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人名(ア〜コ)
アコスタ,ホセ・デ(Acosya,Jose de ) (1540〜1600) 捨て童子松平忠輝
ペルー在住のイエズス会士。
スペイン中北部の商業都市メディナ・デル・カンポの富裕な商家に生まれる。信仰に篤かった父の感化を受け、四人の兄と同様、自身も12歳の時、イエズス会に入会した。地元で勉学をした後、1557年春からプラセンシア、リスボン、コインブラ、バリャドリー、アエゴビアなどを遊学。1569年から七年間、アルカラー学院で哲学と神学について研鑽を積み、オカチャ・プラセンシアの学院で神学を講議する。1570年、司祭に叙階。その学識を買われ、ローマかブルゴスで神学を講議する下準備が進んでいたが、諸般の事情で頓挫、そこで自身が望んでいたインディアスの布教に出ることとなった。向った先はインドではなく、新大陸のペルーであった。1571年6月8日サンルーカル・デ・バラメダ港を出港し、サント・ドミンゴ、パナマを経由し、1572年4月27日リマに到着。リマに到着した時、イエズス会士は30人ほどいたとされる。当時ペルーでの布教は、管区長ポルティーリョの指導力不足もあり、現場を預る宣教師のなかには、その務めにあるまじき行為を行うものもいて、さまざまな困難が指摘され始め、布教が一つの壁に突き当たっている時期だった。当初の楽観論に代り悲観的な空気も出てきた状況のもと、1576年、アコスタはペルー管区長に就任。
スペイン人が新大陸を植民化した時の当時の現地の様子を、自書に書いている。
その書の引用が『捨て童子松平忠輝』にあるが、その資料名は不明。
アコスタの著に1588年、サラマンカで刊行された『インディアス布教論』(De Procuranda Indorum Salute Pacificaion y Colonizacion)がある。
アダムス,ウイリアム(Adams,William) (1565〜1620) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、見知らぬ海へ、柳生刺客状
イギリス人航海士。英国で数学、天文、航海、造船などを学んだ。当時の先進国ポルトガルは既にアフリカの喜望峰を経て東洋に進出し、イスパニアはアメリカ南端マゼラン海峡を経て東洋に進出しているのを知り、アダムスは祖国英国のためにアメリカの北側を廻るかシベリヤの北方を廻っての東洋航路の研究につとめていた。慶長五年(1600)、彼はオランダの東洋探検隊の航海長として加わりリーフデ号に乗り組んで豊後に漂着した。のち家康に謁して信任をうけ、彼の外交顧問となり、知行地を三浦郡逸見村に賜り貿易、測量、造船、兵の装備強化等の指導にあたった。この時三浦按針と名乗る。政府顧問としての彼は既に日本と貿易中の諸外人に対する態度も公平で、よく幕府と折衡し、オランダ商館を平戸に設置させたのも彼の力による所が大きかった。また慶長十八年(1613)、初めてイギリス船の平戸入港のとき、平戸に来て大いに自国船隊のために努力したが、その司令官ジョン・セーリスは彼の自国民に対する態度にあきたらず窃かに相憎む所があった。彼が再三家康に帰国を願ったが許されず漸くセーリスの帰任離日の際、同伴帰国を許されたにも拘らず、セーリスとの同行では航海中の自身の身が危険だとして、日本に止まらねばならなかった。その後彼は平戸イギリス商館長コックスの下に在って東奔西走、あるいは自ら商品購入でシャム(タイ)に渡るなどその活動は積極的だった。そして平戸の自宅に居るときは手製の英国旗を掲げて在宅のしるしとしたという。元和六年(1620)五月十六日彼は病のために平戸の住居で逝去。57歳。商館長コックスは彼の遺言状に基き遺産処分をし金貨500ポンドを二分して半分をイギリスに在る妻子に贈り、残り半分と逸見村の土地を三浦の地の妻子に与え、平戸に於ける財産の全部は案針住宅なる妾腹の子に譲与した。
二郎三郎はアダムスの北方航路発見の夢に自らの夢を重ね、アダムスを側において離さなかった。また彼の知識は大いに二郎三郎の興味を引き、自ら進んでその講義を受けた。(『影武者徳川家康』より)
アダムス, ジョセフ 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
ウイリアム・アダムス(三浦按針)の日本人妻との間の男子。アダムス死後、三浦按針の名を継ぐ。
アダムス, スザンナ 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
ウィリアム・アダムス(三浦按針)の日本人の妻との間にできた娘の名。
アダムス, マリイ 影武者徳川家康
ウイリアム・アダムスの妻。英国在住。
アダムス, Wの弟 影武者徳川家康
リーフデ号乗組員。
兄ウィリアム・アダムスと共にオランダ東洋遠征船隊の隊員となり、様々な困難の末、ようやく大平洋に乗り出した。しかし、大平洋に出てまもなく、激しい暴風雨に遭遇し船隊が散り散りとなる。すでに予定した航海日程を大幅に超過していたことから、リーフデ号の糧食は底をついた。そこで、食料を調達(略奪)するため上陸部隊をセント・マリア島に送り込んだが、逆に島民に襲われ全滅。この時、アダムスの弟も戦死した。
アマチ,シピオーネ(Amati,Scipione) 影武者徳川家康
イスパニア人。博士。
慶長遣欧使節団のスペイン語・イタリア語通訳兼渉外係としてマドリードからローマまで随行。後にソテーロから聞いた事を基に『使節記』を著す。
アンジェリス,ジロラモ・デ (1568〜?) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
イタリア人。シシリー島のエンナに生まれる。
十八歳の時にイエズス会に入会し、慶長七年(1602)、イエズス会宣教師・司祭として来日。主に伏見の修道院長として布教活動に従事し、大坂の陣後、奥州各地や蝦夷において布教活動に従事。伊達政宗の慶長遣欧使節団の関係者の一人後藤寿庵らとも親交があり、遣欧使節団について、ローマのイエズス会総長へ詳細な報告書を送った。
イエズス・キリスト(Jesus Christus) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
一般にはイエス・キリストと呼ばれる。教主たるイエスという意。イエズスはカトリック会の呼称。
ヘブル語のイェホーシュア、またはヨシュアのギリシア形。「ヤハウェは救いなり」の意。キリスト経の開祖。北パレスチナのナザレの大工ヨセフとその妻マリアとの子として生れ、三〇歳頃、家を出て、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神の国の来臨の近いことを告げて、ユダヤ民族の悔改を迫った。紙は慈愛深い父で、人間は皆同同胞として相愛すべきことを説き、一切の偽善を排し、正義と愛との徹底を期した。初めガリラヤ地方に活動、後、首都エルサレムに上り、パリサイ党や祭司階級の宗教を批判し、讒訴されて、ゴルゴダの丘の上に十字架上で刑死。弟子たちはイエスが死後三日目に復活したと確信し、「油濯がれたる」教主、即ちメシアまたはキリストと信じ、新運動を開始、ここにキリスト教が興起した。(『広辞苑』第二版)
イエズス・マリア
→ マリア
イゾルデ 対談日本史逆転再逆転
『トリスタン物語』(トリスタンとイゾルデ)におけるヒロインの名。マルク王の妃となるアイルランドの姫イズ-(イゾルデ)は、アイルランドの地まで迎えにきた王の甥トリスタンと船上で結ばれる。このことを秘密にして王妃となるが、やがて王の知る所となり二人は別々の地に追放された。イズ-はその後、マルク王にゆるされるが、異郷の地に追いやられたトリスタンは、イズ-を待ち望んで死んだ。その事を知ったイズ-も後を追って死に、二人は天国で結ばれるという物語。
