宿駅一覧

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龍慶一郎わーるど

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更新日 2008-11-30 | 作成日 2007-09-18

街道宿駅一覧

東海道/中山道/甲州道/日光道/奥州道

東海道

京まで五十三次(大坂まで五十七次)

江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つ。江戸と京を結ぶ
幹線道路として、中山道とともに江戸幕府により整備された。
 

品川宿(しながわしゅく) 日本橋より二里

東海道第一次。本陣一、脇本陣二、旅籠九十三軒、戸数千五百六十余、人口 六千八百九十余人。奥州・日光道中の千住、中山道の板橋、甲州道中の内藤新宿と並ぶ江戸四宿の一つ。宿場は目黒川を挟んで南北二宿に別れ、町並みは九町四十間あまりだったが、後には新町が出来ている。江戸に出入りする人々の送迎の場、吉原と並ぶ遊興の場として、また宿場周辺には桜や紅葉の見所があり見物客などで賑わい、四宿の中では一番の繁栄を極めた。
宿場の成立は、慶長六年(1601)、家康が駅馬三十六疋を置かせて宿駅に指定したのが始まりだが、小田原北条氏の支配した天正十一年(1583)の「北条氏照朱印状」に「品川宿」と書かれていることから、天文年間には宿場としての機能があったものと思われている。
享保三年(1718)、飯盛女は旅籠一軒に二人と定められたが、品川宿では明和元年(1764)に五百人まで抱えることが許され、吉原につぐ色里となった。天保十四年の記録では、飯盛女を置く飯盛旅籠が九十二軒、水茶屋も六十四軒を数え、置かない平旅籠が十九軒だけで、後には三千六百人を超す数となり、ついには検挙者を出す事件も生んだ。幕末の記録では、この宿に遊びに来る客は、薩摩藩士と芝増上寺の僧侶で大半を占めたという。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「うち興じて、ほどなく品川へつく。弥次郎兵へ
海辺をばなどしな川といふやらん
と難じたる上の句に、きた八とりあへず
さればさみずのあるにまかせて
いとおもしろく歩むともなしに、鈴が森にいたり」
『地名・古地名』「品川」の項参照。
 

六郷の渡し

渡船渡し。六郷川(多摩川)には慶長五年(1600)に家康により架けられた六郷大橋が架かっていた。しかし、元禄元年(1688)、大洪水によりその橋が流失すると、以降、架橋されず渡船渡しとなった。
「玉川 六郷川の本名也。又多摩とも書す。多摩は武蔵の郡名也。六玉川の其一つにして、古詠多し。又入間里にては入間川といひ、海道筋にては六郷里なれば六郷川といふ。むかしは大橋あり。武蔵国三大橋の其ひとつ也。長サ百九間ありといふ。洪水に度々損するゆへ、元禄年中より船渡しとなる。又此河上より水道を作りて樋をふせ、江戸京橋より南の人家の用水とす」(『東海道名所図会』六)
『東海道中膝栗毛』にある記述
「大森といへるは麥稾ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ
飯にたくむぎはらざいく買たまへ これは子どもをすかし屁のため
それより六郷の渉をこへて、万年屋にて支度せんと、腰をかける」
 

川崎宿(かわさきしゅく)

東海道第二次。本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百四十余、人口二千四百三十余人。
『国語の世界』「吉原御免状」編「川崎の宿」参照。
 

神奈川宿(かながわしゅく)

東海道第三次。本陣二、旅籠五十八軒、戸数千三百四十余、人口五千七百九十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はやかな川のぼうばなへつく 夫よりふたりとも、馬をおりてたどり行ほどに金川の臺に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」
注:ぼうばな(棒端) 棒の先端という意味だが、宿駅のはずれには、棒の先端に「これより何宿」と書いてあったから宿場のはずれを「棒端」「棒鼻」といった。
『地名・古地名』「神奈川」の項参照。
 

保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)

東海道第四次。本陣一、脇本陣三、旅籠六十七軒、戸数五百五十余、人口二千九百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はや程ヶ谷の駅につく。両側より旅雀の餌鳥に出しておく留おんなの顔は、さながら面をかぶりたるがごとく、真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの紺の前垂を〆たるは、扨こそいにしへ、爰は帷子の宿といひたる所となん聞へし(中略)
おとまりはよい程谷ととめ女 戸塚前てははなさざりけり
と打わらひ過行ほどに、品野坂といふところにいたる。是なん武州相州の境なりときけば
玉くしげふたつにわかる国境 所かはればしなの坂より
すでにはや、日も西のはにちかづきければ、戸塚の駅になんとまるべしと、いそぎ行道すがら」
 

戸塚宿(とつかしゅく)

東海道第五次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十五軒、戸数六百十余、人口二千九百余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥二「ヱヽばかアいわつし。ヲヤもふ戸塚だ。笹屋にしよふか 北「とつさんや 弥二「なんだ 北「こゝじあアねつからお泊なせへといつて、ひつぱらねへの 弥二「ほんにそのはづだ。爰はどなたかおとまりと見へて、みな宿屋に札がはつてある きた「コウむかふの内がいきだぜ 弥二「コレ、あねさん。とめてくれる気はなしか はたごや女「イエ今晩はおとまりで、あいやどはなりませぬ 弥二「なむさんそふだろふ トだん/\やどをさがせども、みなふさがりとめぬゆへ大きにこまり、まごつきあるき 
とめざるは宿を疝気としられたり 大きんたまの名ある戸塚に
それより宿はづれにいたるに、漸くはたごやの合宿なきていにみゆるあれば、やがてこゝにたよりて 弥二「なんとわしらをとめてくんなせへ てい主「おふたりかへ。おとまりなされませ。当宿はやどやはみなふさがりましたが、私かたばかりあたりませぬ」
 

藤沢宿(ふじさわしゅく)

東海道第六次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数九百十余、人口四千八十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥「コウ貴様たちやア藤沢か。アノ宿も大分きれいになつたの。問屋の太郎左衛門どのは達者かの」
 

馬入(相模)川の渡し

渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト此内はやくも馬入のわたしにつく。北八こゝは何といふ川と人にとひしに只わたしばと斗こたへけるを弥二郎きゝて
川の名を問へばわたしとばかりにて 入が馬入の人のあいさつ
此川は、甲斐の猿はしより流れおつるよし。やがてむかふにわたりたどり行程に、此に白籏村といへるは、そのむかし、義経の首こゝに飛来りたるをいはひこめて、白はたの宮といへる」
注:白旗の宮は馬入川のはるか手前にあり、この記述は誤り。
 

平塚宿(ひらつかしゅく)

東海道第七次。本陣一、脇本陣一、旅籠五十四軒、戸数四百四十余、人口二千百十余人。
 

大磯宿(おおいそしゅく)

東海道第八次。本陣三、旅籠六十六軒、戸数六百七十余、人口三千五十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより大磯にいたり、虎が石を見て北八よむ
此さとの虎は薮にも剛のもの おもしの石となりし貞節
弥次郎兵へとりあへず
去ながら石になるとは無分別 ひとつ蓮のうへにや乗られぬ
斯打興じて大磯のまちを打過、鴫立沢にいたり」
注:「虎が石」大磯の延台寺にある「虎子石」のことで、大磯の長者の遊女虎御前にちなんだ石とされている。
 

酒匂川の渡し

夏期(三月〜九月)は歩行(かち)渡しで、冬期(十月〜二月)には仮橋が架かった渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「曽我の中むら小八わた八まんの宮を打すぎ、さかわ川にさしかゝりければ
われ/\はふたり川越ふたりにて 酒匂のかはに〆てよふたり
此川をこへゆけば小田原のやど引はやくも道に待うけて やど引「あなたがたは、お泊でござりますか 弥「きさまおだわらか。おいらア小清水か白子屋に、とまるつもりだ 客引「今晩は両家とも、おとまりがございますから、どふぞ私方へお泊下さりませ 弥二「きさまの所はきれいか 宿「さやうでござります。此間建直しました新宅でござります 弥二「ざしきは幾間ある 宿「ハイ十畳と八畳と、みせが六でうでござります 弥二「すいふろはいくつある 宿「お上と下と二ツづゝ、四ツござります 弥二「女はいくたりある 宿「三人ござります 弥二「きりやうは 宿「ずいぶんうつくしうござります」
 

小田原宿(おだわらしゅく)

東海道第九次。本陣四、脇本陣四、旅籠九十五軒、戸数千五百四十余、人口五千四百余人。城下町との併宿。宿建人馬は100人100疋とされ、伝馬100疋を常備していた。江戸を出立した旅人の多くは、箱根越えを控え、この小田原宿で二泊目の宿を取ったことから、桑名宿についで旅籠の数が多くなっている。また、ここ小田原宿は、箱根七湯と称される湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮の下・底倉・木賀・芦之湯の温泉場を控え、長期滞在の湯治客でも賑わっていて、江戸時代の後半になると、旅人は宿場以外の宿の宿泊は禁じられていたにもかかわらず、一夜湯治と称して温泉宿に泊まる旅人の数も多くなった。そのため宿場の旅籠組合は、小田原藩や道中奉行に再三訴えたが、幕府はこうした短期宿泊を公認したため、以来、東海道往来の際に箱根で一〜二泊する旅人の数は増え続けた。そんな事情もあって、城下町の宿場ではめずらしく飯盛女が置かれたが、宿場の財政は好転せず、安政六年(1859)の記録では、旅籠の数は八十八軒と減少し、公用通交の旅客を支障無く泊まらせることができる家が十八〜十九軒で、かつ家具・夜具ともに常備してある宿は三〜四軒だったという。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなく小田原のしゆくへはいると、両かはのとめおんな 女「おとまりなさいませ/\ トよびたつるこへかしましく弥次郎しばらくかんがへ
梅漬の名物とてやとめおんな くちをすくして旅人をよぶ
此しゆくのめいぶつういろうみせちかくなりて 北「ヲヤこゝの内は、屋根にでへぶでくまひくまのある内だ 弥二「これが名物のういろいだ 北「ひとつ買て見よふ。味へかの 弥二「うめへだんか。頤がおちらあ 北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな 弥二「ハゝゝゝゝ、こうもあろうか
ういろうを餅かとうまくだまされて こは薬じやと苦いかほする
やがてやどやへつきければ、ていしゆさきへかけだしてはいりながら 「サアおとまりだよ。おさん/\。お湯をとつてあげろ。 宿の女ぼう「おはやうございます ト茶をふたつくんでもつてくる。此内下女たらゐに、ゆをいれてもつてくると、弥二郎女のかほをよこめに、ちらと見て、小ごへに北をよびかけ 弥二「見さつし。まんざらでもねへの 北「あいつ今宵ぶつてしめよふ 弥二「ふてへことをぬかせ。おれがしめるハ」
『地名・古地名』「小田原」の項参照。
 

