人名事典『あ』

人名(あ〜あこ)

隆慶作品に現れる歴史人物・人名および関連人物・人名(含む神話・伝説的人物名)の解説一覧。

愛洲 移香斎(あいす いこうさい)

久忠。愛洲陰流(陰流)の始祖。
上泉伊勢守が子供の頃に師事したという。

青木 一重(あおき かずしげ) (1551〜1628) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

民部少輔。豊臣秀吉に仕えた美濃の豪族青木重直の嫡子。
初め今川家に仕えたが、今川氏滅亡後は徳川家康に仕え、姉川の合戦などで軍功をあげる。その後、豊臣秀吉に一万石で仕えることとなり、やがて豊臣秀頼の家臣となった。大坂城で七手組(七組番頭、七組頭衆)の一手頭を任ぜられる豊臣家の重臣となったが、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると剃髪して仏門に入るが、家康のたっての願いで召し出され、摂津麻田に一万二千石を与えられる。

青山 稲葉守(あおやま いなばのかみ) 駆込寺蔭始末

寺社奉行。設定では享保年間の物語になっているが、実在の青山因幡守の寺社奉行就任時期とは、微妙にその時期がずれている。
因幡守。忠朝。寛延元(1748)年八月から宝暦八(1758)年11月まで寺社奉行を勤める。
ちなみに、駆込寺蔭始末の設定時期(享保十三〜十八年間)の寺社奉行は、井上河内守正之が享保十三(1728)年〜元文二(1737)年、そして土岐丹後守頼稔が享保十三(1728)年〜享保十五(1730)年となっている。

青山 権之助(あおやま ごんのすけ) 捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

成国。大久保長安の三男。青山図書助成重の養子。
図書助成重の養子なり、実父大久保石見守に連座して、慶長十八年に罪せらる、右五軒の屋敷、今の二の丸、三の丸の辺也、(『慶長年間江戸図考』)

青山 忠俊(あおやま ただとし) かぶいて候

伯耆守。父は青山忠成。
慶長十八年(1613)、父忠成の後を継ぎ三万五千石を得て、元和二年(1616)には老職となる。ついで留守居役の酒井忠利、同輩内藤清次とともに家光の守役となったが、元和九年(1623)改易され、減転封となった。
幼少より(秀忠に)奉仕し、関東御入国の後、御書院組頭、慶長十年、台徳公御上洛の時供奉、慶長の末、御書院番頭、同十八年二月廿日、亡父播磨守忠成が遺領一万五千石を賜り、忠俊が部屋住の采地、舎弟大蔵少輔幸成が所領の内に加へ賜る、(『江戸古絵図考附録』)
[逸話]『想古録』
三代将軍家光公は徳川累代中の英主にして、諸侯を感服し、幕権を伸張し、照祖以来の俊傑たりしは世人の許す所なり、然るに其少壮なるころは柔弱の質にして、手踊を好み、伊達を事とし、斯の人が天下の政権を握りたる暁には、世の中は如何に成り行くべきやと人々に想はしめたる程なりしと云へり、其比青山伯耆守忠俊は将軍の傅役なりしが、予て将軍の不行状なるを憂ひ、折もあらば御諌め申さばやと心掛け居けるに、或るとき二つの鏡台を左右に並べて髪を揚げられけるを見て、忠俊今日こそと決心し、突如と御前に進みて、一箇の鏡を取りて之を庭前に投げ出だし、天下を知しめす御身分にて、其御心掛け斯様なるは誠に嘆かはしき次第に候と申上げけるに、将軍殊の外御不興にて、痛く忠俊の無礼を咎められ、其場にて御前遠慮を仰せ付けられたり、後に其忠厚を感ぜられ、遠慮の罰を免ぜられて再び召返されけるが、忠俊之を辞し、御前の御思召さへ直らば夫れにて難有存ずるなり、何ぞ拙者が再び召出さるるに及ばんやとて、終身退隠して其の天年を送りけるとぞ(内山清蔵)

青山 忠成(あおやま ただなり) (1551〜1613) 影武者徳川家康 

常陸介。三河譜代、関東惣奉行、江戸町奉行を歴任、慶長十一年(1606)一月逼塞する。 
幼少から家康に仕え小姓となる。その後、秀忠に付属され、家康の関東入国のときは諸事を沙汰する任務をおびて先発し、入国後は相模高座郡に五千石を与えられ、本多正信とともに関東総奉行となった。
播磨守忠成、慶長十八年二月卒、(『慶長年間江戸図考』)

青山 藤蔵(あおやま とうぞう) 捨て童子松平忠輝

家康の側役人。

青山 成重(あおやま なりしげ) (1549〜1615) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

図書助。平八郎。服部七右衛門忠頼( はっとりしちえもんただより)。伊賀の一族服部平蔵正信の次男。妻は北条家家臣恒岡越後守常自の娘。元亀二年(1571)、母方の縁者である青山忠重の養子となり、青山平八郎を名乗る。天正十二年(1584) 、兄平太夫の推挙により徳川秀忠の傳役となる。慶長八年(1603)、 従五位下に叙し図書助の名を賜る。慶長十三年(1608)〜慶長十八年(1613)、幕府老中を勤める。 
図書助成重、元和元年九月卒す、(『慶長年間江戸図考』)
青山図書助成重 台徳公御母堂、宝台院殿御由緒の人なり、本苗服部氏、青山牛太夫忠重が嗣と成、青山氏を称す、後、食禄一万石を賜る、慶長十九年、御勘気を蒙り、三千石を賜り、在所へ蟄居す、(『江戸古絵図考附録』)

赤坂 弥九郎(あかさか やくろう)

幼名雅楽之助。政雅。善吉。又の名を貞俊。天真正自顕流皆伝。天寧寺住職。
鹿島の神官だった弥九郎は、天真正自顕流十瀬長宗から剣を学び、その皆伝を受けたが、人を切り国を出奔。その後、出家して善吉と名乗り、京都天寧寺の住職となった。
天正十六年(1588)、主君の供で上京した薩摩有馬家家臣東郷重位が、たまたま天寧寺の隣に住したことから、弥九郎はこの士に天真正自顕流を伝授。こうしてその剣技を伝え受けた重位は、薩摩に戻ると天真正自顕流を広める。重位は、初め「自顕流」と称したが、後に「示現流」と改め、薩摩を代表する流派となった。

明石 志摩(あかし しま) 捨て童子松平忠輝 

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。

明石 全登(あかし たけのり) (生没年不詳) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝 

「てるずみ」、「ぜんとう」ともいう。掃部頭、守重。備前・備中・美作の領主、宇喜多家の重臣。宇喜多秀家の姉を室とした。三万五千石を領す。関ヶ原合戦では宇喜多秀家隊の先鋒隊となって活躍する。その後、キリシタン浪人衆の一人として大坂城に拠る。キリシタンを率いて大坂夏の陣に活躍。東軍大将徳川家康本陣の背後を衝く奇襲作戦を行うが失敗し敗れる。討死したとも逃走したとも言われ、生死不明で「明石狩り」と言われる全登探しを幕府は行うが、消息は確認できなかった。
レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』には、「彼(宇喜多秀家)に代って領内を治めてゐた従兄弟のヨハネ明石掃部殿は、熱心なキリシタンであった。」とある。

秋元 泰朝(あきもと やすとも) (1580〜)

秋元長朝の嫡子。駿府近習筆頭人。
秋元氏は関東上杉氏の旧臣で、父長朝の時に家康に帰属、関ヶ原の戦いに際して、上杉景勝との交渉に智謀を表し譜代に取り立てられた。泰朝は家康に近侍し入魂の間柄となり、後、板倉重昌、松平正綱とともに駿府大御所の近習筆頭人として、本多正純の下で活躍した。

秋山 要助(あきやま ようすけ) 狼の眼

武州埼玉郡箱田村の百姓出身の剣術家。父善太郎から鹿島神道流の手ほどきを受け、長じて江戸に上り神道無念流の戸賀崎熊太郎の道場に内弟子として入る。十九歳で印可を受け、麹町道場の師範代を勤めていたが、やくざ者に絡まれ相手を斬ったことから、兄弟子の岡田十松の策謀に嵌り江戸を出奔。浪々の身となって、人斬り要助の異名を得た。
幕末の兵学者清水礫洲の書『ありやなしや』に秋山要助(介)の記述あり。
《瓢水の「一話一言」》
[仇討に立ち合った秋山要助(その1)]
 「狼の眼」の主人公・秋山要助は、兄弟子岡田十松の指示で仇討に立ち合っていた。山本邦夫『埼玉武藝帳』(さきたま出版会)に拠りながら、その顛末を紹介してみよう。
 寛永5年(1793)5月、常陸国埼玉郡原村の百姓久太郎が、篠津村の百姓勘太郎に殺された。水争いの口論が原因だった。久太郎の息子喜六は仇討を志し、奉公先の主人の口利きで、当時常陸国上清久で道場を開いていた戸賀崎熊太郎に入門を頼み込んだ。熊太郎は「江戸にいる弟子の岡田十松に入門した方がいい。仇討の相手を探すのにも便利だ」と、喜六を江戸に送り出した。寛政8年2月のことであった。
 事情を聞いた十松は、早速に喜六の奉公先を探してやり、道場への入門も快く許可した。喜六は奉公先で士分に取り立てられ、岡田道場に通って剣術の腕も上達した。寛永127月、勘太郎の消息が伝わったので、十松は秋山要助を介添えとして同行させることにした。(2004年2月10日瓢水記)
[仇討に立ち合った秋山要助(その2・完結)]
 仇の勘太郎は奥州磐城にいるとのことであったが、実は常陸国多賀郡平潟で女衒業を営んでいた。平潟の漁港が見える旅籠に投宿した喜六、秋山要助、もう一人の介添え福田大八は、偶然に勘太郎を発見した。追う喜六、慌てて逃げる勘太郎、2人を追う要助と福田……。喜六は二の太刀で勘太郎を仕留め、三の太刀で見事に首級を上げた。
 喜六が本懐を遂げたのが寛政12年(1800)9月、平潟から江戸に護送され勘定奉行に引き渡された後、3人に「無構」の裁許が下りたのが翌年の1月であった。ちなみに、裁許状で要助は「岡田十松方罷在候浪人」「十松若党」「忍領箱田村百姓」とされている。
 「狼の眼」でやくざの親分を斬った秋山要助が江戸を売ったのは、寛政5年7月と読める(『柳生刺客状』講談社文庫、100頁)。喜六の仇討に立ち合った頃は、「漂泊と斬人と懶惰の十年」を過ごしていたことになるが、それはそれで面白いではないか。(2004年2月11日瓢水記)

アグスチーノ

天正遣欧使節随員。日本名不詳。大村の出身とされる。
有馬のセミナリオにいた同宿の一人だったとされるが、帰国後もイエズス会に入らなかったために記録が無く、ほとんど不明。欧州からの帰り、マカオでドラードとともに印刷事業に勤しんだ。

明智 秀満(あけち ひでみつ) 風の呪殺陣

弥平次。明智光秀の娘聟。

明智 熈子(あけち ひろこ) (1530~1582)

明智光秀の妻。妻木勘解由左衛門範熈の女。
光秀と熈子は許婚であったが、婚姻の直前、熈子が疱瘡に罹り痘痕面(あばたづら)になったため、困った父勘解由左衛門は熈子の代りに妹を嫁がせた。だがその事情を知った光秀は、妹を帰し、たとえ痘痕面で醜くなったとしても、熈子が終生自分の妻だといって迎えたという。熈子は光秀が諸国を遍歴していたという時代も含め光秀を支え、数人の子をもうけた。後の細川夫人となるガラシアにみられるように、子供は美男美女揃いだったといわれ、フロイスも早世した男の子の美男子ぶりを称えている。天正十年(1582)六月、謀叛を起し本能寺で信長を討った光秀が、山崎で秀吉に敗れ敗走途中死ぬと、坂本城にいた熈子は、一族と共に自刃し五十三歳の生涯を閉じた。墓所は坂本の西教寺にある。

明智 光秀(あけち みつひで) (1528〜1582) 吉原御免状、影武者徳川家康、一夢庵風流記、風の呪殺陣、見知らぬ海へ、柳生非情剣、時代小説の愉しみ 

日向守。十兵衛。維任。父は明智光国。
越前の朝倉義景に仕えたのち織田信長の家臣となり、元亀二年(1571)に坂本城主となる。丹波、甲州などの征伐に武功を挙げるが、西国遠征の途中、京都本能寺に軍勢を翻し主君信長を討つ(本能寺の変)。その十三日後、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、敗走の途中、土民に殺されたと伝えられている。三女は細川ガラシア夫人。
最近の研究では、土岐氏の末裔説は疑わしく、出自不祥とされている。一説には、若狭小浜の刀鍛冶冬広の二男とされ、隆氏は『時代小説の愉しみ』でこの説が好きだと述べている。
和歌・連歌をよくし、茶法を津田宗及に学び、八重桜の茶壺・八角釜・青木肩衝・定家の小倉色紙などを所持していたとされる。(『茶道辞典』)
明智光秀
始名十兵衛、日向守、後称2惟任氏1。妻服部出羽守保章女、保章は台徳公の御母堂宝台院殿と御従父兄弟違なり。
巡国の後、越前に止り、朝倉家に寄食す、信長の招に依て岐阜へ来り従仕す、武功度々に付て登庸し惟任氏を賜ふ、終に丹波一国を領知し信長へ謀反の後、山崎合戦に討負、苦集桟路にて野伏の為に害せらる、時五十五歳(柳営婦女伝系八)

《瓢水コラム》
[隆先生がイメージした明智光秀像(その1)] 
 「七道往来人・明智光秀」(『時代小説の愉しみ』所収)は、そのタイトルが示す通り、光秀が“道々の輩”と交わった可能性をイメージとして捉えた好エッセイである。その中で隆先生は、「白状すると、僕はこの刀鍛冶の二男坊説が好きである」(講談社文庫版、28頁)と語っているが、この説は一体どのようなものなのだろうか。
 桑田忠親『明智光秀』(講談社文庫)によれば、光秀が若狭小浜の刀鍛冶冬広の二男であったとする説は『若州観跡録』に記されていると云う(16頁)。その概要を紹介しよう。
 刀鍛冶の二男に生まれた光秀は、幼少の頃から鍛冶職を嫌って兵法を好み、近江の佐々木氏(六角承禎か?)に仕えて明智十兵衛を名乗った。佐々木氏の使者として織田家に赴いた際、その立ち居振舞と弁舌の爽やかさを信長に見込まれ、信長の所望により織田家に仕えることになる。その後、織田家で次第に累進し、明智日向守と名乗るようになった。(2004年2月1日瓢水記) 
[隆先生がイメージした明智光秀像(その2・完結)]
 織田家で次第に頭角をあらわした光秀であるが、その素性を知る者はいなかった。光秀が丹波国亀山を与えられた時、故郷である若狭国小浜の刀鍛冶冬広を招き、家来のために数多くの刀を打たせた。この冬広は光秀の甥に当たると云う。おそらくは先代冬広の嫡男であろう。このような事情で、丹波国には冬広作の刀が多く残っている。また、冬広は光秀の助力によって受領し、「若狭大椽藤原冬広」を名乗った。
 以上が、『若州観跡録』に記されている光秀の事蹟である(桑田前掲書、16頁)。おそらく隆先生は、『若州観跡録』に記された「兵法」を「鉄砲」と読み替え、さらに『明智軍記』などに記された光秀の諸国放浪を組み合わせることで、新たな光秀のイメージを得たと思われる。“道々の輩”との交友を想定して「妙に高揚し、はりつめたいい気分」になったと書いているから、ひょっとすると、本能寺の変の新解釈も浮かんでいたのかもしれない。(2004年2月2日瓢水記)
『常山紀談』にある明智光秀関連の項参照。
『春夢独談』にある明智光秀関連の項参照。

(あさ〜あし)

浅井 家次(あさい いえつぐ) 影武者徳川家康 

徳川方武将。大坂夏の陣で河内口二番隊を務める。

浅井 左内(あさい さない) 捨て童子松平忠輝 

忠輝家臣。配流となった忠輝に従う。

浅井 亮政(あさい すけまさ)

小谷城主。浅井久政の父。浅井直政の娘婿となり浅井宗家を継ぐ。
亮政はもと京極氏の被官であったが、大永三年(1523)に起きた主家の継嗣問題に介入して実権を握り、天文三年(1534)頃には事実上江北の地を抑えた。江南六角氏と戦い、しばしば敗北を喫したが、越前の朝倉氏や本願寺勢力との友好関係で勢力を伸ばしたとされる。
亮政については『浅井三代記』[1][2][3][4]を参照ください。

浅井 長政(あさい ながまさ) (1545〜1573) 影武者徳川家康、花と火の帝、風の呪殺陣、かぶいて候、時代小説の愉しみ 

天文十四年(1545)、浅井久政の子として生れる。幼名は猿夜叉(さるやしゃ)。十二歳で元服し新九郎賢政(よしたか)を名乗り、父久政隠退の後を受け近江小谷城主となった。後、改名して長政となる。備前守。
永禄二年(1559)十八歳で六角義賢と戦いこれを破り、永禄六年(1563)、信長と和を結び、信長の妹お市の方を妻に迎える。その後、信長とともに江南に勢力を保っていた六角氏を滅ぼし、次いで湖西の朽木氏を下して、近江国をほぼ制した。しかし、元亀元年(1570)六月、信長が越前の朝倉義景を攻めるに当って、長政は父久政の要望で義景に応じ、信長と敵対する。同年、信長・家康連合軍と近江姉川に戦って大敗を喫っした(姉川の合戦)。天正元年(1573)八月、近江平定に乗り出した信長軍に小谷城も包囲され、信長の和議を断った長政は死を選び、夫人と三人の娘を信長に送って自刃した(小谷城攻め)。享年二十九。浅井三姉妹の父。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

浅井 久政(あさい ひさまさ) (?〜1573) 影武者徳川家康 

浅井長政の父。浅井亮政の子として生れる。初名を新九郎といい、左兵衛尉と称す。
天文十一年(1542)、家督を相続し下野守となる。父同様、京極、六角氏の勢力に圧迫されて苦境にあったのを越前の朝倉氏に再三助けられた。永禄三年(1560)家臣の人望を失い子の長政に家督を譲り隠退するも、信長の朝倉攻めには信長との姻戚関係を無視し朝倉側に味方するよう長政に助言し、滅亡へと舵を切った。天正元年(1573)八月、小谷城落城の際自刃した。

浅井 了意(あさい りょうい) (?〜1691) 吉原御免状 

仮名草子作者。唱導家。本性寺昭儀坊了意と称す。別号は、松雲、瓢水子、半岐斎など。
『むさしあぶみ』を著す。
主な著作:万治二『堪忍記』万治三『可笑記評判』『孝行物語』寛文1『本朝女鑑』『むさしあぶみ』『浮世物語』寛文二『江戸名所記』寛文三『かなめいし』寛文五『京雀』寛文六『御伽婢子』など。

浅岡 平兵衛(あさおか へいべえ) 捨て童子松平忠輝 

忠吉の家臣。三十三間堂の通し矢で慶長十一(1606)年、51本を射通す。

朝倉 義景(あさくら よしかげ) (1533〜1573) 影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ 

越前一乗谷城主。小字を孫二郎といい、初名は延景。朝倉孝景の長男として天文二年(1533)九月二十四日生れる。
天文二十一年(1552)、家督を継ぎ、将軍足利義輝から一字を与えられて義景と改め、従四位下左衛門尉に任ぜられる。
元亀元年(1570)織田信長が敦賀を攻略しようとしたとき、義景は浅井長政と連合して戦い信長軍を追い払う。以後しばしば兵を交えるが、同年六月、信長・家康の軍と近江姉川に戦って(姉川の合戦)大敗を喫し和睦。しかし同三年(1572)、和議が破れ翌天正元年(1573)八月二十日、信長に攻められて六坊賢松寺にて自刃(朝倉攻め)。享年四十一。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

浅野 長晟(あさの ながあきら) (1586〜1628) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

浅野長政の次男。母は浅野長勝の娘。天正十四年(1586)に若狭小浜に生まれる。
幼い頃より豊臣秀吉の小姓となり、慶長二年(1597)には三千石を領していた。関ヶ原の戦い後は徳川家康に仕え、慶長十五年(1610)に備中足守二万四千石を賜った。慶長十八年(1613)に紀伊和歌山藩主であった兄・幸長が亡くなると彼に子供がいなかったため、その後を継いで浅野家の当主となる。 
家康の女振姫と婚し、元和五年(1619)安芸国・備後半国四十二万石に封ぜられ、寛永五年(1628)九月に没した。
茶人上田宗箇を一万七千石で召抱え、また玉堂肩衝を幕府に献上している。(『茶道辞典』)

浅野 長重(あさの ながしげ) 捨て童子松平忠輝 

釆女正。小田原城没収の役を仰らる。

浅野 長矩(あさの ながのり) (1667〜1701 ) 影武者徳川家康 

内匠頭。江戸城中松の廊下で刃傷事件を起しお家断絶となる。赤穂五万三千五百石の藩主。 諱は長矩(ながのり)。
元禄十四年(1701)三月十四日、勅使御接待役であった内匠頭が、将軍綱吉の元へ帰京の挨拶に訪れる勅使・院使の到着する直前、江戸城本丸松の廊下で高家肝煎の吉良上野介義央(よしなか) を突然切り付けたのが、世上有名な"松の廊下の刃傷"といわれる事件。この事件で、長矩は陸奥一ノ関領主田村右京大夫(三万石)邸に預けられ、その夜に切腹。介錯人は磯田源太夫。浅野家は取潰しとなり、その後、家老大石内蔵助を中心に元藩士四十七人が吉良邸に打ち入って、上野介の首を取り主君の仇を討った(忠臣蔵)。墓所は東京都港区泉岳寺に有る。
「三月十四日勅答、此時於御城浅野内匠頭吉良上野介ヲ一太刀、脇より早く取おさへて二の太刀ハつがせず、浅野内匠頭は田村右京(建顕)ニ御預ケ、公家衆御馳走ハ戸田能登守(忠真)ニ被仰付候
此夜又被仰付候、浅野内匠事、殿中と申、時節と申、旁不届ニ思召候ニ付、切腹被仰付候、かいしゃく御歩行目付、検使ハ大目付両人、内匠弟大学(長広)閉門、屋敷ハ十五日ニ明渡し候へ、戸沢上野ニ御預ケ被成候、「能登守(正誠)事、此屋敷酒井靱負ニ被下候」、戸沢能登守 赤穂城請取 脇坂淡路守(安照)・木下肥後守(白定)、在番ハ直ニ脇坂淡路守、上使ハ三宅備前守、御目付ハ荒木十左衛門・日下部三十郎ニ被仰付候」(『御当代記』)
[逸話](『想古録』)
浅野内匠頭、士を愛し、当時兵学を以て其名を天下に轟かしたる山鹿甚五左衛門(素行)を聘して、扶持三千石の客分とせり、或るとき山鹿に向ひ、卿仕官せば一万石以下にては為すべからず、余も万石与へたれども、何分五万石の身上なれば致しかた無し、若し天下に一万石以上に召抱ふる人あらば、何時にても去て其人に仕ふべし、と云はれしが、後公儀より疑ひ掛りて、山鹿は預けと為りて終れり(服部空斎)

《瓢水コラム》
[幕府隠密が記した浅野内匠頭の人柄]
 元禄3年(1690)における大名243名について、その家系・略歴・居城・人柄を略記した『土芥寇讎記』という記録がある。編者不明ながら、幕府の隠密が集めた情報をまとめたものと推測されている。その中から、浅野内匠頭長矩の人柄を紹介してみよう。
 「(前略)長矩、智有テ利発也。家民ノ仕置モヨロシキ故ニ、士モ百姓モ豊也。女色好?、切(せつ)也。故ニ奸曲ノ諂(へつら)イ者、主君ノ好ム所ニ随テ、色能キ婦人ヲ捜シ求テ出ス輩、出頭立身ス。況ヤ、女縁ノ輩、時ヲ得テ禄ヲ貪リ、金銀ニ飽ク者多シ。昼夜閨門ニ有テ戯レ、政道ハ幼少ノ時ヨリ成長ノ今ニ至テ、家老之心ニ任ス(中略)家老ノ仕置モ無心許、若年ノ主君、色ニ耽ルヲ不諌程ノ、不忠ノ臣ノ政道無覚束」(金井圓校注『土芥寇讎記』人物往来社、360頁)。
 幕府の隠密が情報収集した当時、浅野内匠頭23歳。内匠頭は美人を好み女色に溺れ、閨閥に連なる人間が裕福に暮し、家老の大石内蔵介(ママ)と藤井又左衛門は主君を諌めない。「本知五万三千石。新地開運上課役掛物等、外ニ二万八千石余有リ」と裕福な藩であったから、のんびりしていたのか。内匠頭はこの調査から11年後、江戸城松之廊下で刃傷事件を起こし切腹させられた。(2004年9月28日瓢水記)

浅野 長政(あさの ながまさ) (1544〜1611) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

幼名長吉。のち源兵衛。尾張の安井重継の長子として生れ、織田信秀の弓衆浅野長勝の養子となり、浅野家を継ぐ。父は安井五兵衛重継。母(浅野長詮の娘)の弟・浅野長勝の養子となりはじめ織田信長に仕え、信長の浅井長政攻めに初陣。その後、羽柴(豊臣)秀吉に従って戦功を挙げる。秀吉とは相聟の関係で親しく、重用されて若狭小浜城主となる。
賤ヶ岳の戦いの功で近江二万石、文禄の役には軍監として渡鮮。役の功で甲斐二十二万石を領する。秀吉没後は隠居するが、関ヶ原の戦いで徳川家康軍に属し、戦後に常陸・真壁五万石を与えられた。豊臣五奉行の一人。法名、伝正院功山道忠、墓所は高野山悉地院(和歌山県伊都郡高野山)にある。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考) 

浅野 幸長(あさの よしなが) (1576〜1613) 吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記 

幼名長満。長慶・左京大夫・従四位下・諡号:清光院。浅野長政の長男・母は浅野長勝の女(長生院)。幼少の頃から豊臣秀吉に仕える。秀吉はもとより徳川家康からも武功を賞され、浅野家安泰の基礎を築いた。
父長政が戦いよりも豊臣政権の奉行として活躍したのに対して幸長は合戦を得意とした。文禄四年(1595)関白・豊臣秀次の失脚事件の時、妻の姉が秀次の側室であったために連座の罪に問われることになり能登に流される。しかし、許されたあとの慶長二年(1597)には朝鮮派兵(慶長の役)で渡航し明将李如梅と戦う。秀吉没後は加藤清正、細川忠興、黒田長政らと共に「七人衆」と呼ばれ石田三成と対立する。関ヶ原の合戦では東軍で活躍し勝利すると、大坂城に入り西軍勢の戦後処理にあたった。慶長五年(1600)十月、紀伊和歌山三十七万石を領す。従四位下紀伊守に叙任。
「五年以前ノ酉年(慶長十四年:1609)、葛城ト云フ遊女買取リ、当春(慶長十八年)又、無右衛門尉ト云フ傾城ヲ買取リテ召置キ、慰マレケルガ、果シテ早世、遺跡男ナシ」(『当代記』八)
「浅野紀伊守三十八歳にて死去。唐瘡以ての外に相煩ひ、養生の為、紀州へ下り、終に相果て申し候。葛城と云ふかぶき大夫、無右衛門と云ふかぶき大夫かひ置き、これにふけり、虚して煩ひ重り此如し」(『慶長年録』五)
とあり、京の遊女を次々に身請けするなど女色に耽り、終には唐瘡(梅毒)に罹って嗣子無く早世したとされている。(『好色一代男全注釈』解説)

朝山 将監(あさやま しょうげん) 死ぬことと見つけたり

龍造寺高房の弟。

浅利 又七郎(あさり またしちろう)(?〜1853) 鬼麿斬人剣 

義信。一刀流小野派剣術師範。
幕末の江戸の剣道場主で、千葉周作、山岡鉄舟等の師。

足利 尊氏(あしかが たかうじ) (1305〜1358) 花と火の帝 

足利貞氏の嫡男(次男)。母は上杉清子、妻は六波羅探題久時の女登子。
室町幕府を開き初代将軍となる。はじめ高氏といい、鎌倉幕府の有力御家人だったが、後醍醐天皇が討幕の兵をあげると、中途で天皇方につき、元弘三/正慶二(1333)年に六波羅探題を滅ぼして鎌倉幕府を倒した。建武の新政では軍功第一とされ、天皇の名「尊治」の一字をあたえられて尊氏とあらためる。その後、武家政治の再興を企てて、延元元/建武三(1336)年に後醍醐天皇を吉野に追い(南朝)、べつに光明天皇を皇位につける(北朝)。延元三/暦応元(1338)年、征夷大将軍に任じられて京都に幕府を開いた。
当初、弟・直義との間にも抗争が有り、政権は二分、三分されていた。南朝と和睦し直義を討伐するが京都に戻れず鎌倉に就く、その間に京都は南朝に占領された。やがて子の足利義詮が京都を攻め奪還するが、旧直義軍とともに直冬が南朝と結んで再び京都が占領されると、尊氏はようやく鎌倉を発ち、義詮とともに京都を回復した。
足利氏は清和源氏、源義家の子義国が下野国足利荘を譲られるに始まり、鎌倉幕府、北条氏に仕える。尊氏は(義国から)九代目。八代目貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。(『伽婢子』2人名索引)
[名言名句]
「君と臣と将と士卒と一躰分身なり。喩えば、士卒は手足、君は心なり。四肢病めば躰苦しみ、躰疼む時は心苦しむ」
「他人の悪を能く見る者は、己が悪これを見ず」
これらは『等持院御遺書』の中にある一節。(『名言名句活用事典』)
「足利幕府の系譜」参照。

足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる) (〜1491) 時代小説の愉しみ

掘越公方。権威に驕って悪逆非道な振る舞いが多く、興国寺城にあった北条早雲によって滅ぼされる。
室町幕府の東国支配の象徴として伊豆韮山にあった茶々丸だったが、傲慢で酒癖が悪く、酔えばわけもなく家臣を斬り、民百姓を殺したという。
こうした公方の非道な行いに苦しんでいた庶民は、近隣の興国寺城にあった北条早雲に訴え、文明八年(1476)、ついに早雲は彼等を救うために立ち、寡兵を持って韮山の館を急襲し、茶々丸を打ち取り堀越公方家を滅ぼした。
この事件は一介の牢人上がりの小領主が、足利将軍家一族で関東支配を司る公方家を襲い滅ぼした事から、そのうわさは瞬く間に全国に拡がり、下克上のきっかけを作ったとされている。

足利 晴氏(あしかが はるうじ) 時代小説の愉しみ

古河公方。

足利 義秋(あしかが よしあき) 

→ 足利 義昭(あしかが よしあき)

足利 義明(あしかが よしあき) (〜1538)

小弓公方。古河公方足利政氏の次男。
出家して空然と号し、鎌倉雪ノ下の八正寺にいたが、還俗して義明と名乗り、改めて古河にもどった。しかし、父政氏と不和になり、家を捨てて諸国を漂泊。
同じ頃、上総の山地を支配していた真里谷恕鑑が、下総南部から西上総にかけて千葉介の権威を嵩に威を奮っていた小弓城の原胤隆により圧迫され苦境に立たされていた。そんな折、義明は真里谷恕鑑の館を訪れると歓待され、主君に迎えられた。真里谷恕鑑は、原胤隆に対抗するため古河御所の権威を利用しようと企図し、義明もそれに乗った結果だった。これが功を奏し、窮地を脱した真里谷恕鑑は、永正十四年(1517)十月、小弓城の
原胤隆を攻め落城させる。義明が原胤隆に替わって小弓城に入り「小弓御所」とした。
これにより、世人は足利義明を「小弓公方」と尊称した。

足利 義昭(あしかが よしあき) (1537〜1597) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、風の呪殺陣、柳生非情剣、柳生刺客状、時代小説の愉しみ 

十五代将軍。天文六年(1537)、十二代将軍足利義晴の次男として生れる。母は関白近衛尚通の女。天文十一年(1542)、関白近衛稙家の猶子となり興福寺一乗院へ入り、覚慶と名乗った。
義昭が一乗院に入ったのは、その頃の幕府の財政が逼迫していて、将軍義晴自身も越前の朝倉義景からの贈与などで一時をしのぐありさまだった。そこで、義昭を十分に養育できないという事情があり、広大な寺社領を有し裕福な興福寺の門跡寺院一乗院門跡覚誉の弟子として入室。一乗院は大和国全面積の60%以上の門跡領を持ち、関所・市場・座などや京都大覚寺などの末寺を持つ財政的にかなり裕福な寺院だった。やがて、門跡覚誉が永禄五年(1562)に寂すると、覚慶(義昭)が門跡となる。
しかし、永禄八年(1565)には兄・十三代将軍足利義輝が松永久秀らに弑逆された時、松永久秀に幽閉される。そして、久秀らが阿波の三好氏に寄る足利義親(十四代将軍義栄)を擁立させようと動き出し、これに対して幕府の近臣たちの間から覚慶を還俗させて将軍に据えようとする動きが起こり、越前朝倉義景が表に立って、三好・松永らと対抗、その間に覚慶は監視されていた一乗院から脱出。近江国甲賀郡和田に逃れ、次いで近江国矢島に移り、六角氏の部下矢島氏の一族矢島同名衆に警固されてあった。翌永禄九年(1566)二月、還俗して義秋と改名。朝倉義景を頼り越前金ヶ崎へ移動、後義景に招かれ越前一乗谷に寄る。この間、義秋は従五位下左馬頭に任ぜられ、征夷大将軍に任ぜられるための前提が整った。京は三好三人衆が政権を握っていたが、この三好三人衆と松永久秀が反目し対立。永禄十年(1567)、久秀が東大寺に寄っていた三人衆を夜襲し、三人衆は大敗し本拠地阿波に逃げ延び、名を義栄と改めた義親が将軍宣下を朝廷に具申し、一旦は拒否されるも、翌十一年、義栄に将軍宣下がなされた。
一方、義秋は永禄十一年(1568)に名を義昭と改め、同年九月織田信長に擁され入洛。十四代義栄は織田信長に捕らえられる直前に病死した。同年十月十八日、義昭は十五代征夷大将軍に就任。やがて信長の傀儡に反発し反信長勢力を先導し、近江浅井、越前朝倉、甲斐武田、本願寺顕如らと信長包囲網を形成したが信玄の急死によりこれに失敗し織田信長に下る。天正元年(1573)再び信長に反旗を翻し近江の今堅田、石山の砦に挙兵するが信長に敗れ京都へ戻る。同年七月十八日、信長に京都を追われ、河内に退却し、ここに室町幕府の滅亡となった。
時代の流れは完全に新しい潮流となっていたが、義昭自身はこの後も足利幕府再興の望みを捨てずにいた。河内から堺、そして紀州由良へと流浪の生活を送るが、その間に越後の上杉謙信に武田勝頼・北条氏政そして加賀一向一揆と講和し、上洛せよと命じ、翌天正二年(1574)正月には近江の六角承禎にも紀州に移ったことを告げ、協力するよう命じた。さらに三月には、熊野本宮神主に対しても、京都に帰ることに力をかしてくれと依頼、三月には再び上杉謙信に武田勝頼・北条氏政と講和し、上洛するよう促している。四月には薩摩の島津義久にも帰洛に協力するよう要請するなど、反信長勢力に積極的に働きかけていた。本願寺へも信長に抵抗するよう働きかけ、天正二年、信長によって滅ぼされた朝倉氏の越前では本願寺顕如によって加賀・越前の門徒衆が集合され一向一揆勢が越前国を支配するなど、一時は義昭に有利に動いたが、顕如は越前国を本願寺の直轄領としようと下間頼照を守護に据え、七里頼国に府中一帯を治めさせるが、この顕如の思惑と一揆勢の思惑がぶつかり、越前国は内紛状態となる。敦賀に秀吉を置き警戒を怠らなかった信長はこの好機を見逃さなかった。この隙に乗じて越前を攻めた信長軍は一気に加賀まで侵入する。こうして反信長の最大勢力でもあった本願寺も、次第に手足をもぎ取られ、翌三年四月には、信長は本願寺を攻めるべく長岡藤孝に出動準備を命じている。さらにこの月、武田勝頼が三河に進出し、長篠で織田・徳川連合軍に完敗する。こうして、義昭の頼みとする勢力も次第に信長に滅ぼされるか、軍門に下り、残すは中国の毛利輝元だけとなる。そして義昭は天正四年(1576)、紀州由良の興国寺から備後の鞆に移った。そこで義昭は輝元を副将軍に任ずるなどして信長と戦うことを求めるが、隣接する信長派の勢力に対しては戦った輝元だったが、元就の遺訓に従って天下を取ろうという意志のない輝元は信長と全面対決するつもりはなかった。
結局、義昭は毛利氏に養われて、天正十五年(1587)、秀吉の許しを得て、安国寺恵瓊の世話で京都に帰るまで、鞆に寓居することとなる。京都に帰った義昭は、翌十六年に出家し、昌山と号し、法名を道休と名乗り、山城槙島に私宅を構え、源氏嫡流という毛並みの良さだけを頼りに生き延びて行く。そして慶長二年八月二十八日、腫物を病み、数日病臥して卒した。行年六十一歳。遺体は火葬にふされ、足利将軍累代の菩提寺京都等持院に埋葬された。

