子供の世界/人質・養子

人質・養子

竹千代(たけちよ)

天文十一年十二月二十六日、三河岡崎城主松平広忠(19歳)と刈谷城主水野忠政の娘於大(15歳)との間に生れた男子は、祖父清康、父広忠の幼名であった竹千代と名付けられた。この竹千代君が後の徳川家康といわれている。
当時、三河国を領していた松平氏は東の強国駿河の今川義元が東三河まで進出、西は尾張の織田信秀によって脅かされる状況にあって、ようやく駿河の今川氏との間で隷属的な同盟関係を結ぶ事でどうにか命脈を保っていた。このような状況の中、時の当主で、勇猛と知略を謳われた岡崎城主松平清康が三河を狙う尾張の織田信秀との決戦に望もうとした矢先に不慮の死(守山崩れ)を遂げる。嫡子広忠がその跡を継ぎ、尾張との国境に近い西三河の刈谷城主で、今川方の部将であった水野忠政の娘於大を正室に迎えた。この婚儀は、若き広忠を支えるために、水野氏との姻戚関係を築くことで国境を接する織田氏に備えようとする政略的な結婚であったが、若い二人にはそんな事はどうでも良かった。嫁いで来た於大は、世継ぎの誕生を切望する広忠の気持に応えようと、奥三河南設楽郡にある古刹鳳来寺の本尊「峯の薬師」に、男子出産を祈願する。やがて、於大の夢枕に薬師如来が立ち、「わが十二神将のうち、真逹羅大将(普賢菩薩)をもってそなたに授けよう」との託宣を得る。翌朝、この話を広忠に伝えると、男子出生の託宣に違いないと、二人は手を取り合って喜んだ。こうして生まれたのが竹千代で、『三河風土記』には、岡崎城内で竹千代が産声をあげると同時に、鳳来寺に安置されていた真逹羅大将像がどこへともなく消え失せてしまったという不思議が記されている。また、誕生の瞬間、城の上空に瑞雲が顕われ金鱗の龍が躍ったとも伝えられている。こうして「お世継ぎ誕生」が派手に演出されることで、今や今川氏の属国となりさらに織田方にも領土を侵されようとする苦しい状況の中、夫広忠や三河譜代衆の胸に新たな希望の光を灯させることになったのだ。こうした言い伝えが生まれたのは、於大の方が部下に命じてさまざまな奇瑞を演出したからとする説が有力で、於大の方が機知に富んだ女性であったという話に結びつく言い伝えであるが、私には十三四の娘が考えて行ったようには思えない。もしこうした演出がなされたのなら、恐らく於大の側近くに仕えていた何者かが、於大に託して行ったと考える方が自然なように思える。
それはさておき、竹千代が三河譜代の希望の星として誕生したことは間違いないのだろう。しかし、そんな竹千代に苦難が襲いかかるのに、それほど時間はかからなかった。『徳川実紀』に、
「吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に内通する信元が縁に結ぼふるべきにあらずとて。北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歳なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。」
とあるように、生まれて二年も経たずに、母於大の方は夫広忠と離縁させられ母子は離れ/\〃となる。幼い竹千代に降り掛かる苦難はこれに止まらず、
「十四年弥生のころ御家人岩松八弥何のゆへもなく。御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ逃いでたり。(隣国より頼まれて刺客となりしといふ)御かたはらの者どもおどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ。のがさじと追出給ひしかど。御股の疵痛ませ給へば追付給はず。此時も植村新六郎外のかたより来ながら。おもはず八弥を伐はたす。」
と、母と別れた翌年には、父広忠が家臣に斬りつけられる事件が起きた。

