剣術流派一覧

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龍慶一郎わーるど

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更新日 2008-11-30 | 作成日 2007-09-18

剣術流派一覧

主な剣術流派の解説一覧です。我国の剣術流派は、剣術者(兵法家)がそれぞれ自称したり、後世物語作者が名付けた名義などが混在するため有名・無名、真偽不明の物など合わせて何百流もある。ここでは、隆慶作品に登場する流派とその資料に現れる流派を中心に紹介しております。また、資料に基づいた記述を心掛けておりますが、考証を目的とした解説ではありませんので真偽については、各人それぞれの判断に委ねます。

神道流の系統

飯篠山城守家直入道長威斎が伝える剣術流派を祖とする流れ。

天真正伝神道流

天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう) 

飯篠山城守家直入道長威斎(いいしのやましろのかみいえなおにゅうどうちょういさい)が伝える剣の流派。飯篠は「いいざさ」とも読む。この飯篠山城守の神道流を特に「香取神道流」ともいった。彼の門弟に飯篠四天王と呼ばれた、杉本備前守政元(すぎもとびぜんのかみまさもと)、上泉伊勢守秀綱、諸岡一羽斎、塚原土佐守(つかはらとさのかみ)がいる。上泉伊勢守は後に神陰流を起し、隆慶作品においてもしばしば名前が登場する有名な兵法者。塚原土佐守は佐竹義宣の家臣で、兵法者塚原卜伝の養父。
 

一羽流

一羽流(いちうりゅう)

天真正伝神道流で飯篠四天王と呼ばれた一人諸岡一羽斎(もろおかいちうさい)を開祖とする剣の流派。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に一羽関連の記述あり参照ください。
 

鹿島神道流

鹿島神道流(かしましんとうりゅう)

「鹿島流」、「鹿島神流」、「鹿島神陰流」ともいう。「神道流」飯篠山城守の高弟松本備前守政信が伝える流派。松本備前守の創案した「一つの太刀」と呼ばれる秘伝は、「神道流」の弟弟子塚原土佐守に伝えられ、土佐守から塚原卜伝に伝えられた。 
 

新当流

新当流(しんとうりゅう)

塚原卜伝を開祖とする剣の流派。卜伝流とも云う。稽古には木太刀か刃引きの本身を使ったとされる。「新当流」とは「天真正伝神道流」の「神道流」からきたとも、「一の太刀」の極意「新たな心境で、万刀に当る」ことから称したともいう。 → 【卜伝流】

【卜伝流】(ぼくでんりゅう)

塚原卜伝を開祖とする剣の流派。「新当流」ともいう。これは「神道流」からきた命名。 → 【新当流】
 
 

天真正自顕流

天真正自顕流(てんしんせいじけんりゅう)

十瀬與三左衛門長宗が飯篠長威斎の「神道流」を学び、独自の工夫を加えて興した剣の流派。薩摩の「示現流」はこの流れを汲む。
 
流祖は常陸国笠間の住人で清和源氏佐竹氏の一族小瀬与三衛門長宗とされる。流統は小瀬与三衛門長宗→金子新九郎→赤坂弥九郎(後、出家して善吉禅師)、黒川(会津)の天寧寺にいたが戦乱で消失したため京に上り天寧寺を再建。そこで自顕流四世となった。のち、当時瀬戸口藤兵衛と名乗っていた東郷藤兵衛重位と出会う。やがて東郷(瀬戸口)は、島津家久の命により他国に秘するために流派名を音が同じとなる示現流に変えた。と薩摩の伝書にもあるとのこと。この示現流は、東郷藤兵衛重位→石坂牛介→池田杢左衛門→山田杢兵衛→村上善太夫→村上善蔵→村上嘉納→村上義瑞→村上義衛→村上義治と続き、牧野家に仕え示現流を指南していた村上家であったが、延享四年、延岡から笠間に移封になった牧野家に従った村上家によって、笠間にも示現流が伝えられた。(大嶋正和)
 
上記の文は、示現流についてご教示いただいた大嶋正和氏からのメール文を若干書き直して掲載しております。十瀬與三左衛門長宗と小瀬与三衛門長宗は、同一人物。資料の文字を小と十と読み違えているだけで、一方には小瀬と伝わり、一方には十瀬と伝わっただけであろう。
 
 

示現流

示現流(じげんりゅう)

