日本仏教の概説
仏教は紀元前五世紀の始めに仏陀釈迦牟尼が、人間の苦悩の解決法などを説いた教えで、多くの弟子や信者が集り、それぞれ修行や教えをより深く解釈するなど教理・哲学としての体系化が計られた。やがてこの仏陀の教えをインドの阿育王が帰依し保護したことからインド全土に拡がり、それが周辺諸国へも伝わり、世界宗教となる。
我国に仏教がもたらされた正確な時期は不明だが、五世紀後半、おそらく大陸との交流に伴って仏教も伝播されたと思われる。六世紀初めに百済の五経博士が渡来し、聖明王が大和の大王の元に仏像や経論をもたらしたことが直接の契機となり、近畿の首長たちに積極的な仏教の受入れがなされたといわれる。六世紀後半には大和政権は中央政権として歩み始め、首長の中の首長である大王(天皇)と有力首長の蘇我氏、物部氏らの連合政権が確立。しかし、仏教を積極的に受け入れようとする厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我氏と消極派の物部氏が争い、積極派が勝利した事で仏教は我国の護国宗教となり、大和政権の影響力の及ぶ地に官大寺(国分寺・国分尼寺)が建立された。
こうして八世紀に入ると大和には国家鎮護、諸国安寧、氏族繁栄のための仏典・教義等の研究機関として多くの寺院が建立される。これらの寺院が後、南都七大寺とよばれる寺院となり、この時にもたらされた仏典に応じた研究・学問がそれぞれの寺院でなされ、やがてそれらは南都六宗と呼ばれる教学の寺院となり多くの学僧を輩出し、中央・地方政府へ政治・外交の人材を供給した。
【南都六宗】
【南都六宗】(なんとろくしゅう)
八世紀に官大寺などで研究されていた三論宗・法相宗・倶舎宗・成実宗・華厳宗・律宗の六宗をいう。当初、華厳宗を除く五宗が先に確立されていて、それぞれの教義を学ぶ僧徒を衆と呼んでいたことが『続日本記』等の文献から窺え、東大寺の大仏殿建立時には六宗が確立され、その時期に衆を宗と改めたといわれる。宗にはその宗に属する衆僧を指導する大学頭・小学頭、そして事務を掌る維那の三役が置かれていた。これら六宗は主に教義・仏典の研究や学問としての性格が強く、東大寺や大安寺・薬師寺など六宗兼学に見られるような総合大学、あるいは三論と成実、法相と倶舎など年分度者の割当てに応じた教義の兼学が一般的であった。このため、後の民衆仏教にみられるような宗派ごとの教団を形成する事はなかった。
【三論宗】(さんろんしゅう)
中国十三宗、日本八宗の一つ。中観論、百論、十二門論の三論を所依とした無所得空の法門。インドでは竜樹・堤婆を祖とし、中国の晋代に鳩摩羅什(くまらじゅう)が将来し、随の吉蔵に至って大成した。日本では推古三十三年(625)、吉蔵の弟子高麗の慧灌が渡来してこれを広めたが、後に慧灌の弟子智蔵および智蔵の弟子東大寺の道慈が入唐してその旨を究め、養老元年(717)宗名を立てた。
【法相宗(唯識宗)】(ほっそうしゅう)
中国十三宗、日本八宗の一つ。「解深密教(げしんみっきょう)」「成唯識論」などを典拠とし、萬法唯識心外無境を唱え、万有は唯識の変化であり阿頼耶識以外に何物も存在しないと説く。唐の窺基を祖とし、わが国では白雉三年(653)に道昭が入唐して玄奘(げんじょう)に受けたのを第一伝とする。南都興福寺・薬師寺を大本山とする宗門。
【倶舎宗(昆曇宗)】(ぐしゃしゅう)
日本八宗の一つ。世観の倶舎論による小乗教。一切諸法を五位七十五法に分け、その本性を究め、四諦の理を観じて阿羅漢果を証し無余涅槃(むよねはん)に入る事を主旨とする。中国では真諦・玄奘・普光らによって研究され、わが国では白雉三年(653)道昭・智通・智達が玄奘の新訳した倶舎論を伝えたのに始まり、玄舫(げんぼう)らが盛んに研究した。奈良時代に至って法相宗に付され、南都七大寺、その他諸宗に通じ、仏教の初門として学習されたが、一宗として独立するには至らなかった。
【倶舎論】(ぐしゃろん) 四世紀頃のインドの世観の著。玄奘の漢訳が有り、小乗仏教の教理の集大成である大昆婆沙論の綱要書。有漏無漏・無我などについて述べている。
【成実宗】(じょうじつしゅう)
中国十三宗、日本八宗の一つ。成実論を所依とする宗派。412年、鳩摩羅什が漢訳し弟子の僧叡がこれを講じた事から起り、唐初まで隆盛を極めた。わが国では三論宗とともに伝わり、白雉四年(654)道慈らが勅命により入唐し、玄奘三蔵より伝授され帰朝して伝えた。奈良時代に三論宗に付され、その兼学で学ぶだけとなり独立した宗門に至らなかった。
【成実論】(じょうじつろん)
インドの訶梨跋摩(かりばつま)の著。二十巻または十六巻からなり、鳩摩羅什の漢訳が有り、四諦真実の正理を顕し、我法二空の義を成立すること、すなわち一切皆空と観ずる事によって涅槃に到達すると説く。
【律宗】(りつしゅう)
中国十三宗、日本八宗の一つ。随・唐の時代に智首・道宣らにより曇无徳(どんむとく)の四分律を所依として起る。戒律の実践・躬行を成仏の因とする宗派。日本では唐の高僧鑑真を開祖とする。鑑真は唐の嗣聖五年(688)、楊州江陽県(江蘇省)で生まれた。神竜元年(705)に道岸禅師より菩薩戒を受け、二十一歳の時に長安実際寺の戒壇で荊州南泉寺の名僧弘景を戒和上として具足戒を受けた。その後長安・洛陽を巡遊して律・天台宗はもちろん諸宗を研鑽し、戒律の講座を開くこと百三十回、授戒の弟子は四万余人、一切経を書写すること三部、古寺修復は八十余カ寺に達し、諸州屈指の伝戒師と称せられた。