イバーニェス,ディエゴ 影武者徳川家康
フランシスコ会宣教師。
ヴァリニャーノ,アレッサンドロ(Valigniano,Alessandro) (1539~1606) 捨て童子松平忠輝
イエズス会の東アジア管区巡察師。東アジアの広大な地域に会員が増えたことにより、会の力の配分を慎重に調整する必要が生じたため、1574年9月、イエズス会総長の名代として絶大な権限を持つ巡察師としてゴアに派遣された。
ヴァリニャーノが著したイエズス会総長宛布教地巡察報告書は、『日本巡察記』『東インド巡察記』として東洋文庫から刊行されている。
イタリア・キエーティで生まれ、長身で美丈夫だったというヴァリニャーノは、三十五歳の働き盛りで着任し、以後三十二年間に渡ってアジア地区のイエズス会を統轄した。彼は優れた組織力と豊かな理解力を駆使し、宣教の複雑な諸問題に取り組み、インド・中国・日本の教会に多くの足跡を残した。反面、彼はおこりっぽく激しい気性で、ものごとを簡単に一般化する傾向があり、ポルトガル人をあまり信用せず、また、日本人と中国人への評価とは反対にインド人には長所があまりないとインド人のイエズス会への受け入れには不利な裁定をくだしていたといわれている。
1579年7月、ヴァリニャーノは日本に上陸し、日本でのイエズス会士たちの活動の巡察を行った。ここでヴァリニャーノは日本における布教の現実に遭遇し、愕然となった。十数万と云われた受洗者のほとんどが西日本の一部の地域に限られ、そのほとんどが貿易でもたらされる現世的利益のために改宗した領主(大名)の領民たちで、その命令で改宗しただけであるという現実を知る。さらに、このころ宣教の責任者となっていた布教長カブラルは「日本人ほど傲慢で貪欲、かつ不安定で偽装的な国民を見たことがない」と日本人を嫌悪していて、日本人修道士との関係も冷めた一触即発の状態だった。日本人を信用しないガブラルは、日本人にはポルトガル語やラテン語を教えない方針をとっていたが、こうした現状を打破しなければ日本での布教は成功しないと判断したヴァリニャーノは、天草にセミナリオを建設し、ポルトガル語やラテン語を日本人修道士に学ばせる事にする。さらに、京そして安土に赴き、ようやく天下を統一しようとしていた織田信長に会うなど精力的な活動を行った。言語の問題にも増してヴァリニャーノを悩ませたのは、日本の風習だった。彼がイエズス会総長に宛てた報告書には「日本人は他のすべての国民とはなはだしく異なった儀礼や風習を有しており、まるで他のいずれの国民とも、どのようにすれば順応しないかを故意に研究したのではないかと思われるようだ。事実日本はヨーロッパとはまったく反対に走っている世界で、食事・衣服・儀式・言語その他すべての事において言語に絶し理解し得ないほど相違は大きく正反対である…」(『東インド巡察記』)というような内容を記している。
また、在日ヨーロッパ人宣教師たちが、日本の礼法に通じないため、日本人から軽蔑されている事にも気付く。そして「我々ヨーロッパ人は異なった風習の中で育っているのだから、日本の礼法を知らないのもやむを得ないと考えていただきたい」と願うと、日本人から「そのことについては、あなた方に同情するし、一年二年なら我慢するが、幾年も経っているのだから同意できない。あなた方が日本の風習や礼義を覚えないのは、それを覚えようとしないからで、あなた方はわが国の風習が気に入らないからに他ならない。それは我々に対する侮辱であり、道理にも反する。なぜなら、あなた方が日本を訪れ、その数も少ない以上、日本の風習に従うべきで、我々が日本の礼式をやめることはできなしし、あなた方の風習に従うべきでもない。あるいは、あなた方が日本の風習を覚えないのが、あなた方のその能力が欠けているためであるならば、日本人はそれほど無能なあなた方の教えを受けたり、あなた方を師とすべきでない」と答えられヴァリニャーノは絶句している。そこで彼は、服装の一部を除き宣教師たちに日本の風習に従うよう命ぜざるを得なかった。しかし彼は、日本の風習や文化を優れたものと認めた訳ではなく、日本人が自らの風習を優れたものと考えているのは、西欧キリスト教文化を知らないからで、実際に見聞すればその考えも変るはずだと思い至る。また、そうした日本人の手でキリスト教を広めなければこの国では上手く行かないと、若き日本人をヨーロッパへ送る事を計画。これが、「天正遣欧少年使節」となって実現し、1582年2月(天正十年正月)ヴァリニャーノは伊東マンシヨら六名の日本人少年を伴って長崎から出帆した。
当初、ヴァリニャーノ自ら使節団を率いてローマに赴く計画だったが、ゴアに留まることになる。やがて使節団が帰路ゴアに立寄った1590年、再び彼らと共に来朝。92年にゴアに戻り、96年三度日本を訪問し、1603年まで滞在した。
ヴァレリー,ポール(Valery,Paul Ambrolse) (1871~1945) 死ぬことと見つけたり
フランス人。詩人。思想家。評論家。地中海の港セートで生まれる。父は税関吏で、母はイタリア人。海を眺め、海を愛した少年時代の影響は後年の諸作に現れている。1884年、モンペリエに移り住み当地の中学校に入学。ユゴー、ゴーティエの詩により文学を知る。その後、当地の法科大学の聴講生となる。そこでヴェルレーヌ、マラルメの詩に接した。殊にマラルメとの邂逅は彼の人生に決定的な影響を与えたとされる。1889年、一年間の軍隊への入営で、ピエール・ルイスやアンドレ・ジイドらと知り遇い、友情を結ぶに及んで「ラ・コンク」の同人として作品を発表する。1891年、ついにマラルメと会いパリに居を移し、マラルメに師事した。代表作に詩集『若きパルク(La Jeune Parque:1917)』『歌謡(Odes:1920)』『海辺の墓(La Cimetiere Marin:1920)』『古代詩のアルバム(Album vers anciens:1920)』、評論集『ヴァリエテ(Variete:1924)』『続ヴァリエテ(Variete�:1929)』等が有る。
ヴィヴェーロ,ドン・ロドリーゴ・デ 捨て童子松平忠輝
フィリピン臨時総督。
ウィッカム,リチャード(Wickham,Richard) 影武者徳川家康
平戸のイギリス商館江戸駐在員。
ヴェルレーヌ(Verlaine,Paul Marie)(1844~1896) 一夢庵風流記
フランス人。詩人。メッツで生まれる。七歳の時に両親とともにパリに移る。市役所の吏員の傍ら、パルナシャン詩派の人々と交際。その頃から酒に溺れるようになった。生活を立直すために結婚をするが、二人の仲はおもわしく無く、1872年、妻を置き去りにして若き天才詩人アルチュール・ランボーとイギリス・ベルギーの旅に出る。ブリュッセルでランボーが一人パリに戻ると言い出し、酒の勢も手伝って拳銃でランボーを傷つけた。そのため二年間、モンスの刑務所で過す。この在獄中に『言葉なきローマンス(Romances sans paroles:1874)』を書き上げ、後の代表作となる『叡智(Sagesse:1881)の想をねる。彼の詩は極めて印象的かつ絵画的で、マラルメとともに象徴派の双璧といわれる。
ウルガン 風の呪殺陣
→ ニェッキ,オルガンティーノ
オヤ・カラホム 花と火の帝
シャム国摂政。
カボト,セバスチャン 影武者徳川家康
未資料
カント(Immanuel Kant) (1724〜1804) 時代小説の愉しみ
ドイツの哲学者。ケーニスベルグに生まれ、同地の大学に神学、哲学を学び、クヌッツェンの教えをうけた。1746卒業後方々に家庭教師をし、55にケーニスベルク大学私講師となり、70にいたってはじめて論理学、形而上学の正教授となる。
