人名事典『な』

人名(な〜なか)

内藤 興盛(ないとう おきもり)

大内義隆側室問田殿の父。

内藤 清次(ないとう きよつぐ) (〜1617) 捨て童子松平忠輝

若狭守。父は内藤清成。
慶長十三年(1608)、父の跡を継ぎ二万五千石を相続、大久保忠隣の改易を受けて小田原城没収の役を仰られる。青山忠俊とともに元和二年(1616)、幕府老職となり、世子家光の守役となるが、翌三年卒す。
内藤若狭守清次 初弥三郎、慶長十年、若狭守に任ず、同十三年十月、父修理亮済重卒して、其遺跡を継ぐ、後執事職と成、大坂両度の役、江城に於て若君を守護し奉る、(『江戸古絵図考附録』)

内藤 清成(ないとう きよなり) (1555〜1608) 影武者徳川家康

修理亮。済重。江戸町奉行。関東惣奉行。
弘治元年(1555)、三河に生まれる。内藤忠成の養子となり、家康に仕えて小姓となる。その後、青山忠成とともに秀忠に付属され、関東入国後は、相模東郡のうちに五千石を与えられ、忠成とともに関東総奉行に任ぜられる。
修理亮清成は仁兵衛忠政養子、実は右近進義清が二男、台徳公御幼稚の頃より奉レ仕、天正十八年、当麻の地にて七千石を賜り、関東の奉行職となる、慶長六年、職を免され、其後は御台所の事を承る、同十三年十月卒す、(『江戸古絵図考附録』)

内藤 如安(ないとう じょあん) (?〜1626) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

内藤飛騨守忠俊。丹波八木城主。キリシタン大名だったが将軍義昭に従っていたため没落し禄を失い、同じキリシタン大名だった小西行長の属将となっていたこともある。秀吉のキリシタン禁制により、高山右近とともに加賀前田家の永代預かりとなっていたが、慶長十九(1614)年、家康によって高山右近らと共にマニラに追放される。

内藤 綱秀(ないとう つなひで) (生没年不詳)

津久井城主。津久井・愛甲郡代。左近将監。大和守。
甲斐の武田信玄が小田原城を攻めた時、信玄の帰路、氏政は三増峠で氏照・氏康軍と挟撃しようとしたが、綱秀が信玄の武将山県三郎兵衛昌景に津久井城を包囲され出陣できずに終った。
天正十八年(1590)の秀吉の小田原征伐時には津久井城に籠城、六月下旬に家康の大軍に包囲され落城した。綱秀は城外に出て戦ったが、戦い後、生死不明となっている。

内藤 信成(ないとう のぶしげ) 影武者徳川家康、見知らぬ海へ

豊前守。駿府城主。
病中の家康に代って、御朱印状を何通か出した。

内藤 信正(ないとう のぶまさ) 影武者徳川家康

家康家臣。
関ヶ原後、石田三成の居城佐和山城を落とした家康は、内藤信正、石川康通、西郷正員らに佐和山城の守備を命じている。

内藤 半十郎(ないとう はんじゅうろう) 影武者徳川家康

慶長遣欧使節。

内藤 弘矩(ないとう ひろのり)

大内家の重臣。長門国守護代。大内義興の正室東向殿の父。

内藤 弘春(ないとう ひろはる)

内藤弘矩の弟。内藤興盛の父。
兄弘矩が陶氏の讒言で失脚し、誅せられた後、内藤家当主となる。

内藤 昌豊(ないとう まさとよ) 時代小説の愉しみ

武田信玄の武将。

内藤 政長(ないとう まさなが) 捨て童子松平忠輝

幕臣。
大坂冬の陣で、江戸城留守居を秀忠に命ぜられる。

内藤 盛世(ないとう もりよ)