これより前、若い広忠の代になってからは織田信秀の諜略もあり、松平方の部将の「上和田城主三左衛門忠倫。上野の城主酒井将監忠尚等をはじめ。是に内応する徒もすくなからず」という状態になり、三河は家臣同士が疑心暗鬼に陥り内紛状態になっていた。この機に乗じ織田信秀はすかざす行動を起し、安祥を攻め落とした。さらに揺さぶりをかけようと織田信秀は、三河を併呑する好機とばかりに攻勢を強めてきたことから、三河の部将の心は揺れ動き織田方に付くものが現れる。また、老臣同士の争いから、広忠の腹心でもあった三木の松平蔵人信孝までもが織田方に応じようとしたたため、岡崎城は孤立状態となっていた。このまま圧力を強め続ければ早晩、三河の松平家は織田方になるはずと信秀は気を良くしていたが、先に織田方に応じていた上和田城主三左衛門忠倫が、忠倫に降参すると偽って近づいた岡崎の御家人筧平三郎重忠に刺し殺されるという事件が起った。このことで、
「信秀大に怒り。さらばみづから大軍を率し三州に出陣し。岡崎をせめぬかんと。用意する由聞えしかば。岡崎にも是を防がむとすれども。衆寡敵しがたく。今川がもとへ援兵をこはる。義元聞て人質をこひければ。竹千代君わづかに六歳にならせ給ふを。駿州に質子たるべしとの事にさだまり。石川與七郎数正。天野三之助康景。上田萬五郎元次入道慶宗。金田與三右衛門正房。松平與市忠正。平岩七之助親吉。榊原平七郎忠正。江原孫三郎利全等すべて廿八人。雑兵五十余人。阿部甚五郎正宣が子徳千代(伊予守正勝なり)六歳なりしをあそびの友として。御輿に同じくのせてつかはさる。」
と『実紀」に記されるように、岡崎への支援と引き換えに嫡子竹千代の今川家人質が決った。こうして竹千代が駿府に向かうことになるが、その途次、田原の戸田康光によって海路を取らされた竹千代らだったが、乗った船は尾張の熱田に向い、竹千代は織田方の手に渡ってしまった。戸田康光は広忠の後室政の方の実父で、竹千代一行は何の疑いも持たずに船に乗り込み康光父子によって裏切られ、織田方に引き渡された。この時、織田信秀は戸田康光に千貫(一説に五百貫)の報酬を与えたとされる。
「こゝに田原の戸田弾正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば。此御ゆかりをもて。陸地は敵地多し。船にて我領地より送り中さんと約し。西郡より吉田へ入らせ給ふ所を。康光は其子五郎政直とこゝろをあわせ。御供の人々をいつはりたばかり。船にのせて尾州熱田にをくり。織田信秀に渡しければ。信秀悦び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預置しとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て。幼息竹千代は我膝下に預り置たり。今にをいては今川が與國をはなれ。我かたに降参あるべし。もし又その事かなはざらんには。幼息の一命たまはりなんと申送りたり。」
と『実紀』には記されている。これに対し広忠はきっぱりと拒否、
「廣忠一子の愛にひかれ。義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は。霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず。名古屋萬松寺天王坊にをしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」
と幼い竹千代は寺に押し込められたまま捨て置かれた。これに前後して、
「今川義元こゝに於て大軍をおこし。岡崎の兵をくはへて二萬余騎。織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ。本丸を残し。その外二三の丸まで攻おとし。今川がたの総将雪斎和尚がはからひにて。信廣と竹千代君と人質替の事を申送りける。」
とあるように、安祥城を守備していた織田信広が今川の軍勢に攻められ、質同前の立場に置かれる。この事態を利用して、今川義元は信広と竹千代の交換を申し出たのだった。こうして、尾張の織田、駿府の今川という強国に挟まれた小国三河の幼い次期当主竹千代の運命は両者に玩ばされた。この間、織田方で信秀が病没するなどの混乱がありながらも、竹千代の命が奪われる事態にならなかったのは、生まれながらに強運の持主であったように思われる。
「織田も備後守信秀この春病没し。長子信長家継しが。もとより勇鋭の大将なれば。庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窮困すると聞て。是をすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが。安祥既に陥ると聞て引返せんとする處に。今川が使者至り人質替の事を申ければ。信長も悦て約を定め。十一月十日三河の西野笠寺まで。竹千代君を送りまいらすれば。こなたよりも大久保新八郎忠俊などいへる岡崎譜代のつはもの出迎へ受取て。信廣をば織田方へ引渡す。」
兎にも角にも、こうして竹千代は織田方の人質から開放される。とはいえ、小国三河の苦難は終わりをつげた訳では無く、ほどなく父広忠が先に受けた刀傷が癒えず没した。いよいよ三河の松平は今川の援助なくして織田軍に対抗できず、このような事情を利用して今川義元は幼く当主となったばかりの竹千代を養育するという名目で再び駿府に送るように言って来た。やむなく義元の命に従った三河衆は、当主を質に取られた状態で、今川の支配下に入り、再興を胸に秘めて堪えることとなった。この間の事情を『実紀』は、
「君は天文十六年六歳にて。尾州の擒とならせられ。八歳にしてことしはじめて御帰國あれば。御家人はいふまでもなし。岡崎近郷の土民までも君の御帰國をよろこぶ所に。今川義元岡崎の老臣等に。竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申送り。十一月廿二日竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば。義元は少将宮町といふ所に君を置まいらせ。岡崎へは駿府より城代を置て。國中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも毎度合戦の先鋒に用ひたり。君かくて十九の御歳まで今川がもとにわたらせらる。其間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。」
と書いている。

斯くして、父を失ったばかりの八歳の少年竹千代は、今川の人質として駿府で暮らすこととなった。周りは今川の家臣ばかりで常に監視され、好奇と蔑みの視線にさらされながら少年期を過ごす竹千代にとり、この時期の経験は無駄ではなかった。後年、短慮に走らず忍耐強く天下取りを行った家康の性格は、この時の経験が大きく影響しているといわれる。また、この時期に今川の名軍師とされる雪斎和尚に付いて、軍略や治世を学べたことも幸運だった。
この人質時代の逸話がいくつか伝わっている。天文二十年(1551)正月元日、今川義元邸に諸将が集った際、好奇の目にさらされた中で、やおら立ち上がった竹千代は縁側から庭に小便を放った。傍若無人な行動ではあったが、下品さは微塵も感ぜず、居合わせた諸将は声をそろえて「剛胆をうたわれた松平清康の孫だけのことはある」と感心したという。これは『徳川実紀』(『東照宮御実紀』附録巻一)に、
「天文廿年正月元日今川が館におはしませしとき。かの家臣等義元が前に列座して拝賀す。君いとけなくてそが中におはしますをいづれもあやしみ。いかなる人の子ならんといふに。松平清康が孫なりといふ者なれど信ずる者なし。其時君御座をたちて縁先に立せられ。なにげなく便溺し給ふに。自若として羞怎のさまおはしまさず。これより衆人驚嘆せしとぞ。」
と記されている逸話。
またある日、竹千代は安倍川の河原で子供たちの石合戦を見物した。両軍を比べると、人数に倍以上の開きがあった。見ている誰もが、多勢の側が勝つと口を揃えていう中、竹千代一人が、少数の側が勝つと予想する。やがて合戦が始まり、少数組が竹千代の予想どおり勝利を収めた。見事な的中ぶりに、なぜそう思ったのか尋ねると「数に勝るとおごれば守りがおろそかになる。少数の側は一部を伏兵にし、不利を克服する布陣を布いていた。戦いに臨む態度も少数のほうが真剣であり、結束が固い」と述べたという。これは竹千代が少年時代から大将としての器があり、するどい観察眼を備えていたという事を示す逸話として知られている。この逸話も先の逸話同様『徳川実紀』に記されているので、原文を参照ください。

