人名事典『は』

人名(は〜はん)

埴原 三十郎(はいばら さんじゅうろう) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

埴原 八蔵(はいばら はちぞう) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

垪和 氏続(はが うじつぐ) (生没年不詳)

興国寺城主。小田原城奉行。評定衆。又太郎。伊予守。父は垪和又太郎某。
垪和氏は室町幕府奉公衆の出身で、早雲に仕えた。松山衆に属し、千貫以上の高い役高を持つ重臣。永禄十二年(11569)武田信玄との同盟が破れ、北条氏が今川氏真を救援した時、氏続が最前線の興国寺城主に任じられた。
その後、再び相甲同盟がなると興国寺城は武田方の城となり、氏続は小田原城に帰った。天正七年(1579)、子の又太郎に家督を譲った。小田原落城後、子孫は中村一氏に仕えた。

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ) 一夢庵風流記

未資料

羽柴 秀俊(はしば ひでとし) 花と火の帝、一夢庵風流記

羽柴秀長の子。

羽柴 秀長(はしば ひでなが) 影武者徳川家康、花と火の帝、見知らぬ海へ、時代小説の愉しみ

豊臣秀吉の弟。

羽柴 秀保(はしば ひでやす) 一夢庵風流記

未資料

羽柴 秀康(はしば ひでやす) 捨て童子松平忠輝

三河守。 → 結城 秀康(ゆうき ひでやす)

羽柴 秀吉(はしば ひでよし) 

→ 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)

羽柴秀吉女(はしばひでよしむすめ)

小早川秀包の正室。大友宗麟女。
秀吉の実子ではなく養女。秀吉には実の娘が無く、養女をとって大事な大名に嫁がせていた。秀包の室となった大友宗麟女もその中の一人。

橋本 大炊(はしもと おおい) 捨て童子松平忠輝

伊達家家臣。

長谷川 権左衛門(はせがわ ごんざえもん) 捨て童子松平忠輝

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。

長谷川 権六(はせがわ ごんろく) 花と火の帝

長谷川藤広の甥。第4代長崎奉行。先任者で叔父の長谷川藤広の後を受け慶長十九(1614)年より寛永三(1626)年までの十二年間在職。この間に、長谷川藤直の三男忠兵衛藤継(藤広の弟)も第5代長崎奉行となっている。

長谷川 三郎兵衛長久(はせがわ さぶろべえながひさ) 見知らぬ海へ

向井伊兵衛政勝の父。

長谷川 左兵衛(はせがわ さひょうえ) 

→ 長谷川 藤広(はせがわ ふじひろ)

長谷川 籐五郎(はせがわ とうごろう) 吉原御免状

秀吉家臣。太田城攻めの先陣。

長谷川 藤直(はせがわ ふじなお) 影武者徳川家康

お夏の方の父。常陸国の大工であったとされる。

長谷川 藤広(はせがわ ふじひろ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生刺客状

左兵衛。お夏の方の実兄。長谷川藤直の次男。第3代長崎奉行。兄羽左衛門(2代長崎奉行)の後を受け、慶長十一(1606)年より十九年まで在職。

長谷川 平蔵(はせがわ へいぞう) (1745〜1795)

宣以(のぶため)。幕吏。千石取旗本。
延享二年(1745)、江戸・築地湊町で生まれる。二十四歳の時に将軍家治に御目見得、三十一歳で西丸御書院番、天明七年(1787)に火付盗賊改となる。
TVドラマなどで有名な池波正太郎の『鬼平犯科帳』は、この鬼平こと長谷川平蔵を主人公としている。『清陰筆記』に「盗賊を捕らえて死刑に処し、僅かの間に六百人の首を刎ねたり」と記されているように、平蔵の火付盗賊改としての働きは目覚ましく、悪化した江戸の治安回復に尽力、将軍から時服を賜わる。放火・強盗などの凶悪犯に対する取り調べは厳しく、「鬼平」と綽名されるが、庶民からは「今大岡」と賞賛された。
平蔵はこの火付盗賊改として取り締まるばかりでなく、幕政にも参画し、江戸湾の佃島・石川島を人足寄場(職業訓練所)とし、犯罪者の社会復帰に供するなど民政にも力を注いだ。しかし、老中松平定信に嫌われ、人足寄場が軌道にのると金五枚をもって役を退けられたという。以後、火付盗賊改の仕事だけに没頭し数多くの仕置(裁判)に精を出すが、過労がたたったためか寛政七年(1795)五月、突然倒れ五十一歳の生涯を閉じた。
墓所は新宿区四谷の戒行寺にある。

長谷川 正成(はせがわ まさしげ) 影武者徳川家康

秀忠側近。

長谷川 宗仁(はせがわ むねひと) 捨て童子松平忠輝

長谷川式部少輔守知の父。

長谷川 守知(はせがわ もりとも) 捨て童子松平忠輝

式部少輔。

支倉 常長(はせくら つねなが) 

→ 支倉 六右衛門(はせくら ろくえもん)

支倉 長経(はせくら ながつね) 

→ 支倉 六右衛門(はせくら ろくえもん)

支倉 飛騨守(はせくら ひだのかみ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

伊達家家臣。支倉六右衛門の父。家録没収の上切腹。

支倉 六右衛門(はせくら ろくえもん) (1571〜1622) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

伊達藩士。諱は通常「常長」といわれるが「長経(ながつね)」が正しいという。通称常長。諱長経。始め与市、のちに五郎左衛門、そして六右衛門と称した。
元亀二年(1571)、米沢城主伊達輝宗の家臣山口飛騨守常成の子として生まれる。天正五年(1577)、伯父支倉時宗の養子となり、天正十九年(1591)には葛西大崎一揆との戦いで宮崎を攻撃した際には伊達政宗の使者となり、朝鮮の役では政宗に従って渡海。帰国後、胆沢郡小山村および賀美郡一関村の内を加恩地として賜る。慶長元年(1596)、養父時宗に子が生まれたことから政宗の命により、柴田郡支倉村で六百石を与えられ分家、支倉姓を名乗る。慶長五年(1600)の九戸政実の乱では、白石七郎とともに九戸領に送り込まれ、情報収集の任にあたっている。
慶長十八年(1613)九月、慶長遣欧使節の大使として、ノバイスパニア(メキシコ)を経てイスパニア(スペイン)・ローマへ赴く。同十九年一月(1月)、アカプルコ入港、3月メキシコ市で総督に謁見。6月メキシコを発って10月にスペイン南部のサン・ルカール・デ・バラメダに入港、セビリアへ。十二月首都マドリードに入る。翌二十年(1615)一月(1月)、スペイン国王フェリッペ三世に謁見した。10月(元和元年九月)にはローマに入り翌月ローマ教皇パオロ五世に謁見。翌1616年1月にローマを発ち、1617年4月セビリアに帰着。1618年8月メキシコ・アカプルコからフィリピン・マニラへ帰着。1620年(元和六年)9月(八月)マニラを発って帰国の途についた。
この旅の途中、六右衛門はマドリードで洗礼を受け、「フェリッペ・フランシスコ」の霊名を授かった。このフェリッペ・フランシスコという霊名は、イスパニア国王フェリッペ三世とイスパニア宰相レルマ公に因んだものといわれている。
なぜ支倉六右衛門が大使に任ぜられたかは、諸説あり定かではないが、仙台藩で布教活動を行い、当地の有力切支丹だった後藤寿庵とも親しかったイエズス会宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスがイエズス会本部ヴィテレスキ総長に宛てた書簡では、「政宗が大使に任命したのは一人のあまり重要でない家来であった。彼の父は数カ月前に盗みの罪(実際は不動産侵略)で斬首(実際は切腹)され、彼も日本の習慣で斬首(実際は追放処分)される処を免じられ、代りにスペイン・ローマまでの渡航の苦痛を味合わせるとともに、いつ死ぬかもしれぬ任務につかせた」と報じている。
参考『日本切支丹宗門史』

秦 氏信(はた うじのぶ) 捨て童子松平忠輝

金春七郎禅竹の本名。
→ 金春 七郎禅竹(こんぱる しちろうぜんちく)

秦 道加(はた どうか) 

→ 秦 信喜(はた のぶよし)

秦 長安(はた ながやす) 捨て童子松平忠輝

長安の本名。
→ 大久保 長安(おおくぼ ながやす)

秦 信安(はた のぶやす) 捨て童子松平忠輝

長安の父の本名。

秦 信喜(はた のぶよし) 影武者徳川家康

金春八郎禅竹の三男。大蔵太夫信安の父。

畠山 重忠(はたけやま しげただ) 影武者徳川家康

未資料

畠山 高政(はたけやま たかまさ) 影武者徳川家康

未資料

波多野 秀治(はたの ひではる) 風の呪殺陣

未資料

八条宮 智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう) 影武者徳川家康、花と火の帝

後陽成天皇の実弟。桂離宮を造営。

蜂須賀 家政(はちすか いえまさ) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝

蓬庵。羽柴秀吉の将蜂須賀小六正勝の子。至鎮の父。徳島藩祖。
天正十三年(1585)、四国の雄となった長宗我部元親征伐の軍功により、阿波一国を与えられた家政は、初め一宮城に入るが、秀吉の命により城地を吉野川河口の渭山城を改修、同十五年、新しくなった渭山城に入った。この時、渭津(いのつ)という地名を徳島と改めた。
慶長三年(1598)、家政が定めた徳島藩独特の制に「駅路寺」がある。駅路寺とは、藩内の川北・伊予・淡路・讃岐・土佐の五街道に沿い、一日の行程にあたる領内八ヶ寺を駅路に指定し、旅人の宿泊の便を図る制度。長谷寺(鳴門市)・瑞運寺(上板町)・福生寺(山川町)・長善寺(三加茂町)・青色寺(池田町)・梅谷寺(阿南市)・打越寺(日和佐町)・円頓寺(宍喰町)の八ヶ寺で、藩から寺廻十石が与えられていた。
[逸話](『想古録』)
淡路は元と脇坂安治の領地にてありしなり、東照公、蜂須賀蓬庵の功を賞し、備前十万石を加へ賜はらんとの内命ありけるに、蓬庵これを辞し、少知にても苦しからず、手近き淡路を拝領致したしと歎願しけるに、照祖首肯し、脇坂を他に移して其地を蜂須賀に賜はりけり、照祖後に心附き、淡路は西国諸侯に対する咽喉の地なるに、我之に気附かず、浮かと蓬庵に与へたるは、返す返すも手抜けなりき、と仰せられたるよし、然るにそれ程の要地たる淡路を又長臣稲田に与へて、蜂須賀、稲田両立の姿となれるは如何なる故にや(増田道太)
《瓢水の『一話一言』》
[どうやら下戸だった蜂須賀家政]
 蜂須賀小六の息子家政のエピソードをひとつ。家政は関ヶ原合戦後に「蓬庵」と号し、阿波徳島藩が生き残る方法を考え続けた人物。その一つが婚姻政策であり、蓬庵の三女が井伊直孝に、四女が戸田忠光(徳川譜代)に、嫡子至鎮の長女が池田忠雄(家康の外孫)に、次女が水野成貞(家康の母の一族)にそれぞれ嫁いだ。水野成貞と至鎮の次女との間に生まれたのが、有名な十郎左衛門である。その蜂須賀家政が下戸だったという逸話。
 「家政には、面白い習慣があった。毎晩、食後に餡菓子や餅菓子の類いを食うのである。余りは、宿直の侍たちに与えることにしていたが、数が足りないと人数分に細かく割って配っていたという。ほほえましいとも、いじましいともいえるような話だが、それがどうしたとお思いの方も多いだろう。しかし、これによって家政が酒を飲まない人だったことということがわかるところが面白いのである。庶民の場合は知らないが、武士の社会では、酒を飲むのは飯を食った後と決まっていた(中略)家政が上戸だったら、当然、食事の後には酒を飲んでいたはずで、それを菓子を食っていたというのだから、彼が下戸で甘党だったことは、これで明らかである」(鈴木眞哉『下戸列伝』集英社文庫、71‐72頁)。
 引用した鈴木眞哉『下戸列伝』は、列伝ものの傑作。「下戸」という切り口がユニークな上に、取り上げられる人物に意外性があり、史料の読みは確かで、ユーモアに富んだ人物評は読んでいて笑いを誘う。枕元に置いて時折は読み返す愛読書です。(2004年10月11日瓢水記)

蜂須賀 小六(はちすか ころく) 影武者徳川家康

蜂須賀正勝。秀吉の家臣。家政の父。父は蜂須賀正利とされる。

蜂須賀 豊雄(はちすか とよちか) 

→ 蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ)

蜂須賀 蓬庵(はちすか ほうあん) 

→ 蜂須賀 家政(はちすか いえまさ)

蜂須賀 至鎮(はちすか よししげ) 影武者徳川家康、かくれさと苦界行、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、死ぬことと見つけたり

阿波守。豊雄。蜂須賀家政の嫡子。二代徳島城主、初代藩主。
池田忠雄夫人の父。
慶長五年、父阿波守家政入道して蓬庵と云、至鎮家を継、阿波守と改、大坂初度の軍に功を顕し、元和元年正月、御家号を賜る、(『江戸古絵図考附録』)
[逸話](『想古録』)
阿州の二代目至鎮(蜂須賀)、辻切を好み、江戸の藩邸に居らるるとき、毎宵市中に忍び出でて幾多の壮士を斃されけるに、或る夜一勇士に出会ひ、組合ふて膝下に敷かれ、其首を馘れんとするの危難に立至れり、至鎮元来剛胆の将なれば、危急に臨むも敢て駭かず、我は阿州徳島の城主鵜阿波守なり、是れまで勇士を求めん為め度々辻切りに出でけれども用に立つもの一人も無く、皆我刃下に斃れたり、然るに汝は真の勇士にて、我が平生索むる所のものに合格す、今夕より我が家臣となり呉れずや、と組伏せられたる敵手に向ひて相談を掛けられけるに、其勇士も英物にて、直ちに随身の約を為し、千石にて阿侯の臣と為れり、此の勇士は姓を堀と云ひ、名を三郎兵衛と称し、其子孫今尚同家に仕へて徳島に在りと云ふ(増田双梧)
阿州侯の二代目(至鎮)は熱心なる大坂贔負にて、大坂落城の後も再び豊臣家の天下と為さんとの観念止まざりき、侯の江戸邸に滞留せらるるや、毎夜市中を徘徊せられ、身躰長大にして勇気凛然たる武士に出逢ふときは、侯より喧嘩を仕掛け、彼れ果して気力ある勇士なる時は之を勧論して俸禄を給すべき約を結び、此の方法に由て新たに二十余名の壮士を召抱へられたり、侯の家臣に長坂甚兵衛と云へる剛の者あり、或るとき侯を諌めて侯の志望の所詮成すべからざる所以を説き、江戸城を焼討して再び大坂を取建ると云ふことなどは、到底行はる可からざる計策なることを申上げけるに、侯猶頑として長坂の説を容れられず、毎夜市中を微行して勇壮剛胆の士を索められたり、或る夜侯また人行絶たる場末の径路を微行せられけるに、向ふより身幹長大なる士来りけるが、侯の衣袂に触れんばかりに近寄りて行違ひ、傲然として大股に歩み去りければ、侯は其士を呼止め、無礼を咎め、追掛けて後ろより組付かれしに、其士は驚くべき大力にて中々侯の手に合はず、兎角する中侯を捻伏せ、侯は今にも絞殺されんとする場合に立至りしかば、侯は驚ろき、吾は仔細ありて此の頃勇士を捜し居るなり、左れど是れまで汝が如き剛の者に出逢ひしことなし、汝若し吾に従はば秩禄俸給、汝の望み通りに与ふべしと言はれしに、其士は侯を抱き起し、侯の衣服の塵土を払ひて其場に跪き、斯くあればこそ過日御諌め申上げたるなり、以来此の御夜行は必らず御止め下さるべし、今は我が正体を御覧に入れむとて、面を被ひし頭巾を脱ぎ取れば、図らざりき侯の寵臣長坂甚兵衛にてありければ、侯も始めて悔悟せられ、長坂の諌めを容れて其後微行を止められけるとぞ、長坂甚兵衛は長曾我部盛親を生捕りたる著名の勇士なり(増田双梧)

八百比久尼(はっぴゃくびくに) 吉原御免状

初見は『康富記』宝徳元(1449)年5月26日条で、若狭から白比丘尼という二百余歳の比丘尼が上洛し見物料を取って人に見せているとかかれてある。『臥雲日件録抜尤』同年7月26日条でも八百歳の老婆の話として同じことが言われている。両者に共通するのは(1)若狭出身、(2)長寿、(3)地蔵堂で自らを見世物にする、(4)上洛、等の記述だが長寿の理由については触れられていない。それが示されるのは『本朝神社考』6、『若耶群談』『国史実録』、『梅の塵』、『笈埃随筆』、『拾椎雑話』などで、基本的な筋は「父が異郷を訪問してもらった人魚の肉を娘が食べてしまい、娘は長寿となった。後出家して廻国の比丘尼となる」というものである。若狭国小浜の空印寺の岩屋で死んだという伝説からもわかるようにこの伝説の中心は空印寺で、彼女達は源平の争乱を語ったり自らを見世物にしたりして勧進を行っていたと考えられる。なお空印寺は酒井忠直以来酒井家の菩提寺であるが、この寺と比丘尼集団との関係は不明。他能登、佐渡、会津、美濃、飛騨、紀伊、因幡、石見、土佐、筑前などにも分布が見られる。白比丘尼とも云われる。《ぱ》
『熊野歓心十界図』『那智参詣曼荼羅』等の絵解きをして回り、後に「歌を肝要と」し「ひたすら傾城白拍子になりたり」(『東海道名所記』)といわれて遊女と同列視された熊野比丘尼とは別物で、隆慶作品では両者の混同が見られる。《ぱ》 
[若狭八百比丘尼伝説梗概]
若狭の廻船商人高橋権太夫の娘といわれ、ある時船で商売に出かけた権太夫は、嵐に見舞われ見知らぬ島に漂着。その島の御殿で美女たちの接待を受ける権太夫に振舞われたものの中に、人魚の肉と称するものがあったという。それを食べると不老不死になると言われたが権太夫は気味悪がって食べなかった。さてその島を離れる時にお土産を渡され、そこには気が向いたら食べてごらんなさいとその人魚の肉も入っていた。お土産を持帰った権太夫は、家人に事の顛末を話し人魚の肉とされるものをお披露目するが、家人の者たちは誰も気味悪がって手を出さなかったが、十八歳になる権太夫の娘が好奇心から一切れ口に入れると、それが何とも言えぬ美味であったことから、思わず一人で全部食べてしまったという。それからというもの、娘は十八歳のまま年をとらず、結婚して夫が年老いて死んでも、娘は十八歳のままだった。その後、幾人かの男と結婚するが、男やその間にできた子供達が皆死んで行く中、自分一人年を取らず生き長らえている事に煩悶し、百二十歳の時に剃髪して尼になった。諸国を廻り歩き、歴史を語り、仏法を説いて、後に「八百比丘尼」と称されたが、肌が雪のように白かったことから「白比丘尼」とも呼ばれた。(『日本史 怖くて不思議な出来事』)