一方、わが国では、平城遷都後、仏教の隆盛にともない私度僧が郡出し、僧尼令に違犯する僧尼が多くなり、天平五年(733)遣唐使多治比広成に従って入唐した僧栄叡・普照らが舎人親王の要請で伝戒師の招請にあたった。この要請に応じたのがインド僧菩提仙那や落陽大福先寺の学僧道■(セン)といわれる。さらに栄叡・普照らは楊州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願。その要請に応へた鑑真らの渡航は五回試みられるが、妨害や難破で失敗に帰し、天平勝宝二年(750)には栄叡が病没、鑑真も視力を失い補佐役の祥彦も病没する非運に見舞われる。しかし、なお伝法の志を捨てない鑑真は、同四年に入唐した遣唐船の遣唐副使大伴古麻呂の第二船に乗って翌五年薩摩国秋妻屋浦(鹿児島県川辺郡坊津町秋目)に入港した。翌六年二月、弟子法進・曇鸞・義静・思託らに随伴されて平城京に入り、東大寺客坊に止住する。この間当時の高官・高僧は再三に渡ってその労をねぎらい、勅使吉備真備は「自今以後、授戒伝律はもはら大和尚に任す」という孝謙女帝の意向をつたえたという。
その後、大仏殿前に臨設の戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后はじめ沙弥証修四百四十余人に受戒し、後日には学僧八十余人に具足戒を受け、その翌年大仏殿西方に常設の戒壇院を造り、唐禅院に止住して戒律の普及に尽力する。翌八年の聖武上皇の病にあたっては看病禅師の一人として医療に従い大僧都に任ぜられた。
天平宝字元年(757)十一月、備前国水田百町を賜り、故新田部親王の旧宅地、平城右京五条二坊の故地を下賜され伽藍の建立がなされ、同三年伽藍が完成し唐招提寺と名付けられた。それより前、朝廷は鑑真の身をいたわり大僧都の任を解き、大和上の尊号を贈る。しかし鑑真はそれから五年後の同七年五月、唐招提寺で入寂。その後、一時衰えるが覚盛・俊仍らにより再興された。
【華厳宗】(けごんしゅう)
華厳経を所依とし、事々無礙を旨として建てた宗派。インドでは竜樹.世観を祖とし、中国では隋の杜順・唐の賢首により大成された。わが国では天平八年(736)、唐の道■(セン)がこれを伝えて以来、審祥・良弁らにより東大寺を中心に研究され、鎌倉時代に凝然・高弁らが中興し、現在では東大寺が総本山となっている。
【華厳経】(けごんきょう)
東晋の仏駄跋陀羅訳(旧訳華厳経、六十巻)、唐の実叉難陀訳(新訳華厳経、八十巻)、唐の般若訳(四十巻)が有る。全世界を昆廬遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開している。大方広仏華厳経。
【天台宗】
【天台宗】(てんだいしゅう)
中国十三宗・日本八宗の一で、中国・朝鮮・日本を通じての代表的な一宗とされる。中国天台山で智者大師智覬が創立した教学体系で、日本では最澄が比叡山に開創して以来平安仏教の中枢となり、日本の文化に多大な影響を及ぼした。天台大師智覬は慧思のもとで禅観を修し、実修すべき仏教を法華精神に基づいて五時八教に体系づけ、蔵・通・別・円の四教と空・仮・中三観の教義により十界互具・一念三千の思想を導き出し、天台思想を創始したとされる。我国では延暦四年(785)、東大寺で受戒した最澄が比叡山に籠って天台教学を志し、同二十三年入唐して天台法門を伝承したことに始まる。最澄は天台山湛然門下の道遂と行満から天台法華の法門と菩薩戒、順暁から密教、脩然から牛頭の禅要を伝承、叡山の天台宗の基とした。
やがて大乗戒の戒壇を設けるために朝廷へ請願を試みた最澄だったが、南都僧綱らの反対で中々実現しなかった。最澄滅後の弘仁十三年(822)ようやく勅許され延暦寺が創建された。この最澄の門下には師の遺志を受継ぐ人材が多く、最澄滅後一山を統率し『天台法華宗義集』を著した義真、第二世天台座主に任ぜられた円澄、延暦寺別当となり師の行業を編した光定、師の伝記『叡山大師伝』を著した一乗忠(仁忠)などが知られ、入唐して師の不十分な密教を補修し伝承した第三世座主円仁、密教の一大円教論を伝来し第四世座主になる円珍ら代表的な門下が最澄の遺詼「我が志を述べよ」を遂行した。また、円仁門下の安然は化法四教と台密を五教論に組織づけて大成し、相応は回峰行を創始するなどの業績を残している。この間の充実した教学で天台教線は地方に延び、各地の大寺が天台別院となった。その後、一時その勢は衰えるも円仁法流の良源座主が承平五年(935)、焼亡した叡山諸堂を復興し、横川に堂舎を開き三塔を確立、論義を始めとした教学を勧め、二十六条式を制して僧団を刷新するなど叡山の中興を行った。その門下は三千とも称され、源信・覚運・覚超・皇慶の四哲と呼ばれる人々を出している。源信が恵心僧都と通称され叡山浄土教を確立し恵心流と称される門流を生み、覚運が法華思想を宣布しその法系を檀那流とし、横川の覚超は密教に秀でその法脈を川ノ流といい、東塔南谷の皇慶の密教法系を谷ノ流とされ、これら四哲の法流はのちに恵壇八流・台密十三流を生んだ。
一方、円珍法流にも千観や余慶、その門下の慶祚・勝算らの偉才を輩出、中でも余慶は良源と並び称され、永祚元年(989)天台座主に補任されている。しかし、この補任で円仁系の僧徒が反抗、正暦四年(993)ついに円珍派の僧徒らは比叡山を追われ三井寺に移り、この山門対寺門の抗争はのちまで続くこととなった。白河天皇に信任された寺門派の頼豪は、三井寺に戒壇建立を奏したが山門の妨害でかなわず憤死したとも伝えられている。