箱根宿(はこねしゅく)

東海道第十次。箱根関所、本陣六、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。御状宿として、御用物だけを継ぎ立て、その他は小田原から三島まで継ぎ通した。箱根宿は元和四年(1618)、小田原宿〜三島宿の箱根八里の中間に、小田原宿から五十戸、三島宿から五十戸を移転させ、新しく設置された宿場で、小田原藩と三島代官双方の支配を受けた。宿の町並は、東の小田原宿側から新谷(屋)町、関所を通って新町、小田原町が小田原藩支配、次の三島町、そして西端の芦川町が三島代官支配となっていた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「けふは名にあふ筥根八里、はやそろ/\と、つま上りの石高道をたどり行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ
人のあしにふめどたゝけど箱根やま 本堅地なる石だかのみち
北「コレ/\松明を買はねへか。こゝの名物だ 弥「べらぼうめ。もふ日の出る時分、松明がナニいるものか 北「夜があけてもいゝはな。おめへかつてとぼせばいゝ、ゆふべのかわりに 弥「おきやアがれ 北「ハゝゝゝゝハゝゝゝゝ 又こゝに湯本の宿といふは、両側の家作きらびやかにして、いづれの内にも見目よき女二三人ヅゝ、店さきに出て名物の挽もの細工をあきなふ。(中略)
それより御関所を打過て
春風の手形をあけて君が代の 戸ざゝぬ関をこゆるめでさた
斯祝して峠の宿に悦びの酒くみかはしぬ」

箱根関所

はじめ慶長期に箱根権現の近くに設けられたとされ、箱根宿駅が開設された年の翌元和五年(1619)、宿の中に新たに設置された。関所の管理は幕府から委任された小田原藩が行い、番士と呼ばれる藩の役人が交代で勤めた。開設の当初は、「入り鉄砲、出おんな」について厳しく取締りが行われていたが、寛永十年(1633)以降には鉄砲改めを省略し女改めが主体となり、人見女という女性を二名置き、江戸方面から出る女性を厳重に改めた。

箱根峠

東海道三大難所の一つ。箱根八里といわれ、険しい峠道を無事に越すと「山祝い」を行う旅人もあった。
『地名・古地名』「箱根」の項参照。
 

三島宿(みしましゅく) 箱根宿より三里二十八町

東海道第十一次。本陣二、脇本陣三、旅籠七十四軒、戸数千二十余、人口四千四十余人。もともとこの地は、伊豆国府で「国府(こう)」あるいは「府中」と呼ばれていた地で、足柄越え(御殿場道)の旧東海道(官道)時代から宿の機能を備えていたらしい。その後、伊豆の白浜にあった三島社が移され、三島と呼ばれるようになり、戦国期にはすでに三島宿と呼ばれていた。また、御殿場道の分岐の他に、ここから下田道が通っていたことから交通の要衝として重視され、幕府直轄地となり代官所(後に韮山代官所に併合)が置かれた。宿内は最初に伝馬役を負担した伝馬町・久保町・大中島町・小中島町の四町を中心に二十一町からなる東海道でも屈指の宿場町となり、その大部分の旅籠では飯盛女を抱え、三島女郎衆と俗謡にも歌われ全国にその名を知られた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「既に其日も暮にちかづき、入相のかね幽にひゞき、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追立て、とまりを急ぐ馬士唄のなまけたるは、ほてつぱらの淋しくなりたる故にやあらん 此とき、やうやく三しまのしゆくへつくと、両かはより、よびたつる女のこへ/\〃 「お泊なさいませ/\ 弥二「ヱゝひつぱるな。こゝをはなしたら泊るべい 女「すんならサアおとまり 弥二「あかすかべイ(あかんべえ)」
『地名・古地名』「三島」の項参照。
 

沼津宿(ぬまづしゅく) 三島宿より一里半

東海道第十二次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十五軒、戸数千二百三十余、人口五千三百四十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此所にて餅などとゝのへ、少しは腹の虫をやしなひ、たがひにちからをつけ合、はなしものして、漸沼津の駅につく。こゝにて先足をやすめんと、宿はづれの茶屋へはいる」
『地名・古地名』「沼津」の項参照。
 

原宿(はらしゅく)

東海道第十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数三百九十余、人口千九百三十余人。原宿一帯の海岸を「田子の浦」と称し、富士を望む景勝地として知られた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「このはなしにまぎれて、あゆむともなしに、小すわ大すわを打過、ほどなく原のしゆくへつく。こゝにてつれのさぶらひにわかれて
まだめしもくはず沼津をうちすぎて ひもじき原のしゆくにつきたり
北八「ヱゝおめへまだ、そんなしみつたれをいふハ」
 

田子の浦(たごのうら)

富士川東岸の砂丘の辺をいい、白砂青松風光明媚の勝地で、ここからの富士の眺望は東海第一といわれた。
 

吉原宿(よしわらしゅく)

東海道第十四次。本陣二、脇本陣三、旅籠六十軒、戸数六百五十余、人口二千八百三十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「頓て元吉原を打すぎ、かしは橋といふ所にいたる。此所より富士の山正面に見へて、すそ野第一の絶景なり。弥次郎取あへず
餅の名のかしは橋とて旅人の あしをさすりて休やすらん
斯て吉原の駅につく。棒ばなの茶屋女共、いづれも黄色なる声/\に、「お休なさいやアせ。さけウあがりやアし。米の飯をあがりやアし。こんにやくと葱のお吸物もおざりやアす。おやすみなさいやアし」
 

富士川の渡し

渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより久沢の善福寺といへるに、曽我兄弟の石碑あるをおがみて北八
今曽我に機縁を結ぶわれ/\は 外に一家も壱もんもなし
富士川のわたし場にいたりて弥次郎兵へ
ゆく水は矢をいるごとく岩角に あたるをいとふふじ川の舟
此渉を打越けるに、はや日も西の山の端にちらつき、おのづから道急ぐ」
注:「善福寺」は「福泉寺」の誤。東海道名所図会に「其側久沢といふに福泉寺といふ寺あり。ここに曽我兄弟の石塔あり」とある。
 

蒲原宿(かんばらしゅく)

東海道第十五次。本陣一、脇本陣三、旅籠四十二軒、戸数五百余、人口二千四百八十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「馬士唄の竹にとまる雀色時、やう/\蒲原の宿にいたる(後編上了)
道中膝栗毛後編 下
此宿の御本陣に、お大名のお着と見へ、勝手は今膳の出る最中」 
 

由比宿(ゆいしゅく)

東海道第十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十二軒、戸数百六十余、人口七百十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此はなしのうち由井のしゆくにつくと、両がはよりよびたつるこへ ちやや女「おはいりなさいやアせ。名物さとうもちよヲあがりやアせ。しよつぱいのもおざいやアす。お休なさいやアせ/\ 弥二「ヱゝやかましい女どもだ
呼たつる女の声はかみそりや さてこそ爰は髪由井の宿
それより由井川を打越、倉沢といへる立場へつく。爰は蚫栄螺の名物にて、蜑人すぐに海より、取来りて商ふ。爰にてしばらく足を休めて
爰もとに売るはさゞゐの壷焼や 見どころおほき倉沢の宿
それより薩捶(正しくは土篇)峠を打越、たどり行ほどに、俄に大雨ふりいだしけれ」
注:倉沢(くらさわ) 『東海道名所図会』に「薩捶山東の麓西倉沢茶店に栄螺鮑を料理て価ふなり」とあり、その頃、倉沢は東海道第一の眺望といわれた。 
 

興津宿(おきつしゅく)

東海道第十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠三十四軒、戸数三百十余、人口千六百六十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「半合羽打被き、笠ふかくかたぶけて、名におふ田子の浦、清見が関の風景も、ふりうづみて見る方もなく、砂道に踏込し足もおもげに、やうやく興津の駅にいたり、爰にあやしげなる茶店に立寄」
 

江尻宿(えじりしゅく)

東海道第十八次。本陣二、脇本陣三、旅籠五十軒、戸数千三百四十余、人口六千四百九十余人。この江尻宿は清水湊の港町でもある。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「猶あめはしきりにふりつゞきて、いつこうしやれもむだもいでばこそ、たゞとぼ/\とあゆみなやみて、ほどなく、江尻のしゆくをうち過けるに、こゝにて雨もはれければ
降くらし富士の根ぶとをうちすぎて 江尻に雨の霽あがりたり
雨やみたればおのづから、行かふ人の足もかろげに、からしり馬の、鈴の音もいさましく、シャン/\/\」
注:からしり馬 本馬の荷物三十六貫の半量を一駄とする馬。
『地名・古地名』「清水湊」の項参照。
 

府中宿(ふちゅうしゅく)

東海道第十九次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十三軒、戸数三千六百七十余、人口一万四千七十余人。駿府城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此はなしに弥次郎北八も大きにけうに入、あゆむともなしに、府中のしゆくにつく。先伝馬町に宿をかりて、それより弥二郎がしるべのかたへたづね行。こゝに金子のさいかくとゝのひ、大きにいさみ出してやどへかへり、なんでもこよひは、かねてきゝおよびし、あべ川丁へしけこまんと、きた八もろとも、其の¥したくをして、やどのていしゆをまねき 弥二「モシ御ていしゆわつちらア是から、二丁町とやらへ見物にいきてへもんだが、どつちのほうだね てい主「安倍川の方でござります 北八「遠いかね てい主「爰から廿四五町ばかしもあります。なんなら馬でも、雇てあげましやうか 北八「こいつはいゝ、弥二「から尻にのつて、女郎買もおもしろい/\。頓て爰よりから尻馬に打乗、ゆくほどに、かの安倍川まちといへるは、あべ川弥勒の手前にて、通筋よりすこし引こみて大門あり。爰にて馬をおり廓に入て見るに、両側に軒をならべて、ひきたつるすがゞきの音賑しく、見せつきのおもむきは、東都の吉原町におほよそ似たり。客とおぼしきが黒き木綿に紋のつきたる羽折などきて、手拭のさきを結ずしてかぶり、おくり行茶屋の女は、焼杉の駒下駄をひきずり、客人の神と見へしは、おほくは股引草鞋にて、いづれも祖父ばしよりなり。そゝりてやいに前垂がけの競あれば、棒のさきにもつこうなどくゝりつけて、かつぎあるくひやかしあり。行かふ男女は、開帳参の人のごとく、更に風俗定まらず、又繁昌は言斗なし」
『地名・古地名』「駿府」の項参照。
 