花井 右衛門義房(はない うえもんよしふさ) 捨て童子松平忠輝

秀忠家臣。花井三九郎の三男。

花井 右京亮義虎(はない うきょうのすけよしとら) 捨て童子松平忠輝

忠輝小姓。花井主水正の長男。

花井 佐左衛門吉成(はない さざえもんよしなり) 

→ 花井 三九郎(はない さんくろう)

花井 三九郎(はない さんくろう) (?〜1613) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

遠江守。佐左衛門、吉成。唐人八官の子。お茶阿の方の娘お初の夫。後に遠江守となる。川中島藩城代家老。
家康の近習として江戸城に仕えていた三九郎は、娘の聟探しをしていたお茶阿の方の目に止まり、お茶阿の方の前夫の子であるお八の聟に選ばれ結婚した。こうして忠輝の義兄となった三九郎は、忠輝が川中島藩主となるとその重臣となるが、元からいる長沢松平家の重臣たちとの間で権力争いが生じた。この時は、家康の裁可でお咎め無しとなる。しかし、後の長安事件では主君忠輝にその罪が及ぶのを防ぐため自らの命を断った。 

花井 主水正(はない もんどのかみ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

主水正。義雄。花井三九郎の子。父花井遠江守。母於八。
松平上総介忠輝君家臣、領2二万六千石1、預2於信州松本の居城を1、為2長臣1我意多、忠輝君御糾明の時、與2安西右馬允1対決の上、元和二年丙辰六月廿三日、松平丹波守え被レ預レ之、於2笠間1生害
家説酒井雅楽頭え被レ預、於2上州厩橋1死去云々(柳営婦女伝系五)
 《瓢水の『一話一言』》
[花井主水正と大久保長安の男色相手]
 戦国時代から江戸初期にかけては男色が盛んな時代であった。意外なことに、あの徳川家康も男色経験者だったらしい。相手は水野監物忠元、水野勝成の従兄弟である。「監物忠元といふ人美男にて神君の男色也」(『日本随筆大成 第一期第11巻』吉川弘文館、17頁)。
 『捨て童子・松平忠輝』で忠輝を助ける花井主水正にも、男色の噂が取り沙汰されたようだ。相手は佐野正綱、下野国唐沢山城主である。「正綱阿茶局聟の花井主水正が男色にて、主水寵愛入魂、其上大久保石見守と正綱入魂成し故事を見合候へ共、石見守滅亡ゆへ、妻方より歎訴いたし候は、嫡男吉之丞正秀に家督可賜様の義なるおりから右之仕合也」(前掲書、66‐67頁)。
 幾分意味が読み取り難い箇所があるものの、花井主水正の方が積極的に正綱を愛したこと、その正綱は大久保長安とも男色の関係があったらしいこと、が判る。ついでながらこの正綱、才知に長けていたが我が侭な性格で、養父や妻からは嫌われていた。慶長19年(1614)、大阪城内通の容疑で改易。大久保長安事件に巻き込まれたのかもしれない。
【追記】佐野家は下野国の名門で、『一夢庵風流記』に登場する“屈強の『いくさ人』”山上道及が仕えていた家である。尤も、富田一白の次男の正綱が佐野家当主に迎えられたのは道及が退転した後であるから、直接の関係はない。(2005年1月3日瓢水記) 

花井 義雄(はない よしお) 

→ 花井 主水正(はない もんどのかみ)

花井 義賢(はない よしたか) 

→ 松下左門(まつしたさもん)

八幡 太郎義家(はちまん たろうよしいえ) 

→ 源 義家(みなもとのよしいえ)

蜂屋 九郎左衛門善成(はちや くろうざえもんよしなり) 花と火の帝

家康の警護役。

蜂屋 貞次(はちや さだつぐ) 影武者徳川家康

半之丞。家康の家臣。
槍の名手で一揆側に加わる。
『三河物語』に三河一向一揆における蜂屋貞次の記述が有るので参照ください。

蜂屋 半之丞(はちや はんのじょう) 

→ 蜂屋 貞次(はちや さだつぐ)

蜂屋 頼隆(はちや よりたか) 風の呪殺陣

兵庫頭。

服部 半蔵正成(はっとり はんぞうまさしげ) (1542〜1596) 影武者徳川家康、花と火の帝

石見守。半蔵正就の父。八千石。鬼半蔵と呼ばれた家康十六将の一人。伊勢槍の名手として知られ、姉川の合戦に一番槍をつけたり、三方原の合戦、天目山の合戦などでも戦功を上げてた。後に「鳴海伊賀衆(後の伊賀組)」の頭領となり、忍術三大秘伝書の一つとされる『忍秘伝』を著したとされる。
三河の民謡には「徳川殿はよい人持よ、服部半蔵は鬼半蔵、渡辺半蔵は槍半蔵、渥美源吾は首切源吾」と謡われているという。師が作品中(『影武者徳川家康』)で服部半蔵を槍半蔵としたのは誤りか。

花房 左京(はなぶさ さきょう) 影武者徳川家康

高虎の小姓。

塙 団右衛門(はなわ だんえもん) 

→ 塙 団右衛門(ばん だんえもん)

馬場 三郎左衛門利重(ばば さぶろうざえもんとししげ) 死ぬことと見つけたり

未資料

馬場 信房(ばば のぶふさ) 時代小説の愉しみ

武田信玄の武将。

馬場 八左衛門(ばば はちざえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

穴山梅雪の旧臣。元穴山信君の家老。長安と忠隣との癒着を暴露した訴状を加護訴で正信に渡す。信吉付きの家臣だったが、君武田信吉死後のお家騒動で改易となり大久保忠隣に預けられた。

馬場 八之丞(ばば はちのじょう) 鬼麿斬人剣

高山代官所山役人。

馬場 頼周(ばば よりちか) 死ぬことと見つけたり

未資料

浜嶋 無手右衛門(はましま むてえもん) 一夢庵風流記

未資料

浜田 金治(はまだ かねはる) 異説猿ケ辻の変

土佐勤王党志士那須真吾の兄。

浜田 宅左衛門(はまだ たくざえもん) 異説猿ケ辻の変

土佐藩家老深尾家家臣。浜田金治、那須真吾の父。

羽茂 高茂(はもち たかもり) 一夢庵風流記

三河守。佐渡領主。本間高茂。

林 新次郎(はやし しんじろう) 風の呪殺陣

未資料

林 新六(はやし しんろく) 柳生非情剣

柳生兵助の別名。

林 忠左衛門良棟(はやし ちゅうざえもんよしむね) 鬼麿斬人剣

慎重派の松本藩年寄。

林 秀貞(はやし ひでさだ) 一夢庵風流記、風の呪殺陣

佐渡守。那古屋城主。信長の腹心。

林 通勝(はやし みちかつ) 一夢庵風流記、時代小説の愉しみ

美作守。林佐渡守秀貞の弟。織田家家臣。
末森城の織田勘十郎信行と手を結び叛乱を起こし、信長の槍で突き殺される。(尾張稲生の合戦)

林 羅山(はやし らざん)

学者(儒者)。京都に生まれる。初名を又三郎信勝。道春と号した。

羅山先生
林氏。初名又三郎信勝。京都人。於駿府 東照宮へ奉仕。後式部卿法印道春。諡文敏。其子鵞峰先生治部卿法眼。春斎林恕諡文穆。其子從五位下大学頭。整宇先生林コウ字直民。諡正猷。常憲院様御代還俗叙爵。始は春常と云。其子今祭酒先生也。(『斯文源流』)

林崎 甚助(はやしざき じんすけ)

重信。居合の創始者。
林崎甚助の起こした居合術は、神夢想林崎流と号した。

林田 左門(はやしだ さもん) 

戸田流。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「林田左門」の項あり参照ください。

速水 守久(はやみ もりひさ)(?〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

甲斐守。豊臣家家臣。七組頭衆。大阪城と運命を共にする。

速水 守之(はやみ もりゆき) 

→ 速水 守久(はやみ もりひさ)

速水 伝吉(はやみ でんきち) 影武者徳川家康

速水甲斐守守久の子。大阪城と運命を共にする。

原 図書孫次郎(はら ずしょまごじろう) 捨て童子松平忠輝

木曽代官。

原 マルチノ(はら まるちの) (1569頃~1629)

天正遣欧使節副使。日本名不詳。肥前波佐見の出身で、父は大村家の家臣原中務大輔純一とされる。帰国後、天草の修道院で伊東マンショらと共に修練、文禄二年(1593)イエズス会修道士としての誓願を立てイエズス会士となる。マルチノは四人の使節の中では最もラテン語に秀で、ミラノのウルバーノ・モンテが「希有の才能の持主」と評したほどの聡明な青年であったとされる。慶長五年(1600)日本イエズス会の上長ペドロ・ゴメスが亡くなり、長崎の学院で盛大な葬儀が行われた時には説教者に任ぜられ、慶長十二年(1607)にはマカオに留学した伊東マンショ・中浦ジュリアンと共に、司祭(パードレ)に叙せられている。慶長十九年(1614)の追放令で修道士ドラードらと共に日本を離れマカオに赴く。若い時から健康に恵まれたマルチノは異国の地で六十歳まで生き、1629年10月23日病に倒れ、ヴァリアーノやドラードの傍に葬られた。

原 主水(はら もんど) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

洗礼名ジョアン。三河譜代。御徒士組頭。
キリシタンであったため追放。

原田 市郎兵衛(はらだ いちろべえ) 影武者徳川家康

島左近の替玉。肥前の切支丹武士。

原田 伊予(はらだ いよ) 死ぬことと見つけたり

唐津藩士。

原田 直政(はらだ なおまさ) 影武者徳川家康

未資料

原田 甲斐宗資(はらだ かいむねすけ) 捨て童子松平忠輝

伊達家の宿老。

塙 団右衛門(ばん だんえもん) (1567〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

直之。『武辺咄聞書』によれば、元遠州横須賀衆で須田治郎左衛門といった。また時雨左之助と名乗った時もある。大阪城浪人衆。
『武辺咄聞書』に団右衛門関連記述あり参照ください。

(ひ〜ひん)

東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ) 異説猿ケ辻の変

攘夷激派の公卿。

東向殿(ひがしむきどの)

大内義興の正室。内藤弘矩(ひろのり)女。大内義隆の母。
東向殿の生家内藤家は代々長門国守語代職を世襲し、大内家臣の中で重きをなしてきた。「東向殿」の父弘矩も奉行衆のひとりで長門守護代を勤めている。しかし、明応四年(1495)、同じく大内家の重臣であった陶武護の讒言により、子の弘和とともに弘矩は誅された。この時、東向殿の心中はいかばかりであったのだろうか。そのことについての史料は残されていない。
こうして陶氏との因縁は嫡子義隆の代になって最悪となる。天文二十年(1551)、陶隆房(晴賢)は主君義隆に叛き大内屋形が襲われた時、東向殿は山口市内の真如寺に逃れたが、この時彼女は驚きのあまり絶え入るばかりだった。そんな母親東向殿を、同じく市内の法泉寺に逃れていた義隆は、危急な時にもかかわらず、医師楊井国久を遣わせて介抱させている。
その後、旧居に戻った東向殿は義隆が没した八年後の永禄二年(1559)に没し、真如寺に葬られた。

疋田 豊五郎(ひきた ぶんごろう)

景兼。新蔭流上泉秀綱の高弟。
疋田陰流の始祖となる。

樋口 惣右衛門兼豊(ひぐち そうえもんかねとよ) 一夢庵風流記

直江兼続の父。上田長尾家に仕える。

樋口 与六(ひぐち よろく) 一夢庵風流記

直江兼続の旧姓。 
→ 直江 兼続(なおえ かねつぐ)

髭の意休(ひげのいきゅう) かくれさと苦界行

歌舞伎十八番『助六』の登場人物名。助六の仇役。
モデルは髭の無休という幇間で、助六のモデルとなった烏暁の太鼓持ちを勤めていた。
『反古籠』に「牽頭持の髭の無休を意休と替しは、猶顕在なる故なり」とあり、『武江年表』元禄年間記事には「○幇簡髭の無休といひしも此の頃なり。」とある。
また、喜多村信節の『嬉遊笑覧』巻之一下に
「深見十左衛門と有は、其頃吉原にて小歌にうたひし也。此事『任侠伝』にも出たり。此男髭を生じたる故、髭の十と異名をとれり。『同書』一麿が鯨の発句の端書にも、「髭の達人は唐土に関羽、日本に朝比奈・宗祇、女郎買に無休あり。十あり云々」。」とあり、「髭の無休」「髭の十」と渾名された人物がいたことが窺われる。

彦坂 平六(ひこさか へいろく) かくれさと苦界行

直参旗本。渡辺数馬の従弟。

彦坂 光正(ひこさか みつまさ) 影武者徳川家康

駿府町奉行。

久貝 正俊(ひさがい まさとし) 影武者徳川家康

直参旗本。長安事件に連座。

久松 勝俊(ひさまつ かつとし) 影武者徳川家康

久松俊勝と於大の方の息。

久松 定勝(ひさまつ さだかつ) 影武者徳川家康

久松俊勝と於大の方の息。

久松 定行(ひさまつ さだゆき) 影武者徳川家康

久松定勝の息。

久松 俊勝(ひさまつ としかつ) 影武者徳川家康

於大の方の後添え。

久松 康元(ひさまつ やすもと) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

久松俊勝と於大の方の息。

土方 雄久(ひじかた かつひさ) 一夢庵風流記

未資料

土方 勘兵衛(ひじかた かんべえ) 花と火の帝

未資料

土方 楠左衛門(ひじかた くすざえもん) 異説猿ケ辻の変

土佐藩士。土佐勤王党志士。

土方 歳三(ひじかた としぞう) 対談日本史逆転再逆転

未資料

比田(ひだ) 吉原御免状

明智光秀の家臣。山崎の合戦後、光秀が死ぬと殉死した。

日野 資勝(ひの すけかつ) 花と火の帝

権大納言。

日野 大納言(ひの だいなごん) 影武者徳川家康

→日野輝資(ひの てるすけ)

日野 輝資(ひの てるすけ) 花と火の帝

前権大納言。唯心院と号す。

日野 唯心(ひの ゆいしん) 

→ 日野 輝資(ひの てるすけ)

日比屋 了慶(ひびや りょうけい) 影武者徳川家康

未資料

卑弥呼(ひみこ) (生没年不詳/3世紀前半頃)

記録に現れる列島(日本)の最初の女帝。
『三国志』「魏書東夷伝・倭人条(魏志倭人伝)」に、北九州を含む列島の三十余国を統べる宗主国邪馬台国の女王として、以下のように表れる。
「其の国、本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。唯々男子一人有えい、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室、楼観、城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。」
倭は大乱の末、一人の女子を立てて連合国の王とした。これが邪馬台国の卑弥呼で、西暦239年、魏に使者を送り、明帝から「親魏倭王」の称号が贈られた時、卑弥呼はかなりの年だったという。神の声を聞く女として、夫を持たず、邪馬台国の女王となってからは弟が政治を補佐し、婢一千人を身辺に侍らせながら、政を行った。その神秘性に富んだ政は、人々の前に一切姿を見せず、宮室に籠りただ一人の男子に食事を給させ、この男の口からだけ、彼女の言葉が伝えられたといわれる。卑弥呼が生きた時代、力だけでは国は治まらなかった。霊力豊かな女の祭祀能力が平和の維持に必要で、『魏志倭人伝』に「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とあるように、卑弥呼は祖霊神に仕え、かつ大陸から入って来た天神を祀るシャーマンだったと想像される。(楠戸義昭「日本を動かした15人の女傑」より)

日向 半兵衛正成(ひゅうが はんべえまさなり) 影武者徳川家康

大御所の家臣。武田家の旧臣。

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし) (1542〜1611)  吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

主計頭。家康の九男五郎太丸の守役。尾張犬山城十二万三千石。三河生れ。親重の子。
平岩氏は代々三河に住し、松平氏の譜代であった。幼時から徳川家康に仕え、家康が尾張の織田氏、ついで今川氏の人質だった時、ともに家康につき従い、艱難を共にした。それにより家康もとくに親吉を信頼し、長ずるに及んで世子徳川信康の守役とした。三河一向一揆平定、姉川・長篠の戦いなどに出陣。天正十八(1590)年、小田原征伐では武蔵岩槻城攻略に軍功をあげ、同年上野厩橋城3万3千石を与えられた。関ヶ原の戦い後、甲斐府中城六万三千石に移封。慶長八(1603)年、とくに選ばれて家康の九男徳川義直の尾張藩付家老に任ぜられ、同十二(1607)年、義直の尾張入封に伴い、犬山城主に転じて十二万三千石を領した。