また、円仁が五台山から伝えた念仏は四種三昧のうちの常行三昧に位置づけられ、良源の『九品往生義』や源信の『往生要集』による叡山の弥陀信仰は、空也・良忍・永覚らを通じて民間に普及され、法華信仰と念仏往生の調和を生み、良忍、叡空から円頓戒と『往生要集』を相伝した法然房源空、その門流の隆寛・辨長・証空・聖覚・源智・親鸞、さらには一遍ら念仏の学僧は皆叡山で学んでいる。同じく鎌倉仏教を成立させた栄西・栄朝・道元・日蓮も叡山で学んだ。一方最澄が比叡山の守護神を山王と称して以来、神は仏の化現として国を守る本地垂迹思想を展開し、鎌倉時代には山王一実神道として真言宗の両部神道とともに大成する。また、回峰行や修験道と影響しあい記家成仏・声明成仏思想も生じ、円珍が熊野三山で修練したと伝える遺風により、門流の増命・余慶らが入峰練行を行い、増誉・行尊らによって寺門系の本山派修験道の基礎がかためられ、白山・日光山・羽黒山・大山など各地の修験が栄え民間に浸透することとなる。
元亀二年(1571)、延暦寺は織田信長によって焼き討ちされ全滅するが豊臣秀吉、徳川家康によって再建され、教学や法義は地方学山、特に尊舜・尊海・定珍らによって発展した関東天台によって再興された。中でも天海は仙波喜多院など関東の学山に住し、日光山を領して徳川家康を東照宮大権現となし東叡山寛永寺を創し、親王を迎えて輪王寺門跡とし、歴代皇族がこれに任じ管領宮として天台座主をもかね、明治維新まで全仏教を統轄し天台宗の中心は関東に移った。
【千日回峯行】(せんにちかいほうぎょう)
比叡山第三代天台座主円仁(慈覚大師、794〜864)が入唐し五台山で修行して帰国したことにより、山岳の抖數に関心をもったことから、その弟子相応によって千日回峯行が始められた。
相応の創始した回峯行は、堂舎、木石すべてが仏身とされる比叡山の霊地を七年間のべ一千日回峯する修行。その内容は、初年度から三年間は毎日百日間毎夜30キロ、四年目、五年目は同じ距離を百日間歩く。こうして七百日の回峯を終えると、七日間無動寺谷の明王院に籠って、断食・断水・不眠・不休・不臥で毎日十万遍の真言を唱える堂入を行う。次の六年目は百日間にわたって毎夜60キロ、七年目の最後の年は二百日間毎日約60キロの「京都大廻り」を行う。その後、九日間にわたって再び無動寺に籠り断食のうえで七百座の護摩をたき終了する。こうして回峯行が終え当行満阿闍梨になると、土足で宮中に参内して玉体加持をする。
【真言宗】
【真言宗】(しんごんしゅう)
日本仏教八宗の一つ。真言陀羅尼を重視することから真言陀羅尼宗、顕密教判上から密宗、または台密に対して東密ともいう。開祖は弘法大師空海。教王を大日如来とし、所依の経典は『大日経』と『金剛頂経』の両部大経のほか『蘇悉地経』『瑜祇経』『略出経』があり、合わせて五部の秘経という。律では『蘇婆子童子経』、論では『釈摩訶衍論』『菩提心論』を持って所依の三蔵としている。
密教は大乗仏教の流れの一つで、六・七世紀の間に整備され八世紀に体系化され、中国に伝わった。空海は延暦二十三年(804)入唐し、翌年恵果から付法を受けて密教の正嫡となった。密教の正統を示す潅頂の血脈として大日如来・金剛薩垂・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・空海を付法の八祖といい、密教を護持流伝した竜猛・竜智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海を伝持の八祖という。真言宗が宗としての独立を公認された時期には空海の主著『十往心論』が成立した天長七年(830)などさまざまあり一定しないが、最澄はすでに弘仁二年(811)の書状に秘密宗と書いていたが、同四年には真言宗と記していた。空海時代の真言宗は高雄山寺・高野山金剛峯寺・東寺を中心として形成されたが、空海は金剛峯寺・東寺が未完のまま生涯を高野山で終える。
承和三年(836)、山城額安寺をはじめとする真言別院が各地に設置され、翌四年には真言宗諸国講読師選任の勅許を得て本末体制の基礎ができた。空海の直弟子時代は東寺(実恵)・貞観寺(真雅)・神護寺(真済)・安祥寺(恵運)・海印寺(道雄)・修禅寺(呆隣)・禅林寺(真紹)・金剛峯寺(真然)などが、それぞれ檀越を擁して独立寺院化したため宗としての組織的発展が無かった。特に真然は極端な高野山中心主義をとったため、東寺・神護寺との間に年分度者の設置や『三十帖策子』の帰属をめぐる紛争を引き起こした。この紛争で策子を東寺に取り戻した東寺長者観賢は、東寺中心の真言宗本末体制を確立し、金剛峯寺・神護寺・禅林寺・醍醐寺などを東寺の末寺に組織化する。一方、『東大寺要録』によれば、東大寺末寺として石山寺・長谷寺・東寺・海印寺・仁和寺・醍醐寺・勧修寺・金剛峯寺などが挙げられている。これは空海が東大寺で具足戒を受け、のちに真言院を建立したことと、真言宗僧の東大寺別当就任で東大寺が真言化したことによるとされ、真言宗僧侶の本貫は東大寺真言宗が圧倒的に多かったと言われている。
真言宗の本寺となった東寺は代々貴族出身の僧が長者を独占した一種の事務所であったとされ、これに対し弘法大師諡号以後、大師入定信仰とともに信仰上の中心は高野山が占めることとなった。