薩摩藩士東郷藤兵衛重位(しげたか)を祖とする剣の流派。稽古にはユスの木を三尺四寸六分に切った丸棒を用いた。構えは「蜻蛉」の構え一つ。見た目の型にこだわらない実戦向きの剣で、島津藩の剣術として重用され、幕末の薩摩藩士らがこの剣で、幕府軍を圧倒したとされる。東郷藤兵衛重位は「太捨流」を学び、島津義久あるいは義弘の供として上洛した時に、十瀬與三左衛門長宗を祖とする「天真正自顕流」の達人赤坂雅楽助と出合いその門人となり、「自顕流」を修める。国に帰った当初は「自顕流」と称していたが、島津家久に認められてその名を「示現流」と改めた。『柳生非情剣』(33p)には、「自源流」とある。また、直木三十五氏の『岩見重太郎』には、瀬戸口備前守が起した「自源流」があり、「自源という天狗から教えられた云々」とあり、この「示現流」とは別に「自源流」なるものがあったのか、隆氏の「自源流」は「とんぼの構え云々」の記述から「示現流」と同じものと思われる。
また『剣豪伝説』(小島永煕)には「示現流は自源流、慈眼流などとも書き、『本朝武芸小伝』に「瀬戸口備前守は薩摩の人で島津家臣なり。壮年より刀術を好み、精妙を得て、のち、薩州の伊土瀧に赴き、自源坊に遭い妙旨を悟り、ゆえに自源流を号す」とある」とあり、先の直木三十五氏の説と同じである。ともあれ、薩摩藩では藩外不出の流儀とし、維新後も日中戦争まで門外不出であったため、『日本剣道史』(山田次郎吉)でも「自源流は島痔家の臣瀬戸口備前守より起るとあれども、何れも出処事蹟は詳らかでない」とお手上げ状態となっている。示現流の祖東郷重位が瀬戸口氏であるという説もあるが、綿谷雪氏は「瀬戸口氏は大隅国姶羅郡蒲生郷の正八幡若宮社の社家という。薩摩付近に瀬戸口氏があったことは事実であるが、示現流の祖となった東郷肥前守重位が、もと瀬戸口氏であったという説は、確証を欠いている」と述べている。、

神道無念流

神道無念流(しんとうむねんりゅう)

「無念流」ともいう。天明期(1781〜1789)に上野国の人福井平右衛門が興したとされる剣の流派。平右衛門の愛弟子戸ケ崎(戸賀崎)熊太郎が江戸に道場を開き広めた。清水礫洲の『ありやなしや』によれば、「一刀流」の鈴木斧八郎は、熊太郎と試合をし破れて「無念流」に改流。戸賀崎道場で師範代を勤める。この門人に秋山要助(介)等がいた。岡田十松は鈴木斧八郎の後師範代になったらしい。
 

扶桑念流

扶桑念流(ふそうねんりゅう)

武州飯能で秋山要助が起した剣の一流。「無念流」の流れ。
 
 
 
 

念流の系統

念阿弥慈恩が興したとされる剣術流派を祖とする流れ。 

念流

念流(ねんりゅう)

南北朝時代、念阿弥慈恩が興したとされる剣の流派。「二階堂流」「宝山流」などがこの「念流」の流れを汲むという。
なお、隆氏は慈恩の師は寿福寺禅僧栄祐で、同じく栄祐から学んだ「中条流」と双児の兄弟のような流派としている。
「念流 念流には数多の流儀があるが、その本旨というのは一念を以て勝つことを主とする、右の手を斬らるれば左の手で詰め、左右の手が無ければ噛り付いても一念を徹すという伝授である、その稽古する様は上略中略下略というて三段の構えをもって敵の太刀に打合せてひしとつけるのである、はじめつけたる太刀は甚だ強く修行がつむと太刀の先きに米一俵をかけ或は梯子をかけて人をのぽらせなどすることも出来る、また突くことも甚だ速かにして中り難いという、この流儀は江戸をはじめ諸国に広く行われ、上州では樋口の念流が名高い。(撃剣叢談)」(中里介山著『日本武術神妙記』より)
 
 

二階堂平法

二階堂平法(にかいどうへいほう)

二階堂右馬助が祖といわれるが不明。「二階堂流」ともいい、「八文字」「十文字」などの秘太刀がある。肥後の細川忠利に仕えた松山主水が得意とした。また松山主水は「心の一方」という術も工夫していたとされる。この「二階堂流平法」は「念流」の流れともいわれていて、『死ぬことと見つけたり』(下12p)で隆氏は、鎌倉幕府の評定衆で岐阜稲葉城主二階堂出羽守行村が、念流の祖念阿弥慈恩に剣を学んで興したとしている。
江戸中期の『積翠雑話』には、「主水の剣術は平兵法といい、もともとは義経流の剣術から出たものだ」とあるという。
また、この二階堂平法は、初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」と三段階に分けていたことから、一、八、十の字画でできている「平」の字を用い平法(平兵法)と称したとされる。