平岡 岡右衛門道成(ひらおか おかえもんみちなり) 捨て童子松平忠輝

長安配下の川中島藩代官。

平岡 帯刀良知(ひらおか たてわきよしとも) 捨て童子松平忠輝

長安配下の川中島藩代官。

平岡 頼勝(ひらおか よりかつ) 影武者徳川家康、柳生非情剣

小早川藩の重臣。

平賀 源内(ひらが げんない) (1728〜1779)

元高松藩士。幼名四方吉。博物学者、蘭学者、 からくり師、洋画の導入者などといわれ、「エレキテル」の発明で知られる発明家でもあった。また 平賀源内は、日本で初めて「寒暖計」 を作った。
高松藩の御蔵番を勤める家の嫡男として讃岐国寒川郡志度浦(現さぬき市志度)で生まれる。身分は足軽程度であったといわれるが、その祖は『太平記』に現れる平賀三郎国綱とされ、源内自身も『太平記』を好んで読んでいたという。
12歳のときに掛軸の裏に赤い紙を仕掛けた「おみき天神」を作り、それに酒を供えると顔を赤らめると評判となり、また何をするか分らないという意味から「天狗小僧」と呼ばれた。その後も薬学・本草学などに興味を持ち、さらには儒学を学ぶかたらわ焼物や俳諧をも嗜んだ。22歳の時に父の後を継ぎ、藩の薬草園に出入りする。25歳の時に長崎に遊学。オランダ医学や中国の珍品に触れたことからさらに向学心を高め、藩に辞職願を提出し江戸に赴く。江戸で本草学や儒学の門を叩き勉学に励み、30歳(1757)のときに、我が国初の博覧会「薬品会(やくひんえ)(物産会)」を開く。この「薬品会」の評判を聞きつけた高松藩は、本人の遺志とは関係なく再び藩士として召し上げたが、あくまでも自由な立場を求めた源内は、34歳の時に再び辞職願を提出。藩はそれを受け入れたが、他家に仕官できない身となる。
こうして牢人となった源内は、『物類品隲』(エレキテルなどの発明品の解説書)を著したり、福内外鬼の名で江戸浄瑠璃『神霊矢口渡』を書くなど精力的に活躍。同時に権力者田沼意次の知遇を得て、43歳の時には幕府の命を受けて長崎に行き、オランダ語の翻訳をする。この時にも本草学、医学、陶器、電気などについてさらに学び、『陶器工夫書』を天草代官に差し出している。
役目を終え江戸に帰った源内は、おいらんを使って「菅原櫛(源内櫛)」を発売したり、土用の丑の日にうなぎを食するという宣伝で成功を収めた。しかし、安永八年(1779)、喧嘩がもとで捕えられ獄中で死去。享年52歳。辞世の句「乾坤(あめつち)の手をちゞめたる氷哉」(香川県パンフ「かがわさぬき野」No17 2007春号)

[逸話](『想古録』)
平賀源内は稀代の才気ありて、種々の新工夫を考へけるが、才余りありて徳足らざるが故に、世の士君子に容れられず、後に何事をか仕出して獄に下され、死刑に処せられんとする場合と為れり、是より先き、源内は田沼に取入り、深く其愛顧を蒙り居ければ、田沼は痛く源内の死を惜み、何とかして之を救はんと、百方手を尽しけるも、到底其方術なかりければ、窃かに牢番に賄ふて、源内の意見を聞かしめけるに、源内は少しも驚く色なく、其は容易きことなりとて、一服の薬剤を自宅より取寄せ、之を飲みて獄中に頓死せり、然るに源内は死するの前牢番に、我死せば千住の原に棄て呉よと遺言し、又自宅に居る門人等へは、我が遺骸を斯く斯くせよとの一通の書面を遣はし置きければ、牢番は其遺言の如く手当しけるに、今まで絶脈し居たる源内は、不思議にも忽ち蘇生したり、是れ源内が河豚中毒のことを研究して考へ出せる秘案に由り、暫時死して又蘇生したる者なりと云ふ、源内蘇するの後、姓名を変じて密かに田沼に養はれしが、田沼失躓りて、源内も亦空しくなりけるとぞ(荒木)
この逸話は『花と火の帝』の岩介の作戦に通じるところがある。
平賀源内は奇言に妙を得たり、或る人世渡りの秘伝を尋ねけるに、源内打笑ひ、夫は至つて容易きことなり、銭湯に浴みする了見になれば、夫れにて好し、試みに見られよ、他人の汚にて我が汚を洗ふは穢きことに思はるれど、揚り湯を充分使ひて浄めさへすれば、我身は清浄潔白と為るなり、世渡りも先づ此んなものよと言ひけるとかや(松崎慊堂)
平賀源内江戸に出でて、大才子の名を世上に轟ろかせり、されど財政不如意にして、其生計頗ぶる困難を究めれば、或る小侯其貧を機とし、之に小禄を与へて召抱へんと謀りけるに、横着なる源内中々応ぜず、足底に付けば歩行甚だ不自由なる者なり、此度の事は真平御免を被るべしとて、詼謔に託してこれを辞しける、源内元来一筋縄に掛るべき人物に非ざるに、小侯の小禄を以て之を狙撃せしは、小銃を放て大艦を打沈めんと謀りたるが如し、其手応へなかりしは固より当然のことと謂ふべし(朝川善庵)
[名言名句]
「人参呑んで縊る痴漢(たわけ)あれば、河豚汁食うて長寿する男もあり」(『名言名句活用事典』)

平手 汎秀(ひらて ひろひで) 時代小説の愉しみ

織田信長の武将。

平野 長重(ひらの ながしげ) 柳生刺客状

豊臣家でわずか三百石の家臣だったが、家康は関ヶ原の前に手紙を送って懐柔を謀った。

平山 行蔵(ひらやま ゆきぞう) (1759〜1828) 鬼麿斬人剣

別名平子龍。宝暦九年(1759)、四谷北伊賀町稲荷横町に生まれる。父は伊賀組同心甚五左衛門勝籌。
四谷北伊賀町に住し、「常在戦場」を座右の銘とした武芸者。父甚五左衛門は「武家ながら侠客」と云われた義侠心に富んだ武士で、行蔵が幼い頃に亡くなり、母に育てられたが、その母も「無鬚丈夫」と呼ばれる女傑であり、彼の人格形成に大きな影響を与えたという。
稲荷横町の自宅に道場を構え、流儀を忠孝真貫流、のち講武実用流と改めた。軍学を長沼流の斉藤三太夫、槍術を大島流の松下清九郎、柔術と居合を渋川流の渋川伴五郎時英、砲術を武衛流の井上貫流左衛門に学んだ。剣術は心抜流の山田茂兵衛松斎で、山田は柳生流の木村助九郎矩泰が徳川頼宣に仕える時、柳生流を名乗ることをはばかって柳生宗矩の命名で称した運籌流の三代でもあり、平山は一時、運籌流四代を名乗ったこともある。
文政十一年(1828)十二月十四日没。享年七十歳。

広沢 富次郎(ひろさわ とみじろう) 異説猿ケ辻の変

京都守護職公用局員。

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ) (1558〜1622) 影武者徳川家康、花と火の帝

公家。広橋国光の子。蔵人頭から累進し、権大納言を経て従一位内大臣にいたる。
家康の将軍就任と同時に武家伝奏となり、1619年その職を辞した。「出頭無双」とその権勢を恐れられたが、一方では「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあったという。

広橋 兼勝(ひろはし かねかつ) (1558〜1622) 影武者徳川家康、花と火の帝

公家。広橋国光の子。蔵人頭から累進し、権大納言を経て従一位内大臣にいたる。
家康の将軍就任と同時に武家伝奏となり、1619年その職を辞した。「出頭無双」とその権勢を恐れられたが、一方では「奸佞の残賊」と罵られる存在でもあったという。

広橋 兼秀(ひろはし かねひで)

内大臣。従一位。
大内義隆側室高徳院御新造の父で、五男寿玉は義隆の養子となっている。

(ふ〜ふん) 

深堀 嘉右衛門(ふかぼり かえもん)(?〜1700) 死ぬことと見つけたり

深堀三右衛門の長男。
父とともに深堀蔵屋敷に勤番していた嘉右衛門は、「長崎喧嘩」で侮辱を受けた父とともに高木邸に討入り、高木彦右衛門を討ち取った後、長崎市内大橋の上で切腹。

深堀 三右衛門(ふかぼり さんえもん)(1633〜1700) 死ぬことと見つけたり

鍋島藩深堀領深堀氏の家臣。
長崎市内五島町にあった深堀蔵屋敷に勤番していた三右衛門は、元禄十三(1700)年十二月、同僚の柴原武右衛門とともに長崎市内を歩いていて、長崎の町年寄高木家の使用人とすれ違った。この時、高木家の使用人に因縁をつけられたのがきっかけで、鍋島藩対高木家の喧嘩となり、終には深堀武士たちが高木邸に討入るという事態に発展(長崎喧嘩)。三右衛門は子の嘉右衛門とともに高木彦右衛門を討ち取り、自身は高木邸の玄関式台で切腹。享年67歳。

深堀 茂賢(ふかぼり しげかた) 死ぬことと見つけたり

未資料

深堀 純賢(ふかぼり すみかた) 死ぬことと見つけたり

未資料

福島 正勝(ふくしま まさかつ) 捨て童子松平忠輝

福島正則の嫡男。

福島 正成(ふくしま まさのり) 

「くしま」と読む。 → (くしままさのり)

福島 正則(ふくしま まさのり) (1561〜1624) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、柳生非情剣、柳生刺客状

幼名市松。左衛門大夫。幼時より秀吉に仕え、各地を歴戦。秀吉子飼いの武将の一人で、賤ヶ岳の戦では有名な七本槍の筆頭。朝鮮の役でも活躍し、その功により尾張清洲二十四万石を受封。秀吉没後は、石田三成に反撥して家康に心を寄せ、関ヶ原の役では先鋒となって活躍した。戦後、安芸・備後二国四十九万八千石余を授けられたが、大坂の陣では豊臣家との密接な関係を警戒され、江戸城の留守居役を命ぜられた。以後ますます警戒され、元和五(1619)年、無届で広島城を修理したことを理由に城地を没収され、信州川中島四万五千石に移された。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
賤ヶ岳七本槍の筆頭としての活躍や、関ヶ原での先陣を買って出るなど剛将として知られる正則だが、秀吉の母大政所が病臥した時には、寝ずに看病した話や、養嗣子でもあった関白秀次が切腹を命じられた時に検使を命ぜられ立ち合った彼は、止めどなく涙を流したという話も伝わる。また、洪水で破損した居城広島城の修築を本多正純に届け出ていたにもかかわらず、無許可で修築したと難癖をつけられ、十分の一以下に減封され川中島へ隠居同然に移されてもくさらず、領地の河川の改修や新田開発などで善政を施したという。(『歴史読本』1996年10月号所収堀和久「福島正則」参考)
[福島正則]
○福島左衛門大夫正則、尾州清州二十万石を領す。関ヶ原戦、東照宮に属し軍功あるによりて、安芸、備後五十余万石に封ぜらる。(『見聞談叢』)
広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の著した『九桂草堂随筆』に有る正則に関する記述参照。
[逸話](『想古録』)
福島正則は士を抱ふるに、肥たる者は戦時の用に立たずとて擯斥しける、蓋し肥たる者は、起居挙動軽捷ならざればなり(千田)

福島 正之(ふくしま まさゆき) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝

嫡男忠勝の死で、福島正則の嫡子となる。

福原 広俊(ふくはら ひろとし) 影武者徳川家康

豊臣家の武将。

藤江 定時(ふじえ さだとき) 花と火の帝

中和門院の使者。

藤江 熊陽(ふじえ ゆうよう)

忠廉。元禄期の漢学者。

《瓢水の「一話一言」》
[おりくさんを案内した漢学者が判明!]
 昭和46年(1971)に三船敏郎主演で放送されたTV時代劇『大忠臣蔵』。隆先生と柴英三郎氏が組んで脚本を担当し、当時「男湯をカラにする」と言われた人気番組であった(羽生真名『歌う舟人』、77頁)。当時の思い出を綴ったエッセイ「時代小説の愉しみ」に登場する、「おりくさんを案内して天神祭りを見物した漢学者」とは誰だっただろうのか。
 その漢学者は、後に龍野藩儒となった藤江熊陽(忠廉)である。忠廉は赤穂に住む町医の子として生まれ、幼少の頃から神童と称された。大石内蔵助に見出され、13歳で内蔵助の嫡子松之丞(8歳)の学友となる。内蔵助の推挙で遊学の計画もあったが、「松の廊下の刃傷」で沙汰止みとなった(飯尾精『赤穂浪士と女性』、34‐35頁)。赤穂開城後、偶々大坂でおりくと松之丞に出会い、天神祭の川渡御を堂島川に舟を浮かべて見物したのだった。その時の様子は、忠廉が遺した『答客問』に記されていると云う(前掲書、55頁)。(2004年1月13日瓢水記)

藤木 道満(ふじき どうまん)

兵助。戸田流剣術家。

《瓢水の「一話一言」》
「藤木道満とは何物か?」
 藤木道満という人物が気になっている。明田川徹「遺志を読む」(『小説新潮』1990年1月号所収)によれば、隆先生は当時抱えていた仕事のスケジュールや新企画の構想をメモに書いていた。その中に、これから小説化する題材として「○仙台黄門 藤木道満(兵助) 藩医松井常庵養子 戸田流 13代土井兵部稀親に学ブ 伊達斉邦の大伯父 幼名寔丸(タダマル)」という記述があると紹介されていたのである。藤木道満とは一体何物なのか、そして隆先生はどのような小説の構想を温めていたのであろうか。
 いくつか資料に当たったのだが埒があかないためネット検索したところ、五味康祐『風流使者 上・下』(徳間文庫)と戸部新十郎「音無」(『秘剣花車』所収。徳間文庫)に登場していることが判明。どうやら幕末期の剣客らしい。近くの書店に取り寄せを依頼したので、読了次第、人物紹介と小説の構想についての私の推測を書くことにしよう。(2004年1月2日瓢水記)

藤島 生益(ふじしま いくます) 死ぬことと見つけたり

未資料

藤田 信吉(ふじた のぶよし) 花と火の帝、一夢庵風流記

上杉家家臣。

藤田 森右衛門(ふじた もりえもん) 一夢庵風流記

未資料

藤原 惺窩(ふじわら せいか)

学者(儒者)。播磨国龍野に生まれる。初名を舜。剃髪して妙寿院と号し、還俗して簫欽夫を名乗る。

惺窩先生
妙寿院。初名舜首座。還俗後名簫字欽夫。播州龍野の産也。姓藤原冷泉家。其子為景朝臣儒業を継て声名あり。当時号下冷泉即其子孫也
始而束髪して姜航(明人とも朝鮮人ともいふ)といふものに朱氏之学を伝へられしより。其高弟子五人ありしとかや。所謂(『斯文源流』)

藤原 種継(ふじわら たねつぐ) 時代諸説の愉しみ

桓武天皇の寵臣。

藤原 為家(ふじわら ためいえ) (1198〜1275) 花と火の帝

藤原定家の子。為氏・為相、東胤行の妻の父。歌人。
五十五歳の時に側室四条局(阿仏尼・三十歳)を迎えた。晩年は出家し、その阿仏尼と嵯峨で過ごしている。
「古今伝授」のために為家の家に通い続けた飛鳥井雅有は、その著『嵯峨のかよひ』の中で、「男あるじ、なさけある人の、年老いぬれば、いとど酔ひさへそひて、涙おとす」と書いている。

藤原
為相(ふじわら ためすけ) (1263〜1328)

藤原為家の子。母は阿仏尼。異母兄は為氏。歌人。冷泉家の祖。

藤原 時平(ふじわら ときひら) 死ぬことと見つけたり

無資料。

藤原 保昌(ふじわらのやすまさ) かくれさと苦界行

和泉式部の夫。

布施 孫兵衛(ふせ まごべえ) 影武者徳川家康、柳生非情剣

家康の鉄砲頭。

舟岡 源左衛門(ふなおか げんざえもん) 一夢庵風流記

未資料

不破 万作(ふわ まんさく) (?〜1595)

豊臣秀次の小姓。当時天下第一の美少年と称されたり、天下三美少年の一人といわれた。文禄四年七月十五日、主君秀次が高野山で自刃した折、殉死した。かつて、ある武士に懸想され、勢田の橋の下で契りを結んだが、秀次下賜の蘭奢待の名香を袖に焚きこめていたため、橋の上を通る人に危うく見つかるところだったという逸話も残されている。

不破 光治(ふわ みつはる) 時代小説の愉しみ

織田信長に仕えた武将。
前田利家、佐々成政と共に府中三人衆と称される。

文智女王(ぶんちじょうおう) 

→ 梅宮(うめのみや)

(へ〜へん)

日置 弾正(へき だんじよう)

日置流弓術の祖。
日置弾正正次は大和の人で、我国弓術中興の始祖としてその名古今に傑出している、葛輪という弓の上手と京都に於て勝負を争って勝ち、それより名人の名を得たのである、内野合戦の時、この人の矢先にたまる者が無かった、矢種が尽きた時、土居陰にかくれていて、敵が襲い来ると、ふっと出て弦打ちをして「えい」と云えば、敵がその声を聞いて逃げ散ったという事である。(本朝武芸小伝)