81『純粋理性批判』Kritik der reinen Vernunft を出版、みずからの哲学の決定的な立場に達し、89『実践理性批判』Kritik der praktischen Vernunnft、90『判断力批判』Kritik der Urteilskraft、93『単なる理性の限界内における宗教』Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunnftを公にし、96老年のために引退した。(『哲学事典』)
クーケバッケル,ニコラス 死ぬことと見つけたり
オランダ商館長。
クエリヨ,ガスパル
→ コエリヨ,ガスパル(Coelho,Gaspar)
グスマン 捨て童子松平忠輝
イエズス会士。
グリーン,グレアム(Greene,Graham) 時代小説の愉しみ
イギリスの作家。
『事件の核心』ほか多数の著書がある。
グレゴリオ 捨て童子松平忠輝
未資料
クヮケルナック 影武者徳川家康
リーフデ号船長。
コウト,ディエゴ・デ 影武者徳川家康、見知らぬ海へ
宣教師。『亞細亞誌』を著す。
コウロス,マテウス・デ 捨て童子松平忠輝
イエズス会管区長。
コエリヨ,ガスパル(Coelho,Gaspar) (1527/31~1590) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
日本イエズス会準管区長。1581年、日本はそれまでの「布教区」(Missio)から「準管区」(Viceprovincia)に昇格し、コェリヨが初代日本準管区長に就任した。
日本での政治的介入を禁じていた東アジア・イエズス会長上ヴァリニャーノの命を無視し、中国遠征を企てていた秀吉の計画を知り、キリシタン大名へ援助したり、天正十四年(1589)、上京し秀吉に面会。秀吉にポルトガル海軍の支援を約束するなどを行い、かえって秀吉にイエズス会士が西欧の軍隊の襲撃を準備する諜報員ではないかとの疑いを抱かせる結果となった。そして、秀吉がイエズス会士の国外退去令を出すと、コェリヨは好戦的な態度にでてカトリック大名の反乱を組織しようとし、ゴア・マニラ・マカオなどへ派兵要請を行った。ヴァリニャーノは激怒するが、コェリヨは厳罰に処される前、1590年5月に没した。
コスタ,エステバン・ダ 影武者徳川家康
高山右近、内藤如安らを乗せてマニラへ行く。
コックス,リチャード 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
英国平戸商館長。長崎商館長。
コニング,ギルバート・ド 影武者徳川家康
リ-フデ号乗員。
ゴリオ 対談日本史逆転再逆転
ゴリオ爺さん。バルザックの小説『ゴリオ爺さん』の登場人物。
『ゴリオ爺さん』(La pere Goriot)1834
二人の娘のためにすべてを犠牲にした老父ゴリオ爺さんが、娘たちの忘恩を怒って懊悩の末、悲惨な病死を遂げる物語を中心に、王政復古時代のパリにおける田舎出の青年貴族ラスニャックの野心と、脱獄囚ヴォートランの社会に対する痛烈な皮肉と挑戦が描かれている。
ゴンザレス,エマヌエル 影武者徳川家康
朱印船貿易家。
(サ〜ト)
ザビエル,フランシスコ(Xavier,Francisco) (1506~1552) 捨て童子松平忠輝
イエズス会宣教師。1506年スペイン・ナバーラで生まれる。1529年、パリでイグナティウス(Ignatius de Loyola)と出会い、イエズス会創立メンバーの一人となる。ポルトガル国王ジョアン三世の要請に応じて、アジアの植民地の人々を教化するため、1541年4月、イエズス会に入ってまもないミセル・パウロ(Micer Paulo)と聖職志願者フランシスコ・マンシリャス(Francisco Mansilhas)と共に700トンのサンティアゴ号に乗り、テ-ジョ川を下ってインドへ向った。一年以上もの過酷な航海の後、1542年5月、一行はポルトガル領インドのゴアに入港する。ゴアに四ヶ月間滞在したザビエルは、インド最南端の東岸の漁夫海岸へ最初の遠征を行い、一ヶ月の間に一万人を受洗した。その後、1544年には彼の担当地区で最奥のインドから六千キロ離れたポルトガル領モルッカ諸島に出かけるべくゴアを出発、1548年再びゴアに戻るまでの四年間を現地人への教育や自身の現地語を学び翻訳するなど精力的な活動を行う。
それより前モルッカへの途上、ポルトガル商人から謎めいた帝国中国の話を聞いて大いなる興味を抱いたザビエルは、帰路のマラッカで情報収集を行い、五年前にポルトガルが発見したばかりの国日本から来たという男ヤジロウと出会う。こうしてザビエルは、ポルトガルの支配の及ばない中国・日本への関心を深め、1549年3月、コスメ・デ・トルレス神父(Cosme de Torres)、フアン・フェルナンデス助修士(Juan Fernandez)そして受洗したパウロ・ヤジロウを伴って日本へ向った。5月末にマラッカに到着、6月下旬にいよいよ未知なる国日本へ向け出発した一行は、8月15日、ヤジロウの故郷薩摩国鹿児島に上陸した。ここでさっそく宣教活動を行ったザビエルは、二百人ほどの信者を得る。この数字はそれほど多くはない数だったが、僧侶の反発を買うには十分だった。僧侶たちは大名に訴え、これ以上の布教を禁じさせる。
異教徒のこうした動きを予測して日本での行動を計画していたザビエルは、鹿児島の改宗者をヤジロウに任せ、日本の仏教徒の頂点と目される比叡山と京の帝を訪ねるべく1550年9月、鹿児島を立った。途中、トルレスを平戸に残し、フェルナンデスと二人で京都をめざした。しかし、戦国時代に突入していたこともあり、予め仕入れた情報が浅はかな知識だったことを思い知らされる。比叡山では入山を拒否され、帝には会う事もできないばかりか、たとえ謁見をゆるされたとしても、その帝には何の権力も無いことを知った。ザビエルとフェルナンデスの二人が京都にいた期間は十一日間という短い期間だったが、その間に日本の群雄割拠の実情を掴んだザビエルは、途中で寄った山口の大名が、その地方の実権を持っている事を即座に理解し、一旦平戸に戻る。そして、京滞在時に助言を受けていたように、今度は領主への土産(時計・眼鏡・オルゴール・ワインなど)とポルトガル大使としての立派な身なりを整え、国王の信任状を携えて領主山内義隆を訪問する。
こうしてザビエルは山内義隆の歓待を受け、山口で布教に勤め、およそ二ヶ月間で五百人以上を改宗させた。その評判を聞いた豊後の大名大友宗麟は、翌1551年ザビエルらを豊後に招いた。そんな折、豊後に貿易のためポルトガル船が来航する。その船の船長が昔なじみのドゥアルテ・ダ・ガマで、ダ・ガマはザビエル宛の手紙を所持していた。その手紙にはゴアの長上アントニオ・ゴメス(Antonio Gomes)が尊大なため問題が生じているという内容のものだったため、ザビエルは日本の布教をトルレス神父とフェルナンデス助修士に任せ、同年11月ダ・ガマの船でゴアに戻った。この時、ザビエルは大友宗麟の家臣某と二人の日本人青年を伴った。大友家の家臣某はゴアで受洗し、ロレンソ・ベレイラという教名をもらって帰国、二人の青年のうち一人は、記録に残る最初の日本人としてヨーロッパに渡り、ポルトガルのコインブラで病死し当地に葬られている。この間、ザビエルは日本人が文明大国として中国を尊敬している事を知り、ますます中国への関心を強るとともに、日本を改宗させるためには中国を改宗させる事が重要だと考えるようになる。
ゴア滞在中に中国進出の計画を立てたザビエルは、密貿易の罪で中国に捕えられているポルトガル人の救出も兼ねて対中国大使の派遣を総督に申し出る。これは正式な使節団の一員として中国入りをはたそうとするザビエルの計画だったが、ゴア政庁の内紛で使節団は組織されず、やむなく非公式な中国入りを目指し、陸から3キロ、広東から50キロの上川(サンシャン)島の惨めな掘っ建て小屋で、手引してくれる中国人を飢えと寒さを凌ぎながら待つ中、病に伏し、1552年12月、その地で息を引き取った。この時、ポルトガルと中国(明朝)の関係はポルトガルが中国の藩国としていたマラッカを占領したことなどがあり、朝貢貿易からも締め出されていて、さらに明の「海禁政策」で入国が著しく困難な国だった。しかし、1557年、明を苦しめていた海賊を征伐した功績で、マカオをポルトガルは明から割譲された。これは、ザビエル死後、僅か五年後のことだった。
