人名事典『か』

人名(か〜かと)

加賀爪 甲斐守(かがつめ かいのかみ) 吉原御免状

直澄。高一万石の旗本。
神祇組一番の乱暴者。吉原で誠一郎に恫喝の意味で剣を振り、何なく躱される。
『御当代記』に「延宝九辛酉之年二月九日、加賀爪甲斐守(直澄)を松平土佐守に御預ケ、子息加賀爪土佐守(直清)を石川若狭守(総良)に御預ケ、是ハ厳有院(徳川家綱)様御加増被下候知ニ高之外余地候つるを不存振にて年貢を受納仕候ニ付て也、此儀に付而御代官伊奈左門(忠利)を上杉弾正(綱憲)に御預ケ也」との記述がある。これは家綱から加増された知行地の石高が、公表よりも多かったにも拘わらず、直清が知らぬ振りをしてそこから上がる年貢を受領していた事が幕府に知れ、処分を受けた記述で、不祥事を起したのは養子である土佐守直清だったが、隠居していた養父直澄も連座して罰を受けている。この時、直清は遠江掛塚領一万三千石を没収された。
埼玉県東松山市の高済寺に「加賀爪氏塁代の墓」が有る。

加々爪 忠澄(かがづめ ただすみ) 死ぬことと見つけたり 

民部少輔。大目付。

加賀井 弥五郎(かがのい やごろう) かぶいて候

加賀井弥八郎の孫。医者。

加賀井 弥三郎(かがのい やさぶろう) かぶいて候

加賀井弥八郎の孫。弥五郎の兄で、江戸城中で家光を襲って水野成貞に捕えられ、舌を噛み切って死んだ。

加賀井 弥八郎(かがのい やはちろう) (?〜1600) かぶいて候

美濃国羽島郡加賀井(加賀野井・加賀野江・加賀江などとも書いた:現岐阜県羽島市下中町加賀之井)城主加賀井駿河守為宗の次男。弥八郎重望と称し、父が明智光秀に仕えた事から、光秀から一字を賜り秀望とも名乗った。天正十二年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄とが対立した際(いわゆる小牧・長久手の戦)に、信雄方に加担して同年五月七日、秀吉の大軍に攻め落とされたが、『関原軍記』に「既に落城の節、弥八郎は数万騎の敵の中を切り抜けて落ちける早業の勇士也。太閤其の勇猛を感じ、江州に有りけるを求め出して本知壱万弐千石を給はる」と書かれているように、その後、秀吉に仕えた。
関ヶ原合戦の直前、「石田三成は、何卒内府を失ひ奉らんと思ひ、幸ひ弥八郎とは入魂なれば」(『関原軍記』)と、江戸城へ使者に遣わし、家康を刺殺しようと謀る。その東下りの途次、七月十九日、三河国池鯉鮒で、同国苅屋城主水野忠重が越前国府中城主堀尾可晴を饗応する宴に列することになる。その席で闘諍となり、弥八郎は忠重を刺殺、その弥八郎を可晴が斬殺した。(『好色一代男全注釈』)
また、松田修氏は『日本近世文学の成立ー異端の系譜ー』の中で、『好色一代男』に出てくる加賀の八を「名古屋山三郎と同平面に並置されたことによって、関ヶ原戦役前夜非命に死んだ加賀江(加賀野江)弥八郎がこれにあたるであろう。私の推測によるかぎり、当時すでに神秘のヴェ−ルに包まれつつあった。伝説的な人格にまで高まりつつあった。上層武士、上層かぶき者の一人が、加賀の八、本名加賀江弥八郎なのである」と述べているという。
『かぶいて候』では、この池鯉鮒の事件を江戸からの帰途としている。
『関原軍記』に加賀井弥八郎の記述あり、参照ください。

影山 三十郎(かげやま さんじゅうろう) 吉原御免状

直参旗本。神祇組。裏柳生の間者。
裏柳生の内通者。水野十郎左衛門を斬ることを命じられるが失敗し裏柳生の手で残殺される。

笠原 康明(かさはら やすあき) (生没年不詳)

藤左衛尉。越前守。岩付城代。小田原城評定衆。奉行人。
笠原氏は伊豆国出身で、早くから早雲に仕え、小田原北条氏の重臣となった。初代小机城城代笠原信為の孫に当ると推定される。氏康から一字を拝領し、氏康の側近衆の一人。小田原城の御馬廻衆の一員で、奉行衆、評定衆を務める内務官吏として重きをなした。のち岩付城(埼玉県岩槻市)の城代を務める。

花山院 定煕(かざんいん さだおき) 花と火の帝 

右大臣。

花山院 忠長(かざんいん ただなが) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

公家。傾奇者。少将。松前へ遠流。

梶 市之助(かじ いちのすけ) 影武者徳川家康

十兵衛の弟。洗礼名バルトロメオ。三河譜代。『日本切支丹宗門史』には、家康の小姓だったがキリシタンであったため兄十兵衛とともに追放処分となるとある。

梶 十兵衛(かじ じゅうべえ) 影武者徳川家康

十郎兵衛。洗礼名ヨハキム。三河譜代。家康の小姓であったが、大八事件を期に起きたキリシタンへの厳しい取締りにより、財産を没収された上、駿府から追放された。(『日本切支丹宗門史』)

梶 清次右衛門(かじ せいじえもん) 異説猿ケ辻の変

水戸藩士。

梶川 平三郎(かじかわ へいざぶろう) 捨て童子松平忠輝

山田長門守の側近。 

勧修寺 伊豊(かじゅうじ ただとよ) 影武者徳川家康 

右大弁。
藤原北家高藤流の系譜を引く公家。冬嗣の孫の高藤の子定方が、母方の建てた勧修寺を氏寺としたのに始まり、その後吉田家より坊城家が分かれ、定資の次男経顯が勧修寺を名乗ったのに始まる。

勧修寺 晴豊(かじゅうじ はるとよ) (1544〜1602) 一夢庵風流記、花と火の帝、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ 

公家。勧修寺晴右の嫡男。従五位上から累進し、権大納言、従一位准大臣にいたる。
信長・秀吉時代に武家伝奏を勤めた。
天正十年(1582)夏、正親町天皇の勅使として安土の織田信長と会見。これは朝廷から天下人となった信長に、関白あるいは征夷大将軍の地位を授ける旨の意向があるとの申し入れで、信長から丁重なもてなしを受けるが、何の返答ももらえず京に引き上げた。

勧修寺 光豊(かじゅうじ みつとよ) (1575〜1612) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

参議。武家伝奏。准大臣勧修寺晴豊の子。
天正十一(1583)年、元服して従五位上左衛門佐に叙任。以後官位累進を重ね、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの際には、右大弁・参議として権大納言広橋兼勝とともに大坂城に遣わされ、豊臣秀頼に徳川家康との講和を要請する。慶長八(1603)年より武家伝奏となり、後陽成天皇譲位の際は朝幕間の周旋に奔走。慶長九(1604)年に権中納言、慶長十一(1606)年に正三位、慶長十七(1612)年には従二位権大納言に進む。同年十月二十七日、38歳で没。

梶原 景宗(かじわら かげむね) 見知らぬ海へ 

無資料。

梶原 助兵衛景俊(かじわら すけへえかげとし) 影武者徳川家康 

加藤清正家臣。

梶原 兵部大夫(かじわら ひょうぶだいふ) 見知らぬ海へ 

北條水軍船大将。熊野水軍出身。

春日 元忠(かすが もとただ) 一夢庵風流記 

最上の戦い上杉軍第一軍。

加瀬 一太郎(かせ いちたろう) 死ぬことと見つけたり 

無資料。

加瀬 市之進(かせ いちのしん) かぶいて候

水野成貞の用人。成貞の父勝成の福山藩江戸屋敷で勘定方の下役をつとめていたが、成貞が屋敷を拝領するとそこを辞して成貞の用人となる。

片岡 十右衛門(かたおか じゅうえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

大阪城と運命を共にする。

片桐 市正(かたぎり いちのかみ) 

→ 片桐 且元(かたぎり かつもと)

片桐 且元(かたぎり かつもと)(1556〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

東市正(ひがしいちのかみ)。弘治二年、近江国須賀谷に生まれる。幼名を助作といい、通称を役名の東市正から市正と呼んだ。初名が直盛。幼くして秀吉に仕える。賤ヶ岳七本槍の一人として三千石を与えられる。追賞、本知を加えて播磨一万石を領す。天正十二(1584)年、小牧の役に従軍。京都、方広寺大仏殿工事奉行。九州・小田原に従軍。文禄三年には伏見城の工事を分担。慶長三(1598)年、醍醐の花見の時は、秀吉側近で信長の女三九殿に随従したという。関ヶ原合戦の後は、徳川家康の推薦で豊臣秀頼の家老、茨木の城主となった。秀吉没後、方広寺鐘銘問題がこじれて、淀殿らとの不和を招き大阪城を脱出。大阪の陣で徳川につき一万二千石が加増され大和国竜田四万石を領した。しかし、孫の為次に子が無かったために改易、片桐家は断絶した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
且元は元和元年(1615)五月、大坂落城の直後に駿府で没し、丸子の誓願寺に葬られた。

片桐 主膳正(かたぎり しゅぜんのかみ) 

→ 片桐 貞隆(かたぎり さだたか)

片桐 貞隆(かたぎり さだたか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記 

主膳正。片桐且元の弟。

片倉 小十郎(かたくら こじゅうろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

伊達家家臣。
[逸話](『想古録』)
伊達藤五郎と片倉小十郎とは伊達政宗の両腕なり、此の両雄の戦場に臨むときは、先づ強さうなる敵と槍を合せ、敵の弱りたるときは之を部下のものに任せて更に他の敵と鉾を交へ、此くの如くして次第に歩を敵陣に進めければ、戦ふ毎に勝利を収めたり、他の将士は一たび敵と相争ふときは、其首級を取ることを目的とせしゆゑ、往々手間取りて後れを取りけるが、右の両人は首級などには目を懸けず、直前敵鉾を挫ぐことを主とせしゆゑ、全局面の勝利は毎も此の両雄の手に落ちけるとぞ、一方面の大将たるものは斯る器量を有し居らざる可らず(斎藤竹堂)

片田江 金左衛門(かただえ きんざえもん) 死ぬことと見つけたり

無資料。

勝 海舟(かつ かいしゅう) (1823〜1899) 異説猿ケ辻の変、鬼麿斬人剣

安房守。義邦。通称麟太郎。旗本。本所亀沢町に勝小吉の長男として生まれる。
十六歳で家督を継ぎ、禅を学ぶ傍、剣術にも精を出し、二十一歳の時に島田虎之助から免許皆伝を受ける。弘化元年(1844)、佐久間象山をたずね教えを乞い、その縁で海舟の妹は象山に嫁いだ。海舟自身は、幕臣岡野孫一郎の養女民と結婚し、蘭学者永井青崖の門を叩いて蘭学を学んだ。この頃の海舟の生活は苦しく、病弱な母とまだ幼い妹達を養っていかなければならず、縁側の板や柱を削って煮炊きを行うほどで「困難ここにいたる」状態であったと自らの日記に書いている。蘭学を学ぶとはいえ、高価な辞書を購入することなどできず、オランダ語辞典『ヅーフ・ハルマ』を借り、二部筆写して、一部を売却して生活費にあてたという。
嘉永六年(1853)、ペリーの艦隊が浦賀に現れた年、海舟は人材登用・下意上達の道を開き、海防の整備・兵制の改革・旗本の窮乏救済・貿易の利益を海防に充当させるなどの案を上申した。これに目をとめた異国応接掛大久保忠寛(一翁)が海舟を推挙し、異国応接掛・手附蘭書翻訳御用に任用される。時に海舟三十三歳。やがて長崎海軍伝習所の生徒監に任じられ、オランダ海軍中尉カッテンダイケのもとで、生徒と共に航海・造船・算術・砲術・船具・蒸気機関等を学ぶ。この時、薩摩の島津斉彬を訪ね知遇を得たことが海舟のその後に大きな影響を及ぼした。三年半の伝習を終えて江戸に戻った海舟は、江戸に新しく開かれた海軍操練所の教授方頭取に任命され、万延元年(1860)、咸臨丸で日本人の手で始めて大平洋横断の航海を行う。この時、海舟は妻に「ちょっと品川まで往ってくらあ」と言い残しただけで品川を出航し、一ヶ月余の航海でアメリカ・サンフランシスコに着いている。福沢諭吉も参加したこの航海で海舟がアメリカ社会に接したことも、海舟の政治思想や行動に大きな影響を与えた。帰国後、肥後藩士横井小楠と出会い、意気投合した事が海舟と坂本竜馬を引き合わせた。
文久二年(1862)軍艦奉行並に任命され海軍の重要性を説く海舟の元に一人の青年坂本竜馬が現れる。竜馬は海舟が小楠とともに「暴論」(開国論)を吐いていると聞いて、場合によっては斬殺するつもりで訪れたのだったが、海舟の海軍論を聴き、驚くと共に心服し、以後竜馬は海舟の片腕となって行動する。翌年、海舟は神戸海軍操練所を創設、日本国の海軍をつくる構想を実現させようとしていたが、幕府の子弟に限らず西南諸藩などの子弟にも門戸を開放したため、保守的な幕閣の嫌疑を受け、神戸操練所は一年半で閉鎖される。この事が坂本竜馬の「海援隊」や薩摩の海軍に逆に力をつけさせ、倒幕運動に拍車がかかったことは、歴史の皮肉ともいえる。その後海舟は、明治維新の一方の当事者として目まぐるしい情勢の変化に巻き込まれながら、江戸城無血開城を成し遂げる。
明治二年(1869)、海舟は安芳と改名し外務大丞、兵部大丞に任ぜられ、明治五年には海軍大輔になった。しかし、明治十年に西南戦争が起こり、盟友であった西郷隆盛が死に、翌年には大久保利通も暗殺され、まだ五十六歳だった海舟は政治の現場から退いた。
引退後の海舟は赤坂氷川町の屋敷で、わがまま勝手な生活を送る。朝は床に入ったまま新聞を読み、家人に紙と硯箱をもってこさせメモを取り、午前中の来客が有るまで床から出なかった。尿意を催すと、厠に行くのが面倒だと縁から庭に放尿したという。また、家人が庭の手入れをすると「虫の住処がなくならあ」といって止めさせ、雑草が繁るにまかせるなど一見ぐうたらな生活を送っているかのようだが、来客はひっきりなしで二三時間も話し込む事がしばしばあった。しかし、虫の居所が悪いと、すぐに「出ていけ」と怒鳴り、ぐずぐずしている客には「出ていかなねェなら掃き出してやらあ」とベランメエ口調で応対する。分別のある老人とは思えぬまるで餓鬼大将のような振舞であったという。さらに女性にもマメで、妻女民の他、増田糸、梶久、小西かね、香川豊ら四人の女性に五人の子供を生ませ、民の生んだ四人と合わせ計九人の子をもうけている。その糸がリウマチで胸の痛みを訴え抱けないと、「糸や、おめーの代りを捜さなくちゃいけねえなあ」とか「この工合じゃァ、己もなかなか死ねねーよ」と七十六歳の時に言っているほど、老いてもなお精力に溢れていた。
明治三十二年(1899)一月、脳出血で倒れ「これでおしまい」という言葉を残して死んだ。七十七歳。
[名言名句]
「世の中は平穏無事ばかりではいけない。少しは不平とか、不足とか騒ぐもののあるほうがよい。これも世間進歩の一助だ」
『氷川清話』の中の一節。(『名言名句活用事典』)

