衛門が作れる狂言なり、牽頭持の髭の無休を意休と替しは、猶顕在なる故なり、大尽にしたるは作者の働なり、と或人の話なり、此説よし、鳥暁が手翰は、浅草の何某が所蔵、鮫鮹、印籠、日和下駄、何れも鳥暁が真似なり、(『反古籠』)
素戔鳴尊(すさのおのみこと) 一夢庵風流記、対談日本史逆転再逆転
須佐之男命。『古事記』『日本書紀』に現れる国造り神話中の神の名前。
『古事記』では、伊邪那伎大神の御身より生まれた三神の末神。左目から生まれた神が昼の世界を治める「天照大御神」、右目から生まれた神が夜の世界を治める「月読命」、そして鼻から海を治める「建速須佐之男命」が生まれたとある。
日神・月神は天に移し給ひて、蛭子は海に流し、素戔雄尊ぞ此国を領じ給へど、諸凶々(もろもろあらあら)しく、父母の御心に疎ませ給へども、暫しは国を知ろしめせり。其後姉の大神8おおきみ)と誓約の中に、御子産生(あれまし)て天の忍穂耳の尊(あめのおしをにのみこと)と申奉る。(是事神秘也。)それより素戔雄、出雲国手摩嶋(たましま)に往(ゆき)て、八岐(やまた)の大蛇(おろち)を退治し給ひて稲田姫を嫁り、大己貴(おおあなむち)を生めり。(『艶道通鑑』)
厨子王(ずしおう) 花と火の帝
説教物語『さんせう太夫』(山椒太夫)に出て来る主人公の名。
鈴木 久三郎(すずき きゅうざぶろう) 時代小説の愉しみ
家康家臣。三方原の戦で戦死。
鱸 成世(すずき しげよ) 捨て童子松平忠輝
刑部少輔。
薄田 兼相(すすきだ かねすけ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
隼人正。豊臣家家臣。岩見重太郎の名で知られる武将。
直木三十五氏の『岩見重太郎』に大坂の陣での薄田隼人正の話が書かれているので、それを要約した文を以下に紹介。
「岩見重太郎時代、二千五百人の中に斬込んだ人間だからかなり向う見ずで強かった事は本当らしいが、大阪役では隼人正の評判は余りよく無い。秀頼寄合衆の一人として、かなり聞えた人間であったが、別にこれといった評判の武勇を現した事は無かった。だが、秀頼の気に入りの上に、諸侯の家の人々とも交際があり、薄田能登守という長尾家の士が家康に、「隼人正という人間は聞ゆる剛の者にて、刀の柄糸は汚なくとも目釘さえ確かなら、鞘の塗が剥げていようと、中身さえ切れたらと常に申して居りまする」と話している。
大阪冬の陣には大阪城外の防禦地としては一番遠い所の博労淵の要塞を手兵七百人で守っていた。今の江の子島の東に面した所一帯を博労淵と称していたが、ここを守っている時期は十一月の末で、寒さが厳しかった。今夜は敵も来るまいと思った兼相は、阿波座の方へ引揚げて一杯傾けながら、芸子達を呼んで遊んでいると、東軍石川主殿頭の攻撃が始まった。「それっ、大将へ」と伝令が捜すが、当時の大阪とはいへ広く、いくら隼人正が六尺以上の大男とはいえ、そうすぐ発見できるものでもない。第一行く所は此処と云って出たが酒飲みの癖として、梯子をしたかも知れないのだ。伝令は蒼くなり、「薄田様敵襲で御座りまする」と、馬を馳せつつ町々を呼廻るが、どうしても所在が知れなかった。留守居の兵卒等が必死となって防いだが、ついに博労淵は破れ、主殿頭の軍中から小舟を漕出して、城兵の弾丸に船の焼けるのも顧みず七人の兵が城へ迫った。舟の七人衆と後の物語に伝えられた神田九兵衛、平木市之丞、中黒弥兵衛等いずれ劣らぬ無法者たちが、めちゃめちゃに乗付けてとうとう斬入り、その口から石川勢が城内へ雪崩れ込んだ。
隼人正が女を突きのけて馬に乗った頃、博労淵の火の手が彼の酔顔に写った。暫くすると敗兵が引揚げてくる。一遍に酔が醒めたが後の祭り。挙兵前後に入城した諸侯はそれぞれ奮戦しているのに、城つきの連中は悉く不成績で、それが今隼人正自身の上に現れてみると、平常の武勇評判と思い合せて、見るのも気の毒なくらい情気ていたらしく、謹慎してしまったという。