昌泰二年(899)宇多上皇が益信について落飾、延喜元年東寺で両部の潅頂を受けると、仁和寺は法親王を中心とした皇族出身者が相つぎ御室と称して貴族化し、一方聖宝は小野の醍醐寺に拠って山岳信仰を吸収して二大潮流の基を形成、広沢遍照寺の寛朝、小野曼荼羅寺の仁海が出るにおよんで、小野流と広沢流のいわゆる野沢(やたく)二流が生れた。この根本二流は師伝の相異に基づきそれぞれ六派に分れ、野沢根本十二流を形成する。広沢六流とは仁和御流・西院流・保寿院流・華厳院流・忍辱山流・伝法院流をいい、小野六流は安祥寺流・勧修寺流・随心院流の小野三流と三宝院流・理性院流・金剛王院流の醍醐三流をいう。中でも伝法院流は流祖を覚鑁とし新義真言宗の本流となった。さらには高野山の明算は小野流から分れ中院流を創設するなど、鎌倉時代には三十六流、室町時代になると七十余流となるなど事相上の分派が生まれている。しかしこれらは教団上の派閥までにはならず、実際には古義真言宗・新義真言宗、そして東寺派、叡尊の起した真言律宗に大別される。
新義真言宗は、院政期に覚鑁が高野山に金剛峯寺末寺大伝法院を開き、座主職を東寺長者より奪い返し東寺からの独立を企てるが失脚し、根来寺に退いたことから始まる。実質的に新義として確立したのは秀吉の根来寺征伐後、天正十五年(1587)長谷寺に入った専誉、慶長五年(1600)洛東に智積院を開いた玄宥の時代で、両寺を本山とする専誉の智山派、玄宥の豊山派が生じた。以後、古義は関西に多く、新義は関東に多いとされる。
【修験道】
【修験道】(しゅげんどう)
わが国古来の原始的宗教ともいえる民俗信仰として山岳信仰(山の神への畏怖と崇拝)があり、それらに呪術や巫術などのシャーマニズム、大陸から渡来し仙境・仙人などの概念をもたらした道教が複合し、飛鳥時代には仙境と称された吉野・熊野や葛城山に籠り仙人に成ろうとする行者が現れている。これらの者のなかでもっとも知られたのが役小角(役行者)で、後に小角は修験道の祖とされる。平安時代に天台、真言両宗により密教がもたらされたことから、それらの教義によって修験道として確立。こうしてわが国独自の宗教的活動としてスタートした修験道は、その成立過程で密教の修行とされる籠山や回峰行などの山岳仏教と習合した。
修験の霊場あるいは道場としては熊野三山を拠点とする熊野修験、さらに弥勒下生の地とされた金峰山を拠点とした修験が最も盛んで、そのどちらも大峰山の峰入を修行の場としていた。
○聖護院、三宝院は、峰入といひて、大峰山にのぼり給ふことあり。役行者の跡をしたひ物せさせ給ふよし也。熊野より大峰をへて吉野に出るを、順峰入といひ、よし野より大峰をへて熊野に出るを、逆峰入といへり。春山と秋山とにて、順逆の差別をするは、ひがごと也。(『橘窓自語』)
この外、羽黒山、日光、彦山などにも修験が起り、役小角の修行の地葛城山、北アルプスの雄峰立山、伯耆大山、富士山、筑波山、戸隠山など全国の主な山がその対象となっている。
これらの事から、室町期になると修験道は台密系の聖護院を本山とする本山派と、東密系の醍醐寺三宝院を本山とする当山派の二大潮流が生まれ、江戸期には全国の修験道が幕府の宗教政策により、この二派に組み入れられる。
【本山派】(ほんざんは)
修験道の世界では、熊野と金峰の修験が最も盛んで、それらの修験道が全国に影響を与え、勢力を伸ばしていた。しかし、戦国期になると熊野三山の影響力が衰え、それまで三山の検校とはいえ名目だけの存在だった聖護院門跡は、衰勢の挽回のため自ら修行を行う。特に第二十三代熊野検校になった道興は、那智籠のうえで西国・東国を巡錫し、熊野先達を直接聖護院の配下にしていった。さらに京都東山に勧請されていた熊野若王子社を別当とし、乗々院を熊野三山奉行にするなど、全国の熊野社・修験を傘下におさめ本山派を形成した。本山派では各地の熊野先達を年行事に補任して、それまで先達・配札・祈祷などをしていた地域を霞として認め、その活動を安堵し、その上前を取る形で掌握・支配した。
【当山派】(とうざんは)
内山永久寺、法隆寺、三輪山、松尾寺など大和の諸大寺に依拠した修験は、吉野から峰入して熊野まで抖數(とそう:正しくは手篇)した。彼らは大峰山中の小笹に拠点を置いて、当山正大先達衆と呼ばれる結衆をつくりあげていた。最盛期には三十六余の寺院から正大先達が出ていたことから、当山三十六正大先達衆とも呼ばれたこれらの正大先達は、回国を旨とし、各自が全国各地に個人的に弟子をつくったことから、その支配を袈裟筋支配と呼んだ。これら当山正大先達衆は、醍醐寺を開いた聖宝を大峰山の峰入を再興した修験者として崇めていたことから、慶長年間(1596〜1615)頃から醍醐寺三宝院を本寺として当山派と呼ぶ教派を結成した。
【先達】(せんだつ)
山伏の功労者で、峯入りのとき等に、同行者の案内・指導をする者。
【浄土教】
【浄土教】(じょうどきょう)
浄土とは仏・菩薩の住する清浄な国土の意味で、阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿しゅく仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、弥勒菩薩の兜率天、観音菩薩の補陀落山など種類は多いが、中国・日本において浄土という場合には一般に阿弥陀仏の極楽浄土を指す。このことから、阿弥陀仏の本願を信じ極楽浄土に往生し、そこで悟りを得ようとする教えとその実践を浄土教と称するようになった。浄土教では『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』を根本経典とし、これを浄土三部経と称している。
インドにおいて最も早く浄土教を説いたのは大乗仏教の組織者とされる竜樹で、往生浄土の実践方法として礼拝門・讃歎門・作願門・観察門・廻向門の五念門を説いた。二世紀半ばから五世紀にかけて中国で浄土三部経が訳出されると、魯山の慧遠などが念仏三昧の法を広め浄土教が興隆する。やがて北魏の時代に曇鸞が現れ、菩提流支から『観無量寿経』を授って浄土教を深く学び浄土五祖の初祖と称され、第二祖の道綽などによって中国の浄土教が大成された。