サンチェス,ファン (1555頃~?) 捨て童子松平忠輝
イエズス会スペイン人修道士。天正遣欧使節の随行員。当時二十七歳。訪欧の途中で使節団から離れ、以降の消息は不明。
中国通のバテレン。
サントフォルト,メルヒヨール・ファン 影武者徳川家康
リ-フデ号乗員。
サン・フランシスコ,ディエゴ・デ 影武者徳川家康
神父。
ジッギンス,ニコラ 影武者徳川家康
イギリス人。ロンドン郊外で大きな船工場を経営。
一時期、ウイリアム・アダムスが徒弟奉公していた。
ジェスス,ジェロニモ・デ 捨て童子松平忠輝
フランシスコ会宣教師。
ジャンヌ ダルク(Jeanne d'Arc) (1412〜1431) 死ぬことと見つけたり
フランスの愛国者。東北部シャンパーニュの一農村ドムレミの女。百年戦争の末期、救国の神託を受けたと深く信じ、1428年シャルル七世に上書して納れられ、軍を率いてイギリス軍を撃破、翌年オルレアンを奪還。後、敵国イギリスと通謀するルーアンの司教らによって、邪教徒として焚殺された。オルレアンの乙女。
スタンダール(Stendhal) (1783~1842) 影武者徳川家康、対談日本史逆転再逆転
フランスの小説家。文芸評論家。『恋愛論』(DE L'AMOUR)等を著す。本名はマリ・アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)。ドーフィネ地方グルノーブルに生まれる。軍人、外交官、行政官を経て文学に進む。代表作長篇小説に『赤と黒(Le rouge et le noir:1830)』『パルムの僧院(La Chartreuse de Parme:1839)』などがある。
セーリス,ジョン 影武者徳川家康
イギリス東印度会社東洋船隊司令官。
1613年、イギリス国王ジェイムス一世の親翰を持って来日、家康、秀忠と謁する。
参考『日本切支丹宗門史』
ソクラテス (B.C470頃~399) 時代小説の愉しみ
ギリシャの哲学者。ギリシア・アテナイに生まれる。
青年時代には当時最高の知的水準といわれ、自然哲学的教養を修めたが、その機械論的世界観に満足せず、自ら理想主義的・目的論的な立場への道を開き、人々の霊魂を正しい道徳的認識に導くための配慮を自己の使命とした。アテナイの市場や体育場で青年を相手に談論し、各人に内省を促す方法を用いた。しかし、当時の有力な政治家やソフィストたちに手厳しい批判を行ったために反感を買い、「国家の神々を冒涜し青年を毒する者」として一部の者から告訴され、公衆裁判所で死刑の判決を受け、毒杯を仰いで死んだ。
彼の言行は、プラトンの初期の対話篇にかなり忠実に描かれている。
ソテーロ,ルイス(Sotelo, Luis) (1574~1624) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
フライ(Fray)・ルイス・ソテロ(Frayは主に托鉢修道会修道士の名前に置く称号)。ベアト(Beato)・ルイス・ソテーロ(Beatoは名前の前に附す師という意味の尊称)。
1574年九月、スペイン・セビリア市に上流貴族の二男として生まれる。父ディエゴ・カバリェロ・デ・カブレラはセビリア市二十四人参議員を勤め、祖父デ・カサリァはエスパニョーラ島財務長官兼統治者であった。母カタリーナ・ニーニョ・ソテロ・デ・ダサの父ルイス・ソテロ・デ・ダサは異端審問所長官などを歴任した。サラマンカ大学で神学を学び、在学中にサン・フランシスコ跣足派修道会(フランシスコ会)に入会。1594年、スペイン、サン・ホセ・デ・カスティリァ県カルバリオ修道院で司祭に叙階された。
1599年六月、フィリピン宣教団員としてメキシコ経由で渡海、フィリピンで当地に居住していた日本人から日本語を学んだとされる。
『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』の第一章に出生の事が詳しく書かれているので参照ください。
フランシスコ会の伝道師ルイス・ソテーロは、武田忍びの裔青蛙の籐左を使って二郎三郎に近づいた。ソテーロは二郎三郎と秀忠の確執にうすうす気付き、それをネタに大御所である二郎三郎の援助を求めたのだった。
1603年、ルソン総督ペドロ・デ・アクーニャが日本に派遣した商船サンテイアゴ号でフランシスコ会士ルイス・ソテーロ等が日本に到着し、ソテーロは家康から布教する許可を得た。イエズス会の布教活動開始からは凡そ半世紀遅れたが、フランシスコ会は関東を中心に本格的布教活動を開始し、京都、大分、大阪、浦賀に聖堂、修道院を建てた。この年、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、スペインとの直接交易を望んでいた家康の命を受けたウイリアム・アダムスがマニラに赴き、家康の直接支配下の地方との通商関係樹立についてスペイン側に説得を試みた。
慶長十八年(1613)には徳川秀忠が前年に出した禁教令を全国に拡大。フランシスコ会士ルイス・ソテーロが江戸浅草に建築中の教会が幕府の役人によって発見されソテーロも投獄され、そこで働いていた36名の切支丹が斬首。しかしソテーロは、伊達政宗の取り成しで助命された。この一連の事件は「鳥越の殉教」と呼ばれている。
政宗がソテーロを救ったのは家康の内諾を得て、メキシコ・スペインとの通商を行うために使節団を派遣する準備が進んでいた事による。この辺の事情は、『捨て童子松平忠輝』に描かれている。江戸での難から開放されたソテーロは、その年の十月、仙台藩月ノ浦港から支倉六右衛門らを従えてメキシコ経由スペイン・ローマの旅(慶長遣欧使節)に就いた。
五年後の1618年、ソテーロは支倉六右衛門とともにマニラに戻るが、その間に幕府の切支丹禁令が強化され、一時はマニラに留まった。しかし、日本での布教を諦めなかったソテーロは、1622年(元和八年)10月、マニラから薩摩に潜入しようとして捕まり大村藩の牢に入れられた。ソテーロは獄中から政宗に手紙を書き窮状を訴えるが、すでに家康も亡く娘婿の忠輝も改易された政宗には、幕府に逆らう力は無かった。獄中で一年半以上を過したソテーロは、寛永元年(1624)七月(8月)、大村の放虎原で火あぶりの刑に処せられ殉教した。
ソンタム 国王(そんたむ こくおう) (?~1628) 花と火の帝
シャム国(現タイ国)アユタヤ王朝の国王。
その頃インドシナ半島やジャワに活躍の場を求めて訪れた日本人は十万人を超えると推定され、このアユタヤにも千五百人以上の日本人がいた。こらら日本人を国王ソンタムは優遇し、アユタヤに自治権のある日本人町を形成させ、自らも近衛兵として日本人を雇った。なかでも山田長政を重用し、爵位を与え重臣に抜擢したが、1628年に急死。
宗 瘠平(そう せきへい) 吉原御免状
中国人。武芸者。
王耀臣から伝わる七星剣を宗友軒から受継ぐ。
宗 友軒(そう ゆうけん) 吉原御免状
中国人。武芸者。
王耀臣から伝わる七星剣を呉公玉から受継ぐ。
デビス,ジョン 影武者徳川家康
未資料
ドストエフスキー(Dostoevsky,Fedor Michailovitch)(1821~1881) 風の呪殺陣、柳生非情剣
ロシア人。作家。