勝 小吉(かつ こきち) 鬼麿斬人剣

旗本。男谷平蔵の三男。勝元吉の養子。勝海舟の父。
小吉の祖父は越後国刈羽郡長鳥村の農民の子で、生まれつきの盲人であったため江戸に出て検校になり、米山検校銀(正しくは金篇に良)一と名乗った。銀一は金貸で三万両を貯え、旗本男谷家の株を買って末子平蔵に男谷家を継がせた。小吉はその平蔵の三男で、旗本勝元良の養子になり、その女信と結婚し男谷家に住んでいた。
そこで生まれた小吉と信の間の子が勝海舟である。

勝山 大蔵(かつやま だいぞう) 死ぬことと見つけたり 

龍造寺政家の弟。

桂 小五郎(かつら こごろう) 異説猿ケ辻の変

長州藩士。

加藤 明成(かとう あきなり) 駆込寺蔭始末

加藤嘉明の嫡子。会津若松四十万石大名。

加藤 数馬(かとう かずま) 影武者徳川家康 

武蔵屋伊兵衛の本名。伊達藩旧臣。
→ 武蔵屋 伊兵衛(むさしや いへえ)

加藤 清正(かとう きよまさ) (1562〜1611) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、花と火の帝、柳生刺客状 

熊本藩主。永禄五(1562)年、尾張国愛知郡中村に生れる。母は豊臣秀吉の生母の叔父姉妹。慶長十六(1611)年六月二十四日没。享年五十一。
通称を虎之助。幼い頃から秀吉に仕えた。天正十一(1583)年賎ヶ岳の戦いの「賎ヶ岳七本槍」や文禄・慶長の役の蔚山の戦いなど数々の軍功をあげ、武名をとどろかせた。天正十三(1585)年には主計頭に任ぜられ、肥後半国の熊本城主となった。関ヶ原の戦いでは徳川方に属したが、秀吉に対する旧恩から豊臣家との関係も断たなかったという。自ら木やりを謡って大石を曳いた名護屋城築城や、治水、干拓工事でも名を残す。晩年、論語を読み、民政に尽力した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
矢切止夫氏によれば、清正は7歳のときから8年間、安土城を作り城普請の名人といわれた宮大工岡部又右衛門に奉公していたという。(『武将意外史』参考)
[逸話](『想古録』)
文禄二年、明国と和成りて外征の諸将朝鮮より引揚げ来るとき、豊公名護屋の本陣に在りて遠眼鏡にて各船の模様を望まれけるに、加藤清正の船印建てたる船舶に、周囲一尺余りもあるべき大竹を夥しく積来れり、豊公これを怪み、彼の竹は何の用とて持帰りしやと尋ねられしに、清正答へて、何か土産に奉つるべき珍品をと思ふ折柄、偶ま某所にて、瓦も柱も壁もなく、唯だ竹のみを用ゐて造作したる人家を見受けたれば、此を御国にて流行する茶席にも用ふるならば、一層の雅趣を添るならんと存じ、其の最も大いなる者を伐採りて持参仕りぬと言上せり、豊公大いに笑はれ、平生風流の嗜みなき其方には可笑しきことなり、と云はれたり、其後公は其竹を以て小さき茶室を造り、又徳川、前田、蒲生等の人々へも所望に応じて贈られけるが、跡にて能く聞けば、其竹の内には節を抜去りて、分捕りたる沙金を密かに詰来りたるもの多かりしとぞ、熊本城は構造堅固にして、之を築くに莫大の費用を掛けたること、云ふまでも無し、清正が差したる富あるに非ずして、容易に此の堅城の工事を完成したること、全く此の大竹中に隠れて、朝鮮より渡来せし沙金其物の助けにて成れりと云ふ者あり、是に由て之を観れば、清正は虎を搏ち鬼を斃すの勇ありしのみならず、財政経綸の材ありたる名将と謂ふべし(蓮沼顕蔵)
加藤清正は書を善くし、筆勢頗ぶる遒勁なり、関防には銅印を用ゐ、天宝銭の外廓を除きたる程の大さにて、「履道応権」の四字を刻す、唐人の鉄筆に由て刻されたる者なりと云へり、毛利元就も亦書を善くし、筆勢雄麗にして一見非凡の書たるを知るに足る者ありと云ひ伝ふ、古英雄が山闘野戦の奔馳に忙しきに拘はらず、風流文字を弄するの余裕ありしは、感称せざるを得ず(落合敬助)
本妙寺に加藤清正の「御側日記」と題する珍籍あり、之を積重ねたる高さは、三尺もあらんかと思ふほどなる大部の写本なり、清正、朝鮮征伐の時の事など委しく記載しありて、壱岐の勝本を出帆せしより、朝鮮の釜山浦に至る間に於て、主従相集まりて連歌せしことなど記載せありと云へり、万里遠征の海上に於て此の風流洒落の余興あり、其将士の胸中に綽々たる余裕ありしこと、瑣細なる此の一事を見ても想ひ知らるるなり(池辺、服部)
雲州の藩士に加藤清正の句読を切りたる「論語」を持伝ふる者あり、処々に汚点破損の痕跡あるは、猿猴の穢したる者なりと云へり、清正が常に「論語」を服膺せしとは世に伝ふる所なれども、此書存して其説の虚構ならざるを知るなり(大爺円次)清正常に曰く、我若きとき前田利家に、「論語」ほど有難き書は無きゆゑ必らず之を読むべしと勧められしが、近ごろ読ましめて之を聞くに、実に難有書なりと、蓋し純粋無垢なる耳目に初めて聖人の説の入る者なれば、無量の感想を起したるも、敢て道理なきことに非ざるなり(松本来蔵)
(『見聞談叢』)
[加藤清正・小西行長天草一揆鎮定]
○太閤佐々成政が国を治るの道にそむき、庶民の望を失ふことをせめられて、遂に自殺す。こゝにおゐて太閤肥後を二つにわけて、加藤主計頭清正、小西摂津守行長をほうぜらる。行長の領分あまくさに一揆おこりければ、行長が居城宇土よりあまくさにはせ向ふ。清正同国たるによつてこれに力をあわせて、これを攻む。一揆のかしら大山弾正八百ばかりのつわものを前後にひきゐて、たゞちにつゐて出る。前日のたゝかひに、弾正が長子をうたれうれへ、そのうへいきどほりければ、今日うち死するか、子のあだをむくゆるかと、一途におほひ定め、かさよりうつてかゝる。行長、清正の先手つきたてられて、弾正勝にのつて二三町ばかりおひつくる。其いきほひ甚きびし。清正かぶとの緒をしめなをし、力あしをふんでゑい/\とよばわるこへ衆人の耳にてつす。きぜいおもてにあらわれ、さき手の敗軍をよそに見てその所をうごかず。旗本のつわものこれにはげまされて、勝ちほこりたる敵をおひかへさんとす。清正みづから弾正とほこさきをまじへ加藤清兵衛はうしろぞなへたりしが、その手下の士卒みかたのきりたてらるるを見て、かけあわさんとするを乗りまわし、下知してそなへをみださず。すこし高き所にひかへて、しほあひをはかる。弾正が清正と鎗を合る時、こゝぞと云ふまゝに咄とさけんでよこさまにかゝり、旗もとゝさしはさみうつて、つゐに弾正がくびを斬る。清正の十文字片鎌をかけておられたりしは、此の時なり。後まで其かたかまを持ちやりとして家の美目にそなへらる。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之五)

加藤 忠広(かとう ただひろ) かくれさと苦界行

加藤清正の子。
広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の著した『九桂草堂随筆』に有る忠広に関する記述参照。
[逸話](『想古録』)
加藤清正は其名を和漢朝鮮に轟かしたる明将なれども、瓜の蔓に瓜を生ぜずして、其児忠広は凡庸なる鈍将なりき、或るとき忠広、重臣加藤清兵衛に向ひ、余は容貌美麗なる妻を迎へたく思ふなれば、卿其意をもて捜索しくれよと云はれける、清兵衛下城して歎息し、儕輩に告て曰く、先君は話の序には何時も善き士が欲いと申され、又どこそこの戦ひには、何某が箇様箇様の働きしたりなど、家臣等の功名手柄を喜んで話されしが、今の主君は、士の善悪は眼に上らず、一心偏へに女色に傾けり、是れ加藤家の滅亡近寄りたる物と謂はざる可らず、太平日久しうして、宴安の鴆毒人を害す、已乎已乎とて竟に隠居しけるとぞ(添川完平) 

加藤 太郎左衛門(かとう たろうざえもん) 影武者徳川家康 

山城山科関の守衛。

加藤 虎之助(かとう とらのすけ) 影武者徳川家康 

清正の嫡子。

加藤 虎藤(かとう とらふじ) 

→ 加藤 虎之助(かとう とらのすけ)

加藤 弥平太(かとう やへいた) 影武者徳川家康 

大阪城と運命を共にする。

加藤 嘉明(かとう よしあき) (1563〜1631) 一夢庵風流記、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、見知らぬ海へ、駆込寺蔭始末

永禄六(1563)年三河長良郷に生れる。寛永八(1631)年九月十二日江戸で没。享年69歳。
初名孫六、のちに左馬助と改める。活躍時代の名が茂勝で、嘉明は晩年になってから。十六歳の時三木城攻撃に軍功があり、また、清正と同じく賎ヶ岳七本槍の一人。豊臣秀吉に仕え、九州征伐、小田原征伐にも従軍し、伊予松前(まさき)六万石城主となる。慶長の役では藤堂高虎、九鬼嘉隆らと水軍の将として活躍。十万石に加増。徳川に属した関ヶ原にも功あって二十万石に。寛永四年には家光から会津城四十万石に移封さる。税制、道路、採鉱にも尽力。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考) 
[加藤嘉明の人物観]
○加藤左馬助嘉明侯の曰く、気さきの勇なる者は、目をおどろかす程のはたらきはすれども、つめたる武功は実儀なる者にあり。(『見聞談叢』)
[藤堂高虎・加藤嘉明唐島の先登諍]
○太閤朝鮮をうち玉ふ時、唐島に番船をおきて、これを守る。藤堂佐渡守高虎侯ひそかに夜にまぎれて、敵の小船二三艘をうばひとり明日大に戦ふ。加藤左馬助嘉明侯は、前夜に高虎公にこされたるをいかりて、塙団右衛門にてだてを云ひふくめ、物見ぶねをやる。塙しきりにすゝむでかへらず。嘉明大きにいかるていをして、軍法をやぶることにくき者どもかな。あれ制せよとこゑ/\〃によびかけ、扇をあげてまねけども、謀ごとなれば、塙うしろをもかへりみず。こゝにおひて嘉明自身はやふねにのりてとまれ/\といつておふて行く。嘉明の兵一同におし出て大船おほく乗りとりて、其日の高名諸将にすぐれたり。奉行横目この合戦の次第を太閤に注進する時、高虎ふな軍の先登はわれなり。誰れか共にあらそふべきや。只高虎ぐんをはなれたりと書きしるされよと申されければ、嘉明おししづめて、われ今日のたゝかひ衆人のみる通りに候。深夜敵のよくねいりたる隙をうかゞひて、少く利をゑられたれども、ねくびを掻きたるに同じ。よるとひるとことなり、小と大とあにおなじからんや。佐州のはたらき今日におひてはいかやうにしても吾にはおよばれまじき物をと***笑ひて居られければ、高虎怒て佩刀を抜て斬んとす。其坐にあり合ふ人々高虎をうぃしとむる。嘉明は片膝を立柱に倚て色をも変ぜず。貌をも動さず。大薙刀の刄のはづれたるが如く見苦しき仕形かな。人そばゑして取乱せるは丈夫のわざかと、いと躁ぬていなり。これをみるものその器量似もにずと嘉明を感称す。(『見聞談叢』)
《瓢水の『一話一言』》
[加藤嘉明が使ったセコ手とは?]
 松浦鎮信撰『武功雑記』よりセコ手な話をひとつ。豊臣秀吉の子飼い大名に、“賤ヶ岳七本槍”の一人として名を馳せた加藤左馬助嘉明がいた。関ヶ原合戦の後に伊予松前(真崎)20万石、寛永4年(1627)には会津40万石を与えられた老練の武将である。その嘉明が34歳の時、慶長元年(1596)閏7月の伏見大地震で使ったセコ手とは何だったのか。
 「加藤左馬(ママ)殿、窃(ひそか)に家来に物語にいわく。『事鬧(さわが)しきとき、必ず帯を前に結ぶべしうしろに結ぶべからず。その故は伏見にて大地震の時、太閤は如何あそばされ候哉と、何れも御機嫌窺いに走り出で候に、我等より足早やに行く者あり、彼に行き負け申すも口惜しきこと存じ、人込みの内にて卒度彼の者の帯を(ママ)結び目をほどき置き候えば、門に入りさまに帯ほどけ刀脇差、地に落ち候。これを取り上げ帯に致し直すうちに我等さきへ駆けぬけ候いし事これあり』と云々。これ以後、家中の者までみな前帯に致すなり」(神郡周校注『備前老人物語 武功雑記』現代思潮社、135頁)。
 功名心とは恐ろしい。ちなみに京都の豊国神社の宝物館では、「秀吉の歯」を厨子のような容器に入れて展示していた(2001年9月時点)。これは伏見大地震があった年の12月に秀吉から嘉明に贈ったもので、「歯一つを贈るから受け取ってくれ」という意味の「覚」が添えられている。早速に駆け付けたご褒美だったのかもしれないが、貰った嘉明は困惑したことだろう。(2004年9月27日瓢水記)

賀藤 次郎左衛門(かとう じろうざえもん) 風の呪殺陣

無資料。

門奈 助左衛門(かどな すけざえもん) 吉原御免状、影武者徳川家康

宗勝。長三郎。家康の小姓。関ヶ原の役の時、桃配山で家康の馬に乗り掛かった野々村四郎左衛門を家康は怒って刀を抜いて斬りつけた。野々村はそれを躱してその場から立去るが、怒りの収まらない家康は側に居た門奈助左衛門の指物の棹を切り落したと『徳川実紀』に書かれている。
『吉原御免状』(新潮文庫版)には門余とあるが、誤記と思われる。

(かな〜かん)

