捨て子・みなし児
捨て子
育てるべき人が、なんらかの事情から子供を育てられないで、捨ててしまうこと。また、その子供のこと。現代では、これは「保護者遺棄」という犯罪で、法律で禁じられた行為だが、まだ近代法が整備されていない時代においても、後ろめたい行為であったに違い無い。とはいえ、自らが生きて行くのに精一杯な時、生まれた「赤子」の数が多いと口べらしのため、山野に捨てていた。これを「間引き」といった。江戸時代までは、飢饉の度に各地で行われていたが、そうした赤子の全員が死んだわけでは無かった。生命力が強く、運良く通りかかった人に発見され拾われた赤ン坊は、養い親の元で育てられた。そうした捨て子は、生命力が有り、なおかつ運も兼ね備えた赤ン坊で、おそらく丈夫に逞しく育ったに違い無い。ともかく、生き延びた捨て子の生命力が強かったことは確かなようだ。だからこそ、嫡子が丈夫に育って欲しい武家などでは、男の子が生まれるとわざわざ捨てて、家臣に拾わせたり、殊更「捨丸」あるいは「捨吉」などという幼名を付けたりもしたのだろう。
こうした疑似捨て子はともかく、隆慶作品に登場する人物には、本当に捨てられ、運良く助けられた子供が多く登場する。
みなし児
身無し子の意で、孤児という字を当てる。捨て子よりも広い概念で、捨て子を含めた親のない子供の事をいう。
鬼麿
(おにまろ)
『鬼麿斬人剣』の主人公。鬼麿は捨て子で、両親不詳。それも死んでもらおうと、真冬の山中に捨てられたが、偶然通りかかった山窩の一族に助けられ、山窩の子として育つ。十歳の時に養親の家族が皆殺しにあい、孤児となって漂泊。四年後、漂泊先の出雲路で、賊に襲われていた刀工山浦清麿を助け、以降、清麿の弟子として師事した。
この原体験が、鬼麿の気を鎮める独特の方法となった。〈俺は真冬の山中に裸で捨てられた〉と思うだけで、背筋に冷気が走り気分が静まる。そして〈それでも俺は生きた〉と思うことで活力がみなぎる。
隆慶一郎はこの作品の中で、主人公を、実の親に捨てられ、なおかつ養親も殺されるという二度の不幸の中で、逆境をバネに逞しく生きる人物として描いている。
鬼麿は親を知らない。棄て子である。それも厳冬の山中に棄てられている。誰が棄てたか知らないが、明らかにこの赤子を死なせようとしたに違いなかった。鬼麿は赤裸だったのである。凍死していて当然だった。それが生きていた。熱ひとつ出してはいなかった。鬼麿を拾って育てたのは山窩の一族だったが、それもこの赤ン坊のこの世のものとは思われぬ強靭な生命力に驚嘆したためだと、後に鬼麿は養い親から聞かされた。十歳まで鬼麿はこの一家に育てられた。『忍者も及ばぬ』といわれた山窩一族の生き抜く術を、悉く叩きこまれた。走り、跳び、隠れ、闘い、殺す。どの術でも鬼麿にかなう子はいなかった。しかもぐんぐん身体が大きくなる。十歳の時、既に並の大人と同じ身長と体重があった。養い親の一家は、いつの頃からともなく、この化け物のような子供を『鬼』と呼ぶようになった。鬼麿が十歳の秋、この一家は、山窩内の争いで皆殺しにされた。一晩中、深い落葉の吹き溜りの中にもぐって生きのびた鬼麿は、次の日の晩、勝利の盃をあげている相手の一家に忍び、隙を見ては一人ずつ刺し殺していった。遂に最後の一人になったヤゾオ(親方)が、恐怖のため、山窩さえ避けて通る未開の深山に遁走を試みたが、鬼麿は二日二晩の追跡の末に、その咽喉笛を掻き切っている。山を降りた鬼麿は、以後四年、ひとりぽっちの漂泊生活を続けた。生きのびるために何でもやった。盗み、火つけ、人殺し。さながら修羅だった。(『鬼麿斬人剣』24P)
国松
(くにまつ)
『影武者徳川家康』の主人公世良田二郎三郎の幼名。チビで短足。そのくせふてぶてしい態度で、地域の子供たちからはいじめられていた。