於義丸(おぎまる)

後の越前宰相結城秀康の幼名。家康と池鯉鮒の住永見志摩守の女「お万」との間に生まれる。だが父母から祝福されて生まれてきた訳では無かった。お万が妊娠した事を知った正室の築山殿はこれをねたみ、側近くに仕えていたお万を捕らえ折檻した。木に縛り付けられている所を家臣に助けられて城下に逃れたとも、自ら城下に逃れたとも言われる。ともかく、築山殿の下から逃れたお万は、助けてくれる家臣の家で出産。こうして於義丸はこの世に生を受けた。
この時の話が『玉輿記』に、
「始お萬の方懐妊有しに、奥方築山殿嫉妬ふかき故、お萬の方を赤はだかになし、庭の樹木にしばりおかれしに、其ころ本田作左衛門重次御留守居在番たり、夜中女のなげく声聞ゆ、あやしみ尋得て、彼女を助け縄をときて、様子を聞得て、夫より則浜松の城下富見村に於て、天正二甲戌年二月八日出産す。ふた子にて、御一人は御即死、残る御一人は於義丸殿、後に云結城家、今越前の祖秀康卿是也、御幼年の間は、暫く御対顔なかりしと云。」
と記されている。生れはしたが、父家康からは全く無視され、兄信康の再三の懇請にもかかわらず会おうとしなかった。親子の対面がなされたのは、三歳(数え)になってからのこと。それも、兄の計らいで、家康が登城する廊下に待ち伏せての不意打ち的な対面だった。こうしてようやく父子の対面を行った於義丸だったが、その後、父の愛情を受けたとは思えない。それから三年後の天正七年(1579)に信康が亡くなり実質的な嫡男となった於義丸だったが、この年、三男秀忠が生まれていて、恐らく家康の意識は秀忠に向いていたのだろう。家康は生まれたばかりの秀忠に自分の幼名でもあった竹千代を与えている。家康は認知はしたものの、於義丸を跡取りとは認めなかったのだ。そればかりか、於義丸が十一歳になった時には、天下を掌中に収めた羽柴秀吉に帰属する証として、彼を秀吉の養子として差し出した。

こうした於義丸の幼少時代の境遇を、隆慶一郎は『一夢庵風流記』で、
「秀康二歳(満)の頃、初めて父に対面した話を(秀康から)聞いた時など、(迦姫は)ほとんど声をあげて泣いた。家康の長男三郎信康は不世出の武将であると同時に心優しい男だった。十七歳の時、自分に異母弟がいることを知った。城に迎えられることもなく、本多作左衛門重次に養われていると云う。父子の対面もしていないことも判った。信康は当時岡崎の城にいたが、一日家康が来ることが判ると、秀康を呼び出し家康が通る廊下に面した一室に置いた。家康が通りかかると明障子をあけ、廻らぬ舌で、「父上」と呼びかけさせた。家康の態度は、ある意味で徹底していた。くるりと背を向けると城を出てゆこうとしたのである。信康はその袖を捉えて、「手前の弟を今日こそ見参に入れようと存じましたのに、お逃げになるのですか」と叫んだ。この場面を『藩翰譜』で描いてみせた新井白石の記述を借りれば、『深く恨みいきどほり給ふ御気色見えければ、此上は見参なくては事あしかりぬと思召され…』遂に家康も対面を許したと云う。秀康は、父がくるりと自分に背を向けて足早に歩き出した後ろ姿を、今に至るも鮮明に記憶していた。と云うより秀康の記憶は正しくここから始まるのである。彼の心の中で家康がどんな地位を占めていたか、問うも愚かであろう。しかもこの父は、秀康にとってたった一人の保護者だった兄信康まで殺してしまった。信長の命によるものであり、殺したくて殺したわけでないことぐらいは重々承知していたが、それにしてもその冷たさは世の常の父とは思えなかった。自分を十一歳で豊臣秀吉の人質として送ったのも、大根のところではいつ復讐されるか知れたものではないと云う冷たい計算の結果であることを、秀康は当時から直感的に知っていた。結城家を継がされたのも全く同じ理由による。僅か五万石の小大名では、仕返しをしたくても出来る道理がないからだ。」
と書いている。そして、『柳生刺客状』でも、
「少年(秀忠)には五歳年上の兄(秀康)がいた。母親は違ったが、そんなことは気にもかけず、少年を可愛がってくれた。少年以上に父(家康)を嫌い、憎んでいた。「気をつけろ。あいつ(家康)は怖いぞ」なん度もそういってきかせた。「俺の兄(信康)はあいつに殺された。ありもしない罪をかぶされてな。兄の生みの母(築山殿)も、その時、くびり殺された。あいつを呪いに呪って死んだそうだ。でもあいつは、けろりとしてたたりひとつ受けやしない。蛙のつらに小便だ。あいつはそういう奴だ」やっぱりひき蛙だと少年は思う。「私たちはどうしたらいいんですか」少年が訊くと、兄は唇を歪めて応えた。「くそくらえだ。そう簡単に殺されやしないぞ、ってところを見せつけてやれ。斬人の法を学べ。いざとなったら、躊躇せずにあいつを斬れ。俺たちの生きのびる道は、それしかない」兄の幼名は於義伊といい、於義丸ともいう。顔が黄ギ魚という魚に似ていたためだという。この魚はギギウともいい、形は鯰に似て小さく、淡水に棲み、捕えられるとギギと鳴くそうだ。ひどい名前をつけるものだ、と少年は思う。そんな名前をつけられたら、誰だって父を憎むだろう。兄は十一歳の年、羽柴秀吉の養子となって大坂へやられた。ていのいい人質だと、少年の母はいった。」
と書いた。 