【心の一方】(しんのいっぽう) 

二階堂平法の奥義とされ、相手の身体を金縛りにあったようにする、一種の催眠術のような術。→「不動金縛りの術」

馬庭念流

馬庭念流(まにわねんりゅう)

上州多胡郡馬庭村の樋口十郎左衛門が剣の流派「念流」を教えていたことから、その地名を付けて「馬庭念流」と云われた。この樋口十郎左衛門は樋口二郎兼光の後裔と云われる。「馬庭念流」の祖を樋口又七郎定次とするものもある。
 
 

中条流の系統

中条兵庫頭(兵庫助)長秀を祖とする剣術流派を祖とする流れ。

中条流

中条流(ちゅうじょうりゅう)

中条兵庫頭(兵庫助)長秀を祖とする剣の流派。
中条流は兵庫助から越前斯波家の臣甲斐豊前守に伝えられ、大橋勘解由左衛門を経て越前新庄城主山崎右京亮昌巌に伝わり、その頃牢人して山崎家に寄食していた冨田九郎左衛門長家に伝わる。さらに昌巌の三人の子景公、景隆、安房守、そして冨田治部左衛門景家、青木藤兵衛、印牧助右衛門吉広(弥次郎)に伝授されるが、中条流宗家の「家ノ書」は山崎河内守景隆が伝承。以後、中条流は山崎一族が、代々、伝書と道統を継承する。また中条流では兵法と書かず、平法と書き、その「家ノ書」の「平法口決」にあるように「平かに一生事なきを以第一とする」とあって、本質的に守りの剣法とされている。
また「中条流」は、南北朝期に興り、剣法の二大ルーツの一つといわれている。もう一つは同じ頃、念阿弥慈恩の興した「念流」だが、人によりこの「念流」を源流としないこともある。この「中条流」から「冨田流」が興り、「一刀流」へと発展した。佐々木小次郎の「巌流」もこの流れの剣である。この平法中条流は、仕太刀が二尺八寸、打太刀四尺三寸の木刀を使う。中条流は小太刀が喧伝されているが、実は長剣を用いていて、この流れを組む鐘巻流を学んだ佐々木小次郎が長い剣を用いても不思議ではない。
なお、「中条流」を興した兵庫頭長秀の師は念阿弥慈恩と同じ寿福寺禅僧栄祐で、「念流」と「中条流」は兄弟流派だと、隆氏は『死ぬことと見つけたり』(下12p)の中で述べている。 
 

富田流

富田流(とだりゅう)

中条流を越前新庄城主山崎右京亮昌巌から伝えられた越前朝倉家の臣冨田九郎左衛門長家(景恒)を祖とする剣の流派。冨田流の道統は長家から子の景家に伝えられ、景家の次男景政、その養子重政へと伝えられた。鐘捲自斎の師事した冨田勢源は景政の兄。この流派から「鐘捲流」、「一刀流」が生まれている。また、「外田流」、「戸田流」、あるいは「外田一刀流」「戸田一刀流」と称する流派も同じ一統とされる。また冨田治部左衛門景政は小太刀を得意とし、その道統が「鐘捲流」の小太刀に伝えられた。治部左衛門景政の子冨田五郎左衛門勢源は「冨田流」小太刀の達人として知られる。さらに治部左衛門景政の養子となった冨田越後守重政は「名人越後」として知られている。

鐘巻流

鐘巻流(かねまきりゅう)

小太刀を得意とする剣の流派。鐘捲流とも書く。鐘捲自斎通家を祖とする剣の流派。「富田流」の富田治部左衛門俊直に師事し、自流を興す。自斎の門弟に「一刀流」を興した伊藤(伊東)一刀斎、佐々木小次郎などがいる。
『かぶいて候』では、「鐘巻流」は一名「外他流(とだりゅう)」とも云い、『名人越後』と呼ばれた富田勢源(とだせいげん)を流祖とするとも云われているとある。しかし、『名人越後』と呼ばれていたのは富田越後守重政で、勢源の弟景政の女婿である。→「富田流」

一刀流

一刀流(いっとうりゅう)