足利 義輝(あしかが よしてる) (1536〜1565) 影武者徳川家康、花と火の帝、風の呪殺陣 

十三代将軍。幼名・菊幢丸。父は十二代将軍義晴、母は関白近衛尚通の女。天文十五(1546)年元服し十三代征夷大将軍に就任。義藤と改名する。
天文二十二(1553)年、三好長慶に敗れ近江へ逃亡。義輝と改名。永禄元(1558)年、三好長慶と和解し帰京、将軍権力の回復をはかった。これに危機を感じた松永久秀・三好三人衆らが将軍の権力を名目だけのものにするため、傀儡将軍として足利義栄を擁立。永禄八(1565)年五月十九日、三好三人衆・松永久秀らに二条御所にて殺害される。享年30。

足利 義晴(あしかが よしはる) (1511〜1550) 花と火の帝 

十二代将軍。父は十一代将軍足利義澄。幼名亀王丸。
大永元(1521)年、管領細川高国に擁立され上洛。元服し義晴と改名。この年、十二代征夷大将軍に就任。しかし、義晴を擁する細川高国と弟義維を擁する細川晴元、三好元長らと対立。享禄元(1528)年、弟義維との和平に失敗し近江へ逃亡する。天文三(1534)年、ふたたび入京。天文十(1541)年、今度は木沢長政らに攻められ近江へ逃亡した。しかし、翌十一(1542)年に木沢長政が死去したことで入京を果す。天文十五(1546)年、子の足利義輝に征夷大将軍を譲る。

足利 義政(あしかが よしまさ) (1435〜1490) 花と火の帝 

八代将軍。幼名三寅、のち三春。六代義教の弟。
文安三年(1446)、後花園天皇より「義成」の名を贈られる。兄義教の子義勝(七代)が早世したため、その後を嗣ぎ宝徳元年(1449)、元服し8歳で将軍に就任するが、側近や母重子の干渉が強く政治への意欲を失っていった。享徳二年(1453)、名を義政と改める。花見・酒宴・歌会などの趣味に興じるため隠居の生活を願い文明五年(1473)、子の足利義尚に征夷大将軍を譲り隠退。東山山荘に入り、東山殿と称して室町時代の東山文化を開花させた。
銀閣や東求堂を建て、風流三昧の生活を送る。庭師の善阿弥を登用し、能阿弥・芸阿弥父子を同朋として近侍させ、将軍家伝来の宝物のほか、多くの唐物道具を蒐集し、その中で上々の品を撰んで東山御物を制定。また、茶湯を好み、能阿弥の茶式改案を支援し、さらに村田珠光について奈良流の茶道を学び、その他、立花・聞香にも関心が深かった。延徳二年正月七日没。法号慈照院。

《瓢水コラム》
[武蔵坊弁慶の借用書が20通?!]
 戦国時代真っ只中の天文21年(1552)に成立したとされる『塵塚物語』より、来年の大河ドラマ『義経』関連の話題をひとつ。足利義政(慈照院殿)の時代に書画・骨董を持ち寄ったところ、武蔵坊弁慶の借用書が20通ばかり出て来たというのである。
 「昔慈照院殿御在世に、さまざまの道具古き筆簡など、もろこしわが朝の名人をつくして高覧あり(中略)其中にむさし坊辨慶が筆跡とて、文二十通計あなたこなたよりあつまれり。其こと葉は皆かり状なり。あるひはやせたる馬一疋御かし候へ、あるひは沙金すこし預けたまへ、或はきぬ一たん糧米一俵かし給へと、あらぬ事までかりとゝのへたる文どもなり。是第一の見物なりとて、上下喜悦してわらひあひ給へりとぞ。将軍仰せけるは、纔(わずか)に取残したる今の文どもさへかくの如くのかり状なり。在世にはいくらの物をかかりつらんいとをかし。此文をみて無欲のものといふ事あきらか也。一日のたくわへあれば、明日は又人の芳志によりて日をくらしつるとみえたり」(『雑史集』国民文庫刊行会、338頁)。
 足利義政は応仁の乱を拱手傍観していた無能な将軍とされているが、人間に対する洞察力は優れていたようだ。借用書から「弁慶は無欲な人物だった」と喝破したのは流石と言えるだろう。物財に縛られることのない自由な精神を読み取り、膝を打って喜んだのかもしれない。捉えどころのない義政の精神世界を理解する取っ掛かりになるだろうか。(2004年10月18日瓢水記)

足利 義満(あしかが よしみつ) (1358〜1408) 影武者徳川家康、花と火の帝 

三代将軍。在職応安元/正平二十三年(1368)〜応永元年(1394)。二代足利義詮の長男、母は石清水八幡宮社務善法寺通清の娘紀良子。幼名は春王。
貞治六・正平二十二年(1367)父の死後家督をつぎ、翌年元服、次いで将軍(三代)に就任。永和四・天授四年(1378)より室町に新第を営む。康暦元・天授五年(1379)細川頼之に代えて斯波義将を管領とし、また春屋妙葩を僧録に任じて禅徒を統制した。翌年従一位に昇り、永徳元・弘和元年(1381)内大臣、永徳二・弘和二年(1382)左大臣、後円融院の院別当、翌年源氏の長者となり、淳和・奨学両院の別当を兼ね、次いで准三宮宣下をうけた。嘉慶二・元中五年(1388)駿河・厳島に遊覧、明徳二・元中八年(1391)細川頼元を管領とし、山名氏清を滅ぼし(明徳の乱)、翌年南北両朝の合体を斡旋した。応永元年(1394)、将軍職を長男足利義持に譲り太政大臣に任ぜられたが翌年辞して出家、法名は道有、次いで道義。道号は天山。同四年(1397)北山第を造営し、いわゆる北山文化を開花させる。同六年(1399)大内義弘を討ち(応永の乱)西国支配を強め、元冦以来絶えていた中国との国交を再開、対明勘合貿易を行なった。同十五年(1408)、次子足利義嗣を親王の儀に准じて元服させた直後、病にかかり死去。
義満は明との間で勘合貿易を積極的に行ったり、室町に花の御所を造営し金閣を建てたことで知られるが、大和猿楽観世座の世阿弥元清を支援し、能の大成に貢献したり、小笠原長秀らに命じて武家の礼法を完成させるなどを行う。さらに、栂尾の本茶に対し非茶に属した宇治の茶の発展を促し、宇治七園を指定して茶種の改良につとめた。そして唐物茶器の蒐集に専念したが、佐々木道誉伝来の九十九茄子を最も愛玩したとされ、それを陣中に携えたので鎧づれの跡が有ると伝えられている。また、花にも趣味の深かったことは、室町第の庭に四季の名花を植えて、花の御所と呼ばれたことも有名だが、花瓶に花木を挿す瓶花の技を奨励し、花合と称して、特に七夕の日に催させた。『迎陽記』の応永六年七月七日の条に「北山殿五十人七瓶花合」とあるのがこれである。この花合を義満が奨励したことによって、瓶花の技術が進歩し、東山時代に至って立花の法式の成立を見る。応永十五年五月六日没。法号を鹿苑院という。(『茶道辞典』)

足利 義持(あしかが よしもち) (1386〜1428) 見知らぬ海へ

四代将軍。足利義満の嫡子。母は藤原慶子。
父義満から将軍を譲位されるが実権は義満に握られていた。義満が死去した後実権を握るようになるが、義満が再開した勘合貿易(対明貿易)を廃止するなど義満の政治に対して批判的で、長老斯波義将らとともに反義満的政治を行う。

芦名 盛隆(あしな もりたか)(1550〜1584) 一夢庵風流記 

二階堂盛義の嫡男として生まれる。母は伊達晴宗の長女。
幼少の頃、葦名氏のもとに人質として預けられる。天正四年(1576)彦姫(伊達晴宗の娘)と結婚し、葦名氏を継ぐ。天正十二年(1584)、家臣の大庭三左衛門に斬殺されたといわれる。

芦名 義広(あしな よしひろ)(1572〜1631) 一夢庵風流記 

盛重、義勝。父は佐竹義重。母は伊達晴宗の娘。
盛隆の嫡男亀王丸が没した後、葦名氏重臣間に伊達正宗の弟と義広、いずれを後継ぎにするかで争うが、義広が継ぐこととなる。葦名家の当主となった義広は佐竹氏と同盟し、伊達氏と対立し戦う。 天正十七年(1589)、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達軍に敗北し、父の実家である常陸の佐竹家へ逃れた。 その後、豊臣秀吉により江戸崎(茨城)に四万五千石を与えられ、慶長七年(1602)、佐竹氏の国替えにともなって 秋田に移り、角館に一万五千石を分け与えられた。

(あす〜あほ)

飛鳥井 雅賢(あすかい まさかた) (1582〜1626) 影武者徳川家康、花と火の帝 

飛鳥井少将雅賢。
“遊蕩の罪”で慶長十三年(1608)、隠岐海士町に流された。猪熊少将烏丸光広など、当代一流の公家八名が党を組み、都の官女達を相手に遊蕩乱行。それが発覚し、関係者が処罰された事件である。隠岐に流された雅賢は私費を投じて後鳥羽院山稜を修理したり、蹴鞠や和歌を島民に教えたりしていたという。流人としての待遇も当時としては最高で、華やかな都の生活とは比べものにはならないが、わび住まいの中でも暮らすことには事欠かない配慮がなされていたという。寛水二年(1626)、44歳という若さでこの世を去っている。

飛鳥井 雅庸(あすかい まさつね) (1569〜1615) 花と火の帝

雅継。権中納言。後に大納言となる。父は雅敦。
歌人、蹴鞠の達人として知られる。

飛鳥井 雅宣(あすかい まさのぶ) (1585〜1651) 花と火の帝 

難波宗勝。中将。飛鳥井雅庸の二男として生まれ、難波家を相続する。
烏丸光広等と共に伊豆に流され慶長十七年(1612)、赦しをうけて帰る。慶長十八年(1613)、名を雅胤と改めて飛鳥井家を相続する。後に雅宣、雅胤と改め正三位権大納言に進む。慶安四年(1651)、従一位を以って没。享年66歳。

安宅 冬康(あたき ふゆやす) (?〜1564) 影武者徳川家康 

三好長慶の実弟。摂津守。通称神太郎。淡路の安宅家の養嗣となる。宗繁、一舟軒と号した。
安宅氏は熊野水軍の頭領で、熊野灘から紀伊水道、さらに淡路島へと勢力を伸ばした。安宅氏は阿波守護細川氏に従属するも、応仁・文明の乱を経て天下が乱れ、三好氏が細川氏を討ち畿内に進出すると、安宅治興は同調して淡路支配権を確立。これにより、治興は三好長慶の弟・冬康を養子に受ける。冬康は安宅水軍を継承し四国と畿内の水軍を統一、兄である長慶を補佐。畿内一帯と四国の東半分は三好氏の領土となり、中央政界は足利将軍家でも管領細川家でもない三好氏が掌握して、天下は三好氏のものになろうとした。しかし、三好氏の家宰である松永久秀が天下を我が物にしようと画策、様々な謀略をもって主家である三好氏の勢力を削いでいった。永禄七年、久秀は長慶の嫡子・義興(よしおき)を巧妙に暗殺。悲嘆に暮れる長慶に安宅冬康謀反の讒言をしてこれを攻め滅ぼさせた。
和歌と書のほかに茶を嗜み、『津田宗及茶湯日記』によれば、永禄五年六月一日、津田宗及を招いて朝会を開いている。名物松本茶碗を所持していたという。(『茶道辞典』)

跡部 九郎右衛門昌忠(あとべ くろうえもんまさただ) (1544〜1606) 影武者徳川家康 

甲斐二十五万石の奉行。武田家の侍大将跡部勝忠の子。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、徳川家四奉行にまでなる。

跡部 山城守(あとべ やましろのかみ) 銚子湊慕情

天保七年、大坂西町奉行に就任。浜松藩主水野忠邦の弟。
[逸話](『想古録』)
三州吉田侯(松平伊豆守信順)は人を見るの明ありしなり、跡部大膳(良弼)が大坂町奉行と為りて赴任しけるとき、侯は大坂城代にて在りければ、跡部は到着匆々侯の役邸に訪問しけるに、侯は跡部と初面会なりしが、一見其性質を看破せられ、足下は江戸仕込にて、物事立派に遣り切る気象と見受けらるれども、上方は江戸と事変りて、人気全く反対なれば、施政の方鍼を切換へて務められなば、必定見事なる成績を挙げらるべしと忠告せられたり、跡部は町奉行奉職中伊豆侯の注意を意とせず、其の親切を無にして万事を思ふままに取捌きければ、果して今度の乱(大塩平八郎の救民事件)を引起したり、跡部は水越閣老の実弟なれば、水越侯は一方ならぬ心配に打沈み居らるると云へり(羽倉蓬翁)

跡見 重敬(あとみ しげたか) 異説猿ケ辻の変

姉小路公知卿の家臣。跡見重威の父。

跡見 重威(あとみ しげたけ) 異説猿ケ辻の変

父子二代にわたる姉小路公知卿の家臣。

穴沢 浄見(あなざわ じょうけん) 捨て童子松平忠輝、柳生非情剣 

秀俊。盛秀。主殿助。
新当流長太刀、薙刀の名人。
[逸話] 
穴沢主殿助盛秀は薙刀の名人で豊臣秀頼の師であった、相手に竹槍を持った二人を前に立たせて仕合をしたが、必ず勝って少しも危げが無い、大阪の冬の陣に、上杉景勝の将直江山城守が兵士折下外記(おりしもげき)と渡り合い、折下は直槍、穴沢は薙刀であったが、穴沢は薙刀のそりにかけて、折下の直槍をはね、飛び入ってこれを斬った、折下は肩を切られながら槍を捨てて引組む処を折下の従者が、折重なって来て終に穴沢は討たれてしまった。(武将感状記)(中里介山著『日本武術神妙記』より)
《瓢水の『一話一言』》
[金春七郎の師匠、穴沢主殿助浄見]
 隆先生が「ぼうふらの剣」(『柳生非情剣』所収)で発見した金春七郎氏勝。その氏勝は柳生石舟斎について兵法にのめり込む内に、宝蔵院流槍術、新当流長太刀、大坪流馬術も学び、いずれも皆伝を得る腕前であったと云う(『柳生非情剣』講談社文庫、105頁)。氏勝がついた師の中から、新当流長太刀の穴沢浄見について紹介してみよう。
 「穴沢主殿助(新当流) 生没年未詳、名は秀俊、または盛秀。入道して浄見(浄賢)と号した。神当流飯崎守綱の門人で、槍、長刀の達人として知られた。穴沢の名が天下に知られるに及んで穴沢流とも呼んでいる。主殿助は宝蔵院胤栄と試合を望んだが応じてくれそうにもないので宝蔵院に奉公した。胤栄は、主殿助を常人ではないと見て問うと、主殿助は正直に答えた。胤栄は驚いて、すぐその望みを叶えてやったという。のち慶長2年(1597)8月『唯授一人』の印可相伝を棒庵入道に与えた。棒庵は慶長14年(1609)9月柳生兵庫助利厳にこれを相伝した。浄見の門人としてはのちに樫原流を開いた樫原五郎左衛門俊重が有名である。浄見は慶長5年(1600)関ヶ原の役で西軍に味方して討死したとも、豊臣秀頼に仕えて大坂の陣で討死したともいう(『本朝武芸小伝』『正伝新陰流』『武術流祖録』ほか)」(江崎俊平/志茂田誠諦『日本剣豪列伝』学研M文庫、264‐265頁)。
 新当流長太刀の印可が、浄見の孫弟子に当たる柳生兵庫助(兵介)に伝わっているのも興味深いし、浄見自身の最後が、関ヶ原合戦か大坂の陣のどちらかで戦死というのも謎めいている。どちらにしても負ける側について戦ったわけで、豊臣恩顧の武士であったのか、それとも臍曲りだったのか、こちらも是非とも知りたいところではある。(2004年10月3日瓢水記)
[穴沢浄見は大坂冬の陣で討死していた!]
 金春七郎氏勝の新当流長太刀の師・穴沢浄見の最後について、「関ヶ原合戦か大坂の陣のどちらかで戦死」と書いた(コラム番外編「史籍雑纂」参照)。しかし『徳川実紀』その他を参照したところ、大坂冬の陣で討死していたことが判明した。以下に紹介しよう。
 「秀頼槍法の師穴澤主殿助盛秀も。坂田采女と引組て首をとらる」(『徳川実紀 第一篇』吉川弘文館、733頁)。「穴澤主殿助を討たるは上杉の家臣坂井(ママ)采女なれ共直江が家来折下外記其長刀を貰ひ穴澤を討たりとて土井利勝に抱られたり」(『明良洪範』国書刊行会、62頁)。
 穴沢浄見は槍にも長けていたらしく、豊臣秀頼には“槍法”を教えていたようだ。大坂冬の陣でほとんど唯一の激戦となった“鴫野の合戦”で上杉景勝軍と戦って討死。『明良洪範』の趣旨は、武士道が堕落したことを嘆いたものである。しかし逆に考えると、浄見を討ち取ったとアピールすることで仕官が叶ったことは、浄見がひとかどの武士であったことを意味しているのではないだろうか。(2005年1月11日瓢水記)

穴山 信君(あなやま のぶきみ) (1541〜1582) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、見知らぬ海へ、かぶいて候、時代小説の愉しみ  

穴山梅雪。父は穴山信友、母は武田信玄の異母姉(南松院殿)とされる。妻は信玄の二女見性院。伊豆守となり、剃髪して梅雪斎不白と号す。
武田氏の族臣として武田信玄に仕えた信君は親族衆筆頭として侍大将を務め、諸戦に参陣する。駿河・興津の城将として仕え、姻戚の故をもって威望群臣を越えたが、勝頼の臣下に妨げられ、款を織田信長に通じ、天正十年(1582)、武田氏に叛いて家康の嚮導となりついに勝頼を滅ぼした。武田勝頼が長篠の戦いに敗れたあと、戦死した馬場信房の跡を継いで江尻城主となる。入道して梅雪と号したのち、信長に謁して甲斐国巨摩郡を領したが、同年、家康に従って京へ赴く途中本能寺の変を知り、急ぎ領国へ帰る途次、土冦に襲われ殺される。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
墓所は霊泉寺(静岡県清水市)にある。
この時、家康一行も襲われる危険に身を置いていたが、梅雪らと別行動を取ったことや服部一族の助力で難を逃れた。この家康にとっての最大の危機が「伊賀越えの御大難」といわれている。

姉小路 公知(あねがこうじ きんとも) 異説猿ケ辻の変

幕末、禁中における攘夷激派のリーダー格といわれた公卿。しかし、文久三(1863)年、勝安房や坂本龍馬等と会い自らの間違いに気付き、御所での会議の席上、開国論を理路整然と開陳した。その会議の帰路、何者かに襲われ命を落す。
《瓢水コラム》
[『官武通紀』にみる姉小路公知暗殺事件]
 隆先生唯一の幕末小説「異説 猿ヶ辻の変」(『かぶいて候』所収)は、姉小路公知暗殺事件の新解釈を展開したものである。仙台藩士玉蟲左太夫がまとめた『官武通紀』には、この事件の詳細な聞き取りも記されている。「姉小路卿逢殺害候始末」と題する一節から、公知の負傷状況を記した「第九、疵所調書寫、附御家來高名等調」を引用してみよう。
 「姉小路少将殿、去廿日之夜亥刻、御退去がけ不慮之儀有之、早速歸宅之後、醫者大町周防守、杉山出雲守、安藤_軒、近藤一綱、吉田中亭、海野貞治等診察之處、三ヶ處之手疵、面部鼻下一ヶ所、長さ二寸五分許、頭蓋骨些缺損し、斜に深さ四寸、胸部左鎖骨部一ヶ所、長さ六寸許、深さ三寸許、脈微細に付、衆醫示談之上、甘硝、石_、◆(石偏に鹵)砂、揮發_等相用ひ、連日半身浴、縫合術相行、針數二十八、尚又周防守家法養榮湯等相用候得共、何分深手急所之儀、養生不相叶候事、御家督龜丸様定式御假服之事、姉小路殿御家來高名 吉村右京十九歳、逝去 金輪勇」(『幕末確定史料大成 桜田騒動記 官武通紀』日本シェル出版、503頁)。
 傷口は3ヶ所。鼻の下を約8cm。頭蓋骨が欠ける程の斬撃を受け、傷口は斜めに深さ(?)約12cm。左の肩先から約18cm斬られ、傷口は深さ約9cm。即死しなかったのが不思議なくらいの重傷ではないか。ついでながら、この事件を上記の史料に基づいて描写したと思われるのは、武田鉄矢原作/小山ゆう作画『お〜い!竜馬 第10巻』(小学館、152‐157頁)である。太刀を抱えて逃げる金輪勇を追い掛けて「どあほ??っ!!」、刺客の太刀を掴んで「おんどりゃー!!」と叫ぶ公知。鼻の下をザックリ斬られる迫真の描写に、思わず痛みを覚えることだろう。(2004年10月21日瓢水記)

阿仏尼(あぶつに) (1225頃〜1283)

父母不明。藤原為家の側室。藤原為相の母。四条局。安嘉門院越前、安嘉門院右門右衛門佐。安嘉門院四条。嵯峨禅尼。北林禅尼。
貞応・嘉禄年間(1223~1227)ごろの生れとされ、幼くして平度繁(たいらののりしげ)に養われ、安嘉門院に仕えた。
「路次記」(旅日記)として伝わる『十六夜日記』の作者として有名。また、『夜の鶴』(『阿仏口伝』『四条局阿仏房抄』ともいう)を、子の為相に送っている。これは、夫為家から聞いた歌論をまとめたもの。自身も詠歌修練のために詠んだ『安嘉門院四条百首』をまとめている。阿仏尼は幾人かの男性と恋愛遍歴を重ね、為相を生む前には、某阿闍梨と定覚律師の二人の男子と、某女院の女房となる女子を生んでいる。若い頃、失恋し西山の庵室や愛宕の小家に漂浪、養父平度繁にともなわれて遠江の浜松に下り、乳母の病気で帰洛した時の記憶をもとに書いた紀行文が『うたたねの記』である。
夫為家が康元元年(1256)二月、五十九歳の時に病を得て出家し小倉山荘(嵯峨の中院)で療養した時には、献身的に身辺の世話を行ない、「女あるじ」と呼ばれ尊敬された。飛鳥井雅有の『嵯峨のかよひ』に「源氏はじめんとて、講師にとて、女あるじを呼ばる。簾の内にてよまる。まことにおもしろし。世の常の人のよむには似ず。習ひあべかめり。若葉までよまる」とある。夫に続いて出家し阿仏尼と称し、嵯峨の持明院に移り住んでいたことから嵯峨禅尼、北林禅尼とも呼ばれた。

油川 信恵(あぶらかわ のぶえ) 時代小説の愉しみ

武田信虎の叔父。
十四歳で甲斐守護職武田家の家督を継いだ信虎により、その翌年、攻め滅ぼされる。

阿閉 政家(あべ まさいえ) 花と火の帝 

淡路守。浅井長政の重臣。
一時藤堂高虎を召し抱えていた。

(あま〜あん)

尼子(塩谷)興久(あまこ おきひさ)

経久の三男。
別家塩谷家を起す。

尼子 清貞(あまこ きよさだ)

出雲国守護代。父は尼子持久。出雲尼子氏二代当主。冨田城主。
清貞は、出雲国に多く存在する寺社勢力、中でも古代からこの地方に力を持つ杵築社(出雲大社)の総領家国造家への対応や、有力国人の馬来上野介の女を妻にするなど国人領主対策に力をそそぎ、尼子氏の勢力拡大に努め、子の経久の代に飛躍的に発展する基礎を固めた。

尼子 国久(あまこ くにひさ)

経久の二男。新宮党当主。
尼子家最強の軍団新宮党を組織し、尼子氏発展の別動隊として本家を盛り立てるために、各地の戦で活躍する。冨田城の北東新宮谷に居を構えていた事から国久の一統は「新宮党」と称され、これらの居館は城の北側を防備する形に配備されていた。しかし、天文二十三年(1554)、尼子家当主晴久により軍評議と称して冨田城に呼び出され、その帰り道、晴久が差し向けた討手に嫡子誠久とともに殺された。

尼子(京極)高久(あまこ たかひさ)

尼子氏の祖。父は京極高秀。
佐々木(京極)高氏(道誉)の孫高久は、近江国犬上郡甲良荘尼子郷に住み、尼子を姓とする。子に詮久、持久がいる。

尼子 経久(あまこ つねひさ) 

出雲国守護代。冨田城主。出雲尼子氏三代当主。尼子清貞の嫡男。
文明九、十年(1477、8)頃、父の後を受けて守護代となり、出雲国守護京極政経と対決の姿勢を強めた。そのため室町幕府は政経の要請を受けて、文明十六年、段銭をはじめ公役を勤めなかったという理由で、経久追討の命令を出し、一時、経久は冨田城を追われた。しかし、文明十八年ころには冨田城に復帰、以後、国内統治の態勢を整え、長享二年(1488)、仁多郡の名門三沢氏を降すと、次いで飯石郡の三刀屋氏・赤穴氏など多くの国人を掌中に修め、出雲国内を掌握する。こうした中、三保関や奥出雲の鉄を手に入れたことで、尼子氏は経済的にも力を得て、国外への進出を行う。
永正十五年(1518)、大内氏の拠点備後赤屋において毛利幸松丸(後見毛利元就)と怠戦すると、その勢いで安芸へ進出。大永元年(1521)には、安芸西条鏡山城を廻る大内氏との攻防戦が展開され、尼子勢が鏡山城を押さえるが、大永三年に大内氏の重臣陶興房によって奪還される。しかし、経久は安芸郡山城にいる毛利氏に鏡山城への出陣を命じ、幸松丸に代って当主となった元就は、吉川国経ら四千の軍勢を引き連れて出陣。元就の調略などもあって鏡山城は再び尼子氏のものとなった。こうして経久は、毛利氏を傘下に収めたことで安芸への進出を果たした。これは経久の妻が吉川経基の女であったことなど吉川氏を通じた安芸国人対策が功を奏していた為でもあった。
経久は吉川経基の女を正室とし、その間に嫡子政久、二男国久、三男興久をもうけた。さらに自分の女を出雲大社国造家の北島家、千家家に嫁がせ、国造家との関係を強化した。中でも北島家に嫁いだ娘「いとう」は、夫北島雅孝から国造職に付帯する諸権益を譲り受け、国造家に対する尼子家の立場を大いに強めた。

尼子 晴久(あまこ はるひさ)

冨田城主。出雲尼子氏四代当主。尼子政久の二男。詮久。室は尼子国久女。
父政久が早世したため、経久の後を受けて天文六年(1537)、第四代当主となる。始め詮久と名乗っていたが、将軍足利義晴の編諱を受け晴久に改名した。
祖父経久が晴久に家督を継がせた時に「新宮の国久を後見とすべし…。行く末までも新宮の党を軍事に備へ、一家和合して親しみ篤くんば、国々の幕下背くことあるまじ…。家の亡ぶべきは、一族の和不和にあり、よくよくこの旨を存じ、親類をいたわり、尊敬して、わがままの驕奢を慎むべし」(『雲陽軍実記』)と語ったとされるが、その遺命に叛き、天文二十三年(1554)、晴久は新宮党の国久およびその嫡子誠久を殺し、新宮党を滅亡させる。晴久が何故このような暴挙に出たかは詳らかでないが、(一)毛利元就の謀略(二)新宮党の内訌(三)新宮党の横暴(四)晴久の権力拡大の犠牲などの説が考えられている。

尼子 政久(あまこ まさひさ)

経久の嫡子。
妻は山名兵庫頭女(あるいは山内兵庫介女)とされるが詳細不明。二男一女(千代童子、晴久)をもうけるが、永正十年(1513)、出雲阿用城攻撃の際、不慮の死を遂げる。二十六歳。

尼子 持久(あまこ もちひさ)

出雲国守護代。父は尼子(京極)高久。
伯父で出雲国守護京極高詮の守護代として出雲に下向、出雲尼子氏の初代となる。

尼子 義久(あまこよしひさ)

冨田城主。出雲尼子氏五代当主。尼子晴久の二男。
出雲尼子氏最後の当主となる。新宮党の滅亡から僅か十二年後、大内氏に代って長門・安芸の盟主となった毛利氏によって冨田城は陥落し、尼子氏は中国地方の盟主の座から姿を消した。

天日槍(あめのひほこ)

『日本書紀』に表れる新羅からの帰化人。垂仁天皇の三年(BC27)、新羅国の王の子として渡来し、但馬国に定住したとされる。

「(垂仁)三年春三月、新羅王子天日槍来帰焉。将来物、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿々赤石玉一箇、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具、并七物。則蔵2于但馬国1、常為2神物1也。一云、初天日槍、乗レ艇泊2于播磨国1、在2於宍粟邑1。時天皇遣下三輪君祖大友主、與2倭直祖長尾市1於播磨上、而問2天日槍1曰、汝也誰人、且何国人也。天日槍対曰、僕新羅国主之子也。然聞3日本国有2聖皇1、則以2己国1授2弟知古1而化帰之。仍貢献物、葉細珠、足高珠、鵜鹿々赤石珠、出石刀子、出石槍、日鏡、熊神籬、膽狭浅大刀、并八物。仍詔2天日槍1曰、播磨国宍粟邑、淡路島出浅邑、是二邑、汝任意居之。時天日槍啓之曰、臣将住処、若垂2天恩1、聴2臣情願地1者、臣親歴2視諸国1、則合2于臣心1欲レ被レ給。乃聴之。於是天日槍自2菟道河1沂之、北入2近江国吾名邑1而暫住。復更自2近江1経2若狭国1、西到2但馬国1則定2住処1也。是以近江国鏡村谷陶人、則天日槍之従人也。故天日槍娶2但馬国出嶋人、太耳女麻多烏1、生2但馬諸助1也。諸助生2但馬日楢杵1。々々々生2清彦1。々々生2田道間守1之。」

(三年の春三月に、新羅の王の子天日槍が来朝した。持ってきた物は、羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の桙一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろき)一具、あわせて七つの物であった。それを但馬の国に納めて、ながく神の物とした。一説によると、以前に天日槍が、艇に乗って播磨国に碇泊し、宍粟邑(しさわのむら:播磨国宍粟郡)にいた。そのとき、天皇は、三輪君の祖である大友主と、倭直の祖である長尾市を播磨に遣わして、天日槍にお尋ねになって、「おまえは誰か、またどこの国の人か」と仰せられた。天日槍は答えて、「僕は新羅国の主の子です。しかるに日本国に聖皇がおられるとうけたまわり、そこで自分の国を弟の知古に授けてやってまいりました」と申し上げた。こうして貢献した物には、葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日鏡・熊の神籬・胆狭浅の大刀、あわせて八つがあった。そこで天日槍に詔して「播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)と、この二つの邑におまえの意のままに居住してよい」と仰せられた。そのとき、天日槍は慎んで、「私が住もうとするところは、もし天皇のお恵みを賜わって、私がお願いする地をお許しいただければ、わたしがみずから諸国を巡り見て、私が心にかなったところを賜わりたく存じます」と申し上げた。天皇は即座にお許しになった。そこで、天日槍は菟道河(うじがわ)からさかのぼって、北の方の近江国吾名邑(あなのむら:滋賀県坂田郡近江町箕浦付近)に入って、しばらく住んでいた。さらに近江より若狭国を経て、西の方の但馬国に至り、住居をさだめた。近江国の鏡村の谷(はさま)の陶人(すえびと)は、天日槍に従っていた者であった。ところで、天日槍は但馬国の出嶋(いずし)の人太耳(ふとみみ)の女麻多烏(またお)を娶って、但馬諸助(たちまもろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生み、清彦は田道間守を生んだという)(『日本書紀』巻第六)