我国では、円仁が嘉祥元年(848)叡山に常行三昧堂を建て、不断念仏を行った天台浄土教が始まりとされる。これに教学として理論づけを行ったのが良源で、彼はその著『極楽浄土九品往生義』のなかで、『観無量寿経』の天台教学による解釈を試みた。ついで門弟の源信が『往生要集』を著わし観相念仏の教学体系を確立、同門の覚運が『念仏宝号』を著わし法華・浄土・密教の三教融合を試みている。この天台浄土教にややおくれて、南都三論宗に永観が出て『往生拾因』を著わし口称念仏を強調する。やがて鎌倉時代に入り、善導の『観経疏』に啓発された源空が天台浄土教の殻から脱して阿弥陀仏の本願を無条件に信じて念仏を修する専修念仏宗を開宗し、『選択本願念仏集』を著わして教理体系を確立する。門下の親鸞はさらに本願の信を深め諸仏等同の体験を得て『教行信証』や種々の和讃で浄土宗の真を説く。これら源空や親鸞の念仏は、阿弥陀仏の本願の信に基づくものであったが、時宗を開いた一遍の念仏思想は天台浄土教の本覚思想と禅宗の混合した熊野権現の神勅を基盤としていた。
【浄土宗(念仏宗)】(じょうどしゅう)
阿弥陀仏の本願を信じ、その仏の名号を称えることによって、すべての人が極楽浄土に往生することができるとする宗派。宗祖は法然房源空。総本山は京都市東山区知恩院。安元元年(1175)、比叡山で修行していた源空が、善導の『観無量寿経疏』を読み専修念仏に帰一したとされる。源空の教えは当時の社会に大きな影響を与え、念仏支持者の増加に伴い旧仏教の諸宗からは白眼視さた。やがて弾圧は厳しくなり念仏の停止問題までに発展し、源空以下親鸞らの門下は流罪に処せられる。しかし、このことがかえって武士や農民の間に多くの支持者を得る事となった。
源空没後は、門下の長老法蓮房信空が後継者となり教団の統制をはかり、長楽寺義の祖隆寛が源空の主張を貫き専修念仏を強調して論難に対抗するが、再び法難に遭い、源空の廟は破壊され、隆寛は陸奥に配流となる。それから智慶・幸西・長西・源智など各自が後継者であるという自負をもち分裂し、教団は組織的にも教義的にも不統一時代を迎える。
その後、鎮西義の祖と言われる辧長、そしてその弟子良忠が現れ鎮西派が浄土宗の本流となって教義の統一に向った。しかし、知恩院と知恩寺の本家争いなど、依然教団的には不統一の時代が続いた。この散在した教団を統合したのが徳川家康の力を背景にした源誉存応で、存応は檀林制度を作り、元和法度(浄土宗諸法度)にもとづいて本末制度を確立し、有機的な教団を作りあげたとされる。
【浄土真宗(門徒宗)】(じょうどしんしゅう)
親鸞を開祖とする浄土教の一宗派。親鸞は法然房源空のもとで建仁元年(1202)自力聖道教を脱却し他力浄土教に帰依した。以来源空によって明示された専修念仏を聞信し、みずから一宗を開く意図はなかったが、浄土真宗という呼称は親鸞が源空の樹立した宗旨に「智慧光のちからより、本師源空あらはれて、浄土真宗ひらきつゝ、選択本願のべたまふ」と『高僧和讃』の中で述べた言葉からきている。しかし、浄土真宗という宗派名が正式に認められたのは明治に入ってからのことで、それまでは「門徒宗」「一向宗」などと呼ばれていた。
親鸞は自身の宗教的立場を主著『教行信証』に示し、阿弥陀仏の本願を信ずることによって救われると強調した。そして「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と『歎異抄』の中で述べ、悪人こそ阿弥陀仏の救いの主対象であるといった。この悪人という言葉の解釈を後世さまざまに試み武士や商人、あるいは殺生を生業とする猟師や漁師に求める傾向にあったが、親鸞は「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』)と自らを清浄心なき悪人と規定し、さらに「よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』)と、現実世界のあらゆる存在・行為はすべて虚仮であるという立場をとっている。
しかし当初親鸞は「弟子一人ももたずさふらふ」と師匠と弟子の関係を否定し、「弥陀の御催しにあづかりて、念仏申し候人を、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり」といって、ともに念仏をとなえるものは同行同朋であると称し、師弟上下関係による教団形成には否定的であったとされる。しかし、晩年にその後継者となる息男善鸞が教えに背き東国教団を混乱に導くと、親鸞はこれを契機に、念仏者は正法を守るために連帯を強化するよう提唱する。以来正統信仰の保持と他教団からの批難への対応などから次第に教団体制を整えていく。
佐渡流謫から赦免された親鸞はその後関東を中心に伝道活動に入り、関東・東国に多くの門弟を持つこととなった。やがて親鸞が京都に帰ると、有力門徒を中心に結集し、その所在地の名をつけた集団名で呼ばれるようになる。これらの門徒集団の中で、最も知られた集団が下野国高田の真仏・顕智らを中心とする高田門徒だろう。親鸞没後、東国の門徒集団は親鸞の末娘覚信尼とともに京都東山に墓所を置き大谷廟堂を造営した。この廟堂の第三代留守職覚如は、廟堂を本願寺と称して寺院化し、ここを中心として教団の統轄を図る。しかし、各地の門徒衆は覚如の企図に反対し、それぞれ独自の法脈を立て自立的教団の色彩を強くする。これら分立した教団が統一されるのは第八世蓮如の時代で、本願寺を中心とした教線が全国に拡がり各地の門徒を吸収するとともに、他の念仏衆(主に時宗・一向宗の念仏信奉者)をも取込んでゆく。この教線拡大期に、一向俊聖の起した一向宗の名が本願寺門徒衆の名として通称されるようになったと思われる。