安倍川の渡し

歩行(かち)渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「やがて此駅を打立けるが、今もどりし道をますぐに、ほどなく弥勒といへるにいたる。爰は名におふあべ川もちの名物にて、両側の茶屋、いづれも奇麗に花やかなり ちやや女「めいぶつ餅をあがりヤアし。五文どりをあがりやアし/\ 弥二「おいらアゆふべ、弐朱がもちをくつて来たから、モウこゝではくふめへ 北八「そふさ/\ ト此内あべ川の川ごし道に出むかひて「だんな衆おのぼりかな 弥二「ヲイ。きさまなんだ 川ごし「かはごしでござります。やすくやらずに、おたのん申ます 北八「いくらだ 川ごし「きんにようの雨で水が高いから、ひとりまへ六十四文 北八「そいつは高い 川ごし「ハレ川をマアお見なさい ト打つれて川ばたに出 弥二「なるほど、ごうせいな水せいだ。コレおとすめへよ 川ごし「ナニおまい、サアそつちよヲつんむきなさろ ト二人をかたぐるまにのせて川へざぶ/\とはいる」
 

丸子宿(まるこしゅく)

東海道第二十次。本陣一、脇本陣二、旅籠二十四軒、戸数二百十余、人口七百九十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト川ごしはすぐに川かみのあさいほうをわたってかへる 北「アレ弥次さん見ねへ。おいらをばふかい所をわたして、六十四文ヅゝふんだくりやアがつた
川ごしの肩車にてわれ/\を ふかいところへひきまはしたり
夫より手越のさとにいたるに、又もや俄雨ふり出して、たちまち車軸をながしければ、半合羽とり出し打かづき、足をはやめてほどなく丸子の宿にいたる。こゝにて支度せんと茶やへはいり 北八「コウ飯をくをうか。爰はとろゝ汁のめいぶつだの」
 

岡部宿(おかべしゅく)

東海道第二十一次。本陣二、脇本陣二、旅籠二十七軒、戸数四百八十余、人口二千三百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ト打つれていそぎゆくほどに、はやくも大寺かわらのさか道をうちこへて、おかべのしゆくにいたりければ
豆腐なるおかべの宿につきてげり あしに出来たる豆をつぶして
先この駅にやどをとりて、川のあくまでしばらくたびのつかれをぞやすめける(二編了)
東海道中膝栗毛三編
(前略)爰にかの弥次郎兵衛喜多八は、大井川の川支にて、岡部の宿に滞留せしが、今朝御状箱わたり、一番ごしもすみたるより、聞とひとしくそこ/\に支度して、はたごやを立出けるに、はや諸家の同勢往来の貴賤櫛のはをひくがごとく、問屋駕宙をかけり、小荷駄馬飛で走る、街道のにぎはひさましく、ふたりもともにうかれたどり行ほどに、朝比奈川をうちこへ、八幡鬼嶋をすぎ、白子町にいたる」
 

藤枝宿(ふじえだしゅく)

東海道第二十二次。本陣二、旅籠三十七軒、戸数千六十余、人口四千四百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより平嶋口田中を打過、藤枝の宿近くなりて
街道の松の木の間に見へたるは これむらさきの藤えだの宿
此しゆくの入口にて、ふろしき包ちよいとかたにかけたる、田舎のおやぢ、馬のはねたるにおどろき、にげるひようしにきた八へつきあたると、きた八水たまりの中へころげて、大きにあつくなり、おきあがりて、田舎ものw3おひつとらへて 北八「コノ親仁め、まなこが寒烏の黒焼でもくらやアがれ おやぢ「コリヤハイ、御めんなさい」
 

嶋田宿(しまだしゅく)

東海道第二十三次。本陣三、旅籠四十八軒、戸数千四百六十余、人口六千七百二十余人。町並九町四十間、大井川の川留・川明を道中奉行に知らせる飛脚蕃十人が交代で詰めていた。嶋田宿付近は幕府領で、初めは嶋田代官が置かれ、一時田中藩領となるが、寛政六年(1794)からは駿府代官所の支配に入り出張陣屋が置かれた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「爰を出て行ほどに、大井川の手前なる、嶌田の駅にいたりけるに、川越ども出むかひて、「だんなしゆ川アたのんます 弥二「きさま川ごしか。ふたりいくらで越す 川ごし「ハイ今朝がけに、あいた川だんで、かたくるまじやアあぶんない。蓮台でやらずに、おふたりで八百下さいませ 弥二「とほうもねへ。越後新潟じやアあんめへし、八百よこせもすさまじい」
 

大井川の渡し

川越人足による歩行(かち)渡し。嶋田側と金谷側にそれぞれ加宿の河原町があり、川庄屋の下、川越役人の詰める川会所が設けられ川越人足を管理した。この渡しは十七世紀半ばまでは川越人足に頼らない自分渡しが主流であったが、旅人の増加とともに川越を助ける人足が現れ、料金を取った。万治年間頃から川越人足を専業とする者が現れ、旅人に法外な川越賃を請求するなどの不法な行為が目立つようになったため、元禄九年(1696)に川庄屋が任命され、川越の統制と管理が行われるようになり川越制度が整った。こうして川越賃銭は川会所で定める公定料金(川札)となった。賃銭は最も簡単な肩車が川札一枚で、増水して補助人足が付くと二枚必要となる。最高級の輦台になると台札三十二枚と川越人足十六人、水切り手張人足四人分の、合計五十二枚の川札が必要になった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥次郎兵衛北八爰をのがれ、いそぎ川ばたにいたり見るに、往来の貴賤すき間もなく、此川のさきを争ひ越行中に、ふたりも直段とりきはめて、蓮台に打乗見れば、大井川の水さかまき、目もくらむばかり、今やいのちをも捨なんとおもふほどの恐しさ、たとゆるにものなく、まことや東海第一の大河、水勢はやく石流れて、わたるになやむ難所ながら、ほどなくうち越して蓮台をおりたつ嬉しさいはんかたなし」
 

金谷宿(かなやしゅく)

東海道第二十四次。本陣三、脇本陣一、旅籠五十一軒、戸数千余、人口四千二百七十余人。宿場の町並は、大井川の渡し場となる加宿(河原町)に続いてあった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「斯うち興じて金谷の宿にいたる。両側の茶やおんな 「おやすみなさいまアし/\ かごかき「もどりかごのつていじやござい 北八「コウ弥次さんかごはどふだ 弥二「イヤ、気がない。手めへのるならのつていかつし 北八「そんなら日坂まで乗ふか」
 

日坂宿(にっさかしゅく)

東海道第二十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十三軒、戸数百六十余、人口七百五十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより此坂を下り、日坂の駅にいたる頃、雨は次第につよくなりて、今はひと足もゆかれず。あたりも見へわかぬほど、しきりに降くらしければ、或旅籠屋の軒にたゝずみ 弥二「いま/\しい。ごうてきにふるハ/\ 北八「はなやの柳じやアあるめへし。いつまで人のかどにたつてもゐられめへ。ナント弥次さん、大井川は越すし、もふこの宿にとまろうじやアねへか 弥二「ナニとんだことをいふ。まだ八ツ(午後二時)にやアなるめへ。今から泊てつまるものか」
 

掛川宿(かけがわしゅく)

東海道第二十六次。本陣二、旅籠三十軒、戸数九百六十余、人口三千四百四十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなくかけ川の宿にいたる。棒鼻の茶屋おんな「おめしよヲあがりまアし。鯵とこんやくと、干大根のおすいものもおざりまアす。鮹のせんば煮もおざりまアす。おやすみなさいまアし/\」
 

袋井宿(ふくろいしゅく)

東海道第二十七次。本陣三、旅籠五十軒、戸数百九十余、人口八百四十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「原川を打すぎ、はやくもなくりのたてばにつく。こゝは花ござをおりてあきなふ
道ばたにひらくさくらの枝ならで みなめい/\にをれる花ござ
程なく袋井の宿に入るに、両側の茶屋賑しく、往来の旅人おの/\酒のみ、食事などしてゐたりけるを弥次郎兵衛見て
こゝに来てゆきゝの腹やふくれけん されば布袋のふくろ井の茶屋
此しゆくはづれより、上方ものと見へて、桟留の布子に銀ごしらへの脇差をさし、花色羅紗のしやうぞくかけし合羽をきたる男、供ひとりつれて、あとになりさきになり」
 

見附宿(みつけしゅく)

東海道第二十八次。本陣二、脇本陣一、旅籠五十六軒、戸数千二十余、人口三千九百三十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「みかのはしをうちわたり、大くぼの坂をこへて、はやくも見付の宿にいたる 北八「アゝくたびれた。馬にでものろふか 馬かた「おまいち、おまアいらしやいませぬか。わしどもは役に出たおまだんで、はやくかへりたい。やすくいかずい。サアのらしやりまし 弥二「きた八のらねへか きた八「安くば乗べい ト馬のそうだんができて、北八こゝより馬にのる。この馬かたは、すけごうに出たるひやくせうゆへ、いんぎんなり 弥二「コレ馬士どん、爰に天龍への近道があるじやアねへか 馬士「アイそつから空へあがらしやると、壱里ばかしもちかくおざるハ 北八「馬はとをらぬか 馬士「インネ。かち道でおざるよ ト爰より弥二郎はひとりちか道のほうへまがる。北八馬にて本道をゆくに、はやくもかも川ばしを打わたり、西坂さかい松のたてばにつく」
注:みかのはし(三香野橋) 磐田郡田原村(現磐田市)の太田川に架した橋。
 

天竜川の渡し

渡船渡し。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「はなしのうち、程なく天龍にいたる。此川は信州すわの湖水より出、東の瀬を大天龍、西を小天龍といふ。舟わたしの大河なり。弥次郎此所に待うけて、倶にこの渉しをうちこゆるとて
水上は雲より出て鱗ほど なみのさかまく天龍の川
舟よりあがりて建場の町にいたる。此所は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば、中の町といへるよし」
 