両親はいるが、父親は漂泊の人で家にはおらず諸国を巡り歩き、母親は他の男と再婚したため、祖母に引き取られて育つ。子供同士の喧嘩で相手を刺し、寺に入れられる。現代でいえば、少年院送致というところか。しかし、その寺でも問題を起し、寺を追われ人買いの手に渡る。その人買いによって国松は願人坊主酒井常光坊に売られた。当時、子供は労働力として売り買いされていたため、「人さらい」や「人買い」が横行していた。買った人間は、子供を奴婢として使役していたという。そいうした物語の一つが「安寿と厨子王」で知られる説教節『山椒太夫』である。
両親に見放され、その体型からいじめられて育った国松少年は、どんな境遇に置かれても我慢し耐えるしぶとさを身につけてきた。
ものごころのついた時は府中の宮の前町にいた。父も母もなく、『おばば』が育ててくれた。『おばば』の話では、父母ともに死んだわけではなく、父は加持祈祷を世すぎとして旅から旅を重ねる漂泊の徒であり、母は自分を産むとすぐ、他家へ嫁いでいったという。「国松にはとともかかもいりゃァせぬ。ばばがおる。それになァ、男は所詮ひとりで生きるものよ。ととやかかなど邪魔になるばかりじゃよ」『おばば』しょっちゅう、そういってきかせた。『おばば』なりに、両親のいない国松が不憫で、慰めてくれたのだろう。国松は二郎三郎の幼名である。それに不憫に思うにはもう一つわけがあった。それは国松のもって生れた体形だった。異常なほどの短足なのである。胴長で、顔は人一倍大きいだけに、この短足はいやでも目立った。当然、ひとより走るのが遅かったし、走るのが嫌いだった。短足でこちょこちょ走る姿は滑稽で、ひとの笑いを誘うからである。子供の自尊心は、大人が考えるよりも大きい。だから国松はよほどの場合でないと走らない。ことさらゆっくりと歩く。見ようによっては堂々としているのだが、堂々たるちびが子供たちの間でどうとられるかは想像にかたくない。なんとなく面憎い存在なのである。(『影武者徳川家康』上102p)
宮の前町というのは、ささら者の住む町だった。(略)そんな町の子供たちが生命力が強く、敏捷で喧嘩好きなのは当然である。生き残ってゆくにはしぶとさしかないのである。彼等がこの面憎いちび助を放っておくわけがなかった。国松は、現在の言葉でいえば、いじめられっ子になった。いじめっ子にとって、国松という子は全く面白味のない餓鬼だった。一切反応を示さないのである。なんと罵ろうと一言も口をきかない。ぎょろりと目をむいて睨んでいるだけだ。殴ってを石をぶつけても、泣きもしなければ逃げもしない。黙ってつっ立って、痛そうな顔もしない。どこまでも面憎く出来ている。だからいじめっ子たちは、益々いらだち、かさにかかっていじめる。(『影武者徳川家康』上103p)
捨丸
(すてまる)
『一夢庵風流記』に登場する加賀忍びの名。生まれたばかりの弟と共に捨てられ、前田家の忍び頭四井主馬に拾われるが、奴として育てられ主人の命に絶対服従の下忍となった。ある日、主君の命で前田慶次郎の馬を盗もうと数人の仲間と厩に忍びこみ、慶次郎と松風の反撃に会い、弟が松風に蹴り殺された。その弟の敵を討とうと慶次郎を付け狙うが、やがて慶次郎に惚れ、従者となる。
捨丸はその名の示す通り捨児である。弟と二人、真冬の路傍に捨てられた。捨丸が二歳、弟は生まれたばかりの赤子だった。拾ったのは今の加賀忍びの棟梁四井主馬の父親だった。この男は兄弟を拾って育ててはくれたが、それは別段慈悲の心からではなかった。奴ぬするためだ。奴とは奴隷の謂いである。武士にとって、特に忍びにとって、奴ぐらい便利なものはない。それは完璧な私有財産なのだ。殺生与奪の権は完全に主人が握っているし、奴の方はたとえ不平不満があっても、主人から逃げ出すことは許されない。どこに逃げようと居所が発見されれば、主人は返還の訴えを起すことが出来たし、またそれは必ず勝訴に終わるのである。(『一夢庵風流記』69p)