幸松(ゆきまつ)

徳川秀忠の四男。後の会津藩主保科正之の幼名。三代将軍家光の異母弟で、母は秀忠付きの大姥に仕えていた神尾静(元北条家家臣神尾伊与の女)。
秀忠の子を身籠ったお静は、嫉妬深い正室於江与の方の目を逃れるために、宿下がりして幸松を生んだ。幸松が生まれた所は、姉の婚家白銀丁の竹村助兵衛宅といわれる。お静が出産した知らせは、町奉行米津勘兵衛から土井利勝を通じて秀忠に伝えられた。秀忠は、葵の紋付きの小袖を利勝を通じて与えるとともに、「幸松と名付けよ」と申し添えたと『家世実紀』にある。その噂はすぐに於江与の方にも伝わり、「公方様のお胤を懐妊した者は、何者によらず注進致すべし」と触れを出した。このことを聞いた助兵衛は、危険を感じ自宅の裏座敷を幸松の御座所とし、ひそかに育てたという。しかし、幸松が三歳になっても秀忠からは何も云って来ない。お静はどうしたら良いかと大姥に嘆いていた。大姥はそれを土井勝利に伝えると、勝利は本多正信とともに武田見性院の許を訪れ、「幸松様をそのもとのお子として御養育するようお頼みしたいとの、内々の上意でござります」と意外な頼み事をしてきた。これに対し見性院は「是はおもひもよらぬ御依頼なり、当家(徳川家)譜代の歴々衆さへ持あぐむ若君を、此尼などかりにも守立せん事は似合しからぬ事なり、然れども将軍にも此尼と思召、親分にも成すべしとの上意にて各々にも依頼ある事なれば、兎角云ふに不及承諾し度、我等も女にこそ生れしも、弓矢取て世にも知られし信玄の女なれば、少しも御気遣なし。何れにも知らるゝ如く御台所(於江与の方)より殊の外懇切に預り、只今迄は城内にのみ居たれども、此御子を手前に預りたる上は、今日よりふつと城内へも上るまじ、此上は早々此方へ御越しある様に計はれよ」(『千載之松』)と述べ、幸松の養育を承諾した。
こうして、幸松は母お静とともに江戸城内の比丘尼屋敷に住む武田見性院の許へ引き取られ、武田家再興の期待とともに育てられる。このことは直に於江与の方の知るところとなり、於江与はお付きの者を使わし「平素、御台所にもそのもとのことを心易く思し召し、懇篤にしているのに、どうしてそんな埒もない者を預かるのか」と厭味をいってきた。見性院はその口上が終わらぬうちに「いかにも左様なり、去ながら預りたる訳にてはなく、我等の子供にせよとの事にてふつともらひ切たるなり、恙なく成人の後は武田の名字になし、縦ひ御台所より如何なる難事申さるゝとも、一度見性院が子になしたる人の事なれば、はなさん事はおもひも寄らざる旨」(『千載之松』)と毅然として答えた。

隆慶作品の『捨て童子松平忠輝」(62p)には、この間の事情が以下のように書かれている。
「於江の方(於江与の方)もかなり凄まじい女性だったようだ。秀忠が第一回目の浮気で作った長丸という男の子を、於江の方はどうやら灸で殺させたようだ。たった二歳の子を、である。秀忠が二回目の浮気の相手お静の方が懐妊したと知った時、すぐ親元へ帰してしまったのはこの理由による。しかも生れた男の子幸松が三歳になると、武田見性院にあずけた。見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻になった女性である。程なくどこでどう知ったか於江の方の侍女が見性院の屋敷を突然訪れ、御台所の御不快を告げ、由なき預り人をなされたといった。脅迫なことは明かである。だがさすがに見性院である。いずまいを正して、この子は預ったのではなく、子にするために貰ったのだと強弁し、更に『縦ひ御台様より如何様の御難事候とても、一たび見性院が子にいたしたる人の事にて候へば、はなし申事とては、おもひも寄不申』きっぱりといってのけたという」
以後、於江与からの干渉は無くなるが、幸松が七歳になっても秀忠は我が子のことと思わないのか、音沙汰が無い。このまま女世帯の中で育てていては幸松の将来が無くなると案じた見性院は、元武田家の家臣で「槍の弾正」と異名をとった保科正俊の子正直が、関ヶ原後、本領を家康から安堵され、その子正光が高遠城主でいる事に思い至った。正光には実子がなく、幸松を養子に出すには禄高は少ないもののうってつけの人物だった。
武田家滅亡からすでに三十五年、家康に召し抱えられた武田家家臣は少なく無かったが、折々見性院の許を訪れ安否を気遣っていたのはこの正光だけだったこともあり、訪れた正光に彼女はさっそく話を切り出した。
「御許の事は信玄の縁故を以て此尼が様なるものをも捨置なき心柄は、此君(幸松)の為めにも定めて誠実ならんと存じ斯く言ふ事なり、只今の間は御手前に子分になし置かれ、弓馬の道をもしろしめさるゝ様にひとへに願入る」(『千載之松』)
これに対して、正光も「すみやかに領掌すべし」(『千載之松』)と律儀に答えたという。ただしこれは徳川家の了承が無くてはならぬ話で、早速見性院は土井利勝、井上正就に相談すると、二人から秀忠へ報告が行き、秀忠から正光に対し「養子分に致し養育せよ」(『千載之松』)との内意が伝えられ、幸松は武家の子としてようやく育てられるようになる。幸松が高遠に出立したのは元和三年(1617)十一月八日で、甲州街道を進んで高遠まであと三里の御堂垣外(みどうがいと)で一休みしていた時に、女中らが「高遠には真田左源太さまという、肥後守さまには甥子にあたるひとが以前から養われているんですって」と茶飲み話をしているのを聞いた幸松は、「肥州の許にては左源太と云ふ子あると聞く然らば我等は見性院の許へ帰るべきなり」(『千載之松』)と高遠入りを拒否。この幸松の態度の硬化に驚き、うろたえたお供の者たちは、早速正光に使いを出し、事の仔細を尋ねた。