金森 長近(かなもり ながちか) (1524〜1608) 見知らぬ海へ 

可近。通称五郎八。大畑定近の二男。
美濃土岐氏の支族大畑定近の次男として美濃国土岐郡大畑(現多治見市大畑)で生まれ、後、近江金森に移り、金森氏を称す。織田信長に属し、弘治元年(1555)32歳の時に信長の一字を与えられ長近と名乗り、従四位下兵部大輔に叙せられる。天正三年(1575)、長篠の戦で功があり越前大野郡を与えられた。信長歿後、秀吉に仕え、天正十三年(1585)、秀吉は長近に飛騨攻めを命じ、三木氏を攻略、翌天正十四年飛騨高山三万八千石を領した。二年後の天正十六年から高山城の築城を始め、十六年かけて完成させた。関ヶ原役では徳川家康に味方し、美濃の内で二万石を加増された。後、剃髪して兵部卿法印素玄と号す。
慶長十三年八月十二日、京都で没。

金輪 勇(かなわ いさむ) 異説猿ケ辻の変

姉小路公知卿の護衛として雇われるが、猿ケ辻で暴漢に襲われると一目散に逃げた。

可児 才蔵(かに さいぞう) (1554〜1613) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

吉長。福島正則の武将。「鑓の才蔵」「笹の才蔵」と呼ばれる。
『誓文日記』によれば、天文二十三年尾張葉栗郡に生まれ、十五歳で前田利家の馬廻組に属し、やがて牢人し諸国を武者修行したのち福島正則に仕えたという。また『関原軍記大成』では、越中の出で、はじめ佐々成政に、次いで豊臣秀次に仕えたが秀次没後、福島正則に仕えたとされている。しの他、美濃可児郡の出身で、はじめ斎藤義竜、後柴田勝家、明智光秀、織田信孝、豊臣秀次、前田利家と転々と主を替え、福島正則に仕えたとする説もある。いずれにしろ諸説で共通しているのは福島正則に仕え、関ヶ原の戦いで武功を上げ、名を天下に知らしめたという事になっている。「笹の才蔵」という名の由来もこの関ヶ原の戦いでの事とされる。また「鑓の才蔵」という名は、宝鞍院胤栄に鑓を学ん、鑓術に巧みだったことからきている。才蔵は関ヶ原から十三年後の慶長十八年に、福島正則の城地広島で没した。
『翁草』によれば、常日頃、愛宕権現を信仰していた才蔵は、愛宕権現の縁日にあたる六月二十四日、潔斎し、物具を付けて薙刀を持ち、床机に腰をかけながら息絶えたという。遺言により、広島の矢賀の坂の脇に葬られ、「尾州羽栗郡の住人可児才蔵吉長」と刻んだ石塔が建てられた。福島氏が幕府の策謀で信濃に改易された後も、往来の心ある人は、才蔵の武功を慕い、墓前で下馬の礼をとったという。また、いつのころからか、この墓に参れば歯痛が治ると言い伝えられている。(『歴史読本』1996年10月号所収谷口研語「可児才蔵」)
「福島正則の士、可児才蔵に向って仕合を申込んだものがあった、その後になって待っていると、才蔵は具足甲で笹の差物を差し、若党に鉄砲を切火縄にして左右に槍を立て脇を詰めさせ、総て二十人ばかりひた甲にて押して来た、相手は案に相違して、「拙者の所望は斯様の仕合ではない、一人一人の槍仕合である」という、才蔵が笑って、「吾等が仕合はいつもこの通りである」といったとのこと。乱世の槍、後世の槍の相違というものであろう。 (異説まち/\)」と中里介山著『日本武術神妙記』にある。また『続日本武術神妙記」には、
「可児才蔵吉長は篠才蔵と呼ばれたる、福島正則の名代の勇士であるが、若い時は長太刀を好んで使ったが、年老い力衰えて後は腰に差すことを億劫がって他行の時は従者に持たせて歩行した。福島の一族に何の嘉兵衛という者があった、或時、物語の末、吉長に向って云うには、「貴殿、お若い時は格別、今は年をとられたので腰に帯びられることも叶わず、お伴に持たせて外出なさるが、それにしてもお手並みのほど一見いたし度いものでござる」と云った。吉長がこれを聞いて答えていうには、「仰せ御尤も、恥入った儀でござる、若い時、この刀で随分試合を致したことでござる故に、今更昔の名残りが惜しくてつい外出の時なども身のまわりに持たせて参るような次第でござる、但し武芸というものは他所目ではなかなか批判のつかぬものでござる、さらばこの刀を見参に入れ御会釈を申そうぞ」といって、腰を抑えて立つと、そばに置いた刀をとり、「長刀の業は斯くの通り」と云って、スワと抜いた。嘉兵衛は案に相違して立ち上ろうとするところを、細首を打ち落してしまったということである。」とある。

金児 忠兵衛(かねこ ちゅうべえ) 鬼麿斬人剣

松代藩武具奉行

鐘巻 自斎(かねまき じさい) (生没年不詳) かくれさと苦界行、かぶいて候 

道家。鐘巻流の祖。
鐘捲自斎通家は外他(とだ)姓を持ち、越前朝倉氏の剣術指南で、富田流の名人富田治部左衛門景政の門に入り、山崎左近将監、長谷川宗喜とともに「富田の三剣」と呼ばれた。その頃、外田(戸田)一刀斎と名乗ったこともあるという。後に自斎の弟子といわれる伊藤(伊東)景久がその一刀斎を譲り受け伊藤一刀斎と名乗り、「一刀流」を興した。また伊藤一刀斎も、外田一刀斎を名乗っており、両者は同一人とする説もある。この説の根拠として、伊藤一刀斎の高弟といわれる古藤田勘解由左衛門俊直が、自流を外他一刀流と名乗っていることと、自斎も一時自流を鐘捲外他流と名乗ったことによる。
いずれにしろ、「一刀流」は「鐘捲流」から出ている。自斎の弟子で有名なのは、この伊藤一刀斎の外に佐々木小次郎がいる。(『歴史読本』昭和55年3月号所収光瀬龍「漂泊の剣客」参考)

狩野 泰光(かのう やすみつ) (?〜1590)

小田原評定衆の筆頭。
出自は伊豆の名族で、鎌倉御家人の末裔という。戦国初期、早雲が伊豆に乱入した時、狩野道一は激しく抵抗し早雲に功囲されて道一の家は滅ぼされたが、一族は早雲に仕えた。
泰光は御馬廻衆の一人で、初期から評定衆の筆頭として記録に現われている。以後、十五年余り小田原北条の家評定衆として登城した。
永禄十一年(1568)の早い時期に入道し、小田原本城の評定衆から滝山城の北条氏照の家老もしくは奉行衆として転出したらしく、氏照の後見役を果たしたのち、天正十八年(1590)八王子城で華々しく討死を遂げている。

上泉 信綱(かみいずみ のぶつな) 

→ 上泉 秀綱(かみいずみ ひでつな)

上泉 秀綱(かみいずみ ひでつな) 捨て童子松平忠輝、かくれさと苦界行、柳生非情剣、柳生刺客状

「こうずみ」とも。伊勢守。幼名大助。新陰流開祖。後に武田信玄より「信」の字を賜り信綱と改める。また、官位も正式に武蔵守に任ぜられる。よって、上泉武蔵守信綱というのが正しいらしい。
十三歳で愛洲陰流の愛洲移香に師事し剣術と槍術を学び、後に飯篠山城守の門人となり天真正伝神道流を学んだとされる。秀綱は飯篠四天王の筆頭となり、皆伝を得ると天真正伝神道流と愛洲陰流を合わせた神陰流(新陰流)を起し、その開祖となる。 
直木三十五氏の『剣法夜話』に「上泉信綱」の一章があるので参照ください。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「上泉秀綱」の一項があるので参照ください。

上泉 主水(かみいずみ もんど) 一夢庵風流記 

憲元。上泉武蔵守信綱の弟。
直江山城守に見い出され、三千石で上杉家に召し抱えられた。「最上の戦い」で戦死。
《瓢水の「一話一言」》
[長谷堂合戦のもう1人の主役(その1)]
 慶長5年(1600)9月、直江兼継率いる上杉軍(西軍)は最上軍(東軍)と交戦中であった。その最中に「関ヶ原西軍総崩れ」の報を受けた上杉軍は苛烈な退却戦を戦うが、この場面は『一夢庵風流記』のハイライトとなっている。
 「長谷堂合戦」と称されるこの合戦には、前田慶次郎の他にもう1人の主役がいた。その名を上泉主水という。『常山紀談』の「出羽国長谷堂合戦上泉主水討死の事」(角川文庫版、下巻。55‐59頁)に拠りながら、主水の戦振りを紹介しよう。慶次郎も登場する。
 上泉主水は剣聖・上泉伊勢守の弟と云われる(諸説ある)。剣術の達者で、京の相国寺に身を寄せていた折に、直江兼継の誘いを受けて会津上杉家に随身し、一軍の将となった。
 そして最上攻めの際、快進撃を続け、山形城まで一気に押し寄せようとする兼継に、「山形は最上氏が数百年治めているから地の利は最上にある。力攻めにはせず、出城を数多く落とした上で軍を返すのが上策と心得る」と進言するのだが、これが命取りになった。(2004年2月23日瓢水記)  
[長谷堂合戦のもう1人の主役(その2)]
 主水の進言を聞いた兼継は、「我等は山形城を攻めるために出陣したのだ。主水殿は名高い武将と聞いていたが、大したことはないな」と面罵したのである。
 さて、長谷堂城間近まで進んだ上杉軍は、最上・伊達の連合軍と対峙した。勢いに乗って攻める上杉軍と迎え撃つ最上軍の間で激闘が続く。その最中、城下を焼き討ちする上杉軍に向かって最上軍の新手が攻め寄せ、兼継の退却命令も届かず膠着状態に陥った。
 ここで主水が登場する。軍奉行杉原常陸(兼継とは仲が悪かった)の制止を振り切り、「存ずる子細の候」と叫び、果敢にも一騎駆けで敵陣に向かったのである。それを見た前田慶次郎と宇佐美民部が主水の陣に駆けつけ、「大将が敵陣に向かったのに、お前達は何をしている!」と叱咤したが、主水に付けられた上杉兵は動かなかった。業を煮やした慶次郎と宇佐美たち20騎は、主水の後を追って敵陣に駆け入った。(2004年2月24日瓢水記)  
[長谷堂合戦のもう1人の主役(その3・完結)]
 主水の活躍で最上軍は退却したが、上杉軍をまとめて引き返そうとする主水の前に、300の伊達軍が攻め寄せた。兼継に面目を潰されたことに腹を立てていた主水は一歩も引かずに戦い、慶次郎や宇佐美と共に伊達軍30余人を討ち取った。
 伊達軍も新手を投入し、主水、慶次郎、宇佐美は必死で持ちこたえる。日暮れとなり、「退却せよ」との指令が兼継から届いた。しかし主水は、「心得候」と言い捨てると敵に向かい、「上泉主水といふ剛の者、打取り候へ」と名乗りを上げ、数十人を斬り伏せる阿修羅の働きをして、討死した。享年34歳と伝える。自らの面目を立てるための討死であった。
 「物具に立つ所の箭各々七つ八つ折りかけ、槍は突きゆがめ、刀はさゝらの如く斬りなし、人馬とも殷(あけ)に染みたる」慶次郎と宇佐美は、上泉の陣を通り過ぎる際に「おのおの大将主水を捨殺し、男子の交はなるべからず!」と罵った。上杉兵は悄然として一言もなかったと云う……。
【追記】兼継と杉原常陸の確執、主水に付けられた上杉兵が動かなかった奇妙さを考えると、上杉軍は必ずしも一枚岩ではなかったように思われる。複雑な人間関係に焦点を当てて上杉家を描いた作品は、まだ出ていないようだ。
 ちなみに、慶次郎が大活躍した退却戦は、主水討死の数日後と思われる。(2004年2月25日瓢水記)

神尾 伊予栄加(かみお いよさねよし) 花と火の帝 

「かんのお」が正式な読みか。伊与。北條家遺臣。秀忠側室お静の方の父。
北条家滅亡後、江戸に出て徳川家に仕えようとするが適わず、娘お静を大奥へ奉公に出す。(中村彰彦著『保科正之』)

神尾 孫左衛門(かみお まござえもん) 影武者徳川家康 

孫兵衛。阿茶の局の先夫。

神尾 元勝(かみお もとかつ) (1591〜1667) 死ぬことと見つけたり 

備前守。本姓岡田。通称五郎三郎。
徳川幕府に仕え、奈良奉行、勘定奉行などを務め、従五位下備前守に叙せられる。
小堀遠州、片桐石州に茶を学ぶ。
寛文七年四月二十五日没。
神尾備前守、従五位下、剃髪号2宗休1
実は松平周防守長臣岡田竹右衛門男也、土屋民部少輔忠直と行合兄弟に付、忠直より一位局に望請て養子と為也、殊に飯田久左衛門が聟に付、神尾氏を与へ称す。(柳営婦女伝系七)

神尾 守世(かみお もりよ) 影武者徳川家康

五兵衛。少名猪之助。刑部少輔。従五位下。
阿茶の局と先夫との間の子。

亀井 茲矩(かめい これのり) 花と火の帝 

因幡藩主。

亀屋 栄任(かめや えいにん) 柳生刺客状

大御所家康の側近の一人。

鴨 長明(かものちょうめい) (1155頃〜1216)

鎌倉時代の歌人・文章家。菊太夫と称。賀茂御祖神社の禰宜の家に生れ、管絃の道にも通じた。和歌を俊恵に学び、1201年和歌所寄人に補任、04年出家、法名蓮胤。大原山に隠れ、後、日野の外山に方丈の庵を結び著作に従った。著「方丈記」「発心集」「無名抄」など。かものながあきら。(1155〜1216)(『広辞苑』第二版)

鎌倉初期の歌人・随筆家。下鴨神社に禰宜長継の次男。俗名、長明(ながあきら)。法名、蓮胤。和歌を俊恵に学び、和歌所寄人となる。祖父の務めた河合社の神官を望んでかなわず、五十歳頃出家。著「方丈記」「無名鈔」「発心集」など。(iPhone版『大辞林』)