大内家の重臣。長門国守護代。内藤弘矩の父。

直江 兼続(なおえ かねつぐ) (1560〜1619) 一夢庵風流記、花と火の帝

幼名・与六。重光。父は坂戸城主長尾政景に仕え薪炭用人として台所まわりを担当していた樋口惣(与穂)右衛門兼豊、母は直江大和守実綱の女。
上杉謙信の姉で景勝の母・仙桃院(長尾政景の妻)の推挙によって、景勝の近習に取り立てられた。上杉謙信が死去すると、景勝と景虎、謙信の二人の養子の間で家督を巡る争いが起こり(御館の乱)、勝利した景勝が、上杉家を継ぐこととなる。景勝の家督相続後、重臣直江信綱が刃傷沙汰に巻き込まれて死亡すると、越後の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の未亡人おせん(船)に兼続を嫁し、直江家を継がせた。執政官として上杉景勝に用いられ、上杉領内に影響力をもち、新発田重家征伐・佐渡平定などの陣頭に立つ。小田原征伐では、前田利家らの軍勢と共に上野国松井田城、武蔵国鉢形城を落とした。秀吉は、兼続を高く評価し、「豊臣」姓を与えたり、景勝の会津百二十万石移封の際、兼続に米沢三十万石を与えている。また学問好きで米沢に禅林文庫を建て、朝鮮の役でも文献収拾に努めたと言われる。秀吉の死後、徳川家康は景勝の上洛を促すが、景勝は領国経営を理由にこれを拒否。家康の書状に対する兼続の返書(「直江状」)に激怒した家康は、会津討伐を決意。関ヶ原の引き金になった。関ヶ原以後、家康に和を乞い、上杉家は米沢三十万石に減封される。大坂の陣に参戦。特に冬の陣では長男景明と共に殿軍を務めた。米沢において死去(江戸で没すという資料もある)。直前に徳川家の家臣、本多正信の子・正重を養子にしている。著書に『四季農戒書』『軍談』がある。
『常山紀談』に「直江兼続が事」他の記述あり。 
上杉家上級家臣の小倅どもの陰湿な行為で慶次郎は彼等と果し合う事になった。その果し合いの場に彼等を引き連れてやってきたのが上杉家の重臣直江兼続だった。兼続は率直に詫びる慶次郎に驚いた。非は上杉家の甘えた小倅どもにある。遠慮なく討ち果たしてくれと兼続は慶次郎に告げた。これを機に二人はお互いを認め合う幕逆の友となった。(『一夢庵風流記』)
[逸話](『想古録』)
直江山城守兼継は剛腹にして、終身人に屈することなかりしが、徳川家康の両便の問には閉口して一言も出でざりしと云へり、或る日のことにてありけり、伊達政宗、異国の銭を取出して之を家康の覧に供し、家康見了りて之を列座の諸大名に示し、諸大名見廻して之を末席の兼継に渡しけるに、兼継扇子を開いて之を受け、直に手に取らざりければ、政宗謙退なりと心得、直に手に取りて見らるるも苦しからず、と注意しけるに、兼継眼を張て政宗を睨み、斯る穢らはしき品は景勝に代り数万の軍卒を指揮する兼継の手に触るべき者に非ず、と憚る所なく言ひ放ちければ、政宗大に赤面し、返す言葉もなかりけるに、家康満面に怒気を含み、山城は何にて両便の取捌するやと、舌鋒鋭く問詰めければ、流石の兼継も答弁に窮し、其場に平伏しけるとなん、兼継後に人に語りて曰く、吾生涯困りたりと云ふ程のことは曾て有らざりしが、両便の問答だけは聊か答弁に窮するを覚えたりと、其剛腹概ね此の如し(山田九十郎)
始めて小判を造りたる時、直江山城守これを見て、天下通用の為めには至極の便利なるべけれども、途上の盗賊は益々増加するならんと云へり、石田三成これを聞て大いに感じ、彼れ英物、我力になるべしとて、好みを上杉に通じて、竟に直江を抱込みけるとぞ(広田彦)
米沢に宋板の漢書あり、織田信長に焼殺されたる一向僧南華上人が、自から書入れして直江山城守に贈りたる者にて、直江の書入れ又は評論など処々に有り、其文章は何れも短文なれども、文章流麗にして手跡も亦優美なり、古人が書籍の乏しきに拘はらず、夫れ夫れの学力を有するは感服せざるを得ざるなり(古賀穀堂)
直江山城は死に臨んで左右に遺言し、我一旦徳川氏に敵対したれば、我死するの後は我家を潰すべし、と云へり、然れども直江は上杉家に執りて大切なる家柄なれば、二度まで養嗣して立てけるが、継続効なく、二度まで嗣なくして絶えければ、其儘になれり、然れば米沢には直江の跡なし(伊藤達)世人概ね直江の死を以て刺客の手に斃れたる者と取沙汰すれども、其は迹方もなき妄説なり、直江は諸藩の陪臣中比類なき大禄にて二十万石の知行を有し、攻城野戦の功を積みたる家臣も夥しく有りけるゆゑ、之を刺殺すなどとは思ひも寄らぬ話なり、もし果して刺殺したる者とせんか、一場の大騒動起るは論を俟たざるに、死せしとき聊かの騒乱あらざりしは、病床に歿したる確証なり(山田九十郎)

直江 信綱(なおえ のぶつな) 一夢庵風流記

越後三島郡与板城主。上杉家家臣。

永井 伝八郎(ながい でんはちろう) 花と火の帝

秀忠近侍の三臣の一人。

永井 直勝(ながい なおかつ) 影武者徳川家康

右近大夫。四千五十五石。

永井 直清(ながい なおきよ) 捨て童子松平忠輝

未資料

永井 尚政(ながい なおまさ) 死ぬことと見つけたり

信濃守。

永井 尚志(ながい なおむね) 異説猿ケ辻の変

主水正。京都東町奉行。

中浦 ジュリアン(なかうら じゅりあん) (1570頃~1633)