正光の正室は信州上田藩主真田昌幸の娘で、子供に恵まれなかった正光夫妻は、小日向源太左衛門に嫁いだ正光の妹の子真田左源太を部屋子にもらい受けていた。だが、左源太は正光夫人が育てている部屋子であるが正式の養子でないということが判明し、母お静や共の者たちの必死の説得で、幸松はようやく機嫌を直し、高遠入りした。
三万石に満たない小藩だが、その養子として弓馬の道や武家としての作法・教養などを誠実な正光によって教えられたことは、後に幕府の重臣となった保科正之にとって、かけがえの無い環境となった。そして幸松は、寛永八年(1631)、養親正光の逝去により秀忠の台命によって高遠藩主となるが、その翌年、秀忠も逝去し、ついに秀忠と親子の対面を果たす事が無かった。

千姫(せんひめ)

徳川秀忠の長女として伏見で生まれる。母は於江与、翌慶長三年(1598)、病床にあった秀吉のたっての願いで、家康は孫娘千姫と秀吉の嫡男秀頼との婚約を承諾した。家康にとっては初めての内孫であり可愛くて仕方なかったのだろうが、この婚約は時の権力者、太閤秀吉と徳川家を繋ぐくさびでもあり、目の前に次期権力者の座がぶら下がっているとはいえ、まだ盤石なものではなかったからだ。その千姫は、慶長八年(1603)七月、秀頼との婚儀が正式に成立し、十一月には伏見城から船で大坂城の秀頼のもとへ輿入れした。この時、江戸城にいた秀忠に替わって、家康と母於江与の方が婚姻の準備を一切取り仕切ったという。
千姫が江戸城にいたのは、生後まもなく江戸に移ったとしても、慶長二年(1597)四月以降、慶長八年五月(五月十五日には母於江の方と共に伏見に向かっている)までの僅か六年余り。この間、関ヶ原役が起るなど、歴史は大きく動き、政権を掌中に握った家康ではあったが、いまだ豊臣恩顧の大名が健在で、故太閤との約束を反故にするわけにはいかなかったのだろう、七歳になったばかりの千姫をまだ十一歳の秀頼の許へ嫁がせたのだ。可愛い孫娘を政略の道具に使うという冷酷で、非情な行為をもあえてしなければ、天下は取れない。いやこれまで堪えに堪え、ようやく手に入れた天下人の座が、些細な慢心からするりと指の間から逃げてしまっては元も子もない。それほど家康は慎重な行動を取ったということなのだろう。