鴨長明伝
鴨長明は菊太夫と称す。世々鴨社の氏人にして祖李継、父長継、皆禰宜たり。長明管絃に通じ、和歌を善くせり。応保中從五位下に叙す。後鳥羽上皇召して和歌所寄人としたまふ。一時の和歌に名ある者に勅して、肥大、枯細、艶雅三体の和歌を献せしめ以て其の才を試みたまふ。衆皆之を難しとす。唯長明及び摂政良經、僧慈圓等六人勅を奉ず。長明嘗て祖父に襲いで社司に補せられむことを奏請せしかど許されず。これより鞅々として楽しまず。門を杜ぢ、交を息め、葵の歌(見れば、まづいとど涙も、もろかつら、いかに契りてかはなるらん)を作りて以て其の意を寓す。髪を剃りて僧となり、名を蓮胤と改め大原山に入る。時に年五十。建暦中鎌倉に往く。将軍源実朝素よりその名を聞きしかば、数々延椄せらる。幾も無くして京師に還り、創意して室を作る。方一丈、高さ七尺に過ぎず。柱楹屋廂皆鉤銷を用ゐ、開盍すべからしむ。或は意に適せざれば、 移して以て他に往くに両車に載すべし。遂に日野の外山に入る。有る所、仏像及び書数軸箏琵琶にして余は貯蓄する所無し。山に登り水に臨み採頡自ら給す。方丈記を著せり。其の耿介の気、其の中に概見す。世之を伝誦す。後上皇復た召して和歌所に入れむと欲したまふに、長明和歌(沈みにき、今さら和歌の浦浪に、よせばやよらん、あまの捨舟)を上りて之を辞す。遺跡は石床有り。世に方丈石と号す。初め藤原俊成千載和歌集を撰進せるとき、長明の歌を採ること僅に一首のみ。長明喜んで曰はく、我れ歌人の後に非ず、身亦才有るに非ず。而して勅撰集中に採録せらるるは豈に至栄に非ずや。或人曰はく、子の言甚だ理有り。他人は此の如くなること能はじ。吾れ是の集を閲するに庸流多く収載せられ、多き者は十数首、少き者も四五首を下らず。吾以謂へらく、子内に平かなること能はざるなりと初めは子の言を信ぜず。而子属言措かず、今よりして後子の実に之を喜ぶを知れり。心を存すること此の如くば、終に斯道に於いて紳助を得べきなりと。其の後長明声誉日に盛にして果して其の言の如し。新古今和歌集を撰するに当り、一時、和歌を進むる者、多きは千百首に至る。撰人刪り去る者多し。長明唯、十二首を進る。而して皆取る所となると云ふ。著す所、瑩玉集、無名鈔、方丈記等ありて、世に行はる。
(岩波文庫『方丈記』所収)

蒲生 氏郷(がもう うじさと)(1556〜1595) 捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記 

幼名は鶴千代。教秀、賦秀。受洗名レオン。また、質となった氏郷の目つきに感動した織田信長がつけた忠三郎という名もある。信長の娘聟となるため留めおかれた岐阜城で、毎夜の軍談に端座、傾聴する姿はすでに大器を予想させたという。永禄十二(1569)年、南伊勢大河内の合戦での初陣以来、天正十一(1583)年には飛騨守、小牧、長久手の戦い、九州役、小田原役に数々の軍功を上げ、十二万石伊勢松島城主(松阪少将)、会津若松四十二万石城主と出世する。この間にキリスト教にも帰依。その後、葛西大崎の一揆を鎮定し、木村吉清父子の救出で一段落したと思う間もなく、南部地方の一族九戸政実の叛乱が起って、氏郷は討手の大将として活躍。この功によって新たに七郡が加増され、九十二万石の大大名になる。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
氏郷の祖父を下野守貞秀入道知閑といい、『常山紀談』(巻之一)に彼の知略の事に触れた記述がある。
[逸話]『想古録』より
蒲生氏郷大志あり、然れども封を会津に賜はりてより、日本にては最早志を得ること能はずと了りて、頻りに朝鮮に垂涎せり、氏郷死去の後、其の秘函の中より、朝鮮に築くべき居城の縄張の図出でたり、彼が柱に椅て泣くといふより思へば、果して朝鮮の王位を心懸けたるならん(佐藤武一)
『松屋叢書』より
○蒲生氏郷やまひの床におはしける時。千宗易とぶらひ来にけり。こは茶芸の師にして。日頃やンごとなき人におもはれしかば。枕辺にまねぎて。いとこゝろよげにものがたりなどせられけり。宗易まうしけるは。君はこよなう操刺しかる性にて。天が下にたぐひすくなきものゝふにおはせしが。戦場にのみ年月をおくりつゝ。雨に浴し。風に梳て。つゆばかりやすき間もなくあかしくらしたまひしかば。今かゝるやまひにもしづませたまふにこそなど。なみださしぐみてきこえければ。氏郷いらへのことばはなくて。
かぎりあれば、ふかでも花はちるものを、こゝろみじかき春の山風
宗易かへし
ふると見ばつもらぬさきに払へがし雪にはをれぬ青柳の枝。
(一本に下句「柳の枝に雪をれはなし」とあり)(小山田臾清)

蒲生 貞秀(がもう さだひで)

下野守。近江音羽城主。蒲生氏郷の祖父。
入道して知閑と号す。
[逸話]『常山紀談』(巻之一)より
文亀三年細川武蔵守政元の臣沢倉といふ者、武畧ありて近江を半切したがへけれども、蒲生下野守貞秀入道知閑、音羽の城に拠て沢倉、音羽は山城なれば水乏しからん、とて水の手をとり切たり。知閑、敵より見ゆる矢倉の前に馬どもあまた率出させ、白くしらげたる米を桶に入れ、くみかけて人々裸になりて馬を洗ふ。沢倉遥に見て、思ひの外に此城水多し。かくて久しく陣せば兵粮尽なん、とて囲を解て引退く処を、知閑案内はよくしりつ、小倉なはての要害に撃て出で、一同に切かゝり、十分の勝利を得たり。知閑は氏郷の祖父なり。

蒲生 郷舎(がもう さといえ) 影武者徳川家康 

石田三成の家臣。侍大将。
光成に一万五千石で召し抱えられた武将。もう一人の侍大将島左近とともに、石田三成を支えた。「関ヶ原の役」で戦死。

蒲生 忠郷(がもう たださと) 捨て童子松平忠輝

陸奥若松城主。

蒲生 平蔵(がもう へいぞう) 駆込寺蔭始末

小田原藩士。

蒲生 秀行(がもう ひでゆき) 影武者徳川家康、一夢庵風流記 

蒲生氏郷の子。
家康に従い、会津征伐前軍として上杉氏討伐に向う。
羽柴飛騨守。蒲生秀行也、慶長十七年五月十四日卒す、(『慶長年間江戸図考』)
本苗蒲生氏、文禄四年、父卒して家を継ぎ、羽柴氏と称す、父氏郷の時に、秀吉媒して神君の御婿と成、慶長十七年五月十四日卒す、息男亀千代家を継、后下野守忠響と称す、(『江戸古絵図考附録』)

賀茂宮(かものみや) 吉原御免状、花と火の帝 

後水尾天皇とおよつ御寮人の間の皇子。五歳で夭折。最も権威ある皇室系譜『本朝皇胤紹運録』には宮の名は無い。

烏丸 光広(からすま みつひろ) (1579〜1638) かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、風の呪殺陣 

公家。蔵人頭。慶長十六年に正二位権大納言。父は烏丸光宣。
和歌と物語文学を細川幽斎に学び、禅を沢庵和尚に学んだ。茶を嗜み、烏有子と号して書画もよくした。性格豪放で、奇行に富んでいたという。妻は細川家の娘で、京で和子(東福門院)と並び衣裳道楽で名を馳せた。
寛永十五年七月三日没。

河合 庄助(かわい しょうすけ) かくれさと苦界行

河合武右衛門の子。荒木又右衛門の娘まんと結婚し、荒木平之丞(二世)を名乗る。

河合 甚左衛門(かわい じんざえもん) かくれさと苦界行 

河合又五郎の叔父。郡山藩士を退身し、河合又五郎の助っ人となる。鎰屋の辻で荒木又右衛門に斬られる。

河合 惣兵衛(かわい そうべえ) 異説猿ケ辻の変

姫路藩士。

河合 半左衛門(かわい はんざえもん) かくれさと苦界行

河合又五郎の父。

河合 武右衛門(かわい ぶえもん) かくれさと苦界行 

荒木家家僕。 

河合 又五郎(かわい またごろう) かくれさと苦界行 

渡辺源太夫を斬り、兄渡辺数馬の仇となる。鎰屋の辻で渡辺数馬に仇討される。

川勝 主水秀氏(かわかつ もんどひでうじ) 影武者徳川家康

無資料。

河上 彦斎(かわかみ げんさい) 異説猿ケ辻の変

岡田以蔵とともに人斬りの異名を持つ勤王側の刺客人。

川尻 秀隆(かわじり ひでたか) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

織田信長の家臣。
武田家滅亡後、甲斐の領国経営を任せられる。 

川並 平九郎(かわなみ へいくろう) 影武者徳川家康

九鬼家家臣。

川辺 弥左衛門(かわべ やざえもん) 駆込寺蔭始末

上総国の代官。麿に始末される。

川村 新八郎(かわむら しんぱちろう) 捨て童子松平忠輝

無資料。

河村 長右衛門(かわむら ちょうえもん) 捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。

河村 長門守(かわむら ながとのかみ) 花と火の帝 

増田長盛の家臣。

菅内侍(かんのないし) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

官女。

観音寺 某(かんのんじ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

近江代官手代。

桓武天皇(かんむてんのう) (737〜806) 死ぬことと見つけたり、時代小説の愉しみ

第五十代天皇。初名は山部王。天平九年(737)、白壁王の第一王子としてうまれる。
天応元年(781)四月即位し、山城国への遷都を行った。はじめ784年に長岡京へ遷都し、十年後の794年に平安京をおいた。続日本紀の編纂を発案したり、空海、最澄を唐に送り、日本の仏教に新たな動きをもたらしたとされる。また、蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて軍を送り、東北地方への影響力を拡大した。大同元年(806)三月崩御。

(き〜きと) 

城井 久右衛門(きい きゅうえもん) 花と火の帝 

二代目アユタヤ日本人町頭領。加賀前田家ゆかりの牢人。

菊山 又右衛門(きくやま またえもん) かくれさと苦界行

荒木又右衛門が服部から改姓した最初の姓。
→ 荒木 又右衛門(あらき またえもん)

木曽 義利(きそ よしとし) 捨て童子松平忠輝 

元木曽福島城主。
下総蘆戸一万石に移封後改易される。

木曽 義仲(きそ よしなか) (1154〜1184) 駆込寺蔭始末

源義仲。寿永二年八月左馬頭、源為義の二男義賢の二男として久寿元年(1154)武蔵国大蔵館で生まれる。
翌年父義賢が甥の源義平と争い殺されると母小枝御前に伴われて木曽に逃れ、木曽中三権守中原兼遠に養育された。
愛妾に中原兼遠の女巴御前と、山吹の名が知られる。
木曽冠者義仲と名のり、木曾氏の祖となった。治承四年(1180)以仁王の令旨を受け挙兵、寿永二年(1183)北陸に進撃し、越中栃波の倶利加羅峠で平家の大軍を破って平氏を西海に追い入京、正五位下左馬頭兼伊予守となり、朝日将軍と称された。しかしこの後、以仁王の皇子北陸宮の即位を主張し朝廷の反感を買い、後白河法皇の法住寺殿を襲い法皇を幽閉し、院の厩別当となり、翌元暦元年(1184)正月征夷大将軍となるが、頼朝の弟範頼・義経に攻められ、同月二十日近江粟津野に討死。享年31才。(『伽婢子』2人名索引、『舞の本」解説)
墓は木曽宮ノ越の徳音寺に有る。

木曾 義昌(きそ よしまさ) (1540〜1595) 柳生刺客状、時代小説の愉しみ

甲斐武田家重臣。木曽義仲の流れをくむ信濃国木曽の豪族で、初め信濃に侵攻する信玄に対抗したが、後に仕えた。
関ヶ原合戦を前に家康は、木曾義昌の遺臣に助力を求めた。

北上 主水正(きたかみ もんどのしょう) 駆込寺蔭始末

八千五百石取りの旗本。大目付。

北島 宗正(きたじま むねまさ) 影武者徳川家康

無資料。

北畠 具教(きたばたけ とものり) 時代小説の愉しみ

伊勢国守護。

北村 善太夫(きたむら ぜんだゆう) 影武者徳川家康 

豊臣方武将。

吉川 興経(きっかわ おきつね)

小倉山城主。吉川元経の嫡男。
尼子氏に付いたことから、毛利氏との関係が悪くなるが、毛利元就の妻となっている叔母妙玖らの働きかけなどで、元就の二男元春を養嗣子に迎え関係修復を図る。元就は興経の隠居を条件に元春を養子に出した。

吉川 国経(きっかわ くにつね)

安芸山県新庄小倉山城主。毛利元就正室妙玖の父。
安芸国国人領主の一人として、毛利氏同様、大内・尼子両勢力の狭間で生き延びるために国人同士の同盟や姻戚関係を結ぶ。
長女を毛利元就に嫁がせるとともに、長男元経の室に元就の女松姫を迎えた。

吉川 広家(きっかわ ひろいえ) (1561-1625) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状、一夢庵風流記 

吉川元春の三男。幼名才寿丸。最初経信、次郎五郎、又次郎、経言とも称した。のち広家。民部少輔、蔵人頭、侍従、従四位下。母は熊谷信直女。妻は豊臣秀吉の養女、浮喜多秀家の姉。
吉川元春の三男として安芸山県郡・日野山城に生れる。父元春に従い尼子勝久討伐に初陣。天正十一年(1583)、毛利氏の人質として豊臣秀吉の元に送られるが間もなく帰国。天正十四年に父元春、翌十五年に兄元長が病死し家督を継ぐ。
毛利輝元に従い豊前、肥後の一揆討伐に従軍し、その功により出雲、隠岐などで十二万石を与えられ出雲富田城主となる。後に米子に新城を造りそこを本拠とする。また、毛利氏の軍師安国寺惠瓊と意見が合わずしばしば対立したといわれる。
豊臣秀吉の命により朝鮮に渡海し戦功を挙げる。関ヶ原の戦いでは西軍に属していたが、家康の根回しで東軍方に寝返り、毛利氏存続を図るため東軍に内通。戦後、毛利本家の存続のために家康との間を取り持ち、領地は減らされたが毛利家を存続させることに成功した。
広家自身は周防・岩国三万石を与えられ、初代岩国藩主となる。検地の実施、職制の改革を行い、製紙を奨励するなど藩の発展に尽力した

吉川 広正(きっかわ ひろまさ) (1601〜1666)

岩国藩二代藩主。吉川広家の嫡男。妻は毛利輝元女。
岩国藩は、この二代藩主広正の代から長州藩の支藩として幕府からは諸侯扱いされなくなったが、広正は新田や塩田開発に力を注ぎ、父広家に倣って製紙業を奨励するなど積極的な藩経営を行なった。

吉川 平助(きっかわ へいすけ) 見知らぬ海へ

伊勢大湊の船奉行。
家康の「伊賀越え大難」に際し、伊勢白子浦まで逃れてきた一行を海路三河大浜まで送る。

吉川 元経(きっかわ もとつね)

小倉山城主。吉川国経の嫡男。正室は毛利元就の女松姫。

吉川 元春(きっかわ もとはる) (1530〜1586)

毛利元就の二男。通称少輔次郎。治部少輔、駿河守、従四位下。母は吉川国経女。
父元就の『教訓状』の中から「三矢の譬え」の伝説が生まれたが、元春はその一矢。三男小早川家とともに毛利家隆盛の許となる毛利両川体制の一翼を担った。
妻は熊谷信直女で、子に嫡男元長、二男元氏、三男経言(広家)、長女(益田元祥室)がいる。

喜連川 茂氏(きつれがわ しげうじ) 駆込寺蔭始末

無資料。

(きな〜きん)

紀国屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)