天正遣欧使節副使。日本名不詳。肥前中浦の出身で、父は中浦の小領主小佐々甚九郎あるいは甚五郎といわれる。帰国後は伊東マンショらと行動を共にし、文禄二年(1593)伊東マンショら都共にイエズス会修道士としての誓願を立てイエズス会士となる。慶長五年(1600)、マカオへ留学。三年後の慶長九年(1604)長崎に帰り、慶長十二年(1607)伊東マンソ・原マルチノと共に、長崎の被昇天聖母教会で司教ルイス・セルケイラによって司祭(パードレ)に叙せられた。慶長十九年(1614)の追放令には従わず日本に留まり、死を覚悟した伝道の旅を続ける。「私は常に夜間、風雨の間に歩きます。山中の農家に泊ります」と、1619年にローマのイエズス会総長宛の書簡で述べ、二年後のローマのヌーノ・マスカレーニャス師に宛てた書簡の中では「聖なるローマの都、教皇聖下、枢機卿の方々、カトリックの主立つ方々、並びに私がヨーロッパを旅した時に経験したそれらの方々の御恩顧と御慈愛との思い出を鮮やかにしまして、私の悦楽は決して小さなものではございませんでした。…デウス様のおかげを以て、常に健康であり、まだ気性も頑強でございます。…迫害は、毎日、毎時、少しの休養も私たちに与えません」と、感動的な日常を伝えている。三代将軍家光の時代になると、幕府の弾圧はいよいよ厳しく残酷なものとなり、寛永九年(1632)末、ついにジュリアンは北九州小倉で捕吏の手に落ち、長崎に護送されしばらく獄中で拷問にあった後、翌年十月十八日、七名の仲間と共に西坂の刑場に連行された。ジュリアンは、汚物に満ちた土穴の中へ身体じゅうを縛られた姿で逆さに吊るされ、すぐに死なないいように、耳たぶに穴を開けられ血をしたたせられる。この拷問にジュリアンは耐え、ようやく肉体の苦痛から解放されたのは四日目の二十一日だったという。こうしてジュリアンは使節の中でただ一人、殉教をとげたのだった。

中江 藤樹(なかえ とうじゅ)

学者(陽明学)。与右衛門。近江の出身。

藤樹先生
中江與右衛門惟命。近江人。
陽明王氏の学を好て栄利を脱落し。外慕を絶して徳化自然に人を間道し。近江の聖人と称し。豪傑多く其門に出つ。淵源右衛門。中川権左衛門。承及ふ処なり。其外此教に從ふ人は声名を求めざれば。伝へ聞事を得さる者多からん(『斯文源流』)

長尾 喜平次(ながお きへいじ) 一夢庵風流記

長尾政景の子。

長尾 為景(ながお ためかげ) 時代小説の愉しみ

越後国守護代。
上杉謙信の父。

長尾 政景(ながお まさかげ) 一夢庵風流記

坂戸城主。

長岡 藤孝(ながおか ふじたか) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

未資料

中臣 鎌足(なかおみのかまたり) (614〜669)

藤原氏の祖。代々祭祀を司る中臣氏の出で、鎌子とも称す。父は中臣弥気(御食子)。出生地については小墾田宮に近い藤原とされるが、常陸国とする伝承もある。中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒し、孝徳天皇の内臣として大津京遷都、近江令制定など、大化改新の諸事業を推進した。天智天皇八年(669)、藤原氏の氏寺興福寺の前身である山科(階)寺建立を発願したが果たせぬまま没した。臨終の席で、勅使大海人皇子から大織冠・内大臣、藤原の姓を許された。
遺骸は摂津阿威山に葬られたが、子の定恵により大和多武峯に移され、後に談山神社となる。国家の異変の度に、その神像が破裂し、墓所が鳴動するという伝承がある。(『舞の本』解説)

中方 将監(なかかた しょうげん) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

中方 平兵衛(なかかた へいべえ) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

中川 市郎兵衛(なかがわ いちろべえ) 捨て童子松平忠輝

『中川市郎兵衛書留』という資料を残している。

中川 清秀(なかがわ きよひで) 時代小説の愉しみ

荒木村重のいとこ。
織田信長により村重と共に滅ぼされる。

中川 清九郎(なかがわ せいくろう) 影武者徳川家康

忠吉に殉死。

中川 入道(なかがわ にゅうどう) 影武者徳川家康

未資料

中川の宮(なかがわのみや) 異説猿ケ辻の変

禁中における攘夷激派の抑え役。

長坂 十左衛門(ながさか じゅうざえもん) → 長坂 六兵衛信時(ながさか ろくべえのぶとき)

未資料

長坂 血鎗九郎(ながさか ちやりくろう) 

→ 長坂 信次(ながさか のぶつぐ)

長坂 信次(ながさか のぶつぐ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

血鎗九郎。直参旗本。長坂六兵衛信時の兄。かぶき者として名を馳せる。

長坂 六兵衛信時(ながさか ろくべえのぶとき) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

直参旗本。長坂血鎗九郎の弟。夏の陣で松平忠輝の行列に伊丹弥蔵とともに馬を乗りかけ制止されるも聞き入れず、逆に刀を抜いたため同家臣団に切り殺される。

中島 玄蕃(なかじま げんば) 一夢庵風流記

未資料

中島 式部(なかじま しきぶ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

豊臣家家臣。七組頭衆。

長束 正家(ながつか まさいえ) 

→ 長束 正家(なつか まさいえ)