貧しい医師の子としてモスクワに生まれる。軍医出身の父の意志で砲工学校に入学。卒業後、教官として母校に勤務し、その頃から独仏文学を耽読。1848年、職を辞し『貧しき人々』を発表し作家活動に入る。『分身』『白夜』『弱い心』などを次々と発表するが、ペトラシューフスキーの革命党に加入した罪で投獄、死刑判決を得るが皇帝の特旨でシベリアに流刑となる。1860年、新帝即位の恩赦で放免されペテルブルグに帰って再び作家活動を始め『虐げられた人々(Unijenrye i Oskorblennye:1861)』などを発表し文壇の地位を確保。代表作に『罪と罰(Prestuplenie i nakazanie:1866)』『白痴:1868』『カラマーゾフの兄弟(Bratiya Karamazov:1879)』などがある。
ドミニクス(Dominicus) (1170~1221)
ドミニコ修道会を設立。スペインに生れ、アウグスチヌス会に入る。ローマ教皇イシノチウス三世によりアルビ派(カタル派)異端者説伏のために派遣された。
トリスタン(Tristan) 対談日本史逆転再逆転
『トリスタン物語』の主人公の名。
中世ヨーロッパで広く流布したレオノアの王トリスタンとコンウォールの妃イズ-(イゾルデ)の宿命的恋愛伝説。『アーサー王伝説』と列んで欧州では最も有名な物語。
トルストイ(Tolstoi,Lev Nikolaevitch)(1828~1910) 対談日本史逆転再逆転
ロシア人。作家。トゥーラ県ヤースナヤ・ボリャーナのロシア屈指の名門貴族に生まれる。二歳で母と死別し、八歳の時にモスクワに移るもその年、今度は父を失う。
1851年、クリミア戦争に従軍。処女作『幼年時代:1852』をはじめ『少年時代:1854』『青年時代:1857』『コサック(Kozaki:1852~62)』などはいずれも戦争時代の作品。終戦後、ペテルブルグに出て、27歳の時にはツルゲーネフ、ゴンチャロフらと肩を並べる文壇の寵児となった。代表作に『戦争と平和(Voina i mir:1864~69)』『アンナ・カレーニナ(Anna Karenina:1876)』『イワンの馬鹿(Skazka ob Ivanedurake:1885)』『復活(Voskresenie:1899)』などが有る。
ドレイク,フランシス 影武者徳川家康
イギリス艦隊提督。ポルトガルの無敵艦隊を破る。
(ナ〜ワ)
ナポレオン(Napoleon Bonaparte)(1769〜1821) 対談日本史逆転再逆転
フランスの皇帝。コルシカ島の生まれ。砲兵士官としてフランス革命に参加。1796〜97年イタリア征討司令官としてオーストリア軍を破り、98年エジプト遠征。翌年クーデターによって執政となり、1804年
帝位につき第一帝政を開いた。つづいてドイツを席巻、さらにヨーロッパ大陸を征服し、対英大陸封鎖を企図して不成功に終わる。12年モスクワ遠征に失敗、また晋・露・墺連合軍に敗れ、14年退位、エルバ島に流された。15年、脱出してパリに戻り帝位に復したが、ワーテルローの戦に敗れ、セント・ヘレナに流されて没。ナポレオン法典の編纂を始め、フランスの近代化に尽くした。(『広辞苑』第二版)
ニェッキ,オルガンティーノ(Gnecchi-Sold,Organtino) (1532~1609) 風の呪殺陣
オルガンティーノ・ニェッキ=ソルド。イエズス会士。
フロイスやゴア、ビレラらとともに、この時期の日本の社会情勢について、上質な情報を書翰で残している。
ニコラオ,ジョバンニ 死ぬことと見つけたり
イタリア人の画僧。
パジェス,レオン(Pages,Leon)(1814~1886) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
『日本切支丹宗門史(Histoire de la Religion au Japon depuis 1598 jusqu`a 1651,cemprenant les faite relatifs aux deux cent cinq martyrs beatifies le 7 juillet 1867.2 vols,Paris,1869)』を著す。パリに生まれる。在支那フランス大使館に勤務した時に、フランシスコ・ザビエルに興味を持ったことから、『聖ザビエル書翰集』を翻訳。その過程で日本に多大な興味を抱き、外国人の立場から「日本史」を書き上げる事を決意。膨大な古今の史料を集めて『日本図書目録』を編纂する傍、『日本帝国史』を著す。『日本切支丹宗門史』は、この『日本帝国史』の一部。
パシオ,フランチェスコ 捨て童子松平忠輝
日本イエズス会管区長。
パチェコ,ルイス・パエス 死ぬことと見つけたり
未資料
ハドソン,ヘンリー(Hudson,William Henry)(1841~1922) 影武者徳川家康
イギリス人。博物学者。エッセイスト。アメリカ人の南米移民の子として、アルゼンチンのラ・プラグに生まれる。早くから生地の自然に親しみ28才の時に渡英。1900年、イギリスに帰化。自然、生物、殊に鳥類に関する著書を多く現す。代表作に南米のジャングルを舞台にした物語『緑の館(Green Mansions:1904)』がある。
パパス 見知らぬ海へ
未資料
バプチスタ,ペドロ 捨て童子松平忠輝
未資料
バルザック(Balzac,Honore de)(1799~1850) 対談日本史逆転再逆転
フランス人。小説家。トゥールで生まれる。父は公証人を経てトゥール市助役、パリ師団の経理部長などを勤める老官吏。母は気難しき情熱家だったと云われている。7歳の時にヴァントームの学校に入り、厳格な寄宿舎生活を送る。その後、一家はパリに移り住み、法律を学び公証役場の書記となったが、両親の反対を押し切り文学を志す。印刷事業に失敗し多額の負債を負い、終生その借金返済のため文筆活動を続ける。時には二ヶ月以上も書斎に閉じこもり一日十八時間も執筆を続けたという。そのための過労によりパリに死す。近代小説の父と称されている。代表作に『ウジェニー・グランデ(Eugenie Grandet:1833)』『ゴリオ爺さん(Le pere Goriot:1834)』『絶対の探究(La recherche de l`Absolu:1834)』『谷間の百合(Le leys dans la vallee:1835)』などがある。
バレンツ,ウイルレム 影武者徳川家康
北東航路探検船隊長。1594年、コルネリソン、バレンツらが北東航路探検を行う。(第二次1595、第三次1596)
ピスカイーノ,セバスティアン 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
イスパニア司令官。探検家。ノヴァ・イスパニア(メキシコ)の副王の使節として慶長十六年(1611)六月来日。
ビスカイーノは、その前年、フィリピン長官だった提督ビベーロがメキシコへ帰る途上難破し、幕府が建造した船で帰ってきたことへの答礼と、ビベーロと共にメキシコへ渡った日本人田中勝介らの帰還のため新造された「サン・フランシスコ」号で来日。また、当時日本近海にあるとされた金銀島の探険を目的として日本に来航した。同年十一月には仙台の訪れ伊達政宗とも会談、その後三陸沿岸の測量を行った。この時、ビスカイーノに同行したソテーロが伊達政宗に会い、二年後に政宗が派遣する使節(慶長遣欧使節)団長ソテーロ誕生の布石となる。
慶長十七年(1612)九月、家康・秀忠のノバ・イスパニア副王宛親書を携え、浦川(浦賀)港を出帆、金銀島の探険に向った。
ビベーロ,ロドリゴ・デ 影武者徳川家康
前ルソン(フィリピン)長官。イスパニア(スペイン)船「サン・フランシスコ」号に乗船し房総半島岩和田沖で座礁。ノバ・イスパニア(メキシコ)との通商を考えていた家康はビベーロの送還時に、通商使節としてソテーロを同船させようとするが、ソテーロと反りが合わないビベーロが拒否。
慶長十五年(1610)八月、ウィリアム・アダムスが伊東で建造した「サン・ブエナベンツーラ」号(120t)で、家康の使節となった宣教師アロンソ・ムニョス、京都の商人田中勝介、米屋の朱屋立成ら日本人二十三名を乗せメキシコ経由で帰国。