元禄期、紀州より蜜柑を仕入れ財を為した豪商。吉原の大尽(上客)として名を為す人物。

[逸話](『想古録』)
紀の国屋文左衛門、青年のころ江戸に漂泊し、行燈張を以て渡世しけるに、貼換代価の紙代と同一なるのみならず、燈蓋の塵垢まで清浄に掃除しければ、人みな其廉且つ便なるを称し、大いに流行して一日の閑暇だも無きに至れり、文左其ころ二本の竹筒を携帯しけるが、一本の筒には行燈紙を入れ、他の一本は同じく紙を入れたるが如くに見せかけて、其実は油入れの筒と為し、燈蓋又は下皿に油の余滴あるときは窃かに其筒に移して持帰り、漉して精油と為して油屋に売りければ、之に由て少なからざる陰利を儲けたり、紀文後に貯蓄に富み、其貯蓄は一転して紀州通ひの蜜柑船と為り、再転して芳原遊廓の傲遊と為り、大尽の名を永く後世に留めたり(越古庵)

木下 家定(きのした いえさだ) (1543〜1608) 影武者徳川家康、柳生非情剣 

天文十二年(1543)、木下祐久の子として生れる。慶長十三年(1608)没。享年六十六。
豊臣秀吉の正室北政所の兄(北政所は杉原氏で、家定も杉原を姓としていた)として秀吉に重用される。木下の称から続いて豊臣朝臣の姓を賜い、慶長五年には播磨国姫路にあって二万五千石を有していた。関ヶ原では北政所を守護して奮戦。翌六年、備中芦守に移る。家定の長子木下長嘯子(俊勝)は歌人として著名で、若狭六万石を有した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

木下 一平(きのした いっぺい)

佐賀藩鍋島直茂家臣。
以下の逸話が、『死ぬことと見つけたり』で師が斎藤杢之助のエピソードとして描いていることから、杢之助のモデルの一人だと思われる。また、『人名事典』鍋島勝茂の項にも一平関連の逸話が有るので参照ください。
[逸話](『想古録』)
鍋島直茂の臣に木下一平と云へる勇士あり、攻城野戦の功少なからざりければ、常に直茂に愛せられけるが、極めて少禄にてありければ、殊の外貧困を究め居たり、或る時城下の街端に立ち、郷方より年貢米を着け来りたる牛馬の綱を取り、我家に来れとて連れ行けり、否と云へば打果さるべき勢ひなりしかば、馬夫等は畏れて従ひ行きけるに、牛馬を門に繋ぎて其米を悉く奪ひければ、馬夫等は益々驚き、此米は年貢米なれば是非戻して賜はるべしと哀願しけるに、一平毫も頓着せず、否とよ、木下一平が頂戴したりと信濃殿に申せよと言棄てて内に入れり、馬夫等は之を吏に訴へ、吏は之を直茂に申上げけるに、直茂莞爾として、彼必らず食に竭きたるなるべし、取らせ置けよとありければ、其儘にて済みけり、一平後に直茂の死に殉し、其子と共に追腹切りて相果てたり(古賀、中島)

木下 長嘯子(きのした ちょうしょうし) (1570~1650)

勝俊。別号を東山夢翁、天哉松洞、西山樵夫。父は木下家定。若狭龍野城主。
幼少より豊臣秀吉に仕え、羽柴の姓を賜わり、従四位下左近衛権少将に叙任。大坂陣後、徳川家康によって封を奪われ、京都東山霊山に陰棲し、長嘯子と改め、風月を友とし、慶安三年六月十五日に没した。和歌を細川幽斎に、茶を利休に学び、蔵書家としても知られた。

木下 藤吉郎(きのした とうきちろう) 

→ 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)

木全 刑部(きまた ぎょうぶ) 捨て童子松平忠輝 

幕臣。お茶阿の方の前夫(山田姓)の子の養親となる。

木全 善八郎(きまた ぜんはちろう)  影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。お茶阿の方の前夫の息。木全家の養子となる。
実山田氏子、茶阿局未レ嫁以前之子也、茶阿局子分として忠輝君に従仕せしめ、木全刑部(木全は長谷川八郎右衛門支流也)が為2養子1賜2五百石1(柳営婦女伝系五)

木全 又八郎(きまた またはちろう)  影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。お茶阿の方の前夫の息。木全家の養子となる。
実同2善八郎1
茶阿局子分として忠輝君に従仕せしめ、木全刑部為2養子1賜2八百石1(柳営婦女伝系五)

木村 主計(きむら かずえ) 影武者徳川家康 

豊臣方武将。

木村 助九郎(きむら すけくろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣、柳生刺客状 

矩孝。友重。柳生新陰流。宗矩の門弟筆頭。
駿河大納言忠長に仕え、のち紀州徳川頼宣に六百石で召し抱えられた。慶安三年四月八日没。
裏柳生が暗躍する隆慶作品には珍しい”表”の存在。『影武者』では伏見に向かう二郎三郎の護衛を仰せつかり、『捨て童子』では”表”の存在ながら宗矩のたっての希望で家康襲撃に同道する。『花火』でも猿飛佐助暗殺のために上京する宗矩に同道している。広く剣名を知られた柳生の顔。
『兵法聞書』を著す。
「諱は友重。天正十三年(1585)、大和に生まれた。父は伊助。柳生宗矩に学び、将軍家光が但馬守に兵法を学ぶときは、いつも御相手として伺候したという。はじめ駿河大納言忠長に付属せられていたが、忠長の改易により、寛永十一年(1634)、紀州頼宣に仕え六百石を与えられた。承応三年(1654)四月八日没。年70。嫡子助九郎友安がつぎ、代々紀州家の剣術指南をつとめた。(木村家譜、南陽語叢、日本剣道史他)」江崎俊平『日本剣豪列伝』(教養文庫)参照。 《瓢》

木村 善八郎(きむら ぜんはちろう) 見知らぬ海へ 

ポルトガル語通事。

木村 親盛(きむら ちかもり) 一夢庵風流記

最上の戦い上杉軍第二軍。

木村 長門守(きむら ながとのかみ) 

→ 木村 重成(きむら しげなり)

木村 常陸介(きむら ひたちのすけ) (?〜1595) 死ぬことと見つけたり 

重茲。父は木村定詮。始め隼人正と称し、後常陸介に改める。
秀吉に仕え、茶法を利休に学び、秀吉の台子七人衆の一人に加えられる。のち関白秀次の後見役となったが、秀次の罪に連座し、文禄四年七月、茨木大門寺で自刃した。

木村 兵蔵(きむら へいぞう) (生没年不詳) 時代小説の愉しみ

相模国住人。
『小田原北条記』に記載の人名。

木村 宗喜(きむら むねよし) 影武者徳川家康 

豊臣方の乱波。京で板倉勝重に捕えられる。

京極 高次(きょうごく たかつぐ) (1563〜1609) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

徳川方武将。若狭小浜城主。お初の方の夫。
京極高吉の子。幼名は小法師、通称は小兵衛。天正元年(1573)織田信長に仕え、五千石を領す。本能寺の変後明智光秀に味方したため豊臣秀吉に追われ柴田勝家に頼るが柴田家も滅ぼされ、若狭の武田氏を頼った。しかし、その武田氏も滅ぼされる。その頃、妹松丸殿が秀吉の側室になった縁で秀吉に許され大溝城主を皮切りに八幡山城主となり文禄四年(1595)、六万石の大津城主となる。妻は常高院お初。慶長五年関ケ原の戦いでは徳川家康に味方、籠城して西軍と戦った功績で、八万五千石の若狭小浜城主となる。翌年近江高島郡で七千石を加増。晩年、若狭守と称した。

京極 高知(きょうごく たかとも) (1578〜1622) 影武者徳川家康

関ヶ原東軍徳川方武将。
京極高次の弟。妻が信濃国飯田城主毛利秀頼の娘であったことから、秀頼の死後、飯田城十万石を領することとなった。慶長五年(1600)、高知は徳川家康の上杉討伐に従軍し、更には岐阜城攻撃や関ヶ原合戦で軍功をあげる。戦後、丹後国宮津城十二万三千石に加増転封。

京極 忠高(きょうごく ただたか) (1593〜1637) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

若狭守。京極高次の子。
慶長十四年(1609)、父高次が没すると遺領の若狭小浜九万二千石の藩主となる。寛永元(1624)年、越前国敦賀郡に二万千五百石、同十一(1634)年には出雲・隠岐二十四万四千二百石に加増転封し、同十三年(1636)には石見銀山と四万石を賜った。寛永十四年(1637)、嗣子のないまま死去。甥の高和を養子としたが幕府に承認されず領地は没収された。

京極 忠知(きょうごく ただとも) 吉原御免状 

丹後守。徳川家家臣。千五百石旗本。
安房を領地とした。

京極局(きょうごくのつぼね) (1602〜1656) 吉原御免状 

後水尾天皇の側室。
名は藤原(園) 光子。左大臣園基任の娘。初名を国子のち継子といった。後に後光明天皇となる素鵞宮(紹仁)、輪王寺門跡となる守澄入道親王(幸教親王)、大聖寺門跡となる元昌皇女、霊鑑寺門跡となる宗澄皇女、恵宮皇女の二男三女をもうける。

尭怒法親王(ぎょうどほうしんのう) 花と火の帝 

後水尾院の第十皇子。

清野 助次郎(きよの すけじろう) 一夢庵風流記

『上杉将士書上』を著す。

清野 秀範(きよの ひでのり) 死ぬことと見つけたり 

帯刀。

清原 彦一(きよはら ひこいち) 鬼麿斬人剣 

清原彦右衛門の倅。

清原 彦右衛門(きよはら ひこえもん) 鬼麿斬人剣

松本藩徒士組。刀屋中島屋平兵衛から数打のの清麿を買った一人。

吉良 上野介(きら こうずけのすけ) (1641〜1702)  影武者徳川家康、時代小説の愉しみ 

義央(よしひさ)。幕臣。
高家筆頭(肝煎)の地位にあり、江戸城内の諸事を掌る責任者。西三河郡(現愛知県吉良町)に領地を持つ直参旗本。江戸城松の廊下刃傷事件の被害者。後に赤穂浪士たちに討ち入られ殺される。

吉良 義昭(きら よしあき) 影武者徳川家康 

元東条城主。三河一向一揆に参加。

切られ与三郎(きられよさぶろう) 銚子湊慕情

歌舞伎世話狂言『与話情浮名横櫛』に登場する主人公。モデルは長唄四代目芳村伊三郎とされる。切られ与三の役は初演の八代目市川団十郎から五代目尾上菊五郎、ついで十五代目市村羽左衛門に伝わり、「しがねえ恋の情が仇〜」の名ゼリフが喧伝された。
また一説に、本名を大吉といい、紺屋を営む中村家の二男として、上総国山武郡大網白里町清名幸谷に生まれたとされる。大吉は家業の染物を手伝っていたが、茶屋遊びを覚え、通っているうちにお富を知った。末を案じた父親は大吉を木更津の親類縞屋に修行に出した。それから数年後、木更津八幡神社の夏祭りの夜、お富と再会。お富は木更津の建干網の網元で、侠客でもあった坂木の源次(源左衛門)の囲われもので、やがて二人の密会が源次に気づかれ、大吉は半殺しの目にあう。この時、大吉が受けた刀傷は三十余り、息絶え絶えで海に投げ込まれるが、運良く江戸通いの船に助けられる。その後、大吉はその美声を活かして「かど付け芸人」として江戸市中を回り、歌舞伎の下座などを勤めていた。一方、源次に捕まったお富は、源次の家から逃げ出し大吉の後を追おうと海に身を投じたが、船遊びをしていた江戸日本橋の呉服屋の主人に助けられた。そしてたまたま呉服屋の近くでかど付けをしていた大吉と再び会う。二人は呉服屋の主人に委細を話すと、話の分かる主人は二人が夫婦になる事を許し、大吉が今後長唄で身を立てるつもりならと、知人の芳村以十郎を紹介した。こうして芸をみがいた大吉は、五代目(四代目)芳村伊三郎を継ぐまでになったという。しかし、四十四歳の時、大吉の才能に嫉妬した仲間に水銀を飲まされ声を潰されたとされる。
やがて、全身に切り傷のある伊三郎に興味を抱いた戯作者瀬川如皐は、伊三郎から話を聞き、それを歌舞伎台本に脚色したとされる。ちなみに伊三郎こと大吉の墓は、木更津市の光明寺、東金市の最福寺、東京品川の妙園寺の三ケ所にある。(『郷土資料事典』12)

金原 達之進(きんばら たつのしん) 鬼麿斬人剣 

伊賀同心。諏訪明神の境内で、鬼麿を闇討ちしようと鉄砲で狙うが、逆に鬼麿に殺される。

人名(く〜くん)

空海(くうかい) (774~835)

幼名真魚。弘法大師。宝亀五年六月十五日、讃岐国多度津郡屏風ヶ浦に生まれる。父は佐伯直田、母は阿刀大足女とされる。
十五歳の時、外舅阿刀大足に『論語』『孝経』を学び、その後京都へ上って詩文を修め、十八歳で大学に入り漢籍経書を学ぶ。このころ大和石淵寺の勤操大徳の教えを受け、仏道を志して出家。教海と名乗り、後空海と改めた。延暦二十三年(804)、三十一歳の時、遣唐使藤原葛野麻呂に従って唐に渡り、慧果に師事して密教の奥義を究め、大同元年(806)に帰朝。同四年京都へ入り、高雄山神護寺において真言宗の開宗を宣言。弘仁三年(812)、最澄らに伝法灌頂を授けた。同七年(816)、嵯峨天皇の勅許を得て高野山に真言の道場として朝廷から京都教王護国寺(東寺)を賜った。天長五年(828)に造立した綜芸種智院は、わが国最初の、庶民を対象とした私立学校とされている。承和二年三月二十一日、高野山にて入寂。延喜二十一年(921)、弘法大師の諡号が贈られた。

九鬼 守隆(くき もりたか) (1573〜1632) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

嘉隆の嫡子で幼名は孫次郎。長門守。鳥羽城主。志摩五万石領主。
守隆の死後、後継争いが起こり幕府の調停を仰いだ。しかし、これが九鬼家にとって痛恨の事態となる。予て水軍を幕府直轄にしようと目論む徳川家にとって、この争いは格好の餌となった。こうして熊野水軍の雄九鬼家は、幕府の命により摂津国三田3万6千石(五男久隆)、及び丹波国綾部2万石(三男隆季)に分家され、九鬼家の水軍大名としての役割は終わる。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「九鬼長門守」として以下の記述がある。
「摂州三田の城主九鬼長門守は柳生家の高弟であったが、同門で免許を受けたものと勝負をして見るに長門守を打つ人は一人もなかったが長門守の打ち出す太刀は必ず中った、どうかすると長門守が、「今の太刀は来たぞ」と申されることがあるけれども、それは飾り言葉でこちらの太刀が中ったとは思われなかったそうである。上の好むところによって、三田には剣術の芸能の士が多かった、中に一人の異人があって、一人行厨を腰につけて深山に入ることを好んでいたが、或日また山に入って千偲の絶壁の上に坐り、握り飯を取り出して食べていると空から一つの鷲が来てその食物を掴み取ろうとする、右の侍これを見て、抜き打ちに丁と斬ると片翼を打ち落し羽は岩の上に止まり鷲は谷底に落ちた、その羽を取って帰宅したということである。また三田には町の真中に或る部落の者の剣術稽古場まであって盛んに稽古を人に見せていたということである、もってその盛んなことを知るべしである。(撃剣叢談)