浜松宿(はままつしゅく)

東海道第二十九次。本陣六、旅籠九十四軒、戸数千六百二十余、人口五千九百六十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それよりかやんば(萱場)、薬師新田をうちすぎ、鳥居松近くなりたる頃、浜松のやど引出向ひて やど引「モシあなたがたアおとまりなら、おやどをお願ひ申ます 北八「女のいゝのがあるならとまりやせう やど引「ずいぶんおざります 弥二「とまるから飯もくはせるか やど引「あげませいで 北八「コレ菜は何をくはせる やど引「ハイ当所の名物薯蕷でもあげませう 北八「それが平か。そればかりじやアあるめへ やど引「ハイそれにしゐたけ、くわゐのよふなものをあしらひまして 北八「しるがとうふに、こんにやくのしらあへか 弥二「マアかるくしておくがいゝ。そのかわり百ケ日には、ちとはりこまつせへ やど引「コレハいなことをおつしやる、ハゝゝゝゝ。時にもふまいりました 弥二「ヲヤもふはま松か。思ひの外はやく来たわへ
さつ/\とあゆむにつれて旅衣 ふきつけられしはままつの風
やど引さきへかけぬけて 「サア/\おつきだアよ やどのていしゆ「おはやくおざりました。ソレおさん、おちやと湯だアよ 弥二「イヤそんなに足はよごれもせぬ ていしゆ「そんならすぐにおふろにおめしなさいまし」 
 

舞坂宿(まいさかしゅく)

東海道第三十次。本陣二、脇本陣一、旅籠二十八軒、戸数五百四十余、人口二千四百七十余人。三方を遠州灘と浜名湖に囲まれた地で、たびたび風水害の被害にあったため、明暦三年(1657)、幕府は新居関所奉行と遠州代官に命じて石垣で宿囲いするが、その後も風水害の被害は絶えず、天和二年(1682)と元禄十六年(1703)に「宿囲み」の延長工事を行い、舞阪宿はほぼ全周が高さ九尺の石垣に囲まれた。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなく蓮沼、つぼ井むらを打過、舞坂の駅にいたる」
 

今切の渡し

浜名湖はもともと淡水湖で、湖から浜名川が遠州灘にそそいでいて、鎌倉時代には浜名川に浜名橋が架かり、橋のたもとには橋本宿があって賑わっていた。しかし、明応八年(1499)の地震と津波で川は埋まり、土地が陥没して湖と海がつながってしまう。これが今切で、この結果、橋本宿は廃れ舞浜の対岸の新居に新たに宿が作られ、舞阪・新居間を船で結んだ。この渡船の渡しを「今切の渡し」という。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「是よりあら井まで壱里の海上、乗合ぶねにうちのりわたる。げにも旅中の気さんじは、船中おもひ/\の雑談、高声にかたり合、笑ひのゝしり打興じゆくほどに、頓てなかばわたりて、乗合の人/\〃もはなしくたびれ、めい/\柳ごりに肘をもたげて、いねぶりをするもあり、又この風景に見とれて、只黙然としてゐるも有」
『地名・古地名』「今切」の項参照。
 

新居宿(あらいしゅく) 

東海道第三十一次。本陣三、旅籠二十六軒、戸数七百九十余、人口三千四百七十余人。新居関所を併設。この地を領していた今川氏は、この新居宿の渡船場を利用して関所を構えた。徳川幕府が宿駅を整備した時も、幕府はこの新居宿の関所を残し、特に西国からの鉄砲の入りを取り締まることとなった。新居宿に関所を設けたことから「今切渡船」は新居宿が単独で運営し、新居宿はこの渡船料で潤ったが、一方の舞阪宿は浜松宿までの片継となり財政的に苦しかったという。また、この新居宿も舞阪宿と立地条件はあまり変わらず、たびたび風水害に悩まされ、元禄十二年(1699)の暴風雨では関所が大破し、百二十戸が流失、百九十二戸が損壊する被害を受け、関所と宿の一部を移転した。この結果、舞阪・新居間二十七町だった渡船が一里に延長している。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ほどなくふねはあら井のはまにつきければ、のり合みな/\ふねをあがり、お関所を打過ける。弥二郎北八もふねをあがり
舞坂をのり出したる今切と まだゝくひまもあら井にぞつく
さるにても、腰のものゝながれたるは、前代未聞のはなしのたねと、みづから打笑ひつゝ北八
竹篦をすてゝしまひし男ぶり ごくつぶしとはもふいはれまい
それよりふたりは、此あら井のしゆくに酒くみかはしてあしをやすめぬ。(三編了)
道中膝栗毛四編
(前略)東海道に名だゝる今切の渉になん。そのかみ明応の比山の奥より、螺貝あまたぬけ出、それより海上あしくなりたりしを、元禄年中、公の命によりて、海上に数万の杭をうち、蛇籠をふせ、往来渡船の難渋をすくひ給はりし、御恵の有がたさに、風和らぎ浪低なりてわたるに難なく、かの弥次郎兵衛きた八、爰を打わたりて、あら井の駅に支度とゝのへ、名物のかばやきに腹をふくらし、休みゐたるに、げにも往来の貴賤絶間なく、舟場へ急ぐ旅人は、足もそらに出ふねをよばふ声につれてはしり、問屋へかゝる宰領はくちやかましく、果役をふるゝ馬ざしについてのゝしる」
 

白須賀宿(しらすがしゅく)

東海道第三十二次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十七軒、戸数六百十余、人口二千七百余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「このうちはやくもしらすかの駅にいたる。はいりくちのちや屋女、おもてに出 よびたつるを見て、弥次郎兵へ
出女の顔のくろきも名にめでゝ七なんかくす白すかの宿
此宿をうちすぎ、程なく汐見坂にさしかゝるに、是なん北は山つゞきにして、南に蒼海漫々と見へ、絶景まことにいふばかりなし」
 

二川宿(ふたかわしゅく)

東海道第三十三次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十八軒、戸数三百二十余、人口千四百六十余人。町並十二町程の小規模な宿場。西隣に城下町でもある大きな宿場が有り、この宿に泊まる旅人が少なく、宿場の経営が苦しく本陣も経営的に苦しかった事から、火災による焼失などで本陣建物の再建ができず、世襲職の本陣職が後藤家、紅林家、馬場家と変わった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「かく打わらいてゆくほどに、境川といふにいたる。爰は遠江三河のさかいにて橋あり。弥次郎地口にてよめる
遠州へつぎ合せたる橋なれば にかはの国といふべかりける
程なくふた川の駅に着く。此ところ家毎に、強めしをあきなふ見ゆれば
名物はいはねどしるきこはめしや これ重筥のふた川の宿
両側の茶屋ごとに、旅人を見かけて呼たつる 女「お休なさりまアし。あつたかなお吸物もおざりまアす。無塩の肴で、酒でもお飯でもあがりまアし」
 

吉田宿(よしだしゅく)

東海道第三十四次。本陣二、脇本陣一、旅籠六十五軒、戸数千二百九十余、人口五千二百七十余人。城下町との併宿。下りは赤坂宿まで継ぎ立て。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「ふせう/\〃に荷をひつかたげゆくまゝに、やがて吉田のしゆくにいたる
旅人をまねく薄のほくちかと 爰もよし田の宿のよねたち
此しゆくはづれより、遠国同者とは見ゆれ共、少しきいたふうしやべる手合五六人、高声にはなして行」
 

御油宿(ごゆしゅく)

東海道第三十五次。本陣二、旅籠六十二軒、戸数三百十余、千二百九十余人。下りは吉田宿が継ぎ通し、上りだけを継ぎ立てた。この御油宿と隣の赤坂宿の間は、十六町と短く、伝馬も一般の五十疋ではなく二十五疋づつ赤坂宿と分担する片継ぎの宿駅。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「弥次郎あとよりたどりゆくに、ほどなく御油のしゆくにいりたるころははや夜にいりて、両がはより出くるとめ女、いづれもめんをかぶりたるごとく、ぬりたてたるが、そでをひいてうるさければ、弥次郎兵へやう/\とふりきり行すぐるとて
その顔でとめだてなさば宿の名の 御油るされいと逃て行ばや
弥次郎兵衛あまりに草臥ければ、先此所はづれの茶店に腰をかけたるに、あるじの婆々 「アイ茶アまいりませ 弥次「モシ赤坂まではもふ少しだの ばゞ「アイたんだ十六丁おざるが、おまへひとりなら、此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは、わるい狐が出おつて、旅人衆がよく化され申すハ」
『地名・古地名』「御油」の項参照。
 

赤坂宿(あかさかしゅく)

東海道第三十六次。本陣三、脇本陣一、旅籠六十二軒、戸数三百四十余、人口千三百余人。下りだけを継ぎ立て、上りは藤川宿が継ぎ通した。御油宿と合わせて一宿の小さな宿駅だが、旅人の引き止めで飯盛女を多数抱えていたことで名高い宿となった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「二三尺手ぬぐひをとき、きた八が手をうしろへまはしてしばる。きた八おかしく、わざとしばられていると 弥次「サア/\さきへたつてあるけ/\ ト北八をくゝり、うしろからとらへて、おつたて/\あか坂のしゆくにいたる。はやいづれのはたごやにもきやくをとめて、かどにたちいる女も見へず。弥二郎は、やどからむかひの人が、もはや出そふなものと、うろつく内 北八「コウ弥次さん、いゝかげんに解てくんな。外聞のわりい。人がきよろ/\見てわりいはな 弥次「ヱゝくそをくらへ。ハテ宿はどこだしらん 北八「ナニおれはこゝにゐるものを、だれがさきへ、やどをとつておくものだ」
『地名・古地名』「赤坂」の項参照。
 

藤川宿(ふじかわしゅく)

東海道第三十七次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒、戸数三百余、人口千二百十余人。上りを御油宿まで継ぎ立て。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「かくて藤川にいたる。棒鼻の茶屋、軒ごとに生肴をつるし、大平皿鉢みせさきにならべたてゝ、旅人のあしをとゞむ。弥次郎兵衛
ゆで蛸のむらさきいろは軒毎に ぶらりとさがる藤川の宿
それより此宿をうちすぎ、出はなれのあやしげなる茶みせに休みて 北八「なんだか、ごうてきにむしがかぶる。ばあさん素湯はあるめへか ちゃ屋のばゞ「ハアさゆはござらぬ。水をしんぜませうか」
 