荒木 又右衛門(あらき またえもん) (1599〜1638〜1663) かくれさと苦界行、対談日本史逆転再逆転 

保和(やすかず)。伊賀服部一族の服部平左衛門の次男。
一族の服部平兵衛の養子となるが、後に養家を去り、伊賀に引っ込み姓を菊山に、次いで荒木と改めた。一般に柳生十兵衛の弟子と云われるが、又右衛門の方が八才年上で、剣は宗矩に学んだ。後、大和郡山十二万石松平下総守忠明に仕える。やがて妻の弟渡辺源太夫が痴情のもつれから男色の意地だけで懸想した河合又五郎に斬られるという事件が起る。その弟の仇を兄数馬が討つことになり、義兄である又右衛門が郡山藩を辞し孤立無援の数馬の助っ人として仇討に加わった。これが有名な『鎰屋の辻の決闘』といわれる。
鎰屋の辻の決闘後、又右衛門と数馬は藤堂家に預けられていたが、やがて二人は数馬の旧主鳥取藩池田侯の元に身を寄せることとなる。その地で又右衛門は生き仏と言われていた僧を殺害。実はその僧形の男は、柳生家の仇敵服部京之助だったのだが、その事件で自ら死を選び40歳の若さで没したとされる。しかし、又右衛門はこつ然と姿をくらましただけだった。こうして死人となった又右衛門は柳生の山でひっそりと暮し、柳生の里の人々から「お館さま」と恐れられていた。子に嫡男三十郎、娘まんがいる。(『かくれさと苦界行』)
三田村鳶魚氏紹介の伝説:又右衛門は幼名岩之助といい、あるとき友人二人と山へ出かけた。道に迷い、山賊を見つけた。友達が山賊に小便を掛けたところ、山賊は度胸があるといって彼らを家まで送ってくれることになった。ところが友達は次第に恐くなって声が震えてしまう。山賊はそれをみて笑い、終始冷静だった岩之助を誉めた。(三田村鳶魚『泥棒づくし』河出文庫)《ぱ》
張扇から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門源義村(琢磨兵林による、秀国、本当は保和、諱だけでも一寸これ位ちがっているが)三池伝太光世の一刀をもって「バタバタ」と旗本の附人共三十六人を斬って落すが、記録で行くとこの附人なる者がただの二人になってしまう。その上困った事にはこの天下無双の荒木又右衛門が背後から小者に棒で腰の所を撲られている。琢磨兵林(これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているが時々誤りのある実録物だ)だと、これがもう一つひどくなって頭を二度槍で撲られている。とにかく柳生十兵衛取立の門人一万二千人(但し講釈師の調査)の中から、只一人の極意皆伝という又右衛門が小者輩に腰だの頭だのを撲られては恩師十兵衛に対して甚だ申訳の無いことであるし、第一三十人も御負けをつけて贔屓にしてくれた講釈師に対しても全く済まぬ訳であるが、どうも事実だから曲げる事もできない。尤も芥川竜之介に云わせると、
「そりゃ君、又右衛門が棒だと知っていたから撲らしておいたのだよ」
と説明するがこれは、氏の機智意外に面白い解釈である。棒位なら時として撲らしておいてもいいというのは武術の心得の一つである。(直木三十五『鍵屋の辻』)
七歳の時奈良宝蔵院胤栄について修行を積み、十四歳で鎗の達人となった。のち柳生十兵衛の門に入り柳生流指南の免許を受け、寛永七年(1630)、姫路城主池田忠雄の武術指南として三百石で仕え、岡山藩士渡辺数馬の姉を娶ったとされる。
寛永十五年(1638)八月、『鍵屋の辻』での仇討後、池田家は荒木、渡辺両人を鳥取に迎えて厚く遇したが、到着後間も無い同月二十八日、又右衛門は四十歳で急逝、同地の玄忠寺に葬られた。一説に、生れは慶長六年(1601)とある書も有るが、没年から逆算すると慶長四年(1599)が妥当と思われる。
《瓢水の「一話一言」》
[シバレン版“生きていた荒木又右衛門”]
 『眠狂四郎無頼控』で有名な“シバレン”こと柴田錬三郎氏の作品に、『嗚呼 江戸城』(文春文庫。全3巻)がある。その中の「死者復活」の章で、“生きていた荒木又右衛門”が登場している。『かくれさと苦界行』との関連でその概要を紹介してみよう。
 「鍵屋の辻の決闘」の後、旗本奴の報復を危惧した柳生宗矩は、十兵衛三厳に命じて又右衛門を対馬の山中に潜伏させた。しかし寛永17年(1640)、老中松平信綱の依頼を受けて宗矩は又右衛門を対馬から呼び戻す。乱暴狼藉の無法を繰り返す旗本奴を粛清するためであった。旗本奴50人を暗殺した又右衛門であったが憔悴の色が濃いため、宗矩が大老酒井忠勝に働きかけ、対馬へ帰ることとなった。又右衛門はその前夜、今回の粛清が、信綱の酒井忠勝への対抗心に根ざしていたのではないか、と喝破したのだった。
 「その対抗心、権勢欲が、どういうかたちであらわれ、無辜の人々に、どのようなむざん過酷な犠牲を強いる結果をまねくことに相成るか?」(下巻、214‐215頁)。
【追記】柴田錬三郎氏の『嗚呼 江戸城』は、江戸築城を巡る人間模様を描くことで、江戸城そのものを浮き彫りにした名作である。同じ趣向の小説としては、大坂城を舞台に群像劇を描いた司馬遼太郎氏の『城塞』(新潮文庫。全3巻)がある。(2004年4月18日瓢水記)

有栖川宮 幸仁親王(ありすがわのみや ゆきひとしんのう) かくれさと苦界行

将軍家綱が薨去した時、酒井忠清が後継将軍に推したとされる。

【瓢水コラム】
[何故、有栖川宮幸仁親王だったのか?(その1)]
 『かくれさと苦界行』で「吉原御免状」を披見した大老・酒井忠清は、“我同胞”の文字に驚愕したあまり、天皇家の血を引く有栖川宮幸仁親王を5代将軍に迎えようと画策した(新潮文庫版、441頁)。隆先生は忠清の提議について、「錯乱としか云いようがなかった」と書いているが、忠清が“有栖川宮幸仁親王”を将軍に迎えようとした理由は、果たして何だったのだろうか。綱淵謙錠『続 徳川家臣団』(講談社)に拠りつつ紹介してみう。
  忠清が有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようと画策したのは、鎌倉北条氏の故知に倣うためであると従来から説明されてきた。しかし、戸田茂睡『御当代記』によれば、忠清は「(綱吉には)天下を治めさせ給うべきご器量なし。此君、天下のあるじとならせ給はば、諸人困窮仕、悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし」と考えていたらしい(前掲書、18頁)。つまり、忠清は綱吉を忌避していたがために、有栖川宮幸仁親王を将軍候補に選定したのである。では何故、“有栖川宮幸仁親王”だったのだろうか。 (2004年5月16日瓢水記) 
[何故、有栖川宮幸仁親王だったのか?(その2)]
 驚くべきことに、有栖川宮幸仁親王と徳川家は遠い親戚関係に当たるのである。これは綱淵氏による新発見であり、これまで歴史学者が見落としてきた事実であるらしい。
 さて、家康の次男結城秀康の嫡男に当たる松平忠直は、将軍秀忠の娘勝姫を正室に迎え、嫡男光長と亀子を儲けた。この亀子が高松宮好仁親王(後陽成天皇の第7皇子)に嫁ぎ、2人の間に生まれた明子女王が後水尾天皇の皇子良仁親王を迎えて、高松宮第2代目となった。しかしこの良仁親王が後西天皇となったため、高松宮は当主がいなくなった。そこで寛文7年(1667)、後西天皇と明子女王との間に生まれた幸仁親王を以って高松宮を継がしめ、寛文12年に有栖川宮と改称したのである(前掲書、20頁)。
 つまり、有栖川宮幸仁親王は、後水尾天皇の孫にして、秀康と秀忠以来の徳川家の血も引く皇胤だったのである。当時、有栖川宮幸仁親王25歳。血筋も年齢も将軍候補にふさわしい人物であった。すべて徳川の女系という弱点はあったにしても、酒井忠清の主張は、必ずしも根拠のないことではなかったと言えるだろう。 (2004年5月17日瓢水記) 
[何故、有栖川宮幸仁親王だったのか?(その3)]
 以下は余談になるが、宮将軍の擁立は酒井忠清と越後中将松平光長によって計画されたらしい。“綱吉忌避”を標榜する忠清、そして秀康系松平家の巻き返しを狙う光長との間で、利害が一致したのである(前掲書、20頁)。
 綱淵氏は、光長の心情についてかなり穿った見方をしている。「おそらく越後光長は、家光以後徳川家の血は賤しくなったという公憤を抱いていたと思われる」とし、秀康と秀忠の血を引く光長にとって、農民の娘の腹から生まれた家綱、大奥で「御末」と呼ばれる身分の低い女性の腹からうまれた綱重、そして京都の八百屋の娘の腹から生まれた綱吉は、いずれも卑しむべき存在だったのではないか、と推測しているのだ(前掲書、20‐21頁)。
 ともあれ、老中堀田正俊の豪腕によって5代将軍は綱吉が継ぐこととなった。忠清は大老職を罷免され失意のうちに病死、光長は家綱時代に決着したはずの御家騒動(越後騒動)の裁決をやり直され、改易の憂き目に遭う。綱吉の報復だったことは明らかである。 (2004年5月18日瓢水記)

有馬 大膳(ありま たいぜん) 

貞時。新当流。
家康はまた有馬大膳貞時という新当流の兵法家に就いて剣術を学んでいるが、この有馬大膳貞時という人は山本勘助とも親しい間柄で、当時新当流に於ては有馬の右に出でるものは無かったという評判である、この有馬が、三河へ来ると聞いて家康は早速呼んで対面してその説を聞いて入門し、一カ年三百石の約束で三カ年間修業をして遂に新当流の奥義皆伝を得た、この時家康から青江吉次の刀を大膳に与えたということである。
 有馬大膳はほどなく死んだが、為に新当流の伝統が絶えようとしたので、その流儀の人々は何とかしてその系図を残そうと、大膳の庶孫に当る有馬豊前秋重と云うものを尋ね出して家を継がせることにしたが、この豊前秋重は有馬の家の血統だけを継ぎはしたけれども、まだ剣術は奥義皆伝の位に達していなかったから家元として師範に当るわけには行かぬ、そうしてその時分に新当流の奥義皆伝を受けたものは名実共に家康一人であったから、豊前秋重は家康についてこれを学んで皆伝を受けたのである。
 これをもって見ても家康という人が個人武術家としても当時第一流の大家であったことがよくわかる。(中里介山著『続日本武術神妙記』)
ここに云う有馬大膳貞時は、「新当流の有馬満盛」と同一人かどうか不明。また、家康が学んだのも一方は長巻で、一方は剣となっている。

安藤 良整(あんどう りょうせい) (生没年不詳)

小田原北条氏の宿老。奉行集。出納関係奉行。父は備前守を称し、天文七年(1536)に討死、その跡を継ぐ。
実名は不明だが、軍記物には安藤豊前守正季と見え、入道名が良整であろうとされる。
永禄十二年(1569)から天正十六年(1588)まで、北条家朱印状の奉行として古文書に登場する。
早くから小田原城の金銭出納奉行として活躍し、永禄二年(1559)の「北条氏所領役帳」には、小田原衆・御馬廻衆・玉縄衆各衆の筆頭者として見え、小田原北条氏直臣団のもとめ役であったと推定される。官途は豊前守を称し、豊前入道を名乗っている。また、小田原北条氏の公定枡を制定したことでも知られる。北条氏の治世、関東では各地方ばらばらであった枡を一つの公定枡に統一、武蔵・上総はおおかた駿河国榛原郡で使われていた榛原枡が使われていたので、出納奉行であった良整が公定枡と定め、伊比弥五右衛門という者に大小の枡を作らせ、分国内の公定枡とした。人々はこれを安藤枡と呼んだ。
子に源四郎がいる。

安徳天皇(あんとくてんのう) (1178〜1185)かくれさと苦界行、鬼麿斬人剣

第八十一代天皇。
高倉天皇と平清盛の女徳子(中宮、建礼門院)との間の子で、生まれるとすぐに皇太子になり、僅か三歳で父高倉天皇から譲位され、天皇位についた。その後間もなく、清盛の意志で摂津国福原に遷都するが、僅か半年で京に再び戻る。その頃、東国を中心に反平氏の動きが活発化し、鎌倉を拠点に足元を固めた源頼朝、信濃から北陸道を制圧した源義仲ら源氏の勢力が平家包囲網を構築。
そんな中、総帥の清盛が熱病で死ぬと、後を継いだ平宗盛は、後白河院と緊密に結び、西国を中心に水軍を駆使して平定に勤めた。こうして暫く西の平家、東の源氏が相対峙するが、頼朝が後白河院に接近すると、辞退は急展開する。独自の東国武士政権を目指した義仲と、朝廷との宥和を図って政権を握ろうとする頼朝との間で対立が起り、両者が激突。この争いに勝った頼朝は、範頼、義経らと共闘し、一気に平家を滅ぼしにかかった。京を逃れた平家は、安徳天皇を伴って福原から四国屋島に寄るもそこをも義経に追われ、九州へ向う。途中、安徳天皇は海に沈んで短い生涯を閉じた。












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人名(い〜いそ)

井伊 直政(いい なおまさ) (1561〜1602)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり、かぶいて候、柳生刺客状、一夢庵風流記

徳川譜代の先手侍大将、徳川四天王の雄。永禄四年(1561)生れ、慶長七年(1602)没。享年41歳。
井伊家は藤原冬嗣(ふゆつぐ:775〜826)の流れを汲む共保(ともやす)が祖とされ、遠江の井伊谷に住したことから井伊を名乗った。代々井伊谷城に住し、今川家に属していたが、直政二歳の時、父直親が讒言によって今川氏真に殺される。長じた直政は徳川家康に仕え、重用されることとなった。
武田氏滅亡後の武田家遺臣を預けられた直政は、兵士の兵仗武具すべてに赤色を用いたので「井伊の赤備え」と称された。長篠、小田原の各役に従軍し、なかでも小田原征討に大きな軍功をたて、秀吉からも優遇される。天正十八年(1590)家康関東入国の時、家康から上野箕輪城十二万石を与えられ、関ヶ原合戦の時には本多忠勝とともに功績をあげ、翌年、近江佐和山城主となり十八万石を領した。本多忠勝は一つの傷も受けなかったが、直政は満身創痍であったという。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」、『郷土資料事典』25参考)

井伊 直勝(いい なおかつ) 影武者徳川家康

井伊直政の嫡男。
父直政が死んだ後、彦根城築城の意志を継ぎ初代彦根城主となる。ところが井伊直勝は病弱で、大坂の陣への参陣がかなわず、弟直孝が参陣。家康から彦根は二男直孝が継いで、直勝は別家(上野国安中藩)を立てるよう命ぜられた。
右近大夫直勝 井伊兵部少輔直政が嫡男にして、慶長七年、父の遺跡を賜り、同九年、台命を奉り、江州彦根の城を築く、同十九年、大坂役に、病者なる故、弟の掃部頭直孝をして陣代たらしむ、同年、命に依て江州の所領を直孝に譲りて、上州安中に居城す、后改て兵部少輔、(『江戸古絵図考附録』)

井伊 直孝(いい なおたか) かくれさと苦界行、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

掃部頭。井伊直政の二男。大坂夏の陣で河内口先鋒を務める。兄直勝の後を受け彦根城主となる。
井伊掃部 弁之助直孝、慶長十年四月十六日、叙任し、掃部助と称し、十五年に至りて掃部頭と改む、(『慶長年間江戸図考』)
慶長十年、別規に台徳公に奉仕、同十三年、御書院番頭、后大御番頭、大坂役、兄兵部少輔直勝が陣代と成て供奉、再乱の砌、尚軍功あり、(『江戸古絵図考附録』)

飯岡 助五郎(いいおか すけごろう) (1792~1859)

網元漁師、侠客、博徒。十手、捕縄を預かる岡っ引。
寛政四年(1792)十一月、相州三浦郡田度村で漁業と農業を営む石渡助右衛門の長男として出生。「天保水滸伝」では笹川繁蔵の敵役として知られる。
力士を目指して江戸に出、のち漁夫として飯岡に来て下永井村の網元半兵衛の婿となる。その一方、侠客銚子五郎蔵の子分となり、三十歳の時に、五郎蔵から飯岡一円の縄張りを譲り受け、博徒として一本立した。この間、網元としても漁業に精を出し、漁業の振興や護岸工事などを行って地元の信頼を高め、銚子の御陣屋から十手、捕縄を預かる身分となる。こうした助五郎の評判を、隣接する利根川辺の香取郡須賀山村を縄張りとする笹川繁蔵は快く思わず、妬み、助五郎の縄張りを荒らしたり、助五郎宅を襲ったりした。業をにやした助五郎は、関東取締出役から繁蔵の召捕状を出してもらい、天保十五年(1844)八月五日、繁蔵の召捕りに笹川へ向かった。これが世にいう「大利根河原の大出入り」といわれる事件。「天保水滸伝」では、飯岡方二百三十名の殴り込みに笹川方は用心棒の平手造酒を失うだけで喧嘩に勝利し、助五郎の手から逃れる。こうして追手から逃れた笹川方はそれぞれ四散し、繁蔵も姿をくらます。ほとぼりも覚めた三年後の弘化四年(1847)七月四日、助五郎の命を狙って舞い戻った繁蔵だったが、笹川「びやく」橋で助五郎の長男堺屋与助、遠縁の三浦屋孫次郎、子分の成田の甚蔵に切り殺された。「天保水滸伝」では、仲間の勢力富五郎にそむかれ、三人に闇討ちに合って殺された事になっている。
繁蔵の首は飯岡に持ち帰られ、その首を前にした助五郎は涙を流して丁重に供養し、子分たちに香華を絶やさぬよう命じたとされている。この後も助五郎は世につくし、その功績から江戸町奉行などから恩賞にあづかるなどし、安政六年(1859)四月十四日、六十七歳で没した。墓は飯岡市街の東外れにある浄土真宗光台寺境内にある。(『郷土資料事典』12)

飯篠 長威斎(いいざさ ちょういさい) (?〜1488)

飯篠山城守家直入道長威斎。天真正伝神道流創始者。下総飯篠(現千葉県香取郡多古町)の生まれで、のち丁字村山崎(現千葉県佐原市)に移り住んだ。
ある日、香取神宮の神井を汚した人が即死したのを見て、侵し難い神威に畏敬の念を覚え、神宮境内の梅木山不断所に住み、毎夜神庭に出て記念し、昼は庭前の梅の木に向かって木刀を振るい修行に励むこと一千日余り、ついに剣法の奥義を極めたという。のち、京に上り将軍足利義政に仕え剣法指南を行う。晩年は香取に戻り余生を送った。長享二年(1488)四月十五日没。
飯篠長威斎は下総香取郡飯篠村の生れで香取神宮に参籠して妙をさとり、天真正伝神道流の一派を開いた。これが日本の剣道に流派というものの起った祖ということになっている。(中里介山『日本武術神妙記』)

飯田 覚兵衛(いいだ かくべえ) (?〜1632)影武者徳川家

加藤清正の家臣。
文禄元年(1592)、名護屋に城を築く(飯田覚兵衛陣城)。慶長・文禄の役に従軍、晋州城の外壁破壊に亀甲車を考案し、それを用いて名を轟かせたと伝えられる。清正とは幼馴染みで、清正が秀吉に召し抱えられたとき、最初の家臣になったという。

飯田 播磨(いいだ はりま) 一夢庵風流記

最上家家臣。

庵原 安房守(いおばら あわのかみ) 時代小説の愉しみ

今川家重臣。
義元が戦死した後、駿府で食客していた武田信虎が、今川家の内部崩壊を企んでいる事を知り、信虎を駿河から追い出したとされる。

伊賀平 家長(いがたいら いえなが) 鬼麿斬人剣

内左衛門。平家の侍大将。安徳天皇のお守役。

斑鳩 平次(いかるが へいじ)

○謙信家の浪人に斑鳩平次と云ふ者、諸国を巡るついでに、加藤清正の大将庄林隼人がところに来れる。清正侯平次が武功をきゝをよび給ふゆへ、かゝへたき由を隼人に談ぜらる。それゆへ隼人平次にいつて曰く、貴公当家に奉公せらるべきや。平次がいへるはねがふところなり。隼人曰、あてがいはいかほど御のぞみ候や。平次いへるは、わづかの御扶持米にて足り申候。隼人いへるは謙信家にて、二千石の御身上なりときけり。今の御あいさつ誠しからず、とおもひ、しひてあてがひの分限をさだめんと云ふ。旧禄をてらひむさぼる事、わがこのむところに非ず。先づ無足にて、めし出され、その後なにぞ手柄にても致し候はゞ、一度の鎗を五百石にさだめられて下さるべし。是れみだりにあたふるに非ず。又むなしく受るにもあらず。おひくびは勿論てがらの数には入るばからずと申せば、おもしろき望みなりとて其ねがひにまかせ、まづ無足にてかゝへらる。朝鮮陣の時、人にぬきんでたるはたらき七度ありて、三千五百石にとりあげらる。平次常にわかき者に対していへるは、武士のはたらきに二つのならひあり。これ手柄によりて名をゑ、大しんにほこらんことをおもんばかり、其余慶を子孫にのこさんことをはかるのよく心あれば、すぐれたる手柄はならざるものなり。かならず戦におもむくごとに、此をしぬる場とおもひ定めて、身命かへるみざる時は、自然に武功となる。利害のしあんをして、みあわせ、きゝあわせする間には、手おくれになりて、いつにても人にさきをこゑらるゝものぞといひき。(『見聞談叢』)

生田 江平(いくた えへい) 死出の雪

恵平。惣兵衛。
大和郡山藩士。知行二百石の物頭役。

生田 伝八郎(いくた でんぱちろう) 死出の雪

経好。播州明石藩松の家臣庄林八左衛門の二男。
剣術者生田江平の養子となる。

池 六右衛門(いけ ろくえもん) 見知らぬ海へ

無資料。

池田 忠雄(いけだ ただちか) かくれさと苦界行、花と火の帝

池田輝政の三男。家康の孫。備前三十一万石。寛永九年四月、公儀派遣の典医の薬を飲んだ翌日死亡。毒殺されたと言われる。
[松平忠雄と八人衆]
○松平宮内少輔忠雄侯歩士のすこやかなる者をゑらびて、八人を得たり。出る時は馬廻につれてありけり。是は八人衆と唱ふ。遠山行合河合が僕をきり留めたり。此時新知百石をあたへらる。其後江戸の長屋にとりこもり者あり。遠山一番にかけ入り、はたらきたるに由りて、五十石の加増をあたへらる。年をへて、忠雄の嗣松平相模守光仲に至りて、因幡伯耆の二国にくにがへあり。耶蘇一揆の時、湊五左衛門、遠山十兵衛御使者として有馬に下る陣中におひて、板倉内膳正重昌これより向ふの柵ぎわまで何十間あらんと尋ねられける中に、遠山聞より早くつと立て、なんの量見もなく、柵ぎわにいたり、それよりこなたに向ふて、しづかに歩をかぞへてかへり、何十何間と申す。神妙なるしかたとて重昌黄羅紗の羽織を賜ふ。其外少々はたらきありて、帰陣の後、湊に新知二百石、遠山に加増五十石、前にあわせて二百石与へらる。遠山承引せず。湊は新知なり。又有馬におひてさせる功名はあらざれども、私事は湊にくらぶれば少し仕たる事も候か。更に知行をむさぼるには非ず。武士のならひ戦場の事は申しがたしと云つて出奔す。江戸の上野に浪人にて居たる時、隣の寺に盗入りたり。何方にかくれけん捕得ずして事をわりぬ。夜半ばかりに盗遠山がいねたる近所のかべをこゆるとて、誤りて、溝におちたり。遠山その音を聞きてはしり出てとらへて之れを刺殺す。後保科肥後守正之侯聞き及び、人を頼みて相州侯にことわり、知行五百石に呼抱へ足軽二十人をあづけらる。会津を拝領の時、総並の加増をあたへられて六百石になる。又耶蘇一揆に付て、松平伊豆守信綱御名代として下らるゝ節、相州侯かさねて佐分利九之丞、石丸七兵衛つげ使として下る。佐分利は有馬におひて討死す。石丸は本知四百石の上に、二百石の加増をあたへらる。石丸申すは私させるはたらきもなく加増拝領仕る事、こゝろよからず候。榊原飛州侯の手にて城のり一番の御供を仕り候へども、しろの上よりまろばせし石にあたりて仆れ、又おきなおりてのり入り候。はやその時はあとより余人もつづいてのり入り候へば私一人がちからに非ず。これほどの事は元来おとこに候へば、あながち功名とも申されずとて固辞してうけず。加増かろしとて申すかと、知音を以諌めさするに石丸さらにさしはさむ所なしといふ。これによつて重て永々の在陣くろうたるに付ひてあたへらるゝ事なれば、この上はとて拝領す。同家の武士ながら遠山と大きにことなり。(『見聞談叢』)

池田 輝政(いけだ てるまさ) (1564〜1613)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

幼名古新。通称三左衛門尉。永禄七年(1564)十二月、尾張清洲城に池田恒興の二男として生れる。慶長十八年(1613)没。享年50歳。秀吉七将の一人。
織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正十二年(1584)の長久手の戦いで父、兄ともに戦死したのを機に遺領を継ぎ、美濃十万石を領した。九州の役凱旋ののち羽柴姓を授けられ、聚楽第行幸のとき豊臣の姓を受けた。小田原の役従軍後、三河吉田城十五万二千石に移領。秀吉没後、遺臣たちが石田三成らの文治派と加藤清正らの武勲派とに分かれたが、輝政は武勲派の雄として三成、小西行長らに対抗し、関ヶ原の戦には家康側に属して功をたてた。戦功により播磨五十二万石を与えられ、姫路城に入り、城の大改築を行って日本一の名城とした。輝政は家康の女を継室とした(北条氏滅亡後、北条氏直の妻だった督姫が再嫁した)ほか、次男忠継には備前二十八万石が、三男忠雄には淡路六万石が与えられるなど、徳川氏に厚遇された。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
小牧・長久手の戦いで父・池田恒興と長兄紀伊守恒毎が戦死したため美濃大垣城主を継ぐ。以降、豊臣秀吉に仕えて各地を転戦。天正十八年(1590)四月、豊臣秀吉の小田原の役に参陣。七月、豊臣秀吉の奥州征伐に参陣。その後三河吉田城主として十五万石を領するようになる。秀吉の命で徳川家康の娘・督姫と結婚、東国警備の任を務める。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、岐阜城を攻略するなど戦功を上げ、播磨・姫路五十二万石の領主となった。
羽柴三左衛門輝政、始秀吉公に仕、豊臣姓を賜、羽柴氏と称す、文禄三年、神君の姫君を賜り、室とす、関ヶ原の役、御味方と成、慶長十七年に至りて、御家号を賜り、参議に任ず、(『江戸古絵図考附録』)

池田 利隆(いけだ としたか) 花と火の帝

無資料。

池田 長吉(いけだ ながよし) (1570〜1614)影武者徳川家康

池田恒興の三男。
小牧・長久手の戦いで功を立て、近江に三万石を賜る。その後も九州征伐や小田原の陣などに参陣。関ヶ原の戦いでは東軍に加担し、岐阜城攻めに参加する。さらには本戦とは別に水口城攻めを行い、長束正家を降している。この功により鳥取城主となった。 長吉は鳥取城を大改造して現在見られる縄張りを作り上げ、城下町を整備したと伝えられる。

池田 信輝(いけだ のぶてる) (1536〜1584)影武者徳川家康

恒興 。出身は美濃国池田郡で、父恒利の代に織田信秀に仕えた。 天文五年(1536)生まれ。
紀伊守恒利の子として育てられたが、母が信長の乳母だった関係で、年少より信長の側近となる。一説に信長の乳母の子で父は織田信秀ともいう。またの名を恒興と名乗り、のち紀伊守、入道して勝入と称した。信輝の名は俗説らしく古文書には見当たらないといわれるが、後世信輝の方が多く使われている。
織田信秀に仕え、星崎城の戦いで武功を上げ、のち信輝と名乗ったともいう。信秀死後、信長に従い、各地を転戦。弘治元年(1555)、尾張海津に戦い、同三年(1557)、信長の弟信行の謀反のとき、信行を討つ。つづいて桶狭間で軍功あり、元亀元年(1570)、犬山城主となる。天正六年(1578)、荒木村重が信長に叛旗をひるがえすと、これを討伐。同八年(1580)、花隈城を攻め、信長より村重の旧領摂津を与えられ、摂州尼崎に居城を移す。本能寺の変で信長が光秀に討たれると、豊臣秀吉と結び、山崎の合戦で奮戦、ともに明智軍を破る。清洲会議では、秀吉・勝家・丹羽長秀とともに、織田家の四宿老の一人となった。天正十一年(1583)、秀吉の盟友として賤ヶ岳の合戦にも参加。その功で織田信孝の旧領を得て、美濃大垣城主となる。天正十二年(1584)、小牧・長久手の戦いで、主家筋の、織田信雄と親友・秀吉との間で去就に迷うが、秀吉に「美濃・尾張・三河を与える」と利によって誘われる。犬山城奪取など活躍するが、別働隊のリーダーとして岡崎をめざした際、徳川家康の本拠三河を急襲せんと兵を進めたが、家康の反撃にあって敗れ、永井直勝に討たれた。享年49歳。このとき長男之長(元助)も父とともに戦ったが、安藤直次に討たれた。しかし次男の輝政は大大名となり家名を残した。

石井 松之進(いしい まつのしん) 死ぬことと見つけたり

無資料。

石井 主水(いしい もんど) 死ぬことと見つけたり

龍造寺高房の家臣。

石谷 十蔵(いしがい じゅうぞう) 死ぬことと見つけたり、柳生非情剣

無資料。

石谷 将監(いしがい しょうげん) 吉原御免状、影武者徳川家康

名は貞清。親は今川氏旧臣で秀忠に使えた旗本。
北町奉行となり日本橋葺屋町にあった吉原に所替えを命じた。

石童丸(いしどうまる) 影武者徳川家康

詳細未詳。
『平家物語』巻十「横笛」の平維盛八島脱出の際の供人。

石巻 康敬(いしのまき やすまさ) (1534〜1613)

小田原北条氏康の側近。康昌とも書く。彦九郎。左馬允。
兄康保(やすもり)が天正七年(1579)に病没すると家督を相続、下野守を称した。氏康の御馬廻衆、のち評定衆も務める。
石巻氏は三河国出身で、祖父が北条早雲に仕え、父家貞は相模国西郡(足柄上・下両郡)の郡代で御馬廻衆の筆頭を務めた重臣。始め家貞の長男康保が家督を相続し、小田原城の訴訟裁判などを行なう評定衆に任じられるが、康保が病に倒れたため弟の康敬が家督を継いだ。康の字は主君氏康の一字拝領で、氏康の信頼を得た側近。
天正十七年(1589)暮、上野国名胡桃城事件で、康敬は氏政の命により事件弁明の使者として京都に派遣された。しかし、秀吉は小田原北条氏征伐の決心が固く交渉は決裂した。急ぎ小田原に戻る途上、駿河国三枚橋で徳川家康に捕らえられ抑留されてしまった。結果的に命拾いした康敬は、天正十八年(1590)七月、家康に預けられ中田村に蟄居。八月、家康が関東に入ると戸塚駅(横浜市)で召し出され、旗本に登用される。知行地の中田村(横浜市)に館をかまえ、関ヶ原の合戦や大坂の陣にも従軍し戦功をたて、子孫は旗本として幕末まで続いた。
慶長十八年(1613)、八十歳の天寿を全うし、中田村の釆地で没した。中田寺に墓所がある。

石原 昌明(いしはら まさあき) 影武者徳川家康

四郎右衛門。武田の旧臣。
甲斐二十五万石の奉行。四奉行の一人といわれる。

出雲のお国(いずものおくに)

○同(慶長十二年)二十日、同所(江戸御城御本丸と西御丸との間)にて、出雲の神子お国、勧進哥舞伎興行あり(「見聞集」に、おくには出雲国小村三右衛門といふ人の娘云々。おくにかぶきの事、山東の「骨董集」にくはし)。(『武江年表』慶長十二年)

伊勢 新九郎(いせ しんくろう) (1432〜1519)

新九郎長氏、氏茂、長茂。あるいは盛時とも。後に入道し早雲菴宗瑞と号す。後世の俗称は北条早雲。

伊勢新九郎の出自については諸説あり、資料が乏しく定かではない。備中の生れであるとか、伊勢平氏の流れを汲むとか様々な説がある。伊勢平氏説などの伊勢出自説も、彼が文献資料に現われ始めたのが伊勢だったからでもある。一説に新九郎が伊勢に来たのは、室町将軍足利義政と弟足利義視の争いで、京を追われた義視に従って伊勢に来たという説があり、それが有力となっている。そして義視の優柔不断な性格に嫌気がさし牢人したとも、義視のような男にいつまでもついていても埒があかないと見切りをつけたのだろうともいわれる。
ただ新九郎の出自については、これといった決定的なものは無く、通説となっている「伊勢の素浪人」というのは、小和田哲男氏によれば、近世の段階では「伊勢国住人」と記された程度だったものが、明治以降、伊勢の素浪人というように拡大解釈されていったのだという。事実、『北条記』には、「伊勢平氏葛原親王的々の令孫伊勢新九郎入道宗瑞」と記されているし、慶長十九年(1614)に成立した『北条五代記』の「早雲平氏茂由来之事」のなかには「新九郎、後は北条早雲宗瑞と改号す。住国は山城宇治の人也。又一説には大和在原ともあり」とあって、山城あるいは大和の生れとなっている。明治の中頃に発見された『小笠原文書』に依拠すれば伊勢国の関氏から分れたものとする説となり、室町幕府の政所執事をつとめた京都伊勢氏の出とする説、あるいは備中伊勢氏の出身で、幕府の申次衆であった伊勢新九郎盛時(地方の地頭領主が上京して幕府の奉公衆となるケースは珍しくなく、藤井駿氏や小和田哲男氏が論証したように、備中国荏原荘の地頭であった伊勢新九郎盛時が足利義視の近臣となっていたことはほぼ間違いないとされている。)こそ早雲だとする説などさまざまだが、少なくとも一介の素浪人でなかったことは確かなようである。

ともあれ、新九郎は伊勢にいる間に友人を作った。その友人とは荒木兵庫、多目権平、山中才四郎、荒川亦四郎、大道寺太郎、有竹兵衛の六人とされ、これらの仲間とともに東行の旅にでて、駿河国守護今川家に依った。この時、新九郎は仲間たちに「関八州は古来、武士が割拠した土地柄だが、永享以来、定まった主人がいないと聞く。いま、ここをおさえれば天下も取れよう。ともに東下して功名をたてようではないか」と持ちかけ、途上、伊勢神宮に詣で、神水を飲んだ新九郎たちは、「この七人、いかなることありとも不和のことあるべからざること。たがいに助けをなして軍功を励まし、高名をきわむべし。また一人も勝れた大名ともならば、残る人々、家人となりて、その一人を取立て、国をあまた治むべし」と誓いを立てたと巷間に流布されている。『北条記』には「昔、源平左右に相双びて朝家の御守りたり。世を治め国を静む。保元・平治の比、源氏衰へて平家世を保ち、治承・養和に源氏起て、寿永・元暦に平氏悉く滅して、源氏又繁盛す。三代の後は、又北条平氏として世をとりしも、亦是九代にして滅びぬ。尊氏源氏にて世を保ち、京・鎌倉の両公方にてありしかども、持氏卿にて絶失ぬ。又堀越源氏にて是又亡びぬ。然れば又源氏の人々流浪して亡びぬべき時節到来す。陰つき陽来る事珍しからず。今の管領上杉両家、藤原家なれば、世を治むる事、相応ぜず。われは平氏なれば、源氏の尽ぬる比をひ、必ず世を保つべき時至りぬと覚ゆ。如何にもして両上杉を討亡し国を保つべき」とある。さらに、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』では、東下のさい新九郎は三百貫の地を同姓の富家に売って路用の費用をつくり、「武略且備した士、三十余人召具し」たとある。
こうして東行した先の今川家には、当主義忠の側室となっている北川殿がいた。その北川殿が新九郎の姪(妹、叔母という説もある)であったことが、新九郎等が今川家に依った最大の理由であろう。