【時宗(時衆)】(じしゅう)
浄土教系の一宗派で、古くは時衆と書き遊行宗ともいわれる。宗祖は一遍智真。文永八年(1271)信濃国善光寺に参籠して、心を一にして阿弥陀仏を念ずれば浄土に往生できるという浄土信仰上の比喩「二河白道」を感得し、それを図に現したものを本尊として、帰国後窪寺の山中の庵室に安置し三年間の念仏三昧に入る。その結果、衆生を救済しようとして成道した弥陀の正覚も、極楽浄土を願う衆生の一念も差別はなく、名号にすがる一念によって衆生は弥陀の浄土に生まれ変り、弥陀とともに同じ蓮の台に坐することができるという信念(十一不二偈)を得る。熊野権現の証誠殿に赴き託宣を乞い、この正しい事の神託を神の口から直接受けたとされ、この年(文永十一年)を開宗の年とした。その後、一遍は北は奥州江刺(岩手県北上市)から南は大隅国(鹿児島県)までの各地を遊行し、正応二年(1289)兵庫の観音堂で没した。
時衆は遊行と躍り念仏・賦算(札くばり)をもって宗教的行儀とし、これを布教の手段としていたが、十分な教義を持っていなかったため、一遍の死後その門下の聖戒、仙阿、真教らは帰郷したり籠山するなどバラバラになり、一時教団は壊滅する。
丹生山に入って死を待っていた真教に、淡河の領主淡河時俊の勧めと衆徒らに推され知識となり、一遍の法燈をついで教団を再編、十六年間の遊行を経て相模国当麻(神奈川県相模原市)の無量光寺に独住した。これが契機となり各地に道場が設けられ、真教在世時に百か所に及び、後をつだ智得、その弟子真光らによって教義の確立を図り、法弟呑海が藤沢に清浄光寺を建立するにおよび、鎌倉から室町時代前期には賦算を通じて民衆に浸透し飛躍的な発展をとげた。おそらく僧体の芸能民的要素の強い躍り念仏などのパフォーマンスで、民衆の心をつかみ急速に拡まったのだろう。こうした芸能的要素のために堕落するのも早く、社会が混乱し疲弊する戦国期には真の救済を求める民衆の支持を失い、代りに蓮如らの門徒宗に多くは取込まれてゆく。一方、武士にも浸透した時衆は、陣僧として武将に従い戦陣に臨み戦死者を弔ったり、最期の十念を授ける役割を担ったとされる。また、陣中での無聊をなぐさめるため早歌や連歌を指導したり、茶をたて、花を生けて心のおちつきを教える僧も現れる。こうした僧の中から一芸に秀でた観阿弥のような僧も現れ、やがて彼等は大名の同朋衆となり、茶坊主として抱えられていった。
時宗教団の主流は、清浄光寺を本山とする遊行上人だが、同じく時衆を名乗ったが法系を異にする一向俊聖を祖とする法流もあった。蓮如の指摘では近江国番場(滋賀県坂田郡米原町)の蓮華寺を本山とする一向衆と呼ばれる衆徒がいたとされている。この外、天童仏向寺を本山とする天童派、海老島新善光寺を本山とする解意派などが一向俊聖の流れを汲んだ。この一向俊聖は浄土宗三祖長忠の弟子で、門徒を時衆と呼び踊念仏を併せ修していたため、一遍の時衆と混同される事が多かったといわれる。
こうして一時は民衆宗教として他の宗派を圧倒し、全国に数千もの道場を持つ時衆だったが、その大衆性ゆえの堕落と、教線を武家に移した事で衰退に向い、江戸時代初期にはおよそ八百ばかりにその数を減らした。しかし、武家に重宝がられた事から幕府と大名の保護と統制の下、伝馬御朱印を与えられ、遊行回国の上人とし念仏札をはじめ大黒・愛染・天神・除病・矢除などの護符を与えながら、後世の往生と現世の利益を保証する遊行僧として存続していった。江戸時代のこの宗教統制の時に、宗派の名も時衆から時宗に改まったとされる。また、時宗の僧は一日を六時に分けて修行していた事から、六時宗ともいわれる。
【法華宗】
【日蓮宗(法華宗)】(にちれんしゅう)
鎌倉時代、日蓮を開祖とする宗派で、日蓮の教えを継承、実践してきた宗派の総称。日蓮は貞応元年(1222)に安房国の荘官クラスの土豪の子として生まれた。十歳を過ぎた頃、近傍の東北荘にあった天台寺院清澄寺に入り嘉禎三年(1237)ごろ出家得度。房号を是聖房といい、僧名ははじめ蓮長と名乗り、後日蓮と改めたと伝えられる。遠国安房に就学の師なしとした日蓮は、延応元年(1239)のころに鎌倉、さらに京畿に留学。その留学の中心地となった比叡山延暦寺で、『涅槃経』の「法に依れ、人に依らざれ」の教えに触れた日蓮は、『法華経』をよるべき法=経典とする法華至上主義に到達、その過程で反浄土教の立場に立った。
建長四年(1252)ころに清澄寺に戻り、翌年法華信仰弘通(ぐずう)を開始し、この年を教団では立教開宗の年としている。しかし、その反浄土教の教義による浄土宗門徒らの反発や、地頭東条景信の不正を糾弾するなどの行動により在地権力者から排斥され、村を出て鎌倉に赴き教えを広めることとなる。ちょうどこの頃に地震や台風、大雨などの災害が頻発し、飢饉を伴って世上も不安定となっていた事から、日蓮はこれらの災禍の原因は邪教である法然浄土教に人々が帰依し、法華信仰を捨てたためだとして『守護国家論』や『立正安国論』を著し、法華への信仰を取り戻さなければ「内乱」や「他国の侵略」が起こると浄土教徒への布施禁止と法華信仰への回帰を訴える。こうした行動から浄土宗門徒との争いが起こり日蓮は幕府に捕えられ伊豆へ配流となった。