隆慶一郎は『捨て童子松平忠輝』(131p)の中で、この千姫輿入れのことについて、
「千姫の輿入れはその淀君の憤懣(家康が征夷大将軍に就任したこと)を慰撫するための最良の手だてだった。(中略)時分がまだ元気で、充分に戦える間に、徳川の身内に征夷大将軍の二代目を譲り渡さねばならぬ。つまり淀君の思惑を根本から叩き潰さねばならぬ。そしてその日までは極力淀君を満足させ抑えておかねばならなかった。徳川の支配が全国津々浦々にまで及び、もはや叛逆を起すことのかなわぬほど徳川の権威が強大になるまで、大坂城に事を起させてはならぬ。千姫は明らかにそのための犠牲だった」と書いている。そして、「余談だが、家康は内心、自分の孫娘にこのような苛酷な政略結婚を強制したことに対し、強い自責の念を抱いていたと思われる。大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ後、奇蹟的に救い出された千姫は病いに倒れたが、家康はその病状を非情に心配し、千姫の側近の侍女であるおちょぼ(後の松坂の局)に宛てて前後三通の手紙を書いている。いずれも心のこもった文章で、とてもあざなりの病気見舞いとは思われない。愛情とすまなさに満ち満ちた文章である」と家康が孫娘を愛おしく思っていたとも書いている。この家康がおちょぼに宛てた手紙の文面(口語訳)が『徳川の夫人たち』(円地文子監修、集英社版「人物日本の女性史」八)の中にあるので紹介しよう。
「長い間お手紙も差し上げませんでしたね。さて、御病気と承り、お案じしていましたが、早よくおなりのよし、めでたく存じます。わたしもおこりの発作でふるえがきて困りましたが、もうよくなりました故、安心して下さい。何にしても御病気がよくおなりのよし、ほんとにうれしく思うています。秋には、かならず江戸へ下ってお目にかかりますよ」とあり、最後に「ちよぼ申し給へ」(ちょぼから取り次いで下さい)とある。(手紙の最後に付けるこの一句は、貴婦人にあてる手紙のきまり)
ともあれ、この家康の手紙は大坂陣以後の資料で、幼年時代の江戸城在住中の千姫の記録は無い。そのため、隆慶一郎が『捨て童子松平忠輝』で描いた千姫と忠輝のエピソードがあったとしても不思議ではなかろう。以下に千姫と忠輝の出会いから、二人の心の交流を描いたシーンを、少々長くなるが抽出してみた。
「慶長七年の暮れから慶長八年の正月にかけて、忠輝は休賀斎の言葉を忠実に守り、一切、秀忠に会わなかった。勿論、於江の方にも顔を合わせない。忠輝がこの一族の中で会うのは、秀忠の長女千姫だけである。この七歳になる娘は、恐ろしく美しかった。忠輝がなるべく避けようと思ってみても、まったく無駄だった。気がつくといつの間にか千姫の出没するあたりをうろついているし、目が千姫を探しているのである。千姫の方も何故となく忠輝が気に入ったらしい。忠輝の顔を見ると、「登らせて、登らせて」とせがむのである。これは庭の大木のことを指している。奥山休賀斎の死によって松平屋敷から江戸城へ帰って来た当初、あまりの寂寥感をまぎらわすため、しきりに大屋根や庭にある大木に登った。(中略)或る日、そうやって半眠半睡の状態でいたところを、下から呼ばれた。「登らせて。ねえ、千も登らせて」下を見ると当時六歳の千姫がたった一人で木の幹をゆすって喚いていた。放っておこうと思ったが、千姫の恐ろしいまでの美貌がそれを許さなかった。忠輝は一跳びでとび降りると、物もいわず千姫をつかみ上げて背中に負い、軽々と元の枝の間に戻った。登って見て、その余りの高さに恐怖にかられたのであろう。千姫は泣きだした。忠輝は少々うるさくなって、千姫の帯を掴むと、片手で枝の外の空間にぶらさげ、前後にふり回した」(本文129 ̄130p)
「忠輝は忠輝で困惑している。とにかく千姫のなつきようが尋常でないのだ。あの騒ぎの三日後に、千姫はもう忠輝のところへ忍んで来ている。忍ぶとは情事に使われる言葉で、この稚い千姫と忠輝の間に使われるものではない。それを敢えて使ったのは、千姫のひたむきさが、大人の男と女の情事にあまりにも似ていたからだ。「もう決して泣かないから、また登らせて」と千姫はせがむ。慶長八年の正月の忙しさにまぎれて、今度も侍女たちをまいて来たにきまっている。以前の侍女たちが責任をとらされて宿元へ帰され、新しい侍女たちに替っている筈である。彼女たちが千姫がここにいると知ったら真蒼になってかけつけて来ることは目に見えていた。「姫は付け人が嫌いなのか」忠輝が訊く。侍女たちを困らせるためにだけ行動しているような感じがしたからである。千姫は首を横に振った。「好きでも嫌いでも、なんでもないわ」「それなら、あまり困らせては可哀そうだろう」「可哀そうじゃない」この七歳の童女はきっぱりといってのける。「可哀そうなのは千。はかの人はみんな倖せだわ」「ふ〜ん」千姫の奇妙な論理が、なんとなく忠輝の胸を刺す。似たような思いを、忠輝自身が何年となく味わって来たからである。奥山休賀斎とめぐり合うまで、忠輝もまさに千姫と同じ心情に支配され続けて来た。(中略)今、千姫がいっているのは、正しくそれだった。だがこんなに美しく、あどけない姫が、どうして、と思わないわけにはゆかない。「姫も鬼子かね?」忠輝は訊いた。千姫がけらけらと笑った。「鬼子は叔父さまでしょう。千はちがいます」忠輝も笑う。「そうだろうと思った。千殿が鬼子なら、鬼子も仲々いいものだというところだった」鬼子でもないのに可哀そうとは何故なのかと訊きたかったが、忠輝の常人より遥かに鋭い耳が、遠くで女共のさわぐ声を聞きとっていた。忠輝は千姫を背に負うと、猪のように走った。前に何が立ち塞がろうと、はねとばし粉砕するような凄まじい突進である。忠輝に背に息をつめてしがみつきながら、千姫は恐怖と共に、えもいえぬ快感と安堵を感じた。〈この背中にかじりついている限り、自分は確かに守られている〉その思いが強烈にあった。倖せだ、と思った。ものごころついてから恐らく初めての幸福感だった。忠輝は、走り、とび、よじのぼり、またたく間に西の丸の大屋根に出た。面倒を避けるために、城の外へ出かけようかとも、ちらりと考えたが、それではますます大事になる。それにこの大屋根ほど高い場所は、江戸にはなかった。大屋根からの江戸の景観は、果して千姫を痛く喜ばせた。こわさもこわいが、なんともいい気分である。こわさの方は、忠輝がしっかり抱きしめていてくれることで、かなり軽減されている。粗末な板ぶきの屋根も密集しうち並んでいるとそれなりの美しさがある。人家の果てに紺碧の海が拡がり、白帆を上げたあげた大船が行き交っている。舟着場には白い鳥が無数にとび交っていた。見つめているうちに、千姫の頬を涙がつたった。理由は分らなかった。別に悲しいわけではない。それどころか城内の毎日に較べて、遥かに倖せの実感がある。それなのに何故か泣けてくるのである。この幼い叔父さまはそんな異常な心の動きをよく知っているように見えた。その証拠に、ただの一言も、「どうして泣く?」とは訊かない。黙って柔かく抱いてくれているだけだ。それに心なしか、叔父さまの頬も、うっすらと濡れているようなのである。「叔父さま大好き」千姫は力の限り忠輝にしがみつき、柔かい唇をひたと忠輝の口に押しつけた。忠輝は当惑した。生れて初めての快感がその背筋を震わせたのである。それにこの匂いのかぐわしさはどうだ。忠輝は鼻孔を拡げて千姫の匂いを肺一杯に吸いこんだ」(本文138 ̄142)
隆は千姫が忠輝と出会った時期を慶長七年の暮れから翌八年の正月のこととした。これから半年後には秀頼の妻となる千姫にとって、少女が少女として無邪気に過ごせた期間は僅か三年余り。千姫にとって忠輝との出会いは、少女時代の最後を飾り、めくるめくような眩いばかりの経験となっている。これが事実であるかどうかは問題ではない。このエピソードによって描かれた千姫と忠輝の交流は、何とも無邪気で心温まる。それは隆慶一郎の子供への眼差しそのものだからだ。そしていよいよ輿入れのために江戸を立つ時には、
「前日、即ち五月十四日の真昼、千姫は出発の準備に忙しい侍女たちの隙を見て庭に出た。大屋根事件以来、一人で庭に出るのは固く禁じられていた。霧のように細かな雨が降っていた。千姫は濡れることなど気にもかけていない。例の大木の下に立った。初めて忠輝にひっぱりあげて貰った懐かしい樹である。千姫の心を悲しみが満たした。〈叔父さまにももう二度とお目にかかれないのだわ〉たまらなくなって、声をあげて泣いた。忽然と千姫の前に人影が立った。木から降って来たのである。勿論これは忠輝だった。「叔父さま!」千姫は夢中で忠輝にしがみついた。忠輝も明日の旅立ちのことは聞いている。断腸の思いだった。だがつとめて明るく、「また木へ登りたいのかい」と訊いた。千姫が首を横に振った。「大屋根」さすがの忠輝が、一瞬ためらった。「雨が降っている」「千は濡れても平気」妙に蒸す日で、確かに雨に濡れた方が気持がよかった。だが大屋根は瓦ぶきである。滑って危険だった。「滑るぞ」「叔父さまと一緒なら滑らない」驚くべき信頼感である。忠輝の胸の中が熱くなった。ままよ、と思った。「おいで」招きよせると、軽々と背に負って、疾走した。なんとか大屋根に出た。終始千姫をおぶったままなのだから凄まじい体力である。眺望は前の時より半分がた落ちる。だが霧雨煙る江戸の景観は美しく、どこかもの悲しく、別離を迎えた少年と幼女の胸をかきむしった。二人とも一切口を利かない。黙然と雨の町に見入っていた。やがて千姫がゆっくりと忠輝の口に唇を押しつけた。相変わらず柔かく、いい匂いがした。口づけは長いこと続いた。これが千姫の別れの言葉だった。大屋根から降り立った時、忠輝は千姫に棒手裏剣を一本与えている。これは忠輝の大切な宝物だった。そして、それが忠輝の別れの言葉だった」(本文170 ̄172)と、小さな恋の結末を書いている。
こうして千姫は江戸を立ち、伏見に向かう。隆は作品で、「伏見についた千姫が秀頼のもとに輿入れしたのは慶長八年七月二十八日のことである。『当代記』によれば、この時、伏見から大坂まで舟で当渡ったという」と書くが、『幕府祚胤伝』には「慶長八年癸卯七月廿八日、豊臣秀頼(十一歳)縁組被2仰出1○十一月、従2伏見城1御乗船、大坂城へ御入輿」とあり、七月二十八日に婚儀が整い、千姫が実際に大坂城に入ったのは十一月であるようだ。