岡崎宿(おかざきしゅく)

東海道第三十八次。本陣三、脇本陣三、旅籠百十二軒、戸数千五百六十余、人口六千四百九十余人。城下町との併宿。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「打わらひつゝ行ほどに、あづき坂を過、岡の江ゆふせん寺を打こへて、大平川にいたる
岸に生ふ芹のあをみに小鴨まで 水にひたれる大平の川
それより大平村を過行ほどに、岡崎の駅にいたる。こゝは東海に名だゝる一勝地にて、殊に賑しく、両側の茶屋、いづれも奇麗に見へたり(中略)
女郎おくり出て、さま/\〃のしやれもあれどもりやくす。弥次郎北八、しじうこのていを見て、女郎かいのからしり馬でかへるもおかしいと、打わらひながら
三味せんの駒にうち乗帰るなり 岡崎ぢろしゆ買に来ぬれば
かくてふたりも此所を立出、宿はずれの松葉川を打こへ、矢矧のはしにいたる」
 

池鯉鮒宿(ちりうしゅく)

東海道第三十九次。本陣一、脇本陣一、旅籠三十五軒、戸数二百九十余、人口千六百二十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「西田海道より半里ばかり北の方に、名にしおふ、八ツ橋の旧跡を思ひて
八ツはしの古跡をよむもわれ/\が およばぬ恥をかきつばたなれ
ほどなく池鯉鮒の駅にいたる」
『地名・古地名』「池鯉鮒」の項参照。
 

鳴海宿(なるみしゅく)

東海道第四十次。本陣一、脇本陣二、旅籠六十八軒、戸数八百四十余、人口三千六百四十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「これよりすこしみちをはやめ行ほどにはやくもなるみのしゆくにつきければ
旅人のいそげば汗に鳴海がた こゝもしぼりの名物なれば
かくよみ興じて田ばた橋をうちわたり、かさでら観音堂にいたる」
 

熱田(宮)宿(あつた(みや)しゅく)

東海道第四十一次。本陣二、脇本陣一、旅籠二百四十八軒、戸数二千九百二十余、人口一万三百四十余人。東海道はここから海を渡って桑名に向かう。そのため船待ちで留まる人が多く、また熱田神宮の門前町でもある事から、東海道随一の旅籠の数を誇る宿場となった。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それよりとべ村、山ざき橋、仙人塚をうちすぎ、やうやく宮の宿にいたりし頃は、はや日くれ前にて、棒鼻より家毎に、客をとゞむる出女の声姦し。「あなたがたアおとまりじやおませんか。お湯もちんとわいておます。おあいきやくはおません。おとまりなされませ/\」
 

七里の渡し

宮から桑名の湊まで船で伊勢湾を横断する文字通りの海道。現在は埋め立てられて一帯は陸続きとなっているが、当時はまだ海が深く入っていて、この七里の航海を嫌う旅人は、陸路を佐屋まで行き、そこから木曽川を舟で下って桑名に入った。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「出ふねをよぶこへ「ふねが出るヤアイ/\ 此ときやどやの女おこしにきたり「モシいんま壱番ふねでおます。御ぜんをあげましよ 弥次「ヲイ/\北八サアおきや トふたりはおき出て、手水つかふ内ぜんも出くひしまひ、かれこれするうち、やどのていしゆ「おしたくはよふおざりますか。舟場へ御案内いたしましよ 北八「それは御苦労、サア弥次さん出かけやせう トそこ/\にしたくして、おもての方へ出かける。やどの女ぼう、おんな「御きげんよふ。又おくだりに 弥次「アイおせはになりやした トいとまごひしてふなばへ行、ていしゆこゝまでおくり来り「せんどうしゆ、おふたりさまじや、たのみますぞ 弥次「ときにわすれた。御ていしゆさん。夕べおやくそくのかの小便の竹のつゝは ていしゆ「ホンニちんときらしておきましたに、ドリヤ取てまいりしよかい トていしゆかの竹のつゝをとりにかへる。此わたし船、七里のかいじやう、一人まへ四十五文ヅゝ、其外駄荷のりものみなそれ/\〃にちんせんをはらひ、ふねにのる。此ときていしゆ竹のつゝをとつて来たり「サア/\お客さまそこへなげますぞ 北八「なんだ火吹竹か 弥次「これをあてがつてナ、とやらかすのだ。よし/\。イヤ御ていしゆさん、大きにおせは。サア是で大丈夫だ。ハゝゝゝゝ
おのづから祈らずとても神ゐます 宮のわたしは浪風もなし
かく祝しければ、乗合みな/\いさみたち、やがて船を乗出して、順風に帆をあげ、海上をはしること矢のごとく、されど浪たひらかなれば、船中思ひ/\の雑談に、あごのかけがねもはづるゝばかり、高声に笑ひのゝしり行ほどに、あきなひ舟、いくそうとなく漕ちがひて「酒のまつせんかいな。めいぶつかばやきたて、だんごよいかな。ならづけでめしくはつせんかいな/\」
 

桑名宿(くわなしゅく)

東海道第四十二次。本陣二、脇本陣四、旅籠百二十軒、戸数二千五百四十余、人口八千八百四十余人。宿場の町並は二十六町で城下町との併宿。桑名藩の城下町として発展し、伊勢神宮の一の鳥居があるようにここから伊勢路が南に延び、港を抱えた交通の要地であるため、宮に次ぎ旅籠の数が多い。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「此内はやくも舟はくわなのきしにいたる のり合「きたぞ/\。小便にこそぬれたれ、舟はつゝがなく桑名へきた。めでたい/\ トみな/\これよりあがりて、此しゆくによろこびの酒くみかはしぬ。(四編下了)
東海道中膝栗毛五編上
宮重大根のふとしくたてし宮柱は、ふろふきの熱田の神の慈眼す、七里のわたし浪ゆたかにして、来往の渡船難なく、桑名につきたる悦びのあまり、めいぶつの焼蛤に酒くみかはして、かの弥次郎兵衛喜多八なるもの、やがて爰を立出たどり行」
 

四日市宿(よっかいちしゅく)

東海道第四十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠九十八軒、戸数千八百十余、人口七千百十余人。
『東海道中膝栗毛』にある記述
「それより此所を立出、はつ村八幡を打過、七ツ家あくら川にいたりし頃、四日市の宿引出向ひて「これはおはやうございます。わたくしおやどをおたのみ申上ます 弥次「わつちらア帯屋へ行やす 宿引「イヤ今夕は、お大名さま、おふたかしらおとまりで、帯屋は両家とも、おさし合でござりますから、わたくしかたにおとまり下さりませ トいふはうそなり。御小身さまのおとまりで、下宿はわづかなれども、それをいゝたてに、やど引わがかたへとめんとするけいりやくなり。ふたりともぼんくらなればまことゝおもひて 弥次「そんなら、きさまの所はいくらでとめる やど引「ハイそれはいかやうとも 弥次「ゆうべは宮の斧屋にとまつたが、とんだ叮嚀にした。百五十で燭台をつけてめしをくはせるか。そして酒も菓子も出したから、コリヤアだまつてもゐられめへと、別に茶代を弐百やるつもりの所、やつぱりやらなんだから、大きに安かった。きさまの所もそのつもりで馳走するがいゝ やど引「かしこまりました トだん/\はなしながら打つれて、ゆくともなしに四日市のぼうばなにいたれば、やど引かけだして 「サア是でござります。コレおとまりさなじや やどの女房「おはやうおつきなさいました トあいさつのうち、ふたりはわらじをときながら見まはせば、いたつてむさくろしき宿にて、入くちに、すゝけかへつてよこにいがみたるぜんだなと、こはれかゝりしへつついのあるうちなり(中略)はや一ばん鶏の告わたる声/\〃、馬のいなゝきおもてにきこへ、弥次郎兵へきた八、いそぎおき出て支度とゝのへ、やがて此しゆくをたちいづるとて
やう/\と東海道もこれからは はなのみやこへ四日市なり
それより濱田村を打すぎ、赤堀にさしかゝりたる(中略)打興じ行ほどに、はやくも追分にいたる」
江戸を立った弥次郎兵衛、喜多八の珍道中は、この追分から伊勢路(参宮道)に入り東海道と別れる。この先、二人は伊勢参りをすませると京・大坂に遊ぶが、その道筋は初瀬を抜けて大和路を通り、宇治から伏見そして伏見街道を通って京に入った。その後、難波でさらに遊んで膝栗毛を終えている。
 

石薬師宿(いしやくししゅく)

東海道第四十四次。本陣三、旅籠十五軒、戸数二百四十余、人口九百九十余人。
 

庄野宿(しょうのしゅく)

東海道第四十五次。本陣一、脇本陣一、旅籠十五軒、戸数二百十余、人口八百五十余人。
 

亀山宿(かめやましゅく)

東海道第四十六次。本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数五百六十余、人口千五百四十余人。城下町との併宿。
 

関宿(せきしゅく)

東海道第四十七次。本陣二、脇本陣二、旅籠四十二軒、戸数六百三十余、人口千九百四十余人。
 

坂下宿(さかのしたしゅく)

東海道第四十八次。本陣三、脇本陣一、旅籠四十八軒、戸数百五十余、人口五百六十余人。
 

鈴鹿峠

箱根峠、大井川とともに東海道の三大難所の一つに数えられた。
『地名・古地名』「鈴鹿峠」の項参照。
 

土山宿(つちやましゅく)

東海道第四十九次。本陣二、旅籠四十四軒、戸数三百五十余、人口二千六百九十余人。
 

水口宿(みずくちしゅく)

東海道第五十次。本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数六百九十余、人口二千六百九十余人。城下町との併宿。
 

石部宿(いしべしゅく)

東海道第五十一次。本陣二、旅籠三十二軒、戸数四百五十余、人口千六百余人。
 

草津宿(くさつしゅく)

東海道第五十二次。本陣二、脇本陣二、旅籠七十二軒、戸数五百八十余、人口二千三百五十余人。
 

大津宿(おおつしゅく)

東海道第五十三次。本陣二、脇本陣一、旅籠七十一軒、戸数三千六百五十余、人口一万四千八百九十余人。北国街道が分岐し、琵琶湖の水運の要港として物資が集積した交通の要衝で、大津の町には加賀藩や彦根藩・旗本の蔵屋敷が立ち並んだ。宿場は北国街道の分岐点から関清水町にかけての通称「八町筋」に本陣や旅籠が集中していた。また、京への物資の輸送拠点でもあり、荷車の牛車が通うため、大津・京間の街道には車輪の幅に合わせて車石と呼ばれる平たい石が敷き詰められていた。
 