たけ
『鬼麿斬人剣』に登場する山窩の子供。家族は陸奥山系で伊達藩の山廻り同心と争い鉄砲で皆殺しにされ、孤児となった「たけ」は、以後、一人で生きて来た。「たけ」は生きるために盗みを業とし、鬼麿の刀を狙うが、同じ境遇だった鬼麿にその魂胆を見すかされると共に、腕もかなわなかった。やがて、鬼麿になつき行動を共にする。
はぐれ山窩となった「たけ」は、生きるために人の集まる市などで小銭や物をかっぱらいながら、生活をしていた。当時でも盗みは悪いことで、捕まれば罰せられる。ただ子供や貧しい人々が切羽詰まって行った盗みには比較的寛容で、ひどく殴られたり痛い目に遭っても、役人に突き出されるような事にはならなかったのだろうと思う。「たけ」も時には捕まり、痛い目に遭ったり、逆に捕まった相手に持ち金すべてを取られ途方にくれた日もあったと思う。それでも懲りずに、「たけ」はかっぱらい続けたはずだ。それは養ってくれる親がいない「たけ」にとって生きて行くために、必要な行為だった。それは、猟師が獲物に逆襲され、痛い目に遭うのと同じで、そこには罪の意識は無い。もし後悔するとすれば、自分の技の未熟さに腹を立てる。決して、現代の万引き少年たちとは同列では無く、次元が違う。どう違うのかといえば、猟のために野鳥を捕る行為と、気晴らしでボーガンを射かけて野鳥を傷つける行為の差だ。同じ行為でも素晴らしい技となる行為も、次元が違えば全く卑劣な行為となるのと同じだろう。
大人社会で揉まれ、可愛気も無く容易に大人を信じない子供だった「たけ」が、鬼麿になついてゆく。鬼麿は決して「たけ」を子供扱いせず、しかも同じ境遇だった事で、「たけ」の気持ちを素直に理解してくれる大人だった事からだが、やがて「たけ」は鬼麿を師と仰ぐようになる。こうした二人の関係は、現代にも通じる大人と子供の関係を示唆している。
顔つきも身体つきも猿に酷似していて、あまり可愛げのないこの少年は、恐ろしい俊足だった。常人の倍近い速さで歩く鬼麿に、ちゃんとついてくるばかりか、時にわざとらしく追い抜いて見せさえするのである。(『鬼麿斬人剣』53p)
『ない』はその銭をかっぱらいに行ったにきまっていた。山窩の子は誇り高い。人の世話になることを、極端に嫌う。現に『ない』も、鬼麿のあとにぴったりくっついては来るものの、三度のめしはきちんと自分の銭で喰っている。その銭が底をついたらしく、今朝はめし抜きだったのに、鬼麿はとうに気づいていた。〈うまくやれよ、ない〉そう思っただけだった。なんの心配もしていない。山窩の子供が町者ごときにつかまる筈はなかったし、盗みが悪事だなんて、鬼麿自身、微塵も思ってはいない。自分も餓鬼の頃は、盗みで生きて来た。山窩の盗みははした金ときまっている。盗まれた相手の生き死に関わるような額ではない。それで子供一人が飢えずにすむのだ。(『鬼麿斬人剣』90p)
辰千代
(たつちよ)
『捨て童子松平忠輝』の主人公で家康六男松平忠輝の幼名。生まれてすぐ、父家康に「捨てろ」と言われた可哀想な子供。『捨て童子松平忠輝』の上巻では、主人公辰千代の明るく逞しく生きる姿を魅力的に描いている。
だが今度もこの恐るべき子供は、楽々と棒手裏剣を掴みとっていた。おまけににたりと笑うと、「ばーか」からかうように喚くと、ずぶっと沈んだ。(略)まさかと思うほどの遠い水面に、ぽかりと子供の顔が浮いた。呆れたことにそこは上流だった。子供は流れにさからって泳いだのである。こちらを向いて又怒鳴った。「ばーか」それきりだった。
これは、辰千代と代官手代雨宮次郎右衛門の下人「ましらの才兵衛」との出会いのシーンだが、コミック版『捨て童子松平忠輝』の冒頭シーンでもある。これを描いた横山光輝の辰千代の画も、大人をおちょくっているのだが、嫌みがなく憎めない子供として描かれていて、「ばーか」という言葉を思い浮かべるだけで、その姿が浮かぶほど印象に残っている。好ましく微笑ましい辰千代として。