九鬼 嘉隆(くき よしたか)(1542〜1600) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、風の呪殺陣

九鬼水軍頭領。九鬼守隆の父。右馬允、大隈守。伊勢国司北畠氏が領していた志摩七島の地人の子に生まれる。永禄年間(1558〜1569)に織田信長の支配を受け、長島一揆、本願寺攻めに自己の水軍を率いて功をなした。九鬼水軍の船は毛利の水軍をも問題とせず破った。信長没後、一時、信雄に属したが、すぐに絶交して豊臣秀吉と結んだ。九州・小田原の両役にも参加。瀬戸の海賊を束ね、文禄の役では鬼宿という軍艦で出動する。そのとき秀吉から「日本丸」の船名を貰った。関ヶ原では石田方につき、家康側についた実子守隆の拠った鳥羽城を奪った。だが、関ヶ原で西軍が敗れた後も、東軍の稲葉道通と戦い、惨敗を喫し、答志島に隠れる。この時、守隆の家老に勧められ腹を切った。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
当初は伊勢国守北畠氏に仕えていたが、戦国期に入り嘉隆の代になると地頭・国人たちもそれぞれ同盟を結び、彼等なりに動乱を乗り切ろうとするのだが、一人九鬼嘉隆だけはそうした彼等に同調しなかった。そのため一時は、周辺地頭連合軍に攻められ領地を追われる。その後、嘉隆は織田信長に仕え、織田水軍の将として活躍し、伊勢志摩両国を平定した信長により志摩一国を与えられ、大名となった。天正十(1582)年に信長が亡くなると、嘉隆は豊臣秀吉の配下に加わる。やがて日本全土を統一した秀吉は朝鮮半島、中国大陸への派兵を行い、10万人を越える将兵の輸送と護衛で九鬼水軍は活躍した。その秀吉が没した後の関ヶ原では、九鬼嘉隆が西軍に与し、子の守隆は東軍に加わった。守隆は水軍を持って伊勢湾の制海権を掌握し、さらには桑名城を守る西軍の氏家純利を破るなどの功を認められ、父嘉隆の助命の赦しと二万石の加増を受ける(父嘉隆は、守隆が助命嘆願の最中に重臣豊田五郎右衛門の忠告で自刃した)。

日下部 兵右衛門(くさかべ ひょうえもん) 捨て童子松平忠輝

甲斐の国奉行。

草津 重三郎(くさつ じゅうざぶろう) 一夢庵風流記

深草重太夫の弟。

草野 弥之助(くさの やのすけ) 一夢庵風流記

上杉家側小姓。

久知 泰時(くじ やすとき) 一夢庵風流記

佐渡本間一族の武将。

九島 左衛門(くしま さえもん) 

→ 北条 綱成(ほうじょう つななり)

九島 弁千代(くしま べんちよ) 時代小説の愉しみ

九島左衛門(綱成)の弟。北条氏康の小姓。

福島 正成(くしま まさのり) (1492〜1536) 時代小説の愉しみ

遠江国掛川城主。北条綱成の父。
今川家に仕える。

九条 兼孝(くじょう かねたか) 花と火の帝

前関白。

九条 忠栄(くじょう ただざね) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝

左大臣、前関白。

九条 尚忠(くじょう なおただ) 異説猿ケ辻の変

前関白。

楠木 正成(くすのき まさしげ) (1294〜1336) 吉原御免状、花と火の帝

楠とも書く。鎌倉時代の武将。太平記に表れ、建武中興の英雄として知られる。楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは、元弘元/元徳三(1331)年の元弘の変の際に後醍醐天皇側として河内の赤坂城で挙兵した時とされる。
楠氏は河内南部水分川流域の出身といわれ、高遠の二男正成が後醍醐天皇の倒幕に与し歴史に名を残す。元弘元/元徳三(1331)年の元弘の変では、千早城籠城で幕府の大軍に奇策を用いて持ちこたえ、足利尊氏や新田義貞の倒幕が起り、建武中興をもたらした。(『伽婢子』2人名索引)
伊藤梅宇の『見聞談叢』に「○楠正成墓 兵庫の町はづれ、五町程北の方、海道より一町ほど上の野中にあり。元禄四年水戸中納言西山公営建、碑文の作者明の乱をさけ長崎に来り居ける朱之瑜字魯與(王篇)号舜水の作」とあり、摂津国兵庫(現兵庫県神戸市)の楠木正成碑は、明の学者朱舜水の銘文で徳川光圀公が建立したとある。
四十九 正成朝臣の事
一、河内の判官楠正成は我朝忠臣の鑑、誰かこれを仰ぎ敬せざらんや、窃に異論するは正に筍子の徒なるべし、或人云正成湊川の戦ひ利あらざる事は明らかに知れり、公家の政道に厭果て、誰にてもあれ武将を得て是に従ん事を願望をも知れり、尊氏義貞を始、其時の武将不賢なる事をも知れり、然らば此時に当て正成旗を揚ば天下の士皆己に帰せん事をも知たるべし、然るに万全の謀を捨て万に一ツも利無き戦をなし、遁れば遁るべき所にて切腹せしは義の重きによる事は先賢の論明らかになれば今更言に及ばず、まづ置ぬ、此時楠湊川にて戦ひしは勅命の上は、さも有べし、味方惣敗軍と成し時、楠も其場を引て領国へ帰りたらんには、後醍醐帝は叡山へ御幸あり、新田足利の戦ひ、楠討死せし後の如く成べし、両将京にて争ふ内に楠兵を出し大和紀伊伊勢の辺りを斬従んは日を経べからず、かくて後、帝を我領国へ行幸なし奉り、その器にあらぬ公家の人々をば皆解官して、正成太政大臣となりて摂政し、和田恩地八尾の輩を始とし、又公家武家の内にも其器にあたる者共を選挙て左右の大臣大将納言となすべし、其上にも天皇猶不■におはしまさば諸王の内にてさりぬべきを帝位に付奉り、伊尹、商を助、孔明、蜀を治し如く、正成が心の儘に政道を行ひなば天下太平に帰せん事、何の疑か有べき、万民塗炭の苦みを救ひ帝位永く安く、皇化の行れん事往古の如く成べし、然るに其成易きをせずして討死せし天皇の正統永く世に絶しめ、慶長五年迄凡三百年天下の万民生を安んせざるは正成、義を重んずるに過て我身を捨しによれり、其志は間然する事なしといへ共、其器小きが故也、往昔帝位盛也し時は武内宿禰鎌足大臣共に天下の政を預るに至りしを考ずして、藤氏権を専にして是より帝威衰し、五摂家を廃する事を憚し故に、南帝の後は高福院殿に至りて皇統断絶せり、我より見れば正成が命を捨、家を亡せしは五摂家始、公家の子孫、今の世迄連綿として統を継たる助とはなりもやせん、帝位の為にあらざれば正成が本意にも違なるべし、治乱は天数に在て人力の及び難き事なれば、縦令正成その器に当らぬ公家を廃し、自ら摂政するとも、南帝の皇孫、帝位永く保たせ給ふ事あるべからずといふ人あり、一理あるが如くなれ共あやまりに近からんか、人力を尽して後、事ならざるは天命なれば是非なし、自ら事をなさずして治乱は天にあるといふて大小事ともに省る心なく打捨置んは、その是なる事を知らずといへり、(『享和雑記』巻四)

久世 右近(くぜ うこん) 捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。
配流となった忠輝に従う。

久世 三四郎(くぜ さんしろう) かくれ里苦界行

旗本。
河合又五郎事件で安藤四郎右衛門らとともに百日の寺入りの処分を受ける。

朽木 元綱(くつき もとつな) 影武者徳川家康

関ヶ原西軍からの寝返り大名。
石田三成の居城佐和山城攻めの先鋒を務める。

久納 市左衛門(くの いちざえもん) 死ぬことと見つけたり

龍造寺高房の家臣。

九戸 政実(くのへ まさざね) (〜1591) 一夢庵風流記

九戸城主。南部信直の一族で、豊臣政権に叛旗を翻す。
天正十九年(1591)、政実は南部氏二十六代当主の選任問題から、宗家の南部信直に叛逆の兵を挙げた(九戸の乱)。信直は豊臣秀吉に援軍を頼み、政実の依る九戸城を六万五千の軍勢で攻めるが、豊臣軍は攻めきれず和睦に持ち込んだ。しかし、政実は、その裏で謀略を用いる秀吉に捕らえられ、斬首された。
こうして最期まで豊臣政権に屈しなかった九戸政実が滅びた事で、秀吉の全国制圧が完成した。(『郷土資料事典』3)

窪田 清音(くぼた すがね) 鬼麿斬人剣

幕臣。
「武家目利き」の大家。

窪田 忠兵衛昌綱(くぼた ちゅうべえまさつな) 捨て童子松平忠輝

長安配下の川中島藩代官。

熊谷信直女(くまがいのぶなおむすめ)

吉川元春の正室。よしの原御つぼね、大はうさまなどと呼ばれる。元長、元氏、経言(広家)、益田元就室の母。
熊谷氏は鎌倉以来三入荘を本拠とする豪族で、婚姻にあたって『陰徳太平記』には、児玉就忠は「世に又なき悪女(不美人)で、これを知ったら元春は後悔するだろう」と述べたとある。しかし元春はそれを聞くとにっこり笑い「容貌は関係ない、一家一国を統治するもの第一に慎まなければならないのは好色である、信直の娘は醜いので、娶る人がいない、私が娶れば、信直は私の志に感謝して、聟よ舅よと世間の百倍はもてはやしてくれる、信直は私の志に報いようととして身命をなげうつだろう。いま中国地方には信直に勝る大将はいない。私が勇猛な信直を引き連れて元就の先陣を進んだなら、どんな強敵大敵が現れても平気である。だから悪女を嫁とするのは父に対して孝行となる」といった。これに対して、就忠も元就も元春の覚悟に感じ入ったという。

神代 直長(くましろ なおなが) 死ぬことと見つけたり

無資料。

倉地 平右衛門(くらち へいえもん) 影武者徳川家康

三河一向一揆上宮寺の大将。

栗生 吉兵衛栄先(くりお きちべえさねさき) 影武者徳川家康

三百石。

栗田 刑部(くりた ぎょうぶ) 花と火の帝

上杉家臣だったが藤田信吉と共に上杉家を脱藩するも、追手に討たれる。

来島 通総(くるしま みちふさ) 見知らぬ海へ

無資料。

車 丹波守(くるま たんばのかみ) 一夢庵風流記

浪人のいくさ人。
上杉家の助っ人として出羽の戦いに参戦。

黒田 如水(くろだ じょすい) (1546〜1604) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり

官兵衛孝高。元の名は小寺官兵衛祐隆といい、播磨の守護赤松家に仕える小大名小寺家の重臣小寺職隆の子として生まれる。秀吉の播州経営の帷幕に参与し懐刀と云われた。従五位下勘解由に叙せられる。
予て中国平定のため、毛利氏との中間地点に当たる播磨地方を調略するため、羽柴秀吉は各地の豪族達に織田方に付くよう誘っていた。機を見るに敏な官兵衛は、天下は織田信長のものになると判断し、誘いを受けると長浜に秀吉を訪ね、その仲介で信長に会い帰属を約束した。しかし官兵衛が留守中に、当主小寺政職は別所長治等に誘われ毛利方に付いたため、官兵衛は小寺家を見限って小寺姓を捨て黒田姓を名乗り孝高と改名、信長に仕え羽柴秀吉の与力となった。天正六年(1578)、信長に叛いた荒木村重を説得のため摂津有岡に赴き、捕えられ監禁される。ようやく脱出したが跛となって帰還。高松城攻めにも参加し、明智光秀の謀叛の報を受けた時、消沈する秀吉に「これぞ天が与えた好機」とすぐに光秀を討つように提言したのはこの官兵衛だったという。信長没後、秀吉とともに数々の合戦に軍師として参加。小牧の戦の後、山崎城主となるもその後は領地を転々とした。天正十七年(1589)家督を子の長政に譲り、如水軒円斎と号した。
関ヶ原の合戦では家康について、戦後官位と畿内に領地を与えようといわれるが、五十五歳になっていた如水は、高齢を理由に辞退し、出仕に耐えられぬと福岡の地に引っ込んだ。その後は、歌や茶会に出るなどで過ごしたが、これも家康の警戒心を解く苦肉の策だったともいわれる。
茶湯を利休に学び、慶長四年には『茶湯定書』を著している。大徳寺春屋宗園に参禅し、禅を学ぶ。慶長九年三月二十日卒。

黒田 忠之(くろだ ただゆき) 死ぬことと見つけたり

無資料。

黒田 長政(くろだ ながまさ) (1568〜1623) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり、柳生非情剣、かぶいて候、時代小説の愉しみ

幼名吉兵衛。関ヶ原東軍方大名。父は黒田官兵衛孝高(如水)。姫路で生まれる。
初陣は天正十(1582)年の中国征伐。翌年の賤ヶ岳の合戦で戦功をあげる。以後、着実な加増を受け、天正十七(1589)年には、父孝高の所領を継いで豊前六郡を領し、従五位下甲斐守に叙任。同十九(1591)年十二月、名護屋城の普請奉行。朝鮮の役では先鋒の三番手、金海城、昌原を抜き、黄海道を進む。小西行長の窮地を救い大活躍。朝鮮再征の時も、明軍を大いに破った。秀吉没後、石田三成に反して家康につく。関ヶ原で功を上げ、筑前五十二万石余を得る。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
筑前守。神祖伏見御在城の砌、父勘解由入道孝高と共に、無二の忠功を顕はし、関ヶ原の役にも、父子共に御味方と成、軍功を励すに寄て、父入道、筑前国を賜る、慶長九年、孝高卒て後、長政家を継て筑前守に改む、室は神君の御養女、実は保科弾正忠正直の女也、(『江戸古絵図考附録』)
[黒田長政の義勇]
○柳瀬にて、中川瀬兵衛討死せるあとを、味方の援兵をまつ間、黒田官兵衛孝高そこをまもりておれるが敵つよくせめて、味方援けなくんばうちじにまでとおもひ極め、家臣栗山四郎兵衛をよび、汝は吉兵衛をつれて、こゝを逃、我があとをたつべからずと云ふ。吉兵衛わづかに十歳あまりなれば、虎口をのがれたりとて、家のきずとなる事もなし。却てわれふかき分別ありとせんと云れければ、栗山いろ/\ことわり云へども、今吉兵衛を無事にのけば、こゝにとゞまりて討死せんよりは、百倍の忠節なり。時うつるぞといそがるゝに因りて、栗山やむをゑず承引して吉兵衛をさきにたてゝ行くこと一里ばかりなる時、吉兵衛われをばいづくへつれゆくぞと問ひ玉ふゆへ、栗山しか/\〃の由こたへければ、吉兵衛きくより早く父をはなれていづくにかゆかん。武士はにぐることはなきものと云ふことを父のつねにおしへ玉ひしものをとて、乗れる馬をけたてゝ、くつわを引きかへさるれば、栗山まことに父の御子かなと感涙を流、したがふて孝高のとりでへかへる。希代のほまれなり。すなわち是黒田甲斐長政侯なり。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之五)