伏見宿(ふしみしゅく)

東海道第五十四次。本陣四、脇本陣二、旅籠三十九軒、戸数六千二百四十余、人口二万四千二百二十余人。秀吉の伏見城築城により伏見は城下町として発展するとともに、京都に通じる伏見街道、大坂への大坂道、大津への大津街道が交差する交通の要地となった。家康が政権を握ると、伏見城は破却されたが幕府は伝馬所を設置し大坂方面への継ぎ立てのため伝馬百疋を常備させた。こうして東国からの物資は京を通らず、大津街道から淀を経て大坂方面に至る宿駅になる。また、西国大名が参勤交代で江戸に向かう街道ともなり、大津街道〜大坂道も東海道と称されるようになった。
『地名・古地名』「伏見」の項参照。
 

淀宿(よどしゅく)

東海道第五十五次。旅籠十六軒、戸数八百三十余、人口二千八百四十余人。木津川、宇治川、桂川が合流する淀は、古くから水上交通の要衝であり軍事的な要地とされた。秀吉がこの地に淀城を築き、側妾茶々にその城を与え、茶々が淀殿と呼ばれることになったことはよく知られている。家康もこの淀の地を京都守護の目的から重視し、新たに淀城を築き淀藩を置いた。寛永十年(1633)に藩主となった永井尚政により河川の大規模な整備が行われ陸の交通が確保されると、宿駅としての整備も行われ、淀六町のうち池上・納所・下津・新町の四町が地子免除となり伝馬業務を行い、大坂、伏見、京都を結ぶ交通の要衝として発展した。
『地名・古地名』「淀」の項参照
 

枚方宿(ひらかたしゅく)

東海道第五十六次。本陣一、旅籠六十九軒、戸数三百七十余、人口千五百四十余人。
 

守口宿(もりぐちしゅく)

東海道第五十七次。本陣一、旅籠二十七軒、戸数百七十余、人口七百六十余人。
 

中山道 

六十九次

江戸時代に整備された日本橋を起点とする五街道の一つで、東海道とともに江戸と京を結び、多くの旅人が往来した本街道。この街道を参勤交代に使用していた大名は、江戸末期では加賀前田家、越後高田榊原家など三十家で、東海道の百四十六家に比べると少ないが、大井川や天竜川のような大きな川がなく、川止めが少なかったことから、比宮(なみのみや:徳川家重夫人)、五十宮(いそのみや:徳川家治夫人)、楽宮(さきのみや:徳川家慶夫人)、和宮(徳川家茂夫人)などの姫君の輿入れ行列に使用された。
 

板橋宿(いたばししゅく) 江戸日本橋より二里半(10㎞)

中山道第一番目の宿駅。宿町の長さは滝野川境から前野村境までの二十町九間で、平尾宿・中宿・上宿の三宿からなる。本陣は一軒で中宿にあり、脇本陣が三軒あって平尾宿・中宿・上宿にそれぞれ置かれていた。『中山道宿村大概帳』によれば旅籠屋五十四軒とされる。戸数五百七十余、人口二千四百余人。
日本橋寄りの平尾宿には飯盛女(宿場女郎)を抱えた旅籠が軒を列ね、中宿には馬継ぎ場や自身番・問屋場・量目改所が有り、上宿には木賃宿(下級旅籠)が建ち並ぶ。
 

戸田の渡し(とだのわたし)

次の蕨宿の手前には荒川が有り戸田の渡しが有った。戸田の渡船場の渡船の権利は北岸の下戸田村が持ち、その権利を巡って蕨宿との間で争いも起きている。天保十三年(1842)の「中山道戸田渡船場微細書上帳」によれば戸数四十六軒、人口二百二十余人(内船頭八人、小揚人足三十一人)、渡船数十三艘(馬船三艘、平田船一艘、伝馬船一艘、小伝馬船八艘)となっていた。大名などの大通行になる時は、近隣の下笹目村、浮間村から馬船を定助船として徴発した。
 

蕨宿(わらびしゅく) 板橋宿より二里十町(約9㎞)

中山道第二宿。宿町には本陣一、脇本陣一が置かれ旅籠屋二十三軒が有ったが、荒川の出水などで川止めになる場合に備え、東の隣村塚越村にも本陣が置かれた。蕨宿の本陣を一の本陣あるいは西の本陣、塚越村の本陣を二の本陣あるいは東の本陣と呼んだ。戸数四十余、人口二百二十余人。また、旅籠には平旅籠と飯盛旅籠が有り、平旅籠は普通の旅客が利用する一般的な旅籠だったが、飯盛旅籠には飯盛女がいて強引な客引きで旅人を困らせた。そのため、江戸末期には一般旅人が安心して泊れるように平旅籠の講(旅館組合)が組織されたという。
この蕨の地は、室町期の貞治年間(1362〜67)、足利氏の一門である渋川義行が武蔵国司として蕨城を築き居城、以降渋川氏一族が領していた。長禄元年(1457)九州探題渋川満頼の孫渋川義鏡が幕府の命により関東探題として武蔵下向を命ぜられ蕨城に依る。戦国期に入り小田原北条氏の武蔵進出で、蕨城をめぐる攻防が繰り返され、義鏡の子義尭の時に破られ北条氏の支配に下った。その後渋川義基の時代、大永六年(1526)には扇谷朝興軍に攻められ落城。義基は北条方に逃れ、永禄十年(1567)北条氏康の援助で城を奪回するが同年の国府台の戦に参戦し討死、一族は散り散りになった。家康が関東に入封すると幕府領となり、廃城となった城址には家康の鷹狩時に休所として使われる御殿が建てられた。
 

浦和宿(うらわしゅく) 蕨宿より一里十四町(約5.5㎞)

中山道第三宿。町並みは十町四十二間で下町・中町・上町からなっていた。本陣は中町に一軒、脇本陣が上町に二軒、中町に一軒あって、旅籠屋の数は十五軒だったとされる。旅籠が十五軒という数字でも分かる通り、この浦和宿は江戸から近い事もあり宿場町としてはあまり発展しなかったが、二七市場で賑わっていた。毎月二・七の日が市日で、上町が二日・十七日、中町が七日・二十二日、下町が十二日・二十七日となっていて、三ケ所で月二回づつ開かれていた。これは本陣を勤める星野家の祖権太兵衛が、天正十八年(1591)、秀吉の岩槻攻めにあたって道案内を勤め、豊臣方を有利に導いた功績から、周辺での市場開設を許され、関東一般市場取締役に任ぜられたことに由来する。この時、権太兵衛は苗字帯刀も許され星野姓を名乗ったとされる。家康の関東入封後は名主役となり本陣職を命ぜられた。
 

大宮宿(おおみやしゅく) 浦和宿より一里九町(約5㎞)

中山道第四宿。町並みは九町半、旅籠屋二十五軒、問屋四軒で、宮町に本陣一が置かれ、脇本陣が九軒と、中山道の宿場では脇本陣の数が一番多い。この外、北沢家に紀州鷹場本陣が置かれ、松本家とともに鷹場鳥見役を勤めていたという。戸数三百十余、人口千五百余人。
この大宮宿は武蔵国一宮の氷川神社の門前町として栄えた町だったが、街道が神社の参道を兼ねて迂回して中を通っていたため、神社の中を通るのは好ましくないと、寛永五年(1628)、関東郡代伊奈忠次の指揮で一の鳥居から北へまっすぐに直進させ、門前にあった町家を街道の両側に移住させ宿場町とした。このことから宿の名が大宮宿となったという。
ここから西に川越道が分れた。
 

上尾宿(あげおしゅく) 大宮宿より二里(約8㎞)

中山道第五宿。町並み十町十間、本陣一、脇本陣三、旅籠屋数四十一軒で、茶屋が数軒有り、飯盛女が「宿村大概帳」によれば四十九人いたという。戸数百八十余、人口七百九十余人。現在の仲町付近が上尾宿の中心で、本陣・脇本陣・問屋場・高札場などが集中している。
 

桶川宿(おけがわしゅく) 上尾宿より三十四町(約3.7㎞)

中山道第六宿。町並み九町半、本陣一、脇本陣一、旅籠三十六軒。本陣の遺構として建物の一部が現存している。戸数三百四十余、人口千四百四十余人。
宿場の外れに、弘治三年(1557)開基と伝える曹洞宗大雲寺という寺があり、その境内には「女郎買い地蔵」と呼ばれる地蔵がある。この桶川宿も飯盛女が多く、このお地蔵さんが宿の飯盛女を買いに錫杖をついてお出かけになった。困った和尚は地蔵の背中に鎹(かすがい)を打ちつけ、鎖で縛ってしまったのだと伝えられている。これは、寺の若い坊主が頭を隠して一人の飯盛女に通い、怪しんだ人が後をつけると、その坊主は大雲寺に入っていった。この事を住持に告げると、住持は「きっと見つけ出し仕置しよう」と約し、次の日に鎖で縛られた地蔵が立っていた。住持は若い僧に、その罪を地蔵が被るので今後戒律を守り修行に勤めるよう諭して、一件を落着させたのだろう。
 

鴻巣宿(こうのすしゅく) 桶川宿より一里三十町(7㎞)

中山道第七宿。町並み十七町、本陣一、脇本陣一、旅籠五十八軒。小田原北条氏の家臣小池長門守が開発した市宿新田に、慶長七年(1602)、本宿村(北本市)の宿駅を移して鴻巣宿と改称した。戸数五百六十余、人口二千二百七十余人。
宿の手前に、関東十八壇林の一つ浄土宗勝願寺がある。この寺は、鎌倉時代に箕田郷松ヶ岡に創建され、天正元年(1573)、惣誉清巌が現在地に移し再建したもので、境内には関東郡代伊奈忠次・忠治父子の墓が有る。また、宿外れの追分から北へ延びる館林道(行田道)は、将軍家が日光社参時に使用する日光街道、日光御成街道の混雑を避けて通行する大名が使用する脇街道の役目をはたしていた。
 

久下の長土手(くげのながどて)