ビレラ,ガスパル(Vilela,Gaspar) (1525~1572) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
宣教師。ポルトガル船の商人で船医だったビレラは、1554年頃に貿易で訪れた日本で、ザビエルと共に来朝し布教に勤めていたトルレスやフェルナンデスらと出会い、日本でイエズス会に入会し、布教活動に従事した。最初は京都で活動を行うが、京の町が政争で混乱すると堺を中心に活動する。
十七年間の過酷な布教活動で心身共に疲れ果てたビレラは、1571年、ゴアに引き上げ翌年没した。
ヒロン,アビラ (生没年不詳) 影武者徳川家康
宣教師。キリシタン史上有名な長崎の『贖罪の大行進』を間近に見て、手記(『日本国王記』)にその模様を書いた。
ファン・デン・ブルック,アブラハム 影武者徳川家康
未資料
プラトン (B.C427~347) 時代小説の愉しみ
ギリシャの哲学者。アテナイの名門に生まれる。
ソクラテスの門下で、師の死後、一時アテナイを去ったが、再び戻り著作に専念する。その後、キュレネ・エジプト・シケリア等各地を旅行し、B.C387年頃、アテナイ近郊ヘロス・アカデモスに学校を設立し哲学を講じた。これがアカデメイア(アカデミー)の濫觴とされる。
シュラクサイのディオニュシオス二世の宮廷で自己の理想政治を実現しようとしたが失敗し、爾後、アカデメイアでの教育に専念。彼の哲学はいわゆるイデア論が中心で、経験的な個物を超越する普遍的なイデアイをもって真の実在とし、このイデアイの最高位置に善のイデアを置いたとされるが、このイデア論はソクラテスの思想に由来するもので、彼の業績は、イデアイの弁証法的構成にあるとされる。
著作には三十四の対話篇と十三の書簡がある。対話篇のおよそ半分は、師ソクラテスの言行及び思想を忠実に再現しようとする意図のもとに書かれた。
フランコ,ポリナリオ 捨て童子松平忠輝
フランシスコ会宣教師。
フランチェスコ(Francesco) (1182~1226)
フランシスコ修道会を設立。アッシジの聖フランチェスコ(San Francesco d'Assisi)と呼ばれている。イタリア中部アッシジの生れ。謙遜と服従、愛と清貧との戒律によって修道生活の理想を実現した。
ペリー(Perry.Matthew Calbraith) (1794〜1858) わが幻の吉原
ペルリ。漢字名:彼理。アメリカの海軍軍人。嘉永六年(1853)六月わが国を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で和親条約を結ぶ。後に下田・函館に回航。帰国後「日本遠征記」三巻を著。(『広辞苑』第二版)
ブルギーリョス,ペドロ・デ 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
フランシスコ会修道士。医師。
ルソン総督の派遣した商船サンテイアゴ号でフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテーロ一行に加わり来日したブルギーリョス修道士は、フランシスコ会が布教活動のために建てた教会の診療所で、貧しい人々のために熱心な診療活動を行っていた。そこへ好奇心旺盛な忠輝が訪れ、貴賎の隔てなく接するブルギーリョスに惹かれ、その浅草の診療所に毎日のように通うようになる。そんな忠輝にブルギーリョスは西洋医術とラテン語を教えるのだった。
1601年、徳川家康のもとへ、謁見を許されたスペインのフィリピン総督の使者が訪れた。そのとき、彼らが「たばこから作ったこう薬」や「たばこの種子」などを献上したという記録が、スペイン・マドリードの王立図書館に保管されている『ブルギーリョスの報告書』に記されているという。その後10年も経ず、徳川幕府はたばこの禁令を発する。このことからも分かるように、「たばこの種子」を手に入れてからほどなくして、たばこの栽培と喫煙の風習はまたたく間に日本各地に広まった。
フロイス,ルイス(Frois,Luis) (1532~1597) 吉原御免状、影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ
宣教師。『日本史』を著す。
天文元年(1532)、ポルトガルの首都リスボンで生まれる。その家柄や両親の名は不明。幼・少年期は王室秘書庁で働く給仕のような仕事についていたといわれる。その当時ポルトガルは、エンリケ航海王を先駆者として後に大航海時代と云われる探検と植民地探しに国力を傾注し、東へ東へと進出していた時代で、16歳でイエズス会に入会したフロイスは、その年にはリスボンを離れた。それから一度も故郷に帰ることがないとは、フロイス自身思いもしなかった。
インドのゴアに着き、聖パウロ学院に入った彼は、そこで自らの運命を変える二人の男と出会う。それはフランシスコ・ザビエルと、日本人ヤジローだった。日本のことをザビエルから聞いたフロイスは関心を深め、ほどなくザビエルが病死すると、彼の日本への夢はさらに膨らんだ。ゴアにおいて司祭に叙せられた彼は、安全な修道院での出世に満足せず、日本で布教しようという困難な道を選び、31歳で横瀬浦に降り立った。1596年『日本史』を完了する。1597年、長崎のコレジヨにおいて卒。
ブロック,アブラハム・ファン・デン (生没年不詳) 影武者徳川家康
オランダ船商務員頭。
フロビッシャー,サー・マルチン 影武者徳川家康
未資料
フェリーペ三世 捨て童子松平忠輝
イスパニア国王。
ヘスース,イグナシオ (1572~1597) 影武者徳川家康
フランシスコ会修道士。メキシコ市で生まれ、イエズス会系のカレッジで学び、ブエブラのフランシスコ会サンタ・バルバラ修道院に入ったが長続きせず、家に帰り気ままな生活を送っていたが、両親はそんな彼を商人にしようとフィリピンに送り出した。そこで再びマニラの聖フランシスコ修道院に入り修道士となった。
1596年7月、修練期を終え司祭叙階のためフィリピンのカビテ港からメキシコのアカプルコ港へ向ったが、乗船したガレオン船サン・フェリペ号が激しい嵐に襲われ航路を失って、三ヶ月の漂流の後、土佐国の浦戸港に漂着。浦戸から京へ赴き、京の聖フランシスコ会修道院にいるところを秀吉の禁教令で捕縛される。捕まったヘスースは、耳を削がれ市中を引回された後に長崎に送られ、慶長二年(1597)二月五日朝、西坂で十字架に架けられ殉教死をとげた。
この時、殉教したカトリック宣教師らは二十六人に及び、「西坂の大殉教」としてキリスト教会史にその名をとどめ、殉教者は二十六聖人として尊崇されるようになる。1981年2月には、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世がこの地を訪れ祈りを捧げている。
ベッソア,アンドレ (?~1610) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝
マカオ総督。
慶長十四年十二月、その前年に起ったマカオ事件の釈明のため、ポルトガル船マードレ・デ・デウス号の司令官として長崎に来航。駿府で大御所と面会し事情を説明して許されるも、長崎港外でマカオ事件の報復として、有馬の兵により撃沈される。司令官アンドレ・ベッソア以下、乗組員のほとんどは船と運命を共にした。
ヘミングウェイ,アーネスト(Hemingway,Ernest) (1899~1961) 影武者徳川家康、風の呪殺陣
アメリカ文学者。スペイン戦争に参加。アメリカ・イリノイ州オーク・パーク生まれ。
1918年、第一次世界大戦に赤十字要員として従軍して負傷。1921年から'28年までパリに住み、『われらの時代』、『日はまた昇る(The Sun Also Rises:1926)』、『男だけの世界』などを刊行。その後、『武器よさらば(A Farewell to Arms:1929)』『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls:1940)』を発表。