赦免され再び鎌倉に戻る頃、蒙古のフビライ・カーンから服属するか交戦するかの選択をせまる国書が幕府にもたらされた。この事で日蓮は自らの予言の正しい事を実証したと自負し、仏のことばの体現者としての自覚を強め、より急進的な法華択一の立場に立ち、浄土・禅・律の諸宗を批判。信奉者の言動も先鋭化していった。こうした中で、いよいよ蒙古の襲来が現実化し、対応にせまられた幕府は、治安の安定のため悪党と称される反権力の者たちへの取締りを厳しくし、日蓮らも悪党として捕えられた。この時、日蓮は斬首を宣告されたが寸前に死罪を免れ、佐渡へ配流される。やがて赦され鎌倉にもどり、執権北条時宗の被官平頼綱と会見し真言密教の重用を止めるように求めるが受け入れられず漂泊の旅に出る。晩年は甲斐国身延山に住し弘安五年(1282)当地で没した。日蓮は没する直前、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持を本弟子(六老僧)に指名。このうち日昭・日朗・日興・日向がそれぞれ門流を起し、後にもいくつかの門流が形成されることとなる。
各門流は主に東国に教線を伸長させるが、公家・武家への奏上、王城弘通の企ても持ち、京都に拠点を据えた門流が形成され、公武への接近とともに町衆や洛外の農民を門徒化し、彼等の資金で多くの寺院が建設される。戦国時代に入ると、町衆を中心とする法華門徒衆は自営のための一揆を組織。こうした動きに危機感を抱いた他宗は天文五年(1536)延暦寺を中心に結集し、戦国大名の協力を得て武力で攻撃(天文法華の乱)、洛中の法華宗諸寺は堺に逃れた。
しかし、法華門徒らの根幹をなす折伏による弘通や不受不施は、時の為政者となる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らに拒否される。他宗派との争いも絶えず、宗論対決を行うが常に敗論となって処罰された。
【禅宗】
【禅宗】(ぜんしゅう)
座禅宗の略で、教宗に対して禅宗という。また、達磨を開祖としている事から達磨宗といい、仏の心印を伝える宗旨という意味で仏心宗ともいう。中国仏教十三宗、日本仏教十三宗の一つ。
中国で、古くは坐禅をもっぱらにする人々の系統を一般に禅宗と呼んだことから、当初は達磨宗だけでなく天台宗・三論宗の系統も含まれていたが、中唐から宋の時代にかけて達磨系の禅宗がもっとも栄えたため、達磨宗だけを禅宗と称するようになったといわれる。
日本における禅の流伝は、伝説で孝徳天皇白雉四年(653)に入唐した元興寺道昭が二祖慧可の法孫慧満から禅法を伝えられ、元興寺東南隅に禅院を建てたのを初伝としている。ついで神秀の弟子普寂の門人道■(セン)が来朝して北宋禅を伝え、延暦二十三年(804)最澄が入唐して脩然から四祖道信の傍系である牛頭禅を受け、さらに嵯峨天皇の橘皇后の招聘で、慧能の流れを汲む馬祖下の斉安の弟子義空が来朝して南宗禅を伝えた。また承安元年(1171)叡山の覚阿が入宋して臨済宗楊岐派の轄堂慧遠から禅法を受けたと伝えられる。以上の五伝は法系が伝わらず一代で絶えた。ついで三宝寺の大日能忍は、みずから得悟した悟境を記した偈を、入宋させた練中・勝弁の二人の弟子に託し育王山の住持拙庵徳光に呈示させ、その印可証明を受け、二弟子の帰朝後、能忍は日本達磨宗の旗幟を掲げ、禅法を鼓吹したが叡山の圧迫を受け、後に道元門下に帰し、その後法統は絶えている。
本格的に禅が伝えられるのは、文治三年(1187)入宋して虚庵懐敞から臨済宗黄竜派を伝えた明庵栄西に始まる。栄西は帰朝後、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を開いた。栄西についで入宋した道元は、天童如浄から曹洞宗を伝える。その後、多くの僧が入宋・入元したり、来朝して禅宗の派は二十四派を数える程隆盛した。
【達磨宗】(だるましゅう)
中国に興り、朝鮮・日本に伝わった禅宗。中国の梁の時代にインドより中国に渡ったといわれる菩提達磨は、後世制作された禅宗の伝燈で西天(インド・西域)の第二十八祖とされ、インドから中国に伝えたことにより、中国禅宗の初祖とされる。日本では摂津水田県の三宝寺に住した能忍によって唱導された。この系統には、覚晏・懐鑑・懐奘・懐照・懐義尼らがいたが、覚晏が住した大和多武峰が安貞元年(1227)と二年の二度に渡り興福寺衆徒によって焼き打ちに合い、門下は各地に散り、その多くは曹洞宗道元の下に帰することとなった。この派は、覚晏が大和に住していた事から、大和禅とも呼ばれる。
【臨済宗】(りんざいしゅう)
臨済義玄を祖とする禅宗の一派。禅宗の初祖菩提達磨より十一代の義玄から七伝し石霜楚円が生まれ、その門から黄竜慧南と楊岐方会が出て黄竜・楊岐の両派が生じた。中国禅宗は雲門・法眼・曹洞・臨済・為仰の五宗に黄竜・楊岐の二派を加えて五家七宗といった。日本に伝来した臨済宗は、明庵栄西の黄竜派を除いてすべて楊岐派の系統だとされる。能忍・栄西の後を受けて、顕密両宗を学び積極的に宗教の改革を目指す僧達が現れ、入宋者が相次ぐとともに、宋朝の政情が不安定化した事で宋からも蘭渓道隆ら多くの亡命者が来朝し、鎌倉時代に多くの禅門が開かれ、その門流は曹洞宗四流を除くと五十五を数えたとも言われている。
これら伝法者の中で、元朝系の隠遁的な念仏禅を除いた大部分の門流は、公武の帰依を受けて京・鎌倉の五山に止住し、複合的な五山派を形成した。また禅門寺院は地方にも根を下ろし、近江永源寺や小早川氏の庇護を受けた安芸の仏通寺などが小教団を形成した。さらに、京都には幕府の統制を受けない大徳寺・妙法寺などの諸寺が開かれ、五山禅林に対し林下禅林と呼ばれ古風枯淡な宋風を維持し、五山派からも人材が流入して隆盛し、戦国大名などの帰依もあって五山派の末寺をも蚕食していった。