伊東(伊藤)一刀斎を祖とする剣の流派。「鐘捲流」の鐘捲自斎に師事し、自流を興す。一刀斎は弥五郎入道景久といい、別姓を前原という。生国は伊豆半島基部説と、近江堅田説があり、生年も、天文十九年(1550)説、永禄三年(1560)説がある。没年は承応二年(1653)といわれている。
一刀斎の門弟小野忠明(次郎右衛門/神子上典膳といった)は、柳生宗矩とともに将軍家剣術指南となっている。
[逸話]
一刀斎は右流儀の始祖にて、諸国を遊歴して修行なし、其名宇内に隠れなく、公儀にても入御聴可被召出の御沙汰成りしが、未廻国の残りも有、志願不遂故恩免を願ひ、「弟子の内神子上典膳其術我に劣らじ」とて吹挙なし、則典膳名苗字共改、小野次郎右衛門と名乗、御旗本に被召出し也。然るに典膳は一刀斎一、二の弟子なれ共、轉膳より先に一刀斎に附添廻国までなせし全亀といへる有りしが、彼れを除て典膳を吹挙せしよし。右全亀は元淀川の船頭にて、飽までの強力者にて、典膳よりは先に門下たる者也。其始を尋るに、一刀斎長き刀を差て淀舟に乗りしを、彼船頭見及びて、「剣術遣ひにも有るべし。長刀こはくなし」と嘲り笑ひ、「いか成るものにても我力量に勝べき覚なし。いで力を見せん」と、乗合の好みに任せあたりに繋船を片手に傾け、水一盃入てまた右の船を打返し水こぼして元の如くなしける故、一座肝を潰し、一刀斎曰く、「かゝる力量我勝べきと覚へざれ共、勝負なさば我殺さるゝまでも可立合」迚、右船頭倶/\〃船より上りければ、乗合其外往来の者も、「見物事也。あわや彼侍は打殺されん」ととよみ見物せしに、船頭は櫂を引さげ、一刀斎は刀を抜放し立向ふと見へしが、船頭軽/\と櫂を振上て拝み打にうちしを、引はづしてむ手にて襟元を押えしに、櫂は大地へ飽まで打込、抜んとすれ共抜ず。襟元を一刀斎押へつけて、「汝力量勝れたり共、我手にかけ只今切害なすは眼前也。右の心底を改め我に随ひ、刀剣の術修行なさば其功少からず」と諭しければ、先非を悔ひ、誤入て一刀斎の門人となり諸国を供して遍歴せしが、右の恨を残せしや、生質の悪心にや、一刀斎が太刀筋習ひ覚へけれど、或ひは一刀斎が寝息を伺ひ、または一刀斎が油断有るべき所をうかゞひし事度/\有りしが、大量・奇術の一刀斎ゆへ諸国武者修行に召つれ、多分は右のものに先試合をなさしむるに力量抜群故不勝と云ふ事なし。弥一刀斎は手を下さずして其名翻走して高し。然るに前に記せし典膳を吹挙の節、全亀大に憤り、「我は師に功もあり、典膳よりは先に門入して随身なせしを、旧きを捨て新らしきを吹挙ある事、鬱憤なり」と恨みしかば、一刀斎曰く、「汝が其昔を可考、淀船の船頭也。典膳は初より刀をさして浪人也。さて亦汝は一旦伏従なすと言へども、師恩を忘れ我を忍伺ふ事知るまじと思ふべけれど、あまたゝび也。とく可殺を是迄助け置しは我仁慈也。かゝる無道の者を公え吹挙なるべきや」と申ければ、全亀も一言なく閉口せしが、「我等は典膳に後れ活べき所存なし。哀れ典膳と勝負を願ひ、我勝なば我を吹挙なし給へ」といふ。典膳是を聞て、「某非力なれば全亀に殺されんは治定なれ共、殺されば我名聞を以全亀吹挙なし給へ」と両人願ふ故、其意に任せしに、両人立別れ、全亀は己が力を以典膳を一刀に切殺さんと拝み打に打しに、典膳は一刀斎の伝授の極秘払捨刀といへる太刀にて、股よりすくひ切通す太刀の早業にて、肩より両手へ掛て切ければ、全亀は一刀四段となりしとかや。今小野次郎右衛門家にて亀割といへる刀は、彼全亀をきりし刀の由、一帆斎かたりぬ。(『耳袋』巻之八)
上記の全亀は善鬼ともいい、刀の名は善鬼が瓶の後ろに隠れたのを瓶ごと切ったところから瓶割とも伝えられている。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「伊藤一刀斎」の項があるので参照ください。
 

【小野派】(おのは) 

小野忠明の伝えた一刀流の流派。
 

【古藤田派】(こふじたは) 