中野 数右衛門(なかの かずえもん) 死ぬことと見つけたり

中野一門の長老。

中野 数馬(なかの かずま) 死ぬことと見つけたり

未資料

中野 神右衛門(なかの じんえもん) 死ぬことと見つけたり

未資料

長野 内蔵允(ながの くらのじょう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

近江代官。

中院 通勝(なかのいん みちかつ) 花と火の帝

中納言。細川幽斎の女聟。幽斎から古今伝授を受ける。

中院 通村(なかのいん みちむら) かくれさと苦界行、花と火の帝

無資料。

長橋局(ながはしのつぼね) 花と火の帝

官女。

長浜 惣右衛門(ながはま そうえもん) 死ぬことと見つけたり

未資料

中御門 宣衡(なかみかど のぶひら) 花と火の帝

大納言。

中御門 宗信(なかみかど むねのぶ) 影武者徳川家康、花と火の帝

硫黄島へ遠流。

中村 右近重勝(なかむら うこんしげかつ) 影武者徳川家康

徳島藩家臣。

中村 一氏(なかむら かずうじ) (?〜1600) 花と火の帝、柳生非情剣

豊臣政権の三中老。式部少輔。父は一政。中村忠一の父。
秀吉と同じ尾張・中村の出身と云われるが、はじめ滝孫平次と称していたことから、江州佐々木氏の庶流甲賀多喜の生まれで、甲賀二十一家の一つ滝家の出身という説もある。
永禄二年(1559)、父とともに織田信長に仕える。この時、一氏は小姓組に入った。永禄九年(1566)、秀吉付となり徐々に頭角を現す。一氏の名を高らしめたのは、信長の中国征伐における上月城の攻防戦だったといわれる。中国征伐の前線基地上月城を守る山中鹿介が、毛利・宇喜多勢五万の軍勢に囲まれ、秀吉率いる織田軍が救援に向うが、戦局は一進一退の膠着状態となった。この状況を打ち破ったのが一氏で、一氏の率いる一千の兵が、四百三十挺の鉄砲を馬上から連続して打ちかけ、敵の戦線を打崩したとされる。この当時、単発式の火縄銃で馬上から乱射するのは至難の技とされ、よほどの工夫がなければ出来なかった。また、秀吉が小牧・長久手の戦いを行った時には、その背後を紀州根来・雑賀の一揆衆から守るため、岸和田城を任されている。ここでも一氏は、攻め寄せる一万の一揆勢から城を守ったばかりでなく、その一揆勢を敗走させた。家康が関東に移封された後、その押えとして駿河十七万石を領するが、関ヶ原の時には、病に臥せっていて、息子の一忠が東軍に加わり領土を安堵されるも、その直後に病没した。(『歴史読本』1996年10月号所収志津三郎「中村一氏」参考)

中村 忠一(なかむら ただかず) 柳生非情剣

米子藩主。駿河城主中村一氏の嫡子。はじめ一忠と称していたが、伯耆守となり、米子に移封されたとき、松平姓を賜り忠一と改名した。

中山 勘解由(なかやま かげゆ)

直守。江戸城警護の先手組頭、のち大目付。
天和・貞享年間(1681〜87)、江戸市中には付け火(放火)が横行し、業をにやした幕府は町奉行所だけでは市中の治安が維持できないことから、天和三年(1683)、先手組頭の中山勘解由を「火附改」(火附盗賊改)の任につかせ、町方の盗賊・火付と疑われる者の逮捕を命じた。
『御当代記』に、「旧臘より正月に至て方々に付火致候、依之町々にも火の見せいろうをあげ、大屋役に此せいろうへ登り、付火之者をも見出し、又ハ付火にて燃たち候をも早速見出し、しめし候へとの事にて、壱町の町屋にせいろう二つづゝ揚申候、中山勘解由父子三人組与力同心ともに、火付見出し候やうに被仰付候ニ付、様々に姿をかへ江戸中へ入はまり、火付を見あらハさんと仕候」とあり、これらの役に当った与力同心たちは、現代の私服刑事のように民衆に混ざってその監視にあったようである。また「去年霜月廿八日・極月廿八日両日の大火事より正月ニ至二月迄毎日之火事、昼夜ニ五六度八九度之時も有、是皆附火也、依之中山勘解由を被仰付、火事場ニてうろん成ものをとらへさせらるゝ、又火事場に不限江戸中を組の与力同心を廻して、あやしきものをとらへさせらるゝに、あやまりてとらるゝもの夥敷事也、問諍つよくいわざるうちハ死るまでせむるゆへ、とても死するものゆへ火付ニなりても苦をのがれんと思ひ、火付ならぬものも火付と云、科人ならぬものも科人といふゆへ、科人多く人の損ずる事夥敷事也」とあり、さらに続けて「今町ニて男「だて」立といふもの有、かくじん(癌人)とも又とをりものともばくち打ともいふ、みな同じ類のもの也、然るにかのばくち打御せんさくニて、去ル時分多とられて新嶋へも被遣候」とあって、その過酷な取締りで江戸市中を震え上がらせた。
《瓢水の『一話一言』》
[中山勘解由と『捨て童子・松平忠輝』の奇妙な縁]
 貞享3年(1686)9月に大小神祇組の一斉取締りを行ない、花井主水正の甥の松下作右衛門を捕えたのは、火付改め(後の火付盗賊改め)の中山勘解由直守であった。勘解由が火付改めに任ぜられたのは天和3年(1683)1月であるが、当時は放火が社会問題になっていたようだ。勘解由はかなりの遣り手で、就任してわずか2ヶ月後の3月には、「放火の賊あまた捕へしをもて金五枚給ふ」(『徳川実紀』天和3年3月2日条)とある。
 八百屋お七を鈴ヶ森で火刑に処したのも勘解由であった。その情け容赦のない苛烈な仕事振りから“鬼勘解由”と恐れられ、『江戸真砂六十帖』に「この勘解由どのはおよそ三万人余、殺し申されし由」と記されたほどである(山田風太郎『切腹禁止令』、247頁)。
 ついでながら、この勘解由の祖父照守もまた、『捨て童子・松平忠輝』に縁があった。忠輝が伊勢朝熊から飛騨高山に移される際、そして飛騨高山から信濃諏訪に移される際に、警護の役を勤めていたのである(『寛政重修諸家譜』)。ちなみに、水戸徳川家の付家老として有名な中山家は、忠輝を警護した照守の弟信吉の代から始まっている。
【追記】中山勘解由のエピソードを三田村鳶魚氏が書いているので、紹介しておこう。「この勘解由は元来なかなかの仏者でありました。それが六方男立てのあばれ者どもを鎮撫する命を受けた時分に、すぐに仏壇をぶちこわして、今日からはもう慈悲では治らない、というので、少しでも風体の変な者は、取っつかまえて詮議もせずに斬ってしまった。それですから例の旗本奴・町奴の検挙を二度ほどやりまして、首尾よく鎮静させることが出来たといわれております」(『三田村鳶魚全集 第13巻』、119頁)。(2004年8月14日瓢水記)