大坂城に入った千姫の動向は、あまり資料が無く、秀頼との関係や姑となった淀殿との関係は、さまざまに言い伝えられているが、どれも推測か面白おかしく書かれた物語であろう。隆慶一郎も、千姫と淀殿の関係を描くに際し、淀殿を憎き家康の孫娘である千姫に対してつらく当ったいじわるな姑のように書いているが、実際は、そうではなかったという説もある。表の男社会の関係では徳川家と豊臣家の対立する関係にあるが、秀頼の母淀殿と千姫の母於江の方は姉妹であり、二人は従兄妹同士である。また、このような政略結婚が当然で、いつ主従の関係が逆転するかも分らなかった時代では、今日的な私情は働かなかったのではないかと「千姫」の著者新免安喜子氏は述べている。そして、「天下様」になるはずの秀頼の妻として恥ずかしく無い立派な女性に仕立てようと心を配って養育したようであると書いている。その傍証として、千姫の遺品として形見分けされた物の中に、茶道具や古今、伊勢の写本があり、淀殿が千姫に古典や茶の湯、連歌、和歌などのさまざまな教養をつませたことが分り、千姫自筆といわれる手紙の筆跡は、流麗でまろやかで人柄を偲ばせるとともに、淀殿の筆跡に通じるものがあるという。さらに、慶長十年家康が秀忠に征夷大将軍の位を譲った年には、秀吉を祀った豊国社で、七日間の祈願を行い、千姫も代参を立て、その結願の日に、千姫が願主となり淀殿の御夢想の連歌を神前に奉納した。御夢想とは夢の中で詩や歌の句を得た場合、それは神意の現れと見て、神前に奉納するものとされる。その連歌を見ると、
春駒や若草山に立出て (淀殿の御夢想)
おもふ事なき事ずうれしき (淀殿の御夢想)
長閑にもなるや心のさそふらん (願主千姫)
と、淀殿の夢想の発句に、千姫が第三の句を続けて、息のあったところを見せている。