一刀斎の直弟子三人のうちの一人古藤田俊直(他は善鬼・神子上典膳)が伝えた一刀流の流派。別名を唯心一刀流という。俊直の孫古藤田俊定は『一刀斎先生剣法書』を著し、一刀流の奥義を後世に伝えている。
 

【中西派】(なかにしは) 

一刀流の一派。江戸下谷練塀小路に道場があり、江戸後期には、三羽烏と云われた高柳又四郎、寺田五右衛門、白井亨がいて、千葉周作も一時ここにいたといわれる。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に中西派関連の記述があるので参照ください。
 

忠也流

忠也流(ちゅうやりゅう)

小野派一刀流の始祖小野次郎右衛門忠明の弟小野典膳忠也の流れを汲む一刀流の流派。忠也は諸国遍歴後、広島藩主浅野長晟に請ぜられ、その門流は芸州で盛んとなった。
 

厳流

巖流(がんりゅう)

佐々木小次郎の興した剣の流派。 
 

甲源一刀流

甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)

【柳剛流】(りゅうごうりゅう)
足斬りの法を得意とする、甲源一刀流の裏術。

北辰一刀流

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう) 

千葉周作が興した剣の流派。名の通り「一刀流」の流れを汲む流派。
千葉周作は剣を父から学び、その後、江戸に出て浅利又七郎に師事。父の剣の流派「北辰無双流」と浅利の「一刀流」から、自らの流派を「北辰一刀流」と称した。
神田お玉ヶ池にあったこの北辰一刀流「千葉道場」は、幕末の「江戸三道場」の一つと言われた。
 
 
 

陰流の系統

「かげりゅう」あるいは「いんりゅう」ともいい、愛洲移香斉を遠祖とする剣術流派の一統。

愛洲陰流

愛洲陰流(あいすいんりゅう)

愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)が伝える剣・槍の流派。ただ陰流(いんりゅう)ともいい、「かげりゅう」とも呼んだことから、「影流」とも書く。清水礫洲の『ありやなしや』には愛洲影流とある。
この陰流の刀法は「猿(ましら)の太刀」ともいわれ、「猿飛(さるとび)」「猿回(さるまわし)」「虎竜」「山陰(やまかげ)」などの型がある。
 

神(新)陰流

神陰流(しんかげりゅう)、新陰流とも。

上泉伊勢守秀綱(こうずみいせのかみひでつな)を開祖とする剣の流派。「新陰流」、「新影流」とも書く。秀綱は、愛洲移香の「陰流」に「神道流」の奥義を加え、青眼の構えを基本とする「神(新)陰流」を考案した。
門人に磯端伴蔵秀国(いそはたばんぞうひでくに)、神後伊豆宗治(じんごいずむねはる)、丸女蔵人(まるめくらんど)、疋田文五郎(ひきたぶんごろう)、柳生又左衛門宗厳(やぎゅうまたざえもんむねよし)、奥山孫次郎、塚原小太郎などがいる。柳生又左衛門宗厳は「柳生新陰流」の祖柳生石舟斎、奥山孫次郎は「奥山流」の祖奥山休賀斎、塚原小太郎は「卜伝流」の祖塚原卜伝で、それぞれ剣の流派を起した。
清水礫洲の『ありやなしや』にある「心影流」もこの流のことか。

柳生新陰流

柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)

柳生宗厳(石舟斎)を開祖とする剣の流派。上泉伊勢守からその道統を継ぎ、石舟斎が大成させた剣の流派。五男宗矩は家督を継ぎ、将軍家剣術指南となり大名に列したが、「柳生新陰流」の一子相伝の道統は、嫡男新次郎巌勝の子兵庫助利厳に受継がれた。「柳生流」ともいう。

【逆風の太刀】(ぎゃくふうのたち)

柳生流秘剣。

【水月】(すいげつ) 

あたかも水が月を映すように、相手の意図を読む柳生新蔭流の秘伝。柳生宗矩の『兵法家伝書』にも、この「水月」のことが書かれている。

【丸橋の太刀】(まるはしのたち) 

柳生流秘剣。

【無刀取り】(むとうどり) 

上泉伊勢守が考案し、柳生石舟斎が完成させたとされる「新陰流」の極意。この無刀取りの本意が『兵法家伝書』に有る。

【村雲の太刀】(むらくものたち) 

柳生流秘剣。
 

【江戸柳生】(えどやぎゅう)

柳生家の家督を継いだ柳生宗矩が、将軍家剣術指南として伝えた柳生新蔭流の流派。

【尾張柳生】(おわりやぎゅう)