しかし、突如として新九郎長氏が歴史の表舞台に登場するのは、文明八年(1476)六月、今川家に内紛が起きたときであった。
この時の早雲の活躍を『今川記』は「早雲庵大に悦び、太田(道潅)に散会して、その乱逆をあつかひ、色々心を尽し諸軍をなだめ、竜王殿を山西から出し申し、後には新五郎殿隠居有て、竜王殿へ御家督を御渡なるへく相究り、諸勢一同に和談して、竜王殿御母とともに、山西を出て丸子に新に館を建て爰に居住し、今川五郎氏親と号す」と記している。

内紛を調停した後、早雲は京に上っていた。長享元年(1487)、在京中の早雲に姉北川殿から知らせが入り急遽駿府に戻る。それは、竜王丸が元服する年頃(このとき竜王丸は十七歳になっていた。)になっても、小鹿範満はいっこうに家督を戻す気配を見せず、再三に渡る北川殿の働きかけを無視し続けたため、以前交わした取り決めを反古にされてしまうのを案じた北川殿の訴えがあったからである。早雲は密かに石脇城に入り、範満を倒す策を練った。
その年の十一月九日、新九郎率いる軍勢は駿府今川館にいた範満を急襲し、範満は自害する。新九郎が今川家の内紛を調停して十一年目にしてようやく、甥の竜王丸を駿府に入れることに成功したのだった。ときに新九郎五十六歳、十七歳の竜王丸は元服し氏親を名乗り、早雲はその後見役として辣腕をふるうようになる。
このときの恩賞として新九郎に与えられたのが、伊豆半島の喉元を抑える要衝の地愛鷹山麓の興国寺城と富士下方十二郷だった。
こうして新九郎が領したその地のすぐ近く伊豆韮山の堀越には、八代将軍義政の弟足利政知がいた。(この当時、僭称ではあるが「伊豆公方」(堀越公方)と呼ばれた足利政知と京の公方(将軍)そして関東を治める古河公方と三人の公方がいたのである。政知は僧籍に入っていたが、扇谷上杉と山内上杉の二つの分れた関東管領上杉家の争いで争乱状態の関東鎮圧のため還俗し下向した。しかし政知は、扇谷上杉氏に阻まれ、関東に入れぬまま伊豆韮山に腰を降ろしていたのだった。)この前後に新九郎は入道し早雲庵宗瑞を名乗った。興国寺城主となった早雲は、この韮山の御所や鎌倉執権北条時宗の子孫が住していた北条の館をしばしば訪れ親交を深めていたという。こうした早雲の行動の裏には、領地や奉公人を持たぬはぐれた武人の乱世に生きるしたたかな計算と戦略があったのだろう。何が起るか分からない世の中で、早雲は近隣諸国の領主に近づき懐柔したり情報収集などを行なうなど周到な準備を行なって、じっと好機が訪れるのを待つ我慢強さと運の強さが有った。そんな彼に絶好の機会が訪れる。

堀越公方足利政知には、正妻の子で嫡子の茶々丸と愛妾円満院の間に生まれた二人の子供がいた。円満院は茶々丸を廃嫡し自らの子に家督を相続させるため、茶々丸を土牢に閉じ込めるよう政知を唆した。愛欲に溺れる凡庸な政知は円満院に唆されるまま、茶々丸が乱心したためと彼を土牢に閉じ込めた。政知が死んだ時、茶々丸は土牢を抜け出し、継母円満院と一緒にいた末の弟潤を殺し、自ら新公方を名乗り堀越御所を乗っ取った。しかし、茶々丸と重臣外山豊前守・秋山蔵人らとの間が旨く行ってないことから、早雲はこれを天から与えられた絶好の機会と韮山攻略の行動を起こす。手勢の少ない早雲は、伊豆の民政安定のためという大義を持って、駿府の氏親に茶々丸討伐のための兵を貸してくれるよう依頼。早雲自らの手勢二百と氏親から借りた三百を清水湊に集結させ、海路から韮山を目指したが、潮に流されて散り散りになりながら半島の南西、松崎あたりに上陸してしまった。韮山攻めは失敗かと思われたが、上陸した先の村人たちが流行病で苦しんでいることを知り、早雲は配下に命じて彼らの手当てや薬を与えるなど村人を助けた。この時、早雲は出撃に先立って士卒に以下の軍令を発している。

  • 禁制
  • 一、空家に入り、諸道具に手をかくる事
  • 一、一銭に当る物何にても取候事
  • 一、伊豆国中の侍並に土民に至る迄、其住所を去る事
  • 右条々堅く停止せしめ畢若し違反の輩、是あるに於ては在家を放火すべき者也。
  • 仍執逹件の如し。

この早雲の民への心遣いが村民の信頼を得、結果として伊豆の民心を掴み、その後の早雲の行動を楽にさせる。韮山攻め作戦の出鼻は思い通りとはならなかったが、堀越御所から茶々丸を追い落とすことに成功し、伊豆一国を手に入れることで早雲はようやく一国を領有する戦国大名へとのし上がってきた。その後、早雲は韮山を足場に、大森氏が支配する小田原を攻略、この伊豆領有こそ、関東に覇を唱えることになる戦国大名北条氏(後北条氏)の第一歩となった。この時早雲は六十四歳、さらに時間をかけて相模に割拠する豪族たちを帰属せしめるが、最後まで抵抗したのが相模中央部の岡崎城に拠る三浦義同(道寸)だった。鎌倉以来の名族三浦氏にとって早雲は成り上がりの他国者でしかない。そうやすやすと早雲の下に帰属できない意地と誇りがあった。しかし、早雲は決して焦らず無理押しをしない。ようやく三浦義同を岡崎城から逐い出したのは永正九年(1512)のこと。小田原城奪取から実に十七年を経ていた。この時の早雲の齢八十五歳。
この岡崎城から三浦義同を逐い落した勢いで、鎌倉まで攻め上がった時、早雲は以下の歌を詠んでいる。

  • 枯るゝ樹にまた花の木を植ゑそへて もとの都になしてこそみめ

と古都鎌倉の復興を宣言している。まだまだ現役であり続けようとする早雲の心意気ではなかろうか。早雲は八十七歳にして、ようやく家督を長子の氏綱に譲って引退した。その翌年、死亡する直前まで「耳もさだかであり、歯牙も損なわず、ただ白髪たるばかりにして精神の正しきこと、さながら壮年のごとく」であったという。
これは現代においても希有な存在で、一種の化物である。とはいえ、早雲に関する資料は少なく、その人となりは不明な所が多い。
『玉隠和尚語録』中にある芳琳乾憧の「早雲菴主天岳之霊」に捧げた祭文には、早雲を評して「外に汗馬を収め、内に心牛を収む。相府に出入し、東山に優游し、祖意を参得して、南甫に宋猷す…故賢大守(早雲)は、その人いずくんぞかくさん、天下の英物なり」(原漢文)とある。また、連歌師宗祇の門人で駿河島田の生れとされる柴屋軒宋長は「針をも蔵に積むほどの蓄えを仕りながら、いざ合戦となれば、貴重な玉さえ砕いてしまうほどに惜しげもなく戦費に注ぎ込む人である」と評している。
世に喧伝されているように斎藤道三と同じ悪強い梟雄早雲像とは全く逆で、その事跡をつぶさに検討すれば、意外にも早雲は乱を好まず、責任感が強く、情に厚い正義の人であったと作家の典厩五郎氏は述べている。さらに、伊豆乱入のさいの堀越公方茶々丸、小田原奪取のさいの大森藤頼、岡崎城に居座っていた三浦義同、すべて最初の戦では討ち果たせず、上手の手から水がこぼれるごとく取り逃がしているが、これはわざと討ち果たさずに逃がしてやったと見るのが正解のようであるという。早雲は徹底した合理主義者で、目的はあくまで領土の奪取であり、人の命の奪取ではなかった。適を追放すれば目的は達成するのである。しかも、適を追いつめれば、壮絶な肉弾戦となり血なまぐさいしこりが残り、さまざまな恨みを買う可能性が大きい。他国者として己を常に意識して来た早雲にとって、極力怨みやしこりが残る事を回避した。これこそ早雲の真骨頂で、単なる力を誇示する武将ではなく、和を尊び民政を大事にする遠望深慮に富んだ治世型の武将であった。
また早雲はそれまで五公五民、あるいは六公四民と言われた年貢を四公六民にした撫民策や、長子相続制度や家臣団を組織し城中に住まわせるなど、先駆的な封建制度を確立し、一族の和をもっとも大切に考えていたことが、彼の残した家訓『早雲寺殿廿一箇条』に如実に現われている。

磯野 秀昌(いその ひでまさ) 花と火の帝

無資料。

(いた〜いん)

板部岡 融成(いたべおか みちなり) (1537〜1609)

小田原北条氏の宿老。本姓田中。越中守。入道して江雪と号す。奉行衆。
元は伊豆下田の真言宗の僧侶であったともいわれ、鎌倉執権北条氏の末流で、伊豆国狩野荘内田中郷に土着し田中氏を名乗ったとされる。
若くして文章に秀で、佑筆として北条氏康に仕えた。氏康の側近板部岡康雄(やすかつ)の養子となり、家督を継ぎ、家臣と知行地を継いだ。侍大将としても有能で、外交交渉にも秀でて、元亀四年(1573)、甲斐の信玄死去の実否を確かめるために江雪(融成)が甲府に派遣される。天正十年(1582)には、甲斐国の領有を巡って家康と対立した際、江雪が交渉役となって浜松城を訪れ和睦の工作を行なった。また、天正十七年(1589)に秀吉が氏直に上洛を求めて来た時には、使者として大阪城に登っている。この時、秀吉は弁才優れた江雪をすっかり気に入り、小田原城開城後、大阪城に呼び寄せ御咄衆として仕えさせた。その後、徳川家康に属し、会津征伐に従軍。姓を岡野と改め、旗本に列し長津田(横浜市)を知行した。
茶の湯の達人でもあり、茶人山上宗二が江雪に茶の湯の秘伝書を与えている。

伊丹 大隈守(いたみ おおすみのかみ) 見知らぬ海へ

元今川水軍。摂津伊丹城主伊丹大和守雅興の子。
伊丹城落城の時、家臣に抱えられ逃れ、今川義元の同朋衆となり、後北条氏真に仕え海賊奉行となった。(『見知らぬ海へ』118p)

伊丹 雅興(いたみ まさおき) 見知らぬ海へ

大和守。元摂津伊丹城主。伊丹大隈守の父。

伊丹 弥蔵(いたみ やぞう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

直参旗本。
夏の陣で松平忠輝の行列に長坂六兵衛信時と馬を乗りかけ制止されるも聞き入れず、逆に刀を抜いたため同家臣団に切り殺される。

一条 兼遐(いちじょう かねよし) 花と火の帝

無資料。

一条 兼冬(いちじょう かねふゆ) 一夢庵風流記

関白。

一橋 如見斎(いちはし にょけんさい) 吉原御免状、かくれさと苦界行

六字流刀術の創始者。吉原新町野村玄意の剣術の師。市橋恕見斎とも書かれる。
六字流刀術とは、一橋如見斎の創始になる、刀術と柔術を混合した極めて実戦的な術である。(『かくれさと苦界行』234)
『青楼年暦考』には「一、新町野村玄意は、其頃隠なき柔気一流の名人、市橋恕見斎の弟子にて、宮本氏とも懇意也」とある。
中里介山氏の『日本武術神妙記』にある市橋恕軒斎の記述を下に紹介。
「慶長十七年に大鳥逸平という悪者があった、彼は喧嘩を好み、辻斬をなす悪党であった。逸平が京都に行っていた時分に江戸から市橋恕軒斎という剣術家が召捕りに向ったが、彼等が遊んでいる茶屋へ乗り込んで、「御上意」と声をかけた処が、逸平が心得たりと刀を抜いて斬りつけたがその太刀筋が酒樽を斬って柱まで斬り込んだ、併し、恕軒は有名な手利きであったから逸平を生捕って江戸へ曳いて来た、逸平もこの恕軒の腕には恐入って自分の差料の刀は恕軒に譲り度き由を申して恕軒に伝えたが、はちまきという名の刀であった。
 この市橋恕軒の免許剣術の巻物を見ると六字流柔術と書いてある。この恕軒斎の弟子、野村玄意はまたその頃隠れなき柔気一流の名人であって宮本武蔵などとも懇意であった。 (青楼年暦考)」

佚斎 樗山子(いつさい ちょざんし) 

→ 丹羽 忠明(にわ ただあき)

一色 秀勝(いっしき ひでかつ) 影武者徳川家康、花と火の帝

無資料。

伊東 祐兵(いとう すけたけ)

民部大輔。飫肥藩主。
伊東祐慶の父で、伊東マンショの母町上の異母弟。秀吉に仕え、島津征討に従い、伊東家の旧領日向国のうちの一つ飫肥郡を与えられる。

伊東 祐慶(いとう すけよし) (1589〜1636)影武者徳川家康

飫肥藩主。伊東祐兵の息。通称熊太郎。右京亮・修理大夫、従五位下。初名祐典。
関ケ原では東軍に属し、病に倒れた父に代わって日向に帰国し、高橋元種の宮崎城、島津氏の佐土原城を攻めた。ところが高橋元種は東軍に寝返っていたため問題となり、やむなく攻将稲津掃部を処分。宮崎城攻めは黒田如水の指示であったといわれる。検地後五万七千石の領有を認められた。

伊東 長次(いとう ながつぐ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

丹後守。豊臣家家臣
七組頭衆の一人。

伊東 マンショ(いとう まんしょ) (1569頃~1612)

天正遣欧使節正使。日本名不詳。父は伊東修理亮祐青。母は伊東義祐の女町上。
父修理亮が家族の無事息災を祈願して天正三年(1575)に奉納した法華嶽薬師堂(現宮城県東諸県郡八代村)の天井板にある記述から、幼名は虎千代丸と推定される。伊藤鈍満所(イモラ市文書、ヴァチカン文書)洗礼名Mancio(ポルトガル・エーヴォラの古代の殉教者Mancioに由来)「シュリニスケなる父を有し」「同じ日向国のトノクリに生まれ」とローマ元老院関係のラテン語の文書に記されている。また、同じ元老院の別のスペイン文には「ドン・マンショは日向王の孫、すなわち娘の子で、父は日向国の大侯であったシュリノスケである。ドン・マンショはその国のトノクリの出身で、ドン・マンショと豊後国王フランシスとは、マンショの伯父、すなわちマンショの母の兄弟と国王フランシスの姉妹が結婚しているという親族関係」とある。天正四年(1576)頃、島津氏に追われて豊後臼杵に逃れて来た伊東一族の中に虎千代丸もいた。その翌年、外祖父の義祐らが伊予に逃れたが虎千代丸は取り残され、その頃臼杵に赴任していたイエズス会宣教師ペドゥロ・ラモンと出会ったものと思われる。経緯は不明だが虎千代丸はラモンに引き取られて養育され、天正八年(1580)、洗礼を受け「マンショ」という教名を授かる。その前年、日本に上陸したイエズス会東アジア巡察使ヴァリアーノは、日本の布教の現実に触れ、日本人を教化するには日本人の伝道師を養成する必要を実感、島原にその養成のための学校セミナリオを建設し、各地の宣教師らにその生徒を集めるよう指示した。日向国王の孫で豊後国王の縁戚にあり、しかも反対する親の無いマンショは、その生徒として最適任者となった。天正十年(1582)二月、大友宗鱗の名代に奉り上げられ使節団正使となって、千々石ミゲルらと共に長崎から渡欧。それから八年余が経った天正十八年(1590)七月、一行は長崎に帰ってきた。その年の末には、マンショら正副四使節の少年(青年)たちはヴァリアーノと共に上洛、秀吉の謁見の許可が下りるまで室津に滞在、その間年賀のため上洛する諸侯らの訪問を受け、ようやく閏正月に秀吉と聚落第で謁見した。有馬に戻ったマンショらは、天草の修道院で修練、文禄二年(1593)イエズス会修道士としての誓願を立てイエズス会士となる。やがてマンショとジュリアンは、三度日本にやってきたヴァリアーノの推挙で、司祭としての教育を受けるべく慶長五年(1600)、マカオへ留学。三年後の慶長九年(1604)長崎に帰り、慶長十二年(1607)中浦ジュリアン・原マルチノと共に、長崎の被昇天聖母教会で司教ルイス・セルケイラによって司祭(パードレ)に叙せられた。それから五年後の慶長十七年(1612)、マンショは長崎のイエズス会の学院で病歿した。享年四十三歳。

伊東 義祐(いとう よしすけ)

日向国国守。
鎌倉期、源頼朝によって日向国地頭職に任ぜられた工藤祐経を祖とし、六代祐持の代に日向に下り日向国都於郡城を本拠とする。やがて、佐土原と宮崎にも居城を構え土豪化し日向国主となる。伊東義祐はその十代目で、嗣子義益の妻に豊後国主大友義鑑の女(大友宗麟の妹)阿喜多を迎え、大友家との同盟を結び南の島津氏に対するが、永禄十二年(1569)、嫡男義益が二十四歳の若さで世を去ると、孫で嗣子のまだ幼い義賢の後見役となる。その義賢が家督を継いだ数カ月後(天正四年頃)、日向国は島津氏の侵攻を受け、都於郡城にいた伊東一族は義益の妻の実家大友家を頼って落ちのびた。宗麟の妹でもある阿喜多とその遺児義賢、祐勝は臼杵城内に迎えられるも、義祐以下縁戚関係にない一族は城下で宿を与えられたが、冷遇され義祐らは伊予に逃れた。

伊藤 一刀斎(いとう いっとうさい) (生没年不詳)

景久。前原弥五郎あるいは前原筑前。伊豆の出身とされる。一刀流の祖。
鐘巻自斎から同流小太刀、自斎工夫の中太刀を学び、諸国を修行し試合をすること三十三度と伝えられる。
いずれにしろ、一刀斎の事跡は不明なところが多く、謎につつまれ、生国・生年・没年などを含め諸説あり、確実なことは分っていない。
自斎の許で鍛練を積んだ弥五郎は、門弟中で彼にかなう者がいなくなり、「私は、いま御流儀の妙所を会得しましたから、お暇をいただきます」と言った。自斎は怒って、高慢の鼻をへし折ろうと立ち合ったが、三度闘って三度とも敗れてしまった。驚いて訳を聞くと、弥五郎は「先生が私を打とうとすると、それが私の心に写ります。ただ、それに応じるだけです。頭がかゆいと自然に頭に手が行くようなものです。妙とは心の妙であって、師から教えられるものではありません」と答えた。これが一刀流の「睡中抓痒処(睡中かゆきをなづ)」の教えとされる。ともあれ自斎は感心し、妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の極意、奥秘の刀法五点を授けた。

[逸話]『耳袋』
伊藤一刀斎剣術弘めんと諸国修行せし折から、淀の夜船にて大坂へ下りける。右船の船頭は力量勝れたる者にて、一刀斎木刀を携へたるを見て、「御身は剣術にても修行し給ふや。剣術は人に勝道理なるべけれど、我等が力にては普く剣術の達人にても叶ふべしとおもはず。手合可被致哉」といふ。一刀斎様子を見るに飽まで強剛に見へければいかゞと思ひしが、「迚も剣術修行に出、たとひ命を果すとも辞退せんも本意なし」と、互ひに死を約束し陸に上りけるが、船頭は櫂を片手に持て拝み打に一刀斎を打けるを、身を披きはづしければ、力の余りける哉大地へ右櫂を打込、引抜んとせし所を木刀を持て櫂を打落し諸手を押えければ、船頭閉口して弟子と成り、随身し諸国を歩行けるが、元来力量勝れし故、国々におゐて立合の節も一刀斎は手をおろさず、多分は右のもの立合、いづれも閉口して門弟となりしも多しとかや。然れども右之者元来下賤の者にて、其上心ざますぐならざりしや、一刀斎に閉口しけるを遺恨に思へると見へ、立合にては叶はねば、夜陰旅泊にて一刀斎が睡るを待ては付ねらひし事数度なれども、一刀斎が身の用心透間なければ、空しく供をして江戸表へ出けると也。然るに将軍家より一刀斎を被召けれ共、同人儀は諸国修行の望み之有のよしを以御断申上候故、門弟の内を御尋有ければ、小野次郎右衛門を吹挙ありて可被召出に極まりける時、彼船頭大に恨て、「我は最初より一刀斎に随ひ倶に流義を弘むる功あり。此度将軍家の御召に末弟の次郎右衛門を吹挙の事心外なり。迚も生て益なし。次郎右衛門と真剣の仕合を以て生死を定めたき」旨望み申ければ、一刀斎答へけるは、「其方儀最初より随身の者なれども、是まで度々我を付狙ふ事覚えあるべし。今迄生置しは甚の恩徳なり。併ながら次郎右衛門と生死を争んは望みに可任」とて、次郎右衛門を呼て委細の訳申談じ、勝負可致旨申渡、頓て次郎右衛門へ伝授の太刀を免しければ、則立合の上、次郎右衛門が一刀の下に船頭露と消にけり。さて次郎右衛門は被召出て、尚又牢内に罪ある剣術者を撰れ立会被仰付、是又次郎右衛門が妙術を顕しければ、千石にて被召出けるとなり。(『耳袋』巻之一)

伊藤 勝右衛門(いとう かつえもん) 死出の雪

安藤喜八郎光乗の騙り名。

伊藤 三丞(いとう さんじょう) 風の呪殺陣

無資料。

伊藤 仁斎(いとう じんさい)

学者。名は維禎。京都の出身。

仁斎
伊藤仁斎維禎字原佐。京都人。
大に古来の規矩を破り。後生少年ます/\異説を肆にす。仁斎始て先儒の遺轍を改め。孔孟の後二千余年。一時に排却して蜀一家の言を立て。然して実は明末諸儒の余唾を拾ふに過す。(『斯文源流』)

伊藤 忠雄(いとう ただお) 

一刀流の正統第四世。亀井平右衛門。
伊藤忠雄は一刀流の正統第四世を継いだ名人であるが、本姓は亀井氏、平右衛門と称し世々紀州藤代郷重根邑にいた、父の右京吉重が故あって根来氏を称していたこともある、忠雄が八歳の時家に悪い奴僕がいて年は十九であったが、主人の子たる忠雄を馬鹿にしたり嘲弄したりして堪忍なり難いものがあったので、忠雄はヒ首を携げて立ち所にそれを殺してしまった。
 十四歳になって剣を小野治郎右衛門忠明に学んだ、忠明が残してその子伊藤忠也に従い遂に奥秘を極め、忠也門下に於いてその右に出でるものがなかった、そこで忠也は流祖一刀斎景久、父治郎右衛門忠明、真伝の印証並びに一文字刀を授け、推して一刀流第四世となして藤原の姓及び伊藤の姓をもそれにつけて授けた、それより後忠雄の業日々精しく、流儀を洗練して入神の境に至った、来って学ぶものが雲霞の如くであった、またこの人は射術も好んで精妙の域に達した、甲斐の徳川綱重及び綱豊(後家宣)に仕えたが、元禄四年五月十二日に九十一歳の高齢で亡くなった、子の忠貫がその後を継いだ。(事実文編)(中里介山著『続日本武術神妙記』)

伊藤 政世(いとう まさよ) 捨て童子松平忠輝

高田城普請奉行。

伊藤 光兼(いとう みつかね) 影武者徳川家康、柳生刺客状

長門守。加藤清正家臣。
柳生兵庫介に斬られる。

伊藤 武蔵守(いとう むさしのかみ) 影武者徳川家康

豊臣家家臣。
大阪城と運命を共にする。

稲垣 忠政(いながき ただまさ) 影武者徳川家康

将監。忠吉家臣。
忠吉の死に殉死。

稲富 一夢斎(いなどめ いちむさい) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、柳生刺客状

直家。近世砲術の祖。
稲富一夢(いなどめいちむ)が創始した砲術は稲富流と呼ばれ、後世の砲術に大きな影響を与えたといわれる。
稲富一夢は丹後一色氏に仕え、一色氏の滅亡後、細川忠興に仕えて重用されていたが、主君出兵の留守中、忠興夫人ガラシャの自害に殉死しなかったため、主君の勘気に触れ逃亡の身となる。これを一時匿ったのが、関ヶ原合戦後に佐和山城に入った井伊直政だった。直政は一夢の弟子であったとも伝えられ、一夢は慶長六年(1601)、当時の家臣の名を記した「分限帳」にも、「稲富一夢斎」として名を連ねている。
後に、一夢は家康を頼り忠興の勘気を許され、清洲藩主松平忠吉や、尾張徳川家に仕えるが、佐和山時代には、宇津木治部右衛門(うつぎじぶえもん)、沢村角右衛門、齋藤半兵衛ら井伊家家中に砲術を伝授した。彦根藩に広がったこの砲術の技術は、大坂の陣で大活躍したという。夏の陣の最終段階、豊臣秀頼、淀君らが立て籠もる大坂城を彦根藩が砲撃し、自害に追い詰めた。
中里介山の『続日本武術神妙記』に「稲富伊賀」として、以下の文がある。
「稲富伊賀は稲富流砲術の祖で丹後田辺の人であったが細川忠興に仕えた。忠興も鳥銃が上手で戦争の合間には山野に猟をして楽しんだ、伊賀もこれに従って猟をして歩いたが忠興の方が獲物がいつも多いのである、そこで忠興が伊賀に向っていうことには、
「その方は世に聞えたる鉄砲の名人である、ところが猟をさせると獲物は吾等に及ぱない、これでは名前倒れというものではないか」
 伊賀がそれを聞いて答えていうには、
「御尤もでございます、あなた様はたしかに鉄砲にかけてはお上手に相違ない、論より証拠獲物に於ても遙かに我々共が及びもつかないことでござる、併しながら拙者にはまた拙者の得意がござりまする、弾丸の跡を御検分下さると分ります」
 そこで忠興が獲物の身体を調べて見ると伊賀の獲物に当った弾丸は皆んな坪が定っていたが忠興のは当ってこそいるけれども身体中あちらこちらに弾丸が散らばっている、そこで忠興は成程と感服したということである。(事実文編)」

稲葉 一徹(いなば いってつ)

良通。「美濃(西美濃)三人衆」の一人と称された斉藤道三の家臣。道三没後、信長に使える。春日局の養父稲葉重通の父。
[稲葉一徹]
○稲葉一鐵(伊予守と云って道三の臣下、妹は道三嫡子義龍が侍なり)信長にしたがふといへども、心腹しれがたきによりて、数寄屋にてころすべしとおもひ、一日これをまねく。相伴ふ人三人あり。あいさつにすきやへ入る時、かけものゝ絵讃をよましむ。一徹すこし文才あればなり。即其さんをよむ。三士そのこゝえおいかんと問へば一鐵委細これをとく。信長かべをへだてゝこれをきゝ居、戸をあけて入て曰、一鐵はあら勝負をする勇士とばかりおもひおれり。今讃をよむをきくに、文学にも達せり。われ朝夕鎗をにぎり、馬をはせ、隙なき時に奇どくの事、感ずるにたへたり。今日のもよをしは一鐵を賞するにあらず。二心あらんかをうたがひころさんとするこころなり。三士にみな懐剣をさゝしむ。今客が文才の為にこれをゆるす。是より永く我が謀臣となれと云て、三士の懐剣を出さしめて示す。一鐵拝して死をなだめらるゝ条まことに忝し。臣も内にぞんずといへどもせん方なきによりて随従す。さだめてすき屋にてころさるべし。一人は是非あひ手にとらんと存じ、おぶるところなりとて、懐中より懐剣をとりいだして信長の前にさしおく。信長その用意をかんじ入れり。(『見聞談叢』)

井上 直之進(いのうえ なおのしん) 死ぬことと見つけたり

無資料。

井上 隼人正(いのうえ はやとのしょう) 一夢庵風流記

上杉家家臣。
『上杉将士書上』を著す。

井上 正就(いのうえ まさなり) (1577〜1628)吉原御免状、花と火の帝

半九郎正就。従五位下主計頭、五万二千五百石雁間城主。父は井上清秀。
清秀の長男として生れ、幼少から秀忠に仕えた。元和元年(1615)、加増され一万石小姓組番頭となり、翌年奉行人に進んだ。さらに同八年には五万二千五百石に加増され、遠江横須賀を領し老職となる。
寛永五年(1628)、江戸城西の丸殿中にて目付豊島明重の刃傷により絶命、51歳。

猪熊 教利(いのくま のりよし) 影武者徳川家康、花と火の帝

公家。慶長期の傾奇者として名を馳せる。
宮中の官女等と遊興に耽り、風紀紊乱の科で後陽成天皇の怒りにふれ、共謀者の兼安備後と共に逐電。潜伏先で捕えられ、京に送り返され斬首の計に処せられた。
三田村鳶魚氏の『男女の道』に関連記述あり参照ください。

猪俣 邦憲(いのまた くにのり) (生没年不詳)

沼田城代。鉢形城城主小田原北条氏邦の家老。能登守。
江戸城城代富永氏の出身で、天正七年(1579)まで富永助盛と名乗った。北条氏邦の奉行人を務め、氏邦の邦の一字を拝領。上野国進出の先鋒部隊長として活躍。天正十五年(1587)箕輪城代、天正十七年(1589)沼田城代に任命される。沼田城の利根川を挟んだ対岸の名胡桃城を巡って真田氏と抗争。真田昌幸は、名胡桃城には真田氏歴代の墓所があると訴え、豊臣秀吉の調停に持ち込んだ。秀吉は昌幸の主張を受け入れ真田氏の領有と裁定するが、納得しない北条氏政は、秀吉との決戦も辞さぬ覚悟でひそかに邦憲に名胡桃城攻略を命じた。邦憲は同十七年十月名胡桃城を攻め落とし沼田城の領有とした。真田昌幸はこの違約を秀吉に訴え、激怒した秀吉は小田原北条氏に宣戦を布告、小田原征伐が決定した。翌天正十八年(1890)四月、北陸からの征討軍として上杉・前田両軍と真田軍が松井田城を始め上野国の小田原北条氏方の支城を次々と陥落させ、沼田城も真田勢に功囲され落城。邦憲は箕輪城に逃れるも捕らえられ礫刑に処せられたとも、逃亡して行方不明になったとも伝えられている。

伊庭 秀明(いば ひであき) (1648〜1713)

是水軒。常吟子。信州出身。心形刀流の祖。
各地を遍歴し広く諸流を学び、大和の山中で妻片貞明(謙寿斎)という隠士にめぐり会い、その教えを受けて大悟。江戸に戻って一流を開く。その最初の流名は「本心刀流」と称したが、後に「心形刀流」に改めた。

茨木(いばらぎ) 吉原御免状

羅生門の鬼。茨木童子。
『歴史用語の基礎知識』「童子」の項参照。

伊吹童子(いぶきどうじ) 捨て童子松平忠輝

『歴史用語の基礎知識』「童子」の項参照。

今泉 清信(いまいずみ きよのぶ) 捨て童子松平忠輝

山城。
伊達家家臣。

今泉 令史(いまいずみ れいし) 影武者徳川家康

慶長遣欧使節の一員。

今木 源右衛門(いまき げんえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

秀頼近習。

今倉 孫三郎(いまくら まござぶろう) 影武者徳川家康

大野治房の放った刺客。

今出川 宜季(いまでがわ のぶすえ) 花と火の帝

無資料。

色部 光長(いろべ みつなが) 一夢庵風流記

最上の戦い上杉軍第一軍。

岩井 鬼晋麿(いわい きふまろ)

正俊。刀工源清麿の弟子。『鬼麿斬人剣』の主人公鬼麿のモデルとされる人物。

《瓢水の「一話一言』》
[鬼麿のモデルは“岩井鬼晋麿”なのか?]
 岩井鬼晋麿という人物が気になっている。とある掲示板の書き込みに、「鬼麿のモデルは清麿の弟子の岩井鬼晋麿だと言われている。鬼晋麿は慶応3年に江戸で暗殺されている」とあったからである。そこで、清麿関連の書籍を何冊か当たってみた。
 佐藤寒山『日本刀を語る』(青雲書院)には、「清麿の門人には、江戸の人鈴木次郎正雄、上総国正直、同じく岩井鬼晋麿正俊らが先輩格で、次いで越後国の出身者に栗原謙司信秀があり、出羽庄内の出身に斎藤一郎清人がある」(182頁)とあるので、上総国の出身であること、清麿の比較的早い時期の弟子であったことが判る。残念ながら、慶応3年(1867)の暗殺についての記述は見当たらなかった。
 以上が、岩井鬼晋麿について知り得たすべてである。鬼麿のモデルと言うよりは、“鬼”と“麿”という相反するイメージが隆先生の想像力を刺激したのかもしれない。
【追記】岩井鬼晋麿に関する情報をご存知の方は、是非ご教示下さい。出典も明示して頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。(2004年2月12日瓢水記)

岩渕 秀信(いわぶち ひでのぶ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

近江守。
陸中東磐井郡藤沢城主。

岩松 八弥(いわまつ はちや) (?〜1549)影武者徳川家康

松平広忠家臣。
天文十八年(1549)三月六日、主君松平広忠(家康の父)に斬りつけて殺す。

岩見 重太郎(いわみ じゅうたろう) 影武者徳川家康

薄田兼相のまたの名。
講談などの「岩見重太郎の狒々退治」で有名となる。この講談では、重太郎は少年時代、天狗に従って山に籠り三年間修行した後、家に戻ってきたとされている。『花と火の帝』で岩介が天狗に従って十年間修行した話と通じる。この重太郎は僅か三年間の修行で、七十人力の力を授かり、数々の豪傑譚を披露する事と成る。
毛利家の家臣の倅であった重太郎が何故仙台まで出掛けたのかも解せぬが、それが講談の講談たる所以で、諸国を廻るのが兵法家の常ということで話はそういう事になっている。その帰りにとある庄屋の家の前に差し掛かると、人々がおろおろしているのに出くわし、訳を尋ねる。すると、庄屋の一人娘を岩屋に棲む狒々に、人身御供で提供しなくてはならないのだという答が返ってきた。こうしてその娘に替って岩屋に出掛け狒々を退治するというのが所謂『岩見重太郎の狒々退治』で、その後も、重太郎の豪傑譚は続き、天橋立では中村一氏の軍勢二千五百人に対し、植松藤兵衛と二人で斬り込み、重太郎は千人切の活躍を見せる。そこへ助っ人として後藤又兵衛、塙団右衛門が現れるのだから、当時の人々はわくわくしながらこの講談を聞いていたのだろう。
→ 薄田 兼相(すすきだ かねすけ)

(う〜うん)

上杉 景虎(うえすぎ かげとら) (〜1579)