その内に講和になったが、翌元和元年四月に、東軍再び大挙、城東の野に迫ってきた。四月三十日の城中大評定に、薄田隼人正は第一軍の手に属して、大和口へ進む役、この軍の先鋒は後藤又兵衛基次、三千の兵を率いて百城を出て羽野陣を布く、隼人正の手兵五百、基次の兵の後につづいて、動かばすぐ追うつもりで城中に在って伝令を交している。
第一軍の総数六千四百人、将としては二人の外に井上定利、山川、北川、山本備後、槙島重利、明石鈴蜜、小倉竹春の七将がいる。第二軍が真田幸村であるが、此の両軍を以て、松平忠輝軍が奈良から進撃するのを、険路で迎え撃とうという作戦だった。ところが軍参謀大野治長は戦機を知らず、中々命令を下さない。一日二日と延びて五日になった。ついに「敵軍奈良を立った」と報じてきたから、基次は「最早これまで、自分一人で戦ってみる。この上待つことは出来ないから」と、幸村と毛利勝永にこの事を告げて、五月六日夜の明けぬ内に進軍を開始した。薄田隼人正はこの一戦こそ博労淵の汚名をそそぐ時であると、基次の進軍を待ち、治長の命令を待っていると、六日の明け方に、「平野の先手は進発しました」と知らせてきた。そのことを治長に告げると「それではすぐ続け」とようやく命が下り、井上、北川、山川と七将各々兵を督して急行軍。平野を出て入尾を経、藤井寺の方へ進んで行くと、夜がほのぼのと明けて来た。快よい朝風に吹かれて馬上にいい気持ちに進んで行く前面で、間断しつつ聞えてくる小銃の音、忽ち一軍興奮して急ぎ足は乱れるばかりに早くなる。藤井寺を外れると、誉田の村が見える。その前は道明寺の河原その後方は山又山。明るくなった河原から田畑へかけてちらちらと黒く動いている軍勢の、散々になりつつ引揚げるらしい者、踏止まりて応対しているらしいものの姿があった。「急げ」と隼人正馬上で大音声、一鞭入れると共にどんどん駈出す。馬を右手の小高い畑地に乗上げて瞳を定めると、二三十人一団となりつつ次第々々に現れてくるのは後藤の軍、その内に百四五十騎、村影から退却してきたかと思うと、間近く迫る四五百人の兵が鉄砲の音とともに突撃してきた。味方の一団忽ち四散して、倒れる者、傷つき戦う者、走りくる馬を捕えて逃出してくる者が続出する。それと共に山際に動く旗指物がある。味方の来援を知った敵の陣立が、右へ右へと進みつつ次第に正面へも現れてきた。さらに玉手村から円明村へかけて伊達政宗の陣から大勢が右ヘ前へと開展してくる。片山村の方には水野勝成の勢が旗を翻していた。
隼人正は敵軍の左へ井上定利の軍と共に真先に開展する。二人の後方に山本備後、右方へ山川、北川、槙島と陣を布くと同時に後藤の軍の敗兵が引揚げてきた。
「いかが」「基次殿は危いらしい」「首になったか」無言でうなずく途端、前面から撃出す小銃、土煙を上げて田畑へ射込まれた。頭上をビュンと捻りつつ飛ぶ。「伏せ。打てっ」と部隊長の懸声、隼人正前面を見ると、未だ味方が戦っているらしく時々喚声と銃声が起る。山田外記、片山助兵衛が基次を討たれながら必死の戦いをしているのである。隼人、これを聞くと共に、「それっ」と、刀を執る。どっと揚る関の声、道明寺の磧の広草場へどっと殺倒する。丁度この時、伊達家名代の猛将片倉小十郎重綱が、後藤の軍を破って勢に乗じて追撃してきた。「小十郎か、不足無い対手じゃ」と、三尺六寸の大太刀を片手に、左手の手綱をしっかりと腰に結んで、真先立ちに先へ立つ。小十郎これをみて、「此奴は薄田よな。撃ってとれ、撃ってとれ」と必死の斬込みと見ると共に、仙台名代の銃騎兵が駒の頭を立て並べて馬上から釣瓶打ちに、どんどん打込む。その勢の猛烈さと砲火の劇しさに、井上薄田の兵忽ち乱れ立った。
「卑怯者め」と歯噛みした隼人正は馬首に兜をつけて弾を避けつつ、「退くな退くな」と必死に指揮するが、銃騎兵の馬が左右に分れると共に、後につづく槍騎兵、長槍を並べて隙間もなく突撃してくる。隼人正は馬上に立ち、馬と馬との間へ、さっと乗入れる。左右より閃く槍、右手よりくるのは、一打に折斬り、馬を右手に迫らせて、左手のを倒す。腰を一捻り馬首を左にするや、今翻した槍を振り上げて真向一打に振り下ろす。どっと乗下げる槍騎兵五六騎が巧に馬を乗寄せて隼人正を取囲むや、四方から突いてかかるのを、正面へさっと寄せて左手に槍を引つかみつつ右手で横なぐりの一刀を繰り出す。どっと落馬する上を馬蹄にかけて、奪った槍を後方へ突き出すと、手応えあって、馬の高くいななく声が聞こえる。