「柳生新陰流」の一子相伝の道統は、嫡男新次郎巌勝の子兵庫助利厳に受継がれ、利厳が尾張家の剣術指南となったことから、正統を継ぐ柳生新蔭流を尾張柳生という。

《瓢水の「一話一言」》

[江戸柳生と尾張柳生、不和の一因] 
 江戸柳生と尾張柳生の不和の原因は、柳生新陰流の道統が利厳(兵助)に伝えられたことを宗矩が快く思わなかったためと一般に言われているが、それ以外の理由もあったようだ。今村嘉雄『柳生一族』(新人物往来社)から紹介してみよう。 
 利厳には妹がいた。伊賀の山崎氏に嫁いだが不縁となって戻ったこの妹を、宗矩が柳生に引き取り、老職の柳生主馬(はじめ佐野主馬)に嫁がせたのである。利厳に断わりなく再婚を進めた点も褒められたことではないが、この主馬という人物が問題だった。『玉栄拾遺』には「伝に曰く、主馬者朝鮮国の種也」とあり、また別録には「然る所主馬は他国人にて氏も不知者」とあると云う。つまり、柳生主馬は朝鮮人だったのである(283頁)。 
 宗矩から柳生の姓を与えられたくらいであるから、主馬はひとかどの人物であったと思われる。しかし利厳からすれば、どこの馬の骨とも知れぬ異国人に断わりなく妹を嫁がせたことが許し難かった。この事件がいつ起こったのかは詳らかにしないが、この後、尾張柳生は江戸柳生に対して絶好状態を続けることになったのである(283頁)。 
【追記】柳生家と朝鮮を結びつけた荒山徹氏は、その一大奇作『十兵衛両断』(新潮社)で、「宗矩の高弟佐野(柳生)主馬は、実は韓人である。元の名を朴主馬という。秀吉の朝鮮出兵に際して(中略)鍋島直茂の軍に投降した。異国の少年に武芸の才あるを見抜いたのは、直茂の子勝茂で、剣の師柳生石舟斎に主馬を託した。成人して後、宗矩は己が姪を主馬に娶らせ、柳生の姓を許した」と書いている(22頁)。『玉栄拾遺』の記述を膨らませたのであろう。 (2004年5月20日瓢水記)
 
 

奥山流

奥山流(おくやまりゅう)

奥山休賀斎を開祖とする剣の流派。上泉伊勢守より神陰流の印可を受け、故郷三河に帰り「夢想の太刀」を悟得し、一流を興した。後、家康に仕え、戦に従軍しながら、家康の剣術指南をした。「神影流」ともいう。
 

直心流

直心流(じきしんりゅう)

新陰流第五代の神谷伝心斎が開いた流派。若年の頃、十五流に達したという。「剣道とは、己をすてて直心で進み、非心を断って、自然に生きることである」と、悟って、極意を「非切」と称し、流名を直心流とした。
 

太捨流

太捨流(たいしゃりゅう)

大捨流、体捨流とも書く。「神(新)陰流」上泉伊勢守の門弟丸目(女)蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)を祖とする剣の流派。神(新)陰流の直門だが、柳生新陰流や疋田陰流などと趣の異なる実戦を重視した流派。「示現流」を興した東郷重位が学んだ。
 
 

小夫流

小夫流(おぶりゅう)

狭川新左衛門が息子浅右衛門に伝えた「古陰流」を、改称した流派。浅右衛門は父の死後、狭川姓から小夫姓に改めている。この「小夫流」について、『柳生流秘書』には「柳生より構われ候につき小夫流と号す」とある。
 

西脇流

西脇流(にしわきりゅう)

「小夫流」三代目小夫幡左衛門が不行跡のため改易されたため、門弟の西脇勘左衛門がその後を受け、後に「西脇流」と改めた剣の流派。
 
 

古蔭流

古陰流(こかげりゅう)

柳生新陰流の高弟狭川新左衛門が名乗った流派。新陰流の「新」に対して「古」と称したとされる。
 

直心影流

直心影流(じきしんかげりゅう)

新影流の直系流派。江戸後期、講武所を設けた男谷下総守信友は、直心影流の達人だったという。
 

その他の系統

未分類、未整理の流派を含む。

鞍馬八流

鞍馬八流(くらまはちりゅう) 