北条氏秀。三代氏康の七男。武田三郎。上杉三郎景虎。
幼少期に禅寺の渇食となっていたが、北条氏が武田信玄と同盟を結んだ時に、信玄の養子として甲斐に赴き武田三郎と名乗った。しかし、甲相同盟が破れ小田原に帰される。
元亀元年(1570)、信玄の宿敵上杉謙信との越相同盟が成り、今度は上杉氏の養子として越後に行く。この時、謙信は大いに喜び沼田城まで出迎え、直ちに春日山城へ迎え入れ自身の旧名を与え上杉三郎景虎と名乗らせた。
しかし、信玄を共通の敵として結ばれた上杉・北条の同盟は長くは続かなかった。元亀二年(1571)、病に臥した氏康は「謙信頼むにあたらず。もう一度信玄と手を結べ」と遺言を残して死ぬと、氏政は信玄と再び同盟を結んだ。謙信はこれに激怒したが、景虎を殺しもせず、送り返す事もなく、これまで通りに処遇した。一生妻帯せず独身で通した謙信には実子はなく、景虎の他に長尾政景の子で景虎の妻の兄にあたる一歳年上の長尾景勝がすでに養子として春日山城にいた。
天正六年(1578)三月、謙信が後継者を指名しないまま春日山城で急死したため、景勝と景虎は相続を巡って争い(御館の乱)、越後を二分する大乱となった。一時は甲斐武田軍の援軍により、景虎が優勢に事を進めていたが、坂戸城攻防を巡り北条軍は越後の深い雪に阻まれ兵を進めず、景勝は上田庄の坂戸城を死守した。さらに景勝が武田氏と和睦し、武田軍が撤退したため形勢は一気に景勝に傾き、天正七年(1579)三月、ついに御館は陥落、からくも脱出した景虎は御館の南にある鮫ヶ尾城に逃れるがここも包囲され自刃した。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) (1530〜1578)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

幼名を猿松、虎千代といい、平三。元服して景虎。のち政虎、照虎。謙信は出家後の名。母は虎御前。宗心ともいった。関東管領、弾正少弼に叙せられる。
享禄三年(1530)、越後守護代長尾為景の子として生れる。天正六年(1578)三月、本城の越後春日山城で没。享年49歳。
初名は景虎、のち政虎、さらに輝虎と改め、入道して謙信と称す。母の名と、寅年生れだったことから、虎の字を離さなかった。天文十七年(1548)、兄晴景と継嗣問題で争い、守護上杉定実の調停によって、兄は隠居、景虎が家督を継ぎ越後春日山城主となった。ときに景虎十九歳。戦にかけては卓抜の才を示し、その勇名は近隣になりひびく。北条氏康に追われた関東管領上杉憲政および武田信玄に圧迫せられた信濃の村上義清らも越後に援を求めたため、これより後、氏康・信玄に対抗してしばしば兵を信濃・関東に進めた。なかでも、川中島における信玄との決戦は、戦国武将の合戦の華として最も有名である。しかし、信玄との確執のために時間と精力を費やし、全国制覇へ出遅れることになった。この間、憲政から上杉の姓と関東管領を譲られ、天正元年(1573)、越中を平定ついで能登、加賀に進出し信長と対決、上洛しようとしたが夢半ばにして病死。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
天文五年(1536)、父が没した後、春日山の林泉寺に預けられたという。同十二年(1543)には栃尾城にあり、栖吉長尾氏に援護されて中越を平定したが兄晴景や長尾政景と対立した。同十七年(1548)十二月、晴景の跡を継ぐ形で春日山城に入り、同二十年(1551)には政景を抑える。同二十二年(1553)、信濃川中島で武田信玄と戦う(川中島の合戦)。同年上洛して後奈良天皇から勅令をこうむり、将軍や本願寺及び朝倉氏と連携を取り弘治元年(1555)、また川中島で信玄と対陣五ヶ月に及ぶ。これにより国人層の不満が高まり、謙信は隠退を決意して高野山に向かったが家臣らの要請で帰国。同三年(1557)、飯山城に迫った武田軍を迎えて善光寺に布陣。同年、上杉憲政が越後に逃れてきて関東管領職・系譜・重宝などを謙信に伝えようとし、永禄二年(1559)、再度上洛して将軍の許しを得た。同四年(1561)三月大軍を率いて関東に入り小田原城を攻めるも、北条氏康の反攻に遭い上野国厩橋に引き揚げた。同年八月また川中島で武田信玄と対陣、九月八幡原で決戦したが善光寺に退却、越後に帰った.その後しばしば関東・信濃に出兵、また近隣諸勢力と活発な外交戦を展開したが元亀三年(1572)、信玄が西上の軍を起すと謙信は織田信長と同盟し、越中富山城を攻略し天正元年(1573)、信玄が没すると越中を平定した。同年、本願寺と結び信長と断交、同五年(1577)、能登七尾城を陥れ、加賀国手取川の戦いで織田軍を破る。しかし同六年(1578)三月、関東出陣を前にして脳溢血で急逝。謙信は六尺近い体格だったが、和歌をよくし、信仰心の厚い人物であったといわれている。
[名言名句]
「我は兵を以て戦いを決せん。塩を以て敵を屈せしむる事をせじ」
この言葉は、永禄十年(1567)に謙信が述べたとされ『正武将感状記』の中の一節。
「四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒」謙信、最後の言葉。
(『名言名句活用事典』)

上田 角左衛門(うえだ かくざえもん) 捨て童子松平忠輝

松平忠吉の家臣。
三十三間堂の通し矢で慶長十二(1607)年、百二十六本を射通す。

上田 吉之丞(うえだ きちのじょう)

富田信高の家臣。馬術の達者。
信高改易後、牢人となって江戸に出、旗本等に馬術を教えていたとされる。
《瓢水の『一話一言』》
[金春七郎の馬術の師・上田吉之丞の活躍]
 隆先生が発見した不世出の剣の天才・金春七郎氏勝は、大坪流馬術を上田吉之丞について学んだ。吉之丞は実戦でも鮮やかに活躍したようだ。時は慶長5年(1600)8月、毛利秀元率いる西軍が、東軍の富田信高が籠る伊勢の安濃津城を攻めた時のことである。
 「富田信濃守信高、勢州城に籠る。大坂より毛利甲斐守秀元、長束大蔵太輔正家、宍戸安芸守隆家、鍋島信濃守勝茂(中略)以下を差向けられ、稠(しげ)く城を攻らる。既に毛利秀元の軍兵、城中へ込入けるに、信高が家人上田吉之丞と云者あり、渠(かれ)は無双の馬術の達者にて名を知れたる者なりしが、敵の大勢を門より外へ追出して則(すなわち)木戸を下しけり。(関原記)」(高柳光壽・白井喬二共編『日本逸話大事典 第2巻』人物往来社、591頁)。
 この吉之丞は、富田一白、信高に仕えたが、信高が改易となった際に浪人し、江戸に出て旗本の加藤勘助重正らに馬術を伝授したと云う(『日本大百科全書 第3巻』小学館、17頁)。ついでながら富田信高は、花井主水正の念友とされた佐野正綱の兄にあたる。(2005年1月6日瓢水記)

上田 朝直(うえだ ともなお) (1494〜1582)

武蔵松山城(埼玉県東松山市)城主。左近大夫。能登守。入道して安独斎、号を宗調(宗調は別人との説有)。
天文十七年(1548)前後に小田原北条氏康に属し、他国衆となる。永禄二年(1559)の「北条氏所領役帳」には四百七十一貫の知行高をもって記されている。
永禄四年(1561)閏三月、長尾景虎が関東に進出した時には、朝直を頭に松山衆が大活躍したが、同九月、反北条の太田資正に城を攻略され、秩父谷に退却した。永禄六年(1563)二月、氏康は松山城を奪還せんと出陣、武田信玄の援軍もあって北条軍は五万五千の大軍を持って松山城を攻略、朝直は再び松山城主に返り咲いた。
天正三年(1575)、家督を長男長則に譲り隠居。天正十年(1582)十月、松山で没した。享年八十八歳。

上田 主水(うえだ もんど) 影武者徳川家康

浅野家家臣

宇喜多 秀家(うきた ひでいえ) (1573〜1655)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、見知らぬ海へ、柳生非情剣

天正元年(1573)生まれ。宇喜多直家の次男。明暦元年(1655)11月、配流先の八丈島で天寿を全うす。84歳。
幼児より秀吉に養われ、秀吉に従い、四国、九州、小田原の役などで軍功をたてる。太田城攻めに参加。さらに文碌の役で明の将軍李如松を碧蹄館に逆襲したのは有名。続く慶長の役にも出陣。備前、美作、備中半国、播磨三群五十七万四千石を領す備前岡山城主となった。秀吉に信任され五大老の一人となるが、関ヶ原の戦では三成方の参謀となる。関ヶ原で敗れた後、秀家は薩摩に逃れた。役後、徳川に降った島津氏の懇望により死をまぬがれるが、慶長十一年(1606)、八丈島に流される。以後五十年島に住み、苫編みを生業としながら生活をしていたという。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
[逸話]
浮田中納言秀家、八丈島の謫所に在て長生せり、或る時阿州より江戸へ廻送する藩船風波に遭ふて此の詩間に漂着しけるに、秀家船吏を喚入れて何国の船なりやと問はる、松平阿波守の船なりと答へけるに、左様なる大名は聞かざりしと云はれければ、蜂須賀のことなりと言ひけるに、秀家不審の面色にて、蜂須賀の家は今にても立ちあるやと怪まれけるとぞ(渡辺太郎)(『想古録』)

宇喜多氏女(うきたしむすめ)

吉川広家の正室。豊臣秀吉養女。宇喜多秀家の姉。
毛利輝元と和議を結んだ秀吉は、毛利両川体制といわれる吉川氏、小早川氏を秀吉側に取り込むために、秀吉の重臣宇喜多秀家の姉を養子にして、広家に嫁がせたといわれている。

宇佐美 弥五左衛門(うさみ やござえもん) 一夢庵風流記

浪人のいくさ人。上杉の助っ人。

氏家 卜全(うじいえ ぼくぜん)  影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

信長家臣。美濃三人衆の一人。
長島一向一揆との戦いで戦死。

氏家 行広(うじいえ ゆきひろ) 影武者徳川家康

内膳正。豊臣家臣。
大阪城と運命を共にする。

宇多天皇(うたてんのう) (867〜931)影武者徳川家康、花と火の帝

第五十九代天皇。
定省(さだみ)。光孝天皇の第七皇子。元慶八年(884)、源姓を賜り臣籍に下りたが、光孝天皇の崩御直前に藤原基経らの推挙によって親王となり、翌日践祚した。
藤原基経が没すると、基経の子時平と菅原道真を登用し、地方行政の再建、官司の統廃合などの政策を進めた。 第一皇子敦仁親王(醍醐天皇)を皇太子とし、皇太子が十三歳になると政務・生活の訓戒を記した『寛平御遺戒』を与えて譲位。上皇となった後、出家し、法皇となった。 (HP「歴史DBスクリーバ」参考)

内田 仲之助(うちだ なかのすけ) 異説猿ケ辻の変

薩摩藩士。

内山 七兵衛(うちやま しちべえ)

将軍家鷹匠頭。
TV時代劇『江戸の鷹』の主人公内山勘兵衛のモデル。
《瓢水の「一話一言」》
[『江戸の鷹』の内山勘兵衛にはモデルがいた!]
 隆先生が手掛けたTV時代劇の代表作に『江戸の鷹』がある。将軍家治の意を受けた内山勘兵衛が「お鷹組」を結成し、田沼意次の悪政に立ち向かう筋立てである。その内山勘兵衛にはモデルがいた。田沼時代を生きた鷹匠頭・内山七兵衛である。小説版のカバー見返しに「内山七兵衛ひきいる四人のお鷹組」と誤記されているので、間違いないだろう。
 『徳川実紀』には、10代将軍家治が幼少の頃から側近く仕えていたこと、将軍の側である小納戸役から鷹匠頭になったこと、鷹狩りが好きだった家治にしばしば随行したこと、等が記され、『江戸の鷹』の勘兵衛同様、家治の信任が厚かったことが窺える。
 そして更に興味深いのは、幼少の頃に凧上げを好んだ家治が、「糸で指を痛めないように」と七兵衛を始めとする近習に弓籠手(射籠手か?)を配った記事である。隆先生が「お鷹組」の面々に弓籠手を着用させたのは、この記事にヒントを得たのかもしれない。(2004年1月4日瓢水記)

宇津宮 五左衛門(うつみや ござえもん) 死ぬことと見つけたり

無資料。

宇津宮 只之助(うつみや ただのすけ) 死ぬことと見つけたり

無資料。

鵜殿 兵庫助(うどの ひょうごのすけ) 影武者徳川家康

直参旗本。
長安事件に連座。

梅宮(うめのみや) (1619〜1697)花と火の帝

文智女王。文智尼。後水尾天皇の第一皇女。母はおよつ御寮人(四辻権大納言公遠の女)。
元和五年(1619)、梅宮は、徳川和子入内の話が具体化し、その視察を兼ねて秀忠が上洛している最中に生まれた。秀忠は和子入内の話は無かった事にすると怒り、幕府と朝廷の関係の悪化を懸念する親幕派の公家らを慌てさせた。その頃、朝廷を取巻く公家社会は徳川政権の支えが無ければ、生活する事も困難な状況にあった。藤堂高虎らの取りなしでようやく話がまとまり、翌年の元和六年(1620)には和子入内は実現するが、こうした政治状況の中で生まれた梅宮は、事実上の女一宮でありながら内親王宣下も行なわれず、母およつ御寮人とともに父帝と別れさせられた。
寛永八年(1631)、十三歳の時に鷹司教平に降嫁するが、永くは続かず僅か三年で離縁している。その四年後(寛永十五年)、母が他界し、母の三回忌(寛永十七年)の法要を終えると、梅宮は得度し文智尼と称した。この時、梅宮の得度を行なったのは一絲文守(久我具尭の三男)で、文守は自らの一文字を含む文智の法名を与え、諱を大通と奉り、祝した。この得度の後、文智尼は父院の別業隣雲亭のある修学院の地に円照寺を開き、厳しい禅戒律の世界に身を置くこととなる。
こうして二十二歳の若さで落飾し、禅門に入った梅宮は、一絲の法弟子として彼を尊敬するとともに、初めて恋慕を抱く相手に出会う。しかし、禅門の厳しい戒律では男女共に居る事はできず、仏法を通じた心の交流を深めるだけで慰める事となる。以後、文智尼は、書簡を通じて一絲の教えを受けるばかりで、たまに顔を合わせても、二人きりの時間は持てない身となっていた。その一絲も、正保三年(1646)、三十九歳でその生涯を閉じた。
二十代の女盛りを一絲との「忍ぶ恋」で耐えた文智尼の真の信仰生活が始る。承応四年(1655)、その円照寺に父法王が東福門院(和子)を伴って訪れた。文智尼が和子と会ったのは、入内以来これが最初だったともいわれているほど、この義母と娘の間は疎遠だったのだが、以来、和子は文智尼のために幕府に知行地を与えるよう働きかけるなど、その援助を惜しまなかったという。梅宮も和子も、立場は違っても時の政治の犠牲者であったことから通じるものがあったのだろう。延宝六年(1678)六月十五日、東福門院は七十二年の生涯を閉じるが、この時、死期を悟った東福門院は、そば近くの女房たちを下がらせ、文智尼と元女院の侍女で文智尼に仕える文海尼だけが臨終を見届ける。その時、枕元にあったのは文智尼ただ一人で、和子は文智尼の読誦する観音経を共に和し、眠るように旅立っていったという。それから二年後の延宝八年(1680)八月十九日、今度は父法王後水尾院の大往生を見届けた文智尼の生涯は、それから十七年間続いた。元禄七年頃から病に臥し、師であり心の恋人でもあった一絲の五十回忌となった元禄八年には「師よ、私はあなたより五十年も長生きしてしまいました。でもお言葉どおりに、信仰一途にここまできました」と感慨深かったが、墓前にぬかずくことはできなかったという。それから一年余病床に臥し、元禄十年(1697)正月十三日、親族は呼ばず、法弟だけにみとられて入寂した。(安田富貴子「文智尼」)

浦島 太郎(うらしま たろう) 影武者徳川家康

お伽話(伝説)の主人公。
京都府北部の古代地誌である「丹後風土記」に、この物語の存在が記されているのをはじめ、日本海沿岸各地に浦島ゆかりの説話が残っている。

(え〜えん)

栄西(えいさい) (1141~1215)

鎌倉初期の禅僧。京都建仁寺の開山。備中の人。明庵栄西。
比叡山に入って天台の顕密二教を修め、葉上流と一派を唱え、葉上僧正といわれる。仁安三年と文治三年の二回に亘って入宗し、南宗の虚庵懐敞(きょあんえしょう)の印可を承けて、建久二年帰国の時、臨済禅とともに茶種を伝えて肥前国背振山霊仙寺石上坊の前苑に栽培し、ついでこれを博多の聖福寺境内に移植した。建仁二年二代将軍源頼家の命によって京都に建仁寺を開き、また頼朝の後室北条政子の招きに応じて相州鎌倉に寿福寺を開き、これに移る。建保二年三代将軍実朝に抹茶を勧めてこの病を癒し、ついで、『喫茶養生記』二巻を献じて、喫茶の功徳を力説すて茶の普及の端緒をなした。その栽培法を門弟の明恵に伝え、栂尾の茶の起源を開いた。建保三年七月五日、鎌倉に没。享年七十五歳。
『喫茶養生記』の他に『興禅護国論』などを著した。

恵信尼(えしんに) (1182~1269頃/没年不詳)

親鸞の妻。兵部大輔三善為教の女。
親鸞と何時結婚したかは不明だが、親鸞が越後流罪中の承元五年(1211)に信蓮房明信を生んでいるので、それ以前に結婚していたとされる。「大谷一流系図」によれば、六人の子女の母となっている。建保二年(1214)、親鸞とともに常陸へ移住。およそ二十年間同居し、『教行信証』の著述に専念する親鸞の傍にあって、子供の養育や家事を行い、来客の接待など夫の生活を支えた。『教行信証』の脱稿とともに、関東での布教活動に一段落つけ、嘉禎元年(1235)頃、親鸞は京へ上る。この時、親鸞一家は幕府の専修念仏弾圧に加え、経済的にも苦しい生活を送っていた事から、恵信尼の実家の僅かな所領が越後にあったため、小黒女房、明信、有房ら子供たちは越後に下った。その後、母恵信尼自身も、建長六年(1254)以前に越後へ下り、別居生活に入る。
弘長元年(1261)、恵信尼は病み、翌年、夫親鸞の死の知らせを病床で聞いた。没年は不詳だが八十七歳の手紙が絶筆ではないかとされている。

江口 道連(えぐち みちつら) 一夢庵風流記

最上家畑谷城主。

江戸 朝忠(えど ともただ) 見知らぬ海へ

無資料。

江馬 輝盛(えま てるもり) 時代小説の愉しみ

飛騨の国人豪族。

遠城 重次(えんじょう しげつぐ) 死出の雪

宗左衛門。大和郡山藩士。
大島流槍術の藩槍術指南役遠城治郎左衛門の三男。

遠城 重広(えんじょう しげひろ) 死出の雪

治左衛門。大和郡山藩士。
大島流槍術の藩槍術指南役遠城治郎左衛門の長男。

遠城 治郎左衛門(えんじょう じろうざえもん) 死出の雪

大和郡山藩士。
大島流槍術の達者で藩槍術指南役として禄八十石で召し抱えられる。

人名(お〜おおき)

おいまの方(おいまのかた) (1578~1595)

駒姫。豊臣秀次の側室。出羽山形城主最上義光の女。
天正十八年(1590)、小田原城を攻略した秀吉は、その勢で奥州征伐を行い、関白秀次も九戸政実征討のため山形に入った。その頃義光は伊達政宗、上杉景勝という強力な大名に囲まれていたことから、中央の権力者との同盟を求めていた。その意味で秀次の山形訪問は絶好の機会となり、まだ十二歳の女駒姫が秀次に見初められ、側室に取り立てられることとなる。五年後、駒姫は秀次の側室として上洛するが、秀次は秀頼の誕生で関白の座を追われるかもしれぬという疑心から乱行に走り、秀吉との関係も最悪な状況となっていた。駒姫が秀次の側室となった三日後、秀次は高野山に追放され自刃。秀次の妻妾や子女三十数人も一族連坐の罪で捕えられ、秀次の首が晒されている三条河原で全員処刑された。側室になったばかりの駒姫も例外でなく、「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」という辞世を残して十七歳の短い命を閉じた。墓所は山形市の専称寺にある。

応山(おうざん) 花と火の帝

関白を辞した後、草々に隠退した近衛信尋が号した名。→ 近衛 信尋(このえ のぶひろ)

大海人皇子(おおあまのみこ) (?〜686)影武者徳川家康、花と火の帝

舒明(じょめい)天皇の皇子。
兄天智天皇の皇太弟となって政治を助けたが、のち対立。天智天皇が亡くなったあと、壬申の乱で大友皇子をほろぼして即位、天武天皇となる。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や八色(やくさ)の姓(かばね)の制定、国史の編さんなどを行わせ、律令国家体制の強化につとめた。

大石 団蔵(おおいし だんぞう) 異説猿ケ辻の変

土佐藩士。
土佐勤王党に加盟し、安岡嘉助、那須真吾と共に土佐藩参政吉田東洋を暗殺し脱藩。

大石 主税(おおいし ちから)  (〜1703)時代小説の愉しみ

浅野家家臣。大石内蔵助の嗣子。吉良邸に打ち入った四十七士の一人で、最年少者。
[逸話]
赤穂の義士原惣右衛門は、細川家へ御預けと為りける内の一人なり、或るとき警護の士に討入りの夜のことを話し、我々四十六人のものは、初めより一命を亡君に捧げたる覚悟にて企たることなれば、死地に入る事を彼是れ躊躇すること無るべき筈なれども、現場に臨んで一の不覚を取りたることあれば、甚だ恥かしき次第ながら、死出の旅路の置土産に其話を残し置くべし、事も事とて吉良様へ討入りの夜のことにてありけるが、五六人にて土蔵の中に入りけるに、其蔵の隅に深くして闇き一箇の穴あり、互ひに顔見合せ、誰入れ、彼れ行き見よ、と評議区々にて、誰一人思切て飛込むものも有らざりけるに、大石主税会ま其場に来りけるが、衆評の一決せぬを懊かしく思ひ、躍て穴中に飛込み、残る隈なく捜り廻りて、何も別条なしとて悠然として穴中より出で来れり、穴外に在て評定せし面々は何れも主税の胆力を感称し、彼の父ありて初めて斯の子あるなり、我等老壮のもの図らずも此の年少の寧馨児に魁けせられたるこそ面目なけれとて、赤面して只管賛めたることありしと、懺悔談の一談を話しけるとぞ(池辺松陵、中島子玉)(『想古録』)
[忠臣蔵関連逸話]
浅野内匠頭切腹を命ぜられて赤穂の藩士悉く浪人と為りけるとき、大石内蔵助と小野九郎兵衛との間に、意見の衝突を起したり、大石は厳正を守りて、君辱めらるれば臣死すとの格言あれば、吾々は此儘吉良家を見遁し去る能はずと論弁し、小野は柔軟を主として、復讐は公儀へ済まぬことなれば、兎角公儀の御採決次第に由ざる可らずと反駁し、藩論は終に二種に分れて、大石、小野の両派の士は互ひに氷炭水火の思ひを為しけるが、小野派は人員多数にして、而も其ころ了簡者と評せられたる人物が多く同意を表しければ、大石派は其勢焔に敵する能はず、世評の軍扇は遺憾ながら小野派の頭上に挙げられたり、其後一年九ヶ月を経て、元禄十四年十二月十四日(内匠頭が上野介に切り掛けたるは前年の三月十四日なりし)、大石派の赤穂浪士は、暗夜を冒し、飛雪を蹴り、四十六士の忠魂義胆を一団と為して、不倶戴天の君仇を仇家の邸内に報じければ、其名声全都に鳴り渡りて、三歳の孩児も義士の姓名を暗記するに至りけるが、爰に哀れなるは小野派の浪人にて、今日此頃まで了簡者なり、智恵深き人なり、望みある士なり、と評せられけるに、其名誉と信用とは一夜の内に烟散夢消して、床場の評定も湯屋の詮議も悉く義士贔負に変じければ、小野九郎兵衛を始めとし、柔軟論を唱へたる面々は、何れも江戸を立去りて、何国へか隠遯しけるとなん(安積艮斎)
赤穂四十六士の各藩へ預けとなるや、細川侯には大石良雄を初めとし最も多人数の義士を預けられたり、此中年若き人々は寄り集りて、様々の談話に日を送るに、間喜兵衛は毎も沈黙し、人の後にばかり坐りて、嘗て一回も口を出せしことなし、是れ其資性極めて堅樸にて最も律儀なる人物なりしなるべし、採決既に定まりて将に最後の期に近づかんとするとき、肥藩の護衛の士間の側に行き、何か思召のことあらば承るべしと云ひけるに、喜兵衛莞爾として、永々の御厄介謝するに辞なしとて、懐中より短冊一枚を取出し、
草枕結ぶかりねの夢さめて 常世にかへる春のあけぼの
と書ける一首を示したりとぞ(岩崎潜蔵)
吉良上野介狂狼にして濫りに権威を振ひければ、新庄侯(戸沢)深く憤懣し、或る日上野介を斬らばやと決心して之を国老馬場五郎左衛門に謀られけるに、馬場は止めず却て之を称賛し、是れは大切なることなれば、彼に充分の不法ありたると、討損じの無きやう注意して御決行遊ばさるべし、且つ此事は御一生中復たと有る可らざる、唯一回の大事を御断行遊ばさるることなれば、万に一を誤らざるやう機会を見定むるが肝要なり、万一急いで事を仕損ずるときは、折角の義挙も空しく画餅に属するのみならず、御家を傷け、御先祖を辱しめ、千古の遺恨之を雪ぐの時なきに至り申すべければ、返す返すも時機の熟するを御待ちありて、徐ろに御素望を達せらるるが得策なるべし、と表面には侯の意に賛同し、密かに裏面より手を廻して賄賂を吉良家に贈りければ、慾に目の無き上野介は愛憎一夕に変じて、其後新庄侯に対する待遇打て換りて懇親になりけるゆゑ、一旦斬らんとまで決心したる侯の憤りも、何時しか弥生の雪と消えて、無事平穏に治まりける、当時若し侯をして其決心を決行せしめなば、新庄六万八千石の旧家は一朝にして断絶すべかりしに、馬場の深謀巧みに其源流を防ぎ、身死国亡るの災害は浅野内匠頭に譲りたるは、機智に富みたる計ひと謂ふべきなり(逸見省吾)
赤穂の義士、細川侯へ御預けとなりけるとき、侯に見え又世子にも見えけり、世子時に年紀十三歳にてありけるが、大石以下のものに向ひ、足下等不自由あらば、何事に依らず遠慮なく申さるべし、若し父越中守に申しにくきこと有らば、腹蔵なく此方に申さるべしと、誰れ教へぬに立派なる御挨拶ありければ、侍臣は窃かに感服し、大石以下の人々も亦みな其器量の非凡なるに感心しけるとぞ(池辺松陵)(『想古録』)

大石 直久(おおいし なおひさ) 見知らぬ海へ

無資料。

大石 良雄(おおいし よしお) (〜1703)

浅野家家臣。赤穂藩城代家老。内蔵助。
元禄十五年(1702)十二月、同志四十六士と共に吉良邸に討入り、主君浅野内匠頭の仇を討つ。翌十六年二月四日、預りとなっていた熊本藩細川家にて切腹。
[逸話]
形容を以て人を取捨すれば人を誤ること尠からず、大石良雄は稀世の傑士なれども、其容貌動作は遅鈍にして愚人の如くなりし、然れば若し報仇のこと無かりせば、一愚人と見做されて果てたるやも知る可らずと云へり、知るべし、人を見るの難きことを(渡辺太郎)
浅野の旧臣四十六士が吉良上野介の邸へ討入りたる時の申し合せに、上野介の首を取りたるものも、門戸の口々を固め居たる者も、其功に優劣あるべからずと定めたり、一騎討を名誉とする武士を集めて、一人の仇讐を討取らんと欲するなれば、此の約束最も価値あり、大石の着眼注意、流石に周到綿密なりと謂ふべし(小関三英)
大石良雄は深く報讎の事を秘し、何人にも其計画を漏さざりしが、只だ細井広沢一人のみには密かに打明したること有りしと云へり、或る夜良雄は広沢に向ひ、父の仇とは倶に天を戴かずと云ふ語あり、今彼を君の仇と書きては如何と相談しけるに、広沢霎時一考しけるが、君父は畢竟一物なれば、少しも差閊へあるべからずとの解釈を下しければ、良雄は安心して夜襲の時、「君仇不倶戴天」云々の語を書上げけるとぞ(松本来蔵)(『想古録』)
討入り前、大石内蔵助は伏見橦木町の遊廓で遊んだ。相方は笹屋清右衛門というこの町でもっとも大きな妓楼の浮橋という太夫。この笹屋には内蔵助専用の部屋が用意されていて、江戸へくだる日を前に、内蔵助はその部屋の天井に
今日亦逢遊君 空過光陰 明日如何 可憐遊君急払袖 帰後世人久不詳 逗留不過二夜者也
と落書したという。(『京・伏見歴史の旅』)
浅野家の家士大石内蔵助、報讐の後御預けと成て、今日切腹被仰付といへる日は、其御預りの大名より古実の通食事饗応あり。「切腹の席よろしき」迚案内ありければ、常に茶の給仕せし小坊主茶を持来りしに、常の通茶を呑て、「扨今日切腹いたし候。いたづら致し候と幽霊と申物に成りて出候間、おとなしくなし給へ」と打笑ひて、席を出て切腹せしが、誠に平日の通聊かはる事無かりしと、彼諸侯の老臣語りしとや。さもあるべき事と爰に記ぬ。(巻之二)(『耳袋』)

大炊御門 頼国(おおいみかど よりくに) 影武者徳川家康、花と火の帝 

公家。硫黄島へ遠流。

大内 弘幸(おおうち ひろゆき)

大内弘世の父。

大内 広世(おおうち ひろよ) (1325〜1380)

父は大内弘幸。大内義弘の父。長門・周防・石見国守護。
始め南朝方にあったが、北朝方に転じ、北九州に渡って南朝勢力と戦う。応安三年(1370)、今川貞世(了俊)が九州探題として下向すると、子の義弘とともに探題を援け、九州の南朝勢力の拠点太宰府を攻略。

大内 政弘(おおうち まさひろ) (1446〜1495)

大内義興の父。周防・長門・石見国守護。
大内義弘の時、応永の乱(1399)で一旦は失った石見国守護の座だったが、再び世が乱れた応仁の乱(1467〜1477)で、石見国守護の座を回復。
藤原二条流今小路家息女を室に迎えたことから、以後、大内家と京の公卿・高家との姻戚関係が深まる。

大内 義興(おおうち よしおき) (1477〜1528)

大内政弘の嫡男。従三位。
文明九年(1477)に生まれ、明応四年(1495)、父の死で家督を継ぐ。この時、義興を廃して次子隆弘を擁立しようとする動きがあったが、これを押さえ込んだ。
また、義興の出生については、何の根拠もない次のような話がある。それは、長い間、男子に恵まれず父政弘が嘆いていた時に、夫人が懐妊したが、その子は女子であった。夫人がそのことを夫に告げるにしのびず躊躇していた時、たまたま山口滞在中の公家に男子が生まれていたという話が舞い込み、夫人の家人がひそかに交渉して取り替えることになった。こうして、男の子が生まれたと政弘に報告すると、政弘は大いに喜んだ。この男子が義興であるという。こうした話が生まれた背景には、大内氏と京の公家社会が親密な関係にあったためだろうと、国守進氏(歴史学)は述べている。
応仁の乱に端を発した室町幕府内の権力争いは、将軍職を巡る争いとしてその後も続いていた。そうした中、明応八年(1499)、将軍足利義澄に京を追われた前将軍義植が、大内氏を頼って山口に下向してくると、義興は彼を庇護し、義澄派の大友・少弐氏と九州に戦ってこれを破り、永正五年(1508)、義植を擁して入京した。義興の上洛を聞いた将軍義澄は近江に逃れたため、義植を再度将軍職に就任させ、自らは管領に準じた権限をもって十一年間在京し、中央政権に君臨した。
永正八年(1511)、義興は嵯峨野に遊び、西芳寺で雪の比叡を詠み、それに親王や公卿らが唱和したり、後柏原天皇の御製を賜ったなどという話しは、当時義興の権勢がいかに大きかったかを物語るものといえる。
永正十五年(1518)、帰国した義興は、出雲国富田城の尼子経久と安芸・備後両国の支配をめぐって戦う。大永三年(1523)、毛利家を継いだ元就が大内氏に臣従したのもこの義興の時代だった。
享禄元年(1528)七月、安芸に出征中、病に倒れ、十二月に山口で没した。享年五十二。

大内 義隆(おおうち よしたか) (1507〜1551)

大内義興の嫡男。幼名亀童丸。母は内藤弘矩女(東向殿)。太宰大弐、従二位。
永正四年(1507)、義興の長子として生まれる。永正十五年(1518)、父義興が京都から帰国し出雲の尼子氏と戦い始めると、十八歳だった義隆も父に従い出陣。享禄元年(1528)、父の死を受けて家督を継ぎ、領国の維持、拡大に乗り出す。九州方面では、筑前・肥前・豊前・豊後に出兵し、大友・少弐氏と戦い、安芸国では尼子氏との戦いが続いていて、毛利元就が対峙していた。義隆は毛利氏を援けるべく安芸に出陣、次いで出雲・石見国にも出陣する。そんな中、天文十一年(1542)、義隆は大挙して出雲に遠征、月山富田城の尼子晴久を攻めたが敗北し、子の義房(晴持)を失い、かろうじて山口に帰った。
この敗北をきっかけに義隆は合戦に生きることをやめ、中央との結びつきを利用し、自らの官位の上昇を図り、もっぱらその権威に頼る公卿的な色彩を強めることとなる。それにより、義隆は四十二歳で父の官位従三位を上回る武家としては破格の太宰大弐・従二位に叙せられた。そして山口の大内屋形、築山屋形で京都から下向した関白二条尹房、右大臣三条公頼、内大臣広橋兼秀などの上流公卿に取り巻かれての王朝貴族の生活にひたる。
しかし、戦国時代、朝廷の権威は利用すべき権威ではあっても服従する権威ではなかった。戦う実力のある者が、合戦に勝ちその勢力を強め、結果として朝廷に認めさせた地位に比べ、義隆のそれは公卿社会での脆弱な形骸化した地位に過ぎなかった。下克上の嵐の中にあって、こうした義隆の選択は、重臣陶氏に叛かれるという形で現れ、王朝文化を模した山口の大内政権は崩壊することとなる。
天文二十年(1551)、陶氏に叛かれた義隆は長門の大寧寺に遁れ、そこで自害。子の義尊も殺されて、大内家の嫡流は断絶した。

大内 義弘(おおうち よしひろ) (1356〜1399) 影武者徳川家康

南北朝期の武将。父は大内広世。
鎌倉時代、長門・周防の守護に任じられ、以後中国地方の西方を本拠とした大内氏は、はじめ南朝方にあったが、広世の代、貞治二年(1363)に今川貞世が九州探題として下向すると、それに従って九州ひ渡り、南朝勢力と戦った。その父広世に従って子の義弘も一緒に戦い、南朝方を攻略し、北朝方の有力武将となる。
義弘は三代将軍足利義満に従って南北朝を合一すると、義満に近侍、京都に住した。この時、将軍家や公卿家とも交流し、後に大内氏が上流層との姻戚関係を強める素地が作られ、戦国時代、山口を中心とした大内文化を生むきっかけとなった。
隆慶作品で名が現れる唯一の大内氏で、陰陽頭土御門久脩に絡んで、その祖土御門有世が、「後小松天皇の御代にあって山名氏清の難や大内義弘の挙兵などを予言し、特に従二位を賜ったという不世出の陰陽師である」(『影武者徳川家康』下巻181p)と書かれた文章にあるのみ。