中山 親綱(なかやま ちかつな) 影武者徳川家康、花と火の帝

権中納言。

(なき〜なん)

名古屋 山三郎(なごや さんざぶろう) (1571〜1603)

名護屋・那古屋・名越などとも書かれる。後名を九右衛門といい、織田氏の一族名越因幡守高久または敦順の二男で、母は信長の姪といわれる。はじめ蒲生氏郷に仕え、天正十八年十一月十五日の陸奥名生城攻略戦では一番槍の手柄を立てた。のち剃髪して宗円と号したが、慶長の初めに還俗。山三郎の妹於岩は大和大納言豊臣秀長の嫡子小一郎に嫁したが、小一郎が早世したため秀長の養女となり、信州川中島城主だった森忠政に再嫁した。その縁で山三郎も慶長五年、同家に禄高五千石で仕え、同八年三月、忠政が美作国へ移封したのに従った山三郎は、同年四月、同僚の井戸宇右衛門と院荘で刃傷となり殺された。享年三十二歳だったという。
山三郎の子隼人が三千石で森家に仕えたが、寛永年中に森家を去り加賀前田家に仕える。こうして、資料から明らかになるのは、名門嫡流としての名古屋山三郎で、後にお国との関係から無頼の傾奇者として描かれたのは虚構であるとされる。
しかし、名古屋山三が単なる名門出の武士だったわけではなく、その容姿は評判になるほどの男振であり、玉甫和尚が織田家墓所の大徳寺総見院で語った法語に「あるときは、太平の曲を唱い、花に座し、月に酔い、あるときは三尺の剣をひっさげて去往自在、ことの逆と順を商量すべくもない青年」とあるように、お国と関係づけられてもおかしくない風流を愛する傾奇者でもあった。また、公卿とも付合い女房上臈ばかりでなく、大坂城にあった淀殿とも浮名を流したともいわれている。
また、池田弥三郎氏は「井原西鶴」(『日本の古典』17)の注で「蒲生家滅亡後浪人となって「かぶき者」となり、お国に早歌を授けたという。当時、関白秀次の家来の不破万作とともに美少年の双璧と称せられた。のち美作の津山の城下で仲間と争ってころされたと伝えられている。しかし、実在したかどうかもあやしく、おそらく歌舞伎踊りの詞章、特に、ザザンザなどという囃し詞の中に、生れて、いかにも歴史上に実在した人物であるかのごとくに、創り出されてきた空想的な人物と考えられる」としている。

那須 俊平(なす しゅんぺい) 異説猿ケ辻の変

土佐藩郷士。真吾の養父。

那須 真吾(なす しんご) 異説猿ケ辻の変

土佐藩脱藩。土佐藩家老深尾家家臣浜田宅左衛門の二男。土佐藩郷士那須俊平の養子となる。

長束 正家(なつか まさいえ) (?〜1600) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、柳生非情剣

豊臣方大名。五奉行の一人。幼名を新三郎。幼い時から算術に長じ、得失を論ずるのを得意とした。初め丹羽長秀、長重に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。天正十三(1585)年には奉行の一人となる。文禄元(1592)年肥前名護屋城、同三(1594)年には伏見城の工事を分担。同四(1595)年、五万石で近江水口城主となる。秀吉死後、関ヶ原合戦では大坂に留まって秀頼の補佐と警護に当るとともに、三万余の大軍を率い伊勢路を越へ安濃津城攻撃に参加。安国寺恵瓊、石田三成らとともに西軍のために奮戦。西軍が敗れて、水口に帰城したが、池田輝政に攻められ桜井谷で自決。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)