つぎに秀頼との関係を見て見よう。夫婦とはいえ七歳と十一歳の二人の関係は、始めのうちはままごと同然、「ごっこ」の域をでないもので、夫婦というより兄妹の関係に近いものであったといわれる。そして、慶長十七年(1612)、京都方広寺の大仏が落成した年の六月、十六歳になった千姫の鬢きりの儀式が大坂城内で行われている。千姫は古式に則り、碁盤の上に立ち、秀頼が筍刀で千姫の鬢の末を少し切り初める。その様子が城内に仕えていた女性の回顧録『おきく物語』に描かれていて、その華やかで和やかな儀式を拝見して二人の行く末を寿いだと書いている。二人が本当の意味で夫婦になったのは、この「鬢きり」の儀式の前後であろうという。その傍証として、千姫より一足早く大人になった秀頼は、千姫以外の女性との間に二子をもうけたが、すべてこの年以前に生まれた子で、以後、秀頼は子をもうけていないことが上げられる。

童形(どうぎょう)

近世までは髪型だけで成人か未成年か明確に区別できたが、中には児童の年齢をはるかに越えた人が童と同じ髪型の人々がいた。このような人々の中には、特殊な事情で元服加冠が遅れた人もいたが、多くは制度や慣習に基づき童形のまま生涯を過ごす人々がいた。こうした人々も童とか童子と呼ばれる。『花と火の帝』にある「八瀬童子」と呼ばれる人々もそんな人々であった。また、牛車を扱う牛飼童(うしかいのわらわ)もその一例で、年若い牛飼童とともに、長年主家に仕える熟練者の「老いたる童」もいたとされ、今日の感覚ではなかなか捉えられない意味が「童」という語にはあった。
こうした童形に込められた意味合いを、中世史家の横井清氏は「神仏習合のもとでの寺社には、稚児という少年たちが奉仕していたことはよく知られている。むろん彼らも童形であった。稚児といえば、たんに幼い子を示すこともあったが、宗教組織では格別な意味をもっていた。つまり、稚児は神の依代ともみられ、「尸童(しどう)」(よりまし)とされて神祭の主役の位置にすえられたし、神そのものが稚児の童形で現れることがあると信じられさえしたのである」と述べている。またさらに、「稚児の内でも美形なのは、美童寵愛趣味が公家・武家・宗教人の世界で盛行をみた中世において、ことに女人禁制の寺院社会で男色の対象として年長・高位の僧侶たちの飽くことなき関心を惹きつづけていたことも軽視できない。稚児には、古来の幼な神(童神)の面影がかさなるとともに、「女」と「男」という二本立ての「性」観念の枠組みをはるかに越えた地平に、その価値が認められたのであり、たんに異性の代替などではなかったのである」といい、さらに「稚児は、たいていは沙弥への道をたどったが、沙弥になる前の修行において従者として雑役に従事し、これを童子(あるいは童男)と称した。そして、この童子役が宗教組織内の底辺で身分的に固定してゆくうちに、終生、雑役に従う者が生まれたのだ」という。

童子

「八瀬童子」の例のように成人しても童形の者を童子といった。堂童子と称される人々もその例で、彼らは年齢の如何によらず童形であった。この堂童子は、寺院の諸堂に隷属して駆使された半俗の下部で、寺院・霊場の警備、仏供灯明の管理、燃料・水の確保などの力役に従事しただけでなく、諸堂・内陣の扉の鍵の掛け外しというきわめて重い役目を担い、さらには年始の修正会では鬼役を勤めるなど、行事の際には重要な位置をしめ、しかるべき役割を果たしていた。
彼らは元服などの通過儀礼を経なかったために童形であるのだが、それは私的な事情や偶発的な理由というものではなく、社会での身分的な位置づけであったことによるとされ、中世の身分制における童形の意味が学会などで問われつつある。また、説話のなかにも成人とおぼしき童がしばしば登場することは、あらためて言うべくもない。大江山の酒呑童子などはその好例で、描かれる「酒呑童子」やその取巻きの鬼たちは総じてざんばら髪・乱髪で、いわゆる童風、童形であると横井清氏はいう。つづけて氏は「鬼は、住む世界を確実に童と共有したのであり、どこの誰がいくたび「退治」したとて永遠に、顔も体も真っ赤に染めつつ、年齢・世代の如何など問われることなき童子の宇宙を生き、羽ばたきつづけたのである」と書いている。

護法童子

虚構の世界に生きた童形の者たちは、共通して別世界との交流を明示するか暗示し、この世のものならぬ霊力・呪能力を持っていて、仏教説話や寺社縁起に現れる「護法童子」もその好例で、「法善神」に仕える空想上の「童子」は護法天童とも呼ばれ、乱髪を風になびかせ天空を瞬時に飛翔し、命ぜられた任務を完璧に全うするべく奔走する。
『信貴山縁起絵巻』の護法童子は毘沙門天の使者で、風切って回る金剛輪を先導に宮廷めざして天駆け、着くや否や金剛輪(輪宝)を踏み立て、床に臥す天皇の病を癒した。仏教的世界観では、風鈴・水輪の上に金輪があり、この三輪が地下から大地を支えている。そして護法童子が使ったのが「金輪の法」という息災の法であり、俗世の人間どもには「金輪際」果たせぬ、最高の呪法なのだとされている。