鴻巣から熊谷の間の荒川に沿った堤防上の道で、景勝の地として知られた。時代劇などで馴染んだ土手上の街道を行くのどかな旅人の情景が浮かぶが、反面、物騒な場所でもあったという。この土手の下に権八地蔵と呼ばれる地蔵がある。この権八というには、歌舞伎で知られる盗賊白井権八で、路銀に困った権八はこの地蔵の前で上州の絹商人を殺害し三百両奪った。権八は地蔵に「このことは黙っていてくれ」と祈ったところ、石地蔵は「吾れは言はぬが汝言うな」と口をきいた。そこから別名「物言い地蔵」とも呼ばれている。 
 

熊谷宿(くまがやしゅく) 鴻巣宿より四里六町四十間(約23㎞)

中山道第八宿。町並み十町十一間、本陣二、脇本陣一、旅籠十九軒。また熊谷宿は忍藩領で、忍藩の陣屋もあった。戸数千七百十余、人口三千二百六十余人。二、七に市が立ち白木綿・太織物などが売買されていた。またこの熊谷宿には、忍藩の方針で飯盛女は置かれなかった。途中安永年間(1772〜81)に二年間ほど置いたが、近隣の若者達が帰村しないのですぐに廃止となっている。
宿場にある高城神社は延喜式にも記されている古社で、鎌倉時代には熊谷氏の氏神として尊崇されたが天正十三年(1591)、豊臣勢の兵火で焼失、のち忍藩主によって社殿が再建された。隣にある浄土宗蓮生山熊谷寺は源平一の谷の戦で名をはせた熊谷直実の開山。直実は建久三年(1192)、久下直光との所領争いで敗れ、剃髪し上洛して蓮生坊と名を改め念仏の行に励んだといわれる。寺域は広く、本堂・庫裡・鐘楼・宝蔵などが有り、熊谷直実ゆかりの品々が保管されている。
宿を出てしばらく行くと秩父道が分れ、室町期に始まった秩父札所めぐりの巡礼たちが往来した。
 

深谷宿(ふかやしゅく) 熊谷宿より○里(○㎞)

中山道第九宿。町並み東西十町、南北三町、本陣一、脇本陣四、旅籠八十軒で、中山道の宿駅中もっとも旅籠が多く、飯盛女も大勢いて遊廓もあり、人口でも男性より女性の方が二割近く多い宿駅だった。戸数五百二十余、人口千九百二十余人。こうした女郎目当ての客も多く、そのために旅籠の数が多くなったのだろう。宿の外れには「みかえり松」と呼ばれる松も有り、女との別れを惜しむように男達がそこで振り返ったのだという。
この深谷には、室町末期から江戸初期までは深谷上杉氏の築いた深谷城が有ったが、寛永四年(1627)に廃城となっている。
『地名便覧』「深谷」の項参照。
 

本庄宿(ほんじょうしゅく) 深谷宿より三里二町(約12.2㎞)

中山道第十宿。町並み十七町三十五間、本陣二、脇本陣二、旅籠七十軒。人馬継問屋六ヶ所という中山道最大の宿場町。戸数千二百十余、人口四千五百五十余人。宿は深谷宿と並んで歓楽街として賑わい、飯盛女の数も百人をはるかに越えていた。また田村作兵衛が勤めていた田村本陣(北本陣)と内田七左衛門が勤めていた内田本陣(南本陣)二つの本陣間の競争も激しく、一年先の参勤交代や帰国に合わせて諸大名の国元や江戸屋敷に書状を送ったり出向いて予約を取ったといわれる。
ここ本庄にも城(本庄城)が有ったが、慶長十七年(1612)、城主小笠原左衛門佐信之が下総古河へ転封となり廃城となった。
宿場の手前に、三国街道の追分が有る。
 

勅使河原の渡し(てしがわらのわたし)

武蔵国と上野国の境を流れる神流川の渡しで、川には中洲が有って本庄側から中洲までは橋が架かり、上野国側へ渡る時に渡船を利用していた。また常水の時は上橋、出水になると舟越、川幅が二十間を越すと川留めになったという記述もある。
 

新町宿(しんまちしゅく) 本庄宿より○里(○㎞)

中山道第十一宿。他の宿場よりおよそ五十年遅れて出来た宿駅で、慶安四年(1651)に落合村と笛木村が合体して作られた。本陣二、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数約四百、人口千四百三十余人。
 

烏川(柳瀬川)渡船(からすがわとせん)

渡船の経営は、新町宿、小林伊左衛門、倉賀野宿の三者で行っていた。そのため両岸の中島村、岩鼻村は渡船の権利を奪われ悔しい思いをしていたという。
渡った岩鼻河原には刑場があり、近くの観音寺境内に刑場に散った者たちの供養塔がある。また、寛永五年(1793)に岩鼻代官所が設けられ代官の陣屋があった。
 

倉賀野宿(くらがのしゅく) 新町宿より一里十八町(約5㎞)

中山道第十二宿。町並み九町十六間、本陣一、脇本陣二、問屋三、戸数二百九十余、人口二千三十余人。上町・中町・下町に分れ、各町に問屋場が有り交替で取り行っていた。
この倉賀野宿は日光例幣使街道の起点で、宿場の手前がその追分となっている。朝廷から遣わされる例幣使が京を立ち中山道を下って、ここ倉賀野から日光へ向った。この例幣使の行列は大掛かりなもので、行列が通り過ぎるのに三日から四日かかったという。さらに例幣使を勤める公卿は当時財政的に非常に困窮していた事から、道中の宿々で寄進を募るため長逗留していたことから、宿場にとっては大迷惑な行列だった。
近くに有る倉賀野城址は、十五世紀はじめ倉賀野孫太郎行泰が烏川淵に築いた城で、旗本十六騎で戦国を生き抜いた武将だったが、小田原北条氏と共に滅び城も廃城となった。
慶長六年(1601)、前田慶次郎は直江兼続に誘われ、減封になった上杉景勝の下に仕えるべく、雪深い米沢の地に赴いた時の道中の記録を『前田慶次道中日記』として残した。慶次郎はこの旅程で、中山道を関ヶ原からここ倉賀野宿まで下っている。この宿場一覧とは逆の道筋となる道中記であるため宿場の記述が前後するが、一日の行程を記した記事をその日泊まった宿場毎に紹介しよう。
「六 さかもと(坂本)より安中に三十里安中よりくらがの(倉賀野)に廿五里以上五十五里 そのあたりの家に休らへば、けわひ(化粧)そこなひたる女の、ほうべに(頬紅)ぬりたるあり、行衛をとヘば、涙にむせび都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく生れたるほど、物うきはなしといふ、その女のかほ(顔)は、よこ(横)に三寸も長くて、出はごに歯がすに付、ところどころは(歯)の正躰の見ゆるあたりは、くちば(朽葉)いろ(色)にて、はぐきになのは(葉)つき、いひ(飯)つぶはさまり、物をいへば、もよぎいろ(色)なるいき(息)をふく 書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるは、人の心のさまざまなるをしらんためなり、安中、板はな(鼻)の町、高さき(崎)をとほり、くらが野(倉賀野)にとまる」と有り、中山道の第十七番目の宿場坂本宿を発って安中宿、板鼻宿、高崎宿を通り、ここ倉賀野宿に着いた。翌日の慶次郎の日記には、
「七 くらが野(倉賀野)より柴のわたり(渡り)に十五里柴渡よりきざき(木崎)に十五里き崎(木崎)より引田に十五里 以上四十五里 柴のわたり、高崎新田町にとゞまる」と有り、ここで中山道と別れ、後に日光例幣使街道と呼ばれるようになる道を通り、子供二人を連れた慶次郎一行は米沢に向った。
(原文はカタカナ・ひらがな交じり文だが、読みやすくするためカタカナをひらがなに直すとともに、()内に漢字を付し、意味をつかみやすくした。以下同)
 

佐野の並木(さののなみき)

粕沢橋を過ぎると「粕沢の滝」と呼ばれる滝があり、立場茶屋も出ていた景勝地。ここから上佐野にかけて松の並木が続き、「佐野の並木」と呼ばれていた。
 

高崎宿(たかさきしゅく) 倉賀野宿より一里十九町(約5㎞)

中山道第十三宿。ここは井伊直政が築いた高崎城の城下町で、代々幕閣が城主を勤めていたことから諸大名は遠慮してこの宿では宿を取らなかった。そのため、本陣・脇本陣とも置かれなかったという。旅籠の数は十五軒、問屋三軒とされ、商工業が発達していて一般の旅人はこの宿で旅に必要な物を購入するなどした。本町(三日八日)、田町(五日十日)、新町(二日七日)とそれぞれ六斎で十八日市が立っていた。また、この高崎は三国街道との分岐点で、江戸と信越を結ぶ問屋、仲買の大商家が現れ賑わった。
この地は徳川氏が江戸に入府する前までは和田と呼ばれ、和田氏の居城和田城が有り、東山道和田宿(和田駅)と呼ばれていた。この地を領していた和田氏は小田原北条氏が関東に進出するとその配下に与し、北条氏の滅亡とともに滅び、和田城跡に家康の命で井伊直政が城を築き、名も高崎城と改めた。
『地名便覧』「高崎」の項参照。
 

板鼻宿(いたはなしゅく) 高崎宿より一里三十町(約7㎞)

中山道第十四宿。町並み十町三十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十四、問屋場二、戸数三百十余、人口千四百二十余人。この板鼻宿は旅籠屋の数も多く、商店・茶屋が九十軒あり繁盛していた。旅籠屋のほとんどは飯盛女や下女を抱えていたという。これはこの先に碓氷川が有り川留めで滞留する事があったためとされる。
 

碓氷川の歩渡し(うすいがわのかちわたし)

当初、ここは「歩渡し」で架橋が禁止されていたが、冬季には仮土橋が架けられる。宝暦二年(1752)からは常設の土橋が架けられた。
 

安中宿(あんなかしゅく) 板鼻宿より三十町(約3㎞)

中山道第十五宿。ここ安中は安中城下の町で、うち宿の町並みは四町、本陣一、脇本陣二、旅籠十七軒が有り、戸数六十余、人口三百四十余人の小宿だった。そのため宿駅の困窮が甚だしく、文政五年(1822)には、道中奉行石川忠房の裁断で向こう二十五年間、助郷の数を二十五人二十五疋の継立てに半減している。また当初禁じられていた飯盛女も、嘆願を繰り返した結果、嘉永七年(1854)に黙認の形で置けるようになった。その数も当初五十七人が幕末には百人を越えたという。
安中城は、永禄二年(1559)、安中越前守忠政が築き城下町が形成された。戦国期には上杉・武田の戦に巻き込まれたが、のち武田方となり天正三年(1575)、長篠の戦に従軍し討死。その後、慶長十九年(1614)、井伊直政の長男直勝が江州佐和山から三万石で入り城を再建。その後、水野氏、堀田氏、内藤氏、板倉氏と城主が代わる。
 