夏目 吉信(なつめ よしのぶ) 時代小説の愉しみ

次郎左衛門。徳川家康家臣。
三方原の戦で討死。

鍋島 勝茂(なべしま かつしげ) 影武者徳川家康、花と火の帝、死ぬことと見つけたり

佐賀藩主。鍋島直茂の嫡子。
[逸話](『想古録』)
鍋島勝茂世子たりし時、其父直茂に乞ふて木下一平を貰ひ受け、召使はんとありけるに、直茂これを止め、乱世なればこそ我も彼をば使ひたれども、治世に使ひ得べき者に非ず、我すら斯く思ひ居るものを汝が使はんこと思ひも寄らず、と言はれしが、世子固く請ふて肯かざりければ、然らば武芸の稽古するとき二三回これを試みよと云はれたり、其後世子は射的の稽古に托し一平を試みけるに、毎も銃口を天に向つて打放てり、世子は其様を見兼ねて、何故に無駄玉を費すやと咎められしに、臣は戦場にて敵の胴中を射抜くことは知りたれども、板の端などを打つ法は知らずとて、益々空に向つて打放てり、世子頗ぶる気色を損じ、成るほど彼は自儘者なりとて召使ふことを見合せられけり(中島大助)
直茂の絶食して卒せられける時、一平父子の追腹切らんとする取沙汰頻りなりければ、世子之を惜み、侍臣を遣はして之を止めしけるに、一平慨然として長嘯し、勇士は子孫の計を為すの余地を有せざる者なり、殊に君臣の目の明かぬ世に長生するも無益なり、今より先君の手に附きて地獄の遠征を試むべきのみと冷笑ひ、頓て我児を顧みて、イザ汝も切るべし、早く埒明けよとて、父子座を並べて従容屠腹しけるとぞ(古賀穀堂)

鍋島 茂里(なべしま しげさと) 死ぬことと見つけたり

未資料

鍋島 忠茂(なべしま ただしげ) 死ぬことと見つけたり

鹿島鍋島二万石領主。鍋島直茂の次男。始め直房。小川家を相続し小川直房と名乗るも、後鍋島姓に復し、忠茂と名乗る。

鍋島 忠直(なべしま ただなお) 死ぬことと見つけたり

鍋島勝茂の四男。

鍋島 伝兵衛(なべしま でんべえ) 死ぬことと見つけたり

未資料

鍋島 直茂(なべしま なおしげ) (1538〜1618) 影武者徳川家康、死ぬことと見つけたり

幼名彦法師、元服して孫四郎、信安、信生。加賀守。鍋島駿河守清房の子として肥前本庄に生まれる。母は龍造寺家純の女。はじめ千葉胤連の養子となるが、鍋島家に戻り、龍造寺隆信に近侍し各所に転戦した。天正十二(1584)年の島原合戦で隆信が戦死すると、その子政家を補佐して国政に参与。次第に諸将の声望を獲得、人気・実力とも政家を凌いだ。天正十八(1590)年、病で政家が隠退すると、豊臣秀吉の許しを得て龍造寺家を継ぐ。文禄・慶長の役では朝鮮に渡海、奮戦する。秀吉の死後、井伊直政を通じて家康に通じ、関ヶ原合戦では筑後に出陣、東軍に味方し、佐賀藩三十五万石の基礎を築いた。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
[逸話](『想古録』)
鍋島直茂は雷を嫌ひ、雷鳴の時は近侍の士に命じて数枚の布団を重ね掛け、上より掩ひ押へて護らしめたり、然るに身に兵器を執りて戦陣に臨む時は、雷を畏るるの色少しも無く、却て雷鳴の夜に敵の不意を襲ふて勝利を得られたること屡々ありき、名将の戦場に臨む時は、其感情、思想総て平素の範囲外に出る者と見ゆ(満岡仁之助)
[名言名句]
「我が気に入らぬ事が我が為になるなり」(『名言名句活用事典』)

鍋島 直澄(なべしま なおずみ) 死ぬことと見つけたり

勝茂の五男。

鍋島 直朝(なべしま なおとも) 死ぬことと見つけたり

勝茂の九男。正茂の嗣子。

鍋島 直與(なべしま なおとも) 死ぬことと見つけたり

未資料

鍋島 正茂(なべしま まさしげ) 死ぬことと見つけたり

孫平太。忠茂の嫡子。鹿島鍋島当主。

鍋島 正恭(なべしま まさやす) 死ぬことと見つけたり

正茂の嫡子。

鍋島 光茂(なべしま みつしげ) 死ぬことと見つけたり

鍋島忠直の嫡子。
《瓢水の「一話一言」》
[米の飯が大好きだった鍋島光茂]
 エッセイ「米の飯」で「米の飯がなによりも好き」(『時代小説の愉しみ』、講談社文庫版。42頁)と書いた隆先生であるが、隆先生に負けず劣らず米の飯が大好きだった意外な人物がいる。『死ぬことと見つけたり』の敵役・鍋島光茂である。元禄期の江戸の噂話を書き留めた『元禄世間咄風聞集』(岩波文庫)から、光茂が米の飯を好んだ話を拾ってみよう。
 「丹波守様(注:光茂)朝夕之御食御かけさせ被召上候へば、壱度に七百目上りよし」(49頁)。光茂は朝夕に食べる米の飯を、きっちり700目(約2,600g)量って食べていたのである。家老が「食事が愉しみなのは判りますが、そのように量って、一度にたくさん召し上がらなくても……」と諌めても、変わらなかったと云う。
 また、船で長崎に向かった途中で大風に遭い、ほうほうの態で到着した際、家臣が食事を出そうとしたが、食料を積んだ台所船が見当たらなかった。光茂が「米はあるか」と問うと、「米ならございます」との返事。そこで、「壱度に一升五合(注:約2.7リットル)被召上候由」(50頁)。単に大食漢だったのか、それとも米の飯にこだわりがあったのか……。(2004年4月26日瓢水記)
[鍋島光茂は古今伝授を受けていた!]
 『死ぬことと見つけたり』で陰険にして執拗、どうしようもない若殿として描かれた鍋島光茂であるが、幕府の受けは良かったようだ。元禄年間、幕府が諸国に隠密を放って集めた情報をまとめた『土芥寇讎記』では、「光茂、生得才智発明也。文武ヲ不学バドモ、行跡正シク、大様ニ、諸事大度ニシテ(中略)私欲貪リノ意地ナク、誠ニ大名風也。能ク義理ヲ正シ、淳直也」「法ヲ守リ、或ハ歌道ヲ好ミ、旧記・記録ヲ集メテ披見ス。行跡静ニ穏順ヲ旨トシ、政道万事家臣ト談シ、家士ヲ哀憐シ、民ヲ撫育ス。誠ニ主将之器ニ足レリ」と、ベタ褒めである(田中耕作『初期の鍋島佐賀藩』、194頁)。
 どうやら勝茂死去の前後から、徐々に藩主としての器量を上げたようであるが、それとは別に、勝茂に禁止された歌道も精進を続けた。死去の直前には、武家では細川幽斎に次いで2人目の古今伝授を、病床で受けているのだ(前掲書、152頁。191頁)。
 幕府の受けも良く、三支藩も「三家格式」で統制し、歌道でも最高の栄誉を受けた光茂という男は、はなかなかにしたたかな人物だったように思える。
【追記】光茂は、元禄13年(1700)に国元の佐賀で死去しています。享年69歳。佐賀で古今伝授を受けたと思われますが、どのような経緯で誰から授けられたか等の詳細については判りませんでした。ご存知の方がおられましたら、是非ご教示下さいませ。 (2004年5月31日瓢水記)