別木 庄左衛門(べつき しょうざえもん) かくれさと苦界行

別次とも書く。「慶安の変」の翌年、承応元年(1652)に起った牢人らによる騒乱(承応事件)の首謀者。芝増上寺を襲った。

(ほ〜ほん)

北条氏勝(ほうじょううじかつ) (1559〜1611)

小田原北条(後北条)氏。北条氏繁の次男。左衛門大夫。母は北条氏康の女。第六代玉縄城主。
兄氏舜が若くして没し、天正十年(1582)前後に家督を継いで玉縄城主となった。
家督を継いだ直後の天正十年六月、甲斐の武田領に侵攻した北条氏は、徳川家康軍と対峙。駿河方面から甲斐に進行した氏勝は、家康の勇将鳥居元忠に御坂峠で襲撃され、危うい所を堀内勝光の奮戦で助けられ、その感謝として父氏繁から拝領した槍を与えて労をねぎらったという。
玉縄城領支配を行なうとともに、天正十八年(1590)二月には、家老の間宮康俊らと箱根峠の西側を守る山中城(三島市山中新田)の城主松田康長の加勢として同城岱崎曲輪に籠城した。秀吉は小田原攻略にあたり箱根峠の突破を計画、羽柴秀次を総大将とした七万余の大軍で山中城を包囲。守兵四千余の山中城は必死の防戦につとめるも全滅に近い大敗を喫し、氏勝は命からがら玉縄城に帰った。
玉縄城は四月に入り、徳川勢に攻められて開城。氏勝は秀吉から助命され家康の配下となり、天正十八年七月、下総岩富一万石を与えられ、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍、慶長十六年(1611)、岩富で没した。

北条 氏邦(ほうじょう うじくに) (1543〜1591)

小田原北条(後北条)氏。北条氏康の四男。幼名乙千代丸。元服名秩父新太郎氏邦。武州鉢形城主。
北武蔵野豪族藤田康邦の女於福の婿養子となり、元服して秩父新太郎氏邦と名乗り、康邦の居城だった花園城を譲られ住していたが、永禄三年(1560)、古城趾だった荒川沿いの鉢形城を改修し移った。
鉢形城は武蔵北部を守り、上野と甲斐の経路をおさえる戦略上重要な要衝の地で、古くは平将門や畠山重忠が根城とし、太田道灌が居城とした後、久しく廃城となっていたのを氏邦が大改修し居城としたのだった。
永禄十二年(1569)九月、謙信との同盟を知った武田信玄が関東に兵を進め、鉢形城を包囲した。しかし、さすがの信玄も要塞堅固な鉢形城を落す事ができず、撤退。その後、謙信との同盟が破棄され再び信玄と手を結ぶ。天正六年(1578)、謙信が急死。翌七年、上杉家の家督を巡った争い「御館の乱」が勃発、一方の当事者上杉景虎は氏邦の弟で、北条氏にとって景虎が家督を継ぐことが最大の利益となる。しかし当初優勢だった景虎側は、頼みと踏んだ北条勢が越後の冬の雪にはばまれ思うに任せず、攻めあぐねているうちに景勝の反撃に遭い「御館」城が落城した。その間、氏邦は氏政の命を受け景虎救援の軍三万を率いて上野沼田城まで来ていた。沼田勢はそれほどの抵抗も無く氏邦に城を明け渡すが、時既に遅く、景虎が鮫ヶ尾城で自刃したという報を聞き、沼田城を土地の土豪藤田氏・金子氏に預け、鉢形城に引き上げた。こうして難なく手に入れた沼田城に、その後、氏政が氏邦の養父用土新左衛門の長男弥八郎重蓮を沼田城代に任命したことから一大事件が起こった。重蓮が城代になるや氏邦は重蓮を毒殺したのだ。ことの起こりは氏政が氏邦に一言の相談も無く重蓮を城代に任命したからだったが、この事件で氏邦は養家乗っ取りという汚名が付く。氏邦は城代として猪俣則直を任じ、その則直は天正十七年(1589)、沼田城の北十キロにある真田氏の名胡桃城を奪取した。この時、天下は秀吉の元に秩序を取り戻しつつあり、真田氏側はこれを謀略によるものとして関白秀吉に提訴。秀吉は名胡桃城を真田氏のものとの裁定を下した。ところが、北条氏側は秀吉の権力を認めていず、自らを関東の盟主と自任しているため、その裁定に従わなかった。この事が、秀吉の小田原征伐の直接のきっかけとなり、翌天正十八年、六十余州の軍を従えた秀吉は関東に進撃、北条方の諸城を次々に陥落させ小田原城を包囲した。
氏邦は居城鉢形城に籠城し抵抗するが、秀吉方の上杉・前田の大軍に包囲され、小田原城陥落の直前に降伏し、城を明け渡した。
氏邦は前田利家に預けられ、翌慶長二年(1591)、幽閉先の金沢で没した。享年48歳(45歳説有)

北条 氏繁(ほうじょう うじしげ) (1536〜1578)

小田原北条(後北条)氏。北条綱成の長男。康成。善九郎。妻は北条氏康の女。第四代玉縄城主。
父綱成とともに関東各地に突撃隊長として勇名を馳せ、剛勇の士として知られる。義父氏康の信頼を得て、玉縄領内の統治では善政を施した。元亀元年(1571)氏康が死去すると、北条一門にのみ与えられる「氏」の字を拝命、氏繁と改名。天正四年(1576)頃、下総飯沼城を築いて下総方面の押えとして入城するが、同六年、飯沼城中で病没した。享年四十三歳。子に氏舜、氏勝、直重、直胤、繁広がいる。長男氏舜が家督を継いで第五代玉縄城主となった。

北条 氏忠(ほうじょう うじただ) (15??〜16??) 見知らぬ海へ

小田原北条(後北条)氏。北条氏康の六男。若くして下野国佐野城主佐野宗綱の養子となり、佐野氏忠と名乗る。左衛門佐を称し、大閑斎と号す。
はじめ伊豆方面にいて、天正十年(1582)の甲斐侵攻では、御坂峠城を築いて徳川勢と対陣した。のち甲斐が徳川領となると甲相国境の新城(神奈川県山北町)の城主として国境を守る。天正十四年(1586)、下野国支配の重鎮として佐野城に移り、城領支配を行なった。秀吉の調停によって上野国沼田城を真田昌幸から受け取ったのは氏忠で、当主氏直から信頼されていた。
天正十八年の小田原の役では小田原城に籠城、七月の開城で徳川家康に降伏。伊豆の河津に隠居し、文禄二年(1593)、同地で病没した。

北条 氏綱(ほうじょう うじつな) 時代小説の愉しみ

小田原北条氏(後北条氏)第二代。新九郎。早雲の長子。
永正十三年(1516)氏綱三十二歳の時に父早雲から家督を譲られ、北条を名乗る。この前後に小田原城に拠り、小田原城主として韮山城に拠る父早雲とともに、関東への勢力拡大を進める。
永正十七年(1520)、鎌倉の諸神社・寺院の所領を検地し、それらの社領・寺両を安堵、諸役を免除する。翌大永元年(1521)二月、娘を古河公方足利高基の子晴氏に輿入れさせた。この婚姻により、伝統や系譜を誇り面目を重んじる北武蔵・上野に幡踞する坂東武者と款を通じたため、北条氏の関東進出を有利に進めることが容易になった。しかし、急速に勢力を増す氏綱に脅威を感じた武蔵江戸城に拠る扇谷上杉朝興と、上野平井城に拠る山内上杉憲政は、両上杉が提携して小田原に対抗しようと動き始めた。こうした両上杉の動向を察知した氏綱は、先手を打って、まず扇谷上杉朝興を江戸城に討滅せんものと、大永四年(1524)正月十三日、相模・伊豆の兵二万余を動員して小田原を進発した。朝興は、これを品川、小杉辺りで迎え撃つべく八千の兵をもって江戸城を出た。両軍の先陣は品川・高輪原で接触、遭遇戦を展開する。両軍が一進一退の激闘を繰り返している中、氏綱は後陣三千の兵を密かに間道から多摩川を徒渉せしめ、目黒村を経て渋谷・青山方面から攻め上り江戸城の虚をついた。急を聞いて朝興は江戸城に取って返したが、慌てふためく城中、朝興はなすすべもなく、ついに耐えきれず夜陰にまぎれて城を脱出、河越城へ遁走した。氏綱は板橋辺まで追撃して江戸城に戻り、城を部将に任せて小田原へ帰城した。この江戸城陥落、上杉朝興の敗走という事態を受けて、武蔵入間郡の土着武士毛呂・岡本両氏が氏綱に帰属した。これによって氏綱は小田原から当麻宿(現・相模原市)を経由して北武蔵に通じ、さらに上野国へと至る重要往還を確保した。これによって北条軍の動く範囲が広がり、翌大永五年(1525)二月には太田資頼(道潅の孫)を急襲、武蔵岩槻嬢をたやすく手に入れている。
大永六年(1526)十二月、安房里見の水軍・海賊衆が、小弓公方の命によると称し、三浦半島に奇襲上陸し、北上して鎌倉に乱入。略奪・放火などの狼藉を働き、鎌倉八幡宮を焼き払った。知らせを受けた氏綱は、七千余騎を持ってすぐさま駆けつけ、鎌倉を取り囲む。掠奪に熱中して鎌倉府の所々に分散していた海賊衆は、周章狼狽し氏綱の軍勢の敵ではなかった。海賊大将の一人里見左近大夫が落馬したところで討ち取られるなど大半の衆が討ち倒された。生き残った里見水軍は命からがら舟で沖に逃げ出すが、北条水軍に追撃され、安房に逃げ帰った者はほんの僅かだったという。
天文六年(1537)扇谷上杉修理大夫朝興が病没し、嫡子五郎朝定が家督を相続。朝定は亡父の遺言に従い、北条討滅の行動を起こすために、南武蔵の多摩川に近い深大寺にあった古い砦跡に城郭を新築、そこを情報収集の基地とし、しばしば相模へのスパイ活動を行う。これを聞いた氏綱は、扇谷上杉の挑発と捉え、河越城攻撃の口実とした。
天文六年七月十一日、氏綱は大軍を率いて小田原を進発。北条軍は北武蔵に通じる良く整備された道路を急行軍し、河越城まで五十余町の入間郡三木(現狭山市)辺に到着するとただちに同地に布陣した。軍勢を五隊に分け、足軽大将井浪・橋本・多目らを先陣に垣楯(正面横一列に楯を並べる構え)を並び立てる。松田・志木・朝倉・石巻・富永ら余勢も同様に、軍勢を五隊に分け、五層の陣形を取る。上杉軍は五郎朝定の叔父左近大夫朝成を大将に、武蔵・上野の坂東武者二千余騎を選りすぐり、城を打って出ると、三木へ押し掛け両軍対峙。全く動こうとしない北条軍に、騎馬武者集団を先陣に魚鱗の構えを取った上杉軍が襲いかかった。人馬一体となった上杉軍は北条軍の矢ぶすまにもひるまず、北条陣内に突入して切りかかり、歩騎入り乱れる肉弾戦が繰り広げられた。北条軍は先陣が切り崩されたとみるや、二番手の新手をしずしずと押し出す。三番手、四番手と繰り出す北条軍に、さすがの坂東騎馬武者軍団も疲労困憊。ついに朝成が生け捕られ、上杉軍は河越場へ引き下がった。氏綱は息も付かせず城を取り囲み、篭城した上杉軍を攻め立てる。恐れをなした幼弱な上杉朝定は、松山城(現東松山市)に遁走した。朝定を匿った松山城主難波田弾正は幼君を慕って続々と詰めかけて来る者らを見て、近隣の城主たちに呼びかけ、河越城奪還を企図する。それを察知した氏綱は、河越城を北条左衛門大夫に任せ、全軍をもって松山城を功囲、三日間の激闘を経て堪らなくなった難波田は幼君朝定とともに上野平井城に拠る山内上杉憲政を頼って落ち延びた。氏綱はそれ以上深追いせず、改めて福島編成に河越城を守らしめ小田原に帰還した。
また、古河公方足利晴氏は、房総に根を下ろしその勢力を増す小弓公方足利義明が自分に取って代わろうとしていることを危惧し、氏綱に義明討伐の命を出した。それに応じた氏綱は天文七年(1538)十月二日、嫡男氏康とともに小田原を進発、江戸城に入り軍評定を開いた。この時、根来金石齊という者が軍配者(作戦指導の大将格)に選ばれた。一方、小弓公方足利義明の元には上総・下総・安房三ヶ国から万余の兵が集結。義明、嫡男義純、次男基頼が大将となり、里見義弘(里見義堯の嫡男)を副将として国府台に布陣し北条軍を迎え撃つ態勢を整えた。関八州から江戸城に参集した兵は二万余。四日、氏綱はそれらの兵を引き連れ江戸城を進発、六日に松戸に到着し、大日川川畔にて軍勢を三隊に分け待機させる。七日払曉、氏綱は国府台の小弓御所の陣を急襲、緒戦で嫡男義純、次男基頼の二人が戦死。小弓御所の宿老逸見山城守入道は義明に一旦退却を進言するが、義明は自ら旗本衆の先頭に立ち北条軍に突撃、その剛腕をもって奮戦したが、「関八州無双の強弓」と評判の横井神助の目に止まり、射落とされ、気丈に立ち上がった所を松田弥次郎が馬上から切りかかり討ち果てた。副将里見義弘、義堯親子は戦闘の途中で義明を見失い、船橋方面に逃れた。総崩れとなった小弓御所の軍勢を追って御所に殺到した北条軍はその勢いで御所を焼き払った。この戦で氏綱は上総・下総二ヶ国を制し、房総半島まで北条氏の勢力を拡大した。
こうして馬を休める隙もなく、東奔西走、戦いに明け暮れる氏綱だったが、一方で社寺の復興にも努めた。
まず大永元年(1521)十二月、父早雲の菩提所として箱根湯本郷に臨済禅林金湯山早雲寺を建立、京都紫野の大徳寺から大隆禅師(以天和尚宗清)を招請し開山。翌大永二年九月、相模国一の宮「寒川神社」を再建、「相州大守北条新九郎氏綱」と署名、花押した棟札を納めた。同三年六月には箱根権現と僧坊を再建。さらに里見海賊衆によって焼き払われた鶴岡八幡宮の再建の為、古河公方足利高基に協力を要請し、天文二年(1533)、関東各地に勧進の使者を派遣。焼失から十年目の天文九年(1540)十一月竣工し遷宮式が営まれた。頼朝このかた源氏の崇める弓矢の神社を伊勢平氏の後裔北条氏綱が改めて造営したことで、足利政権に小田原北条氏が取って替わる象徴的な事例となり、臨済の禪僧で足利学校の中興の祖といわれる快元に、氏綱を評させて「八カ国の大将軍たるべきこと疑いなし」と絶賛させた。

北条 氏照(ほうじょう うじてる) (1541頃〜1590) 捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記

小田原北条(後北条)氏。北条氏康の三男。藤菊丸。源三。八王子城主。母は今川氏親女(瑞渓院)。
河越城夜戦で山内上杉憲政を撃退した北条氏は、武蔵国北部を手中に収め、山内上杉の有力被官を配下に組み入れた。その中の一人、多摩郡由井領の武蔵目代で滝山城主の大石定久の養子となり、永禄二年(1559)ごろには由井領を接収し滝山城に入った。
翌永禄三年(1560)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に軍を進め、滝山城は景虎の要請を受けた太田資正らに攻められたが、籠城して城を守った。
永禄六年(1563)三月、三田綱秀の辛垣城(勝沼城の西)を攻略。三田領は大石領と接し、杣保(そまのほ:三田谷、青梅谷)と呼ばれていた。三田領を平定した事で、氏照は多摩一帯を抑えた。
永禄七年、第二次国府台合戦に後陣として参戦。次いで八年、氏政について関宿城の簗田晴助(古河公方足利義氏の宿老)と戦って勝利を収めた。
永禄十二年(1569)、関東に進出した武田信玄の帰路を三増峠で待ち伏せるも、山岳戦に長けた竹田軍に反撃され撤退。しかしその後も、氏照は元亀・天正と方面司令官として関東各地に転戦、北条の関東支配の最前線で活躍した。天正六年には氏照の本拠となる八王子城を修復し、小田原本城の強固な支城の主となった。
天正十八年(1590)、小田原城は関白秀吉の大軍に包囲され陥落。氏政とともに城下田村安清の屋敷で切腹を命ぜられその生涯を閉じた。

北条 氏直(ほうじょう うじなお) (1562〜1592) 影武者徳川家康、一夢庵風流記

小田原北条(後北条)氏。北条氏政の嫡男。小田原五代領主。母は武田信玄の女(黄梅院)。妻は徳川家康の娘督姫。
早雲を始祖とする後北条氏最後の当主。武田氏滅亡後の不安定な関東の政情に乗じて上野に進出し、武田家の旧領を家康と二分して、家康の女督姫を室とした。しかし、関東統一を目論む秀吉に圧迫せられ、一応秀吉に従ったが、数代にわたって関東に築いたその武威を過信した氏直父子は、上野沼田城の処置について秀吉と対抗し、秀吉の怒りを買った。天正十八年(1590)三月、秀吉は大軍をもって小田原城を包囲。篭城数カ月、父氏政と叔父氏照は自殺して開城した。氏直は家康の聟という関係から一命を助けられて高野山に追放。のちにゆるされて一万石を与えられた。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)