大江 源右衛門(おおえ げんえもん) かくれさと苦界行

浪人。
天草の乱に加担。

大岡 忠相(おおおか ただすけ) (1677〜1751) 花と火の帝、駆込寺蔭始末 

越前守。求馬。市十郎。忠右衛門。旗本大岡美濃守忠高の四男。母は北条出羽守氏重の女。忠相十歳の時、同族大岡忠真の養子となる。
養父忠真は千九百二十石を知行する上級旗本で御徒頭を勤めていた。その大岡家を継いだ忠相は、元禄十五年(1702)に初出仕し、書院番を皮切りに宝永元年(1704)28歳の時には養父と同じ御徒頭となっている。宝永四年(1707)御使番、同五年御目付、正徳二年(1712)山田町奉行となり従五位下能登守に叙任、御目付時の精励ぶりやこの山田町奉行の時の活躍が幕閣内で注目され、享保元年(1716)普請奉行に転出。同年紀州徳川吉宗が第八代将軍になると翌二年(1717)、江戸南町奉行に抜擢され能登守改め越前守となる。時に忠相41歳。通常六十歳くらいで任命される江戸町奉行では異例の早さといえた。知行も足高制により二千石加増され三千九百二十石となった。町火消制度の開始、小石川養生所や目安箱の創設をはじめ、商人の仲間・組合を公認するなど、将軍吉宗が進めた享保の改革を実務で支えた。後、武蔵野新田開発にもあたり、寺社奉行をへて寛延元(1748)年、奏者番になるとともに四千八十石加増され三河国西大平藩一万石の大名となる。寛延四年(1751)六月、将軍吉宗が没すると同じ年の宝暦元年十二月、忠相も後を追うように没した。享年75歳。(「HP江戸net」、岩波新書『大岡越前守忠相』)
[逸話](『想古録』)
大岡越前守、久しく町奉行の職を勤め、聴訟断獄妙神に入ると称せらる、或る日書斎に在りて沈吟せしが、何思ひけん、俄然起ちて帳箪笥の曳出しより大判一枚を取出し、之を庭の飛石の上に置き、家僕に命じて庭園の掃除を為さしめたり、大岡は僕は其大判を如何するやと、窃に物陰より覘ひ居しに、僕は元来朴直の者なりければ、其金を取除けて飛石を払ひ、又元の儘に石上に戴置きて庭内の掃除を済しぬ、大岡少時して僕を庭前に呼出し、我仔細ありて先刻黄金を飛石の上に置きたるに、今見えず、汝之を盗りたるならんと詰りしに、僕大に驚き、其の御金は掃除のとき見受たれども、其儘石の上に置きたり、其後の事は存ぜず、と戦きつつ答ふ、大岡猶頭を揮て曰く、黄金は死物、天へも登るべからず、地にも入るべからず、然して今朝来汝の外此の庭内に入りたる者一人もなし、汝尚剛愎にも之を盗まずと云ふやとて、忽ち真紅に焼けたる鉄火箸を其の目前に置き、汝若し強て其身の潔白を言はば、試みに此の火箸を握り見よ、汝が秘匿する悪事は、必ず火傷となりて、汝の掌上に残るべしと叱せしに、僕猶ほ屈せず、直ちに進んで焼火箸に向ひしが、珊瑚の火焔を吐くが如き紅閃々たる色を見て忽ち臆し、頭を低れ黙考する、霎時にして罪に服せり、此に至って大岡憮然として歎息し、扨は是まで官威に懾れ、拷問に苦み、冤枉の怨を呑んで服罪受刑せし者も多かるべし、噫我過てりと、先づ其の僕に試験たることを言聞かして放免し、其翌日直ちに退職願を差出だせしとぞ(岡本花亭)
法華と一向とは宗敵にて、六字の名号と七字の題目とは、其の相容れざる氷炭も啻ならず、大岡忠相、寺社奉行を勤めし時、何者の悪戯にや、池上本門寺の門に六字の号を貼付けぬ、同寺は法華の本山なれば、僧徒大に怒り、直ちに之を剥取りて寸裂せしに、一二日経れば又何時の間にか貼附けありて、随つて破れば随つて貼る、僧等已むを得ず時の寺社奉行忠相に訴へけるに、忠相聞て、其は奇怪なる悪戯かな、よしよし此れを試みに門に貼れとて、筆執りて、「西方のあるひと聞し阿弥陀仏今は法華の門番ぞする」と書きて与へられけり、僧大に喜び、命の如く貼り試みしに、後遂に悪戯する者あらざりき(荒木)
享保の昔し大岡越前守忠相が江戸町奉行たりしころ、年貢に差閊え其娘を三年五十両に売りたる田舎翁ありけり、其翁大枚五十両の大金を握りければ、是れにて早く上への年貢を済さんとて旅店を出立し帰途に就きけるが、筋違辺の居酒店にて濁酒三盃の酔を買ひ、之れが為めに大切なる財布を酒店に置忘れければ、狼狽して走り帰り、酒店の者に尋ねけるに、隠して出さざる士而巳ならず、誣妄なり、強迫なりとて散々に打擲せられ、剰さへ店外へ突出されければ、今は是れまでよと決心し、領国橋に至りて身を投げんとしけるに、最前より見え隠れに跡を躡け来りたる轎屋駈寄りて之を抱止め、酒店の所行は我も亦これを憎めり、足下が死なねば成らぬと云ふなれば、我も男児なり、足下の証人に立つべしとて、両人相携へて町奉行役所へ訴へ出でたり、大岡は両人の者を白州に喚出して逐一尋問せられけるが、其訴へを取上るかと想ひの外、却て両人を縛り上げ、前刻五十両の金を盗まれたるよし届出たるもの有りたるが、其盗人は正しく汝等両人なるべしとて、理不尽に入牢申付け、是れと同時に酒店の主人を喚出し、斯く斯くの盗児ありしところ、此れ此れの手続にて召捕りたり、然るに盗児の申立に拠れば、其方の店にて酒飲む間に失ひたりとのことなれば、大儀ながら至急立戻りて、樽の間、椽の下等を捜索すべし、財布の縞柄は彼様にして、其金高は五十両なれば、後刻までに必ず屹度持参すべし、と奥歯に物の挟りたるが如き命令を下しければ、酒店の主人は疵持つ脚の底気味悪く、殊に必ず屹度の厳命は意味ある如く覚えけるゆゑ、隠すは却て大怪我の基と悟了し、仰せの如く椽の下に落ち居たりとて、曩きに隠し置きたる財布を其儘奉行所に差出したり、之が為めに酒店の主人は罪人と為らずして放還せられ、田舎翁は既に失ひたる五十両を再び我懐に納るるを得、轎夫は任侠の顔が立ちたるのみならず、田舎翁より多少の謝礼を貰ひける、大岡越前の裁決断訟は往々無量の妙味を有する者あるなり(尾藤高蔵)。余の聞く所に拠れば、此とき大岡は田舎翁を叱り、天下の貨宝を粗末にして、厄介を上に掛けたるは不届なりとて、其過料に売りたる娘を三ヶ年間預けられたり、是は大岡が翁の清貧を憫み、自から五十金を棄てて其娘を妓楼より受戻し、過料に託して之を翁に賜はりたる異常の仁恵なりと云へり、蓋し翁は平素の性行正直着実なる者なりしなる可し(荒木)
(『耳袋』)
越前守忠相は享保の頃出身して御旗本より大名に成り、政庁の其壱人なり。大岡出雲守は惇信院様の御小姓を相勤思召に叶ひ、段々昇進して御側に至り、後は二万石まで御加増ありて御側御用人を勤、岩槻の城主なりし。未御側の頃、同姓のよしみある故、越州も折ふし雲州の館へも来り給ひしが、雲州或時越州に対し、「御身は当時世上にて天下之大才と称し、御用ひも一かたならず。我も小身より御取立に預り御政事にも携り候儀、願はくは心得にも可成事は不惜教誡し給へ」と念頃に尋ねければ、越州答へて、「某不才にして何か存寄候事も無之、御身はとし若にて当時将軍家の思召に叶ひ、智恵といひ無残所御事、何か教諭の筋あらん。併老分の某なれば、聊御身の心得にならん事不申もいかゞなれ。一事申談候はん。都て人に対し候ても世に対し候ても、万端を合せ候ての御取計ひ可然候。しかし実を以合せ給ふ事肝要の心得也」と宣ひしを、雲州も深く信伏ありしと、雲州側向を勤めし大貫東馬といへるもの、後次右衛門とて柳営に勤仕し予が支配なりしが、まのあたり次にて承りしと語りぬ。(巻之一)

大川 丑之助(おおかわ うしのすけ) 駆込寺蔭始末

小田原藩士。

扇谷 朝定(おおぎがやつ ともさだ)→ 上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)

上杉氏参照。

大木前 兵部(おおきまえ ひょうぶ) 死ぬことと見つけたり

無資料。

正親町天皇(おおぎまちてんのう) (1517〜1593)影武者徳川家康、花と火の帝、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

第106代天皇。在位1557〜1586。方仁 (みちひと)。母は万里小路栄子、万里小路房子を正室に迎え皇女某、永高、皇女某、誠仁親王、皇女某の五子をもうける。
後奈良天皇の第二皇子。天文二年(1533)親王宣下、弘治三年(1557)、父帝の没後に践祚。相変わらずの財政難で即位の大礼が行えなかったが、永禄三年(1560)、毛利元就の献金により、即位の大礼を挙行した。永禄十一年(1568)の織田信長上洛以降は信長や豊臣秀吉の宮廷復興策により、皇室の権威を維持した。(HP「歴史DBスクリーバ」参考)
在位期は戦国動乱から信長時代にあたり、朝廷の窮乏時期であったが、諸大名の援助をとりつけ、内裏造営・朝儀復興に努めた。信長に退位をせまられるがそれを拒絶した。

正親町 公董(おおぎまち きんただ) 異説猿ケ辻の変

攘夷激派の公卿。

正親町 季俊(おおぎまち すえとし) 花と火の帝

無資料。

(おおく〜おおん)

大草 長栄(おおくさ ながさね) 影武者徳川家康

久右衛門。三百石。

大草 康盛(おおくさ やすもり) (生没年不詳)

小田原北条氏台所奉行。左近大夫。
大草氏は三河出身で、もと鎌倉府に仕えていて、小田原北条氏には早くから仕えた。御馬廻衆に属し、氏康の側近として小田原城の奉行を務める。小田原城に搬入される食料や家財道具などを扱う奉行の筆頭として重要な役職を務める傍ら、北条幻庵の知行地の代官職も務めた。永禄末年には文書に現われなくなり、隠居したものと思われる。康盛の康は氏康の一字拝受。

大久保 猪之助(おおくぼ いのすけ) 影武者徳川家康、柳生非情剣 

黒田長政の家臣。
関ヶ原において小早川秀秋の陣に配された軍目付。家康から送り込まれた奥平貞治とともに小早川勢の監視役となる。 

大久保 右京(おおくぼ うきょう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

長安の六男。妻は忠輝家老花井三九郎吉成の娘。
長安事件で斬首。

大久保 運十郎(おおくぼ うんじゅうろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

長安の四男。
長安事件で斬首。

大久保 仙丸忠職(おおくぼ せんまるただもと) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

忠隣の嫡男大久保忠常の子。
蟄居。

大久保 忠興(おおくぼ ただおき) 駆込寺蔭始末

小田原藩主。

大久保 忠佐(おおくぼ ただすけ) (1537〜1613)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

沼津三枚橋城主。次右衛門。大久保忠隣の伯父。
大久保忠佐は治右衛門と称し、徳川家康が幼少の頃からその麾下にあって各地に転戦し、生涯を通じたいくさ人だった。着していた武具はしばしば斬破られたが、創一つ受けたことがなかったという強の者であったという。天正三年(1575)の長篠の戦いでは、兄の忠世と共に鉄砲隊を率いて先鋒となり、自ら戦端を開いて武田の騎馬軍団を破り抜群の手柄を立てた。織田信長は高所よりこれを望見して賞嘆し「まさに飛車角行」と称した。家康の関東入国に従い、天正十八年(1590)上総国茂原で五千石を賜り、関ヶ原役の翌慶長六年(1601)には中村一氏の弟一栄に代わって、駿河国沼津において二万石を賜り、三枚橋城主となった。

大久保 忠隣(おおくぼ ただちか) (1553〜1628)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、一夢庵風流記、死ぬことと見つけたり、見知らぬ海へ、かぶいて候

相模守。大久保忠世の嫡男。天文二十二年(1553)、三河国上和田に生れる。幼名、千丸。元服して新十郎忠泰と名乗った。元和二年(1616)、家康没後、剃髪して渓庵道白と号した。寛永五年(1627)六月二十七日没。享年76歳。
天正十八年(1590)、家康が関東に移封されたのに伴い、忠隣は武蔵埴生城二万石を与えられ、文禄二年(1593)秀忠付きの老職となった。同三年(1594)、父忠世の没後、その遺領小田原藩を併せて六万五千石を領した。慶長五年(1600)の会津征伐では、本多正信とともに秀忠に従って宇都宮に赴き、このとき相模守に任官したと伝わっている。大久保長安事件によって小田原藩を改易される。これは長安との関係を元家臣に直訴され、発覚したとされるが本多正信の策謀だったともいわれている。
忠隣改易の時の逸話が『武辺咄聞書』にあるので参照ください。

大久保 忠常(おおくぼ ただつね) (1580〜1611)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

加賀守。大久保忠隣の嫡男。新十郎。
秀吉の小田原征伐の時11歳で初陣。関ヶ原では上田城の真田昌幸を攻める。翌年埼玉郡騎西領二万石を与えられ、私市(騎西)藩主となる。亀姫の娘を妻に迎えるが、小田原城主であった父大久保忠隣が本多正純によって改易され大久保家が没落し、この時の因縁が亀姫の恨みとなって「宇都宮釣り天井事件」となり、本多正純を改易、配流させることとなった。

大久保 忠総(おおくぼ ただふさ) 捨て童子松平忠輝

主殿頭。忠隣の嫡男大久保忠常の二男。
蟄居。

大久保 藤五郎(おおくぼ とうごろう)

主水。三河譜代。
家康の命で江戸近郊の水源を探し、七つの井からこんこんと湧く「七井の池」(井の頭池)を発見し、神田上水(神田川)を完成させた。この功により藤五郎は主水の名を賜る。さらに家康の愛妾(喜多見氏女)を賜り妻とする。その為、二代目主水は家康の御落胤と噂されたという。

大久保 藤五郎内膳(おおくぼ とうごろうないぜん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

長安の五男。
長安事件で斬首。

大久保 藤七郎(おおくぼ とうしちろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

長安の七男。僧籍に入り安寿と称す。
長安事件で斬首。

大久保 藤十郎(おおくぼ とうじゅうろう) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

長安の嫡子。妻は信州松本八万石石川康長の娘。
長安事件で斬首。

大久保 藤二郎外記(おおくぼ とうじろうげき) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

長安の二男。妻は姫路五十二万石池田輝政の娘。
長安事件で斬首。

大久保 長安(おおくぼ ながやす) (1545〜1613)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、かぶいて候、柳生刺客状

大蔵太夫大久保重兵衛。大蔵八郎右衛門。十兵衛。父は金春七郎喜然。
はじめ父と同様に猿楽衆として武田信玄に仕えたが、のちに年貢の課徴・金掘りを司る蔵前衆に抜擢され武士となった。天正十年(1582)、武田氏滅亡後、駿河に移り大久保忠隣の庇護を受ける。この時大久保姓を与えられ、忠隣の推挙で家康へ出仕した。初め武田の旧臣であることから甲府の代官を勤めていたが天正十八年(1590)、家康が関東に移封されると、代官としての手腕を買われて代官頭の地位を与えられた。伊奈忠次とともに徳川検地を指揮するが、長安の検地は「石見検」と称され、こまかい仕法で、忠次の「備前検」とは趣を異にしていた。
長安は武蔵国多摩郡柚井領横山村(小門宿)に陣屋を置いて、いわゆる関東十八代官を統括し、武蔵を中心とする関東周辺の幕領支配にあたった。また関ヶ原役後には、奈良代官となり慶長十二年(1607)頃まで大和郡山城在番を務めている。
慶長六年(1601)には東海・東山・北陸など五街道に一里塚を設け、伊奈忠次・彦坂元正らとともに、幕府直轄領の検地に従事した。同八年(1603)、石見銀山・佐渡金山奉行となり、さらに同十一年彦坂元正に代わって伊豆代官を兼任。長安は幕府直轄鉱山の開発で功績をあげ、いずれも増産に成功し徳川政権の財政基盤を確立させた人物と伝えられている。慶長十八年(1613)四月に没した。享年69歳。
しかし、長安没後、生前の不正が摘発され(大久保長安事件)、遺子七人は切腹させられた。下代らも諸大名に預けられ、長安の所領・金銀はすべて没収され、大久保家は改易された。この仕置には縁座法が適用され、奉書加判に列していた青山成重、信濃深志城主石川康長も改易された。さらに翌十九年(1614)、長安を推挙した大久保忠隣も改易に処された。 
忠隣の推挙を受け家康に仕え二郎三郎によって石見銀山・佐渡金山奉行となる。その時長安は、二郎三郎の示唆により南蛮渡来の採掘法アマルガム法を取り入れ、それまでの金銀採掘量を飛躍的に増大させた。その財力によって大御所となった二郎三郎は、風魔一族を味方につけるなど秀忠と対抗しうる戦力を整える。(『影武者徳川家康』)
家康の実子の中で最も冷遇されていた忠輝を川中島十五万石へ加増転封するよう推挙したのが長安だった。その時、長安自身も忠輝の附け家老に任じられ、「鬼っ子」忠輝を越後福島六十万石と合わせ七十二万石の大大名に育てて行く。それは、長安の描く壮大な夢のためだった。(『捨て童子松平忠輝』)
武田家の扶持人、猿楽なり、幼名十兵衛、大久保相模守忠隣、苗字を授て神君へ執奏し、御家人に列す、段々登庸して二万石を領す、諸国郡代の司と成、御収納の御蔵を預り、金山、銀山を支配せり、慶長十八年四月卒す、(『江戸古絵図考附録』)

八王子市小門町の産千代稲荷神社の境内にある大久保長安陣屋跡の碑(この辺りが陣屋の西端だったとされる)

大久保 成尭(おおくぼ なりあき) 捨て童子松平忠輝

内記。忠隣の子。
配流。

大久保 教隆(おおくぼ のりたか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

右京亮。忠隣の子。
配流。

大久保 彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん) (1560〜1639)かくれさと苦界行、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、死ぬことと見つけたり、かぶいて候

初名を忠雄といい後、忠教。小字平助。
天正四年(1576)、兄忠世に従って遠江乾の戦いが初陣。慶長十九年(1614)忠世の子忠隣が改易されると家康に召出され、三河額田郡に千石を領す。大坂夏の陣では槍奉行となり、寛永九年(1632)には旗奉行となって千石を加増されたが無欲括淡で、諸侯に列するするというのを辞退したという。家康には常に直言を呈し、将軍といえども恐れなかった。秀忠、家光にも仕え、旗本中に重きをなした。享年80歳。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
『三河物語』を著す。
[逸話]
天草一揆暴発の急報江戸に達するや、将軍家光、帷幕の諸侯を集めて軍議を凝らし、先づ何人を討手に差向くべきやを諮問せり、時に大久保彦左衛門進み出で、箇様のことは平生御恩禄深く受け候者に御申し付けあるが当然なれば、第一に春日局、弟二に南光房可然、と憚る色なく申上げけり、満坐の人々、手に汗を握りぬとか(安井霧山)(『想古録』) 
《瓢水コラム》
[彦左殿はあとさきもなく物いう人なり]
 著者も成立年代も不詳の『備前老人物語』より大久保彦左衛門と堀田正盛の口論をひとつ。堀田正盛は松平信綱と並ぶ若手の幕府老中であり、TVドラマ『大奥 第一章』の主人公・春日局は義理の外祖母に当たる。家光の寵愛を受けていたため、家光の死後に殉死した。ちなみに、5代綱吉の擁立に功績のあった堀田正俊は正盛の三男であり、生まれて間もなく春日局の養子になっている。
 「又ある時、大久保彦左衛門、堀田加賀守殿へ見廻りにとて行き、さまざま古今の物語ありしに、或るは武道の義、或るは三州にてのかせぎなどの事を語らる。加賀殿、その時、『彦左聞き候へ、今も昔のごとく合戦などあらば、結句昔よりは今ほど心ばせの人いくらも有るべし、あまりに昔というとも、かわる事はあるまじ、少しはなしをたばわれ候えかし』とありければ、彦左、すこし気にあてられしにや、『尤も左様にこそあるべけれ、却りて昔よりも今の人の心は猛しとも見えて候、去りながら今とても心がけ次第たるべし。貴殿が親父勘左衛門殿六十にあまらせ候まで、別に御心がけもうけ給わらず、いな此の首を一つとられ候と云うことも聞かず、去れば昔とても心にかけぬものは、十人並みとおぼし召されよ』といわれけり。加賀殿気色かわり、『彦左はおかしき事を申すものかな』とて、何の彼のとありしも、座にある人々挨拶をしてすきつるとなり。誰いうともなく此のこと語り伝えたりけり。彦左殿はあとさきもなく物いう人なりとなれば、さもありしにや」(神郡周校注『備前老人物語 武功雑記』現代思潮社、121‐122頁)。
 正盛はおそらく、彦左衛門の武勇談(自慢話)を聞き飽きてうんざりしていたのだろう。同じ若人としては、「よくぞ言った」と褒めてやりたい気がする。しかし、彦左衛門が放った毒舌はひどい。「お前の親父も大した奴ではなかったぞ」と罵られては、怒らない方がどうかしている。尤も、つけつけと言って憚らないところは彦左衛門の面目躍如か。「彦左殿はあとさきもなく物いう人なり」に、その人柄が凝縮されているようだ。(2004年10月7日瓢水記)

大久保 幸信(おおくぼ ゆきのぶ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

主膳正。忠隣の子。
配流。

大河内 久綱(おおごうち ひさつな) 死ぬことと見つけたり

無資料。

大沢 基宿(おおさわ もといえ) 影武者徳川家康

大御所家臣。

大沢 基宥(おおさわ もとひろ) 影武者徳川家康

※参考資料「大沢基宥と公家社会」大嶌聖子著 (戦国史研究 第43号 戦国史研究会編集 吉川弘文館 A5判 並製 48頁 本体667円 4-642-08920-9)

大塩 平八郎(おおしお へいはちろう) (1793〜1837)銚子湊慕情

中斎。後素。大坂東奉行所与力。
天保八年、浪人衆を組織し、一揆をもって幕府に反抗。大坂西奉行所に大砲を打ち込む(大塩平八郎の乱)。
徳川家に祖父の代より仕え、幕府の内情に通じていた大谷木忠醇の著した『燈仙一睡夢』に、大塩平八郎のことを記した文があるので参照ください。
[逸話]
天保丙申の冬、米価騰貴して貧民飢餓に逼るもの多し、大塩平八之を賑恤せんと欲せしも、平素賄賂を斥け、厳正自から持したるが故に家計窮乏して余財の他人に分与すべきなし、是に於てか平素秘愛せし刀剣書籍の類を悉皆売却して三千両を得、大坂全市の貧民へ一朱づつ分与しけるに、市民みな涙を洒いで其徳を仰ぎ、之を尊崇する父母の如くなるに至れり、大塩と貧民との情誼爰に至って弥よ濃厚と為り、終に丁酉の乱の已む可らざるに至れりと云ふ(岡本花亭)
一の谷にて義経の案内せし鷲尾三郎の家は、今に連綿と相続し、谷の裏手なる村落に住居して、代々大庄屋を勤めり、大塩平八、ある時この地に遊び、其の主人を案内として、元暦の昔し、判官の経過せし小径を案内せしめけるに、一の谷に至るころ、快晴の天気俄然雲を興し、大雨車軸を流すが如く、猛風樹を仆し、一方ならぬ天気となりければ、流石の大塩も大に驚き、以来鷲尾の家にては、一の谷に出づ可らずと戒めけるとなん、不思議の事なり(井口元康)
大塩平八郎、隠居の後頼山陽を訪ひ、近来世間にて我等謀叛を企つと取沙汰するよし、不祥な評判を聞くものかな、と云ひけるに、山陽笑て答へざりし、其後山陽二三の門弟子を連れて平八を訪ひ、軈て其門人等を芝居へ遣り、跡にて二人密談に時を移しけり、是故に人或は山陽の平八に一味せしを疑ふものあり(野田笛浦)
今度(天保八年二月)大坂にて騒動を起したる大塩平八郎は「乱暴者」と評定せられんとせしに、林祭酒、これを非とし、和田義盛さへ叛逆人と称せられたれば、大塩の謀叛人たること論を俟たず、と申せしに由り、遂に「謀叛人」と評定せられたり、聞く、祭酒は初め川合隼之助の紹介に依て、大塩より千両の金を借り込み、一方ならぬ交際なりければ、其嫌疑を避んが為に、強と此の如く言ひたるなりとぞ、反覆の人と謂ふべし(石井子耕)
林祭酒は姫路の大夫川合隼之助の紹介に頼て大塩平八郎より千両借入れ、夫れより懇意になりて多くの金員を借用せり、此の嫌疑を避くる為めにや、廟議大塩の罪を論じて乱暴者と為さんとの評議ありけるとき、祭酒これを駁し、和田義盛さへ叛逆人と定められたれば、大塩は無論叛逆人と謂はざる可らずと云ひ出でけるゆゑ、其説行はれて終に叛逆人とせられ、塩賊と呼ばるることと為れり、其後祭酒は心中私かに安んぜざる所やありけん、応仁時代の故事を引き、大塩の児を助命せんとて骨折りけるが、叛逆人と定まりたる者の児の助かるべき謂はれなきゆゑ、其説は空しく排斥せられたり(小田切要助)
天保八年の春、米価騰貴し、近畿最も甚しかりしかば、西国の或る諸侯、曾て鴻池より借入れたる金子の内、一万両を同家に返済せり、大塩平八郎、此噂を聞込み、鴻池に逼りて、貧民救助の為め其金を借らんとせしに、鴻池にては、百方陳弁して之を謝絶したるのみならず、官に向て其顛末を届出でければ、予て大塩を蛇蝎視したる跡部山城守、今日こそ彼が鼻を挫ぎなんと、喜びて大塩を呼出し、散々に辱しめたり、大塩は跡部の説に服せざるのみならず、却て之が為めに俗吏の民治に害あるを感じ、一層暴挙の念を熾んならしめて、終に二月十九日の変とはなりける(泉本)
大坂騒動の報、江戸に達するや、市中の取沙汰以ての外なりしに、一斎独り之を信ぜず、大塩平八郎は一揆など起す人物には非ずと断言しけるが、已にして詳細なる報告来り、当日の景況など委しく分りしを、或人其書類を齎らして一斎に示せしに、一斎初めて驚き、曹参果して人を殺したりかと、驚嘆久しかりしとぞ(石野駿蔵)
大塩が事を挙ぐる前、早飛脚にて三つの包物を江戸に下しけるが、如何なる故にや、道中手間取り、漸く三島に達したるとき、大坂城代よりの早飛脚が、江戸への注進を済して帰来るに行逢ひ、忽ち差留められたり、韮山の支配所にては、容易ならざることなれば、直ちに状を具し、早打にて江戸へ伺ひけるに、其儘差出すべしとのことにてありければ、早速差出したるに、一は水戸宰相様、大塩平八郎とあり、一は大久保加賀守様、脇坂中務大輔様とあり、一は林大学頭様とあり、其書秘して世に伝はらざれば、如何なることを書き綴りたる物なるや、確かに知るに由なしと雖も、窃かに之を見しといふ者の説に、君は亡国の君に非ざるも、臣は乃ち亡国の臣なり、と云ふ語より説出したる者なりと云へり(柳田貞亮)
大坂城代の仲間共、主人の威を仮り、市中に出でて乱暴を働くの弊習ありけるを、大塩平八郎これを憤り、市区の重立たるものを呼び集め、今後右様の乱暴を働く者あらば大勢にて叩き伏せ、着用せる法被を剥取りて之を町奉行役所に出すべし、さらば我等好きに取計はん、と内諭せり、市中の者此の内諭を受けて大いに喜び、其後仲間の乱暴する者あれば直ちに取押へ、其法被を剥取り、町奉行所へ罷り出でけるに、役所にては夫れ夫れ遺失者を取調べ、不都合の所行ありしと認むるものは、即刻放逐の厳罰に処しければ、数日を出でずして悪漢の暴行を恣ままにせしもの、迹を大坂市中に絶ちけるとぞ(渡辺太郎)
近藤重蔵初めて大塩平八郎に面会せしとき、其胆智を験さばやとて大いなる鼈を重箱に入れて、土産なりとて差出せり、大塩は一礼を述べて之を受け、其重箱を座右に置きて四方八表の物語りして居けるに、重箱の中に推籠められたる鼈は何時の間にやら蓋を持上げて這出しければ、近藤は計画の図に中りたるを快とし、彼如何するやと一睨せしに、大塩は之を見るも敢て驚きたる様子なく、是は珍らしき御土産かなとて、短刀引抜きて其首を落し、此の好下物にて一杯を献ずべしとて、婢を喚び酒を命じ、其鼈を調理して饗応しければ、近藤深く感服し、爾来親密なる交りを結びけるとぞ、近藤の智、大塩の胆、当時天下の双絶なり、双絶相会して此の奇絶妙絶の戯謔を為す、亦是れ一夕の話柄ならずや(佐久間中洲)
大塩平八郎、伏見の川舟に乗りて夜る淀川を下りけるに、提燈を手に持ち、若党を供に連れたる士、突然岸頭に現はれ、急ぎ其舟を爰に着けよと呼留たり、船頭畏れて舟を岸に着けんとしけるに、大塩声を励まして船頭を叱り、此の夜半に舟を着けよと云ふは甚だ無理なり、且つ我等は先きを急ぐ者なれば、其の頼みを容るること無用と押止めぬ、船頭も、遠き岸上の士の命を用ゐんより、近き舟中の士の説に従ふべしとて、流れに順つて漕ぎ下れり、翌朝天明けて舟の将さに大坂八軒屋に達せんとする前、大塩遽かに合乗の人々に向ひて、卿等は紛失物は無きやと云ひけるに、何れも起て四辺を詮鑿し、我は懐中物を失へり、我は烟草袋を盗まれたりとて、三四人の遭難者忽ち其場に現はれければ、大塩は然こそあらめと首肯して、直ちに舟中の人々を吟味し、難なく一人の偸児を発見して、御用の声の下に召捕りたり、蓋し昨夜岸上に彷徨せし武士は、舟中の偸児の伴侶にして、予て合図を定め、舟を岸頭に着けたるとき、盗みたる品物を窃かに受授せんとの計画を為しけるを、早くも大塩の慧眼に看破られし者なりとぞ(森田謙)
大塩平八郎の与力にて奉行所に出勤しけるころ、大坂市中に紀州邸に取入りて御用を勤むるもの多くありけるが、是等の者共紀州を笠に被て常に跋扈し、失火の時などは葵章の御紋附けたる高張提燈を持出して、何の用事も無きに火事場を彼方此方と往来しければ、防火夫も市中の者も皆其我儘を持余しけるに、大塩平八郎其挙動の傍若無人なるを憤ほり、或る火事場にて腰なる十手を取出し、其提燈を一撃に打破れり、破られたる者は之を紀州邸に訴へ、紀邸は之を町奉行に懸合ひ、奉行は之を大塩に尋問し、其関係頗ぶる面倒なる事態に立至りけるが、大塩屈せず、夫程大切なる者共ならば本国へ召返さるるが当然なるべし、大坂市中に居る間は此方の支配に属するゆゑ、懲罰の処置は其権素より此方に在りと、道理正しき説を主張しければ、紀邸にても詮方なく其儘竟に泣寝入りとなりたり、大坂にて御用提燈の跋扈止みたるは、実に此時よりなり(渡辺太郎)
文政の末、大坂にて吉利支丹の宗徒捕へられ、大塩平八郎これを吟味せり、大塩嘗て余に語りて曰く、昔し熊沢了介が、政事を行ふは学問なくとも済むべけれども、唯だ吉利支丹の詮議のみは読書人に非ざれば之を伏する能はず、と云はれし由なるが、余は今回の実験にて其言の当れるに感服せり、余が最も驚きたるは巨魁なり、其巨魁は老婆なりしが、佞弁利舌人を篭絡し、動もすれば余を弄せんと試みたり、然れども余は我聖人の道に非ざるものは皆邪説と確信し、先づ我腹を決めて吟味しけるゆゑ、遂に其老魁を服罪せしめたり、と話されたり、大塩の大塩たる蓋し此に在る歟(津坂貫)
大塩平八郎は大坂自邸の火焔の下に斃れけるが、其処刑の高札は江戸に於て建てられたり、或人其高札に記載せる罪状中に、我児の妾を偸み云々とあるを見て痛歎し、大塩は剛愎にして上を蔑する不敵の徒なりしには相違なきも、我児の妾を偸むが如き、不義淫猥の人物に非ず、然るに強て彼の徳望を傷けんが為め、痕跡も無き怪説を捏造して之を罪状の一に置くは穏当ならぬ処置なり、と慨きけるが、熟々考ふれば其慨歎にして、必ずしも大塩贔負の僻見に出でたるに非ざるが如し、大塩は陽明派の学者にして、平素慾念を厭へ、心胆を練るを主とせし人なれば、然る欠徳不義の所行あるべき謂れなし、想ふに当路の有司が為めにする所ありて捏造せし虚構なるべし、果して然らば悪びれたる振舞と云はざる可らず(三村友之助)
大塩平八郎、桑名より宮へ渡りけるとき、海上風雨に逢ふて難船せり、同船の人々何れも船暈に苦しみ、嘔吐するあり、哭泣するあり、念仏を唱へ、救助を神仏に祈る者なども有りけるに、独り大塩は舷端に倚り掛りて悠々然仮眠を為し居ければ、随行の二三子其挙止の自若たるに感服し、宮に着するの後斉しく大塩に向ひて、船暈に罹らぬ秘法あらば後日の為め御聞せ下さるべしと頼みけるに、大塩答へず莞爾として、軈て襟懐を抜きて彼等に示せしが、図らざりき其襟懐の中には袋の如く畳みたる手拭ありて、窃かに吐込みたる嘔吐物が溢るるばかりに包蔵し在りけるとぞ、其剛愎にして事に屈せざりし気象、想ひ見るべし(斎藤拙堂)
大塩平八郎の救民騒動は本年(天保八年)二月十九日に暴発したる出来事なり、然るに二月十六日の夕仙台を発したる書面に拠れば、近日上方に一揆起るべき由にて、当地にては甲冑の直段騰貴したれども、御地(江戸)には其噂なきやと尋ね来れり、奇と謂ふべし、天の人を以て言はしめたるもの乎、抑も夙に其企てありて、遠く手を奥羽地方に廻はしたるもの乎、必らずや拠る所なくんばあらざるべし(清水俊蔵)(『想古録』)
[名言名句]
「常人の口を開いて、これを笑うものは、淫戯放逸のことにあらざるはなし。聖賢これに遭えば、けっして笑わず」
意味は、普通の人間がおもしろがるのは、淫らな戯れ事か、放埒なふるまいについてであって、それ以外のことで笑うことはあまりない。しかし、聖人や賢人は、そういったことをおもしろがって笑ったりは、けっしてしないものである。(『名言名句活用事典』)