鍋島 茂貞(なべしま もちさだ) 死ぬことと見つけたり

隼人佐。神代領主。

鍋島 元茂(なべしま もとしげ) 死ぬことと見つけたり

勝茂の長男。小城鍋島二万三百石。

鍋島 元武(なべしま もとたけ) 死ぬことと見つけたり

未資料

菜生 勘兵衛(なまお かんべえ) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

観音寺別当。

並河 九兵衛(なみかわ きゅうべえ) 死ぬことと見つけたり

唐津藩士。「天草の乱」で討死。

成田 勘兵衛(なりた かんべえ) 影武者徳川家康

大野治房の家臣。

成田 五兵衛助直(なりた ごへえすけなお) 駆込寺蔭始末

未資料

成田 佐吉(なりた さきち) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

成瀬 隼人正(なるせ はやとのかみ) 

→ 成瀬 正成(なるせ まさしげ) 

成瀬 正成(なるせ まさしげ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣

大御所家臣。隼人正。父成瀬正一。
成瀬家は三河譜代に属していたが、父正一の時にいったん三河を離れ、姉川の合戦で再び家康に仕えた帰り新参。正一は家康の甲斐経営にあたって甲斐奉行として活躍し、関東入国後は二千百石の旗本として代官職を勤めた。正成はその正一の長男であったが、家督は四男正勝が継ぎ、正成は幼少から家康に近侍して別家をたてていた。
関東入国後、下総栗原に四千石を賜わり、家康に属して駿府に移り、本多正純とともに駿府の老職として活躍した。慶長十二年(1607)、家康の九男義直(尾張徳川家)の付家老となり、義直の養育に勤めた。

南条 中務大輔忠成(なんじょう なかつかさだいゆうただなり) 捨て童子松平忠輝

大坂方牢人。

難波 宗勝(なんば むねかつ) 影武者徳川家康、花と火の帝

伊豆へ遠流。

南部 利直(なんぶ としなお) 捨て童子松平忠輝

陸奥盛岡城主。

南部 信直(なんぶ のぶなお) (1546〜1599) 一夢庵風流記

彦三郎。大膳大夫。従四位下侍従。新羅三郎義光の後裔南部左衛門尉高信の子として生まれる。宗家南部晴政が天正八(1580)年に没し、つづいて嗣子晴継も夭折したため、信直は晴継の養子となり宗家を継ぐ。
はじめ田子城にいて、田子九郎と称した。天正十四(1586)年、前田利家の許に使いを送り、斡旋を請うて豊臣秀吉に属す。同十六(1588)年、秀吉の命により駿馬十疋を献じる。この年、津軽為信が叛旗をかかげ、南部の一族九戸政実も信直に叛く。信直は、その子利直と共に秀吉に謁し、征討を訴えたが聞き入れられず、涙をのんで帰國。しかし、天正十九(1591)年、政実が宗家を奪い取ろうとはかったため、再度秀吉に訴え出た。こうして、蒲生氏郷を先鋒として九戸討伐が行われた。後、信直は九戸城を改築、福岡城と名付け移り住む。三戸城には子の利直が居した。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)

南竜公(なんりゅうこう) 

→ 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)

(に〜ね) 

二階堂 貞慶(にかいどう じょうけい) 駆込寺蔭始末

松岡御所役所代官。

仁木 長宗(にき ながむね) 見知らぬ海へ

向井正綱の祖。
足利四代将軍義持より伊勢国向庄を賜り向井の姓を名乗る。

仁木 義長(にき よしなが) 見知らぬ海へ

源実国より五代目。北畠氏の水軍の将。

西尾 仁左衛門(にしお じんざえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

松平忠昌家臣。
「大坂夏の陣」で、真田幸村の首を取る。

西洞院 時慶(にしのとういん ときよし) (1552〜1639) 花と火の帝

公卿。飛鳥井家の出身で、1564年河(川)鰭(かわばた)家を相続し、ついで1575年西洞院家をつぐ。左少将から累進し、従二位参議・右衛門督にいたる。
彼の日記『時慶卿記』は、秀吉・家康・秀忠の時代を活写したものとして貴重な資料となっている。