【曹洞宗】(そうとうしゅう)
中国禅宗五家七宗の一つ。宗派の名は二説有り、中国では洞山良价の洞とその弟子曹山本寂の曹をとり、それを倒置して曹洞宗と称したとする説を取り、日本では曹渓慧能の曹と洞山良价の洞を取って曹洞宗とする説をとっている。中国曹洞宗は、六祖慧能の南宗禅を継ぎ、その宗風は「曹洞細密」と評されるように綿密な宗風を特色とし、洞山・曹山によって提唱された五位の思想を中心として展開した。その後、真歇清了と宏智正覚が出るに及んで、真歇派と宏智派に分れた。道元がその法を継いだ天童如浄は真歇下の四代の法孫で、日本の曹洞宗の中心となり、以後多の門流も伝わったが長続きせず、道元派だけとなって今日に至っている。
道元は帰朝後しばらく建仁寺に寓していたが、天福元年(1233)ごろ深草に興聖寺を開き、孤雲懐奘をはじめとした日本達磨宗出身者の参加をみて、興聖寺僧団を開創した。十年後の寛元元年(1243)に、越前に移住し大仏寺を開き、後に永平寺と改め永平寺僧団が創立される。道元はみずからの宗旨を曹洞宗ないしは禅宗とすることを嫌忌したことから、当初は正法宗あるいは道元宗と称していたが、永平寺第四世の瑩山紹瑾に至って中国曹洞宗との接続が図られ、道元は日本曹洞宗の初祖として位置づけられた。
【寒厳派】(かんがんは)
道元禅師の弟子寒厳義尹(かんがんぎいん)禅師を始祖とする曹洞宗の門流で、義尹禅師が順徳天皇(一説に後鳥羽上皇)の皇子であったことから法王派ともいう。その活動の拠点を肥後の地を中心に九州の西南部に展開したことから、この寒厳派は肥後曹洞宗とも呼ばれた。やがてこの門流は、遠江の普済寺十三門流や三河の妙厳寺(豊川稲荷)など東海地方にも進出した。
【黄檗宗(臨済宗黄檗派)】(おうばくしゅう)
明僧隠元隆掎を開祖とし、京都府宇治市の黄檗山万福寺を本山とする禅衆の一派。隠元は臨済宗楊岐派の系統に属した人で、黄檗宗は明末の臨済宗であったが、伽藍の様式、法具・法服・読経・法要などの諸式がわが国の臨済宗と異なっていたので、江戸時代には臨済宗黄檗派、禅宗黄檗派などと呼ばれ、黄檗宗とも称された。明治七年(1874)教部省の命で臨済宗に合併されたが、同九年独立して黄檗宗となった。
隠元は承応三年(1654)、渡来して長崎の興福寺・崇福寺、ついで摂津富田の普門寺に住し、やがて幕府から山城宇治に寺地を授かり、黄檗山万福寺を開創、黄檗宗の開祖となった。
【普化宗】(ふけしゅう)
中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅の一派。その徒は虚無僧、または薦僧・暮露・梵論字などと称される半僧半俗の遊行民であった。江戸時代に筒形の編笠を被り、掛絡を前につけ、木太刀などを持ち、尺八を吹く姿は知られている。わが国では心地覚心(法燈円明国師)が建長六年(1254)宋よりこれを伝え、紀州由良に興国寺を創立したことに始まる。覚心とともに来朝した四居士の一人、宝伏は頭陀金先に尺八を伝え、金先は全国を行脚し、下総小金に金竜山一月寺を開基し、その法系を金先派という。覚心の弟子寄竹了円の門人天外明普が京都白川に虚霊山明暗寺を建立して虚無宗の祖となった。その弟子に虚無があり、虚無は南朝の遺臣楠正勝の仮の姿で、虚鐸を弄しつつ諸国を廻り、足利氏の動静を秘かに探っていたという伝承もある。
鎌倉末期にはすでに、放逸な行動、無頼性で『徒然草』で批判されていて、浮浪民が入り込み問題ともなっている。江戸時代には慶長十九年(1614)吉野織部が青梅に鈴法寺を開基し、一月寺、明暗寺とともに根本道場とした。入門者を士族に限り、師弟関係を厳密にするなどの掟が再々出されている。風呂屋・茶筌との関係も取沙汰され、肉食妻帯、風俗華美、口論を好むなど浪人勇士の隠家というだけでなく、さまざまな制外の民の寄留する宗教芸能集団となっていった。
[虚無僧祖師普化和尚]
○普化和尚は異国の人。中比日本に良菴と云ふ僧あり。普化の宗旨を唱へ専ら尺八を愛し四方に遊ぶ。其風異朝の普化が鈴をならすに似たるを以て、世人呼で和朝の普化と云ひ、虚無僧の祖師とす。(伊藤梅宇『見聞談叢』)
【中峯派】(ちゅうほうは)
十三世紀、中国元の天目山、幻住庵住持中峯明文が興したとされる禅宗の一派。日本では五山派から外れた地方の宗派として博多など九州に根付き、主に朝鮮、中国への外交使を担った。
【顕教】(けんきょう)
言語・文字の上に明らかに説き示された教義。真言宗では一切の教法を顕教と密教の二種に分類し、聞き手の衆生の能力に応じて理解しやすいように説いた教えを顕教とし、さらにこれを二種に分けている。一つは仏が修行を積み重ねた菩薩を相手に説いた一乗の教法と声聞・縁覚と初歩の菩薩に説いた三乗の教法があるとする。そして密教はこれら顕教の上にある教法とする。また、天台宗においても『法華経』『華厳経』などの顕教よりも『大日経』など密教を上位に置いている。
【密教】(みつきょう)
人間の理性によっては把握しえない秘密の教え。顕教に対する語で、一般には神秘的、儀礼的、象徴的、実践的な宗教の意に用いている。インド大乗仏教の中におこり、七世紀には思想、修法両面において整備され、バラモン教・ヒンドゥ教文化が積極的に摂取されているといわれる。
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