生まれたばかりの辰千代について、新井白石の『藩翰譜』に「世に伝ふるは介殿生れ給ひし時、徳川殿御覧じけるに色きはめて黒く、眥さかさまに裂けて恐ろしげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰あり」と父家康に憎まれた事が書かれている。
また幼年期の辰千代については、『玉輿記』に「此人素生、行跡実に相強く、騎射人に勝れ、両腕自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇竜、山谷に入って鬼魅を求め、剣術絶倫、化現の人也」とある。このような「異能の人」であったことから、隆慶一郎は忠輝を「捨て童子」と名付けた。「童子」という言葉には、子供という意味以外に「鬼」という意味合いがあり、「鬼っ子」と称された忠輝を表現するにぴったりの言葉でもあった。
こうして、辰千代は生まれてすぐに母お茶阿の方から引き離され、田舎大名の皆川広照に拾われて、下野国の山谷で野生児のように育った。その後、長沢松平家の養子となった弟松千代が夭逝したため、母の尽力で辰千代が弟の後を継ぐことになり、広照の元から母のいる江戸城に帰ってくる。この時、辰千代は七歳。父家康と二度目の対面を果たす。その時、家康は「龍種ツラダマシヒ、ソノママ三郎ガ幼立ニ少モ違ハザリケリ」と、七歳になった忠輝を見て、自分が最も愛した長男岡崎三郎信康とそっくりだと感嘆したという。
松永誠一郎
(まつながせいいちろう)
『吉原御免状』『かくれさと苦界行』の主人公。幼名不明。後水尾天皇とさる女御の間の子として産まれるが、将軍秀忠の命を受けて柳生宗矩が放った刺客に母子もろとも殺されるところだったが、その惨殺現場に偶然通りかかった宮本武蔵によって赤子だけが救出された。それが誠一郎で、武蔵の手により肥後山中で育つ。
誠一郎が武蔵の手により救出された時はまだ生まれて間も無い「赤子」だったのだから、その足で熊本へ行った武蔵は、離乳し歩くようになるまでの間、熊本城下で誠一郎の面倒をみる乳母をみつけ、その人に赤子の世話をしてもらっていたと思う。このエピソードはもちろん虚構だが、子供がちゃんと育つことの少なかった時代、自分の子供しか面倒をみない現代とは違って、母乳の出る女性は他の子供にも分け与えていた。そして、赤子は、地域社会で幼児になるまで面倒をみた。
誠一郎は酒を武蔵にしこまれた。十才の頃である。子供のしつけとしては、乱暴な話だが、お陰で、誠一郎は、まるで水をのむように、酒をのむことが出来る。いくらのんでも、気分こそ浮きたつが、酔うことはない。反射神経にも、身体の動きにも、酒の影響はない。(『吉原御免状』32p)
誠一郎はものごころついてから、ひとにかまわれたおぼえがない。よちよち歩きする頃から、武蔵はほったらかしだった。短いがずしりと重い、山窩のウメガイ(山刀)を一振りくれただけ、あとは水にひたしたまま、身動きが出来ない。そのくせ腹は減るのである。この三日間で、誠一郎はウメガイの使い方を覚えた。山女魚をとり、野兎を殺した。火をおこすすべを知ったのもこの時である。やっと熾った火で野兎を炙っていると、いつのまにか武蔵が来ていた。「こりゃアうまそうだ」武蔵がいったのはそれだけだった。だがその一言が、自分をひどく誇らかな気分にしたことを、誠一郎は今でもおぼえている。二人は黙って香ばしい肉を頬張り、沢の水をのむと、住いである洞穴に帰った。歩くとまだ身体じゅうがきしんだが、武蔵は手を貸すのは愚か、歩度を緩めもしなかった。誠一郎は歯をくいしばって、武蔵を追った…。(『吉原御免状』100p)
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