子供の世界

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隆慶わーるど子供の世界

子供が好きだった隆慶一郎。彼の描く子供は、その不幸な境遇の中にあって明るく、逞しく描かれている。各作品に描かれたそれらの子供の世界を紹介。ならびに子供関連の諸資料の紹介。

子供の発見

フランスの歴史家フィリップ・アリエスは『子どもの誕生』(1960年刊)のなかで、大人と違った子どもの時期(子ども期)は十三世紀に発見されたと述べている。アリエスは、その歴史研究の中で、子どもと家との関係から考察し、中世までは「子どもという概念は無く、あるのは小さな大人」という概念であったという。そして、歴史の中の家のあり方を子どもの概念の発見される以前の家と、以後の家のあり方を考察している。
前者においては、家は多産で、子どもは厄介者でしかなく、子どもの数さえ数えなかったという。家に男子一人が父の財産を継ぐために留まり、他の子どもたちはいつしか家を離れ忘れ去られる。いわば、幹から離れた者に対しては誰も関心を払わなかったのである。
子殺しや捨て子もしばしば行われ、家族は家の管理と父親の権威を中心に構成されていた。こうした家の形態が、子どもの発見とともに十七世紀以降、子どもと子どもの将来のために近代家族が形成されるようになったという。こうして家族の中に子どもが登場すると、社会は子どものために学校教育を生み出し、それとともに子どもらしさや無邪気さなどの子どものイメージも出来上がってきた。

ヨーロッパ中世の子どもたちの境遇

では、子どもが発見される前の中世における子どもたちは、どのような境遇にあったか。子どもたちは幼くして一人前の仕事を課せられていた。16世紀、スイス南部の小さな村に生まれたトマス・プラッター(1499?〜1582)は、父親が死に母が再婚したため、伯母に引き取られ、6歳になると八十頭の山羊を急峻な山に追い上げる山羊番をされられていた。この山羊番はきつい仕事で、このときすでに何度も生命の危険にさらされたという。9歳か10歳の時に彼は司祭の下で勉強を始めるが、そこでも殴られるだけで何一つ学べなかった。こうして少年時代を常に空腹をかかえて過ごすが、自伝の中のプラッター少年は、明るく屈託なく描かれている。彼の場合は父の死によって一家が離散した例だが、両親が健在であっても、次男以下の男子は街に出て職人になる道を選ぶか、傭兵隊に加わるか、放浪者や乞食になるしかなかった。それは貴族であってもあまり変わりなく、貴族の子息といえども家を継ぐ長男を除けば、修道院に行くか遍歴の旅に出て、自分の道を切り開くしかなかったという。

隆慶作品で描かれた子供たちの境遇

戦国の世では、武将の女子供は政略の道具となり、父親の愛情など期待すべくもなかった。
親の愛情とか、暖かい家庭とは無縁な世界で生きている彼らを見ると、時代が違うとはいえ、現代の子供達は甘ったれた過保護な世界に生きているように思われる。ただ、「異能」「異形」であるゆえに多くの人から疎外される「いじめられっ子」であったり、不幸な境遇でも、そこにはたった一人でも理解し、温かな眼差しでその子を見守る大人がいた。そして、置かれた境遇をバネに、彼らは普通の幸せな子供よりも大きく成長していったように思う。
現代の「いじめられっ子」たちにも、必ずそうした大人がいる。たった一人でも、理解し温かな眼差しをそそぐ大人がいれば、それ以上何を望もうというのか。たとえクラス全員を敵に回しても、堂々と生きていればよい。いじめられるという事は、その他大勢の人よりも違った才能を持っているからだ。いじめる子や大人は、そんな子供(人間)を怖れているからだと「隆慶作品」を読めば判る。
また、その才能ゆへに敵から命を狙われ若くして亡くなったものも多い。現代では、命こそ奪われないが、疎外される事はある。それを勲章と思える強い心があれば、やがて自分の時代がやってくる。こなきゃこないで「しゃあない」という気持ちで、死ぬるまで生きてみるしか人生は無いのかもしれない。


隆慶作品の子供たち

【捨て子・みなし児】
鬼麿、国松(世良田二郎三郎)、捨丸、たけ、辰千代(松平忠輝)、松永誠一郎 
【人質・養子】
竹千代(徳川家康)、於義丸(結城秀康)、幸松(保科正之)、千姫 

【親子の情愛】
松永誠一郎とおふう、徳川家康と五郎太丸、 
【幼友達】
岩介ととら、杢之助と求馬

参考資料

『子供の民俗誌』「日本民俗文化資料集成24」 谷川健一編 三一書房 1996年発行 504p

『日本の行事祭り事典』 三省堂編修部編 三省堂 1980年発行 382p

『日本の歴史』「週刊朝日百科10」中世1−10(悪党と飛礫・童と遊び) 朝日新聞東京本社 2002年発行 

童(わらべ)

現代では、子供を童(わらべ)という事は少ないが、児童という語があるように童は子供という意味を持つ。そして近代までは、子供というよりむしろ童というのが普通だった。この童という語は、「わらわ」「わらわべ」「わらんべ」「わらべ」「わろうべ」などといい、複数を表す時には「童部」とも書いた。子供という場合にそこに男女の違いが無いように、童も男女を問わずに用いられる。
児童が一般に童と称された時代には、現在の子供という概念よりも幅広い意味で用いられ、古代から中世においては、童の持つ自由奔放さ、闊達さ、率直さ、純真さ、いたずら好み、乱暴さかげんなどの特性が信仰と結びつき、現実世界を超えた別世界と交流する霊力の現れであると信じられていた。

7歳までは神の子

こうして児童が一般に童と称されていた時代、現代の私たちには想像もつかないほど幅広い意味であったとされる。この妾について横井清氏(中世史)は著書のなかで「なかでも古代ー中世においては、妾のもつ自由奔放さ、闊達さ、率直さ、純真さ、いたずら好み、乱暴さかげんなどの特性が、信仰の念とも深く結びつきながら、現実の世間を越えた、目にはみえない別世界と交流する霊力の現れであると信じられていたし、妾のつぶやき一つにも何かの予兆を汲みとり、成人には理解しかねるような妾の不可思議な行動一つにも、姿をみせてはくれない「神」の憑依を感じとっていたのである。そして、一定の年齢に達するまでは、産神の加護=支配のもちに妾が置かれているものと確信されていた。産神は、お産のあとさきに妊婦が新生児を見守ってくれる神であるが、その一定の年齢というのは、数えの七歳であり、七歳になると、この世のものとして認められると同時に産神の霊力が弱まり、いろんな危険に見舞われやすくなると信じられていた」と述べている。こうして子供は「七歳までは神の子」とされた。