松井田宿(まついだしゅく) 安中宿より二里十六町(約9.7㎞)

中山道第十六宿。この宿も安中藩領で町並み九町八間、本陣二、脇本陣二、問屋二、旅籠十四軒、戸数二百五十余、人口千余人、市は三、八の六斎市。ここ松井田宿は信州各藩の城米が集まる中継地となっていて廻米の半分がここの米商人(宿米)に売られ(払い米)、残り半分が倉賀野から舟で江戸に送られた。このためこの宿は「米宿」と呼ばれ繁栄した。
 

碓氷関所(うすいせきしょ)

江戸に幕府が置かれるとこの上野国は信州から関東への入口として重要視され、慶長十九年(1614)には関長原(現関所より半里北)に仮番所が置かれた。その後、元和九年(1623)、現在地に移されると諸設備が整備され、安中藩が管理していた。関所には常時番頭二名以下十数人の番士が守衛にあたっていたという。
 

坂本宿(さかもとしゅく) 松井田宿より二里十五町七間(約9.7㎞)

中山道第十七宿。町並み六町十九間、本陣二、脇本陣二、旅籠四十軒、戸数三百七十余、人口七百三十余人。寛永二年(1625)、幕命により付近の住民や安中・高崎藩の領民を移住させてつくられた宿場町。東西に八間一尺の道路、その中央を幅四尺の用水が流れ、宿場を東西に二分し、十七の橋を架け、宿場を守るため家屋の屋根に斜角を持たせ、軒を接して建てられた計画的な町作りがなされた。難路の峠を控えた宿場として人手が必要なため、近在からの助郷の数も多く、飯盛女も置かれ賑わった。
『前田慶次道中日記』には「五 もち月(望月)よりかるいざは(軽井沢)に五十里かるいざは(軽井沢)より坂本に十五里以上六十五里 もち月(望月)の駒にのり、八幡の町、塩なだを過岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐにかるいざわ(軽井沢)まで奥道五十里の間、馬つぎ十一所かと覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権見をうつし奉る社頭在、神鈴の声幽にして道もをく(奥)まる山かげに、きねが袖ふる里かぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまどろめば、夢めみる我が京落の友、拙唱作る 向東に去北行路の難、□に隔古郷を涙した不乾、我夢朋友を高枕上、破窓そうの一宿短衣寒 是より東関の上野道也」と記され、望月宿を馬で発ち、軽井沢宿を経て坂本宿まで一気に二百六十キロの道のりを稼いでいる。
 

碓氷峠(うすいとうげ)

上り口は狭く坂は急で道も悪かったという。三百mほど上った所に堂峰番所があり、裏番所と呼ばれ、碓氷関所を通らずに山中を抜ける旅人を取り締まるために設けられていた。番所から一㎞ほど進んだ所に二体の地蔵が有り、上り地蔵、下り地蔵と呼ばれ、室町期からここを通る旅人の無事を願ってきたという。ここから少し上ると坂本宿が一望できる「覗」という場所が有り、頂上近くには「弘法の井戸」と呼ばれる刎石山頂には珍しい湧水の井戸が有り旅人の喉を潤し疲れを癒したという。山頂には小左衛門が勤めた羽根石茶屋本陣、四軒茶屋などが有って旅人が休憩できた。この山頂と坂本宿の標高差は五百四十mで、ここから道はしばらく平坦となり絶景を眺めながら行く。再び「座頭ころがし」と呼ばれた上り坂を昇ると茶屋(大和屋)、さらに進むと茶屋本陣(丸屋六右衛門)や往時には十三軒もの茶屋が立ち並ぶ峠の中心部に達し、「ワラビ餅」などを振る舞って賑わった。
 

軽井沢宿(かるいざわしゅく) 坂本宿より二里十六町(約9.7㎞)

中山道第十八宿。町並み六町二十七間、本陣一、脇本陣四、旅籠二十一軒、戸数百十余、人口四百五十余人。ここ軽井沢宿は展望が開け浅間山を近くに望む景勝と峠を越えた最初の宿ということもあり新町が出来るほど賑わい、旅籠の多くは客引きのため飯盛女を抱えていた。中には四百人を超える飯盛女を抱える旅籠屋も有ったという。しかし、天明三年(1783)の浅間山の大爆発で甚大な被害を蒙り、さらに二度の大火に見舞われ、加えて天明の大飢饉と後年称される大飢饉が襲い、宿場は再興する余力も無いほど疲弊した。その後、宿場はやや回復し、嘉永三年(1850)には飯盛女の数が百人を超え、遊廓化した旅籠まで現れるが宿駅制度が廃されると宿場町は衰退した。
この軽井沢が蘇るのは明治十八年(1885)、宣教師A・C・ショー氏が軽井沢を訪れ、日本に滞在する西欧人等の保養地として開発した事で、現在のような別荘地として発展する。ちなみに軽井沢が別荘地として人気を博し、都会から人が多く訪れるようになると、当初静かな保養地としてそこを利用していた西欧人たちはそんな喧噪を嫌い、新たな地を求めて信越国境の野尻湖などへ移っていった。
 

沓掛宿(くつかけしゅく) 軽井沢宿より一里五町(約4.5㎞)

中山道第十九宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣三、旅籠十七軒、戸数百六十余、人口五百余人。この宿も浅間山の大噴火と飢饉で衰退したが、天保十四年(1843)ころにはやや回復し宿場としての体裁も維持できたという。また、この沓掛宿は草津へ抜ける草津道の起点となっていて、草津温泉往来の湯治客で賑わった。
 

借宿(かりしゅく)

沓掛宿と追分宿の中間、女街道との分岐点に有り、両宿が一杯の時はこの宿で泊まった。立場、茶屋、穀屋、造酒屋などが有り、商人・職人・茶立て女・中馬稼ぎなどで賑わいをみせていた。
 

追分宿(おいわけしゅく) 沓掛宿より一里三町(約4.3㎞)

中山道第二十宿。軽井沢宿・沓掛宿とともに軽井沢三宿の一つ。町並み五町四十二間、本陣一、脇本陣二、旅籠三十五軒、戸数百余、人口七百十余人。ここ追分宿は越後へ通じる北国街道との追分で、交通の要所として幕府も重視し、古くから飯盛女を置くことを許可していた。三宿の中でもっとも大きな宿場町で、元禄十三年(1700)の記録には飯盛女が二百人とされ、宿場全体が歓楽地として賑わっていた。
 

小田井宿(おだいしゅく) 追分宿より一里十町(約5㎞)

中山道第二十一宿。町並み八町四十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五軒、戸数百余、人口三百十余人。『木曽路名所図会』に「駅内二丁ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」と書かれた寒宿だったが、隣の追分宿が男たちの歓楽地だったことから、大名の夫人や姫君はそこを避けてここで宿を取った。幕末、徳川家に降嫁した皇女和宮もここに宿したという。そのためこの小田井宿は「姫の宿」とも呼ばれていた。
 

皎月原(かないがはら)

中山道の名所の一つで、この「かないが原」は「明神の馬に乗り給ふ馬場」と言われ、芝に輪乗りをしたような跡(皎月の輪)があり、草が生えないという。ここで馬術を習得した押兼団右衛門(小諸藩馬術師範)の「皎月歌碑」が建っている。
 

岩村田宿(いわむらたしゅく) 小田井宿より一里七町(約4.7㎞)

中山道第二十二宿。ここは内藤美濃守の城下町で、町並みは九町三十間、新町・中宿・下宿とあり、中宿と下宿に問屋が有って半月交替で勤めていた。本陣・脇本陣とも置かれておらず、城下町の堅苦しさを嫌った旅人は素通りする事が多く、旅籠も九軒と少ないが、物資集散の地として商業が盛んだった。『木曽路名所図会』に「駅内の町五六町あり、相対して巷をなす。某余散在す。善光寺へ別れ道あり、又小諸の道二里なり、又甲州路の道筋あり。当駅は内藤美濃守の領地也。商人多し」と書かれているように、この岩村田の町から善光寺道、大仁田道が分かれている。
 

塩名田宿(しおなだしゅく) 岩村田宿より一里十町(約5㎞)

中山道第二十三宿。中山道の整備にあたり北にあった旧塩名田村と南の舟久保・町田の住民を移して千曲川岸に形成された宿駅で、慶長七年(16029)宿駅として機能を始めた。町並みは東西四町二十八間、東から下宿・中宿・河原宿となっている。本陣二、脇本陣一、旅籠七軒、戸数百十余、人口五百七十余人。隣の八幡宿との距離は短いが、ここに宿駅を設けたのは千曲川の往還を確保するためだったとされる。千曲川往還橋は急流だったため洪水のたびに橋が流されることから、宿場の任務は橋の確保と修築で向こう岸の御馬寄村と共同で管理にあたった。この宿は小諸藩領でここから小諸城下に通じる小諸道が通っている。
 

八幡宿(やわたしゅく) 塩名田宿より二十八町(約2.8㎞)

中山道第二十四宿。宿駅整備にあたり、北の御牧原南麓にあった蓬田・桑山村と根際街道と呼ばれていた道筋にあった八幡村を街道沿いに移して宿場とした。当初は荒町といい宿内の大字は三つ(蓬田・桑山・八幡)に分かれている。町並み七町二十五間、本陣一、脇本陣四、旅籠三、戸数百四十余、人口七百十余人で、宿建人馬二十五人二十五疋と他の宿駅の半分になっていた。宿間の距離が短いがここに宿が置かれたのは、この辺りの地質が強粘土質で、春の雪解けや長雨があると泥沼と化し、小松枝、苅敷などを敷いても人馬の通行に支障をきたしていたからといわれている。
 

望月宿(もちづきしゅく) 八幡宿より三十二町(約3㎞)

中山道第二十五宿。当初、望月宿は鹿曲川(かくまがわ)の右岸にあったが、寛保二年(1742)に大洪水が有り新町五十戸ことごとく流失し、その後、左岸の現在