太田 牛一(おおた うしかず) (1527〜没年不詳)

「ぎゅういち」あるいは「ごいち」ともいう。戦国時代の織田信長の部将。又助。和泉守。諱は「資房」ともあるが不確か。元亀三年(1560)五月十一日付け及び天正九(1581)年三月二十八日付けの文書に「太田又助信定」と署名しており、活躍期の長い期間「信定」を名乗っていた。尾張春日井郡安食村の人(池田本、奥書)。
『信長公記』を著す。
自著の「公記」中、天文二十二年(1553)七月十八日の清洲攻めの所に「太田又助」が登場するが、ここでは柴田勝家の足軽衆となっている。初めは勝家の臣だったらしいが、後、信長に直仕し、弓三張の一人に数えられる。永禄七年(1564)、堂洞城攻めの時、弓で大活躍し信長より賞されている(公記)。元亀元年(1570)六月二十二日、江北からの撤退の時、馬廻であったが殿軍の佐々成政に協力したと「甫庵」にある。その後は信長の側近の一人として内政面で活躍した。また近江の信長直領の代官を務めていたこともあるといわれる。信長の死後、一時加賀松任に蟄居したとも、丹羽長秀に仕えたとも伝わる。
天正十七年(1589)に秀吉の吏僚として、検地奉行や代官職を務めた(大賀茂中村郷御検地帳)。天正十九年(1591)十月、肥前名護屋城の山里書院の普請を担当(太閤記)。文禄元年(1592)、朝鮮侵略の開始に伴い、弓大将として名護屋に在陣(太閤軍記)。文禄二年(1593)六月二十二日、明使饗応の役を担う(太閤記)。慶長三年(1598)三月の醍醐の花見の時、三丸殿の御輿の添頭を務める(太閤記)。
秀吉の死後、その子秀頼に仕える。慶長十五年(1610)、池田輝正に自著「信長記」(池田家本)を書写して渡し、その直後「今度之公家双紙」(猪熊物語)を著作した時には84歳でまだ存命だったが、その後はいつまで生きたかは明かではない。慶長六年(1601)以後のものと思われる、四月二十七日付坪内喜太郎宛て文書には「太田和泉牛一」と署名している(坪内文書)。(HP「歴史データ館」参考)
尾張国山田庄安食(現愛知県名古屋市北区)に生まれる。はじめ山田庄の常観寺(成願寺)にいて、のち還俗したという。没年は不祥だが慶長十五年(1610)に八十四歳で健在だったことが確認されているという。(藤本正行『信長の戦争』)

太田 左近(おおた さこん) (?〜1585)吉原御免状

名は宗正。太田党首領。太田城主。秀吉の太田攻めで自刃。
紀北の名で呼ばれている紀伊国(和歌山・三重県)の北部、紀北四郡(伊都・那賀・名草・海部)には根来寺領(七十二万石)を始め高野山・粉河寺という三大寺院勢力と太田党・雑賀党という二大在地勢力があり、戦国期にはこの五つの勢力が互いに牽制し合いながら共存し、他からの勢力の進入を排除していた。

太田 三楽(おおた さんらく) 時代小説の愉しみ

資正。三楽斎と号した。
太田道灌の曾孫にあたり、武州岩槻城主として関東に進出した北条氏康と戦う。

太田 重政(おおた しげまさ) 影武者徳川家康

豊後臼杵城主。太田康資の子でお梶の方の兄。

太田 重正(おおた しげまさ) 見知らぬ海へ

無資料。

太田 庄太夫有忠(おおた しょうだゆうありただ) 鬼麿斬人剣

改革派の松本藩年寄。

太田 道潅(おおた どうかん) (1432〜1486)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

資長。持資。幼名鶴千代。源六郎、左衛門大夫とも名乗った。備中守。道灌と号す。扇谷上杉定正の重臣太田資清(道真)の子として生れる。
康正元年(1455)家督を相続。長禄元年(1457)、江戸館と呼ばれていた江戸氏の居館跡に江戸城を築き、管領上杉家と対立する古河公方足利氏に抗する拠点とした。また同年、父資清と共に岩槻・河越両城を築く。寛正六年(1465)上洛、八代将軍将軍足利義政に謁見した。その際、義政に「武蔵野の風景はどのようなものか」と問われ、「我が庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」と答えたという。また後花園上皇にも謁見、その際も武蔵野の風景について聞かれ、「露おかぬかたもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原」「年ふれど我まだ知らぬ都鳥 すみだ河原に宿はあれども」の歌で奉答した。この事から道灌は、関東隋一の歌人・文人としても知られるようになる。文明十二年(1480)には長尾景春の乱を静め、扇谷上杉氏を家格上位の山内上杉氏と同等の勢力にした。しかし、このことを疎ましく思った山内上杉顕定は扇谷上杉定正をそそのかし、道灌を亡き者にしようとした。定正はこの計略にかかり、曽我兵庫に命じて、相模糟屋の上杉館で入浴を終えて無防備の道灌を斬殺した。抵抗できない道灌はただ一言「当方(扇谷家)、滅亡!」と叫んで死んだという。(「関東管領記」、村井益男『江戸城』参考)
『艶道通鑑』にある太田道潅の記述。道潅が和歌に目覚めたといわれる事で知られる「山吹の歌」のエピソードが書かれている。
しかし、『艶道通鑑』で「かゝる時さこそ命の惜からん かねてなき身と思しらずば」という歌を辞世の歌としているのを、それを評した『辧惑増鏡』で否定している。また、間宮永好の『犬鷄随筆』にも「○道潅の歌」と題する項で、
「道潅の歌に、『かかるときこそいのちのをしからめかねてなきみとおもひしらずば』といへるは、慕景集に、藤沢合戦に、中村式部少輔重頼といへる人の、突留ける敵の首に、此人の勧めにてよみて手向し歌にて、是に答へし重頼の歌をも載たり。しかるを、道潅討死の時よまれし歌なり、と今の世には言伝へたり。此は無下に後の事と念ひしに、相州兵乱二巻に、文明十八年七月廿六日、扇谷定政、相州糟谷へ御馬ヲ被レ立、道潅ヲ退治シ給フ、云々。去程ニ、道潅入道打テ出タリシヲ、ヤリニテ突落シ、首ヲトラントシテケレバ、道潅其ヤリノ柄ニトリ付テ、カカル時、云々』と見ゆれば、早くより如此なして世には伝へしなりけり。」と件の歌が辞世でないことを述べている。
○太田道灌は父を道真と云ふ。鎌倉扇谷の上杉修理大夫定正が家老なり。今江戸の御城は道灌が縄ばりにて、今いふ富士見御櫓に道灌がよめる歌あり。後定正殺レ之。
わが菴は松原遠く海近し 富士の高根をのきばにぞ見る
とある時狩に出て、野人の家へ入り、急に雨ふりけるゆへ、蓑をとありければ女子出でゝ歌をよみて入れりと。
七重八重花はさけども山吹の みの一つだになき事(ママ)ぞかなしき
(伊藤梅宇『見聞談叢』)
太田道灌は文武の将たるよし。最愛の美童甲乙なかりしに、或日両童側に有りしに、風来りて落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を払ひけるに、壱人の童聊寵を妬める色のありしかば、道灌一首を詠じける。
ひとりには塵をもをかじひとりをば あらき風にもあてじとぞ思ふ
かく詠じけるとや。おもしろき歌故爰に留ぬ。(『耳袋』巻之三)
太田持資童歌の事
太田持資の拾三才なる時、初陣に武州小机の城を攻し時詠るよし。
小机はまづ手習のはじめにて いろはにほへとちり/\〃にせん
太田持資始て上京之時詠歌の事
持資上京せし時、歌道を好むよし公卿の好み給ひしに、「関東の田舎に住みて堂上などの可懸御目歌など有べくもなし。田舎にて詠し歌也」とて奉りければ、
武蔵野の折べい草は多けれど 露すぼこくて折られないもさ
みなとよみ笑ひ給ひける時、「一首かくもよみ侍る」とて奉りぬ。
露おかぬかたも有けり夕立の 空よりひろきむさしのゝ原
一同感心ありとや。(『耳袋』巻之五)
『常山紀談』(巻之一)に太田道灌関連の記述有り参照ください。

大田 南畝(おおた なんぽ) (1749-1823) 吉原御免状 

蜀山人。江戸後期の狂歌師・戯作者、江戸の人。名は覃。別号は蜀山人・四方赤良。
有能な幕臣でもあり、広く交遊をもち、天明調狂歌の基礎を作った。編著「万載狂歌集」、咄本「鯛の味噌津」、随筆集「一話一言」(一言一話)など。(大辞泉)
『一言一話』『高陽闘飲』などを著す。『異本武江披抄』などを編纂。本念寺さんに墓がある。
太田直次郎南畝は、又蜀山人と号す。寛政の初、昌平校に於て学問吟味に応じ、甲科の堂を得たる学者なりしが、後年は世を玩びて、狂歌を読みたるが、口を衝て出るもの、こと/\〃く人をして頤を解かしめ、又、時として世を諷し、俗を諭すに足る者あり、当時称して無双の才子とせしが、御勘定役に擢んでられたれど、俗務に拘々せぬ人故、閑局にのみ在りて、竹橋御多門に蓄へありし古帳簿を調ぶる掛りにありしが、ある年の、時節も丁度唯今頃にや在りぬべし、(『五月雨草紙』)

[逸話]『想古録』より
寝惚先生(大田南畝)、初め立身の希望ありて、始めて白河侯に謁せしとき、
数ならぬ蠅同前の身なれども おめしについて罷出でたり
と詠みけるに、楽翁大に不興せられ、見識の卑しき者なりとて擯斥せり、寝惚後に又一首を詠みて曰く、
白河の清き流れに魚すまず 濁る田沼のむかし恋しき  
(林)
『松屋叢話』より
○大田覃はその号を南畝といふ。また寐愡子(ねぼけし)とも。竹羅(ちくら)山人ともよびけり。狂歌(ざれうた)狂詩(ざれからうた)に巧にして。いと高き名ぞきこえたる。それが清国のことをつくりけるからうた。忠義空伝国姓爺。終看韃靼奪2中華1。清風一自レ掃2頭上1。四百余州罌粟(けし)花。またうたに。
中華とはいへども花は夏の夜の一夜にかはるけしぼうずかな。

太田 康資(おおた やすすけ) (1516〜1566)影武者徳川家康

新六郎。太田道潅の孫。お梶の方の父。
大永四(1524)年、父太田資高と共に北条氏綱に内応し江戸城を占領させた。足立郡岡(朝霞市岡)に知行を持ち、岡城に居住した。
天文十六年(1547)、家督をついだが先の内応への行賞を不満として里見義弘らと結び、永禄七年(1564)、北条氏綱の子北条氏康と下総国府台で戦い敗北し安房に逃れた。同九年(1566)十月十二日、安房国で死去。墓所は同国誕生寺にある。

大滝 源右衛門(おおたき げんえもん) 一夢庵風流記

滝川一益麾下の武将、一益死後大谷吉継に仕える。

大谷 吉継(おおたに よしつぐ) (1559〜1600)吉原御免状、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、柳生非情剣

刑部少輔。敦賀城主。永禄二(1559)年生れ。慶長五年、関ヶ原の戦いで戦死。享年41歳。
通称を紀之介、平馬といった。別名吉隆。豊臣秀吉の小姓として十六の時から仕え、俊敏な才智を認められる。天正三年(1575)には五千石を与えられ、越前敦賀城主となり、七月に従五位下刑部少輔に叙任。奉行職に就く。文禄元年の朝鮮の役後に伏見城の工事を請負い、一万石加増。賎ヶ岳の戦では七本槍につぐ戦功をあげる。石田三成とも仲がよく関ヶ原合戦では、病身にムチうって駕篭で出動、豊臣方について指揮をとった。最期は、小早川秀秋軍の裏切りによる悲壮なもの。正室は真田幸村の女。秀吉を招待して饗応、宝物進呈のエピソードが遺る。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

大槻 右衛門(おおつき うえもん) 捨て童子松平忠輝

田村清顕の側室の子。

大坪 道全(おおつぼ どうぜん)

大坪流馬術の創始者。
喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、
○大坪道全は将軍義満公の命を受て、辰の剋に京を乗出し、吉野山の桜を手折て腰の花かごに入て、午の刻迄に往返。二十六里を乗て帰りしは奇代の名人と、御感に預りしとかや。
などと有る。

大友 宗麟(おおとも そうりん) (1530〜1587)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり 

幼名を監法師丸、後に義鎮、別号府蘭、宋滴。洗礼名ドン・フランシスコ。正四位下左衛門督に叙任。豊後臼杵城主。享禄三年(1530)、大友義鑑の長子として豊後府内に生れる。母は京の公家坊城氏の女説と大内義興の女説がある。永禄五年剃髪して休庵宗麟と号した。天正十五年(1587)五月二十三日海部郡津久見で没。享年58歳。
天文二十三年(1554)八月に肥前守護職となり、永禄二年(1559)六月にはさらに豊前・筑前国の守護職に任じられる。永禄五年、三十三歳で薙髪し、休庵宗麟と号した後も、自ら兵を率いて活躍し、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六カ国を支配して九州探題に任じられた。十九箇条政道条目を発して、政治の方針を定めたのもこのころ。
博多の豪商島井宗室や神屋宗湛らとも交友を持ち、明や朝鮮との貿易にも尽力し、大友氏最盛期を提出。天正三年(1575)、ポルトガル船が臼杵浦に来るとキリスト教に帰依し、その布教と保護につとめる。孤児院、教会、病院を建て、天正十年(1582)、有馬、大村とともに最初の遣欧使節をローマ法王に派遣したと云われているが、近年の研究では宗麟は全く関知していなかったとされる。それより前、天正六年(1578)、島津氏に日向耳川で大敗を喫し、援軍と頼んだ秀吉の島津征伐のきっかけを作った。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」、『天正遣欧使節』参考) 
北の肥前に竜造寺氏、周防に毛利氏、南の薩摩に島津氏とライバルに囲まれていたとはいえ、大友宗麟は九州の八割を領する大大名になったが、そうなるまでの道程は決して順調だったとはいえない。豊後守護と鎮西探題を兼ねる父義鑑の長男として生れたが、異母弟の塩市丸を愛していた父は、家督を塩市丸に譲ろうとして家臣が分裂。天文十九年(1550)二月、宗麟を支持する家臣によって義鑑、塩市丸とその母が襲われ、義鑑は重傷を負い、塩市丸とその母は殺害されるという事件が起きる(二階崩れ)。義鑑はその傷が元で二日後に亡くなるが、亡くなる直前に宗麟は自分が後継者になることを納得させたとされる。こうして家督を継いだ宗麟だったが、「淫蕩無頼」(ジャン・クラッセ『日本西教史』)と称されるほどの放蕩息子だったという。家督を継いだその年、肥後の菊地義武を攻めてその妻を側室にした。義武は義鑑の実弟で菊地家の養子になっていたことから、宗麟は義理の叔母を側室にしたことになり、周囲から非難されるが、彼の放蕩・好色ぶりは『大友記』に「都より楽の役者をめされ酒宴乱舞、詩歌管弦に日を送り、ひとへに好色に傾き給ふ」と記され、『両豊記』には「畿内関東までも尋ね求め美女艶色とだにいへば千金を出して呼び集む」と書かれている程、彼の好色・女癖の悪さは有名だった。
宗麟は始め一色家から正室を迎えていたがすぐに離別、国東郡安岐の豪族の女(17歳位)を正室にする。イザベルと称されたこの妻は、奈多八幡・大宮司の女で熱心な仏教徒であったばかりか、性格も激しく、この頃ポルトガルの齎す銃や火薬に興味を持った宗麟が、フランシスコ・ザビエルを招聘し、その影響を受けた事に対して批判的で、合わせて女遊びが続いた宗麟に業を煮やして「国中の尼僧山伏に仰せて呪詛せられたり」(『九州治乱記』)という。この妻の態度に怒った宗麟は、妻子を府内に残し家出、丹生島に築いた新しい城(臼杵城)に移って別居する。この時、宗麟三十三歳という。やがて妻子と和解し臼杵城で同居するが、やはりうまく行かずイザベルと離婚した。この離婚の裏には、やはり新しい女がいた。それもイザベルの実の姉ユリアだった事から、イザベルは自殺未遂を行っている。この三番目の妻となったユリアは、イザベルとは正反対の女性で、病弱で優しい性格だったといわれる。
この後、ユリアとともに受洗した宗麟は、無鹿(ムシカ)の地にキリシタンの共和国を建国すべく壮大な計画を立てていたとされる。

大友 義統(おおとも よしむね) 捨て童子松平忠輝

大友宗麟の嗣子。

大友皇子(おおとものみこ) (648〜672)影武者徳川家康

天智天皇の皇子。母は伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)。伊賀皇子とも称された。天武天皇と額田女王(ぬかたのひめみこ)の間の子十市皇女(とおちのひめみこ)を妃とし、皇女との間に葛野王をもうけた。『新撰姓氏録』は淡海真人の祖とする。
天智十年(671)十月、太政大臣に任じられる。同年十二月、天智天皇が崩じ、近江宮で即位(弘文天皇として後年諡名された)。翌年、吉野から東国に脱出した大海人皇子との間で内乱が勃発(壬申の乱)。近江国瀬田の決戦に大敗し、山前の地で自ら命を絶った。皇子の首級は吉野側の将軍大伴吹負の手で不破行宮に届けられたという。

大野 道犬(おおの どうけん) (?〜1615)捨て童子松平忠輝、花と火の帝

大野治長の弟。道犬斎治胤。
大野三兄弟の末っ子として、小谷城内で産まれる。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。母は大蔵卿局。父道犬の名を取って道犬斎と号し、通称大野道犬と言われる。大坂夏の陣で堺の町を放火したため、戦後捕えられて堺の町衆に引き渡され火炙りの刑に処せられた。

大野 治長(おおの はるなが) (?〜1615)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記

豊臣家家臣。大坂城家老。弥十郎。大野三兄弟の長男。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。従五位下修理亮に叙任。
父の官位修理亮を継いだため、修理亮、あるいは修理と呼ばれる。一般に大野修理亮というとこの息子の方を指す。母は治長を産んだ時に浅井家に召され、茶々姫(後の淀君)の乳母となった。その母が淀君付きの女房として秀吉に召されたときに、兄弟ともども秀吉の家臣として召し抱えられた。

大野 治徳(おおの はるのり) (?〜1615)影武者徳川家康

治長の子。
大阪城と運命を共にする。

大野 治房(おおの はるふさ) (?〜1615)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝 

大野治長の弟。主馬首。大野三兄弟の二男。父は浅井家家臣大野修理亮道犬。母は大蔵卿局。
母が淀君付きの女房として秀吉に召されたときに、兄治長とともに秀吉の家臣として召し抱えられた。

大野木 源右衛門(おおのぎ げんえもん) 鬼麿斬人剣

松本藩上士組。

大野木 源太郎(おおのぎ げんたろう) 鬼麿斬人剣

大野木源右衛門の長子。

大橋 掃部(おおはし かもん) (?〜1600)影武者徳川家康

関ヶ原の合戦で、黒糸の鎧に十文字の槍を提げ、赤毛黒尾の馬に乗って奮戦したという。しかし、黒田長政の家臣後藤又兵衛に行きあい、名乗りをあげて切り結んだが敗れて討死した。(『関原軍記大成』)

大橋 玄蕃(おおはし げんば)

福島正則家臣。正則が広島五十万石から川中島四万五千石に改易された時に禄を離れる。その後、紀州藩に五千石で召抱えられた。
[逸話](『想古録』)
福島正則の臣下は当時の諸侯に珍重せられ、正則流竄に処せられし後、大橋茂右衛門hs八千石にて雲州に抱へられ、吉村又右衛門は一万石にて桑名に呼ばれ、大橋玄蕃は五千石にて紀州に聘されけり、玄蕃始めて紀邸に入るとき、槍を担ぎ具足櫃を背負ひ、若党草履取さへなくて只一人にて来りければ、一藩の人々其風躰の異様なるに驚き、扨々立派なる五千石取かなと笑ひけるに、玄蕃これを聞き、我れ浪人となりけるゆゑ家来を夫々片附けしが、我が党藩に仕へたるを聞かば、旧来の者ども追々尋ね来りて、又々諸人を驚かすべしと独語きけり、居ること幾日もあらざるに、果して玄蕃の跡を追ひ来るもの陸続踵を接し、其数の夥しきこと万石以上の国老も及ばざるほどにてありければ、一藩の人々又驚きて、真に立派なる五千石取なりと感じけるとなん(石井子耕)

大政所(おおまんどころ)

秀吉の母。天瑞院。
大政所は大北政所の略で、摂政・関白の母をいう尊称だが、後には特に秀吉の母を言うようになった。

大美 五三郎(おおみ ごさぶろう) 駆込寺蔭始末

小田原藩士。

大村 純忠(おおむら すみただ) (1533〜1587)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、死ぬことと見つけたり

有馬晴純の二男として生れる。
天文二年(1533)、肥前国大村城十七代当主の大村純前の養子となり大村家の家督を継ぐ。純忠は受洗しキリシタン大名となる。永禄五年(1562)横瀬浦を平戸港に代わる港とし、同八年(1565)イエズス会の支持で福田港を、さらに元亀二年(1571)港湾条件の良好な長崎を開いた。天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐に参加、その子嘉前を出陣させ旧領安堵を得たが、長崎は秀吉直轄となり、鍋島直茂が代官となった。天正十年(1582)、大友宗麟・有馬晴信らと4人の少年使節団(天正遣欧使節)をローマ法王のもとに遣わしたことは有名である。

大村 喜前(おおむら よしさき) 捨て童子松平忠輝

大村純忠の嗣子。

大矢野 松右衛門(おおやの まつえもん) かくれさと苦界行

浪人。
天草の乱に加担。

(おか〜おそ)

岡崎 次郎三郎信康(おかざき じろうさぶろうのぶやす)

→ 松平 信康(まつだいら のぶやす)

小笠原 権之丞(おがさわら ごんのじょう) (1591〜1615)影武者徳川家康

洗礼名ディエゴ。三河譜代。
慶長十七年(1612)、大八事件を期に有馬領および幕府直轄領でキリシタンの取締りが厳しくなり、翌十八年伴天連追放令を発布し、大御所家康の膝下駿府ではキリシタンである家臣の追放を行った。権之丞は、六千石の碌を受ける直参の家臣であったが、財産没収の上、妻子共ども駿府からの追放処分を受けた。(『日本切支丹宗門史』)
一説に権之丞は家康の子で、第六子忠輝の兄にあたり、『源流綜貫』には「母は京師三条某氏の娘、姓氏祥かならず」とあるという。小笠原越中守の養子となり、近藤石見守秀用の娘を妻とした。追放された権之丞は、以前から親交の有った明石掃部助守重(全登)との縁から大坂城に拠り、大坂夏の陣で幕府軍と戦い、天満橋で戦死したとされる。

小笠原 忠真(おがさわら ただざね) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

小笠原秀政の弟。

小笠原 忠重(おがさわら ただしげ) 影武者徳川家康

監物。小笠原吉次の子。
忠吉の死に殉死。

小笠原 忠脩(おがさわら ただなか) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

小笠原秀政嫡男。
夏の陣で戦死。

小笠原 長治(おがさわら ながはる) 捨て童子松平忠輝

玄信斎。

小笠原 秀政(おがさわら ひでまさ) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

家康の長男信康の娘聟。信濃松本城主
夏の陣天王寺口二番隊で出陣し、戦死。

小笠原 政親(おがさわら まさちか) 捨て童子松平忠輝

無資料。

小笠原 吉次(おがさわら よしつぐ) 影武者徳川家康

松平忠吉の家臣。

岡島 惣兵衛(おかじま そうべえ) 鬼麿斬人剣

長連弘の与力。

岡田 十松(おかだ じゅうまつ) 狼の眼

神道無念流。戸賀崎道場師範代。
神道無念流の戸賀崎道場で、秋山要助の兄弟子だったが、剣の腕は秋山要助よりも劣り、要助がやくざ者と喧嘩したことに付け込み、奸計をもって要助を道場から追い出す。
清水礫洲の書『ありやなしや』に名がある。

岡田 善同(おかだ よしあつ) 柳生刺客状

関ヶ原合戦の前に、家康が助力を求めたという浪人。

岡部 忠兵衛(おかべ ちゅうべえ) 見知らぬ海へ

今川水軍の船大将だったが、武田信玄に占領された後、礼を尽して武田方に迎えられ海賊奉行となる。やがて信玄に甲斐の名族土屋氏の姓を賜り土屋豊前守貞綱を名乗る。

岡部 長盛(おかべ ながもり) 死ぬことと見つけたり

無資料。

岡本 大八(おかもと だいはち) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

洗礼名パウロ。本多正純の与力。

岡本 時仲(おかもと ときなか) 見知らぬ海へ

平右衛門尉

岡本 平左衛門(おかもと へいざえもん) 影武者徳川家康

岡本大八の父。

岡谷 繁実(おかや しげみ) (1835〜1920)時代小説の愉しみ

館林藩士。
192名の名将の言行を16年の歳月をかけて完成させた『名将言行録』の著者。
『名将言行録』の初版は明治二年で、1943年に岩波文庫から全8巻として刊行されている。

岡山 久右衛門(おかやま きゅうえもん) 影武者徳川家康 

大野治長の従者。

小川 新兵衛(おがわ しんべえ) 死ぬことと見つけたり

求馬の妻の兄。
江戸屋敷算用方だったが公金を使い込み自害。

小川 祐忠(おがわ すけただ) 影武者徳川家康

石田三成の居城佐和山城攻めの先鋒を務める。佐平次あるいは孫一郎といい、土佐守となる。室は一柳直高女で子に小川祐滋がいる。
元は近江浅井氏家臣。だが、信長の侵攻を受けると、これに降って直属の旗本武将となった。本能寺の変が発生した後、明智光秀の傘下に入るが光秀が敗れると羽柴秀吉に降る。その後、柴田勝豊に家老として仕えて、賤ヶ岳の戦いに羽柴秀吉方として参加、伊予府中に七万石を得る。小牧・長久手の戦いにも先鋒として参加。関ヶ原の戦いには西軍として参加するが、松尾山のふもとに布陣する西軍右翼の赤座直保、小川祐忠、朽木元網、脇坂安治の諸隊が小早川隊の裏切りに乗じて、東軍へ寝返った。これにより領国は安堵されるも一年後に改易されている。

小川 直房(おがわ なおふさ) 死ぬことと見つけたり

鍋島直茂の次男。小川家を相続し小川直房と名乗る。
慶長六年(1601)、徳川家の証人として差出されるにあたって、再び鍋島の姓に復した。後に徳川秀忠の御側小姓となった時に、秀忠の一字を与えられ忠茂と改名。→ 鍋島 忠茂(なべしま ただしげ)

小川 信安(おがわ のぶやす) 死ぬことと見つけたり

龍造寺隆信の家老。

小川 孫一郎(おがわ まごいちろう) 風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

江北・小川城主。
江北の国人城主として浅井方につき織田信長に抗するが、元亀二年(1571)、信長に滅ぼされた。

於義伊(おぎい) 柳生刺客状

結城秀康の幼名。
→ 結城 秀康(ゆうき ひでやす)

興子内親王(おきこないしんのう) 吉原御免状

女一宮 
→ 明正天皇(めいしょうてんのう)

荻生 徂徠(おぎゅう そらい)

学者。名は惣右衛門。江戸の出身。

徂徠
荻生徂徠惣右衛門双松字茂卿。江戸人。
一人如レ此なれは徂徠又其下に出つ。更に一層の高論をなし忌憚る事なし。此後此二翁の下に甘んじ居るものは庸衆の人なり。聡明之士必又徂徠の上に出ん事を欲して天下の学者狂躁眩惑し。帰せん所を知らざらしむ。茲に順菴先生東来の後。門下甚盛なりし日(『斯文源流』)

荻原 五右衛門(おぎわら ごえもん) 死ぬことと見つけたり

鍋島正茂の家臣。
主君正茂の側妾への暴力を止めに入り、斬り殺される。

奥平 家昌(おくだいら いえまさ) (1577〜1614)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

大膳大夫、宇都宮藩主。天正五年(1577)信昌の長男として生れる。慶長十九年(1614)十月十日没。享年38歳。
幼名を九八郎(小八郎とも)という。天正九年(1581)十二月徳川家康から諱字、刀鷹を賜う。慶長元年(1596)三月二十日豊臣の姓をうけて従五位下大膳大夫に叙せられる。慶長六年(1601)下野宇都宮城主となって十万石を領した。奥平定昌、父の信昌に比して、それほどの戦功はみられないが、宇都宮城主となったときに大町市を開いた。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)

奥平 貞久(おくだいら さだひさ) 捨て童子松平忠輝

求出羽守。奥山休賀斎の父。

奥平 籐兵衛(おくだいら とうべえ) 影武者徳川家康

家康の旗本。
関ヶ原で戦死。

奥平 信昌(おくだいら のぶまさ) (1555〜1615)影武者徳川家康

定昌。妻は家康の長女亀姫。
十八歳の時に娶った最初の妻はおふうといい、武田方に人質として預けられていたが、徳川に寝返ったために殺されている。
三河生れ。貞能の長男。初め父と共に甲斐武田氏に仕えたが、天正元年(1573)徳川家康に属す。同3年長篠の戦いでは、武田の大軍を相手に長篠城を死守。同十八年(1590)、上野小幡藩三万石に封じられ、慶長六年(1601)、美濃加納藩十万石に転じた。信昌と妻亀姫の墓所は岐阜市加納の盛徳寺にある。

奥平 孫次郎(おくだいら まごじろう) 捨て童子松平忠輝

無資料。

奥村 助右衛門(おくむら すけえもん) (1542〜1624)一夢庵風流記

奥村宗親の次男で尾張国前田氏、利久・利家・利長の家臣。能登末森城主。
18歳の時、宗親の長男奥村庄右衛門利久が先に織田信孝に仕えていたため家督を継ぎ、前田家家老となった。永禄十二年(1569)、利家が家督を継ぎ荒子城内に入城する際、前当主の利久の許可無しには入城させまいと荒子七人衆と籠城し、明け渡し後、出奔した。後の天正元年(1573)の越前姉川合戦に参戦し、再び仕えた。
天正十二年(1584)、末森城にて佐々成政の攻撃を受け籠城し寡兵をもって辛くも撃退した。慶長四年(1599)、利家の没と共に隠居、剃髪し快心と名を改めた。可児才蔵の元服の際、烏帽子親を務めたという。加賀八家の奥村宗家の祖であり奥村支家の祖、奥村易英の実父である。母は前田氏の女。
能登七尾で慶次郎を迎えたのは荒子時代からの友、奥村助右衛門だった。若くして重職についた助右衛門は慶次郎とは正反対の飄々とした武人だったが、慶次郎の傾奇ぶりに眉を顰める前田家の中で唯一の理解者でもある。

奥村 栄実(おくむら ひでざね) 鬼麿斬人剣

加賀藩年寄。加賀八家の一つ

奥村 栄芳(おくむら ひでよし) 鬼麿斬人剣 

奥村栄実の息。

奥山 休賀斎(おくやま きゅうがさい) (1515〜1602) 吉原御免状、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

公重。奥山流(神影流)開祖。三河国作手城主奥平美作守貞能の家臣、奥平出羽守貞久の七男。幼名定国、のち公重、通称孫次郎、号は休賀斎、急賀斎、音寿斎。
上泉秀綱に師事すること一年、印可を得て三河国奥山郷に帰る。奥山と改姓奥山流を自称。徳川家康の下に入り元亀元年(1570)、信長・家康連合軍が浅井長政・朝倉義景軍を破った姉川の戦いに従軍、その後七年間家康に刀術を指導し家康より誓紙を受けた。その伝系は小笠原上総源信斎長治(新新陰流)、針ヶ谷五郎右衛門夕雲(夕雲流・無住心剣流・破想流)、小田切一雲純へと発展する。
三河国作手の城主奥平貞久の四男に奥平孫二郎公重というものがあった、少年の時分から剣術が好きで三河一国に於ては孫二郎に及ぶものがないというほどにたち至った、その頃甲府に上泉伊勢守が来て、武田家の武士達がその教えを受けているということが三河にも聞えたので、孫二郎は早速甲府に赴いて上泉の門に入って神蔭流を学び、上泉伊勢守が信濃から飛騨へ行って高山に一カ年余も滞在する間随従して免許を受けて三河へ帰った、それから後尚修業を怠らず、奥山明神へ祈願をかけて毎夜神前で太刀筋を工夫し、やがて自得するところがあって自から奥山流と称え、入道して名を急加斎と称し、これより海道無双の兵法家と呼ばれ奥平の一族一門は固より三河武士が争って入門した、それは永禄八年頃のことで、その時徳川家康は岡崎にいて二十二三歳の頃のことであったが、急加斎を岡崎へ招いて、七カ年学んだのである。(中里介山著『続日本武術神妙記』)

おさいの方(おさいのかた)

御新造。大内義隆の後室。小槻伊治女。兼子。
義隆の時代、太政官左大史小槻伊治が息女を伴って山口に下向し、息女の兼子は正室貞子の侍女として仕えた。その兼子に義隆が見初め、やがて兼子は義隆の長子義尊を生む。やがて義隆は正室貞子から心が離れ、貞子と離縁、兼子を正室に向かえたことから「御新造」と呼ばれる。正室に向かえられるに際し、兼子は内大臣広橋兼秀の養女となり、広橋家の息女として大内家に嫁いだ。
天文二十年(1551)、義隆が陶晴賢に叛かれ法泉寺に逃れると、兼子も子義尊とともに義隆に従ったが、義隆に説得され、ひとり宮野の妙喜寺に入った。その後、義隆は長門国に逃れたが大寧寺で自害、息子義尊は捕らえられ、僅か七歳で陶氏の軍兵に殺された。兼子の父小槻伊治もこの乱の犠牲になり、頼る人をすべて失った兼子は、広厳寺(光厳寺)に入り、夫と子供の菩提を弔った。

(おた〜おん)