その時銃声が近くで轟き、隼人正ははっと呼吸づまったように感じた。しっかと踏張ったつもりのが、どうしたことかどっと落馬すると共に、二三ヵ所叩かれたように覚えたが、あとは判らなくなった。岩見重太郎でも薄田隼人正でも鉄砲には敵わなかったのだ。」
岩見重太郎の項参照。
薄田 隼人正(すすきだ はやとのしょう)
→ 薄田 兼相(すすきだ かねすけ)
崇徳上皇(すとくじょうこう) (1119〜1164) 死ぬことと見つけたり
第75代天皇。顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第一皇子で、鳥羽天皇の譲りをうけて五歳で即位。曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治四(1129)年、白河法皇が崩じて鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変。異母弟にあたる鳥羽上皇の第八皇子体仁親王(近衛天皇)が皇太弟となり、二年後には譲位を強要され、わずか二歳の近衛天皇が即位した。『古事談』によれば、これは鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇の子だと信じていたためだという。久寿二(1155)年、近衛天皇が十七歳で崩じると、皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって崇徳上皇の同母弟雅仁親王(後白河天皇)が即位。翌保元元(1156)年、鳥羽法皇が崩じると源為義、平忠正らと蜂起(保元の乱)するが、敗北して讃岐に遠流され、崇徳上皇は失意の内に崩御した。(HP「歴史DBスクリーバ」より)
駿河大納言 忠長(するがだいなごん ただなが)
→ 徳川 忠長(とくがわ ただなが)
諏訪御寮人(すわごりょうにん) (?~1555)
武田信玄の側室。諏訪頼重の女。信濃国諏訪郡を領していた諏訪氏は、信濃でも最も古い家柄で、諏訪大社を背景に大きな勢力を保っていた。そんな諏訪氏は、信濃に進出しようとする武田信玄にとって目障り極まりない存在で、かねてから侵攻の機会を狙っていた。信玄はまず妹禰々を頼重の正室として嫁がせ姻戚関係を結び、侵攻の意図がない事を頼重に示す。しかし、天文十一年(1542)、油断した頼重の居城を攻め落城させた。その燃え盛る城から救出された一人の女がいた。女は頼重の女だった。信玄は女を一目見て惚れ、家臣らの反対にも拘わらず側室に迎え入れる。こうして父の仇信玄の側室となった頼重の女は、諏訪御寮人と呼ばれ、その四年後に一子をもうけた。それが勝頼で、始め正室三条夫人の間に二子があったため、勝頼は十七歳で高遠城の城主となる。その後、兄が謀叛の容疑で父信玄に殺されると勝頼が武田家の当主となった。父の仇の武田家を、自分の息子が継いだのだが、彼女はそれを見届けることもなく、勝頼が十歳の時に亡くなっている。
(せ〜せん)
清和天皇(せいわてんのう) (850〜880) 影武者徳川家康、花と火の帝
第56代天皇。惟仁(これひと)。文徳天皇の第四皇子で、藤原良房の孫。
良房の意志により、生後九ヶ月で異母諸兄を抑えて立太子。文徳天皇が没すると九歳にして即位し、良房が人臣として初の摂政となった。良房没後、良房の養嗣子基経が実権を握り、基経の妹である皇后高子(後に皇太后)との間にもうけた第一皇子、貞明親王(陽成天皇)に譲位し、自らは仏門に入った。(HP「歴史DBスクリーバ」より)
関 孝和(せき たかかず)
江戸時代の数学者。
《瓢水の「一話一言」》
[関孝和は内山七兵衛の曽祖父の弟だった!]