畔柳 寿学(くろやなぎ じゅがく) 影武者徳川家康

駿府奉行。

(け〜けん)

源応尼(げんおうに) (?~1560)

お富の方。華陽院。松平清康の室。徳川家康の祖母。大河内左衛門尉元綱養女。実父は『玉輿記』によれば尾張の地侍青木加賀守式宗女とある。
初め刈谷城主水野右衛門太夫忠政の室で、三男(織部正忠守、備後守忠介、和泉守忠重)一女(お大、家康の母)の母だったが、ほぼ三河一国を掌握しつつあった松平清康に望まれ清康の室となる。清康との間に一男(松平源次郎信康)一女(松平上野介康高の妻、康高の死後酒井左衛門尉忠次の妻)をもうけた。天文四年(1535)、清康が尾張森山の陣中で不慮の死(森山崩れ)を遂げると、星野備中守秋国の妻となり、秋国が没すると、菅沼藤十郎の妻となった。その菅沼とも死別し、五度目の嫁ぎ先となったのが川口久助盛祐だったという。『柳営婦女伝系』では「お富の方不幸のことに逢い給いしかども、美貌の聞えありけるにや、都合五度縁づき給えり、乱世の時節には、かかるためしもあるものなれど、後人これを不審せり」と記し、『玉輿記』にも「お富の方不幸の事に逢ひ給ふと申も、都合四五度御重嫁、乱世の時節はかヽるためしも有事なれども、後世是を不審せり。」と記している。後年、剃髪し名を厳応尼と改め、永禄三年(1560)五月、甥の大河内源三郎政房の屋敷で、七十余年の生涯を閉じ、駿府宮崎少将松智源院(現浄土宗華陽院)に葬られた。

源氏の君(げんじのきみ) 駆込寺蔭始末

光源氏。
『源氏物語』の主人公。

(こ〜こと) 

興意法親王(こういほうしんのう) 花と火の帝

聖護院門跡。後陽成天皇の皇弟。

甲賀 近江守(こうが おうみのかみ)

望月兼家。三郎。諏訪太左衛門重頼の三男。
伊賀地誌に甲賀家伝引き曰、醍醐天皇御宇に信濃国望月明府の住人諏訪太左衛門源重頼朝廷につかへて武勇の名あり。男子三人ありて長子を望月太郎重家と云ふ、次男を諏訪二郎貞頼と云ふ、三男を望月三郎兼家と云ふ。しかるに若狭国高懸山に賊ありて旅人をおびやかす故に追ひ払ふべき勅を蒙り、三人の男子高懸山に発向す。就レ中兼家武勇絶倫なるを以て、進んで強戦をとげ、賊つゐにのこらず誅伐す。兄両人兼家が武勇をそねみ、深き谷につき落し、両人の高名なりと奏して、過分の恩賞を賜はり、太郎は信濃守と改め、次郎は美濃守と改む。しかるに兼家穴にをち入りて大きに傷、息すでにたへたりといへども、暫くしてよみがへり、相しる人の方にて療養をとげ、本復せしかば、漸く私宅へ立ち帰れり。二人の兄ともにこれを見て行衛なく逐電す。兼家二人の兄の領知を併せて、武威ます/\強大なり。承平年中相馬将門謀反の時勅令によつて東国に下向し、軍功他にこゑし故に、近江の内甲賀群を給りて住居し、甲賀近江守と改む。後に伊賀半国を賜り、千歳佐那具に在城すと云ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之一)

甲賀 左馬助(こうが さまのすけ) 影武者徳川家康

松平忠吉の家士。

光孝天皇(こうこうてんのう) (830〜887) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝

第58代天皇。時康。仁明天皇の第三皇子。文徳天皇の異母弟。
五十五歳になるまで皇位とは無縁で、野心もなく穏和な人柄だったとされる。激しい気性だった陽成天皇の退位後、藤原基経らに推挙されて即位した。摂政基経に政務を託し、第七皇子、定省(後の宇多天皇)を後継に立て、在位四年にして崩じた。

勾坂 甚内(こうさか じんない)

高坂、上坂とも書く。江戸初期の盗賊。
庄司甚内と争い、庄司甚内が名を捨て甚右衛門と改めたというエピソードがある。また、この甚内を祀った神社「勾坂神社」が処刑地の浅草にあり、瘧を鎮めるという噂が広まり、参詣に訪れる者があるという。

○強盗勾崎(ママ)甚内、同所に誅せらる、(浅草元鳥越の辺、其頃の刑罪場なり、此処の橋を、今も甚内橋といふ、八月十二日をもつて、今もまつりをなすといふ)
(略)
橋は甚内橋に非ざるを思ふべし、
甚内がこと、古老云つたふ、彼召捕しとき、瘧をやみ居たり、これに依て、今もこの疾ひのもの、願をかくるに往々しるしありと云、(『武江年表』慶長十八年)

勾坂 弾正(こうさか だんじょう) (1527〜1578) 吉原御免状

武田家四天王と呼ばれた武将の一人。
徳川幕府に仕えた竹尾善筑の書によれば、初め春日大隅という土豪の一人だったが、武田信玄に仕えた時に高坂と改名、名を昌信と改めたとある。勾坂、香坂、向坂などと書かれる。
また、この勾坂弾正は俗に『甲陽軍鑑』を著し、それを春日惣五郎が書き次いで完成されたと云われているが、実作者は小幡景憲だと同書にある。(『即事考』)
「槍の弾正」の異名を持つ武田家きっての豪傑と『吉原御免状』(339p)にある。しかし、武田家の家臣で「鎗の弾正」の異名を持つ武将は保科正俊というのが一般。勾(高・向)坂弾正は「逃げの弾正」と云われている。
『即事考』にある高坂弾正関連記述を参照ください。

上泉 伊勢守(こうずみ いせのかみ) 

→ 上泉 秀綱(かみいずみ ひでゆな)

勾当内侍(こうとうのないし) 花と火の帝

官女。
勾当内侍は個人の名ではなく官名。内侍司(ないしのつかさ)の三つの役職の内、第三位の役、掌侍(ないしのじょう)の中の第一の者を云った。

高徳院御新造(こうとくいんごしんぞう)

大内義隆の側室。広橋兼秀女。
大内家と広橋家は、広橋兼秀の五男寿玉が大内義隆の養子となり、義隆の父義興の菩提寺凌雲寺(山口市)に住していたように、親密な関係にあった。その兼秀の女は初め広徳院(高徳院・光得院)に入って理宗長老の弟子になり、理広と称していたが、義隆に見初められ、側室として大内屋形に迎えられた。
陶晴賢が叛いた時に、再び高徳院に逃れ尼になったといわれる。しかし、『尊卑文脉』には、右馬頭源藤賢(細川藤賢)の妾になったとある。

孝明天皇(こうめいてんのう) 異説猿ケ辻の変

無資料。

蝙蝠の安蔵(こうもりのやすぞう) 銚子湊慕情

『与話情浮名横櫛』に登場する人物名。「蝙蝠安」と云われるならず者。
「切られの与三」を引き連れ、大店を強請り歩いていた。
木更津本町で鬢つけ油屋を営む紀の国屋の生まれで、本名を山口滝蔵といった。滝蔵は晩年旅先で悪事を働いて伊豆の新島に流され、そこで殺人の前科が発覚し流刑地で処刑されたと伝えられている。木更津市中央の浄土宗選択寺に、滝蔵の墓といわれる墓塔がある。墓碑銘には「慶応四年(1868)四月五日 進岳浄精信士」とある。(『郷土資料事典』12)

高力 左近大夫忠房(こうりき さこんだいふただふさ) 捨て童子松平忠輝

幕臣。
小田原城没収の役を仰らる。

郡 主馬(こおり しゅめ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

豊臣家家臣。

久我 敦通(こが あつみち) 花と火の帝

武家伝奏。大納言。

穀蔵院 ひょっとこ斎(こくぞういん ひょっとこさい) 

→ 前田 慶次郎(まえだ けいじろう)

後光明天皇(ごこうみょうてんのう) (1633〜1654) 吉原御免状、かくれさと苦界行、花と火の帝

第110代天皇。紹仁(つぐひと)。後水尾天皇の第四皇子。
寛永二十年(1643)、姉の明正天皇の譲位を受け即位。在位十二年二十二歳で病没するが、その間、父帝の院政下にあった。朱子学に傾倒し、朝山意林庵などの民間の朱子学者を招いて聴講するなど、学問を好む一方、武芸にも傾倒した。御母園光子、正室庭田季子 、皇女孝子内親王をもうける。

後小松天皇(ごこまつてんのう) (1377〜1433) 影武者徳川家康

第100代天皇。幹仁(もとひと)。後円融天皇の第一皇子。
弘和二年(1382)、父帝が譲位したとき崇光上皇の皇子栄仁親王と皇位を争い、父帝の従兄弟である足利義満の強力な推挙によって即位。元中九年(1392)、南北朝合一により南朝の後亀山天皇から神器を譲られる。応永十九年(1412)、実仁親王(称光天皇)に譲位し院政を敷く。称光天皇が没すると皇位が南朝系に移るのを恐れた幕府の意向により、栄仁親王の孫彦仁を猶子に迎え、後花園天皇として践祚させた。

後西天皇(ごさいてんのう) (1637〜1685) 吉原御免状

長仁(ながひと)。後水尾天皇の第八(七)皇子。
承応三年(1654)兄後光明天皇の急死により、弟で後光明天皇の養子識仁親王(霊元天皇)が生後間もないため、その中継ぎとして践祚、明暦二年(1656)即位した。在位中は天変地異が多く、幕府に退位を迫られ寛文三年(1663)霊元天皇に譲位した。また在位中は父後水尾上皇が院政を敷いており、政務に就くことはなかった。御母櫛笥隆子、正側室は女御・明子女王、清閑寺共子、源氏、藤原氏、藤原定子、藤原条子、菅原氏等がいる。
皇弟識仁親王に皇位を譲った後、太上天皇として院の御所に二十三年間過ごし、貞享二年崩御。茶湯を金森宗和に学び、宗和流に傾倒していた。 

後白河法皇(ごしらかわほうおう) (1127〜1192) 影武者徳川家康、かくれさと苦界行、死ぬことと見つけたり

後白河天皇。後白河上皇。『梁塵秘抄』を著す。
第77代天皇。雅仁(まさひと)。近衛天皇の異母兄で鳥羽法皇の第四皇子、崇徳上皇の同母弟。同母兄の崇徳上皇は五歳で、弟の近衛天皇は三歳で即位したが、その近衛天皇の後をうけて即位した時、天皇は既に二十七歳になっていた。周囲の評価は「即位の御器量にあらず」というもので、即位した翌年、鳥羽法皇の崩御を機に、実子重仁親王の即位を画策する崇徳上皇らによる保元の乱が発生したが、これを難なく鎮定し、以降、源平両氏の台頭する時代を上皇、法皇となって実権を握った。  

小島 三右衛門(こじま さんえもん) 死ぬことと見つけたり

鍋島藩江戸本邸詰め横目付。

小島 段蔵(こじま だんぞう) 死ぬことと見つけたり

無資料。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう) (1288〜1339) 花と火の帝

第96代天皇。尊治(たかはる)。後宇多天皇の第二皇子。
大覚寺統の後宇多上皇は第一皇子後二条天皇の子邦良親王の即位を望み、その中継ぎとして後醍醐天皇を徳治三(1308)年、持妙院統の花園天皇の皇太子とした。文保二(1318)年即位。はじめは後宇多上皇の院政であったが、元亨元(1321)年、親政となると専制的な政治を展開。正中の変・元弘の乱と二度の倒幕計画に失敗し、元弘二(1332)年、隠岐島に配流されたが、すぐに皇子護良親王や楠木正成が再び決起すると翌年、隠岐を脱出。倒幕命令を各地に発し、足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼすと帰京し建武親政を開始した。やがて尊氏の離反を招き、延元元(1336)年、吉野へ逃れて南朝を樹立。延元四(1339)年、義良親王(後村上天皇)に譲位して崩御。

後藤 寿庵(ごとう じゅあん) (生没年不詳) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

五島とも書く。岩渕近江守秀信の三男。洗礼名ジョアン。奥州見分領主。
イエズス会宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスとも親しく、伊達政宗の計画した遣欧使節にも関わり、アンジェリスに使節団の目的等を語ったとされる。
伊達政宗の寵を受け、奥州見分の福原に千二百石(一説に八百石)の領地を得て居館を構える。熱心なキリスト教徒であった寿庵は、家臣をキリスト教徒に改宗させ、領民への伝導に勤めた。一方、肝沢郡南部を開拓、寿庵堰を築き一帯を穀倉地帯に変えるなど善政を施していたが、幕府の切支丹禁令により弾圧が強まり、元和九年(1623)、一族十数人とともに落ちのび、南部牢人と称して仙北地方に潜伏していたが、捕吏に捉えられ斬首の刑で殉教した。
口碑では塩漬けにして埋葬したと伝えられていたが、近年までその埋葬地は不明だった。その地を示す供養碑が発見され、現在、そこが寿庵の墓とされキリスト教徒の聖地となった。(『郷土資料事典』3、4)

後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう) (生年没年不詳) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生刺客状

光次。豪商。
金座を設ける。

後藤 徳乗(ごとう とくじょう) 影武者徳川家康

彫金工芸の名門。後藤庄三郎の師匠。

後藤 信康(ごとう のぶやす) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

伊達家家臣。

後藤 又兵衛(ごとう またべえ) (1560〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

基次(もとつぐ)。大阪城浪人衆。父は後藤新左衛門尉(将監基国)といわれる。
初め父基国の主幡州三木城主別所長治に仕える。信長の中国征伐で秀吉軍に三木城が落され降将となるが、乞われて黒田孝高・長政に仕え、九州各地を転戦。朝鮮の役では長政の麾下にあって先手を勤め、晋州城攻めで抜群の働きを示す。戦機を見るに敏で、実戦では長政も感嘆した。関ヶ原後、長政が筑前入りすると長政から大隈城一万六千石を得るが、その挙動を不審がられ筑前を退出。再仕官の道をことごとく長政に妨害され、浪人となって諸国を流浪した。その後、秀頼の大阪城に拠る。徳川方より再三の誘惑が有ったが応ぜず、元和元年の夏の陣で、水野、松平、本多、伊達の軍と戦って戦死。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
[逸話](『想古録』)
後藤又兵衛基次は千里の駿足なり、黒田如水なればこそ乗りこなしたれども、長政の腕前にては馭する能はず、機敏なる基次は早くも其機を察しければ、長居するときは犬死すべしとて暇を取りて浪人しけるに、福島正則予て基次の智勇を愛しければ、招聘して召抱へんと相談しけるに、三万石ならざれば仕ふる能はずとて之を辞せり、是れ正則を長政と同一視し、殊更に行はれ難き相談を掛けて避けたる者なり、正則は早や掌中の珠と信じ居たる基次が、案外なる難題を設けたるに深く望みを失ひしが、彼が彼なれば我も亦我が悪戯を試むべしとて侍臣に内命し、失念したる躰にて箸を添へざる膳部を基次に羞めしめたり、時に基次は少しも当惑せし様子なく、佩刀の小柄を抜きて膳の両端を殺取り削りて、箸として快よく食事を終へければ、流石の正則も驚愕し、彼れ真に一世の傑士なりとて感歎の外あらざりしと云へり、之を周亜夫が快々として去りたるに比すれば、活溌々たる働きありて幾倍の妙味あるを覚ゆ(滝川、服部)