天正八年(1580)、氏直十九歳の時に父氏政より家督を譲られる。
天正十年(1582)、武田家滅亡と信長急死後の上野国と甲斐国の領有を巡って徳川氏との間で争奪戦が繰り広げられたが、甲斐を徳川、上野を北条氏がそれぞれ分有する事で和睦し、この時、氏直は家康の女(督姫)を室に迎え同盟関係が成立した。
その頃、信長の後を受けた秀吉は、中国・四国・九州を平定、残すは関東・東北地方だけとなり、天正十五年(1587)、秀吉は氏政・氏直父子に上洛して臣從の礼を取るよう求め、同盟者の家康も上洛するよう再三忠告するが、氏直父子はそれを無視し続けた。
そして天正十八年、西国の諸候大名を糾合した秀吉の大軍を迎える事になる。籠城五ヶ月余り、秀吉方の軍師黒田官兵衛の策略で城内は分裂、混乱をきたし、氏政・氏直父子はついに降伏せざるをえなくなった。
秀吉の裁断は、城兵全員の解放を承認したが氏政・氏照ら北条家の首脳は切腹、ただし家康の娘婿である氏直は助命され高野山に追放となった。一年後に許され一万石の捨扶持を与えられたがそれもつかの間、天正十九年十一月、大坂で病死した。享年三十歳。

北条 氏長(ほうじょう うじなが)

小田原北条(後北条)氏。北条繁広の長男。母は遠山景信女。
五歳で家康に出仕。旗本に列し、鉄砲組、持砲頭を務め、明暦元年(1655)には大目付にまで出世した。
洋式兵法に通じ、とくに鉄砲による攻城戦の軍法を確立し、北条流軍学の創始者となる。また、寛文の江戸図(切絵図)を北条氏の遺臣福島伝兵衛とともに作成した。

北条 氏規(ほうじょう うじのり) (1545頃〜1600) 影武者徳川家康、一夢庵風流記、見知らぬ海へ

小田原北条(後北条)氏。北条氏康五男。北条氏直の叔父。韮山城主。
弘治元年(1555)、十一歳にして相模三崎城、伊豆韮山城二城の主となった。
永禄十一年(1569)と元亀元年(1570)、武田信玄が韮山城を襲ったが、氏規は城を守り切った。
天正十年(1582)、織田信長が本能寺に斃れ、その報を受けた甲斐の郷士たちが躑躅ヶ崎の館の河尻秀隆(信長の家臣)を急襲し討ち取った。これによって一時主の居なくなった甲斐を巡って、上杉景勝・北条氏政・徳川家康が動く。小田原北条勢と駿河徳川勢は籠坂峠を隔てて対峙するが、氏規が和平交渉にあたり、和睦することになる。氏規は一時今川義元の所に人質としていた事があり、その時、同じく人質の身であった家康と親しくしていた関係で、家康の人柄や能力を高く評価していた。氏規は家康と敵対するよりも甲斐国一国を家康に譲り協調する方が関東の盟主たらんとする北条にとって利があると、氏政を説得。「甲斐信濃は徳川へ、上野は全て北条へ」ときまり、和議の証しとして家康の次女督姫が氏直に嫁ぐことになった。しかし、それも束の間、信濃の真田昌幸が上野沼田を奪い、氏直は家康に抗議、家康は昌幸に返却を命じたが昌幸は家康から離れ、秀吉の元に走ってしまった。その後、家康も秀吉の姉朝日姫を正室に迎え、臣下の礼を取り、沼田問題はそのままになった。
天正十五年(1587)、九州を平定した秀吉は、名実共に天下人となり、秀吉に断り無く戦をしてはならぬという関白令の総無事令(私戦禁止令)を諸国に発し、従わなければ討伐するという強硬政策を打ち出すとともに、上洛し臣下の礼を取るよう各大名に勧告した。諸大名は上洛し、臣下の礼をとったが、北条氏政・氏直は沼田問題もあり、成り上がりの田舎者と見下していた秀吉の上洛勧告に従うわけがなかった。それどころか小田原城修築、鉄砲発注と合戦の準備を始めた。この情報を掴んだ家康は、天正十六年五月、氏政・氏直父子に、速やかに上洛し、秀吉に謁見、臣從を誓う事、従わなければ、氏直に嫁がせた督姫を返すようにという起請文を認めた。氏政は各地の支城主を呼び寄せ、この起請文を前に評定を行なう。これが長い小田原評定の始まりであった。決定はなかなか出されず、家康は氏規の家臣朝比奈弥太郎に上洛を促す書状を送った。氏規は家康の人柄も知っていたので、まず自分が上洛する事にした。
氏規は途中駿府に立ち寄り、家康の家臣榊原康政を同道して上洛した。八月二十二日、秀吉に謁見し、沼田問題が解決すれば、兄氏政は上洛すると述べる。しかし、秀吉は「とにかく上洛せよ」と言い、その上で善処するという。一説には「それは北条と徳川の問題だ」と逃げたとも言われている。秀吉はその後、氏規の宿所をわざわざ訪ね、天下の情勢を説いた。氏規は頷きながらも戦いになった場合は、自分が先鋒となって秀吉公に一矢奉るつもりであると応えた。秀吉は笑いながらも、こうした氏規の度量の大きさを見抜いたに違いない。氏政は氏規の持ち帰った答えには満足せず、ついに上洛しなかった。
十一月、秀吉の宣戦布告の書状が氏直宛に届く。再び籠城か出撃かで評定が続く、そこには和睦の意思は無く、氏規は、先の見えない氏政・氏直に憤りを感じながらも、戦うと決まれば「それがし一命あらんほどは、韮山の城を敵の馬蹄にかけまじく候」と誓うが、秀吉相手に勝てる訳がない、頼みの家康も今は秀吉に臣從している。氏規には戦う前に、今回の戦の先が見えていた。せめて北条の名を汚さぬように、韮山の城を死守すると言い捨てて、韮山城に帰った。
韮山城の兵力は一説に五百余人、あるいは三千人と伝わるが、攻め寄せた織田信雄を総大将とする豊臣方は四万の軍勢だった。戦いは天正十八年(1590)三月二十九日未明から始まった。同時に攻められた山中城は半日で陥ちたが、韮山城は陥ちない。攻めあぐねた豊臣方は主力を小田原城包囲に廻し、蜂須賀、福島隊が韮山城を包囲攻撃する。家康からは再三、氏政・氏直に降伏を勧めるようにとの書状が届いていた。六月二十四日、氏規は家康の陣所に赴いた。この時、氏規は秀吉からの降伏条件の証文を受けたとも言われるが定かではない。そして六月二十六日、小田原城はついに一斉攻撃を受ける。秀吉は氏規を通じて降伏勧告を行ない、七月六日、氏直が家康を訪ね降伏の意思を伝え、秀吉は上総・下総の二国の所領安堵、氏政はじめ城中の男女の助命を約して、氏直に開城を命じた。
だが、この約束は嘘で、氏直が従ってみると、氏政・氏照は切腹を申し渡され、所領の安堵も無かった。七月十一日、氏政五十三歳、氏照五十歳、辞世を詠み、沐浴して身を清め切腹して果てた。介錯は弟氏規が行なった。介錯の後、氏規は刀を持ち替えて腹に突き立てようとしたが、立ち会っていた榊原康政、井伊直政が必死に止めている。榊原・井伊の二人は、こうした事態を予見していた家康からしっかりと言い含められていたのだった。
戦後、氏直・氏規は高野山に送られ、翌天正十九年(1591)三月、許されて氏直が河内狭山に一万一千石を授けられる。だが氏直はその十一月病死したため、氏規がこれを継いだ。氏規はそのまま家康の家臣となり、北条の命脈は保たれた。途中お家騒動など危機もあったが、家系は十二代続き明治を迎えている。

北条 氏秀(ほうじょう うじひで)

北条 氏政(ほうじょう うじまさ) (1538〜1590) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、時代小説の愉しみ

小田原北条(後北条)氏四代当主。北条氏康の次男。母は今川氏親の女(瑞渓院)。正室は武田信玄の女(黄梅院)。庄司甚右衛門の姉おしゃぶ(おしょう)を側室として寵愛した。左京大夫・従四位下。
永禄二年(1559)末、或いは翌3年初めに家督を相続。上杉氏の度重なる関東出兵を退け、上州南部に勢力を拡大。永禄十一年(1568)末から上杉氏と越相同盟を結び、駿河に侵攻した武田信玄と戦う。父の死後、上杉氏と絶って再び信玄と結び、以後、北関東への勢力拡大に専念する。簗田・小山氏らを服属させ、下総北部から下野に領国を拡大。豊臣秀吉の上洛命令に応じず、天正十八年(1590)、秀吉軍と戦ったが降伏。弟北条氏照と共に秀吉に切腹を命ぜられ七月十一日自刃した。墓所は箱根の早雲寺にある。

永禄三年(1560)十二月、氏政二十三歳の時、父氏康から家督を受け継ぎ、翌四年には父氏康と共に小田原に攻め寄せた上杉謙信と戦い、氏政は同盟関係にあった甲斐武田信玄に援軍を要請するなど重要な役割を果す。氏政は永禄五年(1562)十一月、自ら三万の大軍を率いて城将の上杉憲勝(憲房の末子)のいる武州松山城を攻めた。
その後、上総、下総、上野周辺まで出撃し、しばしば謙信方の無精を脅かし、永禄七年(1564)正月、下総国府台において謙信に同盟する上総の里見義堯、同義弘と岩槻城の太田三楽齊の連合軍と激突する。(第二次国府台合戦)
永禄十一年(1568)、信玄の駿河侵攻により十五年間続いた三国同盟に亀裂が生じ、永禄十二年には敵対していた謙信と和睦、同盟の誓紙を交わした。この時、同盟の印として翌元亀元年(1570)、弟氏秀(後の上杉景虎)を養子として謙信の元に送った。
この年の九月、信玄は碓氷峠、小仏峠の二方面から南下、小田原を攻撃。この甲州軍の攻撃でも、氏康・氏政親子は籠城策をとり、信玄の攻撃をかわした。
元亀二年(1571)十月、氏康が亡くなると氏政は謙信との同盟を破棄し、再び信玄と同盟を結び妹(尾崎殿)を勝頼に嫁がせ同盟の強化を図ろうとしたが、天正元年(1753)四月、京に上る途上信玄が病に倒れ没したことで破談となった。
天正六年(1578)三月、謙信の突然の死により、上杉景勝と景虎の間で家督相続の争いが起き、景勝に味方した勝頼に激怒した氏政は第二次相甲同盟を解消した。
天正八年(1580)八月、四十三歳の氏政は、駿河黄瀬川において勝頼と対陣中、家督を嫡子氏直に譲り、截中齊(軒)を名乗る。
天正十年(1582)、武田勝頼が織田信長に敗れ、上野国は信長麾下の滝川一益の領地となったが、その数ヶ月後に信長が本能寺で倒れると、氏政・氏直父子は厩橋を攻め北関東での版図を拡げ、北条氏は三百万石以上の大守となり、関東の盟主としての地位を確保した。しかし、信長の後を受けた羽柴秀吉がほぼ西日本を制し、天下の情勢は一変していた。天下統一を目指す秀吉はその矛先を東国に向け、北条氏にも帰順を呼びかけるも、自身過剰となった氏政・氏直父子は軍門に下るのを拒否。
天正十八年(1590)三月、秀吉は東国征討のため二十万の大軍をもって東下。堅固を誇る北条氏の支城は次々に陥落し、氏政・氏直父子は謙信・信玄さえも落せなかった難攻不落を誇る小田原城に籠城して秀吉軍を迎えるが、長期戦を覚悟した相手の方が一枚も二枚も上手だった。籠城三ヶ月を過ぎると、城内の士気は衰え脱出者が続出。その年の七月、舅の徳川家康を通じて氏直が降伏を申し出で、小田原城は陥落した。
氏直は許されたものの、氏政は切腹を命ぜられ生涯を閉じた。享年五十二歳。

北条 氏康(ほうじょう うじやす) (1515〜1571) 一夢庵風流記

小田原北条(後北条)氏第三代当主。新九郎。父は二代北条氏綱。妻は今川氏親の女。左京大夫・相模守・従五位下。剃髪して万松軒と号す。
天文十年(1541)家督を継ぎ、同十五年父氏綱以来戦い続けていた上杉(扇谷)朝定を川越城に破り、上杉(山内)憲政を急襲して「関八州」の太守となる。以後、領土の拡張・整備に努め、今川義元・上杉謙信・武田信玄との対決や和睦を繰り返す。さらに南総の里見氏と戦い、上野南部まで勢力をのばした。(『伽婢子』2人名索引)

天文十年(1541)、父氏綱の死により二十六歳で家督を継いだ。
氏康は家督を継いだ次の年に徹底的な領内検地を行ない、課税対象の透明化を図り、早雲以来のほ四公六民の税率を堅持。これは他の戦国大名にくらべて、きわめて善政といえる率であった。このことは自ずと愛郷心と領主への忠誠心を生む。当時はまだ専従の兵士というのは少なく、戦力のほとんどは農民兵だった。彼らの志気は守るものの価値によって決まる。また、農民を大事にした北条は、職人も大事にした。彼らの活力こそが、農業生産だけでは限界のある経済発展に加速を付けさせる可能性があること、しかも築城土木技術や武具生産技術の進歩も、一にそのことにかかっていることを良く知っていたからである。行政府や軍隊の中でも人材登用を行ない、進歩的なアイデアの登用を積極的に奨励したという記録がある。このように、氏康は民心の掌握こそが領国統治の重要な要であると早雲以来の北条家の精神を継承していた。
氏康は、こうした善政を領国内で行なっていた前提もあって、今川・上杉両軍の包囲網という北条氏最大の危機を乗り切った。
天文十四年(1545)、相模から武蔵に勢力を拡大する新興の北条氏を快く思わない関東管領上杉憲政は、古河公方足利晴氏を抱き込み、さらに駿河守護今川氏とも連携し、反北条の旗を上げた。氏康はこうした動きを早くから察知して姻戚関係にある公方に上杉方に与しないよう説得を試みていたが、北条を討てば関東支配の全権が再び公方に戻るという憲政のたくみな言葉になびき、北条征伐で合意した。一方、駿河の今川氏は京に上るためには背後の北条氏の脅威を無くす必要があり、上杉憲政の意に従い相模を挟撃する態勢を取る。上杉憲政の当面の戦略は、先年氏綱に奪われた河越城の奪還にあった。
天文十四年九月二十六日、上杉憲政は足利晴氏の軍勢二万と併せて、八万の兵をもって河越城を十重二十重に包囲。包囲軍はすぐには総攻撃に討って出ず、包囲網を敷いたまま兵糧攻めで北条勢が苦し紛れに討って出て来るのを待つ作戦。一方、河越城には関東制覇のために充分な糧食類の備蓄がなされていたため、北条の守備隊はじっくりと援軍が来るまで籠城する。こうして膠着状態が何ヶ月も続き、半年あまりが経った翌天文十五年四月、ようやく氏康が動き、事態は急展開を迎える。氏康の軍勢は僅か八千。十倍以上の敵を相手に周到に練られた夜襲による奇襲作戦が見事成功し、上杉・足利の軍勢は総崩れとなって下野に敗走した。こうして氏康は、八万の包囲軍をその十分の一兵力で撃破するが、その評判は関東一円に広まり、関東の土着武士団の帰属をさらにもたらす結果となった。
関東進出の代償として今川義元に奪われた富士川以東の地を奪還すべくその機会を伺っていた氏康にその機会が漸く訪れた。天文二十三年(1554)二月、今川義元は駿遠両国の兵力を結集して三河国の吉良義安攻略に出兵した。氏康は駿河に兵なしという確かな情報のもと、二万の兵を動員して駿河に攻め込んだ。三河攻撃の最中にその報に接した義元は、義弟の武田晴信(信玄)もとへ早馬を飛ばし援軍を要請した。これも氏康にとっては計算づくだった。甲斐の武田も越後の長尾景虎(上杉謙信)との川中島での緒戦で手痛い打撃を受け、以来、北信濃にその主力を置いており、今川に支援する兵は僅かであろうと踏んでいたのだ。ところが氏康の計算を裏切り、一万余の大軍で富士川、御殿場両方から攻め寄せてきたのだった。九年の間抱いていた駿河東部の奪還の夢は潰え、出撃から二十日あまりで相州へ撤退した。
その直後の三月、今川義元の軍師太原雪齊(崇孚)から氏康のもとに和睦の申し入れがあった。それは相・駿・甲の三国同盟の提案であった。これがいわゆる「善得寺の会盟」と呼ばれる盟主会談で締結されたとされる三国同盟である。この同盟で、この年の七月、義元の嫡男氏貞のもとに氏康の娘(早川殿)が嫁ぎ、十二月には晴信の長女(黄梅院)が氏康の嫡男氏政のもとへ嫁いでいる。この三国同盟によって氏康は背後を憂えることなく北関東へ兵を進められるようになった。こうして北条軍の北進で圧迫された管領上杉憲政は、越後の長尾景虎の元へ亡命し、上杉の家督と管領職を景虎に譲った。
改めて関東管領となった上杉謙信(長尾景虎)は、北条氏に奪われた関東各地の奪還を憲政に懇請され、同じく北条氏に敵対する安房里見氏、常陸佐竹氏の要請もあり、永禄三年(1560)、八千の兵を率いて三国峠を越え厩橋城に入った。この時、氏康は上総の久留里城を包囲し、里見義堯と交戦中だったが、謙信が三国峠を越えたという知らせを受けると、包囲を解き河越城に入った。この時の謙信の関東出兵は管領就任報告のために若宮(鶴岡八幡宮)に詣でるのも一つの目的で和戦両様の構えで相模に入ったのだが、そんなことを知るよしもない氏康は、河越城で上杉軍を迎え撃つつもりだったのだ。ところが、関東各地の諸将がぞくぞくと謙信のもとに駆けつけ、大軍となったために、作戦を替え小田原城に戻り籠城策に切り替えた。翌四年三月、謙信は小田原攻略に臨み、管領軍が小田原に向かった時には十一万の大軍にふくれあがり、一気に北条の根城を叩こうと小田原城を包囲。だが、堅固な小田原城はびくともしない。攻めあぐねているうちに兵の士気も衰え、寄せ集めの軍はあちこちで掠奪をする始末となった。やむなく包囲を解いた謙信は、関東管領職の就任式を行なうために鎌倉鶴岡八幡宮へと向かった。
これより前、永禄三年の暮れ、氏康は家督を氏政に譲り、自らは万松軒を名乗り剃髪するが依然城内の本城にいて実権を掌握、家臣らからは「御本城様」と言われていた。
この後、謙信は関東平定の名目で十四回にわたって関東に出兵するが、そのつど北条軍は引き、謙信が越後へ戻るとまた進出するという行動に出る。関東の諸将も謙信が来れば検診につき、戻ると北条につくという繰り返しで、永禄十二年(1569)、ついに謙信は関東出兵を諦めた。
これより先、永禄十一年(1568)、武田信玄が駿河の今川氏真を攻めたことから、三国同盟が崩れていたため、氏康は謙信に和睦を持ちかけ相越同盟が成立する。北に上杉、南に北条と挟撃される形となった信玄は、永禄十二年九月、氏康を討つために碓氷峠を超え関東に出撃する。このときも氏康は小田原城に籠城した。しかし信玄は小田原城の堅固な守りを目の当りにすると、長居せずさっさと引き上げている。この時、氏康は上杉軍との攻防の経験を踏まえ、城をさらに堅固に修復、武田軍の暴行、掠奪に備え城内に近隣の人々をも収容した。
それから二年後の元亀二年(1571)十月三日、氏康は小田原城内で永眠した。享年五十六。