隆先生が手掛けたTV時代劇『江戸の鷹』の主人公・内山勘兵衛には、将軍家治の鷹匠頭であった内山七兵衛永清というモデルがいたことは先述した。その七兵衛永清の生涯を調べているうちに、興味深い事実を発見した。和算の大家として有名な関孝和が、七兵衛永清の曽祖父(永貞)の弟だったのである。
孝和の生年は明らかでないが、関家に養子にいった後、甲府藩主徳川綱重とその子綱豊(後の6代将軍家宣)に仕えた。甲府では勘定吟味役を務め、綱豊が5代綱吉の養子となったため幕臣に列し、御納戸組頭となった。その傍ら、孝和は暦術の研究に励み、我々にも馴染みの深い円周率を弾き出したのである(『国史大辞典 第8巻』、303頁)。
孝和が死去したのは宝永5年(1708)、七兵衛が生まれたのが享保7年(1722)であるから、2人が顔を合わせた可能性はない。しかし、和算家としての孝和の高名は、一族の誇りとして漏れ聞いていたのではないだろうか。ちなみに孝和の墓は、内山家の菩提寺である新宿区弁天町の浄輪寺にあると云う(『日本大百科全書 第13巻』、536頁)。(2004年8月13日瓢水記)
関口 柔心(せきぐち じゅうしん)
弥六右衛門氏心(うじむね)。関口流居合の流祖。
林崎甚助の弟子の関口弥六右衛門氏心、号柔心が居合の伝を受け、三浦与次右衛門から組打ちの法を教えられ、諸国修行して、長崎で中国の拳法・捕縛を習い、工夫した上、一流を開いた。
柔心は寛文十年三月七日、享年七十四歳で病死した。
関口 魯伯(せきぐち ろはく)
八郎左衛門氏業。関口流居合の祖関口柔心の長男。
関口柔心の後を嗣いだ長男八郎左衛門氏業、号魯伯は、十八歳のとき、男は位牌知行は取らぬものといって、承応三年から延宝元年十二月二十日帰参するまで、諸国修行中、小姓・若党各一人を連れて、京都に居住した時には、常に三尺三寸の大刀の鐺(こじり)に車を付けて引きずり、若党を立髪にして連れ歩き、子供などが笑うと「いざ抜いて見せん」と言って、その立髪の上に濡れ紙を置き、抜打ちに切って見せたという。また、「江戸逗留の頃は、芝浜松町に道場を立て、指南有りしとぞ。此の時虎蔵といふ童を召使ひ、外へ出らるゝ時は、此の虎蔵に刀をかつがせ、我よろ前に立てて歩行れし。虎蔵には伊達染または大縞の着物など着せ、朱鞘の脇差一腰さゝせて、大童の勇しき出で立ち、我は丸ぐけの帯に脇差帯し、或は鉄扇壱本など差して歩行されしと」(『柔話』文化九年序)と有り、かぶき者かぶれの伊達男だったと書かれている。(「好色一代男全注釈』)
関沢 信次(せきざわ のぶつぐ) 鬼麿斬人剣
加賀藩見張り人。
関沢 房清(せきざわ ふさきよ) 鬼麿斬人剣
加賀藩士。割場奉行を務める。
瀬上 丹後時綱(せのうえ たんごときつな) 捨て童子松平忠輝
伊達家家臣。
善鬼(ぜんき)
伊藤一刀斎の一番弟子。
大峰山中の前鬼村の出身とされている。
伊勢桑名の船頭で、怪力自慢の乱暴者で、一人諸国修行の旅の途中だった一刀斎に出会い、喧嘩をふっかけて完敗。一刀斎の腕に惚れ込み一番弟子となった。
その後、一刀斎の弟子となった神子上典膳と一刀流の相伝を争い、下総相馬郡小金原で立ち合い典膳に敗れて死んだとされる。
仙石 左京(せんごく さきょう)
出石藩筆頭家老。藩主仙石家の支族で、左京家は代々筆頭家老を勤める家柄。藩内の改革派で、守旧派と対立、藩主の急死で嗣子を定めていなかったことから藩内が揉め(仙石騒動)、さらに幕府中央の権力争いとも絡んで、主家乗取りの罪を被り死罪、獄門となる。
[逸話](『想古録』)
仙石騒動のとき仙石左京を江戸へ召されけるが、其時下されたる御奉書に、若し左京途中にて死去せしならば、附添のもの江戸へ下り、其旨届出づべしとのことありし、是れ途中にて左京を自殺させ、又当時老中にて此事件に関係ありし松平周防守をも事故なく隠居させ、百事穏便に取計ひて成るべく無事に済まさんとの計画なりしに、左京は此に気附かず、何処までも周防侯を頼みにして出でければ、其身は鈴が森に梟首せられたるのみならず、周防侯は閣老を免ぜられて棚倉に逐はれ、仙石家は二万八千八十八石を召上げられて閉門仰付けらるることとなれり、左京一死を吝んで禍を恩人主家に及ぼし、暗夜の恥辱を青天白日の下に曝したり、左京の如きは事を企つるに巧みにして事を処するに拙き者と謂ふべし(満岡仁之助)