後藤 光次(ごとう みつつぐ)

→ 後藤 庄三郎(ごとう しょうざぶろう)

政仁親王(ことひとしんのう) 

→ 後水尾天皇(ごみずのおてんのう)

(こな〜こん)

小西 如清(こにし じょせい) 影武者徳川家康

小西行長の兄。
父も如清を名乗っており、如清は家業を継いだものの名と思われる。

小西 マリア(こにし まりあ) (生没年不詳)

小西行長の女。宗義智の妻。キリシタン一族で名高い小西家の娘で、洗礼名だけが伝わっている。夫義智は妻の勧めで天正二十年(1592)に受洗し、ダリオという洗礼名を授かったが、行長が石田三成と与み関ヶ原で敗れると、家康を憚って妻マリヤを離別させ、信仰も捨てた。子を残したまま家を追われたマリアは、行長馴染みの長崎の修道院にかくまわれた。その後、家康の大赦を受け、それから五年後に神に召されたとされるが詳細は不明。

小西 マルタ(こにし まるた) 影武者徳川家康 

小西如清の娘。
有馬直純に嫁ぐがキリシタン禁制により離縁される。

小西 行長(こにし ゆきなが) (?〜1600) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、柳生非情剣、かぶいて候

関ヶ原西軍石田三成方大名。慶長五年の関ヶ原合戦後、石田三成とともに京都六条河原で斬首。
洗礼名をドン・アグスチンといい、熱心なキリシタン大名として知られた。自殺を忌み、捕虜となって処刑されたのも専らそのせいという。もと宇喜多氏の臣で和泉国堺の薬種商小西如清の子。通称弥九郎。秀吉に仕えて愛され、二百石の知行を受けたのが出世の始まりで、武人としては、島津攻めなど、九州一円の乱鎮圧に貢献した。朝鮮の役では、先鋒を承って釜山浦、忠洲を抜き、平壌を奪って殊勲をあげる。だが、明・朝鮮連合軍に押し負け退却。再征のときも失敗する。秀吉死後、帰国の途にあって海上で明軍と乱戦となり勝利を得る。帰朝後、五奉行の均衡が崩れると、石田三成とともに近畿で挙兵。慶長五年九月十五日、島津義弘とともに、小関で本多忠勝らの軍勢と大合戦となるが敗戦。伊吹山中に必死の逃避行も捕えられる。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
行長の父小西如清はみそや弥十郎とも云われ、戦場で討ち取った首の脳味噌を買い付け、生薬として売るのを業としていたらしい。このことから曲直瀬玄朔が著した『延寿院記』の記述「首から脳味噌を抜き取って丸薬にして商うみそ屋は唐人(朝鮮渡来人)」から、矢切止夫氏は行長は朝鮮人だったという説を立てている。(矢切止夫著『武将意外史』参考)

近衛 前子(このえ さきこ) 花と火の帝

後水尾天皇の御母。近衛前久の娘。近衛信尹の妹。中和門院。

近衛 前久(このえ さきひさ) 花と火の帝、風の呪殺陣

後水尾天皇の祖父。

近衛 忠熙(このえ ただひろ) 異説猿ケ辻の変

前関白。

近衛 信伊(このえ のぶただ) 影武者徳川家康、花と火の帝

関白。

近衛 信尋(このえ のぶひろ) (1599〜1649) 影武者徳川家康、花と火の帝

後陽成天皇の御子(第四皇子)。近衛信尹の養子。従二位内大臣。号応山。 
慶長十年八月、勅命により関白前左大臣近衛信尹の養嗣となり、信尋と名乗る。元和九年に関白、氏長者となる。正保二年剃髪して応山と号した。茶湯を織部、遠州に学び、書を養父信尹の三藐院流を伝えた。
慶安二年十月十一日没。

小早川 興景(こばやかわ おきかげ)

竹原小早川家当主。
毛利興元の女を室に迎えたが、子が無く、毛利元就の三男隆景を養子にし、毛利家を支える両川家の一翼を担うきっかけを作る。

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ) (1533〜1597) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記

幼名徳寿丸、通称又四郎。毛利元就の三男。小早川興景の養嗣。秀秋の養父。母は吉川国経女。参議、権中納言、従三位。
父元就の意志を継ぎ、毛利家の発展に尽力。
竹原小早川家の当主興景(妻は毛利興元女)には子が無く、その次弟小早川詮平の長子又鶴丸が盲目であったことから、天文十三年(1544)、その妹を娶り竹原小早川家を継いだ。ついで同十九年には小早川家の本家である沼田(ぬた)小早川家をも継承し、両小早川家を統一する。
信長の中国平定にあたって、備州高松城を包囲した羽柴秀吉と安国寺恵瓊とともに講和交渉にあたった。この時、本能寺で信長が急死したことから、秀吉は急遽交渉をまとめ明智光秀討伐に向った。こうして中国地方で足止めされているはずの秀吉が、クーデターから僅か三日で大軍を率いて畿内にもどったことから、光秀の計画は頓座し、秀吉が信長の天下統一事業を受け継ぐ形で天下人となる。こうした経緯から、隆景は天下人となった秀吉に重用され、天正十年(1582)、本拠を備州三原に移した。天正十三年には、秀吉の四国平定に従い戦功を上げ、伊予一国三十五万石を秀吉から与えられた。天正十五年の九州平定にも従い、戦後、筑前・筑後・肥前の一部を領し、本拠を筑前名島に移す。朝鮮の役にも出陣し、従三位権中納言に叙せられる。秀吉の晩年には本家毛利輝元とともに幼い秀頼を輔佐する役目の五大老の一人になった。
学を好み、中庸の道を力説、大徳寺玉仲宗秀(元字は王篇)に参禅し、茶湯を利休に学び、名島の妙見島や弁財天の社内に茶屋を建て、専ら侘び茶事を催した。とはいえ、武人として茶事に耽溺することも戒めている。
文禄四年(1595)、家督を秀秋に譲り備州三原に引退。慶長二年(1597)六月十二日、三原城内で没した。
○太閤薩州征伐の時軍功を以て、小早川左衛門佐隆景を筑前一箇国に封ず。隆景おもわるゝ様は、過分の恩賞却つて禍の本とおもひて、秀吉にこひて、秀吉の甥秀詮を養ふて、筑前をゆづる。即筑前中納言と号す。(『見聞談叢』)

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき) (1577〜1602) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生非情剣、柳生刺客状

通称辰之助、のち左衛門佐、権中納言。金吾中納言。従五位下。諱は秀俊。北政所(高台院、おね)の兄木下家定の子。天正十二年、秀吉の猶子となる。
秀吉に寵愛され、天正十九年に小早川隆景の養子となり、筑前、筑後、肥前から二郡づつを貰い受け、参議従四位下右衛門督に任じた。文禄元年には権中納言、左衛門督に叙任。隆景没後、その家督を継ぎ、朝鮮の役に加わる。再征の時には元帥となり自ら敵兵に切り込み十三人を斬って功をあげるも、軽挙を問われ秀吉の叱責を受ける。その時、家康が弁護をしてくれたため、心が家康に傾く。その伏線が有って秀吉没後、関ヶ原では西軍に属してはいたものの、態度が固まらず、遂に戦半ばで西軍に叛旗を翻し、大谷吉継の陣を急襲して東軍圧勝の因を作った。戦後、宇喜多秀家の旧領を貰って岡山に住し、関ヶ原から僅か二年後、二十七歳で没した。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
秀吉はこの秀秋を毛利家の養子に送り込み毛利家を縁戚として取り込みたかったという。そうした秀吉の動きを察した小早川隆景は、すでに毛利元就の九男秀包を養子にしていたにもかかわらず、毛利本家を守るために秀吉に願い出て秀秋を養子に迎えた。
関ヶ原の戦いで、東軍勝利の立て役者となり、その功績で家康から備前岡山四十七万石を賜り大大名となったが、裏切り行為の自責で精神的に異常をきたしていたからか、失政が多く家老稲葉正成(春日局の夫)ら多くの家臣が秀秋の許から去った。秀秋自身は夜な夜な大谷吉継の亡霊に悩まされ衰弱死したといわれる。
こうして嗣子をもうける間もなく秀秋は慶長七年(1602)に没し、鎌倉以来の名門小早川家は断絶した。 

小早川 秀包(こばやかわ ひでかね) (1567〜1601)

小早川隆景の養子。幼名才菊丸、通称藤四郎。諱は元総。後、羽柴秀吉の偏諱を受けて秀包。
実父は毛利元就、母は乃美大方で、九男として生まれる。小早川隆景に子が無かったため、隆景の養子となり、天正十一年(1583)、吉川経言(広家)とともに秀吉の人質となる。秀吉の九州平定後の天正十五年、隆景の領地から筑後三郡を与えられ久留米城主となるが、隆景が毛利本家を守るために秀吉の養子秀秋を養嗣子として迎えたために、秀包は別家を立てた。関ヶ原の戦いでは、大津城攻城戦で奮戦するが、毛利家の係累であることから徳川家康に認められず、筑後の領地は没収された。翌慶長六年、失意のうちに長門で没した。
秀包の子孫は、その後、毛利家に仕え、周防吉敷(よしき)で一万一千石を得て姓も毛利に復し、一門は吉敷毛利氏となった。

小早川氏女(こばやかわしむすめ)

小早川隆景の正室。小早川詮平の女。
実子は無く、夫隆景の異母弟秀包を養子に、ついで秀吉の命で秀吉の甥の秀俊(秀秋)を養子に迎え養母となる。
隆景没後は、山口問田に住していたが、元和五年(1619)急死した。

小林(こばやし) 駆込寺蔭始末

治水代官所手代。

小林 宇内(こばやし うない) 死出の雪

明石藩士小林五兵衛の倅。

小林 五兵衛(こばやし ごへえ) 

明石藩士。生田伝八郎の伯父。

古藤田 俊定(こふじた としさだ) 

弥兵衛。古藤田俊直の孫。
唯心一刀流を持って、美濃大垣藩戸田家に仕える。
『一刀流剣法口伝書(一刀斎先生剣法書)』を著す。

古藤田 俊直(こふじた としなお) 

勘解由左衛門。小田原北条家家臣。
刀槍の術に長じていた俊直は、たまたま相州を訪れた伊藤一刀斎に師事。その奥義に達し、一刀流古藤田派(唯心一刀流)の祖となった。

小室 茂兵衛(こむろ もへえ) 影武者徳川家康

豊臣家臣。大阪城と運命を共にする。

後陽成天皇(ごようぜいてんのう) (1571〜1617) 影武者徳川家康、花と火の帝、一夢庵風流記

第107代天皇。和仁(かずひと)。正親町天皇の皇子誠仁親王の第一皇子。
天正十四(1586)年、父親王が皇位を継承する前に没したため、正親町天皇の譲位を受けて豊臣秀吉政権下で即位。秀吉没後たびたび譲位の意を示したが、徳川家康の朝廷干渉により叶わず、逆に改元や官位叙任権までもが幕府に牛耳られていった。

後水尾天皇(ごみずのおてんのう) (1596〜1680) 吉原御免状、かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、柳生非情剣

第108代天皇・後陽成天皇(第107代)の第三皇子。三宮政仁親王。母近衛前子。
慶長五年(1600)親王宣下、慶長十六年(1611)父帝の譲位を受け即位。元和六年(1620)将軍徳川秀忠の娘和子を皇后とし、寛永六年(1629)までに三皇女・二皇子をもうけた。後紫衣事件などの幕府による朝廷干渉に反発し、同年突如として興子内親王(明正天皇)に譲位。その後五十二年に渡って院政を敷いた。
徳川和子 皇女-興子内親王(後の明正天皇)
櫛笥隆子 皇子-良仁親王(後の後西天皇)
園光子  皇子-紹仁親王(後の後光明天皇)
園国子  皇子-識仁親王(後の霊元天皇)
かねて天皇親政を目差していた後陽成天皇は、皇弟八条宮智仁親王に譲位し自らは上皇となって、家康に対抗しようとするが、家康の武力を怖れる公家たちの反対を受けなかなか譲位できないでいた。また、皇弟八条宮への譲位の反対の理由が、すでに皇太子となっている一宮良仁親王に譲位せず、なぜ皇弟八条宮なのかという正論も後陽成天皇の思惑通りに進まぬ原因でもあった。そこで後陽成天皇は、まず二宮幸勝親王を仁和寺に入れ、次いで一宮良仁親王までも仁和寺に入れて法親王とし、皇位継承権を無くさせた。こうしてなんとか皇弟八条宮に譲位しようとするのだが、朝廷の動きよりも幕府の動きの方が早く、より強力だった。朝廷は次々と幕府の圧力に屈し、実権は最早幕府側の動かぬ所となり、後陽成天皇は失意の内に皇位を第三皇子であった政仁親王に譲り引退する。
こうして皇位についた後水尾天皇は、父帝の意志を継いで幕府と闘おうとするのだが、磐石となった幕府の権力を揺るがすこともできないばかりか、将軍秀忠の娘和子との婚姻、世にいう「紫衣事件」など幕府の思惑が幅を利かせた。こうした厳しい状況の中で、後水尾天皇は自らの闘いを闘うのであった。譲位し上皇となり、後、法皇となる。(『花と火の帝』)
[後水尾帝の宸影]
○林丘寺宮様に後水尾帝の宸影あり妙法院尭怒法親王の御筆にて、法皇御製御讚の歌あり。
よしや身は深山がくれくち木かき さても心の花しにほはば
(伊藤梅宇『見聞談叢』)

金児 忠兵衛(こんじ ちゅうべえ) 鬼麿斬人剣

松代藩武具奉行。

近藤 十郎左衛門(こんどう じゅうろうざえもん) 捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。

近藤 登之助(こんどう とうのすけ) 影武者徳川家康

山城山科関の守衛。

近藤 信用(こんどう のぶもち) 捨て童子松平忠輝

石見守。幕臣。

近藤 信行(こんどう のぶゆき) 鬼麿斬人剣

加賀藩勝手方。

近藤 秀用(こんどう ひでもち) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

登助。平左衛門。幕臣。

近藤 真鋤(こんどう ますき) 異説猿ケ辻の変

伊予小松藩士。

近藤 又四郎(こんどう またしろう) 鬼麿斬人剣

伊賀同心。

権典侍(ごんのてんじ) 影武者徳川家康

女官。内侍司における官女の官名。

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