スペイン内戦、第二次世界大戦にも従軍記者として参加。'52年に発表した『老人と海』でピューリッツァ賞を受賞。'54年にノーベル文学賞を受賞。'61年に猟銃で自殺。
第一次世界大戦後、戦争の体験によって、宗教、道徳、人間的精神も押しつぶされ、希望を失い、絶望と虚無に陥った戦後派作家、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」の代表的作家の一人。
ベルレーヌ
→ ヴェルレーヌ
ペレス,ロレンソ(Perez,Lorenzo.) (1867-1937) 影武者徳川家康
イスパニア(スペイン)人。フランシスコ会司祭。
イスパニアのグアダラハーラ県パストゥラーナ村に生まれ、1882年、十五歳の時にフランシスコ会に入会した。それから八年後の1890年9月、バルセロナを発ってフィリピンに向い、10月にマニラに到着、12月に司祭に叙せられた。翌1891年、セブの司教ドン・マルティン・ガルシア・アルコセールの秘書となり、1897年、米西戦争で同師と共にマニラに逃れ、1903年に病気の司教に随行してフィリピンを離れた。翌1904年11月、故郷のパストゥラーナに戻り研究・文筆活動に専念する。1908年、管区評議員会より年代記編集係に任命され、管区文書館全史料の目録を作成。同じ年、マヨルガ・デ・カンポスの修院長となり、布教史に関する著作を次々に発表した。その後、マドリード及びローマに駐在し、1936年、『イベロ・アメリカ文庫』の本部カルデナール・シスネーロ学院に住んでいたが、スペイン内乱で平穏な生活を求めて再びパストゥラーナに戻った。その数日後、フランコのクーデター宣言があった。しかし住んでいたフランシスコ会住院の明け渡しを共産党が求め、義兄弟の邸に身をよせ、そこで最期の数カ月を過ごすこととなる。この間、二番目の弟トマス神父の連行を民兵が求めた時、ペレスは身代わりに牢に入る事を申し出たが、健康状態と老齢を理由に拒否されたという。このスペイン動乱で、修道院が襲撃をうけ剥奪され、シスネーロ学院が破壊された知らせを受けるなど、これまでの努力した仕事のほとんどを破壊され、ペレスは意気消沈し、憔悴。1937年6月1日、エドゥアルド・バルバシール神父から終油の秘跡を受け、姪にあたるマリア・デ・ヘスース修道女にみとられて天国へ旅立った。(『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』訳者あとがき)
ロレンソ・ペレスの歴史関係の著書は未刊のものを含め190編にのぼり、邦訳された主な著書に『ベアト・ルイス・ソテーロ伝』がある。
ヘロニモ神父(へろにもしんぷ) 捨て童子松平忠輝
フランシスコ会神父。
ポイク,ニコラス 影武者徳川家康
オランダ船商務員頭。
ボードレール(Baudelaire,Charles)(1821~1867) 一夢庵風流記
フランス人。近代の最も卓越した詩人といわれる。パリに生まれる。文官で画家の父(フランソワ)を幼くして失う。まだ若かった母は、コンスタンチノーヴル、ロンドン、マドリッド等のフランス大使となったオービック大佐と再婚。リヨン高等学校で学んだカルロは、1839年ルイ・ルグラン校卒業後、両親の意志に背き文学を志したため、両親はその決心を翻させようとカルカッタ行きの商船に乗せ旅立たせた。しかし十ヶ月後、パリに戻ったカルロは、父の遺産を貰うとテオドール・ド・バンヴィル、ギュスターブ・ルヴァスール、ジュル・ビュイッソン、エミール・ドロイ等の若い詩人、芸術家と友誼を結んだ。さらにジャンヌ・ヂュバルという黒人ハーフの女性を恋人とし、ボヘミアンな交友生活を送り、父の遺産の大半を浪費。1845年、サロン批評で文学的生活に踏み出し、幻想に富む散文や詩を雑誌に寄稿する。鋭敏な感覚、人間的な情念をもって近代象徴の詩の世界に、妖しき美の人口楽園を樹立したとされる。代表詩集『悪の華(Les Fleurs du Mal:1859)』は「罪の聖書」とも称され、悪魔主義の宣言書ともいわれている。
ママコス かくれさと苦界行
宣教師。天草四郎の出現を予言。
マラルメ(Mallarme,Stephame)(1842~1893) 死ぬことと見つけたり
フランス人。詩人。パリの数代にわたって文学を趣味とする洗練された官吏の家庭に生まれる。ポーを読むため、早くから英語を学び、中学卒業後20歳でイギリスに渡り、帰国後、英語教師として静穏な生活を送った。傍ら詩作に励む。ボードレール、ヴァレリと共に近代フランス象徴詩人の最高峰の一人といわれている。高踏派詩集で『エロディヤード(Herodiade:1869)』を発表、以後高踏派を脱却し象徴詩『半獣神の午後(Apres-Midi d`un Faune:1876)』『葬の乾杯(Toast funebre:1876)』などの代表作を発表した。
マリア(Maria) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝
聖母マリア。サンタ・マリア。イエス・キリストの生母とされる。
夫ヨセフと婚約中、天使が現われ神の力によって救主を生むべき旨を告げられ、イエスを生んだという。
マルロー,アンドレ(Malraux Andre) (1898~1976) 影武者徳川家康、風の呪殺陣
フランス文学者。パリの商家に生まれ、東洋語学校にて梵語、インドシナ語、支那語などを学び、21歳の時にインドシナに渡り、反帝国主義運動に参加。
1926年『西欧の誘惑(Tentation de l`Occident)』で作家活動に入る。1933年『人間の条件』でゴンクール賞受賞、世界的名声をうる。スペイン内乱で国際飛行隊長として活躍。その体験を『希望(l`Espoir:1937)』に書く。第二次世界大戦で負傷し捕虜となるが収容所を脱出し、レジスタンス運動の指導者となりドゴール将軍を知る。戦後はドゴール政権の閣僚を務めるかたわら、『沈黙の声(1951)』など独特の美術論を発表。ドゴールとともに政界を引退した。
メスキータ,ディエゴ・デ (?~1614)
イエズス会ポルトガル人修道士。天正遣欧使節団員。1577年7月に長崎に来着し、府内(大分)で日本語を学んだ後、上洛して安土に新設されたセミナリオに赴任したが、ヴァリアーノに随伴して1581年末長崎に戻る。遣欧使節の少年たちの伴侶として渡欧することを命ぜられ、マカオで司祭に任ぜられた後、八年を越える長旅の間、少年たちと起居を共にして指導にあたった。慶長十七年(1612)伊東マンショが病床に倒れた時には、臨終に立合い祈りを捧げていたという。この年、徳川幕府は有馬領・直轄地のキリシタン禁令を皮切りに弾圧を強め、慶長十九年(1614)には金地院崇伝に書かせた禁教令を発し、日本在住のバテレン・イルマン全員に国外退去を命じ、高山右近ら主なキリシタンの国外追放を行う。こうして長崎に集められた修道士の中にメスキータもいて、彼は長崎から出港する数日前に、長崎近辺の「漁夫の苫屋の藁の褥」で絶命した。
メッケル,クレメンス 影武者徳川家康
日本帝国陸軍教官。ドイツ人少佐。
ユゴー(Hugo,Victor Marie)(1802~1885) 対談日本史逆転再逆転
フランス人。詩人。劇作家。小説家。フランス・グザンソンで生まれる。父はナポレオン一世の家臣、母はブルボン王家を奉ずる王党派の娘。10歳で詩を作り早くに詩才を認められた。その想像力と豊麗な韻律、横溢した感情表現でフランス浪漫派の大家となり、学士院会員、上院議員となり、1848年革命後は立憲議員、立法議員に入り、デモクラシーの擁護に努めた。1851年ナポレオン三世のクーデターでパリを追われ国外へ亡命。1870年、再び共和制が布かれ帰国。死にいたるまで評議会に列席した。代表作に『エルナニ(Hernani:1830)』『レ・ミゼラブル(Les miserables:1852)』『ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris:1831)』などが有る。