北条 幻庵(ほうじょう げんあん)  (1493〜1589)

小田原北条(後北条)氏。北条早雲の三男。菊寿丸。三郎長綱。長綱僧正。幻庵宗哲。母は駿河・駿東郡の小豪族葛山備中守の女(葛山殿・栖徳寺殿)。
生まれてまもなく箱根権現に入寺、その後度々京に遊学。大永二年(1527)京都に上った折には、近江三井寺の塔頭寺院上光寺を宿所として、三年間勧学院で修学した。これを終えて箱根に戻り、第三十九世別当権僧正海実の後を受けて、第四十世別当となる。長綱(ちょうこう)僧正と呼ばれた。天文七年(1538)別当職を融山に譲り、還俗して幻庵と号し、長綱(ながつな)あるいは幻庵長綱を名乗る。小田原の久野に住していたことから、久野幻庵とも呼ばれていた。また、幻庵は早くから金剛王院(真言宗醍醐派別格本山)で真言宗の修行を積んでいたため、真言の学にも浅からぬ知識を有していた。
また早雲の出自とされる「伊勢家」は、鞍造りに優れた技巧を持っていたことから、父早雲が幼少に身につけたその技を、出家の身で生来手先が器用な幻庵は、鞍造りの法を悉く習得し技を極めた。幻庵の手がけた鞍は逸品で、「幻庵作の鞍」としいぇ小田原で珍重されたという。また、弓に弦を差し竹に羽をつけて矢を矧ぐ細工も習得し、「世に双びなし」とその技を称賛されている。こればかりか、京都遊学の折に大徳寺の僧から喫茶の法や作庭の技法も教わってきたり、自ら作庭に使う石台を造るなど多趣味な風流人で、幻庵の作る尺八は「一余切」(ひとよぎり)と呼ばれ、禁裏から所望されたり、鼓を打つことも上手で「鼓打の幻庵」と呼ばれ類いなき技であったという。幻庵が歌や学問にも通じた教養人で、こうした多種多様な趣味に生きられたのは、父早雲が、争いが起きないよう、三人の兄弟それぞれにその財産をしっかりと分与していたからで、幻庵には分与された知行地四千貫(石高で三万二千石)があった。
こうして幻庵は風流人として名を挙げているが、還俗後には、各地の合戦で北条軍の一隊を指揮したり、長老としてさまざまな軍議に参加するなど武将としても北条氏の関東進出に貢献した。天正十七年(1589)十一月一日に没するまで、幻庵は五代氏直の代まで、北条家の重鎮として一族をまとめる柱石の役割を果たした。享年九十七歳(一説に八十数歳)。法号は「金龍院殿明岑哲公大居士」とされ、久野中宿に葬られた。

北条 繁広(ほうじょう しげひろ)

小田原北条(後北条)氏。北条氏繁の五男。妻は水戸徳川家家臣遠山景信の女。
兄氏勝の跡を継ぎ下総岩富城主となる。子に北条安房守氏長がいる。

北条 早雲(ほうじょう そううん) 

→ 伊勢 新九郎(いせ しんくろう)

北条 為昌(ほうじょう ためまさ) (1520〜1542)

小田原北条(後北条)氏。北条氏綱の三男。彦九郎。第二代玉縄城主(鎌倉市)。
北条氏時(早雲の子、叔父)の跡を継ぎ幼くして玉縄城主となり、相模国東郡郡代、三浦郡郡代をも務める。元服の時に烏帽子親の大道寺盛昌の一字を受けて為昌と名乗る。若くして支城主となったために、氏綱の娘婿北条綱成が後見役となった。三浦郡支配を兼務していることから、水軍を管理。河越城をめぐる上杉朝興との戦いで、朝興を撃破し、河越城代となるが、天文十一年(1542)九月、弱冠二十三歳で没した。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ) (1515〜1586) 時代小説の愉しみ

小田原北条(後北条)氏。今川家家臣福島(九島)正成の子。勝千代。孫九郎。左衛門大夫。上総介。上総入道道感と号した。第三代玉縄城主。
今川家の宿老で遠江土方城主であった父正成は、大永元年(1511)十二月、武田信虎を攻めんと甲州上条河原に出撃し大敗を喫し、討死。家臣とともに小田原に逃げ来った勝千代は北条氏綱に養われ、やがて娘婿として側近の一人となり、北条綱成を名乗った。若き玉縄城主北条為昌の後見役となって為昌を補佐。武道の志が強く、黄色の大旗に「八幡」の文字を染め抜き、真っ先に突進して敵陣になだれ込む綱成の勇姿を見て、人々は「地黄八幡」と呼んでその勇気を讃えたという。
河越城代に任命されていたが、為昌が急死したため河越城を大道寺盛昌に任せて玉縄城主として東郡支配に専念した。北条氏康の代理として白河晴綱や結城政勝との外交交渉にあたり、政治的な外交手腕を発揮し、北条氏が関東に進出する時には突撃隊長となって活躍した。天正十五年(1587)五月、最盛期の北条氏を後見しつつ七十三歳で没した。子に氏繁(康成)、氏秀と、北条氏規夫人、遠山隼人佐夫人の四人がいる。妻は永禄元年(1558)に没し、鎌倉大長寺に墓所がある。

北條 時宗(ほうじょう ときむね) 駆込寺蔭始末

鎌倉執権北条氏。山内殿。

北条 長綱(ほうじょう ながつな) 時代小説の愉しみ

小田原北条(後北条)氏。三郎。北条氏綱の弟。
駿河長久保城の城将。

坊城 俊克(ぼうじょう としかつ) 異説猿ケ辻の変

薩摩伝奏。

宝蔵院 胤栄(ほうぞういん いんえい) (?〜1607) 捨て童子松平忠輝、柳生非情剣

十文字鎌槍術。南都興福寺宝蔵院の僧覚禅房法印胤栄は槍の名手として知られ、中でも鎌槍といわれる穂先に鎌の刃のようなものが付いた槍に習熟し、優れた技量を持っていたという。胤栄の出自は、中御門氏で祖父は中御門薩摩胤定、父は中御門但馬胤永といって興福寺の衆徒(僧兵)であったといわれている。胤栄の時に宝蔵院の院主となり、宝蔵院胤栄と名乗った。また、春日明神にも仕える寺僧兼社僧で、俗名を伊賀伊賀守といった。
幼い頃から兵法に心をひかれ、刀術を「富田流」の富田与右衛門と「神道流」の大栗春軒に学び、槍術を五ノ坪兵庫介に学んだ。また、後に豊臣秀吉の薙刀師範となる穴沢盛秀からも槍術と薙刀術を学んでいる。こうして胤栄が学んだ兵法者の数は四十数名とも言われる。柳生宗厳とも親しく、その縁で上泉伊勢守にも会うが、胤栄が槍術に傾斜したのは高観流槍法の達人成田大膳大夫盛忠を知ったことによる。胤栄は盛忠を宝蔵院の僧坊に逗留させ、ひたすら槍術を学んだ。(『歴史読本』昭和55年3月号所収神坂次郎「鎌と水と月と」参考)
宝蔵院胤栄。宝蔵院の覚禅坊法印居胤栄は中御門氏にして、南都(奈良)の僧徒なり、釈門(沙門)たりといえども刀槍の術を好み、柳生但馬守宗厳と共に刀術を上泉伊勢守に学ぶ。また、大膳大夫盛忠といふ者あり。槍法の達人なり。諸州に修行して南都に来る。胤栄、盛忠を宝蔵院に留め、槍法を学びてすでに熟す。履を取り胤栄に従う者多く、中村市右衛門尚政、ひとりその宗を得。胤栄は釈門にありて武事をおさむるはもとより本意にあらず。わが後嗣は必ず武事を学ぶべからず、武器は無きにしかず。故に兵器若干を中村に授け、寺中兵器なきなり。後嗣権の律師禅栄坊胤舜が十九歳のとき胤栄寂せり。時に慶長十二丁未年正月二日、享年八十七なりき。(略)山上秀澄いわく。宝蔵院胤栄は釈門なれども刀槍の技術に達せり。高観流の直槍を修行者に習いて、のち工夫を加えて鎌槍となす。宝蔵院流と称するなり。[武芸小伝](稲垣史生『考証戦国武家事典』)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「宝蔵院胤栄」の項および関連記述あり参照ください。また『続日本武術神妙記』に、
「宝蔵院の事 奈良の宝蔵院胤栄の処へ射術の達人菊岡二位宗政というものが勝負を申し入れた。そこで興福寺南大門前で立ち合ったが、胤栄は鎌槍を執って立ち、宗政は弓に矢を番いて、機を見て放とうとしたが、放つべき隙が無かったと見え、弓を轡きしぼったまま、南円堂の傍にある森の中に入ってしまい、弓矢をすてて逃げたという事である。また穴沢秀吾という長刀の達人が胤栄と仕合をしたいと思い、奈良に来りて宝蔵院の奴となった。一日胤栄はその気色が常人ならずと見て、潜に呼んで問いただして見ると秀吾が実を以って答えたので、胤栄は大いに驚いて坐に請じ、その希望に応じて仕合をしたという、胤栄は慶長十二年八月二十六日、享年八十歳で卒した。」とある。

[逸話](『想古録』)
宝蔵院は槍術の名人なり、試合のときに具足を着せず槍を合せければ、或る修業者これを怪しみ、其由縁を問ひけるに、宝蔵院の言ふやう、元来武芸の試合は対手に仕負くる気遣ひなきほどの手練を得たる上ならざれば為ぬものなり、余嘗て鵜使ひの鵜を使ふを見物したるに、三十二三の糸縄を自由に操り、鵜を駆りて己れが心次第に前後左右へ魚を逐がしめき、一羽二羽を使ふても水中を潜り行く生物なれば、思ふやうには成るまじきを、魚を捕りたる鵜を見出すときは引抜き曳抜き、其鵜を引寄せて魚を吐かせ、又これを放つこと神変不可思議なる技倆かなと、余は其術を鵜使ひに尋ねしに、別に口伝とても無し、唯だ何百回も度数を重ぬれば、終には手慣れて十羽、十五羽、三十羽と次第に多く使はるる如くに為る者なり、但し一つの必要なることは抜き易き細綱より抜取ることなり、縺れたる綱は捌き難き者なれば、先づ抜易き綱より抜くが順序なりと答へたり、余は之を聞き、高きに昇る先づ低きよりすの一語に了り、終に今の技術を覚え得る迄に熟練しぬと説き聞せぬとかや(篠崎甚七)

星合 具泰(ほしあい ともやす) 花と火の帝

無資料。

保科 正俊(ほしな まさとし) (1509〜1592)

弾正忠。甚四郎。父は信州高遠城主高遠頼継の家臣保科正則。信玄が信州へ侵攻した時に高遠頼継は自刃させられ、正俊は武田に降り以後武田家に仕えることとなる。武田家三弾正の一人で、「鎗弾正」と称された。子の正道の代に武田家が滅び家康に仕える。孫の正光は秀忠の庶子幸松(後の保科正之)の養親となった。
[逸話](『想古録』)
保科弾正は槍弾正と呼ばるるほどの剛の者にて、戦場にては誰一人として其槍鉾に立つものあらざりしが、稽古場の仕合にては何時も人に負けけるとなり、蓋し人は現場に臨めば精神幾分か混乱するも、弾正は実地に当れば胆気平日に百倍せしゆゑ、平時と戦時との技倆上に斯く著るしき懸隔を生じたる者なるべし(長谷川運平)

保科 正光(ほしな まさみつ) (1560〜1631) 花と火の帝

肥後守。信州高遠城主。祖父は武田の家臣で、武田三弾正の一人「鎗の弾正」と称された保科正俊。
父正直の代に家康に仕え、信州高遠三万石を与えられた。そうした武田家の遺臣である正光は、同じく家康の庇護を受けていた穴山梅雪の未亡人で、信玄の娘でも有る見性院への挨拶を欠かさなかった。このことから幸松の養家として見性院に見込まれ、幸松(保科正之)の養父となる。正光は正妻に真田昌幸の女を向えていたが嗣子がいなかったため、妹の子真田左源太を部屋子として貰い受けていたが幸松が来たために左源太を返している。そして公表されていないものの将軍秀忠の子という事から、息子となった幸松を終生「幸松殿」と「殿」付けで呼んでいたという。(中村彰彦著『保科正之』)

保科 正之(ほしな まさゆき) (1611〜1672) かくれさと苦界行、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、死ぬことと見つけたり、かぶいて候

肥後守。幼名幸松。土津(はにつ)公と呼ばれる。会津松平藩二十八万石の藩祖。
秀忠と大奥「大姥」付き女房お静の間の子として、江戸白銀丁竹村助兵衛(姉夫妻)宅で生まれる。暫く兄夫婦の許で母子は暮していたが、正室於江の方の勘気を恐れて、三歳になったときに武田信玄の女見性院に預けられた。
しかし父秀忠からは何の沙汰もなく、幸松の末を案じた見性院は旧武田家の家臣で、信頼のできる信州高遠城主保科正光に養育を依頼。七歳で正光の養嗣子に迎えられる。十三歳の頃には、幕府碁詰所勤めの安井算知から囲碁を学んだり、天竜川で水練などを行ったという。寛永八年(1631)、養父正光の逝去にともない高遠藩を襲封、元服して正之と名乗る。翌九年、親子の対面の無いまま父秀忠が没するも、それからまもなく兄家光に認知され、父秀忠の形見を貰い正式に徳川一門として東照宮に参拝した。寛永十年(1633)、岩城平藩主内藤左馬助政長の女菊姫と結婚。翌十一年には長子幸松を産むが、正室となった菊姫は寛永十四年(1637)若干二十歳の若さで没した。その一年後には長男幸松も五歳で夭折している。
寛永十三年(1636)、出羽山形二十万石に転封。寛永二十年(1643)、御家騒動の不手際を理由に加藤明成の会津四十万石が没収され、その後に正之が会津二十三万石で入封し、隣接する南山の天領五万五千石を預った。実質二十八万石を超える知行地だが、これは御三家第三位の水戸家が二十五万石だったためにそれを超えぬように配慮された措置だったという。
将軍家光の信頼を得た正之は、家光の嫡子家綱の元服に際し烏帽子親を勤め、将軍と同色(萌黄)の直垂の着用を許されたり、さらには将軍家の御鷹場での狩猟を許されるなど、他の幕府重臣らと一線を画す副将軍格で遇された。
家光が没すると、四代家綱の輔弼役として家光時代の大老酒井忠勝、老中内藤忠俊、松平信綱、阿部忠秋らと幕閣に参与し、幼い将軍の治世を支えた。この家光の逝去に際し、老中堀田正盛、阿部重次が殉死したことや、朱子学を学んだことで殉死に疑問を持った正之は、藩法で殉死を禁ずるとともに、徳川光圀と共同して「武家諸法度」に殉死の禁止を盛り込んだ。また藩内に社倉を設け飢饉に備えるなど、民政の安定に努める。
幕府にあっては、江戸の水不足解消のため玉川上水の掘削事業を押し進めたり、証人制度(人質制度)を廃すなどこれまでの武断政策から文治政策に転換せしめた。未曾有の大火となった「明暦の大火」では、焼失の危機にあった浅草の米蔵を救うため、被災民らにこれを与えるとの触れを出し、それによって被災民が多数消化活動に加わり鎮火させている。その後の物価高騰を抑える目的で、江戸に滞在する諸大名に帰国を命じ、これから江戸に上る大名には待機させ米価の安定に努めるなど、彼の政治はつとに民心の安定だったとされる。
その象徴的な例が、「明暦の大火」で焼失した江戸城の天守閣を不用のものとして再建させなかったことに現れている。
正之は生涯仏教には帰依せず、神道を奉じ61歳の時に吉川惟足から神道の奥義「四重奥秘」の伝と土津霊神(はにつみたまのみこと)の神号を受けた。そして、死の前年には自らの寿蔵(墓所)を磐梯山麓見祢山に定め、没後その寿蔵に葬られる。その墓域は土津神社として祀られた。こうして神道に奉じ、光圀にも影響を与えて編纂された光圀の「大日本史」が、幕末、尊王思想に多大な影響を与える。その子孫会津松平第九代藩主松平容保が朝敵の汚名を着て、最期まで薩長軍と戦ったのは歴史の皮肉というものかもしれない。(中村彰彦著『保科正之』)
[逸話](広瀬蒙斎著『しがらみ』)
正之公、保科家の御養子となり給ひ、御引うつりのとき、保科家より騎馬百人御迎にまいりたり。此比はみなわらにて髷を結たりと、かの御家の御記録にありしとぞ。げに此御分限にて、百騎も御迎に出るには、質素の風ならでは行ひがたかるべし。
(『想古録』)
会津正之公、幕府より葵の紋章を賜りしに、当家は保科にて立し家なれば、先祖は此の賜ものを嬉しく思はざるべしとて、辞せられけり、保科譜代の家臣等、倍々公の徳に服す(安井仲平)
会津正之公は二代将軍の末男にて、永く将軍家の後見職に坐し、其の人望の多き、威権の強き、一世を風靡しければ、公の胸中は公明正大にして清風明月の如くなれども、大小の諸侯中には、公を疑ふもの多く、今にも将軍を押込めて公自から取て代るならんと取沙汰する者あるに至れり、板倉賀州が湯武放伐のことを公に質問して、言の下に排斥せられしも、賀州の心中私に考ふる所ありたるなるべし(不詳)
横田三友は会津の儒官なり、万治元年正月の初講に、土津公(正之)の御前にて詩の秦風の黄鳥を講義し、夫れに就て朱子の殉葬論をも引て弁明しけるに、公は此の講義に深く感ぜられ、斯の黄鳥の詩を委しく御議論の上、殉死追腹は不仁不知の慣例にして、戎狄蛮夷の風俗より発りたることを発明せられ、寛文元年閏八月令を国中に布て、自分ばかりは家中の者の殉死追腹のことを停止する旨仰出されたり、公は此事を四代将軍厳有公に申上げられ、将軍亦其説に御同意あらせられ、同年の十月将軍の直論にて殉死追腹の弊習を天下一般に禁止せられたり(堀源八郎)
会津中将正之は山崎闇斎を信奉し、聘して藩校の督学に挙げて、一藩子弟の養育を託せられたり、或る侯、土津公と闇斎の人物を評しけるとき、公頻りに其の人と為りの美なることを称せられしかば、某侯之を詰り、貴君左程に彼を信ずるならば、何故老職に抜擢して一国の政事を託せざるやと云はれけるに、公大いに笑ひ、世の中の人物には十人十色の長所ある者なれば、之を信任するの区域も亦自から限界ある者なり、闇斎の学問徳行は天下独歩なれども、之に政事を任せよと云ふは、騏驥を駆て大海を渡れと云ふが如し、海陸は道異にして馬と舟とは其用同じからず、足下豈此理を知らざらんやと冷笑一番せられしと云へり(橋詰介三郎)