小田 政治(おだ まさはる) (1492〜1548)時代小説の愉しみ

左京大夫。足利政知の子。小田氏を継ぎ、小田氏第十七代当主となる。

織田 有楽(おだ うらく) (1547〜1621)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝

名を長益、通称源五。有楽斎と号す。信長の弟。安土桃山・江戸初期の武将にして茶人。
信長の死後、秀吉に従って御伽衆となり、摂津の地に二千石の知行を得たが、関ヶ原役では家康に味方し、摂津・大和の内三万石を領した。
大阪城では豊臣秀頼を助けて家康との折衝に尽力。冬の陣では秀頼の輔臣として大坂城にいたが、夏の陣が起ると京都東山に去って茶事三昧の余生を送った。茶を千利休に学び、利休七哲の一人に数えられる。有楽は別に一派を開いて有楽流と称した。織部とも親交があった。晩年、京都建仁寺正伝院の荒廃を歎き、堂舎を修理して織田氏の菩提所と定め、院内に茶室如庵を造り、室内の壁腰に古歴を貼り、暦の席と呼ばれるなど風流に生きた。
東京都千代田区有楽町の名は彼の住居跡に由来する。また、数寄屋橋も有楽斎が拝領した土地に数寄屋を多く建てたことからの町名とも言われる。

織田 長政(おだ ながまさ) 花と火の帝

左衛門佐。織田有楽の倅。

織田 信興(おだ のぶおき) (?〜1570)影武者徳川家康、風の呪殺陣、時代小説の愉しみ

彦七郎。彦七 。織田信秀の子で信長の弟。小木江城主(愛知県立田村森川)。
居城の小木江城は木曾川下流にある平城で、対岸は伊勢長島。元亀元年(1570)、長島の一向一揆に攻撃され、十一月二十一日、信興は自刃して落城した。

織田 信雄(おだ のぶかつ) (1559〜1630)影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、風の呪殺陣、柳生刺客状、時代小説の愉しみ

織田信長の二男。母は愛妾・生駒の方。幼名・茶筅(ちゃせん)、通称三介。常真。
永禄十二年(1569)に信長が伊勢に攻めこみ北畠氏を追い詰めた時、和睦の条件として信雄に北畠氏の家督を継がせた。これ以降北畠氏を名乗る(ただし本能寺の変後は織田姓に復帰)。天正二年(1574)の伊勢長島の一向一揆攻め(長島攻め)で初陣だったといわれ、その後、紀伊雑賀攻め・石山本願寺攻めなどに参加して信長の息子としての役目を果たした。
しかし天正七年(1579)九月に勝手に伊賀に侵攻し、敵のゲリラ戦に翻弄され大敗してしまう。この失態に信長は大激怒し、「親子の縁を切る」とまで言われたがのちに許された。
家康と謀って小牧役を起こしたが、間もなく秀吉に属し、正二位内大臣に叙せられた。小田原北条攻めに参加するが、その直後秀吉の怒りを買い下野に配流。剃髪して常真と号した。関ヶ原、大坂陣にも徳川氏に内通し、元和元年七月、大和と上野で五万石を領した。寛永七年四月晦日、京都で没。

織田 信兼(おだ のぶかね) 風の呪殺陣

無資料。

織田 信成(おだ のぶしげ) (?〜1574)影武者徳川家康

信長の叔父織田孫三郎信光の嫡男。市之介。津田姓も名乗る。
信長の従兄弟で、元亀二年の長島攻め、天正元年の槙島攻め、浅井、朝倉攻め等に参戦。天正二年(1574)七月の長島一向一揆との戦い(長島攻め)で死亡。

織田 信澄(おだ のぶずみ) 花と火の帝、風の呪殺陣

無資料。

織田 信孝(おだ のぶたか) (1558〜1583)時代小説の愉しみ

織田信長の三男。母は側室坂氏。後に神戸氏を継ぎ、神戸信孝ともいう。
山崎の合戦では秀吉と共に明智光秀を討つが、清洲会議で秀吉が信長の後継者を甥の三法師とした事から秀吉と対立、宿老柴田勝家、滝川一益らとともに反秀吉の軍を起こすが、天正十一年(1583)、賎ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼした秀吉に、居城の岐阜城を包囲され降伏。信孝は尾張国知多郡野間の大御堂寺に送られ、そこで自害を迫られて自刃した。

織田 信忠(おだ のぶただ) (1557〜1582)影武者徳川家康、風の呪殺陣、見知らぬ海へ、時代小説の愉しみ

幼名を奇妙丸といい、織田信長の嫡男として父と共に各地を転戦する。母は生駒氏女。元亀三年(1572)、近江小谷城攻略が初陣。
長篠の戦いの後、美濃岩村城攻略により秋田城介となる。信長が安土城に移ったあと家督を継ぎ、武田勝頼討伐には、先鋒として出陣して勝頼軍を天目山に滅ぼした。同年に羽柴秀吉の救援として中国に出陣する途中、京都・妙覚寺で本能寺の変に会う。信長の救援に本能寺へ向かおうとするが果たせず、二条城で明智光秀軍と対戦した末に、自刃した。墓所は大徳寺総見院(京都市北区)にある。

織田 信次(おだ のぶつぐ) (?〜1574)影武者徳川家康

孫十郎。右衛門尉。津田孫十郎ともいう。信秀の弟で信長の叔父にあたる。

信光が守山城から那古屋城へ移ったのを機に信次が守山城に入った。しかし、ある日誤って信長の弟織田喜六郎秀孝を殺してしまう。信長の怒りを怖れ信次は失踪する。信次の後任として守山城には信長の弟・喜蔵信時がはいった。しかし信時は守山城の重臣角田新五の謀反にあって自害。このあと信次は赦免され守山城主に還り咲いた。天正二年(1574)、長島一向一揆との戦いで討死(長島攻め)。

織田 信長(おだ のぶなが) (1534〜1582)吉原御免状、鬼麿斬人剣、影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝、花と火の帝、一夢庵風流記、風の呪殺陣、死ぬことと見つけたり、見知らぬ海へ、柳生非情剣、かぶいて候、わが幻の吉原、対談日本史逆転再逆転、柳生刺客状

幼名を吉法師、また三郎という。父は織田弾正忠信秀。天文十五年(1546)、元服して信長と改名。
父の死後、尾張半国を統一する。永禄三年(1560)、桶狭間で駿河の今川義元を迎え撃って敗死させた(桶狭間の合戦)のを初め、同六年(1563)、三河の徳川家康と同盟後、尾張を統一。同十年(1567)には斎藤竜興を美濃から駆逐し稲葉山城に移る。足利義昭を将軍職につけると姉川で浅井・朝倉連合軍を撃破(姉川の合戦)。
天正元年(1573)には義昭を追放し、同三年(1575)に長篠で武田勝頼を破る(長篠の戦い)。同四年(1576)、安土に築城。羽柴秀吉に中国経営をさせ、畿内、北国をも手中に納める。天正十年(1582)六月二日、明智光秀のため本能寺で自刃(本能寺の変)。享年49歳。(歴史読本昭和43年五月特別号「戦国武将名鑑」参考)
永禄十二年より名物茶器の蒐集に奔走し、津田宗及、今井宗久、千宗易を茶頭に取り立て茶湯の道に励む。京都相国寺、妙光寺、また安土城内で茶会を開き、茶湯政道を唱え茶道を以て治績の資とし、近世武将の真面目を発揮したとされる。(『茶道辞典』)
[逸話]
○元亀元年二月廿五日、織田信長公、近江国常楽寺に着給ひ、翌日より国中の相撲を集られ、御覧なる、取りすぐれたるものは、百済寺の鹿、同小鹿、宮居眼左衛門、鯰江又市郎、青地与右衛門等なり、鯰江、青地両人は、召出され、熨斗附の刀、脇差を給はりて、召仕るべしとて具せられたり、総て信長公御相撲の事委く、織田軍記に出ルゆへこゝに略ス、木の瀬太郎太夫、同春蔵庵、勝負の判断を司ル、(『相撲伝書』)
人みな織田信長を身痩せ、気短く、粗暴なる英雄の如く思ひ居れども、事実は全く此れと相反し、躰肥え、肉豊かにして宛然たる愛嬌人を懐慕せしめたるは、今人の想像外に在りしと云へり、友人の持伝へたる古記録に拠れば、信長決して短慮ならず、信長必らずしも粗暴ならず、然も信長は深遠隠微なる智謀を有せしなり、或るとき好みを武田信玄に通ぜんとて、塗物の器具を甲州に贈りけるが、武田は疑ひ深き人物なれば、必らずや此の器を削り見るならんとて、工芸に熟達せる技術家に命じて之を作らしめ、其用材には南蛮の良木を用ゐて、内部に厚く金箔を措き、外部に漆を塗りて之を進物と為しけるに、果して信玄は之を疑ひ、侍臣に命じて其器の一角を削らせけるが、金色は閃々として漆黒の下より露はれ、之に継で未だ嘗て見聞せざる珍奇の良材、金塗の内より出現しければ、信玄大いに悦び、我れ彼を疑ひけるに彼れ却て斯くまで我を信じ居るなりとて、直ちに礼翰を認めて使臣を尾州に遣しけると云へり、三略の巻頭に、主将の法務めて英雄の心を撹るとの格言あれども、流石に吉法師は天下に覇たるの気量ありしを見るに足るなり(大槻磐渓)(『想古録』)
『戴恩記』に、「六条本国寺を三好が軍兵かこみたる時、信長公一騎がけに参られ、小歌を作りてみづから音頭をとり、諸勢に唄はしむ。其歌、織田のかずさは果報のものよ、一番やりをつくほどに、しかも上意の御前にてと、三べんうたひすまし、八面の大敵を一追ひにつきくづしたる事」委しくみえ、又、「上京に城郭を築き参らせらるゝ時、大石の数百人にて引かぬるを、信長公ざいを取て、たゞ一声ゑいやと声を出し給へば、鳥の飛がごとく行けると也。何時も人の気は、いさむといさまぬとに替ること也。此人の御声は大きに有し。御馬揃の時、丸が見物せし三条衣の棚にて、なにとて先はつかへて行ぬぞとの給ひし御声、東西南北四、五町ほどづゝ聞えてと、人みな申き」とみゆ。(巻之一)(『嬉遊笑覧』)
[信長と稲葉一徹]
○稲葉一徹斎信長公に随服す。しかれども心腹こゝろもとなき所あると信長公思召、後のうれへをおもひ、数寄屋にて茶をたまわり、これを殺さんとたくみ、一日享せり。一徹数寄屋に入る時、相ひともなふ士三人あり。挨拶に懸物の書讃をよましむ。一徹少し文学あり、すなわち其さんを読みたり。三士こゝろはいかんと問。一徹これをとけり。信長公かべをへだてゝこれを聞き戸をあけて入て曰く。客はあら勝負斗りする勇士とのみ思へり。今讃せり。われ人朝夕鎗をにぎり、馬をはせ隙なき時に奇どくの事感ずるにたへたり。さて今日の催は客の賞するにあらず。其二心あるかとうたがひ数寄屋にて殺さんとおもへり。それゆへ三士にも皆懐剣をさゝしむ。今客が文書の為めにこれをゆるす。これより永くわが謀臣となれと云つて、三士の懐剣をいださしめて一徹にしめす。一徹拝して死をなだめらるゝ条、まことに忝し。臣も内にこれを存すといへども、せんかたなきによりて、召しに応ぜり。さだめて数寄屋にて殺さるべし。一人は是非に相手にとらんと存じ、おぶるところなりて、懐中より短剣をとり出して信長公の前にさしおけり。公もその用意誉め玉ふ。(『見聞談叢』)
[名言名句]
「人城を頼らば、城人を捨てん」
「頼むところのある者は、頼むところのために滅ぶ」(『名言名句活用事典』)
「人間五十年、化天(けてん)の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」これは、信長が愛誦したとされる幸若舞『敦盛』の中の一節。「化天」とは「化楽天」の略で、ここに生まれると八千歳の長寿を保つといわれる楽土。(『名言・名句新辞典』)

《瓢水コラム》
[斎藤道三、織田信長会談の別バージョン]
 『老人雑話』よりどこかで聞いたような話をひとつ。天文22年(1553)4月、織田信長と斎藤道三が富田の正徳寺で会見した有名な逸話の別バージョンといえるだろう。
 「信長、美濃斎藤が所へ婿入の時、広袖の湯帷子に、陰形を大に染付て着し、茶筅髪にて往く。山城守(道三)が家老等国境まで迎に出て、其様を見て肝をつぶし、密に云ふは、此様の人に式法などは不都合ならんとて、早使を返し、田舎家具の大なるなどを用意せよと云。信長宿に着て、束帯正しく調て山城に対面す。又驚き騒ぎ、もとの七五三の式法を用ゆ。此時山城嘆じて云、我国は婿引出物に仕たりと。其心は我子共など国を保つことあたはじ。信長に取れんと思ふ也」(『雑史集』国民文庫刊行会、427頁)。
 信長と濃姫の婚礼がどのように執り行われたのかは浅学にして知らないが、「広袖の湯帷子に、陰形を大に染付て着し」という描写は、創作にしても良く出来ていると思う。ちなみに富田の正徳寺での会見後、道三が呟いた言葉は以下の通り。「されば無念成事候。山城が子供たわけが門外に、馬を可繋事案の内にて候」(徳富猪一郎『近世日本国民史 織田史時代 前篇』民友社、161頁)。(2004年9月29日瓢水記) 
[意外や意外、織田信長は“ケチ”だった!]
 『老人雑話』より織田信長の意外な解釈をひとつ。「ケチ」と言えば真っ先に思い浮かぶのは“狸オヤジ”こと徳川家康だが、『老人雑話』の語り手である江村専斎の解釈では、信長もかなりの「ケチ」だったらしい。
 「信長は天性吝嗇の人也。相撲取の三番したるに、焼栗一つ褒美に與ふる様の人也。後に大名共を多く斃し家を亡すは、我子共又は近習の出頭人に知行與へん為なり。太閤其心に能通じて、我子無し御次様(注:信長の4男。羽柴秀勝)を我が子にいたしたきことに候。我れに下されよ。近江北の郡長濱十萬石を譲り申さんと云。信長大に喜で、其方は何とせんと云。太閤云、御朱印頂戴申たらば、西國の二三ヶ國は、二ヶ月三ヶ月の内に討取り候はんと申さる。さらばとて朱印を出し、竹中半兵衛と云名将を副られ播州の方へ討立たれし也。太閤手勢寡し、加藤左馬も従ふとぞ」(『雑史集』国民文庫刊行会、467頁)。
 信長という人物は今日、評論家等によって極めて都合の良い解釈がなされている。しかし、「信長は天性吝嗇の人也」という解釈の方が、説得力があるように思う。「後に大名共を多く斃し家を亡すは、我子共又は近習の出頭人に知行與へん為なり」という一節も、未だ毛利領である出雲に国替えを命じられた明智光秀が謀反をおこしたことを考えると、妙に納得してしまうのだ。これもまた、人間洞察に優れた解釈ではないだろうか。(2004年10月19日瓢水記)
[危うく信長に殺されかけた家康]
 またまた『老人雑話』より信長の吝嗇話をひとつ。本能寺の変が起こった折、何故、徳川家康は信長に招かれて上京していたのか、という話。
 「明智亂の時は、東照宮堺に御座す。信長羽柴藤五郎(注:不明)に命じて、家康に堺を見せよとて附て遣す。實は先きにて間を見て害する謀なりとぞ。東照宮運つよくして明智が事發り、太閤西國より登り給ふ時、伊賀超に三河の岡崎に馳歸る。明智が事なくば東照宮危き御事也」(『雑史集』国民文庫刊行会、464頁)。
 これもまた「我子共又は近習の出頭人に知行與へん為なり」ということになるのだろう。江村専斎は信長に対してかなり批判的なようだ。ちなみに宣教師ルイス・フロイスは、京に向かう明智軍の兵士の心情を忖度して、次のように書き遺している。「おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろう」(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史3』中公文庫、147頁)。蛇足であるが、『徳川家康は二人いた』を書いた八切止夫氏は、別人が家康を詐称していたことを知った信長が激怒し、家康(別人)を上京させて討とうとしたのだ、と主張している(例えば、『徳川家康は二人いた』サンケイ新聞社、322頁)。(2004年10月20日瓢水記)

織田 信広(おだ のぶひろ) (?〜1574) 影武者徳川家康

三郎五郎。大隅守。姓は「津田」を称す。信長の異母兄。
父信秀より三河の安城城を任される。父・信秀が亡くなると家督は弟の信長が継ぐことになる。信秀の死後間もなくの天文十八年(1549)十一月、今川軍に攻められ開城。今川方に捕らえられるが、松平竹千代(徳川家康)と交換され尾張へ戻る。
弘治三年(1557)頃、美濃の斎藤義龍と謀り、信長の居城清洲を乗っ取ることを企てるが、信長に見抜かれ未遂に終わる。以後は信長に忠実に仕えた。
天正元年(1573)四月六日、二条城に籠り敵対していた将軍足利義昭との和議を結ぶ際、信長の名代として二条城に赴いた事が信広の顕著な働きであった。天正二年(1574)、長島一向一揆との戦い(長島攻め)で討死。

織田 信行(おだ のぶゆき) 一夢庵風流記

勘十郎。信長の次弟。末森城主。
信長に叛き乱を起こす。(尾張稲生の合戦)

織田 秀信(おだ ひでのぶ) 捨て童子松平忠輝

岐阜城主。信長の孫。

小田切 茂富(おだぎり しげとみ) 影武者徳川家康

大隈守。武田の旧臣。甲斐二十五万石の奉行。

男谷 信友(おたに のぶとも) 

精一郎。直心影流の達人。幕府講武所師範頭。
近代の剣客では講武所の男谷下総守信友が最も評判がよい、この人は直心影で人格も頭脳もよくその弟子のうちから諸大名家の師範役になったもの二十余人を出している、如何なる武者修行者に対しても他流仕合を謝絶したことはなく、柳川の大石進だの、久留米の加藤平八郎、中津の島田虎之助、神田の千葉周作等皆この人にばかりは敬服し或は師事していた、竹刀の長さを総丈三尺八寸に決めたのもこの男谷の見識であった、品行が正しく、文事に通じ絵を巧みにして、綽々たる余裕を持っていた、勝海舟とは親類筋に当っていて、勝を玉成するのに大いに与って力があったという、初め百俵高の小十人から進んで御徒頭千石となり、講武所設置の頃には師範頭取、奉行をつとめた御旗奉行、西丸御留守居などの要職となって禄高三千石までに出世したのであるが、平時にあって、これ程の出頭を示す人だから容易ならぬ達人であったことは間違いなく、まず近世第一等の達人と看て至当であろう。(日本剣道史)(中里介山著『日本武術神妙記』より)

お茶筅公(おちゃせんこう)

→ 織田 信雄(おだ のぶかつ)

小槻孝亮(おづきたかすけ) 影武者徳川家康

左大史。
『左大史孝亮記』を著す。江戸前期の公家。
『影武者徳川家康』(上巻542p)には家康の将軍宣下の場面で「勅使勧修寺光豊以下束帯に威儀を正し、伏見城に着いたのは午前十時すぎだった。儀式はまず告使が庭に出て正面に向って一礼し、「御昇進」と二度唱えることから始る。次いで勅使以下が上段の間に左右にわかれて坐ると、右大史小槻孝亮が進み出て、家康を征夷大将軍となすという宣旨の入った箱を捧げる」と書かれている。
ここには「右大史小槻孝亮」とあるが、小槻家は代々左大史に任ぜられていることから、「左大史」とするのが正しいように思う。

小野 喜平太(おの きへいた) 鬼麿斬人剣

松代藩士。

小野 庄蔵(おの しょうぞう) 影武者徳川家康

三河譜代。
キリシタンであったため追放。

小野 宗左衛門(おの そうざえもん) 影武者徳川家康、捨て童子松平忠輝

近江代官手代。

小野 忠明(おの ただあき) (?〜1628) 柳生非情剣

次郎右衛門。幕府の一刀流剣術指南。別名を神子上典膳といい、「一刀流」開祖伊藤(伊東)一刀斎に師事、免許皆伝を得る。一説では、同じ将軍家剣術指南の「新陰流」柳生但馬守よりも強かったといわれている。
里見安房守に仕え、後に剣術修行のため諸国遊歴、一刀斎を師として奥旨を窮めた。文禄二年(1593)秀忠の剣術の相手として二百石を与えられ、小野次郎右衛門と称する。信州上田城攻、大坂の陣に従軍、六百石に至り、寛永五年(1628)十一月七日没。上田城攻の時、軍令を犯し蟄居、大坂の陣の時には同輩の行動を非難し閉門に処せられた。
一刀斎が弟子の善鬼を殺すため、典膳に夢想剣を伝え、両者を闘わせて善鬼を討たせたといわれる。(『本朝武芸小伝』)

[逸話](『耳袋』)
世に烏呼の者ありて両国橋の辺に看板を出し、「剣術無双之者也。誰にても真剣を以て立向ひ可申、仮令切殺とも不厭」のよしをしるし置ぬ。都鄙の見物夥しく、右之者を切えずして彼が木刀に仕付られし者は門弟となつて、専ら評判ありしを次郎右衛門聞及びて、「かゝるゑせものを天下の御膝元に置ん事云ひ甲斐なき」とて、門弟を引連見物に行、桟舗にて右ゑせものゝなせる業を見て門弟一同微笑しけるを、彼の者聞て大に怒り、「何条笑ひ給ふ事やある。既に看板を出し誰にてもあれ真剣を以仕合致上は、笑ひ給ふ心あらば是非立合ひ被申よ」と罵りければ、傍成者は、「あの桟舗なるは将軍家の御師範次郎右衛門也」と押宥めけれ共、聊不相用、「仮令御師範たり共」と不申止ば、次郎右衛門も右之通あざけられては武備の恥辱、無拠下へおりて、「然る上は立合可遣」とて鉄扇を以被立向時、ゑせ者は清眼に構へ只一討と切付し故、あはやと思ふ内ゑせものが眉間は鉄扇を以被打砕、二言となく相果けるとなり。此趣大猷院様の御聴に入て、「師範たるべき行状にもあらず」とて、遠島被仰付けるとかや。其後島にて畑もの瓜・西瓜を盗み喰曲ものありて、右を捕んと島中の百姓集りけれど、大勢に手を負はせ瓜小屋に籠りて、右の小屋廻りには西瓜の皮を並べ、捕手の者込入時は右瓜の皮に辷り、身体自由ならざるを以多人数死傷に及びける故、次郎右衛門方へ百姓罷越、「何分捕へ給る様」相歎ければ、次郎右衛門麁忽にも軽々敷脇差追取駈行しを、「瓜の皮にて足場不宜」由傍より申けれど、耳にもかけず駈行、果して瓜の皮に辷りて仰向に倒れければ、待もふけたる曲者拝み打に打懸しを、小野派にて神妙と名付たる太刀の通、辷りながら抜払ひけるに、曲者の両腕ははたと落ける故、直に付入召捕けると也。此趣江戸表へ御聴に入被召帰、即時に元の禄被下けるとかや。扨も次郎右衛門被召御前へ罷出ける時に、大猷院様思召にも、「彼は遠流にて暫剣術の修行可怠。上には日々夜々御修行之儀故、次郎右衛門と御立会御覧可有」思召にて、毛氈を敷、木太刀を組合せ、「いざ次郎右衛門可立合」との上意也。次郎右衛門は謹て毛氈の端に手を突居たりけるを、上には次郎右衛門を只一打と御ふりあげ御声掛られける時、毛氈の端を取跡へ引ける故、上には後ろへ御ころび被遊ける。依之大猷院様弥御信仰被遊、一刀流御修行被為在けると也。(巻之一)
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「小野忠明」の項があるので参照ください。

小野 能登守(おの のとのかみ) 捨て童子松平忠輝

無資料。

小野 妹子(おののいもこ) (生没年不詳)

推古十五年(607)七月三日、聖徳太子の意を受けて、初めて公式な使節(遣隋使)として通訳の鞍作福利(くらつくりのふくり)とともに、国書を携え中国に渡る。この時、遣隋使船が辿った航路は、朝鮮半島の西岸沿いに進み百済に寄港し、そこから黄海を横断して山東半島の登州辺りに着岸したとされる。
当時の中国は、南朝の陳を滅ぼして南北を統一し一大帝国隋を築いた文帝から、その子煬帝に代っていた。『隋書』の倭国伝によれば、妹子一行が隋を訪れたのは大業三年とあり、これは煬帝が父や兄を殺して帝位について三年目のことだった。この時、妹子が携えた太子の国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」とあり、虚栄心の強い煬帝は腹を立て「蛮夷の書、無礼なるものあり」と言ったという。しかし、それ以上の事もなく、妹子一行を特別咎め立てすることもなく迎え入れた。さらに、翌年の十六年四月に妹子らが帰国する際には、裴世清(はいせいせい)を国使として遣わした。こうして来朝した裴世清らは盛大な歓待を受け、同年九月、帰国の途につくが、この時、再び妹子は副使吉士雄成とともに多くの留学生や留学僧を伴い渡隋。十七年九月に帰国した。
妹子は隋で「蘇因高(そいんこう)」と名乗り、無事に対隋外交の大任を果たし、仏教や先進国の制度を積極的に取り入れようとする聖徳太子の要望に応えたが、この時の帰国の記事をもって妹子の記述は『日本書紀』から消える。『続日本記』の和銅七年(714)四月の条に、妹子の孫小野朝臣毛野の死亡記事のところに「小治田朝の大徳冠妹子」とあり、遣隋使当時は冠位十二階の第五番目大礼であった妹子が最上位の冠位になっていることなどから、帰国後も太子の傍らにあって、精力的に政務に携わっていたと思われる。にもかかわらず『日本書紀』には、昇進の記述もなく、死亡記事さえ記されていない。妹子のその後の事蹟は抹殺されている。その理由として「妹子が裴世清を伴って帰国した時、百済を通過する際、隋からの国書を百済人に奪われたと報告し、流罪になる所、隋の使節がいた手前、天皇によってその罪を免れた云々」という記事と関連があるのではないかとされるが、妹子は引き続いて二回目の遣隋使になっている。歴史作家の玉城妙子氏はそこに『日本書紀」の作者の作意を感じると述べている。
ともあれ、妹子はその後も聖徳太子に仕え、太子が沐浴する池の畔の坊に住んでいたという。そして、太子が亡くなった後、妹子は太子が建立したとされる京都市中京区六角通にある紫雲山頂法寺の六角堂に祀られている太子の護持仏如意輪観世音菩薩に花を供え供養したと伝えられ、このことからこの六角堂が生け花発祥の地と言われる。その生け花を伝える華道宗家が池坊と称したのは、この故事に由来するとともに、妹子が生け花の始祖とされている由縁だという。

小野 お通(おののおつう) (1568~1631)

小野政秀の女。
浄瑠璃十二段草子を改作し、現代に伝わる浄瑠璃(浄瑠璃節)の源を創ったといわれる。信長の家臣小野政秀の娘とされ、永禄十二年(1569)、六条河原の合戦で政秀が戦死するとお通の一家は信長の庇護を受ける。信長の死後、一家は離散し京に上ったお通は、和歌を九条植通に学び、書画・琴・碁などにも通じ、優れた才能を発揮。やがて徳川に仕え、千姫が秀頼に嫁いだ時には、千姫付となって大坂城に入った。北政所には「ほどをまきまえた女」と好まれ、淀君には「またとなき者」とその才能を買われたという。浄瑠璃十二段草子の改作もその淀君の勧めであったともいわれる。元和元年(1615)大坂城が陥落すると江戸に戻り、今度は和子付となって後水尾天皇の後宮に仕えた。この時、お通はその神通力で後水尾天皇の難病を治したとも伝えられ、天皇の寵愛がお通に集り、幕府と朝廷の板ばさみとなったお通は故郷に退き、そこで波瀾に富んだ生涯を終えたとされる。しかし、お通の生涯については諸説あり、伝説的な人物にもなっている。

小野木 公郷(おのぎ きみさと) 花と火の帝

縫殿助。西軍武将。
関ヶ原に先立ち、西軍は近畿周辺の徳川方小城を攻め落としていた。小野木はその一つ細川幽斎が立て籠る田辺城を攻撃。

小浜 景隆(おばま かげたか) 見知らぬ海へ

伊勢水軍。
岡部忠兵衛が戦死した後、武田水軍の海賊奉行となる。やがて、駿河が徳川方に攻められ武田軍が撤退すると、武田水軍は解体し、向井正綱らとともに徳川方に与した。

小夫 浅右衛門(おぶ あさえもん) 吉原御免状、かくれさと苦界行

狭川新左衛門の息。
父狭川新左衛門より柳生の剣(古陰流)を学び、後に小夫姓を名のり小夫流の祖となる。

小夫 幡左衛門(おぶ ばんざえもん) 吉原御免状

小夫流三代目を継ぐも行跡不謹慎によりお家断絶となる。流派は高弟の西脇勘左衛門が継ぎ「西脇流」を名乗る。

おふう (1557頃~1573頃)

奥平定(信)昌の妻。
三河作手城主奥平定昌は、始め徳川方の武将だったが天正元年(1573)、武田信玄が進出してくると武田方についた。この時、武田側は定昌の行動に不信を抱き、人質を差出す事を条件とする。その人質となったのが、まだ十六歳の若妻おふうとその弟仙千代だった。家臣の黒田勘九郎に付き添われ、何かあった時には夫が必ず助けてくれるものと信じて二人は甲府に赴いた。ところが定昌は、作手城に火を放ち徳川方に寝返る事となり、怒った勝頼は、人質の二人を見せしめに磔刑に処した。また、刑を見届けた後は帰って良いと申し渡されていた付添い人の黒田勘九郎は、その場で腹を切り殉死した。

親平 近清(おやひら ちかきよ) 捨て童子松平忠輝

長沢松平家六代親広の五男。

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ) 時代小説の愉しみ

武田信玄の武将。

およつ御寮人(およつごりょうにん) (1589〜1638) 吉原御免状、花と火の帝 

後水尾天皇の側室。四辻公遠の娘。藤原与津子。お四つ。御与津御料人。明鏡院。
賀茂宮、梅宮(文智女王)の母。父の官名をとって権大納言局と呼ばれる。お四つは、始め綾小路殿と呼ばれ、後水尾帝の祖母新上東門院に仕える女房であったが、帝に見初められ後宮に入った。帝より六歳年上で、元和四年(1618)に賀茂宮を生んだ時には二十九歳で、翌年梅宮を生んだ時には三十歳の、当時としてはうば桜の年齢だった。しかし、帝の寵愛は深く、その事が和子入内を目論む幕府にはかえって許せぬ存在だった。梅宮の出生を期に、およつは帝と別れさせられている。

お楽の方(おらくのかた)

本名おらん。四代将軍家綱の生母。朝倉宗兵衛女。
お楽の方の父宗兵衛は下野国猿島郡鹿麻村の百姓出身で、江戸に出て五百石取りの旗本朝倉才三郎に奉公していた。始めは中間小者の類であったが、才智に優れ如才ない性格から主人に気に入られ、侍分に取り立てられ、主家の姓を授けられ朝倉宗兵衛と名乗った。ところが才三郎が急死し、伯父の朝倉右京進が才三郎の財産を整理すると、実直そうに見えた宗兵衛が、長年に渡って主家の金を着服していた事が露見。死罪になるところを、これまでの働きから減刑され江戸を追放になった。宗兵衛一家五人は、故郷の鹿麻村に帰ったがすでに耕すべき畑も無く、さりとて商人にもなれず、やむなく名を一色庄左衛門と改め、鉄砲片手に利根川岸で鴫や鴨を猟して一家の家計を支えていた。そのうちに禁漁の鶴を撃ってそれを日本橋小田原町の鳥屋に卸し、生活の助けにしていたが、その事が公儀の知る所となり、捕らえられて死罪となった。宗兵衛の妻とその子らは鹿麻村を領する古河藩主永井信濃守尚政に「揚り者」として下げ渡されたという。「揚り者」とは刑の一種で、非人手下と「やっこ」が有り、無給で働かされる一種の奴隷制だった。「やっこ」となり永井家の女中として働かされるようになった宗兵衛の妻だったが、茶の湯・生花・手習い・行儀作法と一通りの嗜みを身に付けていた事から、永井家の奥向きで重宝がられ、ついには女中頭に取り立てられた。その後、永井尚政の姫が筑後柳川城主立花左近将監忠茂に輿入れする事となり、宗兵衛の妻は名を紫と改め、姫に従って立花家の奥向に勤めることになった。この時、娘の一人も名をおらんと改め姫の腰元として立花家に遣わされた。だが、立花家に嫁いだ姫はほどなく死亡し、紫とおらんは永井家に帰される。ちょうどその頃、尚政の家臣七沢作左衛門清宗という侍が妻を亡くし後妻を求めていた事から、紫はおらんを連れ子に作左衛門と結婚した。作左衛門は何を思ったかその後、永井家を去り武士身分を捨てて、神田鎌倉河岸で古着屋を始める。そんな或日、浅草観音に参詣した春日局(一説に春日局の姪祖心尼)が店先にいたおらんを見つけ、「御意に入るべき風俗なり…」と作左衛門夫婦に、おらんをお城奉公に出す意志は無いかと尋ねたという。夫婦は娘の出世と喜んで承知した。こうして江戸城に奉公する事となったおらんは、初め呉服の間詰めであったという。その年の暮れ、大奥恒例の無礼講が有り、女中たちが集まって歌や踊りの大騒ぎをし、やがておらんにもその順番が巡り故郷の麦搗歌を披露した。この時、家光が通りがかり、その歌詞の面白さにつられ、女中達の遊ぶ座敷を覗きおらんを目にしたという。この事が機縁となっておらんは家光の枕席に呼ばれるようになり、家光の御手付中臈となる。名をお楽の方と改め、春日局の計らいで永井尚政の女ということで側室に上ったとされる。
お楽の方は、寛永十八年(1641)、江戸城において竹千代(家綱)生む。嗣子を生んだお楽の方の家族も、相応の身分に取り立てられ、弟弁之助は名を増山弾正正利と改め、常陸国下館に二万三千石を拝領し、後には御奏者番にまで出世、妹は高家品川式部大夫高安の正室となった。
承応元年(1652)十二月卒。上野東叡山に葬られ、法号を宝樹院といった。

下風 道二斎(おろし どうにさい) 

下石平右衛門三正。
始め山田瀬兵衛と称し、宝蔵院流二世胤舜に鎌鎗を学ぶ。松平直矩に仕え、後江戸に出て下石道二と称し、鎗術で天下に鳴った。播州赤穂で没。
道二斎は宝競院の末弟にて、鎗術の修練大猷院(徳川家光)様の御聴に達し、被為召御前に於て其頃浪人にて素鑓の達人一同に試合被仰付候節、御前にての儀ゆへ、高股立并掛声等制止之義御側向より沙汰有之、双方畏り候旨にて立合ける所、勝負に望みて、素鑓の浪人は右制止に随ひ、道二斎は高股立にて掛声も十分に致しける故、御近習より時々制止有之候共不相用、難なく道二斎勝になりければ、跡にて右制止を不用訳御尋有りしに、道二斎慎で、「御尋之趣御尤に奉存候。随分相慎み候存心には候得共、勝負に望みては矢張稽古の心にて十分に芸を尽し候儀故、御前をも不恐様罷成、制止を不用には無之、右之不届を以如何様被仰付とも是非に不及」趣御答に及びければ、大猷院様にも尤に思召、殊之外御賞美にて、下風は名人の由上意ありて、御褒美被下けるとなり。(『耳袋』巻之一)

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