西待 弓削右衛門(にしまち ゆげえもん) 死出の雪

明石藩士。生田伝八郎の妹聟。

西村 次郎兵衛(にしむら じろべえ) 死ぬことと見つけたり

未資料

西村 利之丞(にしむら としのじょう) 死ぬことと見つけたり

未資料

西村 利右衛門(にしむら りえもん) 死ぬことと見つけたり

未資料

二条 昭実(にじょう あきさね) 花と火の帝、捨て童子松平忠輝

関白。

二条 晴良(にじょう はるよし) 影武者徳川家康、時代小説の愉しみ

公卿。義演准后の父。

二条 康道(にじょう やすみち) 花と火の帝

内大臣。妻は後水尾天皇の皇妹。

荷田 在満(にだ ありみつ) 花と火の帝

無資料。

二宮 幸勝親王(にのみや ゆきまさしんのう) 

→ 幸勝親王(ゆきまさしんのう)

女一宮(にょいちのみや) 花と火の帝

後水尾天皇と和子の間の子。興子内親王(後の明正天皇)。
→ 明正天皇(めいしょうてんのう)

韮塚 理右衛門(にらつか りえもん) 一夢庵風流記

未資料

仁礼 景範(にれ かげのり) 

→ 仁礼 源之丞(にれ げんのじょう) 

仁礼 源之丞(にれ げんのじょう) 異説猿ケ辻の変

薩摩藩士。誠忠組志士。

丹羽 忠明(にわ ただあき) (1659~1741)

十郎左衛門。関宿藩士。
禅・儒・老荘に造詣が深く、多くの著作をものした。
代表作に『田舎荘子』、『天狗芸術論』などがある。

丹羽 長秀(にわ ながひで) (1535〜1585) 影武者徳川家康、風の呪殺陣

少時より織田信長に近侍し、信長が京に入ってより後は、明智光秀らと共に信長の老臣として庶政にあずかった。近江佐和山城主となり五万石を領した。天正十(1582)年、四国征伐のため織田信孝を奉じて大坂から出軍しようとした時、本能寺の変が起り、明智光秀の聟の信澄を大坂城に襲って殺した。ついで秀吉と協力して山崎の一戦で光秀を破り、以後秀吉と同盟。のちに、秀吉に属して越前・若狭両国と加賀半国を与えられた。しかし、秀吉が信雄を退けて盟主となったことを喜ばず、晩年、割腹自殺して果てた。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)

庭田 重定(にわた しげさだ) 花と火の帝

中納言。

根来 金石齊(ねごろ きんせきさい)

詳細不明。
小田原北条家に鉄砲を齎した根来衆の一人と言われる。根来衆が齎した鉄砲は河越城攻撃にも使われたとされるが、確たる資料はない。天文七年(1538)の房総攻めにおいて軍配者(作戦指導の大将格)となる。

(の〜のん)

野方 甚右衛門(のがた じんえもん) 柳生非情剣

柳生の故老。

野尻 久兵衛(のじり きゅうべえ) 見知らぬ海へ

未資料

野末 市之進(のずえ いちのしん) 鬼麿斬人剣

野末頼母の長男。

野末 頼母(のずえ たのも) 鬼麿斬人剣

高崎藩勘定家老。
清麿が造った一本目の数打ちの刀を所持。

野末 悌二郎(のずえ ていじろう) 鬼麿斬人剣

野末頼母の二男。

野取 内匠(のとり たくみ) 吉原御免状

柳生藩江戸家老。柳生家随一の策士といわれる。

野中 三五郎重政(のなか さんごろうじげまさ) 見知らぬ海へ

未資料

野々村 伊予守(ののむら いよのかみ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

豊臣家家臣。七組頭衆。

野々村 四郎右衛門(ののむら しろうえもん) 吉原御免状、影武者徳川家康

徳川家使番。
関ヶ原で甲斐の六郎に斬られる。
『徳川実記』記載の家康近従。関ヶ原の戦いで使番となり、家康が桃配山から移動する際、家康の馬前に馬を乗りかけ家康の怒りをかったと板坂ト斎もその著『ト斎記』に記している。

野々山 新兵衛兼綱(ののやま しんべえかねつな) 死ぬことと見つけたり

目付。

野村 玄意(のむら げんい) (?〜1686) 吉原御免状、かくれさと苦界行

六字流。吉原新町真字(まんじ)屋当主。
一橋如見斎に六字流刀術を学び、その技は達人の域に達する。吉原首代の頭領として警備の責任者であり、誠一郎の警護の責任者でもある。
かくれ里一掃のため大坂新町の傾城屋に向かう途中、鈴鹿越えの道でお館さまこと荒木又右衛門に切り殺される。
「一、新町野村玄意はそのころ隠れなき柔気一流の名人。市橋恕齊の弟子にて、宮本氏とも昵懇なり」と『青楼年暦考』(庄司家家譜)にある。
父は野村喜右衛門。妻は庄司甚之丞の女かね、子に小左衛門がいる。父喜右衛門は江州出身で、庄司甚右衛門の妻の甥に当たるという。

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