細川 昭元(ほそかわ あきもと) 風の呪殺陣

未資料

細川 忠興(ほそかわ ただおき) (1563〜1645) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

細川藤孝(幽斎)の長子。母は沼田光兼女。利休七哲の一人、細川三斎。諱は忠興、天正六年、越中守に任。細川ガラシャはその夫人。
慶長六年(1601)に大徳寺塔頭の一つ高桐院を建立。細川三斎は正保二年十二月二日、83歳の高齢で卒去、遺言によって遺骨は高桐院に埋葬された。三斎は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代きっての智将として知られる。
さらに、三斎は堅牢で格調の高い極めて実用的な刀拵えを創案している。この肥後拵えは肥後細川藩が抜刀伯耆流居合を奨励していたため、一瞬でも早く刀を抜くことを目的に刀身の長さを2尺1寸前後と短寸にし、柄前も7寸前後と短くなっている。
また、茶人として室町末期に利休流より分派し細川三斎流を興した。利休の茶の湯の正統を守りつつ、武家・大名の間にそれを広めたとされる。さらに三斎は、盆石の流派細川流の祖と云われ、その文人としての才を発揮している。
細川三斎、江戸上下に定て京都吉田に屋敷有て数日逗留有。其刻烏丸大納言光広卿へ 振舞に被参。近国の大名より使者有て、烏丸殿へ三斎の跡を追ふて来る。是は冑を一刎 三斎の物数寄にて仕立度との使也。三斎注文を書せ被遣に「立物水牛の角、下地は桐の 木」と書付有之。使者申候は「主人入念候仁にて候。立物の下地桐の木と御座候。物に 当り折れ候所承届申聞せ度」と有。三斎気色変り「ケ様の大立物は折れ安きかよし。働く時物に懸り外れ兼候時折たるかよし」との挨拶也。使者承り「折れ申候ては後日に如何と存候」と申す。三斎あさ笑ひ給ひ「兵の戦場に出るは生て帰らんと不思法也。立物折ては後日の如何との思案ならは、二つとなき命の思案は如何被存候そ。働て立物折れたらは猶見事可成。たとへ折たり共、後日に何にても可立。命か折たらは何とかせられ ん。二つなき命を捨て働く上は立物の気遣は無用也。唯軽きを本にして能からん」と被申。其座に居たる人後に物語せしと也。(『武辺咄聞書』第33話)
[逸話](『想古録』)
天草四郎の島原に拠て、叛旗を西国に翻しけるとき、熊本の城主細川侯は、先づ第一に幕府より出兵征討の事を命ぜられたり、三斎は百姓共の一揆に、父子馬を駢べて事々しく出征するも、他の諸侯に対し嗚呼がましきことなりとて、其令子に人数を与へて直ちに戦地に出陣せしめ、自身は優悠として江戸将軍の許へ御機嫌伺ひに出でられたり、三代将軍は偶ま御城の櫓に登りて、四方の風景を御眺め遊ばさるる処にてありけるが、三斎御機嫌伺ひと聞かせらるるや、直ちに逢はんと仰せられ、側衆を顧みて三斎を是れへとの御意ありけり、三斎は御側衆の伝令に依て御櫓の梯子を攀登り、近うの御意を拝承して御前近く進み出でけるに、将軍は御機嫌殊の外麗しく、三斎歟、善く参られたり、先づ取敢ず一句詠まれよとの命ありければ、三斎即座に筆を執りて、
月は弓誰れも射て見る櫓かな
と書きて差上げけるに、将軍は倍々御機嫌にて、三斎を伴ふて御殿へ戻らせられ、種々の下され物ありけると云へり、三斎は啻だ智謀に富みたる而巳ならず、気韻風采も亦高尚なりと見ゆ(佐田脩平)
細川三斎公は其児(越中守忠利)の代に至て肥後五十四万石を賜はりたるなり、三斎公の丹後田辺より豊前小倉に移さるるときは、十八万石に加増せられしに、忠利侯が熊本に移さるる時は五十四万石を賜はりければ、三斎公の熊本に下るとき、故らに不満の挙動を為し、入国のときも我は十八万石の加増なりしに、汝は五十四万石を賜はりて、斯る大城に入るなり、我れ汝の籬下を借る気なしとて、熊本に足を止めず宇土に進み、永く宇土城に住居せられけり、其後幕府より一国一城の令ありて、二ケ所以上の城を所有する諸侯は何れも一ケ所の外は毀たれけるが、宇土の城のみは幕吏も手を着くる能はずして、其儘三斎公の隠居所と為れり、公が我児の五十四万石を賜はりたるを不満と云ひしは、幕府に父は焼餅を焼き、児は得意を鳴らすゆゑ、謀反などを起す気遣ひなしと想はしめんが為めの略なり、十八万石の我が五十四万石の小児の籬下を借る気なしとて宇土城に入りしは、一国一城の令の出づるを看破して、故と見識ある容態を示して城を全うしたる略なり、三斎公の如才なきこと概ね斯くの如し(池辺成卿)
《瓢水の「一話一言」》
[細川三斎の書簡が書かれた背景とは?]
 隆先生が『吉原御免状』を書くにあたって「信頼できる史料」とした、細川三斎の忠利宛て寛永6年(1629)12月27日付の書簡は、どのような状況で書かれたのだろうか。
 山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社文庫)によれば、この年の冬、三斎は小倉から江戸に向かう途中、京に立ち寄っていた。息子忠利の嫡男光尚(11歳)と烏丸光賢の次女との婚約をまとめるためである(168頁)。そこで耳に挟んだのが、後水尾天皇が11月8日に突然譲位された理由についての噂だったわけだ。経済的な苦境、公家衆の叙任すらおもうに任せない状況、紫衣事件への不満などが記され、最後に「かくし題」(隠れた理由)として衝撃的な噂が記されているのである(熊倉功夫『後水尾院』(103‐106頁)。
 また、今谷明氏は『武家と天皇』(岩波新書)で、三斎は幕閣の意向を受けて京で情報収集を行なっていたと推測している。これはこれで面白い説だと思う。
【追記】三斎の日程は、11月20日頃に小倉出発、29日入京、12月9日江戸に向けて出発、22日夜に江戸の細川屋敷に入ったと云う(今谷明『武家と天皇』)。よって、江戸から国許の忠利に宛てて書かれた書簡と思われる。(2004年2月20日瓢水記)

細川 忠利(ほそかわ ただとし) (1586〜1641) 吉原御免状、花と火の帝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり

細川忠興の子。幼名は光。正室は保寿院 千代姫(父小笠原秀政、義父徳川秀忠)。 肥後熊本藩初代藩主となる。
1621年父・忠興の跡を継ぎ豊前(福岡県)の藩主となる。柳生新陰流や二階堂流平法といった剣の達人であり、また連歌、書画、茶の湯、工芸に秀で、政治にも精通していた忠利は、徳川家光に見込まれ、1632年、加藤忠広の改易に伴い、肥後五十四万石の肥後藩主に任ぜられる。肥後に入った忠利は藩政をすみずみまで行きわたらせるため藩内の行政機構の整備などを行った。また、宮本武蔵を客人に迎え、肥後藩に剣術を広めたという。1641年、忠利56歳で急逝。人望の厚かった忠利の死を悲しみ、19人の家臣が殉死した話は、森鴎外の小説「阿部一族」で知られている。
内記。慶長五年、御味方と成て、父越中守忠興、兄与一郎忠隆、一同東国に下り、小山御陣に至る、然処に、上方蜂起に寄り、忠興、忠隆は御先を打て海道を登る、内記忠利は御旗本に止る、関ヶ原の時も、忠興、忠隆は御先に在て敵を破る、忠利は君の御側に在て功を顕はす、此時の功に依て、豊前小倉并豊後杵築等の旧領とも三拾一万石を賜る、其頃、兄忠隆、父の勘気を受く、依て忠利を嫡子とす、慶長十年、侍従従五位下に任ず、大坂両御陣の節も、忠興台命に依て国に止り、忠利供奉す、元和五年、忠興致仕、(三斎と号す)忠利家督、寛永九年十月四日、肥後熊本を賜る、五拾四万石なり、(『江戸古絵図考附録』)

細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) 

→ 細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)

細川 元常(ほそかわ もとつね) 花と火の帝

細川幽斎の養父。

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい) (1534〜1610) 花と火の帝、対談日本史逆転再逆転

田辺城守将。幽斎玄旨、藤孝。幼名万吉。三淵大和守晴員の次男といわれているが十二代将軍足利義晴の子という。
義晴に仕え、その死後、義昭を奉じて信長をたよった。この時信長との間に立ったのが明智光秀で、光秀と幽斎は、それ以前より親しかったといわれる。秀吉・家康にも重臣として遇せられ、諸所に転戦。政治的才能に長け、戦国激動の時代を息子忠興とともに巧みに泳ぎぬいた。和歌をよくし、三条西実隆に古今伝授を受けたことは有名。慶長五年(1600)、石田三成に居城田辺城を囲まれた時、古今伝授の消滅をおそれて、古今相伝の箱に証書を附し「古へも今も変らぬ世の中に心の種を残す言の葉」の歌を添え宮中に送ったという。後、京都に閉居。(歴史読本『戦国武将名鑑』参考)
一、幽斎、丹後籠城の時、禁中へ、古今伝授の箱、并に源氏物語抄物廿一冊、其外書物を上られし時の書状の内に、此歌あり、
いにしへも今もかはらぬ世中に 心のたねをのこすことの葉
玄旨の自筆、東条紀伊守殿へと当所有レ之、(『にぎはひ草』)

堀田 勘右衛門(ほった かんえもん) 影武者徳川家康、柳生非情剣

福島正則の鉄砲隊指揮官。

堀田 庄五郎(ほった しょうごろう) かぶいて候

徳川家光の近習役で、衆道好みの家光の念友(愛人)とされる。(三田村鳶魚)

堀田 甚左衛門(ほった じんざえもん) かぶいて候

堀田庄五郎と同一人か。堀田正重の後裔で「寛政重修諸家譜」にある名前。家光に仕え、書院番を勤める。采地千石。

堀田 図書(ほった ずしょ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

豊臣家家臣。七組頭衆。

堀田 正重(ほった まさしげ) かぶいて候

未資料

堀田 正俊(ほった まさとし) 影武者徳川家康

筑前守。佐倉城主堀田正盛の三男。
四代将軍家綱の時に老中に列し、五代将軍綱吉擁立の功により、天和元年(1681)、酒井忠清に代って大老となる。
綱吉を輔佐し、果断に新政策を実行し、「天和の治」の現出に寄与。とくに農政専担者として農業の振興に努め、代官層を粛正し、次第に低下しつつあった天領の年貢収納の回復増強を行なうとともに、淀川の治水工事にも力を注いでいる。また幕府の綱紀粛正に努め、綱吉にも直言・諌言をいとわなかった。文化面では、木下順庵を招いて幕府の儒臣とし、神道学者吉川惟足を神道方に抜擢、『武徳大成記』の編纂、『服忌令』の制定などが挙げられる。
伝えるところによれば、父正盛はその死に臨んで正俊に不衿を戒めたとされるが、正俊はその地位の昇進にともない驕慢となり、峻厳な態度で政務に当ったことから周囲の者には敬遠されたり憎悪の的となる。将軍綱吉も彼の直言・諌言を疎んじ、忌避するようになったという。
こうした正俊の驕慢で峻厳な態度が仇となり、再(ふた)従兄弟にあたる若年寄稲葉岩見守正休に江戸城中で刺殺される。この事件では、水戸光圀など多くの者が正休に同情的で、将軍綱吉の意を受けて刺殺したとの風評さえ生まれた。しかし、これは正休の私怨で、淀川治水工事の担当者河村瑞賢と工事の検分役正休の報告に食い違いが有り、瑞賢が工事の報告をするために江戸城に参着する前の晩、正休は正俊邸を訪れ自分の立場が無くなるのを恐れて取りなしを頼んだが、正俊が拒否したことから、瑞賢が登城する当日、凶行に及んだと、室鳩巣は自著『鳩巣小説』に書いている。

堀田 正盛(ほった まさもり) 影武者徳川家康、死ぬことと見つけたり、かぶいて候

佐倉藩主。春日局の外孫。堀田政俊の父。
おふく(春日局)の親戚として家光の小姓となり、家光の寵愛を受け異様な早さで立身し、佐倉十一万石の城主となった。寛永期には幕府の重臣、老中となる。
家光が没するとそれに殉死した。

堀 久太郎(ほり きゅうたろう) (1553〜1590) 吉原御免状

秀政。秀吉家臣。堀秀治の父。
太田城攻めの先陣。

堀 忠俊(ほり ただとし) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

越後守。越後福島藩主。堀秀治の嫡子。国姫の前夫。松平越後守。春日山城を廃し、福島に城を築く。本多忠政の娘を妻とする。改易。

堀 直寄(ほり なおより) 影武者徳川家康

丹後守。

堀 対馬守(ほり つしまのかみ) 影武者徳川家康

大阪城と運命を共にする。

堀 利重(ほり とししげ) 捨て童子松平忠輝

伊賀守。堀家家臣。

堀 直重(ほり なおしげ) 捨て童子松平忠輝

淡路守。堀家家臣。
監物直政が二男、台徳公に奉仕し、信州須坂に於て一万石を賜ふ、大坂両度御陣、御先を勤む、(『江戸古絵図考附録』)

堀 直次(ほり なおつぐ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

堀直政の子。堀家筆頭家老。監物。直清とも。三条五万石。

堀 直政(ほり なおまさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

堀秀治の家老。

堀 直之(ほり なおゆき) 捨て童子松平忠輝

堀家家臣。主計助。

堀 直奇(ほり なおより) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

堀直次の異母弟。丹後守。坂戸五万石。

堀 秀治(ほり ひではる) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記

久太郎。越後福島藩主。父秀政(久太郎)。
上杉景勝が会津転封後、越後に入る。

堀 主水(ほり もんど) 駆込寺蔭始末

加藤家老臣。

堀内 氏久(ほりうち うじひさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

豊臣家臣。大阪城から千姫を連れ出す。

堀内殿(ほりうちどの) 駆込寺蔭始末

北條時宗の妻。出家して覚山志道尼と称し、鎌倉松ヶ岡東慶寺を開創。

堀尾 忠氏(ほりお ただうじ) 影武者徳川家康

関ヶ原東軍徳川方武将。

堀尾 帯刀可晴(ほりお たてわきよしはる) かぶいて候

遠州浜松城主。池鯉鮒にて水野惣兵衛とともに石田三成の刺客に殺される。

堀尾 吉晴(ほりお よしはる) (1543〜1611) 吉原御免状、影武者徳川家康、花と火の帝、柳生非情剣

尾張の国、丹羽郡御供所(ごくしょ)村(現大口町)に生まれ、豊臣秀吉に仕え、三中老の一人となる。浜松十二万石の元領主。松江城を築き、初代城主となる。松江にて没。
泰晴の子。幼名は仁王丸。可晴とも書き、吉定、吉直ともいう。帯刀先生。豊臣秀吉の家臣で、天正元年(1573)近江長浜に百石を得、以後播磨、丹波、若狭、近江などに所領を与えられた。同十八年小田原征伐には山中城を攻撃、功により豊臣姓を許され、遠江浜松十二万石に加増移封。秀吉の死後、豊臣家の中老職となり、慶長三年徳川家康と石田三成の対立の際和議に努力。同四年家督を子の忠氏に譲る。同九年忠氏死去のため、出雲にあって孫の堀尾忠晴を補佐した。