ヨーステン,ヤン 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、見知らぬ海へ
オランダ人。リ-フデ号乗員。
[逸話](『想古録』)
天草四郎の反色を世上に漏さざる前、ヤヨウス、ハチクワンと云へる二人の紅夷ありて、天草騒動の起らんとする兆候あることを幕府に注進しければ、二人の紅夷は其功に依て五百石づつを拝領し、江戸にて其身を終りたり、今の八代洲河岸と八官町とは二人の居宅の在りし処なり(古賀同庵)
ヨゼフ,エルナンド・デ・サン 捨て童子松平忠輝
アウグスチノ会宣教師。
ラスニャック 対談日本史逆転再逆転
バルザック『ゴリオ爺さん』に登場する野望に燃えた田舎出身の青年貴族。
ランボオ,アルチュール(Rimbaud,Arthur)(1854~1891) 死ぬことと見つけたり、対談日本史逆転再逆転、一夢庵風流記
フランス人。詩人。デカダン象徴派の一人。ベルギー国境近くのシャルルシィルで生まれる。父は軍人、母は農家の娘。大学入学資格を得ることを望む母により、厳しい教育を受ける。
中学時代に早くも詩才を現し、ラテン詩の競技で常に一等を取ったという。十六歳の時に作った『酔いどれ船』をヴェルレーヌに送り認められ、十七歳で単身パリに赴く。ヴェルレーヌと深く友情を結び、『イルミナシオン』(Les Illuminations:1873~75)を発表、一躍詩壇にその名を轟かす。パリ滞在一年で、ヴェルレーヌとともにイギリス、ベルギーを放浪するが、ヴェルレーヌに飽き別れようとした時に、ヴェルレーヌによってピストルで撃たれ腕に負傷した。逮捕されたヴェルレーヌはモンスの監獄に送られ、弾傷の癒えたランボウは、一人旅に出で、イギリス、ドイツ、イタリア、スペインと放浪、オランダの植民兵に雇われインドシナ・ジャバへ、そこで脱走兵となり再びヨーロッパに戻り今度は北欧を彷徨う。これより先、十九歳の時に『地獄の季節』(Une saison en enfer:1873)を上梓した後は新たな詩作は無く、その後も一切の文筆を断ち、アメリカに渡って商人となったが、落馬により負傷し帰郷する途中、マルセイユの病院で37歳の短い生涯を閉じる。
ランボウの短い生涯は波瀾に富み、野蛮な冒険に満ちていた。その文学生活は僅かに三年という短い期間だったが、その鋭敏な聴覚、視覚で捕えた現実の彼方にうごめく幻覚を斬新な形式で歌い上げた彼の詩は、文学史上の奇跡とも云われている。
李 鎰(り いる) 一夢庵風流記
朝鮮の将軍。字は重卿、1538(中宗三十三)年生れ。
李 公(正しくは日編)(り えん) 一夢庵風流記
朝鮮王宣祖。
李 舜臣(り しゅんしん) 一夢庵風流記
朝鮮水軍の将軍。
劉 邦(りゅう ほう)(前256/前247~前195) 対談日本史逆転再逆転
前漢朝の初代皇帝。漢の高祖。沛県豊邑の人。
劉根(りゅうこん) 風の呪殺陣
中国の方術士。
柳 成竜(りゅう せいりゅう) 一夢庵風流記
朝鮮政府要人。『懲秘(正しくは比に心)録』を著す。
隆慶帝(りゅうけいてい)
中国明の皇帝の名。
《瓢水の「一話一言」》
[“隆慶帝”という中国の皇帝がいた!]
隆先生の名前を縮めて、“隆慶作品”、“隆慶ファン”等と呼ぶことがあるが、中国の皇帝の中に“隆慶”の名を冠した人物がいた。明末期の中華皇帝・隆慶帝である。彼が在位した期間(1566~1572)の年号は、もちろん“隆慶”であった。
隆慶帝が即位した当時、北方にはチンギス・ハンの末裔にしてモンゴル最強を謳われたアルタン・ハンが大きく勢力を伸ばしていた。隆慶帝の父嘉靖帝の時代には、北京を包囲したほどの武将である。隆慶帝の短い在位期間は、アルタンとの抗争に費やされた。隆慶4年(1570)、ようやくアルタンと和議を結び、翌年には順義王に封じ、北方対策はひとまずの決着を見た。しかし心労が重なったためか、隆慶6年、隆慶帝は36歳で崩御した。
余談だが、日本にも隆慶と名乗った人物が少なくとも2人いた。新義真言宗の僧侶で、享保年間に将軍家祈願寺の護持院(綱吉の護持僧・隆光が有名)、護国寺の住持に任ぜられた隆慶、そして同じく享保期に活躍した京仏師の清水隆慶(初代)である。(2004年2月17日瓢水記)
呂翁(ろおう) 吉原御免状
趙の都邯鄲に居たという仙人。
慮生(ろせい) 吉原御免状
趙の都邯鄲の貧乏学生。
呂翁に会い、不思議な枕で眠らされ、夢の中で己の栄達と滅亡の生涯を見た。それはきびが炊き上がるほんの数刻の間の出来事だったという「邯鄲の枕」あるいは「一炊の夢」という話の中にでてくる主人公の名。
ロドリゲス,ジョアン(Rodrigues,Joao) (1561頃~1633) 影武者徳川家康
イエズス会士で、日本語に堪能だったことから秀吉の通事となり秀吉没後も、家康の通訳として召し抱えられた。しかし、ウィリアム・アダムスの出現により通訳者としての地位を失う。
ロドリゴ,ドン 死ぬことと見つけたり
未資料
ロヨラ,イグナティウス・デ(Loyola,Ignatius de ) (1491~1556)
バスク地方のスペイン郷士ベルトラン・ヤニェス・デ・オニャス・イ・ロヨラ(Beltran Yanes de Onaz y loyola)とマリナ・サエンス・デ・コリーナ(Marina Saenz de Licona)との間の十一人(一説十三人)の子の末子としてロヨラ城で生まれる。父は聖職者にさせようと幼少の頃から相応の教育を受けさせたが、イグナティウスは名誉と栄光に満ちた軍人に憧れ、十六歳の時に父が死ぬとスペイン郷士として宮廷に仕える軍人の道を選んだ。あたかもその頃は、神聖ローマ皇帝のハプスブルク家とフランス王ヴァロア家が争っていた時期で、フランス軍とスペイン軍はピレネーを境に対峙していた。国境守備隊に入ったイグナティウスは、1521年フランス軍との戦い(バンブローナの戦闘)で足に重傷を負い、再び軍服を着ることが出来なくなる。治療の為ロヨラ城で療養していたイグナティウスは、そこで『キリストの生涯』や『黄金伝説』等の著作に触れ、「永遠の王イエス・キリスト」に生涯を捧げた「神の騎士」と呼ばれる人々の勇気を知り、世俗と聖性の葛藤の末、キリストは王であり、聖人たちはその騎士、そして人間の心は悪魔と神の決戦の戦場であるという考えに到達した。やがてその考えは、聖人たちがキリストのために英雄的な苦行と激しい労働に生涯を捧げて尽す姿こそ自分のこれからの生きる道であり、彼らが成したことと同様のことを成したいという強い決意に変る。その決意は聖地巡礼という決心を生み出し、ようやく足の傷の癒えた1522年3月、巡礼に赴くべく城を後にした。まず、モンセーラの有名な聖堂を訪れベネディクト会修道院に入り、そこの修道院長フアン・チヤノスから助言を得て、周到な準備の下、立派な宮廷服を脱ぎ粗末な巡礼服に着替えてエルサレムへの旅に出る。この巡礼行でイグナティウスは、キリスト教霊性史における金字塔と目される著作『霊操』を書きしたためている。
巡礼からもどったイグナティウスは、ラテン語の勉強とさらなる神学の教義を学ぶため37歳でパリ大学に入学。そこで生涯の同志となるピエール・ファーブルと出会い、ファーブルを通してザビエルと出会う。さらにシモン・ドロリゲス、ディエゴ・ライネス、アロンソ・サルメロン、ニコラス・ボバジリャらと出会い、このパリ時代の友人同志七人が、宗教改革で失われたカトリック教会の復興に大きな影響を与えた「イエズス会」を創立することとなった。

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