源平時代に吉岡鬼一が創めた剣の流儀と伝えられ、鞍馬寺の僧八人にその秘訣を授けたことからこの名がついた。
相手の刀の峯に乗り、相手の引く力を利用して、頭上高く飛び、相手の背後に着地する技の型がある。(『吉原御免状』19p)
この鞍馬八流は、「京流」とも呼ばれるもので、確かな資料はなく、そのような流儀が存在したかどうか疑わしいと、直木三十五氏はその書の中で述べている。以下にその部分を紹介。
「東方に於ける剣客の勃興に対し「京流」が西に現れているが、これの正体は甚だ怪しいものである。堀川鬼一より鞍馬の僧に伝え「京八流」とも称すというが、恐らくは、東の人々が、東方の剣法以外のものを総称して「京流」と云っていたのでは無かろうかと思われる。もし「京流」が一流儀の名なら、その流祖は多少とも伝えられていなくてはならぬ筈である。それに、京師にも一記録なく、ただ『甲陽軍鑑』『関八州古戦録』位に漠然として「京流」とのみ書かれているだけであるから、西の人々の使う剣法を総称して云った称号としておいていいと思う。」(直木三十五著『剣法夜話』)
「京八流 兵法家鬼一法眼(きいちほうげん)は堀川の人である、軍法弓馬剣術をことごとく人に教え、鞍馬の衆徒八人に伝えた、剣術に京の八流というのはこの鞍馬八人の衆徒が伝えた流儀である、源義経もその八人の弟子のうちの一人であるという、天狗に剣術を授かったというのは固より嘘である、このことは貝原益軒の知約という抄本のうちにある。(桂林漫録)」(中里介山著『日本武術神妙記』より)

心形刀流

心形刀流(しんぎょうとうりゅう)

伊庭是水軒秀明(常吟子)を流祖とする。初めは本心刀流と称した。
これは、「剣を抜いて敵と相対するとき、心中には敵を撃とうと思う心と、恐怖をおぼえて逃れようとする心が生ずる。この二つの矛盾する心のうち、どちらが本心かといえば、それは恐れて逃れようとする心であり、撃とうとする心はうわべのつけ元気に過ぎない。この偽らざる本心をありのままに認め、それを鍛えて、いかなる場合にもひるむことがないようにするのが本心刀の精神である」というにあった。しかし、本心を鍛えるためには、まず形をつくる(技を磨く)ことから始めねばならないことから、のちに流名を心形刀流としたと松浦静山はその著『剣攷』で述べている。
この流派の道統は伊庭家だが、伊庭家は実子の有無に関わらず剣の道において最もすぐれた者をその後継者としたことから、長く栄え、十代伊庭想太郎(明治四十年没)にまで至った。心形刀流の継承者は代々、常吟子・常備子のように常○子と号した。また、この心形刀流は比較的新しい流派であるが、文献が豊富で、その心術と技法がよく整備されている。これは肥前平戸城主であった常静子松浦静山の功績によるとされる。その静山は前掲の『剣攷』と『常静子剣談』の中で心形刀流の心と技を解説している。
剣技には、「切甲刀」「乱車刀」「獅子乱刀」など敵味方入乱れての戦場を想定した実戦本位のものが重視されるとともに、「鷹の羽」「三心刀」「無拍子」など、二天一流以外ではあまり見られない二刀使いの技法もかなり含まれていて、受けて立つ柳生新陰流とかなりの相違が見られる流派。
『心形刀流目録序』(常吟子筆)
「それ兵法は心の妙徳なり。故に修力実らざれば更に得難し。本、勝負無し。勝つを求めず、勝つこと自然なる者なり。譬えば立つときは則ち響有り。電光石火、明鏡の研鬼を現わすが如し。心休すれば自由なり。その味わい窮まり無し。言語文字の及ぶところの者にあらず。平生、直を以てこれを養い、克くこれを勉めよ。表刀の剣なり」
江戸番町に道場があった。
 

新当流

新当流(しんとうりゅう)

長巻(長太刀)の流派。穴沢主殿助盛秀を祖とする、長巻(長刀)・槍の術。徳川家康は若い頃、新当流の有馬満盛から長巻の秘伝を受けているという。「穴沢流」ともいう。 
 

片山流

片山流(かたやまりゅう)

片山久安が起したとされる流派。
 

願流

願流(がんりゅう)

常州鹿島の人、松林蝙也の興した剣の流派。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「松林蝙也」の項あり参照ください。
 
 

鞍馬流

鞍馬流(くらまりゅう) 

天正年間、大野将監を祖とする剣の流派。源義経から伝わると称していた。
 

穀蔵院一刀流

穀蔵院一刀流(こくぞういんいっとうりゅう)

前田慶次郎が自らの刀法に名付けた名。戦場往来の介者剣法。
 

正天狗流

正天狗流(せいてんぐりゅう)