堀川 国広(ほりかわ くにひろ) 

→ 落陽 国広(らくよう くにひろ)

堀川 康胤(ほりかわ やすたね) 花と火の帝

公家。

本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ) 花と火の帝、一夢庵風流記

次郎左衛門。桃山・江戸初期の書家、芸術家。本阿弥家は代々刀剣の「鑑定・磨礪・浄拭」を業としていた家柄で、光悦は別家だが、光悦の姉が本家に嫁ぎ総領本阿弥光室の母で、光悦の妻も本家から迎えているなど、両家は親密な関係にあったとう。この本家本阿弥光室は将軍秀忠の刀脇差御目利指南として仕えている。
光悦は、本業の刀剣の鑑定をはじめ、書道・茶道・香道・絵画・製陶その他諸芸に通じた天才で、書は松花堂昭乗・近衛信尹(これを避けて角倉与一を上げる場合もある)とともに寛永の三筆といわれている。元和元年(1615)、家康から野屋敷として鷹ケ峯に広大な土地を与えられ、そこに一族縁者や工芸の職人を集めた、いわゆる芸術家村を作っていた。そこには、角倉素庵(与一)・灰屋紹益・尾形光謙・茶屋四郎次郎などが繁く足を運んだという。
灰屋紹益の書『にぎはひ草』に光悦の記述があるので参照。

本荘 繁長(ほんじょう しげなが) 一夢庵風流記

福島城主。

本女中様(ほんじょちゅうさま)

大内義隆の正室。万里小路秀房長女。貞子。
大内義隆に嫁した貞子は、本女中様と呼ばれ、聡明で、冷静、教養豊かな女性であった。そうした貞子の人柄を窺わせる逸話が伝わっていて、ある時、義隆が密かに愛する女房へ宛てた恋文を侍女が間違って正室の貞子に渡してしまったが、これを読んだ貞子は嫉妬することなく、その女房に、
頼むなよ 行末かけてかはらじと 我にもいひし ことのはのすえ
と詠った歌を送り、夫義隆には、
思ふこと二つあり その浜千鳥 ふみちがへたる 跡とこそ見れ
と詠んだ歌を贈ったという。
そうした冷静で聡明な貞人柄が、義隆に息苦しさを感じさせたのだろう。義隆は側室の兼子(おさいの方)を愛するようになっていった。その兼子に長子が生まれたこともあって、しだいに貞子は疎んぜられ、天文十八年(1549)、ついに離別させられて京都に帰った。

本多 小五郎(ほんだ こごろう) 影武者徳川家康

平岩親吉家士。

本多 作左衛門重次(ほんだ さくざえもんしげつぐ) 影武者徳川家康、一夢庵風流記、見知らぬ海へ

岡崎城代家老。岡崎三奉行の一人。
清康以来三代に仕える譜代の臣。永禄八年、岡崎奉行に任ぜられ、鬼の作左と云われる剛毅な性格で知られた。また、作左が家族に宛てた手紙文として「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」が有名で、碑にもなっている。
広瀬旭荘(ひろせきょくそう)の著した『九桂草堂随筆』に有る作左衛門に関する記述参照。

本多 定政(ほんだ さだまさ) 影武者徳川家康

本多助政の子。定政系本多氏の祖。本多弥八郎正信の祖。一揆側。

本多 定通(ほんだ さだみち) 影武者徳川家康

本多助政の子。定通系本多氏の祖。本多平八郎忠勝の祖。家康側。

本多 助政(ほんだ すけまさ) 影武者徳川家康

本多家七代目当主。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ) (1548〜1610) 吉原御免状、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、かぶいて候、柳生刺客状、死出の雪

三河生まれ。父は本多忠高で織田信秀を攻めた安祥城攻めで討死。通称平八郎。徳川四天王または徳川三人衆の一人といわれた。
本多正信同様、幼時より家康に仕え、五十余度の合戦に出陣し勇名を馳せた。天正十八年(1590)家康関東入封時に、上総大多喜城に入り十万石を領し、慶長六年(1601)には伊勢桑名十五万石に封ぜられた。本能寺の変で、家康を先導して「伊賀越え」をする。また、関ヶ原では島津義弘を追撃して危機に陥ったこともある。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
信玄の近習小杉左馬助(左近)が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の胄と本多平八」という歌を見附の台に書いて立てたことで、さらに勇名を高めたという。そんな忠勝だが、世が泰平に向うと徐々に政権から遠ざけられていった。とはいえ忠勝はその遺書の中で「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の艱に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ」と書いている。享年六十三。
家康譜代の先手侍大将。戦場で主君家康の死を二郎三郎より知らされ愕然とするも、このまま影武者二郎三郎を家康として戦いを続けなければならないと覚悟する。(『影武者徳川家康』)
[逸話](中里介山『日本武術神妙記』)
本多平八郎忠勝は槍をとっての戦場に於ては古今無双の勇将ともいわれていたが、槍術は甚だ下手であったということである、併し、個人的には下手であっても戦場に出でて敵と戦う時は、その槍の働き古今無双と称せらるるは知らぬ人が見ると意外と思うより外はなかったという(甲子夜話)
(『想古録』)
太閤時代の名将は、何れも皆身の長高かりしと見ゆ、左計りの大男とも聞えざりし本多平八郎にてさへ、七尺八寸ぞありける(上田北洋)
本多平八郎忠勝は異様なる着装にて非常なる働きを為すこと、其の長所にてありき、関が原の役に鶏の毛にて造りたる陣羽織を着し、鶏の毛を植ゑたる頭巾を被り、馬の痩隠しも同じく鶏の毛にて装ひたれば、花々しき服飾一層人の目に立ちたり、榊原康政、忠勝に戯れて、此の大鶏は戦場にて何の働きを為すやと云ひけるに、忠勝ぬからず、然ればなり、美事に捷軍して時を作らんと欲するなりと答へければ、並居る諸将士声を同じうして喝采せり、古勇士の胸中には、驚天動地の胆気の外、別に光風霽月の余韻あるを想ひ見るべし(小野軍九郎)
本多平八郎忠勝は平生人に接する時は顔容温和にして掬すべき愛嬌ありけるが、馬に跨がり槍を横へて千軍万馬の間に馳騁する時は鬼神の如き威風ありて、見るも畏ろしかりしと云へり、希世の大勇然もあるべし(野田笛浦)
(『見聞談叢』)
[本多忠勝、佐藤忠信の胄を賜ふ]
○太閤奥州発向の時、佐藤忠信の胄をたてまつるものあり。此かぶとをきるにたへて、忠信の各にはぢざるものは、本多中務大輔忠勝也とて、めしてこれを賜ふ。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之五)
《瓢水の『一話一言』》
[関ヶ原合戦で地味に戦った本多忠勝]
 真田増誉『明良洪範』より関ヶ原合戦当日における本多忠勝の様子をひとつ。一般には、関ヶ原合戦では「井伊直政とともに小山より西上する福島正則ら豊臣諸大名の軍監として活躍した」(『国史大辞典 第12巻』吉川弘文館、830頁)とされているが、当日はあまり締まらなかったようだ。
 「関ヶ原第一戦の時に本多忠勝が馬に鉄砲あたりければ下て立て乗替もなければ石に腰をかけて居られし所に井伊の家老木俣土佐と申す者馬上にて通りし故幸ひに馬を借申し度と申されけれども土佐事かし申さず候由忠勝は其時雑兵どもに四百計りの人数と申し候能者どもは皆々木曽路を秀忠公に付て手廻りの小姓斗りにて天下分けめの御合戦を致されしとぞ」(『明良洪範』国書刊行会、292‐293頁)。
 関ヶ原町歴史民俗資料館に所蔵されている『関ヶ原合戦図屏風』にも、落馬する本多忠勝が描かれている。ところで、「関ヶ原合戦における徳川軍の主力は、家康勢か秀忠勢か」という議論は、国際日本文化研究センター教授の笠谷和比古氏が提唱したものらしい(桐野作人『真説 関ヶ原合戦』学研M文庫、126頁)。その詳細はひとまず措くが、精鋭を秀忠勢に付けて、「雑兵どもに四百計りの人数」「手廻りの小姓斗り」で家康に従った忠勝は、秀忠勢の方が徳川軍の主力であると考えていたのかもしれない。(2004年10月9日瓢水記)

本多 忠常(ほんだ ただつね) 死出の雪

大和郡山藩主。

本多 忠刻(ほんだ ただとき) 影武者徳川家康

千姫の後添え。

本多 忠朝(ほんだ ただとも) (1582〜1615) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

出雲守。本多忠勝の次男。上総大多喜五万石城主。小田原城没収の役を仰らる。大坂夏の陣河内口三番隊。夏の陣で戦死。『本多系伝』の記述によれば、冬の陣で持ち場の変更を願い出て、家康に「父にも似ぬ者」と叱責されたことから、夏の陣ではその汚名を挽回するために、死を覚悟して、天王寺南方の毛利勝永隊に突入。馬上で槍を振って戦ったが、鉄砲で腹を撃ち抜かれる。それでも馬を下り、狙撃した鉄砲足軽を斬り伏せ、なおも毛利隊に斬り込み、二十余箇所に負傷して倒れたとある。(『歴史読本』1996年10月号所収藤本正行「合戦図屏風にみる武闘派の最後」参考)

本多 忠直(ほんだ ただなお) 死出の雪

大和郡山藩主。本多忠常の長男。

本多 忠政(ほんだ ただまさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

徳川譜代。本多忠勝の子。岡崎藩主。桑名城主。大坂夏の陣大和口二番隊。

本多 千穂(ほんだ ちほ) 

→ 本多 正純(ほんだ まさずみ)

本多 平八郎(ほんだ へいはちろう) 

→ 本多 忠勝(ほんだ ただかつ)

本多 政重(ほんだ まさしげ) (1579〜1647) 捨て童子松平忠輝

加賀藩家臣。本多正信の二男。大坂冬の陣で先鋒を務める。
[逸話](『想古録』)
本多佐渡守正信は徳川家の功臣なるに、上野介正純に至りて家亡びければ、三代将軍深く之を憫み玉ひ、功臣の家なれば何とぞして再び取立て遣はさんと思召されけるに、偶ま其弟の加州に仕へて、家老職たることに思し出されければ、或る日加侯に向はれ、斯く斯くに思し召さるれば本多を遣はされよとありけるに、加侯は異議なく御受あり、帰国の後其事を本多に申されしに、本多大いに驚き、其は存じも寄らぬことなりとて直ちに江戸に出で、兄の家を御立て下さらんとの御思し召は冥加に余る有り難き仕合なり、されども拙者は加州にて重恩を負ふ身に候へば、今更ら他に出ることは心ろ苦し、此義御免を蒙らばやと辞りて、再び金沢に戻り来にけり、加侯感喜斜めならず、流石徳川家の功臣なる佐渡守の弟(ママ)たるに恥ずとて遽かに其禄を加増し、是れまで一万石なりしを五倍して五万石の大禄を与へられたり(鶴見宏)

本多 正純(ほんだ まさずみ) (1565〜1637) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

従五位下、上野介。本多正信の嫡男として生れた正純は、19歳の時(1583年)に徳川家康に仕える。慶長六年(1601)五月に従五位下・上野介に任ぜられ、下野・小山3万3千石の大名となる。慶長十年(1605)に秀忠が将軍職を継ぎ、家康が大御所政治を取り始めると、駿府付の年寄としてその重責を果たす。家康が亡くなり駿府での大御所政治が終ると正純は江戸に行き、秀忠政権の一人となった。しかし幕閣は秀忠の側近だった土井利勝・酒井忠世・安藤重信らが占めており、正純はその中では完全に浮いた存在となっていたようだ。元和五年(1619)、宇都宮城主の奥平家昌が死亡。その子の忠昌が幼かったため、重要地ということで、下総古河へ転封となり、代わりに正純が元和五年(1619)宇都宮に15万5千石で移封。同八年に突如改易となり出羽横手に配流され千石を与えられた。これは1622年4月、亀姫の「秀忠が宿泊予定の建物に釣り天井の仕掛けがあり、正純が暗殺を計画している」との讒言で、秀忠が日光東照宮参拝を終えた後、泊まる予定だった宇都宮に寄らず、急に帰り道を変更して江戸に戻るという事件があった(宇都宮釣り天井事件)。この事件は後日、井上正就が調査しておかしなところが見当たらなかったにも関わらず、幕閣から疎まれていた正純を強引に排除するまたとない材料となった。寛永十四年(1637)三月十日横手で死去。当地の正平寺に葬られた。
大御所家康に仕える幕府の重鎮。家康じつは影武者世良田二郎三郎が庄司甚右衛門に『色里御免状』なるものを与えたことを知る証人。(『吉原御免状』) 
本多上野介正純 天正十九年、正純十九才の時より神君に奉仕し、慶長五年、終に執事職に補せられ、元和二年、神君薨御の後、関東に下向して、再執事職に補せられ、元和八年、御勘気を蒙り、羽州由利に配流せらる、(『江戸古絵図考附録』) 

本多 正信(ほんだ まさのぶ) (1538〜1616) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、死ぬことと見つけたり、かぶいて候、柳生刺客状

弥八郎。本多俊正(定正系)の子。本多平八郎忠勝とは同族。
三河に生まれ、幼時より家康に近侍したが、永禄六年(1563)酒井氏とともに三河一向一揆に加わり家康に叛く。天正十三年(1582)許され再び出仕。その後の合戦に活躍。終生高禄家増を固辞し封は僅か三万石であったが、家康最高の謀臣であり、家康の行動は多く正信の献策によるといわれる。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
家康公出頭人本多佐渡守正信、智謀有る名士と御聞被成、秀吉公「御目見致させ可然」 と家康公へ御内意にて、江戸より被召登。其砌佐渡守伏見へ着、増田右衛門尉長盛方へ見舞に行、夜更る迄語て帰る。増田是を送る。詰居たる侍共の前にて、佐渡守手燭持たる小姓の袖をひかへ、詰居たる増田か侍共を皆増田(本多)に目見へさせ「皆々御大儀」と言て立帰る。諸人佐渡守を誉たり。其昔永禄七年二月家康公、参州土呂・針崎・野寺・ 佐崎の一向宗御退治の刻、佐渡守其比は本多弥八郎と号して一向宗方なりしか、没落して上方へ奔、三好左京大夫義継方へ立寄り居る。松永弾正少弼久秀此者を見て「此人希代の名士たるへし。只者にあらす」と誉たりとかや。(『武辺咄聞書』第19話)
主筋とはいえ、幼い頃から家康と共に育った弥八郎は、家康の無二の親友だった。そんな弥八郎なのだが、三河で一向一揆が起ると、熱心な一向衆の弥八郎は主家に反抗することになる一揆側に加担する。主家に逆らってまで一揆に参加した家康の家臣は多かったのだが、三河の一向一揆が沈静すると家康は再び彼等を迎え入れる。しかし弥八郎はそれを潔しとせず、家康のもとを離れ各地の一揆に参加した。この三河一向一揆で、弥八郎は家康と瓜二つの二郎三郎に遇う。以後、伊勢長島、近江と二郎三郎と行動を共にするが、弥八郎が加賀に向かう時二郎三郎と別れた。
やがて各地の一揆は、信長の徹底弾圧によって平定されると、弥八郎は一向衆に理解の有る柘植一族のもとに身をよせた。ちょうどその頃、家康は信長の招きで穴山梅雪らと堺の町を訪れていた。だが、本能寺の変が起り急遽領国浜松へ帰ることとなった家康一行は、途中根強い反信長、親一揆勢力の残る伊賀を越えることとなる。この知らせを聞いた弥八郎は、柘植氏の遠戚服部一族に家康一行の安全を依頼した。このことがきっかけとなり弥八郎は、再び家康のもとに仕えるのだった。
『本佐録』を著す。
[逸話](『想古録』)
本多佐渡守正信は清廉純潔にして偏私なし、或る時神社と仏寺との争訟を裁決しけるに、勝ちたる神社の祝史、深く佐州の公平を徳とし、十箇の紫茄子を持来りて進物とせり、佐州却て当惑し、之を受くれば役目に対して済まず、然ればとて戻すときは折角の厚意を空しくする者なりとて、暫時沈吟して決せざりしが、軈て其一箇を受納し、残る九箇を贈遣者に返戻せしとぞ、此事載せて松平周防侯の秘記中に在る由なれども、其比の風俗の敦厚なること、佐州が政と情とに意を用ゐるの深かりしとを見るに足る者あるなり(長谷川運平)
(『見聞談叢』)
[本多正信]
○東照宮事によりて、臣下を激怒まします時、本多正信御傍にあれば、いつも緩頬に解し玉ひける故正信存生の内、臣下の内に御前をしりぞけられ、又閉門したる近習のさむらゐなし。(伊藤梅宇『見聞談叢』巻之五)

本多 康紀(ほんだ やすのり) 影武者徳川家康

徳川家家臣。

本多 弥八郎(ほんだ やはちろう) 

→ 本多 正信(ほんだ まさのぶ)

本間 利忠(ほんま としただ) 一夢庵風流記

山城守。佐渡領主。

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