仙石 秀久(せんごく ひでひさ) (1551〜1614) 捨て童子松平忠輝
信濃小諸城主。父は治兵衛尉久盛、母は堀田加賀守正道の女。
若い頃、方々を転々としたが、秀吉に仕えて頭角を表す。天正八(1580)年には淡路洲本城主に累進。四国征伐に参じ、つづいて九州に先発。しかし、豊後戸次川で負け、所領を没収され、高野山で謹慎。その後、小田原の役では家康の下で功をあげ、信州小諸城主となる。朝鮮の役では名護屋に出陣。従五位下越前守に任じられ、文禄三(1594)年には伏見城の普請にたずさわる。関ヶ原では秀忠とともに行動。上田城攻めに邁進したが、真田氏に釘づけされる。伏見城工事の際、石川五右衛門を捕えたとされる。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
千束 善左衛門(せんぞく ぜんざえもん) かくれさと苦界行
浪人。天草の乱に加担。
千本 掃部助(せんぼん かもんのすけ) 捨て童子松平忠輝
忠輝家臣。
配流となった忠輝に従う。
(そ〜そん)
宗 盛長(そう もりなが) 一夢庵風流記
未資料。
宗 義調(そう よししげ) 一夢庵風流記
対馬領主。
宗 義智(そう よしとし) (1568〜1615) 一夢庵風流記
宗義調の子。対馬藩主。
天正五年(1577)、年少で家を嗣ぐ。同十六年(1578)、兄の死とともに本格的に国政を執る。宗氏は専ら対朝鮮折衝役で、豊臣秀吉からも命を受け、朝鮮使節黄允吉らを連れ聚落第で謁させた。その功で従四位下侍従に任ぜられる。朝鮮の役では、小西行長、松浦鎮信らと一番隊として転戦。関ヶ原では西軍に与したが、戦後、家康は宗氏の重要性を買い、義智もうまく身を処して、日朝間の友好条約に尽すことになった。慶長十四年、玄蘇、柳川智水を朝鮮に遣わして貿易開市などの条約を結び、釜山に和館を設けた。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
蘇我 入鹿(そがのいるか) (?〜645) 花と火の帝
林太郎・鞍作(くらつくり)。父は大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)。祖父は大臣蘇我馬子といわれている。
蘇我氏は、馬子の父・稲目(いなめ)より代々、大臣として大連(おおむらじ)の物部氏と共に、天皇家に次ぐ豪族として最高位を世襲してきた一族。物部氏が聖徳太子・蘇我馬子らの崇仏派によって滅亡した後は、「天皇家に並ぶ権力者」として国政を左右した。
父の病により大臣位を私に譲られ、父以上の政治的権力を握り、親族にあたる古人大兄皇子の天皇擁立を企図し、次代天皇と目された聖徳太子の子山背大兄皇子を襲って皇子一族を滅亡させた。飛鳥甘檮岡(あまかしのおか)に構えた居所を宮門(みかど)、子を王子(みこ)と称して栄華を極めたが、大化元年(645)、三韓進調の儀式の折、宮中太極殿で、改革派の中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌足)・蘇我倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流)らによって暗殺された。これが後にいう「大化の改新」といわれる。(『舞の本』解説)
[蘇我蝦夷、入鹿]
○皇極の時蘇我蝦夷大臣となりて政を行ふ。其子入鹿いよ/\威権つよし。大臣に準ず。(伊藤梅宇『見聞談叢』)

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