池原五左衛門正重が起したとされる流派。
 
 

天流

天流(てんりゅう) 

斎藤伝鬼が開いた剣の流派。
中里介山氏の『日本武術神妙記』に「斎藤伝鬼」の項あり参照ください。
 

東軍流

東軍流(とうぐんりゅう)

流祖は川崎時盛で、時盛は「白雲山の天狗」から教えられたと称した。
 

二天一流

二天一流(にてんいちりゅう)

新免二刀流、武蔵流ともいう。宮本武蔵が考案した大小二刀を使う剣術。
 

武元流

武元流(ぶげんりゅう)

心地流皆伝の武田軍太が文政八年に起した剣の一流。
 

吉岡流

吉岡流(よしおかりゅう)

宮本武蔵と仕合をしたとされる吉岡憲法の流派。鬼一法眼の京八流の末ともいわれ、また神道流あるいは新当流の流れを汲むともいう。
『武芸流派大事典』によれば、吉岡直元が天文年中頃、足利十二代将軍義晴に仕えて軍功があった。その弟の直光(憲法)も足利将軍に兵法師範として仕え、今出川に住し、吉岡兵法所という道場を構えた。その子直賢(これも憲法といい、『剣法系図』では又三郎)は義昭に仕え、同じく兵法師範をしているが、この吉岡直賢が俗説で武蔵の父新免無二斎と試合をしたのは吉岡憲法ではないかとされている。
司馬遼太郎氏によれば、西洞院に兵法所を構える京流の吉岡家のことを京の庶民は親しんで、「けんぽうも家」と通称していた。「正直のけんぽう」とも呼ばれ、家号の憲法は、歴世、正直を家憲にしていたからともいい、兵法所を構える傍ら、明人李三官から教わった黒染色を工夫し、染屋を兼業していたという。吉岡直元を家祖とし、直光、直賢、直綱とつづき、当主はいずれも温厚で、一見、商人と見違えるほどだったと書いている。
さらに、武蔵が挑戦した吉岡憲法は吉岡源左衛門直綱で、慶長九年(1604)か十年頃とされ、「当時、徳川政権の成立早々のことでもあり、京都所司代板倉伊賀守の市政は手きびしく、いやしくも市中の騒擾をゆるさなかった。京の旧家である吉岡家は、私闘をすることを好まず、仕合のことを所司代にとどけ出た」。市中騒擾を恐れた伊賀守勝重は自分で検分することにして、仕合は所司代屋敷で行われた。伊賀守の検分では「相打ち」と決ったとある。
『吉岡伝』にある武蔵と憲法の戦いはこれだけで、『武蔵伝』にある「蓮台野の決闘」も「一乗寺下り松の決闘」も出て来ない。
吉岡兵法所は慶長十九年(1614)、禁裏で猿楽の催しがあった際、吉岡一門の清次郎重賢が錯乱して抜刀騒ぎを起したために閉鎖された。この事件で吉岡憲法は「自ら道場を閉じ、弟とともに縁者の三宿越前守長則のもとに身をよせて、しばらく京に帰らなかった。三年ののち京に帰ってからは、染屋を専業とし、晩年は兄弟とも円鑑禅師に帰依して禅に凝り、天寿を全うしている」と司馬氏は書いている。また、『吉岡伝』および『雍州府志』によると、大坂冬の陣が起った時、徳川幕府は所司代を通じて吉岡一門が大坂方に従軍しないように釘をさしたが、彼らは三宿越前守の招きに応じて大坂城に入ったという。敗戦後、京に戻ったが再び兵法を稼業とするのを恥じ、門人の李三官から黒染めの法を伝えられて染物業に転じ、財をなした。これを吉岡染め、兼房染め、憲法小紋などという。兄弟ともに天竜寺の大徳円鑑国師に参じ、兄は透関不住、弟は学宝宗才と号したとある。
 

六字流刀術

六字流刀術(ろくじりゅうとうじゅつ)

一橋如軒斎が創始したとされる柔術と刀術を混合した、実戦的な術。現在、六字流柔術として伝わっている。『吉原御免状』『かくれさと苦界行』の野村玄意がこの剣術を如軒斎から学んでいる。『青楼年暦考』には、「市橋恕軒、野村良意へ免許剣術の巻物を見るに六字流柔術トアリ」とある。
又、三田村信節の『嬉遊笑覧』には、「柔気一流の名人市橋如見斎」として、居合の項で述べている。
 

その他の流派 

【真心流】(しんしんりゅう)

【心地流】(しんちりゅう)

【薬師丸流】(やくしまるりゅう)